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鬼和尚の経典解説まとめ
54
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/27(土) 11:48:01 ID:m1G5cECI0
755:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。
心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん
今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。
このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
修行をすれば修行をする自分が強まる。
安楽になれば安楽な今の心に執着する。
そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。
今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。
そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。
何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。
ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。
阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。
阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
それはただあるがままにする他は無いのじゃ。
それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
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