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鬼和尚の経典解説まとめ

1避難民のマジレスさん:2024/06/10(月) 12:44:03 ID:v59RPKQA0
・鬼和尚の経典などの解説をまとめるスレです
・『金剛般若経』の解説はこちらにあります↓
"金剛般若経を読んで実践する"
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1701949889/99-133

2避難民のマジレスさん:2024/06/10(月) 12:46:06 ID:v59RPKQA0
<法華経解説>

https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1629215086/
より以下抜粋

303鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/23(火) 23:45:17.54ID:xVLy3Ngq

法華経とは妙法蓮華経の略なのじゃ。
 最初に書かなければならないのは、法華経はお釈迦様の説いたものではないということなのじゃ。
 それはもはや完全にわかっているのじゃ。
 お釈迦様が涅槃に入ってから何百年もたってから書かれたものなのじゃ。
 
 それ故に欠陥もある経なのじゃ。
 その欠陥は法華経だけのものではなく、大乗と自称する全ての経や論にもあるものじゃ。
 一例をあげれば女性が成仏できないとか、カーストの肯定とかなのじゃ。
 お釈迦様が否定した生まれによる差別を、認めているのじゃ。

 それ故に法華経も他の大乗経典も実は真の仏教の経典とはいい難いものじゃ。
 法華経はその大乗経典の最高経典である故に、大乗の矛盾や外道の論も総て取り入れられているのじゃ。

 そうであるから全く実践には使えないのではないかと言えば、そうでもないのじゃ。
 法華経にはさまざまな法も説かれているのじゃ。
 実践すれば役に立つ、興味深い法もまた説かれているのじゃ。

 例えばふぐの調理人が毒のある肝を注意深く取り除いて上手い料理に仕上げるように、この経典もまたおかしなところを取り除いて注意深く取り扱えば善い法も知れるのじゃ。
 それは法が心性に合う者には実に役に立つ恩寵となるじゃろう。
 よく研鑽して学び、実践するとよいのじゃ。

3避難民のマジレスさん:2024/06/11(火) 10:52:12 ID:J2M/fDac0
319鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/25(木) 00:02:25.70ID:bzAqND7q

 法華経が大乗にとって重要な経典であるゆえんは、大乗の存在理由そのものが書いてあるからなのじゃ。
 法華経に拠って大乗とはなにものであるのか、明らかにされるのじゃ。
 そうであるから大乗にとって法華経は最も大事な経典なのじゃ。
 
 更にいえば大乗を全体として知るには先ず法華経をよむのがよいのじゃ。
 それから他の大乗経典をよむべきなのじゃ。
 そうすれば全体を把握した上で理解もできるのじゃ。
 
 では法華経と三部経の概要を示すのじゃ。
 法華経は通常法華三部経として流布しているのじゃ。
 無量義経と仏説観普賢菩薩行法経なのじゃ。

 無量義経は空と言う単語は使われていないが、空の法をといたものなのじゃ。
 金剛経と同じ法も示しているのじゃ。

 仏説観普賢菩薩行法経は普賢菩薩の観想と懺悔の法を示しているのじゃ。
 密教といまよばれている法と近いものじゃ。
 
 さまざまな法を説いている法華経の性質をよくあらわしていると言えるのじゃ。

4避難民のマジレスさん:2024/06/12(水) 11:12:26 ID:6xiccWTM0
322鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/25(木) 23:37:37.40ID:bzAqND7q

 いよいよ法華経に入るのじゃ。
 最初の序章でお釈迦様は前述の無量義経を説き終わって、サマーディにはいったというのじゃ。
 周りは菩薩や阿羅漢や天人や弟子達が囲んでいたというのじゃ。
 すると地震が起きて、お釈迦様の眉間からいきなり光が放たれたというのじゃ。
 その光は東の世界を照らして、そこにある仏国土を照らしたというのじゃ。

 その光に拠って遠くの仏国土は周りのみんなによく見えたというのじゃ。
 その場に居た弥勒菩薩は不思議に思って文殊菩薩に聞いたのじゃ。
 すると文殊菩薩はみんなにこれは自分の昔の経験からみて、お釈迦様が法華経をとく前兆であるといったのじゃ。
 次につづくのじゃ。
 
 二章にはいるとお釈迦様はサマーディから立ち上がり、仏陀の智慧はすごいとか自慢したりするのじゃ。
 菩薩も知恵者も何人束になってもかなわんとかいうのじゃ。
 そんなわしがもっている法門もすごいからみんなにはわからんじゃろうとかいうのじゃ。
 しかし勧請されて舎利仏を相手に法華経を説き始めるのじゃ。

 それによれば今まで大乗経典で説いてきた声聞乗、辟支仏乗、大乗は実は方便であり、ただ一乗の大乗だけがあるというのじゃ。
 ここまでが法華経の最も大事なところなのじゃ。
 後は付け足しなのじゃ。

5避難民のマジレスさん:2024/06/13(木) 13:26:28 ID:gf1zVb5U0
330鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/26(金) 21:36:26.41ID:rYiKB8wl

三章ではお釈迦様が舎利仏に授記をするのじゃ。
 それは如来になるという予言なのじゃ。
 それを受けて舎利仏は喜び、火宅の比喩を語るのじゃ。
 
 火のついた富豪の家から子供達を助けるために、富豪がいろいろな乗り物で子供達を誘うというのじゃ。
 そして火宅から逃れてきた子供達に、実際には一番上等の乗り物を与えるというのじゃ。
 それが大乗の喩えであると言うのじゃ。
 
 ここまででいろいろなことがわかるのじゃ。
 先ず大乗とはただの法だけでなく、世界観から創作されているということなのじゃ。
 大乗の世界観から理解しなくては、ここまででも全くわけがわからないじゃろう。

 大乗の世界では如来というものが最も重要なキャラクターなのじゃ。
 如来とはただ悟っただけでなく、さまざまな誓願により、大きな力を持つ仏陀なのじゃ。

 誓願とは修業する時に、自分はこのような力のある仏になるまで悟りを得ないとか誓うことなのじゃ。
 すると悟った時にはその力を得るのじゃ。

 例えば阿弥陀如来はいろいろ誓願をしたが、その中に自分の名前をよんで帰依した者達を自分の国土に招待すると誓ったのじゃ。
 そのために浄土教のように、多くのものが南無阿弥陀仏と名号を唱えて浄土にいけると信じるようになったのじゃ。

 それが如来の誓願による力なのじゃ。

6避難民のマジレスさん:2024/06/14(金) 11:44:30 ID:d8bAAeKA0
331鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/26(金) 21:36:47.05ID:rYiKB8wl

 そして如来は仏の国土をもつというのじゃ。
 阿弥陀如来の極楽浄土が一番有名なのじゃ。
 お釈迦様も清浄な仏国土をもっているが、凡人にはみえないのじゃ。
 その仏国土も誓願により、善い所に作れるというのじゃ。

 そのようにただ悟っただけの阿羅漢と、さまざまな力と仏国土を持つ如来は違うものだというのが、今までの大乗の世界観であったのじゃ。
 そして如来に成れるのは菩薩だけであり、阿羅漢はなれないというのが今までの大乗の設定だったのじゃ。
 
 菩薩ではない阿羅漢は声聞乗と辟支仏乗の小乗のものとして大乗経典では扱われていたのじゃ。
 菩薩乗のものが大乗であり、如来になれるものだというのじゃ。
 
 しかし、その大乗の設定がこの法華経に拠って覆ったのじゃ。
 実は全部大乗だというのじゃ。
 火宅から子供を誘い出すために、嘘をついた富豪のように、実は阿羅漢のものも如来になれるというのじゃ。

7避難民のマジレスさん:2024/06/15(土) 12:47:43 ID:xTFn.B2A0
345鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/27(土) 23:42:43.30ID:Gblw97Oj

 如来と、阿羅漢としてただ悟っただけの者とはどのように違うのかと疑問がわくじゃろう。
 如来は一つの国に一人だけ表れ、その国の全ての衆生を教化する絶対的な存在であるのじゃ。
 悟った者は国に何人も居て、人に教えないものもいると従来の大乗では説くのじゃ。
 
 如来は大乗仏教のスーパースターなのじゃ。
 他の宗教の神にも等しいほとんど全知全能にも等しい存在なのじゃ。
 法華経では更に神格化が進んで行くのじゃ。
 
 大乗は創作されたものであるが、このように如来が多くの衆生を教化するという思想は見習うべきなのじゃ。
 悟った者は自分はもはや安楽で、観念も無いから他人に教えることは無意味と知るのじゃ。
 それで教化にも不熱心だったりするのじゃ。
 お釈迦様でさえ、最初は衆生に教えるより速やかに涅槃にいこうとしたからのう。
 大乗で修業したはずの後の禅僧でさえ、悟った後に何も教えず終えたものも居ると言うのじゃ。

 大乗がこのように如来という存在を前面に出して、一切衆生を教化すべきであるというのは善い事なのじゃ。
 それで仏教も広まるのじゃ。
 例えば貧乏寺で毎日乞食行をしなければ食えないような多くの僧も、いつかはわしも如来になれるという希望で修業と教化を続けたじゃろう。
 それが大乗の存在理由であり、法華経の意義であると言えるのじゃ。

8避難民のマジレスさん:2024/06/16(日) 11:56:32 ID:ewn5BFxM0
354鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/28(日) 23:42:51.60ID:czxftx85

 三章までの本旨が終わったら、もはや付けたしなのじゃ。
 四章では須菩提長老たちが、旅に出ていた金持ちの子供が帰宅した比喩を語るのじゃ。
 阿羅漢の自分たちも如来になれるとはありがたやと感涙するのじゃ。
 
 五章ではお釈迦様が薬草の比喩を語って、一つの教えも受ける側の性質で異なるとかいうのじゃ。
 それで一乗も三乗で説いたというのじゃ。

 そして六章では阿羅漢の長老たちがいずれは如来になれると授記をするのじゃ。
 七章でお釈迦様は大昔は大通智如来の弟子であったと説いて、化城の比喩を告げるのじゃ。
 旅をする商人たちが疲れたら、仮説の城を作って休ませるというのじゃ。
 疲れが取れたらまた目的地にまで旅をするのじゃ。
 そのように阿羅漢も旅の途中の仮設された城のようなものというのじゃ。
 更に如来の境地を目指すべきだというのじゃ。

 八章から十章まで五百羅漢や、まだ修行中の者達までいずれは如来になれると授記をするのじゃ。
 もはや授記の大安売りなのじゃ。

9避難民のマジレスさん:2024/06/17(月) 08:43:24 ID:ouTASc2s0
356鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/29(月) 23:28:15.93ID:iX+2BEhg

 11章では多宝塔というものが出現するのじゃ。
 それには多宝如来が入っていたのじゃ。
 お釈迦様が法華経をといたことを賞賛したのじゃ。

 多宝如来とは大昔の如来なのじゃ。
 将来、どこかの如来が法華経を説いたら、それを賞賛するために出現すると誓ったのじゃ。
 そうであるからお釈迦様が法華経を説いたら出現したのじゃ。
 
 それは後に如来の寿命が無限に近いことを示すための伏線なのじゃ。
 
 12章ではダイバダッタでさえ将来は如来になると、授記されるのじゃ。
 更に龍王の娘も男になって授記されるのじゃ。
 女子のままでは如来になれないからというのじゃ。
 そこに大乗の差別体質が現われているのじゃ。

10避難民のマジレスさん:2024/06/18(火) 12:33:16 ID:/YPbD9fQ0
358鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/30(火) 23:44:29.74ID:MjW2deVS

 13章では法華経を護持することの勧めが書かれているのじゃ。
 そして14章では法華経を護持するためにはどのようにするのか示されるのじゃ。
 ここで犯罪者とセンダラに近づいてはいかんとかいうのじゃ。

