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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

1sage:2014/08/05(火) 19:29:50 ID:QMklRI/Y0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part3
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1394101534/

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0
>>798 それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
 座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
  
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。

 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 

 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

801避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 16:17:19 ID:LC3de7YgO
>>799
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
信心銘、半分暗記しました。

信心銘を何度か読んで思ったことを書いてみます。

物事を認識し、認識対象が確かにあると実感されるとしても、現象としてある物全てが永遠に存在し得ない以上、今あることは確かだったとしても、いずれ無に帰するものとしてあるに過ぎない。

同様に、認識している自分自身の存在も、限られた経験と記憶に基づく観念的存在であり、観念にすぎないものは、夢幻のようなものであり、実体はない。
個としての観念の根底にある、「本心」に気付けば、そこに、個的経験、記憶以前の意識そのものを想定できる。
そこまで、実感としてたどりつければそれが「無我」である。
しかし、認識がある以上認識する主体が前提となり、いかに変容しようとも、残った「自我」の再生の契機となる。
そこで、認識も認識対象もない、有も無もない、善も悪もない、時間もない、「空」を想定することにより、認識を消し去り悟りに至る。

快を求め不快を嫌い、生を求め死を嫌い、善を求め悪を嫌らうのが本質であってもなくても、全てを包含する「空」であるということは、個の根底にある本心の求めるもののみに満たされることになる。

こんな信心銘の理解でも良いでしょうか?

802避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 20:50:40 ID:jfWCoXjM0
>>800
解説ありがとうございます!
今日も続くのでしょうか?楽しみに待ってます☆

803鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0
今日も続くのじゃ。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。

 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。

 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

 
今日はここまでなのじゃ。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:44:15 ID:3LQWQGf.0
>>801 そのようなものじゃ。
 後は実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>802 そうじゃ、続くのじゃ。
 WKTKして待つのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 23:31:22 ID:LC3de7YgO
>>804
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
目の前のあんパンやPCや、それを五感で認識するおのれの存在の確からしさを実感として否定できるとこまで行き着くのは、記憶の断片=観念の寄せ集めとしての自我という理屈の単なる延長戦上では無理でありますね。
それを、 見抜くためには、無分別=空を追求するか、自我が生じる瞬間を観察し切る実践しかないのでありますね。

けど、鬼和尚の説明で理屈も少しづつ、整理できてきた気がするので、励みになります。

806鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0
今日も続くのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し

 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。


  今日はここまでなのじゃ。

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:14:10 ID:rs5p.yDE0
>>805 そうじゃ、観念や戯論をいくら重ねても進歩は無いのじゃ。
 実践する事だけが進歩の道なのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2014/12/19(金) 23:24:43 ID:/Tir5mUE0
wktkするのお
白隠はヒップホッパーじゃのお

809避難民のマジレスさん:2014/12/20(土) 20:59:11 ID:jfWCoXjM0
>>806
昨日も解説ありがとうございました_| ̄|○
禅定で思い出したんですが、以前偶然に下記のような体験がありました。
禅定とは1の状態でしょうか?
それと、なんで2の意識は生まれるんでしょうか?

1何も無かった
2何も無いことを意識した
3言葉が流れているのに気づいた
4言葉から景色が生まれた
5肉体を見つけた
6肉体に入った(?)
7感覚が生じていつもの自分目線に戻った

810鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:17:56 ID:rs5p.yDE0
今日で終わりなのじゃ。

無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

 無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
 無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。

 サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
 もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
 今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。
   
 相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
 人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
 相とは特徴でもあるのじゃ。

 他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
 例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。

 そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
 そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。

 念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
 それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。

 そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
 
 そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
 そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
 
 その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
  

 これで終わりなのじゃ。


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