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海のひつじを忘れないようです
1
:
◆JrLrwtG8mk
:2017/08/19(土) 21:55:33 ID:rN6ohdMg0
紅白作品
微閲覧注意
252
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:55:47 ID:vG2lH35Y0
「なのに、どうして、あなたは……」
「簡単なことだ」
木々のこすれる音が、すぐそばで響いた。
車椅子を旋回させる余裕もなく、首だけで音の聞こえた方へ振り向く。
そこには、人がいた。気配もなく、音もなく、
まるで初めからそこに存在していたかのように突如として出現した少年。
彼の主。小旦那様。
彼の小旦那様が、さざめく森そのもののように、その深く静謐な声を震わせた。
「それがこいつの望みだからだ」
.
253
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:56:30 ID:vG2lH35Y0
3
「ここにいることが、彼の望みだというの?」
「そうだ」
彼の主がどうしてここにいるのか。
私と彼がここへ来ていることを知っていたのか。その方法は定かではない。
けれど理由は明確だ。この男は、彼を連れ戻すためにやってきた。
二度とは戻れぬあの、永久の夢の檻へと連れ戻すために。
彼を見る。不安そうな面持ちで、茫漠とした視線を私たちに向けている。
たぶん、そうなのだ。彼が足を動かさなかった理由。
目の前のこの人物こそが彼の心の拠り所にして
――彼の足をつなぎとめる最終最後の枷、そのもの。
うそよ、と、私は彼の主を否定する。
――私はまだ、諦めてはいない。諦める訳にはいかない。
「彼はハーモニカを吹きたいと言った。その気持ちは本心だったはずよ」
「そこに偽りはない。しかし心とは、単層単色の一枚絵とは違う」
彼の主が、彼の抱える私のノートに触れた。
途端、すべてのノートが一斉に、ひらひらと宙を舞い始めた。
まるで空を泳ぐ羽根のように。魔術が如きその光景に、我を忘れる。
「自我の一片すら残さぬ自己の完全なる消滅。それが“ギコ”の望みだ」
254
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:57:12 ID:vG2lH35Y0
彼の主が口にした“その名”に反応し、現実を思い出す。
可能な限りの敵意を込めて、彼の主を睨みつける。
「彼は“ギコ”じゃない。そんなこと、あなただって知っているはず」
「然り。だがそれ故に苦しむ。背反する願望を御しきれず」
睨みながら私は、違和感を抱いていた。
何かが違う。何かがおかしい、と。
「ギコが本当の意味でギコになること。
それ以外にこの惑いし魂を救済する術はない」
私は彼らのことを見てきた。
彼らがここへ来てからの短くない時間を、可能な限り観察してきた。
彼らが何を思い、何を悩み、何を求めて行動したのかを詳察してきた。
だから彼のことも、彼の主の人となりもすでに把握している。
彼の、彼の主への依存も、またその逆も。
故に感じる違和感。決定的な、その一事。
「ギコは、ギコなのだ」
彼の主は、彼を、ギコとは呼ばない。
いや、呼べない。本来ならば。
255
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:57:43 ID:vG2lH35Y0
「あなたは、だれなの……?」
腕の内のノートから解放され力なく座り込んだ彼に、彼の主がそっと手を添えた。
二人のその関係はもはや一欠片の対等性も保持してはいなかった。
主と従者のように。父と子のように。守護者と庇護者のように。
そして――羊飼いと、ひつじのように。
この暗がりの森において、彼の主だけがいやにはっきりと、
その存在をこの場に示している。薄い燐光に包まれたその身体が、
暗がりを越えてかくあれとこの三次空間上に立脚している。
だというのにその顔だけが、その顔だけが曖昧に、
曖昧にその詳細をぼやかしていた。まるで、そう、まるであの光輝の塊。
牧師、その人のように――。
「あなたも、“接触”を――」
「お前はなぜ、ここにいる」
256
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:58:38 ID:vG2lH35Y0
「わた、し?」
話の矛先が私へと向けられたことに、狼狽する。
その燐光を放つ指先が、私を捉える。心臓を射抜かれたように、動けなくなる。
視線すらも、動かせない。
「なぜ逃げ出さなかった。なぜ森を越えなかった。なぜ一人でも帰ろうとしなかった。
ひつじの教会の、その在り方を唾棄しつつ出ていかなかったのはなぜだ。
時間がなかったからとは言うまい。機会はいくらでもあったはずだ。
それだけの時を、お前はここで過ごしてきたのだから」
「それは……」
のどが乾いて、声が出せなかった。何も言えなかった。
彼の主の言葉はいちいちもっともで、それ故に私の言葉が入り込む隙間がなかった。
私には、答えられなかった。
「答えられまい。お前には答えられまい。
心の悲鳴に目を背け、凝り固まった妄念に捕らわれてきたお前には。
故に代わりに答えよう。お前がここにいた理由。ここから出ていかなかった理由。
それは――」
彼の主が次に放つ言葉が、私には聞くまでもなく、わかった。
「誰よりお前が、現実を恐れる“こども”だからだ」
.
257
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:17 ID:vG2lH35Y0
「ちがう!」
と、そう叫ぶ他、私にできることはない。
否定しなければ。これだけは絶対に否定しなければ。
だって私はまだ、諦めてはいないのだから。
彼にノートを持ち帰ってもらわなければならないのだから。
彼に元の世界へもどってもらわなければならないのだから。
だから彼に現実を恐れさせるようなことは
――私が現実を恐れているだなんて事実、明かしては、ならない。
ならないのに、彼の主は、追求を止めない。
「ならば答えられるはずだ。表せるはずだ。
お前が現実を拒絶していないのならば、
お前の生まれを、お前の父を、お前の母を、お前の半生を、
お前の拠り所を、お前の罪を、そして――お前の、名を」
血の気が引く。この男は知っている。明らかに。
私の秘密を。ひた隠しに隠してきた、現実の私を。私の現実を。
瞬間、現実を、想起した。
.
258
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:37 ID:vG2lH35Y0
「見よ!」
自由を奪われた私の身体が、男の一声によって意志とは無関係に動かされた。
私は振り返り、背後の木々へと目を向けた。
「これこそがお前の、偽らざるお前自身の心象だ!」
木々が、葉が、蔦がみちみちと蠢き、絡み合っていた。
絡みひしめきあったそれは一個の生命のように穴隙なく重なり、
厚く、固く、重く強く痛々しく私の目の前で顕現した。
それは、壁だった。外界を閉ざす、絶対の壁。拒絶の証。
私、そのもの。
「わ、わたし、は……」
違う、私は。
そう言おうとするも、声が出ない。あいつが行使する魔術によって
――ではない。私自身が、声を、殺したのだ。私自身が、もう、認めてしまったのだ。
259
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:58 ID:vG2lH35Y0
気づかぬ内に、彼と、目があっていた。彼が私を見ていた。
彼の目に、私はどう映っているだろうか。あの時のままだろうか。
それとも、あの時よりもひどいだろうか。
ああちがう、そうじゃない。彼は彼じゃない。別人だ。そんなこと、わかってるんだ。
彼がここにいるってことは、つまり、そういうことなんだって、わかってるんだ。
それでも、私は。
私は、まだ。
私は、まだ、約束を――
彼が、私を見て、言った。
「きみは、だれなの?」
.
260
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:00:26 ID:vG2lH35Y0
その音が、あらゆる呪縛を解いた。
私と彼が、音のした方向へ視線を向ける。
草木がこすれた、その音のした方向へ。
「ご、ごめん。盗み聞きするつもりじゃ、なかったんだ」
そこにはハインがいた。どうしてハインがこんなところに。
疑問の答えが与えられるよりも先に、ハインが動き出した。
ふらふらと、異様に弱々しく、危なっかしい足取り。
その覚束ない足取りでハインが歩を進めたのは、彼の下、だった。
直後、ハインが倒れた――ように、私には見えた。
座ったままの彼へと覆いかぶさるようにして、
その華奢な体躯を空中へと投げ出す。いつもの彼女とは違う、軽やかさも、
力強さもない動きで。彼が飛び込んできたハインを受け止める。
「これ、大切なものなんだろう? 忘れちゃ、だめじゃないか」
彼の胸に頭を預けた格好のまま、ハインが何かを持ち上げる。
それは、短刀だった。鞘に収まった短刀。彼の主の持ち物であったもの。
彼がハインの手から、その譲渡された刃を受け取る。忌み、恐れるような慎重さで。
261
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:01:57 ID:vG2lH35Y0
ごめん、もう消えるな。
その言葉とは裏腹に、ハインは彼にもたれたまま動かなかった。
息をしているのかすら危ぶむほど、完全に停止しているハイン。
その顔は彼の胸に隠れ、見えない。
「あたしは、だれなの?」
動きのない森の中で、声だけが、響いた。
「教えてよ、“おねえちゃん”……」
彼女の声が“ハイン”には在るまじき幼さを帯びている。
己が存在のすべてを預けきろうとする童子じみた、頼りのない力なさ。
定義されるべき本来の意味どおりの、こども。
ああ、そうか。あなたも、そうなのね。
あなたも、思い出してしまったのね。
その、罪の記憶を――。
.
262
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:02:24 ID:vG2lH35Y0
「なんて、な。冗談だよ、冗談」
ハインが機敏に顔を上げ、快活に笑った。
その笑顔はいつもの彼女と比べてもなんら遜色なく、
ともすればその冗談という言い分を信じてしまいそうな説得力を有している。
だからこそ、危うい。
私はハインだと主張する彼女は、とても危うい。
彼女が彼から離れ、立ち上がろうとする。
そのか細く矮小な、アニジャやオトジャとくらべても小さい、
背を伸ばしても座ったままの彼とほとんど変わりのない、その小さな小さな身体で。
その小さな小さな身体が、立ち上がると同時に、よろめいた。
彼が、彼女の名を叫んだ。
ハインが――いや、自分がハインでないことに気づいていしまった少女が、目を見開いた。
ハインの殻を破った彼女が――“ミセリ”の首が、天に向かってのけぞった。
.
263
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:02:48 ID:vG2lH35Y0
4
いやだ。
痛いのは、いやだ。
殴らないで。
ぶたないで。
パパ。
やめて。
やだよ。
痛いのは、やだよ。
どうして殴るの。
どうしてぶつの。
どうしたら、ぶたないでくれるの。
どうしたら、乱暴されないですむの。
乱暴されないですむなら。
わたし、なんでもする。
おもちゃもいらない。
お洋服もいらない。
お花も、わんこも、ママも。
自分も。
全部、全部いらない。
友達だって。
友達、だって――。
.