 センダラとは漁師とかの階級なのじゃ。
 カーストなのじゃ。
 法華経にはカーストの差別が残っているのじゃ。

 それは大乗にヒンドゥー教の影響が有るからなのじゃ。
 お釈迦様の教えではないから、そのような差別も残っているのじゃ。

 お釈迦様はカーストを否定したのであるから差別はないのじゃ。
 比丘尼にも修業をさせて悟った者もいるから女子も悟れるのじゃ。

 大乗といいながら、実は女子とかカーストへの差別が残っているのが法華経なのじゃ。
 実際には大いなる乗ものではないのじゃ。
 むしろ差別をする大乗が賎しい乗り物なのじゃ。
 そのような害毒を捨て去って大乗も理解すると善いのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2024/06/19(水) 13:03:30 ID:gqACcHwQ0
361鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/01(水) 23:37:35.25ID:tTW70SAj

 15章ではいきなり地面が割れて多数の菩薩があらわれるのじゃ。
 それらは全てお釈迦様の弟子だというのじゃ。
 地湧の菩薩というのじゃ。

 それを見て弥勒は疑問に思うのじゃ。
 お釈迦様はいつこんなに多くの菩薩を教化したのかと。
 16章ではそれにお釈迦様が答えて、実はわしはもっと長く生きているのじゃというのじゃ。
 
 衆生に実践させるために涅槃を仮に現しているだけで、寿命は無限に近くあるのだというのじゃ。
 無量の寿命があるというのじゃ。
 如来の神格化なのじゃ。

12避難民のマジレスさん:2024/06/20(木) 13:09:05 ID:6l8cgHy20
367鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/02(木) 21:55:32.26ID:5/orZ4S1

17章から19章にかけて、お釈迦様の無量の寿命と、法華経を護持することの功徳が語られるのじゃ。
法華経を護持するだけでもものすごい功徳があるというのじゃ。
修業しないでも神通力を得たりするとまで言うのじゃ。

それも宣伝のために記してあるだけなのじゃ。
実際はそのようなことはないのじゃ。
ただの宣伝文句なのじゃ。

 この宣伝のために多くの者が騙されたのじゃ。
 日蓮もこれに騙されて法華経に帰依する題目を唱えれば成仏できるとか、衆生に教えてしまったのじゃ。
 実際にはそれだけで仏になれる筈も無いのじゃ。

 信じたぶんだけ病が治ったりするだけなのじゃ。
 いわしの頭を信じたものと同じ程度の信仰の力なのじゃ。

13避難民のマジレスさん:2024/06/21(金) 12:22:42 ID:Y/V2l3pY0
378鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/03(金) 23:22:56.00ID:hVdd5B9G

20章ではお釈迦様の前世として常不軽菩薩がでてくるのじゃ。
会う人みんなをいずれ仏になるとかいうのじゃ。
全ての者に仏になる性質、仏性があることを示しているのじゃ。

21章ではお釈迦様が神通力をみせるのじゃ。
叫んだり、ゆびぱっちんをすると三千世界に響いたというのじゃ。 
それもまた神格化なのじゃ。

22章ではこの経をみんなに依属するというのじゃ。
みんなで広めるのじゃと、たくすのじゃ。
それから後は密教的展開になるのじゃ。

14避難民のマジレスさん:2024/06/22(土) 13:30:46 ID:.S2lonHs0
390鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/05(日) 00:05:53.85ID:vK3Ur6hS

23章からは菩薩や天人たちが法華経を護持する者を保護するというのじゃ。
空海が法華経を推したのもこの後半の密教的な展開があるからなのじゃ。
法華経を護持していれば菩薩や多くの天人たちをよべるのであるから、密教そのものなのじゃ。

23章では薬王菩薩が保護するというのじゃ。
24章では妙音菩薩が保護するのじゃ。
25章では観世音菩薩が保護するのじゃ。
この章だけをとりあげて観音経といったりするのじゃ。

26章では菩薩や天人、夜叉等の妖怪までもが陀羅尼を唱えればすぐに来て保護するというのじゃ。
これが正に密教の真言と同じなのじゃ。
法華経は実践の法が少ないというが、このような真言の法は実践の法としてあるといえるのじゃ。

27章では妙荘厳王菩薩の因縁が語られるのじゃ。
28章では普賢菩薩の陀羅尼と保護が語られて修了なのじゃ。

全体を俯瞰してみれば法華経は大乗の始末をしたといえるのじゃ。
大乗とは実は方便に過ぎないものであると語られ、一仏乗のみ真実というのじゃ。
如来になる乗り物なのじゃ。

そうであるからには本来、大乗ではなく、仏乗とを説くべきであるのに、未だに大乗と名乗る者が多いのじゃ。
実に実学相違なのじゃ。

仏乗では般若の空の法とか、陀羅尼による集中の法などが使える法なのじゃ。
誓願をして衆生を多く教化すべきであるとするのも善法なのじゃ。
後は捨てて善いのじゃ。
そのように択法して実践すると善いのじゃ。

15避難民のマジレスさん:2024/06/23(日) 11:59:04 ID:SEe0v4a60
<解説・大乗起信論>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/
より抜粋

928:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/18(金) 21:55:22 ID:1d4drIFg0

大乗起信論とはインドの馬鳴が書いたというが、実際はあやしいのじゃ。
 もっと後の行者の著作であると言うのじゃ。
 あるいは中国で書かれたとさえいうのじゃ。

 誰が書いたものでもよいのじゃ。
 仏教徒にとって意義のある文なのじゃ。

 論とはいうが実際には大乗仏教の概要のようなものじゃ。
 今で言うガイドブックなのじゃ。
 簡略に大乗仏教の全容が記されているのじゃ。

 最初の章は因縁分、この論を何故書いたのかという動機なのじゃ。
 二立義分、大乗の二つの大事な教えなのじゃ。
 三は解釋(げしゃく) 分、前章の解釈なのじゃ。
 四は修行信心分 大乗の実践法なのじゃ。
 五は歡修利益分、大乗を信仰して実践した利益の教えなのじゃ。

16避難民のマジレスさん:2024/06/24(月) 12:22:58 ID:RzbjLcq20
932:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/19(土) 23:48:22 ID:1d4drIFg0

 因縁分には論を表す八つの動機が書かれているのじゃ。
 
 一 衆生を一切の苦から離れさせて、究竟樂、つまりは悟りを得させるためというのじゃ。

 二 如来の教えの根本の意味を解き明かし、衆生に正しく教えるためというのじゃ。

 三 善根があり、教えを受ける心根の成熟した者に大乗の道から不退転にするためというのじゃ。
 
 四 善根がまだ小さい者には信心を習わせるためというのじゃ。

 五 方便を示して、罪悪業を消して、心を守り、愚かさや傲慢を離れさせるためというのじゃ。

 六 止観を習わせ、凡夫や二乗をなくすためというのじゃ。

 七 念仏を示して、仏の前に生まれさせて不退転にすためというのじゃ。

 八 実践の利益を示して、修業を勧めるためというのじゃ。

 なかなか立派な動機であるが、実際には止


(ここで切れていた文章の補足↓)

292:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/04/04(木) 23:13:12 ID:Z.v0H0mA0

>>289 そうじゃったか。
 実際には止観の観察はすでにわからなくなっていたようじゃ。
 もはや苦を滅することもできなかったのじゃ。
 苦を滅する法は観察によるものであるからのう。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1707228061/292より)

17避難民のマジレスさん:2024/06/25(火) 11:51:48 ID:uwdfyntA0
945:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/21(月) 22:45:11 ID:1d4drIFg0

 昔の論文には読む者の疑問を想定して、問答が書かれていたりするのじゃ。
 今で言うQ&Aじゃな。

 質問者は、仏教の法は経典に書かれているのに、なぜ今又このような論を表すのか聞いたのじゃ。
 
 著者は答えてお釈迦様が居た時は修業者も賢い者達ばかりであり、説法する方も心身が優れていて、
 説法も優れてみんな理解できたというのじゃ。
 そうであるから論も表さなくてよかったのじゃ。

 今の者は自力で広く聞いて解るも者もあり、少し聞いただけで解るものもあり、
 或いは自力ではわからないが、多くの者達が論争してわかるものがあり、
 或いは覚えていることは少ないが、意味を考えて解るものもいるのじゃ。

 このように、如来の法の広大な意味を集めて理解する者もいるから論を説くというのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2024/06/26(水) 10:47:45 ID:UjW1dXDc0
948:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:42:14 ID:1d4drIFg0

大乗には二つの説法の方法があると言うのじゃ。

 一つは法であり、
 二つは義なのじゃ。

 その法とは衆生の心だというのじゃ。
 全ての法は世間の法も仏教の法も、心で行われるからなのじゃ。
 その心で大乗もまた実践されるのじゃ。

 なぜならばその衆生の心には最初から真如が宿っているからというのじゃ。
 それこそが大乗の本体を示すものなのじゃ。

 その心の生滅因縁の相は、大乗の自体と相用を示すというのじゃ。

 
 二つ目の義には三種あるというのじゃ。

 一つ目は体大、一切法は真如平等にして増減しないからというのじゃ。
 二つ目は相大、如来蔵は無量の功徳をもっているからというのじゃ。
 三つ目は用の大、世間と修業においてよい因果を生ずるからというのじゃ。

 このように大乗の法は諸仏の本来の乗り物であるから、諸仏は皆大乗で如来になったというのじゃ。

19避難民のマジレスさん:2024/06/27(木) 10:41:07 ID:GMus6Hts0
949:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:42:59 ID:1d4drIFg0

真如とは涅槃であり、仏性であり、オショーのワンネスでもあり、わしがいう不死の意識でもあるものじゃ。
 それは本来衆生の心の中にあるものじゃ。
 それを説き明かすのが大乗の法の本体だというのじゃ。

 仏になれる性質や、目覚めて至る如来の境地とは、本来悟っていない衆生の心の中にあるものじゃ。
 目覚めるとか、仏陀になるということは何か人間ではない別の者になるということではなく、むしろ本来の人間のありように還って行くこととも言えるのじゃ。
 そうであるから自分は仏陀になれないのではないかとか、思う必要は無いのじゃ。
 衆生は本来仏陀なのじゃ。

 このようなことは確かに今までの仏教では説いて来なかったことなのじゃ。
 お釈迦様も毒矢の例えで説いた通り、仏教には論はなく、ただ実践によって知ればよいという説き方だったのじゃ。
 それでは理解できず実践も出来ないもののために大乗は真如を説いたと言えるのじゃ。

 それこそが大乗の本体であり、真髄といえるのじゃ。
 そして大乗の存在意義も、衆生の心にこの真如があり、衆生本来仏であると説き明かすことにあると言えるのじゃ。

 そうであるからこれからもこの真如はこの論文の至る所に出てくるのじゃ。
 宝珠の例えとか、海と波の例えとか、いろいろに例えても説いているのじゃ。
 それを知れば大乗起信論を読む意義もあったと言えるのじゃ。

20避難民のマジレスさん:2024/06/28(金) 12:21:24 ID:jrsIXXHY0
<解説・浄土三部経>

http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639295737/
より抜粋


782 :鬼和尚 :2021/12/17(金) 21:56:52.44 ID:GBRRuT82.net

  今回は浄土三部経について話すのじゃ。
 浄土三部経とは「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つの大乗経典を指していうのじゃ。
 三つとも阿弥陀如来と、その仏国土である安楽国、いわゆる極楽浄土の話であるから同じ教えとしてまとめるのじゃ。

 この三つの経典が浄土宗や浄土真宗では根本経典として奉じられているのじゃ。
 お釈迦様が西方の阿弥陀如来について説いたというのじゃ。
 しかし、実際には後世に作られた偽典なのじゃ。

