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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

1sage:2014/08/05(火) 19:29:50 ID:QMklRI/Y0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part3
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1394101534/

713避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:50:29 ID:jfWCoXjM0
星川淳さんの日本語訳です

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

714避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:51:09 ID:jfWCoXjM0
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

715避難民のマジレスさん:2014/11/30(日) 08:39:19 ID:SO86/s7A0
鬼和尚は誰に教えているのですか?
教えを受けているのは自我ですか?無我ですか?無ですか?

716鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/30(日) 22:30:09 ID:VLcESpo.0
>>711 ご苦労さんなのじゃ。


 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
 いまこの詩を与うべし

 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。
 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、
 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。
 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。

 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。

 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。
 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。

 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。
 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

>>715 おぬしに教えているのじゃ。
 おぬしは自我じゃろうか?
 それとも無我じゃろうか?
 それとも無じゃろうか?
 速やかに答えてみるのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 11:21:13 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、
マハームドラーの和尚訳ありがとうございます。

今回の詩も非常に興味深いものがあります。
wktkしながら続きを待ちたいと思います。

718鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:32:39 ID:zljf.XjA0
 今日も続くのじゃ。

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。
 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。
 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。

 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。
 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。
 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。
 
 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。
 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。
 
 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 
 

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。
 これは正に止観の法なのじゃ。

 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。
 そして心を観察する。
 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。

 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。
 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。

 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。
 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


 今日はここまでなのじゃ。

719鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:33:23 ID:zljf.XjA0
>>717 そうじゃ、今日も続くのじゃ。

720避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 23:03:02 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚の説明を読むと、バカな龍明でもわかる気がして、できる気がするであります


721避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 15:09:01 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
昨夜と今朝、早速やってみたであります。
 
今まで、「集中」「観察」「縁起の法」等の訓練をし、その有効性を実感してきたので、「空とマハームドラーの観想」も自分なりに理解できました。
自分にとって、集中の行において難しいのは、集中しょうとする「意思」の存在で、その意思がなければ雑念にまみれ座って考えことをしてるだけになることです。
ある程度慣れて、無思考の状態、意識のエアポケットみたいなものを作れるようになり、そこに浮かび上がる雑念を客観視する意識のようなものを実感できても、それもまた、意識であり、自分の意思にもとづくものにかわりありません。
空の観想も、最初にそれを教えられたなら、何をどうやったら良いか解らなかったでしょうが、
いきなり「空」「無」「無思考」をイメージすることにより、集中の行に要する「意思」の存在がぐぅっっ後退するように感じられました。
しかし、その状態を長時間維持するのは集中同様難しく、じきに、空を観想している自分と言うイメージがわいてくる。
これは、自我が生じる瞬間をとらえて厭離する技として、私にもできるのではないかと思ってしまいました。

722避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 17:17:22 ID:jfWCoXjM0
>>718
解説ありがとうございます。いつも楽しみにしてます(・ω・`)

723そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/02(火) 18:58:23 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
教えてください。
覚醒したという方のブログがあり、そこに自我と真我とカルマについて次の記述があるのですが、これは正しいのでしょうか。

「自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。」


私の成り立ち(2) - 私を知る
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/d4c3c46981add517661cdcffc6ee0657/?st=1

724避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 20:09:35 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚さんも何か、悟りを表現した詩を書いてみてください。

725避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 21:26:40 ID:VDi3L7Co0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
空の法をしていたからでしょうか?
体の外の音が、自分にダイレクトに響いて
猫のくしゃみが自分の中に響いてビックリしたり、遠くのカラスの音も自分の中で鳴っている。
という感じになりました。
こういう話を聞いたことがありませんので、こういうものなのか確認したい思いが出ました。
何か間違っていますか?このまま続けていいですか?
アドバイスをお願いいたします。

726鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

727鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:32:11 ID:BPNow3.w0
>>720>>721 そうじゃ、何でも試して見たら良いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>722 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

>>724 趙州頭上無靴跡なのじゃ。

>>725 それでよいのじゃ。
 空間の意識と繋がったのじゃ。
 空間がおぬしの意識となったから体の中で聞こえたように思ったのじゃ。
 空無辺の始まりなのじゃ。
 瞑想の邪魔になるならば制感の行をすると良いのじゃ。

728そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/03(水) 07:42:34 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
>>723をお願いします。

729避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 11:30:48 ID:LC3de7YgO
>>727
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘とマハームドラの鬼和尚解説を通して今まで教えていただいたことの集大成を読めているようであります。

>>726
>分別(や認識、思考感情)なども本来は何の主体も無く自動的に起こるもの
→感覚や感情の自動性は理解できるし、思考も記憶の組合せと言う意味での自動性があるのかなと思いますが、記憶だけは個別のものという感じが拭えません。
しかし、その先の認識の自動性ということについては、なんとなくそんなものかもという気もするので、だとすれば、記憶も自動なのかな・・・と

記憶も認識も主体なく自動であるとすると、起こる事=認識や記憶の対象は自動ではないとしても、起こった事実に対する認識は主体がない以上一つの認識になるはず・・・うぅぅ

>分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いもの
 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われ
>一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
>認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れる
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすから
  
→重要なのはこの辺を実践により体得することなのですね。道は遠いですががんばります!