264
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:03:17 ID:vG2lH35Y0
いまになってどうして、あの頃のことを思い出すのだろう。
忌まわしい記憶。忌まわしい生活と、忌まわしい父。
そして、忌まわしい、自分。
ハイン。
ハインとなった、あの子。
ミセリ。
あの子へのつぐない。それがわたしの生きる意味。存在する理由。
だからわたしは、あの子に尽くす。あの子を守り、あの子を導き
――あの子に、ミセリであることを思い出させない。
それだけが、私の望み。
――望み、だったのに。
.
265
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:03:47 ID:vG2lH35Y0
一人にさせるべきではなかった。目を離すべきではなかった。
あの子の異変には気づいていた。あの還泡式の日、あのハーモニカの演奏を聞いて以来、
彼女がギコに惹かれ始めていることには気がついていた。
ギコがハーモニカを手放して以降、
異変が急速に進行していることにもわたしは気がついていた。
それなのにわたしは、何の対策も取らずにいた。
下手に刺激して彼女の記憶をこじ開けてしまうかもしれないと思うと、
怖くて何もできなかった。何もせず、ただ、
あなたはハインだとささやくことしかしなかった。
その結果が、これだ。
レッスンを早くに切り上げ、彼女を探していたわたしの耳に、
鼓膜に、それは轟いた。悲鳴。彼女の。“ミセリ”の。
考える間もなく駆け出していた。悲鳴は森の奥から聞こえた。
どうしてそんなところに。森に入ってはいけないと、あんなに言っておいたのに。
何度も何度も覚えさせたのに。息せき切って走る私は、
自分の失態を棚上げして、彼女を責めた。責めて、そして、
自分にそんな資格がないことにすぐに気づく。
考えるのは、後。
いまはとにかく、ミセリの下へ駆けつけなければ。
あの子が完全に自分を取り戻す、その前に。
森へと飛び込み、枝葉をかき分け、前へと進む。
走って、走って、そして私は、ついに見つけた。
266
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:08 ID:vG2lH35Y0
ミセリが、ギコに、抱きしめられていた。
ミセリは、ぴくりとも、動かなかった。
.
267
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:31 ID:vG2lH35Y0
「返してよ……」
ミセリへと、歩み寄る。
その小さく華奢な矮躯に、その小さく華奢な矮躯を抱える男の下に、歩み寄る。
「“ハイン”を、返してよ……!」
奪い取り、抱きしめた。軽い。とても、軽い。なのに重い。
いっさいの力が失われた人の身体は、例えそれが小さなこどものそれであっても、
支えきろうとするには、とても、重い。
ミセリにはまだ息があった。
衰弱して、いまにも途切れそうなか弱い呼吸ではあったけれど、
とにかく彼女は、生きていた。
帰らなきゃ、教会に。
だって、ここは、場所が悪い。
彼女を抱えて立ち上がろうとする。けれど、やはり、重かった。
わたしが抱えるには重くて重くて、それにどうしてか、
力を込めようとしてもまったく身体が言うことを聞かなかった。
腕にも腰にも頭にも、まるで血が通っていないみたいだった。
268
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:56 ID:vG2lH35Y0
「貸せ」
目の前に、手が差し伸べられた。少年の手が。
自分と、ミセリと、ギコ以外の人間がここにいたことに、
私はこの時初めて気がついた。そこにはあの車椅子の魔女と、
ギコの主の姿も存在していた。ギコの主が、わたしに手を差し伸べていた。
わたしからミセリを奪おうと、その手を伸ばしていた。
「だれが……!」
力なくうなだれるミセリの身体を、強く抱きしめる。
その身を少しでも隠せるように、敵の視界から見えなくなるように、と。
お前も同類だ。
ギコや、車椅子の魔女と同じ。わたしたちの平穏を喰い荒らそうとする敵だ。
それを今更どのような了見で、味方面を振る舞おうというのか。
ミセリは、わたしが、守るんだ。
そのような思いで、敵を睨んだ。
睨んだ、はずだった。
269
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:05:29 ID:vG2lH35Y0
奇妙な感情が、わたしの中を駆け巡っていた。
敵意を向けた眼の前の男から受け取った、予想とは異なる感覚。
それはけして、嫌悪感や恐怖感といったマイナスの感覚ではない。
もっと大きく、絶対的で、揺るぎのない存在感。
言葉にするならば、あえてするならば、それは、おそらく――安心?
気づけばわたしは、ミセリを彼に預けていた。
彼の手はあくまでやさしく、ミセリを抱え、包容していた。
その身体から、全身から、光のような、
暖かさのような力が放射されているみたいだった。
彼はわたしの知らない、かつて出会ったことのない存在だった。
「魔女よ、見ろ」
彼が、魔女に向き直った。
魔女は、彼の腕の中のミセリを見つめていた。
「これが“ギコ”を棄てた時の姿だ」
それだけいうと、彼は魔女に背を向け歩きだした。
教会に向かい、その重力を感じさせない足取りで。
わたしはその後を追おうとして進めかけた歩を、一度、止めた。
振り返る。閉じた森のその暗がりに、魔女と、ギコがいる。
暗がりで佇む魔女とギコに――ギコに、告げる。
もう二度と、“ハイン”に近付かないで。
.
270
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:05:53 ID:vG2lH35Y0
彼の後を追い、彼の腕の中で死んだように眠るミセリを見つめる。
その寝顔に語りかける。
だいじょうぶだよ。
あなたが見たのはただの夢。
怖いことも、つらいことも、全部、全部ただの夢。
目を覚ませば消えてなくなる、あぶくのようなただの夢。
思い出すことなんて、何もない。
思い出さなきゃいけない記憶なんて、何もない。
何も、ないんだよ。
だから、いまは、すべてを忘れて――。
おやすみなさい、ミセリ。
.
271
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:06:16 ID:vG2lH35Y0
5
おねえちゃん、どこへ行くの?
どうしてあたしを置いていくの?
いやだよ、おねえちゃん。
おねえちゃんがいないと、あたし、生きていけないよ。
もう、だれもいないんだよ。
あたし、一人になっちゃったんだよ。
一人じゃ踊れないよ。
何も見えないよ。
暗いよ。
怖いよ。
会いたいよ。
おねえちゃん。
おねえちゃん……。
おねえちゃんは、もういない。
.
272
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:06:39 ID:vG2lH35Y0
「おはよう、ハイン」
目を覚ましたら、ナベの顔があった。いつもと同じように。
そしてこれもまたいつもと同じように、ナベの指があたしの目元をぬぐった。
その指先に、水滴が付着している。その水滴の曲面に、
丸く歪曲したあたしの顔が映っていた。目元を腫らした、あたしの顔。
あたしの、幼い顔。
「ハイン……?」
ナベの顔が不安に曇る。あたしがいつまでも答えないでいるから。
ごめんね、ナベ。あなたを心配させるなんて、あたし、悪い子だ。
あたしが目覚めるまで心細い思いをさせてしまったであろう彼女に、
あたしはあたしに可能な限りの微笑みを演じて返す。
「おはよう、ナベ」
彼女の安心が、肌を通して伝わった。
「ところでナベ」
「あ、ハイン、だめ〜。まだ、寝てなくちゃ〜」
「ううん、だいじょうぶ。それよりも、何かあったのか? ずいぶん静かだけど」
273
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:04 ID:vG2lH35Y0
上半身を起こして、耳をそばだてる。
いつもは叫び声や怒声に満ち溢れた教会の中が、今日はいやに静かだった。
時が凍りついたような静けさは、何か薄ら寒いものを想起せざるにいられない。
「いま、還泡式をしているの〜」
「還泡式? だれの?」
「それよりも、体調はどう〜?
ぽんぽん痛かったり、頭あっちっちだったりしない〜?」
質問に答えることなく、ナベがあたしの額に手を当ててくる。
ナベはいつも通りだった。間延びした話し方に、独特の擬音。温和な表情。
あたしのことを思ってしてくれる、掛けてくれる言葉と行動。
ナベはいつも通りだった。余りにも、いつも通りだった。
274
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:28 ID:vG2lH35Y0
「あのな、ナベ、あたし……」
あたしを案じてくれているからこその、いつも通り。
「お腹が、すごく空いてる」
「待ってて!」
ナベが嬉しそうに飛び上がって、部屋から出ていった。
お腹が空いたというあたしのウソを、真に受けて。
彼女の足音が完全に聞こえなくなってから、
あたしは自分自身に向かっておねえちゃんのようにつぶやいた。
お前は本当に、悪い子だなあ。
.
