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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

1sage:2014/08/05(火) 19:29:50 ID:QMklRI/Y0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part3
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1394101534/

658鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:27:07 ID:vZYr84lw0
>>649 気が降ってくるのが見えるのかも知れん。
 わしは見えないのじゃ。
 朝にはよい気が多く降るというのじゃ。
 観察してみると良いのじゃ。

>>650 ご苦労さんなのじゃ。

  01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

 至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
 ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。

 これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
 修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
 修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。

 02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

 ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
 ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
 
 少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
 在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。

 03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

 あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
 その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。

 人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
 それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。

 04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如

 分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
 まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。

 そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
 本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

659鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:32:20 ID:vZYr84lw0
>>654 そうじゃ、無限に続く苦を抜け出すのじゃ。
 おぬしには出来るじゃろう。
 またおいでなさい。

>>656 おぬしもご苦労さんなのじゃ。

>>657 わしはもはや無為なのじゃ。
 そのような働きもあるじゃろう。
 しかしそうであっても何もせず、知らぬが如く流れるままにするのじゃ。
 囚われれば雑念になるのじゃ。
 囚われなければ行く雲の如く消えていく景色でしかないのじゃ。

660避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 22:32:54 ID:/Tir5mUE0
さんきゅーべりまっちょなのぢゃ
ありがとうございます

661避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 00:25:40 ID:LC3de7YgO
>>659
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
心強く思います。
がんばります。
もう既に、鬼和尚に教えていただいている方法の実践で今得ているものだけでも十分と思ったてしまいます。
サマディも無我も観照も、まだまだ遠い先でありましょうが、ご指導のお陰で着実に近づきつつあり、1ミリ近づくたびに、「苦」がボロボロと剥がれ落ちて行くような気がしています。 ありがとうございます。

662避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 09:16:50 ID:EunOHSdE0
>>658
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、信心銘の和尚訳とてもためになります。
ありがとうございます。

663そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/21(金) 12:59:37 ID:M3BN5Lq60
鬼和尚
見性と観照は違うのでしょうか?

664避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 21:29:45 ID:jfWCoXjM0
>>658
解説ありがとうございます。感涙しました(T-T)
次回も楽しみにしてます。

665鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:27:46 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

 俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
 己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。

 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。
 それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。

 むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。


 06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

 動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
 止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。

 瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
 
 それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。
 父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。
 

 07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

 自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
 有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。

 自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
 自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。

 08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

 言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
 言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。

 言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
 心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

666鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:34:37 ID:zYsaQfjM0
>>660 どういたしまして、またおいでなさい。

>>661 そうじゃ、どんどん実践して楽になると良いのじゃ。
 喜びを食む者となるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>662 良かったのじゃ。
 なかなかよいものじゃ。
 そうさんも喜んでいるじゃろう。

>>663 見性は自らの本性を見る事なのじゃ。
 理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言えるのじゃ。
 それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言えるのじゃ。

 観照は自我を観察して気付く事であり、それによって自我の厭離が起こるのじゃ。
 厭離が起これば自我は無くなり、無我になるのじゃ。
 そうなれば悟りの八合目であり、小悟といえるのじゃ。

>>664 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

667そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/21(金) 23:39:34 ID:XD5os4.60
>>666
ありがとうございました。

668避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 01:49:16 ID:LC3de7YgO
>>666
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>見性は自らの本性を見る事
 理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言える
 それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言える

>>616 で経験したことが、これだったと言えるのでしょうか?
以前より少しずつ、他人を批判したり非難したりする気持ちは減ってきていましたか、おりにつけそのような気持ちが起こると、縁起の法で解消していましたが、>>616以来、そもそもそのような気持ち(批判したり非難したり怒ったり等)が起こらなくなっている気がします。
自分の本性を知ったことにより、批判したり非難したり怒ったりの気持ちが起こるとことは、他人の言動に、自分の本性を見いだし、いわば自分を非難・批判、怒ってるようなものだと見切れてしまったような感じです。

