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鬼和尚の経典解説まとめ
94
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/04(水) 10:26:16 ID:F7x77gQk0
50 :鬼和尚 :2022/01/05(水) 00:29:12.56 ID:5Y5rSp9e.net[1/3]
***
(七)
師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。それはなぜかというと、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」
***
お釈迦様は更に須菩提長老に問うのじゃ。
わしが無上正等覚というものを得たじゃろうか。
そしてわしは法を説いたじゃろうかと。
須菩提長老はそんなものは無いのじゃ。
と、答えたのじゃ。
無上正等覚というものがあるわけではないからというのじゃ。
説いた法もないというのじゃ。
何故ならばそれらは無上正等覚というものではないからなのじゃ。
如来の説いた法も取る事はできず、説く事も出来ないからなのじゃ。
それは法ではなく、非法でもないからというのじゃ。
如来は無為の法によって、他の者達と区別されるからなのじゃ。
無上正等覚というのも真の名前ではなく、衆生にわかりやすいように付けた名前なのじゃ。
実際に言葉を離れた境地を言葉であらわすことはできないのじゃ。
そうであるから無上正等覚もないのじゃ。
如来の説いた法も言葉では無である境地に至るものであるから、あるとはいえないのじゃ。
それは自ら観念をそぎ落としていく観念なのじゃ。
その法自体もいずれはそぎ落とされていく観念であるから、あると言ってはいかんのじゃ。
それを聞き取ることは出来ず、説く事も出来ないものとして扱わなければならないのじゃ。
それはあることもなく、ないことさえもないのじゃ。
それを説き明かせるのが、如来なのじゃ。
無為に至る法門をとくことができるのは、如来だけなのじゃという意味なのじゃ。
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