 お釈迦様はこの三部経を説いていないのじゃ。
 お釈迦様の縁起の観察はないのじゃ。
 大乗仏典には大抵載っている空の法さえも説かれていないのじゃ。
 ただひたすらに阿弥陀如来と浄土の話だけなのじゃ。

 そうであるから法として使えないということもないのじゃ。
 極楽浄土と阿弥陀如来を観想する法として実用性があると言えるのじゃ。
 それは集中の役に立つのじゃ。

 密教で行われる神仏の観想と同じなのじゃ。
 ただひたすらに阿弥陀如来と浄土をイメージすることで集中し、サマーディに入るための法なのじゃ。
 密教に近い法なのじゃ。

 実際に日本でも覚鑁が密教に組み入れたりしたのじゃ。
 チベット密教でも阿弥陀如来の極楽浄土を観想する法が在るのじゃ。
 密教的な法の教えといえるのじゃ。

 特に「観無量寿経」では実際に観想する手順も説かれているのじゃ。
 最初は夕日を観想して、ありありと見えるようになったら浄土を観想するようにと、詳しく説明されているのじゃ。
 無量寿経、阿弥陀経もそのための解説といえるのじゃ。
 
 この三部経によって日々実践に勤めるならば、サマーディも訪れるじゃろう。
 それがこの三部経の存在理由であり、正しい使い方といえるのじゃ。

21避難民のマジレスさん:2024/06/29(土) 16:41:28 ID:ghx06BfQ0
824 :鬼和尚 :2021/12/18(土) 23:27:17.97 ID:I3f/KtXi.net[2/3]

 浄土三部経の最初は阿弥陀経についてなのじゃ。
 この経典では阿弥陀如来の由来が語られているのじゃ。
 阿弥陀如来は前世では法蔵菩薩といい、大乗仏教の修業をしていたというのじゃ。

 その時に有名な四十八の誓願を立てたというのじゃ。
 それには自分が極楽といえる仏国土を持つ他に、その地に生まれる衆生にさまざまな恩典が受けられるようにという誓願が在るのじゃ。
 その中で特に後世に大きな影響を与えたのが、自分の称号を十回念じたら、この極楽浄土に生まれ変われるようにするというものなのじゃ。

 この誓願のためにどこに生まれた者でも、阿弥陀如来の称号を十回念じたら、極楽浄土に生まれかわれるという信仰が生まれたのじゃ。
 お釈迦様が説いた法では嘘をついたら地獄行きなのじゃ。
 よい所に生まれるためには嘘をつかず、ひたすら善事を積まなくてはいかんのじゃ。
 これでは俗世間ではなかなか厳しい条件といえるのじゃ。

 それに比べてこの阿弥陀経ではただ十回念じるだけで極楽にいけるというのじゃ。
 かなり条件が緩和されているのじゃ。
 それがために浄土信仰がチベットから中国、日本にまで広まったのじゃ。

 しかし、この誓願には条件があったのじゃ。
 五逆の者と正法を誹謗した者は除くというのじゃ。

22避難民のマジレスさん:2024/06/30(日) 13:06:24 ID:Aku.bSOo0
825 :鬼和尚 :2021/12/18(土) 23:27:54.84 ID:I3f/KtXi.net[3/3]

 五逆とは、一、父を殺す、二、母を殺す、三、阿羅漢を殺す、四、仏陀の体を傷つける、五、僧の和合を壊す、という五つの罪なのじゃ。
 正しい法を誹謗するのは、お釈迦様の伝えた法や、大乗仏教の法等、人を悟りに向かわせる法を非難することなのじゃ。

 この二つの条件以外の者は、阿弥陀如来の名を十回も念じれば極楽浄土に生まれるというのじゃ。
 この条件があるために浄土宗や、浄土真宗も古くから非難されているのじゃ。
 阿弥陀如来の念仏一筋に特化して、他の教えを捨てるならば、それこそ正法の誹謗に当たるからなのじゃ。

 このような教義上の理論は別にしても、実際の法の選択でも他の法を全て捨ててしまうのはいかんのじゃ。
 なぜならばお釈迦様の説いたように、人には性質の違いにより、法の向きと不向きがあるからなのじゃ。
 誰にでも向いている法というものはないとさえいえるのじゃ。
 この法が向いているのは、阿弥陀如来に本当に心身を捧げることができる者だけなのじゃ。
 それは実際には難しいことじゃろう。

 念仏観想の法が向かない者は、別の法を実践するべきなのじゃ。
 その道を塞いでしまう、念仏専一の理論はやはり間違っているといわなければならないのじゃ。

23避難民のマジレスさん:2024/07/01(月) 11:05:31 ID:klQqA4QQ0
974 :鬼和尚 :2021/12/19(日) 22:04:02.00 ID:Mo2srYHF.net[1/2]

>>827 まだなのじゃ。
 もう少し在るのじゃ。

>>839 おぬしは本をあまりよんでいないようじゃのう。
 古人の呼称は最終経歴に統一するのが一般的なのじゃ。
 例えば大佐で退役した軍人は、吉田大佐は高卒で軍に入隊したとかかかれるのじゃ。
 大佐も入隊時には二等兵かもしれんが、煩雑をさけるために統一するのじゃ。
 法蔵菩薩は菩薩で最終経歴であるから菩薩に統一するのじゃ。

 わしは「極楽といえる」と書いているのじゃ。
 極楽という国名とはかいていないのじゃ。
 それが一般的な呼称である故にわかりやすいように書くのじゃ。

 本当は安楽国でさえないのじゃ。
 安楽国でさえも翻訳の一つに過ぎないのじゃ。
 
 それは概要であるから四十八全てに平等に言及するのじゃ。
 
>>841 それは善導の感想ですよね、なのじゃ。
 その文が違うならば他宗がどのように非難したのか資料で述べるべきなのじゃ。
 
>>845  それもまたおぬしの感想なのじゃ。
 おぬしはそれで正法の誹謗ではないとしたいのであるかもしれんが、捨閉閣抛を主張した時点で既に誹謗なのじゃ。
 なぜならば西方浄土は存在せず、念仏をして簡単にいけるということもありえないからなのじゃ。
 ただ集中のための難行であるのに、他の易行を避けさせる時点で正法の誹謗なのじゃ。
 
 わしはその無量寿仏経に念仏に特化しろと書いてあるとは書いていないのじゃ。
 むしろわしは無量寿仏経には念仏に特化するな、正法を捨ててはいかんと書いてあるという主張なのであるがのう。

 わしの書いた文をよく読むのじゃ。
 わからなければ聞けば善いのじゃ。


※捨閉閣抛
https://www.weblio.jp/content/%E6%8D%A8%E9%96%89%E9%96%A3%E6%8A%9B

24避難民のマジレスさん:2024/07/02(火) 11:53:50 ID:aad56Rlo0
993 :鬼和尚 :2021/12/19(日) 23:10:04.81 ID:Mo2srYHF.net[2/2]

 こんな話が在るのじゃ。
 昔、信仰熱心な商人が居たのじゃ。
 寺に度々お参りして、神仏を拝んでいたのじゃ。
 自分の心身の全てを捧げて帰依すると声に出して誓って礼拝していたのじゃ。
 
 すると身を屈しているものだから、財布が懐から転がり出たのじゃ。
 商人はあわてて拾って懐にしまったのじゃ。
 周りで見ていた者達は、
 「全てを捧げて帰依するのではなかったのか」
 と、商人に聞いたのじゃ。
 「お金は別だ」
 と、商人が答えるとみんな大笑いしたのじゃ。
 商人は顔を赤くして寺から去ったのじゃ。

 このような商人でなくとも皆、全てを捧げて帰依するといいながら、やはり別に捧げたく無いものがあるじゃろう。
 名声や権力や家族などを全て捧げるというものは極稀なのじゃ。
 神仏に帰依する道はこのようにたやすい方法に見えて、実は困難な道なのじゃ。

 旧約聖書にも神に子供を捧げたアブラハムの話が在るのじゃ。
 神が子供のイサクを捧げよと、告げたからイサクを焼いたのじゃ。
 まるで美談のように語られているが、現代でやれば狂信的な犯罪者なのじゃ。
 
 インドにも神に全てを捧げて生活も崩壊したというものの話が在るのじゃ。
 実際に全てを捧げれば、そのようになるしかないのじゃ。
 現代で家族と生活して仕事もある人間には、神仏への完全な帰依などできないことなのじゃ。

 できたとしてもサマーディで止まってしまうのじゃ。
 神仏を捨てることが出来ないから、囚われになるのじゃ。
 行き止まりで、困難な道なのじゃ。

 むしろただ座って呼吸を数えるほうが容易な行なのじゃ。
 何も捨てず、捧げなくてよいからのう。
 ただひたすらに座って集中すれば、サマーディも訪れるのじゃ。
 
 この無量寿仏経では華麗な極楽浄土の様子が描かれ、そこに僅か十念でいけるというから皆魅了されるが、それもまた法の一つであり至って困難な道であることをも、知っておかなければならんのじゃ。

25避難民のマジレスさん:2024/07/03(水) 11:43:23 ID:6O2r8ob.0
0171鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/20(月) 21:54:07.57 ID:xb+qmV8S

 次は観無量寿経なのじゃ。
 題名どおり無量寿仏の観想と、極楽浄土や菩薩の観想を教える経なのじゃ。
 観想とは今の言葉で言えば、イメージすることなのじゃ。
 
 阿弥陀如来や菩薩や極楽浄土をイメージすることでサマーディを目指すのじゃ。 

 最初は日輪のイメージを目の前にありありと見えるぐらいに思い浮かべるのじゃ。
 それから浄土の地面、川や池、宝樹をイメージするのじゃ。
 そして菩薩や阿弥陀如来をイメージするのじゃ。

 この順序で行うことでイメージもし易くなるのじゃ。
 それは他の修業の神仏のイメージと同じなのじゃ。
 先に神仏の周辺にある環境からイメージしていくのじゃ。

 そうすることで集中力も増してイメージができるようになるのじゃ。
 それはヨーガとかカバラのメルカバの技と同じ人類共通の知恵なのじゃ。

 このように観想を続けていけば、念仏三昧に入れるというのじゃ。
 それこそがこの経の目的なのじゃ。
 信仰を理由にしてサマーディに入らせる方便なのじゃ。

 サマーディへの道は長く困難なものじゃ。
 途中で飽きてしまうものが大半なのじゃ。
 このように阿弥陀如来への信仰と、極楽に生まれかわれるという褒美を示すことでサマーディへの道を全うさせるのじゃ。
 
 他に臨終の時に阿弥陀如来が迎えに来る情景を載せて在るのじゃ。
 それもまた観想してサマーディに入らせるために書いてあるだけなのじゃ。
 実際には居ない者は臨終にも来ないのじゃ。
 惑わされずにただひたすらサマーディを目指すのじゃ。

26避難民のマジレスさん:2024/07/04(木) 11:48:03 ID:t0Y0SkzE0
0266鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/21(火) 21:53:52.89 ID:/3Hbzzup

 最後は阿弥陀経なのじゃ。

 これには阿弥陀如来が西方の極楽にいることが説かれているのじゃ。
 阿弥陀如来は今も生存して極楽で法を説いているというのじゃ。
 阿弥陀如来の寿命は無量といえるほど長いから無量寿仏というのじゃ。

 極楽は理想の国として説かれているのじゃ。
 そこに行きたいものは阿弥陀如来の名号を保持して一心になればいけるというのじゃ。
 一日から七日までどれかの日数、一心になれば行けるというのじゃ。

 これがサマーディに到達するための行なのじゃ。
 わずか一日でも他のことを考えずに一心に名号を保持するのはかなり困難なものじゃ。
 それが出来ればサマーディに到達しているといえるのじゃ。
 