669避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 16:49:59 ID:2NhnKUvU0
鬼和尚、
自分の中にある執着を厭離して行きたいのですが、どうやら逃避があるようで、なかなか、執着がこれである、と見つかりません。
本心を追及するために、自分で「逃げない」と誓ってから瞑想に入るのですが、それでも何やら逃げているようです。
それらをしっかりと観るために、他に何かできることがありましたら、お教えください。

670避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 17:39:02 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
瞑想に修行感が全くありません。最初の頃は、毎日続けなければとか、少なくても30分以上は座らなければとか、集中を持続して雑念を少なくしなくてはとか、観察を緻密にしなければとか、修行感と言うほどではないまでも、何か頑張ってる感はあったのですが、今は座りたいから座ってるだけです。
最初は多少の努力を要した瞑想が座ると楽になるになり、それが更に、意識の変容と言うことではありませんが、物事の感じかたが自分なりに望ましい方向に変容しているようには実感してますが、サマディを経験できてる訳でもないのに瞑想中毒というか瞑想依存症のようになっています。
鬼和尚は1日20分ほどの瞑想を続けていたとのことでしたが、それは瞑想の安楽さに浸りすぎないように、わざとそのように規制されてたのでしょうか?

671そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/22(土) 19:03:36 ID:35GIq.IU0
鬼和尚
我々が何かを見たり聞いたりして、何かを思ったり考えたりするのは、機械的な反応でしかないのですね。
あらかじめプログラムされたものが、一定の入力に対しては常に一定の結果を出すように。
つまり、我々が自由だと思って為していることは、実はそうでもないのですね。

苦というものも、そのように機械的に起こっているに過ぎないのですね。
機械的な反応が起こらなければ苦も生じない。
苦という実体があるわけではない。
だから、どれだけお金がたくさんあっても苦がなくなるわけではないのですね。

672鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:36:20 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

 09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空  
 
 自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
 その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
 
 父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
 記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。

 しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
 返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。

 10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
 
 観念妄想が止まないのは皆妄見による。
 それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
 ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。

 人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
 仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。

 その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
 分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。

 11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

 有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
 これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。

 哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
 そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
 
 12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

 二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
 一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。

 論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
 何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

673鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:49:12 ID:zYsaQfjM0
>>667 どういたしまして、またおいでなさい。

>>668 そうじゃ、自分の性を見たといえるじゃろう。
 さらに多くの性を見つづけていれば、たまねぎの皮のように何もかもが放着していくじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>669 逃避があれば観ようとして力めば力むほど、逃避の力も強くなるものじゃ。
 逃避も執着も分別しようとするのを止め、囚われる事から心を離すのじゃ。
 思考や言葉も離れた心に自然に答えは浮かんで来るのじゃ。
 それを待つのみなのじゃ。

>>670 そうじゃ、瞑想はこの世で最も安楽なのじゃ。
 お釈迦様でさえ楽しんでいたのじゃ。
 わしも言葉が忘れられるから短くしているのじゃ。
 修行者はむしろその楽しみを味わうが良いのじゃ。

>>671 そうじゃ、良い気付きなのじゃ。
 父母から始まり友人や社会からの条件付けによって人は動いているのじゃ。
 金が幾らあってもそこから起こる苦は逃れ様も無いのじゃ。
 それを知る事が出来ただけでも幸運なのじゃ。

674避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 23:33:05 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。
信心銘の意味について確認させてください。

>05 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり〜

この「本心を隠して」の解釈ですが、
例えば道を歩いている時、女の人が通り過ぎたとします(毎度同じ例えになりますが。
その時に心では「うほっいい女」と思ったとします。

本心を隠すというのは、この時「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのでしょうか。
また「いい女」と思ったということをしっかりと認識しつつ、
かつ、「そんな考えはやめないと」と自制する場合は本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。

例えば車を運転していて前に割り込まれたとします。
その時に心では「あぶねえな、何だこいつは」と思ったとします。

この時、「別に怒ってねーし」と心を上書きするのが本心を隠していることで、
怒ったということを認識しつつ、「怒らないようにしないとな」と自制するのは本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。

>06 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。

この「自らの根本を追及する」の解釈は、
前の質問で教えて頂いたように、
プチ無思考状態になったらさらに力を抜き、すべてを棄てて身を任せることと考えても問題ないでしょうか。


