これは正しく、藤原さんが15年ほど前の『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)で診断された日本の病理現象である、4種類のネットワークの構成要素のひとつであり、今に至る『 Japan's Zombie Politics 』のサブタイトル『 A Tragedy in Four Parts 』の『 One Part 』であると考えます。
さて、ここらで心機一転して、No.14で『Japan's Zombie Politics』の副題『A Tragedy in Four Parts』に少し触れさせて頂きましたので、前に少し書き溜めておきながら放っておいたままにしていた内容のものを思い出しましたので、このたび文章として再構築した上で『英語版Japan's Zombie Politicsの出版について』へ投稿させて頂きます。
おかげさまで、「ミツコ・クーデンホーフ・カレルギー」が、あのゲランの香水で有名な「ミツコ」に繋がったことや、映画「カサブランカ」から、当時のフランスの植民地であったカサブランカでボギーが経営していたお店にやってきた客が、恋敵役ラズロの妻で、嘗てはボギーとはパリで愛し合い、いつの間にか消息不明となったイルザ(これがミツコという説もあり)ということになり、あの「君の瞳に乾杯(Here's looking at you, kid)」をはじめとした数々の有名なセリフを生み出したことは、今でも語り告がれておりますね。
せっかくなので、他にも有名となったセリフの一部を以下にご紹介させて頂きます。
"Where were you last night?" (昨日の夜は何をしてたの?)
"That's so long ago, I don't remember."(そんな昔のことは覚えてないな)
"Will I see you tonight?" (今夜は会ってくれる?)
"I never make plans that far ahead." (そんな先のことはわからない)
他にも、Samへ弾いてくれとお願いした時のセリフが、"Play 'As Time Goes By.' などいろいろごさいますが、リックがイルザに言った"Maybe not today, maybe not tomorrow, but soon. And for the rest of your life."というセリフを、「今はよくても、きっと一生後悔する」と訳した方の腕前には流石!と唸らざるを得ません。
ひとつ書き忘れたが、シエナにはキジアーナ音楽院(Accademia Musicale Chisiana)という知る人ぞ知る音楽院があり、その設立者がグイド・キジ=サラチーノ伯爵という名前の方であることから、尾崎さんが投稿で挙げられたシエナの銀行家アゴスティーノ・キジの末裔である可能性があると思う。もしそうであるならば、ルネッサンスのパトロン精神が今も生き続けていることになり味わいのある話であると思った次第です。
「シチリアーノ(シシリエンヌ)」は、フォーレの劇付随音楽『ペレアスとメリザンド』(Pelléas et Mélisande)の中でも、フルート独奏が入ったオーケストラによる組曲として知られており、単独で演奏される機会も多い有名な作品ですが、原曲はチェロとピアノのデュオ用に書かれたことを、実は今日はじめて知った次第です。
先日フォーレの「シチリアーノ(シシリエンヌ)」を楽しむ機会があったと、No.59で述べさせて頂きましたが、同じ日に、ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Friedrich Smetana:1824〜1884)の「モルダウ」も聴く機会にめぐまれました。
スメタナの代表作である、連作交響詩『わが祖国』(Má Vlast)の中でも最も有名で、単独演奏される機会も多い「モルダウ(原題:ヴァルタヴァ=Vltava)」は、日本では合唱曲として編曲されているほどで、誰しも一度は耳にしたことがある曲と思います。
◆ベートーヴェンはシラー(ゲーテとともにドイツ古典主義の代表者)の詩『歓喜に寄す』を第四楽章の歌詞に取り入れた『Symphony No.9 in D minor、 Op.125』を作曲しています。晩年にシラーが重視した精神的自由には、ゲーテの「ヒューマニズム」と「プロテスタントの救済の精神」に通ずるものがあり、それは産業革命(科学技術発展≒頑迷固陋で殆どカルトに近いという意味での制度設計主義)の台頭と賭博化した資本主義経済の発達によって分断され孤立化した一般民衆への励ましでもあったと見なすことができます。
1784年にシラーは、貴族と町人(音楽家!(笑))の娘の間の恋愛をテーマにした劇『Kabale und Liebe』(邦題:たくらみと恋)を発表、フランクフルト・アム・マインにて4月に初演され、大成功を収めた。その頃ザクセン王国のライプツィッヒに、この作品に痛く感化され、心の底から共鳴し、シラーを尊敬崇拝敬愛して止まない若いカップル達が居た。男は貴族、女な銅版画家の娘姉妹達で、自らの結婚を親に反対され、絶望の淵に沈んでいたのであった。
富裕な男の名前は、Christian Gottfried Körner(最も近い発音:キュウオナー)。彼らは、人間シラーの思想やその作品に対する絶大なる信頼と賛同を手紙に記し、シラーにエールを送り続けたが、結果として、1785年にシラーは(金に困っていた、という事情もあり)、彼らの招請に応じる形で、男の所有するドレスデン近郊の館に身を寄せるのである。シラーとキュウオナーは信頼関係を築き、数々の手紙のやりとりがあるが、その中であるときシラーは、知り合いのボーデ(Johann Joachim Christoph Bode)(軍楽隊のオーボエ奏者、音楽家、翻訳家、クロップシュトック、レッシング(『賢者ナタン)』等の著作の出版者)から、クンドコ団への加盟を薦められた(誘われた)ことを伝え、どうすべきか相談するのである(やっぱり出てきたか)。
鈴木さんがNo.92で重要なご指摘をされたように、シラーが最初に第九の『歓喜の歌』の元になった詩を書いたのは1785年(1786年?)ですが、この時の題名は『Hymmne a la liberte(自由賛歌)』であり、1803年になって、一度シラーによって『An die Freude(歓喜に寄せて)』書き直され、後にベートーヴェンが第九の第四楽章の合唱向けに冒頭部分の追加修正を行っております。
この間の歴史の変遷につきましては、先に鈴木さんからご提示頂いた年表と当時の欧州、特にフランスやドイツ辺りの歴史と対比してみれば何が起こっていたか気が付くことと思います。もちろん、彼が何に影響を受け、どのような影響を与えてきたかについても。。
特に鈴木さんから既に続けてコメントが投稿されておりますように、Christian Gottfried Körner(日本語では「ケルナー」と呼ばれることが多いようですね)は要着目です。