275
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:53 ID:vG2lH35Y0
思った通り、足はまともに動かず立ち上がるのも困難だった。
それでも壁に寄りかかって時間さえかければ、何とか移動することはできる。
そういえばここへ来た時も、こんなふうに寄りかかっていたんだっけ。
森の外から、ここへ来た時。
どうして忘れていたのかな。
あたしが、あたしだっていうこと。
あたしの、大切な人のこと。
おねえちゃんのこと。
考えている内に、目的地へと到着した。
還泡式が行われている広間。けれどそこへ来てもなお、
こどもたちの喧騒は聞こえなかった。だれもいないわけではない。
確かにみんな揃っている。なのにみんな、どこか居心地悪そうに、
騒ぐこと、楽しむことを躊躇していた。
壇上では、ジョルジュがハーモニカを吹いていた。
いや、吹こうとして、吹けていない。不揃いな音が
断続的に羅列されているだけで、それはけっして
一個のメロディーとはなりえなかった。
ジョルジュはまるでジョルジュではない顔をして、
泣きそうになりながらハーモニカを吹こうとしていたけれど、
でも、焦れば焦るほど、うまくやろうとすればするほど、
彼の努力はから回って、余計に音は、意味をなさない騒音となっていった。
胸が苦しくなった。
276
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:08:15 ID:vG2lH35Y0
ハーモニカが止まった。
めぇという、ひつじの鳴き声を境に。
いつの間にかひつじが、歌うひつじが広間へと入ってきていた。
海を割るように、こどもたちが道を開ける。
その間をひつじが歩く。ふわふわな羊毛を揺らしながら、
やさしい足取りで歩いて行く。還泡式の主役の下へ。
光に導かれた、幸運なこどもの下へ。
ひつじの足が止まった。
目の前には、一人の少女。
陶器のように美しい肌をした、大人びた女の子。
誰とも交わらず、孤高を貫いていた人物。
畏れと嫌悪を、一身に請け負っていた者。
アイスブルーの瞳。
人を惑わす魔の女。
車椅子の、魔女。
ひつじの前には、彼女がいた。
彼女の前で、ひつじが座った。
277
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:08:35 ID:vG2lH35Y0
「魔女よ」
しんと静まり返った場内に、少年の声がエコーした。
声の主は、ギコの小旦那様。ひつじの傍らに佇む彼が、
魔女に向かって問いかける。
「最後に言い残すことは?」
「私、は……」
広間中の視線が、一斉に彼女へと集まった。
車椅子の車輪が、わずかに後退する。
「私は……私は……」
しぼりだすような彼女の声も、物音一つない広間では隅々にまで響き渡った。
その大きさに本人自身が狼狽するかのようにのどを抑える仕草をした後、
さらに小さく、か細い声を上げる。
「わた、しは……わたし、は……わたし、わたし、は……
わ、わたし、は……わたしは、わたしは……わたしは………………」
278
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:02 ID:vG2lH35Y0
私は。
最後にその言葉を放った彼女は、
何かをつかむかのように伸ばしていた手を収め、口を閉じ、そのままうつむいた。
そして彼女はとうとう、閉ざした口を二度とは開かなくなる。
ひつじが一声鳴いた。
「ジョルジュ。彼女を連れて行ってやれ」
ギコの小旦那様からとつぜんの指名を受けたジョルジュは、
ぽかんとした顔をして、しばらくそのまま動かなかった。
「ママがお前を待っている」
ジョルジュがこくんとうなづいた。
そして車椅子の取っ手を掴み、魔女と共に前を行くひつじを追った。
部屋を出る時、あたしとひつじ、それに魔女とジョルジュはすれ違った。
魔女は、魔女ではなかった。
うつむいて、打ちのめされたただの女の子が、そこにいた。
ジョルジュは無表情だった。心なしか視点も定まらず、
彼の操る車椅子の軌道も左右に蛇行していた。
あたしは、何もできずに、彼らを見送った。
279
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:27 ID:vG2lH35Y0
彼らがいなくなった広間は、張り詰めていた緊張が一気に解放されたのだろう、
くつろいだ空気がそこかしこに充満していた。あたしが思っている以上に、
車椅子の魔女を苦手としている子は多かったようだ。
弛緩したこどもたちの輪。あたしはその輪には加わらなかった。
どうしても話をしなければならないあの子の姿が、
ここには見当たらなかったから。
広間から離れる。行くべき場所は、きっとあそこ。
あの人はきっと、あそこにいる。
壁に肩をもたせて、足を引きずり進んでいく。
裏庭へと出る。目的地は、この向こう。このすぐ先。
けれど困ったことに、ここには壁がない。支えになるものがない。
何かに頼ることはできない。
あたしたちは、自分の力で歩まなければならない。
.
280
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:51 ID:vG2lH35Y0
壁から離れ、一歩を踏み出した。身体が大きく傾ぐ。
そのままバランスを保てず、倒れた。石垣に手をついて、身体を起こす。
そしてまた、一歩踏み出す。踏み出して、倒れて、起き上がって、
それを何度も繰り返して、何度も何度も繰り返して、近くて遠いその場所へ、
遥かな遠いその場所へ、あたしはわずかに、着実に、近づいていった。
そしてあたしは、その入口へとたどり着いた。
森。
あたしたちを囲う森。
あたしたちを守る森。
きっと彼は、ここにいる。
どうしていいか、わからずに。
あの時のあたしと、同じように。
だから、あたしは、行く。
さらなる一歩を、踏み出して。
枯れた枝を踏みしめる感触が、足の裏に広がった。
.
281
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:10:26 ID:vG2lH35Y0
6
「よっ」
声を掛けられ、振り向いた。彼女が、ハインが、そこにいた。
長大な年月を感じさせるしっかりとした樹木に寄りかかった格好で、
気安い感じに掲げた手で挨拶している。そして彼女は、
ちょっとした散歩でもするような歩調で一歩、こちらへと足を踏み出した。
「だ、だめ! 来ちゃダメだ!」
「どうして? ナベに言われたから?」
静止の声にも耳を貸さず、彼女はぴょんぴょん跳ねるように近づいてくる。
その身体が、大きく傾いだ。以前にも見た光景。
手に持っていたノートを放り投げ、慌てて彼女へと駆け寄る。
間一髪、彼女が地面と激突する前に受け止めることができた。
腕の中の小柄な体躯が、もぞっと動いた。彼女の顔が、真上を向く。
すなわち彼女を見下ろすぼくの顔と、正対する。
彼女は目を凝らすようにぼくの顔を眺め回した後、大きく、大きく胸を膨らませた。
282
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:10:50 ID:vG2lH35Y0
「あたし、ミセリだった!」
振動で、森の木々がさざめいた。木々だけではない。
至近距離で彼女の叫びを受け止めたぼくの身体も、内側から波打っている。
少しだけ、頭もくらっとする。しかし当の本人は悪びれる様子もまるでなく、
にいっと、いたずらっ子の笑みを浮かべていた。
「だから、平気でしょ?」
幼い身体に、幼い声。幼い顔。
なのに彼女の表情は妙に大人びていて、その歪さがなんだか妙に、胸を苦しくさせた。
彼女はハインで、ミセリだった。
「ごめん……」
「どうして謝るのさ」
「だってきみは、ぼくのせいで……」
口に指を当てられた。強制的に話を止められる。
彼女がにこっと笑った。口に当てられていた指が移動を始め、別の場所を差す。
その先には先程ぼくが放り投げたノートが、
地面に根を這った木々のふしくれに引っかかっていた。
魔女が記した、魔法のノート。
283
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:11:24 ID:vG2lH35Y0
「あれ、持ってきてくれる?」
ミセリが指の先を曲げて引っ張り寄せるようなジェスチャーを行う。
けれどぼくはミセリの意図がわからず、それにこの小さな身体から
手を離してしまってよいものなのかもわからず、動くに動けなかった。
そんなぼくに、彼女がもう一度催促する。大丈夫だからと、付け加えて。
結局、彼女の言葉に従った。「お願い」とつぶやいた彼女の、
その妙にさみしそうな声色に負けて。彼女の身体を、手近な木にもたせかけ、
放り投げたノートを再び拾う。開いていたページに付着した緑を払い、彼女に手渡す。
ノートを受け取った彼女は、その開いたページに顔を近づけた。
まつげと紙とが触れそうなくらいな、至近距離にまで。
まるでそうしないと、書かれている文字が読み取れないかのように。
まるで視力が、ほとんどないかのように。
彼女の隣に座る。彼女からノートを取り上げる。
彼女が少し驚いたようにぼくを見た。
吐息のかかる距離で。生を感じる、その距離で。
叫び声は必要なかった。ささやき声で、十分だった。
ノートを開き、読み上げる。そこに書かれた文言を。
魔女の残した魔法の呪文を。長い、長い時間を掛けて、
ぼくはその一個の物語を読み上げていった。秘めたる魔女の内面を唄っていった。
彼女は黙って聞いていた。目をつむって、森の一部と化したように静止していた。
静止しながら、それでも彼女は生きていた。ぼくが最後のページを読み終えた時、
彼女の閉じた目元から、涙が一筋こぼれ落ちた。
284
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:08 ID:vG2lH35Y0
「全部、そうなんだよね?」
瞳を森から隠したままに、彼女がたずねてきた。
ぼくはこくんとうなづく。魔女が残したノートは、この一冊だけではない。
数えるのも気が遠くなるような膨大な冊数を、魔女はいままで書いてきた。
記し、残してきた。
「ここに来て、良かったよ」
目を開いた彼女が、ぼくを見ていった。
明かされた瞳はうるんでいたけれど、その顔は、笑顔だった。
「あたしね、あなたのことが好き。おんなじ意味で、あの子のことも好き」
ぼくは彼女から顔を背ける。その真っ直ぐな笑顔から。
「好きっていわれるのは嫌い?」
「……ぼくは、罪人だ」
「だから幸せになっちゃいけない?」
声を出さずに、うなづく。
「だからハーモニカを手放した?」
285
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:31 ID:vG2lH35Y0
うなづくことは、しなかった。
肩に重みがのしかかってきた。
ちょうどこどもの、頭ひとつぶん程度の重みが。
「ねえ、覚えてる? あなたがここへ来た日のこと。
あなたがあたしに、どこから来たのか尋ねたこと」
ぼくは答えない。
肩にかかる重みが増した。
「ハインはね、あたしのおねえちゃんだったんだ。
綺麗で格好良くて、あたしの憧れだったおねえちゃん――」
そっぽを向いたままのぼくへと、彼女はもたせかけた頭を通じて話し始めた。
ハイン――そして、ミセリという少女が辿った物語を。
.