答え合わせして頂ければ幸いに思います。

675避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 00:54:29 ID:LC3de7YgO
>>673
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘の鬼和尚解説や>>656さんが添付してくれたサイトの訳などを指針にして精進します。

ん?楽しみつつも、何かがんばるぞ感はあるみたいです。
あれもこれも、すべて鬼和尚に出会えたればこそであります。
ありがとうございます。

676そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/23(日) 15:07:32 ID:3kxJAScI0
>>673
ありがとうございました。

677避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 18:52:41 ID:CCZQU40.0
鬼和尚さま、お忙しい中申し訳ありませんが
>>651の善聖さんへの返信もよろしくお願いします。

678避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 21:01:36 ID:7rD9T5220
>>673
確かに、力みがあったように思います。
悟りを得たいという欲があって、しかもそれには囚われないというのがなかなか難しいです。
囚われる事から心を離し、心に浮かぶものをそのまま観つづけたいと思います。
貴重な助言をくださり、ありがとうございました。
肩の力を抜いて精進します。

679鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 22:45:59 ID:72FX90sI0
 今日も続くのじゃ。

  13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 
 

 咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
 認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。

 法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
 その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。

 認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。

 14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

 境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
 それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。

 何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
 その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。

 それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
  

 15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

 一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
 その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。

 心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
 認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
 その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。

 その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
 あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
 
 16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

 大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
 小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。

 本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
 ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。

 17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

 そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
 自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。

 修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
 心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

680鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 23:01:04 ID:72FX90sI0
>>674 そうじゃ、本心を隠すとは
 「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのじゃ。
 一度認めて自制すれば本心を隠した事にならないのじゃ。

 それと同じようなものと考えて良いのじゃ。
 上手くしようとすれば力んだりするのじゃ。
 むしろますます力を抜いてこそ上手く行くのじゃ。
 
>>675 良かったのじゃ。
 またおいでなさい。

>>676 どういたしまして、またおいでなさい。

>>677 すまんのう、見落としていたのじゃ。
 >>651 良い観察なのじゃ。
 正しい言葉によって正しい修行も気付きもあるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>678 そうじゃ、 力を抜く事がむしろ難しいのじゃ。
 進歩しようとすれば焦りが起こるからのう。
 そのような心さえも観察して進んでいくのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2014/11/24(月) 11:12:04 ID:EunOHSdE0
>>680
和尚、お返事ありがとうございました。
答えが明確になりすっきりしました。

よくよく考えると、修行をはじめてからの方が本心を隠していたように思いました。
おそらく「修行しているおれはそんなこと考える人間じゃない」とプレッシャーをかけていたのだと思います。
これからは素直に認めて、それでいて自制を働かせていきたいと思います。

信心銘は読めば読むほど気づかされるものがありますね。
知識では何とか理解できるものの実行が難しい。
しかし難しもなく易しくもないというのであれば、私の今の思考は偏っているのだろうと思ったりもします。

より精進いたします。

682鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:56:41 ID:72FX90sI0
更に続くのじゃ。

 18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

 自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
 何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。

 己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
 なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。

 19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

 好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
 修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

 そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
 そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
 本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。

 20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

 その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
 賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。

 六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
 自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
 賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。 


 21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯

 それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
 それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。

 六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
 執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
 それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。

今日はここまでなのじゃ。

683鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:58:41 ID:72FX90sI0
>>681 そうじゃ、おぬしの相談も今の信心銘と被っているようじゃのう。
 シンクロニシティじゃな。
 吉兆として実践に励むのじゃ。

684避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 07:39:29 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、おはようございます。

もう一息で何かつかめそうな気がする…
けど、それは思い過ごしで、克服できていたはずの、迷路の中に戻ってしまう。
できてたことが、できなくなってしまう。
そうなると意識だけでなく、気にならなくなっていた足の痺れまでも瞑想の邪魔をしだす。
超、ガッカリして、イラダツ。イライラの克服くらいは前より少し簡単にできる。

