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鬼和尚の経典解説まとめ

68避難民のマジレスさん:2024/08/09(金) 10:55:40 ID:6tKR/mPU0
520:避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:42:37 ID:idQKiClY0
>>519
問答12

問:心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

答:探究以外に適切な方法はない。
他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。
けれども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが思わないようにとの神の意志によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中される。
心はつねにさ迷いつづけるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだろう。


522:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 23:35:11 ID:1d4drIFg0

集中の瞑想は観察のための助けになる方法に過ぎないのじゃ。
それによって得られる仮の心の静けさによって、観察を容易にするだけなのじゃ。
心の真の静けさは自らの主体を見ることによって訪れるのじゃ。
それによって真の大悟徹底もできるようになるのじゃ。


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