286
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:53 ID:vG2lH35Y0
ミセリは貴族家の流れを汲む一族の男女の下、
一男三女の四番目の子として生を受けた。
しかし彼女は、望まれて生まれたこどもではなかった。
没落して久しいミセリの家では
貴族であった時代の蓄えなど些かも残ってはおらず、貧窮に喘いでいた。
それ故ミセリの両親は手間ばかりがかかる赤ん坊のミセリを疎ましく思い、
井戸の中へ投げ捨ててしまおうかと本気で画策したことすらあったらしい。
両親の気まぐれによりなんとか一命を取り留めたミセリだったが、
その生活は当然恵まれたものではなかった。彼女は他の兄弟と明確に差別されて育った。
同じ食卓につくことは許されず、食事は家族の残り物や
腐って廃棄するしかなくなった食べ物とも言えないようなものしか与えらなかった。
寝床も牛馬の臭い漂う藁をかき集めるしかなく、それすら意味もなく取り上げられ、
土の上で眠るしかない日も少なくなかった。
自分はいらない子なんだろうな。
ミセリは両親の意を、直に言われるまでもなく汲み取っていた。
私は、生まれちゃいけなかったんだな、と。希望はなかった。
その代わり、絶望もなかった。これが当たり前だと思っていたから。
兄や姉が潰した虫を見て、自分もいつか、
こんなふうに潰されて死ぬんだろうなと漠然と思っていた。
287
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:13:21 ID:vG2lH35Y0
「そんなあたしの運命を変えてくれたのがおねえちゃん――ハインなんだ」
ミセリが誰にも祝われない五歳の誕生日を迎えた数日後、
彼女は新しい家族としてミセリの家へやってきた。
彼女は綺麗で、洗練されていて、なにより身体中から溢れ出した
活き活きとしたエネルギーのようなものが、とてもまぶしい女性だった。
事前にどのようなやり取りが成されていたのかは判然としないけれど、
ミセリの両親は当初、彼女の来訪に難色を示していた。
ハインの家とミセリの家には遠い血縁関係が在るらしかったものの、
碌な交流もなく、ミセリの両親にとってみればハインはただの他人に過ぎなかった。
どこの誰とも知らない娘を引き取る余裕などうちにはないと、
両親は長い旅の果てにここまでやってきたハインを、その場で追い返そうとした。
けれど両親は、ハインが持参したものを見るとすぐさま態度を変えた。
ハインが持ってきたもの。それは宝石だった。色とりどりの宝石。
慌てて持ってきたので価値があるのかどうかわからないけれどとハインは言っていたが、
父がいまの生活を死ぬまで続けてもこの中の
たった一つであろうと手に入れられないことは明白だった。
288
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:14:13 ID:vG2lH35Y0
そんなわけで、ハインはミセリの家に快く迎え入れられた。
両親だけでなく、兄や姉たちにも好意的に受け入れられていた。
彼女はいつも快活で、思ったよりも口が悪く、けれど面倒見は良く、
親しみやすく、遊ぶ時は誰より全力で、だけど肝心なところはきちんと見守ってくれる、
やさしいおねえちゃんだった。
ハインはみんなのおねえちゃんだった。
「でもね、最初はあたし、おねえちゃんのこと好きじゃなかったんだ」
ハインが来たことで自分の居場所が
本当になくなってしまうのではないかという危惧が、彼女を悩ませた。
ただでさえいらない子である自分なのに、あんなになんでもできてしまう人が来たら、
今度こそあたしは捨てられてしまうのではないか。
不安に息苦しくて、牛馬の臭いがする
藁の上で身体を丸めても、すんなりと寝入ることができなくなった。
そのせいで、寝坊した。
289
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:14:43 ID:vG2lH35Y0
ミセリは両親から複数の仕事を課せられていたが、
その中のひとつに家族が目覚める前に井戸から
水を汲んでこなければならないというものがあった。
井戸は家から一キロ近く離れている上に、
ミセリが運べる量では何度も往復しなければならない。
いつもはミミズクが鳴く頃には目を覚ますのに、
今日はすでに、地平線から日が差していた。
涙目になって井戸へと走った。
桶いっぱいに水を汲んで、また走って家までもどる。
息なんて、とっくの昔に切れていた。それでもミセリは走った。走るしかなかった。
いやだ、いやだ、いやだ。
怒られるのは、いやだ。
捨てられるのは、いやだ。
踏み潰されるのは、いやだ。
いらない子になるのは、やっぱり、いやだ。
290
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:15:12 ID:vG2lH35Y0
転んで、桶の中身をぶちまけた。
ぶちまけられた水が染み込んでいく地面に、顔から突っ込んだ。
泥化していく土が、目鼻の形に変形していく。ミセリは顔を上げなかった。
泥の中へと沈みながらミセリは、泣いた。嗚咽を漏らして、か細く叫んだ。
何がとか、ではなく。
なんだかもう、全部、いやだった。
沈みに沈んで、そのまま自分も泥になってしまいたかった。
このままずっと、眠ってしまいたかった。
その時だった。
ミセリの前に、彼女が現れたのは。
「起きれるか?」
涙でにじんだ視界に、いま一番会いたくない人の顔が映った。
ハイン。その人はミセリが起き上がろうとしないのを見て取ると、
強引に身体を抱え、持ち上げてしまった。
ミセリのぼろとは違う上質な衣服に、ぐじゃぐじゃに溶けきった泥が付着する。
けれどハインはそんな汚れなどまるで気にする様子なく、
ミセリに向かってその屈託のない笑みを向けた。
291
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:15:45 ID:vG2lH35Y0
「どっちがいっぱい運べるか、競争な!」
言うなりハインが駆け出した。
ミセリではとうてい持ち運ぶことのできない、大きな桶を片手に担いで。
ミセリは呆気にとられながらも、涙を拭い、
転んだ時に手放してし桶を手にハインの後を追った。
水汲みはあっという間に終わった。まだ日も明けきっていない。
深夜に起きて一人で汲んできたときと比べても早くに終わった。
そでをまくり満足げな笑顔を浮かべているハインの、
彼女のおかげであるのは明白だった。
けれどミセリは、素直に喜ぶことができなかった。
彼女が何を考えているのか、ぜんぜんわからなかったから。
いきなり怒られるんじゃないかとか、石投げの的にされるんじゃないかとか、
そんな疑いしか思い浮かばなかった。
「あの、ごめんなさい、あたし、その……」
だからとにかく、謝った。
謝れば多少の手心が加えられることもあると、ミセリは経験として知っていたから。
けれどハインは、他の家族とは違った
292
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:16:09 ID:vG2lH35Y0
「ミセリはさ、すごく丈夫な脚を持ってるんだな」
ハインの言葉の意味がわからず、あたしはとりあえずもう一度謝った。
そんなあたしを一笑に付して、ハインはあたしとの距離を取った。
そしてハインは、踊りだした。
.
初めて目にする舞踏というものに、ミセリは目を奪われた。
それは幻想的な光景だった。言ってしまえばただ人が一人踊っているだけだというのに、
たったそれだけのことで空気が、空間が別世界になっていた。
草木も、土も、風も雲も虫も、
そこにあるすべての存在が彼女の味方となり、彼女を輝かせていた。
彼女を取り巻くその一帯のすべてが、光り輝く神話の世界に変貌していた。
彼女の脚が、止まった。自然が、空間が、現実の時間へともどっていく。
けして急激にではなく、徐々に、徐々に、
浸透した余韻を世界中へ分散させていくように。
それが自分の中へも潜り込んできたことを、ミセリも確かに感じ取っていた。
玉汗を浮かべたハインが、笑いかけてきた。
293
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:17:05 ID:vG2lH35Y0
「やってみ?」
ぶんぶんと首を振る。
「む、無理だよ……」
偽りなく、素直にそう思った。
あんなこと、彼女以外にできるとは思えない。ましてや自分なんかには。
「そんなことないさ」
だというのにハインは、あたしの手足を取って無理矢理にステップを踏ませてきた。
彼女の指示に従い足を動かす。けれど当然ミセリの動きはハインの模倣とは成らず、
しなやかさに欠けたぎこちのないものになる。
そうこうしているうちに、日が完全に昇っていた。
水汲みが終わっても、やらなければならない仕事はたくさんあった。
そのことを遠慮がちに、ハインへと告げる。するとハインは、こういった。
「それじゃ、続きは明日だな!」
294
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:17:57 ID:vG2lH35Y0
この日から、水汲みの後のレッスンがミセリの日課になった。
このレッスンが、ミセリはいやだった。どうせ自分には不可能だと思っていたから。
だからこんなレッスンなど無意味だと思っていたし、
疲れを残して仕事に支障をきたしたら、父や母になにをされるかわからなかった。
それでもハインに従っていたのは、ハインが水汲みを手伝ってくれていたから。
もしレッスンを断ったら、井戸までの往復行をまた深夜に
一人で繰り返さなけれならなくなるかもしれない。それは避けたかった。
幸いハインは、急に怒鳴りだすような理不尽な先生ではなかった。
ミセリが何度ミスをしても上達しなくとも見捨てることなく、
時間いっぱいに見守っていた。
ただ一箇所だけ、ハインの顔が曇る瞬間があった。
見よう見真似で行うミセリの踊りはもちろんハインのように
洗練されたものにはなり得なかったが、
それでもそれらしい型をこなせる程度には身体が踊りを記憶した。
しかしミセリは、いつも必ず同じ場所でステップを間違えた。
その場所は腕と脚とのバランスが取りづらく、
前後の動きも合わせて他の箇所と比べてもむつかしい技術を要求されていた。
295
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:18:50 ID:vG2lH35Y0
ミセリにはどうしても、この時の動き方が理解できなかった。
そしてこの箇所でミセリが失敗をごまかすような動きをすると、
ハインは決まって顔を曇らせた。それがいやで、仕方なかった。
けれど、どうしようもなかった。できないのだから。
それにハインは、それでも笑っていた。
けれどその日は違った。目が覚めて、水汲みに向かうときから違っていた。
ハインはむつかしい顔をして、妙に言葉少なだった。
こちらの視線に気づくと笑顔を浮かべたけれどその笑顔にも元気がなく、
目を離すとまたすぐに消沈していた。
レッスンが始まっても、それは変わらなかった。
どこか心ここにあらずといった様子で、
ミセリのことを視界に入れてはいても、見てはいなかった。
なんだかとても、いやだった。
自分が余りにもダメだから、
愛想を尽かされてしまったのではないかと、後ろ向きな疑念が思い浮かんだ。
296
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:19:15 ID:vG2lH35Y0
そんな自分自身が生み出した妄想に囚われると、無意味だと思っていた
この時間を失いたくないという強い気持ちが、胸の奥から奥から押し寄せてきた。
うまくやらなきゃ、失敗しないようにしなきゃと、そんな思いが強まった。
けれど焦れば焦るほど身体は意志を離れ、
ぎくしゃくとレッスンを始める以前の状態へともどっていってしまった。
そして、あの箇所。どうしてもうまくできないあのステップに、挑戦した。
結果はやはり、変わりなかった。
ハインの目が失望に染まった――気がした。
もうダメだと思った。ハインはあたしを見限ってしまったと、そう思った。
そう思うと全身から力が抜けて、そのまま座り込んでしまいそうになった。
座り込んでしまいそうになりながら、ミセリは思い出していた。
ハインが初めて踊ってみせてくれた日のことを、思い出していた。
もう一度見たかったなと、思った。
確かこんなふうだったなと思い返しながら、
記憶の中のハインを自分の身体を使って辿ってみた。踊ってみた。
何も考えず、ただ彼女の動きを真似した。そうしたらなんだか、
身体がとても軽くなっていた。ミセリは軽快に踊っていた。
あんなにつまづいていたあの箇所も、あっさりとこなしていた。
297
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:19:39 ID:vG2lH35Y0
ミセリがそのことに気がついたのは、踊り終わった後だった。
あれ、あたし、なんか……できちゃった。感慨に耽るでもなく
他人事のようにそう思っていたミセリに、強い衝撃が襲ってきた。
ハインが、抱きついてきていた。ハインはなぜか、泣いていた。
ぽろぽろと泣きながら、泣きながら彼女は、笑っていた。
「なあ、ミセリ。何かができるようになるのって、すっげー気持ちいいだろ?」
彼女がなぜ泣いていたのかも、どうして抱きついてきたのかも、
その時のミセリにはわからなかった。けれど確かなこととして、自分はできた、
自分はできるようになったんだという実感が、身体の内から沸いてくるのを感じた。
その感情に身を任せているとなぜだか涙が溢れてきた。
止めようとしても、それは止まらなかった。のどがひくつくのを止められなかった。
ミセリは泣き出した。ハインと一緒に、わんわん泣いた。
その日から、ミセリはハインをおねえちゃんと呼ぶようになった。
.