 むしろサマーディに到達していなければ不可能とも言えるのじゃ。
 試しにやって見れば修業していない者は五分も続かないじゃろう。
 長い修業が必要なのがこの名号によるサマーディなのじゃ。

 阿弥陀経にはその他、東方、西方、北方、南方、上方、下方にいる諸仏を紹介しているのじゃ。
 経には書いていないが、それらの諸仏の名号もまたサマーディのために使えるのじゃ。
 それがこの経の目的なのじゃ。

 極楽にいけるという餌でサマーディを体得せしめるのじゃ。
 浄土三部経は全てその目的のためにあるといえるのじゃ。
 困難な道であるが、興味の在る者は実践してみるとよいのじゃ。

27避難民のマジレスさん:2024/07/05(金) 11:43:39 ID:1y/2TaZY0
※鬼和尚による訂正

701 :鬼和尚 ◇Yj52hBkdLM :2024/07/04(木) 22:52:53 ID:WspkXoyg0
>>698 間違えのじゃ
 最初の方が無量寿経についてだっのじゃ。
 最後が阿弥陀経であっているのじゃ。
 すまんのう。

28避難民のマジレスさん:2024/07/05(金) 11:45:44 ID:1y/2TaZY0
<解説・十牛図>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/976
より抜粋

976:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/11(金) 21:08:13 ID:kaXJvxhM0

>>974  十牛図は元は道教の修行の為のものであったという。
 元々道教の聖なる数字である九図であったというが、禅の者がとりいれて一図を足し、十牛図にしたという。
 最後に入れられた入鄽垂手図では悟りを得た後、人々に教えを説く事が現されておる。
 それこそお釈迦様から連なる仏教徒の姿なのじゃ。

 一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
      牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。

 二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
      心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
      心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。

 三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
      己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
      完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。

 四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
      想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。

 五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
      好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。

 六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
        自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。

 七.忘牛存人 牛は消えたが人はある。自我は観察による気づきにより完全に滅したのじゃ。
        しかし、未だそれを認識しているものがある。
        その認識さえも滅しなければ真の悟りではないのじゃ。

 八.人牛倶忘 人も牛も無くなった。無我を認識するものも無くなれば真の悟りなのじゃ。
        無認識にまで至って真の悟りなのじゃ。
        そこには言葉でも図でも表されるものが無いのじゃ。

 九.返本還源 全部元に還った。偽りの認識が滅してしまえば、世界の真の姿が見えるのじゃ。
        赤子の頃に見た輝く喜びの世界に回帰するのじゃ。

 十. 入鄽垂手 現世に戻り教えを説くのじゃ。大乗仏教では修行に入る時に悟りを得たならば後進の者に教えを説く事を誓うのじゃ。
        真の悟りを得たならば誓いを果たすのじゃ。
        それすらも肉体が滅するまで続く修行なのじゃ。

29避難民のマジレスさん:2024/07/06(土) 11:28:44 ID:Qt1Suj5.0
<解説:坐禅和讃>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1407234590/800-810
より抜粋

798:避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:21:58 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、白隠禅師坐禅和讃も止観の教えを説いたものでしょうか?
再々で恐縮ですが、もしよろしければ解説をお願いできませんか?_| ̄|○

wikiからコピペです。
※原文書き下し

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり


800:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0

>>798 それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
 座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
  
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。

 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 

 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

30避難民のマジレスさん:2024/07/07(日) 12:03:51 ID:xdzQMj4I0
803:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0

今日も続くのじゃ。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。

 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。

 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

 
今日はここまでなのじゃ。

31避難民のマジレスさん:2024/07/08(月) 12:09:36 ID:Cl7z7jUE0
806:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0

今日も続くのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し

 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。


  今日はここまでなのじゃ。

32避難民のマジレスさん:2024/07/09(火) 11:31:39 ID:/b2H9dYI0
810:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:17:56 ID:rs5p.yDE0

今日で終わりなのじゃ。

無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

 無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
 無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。

 サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
 もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
 今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。
   
 相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
 人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
 相とは特徴でもあるのじゃ。

 他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
 例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。

 そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
 そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。

 念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
 それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。

 そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
 
 そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
 そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
 
 その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
  

 これで終わりなのじゃ。

33避難民のマジレスさん:2024/07/10(水) 11:02:38 ID:8fL1ERgA0
<解説・信心銘>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1407234590/658-706
より抜粋
___

信心銘

至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如

莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯

迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 
非思量処 識情難測

真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

34避難民のマジレスさん:2024/07/10(水) 11:03:48 ID:8fL1ERgA0
658:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:27:07 ID:vZYr84lw0
>>649 気が降ってくるのが見えるのかも知れん。
 わしは見えないのじゃ。
 朝にはよい気が多く降るというのじゃ。
 観察してみると良いのじゃ。

>>650 ご苦労さんなのじゃ。

  01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

 至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
 ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。

 これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
 修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
 修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。

 02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

 ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
 ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
 
 少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
 在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。

 03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

 あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
 その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。

 人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
 それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。

 04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如

 分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
 まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。

 そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
 本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

35避難民のマジレスさん:2024/07/11(木) 12:14:43 ID:J/OijoG.0
665:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:27:46 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

 俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
 己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。

 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。
 それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。

 むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。


 06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

 動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
 止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。

 瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
 
 それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。
 父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。
 

 07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

 自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
 有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。

 自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
 自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。

 08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

 言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
 言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。

 言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
 心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

36避難民のマジレスさん:2024/07/12(金) 11:28:18 ID:OrdHJE2Y0
672:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:36:20 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

 09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空  
 
 自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
 その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
 
 父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
 記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。

 しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
 返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。

 10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
 
 観念妄想が止まないのは皆妄見による。
 それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
 ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。

 人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
 仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。

 その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
 分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。

 11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

 有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
 これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。

 哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
 そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
 
 12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

 二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
 一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。

 論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
 何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

37避難民のマジレスさん:2024/07/13(土) 11:42:52 ID:SAIWLgus0
679:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 22:45:59 ID:72FX90sI0
 今日も続くのじゃ。

  13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 
 

 咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
 認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。

 法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
 その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。

 認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。

 14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

 境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
 それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。

 何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
 その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。

 それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
  

 15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

 一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
 その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。

 心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
 認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
 その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。

 その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
 あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
 
 16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

 大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
 小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。

 本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
 ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。

 17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

 そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
 自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。

 修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
 心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

38避難民のマジレスさん:2024/07/14(日) 11:00:53 ID:6tnEV0UI0
682:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:56:41 ID:72FX90sI0
更に続くのじゃ。

 18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

 自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
 何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。

 己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
 なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。

 19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

 好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
 修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

 そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
 そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
 本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。

 20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

 その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
 賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。

 六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
 自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
 賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。 


 21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯

 それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
 それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。

 六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
 執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
 それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。

今日はここまでなのじゃ。

39避難民のマジレスさん:2024/07/15(月) 11:56:31 ID:dBRKnML.0
687:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:15:03 ID:vRfRK0P20
 今日も続くのじゃ。

  22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。

 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


 23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。

 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。

 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。

 24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。

 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
 

 25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。

 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 

 今日はここまでなのじゃ。

40避難民のマジレスさん:2024/07/16(火) 11:41:38 ID:Fc5Yxda60
693:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:40:46 ID:/HbFv/.o0
終わりも近いのじゃ。

 26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。

 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。

 27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
 
 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


 28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 

 そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
 それが無為なのじゃ。

 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。

 29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。

 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。

 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。

 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
 

今日はここまでなのじゃ。

41避難民のマジレスさん:2024/07/17(水) 12:01:35 ID:5rxo69ko0
699:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:06:34 ID:/HbFv/.o0
今日で終わりなのじゃ。

 30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。

 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。


 31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。

 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
 
 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。

 32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。

 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。

 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
 
 
 33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。

 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。

 34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。

 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。

 そのような境地は守るべきではないのじゃ。
 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
 

 35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 

 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


 36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
 まことと心は一つである。
 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。

 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
 

 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
 ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。

42避難民のマジレスさん:2024/07/18(木) 10:41:35 ID:Krvn7HEg0
705:避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 21:31:34 ID:jfWCoXjM0
>>.699
信心銘の訳と解説ありがとうございました!
最後に信心銘の講評をお願いできませんか?


706:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/28(金) 23:21:54 ID:/HbFv/.o0
>>701 どういたしまして、またおいでなさい。

>>702 そうじゃ、抑圧は正に心をもって心を操るようなものじゃ。
 本心本性を知り、囚われぬ事が肝心なのじゃ。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>703 そうじゃ、観察しつづければ気付く事も増えてくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>704 実際はその通りなのじゃ。
 しかし人は信じることで空想も事実として捉えてしまうのじゃ。
 神とか社会とか国家とかありもしないものを守ろうと命まで棄てるのは、哀れの極みなのじゃ。

>>705 信心銘は迷いに入ってしまった修行者のための道標と言うようなものじゃな。
 初学者のためではないのじゃ。
 法に囚われてしまい、本心、本性を明らかにするのを怠ってしまった者に、正しい道を示すのじゃ。

 そうさんは真に悟っていたのじゃ。
 本来言葉にならない悟りを、ぎりぎりまで踏み込んで現したのじゃ。
 言葉の限りを尽くして現しながら、外道には陥らなかったのは、大きな手柄なのじゃ。
 善悪も無しと説くのは六師外道の説になるからのう。
 真に生き仏なのじゃ。

43避難民のマジレスさん:2024/07/19(金) 10:40:05 ID:.l/mMXes0
<解説・マハームドラーの詩>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1407234590/713-762
より抜粋

713:避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:50:29 ID:jfWCoXjM0
星川淳さんの日本語訳です

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

44避難民のマジレスさん:2024/07/19(金) 10:41:21 ID:.l/mMXes0
714:避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:51:09 ID:jfWCoXjM0

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

45避難民のマジレスさん:2024/07/19(金) 10:42:45 ID:.l/mMXes0
716:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/30(日) 22:30:09 ID:VLcESpo.0

>>711 ご苦労さんなのじゃ。


 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
 いまこの詩を与うべし

 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。
 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、
 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。
 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。

 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。

 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。
 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。

 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。
 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

46避難民のマジレスさん:2024/07/20(土) 10:26:43 ID:BSmT.fko0
718:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:32:39 ID:zljf.XjA0
 今日も続くのじゃ。

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。
 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。
 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。

 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。
 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。
 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。
 
 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。
 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。
 
 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 
 

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。
 これは正に止観の法なのじゃ。

 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。
 そして心を観察する。
 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。

 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。
 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。

 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。
 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


 今日はここまでなのじゃ。

47避難民のマジレスさん:2024/07/21(日) 11:04:34 ID:QpvFU7HU0
726:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

48避難民のマジレスさん:2024/07/22(月) 11:06:46 ID:Tvb1ve4g0
734:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

49避難民のマジレスさん:2024/07/23(火) 11:24:02 ID:bbLiJ93w0
739:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

50避難民のマジレスさん:2024/07/24(水) 11:35:25 ID:BoyaHyeg0
737:避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

740:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

51避難民のマジレスさん:2024/07/24(水) 11:37:26 ID:BoyaHyeg0
743:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:39:51 ID:N4ZFFlx20
今日も学ぶのじゃ。

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。
 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。

 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。
 これが法の至高の光となる。
 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。

 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。
 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。
 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。

 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。
 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。
 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。

 しかしどのような者でも良い訳ではない。
 グルも又選ばなければいかんのじゃ。
 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。
 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。
 
 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。
 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。

 ここまでなのじゃ。

52避難民のマジレスさん:2024/07/25(木) 11:20:40 ID:oQLH7aOg0
747:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:22:10 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。
 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。

 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。
 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。

 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。
 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。

 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。

 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。
 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。
 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。

 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。
 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。