今朝やってみたこと。
イラダツ自分という意識が、頑なにあり続ける。そのイラダツ自我を意識のエアポケットに浮かべ、放置する。イラダツ自我を眺める意識はイラダツていないらしい。
苛立ちとか焦燥とが、快不快とかから自由になるには、この自我を眺める意識(マナシキ)がいつも前面にでるように訓練すればよいのでしょうか?
マナシキというのは、感情とか観念とかの有無のみを認識する意識みたいなものなのでしょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ

685避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 19:52:06 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
何か物事に執着しているかどうか、自分で確認したいと思います。
物事に執着しているかどうかを確認するためのヒントがいくつかあるのではないかと思うのですが、それらをお教えください。

例えばもし何かに執着していたら、それを失うと観想すると苦が起きるとか、そのようなことです。

686そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:03:05 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
自分の腕や脚が、例えば箸や茶碗のような、ただの道具のように見えます。
自分の肉体ではあるけれども、そうではないようにも感じます。

687鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:15:03 ID:vRfRK0P20
 今日も続くのじゃ。

  22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。

 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


 23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。

 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。

 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。

 24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。

 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
 

 25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。

 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 

 今日はここまでなのじゃ。

688鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:23:45 ID:72FX90sI0
>>684 そのような観察で良いのじゃ。
 それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれるのじゃ。
 さらにその原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離されるのじゃ。

 その意識を前面に立たせないでも良いのじゃ。
 瞑想中に使用するだけで良いのじゃ。
 
 そのようなものなのじゃ。
 分別を行う意識であるからのう。

>>685 それで良いのじゃ。
 何かに執着していれば、それを失う事を想うだけでも苦が起こるじゃろう。
 更には強く執着しているものや人は、もしも失ったらと考えることすらも拒否する心の働きがあるじゃろう。
 そのような心の働きを観察してみるのじゃ。

>>686 肉体の厭離が出来たようじゃ。
 肉体への執着から起こる不安や苦や恐れがなくなるじゃろう。
 その感覚が大事なのじゃ。
 さらに感覚や思考なども厭離していくのじゃ

689そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:59:17 ID:rzoJTJNQ0
>>688
ありがとうございました。

690避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 05:40:17 ID:LC3de7YgO
>>688
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>その意識を前面に立たせないでも良い
>瞑想中に使用するだけで良い
 
「その意識」で、客観的に自我を観察できてる時、あと一歩で無我に到達できるのではないかと感じてしまいます。
無我を知るためには、自我が「生じる」瞬間を捉え、観察し、観照を起こすことが必要であり、観察されるもの=自我は、観察者=自分ではないと自覚できる…と鬼和尚の教えを理解しておりますが、これでよいでしょうか?
良かったとして、マナシキで、分別し客観的に自我を見つめることは、自我の生じる瞬間の観察ではなく、既に生じてる自我を単に客観視しているだけですが、この客観視できる状況を追求することによる、無我の体得は不可能でしょうか?

と言うのは、マナシキで自我を客観視できるのは、瞑想が深まりつつある時等に突然わき起こる雑念の観察の時に限られてる気がするのです。
思考実験的に、雑念=自我を爼上にのせ観察しても、通常の意識での観察と区別がつきません。

自我のマナシキによる客観視の常態化=無我の体得ということにはならないのでしょうか?

また、>そのような観察で良い
>それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれる
>その原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離される

これは、縁起の法であると思いますが、教えていただいたこの方法でいつも、原因から観察、順逆の観察、で解消してるのですが、なかなか根本から断たれるところまで到達しません。
確かにそのような克服すべき状態が起こると頻度は低くなって来ておりますが・・・そんな風に、徐々に進むものなのでしょうか?

691避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 13:07:22 ID:/1ub1Cio0
>>688
執着の確認について、ありがとうございます。
拒否や逃避も含め、心の働きを注意深く観察するのが大切なのですね。
修行の妨げになっていない執着は、さしあたり放っておいても良いのでしょうか?