298
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:20:01 ID:vG2lH35Y0
毎日が楽しくなった。
相変わらず両親からは虐げられていたし、
仕事は大変だったけれど、苦しくはなかった。おねえちゃんがいたから。
おねえちゃんと、おねえちゃんから教わった踊りがあったから。
「どうしてあの時泣いていたの?」
レッスンを終えて一休みしている間に、
ミセリはずっと気になっていたことを聞いてみた。
ミセリがハインをおねえちゃんと呼ぶきっかけになったあの日のあの時。
ハインがなぜ泣いていたのか、ミセリはまだその理由を知らずにいた。
それにいつも同じ箇所で失敗するミセリに、顔を曇らせていた理由も。
ハインが自分のいうことを聞かれなかったり踊れなかったくらいで
気分を害するような女性でないことは、いまのミセリには十分わかっていた。
だから、聞いてみた。
ハインの答えは、単純だった。
自分も昔、同じ箇所で苦戦していたからだ、と。
299
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:20:27 ID:vG2lH35Y0
「それだけ?」
つっこんで聞いてみるとハインは少し困ったような顔をしたけれど、
やがて静かにその本当の理由を、そして自分の生い立ちを語りだしてくれた。
ハインの家は特別な役職を与えられた王家付きの一族で、
彼女の父もその技でもって時の王に仕えていたらしい。
けれどそんな彼女の父も、王政打倒を掲げた市民革命に
巻き込まれたことで暴徒に捕まり、処刑されてしまう。
残された彼女や彼女の兄弟も懸賞金を掛けられ、
散り散りに逃亡するしかなかったそうだ。
逃げた先でも――つまりミセリの家へ着いてからもハインは、
父やそれ以前から受け継がれてきた家の技を鈍らせることなく磨いてきた。
すなわち、舞踏の技を。逃げていった他の兄弟も同じように技を磨いているはずだと、
ハインは語った。そのはずだったと。
「でもな、あの日、弟が捕まって死んだ」
300
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:21:16 ID:vG2lH35Y0
正確にはその訃報が届けられたと、
それがなんでもないことかのように彼女は言い直した。
彼女はあくまで淡々と話した。弟の死を聞かされた時に思ったこと。
それは、自分たちは極刑を免れぬほどの罪を犯していたのだろうか、という問いだった。
王の膝下で踊り継いできたこと。
それは世を生きる多くの人々にとって隠れ住むことすら許されぬ暴威であり、
引きずり出してでも処分せねばならぬ悪徳であったのだろうか。
あたしたちは世の中にとって、いない方がよい存在なのだろうか。
繰り返されるハインの問いを聞いたミセリは、彼女が自分と同じであることを知った。
あたしはいらない子。だれからも必要とされず、むしろ疎まれ、いなくなれ、
死んでしまえと石を投げられた存在。彼女はあたしと、同じだった。
「だから、悲しくて泣いたの?」
自然と声が涙で震えた。存在を認めてもらえないそのつらさを、
ミセリはよく知っていたから。彼女の負ったつらさが、ミセリにもよく理解できたから。
けれどハインは笑って首を振った。
そしてしゃくりあげだしたミセリの頭を、やさしくなでる。
301
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:21:41 ID:vG2lH35Y0
「あたしが泣いたのは、お前が踊ってくれたからだよ」
ハインの言葉に、ミセリはきょとんとする。
「ミセリがちゃんと踊ってくれたから、あたしはあたしが、
あたしたちが間違っていなかったって思えたんだ。
ミセリの踊りが、あたしを救ってくれたんだ。だから、泣いたんだよ」
近づいてきたハインの額が、あたしのそれと接触した。
まつげが、鼻が、くっついた。
「ありがとな、ミセリ」
なんだかとても、恥ずかしくなった。
むずがゆくて、じっとしていられなくて、ミセリは飛ぶようにハインから離れた。
嬉しいのだけれど、その嬉しさをどう表現していいのかわからなくて、
どうしようもなくて、ミセリはハインに背を向けたまま、無意味に叫んだ。
全力で、のどがさけても構わないとばかりの大声で、叫び声を上げた。
驚いた鳥が数羽、空の向こうへと逃げていった。
その逃げゆく鳥を見ながらミセリはひとつ、名案を思いついた。
302
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:22:05 ID:vG2lH35Y0
「旅に出ようよ」
振り返ってもう一度、ハインにいった。
世界中を旅しようと。
「それで世界中の人に、おねえちゃんの踊りを見てもらうんだ。
みんな知らないから、怖いだけなんだよ。
知ったらみんな、おねえちゃんを好きになるよ」
それからミセリは、目を伏せて、
「それで、なんだけど……おねえちゃんさえよければ、
あたしも連れて行って欲しいなって。二人で踊れたら素敵だなって。
あたしなんかぜんぜんだし、足手まといにしかならないだろうけど、
でも、雑用とかならできるし、料理も覚えるし、それに――」
「ミセリ」
意味なくまくしたてるミセリの言葉を、ハインの一言が遮った。
真剣な顔をして、ミセリを見つめている。
照れくささや言葉に出来ない感情が渦巻いて、目をそらしたくなった。
でも、そらさなかった。
降り注ぐ朝日を浴びるハインの姿が、とても綺麗だったから。
ハインが、笑いかけてきた。
「お前はあたしの、自慢の妹だよ」
.
303
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:22:28 ID:vG2lH35Y0
約束をした。
二人で旅に出ると。
世界中のいろんな国々を巡って。
いろいろな人に二人の踊りを見てもらおうと。
なにがあっても絶対に忘れないで。
いつか必ず、この夢を叶えようと――。
夢は、叶わなかった。
.
304
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:23:07 ID:vG2lH35Y0
ハインの事情を正確に理解し始めていた両親は、
ハインのことを疎みだしていた。彼女を匿っていては、
自分たちにまで危害が及ぶかもしれない。
彼女を家から追い出さなければ。だが、どうやって?
両親はハインを売った。言葉通り、金銭のやり取りをして。
手際よく行われたその売買はよくわからないうちに始まって、
理解の及ばない間に終わった。時間にして一○分も掛からなかっただろう。
そのわずかな時間で、ハインはこの家から消えた。
ハインが、いなくなった。
.
305
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:23:38 ID:vG2lH35Y0
それはもちろん、ショックな出来事だった。
けれどミセリは過度に落ち込むことはしなかった。
両親に課せられた仕事の量は未だに膨大だったし、
なにより落ち込んでいる暇があるなら、その分だけ舞踏の技を磨きたかった。
約束をした。その一事が、ミセリの支えだった。
必ず夢を叶えると、絶対に忘れないと約束した。
だからミセリは、踊った。踊って、踊って、
ハインと再会した時に恥ずかしくないよう、自らを洗練させた。
その生活すらも、長くは続かなかった。
ミセリが住むこの町、この地域に住まう人々はその当時、極貧に喘いでいた。
王政に代わり台頭した民主主義を扱いきれなかったせいか、
野放図に行われた粛清の結果か、あるいはただそういう時代であったのか、
人々の多くはほとんど水と変わりのないスープで飢えをしのぎ、
一個のパンをも奪い合うような有様だった。
ミセリの両親がミセリを疎んでいたのもこの貧困が原因であったが、
しかし彼らはハインの土産を得た。町全体が貧しさにもがく渦中において、
彼らだけは裕福であることを堪能していた。しかも彼らはそれらを誇示するように、
上等な衣服を買い込み、肉や野菜も好きなだけ食卓に並べた。
かつての栄華を再現するかのように、華やかな生活を送った。
とうぜん彼らは、恨みを買った。
町の人々は会合を開き、ミセリの両親を糾弾する正当な理由を探した。
そして彼らは、納得できる答えを見つけ出すことに成功した。
306
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:24:08 ID:vG2lH35Y0
やつらはかつて貴族だった。
やつらが豊かなのは、貴族時代の蓄えを残していたからに違いない。
つまりやつらは、王政主義者だ。
王政主義者の財産は、俺達のものだ。
奪われたものを、取り返せ。
市民の痛みを、思い知らせてやれ。
.