 そうすればもはや行いは無い。
 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2024/07/26(金) 11:36:43 ID:YXmBWSoA0
751:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:18:44 ID:N4ZFFlx20
又続くのじゃ。

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

 儚いこの世は実体が無いものである故に、それを捨てて血縁の者とも別れるのじゃ。
 欲と憎しみをも捨てて、山林などで瞑想するのじゃ。

 行いを捨てて心の自然な状態を続ければマハームドラーにたどり着き、達成できない事を達成するというのじゃ。

 達成できないものとは、それを達成する自己が無いからなのじゃ。
 自己が無く、達成するという観念も無いときに、人はマハームドラーにたどり着き、悟りをも達成したといわれるのじゃ。

 木の根を絶てば木の葉は枯れるように、心の根を絶てば輪廻は消える。
 心の根とは無明であり、自己があるという観念なのじゃ。

 どのような灯りの光も、長く続いた暗闇を払う事が出来るように、気付きの一瞬があれば無明を払う事が出来るのじゃ。
 自己という観念が本当は実在せず、観念のみであると一瞬気付きがあれば十分なのじゃ。

 そうすれば自己を中心に今まで持ちつづけていた観念、自分と他人、敵と味方等の観念も一切が瞬時に消える。
 今まで無意味な事に囚われ、行い彷徨っていた全てを変えるのに、ただ一瞬の気付きがあれば良いのじゃ。
 
今日はここまでなのじゃ。

54避難民のマジレスさん:2024/07/27(土) 11:48:01 ID:m1G5cECI0
755:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。

 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
 修行をすれば修行をする自分が強まる。
 安楽になれば安楽な今の心に執着する。

 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。

 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。

 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。


 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。

 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。

 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。

 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。

 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

55避難民のマジレスさん:2024/07/28(日) 10:58:26 ID:Mt8PhAfY0
762:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:10:21 ID:q5vkUh4s0
今日で終わりなのじゃ。

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。
 執着の無い行いは智慧となる。
 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。

 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。
 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。
 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。

 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。
 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。

 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。
 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。

 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。
 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。

 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。
 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。

 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。
 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。

 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。
 分かれていたものが一つになるのではない。
 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。

 もはや自分も他人も無い。
 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。
 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。
 
  
 
 これでマハームドラーの解説は終るのじゃ。

56避難民のマジレスさん:2024/07/29(月) 11:47:43 ID:lkhfpW5M0
<解説・ラマナ•マハルシの問答>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/467-590
より抜粋  

467:避難民のマジレスさん:2021/11/25(木) 21:33:30 ID:/zJOcwlU0
鬼和尚、ラマナ・マハルシの「私は誰か?」という問答の解説をお願いしてもいいでしょうか?



生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。
誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。
そして幸福だけがその愛の源なのである。
それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。
そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の道が最も重要な方法である。


472:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/25(木) 23:12:07 ID:1d4drIFg0

>>467 人間だけでなく、生き物は皆苦しみから逃れ快楽を得ようとしているものじゃ。
 それが本能なのじゃ。
 それも全ての根源である意識から来ているのじゃ。
 そこに戻るのが悟りなのじゃ。
 自分を知ることは、悟りへの最も近い道なのじゃ。

57避難民のマジレスさん:2024/07/30(火) 10:29:03 ID:BQHLml1.0
474:避難民のマジレスさん:2021/11/25(木) 23:58:20 ID:/zJOcwlU0
>>472
ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。

問:私とは誰でしょうか?
  答:七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。
五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚はそれぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが私はそれらではない。
五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが私はそれらではない。
五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするがそれは私ではない。
ものごとを考える心でさえ、私ではない。
対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。


476:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 21:41:05 ID:1d4drIFg0

>>474 ここでマハリシが説いている法は、お釈迦様が大念処経等で説いた教えと同じなのじゃ。
 自分の身体とか器官とか心の働きなどを詳細に観察して、自分ではないものを厭離していくのじゃ。
 観察すれば観察対象となったものは、主体ではないという気づきが起こって厭離されるのじゃ。
 それが最も速やかに無我にまで至る法なのじゃ。

58避難民のマジレスさん:2024/07/30(火) 10:30:12 ID:BQHLml1.0
604:避難民のマジレスさん:2021/12/30(木) 21:39:00 ID:VghTikOs0
>>474のこの文の意味がよくわからないので解説していただけたら嬉しいです。
「無知」とは何を指しているのでしょうか?

対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。


610:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/01/01(土) 00:01:24 ID:1d4drIFg0

>>604 無知による、対象への印象も、そして対象も働きも無いという(境地)も私ではない、というような意味じゃな。
 要するにどんなに深い瞑想の境地も自分ではないというのじゃな。
 それは無知による幻想というのじゃ。

59避難民のマジレスさん:2024/07/31(水) 10:26:46 ID:at3jAiz60
482:避難民のマジレスさん:2021/11/28(日) 00:17:05 ID:uzLkGRNQ0
>>480

問:覚醒の本性とは何でしょうか?

答:覚醒の本性は、存在―意識―至福である。

Q:What is the nature of Awareness?

A:The nature of Awareness is existence-consciousness-bliss.


483:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 23:31:32 ID:1d4drIFg0

>>482 覚醒によって本来の意識に到達すれば、それだけが存在しているものとわかるのじゃ。
 そしてそれが一切の苦がない永遠の至福であることも感じるのじゃ。
 それはもはや言葉で説明することができない境地なのじゃ。
 どのような言葉で綴ろうとも、嘘になってしまうのじゃ。
 実践して悟りを得て初めてわかることなのじゃ。

60避難民のマジレスさん:2024/08/01(木) 10:35:53 ID:aLzgxrko0
484:避難民のマジレスさん:2021/11/29(月) 00:22:40 ID:tvh25SKA0
>>483
問答4

問:真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

答:「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見るもの」である真我は実現されるだろう。

Q:When will the realization of the Self be gained?

A:When the world which is what-is-seen has been removed, there will be realization of the Self which is the seer.


486:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/29(月) 21:39:49 ID:1d4drIFg0

>>484 客体の全てである世界がなくなれば、主体だけが残るじゃろう。
 それが見るものである真我なのじゃ。
 それは全ての観念をなくすことで感得されるのじゃ。
 それが全てを否定する真我の道なのじゃ。

61避難民のマジレスさん:2024/08/02(金) 10:49:38 ID:Yjg4bLVk0
487:避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 00:05:41 ID:6vueSoFw0
>>486
問答5

問:世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるということはないのでしょうか?

答:ないだろう。

Q:Will there not be realization of the Self even while the world is there (taken as real)?

A:There will not be.


492:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 21:54:42 ID:1d4drIFg0

>>487 世界が実在しようと、しまいと人が認識する世界は観念としてなのじゃ。
 観念がある限り、真我は実現しないのじゃ。
 全ての観念がなくなれば真我独存になるのじゃ。

62避難民のマジレスさん:2024/08/03(土) 11:15:23 ID:R4idu4rw0
495:避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 00:12:58 ID:PRgXfFG20
>>492
問答6

問:なぜでしょうか?

答:見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。
錯覚である蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は得られない。
同じように、世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。

Q:Why?

A:The seer and the object seen are like the rope and the snake.
Just as the knowledge of the rope which is the substratum will not arise unless the false knowledge of the illusory serpent goes,
so the realization of the Self which is the substratum will not be gained unless the belief that the world is real is removed.


496:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/01(水) 21:55:39 ID:1d4drIFg0

>>495 心に幻想の観念がある限り、真我は実現しないのじゃ。
 縄と蛇の両方を一度に認識できないようなものじゃ。
 幻想があれば蛇と見え、幻想が無ければ縄と見える以外にないからのう。
 幻想がなくなれば真我も実現したといえるのじゃ。

63避難民のマジレスさん:2024/08/04(日) 10:52:35 ID:1y/2TaZY0
497:避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 22:13:12 ID:WW3Qevas0
>>496
問答7

問:対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

答:すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。

Q:When will the world which is the object seen be removed?

A:When the mind, which is the cause of all cognition and of all actions, becomes quiescent, the world will disappear.


498:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/02(木) 21:41:01 ID:1d4drIFg0

全ては心で創られる故に、心が鎮まれば対象となる世界も消えるのじゃ。
心が観念を生み出すことも無ければ認識の対象も無いのじゃ。
サマーディにまで到達すればそれも可能なのじゃ。

64避難民のマジレスさん:2024/08/05(月) 11:11:39 ID:g2F5mF8Q0
499:避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 01:16:42 ID:qL2B6IQU0
>>498
問答8

問:心の本性とは何でしょうか?

答:「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。
心はすべての想念を起こさせる源である。
想念を離れて心のようなものは存在しない。
それゆえ、想念が心の本性である。
想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。
深い眠りのなかに想念はなく、世界もない。
クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れるのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなかへ還元させる。
真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。
それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。
真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。
人が絶え間なく心の本性を探究しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。
「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。
心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。
それはひとりであることができない。
微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。


502:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/03(金) 23:10:17 ID:1d4drIFg0

心も対象があって働くものじゃ。
想念という対象がなければ心も働かないのじゃ。
その時、真我が現われるのじゃ。
それは対象がなく独立して存在するものなのじゃ。

65避難民のマジレスさん:2024/08/06(火) 10:52:15 ID:K/Z55h9c0
504:避難民のマジレスさん:2021/12/04(土) 01:15:25 ID:PnSwz97c0
>>502
問答9

問:心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

答:身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。
もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。
そこが心の起源となる場所である。
絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。
心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想念である。
この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。
二人称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。


508:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/04(土) 23:28:40 ID:1d4drIFg0

 心はまず自分として現われるというのじゃ。
 自分があって、自分の思考とか、感情があるのじゃ。
 それが探求の妨げになるのじゃ。
 自分と自分のものを守ろうとするからなのじゃ。
 自分が無ければ思考も鎮まり、意識があるのみになるのじゃ。

66避難民のマジレスさん:2024/08/07(水) 10:55:42 ID:zrwPB0ZY0
512:避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 02:51:45 ID:MJvA6rnA0
>>508
問答10

問:どうすれば心は静かになるのでしょうか?

答:「私は誰か?」と尋ねることによってである。
「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。
そのとき真我は実現されるだろう。


516:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 21:35:15 ID:1d4drIFg0

>>512 私は誰かと問うことが観念を破壊するというのじゃ。
 自分という問題の他には何も問題は無いからなのじゃ。
 その想念さえも滅びれば、何も無くなるのじゃ。
 それが真我の実現だというのじゃ。

67避難民のマジレスさん:2024/08/08(木) 11:03:21 ID:JO7qbP6c0
517:避難民のマジレスさん:2021/12/06(月) 03:47:46 ID:5uRnxYQQ0
>>516
問答11

問:「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

答:他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。
それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。
微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。
心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。
このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。


519:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/06(月) 23:47:52 ID:1d4drIFg0

私は誰かという問いも日々続けなければいかんというのじゃ。
日々続けることで心の奥深くまで進むことが出来るのじゃ。
感覚器官から外に向かう心から、心の内側を見る心になるのじゃ。
そしてその源である主体にまで辿りつくこともできるようになるのじゃ。

68避難民のマジレスさん:2024/08/09(金) 10:55:40 ID:6tKR/mPU0
520:避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:42:37 ID:idQKiClY0
>>519
問答12

問:心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

答:探究以外に適切な方法はない。
他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。
けれども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが思わないようにとの神の意志によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中される。
心はつねにさ迷いつづけるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだろう。


522:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 23:35:11 ID:1d4drIFg0

集中の瞑想は観察のための助けになる方法に過ぎないのじゃ。
それによって得られる仮の心の静けさによって、観察を容易にするだけなのじゃ。
心の真の静けさは自らの主体を見ることによって訪れるのじゃ。
それによって真の大悟徹底もできるようになるのじゃ。

69避難民のマジレスさん:2024/08/10(土) 10:39:36 ID:w11C/Z7Q0
523:避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 06:02:30 ID:sEAjaaO20
>>522
問答13

問:心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

答:真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。

Q:The residual impressions (thoughts) of objects appear unending like the waves of an ocean.
When will all of them get destroyed?