ここまで書いて気づいたのですが、やはり分別に囚われていますね。
掴まずに、ただ観察することに励みます。
ありがとうございました。

692避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 21:02:34 ID:jfWCoXjM0
+   +
  ∧_∧  + キョウノセッポウ
 (0゚・∀・)   マダカナマナカナ
 (0゚∪ ∪ +
 と__)__) +

693鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:40:46 ID:/HbFv/.o0
終わりも近いのじゃ。

 26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。

 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。

 27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
 
 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


 28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 

 そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
 それが無為なのじゃ。

 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。

 29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。

 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。

 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。

 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
 

今日はここまでなのじゃ。

694鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:51:07 ID:/HbFv/.o0
>>689 どういたしまして、またおいでなさい。

>>690 そのような理解で良いのじゃ。

 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難なのじゃ。
 例えば自分の目玉を見るのが困難なようなものじゃ。
 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
 それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する方が実際に悟った例が多いのじゃ。
 
 本当に自我の起こる原因を追求して行けば、それも可能なのじゃ。
 原因を探すのが難しいのでは在るがのう。
 それこそ自我の抵抗が激しいのじゃ。
 自分自身の存在を否定する事と捉えるからのう。
 その謬見と恐れを徐々に消していくしかないのじゃ。
 集中も観察もそのようにして続けるのじゃ。

>>691 そうじゃ、今修行の妨げにならないものならば放っておくが良いのじゃ。
 執着は次々に現れてきりが無いからのう。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>692 今来たのじゃ。
 明日もWKTKして待つのじゃ。

695避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 04:59:16 ID:LC3de7YgO
>>694
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

> 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難
> 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
> それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する
→マナシキ自体が謂わば冷静な自我みたいなものであり、冷静な自我で混乱した自我を観察しても、無我にはたどり着けないのですね。
 
> 原因を探すのが難しい
→目覚める時や、まずサマディを体験できるようになり、そこから日常の意識に戻る瞬間をとらえるとかがそれをとらえるチャンスなのですね。
>抵抗が激しい
>その謬見と恐れを徐々に消していくしかない
→はい、漫画のように、これ見よがしに、邪魔しに来ます。邪魔しているのは他ならぬわたし自身であり、わたしの弱点を誰よりも一番知ってるはずですから、邪魔するのがうまいはずであります。
一人で独学でやっていたら、迷い込みそうな迷路かたくさんあるのですね。
精進します。

696避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 15:10:27 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

>法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
>例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。

一度だけですが、プチ無思考状態で力を抜いて深く入ろうとしたときに、
深く入ろうと思っていることや、ここがそうかとか、この場所に居続けたらいいのかという思考があることに気づいたので、
それらもろとも頭から消し去ると禅定のようなものに入りかけたことがありました。

その時に何となく感覚というかコツのようなものがわかったのですが、
そのわかったことが新しい思考となってしまい、また「こうなる」とか「ああなる」と考えてしまうようになりました。
コツがかえって惑わせるのはスポーツにも似ているなと思った次第であります。

それで話は少しさかのぼるのですが、
>信心銘19 修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

これは煩悩に対して過度に禁欲しなくても、節度ある状態でいれば問題ないということなのでしょうか。
というのもいま性欲に対して禁欲中なのですが、一ヵ月ともなれば活力というか興味というか、
全体的に「なんとなくどうでもいいわー」な感じになっておりまして。
欲が薄くなっていくのはありがたいのですが、瞑想などの自己向上に対する気持ちまでもが薄くなってしまい、
もしかして自ら縛りつけてるのではなかろうかと思っているところであります。
このことについて、ご意見をお聞かせ願えないでしょうか。

697そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 19:32:28 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
今朝目が覚めた時、私は思考が始まる前に身体を動かし始めていました。
その後しばらく経ってから思考が起こり始めました。
この時私は思考が起こる様子を見ていました。
その直後に「今、私はこういう考えを起こしている」と観察を言葉に表しました。
すると、思考は自分が起こしていて、思考そのものは自分ではないように見えました。

このように対象として認識できるものがあるならば、実はそれは、私や私のものではなく、また、他者や他者のものでもないように感じます。

思考は幻のようであり、私が幻を創り出していて、幻とは気付かぬまま過ごしているようです。
まるで映画「マトリックス」の、マトリックスの世界が全てデータで出来ているにもかかわらず、そうとは気付かぬまま暮らしている人々のようです。

