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鬼和尚の経典解説まとめ

103避難民のマジレスさん:2024/09/12(木) 10:43:29 ID:qu33Whyg0
0081鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 23:56:04.87 ID:6AXOW6C6

***
 師よ、わたしが今、このような教えを聞いて、信じて受け入れる ことは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その者はこの上なく希有でありましょう。なぜならば、その者には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」

***

 更に須菩提長老は続けて、
 自分がこの経を受け容れて理解するのは難事ではないというのじゃ。
 後の五百年になってこの経を受け容れて記憶して理解する者こそわしよりえらい、とかいうのじゃ。
 
 何故ならばそのような人は前述の自己認識の四つの観念がないからなのじゃ。
 それらの観念すらもないというのじゃ。
 一切の観念を離れたものが仏陀であるからなのじゃ。

 つまりこの経を受け容れて、理解できるようなものはもはや悟っているというのじゃ。
 悟っていなければ理解できないというのじゃ。
 一切の観念がない仏陀であればこの経を受け容れて理解できるというのじゃ。
 そうであるから自分よりも偉いと須菩提長老はいうのじゃ。

 本来、経とはまだ悟っていない修行者のためものじゃ。
 悟っていない者たちが経典を学び、実践して悟りを目指すのじゃ。
 悟ってしまえばもはや経典はいらないのじゃ。

 しかし、この経は悟っていなくては理解できないというのじゃ。
 それでは修行者はどうすればよいのか。
 理解できなくとも悟っていない者達はただひたすら信仰によって、実践するしかないのじゃ。
 実践することで観念の切断を学び、身につけ、全ての謬見と煩悩を断じて進むのじゃ。


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