A:As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.


524:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/08(水) 23:03:41 ID:1d4drIFg0

雑念は始めのうちはいつまでも浮かんできて終わりが無いように見えるのじゃ。
しかし、瞑想を日々続けていると、それがとまるときが来るのじゃ。
思考が無いのに意識はある状態になるのじゃ。
一度そこに至れば何度でもできるようになるのじゃ。

70避難民のマジレスさん:2024/08/11(日) 11:42:58 ID:Fubax2wA0
525:避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 23:19:22 ID:sEAjaaO20
>>524
問答14

問:数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

答:可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続けるべきである。
たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。
そうすれば、確実にうまくいくだろう。
ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。
心はただひとつだ。
幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。
心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒められなければならない。
他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。
欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいられようか。
自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては静まる。
謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。


526:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/09(木) 23:27:24 ID:1d4drIFg0

数知れぬほどに輪廻を重ねて業を積み重ねていれば、それを今消すことが出来るのかと思うものもいるじゃろう。
他人にしたことが自分に返り、それがまた他人への行いの動機となり、他人に対する行いとなるというような繰り返しではとどまることがないと思うのじゃ。
しかしそれもまた幻影でしかないことを知れば今一度真理を知れば消え去るのじゃ。
ただ幻想の自我に気付けば世界もまた消えるのじゃ。
そのようにして全ての業も幻想と気づくのじゃ。

71避難民のマジレスさん:2024/08/12(月) 10:26:02 ID:KXC0gOO20
528:避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 07:39:59 ID:NwRCZB2I0
>>526
問答15

問:探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?

答:心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって、破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。
要塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。
もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。


529:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/10(金) 23:43:49 ID:1d4drIFg0

>>528 探求は全ての観念がなくなるまでやるべきだというのじゃ。
 観念がなくなれば何かをする主体はなく、することもなくなるから自然に止むのじゃ。
 それまでは常におこたりなく実践に勤めるのじゃ。

72避難民のマジレスさん:2024/08/13(火) 10:58:13 ID:4r92SpgE0
530:避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 07:55:46 ID:9P3qqenE0
>>529
問答16

問:真我の本性とは何でしょうか?

答:真実、存在するのは真我だけである。
世界、個我、神は真珠貝のなかの銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。
これら三つは同時に現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。
それは沈黙と呼ばれる。
真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。
すべてはシヴァ、真我である。


533:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/11(土) 21:34:50 ID:1d4drIFg0
 
>>530 真我の道は真我以外を全て否定するのであるから存在すると言えるものは真我だけなのじゃ。
 それが全ての本性であり、神とよぶものの本性でもあるのじゃ。
 他に存在するものは無いのじゃ。
 そしてその真我そのものは認識することは出来ないのじゃ。
 ただありのままに在ることだけが出来ることの全てなのじゃ。

73避難民のマジレスさん:2024/08/14(水) 12:22:25 ID:QE7AIGcw0
535:避難民のマジレスさん:2021/12/12(日) 09:03:44 ID:tAZf5vzQ0
>>533
問答17

問:すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

答:欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。
太陽がただそこに存在するだけで、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。
磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そして休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。
神は何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。
それは、世間の行為が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

*3 三つの宇宙的機能: 創造、維持、破壊。
*4 五つの神聖な活動: パンチャ・ヤジュニャ。
『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義務。


536:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/12(日) 23:56:27 ID:1d4drIFg0

神が主体であるならばそれは何かをするということはないのじゃ。
それはありのままにあるだけなのじゃ。
何かがなされたというのは観念によるものなのじゃ。
人格を持つ神ではなく、自らの主体としての神を心の中に見出すのじゃ。

74避難民のマジレスさん:2024/08/15(木) 10:56:51 ID:lfsmFDT60
537:避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 11:25:12 ID:MpBRLa8k0
>>536
問答18

問:帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

答:神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。
自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。
荷物をおろして安心しなさい。


539:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/14(火) 00:03:30 ID:1d4drIFg0

帰依とはもともと神仏に自分の心身を与えるということなのじゃ。
真我に自分の全てを与える事が出来るならば、悟りも速やかにやってくるじゃろう。
恐れずに心身を与えるならば、もはや患うこともないのじゃ。
全てであることが見出されるのであるからのう。

75避難民のマジレスさん:2024/08/16(金) 11:56:51 ID:ghx06BfQ0
541:避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 14:25:27 ID:ljldEexk0
>>539
問答19

問:無執着とはどういうことでしょうか?

答:想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところなく完全に消滅させること、それが無執着である。
真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。


544:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/15(水) 21:49:30 ID:1d4drIFg0

>>541 瞑想をしていれば雑念は常に起こってくるものじゃ。
 それにとらわれずにいれば消えて行くのじゃ。
 雑念がなくなれば自分の心の中を深く観察していくこともできるようになるのじゃ。
 思考に執着せずに心の奥ふかくを探索して行くのじゃ。

76避難民のマジレスさん:2024/08/17(土) 10:54:14 ID:dvZlYX9o0
546:避難民のマジレスさん:2021/12/16(木) 15:37:24 ID:NdtEudKw0
>>544
問答20

問:神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

答:神やグルは解放への道を示すだけだろう。
神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。
トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。
けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解脱に達しなければならない。
人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。
ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?


547:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/16(木) 21:38:25 ID:1d4drIFg0

どのような神やグルでも一人の人間を強制的に解脱させるということはできないのじゃ。
誰もが自分自身を観て、無我になり、無認識に回帰するのみなのじゃ。
それができるのは自分だけなのじゃ。
自分自身を救う道を神やグルは示してくれるだけなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

77避難民のマジレスさん:2024/08/18(日) 10:38:46 ID:vmXXA0dI0
548:避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 09:00:48 ID:SC6QYTJc0
>>547
問答21

問:解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探究する必要があるでしょうか?

答:ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はない。
彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。


551:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/17(金) 23:59:38 ID:1d4drIFg0

>>548 真我の道では真我以外の全てのものごとを否定しなければならないのじゃ。
 構成要素もなんでも全て否定し去ってしまわなければならないのじゃ。
 認識する全てのものを捨てるのじゃ。
 真我そのものも認識できない認識主体であるから、認識する全てを捨てて辿りつくしかないものじゃ。
 全ては夢幻の如きものとして否定し去るのじゃ。

78避難民のマジレスさん:2024/08/19(月) 11:04:31 ID:QUtmmFAs0
554:避難民のマジレスさん:2021/12/18(土) 12:55:05 ID:K3LTGWrs0
>>551
問答22

問:目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

答:目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。
これより他に何の違いもない。
目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢のなかでは真実に見える。
夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。
目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時に現れるのである。


555:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/18(土) 23:14:17 ID:1d4drIFg0

悟っていない者は覚めている時も自分があると思っているように、夢の中でも自分が有ると思っているのじゃ。
現世もまた夢幻なのじゃ。
単に長い夢であるだけなのじゃ。
ただ意識だけがあると言えるのじゃ。

79避難民のマジレスさん:2024/08/20(火) 11:26:45 ID:F4wTfal20
556:避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 14:06:01 ID:q.ad6W3Q0
>>555
問答23

問:解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょうか?

答:すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述べている。
それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。
ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。
心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問いつづけるべきである。
この探究がどうして書物のなかでできるだろうか?
人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。
真我は五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。
真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。
いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。
アンナー・マヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。


562:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:28:19 ID:1d4drIFg0

>>556 本に書いてある知識はただ実践のための方法を示すものじゃ。
 方法がわかったらもはや本は要らないのじゃ。
 自分自身を追及する実践をひたすら続けるべきなのじゃ。
 本で得た知識もいずれは捨て去られる瞬間がくるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

80避難民のマジレスさん:2024/08/21(水) 10:45:50 ID:Uul7c4Y.0
565:避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 12:42:30 ID:aGDaQz8I0
>>562
問答24

問:幸福とは何でしょうか?

答:幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。
同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我-幸福を楽しむのである。
このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。
木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
世界が現れると、不幸を味わうのである


566:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/20(月) 21:27:24 ID:1d4drIFg0

本当の幸福は悟りを得る以外に無いのじゃ。
この世では一時の幸福も、苦しみから眼をそらすためだけのものなのじゃ。
一時期快楽を味わってもすぐに苦が戻ってくるものじゃ。
全ての観念がないとき、真の幸福があるのみなのじゃ。

81避難民のマジレスさん:2024/08/22(木) 10:51:44 ID:6zWriyjk0
570:避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 12:42:34 ID:jLA8ILnE0
>>566

問答25

問:洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?

答:静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。


571:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/21(火) 21:35:56 ID:1d4drIFg0

>>570 心が完全に鎮まっていれば洞察力も起こるのじゃ。
 仏教では妙観察智というのじゃ。
 それはまだ悟っていない忘我の段階でも起こすことが可能なのじゃ。
 自己の囚われから離れた視点からの洞察なのじゃ。
 眠る時などには誰もが経験することなのじゃ。

82避難民のマジレスさん:2024/08/23(金) 10:50:49 ID:Jpm7UPlo0
573:避難民のマジレスさん:2021/12/22(水) 13:00:24 ID:vdFKd1bg0
>>571
問答26

問:無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

答:無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。
無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離れないことが智慧である。


574:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/22(水) 23:25:56 ID:1d4drIFg0

>>573 無欲と智慧は同じものというのじゃ。
 それは真我の別の側面であるからというのじゃ。
 真我以外に何も求めないことが無欲であり、真我から離れないことが智恵と定義しているのじゃ。
 そうであれば無欲と智恵で真我を実現することが適うからなのじゃ。
 常に真我だけを求め、離れないようにするのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2024/08/24(土) 11:09:41 ID:KgbtB3mc0
575:避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 12:18:26 ID:5nOQTO2M0
>>574
問答27

問:探究と瞑想の違いは何でしょうか?

答:探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。
瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。


580:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/23(木) 23:31:03 ID:1d4drIFg0

>>575 探求は直接真我のなかにいることだというのじゃ。
 瞑想はブラフマンを観想することだというのじゃ。
 どちらでも悟りへの道が開かれるのじゃ。
 悟りに至ればそれらは一つであったと知れるのじゃ。

84避難民のマジレスさん:2024/08/25(日) 11:07:39 ID:l30TdqRU0
583:避難民のマジレスさん:2021/12/24(金) 13:36:23 ID:e.waK4Eg0
>>580
問答28

問:解脱とは何でしょうか?