730避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 12:50:31 ID:nm8il/2Q0
鬼和尚さん、こんにちは。

最近、やっと数息観で集中力がついてきました。
息を数えながら意識を集中して、10分の間、気がそれても、すぐに元に戻れるようになりました。
それで、さらに進むには、どうしたら良いのかを教えてください。
気が逸れることもないほどに、10分間集中できるように、練習したほうがいいのか、
自分の心を観察する練習をはじめたほうがいいのか、どちらが良いでしょうか?

731素人A:2014/12/03(水) 14:35:46 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんひまで落ち着いた性格のひとは数息感で歩いたりパソコン見たり
テレビ見たり出来ると思うけど今の私はあれも是もしたいで少しも落ち着きが
ない困ったものだ色々な物を求めるの網止められない別に色々手足を出しても
大したものないと解っているけど人間だもので楽しい事を求める数数える暇は
無い事もないのだけど次々であせるばかり此処で書いている時は落ち着いているか
ぽ師匠も無事帰還したし少し数数えようコンビニざ前だ

732避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 17:09:50 ID:LC3de7YgO
一つの意識に全ては包含されるということが実感できることが悟り一側面なのでありましょうが、その世界は、自他も明暗も美醜も快不快も時間も世界という境界もない世界であり、安らぎのみあり、他に何もないとしたら、そこへ行きたいと思えるほどに強く「苦」を観想できるか、実感できる経験がまず必要なののかもしれないと思いました。
心の深奥を観察すれば、「苦」はいくらでも掘り起こせそうに思えますので、修行に取り組む強い動機を失わないためには、縁起の法等で簡単に楽にならず、「苦」を温存した方が良いのでしょうか?
(´・(エ)・`)ゞ

733725:2014/12/03(水) 20:55:39 ID:Pbg1oRkU0
>>727
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚は私だったのですね!ウフフ
実を申しますとずっと遊んでおりましたところ、鬼和尚のおかげで尻に火が付いたのです。
本当に感謝いたします。ますます精進いたします。

734鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

735鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:59:52 ID:gKd/0M7o0
>>728 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>723 悟っていないのじゃ。
 言葉の意味もわかっていないようじゃ。
 真我などないのじゃ。

>>729 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>730 そのまま続けるのじゃ。
 やがて雑念がありながら集中できる状態になるじゃろう。

 そしてさらに続ければ雑念が自然に止まるまで流していけるようにもなるじゃろう。
 雑念や思考が止まり、それにもかかわらず意識はある状態に気付くじゃろう。
 それが無念無想の状態なのじゃ。

 思考や雑念に邪魔されず、観察する事が可能になるのじゃ。
 そこまで行ったら観察をするのが良いのじゃ。

>>731 パソコンのやりすぎだとクリック一つでいろいろできるから散漫になるの字や。
 一日1時間とか時間を決めてやると良かろう。

>>732 特に苦が無くとも、他の衆生を観察すればいかにひとは苦によって苛まれるかわかるじゃろう。
 それを観るが良いのじゃ。
 自分の苦は少ないほうが良いのじゃ。
 できることが多くなるからのう。
 自分の可能性を広げるのじゃ。

>>733 どういたしまして、またおいでなさい。

736そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/04(木) 07:37:05 ID:rzoJTJNQ0
>>735
ありがとうございました。

737避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

738避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 12:45:30 ID:xqk39LY60
>>735
鬼和尚さん、ありがとうございます。
では、次は、雑念があっても集中しているという感覚が掴めるまで
やってみようと思います。
鬼和尚さんのように教えてくださる人がいて、本当に良かったです。
ありがとうございます。

739鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

741避難民のマジレスさん:2014/12/05(金) 18:47:48 ID:jfWCoXjM0
>>739
法は理解するだけでなく、本心に向けて実践すべきものと再認識できました。

鬼和尚の案内で道を間違えないですみそうです。いつもありがとうございます_| ̄|○

742そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/05(金) 20:26:25 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
感興のことば 第32章 修行僧のところで
『「わがもの」という観念がなく』の辺りを読んでいて、
私が思考する時はたいてい、何物かを我が物としようとしているのだと気付きました。
対象をとり挙げて、あれこれと考え、考えの中にオリジナリティを見出し、
他人はこうは考えないだろう、こう考えるのは自分ならではだと思い、
そうやって「我」という感覚を得ようとしていたようです。

743鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:39:51 ID:N4ZFFlx20
今日も学ぶのじゃ。

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。
 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。

 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。
 これが法の至高の光となる。
 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。

 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。
 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。
 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。

 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。
 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。
 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。

 しかしどのような者でも良い訳ではない。
 グルも又選ばなければいかんのじゃ。
 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。
 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。
 
 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。
 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。

 ここまでなのじゃ。

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:41:41 ID:N4ZFFlx20
>>741 そうじゃ、自らの本心を明らかにするのが真の実践なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>742 良い気付きなのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば悟りも近いじゃろう。
 見る者に気付くのじゃ。

745そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/06(土) 13:47:12 ID:rzoJTJNQ0
>>744
ありがとうございました。

746避難民のマジレスさん:2014/12/06(土) 14:46:04 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
ぷよぷよとかブロック崩しとか、誰でも勝ったり負けたりできるゲームは、普通の人がはまるので、定番の入門ゲームとして不動地位を占める。
チョピッと頭の良い人や反射神経のよい人はすぐに攻略法を見出だすのですぐに飽きちゃう。
ゲーム人口が増え、普通の人もみんな少しずつ上達し、ゲーム作家は飽きられないようにゲームは少しずつ複雑化してきた。
文明文化芸術等はきっと、こんな風だったのかなと・・・・「欲」についてボーッと考えてたら思い付きました。
どんなゲームにも、きっと、攻略法はあるのでしょう!

鬼和尚は悟る前、ゲームとかやったことありましたか?

747鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:22:10 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。
 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。

 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。
 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。

 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。
 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。

 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。

 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。
 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。
 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。

 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。
 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。

 そうすればもはや行いは無い。
 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

748鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:23:35 ID:N4ZFFlx20
>>745 どういたしまして、またおいでなさい。

>>746 昔は将棋などもやったのじゃ。
 インベーダーとかもやったのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 01:00:56 ID:LC3de7YgO
>>747
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
> それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。

→小乗の観念を生み出す行い、執着の元となる「修行法(?)」具体的にはどのようなことをいうのでしょうか?

>真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。
→大乗では「止」を重視し、小乗では「観」を重視してきた。ここではマハームドラの法(「空」の法)をイチオシとしているけど、
 方法論としては相互補完的に、いいとこ取りで、目的に向かおうというような理解で良いのでしょうか?

>行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
→とは、単にマハームドラの法の言い換えという理解で良いのでしょうか?

750避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 20:06:33 ID:jfWCoXjM0
     (~)
    γ´⌒`ヽ
     {i:i:i:i:i:i:i:i:}   ブッコクドハ
    (  ´・ω)   ココデスカ?
      (:::O┬O
 = ◎-ヽJ┴◎ キコキコ

751鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:18:44 ID:N4ZFFlx20
又続くのじゃ。

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

 儚いこの世は実体が無いものである故に、それを捨てて血縁の者とも別れるのじゃ。
 欲と憎しみをも捨てて、山林などで瞑想するのじゃ。

 行いを捨てて心の自然な状態を続ければマハームドラーにたどり着き、達成できない事を達成するというのじゃ。

 達成できないものとは、それを達成する自己が無いからなのじゃ。
 自己が無く、達成するという観念も無いときに、人はマハームドラーにたどり着き、悟りをも達成したといわれるのじゃ。

 木の根を絶てば木の葉は枯れるように、心の根を絶てば輪廻は消える。
 心の根とは無明であり、自己があるという観念なのじゃ。

 どのような灯りの光も、長く続いた暗闇を払う事が出来るように、気付きの一瞬があれば無明を払う事が出来るのじゃ。
 自己という観念が本当は実在せず、観念のみであると一瞬気付きがあれば十分なのじゃ。

 そうすれば自己を中心に今まで持ちつづけていた観念、自分と他人、敵と味方等の観念も一切が瞬時に消える。
 今まで無意味な事に囚われ、行い彷徨っていた全てを変えるのに、ただ一瞬の気付きがあれば良いのじゃ。
 
今日はここまでなのじゃ。

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:22:48 ID:N4ZFFlx20
>>749 それらは自分が行うという観念があれば、全てがそうなるのじゃ。
 止観や四諦や縁起を観るのも自己という観念に囚われれば執着の元になるのじゃ。

 相互補完と見て良いのじゃ。
 自分がやり易い方法で進むのが良いのじゃ。

 それがマハームドラーで良いのじゃ。
 それも無というのがマハームドラーであるがのう。

>>750 おぬしの心がすでに仏国土なのじゃ。
 心の中心に仏が居るのであるからのう。

753避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 22:51:17 ID:LC3de7YgO
>>751
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
死すべきものとしての人が究極の「苦」であるその死を乗り越えるには、、まず、永遠普遍のもの以外は全て「実体」のないものと位置付け、実体のないものは観念に過ぎないものであり、その観念に過ぎないものをの根幹である「自我」をまず消し去る。
その上で更に意識をも消し去り、「空」「マハームドラ」と合一化する。

という理解で良いのでしょうか?