307
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:24:33 ID:vG2lH35Y0
父も、母も、三人の兄や姉も、全員が殺された。
ミセリだけが逃げ延びた。他の家族と違いぼろをまとっていたミセリは、
暴徒と化した町人の目をごまかすことができた。けれどそれも、一時しのぎに過ぎなかった。
貴族の血を引くミセリも例外なく、彼らにとっての標的だった。
ミセリは逃げた。町を越え、それでも追跡を止めない追っ手を振り切り、逃げた。
こどもの足ではいずれ捕まるであろうことは明白で、状況は絶望的だった。
それでもミセリは諦めなかった。諦めなかったし、前を向いていた。
これがあたしの、旅の始まりなんだ。
そう、ミセリは自分に思い込ませた。
悲劇なんかじゃないと。
いまこそ約束を、夢を叶える時なのだと。
だから、行く場所は決まっている。
おねえちゃん。
おねえちゃんに、会いに行く。
おねえちゃんに会いに行く時が、来たのだ。
308
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:25:24 ID:vG2lH35Y0
ハインがどこにいるのか正確な場所は知らなかったけれど、当てならあった。
父と取引してハインを買ったほほの傷跡が特徴的な男と、男が乗っていった馬車。
馬車にごてごてとした装飾と共に書かれていた『シベリアンヌ』という文字。
シベリアンヌはともかく、シベリアという名前には聞き覚えがあった。
それは、土地の名前だったはずだった。ミセリの住んでいた町から数えて隣町の、
そのまた隣町を越えた、その先にある土地。目的地は、そこだ。
楽な道程ではなかった。
正体を明かすわけにはいかなかったからだれに頼ることもできなかったし、
周囲を警戒していなければならなかったため眠りは浅く、常に寝不足で頭痛がした。
盗みも働いた。そうしなければ、生きていけなかったから。
生きて、ハインのところへたどり着くことができなかったから。
そしてミセリは数週間に及ぶ強行軍の果て、シベリアに入った。
シベリアはミセリの住んでいた町よりも遥かに巨大な都会で建物も多く、
通りは人でごった返していた。この中からハインを、
ハインの送られた『シベリアンヌ』を見つけ出さなければならない。
捜索は難航したが、ミセリは逃げなかった。
物乞いをしながら、罵声を浴びせかけられたり、
時には蹴られたりしながらも、ハインを探し続けた。
ミセリにはもう、それしかなかった。
309
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:25:47 ID:vG2lH35Y0
その甲斐あってか、ミセリはハインにつながる手がかりを見つけ出すことに成功する。
あの男。ハインを連れ去っていったほほに傷のあるあの男を、見つだした。
ミセリは男を尾行した。朝も夜も関係なく付け回し、
どんなヒントも見逃すまいと追跡し続けた。
そして、ミセリはついに見つけた。『シベリアンヌ』を。
『シベリアンヌ』は裏通りに居を構える何かの店舗らしかった。
けばけばしい色使いと卑猥なペイントに嫌悪感を覚えたけれど、
立ち止まるわけにはいかなかった。
ここに、おねえちゃんがいる。
中の人間に気づかれないよう、姿勢を低くして潜り込んだ。
『シベリアンヌ』には多くの部屋があり、そこには必ず大きめのベッドが置かれていた。
ベッドの中に誰かが潜っている部屋もいくつかあった。
そこからは時折声というかうめきのようなものが漏れ出してきて、
その音を聞くとなぜかいやな気分になった。
本当に、こんなところにおねえちゃんがいるのだろうか。
その心配は、杞憂だった。
ハインは確かに、そこにいた。
310
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:26:17 ID:vG2lH35Y0
「おねえちゃん!」
ハインは肩と胸を大きく露出した、ひらひらのついているドレスを着ていた。
あまり似合ってはいなかった。でも、そんなのどうでもいいことだ。
おねえちゃんがいた。おねえちゃんに会えた。
うれしさと安堵感が一挙に押し寄せてきて、
限界をとうに超えていた足腰が立たなくなった。
膝から床に、ぺたりと座り込んだ。
「ハインのお知り合い〜?」
ハインのそばに座っていた女の子が、ミセリを見ながら声を上げた。
彼女もハインと同じ格好をしている。年も同じくらいに見える。
やさしそうな顔つきで、話し方からものんびりした性格であることが伺えた。
おねえちゃんのお友達なのかもしれないと、ミセリは思った。
だけどそれも、いま気にすることではなかった。
大切なのは、おねえちゃん。おねえちゃんに会えたというその一事。
脚に自由が利かず、もどかしかった。いますぐ姉の下へと駆け寄りたいのに、
それができないことがとてももどかしかった。
そのもどかしさを、ミセリは腕を伸ばすことで補おうとした。
最愛の姉へ届かんと、距離を無視してその手を伸ばした。
その手が、宙空で止まった。
311
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:26:59 ID:vG2lH35Y0
「知らねえよ、こんなガキ」
.
312
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:27:50 ID:vG2lH35Y0
……おねえちゃん?
冷たい声をしていた。姉の声だったけれど、姉の声ではなかった。
それはむしろ、父や母が自分に向かって吐き捨てたときのような、
峻厳な拒絶の声色に近かった。ハインのことを、もう一度呼んだ。
ハインは、こちらを見ることすらしなかった。
「おねえちゃん、あ、あたしだよ……。
ミセリだよ、おねえちゃんの妹の、ミセリだよ……」
話したいことはたくさんあった。
聞いて欲しいことがたくさんあった。
毎日練習を欠かさなかったことを知ってほしかった。
上達した踊りの腕前を見てほしかった。
一日だって忘れたことはなかったと言いたかった。
――自慢の妹だって、もう一度言ってほしかった。
「あれ? でも、この子……」
「だから、約束を――」
313
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:28:13 ID:vG2lH35Y0
「ぐだぐだうるせえんだよ!」
ハインが立ち上がった。
見たことのない怒りの形相を浮かべて。小さな悲鳴が、のどから漏れた。
「お前なんか知らねえ! さっさと出てけ!」
どうして、どうしてという疑問を口にしようとするも、言葉が声に乗らなかった。
おねえちゃん。どうして。おねえちゃん。あたしを忘れたの。おねえちゃん。
約束を。おねえちゃん。夢を。おねえちゃん。おねえちゃん。おねえちゃん――。
やっぱりあたしは、いらない子なの?
.
314
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:28:36 ID:vG2lH35Y0
「出て行け!」
ハインが壁を叩いた。それがスイッチとなった。
動かないはずの脚が、動き出した。意志なんかとは無関係に
しっちゃかめっちゃか好き放題に走って、走って、走り回って、
気づくとミセリは、森の入口に立っていた。深く暗く、死を匂わせる森。
躊躇なく、足を踏み入れた。
死のう、と思った。
だってあたしは、いらない子。
いなくなっても、悲しむ人はいない。
だれも。
だれも――。
けれどミセリは、死ななかった。
緩慢に腐り行きつつも、かすかなその生を手放すことはなかった。
彼女は、生きていた。
生きていたから、その声も聞こえた。
自分を呼ぶその声が、聞こえた。
315
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:29:00 ID:vG2lH35Y0
「ミセリ!」
どうしてという疑問が、真っ先に思い浮かんだ。ハインがいた。
ハインが森のなかにいて、叫んでいた。ミセリの名を叫んでいた。
どうして。なんで。だって、あたしは、いらない子のはずじゃない。
どうしておねえちゃんが、ここにいるの。
「いるんだろミセリ! 頼むから返事をしてくれ!」
悲痛な色を帯びたハインの声は、
ミセリの知っているハインのそれと変わりなかった。
けれどミセリは、飛び出していくことができなかった。
「怒るのも当然だよな。信用出来ないのも当たり前だよな。
あたしだってそう思うよ。あんな……あんなひどいこと言ってさぁ!」
だって、また捨てられるかもしれない。
だって、またいらない子にされてしまうかもしれない。
忘れられてしまうかもしれない。
それは、いやだった。
いやだったから――。
「でも、でもあの時はああするほか、お前を――」
その躊躇が、永遠を別った。
316
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:29:25 ID:vG2lH35Y0
ハインが倒れた。うつぶせに。
その背に何か、細長い棒状のものを生やして。
棒状のものが、さらに増えた。背中だけでなく、
足や、腕や、頭にも、それは刺さった。
うつぶせたハインの身体から、血が流れ出していた。
うつぶせたハインの身体が、血溜まりに沈んだ。
.
317
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:29:52 ID:vG2lH35Y0
ミセリは、駆け出していた。
駆け出して、動かないハインの身体に飛びついた。
次の瞬間、視界が真っ暗になった。何か布のようなものを頭から被せられていた。
組み伏せられ、動けなくなった。果物のような香りが鼻の奥に滑り込んできた。
急速に、眠気が襲ってきた。
男たちの声が、聞こえた。
あーあ、もったいねえ。
こうなったら、美人も形無しだな。
まったく、なに考えてんのかね。
勝手に逃げだしゃこうなるなんて、わかってただろうによ。
そんなに大切だったのかねぇ、このちびすけが。
死んだらぜんぶ、おしまいだっつーのにな。
俺、お気に入りだったんだけどなぁ。
俺も。
俺もだ。
……ちっ。
318
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:30:17 ID:vG2lH35Y0
麻痺したほほを、叩かれた。
生ぬるい空気が、被せられた布越しに耳へとかかった。
男が、耳元でささやいた。
おねえちゃんは、おまえのせいで死んだよ。
.
319
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:30:56 ID:vG2lH35Y0
目が覚めると、足が折れていた。
関節が反対に曲がっているだけでなく、骨や肉がありえない方向を向いて、
足全体ががたがたな形に変形していた。痛みはなかった。ただ、感覚もなかった。
ハインが褒めてくれたミセリの脚は、もはや脚としての機能を失っていた。
男が二人いた。男たちは何かを話し合っていた。
どちらも聞き覚えのある声をしていた。
男たちは取り分がどうとか、もっと交渉するべきだとか話していた。
「あ、店長」
誰かが部屋に入ってきた。その顔には、見覚えが合った。
ほほに特徴的な傷のある男。もともと部屋にいた二人が、傷の男を前にかしこまった。
男が完全に部屋へと入ると、その陰に隠れていた
もう一人の人物がその存在を露わにした。その姿にも、見覚えが合った。
肩と胸を大きく露出させた格好。ハインと一緒にいた、あのやさしげな顔をした女の子。
女の子は、部屋の入口で固まっていた。
口に手を当てて、こちらを凝視していた。ミセリのことを震える目つきで見ていた。
傷の男が、女の子を呼んだ。女の子は動かなかった。
男が、もう一度女の子を呼んだ。女の子はやはり動かなかった。
男が、女の子をつかんだ。
女の子の目が、怯えるように男を見た。
320
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:31:20 ID:vG2lH35Y0
「こ、こんなことするなんて、わたし、わたし知らなかった……
知ってたら、知ってたらわたしだって、わたしだって……」
女の子が、殴られた。殴られて、倒れた。倒れたその身体に、男が蹴りを入れた。
一度ではない。何度も、何度も蹴り、踏みつけていた。
部屋にいた二人の男が止めるまで、それは続いた。
興奮した様子で息を荒げていた傷の男が、
ミセリがその光景を見ていることに気がついた。
大股で、近づいてきた。手近にあった何かをつかみ、腕を振り上げた。
頭を強く、殴られた。
その一撃で、視力も失った。
.
321
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:31:50 ID:vG2lH35Y0
おねえちゃんのことばかり考えていた。
やさしかったおねえちゃん。
綺麗だったおねえちゃん。
格好良くて、力強かったおねえちゃん。
あたしを認めてくれたおねえちゃん。
おねえちゃんは、もういない。
あたしのせいで。
あたしが尋ねていったから。
あたしが信じきれなかったから。
あたしと出会ってしまったから
あたしがあたしだったから。
あたしがいなければ、おねえちゃんは死ななかった。
あたしは、いらない子。
ミセリは、いらない子。
ミセリは――
.