答:束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。


584:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/24(金) 23:05:17 ID:1d4drIFg0

>>583 自己の本性を悟ることが解脱だというのじゃ。
 何か別の者になる事が解脱ではないのじゃ。
 どこまでも自分を追及して、本性に気づくことで解脱も訪れるのじゃ。
 それは知識や記憶では出来ないことなのじゃ。
 ただひたすらに今ここで観察する事でできるのじゃ。

85避難民のマジレスさん:2024/08/26(月) 10:35:08 ID:UG.D3imc0
(総評を請われて)

590:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/25(土) 23:30:30 ID:1d4drIFg0

>>588 さまざまな問答があったがマハリシは何を聞かれても、ただひたすらに私を追求することを勧めるのじゃ。
 それを基準にして全ての問いに答えているのじゃ。
 それが真の悟りへの道であるからなのじゃ。
 全ての法はそれを目指しているのじゃ。
 人々がそれを忘れて観念遊戯を聞いても、マハリシは常にその道に戻って教えるのじゃ。
 それこそ真のグルの教えといえるのじゃ。

86避難民のマジレスさん:2024/08/27(火) 12:13:38 ID:ECXQ6TCA0
※再掲
<解説・金剛般若経>

・5ch宗教板の"悟りをひらいた人のスレ"における、鬼和尚による金剛般若経の解説のまとめです。
・解説に対応する金剛経の現代語訳を『***』で挟み、入れています。
 引用元/『金剛経』https://bccks.jp/bcck/178313/info

解説引用元URL/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639472221/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639928718/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1640390211/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1643032241/
___

0754 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/27(月) 23:45:45.21 ID:Qsh/6my3
 
 金剛般若経は能断金剛般若経というのが正式名なのじゃ。
 金剛石、ダイアモンドのように断つことができる智慧の経なのじゃ。
 何を断つことができるのかといえば、執着とか疑惑だというのじゃ。

 つまりダイアモンドのように執着や疑惑を断つことかできる智慧の法門を説いた経なのじゃ。
 それは通常の般若経のように、空という観念を用いて断つのではないのじゃ。
 ただ観念論理の逆転を用いて断つのじゃ。

 それが般若、つまり智慧の法門なのじゃ。
 他の般若経典ではものごとがひたすら空であると観じて執着や疑惑を捨てるものじゃ。
 しかし、金剛般若経では空と言う単語は使っていないのじゃ。

 それでも般若経であるというのじゃ。
 つまり般若とは観念の執着や疑惑を断つ智慧であり、それができるならば空と言う観念もいらないということなのじゃ。
 般若経といえば空の思想であるとか、仏教とは空を悟ることであるとか、そのような一般論は無知の証でしかないのじゃ。
 
 空もまた修業のために一時的に使用する観念を破壊する観念に過ぎないのじゃ。
 執着や疑惑を捨てれば、空もまた捨て去るべきなのじゃ。
 この金剛般若経で説いている逆説による観念の破壊法もまた一時使用して、効果があれば捨て去るべきものなのじゃ。
 始めに先ずそれを知っておかなければならないのじゃ。
 法にも執着しないのが、真の般若の法であるからなのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2024/08/28(水) 10:59:52 ID:zWrlWn3s0
0808鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/28(火) 23:45:49.49 ID:EeuO4Ri7

 金剛般若経は大乗経典に属するものとして分類されているのじゃ。
 他の大乗経典と同じく、お釈迦様の説いたものではないのじゃ。
 後の修行者が創作したものなのじゃ。
 それも修業の役に立つようにと作られたものであるから、仏教の法を説いたものとして受け容れられてきたのじゃ。
 
 金剛般若経はまだ大乗という観念が成立していなかったと見えて、大乗とか小乗とは書いていないのじゃ。
 しかし、後の大乗経典に共通である、一切衆生を済度せしめるという布教方針は同じなのじゃ。
 この経典の創作後に大乗とか小乗という観念も作られたと観るべきなのじゃ。
 それを知っておくとよいのじゃ。


 経典に入るのじゃ。

***

(一)
 わたしはこのように聞きました。
 あるとき師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
 ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。

(二)
 ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
 スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。

「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
 師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

 師は答えました。
「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」

 スブーティは答えました。
「そうしてくださいますように、師よ。」

(三)
 師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
 しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、実は誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかと言えば、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」

***

 経典の最初にはお釈迦様が祇樹給孤独園に1250人の比丘とともにいたというのじゃ。
 お釈迦様が托鉢から帰って飯を食べて座っていたら、須菩提長老が問いかけてきたというのじゃ。
 その問いは悟りを求める修行者はどのような心がけで生活し、自らの心を制すればよいのかというものじゃった。
 
 お釈迦様はこのように答えたのじゃ。
 悟りを得ようとする者は一切衆生を涅槃にみちびくために修行しようと願うのじゃ。
 しかし、そのようにして一切衆生を涅槃に導いたとしても、実際には一人の衆生も涅槃には入らなかったと想うべきのじゃ。

 なぜならば
 生き物、衆生(サットヴァ)があるという観念や、
 主体(アートマン)があるという観念や、
 個体(ジーナ)があるという観念や
 個我(プトガラ)があるという観念が
 あれば菩薩とはいえないからであるというのじゃ。

88避難民のマジレスさん:2024/08/29(木) 11:13:18 ID:Musr07vg0
0874鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 00:13:46.70 ID:SymNpRIQ
 ちょっと間違えていたのう。
 三番目はジーヴァなのじゃ。
 すまんのう。

 この四つの観念は当時のインド人や仏教徒の間で考えられていた自己観念のまとめなのじゃ。
 人が自分という者を認識する時、大体このような四つの想いによって認識するであろうということなのじゃ。
 一つ一つ解説して行くのじゃ。

 最初のサットヴァとは衆生といわれるものじゃ。
 生きているもの全てなのじゃ。
 今で言えば有機質のものといえるのじゃ。
 生きている者である自分、生き物の一員である自分という観念があれば、そこに苦しみも生まれるのじゃ。

 何故ならば生きている者という観念は必然的に死によって生きていないもの、無機質なものに変るという変化を含んでいるからなのじゃ。
 生きている者である自分という観念を持っていれば死の苦しみもまた尽きないのじゃ。
 そうであるからそのような観念は捨てていかなければならないのじゃ。

 次はアートマンなのじゃ。
 アートマンとは認識できない認識主体なのじゃ。
 それは否定によってのみあらわされるものとヴェーダにも説いているのじゃ。
 よく仏教はアートマンを否定したといわれているが、実際にはお釈迦様の教えこそ正しいアートマンの法を伝えているのじゃ。
 
 アートマンは否定によってのみ表されるものであるから、誰かがアートマンはあるのかと聞けば、それは無いと答えるのが正しいのじゃ。
 そのようにして観念の全てを否定して認識できない認識主体に辿りつくのが真のアートマンの法なのじゃ。
 実際にそうしなければ間違ったアートマンを認識してしまう恐れが在るのじゃ。

 瞑想をしているといろいろな不可思議な幻想が見えたりするが、総て否定しなければそれらの幻想の一つがアートマンと誤認して修業をやめてしまう恐れがあるからなのじゃ。
 実際に誰とは言わないが、あるインド人のヨーギは脳の中心に光が見えたらそれがアートマンだと説いたりしていたのじゃ。
 当然それは認識できるものであるからアートマンではないのじゃ。
 このようにアートマンがあるという観念も真の悟りを求める者は否定しなければならない観念なのじゃ。

89避難民のマジレスさん:2024/08/30(金) 10:50:50 ID:16nLGw0U0
0944鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 23:34:40.50 ID:SymNpRIQ

 次はジーヴァなのじゃ。
 これは命根とか翻訳されるのじゃ。
 生命の機能であり、アートマンを含むものと考えられてきたのじゃ。
 生命の機能あるものが自分と考えれば、これもまた老病死による苦を免れないのじゃ。

 そしてプドガラなのじゃ。
 これは既に滅び去った仏教の一派が提唱したものであり、詳しい定義は残っていないのであるが、他派の批判によって少しはわかっているのじゃ。
 これは過去の因縁を持ち運び、業を作り業を受け取るものであるというのじゃ。
 
 業の主体ともいえるのじゃ。
 これが輪廻するものの主体でも在るのじゃ。
 過去と同じ自分があるという連続性を仮定するものじゃ。
  この観念もまた死による過去からの断絶がある故に、死苦を免れないのじゃ。

 わしはこのプドガラの定義によって自分という観念に気付いたのじゃ。
 わしは自分とは過去の記憶を持ち、過去の因縁を受ける者という観念をもっていたのじゃ。
 それに気づいたことで自分という観念が厭離され、無くなったのじゃ。

 更に無我を見るものがあったが、それも空であると観じて大悟徹底の境地に入ったのじゃ。
 とはいえ誰もがそのようにして大悟できるわけではないのじゃ。

 わしはたまたま自分とは過去の記憶、因縁をもつものという観念をもっていたから自分に気付いたのじゃ。
 自分が他の観念であるという認識を持つ者には、気づきはないじゃろう。
 例えば自分とは思考の主体であるとか、感情の主体であると認識する者達には効果は無いのじゃ。
 それぞれの者達が自らの自己認識を追及していかなくては悟りは訪れないのじゃ。

90避難民のマジレスさん:2024/08/31(土) 11:30:30 ID:waAx.MVE0
26 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:11:07.05 ID:eXza/b3P.net
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

みんな>>2からよんで実践あるのみなのじゃ。

前スレ ジーヴァは命根でもよいのじゃ。
 もともとインドの方言を無理に古代中国語に翻訳したものであるからのう。
 単語の意味などは流派によって違い、グルによっても違ったりするのじゃ。
 実践の役に立てば善いのじゃ。
 

27 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:23:35.68 ID:eXza/b3P.net

 以上の四つの自己認識の観念を菩薩はもつべきではないというのじゃ。
 とはいえ持つなと言われて直ぐにもたないようにしようと、自分の意志でできるものではないじゃろう。
 要はそれに囚われず、よく観るべきであると言うのじゃな。

 どれかに強い囚われを持っていては、我見に執着したまま悟りを遠ざけてしまうからのう。
 囚われがあればそれがなくなろうとする度に、恐れが起こり逃避してしまうからなのじゃ。

 そもそも菩薩とはボダイサッタの略なのじゃ。
 ボダイとは悟りであり、サッタとは前述の通り、衆生であり人なのじゃ。
 悟りを求める者達なのじゃ。

 しかし自分がサッタであるという囚われをもってはいかんのじゃ。
 自分がサッタではないと思う者かボダイサッタであるというのじゃ。

 後に説かれる観念を破壊する観念がもはや始まっているのじゃ。

91避難民のマジレスさん:2024/09/01(日) 10:30:28 ID:XSZEP/yE0
42 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 21:45:24.54 ID:eXza/b3P.net[4/4]

***
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、何かに執着しながら、施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
 スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。
 それは何故かと言うと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これと同じように、南や、東や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
 スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」

***

 以上の四つの自己認識に囚われないことを説いた後に、お釈迦様は布施について説いたというのじゃ。
 菩薩はなにものにも囚われない布施をすべきだというのじゃ。
 色声香味触法の全てに囚われずに布施をすべきだというのじゃ。
 
 そうすれば功徳が計り知られないほどになるからというのじゃ。
 前に説いた四つの自己認識とは関係ないように見えるが、実は同じ修業であるといえるのじゃ。
 前には自己に囚われずに衆生を導き、ここではなにものにも囚われずに布施をするようにというのじゃ。

 それら二つの行は成果に囚われず行うカルマヨーガの行なのじゃ。
 衆生を導いても一人も涅槃に導いたことにならず、布施をしても何も布施をしたということにならないのであれば、何の得るところも無い行になるからなのじゃ。
 行いの成果を求めず行うカルマヨーガの行をしろというのじゃ。

 行いの成果に囚われるならば、それは未来を夢見ていることになるのじゃ。
 それも過去の記憶からこのように成果があがるであろうという憶測によるのじゃ。
 そのような行は過去の記憶と、未来への期待に囚われていることになるのじゃ。
 その結果、今ここには心がないことになるのじゃ。

 なにものにも囚われずに行を進めるならば、それが自然に今ここに心を取り戻すことになるのじゃ。
 それこそが最も大きな功徳なのじゃ。

92避難民のマジレスさん:2024/09/02(月) 11:14:03 ID:gf1zVb5U0
45 :鬼和尚 :2022/01/02(日) 23:53:00.95 ID:ynJqNRp5.net