時間や実体等々に関する観念を乗り越えるために、ありとあらゆる修行方があると言うことでありますね。

754避難民のマジレスさん:2014/12/08(月) 18:59:52 ID:jfWCoXjM0
>>751
解説ありがとうございます_| ̄|○

気づきが起こって無明を払っても、これまでの習慣から無意識のうちに
以前の無明の状態に戻ってしまうことってありませんか?

755鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。

 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
 修行をすれば修行をする自分が強まる。
 安楽になれば安楽な今の心に執着する。

 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。

 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。

 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。


 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。

 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。

 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。

 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。

 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

756鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 23:00:07 ID:0erK2p060
>>753 それでよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>754 そのような事は無いのじゃ。
 例えばくちた縄を蛇と間違えていた者が、それを縄だと気付いたら二度と蛇とは思わないようにのう。
 気付くとは、文字通り今までの間違いに気づき、正しい認識を取戻す事であるから、戻る事は無いのじゃ。
 人と話をするために、自我があるふりをすることはあるがのう。

757避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 01:43:07 ID:LC3de7YgO
>>756
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

金剛般若経の暗記は中断して、般若心経から岩波文庫の解説の精読を始めました。
四回ほど熟読してみて気になるところが一ヶ所だけありました。
第21刷の21ページ、13行目に「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」と説明されているのですが、空=相関的という説明に違和感を感じます。
違和感の理由は説明できないのですが・・・。

758素人A:2014/12/09(火) 10:38:20 ID:lrr2AdnA0
真でも死んでも芯でも新でも解らないカラー空?
我々我求めても身得ない仕組みの言葉にもならない世界の仕組みが有る世うな
我々が生きている間は見える部分と見えない部分カラー成り立っている
枝の感覚は見えているけど見えないところもある。
見えない不文は肉体が新でも枝より身樹の部分で枝か落ちてもまた新しい枝が出る
それより元は限りなく枝分かれの逆で元の元を求めたら無限に続くのか
哲学的に最後は 嘘から出た真に たどり着いて居直るしかない。
このことわざの真の意味は凄い事いつている野鴨 嘘カラー出た誠もありの鴨
後は鬼和尚さんに聞くカラー 嘘空飛び出した独りの人は一人だけでは寂しいので
虹の世界を夢見るのでしょうか色々あるカラーでにぎやか過ぎるとうるさくて困るし

759避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 12:06:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

Aさんの文章を読んでて「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」、空=相関的という説明に対する違和感の理由を思い付きました。
「空」とは生でも死でもなく、あるでもないでもない、ただ「無」のみによってあらわされる。
背景として、まず「無」があり、そこから「有」が生まれ、また「無」に帰る。
「空」を相関的と説明すると、生あっての死、有あっての無みたいな感じで、空あっての何なのか? みたいな発想を私がしてしまうので、違和感に繋がったのかなと思いました。
「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」とは、「無」を背景としつつ、全てを包含するその構造のことを説明しているのかなと思いました。

で、「空」とは、極めて希な確率でこの世に生まれ、死んで行く人の「死」のイメージそのものかなとも思いました。
「空」を観想することは、「死」を観想することと一緒で、自分を観察しつくすことは、自分の死を観察しつくすことなのかなと思いました。
こんな理解でも良いのでしょうか?

760避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 18:54:32 ID:QMm34KcU0
鬼和尚のような徹底した悟りを得てしまうと、普通の社会では、かえって生き辛くなるということはありませんか?

761避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 22:32:35 ID:jfWCoXjM0
>>755
解説ありがとうございます_| ̄|○

一切の識別を離れた観察と、無意志による観察と、観照は同じものですか?

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:10:21 ID:q5vkUh4s0
今日で終わりなのじゃ。

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。
 執着の無い行いは智慧となる。
 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。

 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。
 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。
 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。

 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。
 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。

 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。
 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。

 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。
 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。

 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。
 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。

 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。
 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。

 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。
 分かれていたものが一つになるのではない。
 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。

 もはや自分も他人も無い。
 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。
 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。
 
  
 
 これでマハームドラーの解説は終るのじゃ。


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