322
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:32:21 ID:vG2lH35Y0
「気づいたら、ここにいた。自分をおねえちゃん――ハインと思い込んで」
長い、長い物語を語り終えたミセリが、
少し疲れたように寄りかかる力を強めた。
肩にかかる重みが増す。その重みは、
彼女が辿った人生の重みそのものなのかもしれない。
「きっとね、自分の罪を受け止めきれなかった防衛反応だったんだと思う。
あたしはおねえちゃんを殺したミセリじゃないし、
そもそもあたしがハインなんだから、
ミセリの犯した罪そのものがなかったことになるんだって」
事実そのものを消し去ることによる罪からの解放。
それがきっと、『ひつじの教会』の本質なのだろう。
だからここに住むこどもたちは過去に犯した罪の記憶を忘れ、
やがてはその根源となる自分自身をすら忘却する。魂を、救済する。
「あたし、それが間違ってたとは言わない。
でも、正しかったとも思わない。だから――」
ささやくように森の葉を揺らしていたミセリの声が、
明確にぼくへと向かい、放たれた。
323
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:33:03 ID:vG2lH35Y0
「ギコ、今度はあなたの番。あなたの罪を、あたしに教えて」
ぼくの罪。
告白するならば。
ぼくはミセリの話を聞いて、彼女に罪があるとは思わなかった。
悪いのは環境や、時代や、あるいは運程度なもので、彼女には非などなにひとつない。
彼女は被害者だ。彼女は愛され、幸せになるべき良き人だ。
けれど、ぼくは、違う。
ぼくは、ぼくの意志で、罪を犯した。
彼女とは、違う。ぼくは、罪人だ。
ぼくは、焼かれ、叩かれ、引き裂かれるべき罪人だ。ぼくは――
「言葉にしなきゃ、ダメだよ」
頭を、つかまれた。
強制的に、振り向かされた。
「言葉にしないと、きっとあなたは前にも後ろにも進めない」
目の前に、ミセリの顔があった。額が、まつげが、鼻が触れ合う真正面に。
彼女の目が、ぼくの目をじっと見つめていた。
視力の失せた薄濁りの瞳が、それでもぼくを見つめていた。
324
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:33:43 ID:vG2lH35Y0
しぃ。
目をつむるといつでも思い浮かぶひつじの姿。
ぼくの罪。罰の象徴。そして――最愛の、兄弟。
「ぼくは――」
.
325
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:34:05 ID:vG2lH35Y0
7
ミセリのように不幸な生まれというわけではない。
むしろ、恵まれていたと思う。山岳と海に挟まれた小さな田舎町で、
働き者の父とやさしい母の下にぼくは生まれた。
兄弟はいなかったけれど、さみしくはなかった。
人間の兄弟よりもっと大切で、仲の良い兄弟がいたから。
それが、しぃだった。
しぃは父が雇われている牧場で暮らすひつじの中の一匹で、
ぼくが生まれた年に生まれた、つまりは同い年の女の子だった。
しぃは父に懐いて離れたがらず、父も雇い主から
ずいぶん信用されていたようである程度自由にしぃの面倒をみることができたらしい。
だからぼくとしぃは一緒に駆け回ることもできたし、
時には朝まで同じ寝床にいることもできた。
ふわふわのしぃを抱いて眠るのは、とても心地よかった。
しぃは他のひつじにはない彼女だけの特技を持っていた。その特技とは、歌うこと。
声はもちろんめぇめぇというひつじの鳴き方ではあったけれども、
節も拍も取った鳴き声はでたらめなものではなく、きちんとしたメロディになっていた。
なにより歌っている時の彼女はとても楽しそうで、幸せそうだった。
326
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:34:33 ID:vG2lH35Y0
「ただね、しぃが歌うにはひとつ条件があったんだ」
彼女は一人では歌わなかった。
彼女が歌う時には必ず、父がそばにいた。
しぃは、父のハーモニカに合わせて歌っていた。
父のハーモニカはとても上手なものだった――と、思う。
少なくともぼくは父のハーモニカが好きだったし、
ハーモニカに合わせて歌うしぃのことももちろん好きだった。
それに、ちょっと悔しかった。
ぼくもその環に加わりたくて、父からよくハーモニカを借りた。
「ぜんぜんうまくいかなくて、よくふくれていたけどね」
けれど吹くこと自体をやめようとはしなかった。
やめたいと思ったこともなかった。ハーモニカの演奏は、楽しかった。
それに、しぃもいた。
度々つっかえたり全然違う音を出してしまうぼくの演奏にも、
しぃは一緒に歌ってくれた。むしろうまくいかないもどかしさで憤るぼくを、
自身の歌で教え、導いてくれているようだった。いや、導いてくれていた。
朝から晩までしぃと一緒にいた。時には寝るのも一緒だった。
いつも一緒で、いつでも歌っていた。ぼくらはいつも一緒だった。
ぼくらは兄弟だった。
327
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:35:03 ID:vG2lH35Y0
「幸せだった。ずっとこんな毎日が続くんだと思ってた」
父が海難事故に遭い、帰らぬ人となった。
父を雇っていた農場主と共に。
何か大きな商談があり、農場主は父にも同行を頼んだらしい。
父はその依頼を受け、現地へと移動する船に乗った。
三日もすれば目的地に到着するはずだったその船は嵐に見舞われ、
航海二日目の夜、海の藻屑となった。だから、遺体は見つからなかった。
父は海に沈んだ。
ぼくは父が好きだった。
明るくて。
冗談好きで。
ちょっといかめしい顔をしていたけれど。
実はかわいいものに目がない、
ハーモニカを吹く父が好きだった。
328
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:35:27 ID:vG2lH35Y0
父が船に乗る前夜、ぼくと父は約束をしていた。
父さんがいない間、母さんとしぃのことは頼んだぞ、と。
そういって父は、いつも身につけていたハーモニカをぼくに預けてくれた。
約束を、守らなければいけなかった。
しぃを、母を守る。父のように。
父のように、ぼくはなる。
それがぼくの使命だった。
母が豹変した。
.
329
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:35:52 ID:vG2lH35Y0
「あいつは初めから、私を愛してなんかいなかった!」
母は酒を呑んで、泣いて、近くにあるものを手当たり次第に壊すようになった。
瓶や、食器や、時には壁の一部を壊しながら、母は父を悪し様に罵った。
罵倒しない日はなかった。毎日、毎日、ぼくが好きだった父の特徴を、
ひとつずつ、丁寧に丁寧に母は否定していった。
父は母を愛していた。
でも、それは伝わっていなかった。
母は、父を憎んでいた。
そして、父の血を継ぐ、ぼくのことも。
手近に壊せるものがなくなると、母はぼくを叩くようになった。
ぼくは父譲りに頑丈だったから、壊れることはなかった。
けれど父譲りに頑丈だから、母の怒りは更に燃え上がった。
壊そうとして、壊せない。その度に母は、ぼくに向かってこう叫んだ。
お前なんか、生むんじゃなかった。
.
330
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:36:14 ID:vG2lH35Y0
ぼくにはしぃしかいなかった。
しぃは変わらなかった。
相変わらずふわふわで、ハーモニカが好きで、一緒に歌ってくれた。
しぃといる時だけは、昔と変わりのない時間が流れた。
変わったのは、環境だった。
父と共に帰らぬ人となった農場主には、一人息子がいた。
彼は父である農場主とは折り合いが悪く
いままで仕事を手伝ったこともなかったそうだが、父の死後はその権限を受け継ぎ、
新たな農場主となった。
彼は、農場のことなどどうでもよかった。欲しかったのは、その土地だけ。
彼は自身が興したい新たな事業のため、農場を急速に縮小させていった。
売れるものはなんでも売り払い、その価値すらないものは次々と処分していった。
それは物だけでなく、命ある動物たちも同様だった。
そして、しぃの屠殺が決まった。
.
331
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:36:38 ID:vG2lH35Y0
農場の中は知り尽くしていた。
どこに何があって、どの動物がどこで暮らしているのか、全部知っていた。
しぃを助けなければならなかった。しぃがいなくなるなど、認められなかった。
父との約束を守らなければならなかった。なによりしぃは、兄弟だった。
しぃは狭い檻の中で、他の動物達と一緒に閉じ込められていた。
ぼくが来るとしぃはすぐに気がついて、柵越しに鼻をくっつけてきた。
しぃの感触、温かみ。それを感じると、とても安らかな気持ちになる。
けれどいまは、感慨に耽っている場合ではない。
檻には鍵がついていた。針金を使ってなんとかこじ開けようとする。
しぃが見守ってくれていた。しぃ以外の動物たちが、狂ったように鳴き喚いていた。
針金を左右に回す。鍵は開かなかった。上下に引っ掛ける。鍵は開かなかった。
折り曲げて、めちゃくちゃに動かす。鍵は開かなかった。
どうしても、鍵は開かなかった。
人の気配を感じた。針金を鍵から取り出し、慌てて物陰に隠れる。
現れたのは、新しい牧場主と、ぼくとも顔見知りの
昔から働いている従業員のおじさんだった。新しい牧場主の生気に満ちた顔とは違い、
おじさんはとても疲れた顔をしていた。疲れた顔をしたおじさんが、
檻に手をかけた。鍵が解かれた。
332
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:37:04 ID:vG2lH35Y0
その時ぼくは、残酷なことを願っていた。
どうか別の子にしてください。
牛でも豚でも、なんでもいいから。
これから一生、お肉も牛乳も食べられなくなったって構わないから。
だから、お願いです。
お願いだから。
しぃを連れて行かないで。
ぼくからしぃを、奪わないで。
ぼくの兄弟を、殺さないで。
願いは叶わなかった。
檻から出されたのは、しぃだった。
333
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:37:35 ID:vG2lH35Y0
すぐに飛び出せば、しぃを助けられたかもしれない。
理由を話せば、おじさんが手を打ってくれたかもしれない。
売れ残ったフォークを持って、牧場主をやっつけてしまえばよかったのかもしれない。
他にもいろいろなことが思い浮かんで、
そのうちのどれとも決めないまま、ぼくは飛び出そうとした。
しぃを助けようとした。それは、本当だった。
でも、実際には、ぼくは物陰でただ隠れていただけだった。
母の声が、聞こえた気がしたから。
母が父を、父によく似たぼくを罵倒する声が、すぐそばで爆発した気がしたから。
お前なんか生むんじゃなかったと、言われたから。
ぼくは、怖くなった。怖くて、動けなくなった。
物陰に隠れて、じっと、連れて行かれるしぃの背中を見続けていた。
しぃが、振り返った。
目が、合った。
しぃの口が、わずかに開いた。
しぃが、鳴いた。
.
334
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:37:57 ID:vG2lH35Y0
気づくと、浜辺にいた。
海を向いて、立っていた。
ぼくの身体から、何かが飛んでいった。
ひつじの毛だった。
ひつじの毛がふわふわと空を飛び、
やがて、海に落ちた。
水を吸って、沈んでいった。
あぶくを上げて、沈んでいった。
あぶくになって、沈んでいった。
泡になって、沈んでいった。
しぃは、泡になった。
.