***
(五)
「スブーティよ、どう思うか。如来を身体の特徴をもって見るべきだろうか。」

「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
 
 そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」

***
 次にはお釈迦様は相をもってわしをみてはいかんというのじゃ。
 相とは相好とかいうように、身体的特徴とかなのじゃ。
 大乗仏教では仏には三十二の相があるというのじゃ。

 耳がでかいとかパンチパーマをかけているとかなのじゃ。
 それらの相は相ではないというのじゃ。
 それが相ではないと観る時、如来を見たことになるというのじゃ。

 それは如来の教える法の通りに見たからなのじゃ。
 そうでなければ如来の話を聞かず、法を実践していなかったことになるのじゃ。
 教える法こそが如来の真の相であり、眼に見える相は虚妄でしかいなのじゃ。

 実際に転輪聖王も同じ相を持つと後のほうには書いてあるのじゃ。
 相だけでは区別がつかないのじゃ。

 法を教え実践させるものが如来であるという教えなのじゃ。

93避難民のマジレスさん:2024/09/03(火) 12:14:19 ID:C13ohefw0
48 :鬼和尚 :2022/01/04(火) 00:27:23.71 ID:rxlp6XSH.net

***
(六)
 スブーティは尋ねました。
「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」

 師はスブーティに答えました。
「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。
 これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
 それはなぜかというと、その者たちは、自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(さとりを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。それはなぜかというと、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、(自我という観念としての、)認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
 それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」

***

 お釈迦様の説法を聞いて須菩提長老はその難しい話に、
 「このような説法を聞いて信じる者が後の時代にいるのか」
 と、聞いたのじゃ。
 お釈迦様はそのような者も居るじゃろうと、答えたのじゃ。
 何世も善根を植えたものは信じるというのじゃ。

 なぜならばそのような者は先の四つの自己認識の観念を持たず、更に法というものも、法でないものという観念さえないからというのじゃ。
 既にあらゆる観念を滅した者がこの経を信じるというのじゃ。
 筏の喩えを知る者は法をも捨てるのであるから、非法も殊更に捨てるべきというのじゃ。

 筏の喩えとは、お釈迦様の説いた法とは彼岸にいくための筏のようなものというのじゃ。
 彼岸に着いたら筏を捨てるように法をも捨てるべきだというのじゃ。
 実際に最後には法も捨てて無為に座るのが、大悟徹底の道なのじゃ。

 法も非法も捨てる最後の道を説いているといえるのじゃ。

94避難民のマジレスさん:2024/09/04(水) 10:26:16 ID:F7x77gQk0
50 :鬼和尚 :2022/01/05(水) 00:29:12.56 ID:5Y5rSp9e.net[1/3]

***
(七)
 師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。それはなぜかというと、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
 それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」

***
 お釈迦様は更に須菩提長老に問うのじゃ。
 わしが無上正等覚というものを得たじゃろうか。
 そしてわしは法を説いたじゃろうかと。

 須菩提長老はそんなものは無いのじゃ。
 と、答えたのじゃ。
 無上正等覚というものがあるわけではないからというのじゃ。
 説いた法もないというのじゃ。

 何故ならばそれらは無上正等覚というものではないからなのじゃ。
 如来の説いた法も取る事はできず、説く事も出来ないからなのじゃ。
 それは法ではなく、非法でもないからというのじゃ。
 如来は無為の法によって、他の者達と区別されるからなのじゃ。 

 無上正等覚というのも真の名前ではなく、衆生にわかりやすいように付けた名前なのじゃ。
 実際に言葉を離れた境地を言葉であらわすことはできないのじゃ。
 そうであるから無上正等覚もないのじゃ。

 如来の説いた法も言葉では無である境地に至るものであるから、あるとはいえないのじゃ。
 それは自ら観念をそぎ落としていく観念なのじゃ。
 その法自体もいずれはそぎ落とされていく観念であるから、あると言ってはいかんのじゃ。

 それを聞き取ることは出来ず、説く事も出来ないものとして扱わなければならないのじゃ。
 それはあることもなく、ないことさえもないのじゃ。
 それを説き明かせるのが、如来なのじゃ。
 無為に至る法門をとくことができるのは、如来だけなのじゃという意味なのじゃ。

95避難民のマジレスさん:2024/09/05(木) 10:59:00 ID:CfQFIDsg0
95 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 00:07:48.28 ID:K4frxSMY.net[1/5]

この先から否定した観念を、観念そのものとする逆説的な法門が始まるのじゃ。

***
(八)
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人が得る福徳は多いだろうか?」

スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」

 師は言われました。
「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その人の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の仏の得る、この上なく正しいさとりの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法では無いからだ。それゆえに覚者の法と呼ばれるのだ。」

***

お釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
この三千大千世界を満たすほどの宝を布施したら福徳は大きいかと。

すると長老は、
とても大きいのじゃ。
なぜならばその福徳は福徳ではないからじゃ。
福徳ではないから福徳というのじゃ、
と、答えたのじゃ。

更にお釈迦様は、
その福徳よりもこの経の四つの句をよむ方が福徳は大きいのじゃ、
なぜならば全ての仏の法はこの経から出たからなのじゃ。
その仏法も仏法ではないのじゃ、
そうであるから仏法とよぶのじゃ、
と、言ったのじゃ。

 このようにして行いの報いも、仏法も否定して、そこからそれこそが福徳であり仏法であるというのじゃ。
 それこそが金剛経の肝心の法門なのじゃ。

96避難民のマジレスさん:2024/09/06(金) 11:22:59 ID:Dkc7vpGs0
151 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 21:32:55.02 ID:K4frxSMY.net[3/5]

>>98>>107 僧侶とは何じゃ?
 臨済宗天龍寺派の者は、このような簡単な問いにも答えられないということでよいのかのう。
 わっはっはっはっはっはっは。

>>103 理解できなくて善いのじゃ。
 矛盾していてよいのじゃ。
 それでも繰り返すだけで、この観念を破壊する観念が心の中でちゃんと働くことがわかるじゃろう。
 人の観念は理解や矛盾しないことで受け容れられるのではないのじゃ。
 ただ単に繰り返すことで受け容れられるのであるからのう。

 自ら囚われている観念がそのものでなく、そのものいから、そのものとよばれると繰り返し念じるとよいのじゃ。
 その囚われが消えて行くのがわかるじゃろう。
 実践で確かめるのじゃ。

97避難民のマジレスさん:2024/09/06(金) 11:23:49 ID:Dkc7vpGs0
154 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 23:46:31.52 ID:K4frxSMY.net[5/5]

***
(九)
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と呼ばれるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわってさとる者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわってさとる者を意味しますが、実際には、生まれかわってさとる者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。最高のさとりを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
 師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
 師よ、如来はわたしのことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかしわたしは「わたしは離欲の阿羅漢だ」とは考えません。
 師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」

「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」

「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土(清浄な心)を完成することはできるだろうか。」

「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」

***

 更に続いて聖者の階梯である須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢さえもまたそれらではないというのじゃ。
 そうであるから須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢とよばれるというのじゃ。
 なぜならばそれらの者には先の自己認識の観念が無いからなのじゃ。

 そして須菩提長老が自らの阿羅漢果も否定し、お釈迦様が自らの修業の成果も否定するのじゃ。
 更に菩薩は仏国土を飾るのも否定し、あらゆるものごとを否定してから、それらの名前があると告げるのじゃ。
 このようにして矛盾した言葉によって、観念は破壊されるのじゃ。

 ダイヤモンドの刃物で切断したように、この観念を繰り返し念じれば、どのような観念でも厭離できるのじゃ。
 そうであるから金剛般若経とよぶというのじゃ。

 なぜならば観念とは正しいからとか、矛盾がないから受け容れられるものではないからなのじゃ。
 習慣によって観念は植え付けられ、同じく習慣によって破壊されるからなのじゃ。
 矛盾した観念でも繰り返し念じれば、観念を破壊することが出来るのじゃ。
 各自が実践によって確かめるしかないのじゃ。

98避難民のマジレスさん:2024/09/07(土) 10:39:42 ID:Yv4tGo9A0
352 :鬼和尚 :2022/01/07(金) 23:59:50.03 ID:rpgyt4lA.net[2/2]

***
 師は言われました。
「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。

***

 続いてお釈迦様は清浄の心を生じるようにするのじゃ、
 というのじゃ。
 清浄の心とはなにものにも囚われない心であると言うのじゃ。

 色声香味触法の全てに囚われずに心を起こすのじゃ、
 というのじゃ。
 当然ながらこの教えは、色声香味触法だけでなく、その器官である眼耳鼻舌身意も含んでいるのじゃ。
 そして五蘊にも囚われないことは当然なのじゃ。

 それら全てが省略して説いていることを理解しなければならんのじゃ。
 自分の心身の全てに囚われず、心を起こすと言う事は、ヨーガでは無種子三昧に当たるのじゃ。
 心に何の対象もなく、ただ集中している状態なのじゃ。

 ありのままの無為であり、座る自分の観念さえも失くして座り続けるのじゃ。
 それが出来れば悟りはもはや目の前にあると言えるのじゃ。
 無種子三昧は初めは対象のあるサマーディから始めて長い年月がかかるのじゃ。

 しかし、この金剛般若経の教えに従って全ての観念を断って座れば、速やかに達成することも可能なのじゃ。
 この教えが向いている者には実に有り難い法なのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

99避難民のマジレスさん:2024/09/08(日) 11:06:04 ID:J/OijoG.0
568 :鬼和尚 :2022/01/08(土) 23:39:55.85 ID:J7QLfMfx.net[2/2]

***
 スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」

 スブーティは答えました。
「非常に大きいです、師よ。それはなぜかというと、如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」

***

 その後、更にチョモランマのようにでかい体の人が居たら、それはでかいか、
 と、お釈迦様はきいたのじゃ。
 須菩提長老は、それはでかい
 なぜならばそれは体ではないからなのじゃ。
 体が無いからでかい体と言うのじゃ、
 と、答えたのじゃ。

 このようにあらゆる観念についてそれを否定して、後にそれを肯定するのじゃ。
 それを繰り返すことで身につき、観念の切断ができるようになるのじゃ。

***
(十一)
 師はスブーティに問われました。
「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとしよう。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」

 師は言われました。
「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに言われました。
「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」

(十三)
 その時、スブーティは師に尋ねました。
「師よ、この経は何と名付けられるのですか?また、私たちはどのよう記憶すべきでしょうか?」

 師はスブーティに告げました。
「この経は智慧の完成と名付けられる。その名前で記憶すべきである。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成では無いからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様はガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、それと同じ三千世界を満たした宝を布施するよりも、
 、この経典の四句でも他人に説いたほうが功徳が大きいことを教えたのじゃ。
 そしてこの経文を金剛般若経とすることを告げたのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2024/09/09(月) 10:44:08 ID:tTXmKBuI0
851 :鬼和尚 :2022/01/10(月) 00:07:58.64 ID:SlhBSZiK.net

 何故、金剛般若波羅蜜経と名づけるのか、
 お釈迦様は般若波羅蜜、即ち智恵の完成とは、智恵の完成ではないからというのじゃ。
 そうであるから智恵の完成とよぶのじゃ、というのじゃ。

 この般若波羅蜜経でさえ、実は般若波羅蜜ではないというのじゃ。
 それでこそ完全な般若波羅蜜、智恵の完成となるのじゃ。
 なぜならば法もまた捨て去るべき観念であるからなのじゃ。

 修業が完成したならば法は捨て去ることというのは、前に既に説かれたのじゃ。
 そのためにはこの経さえも又そのものではないという教えが必要なのじゃ。
 それでこそ完全に完成した、智恵の完成の教えといえるのじゃ。

 現代の技術で例えれば、パソコンなどの終了コマンドのようなものじゃ。
 全てのアプリやシステムの働きを終わらせた後、自分自身をも終わらせるのがその役割なのじゃ。
 そのために他の他のコマンドと同じように自らを終了させる命令をも含んでいなければならないのじゃ。

 それが金剛般若波羅蜜経さえも実は般若波羅蜜ではなく、それでこそ般若波羅蜜であるといえるのじゃ。


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