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鬼和尚の経典解説まとめ
97
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/06(金) 11:23:49 ID:Dkc7vpGs0
154 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 23:46:31.52 ID:K4frxSMY.net[5/5]
***
(九)
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と呼ばれるのです。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわってさとる者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわってさとる者を意味しますが、実際には、生まれかわってさとる者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。最高のさとりを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
師よ、如来はわたしのことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかしわたしは「わたしは離欲の阿羅漢だ」とは考えません。
師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」
「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」
「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土(清浄な心)を完成することはできるだろうか。」
「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」
***
更に続いて聖者の階梯である須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢さえもまたそれらではないというのじゃ。
そうであるから須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢とよばれるというのじゃ。
なぜならばそれらの者には先の自己認識の観念が無いからなのじゃ。
そして須菩提長老が自らの阿羅漢果も否定し、お釈迦様が自らの修業の成果も否定するのじゃ。
更に菩薩は仏国土を飾るのも否定し、あらゆるものごとを否定してから、それらの名前があると告げるのじゃ。
このようにして矛盾した言葉によって、観念は破壊されるのじゃ。
ダイヤモンドの刃物で切断したように、この観念を繰り返し念じれば、どのような観念でも厭離できるのじゃ。
そうであるから金剛般若経とよぶというのじゃ。
なぜならば観念とは正しいからとか、矛盾がないから受け容れられるものではないからなのじゃ。
習慣によって観念は植え付けられ、同じく習慣によって破壊されるからなのじゃ。
矛盾した観念でも繰り返し念じれば、観念を破壊することが出来るのじゃ。
各自が実践によって確かめるしかないのじゃ。
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