335
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:38:27 ID:vG2lH35Y0
「しぃはもう、考えない」
だからぼくも、考えない。
「しぃはもう、笑わない」
だからぼくも、笑わない。
「しぃはもう、歌わない」
だからぼくも、歌わない。
「しぃはもう……生きてない」
だから、ぼくも――
336
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:38:52 ID:vG2lH35Y0
「だからあなたは、ギコ<ひつじの名>を名乗った」
ミセリが、ぼくの言葉を引き継いだ。
「彼女と同じ、泡になるため」
ぼくは立ち上がっていた。
樹木にもたれた彼女から離れて。
「ぼくは、きみとは違う」
罪人を騙る彼女。
でも、彼女に罪なんてない。彼女は被害者だ。ぼくは違う。
「ぼくは助けられるはずのしぃを見殺しにした。
最愛の、誰より、何より大切だったはずの兄弟を。
……ぼくは罪人だ。だからぼくは、何も望んでなんかいない。
望んで泡になるんじゃない。望まない死で、罰せられなければいけない。
だから、ぼくは――」
「生きて、ハーモニカを吹きたいんだね」
337
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:39:28 ID:vG2lH35Y0
彼女の言葉に、時が止まった。
「なによりの望みを奪われること。
それが最大の罰だと、あなたは知っていたから」
幸せだった、あの頃。
「しぃは、めぇって鳴いたんだ……」
父がいて、母がいて、しぃがいた、あの時。
「助けてって、鳴いたんだ……」
一緒に歌った、あの時間。
「なのにぼくは、助けなかった……」
それを壊したのは、だれだ。
「ぼくはしぃを、見殺しにしたんだ……」
それを壊したのは、お前だ。
「そんな、そんなぼくが、ぼくみたいなやつが……」
悪いのは、全部、お前だ。
338
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:39:55 ID:vG2lH35Y0
「安らぎとか、幸せとか、愛情なんかを求めるわけにはいかない。求めちゃいけない。
ぼくには資格がない。そんなものを受け取る資格なんか、ぼくにはない。
認められちゃいけない、褒められちゃいけない、愛されちゃいけない。
苦しんで、苦しんで、苦しんで泡にならなきゃいけない!
泡になって、ぼくは、消えなきゃ、だれからも忘れられなきゃいけないんだ!」
声が、震えた。
「じゃなきゃ、しぃが報われない……」
.
339
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:40:26 ID:vG2lH35Y0
涙が溢れてきていた。ふざけるな。
お前には、泣く資格だってない。思ったり、感じたり、
考えたりする権利なんか、お前にはない。そうだろうが、この、兄弟殺し。
道は示された。やはりぼくは、小旦那様の後ろを歩く。
小旦那様は、ぼくの思った通りの人だった。ぼくが願った通りの人になった。
ぼくは、小旦那様のひつじ。
そして小旦那様が、ぼくの、屠殺人。
340
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:40:57 ID:vG2lH35Y0
「ねえギコ、どうしてあたし、死ななかったと思う?」
目尻を拭う。ミセリを見る。
ミセリが言っているのはきっと、自分の過去についての話だろう。
姉に棄てられたと思い、樹海へと入った、あの時の。
自分はいらない子。
そう思ったミセリは、一度は本気で死のうとした。
「……死ぬのが怖かった?」
「もちろん、死ぬのは怖かった。考えるだけでも。
でもね、怖いだけなら、あたしは死ねた」
ミセリが脚を抱き寄せた。
本来の姿を取り戻した、その脚としての機能を失った脚を。
「あたしが死ななかったのはね、
それがおねえちゃんとの時間を否定することになるって、そう思ったから」
341
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:41:24 ID:vG2lH35Y0
彼女の言葉に、鼓動が早まった。
「あたしがあたしを殺すことは、
おねえちゃんがあたしにくれたものを忘れてしまうのと同じだって、思ったから」
これ以上聞いてはいけない予感がした。
「よく聞いて、ギコ」
耳を塞ごうとした。
「ううん。ギコじゃない、あなた」
走って逃げようとした。
「しぃはほんとに、『助けて』って言ったのかな。
『死にたくない』って叫んだのかな」
叫んでかき消そうとした。
「あたしには違う気がするんだ。
しぃは、しぃはさ、本当は――」
母の声を反芻させようとした。
「あなたに――」
――ぼくは、何もしなかった。
342
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:42:15 ID:vG2lH35Y0
『吹いて』って、伝えたかったんじゃないかな――
.
343
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:42:56 ID:vG2lH35Y0
しぃは、いつも一緒にいてくれた。
「あたしはしぃを知らない」
一緒に眠って。
「だから間違ってるかもしれない」
一緒に歌って。
「でもね」
悲しい時も。
「あなたのしぃは、あなたの苦しみを喜ぶような子だった?」
嬉しい時も。
「あなたのしぃは、あなたの幸せを望んでいなかった?」
しぃは、ぼくのそばで。
「あなたのしぃは、あなたをどう思ってくれていた?」
ぼくを、ぼくを――
愛してくれていた。
344
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:43:21 ID:vG2lH35Y0
否定しようとした。なにもかも間違っていると。
ミセリの言葉は憶測に過ぎなくて、ぼくは裁かれなければならない
罪人なのだと反論しようとした。けれど、できなかった。言葉が出なかった。
出てくるのは、嗚咽だけだった。ぼくは、泣いていた。
涙が溢れて、止まらなかった。前が見えなかった。
頭を抱えられた。抱き寄せられた。温かい感触が伝わってきた。
その暖かさに、もう、我慢できなくなった。ぼくは、泣いた。
ミセリの胸を借りて、泣いた。声を上げて、泣き続けた――。
.
345
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:44:01 ID:vG2lH35Y0
「どうするか、決められた?」
「……まだ、よくわからない」
泣き止むまで貸してくれていたミセリの胸から離れ、彼女の瞳を見つめる。
光の失せた薄濁りの瞳。なにより澄んだ、その瞳。
「でも、あのハーモニカはぼくのだから。だから、ぼくは、行くよ」
「うん」
立ち上がる。それだけのことで、ぼくにもはっきり、理解できた。
どうしてこんなことにも気が付かなかったのだろう。
胸に、手を当てる。
ハーモニカをかけない首は、ぼくにはちょっと、軽すぎる。
346
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:44:22 ID:vG2lH35Y0
「ギコじゃない誰かさん」
ミセリが、ぼくを見上げていた。
「あたしにも、いつか教えてくれる?」
少し悲しそうな、幼い微笑みで。
「あなたの名前」
ぼくはこの時初めて、“ミセリ”を見た気がした。
“ハイン”ではない、“ミセリ”を。
「必ず」
教会に向かって走る。
心がしぼんでしまわないように。
いまのこの気持ちを、二度と忘れないように。
ぼくがぼくになるために、走る。
しぃと共に、走る――。
.
347
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:44:59 ID:vG2lH35Y0
彼は行った。あたしを置いて。
こうなることを望んでいたとはいえ、それでもやはり、さみしかった。
走れる彼が、羨ましかった。
「ナベ、いるんでしょ?」
森の一部が、ゆらいだ。ゆらいだ辺りに、視線を向ける。
あたしはそのまま、視線を外さなかった。しばらくの間、
そうして止まっていた。木々が、割れた。そこから人影が現れた。
ぼやけた視界の中では、それが誰なのか判別できない。
けれど、気配でわかる。そこにいたのはやはり、ナベだった。
「……いいの?」
なんのこと?
と、あたしは知らないふりをして返す。
「だって、あなただって、ほんとは……」
わかってる。あなたの言うとおりだって、あたし自身にも。
あたしだって、もどれるものならもどりたい。帰れるものなら帰りたい。
あの頃に。おねえちゃんがいた、あの時に。彼のように。だけど――。
「あたしはもう、踊れないから」
348
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:45:30 ID:vG2lH35Y0
あたしの脚は、治らない。
歩くくらいのことはできても、走ったり、踊ったりすることはできない。
姉から授かったものを、あたしはもう、取りこぼしてしまった。
二度とは拾えぬ、その思い出を。
「ごめん……」
視界の中のナベが、わずかに震えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
謝る声が、かすれていた。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す彼女の声は
、間延びなんてぜんぜんしていなくて、ふつうの、
なんてことのないふつうの女の子の声をしていた。
ナベも、自分を偽って生きてきた。
偽らなければ生きていけない、切実な事情があった。
彼女自身にはどうすることもできない、生まれというものにつきまとう事情が。
そのことを、あたしは知っている。知った上で責め立てるなんてこと、
あたしには、とてもできない。
349
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:45:54 ID:vG2lH35Y0
「ナベ、あたしの手を取ってくれる?」
ぼやけたナベの虚像が、ぶんぶんと首を振る。
あたしにはその資格はない。あなたに触れる資格なんて。
そう言っているかのように。
「あたしね、とても大事なことを思い出したんだ」
ナベの首振りが、止まった。
「あたしをここへ連れてきてくれたのは、ナベ、あなただったんだね」
鎖を外してくれたのも。店から逃してくれたのも。
何度も倒れかけたあたしを、支えてくれたのも。
「あなたがあたしにかけてくれた言葉を、
あたし、覚えてる。思い出した」
伸ばした手を、あたしはけして降ろさない。
彼女があたしを、見捨てなかった時のように。
「『あなたが一人で踊れないなら、わたしも一緒に踊るから』」
あたしを、救ってくれた時のように。
350
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:46:15 ID:vG2lH35Y0
「ナベ、あたしね。いま、とても踊りたいんだ」
ぼやけたナベの虚像が、ためらいがちに近寄ってきた。
一人では立つことすらまともにできない、あたしの前へ。
あたしは彼女をつかむように、さらに遠くへ、ぼやけて消えてしまいそうな彼方の世界へ、
腕を、まだあたしのものであるその腕を、伸ばして、伸ばして、伸ばした。
「だから、お願い」
彼女の手が、あたしの手と、触れた。
初めて姉に踊りを教わった日のことを思い出した。
姉を真似て踊ってはみたものの、まるでうまくいかなかったあの日の思い出。
いまのあたしは、あの時よりもまともに踊れているだろうか。
それとも、もっと下手くそになってしまっただろうか。
どっちでも構わなかった。楽しかったから。踊ることは、楽しかった。
たぶん、きっと。姉があたしに教えてくれたのは、単純に、そういうことだったんだと思う。
彼が彼の父や、ひつじのしぃからそれを教わったのと同じように。
351
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:46:43 ID:vG2lH35Y0
風が吹いた。風など吹くはずのない、この場所で。
森が揺れて、空を、何かが通った。ぼやけた視界には、
それが何かはわからなかった。でも、あたしにはそれが、鳥のように見えた。
大きな白い鳥が、空を横切っていったように見えた。
良いものなのか悪いものなのか、それもわからなかった。
ただあたしは、きれいだなと、思った。
ぎゅっと抱きしめたナベの感触に安心しながら、
ただただきれいだなと、そう、思った――。
.
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