698避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 20:39:13 ID:7rD9T5220
>>694
確かに観れば観るほど、執着だらけです。
幸い修行には差し支えていないので、さしあたり放っておいて、
淡々と止観に励もうと思います。
ありがとうございました。

699鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:06:34 ID:/HbFv/.o0
今日で終わりなのじゃ。

 30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。

 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。


 31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。

 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
 
 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。

 32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。

 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。

 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
 
 
 33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。

 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。

 34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。

 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。

 そのような境地は守るべきではないのじゃ。
 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
 

 35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 

 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


 36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
 まことと心は一つである。
 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。

 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
 

 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
 ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。

700鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:12:27 ID:/HbFv/.o0
>>695 そうじゃ、少しずつ進んでいくのじゃ。
 それが結局は近道なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>696 そうじゃ、禁欲にも囚われすぎては煩悩になり、修行の妨げになるのじゃ。
 節度を保つてコントロールするのが大事なのじゃ。
 抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。
 抑圧ばかりしてはそのようにやる気が無くなったり、別のところで爆発したりするのじゃ。
 自らの性を知ってそれに身を任せよと言うのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>697 それでよいのじゃ。
 思考とも厭離が始まったようじゃ。
 さらに進んでいくと良いのじゃ。

>>698 そうじゃ、囚われずに進んでいくのじゃ。
 またおいでなさい。

701そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 23:24:59 ID:rzoJTJNQ0
>>700
ありがとうございました。

702避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 09:00:49 ID:EunOHSdE0
>>700
和尚、お返事ありがとうございます。

>抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。

確かにそうだと思いました。
抑圧は言うなれば、自分のものではない体を自分の思う通りにしようという無知のあらわれかもしれませんね。
自分の物ではない以上、うまく機能するようにコントロールしてやるのが最善であることに気が付きました。
これからは節度を保ちながら操縦術を磨いていきたいと思います。

また信心銘の翻訳おつかれさまでした。
すべて保存させて頂きました。
この経は都度読み直し、また写経などにも活用していこうかと考えております。

ありがとうございました。

703避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 14:52:39 ID:LC3de7YgO
>>700
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

ちょぴっとづつ進むであります。

夏頃に集中的に取り組んだ「気」の行は、今は、意念や呼吸法で動かそうとするのはやめ、集中の対象として「温養」するにとどめています。
「気」の行は自我を強めるような気がしていたのですが、もう一度積極的に取り組んでみます。

目覚めの際の観察は、なかなかうまく行かず、たいてい観察を忘れてしまうか、目覚め直前に見ている夢の中での思考が、そのまま続いて目覚めるみたいな感じです。

今のところ、それでわかるのは、普段の雑念と夢の中の思考の性格は全く同一のものであるという、当たり前なことくらいです。

704避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 17:57:03 ID:IX7Ppgdw0
鬼和尚
現実だと信じている世界は、想像(空想)と同じものですか?

705避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 21:31:34 ID:jfWCoXjM0
>>.699
信心銘の訳と解説ありがとうございました!
最後に信心銘の講評をお願いできませんか?

706鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/28(金) 23:21:54 ID:/HbFv/.o0
>>701 どういたしまして、またおいでなさい。

>>702 そうじゃ、抑圧は正に心をもって心を操るようなものじゃ。
 本心本性を知り、囚われぬ事が肝心なのじゃ。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>703 そうじゃ、観察しつづければ気付く事も増えてくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>704 実際はその通りなのじゃ。
 しかし人は信じることで空想も事実として捉えてしまうのじゃ。
 神とか社会とか国家とかありもしないものを守ろうと命まで棄てるのは、哀れの極みなのじゃ。

>>705 信心銘は迷いに入ってしまった修行者のための道標と言うようなものじゃな。
 初学者のためではないのじゃ。
 法に囚われてしまい、本心、本性を明らかにするのを怠ってしまった者に、正しい道を示すのじゃ。

 そうさんは真に悟っていたのじゃ。
 本来言葉にならない悟りを、ぎりぎりまで踏み込んで現したのじゃ。
 言葉の限りを尽くして現しながら、外道には陥らなかったのは、大きな手柄なのじゃ。
 善悪も無しと説くのは六師外道の説になるからのう。
 真に生き仏なのじゃ。


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