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鬼和尚の経典解説まとめ

28避難民のマジレスさん:2024/07/05(金) 11:45:44 ID:1y/2TaZY0
<解説・十牛図>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/976
より抜粋

976:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/11(金) 21:08:13 ID:kaXJvxhM0

>>974  十牛図は元は道教の修行の為のものであったという。
 元々道教の聖なる数字である九図であったというが、禅の者がとりいれて一図を足し、十牛図にしたという。
 最後に入れられた入鄽垂手図では悟りを得た後、人々に教えを説く事が現されておる。
 それこそお釈迦様から連なる仏教徒の姿なのじゃ。

 一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
      牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。

 二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
      心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
      心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。

 三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
      己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
      完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。

 四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
      想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。

 五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
      好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。

 六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
        自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。

 七.忘牛存人 牛は消えたが人はある。自我は観察による気づきにより完全に滅したのじゃ。
        しかし、未だそれを認識しているものがある。
        その認識さえも滅しなければ真の悟りではないのじゃ。

 八.人牛倶忘 人も牛も無くなった。無我を認識するものも無くなれば真の悟りなのじゃ。
        無認識にまで至って真の悟りなのじゃ。
        そこには言葉でも図でも表されるものが無いのじゃ。

 九.返本還源 全部元に還った。偽りの認識が滅してしまえば、世界の真の姿が見えるのじゃ。
        赤子の頃に見た輝く喜びの世界に回帰するのじゃ。

 十. 入鄽垂手 現世に戻り教えを説くのじゃ。大乗仏教では修行に入る時に悟りを得たならば後進の者に教えを説く事を誓うのじゃ。
        真の悟りを得たならば誓いを果たすのじゃ。
        それすらも肉体が滅するまで続く修行なのじゃ。


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