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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて
14
:
尾崎清之輔
:2007/11/18(日) 00:55:34
(前項より続く)
また、以下のインタビュー部分に関しては、私にとって別の意味でピンと閃いたものがあり、それは先のハリー・クプファーが指摘した「倒錯した観念の世界に生きる」精神構造と二重写しになっていると思われました。
◆ワーグナーの作品では、性別の枠を超えた人と人とのセクシャルな愛情関係が非常に重要な役割を果たしています。ブランゲーネのイゾルデに対する愛情も、クルヴェナールのトリスタンに対する愛情も性的なものに結びついている。とりわけ重要なのは、マルケ王のトリスタンに対する愛情です。
これは正しく、藤原さんが15年ほど前の『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)で診断された日本の病理現象である、4種類のネットワークの構成要素のひとつであり、今に至る『 Japan's Zombie Politics 』のサブタイトル『 A Tragedy in Four Parts 』の『 One Part 』であると考えます。
更に、先述の二重写しの精神構造は、将基面貴巳さんが『反暴君の思想史』(平凡社新書)で看破されていた、マックス・ヴェーバーの「心情倫理」には決して成りえない、三島由紀夫の「心情主義」にも通ずるものがあると考えており、それがセリフ無しの映画『憂国』の音楽に『トリスタンとイゾルデ』から歌の全く入っていない抜萃曲(しかも226事件の年である1936年版)を全編に渡って使ったことが関係しているのであれば、美学や純粋性や日本的良心といった『穢れのない清明心』への只管さと憧憬と純化に邁進してしまうことと、その逆立ち現象のみしか存在しかねない危険性をも孕んでいると考えますので、そのような1300年以上に渡るとも言われている「鎖国の精神」を司る「執拗低音」に対して、「公共善」や「共通善」を浸透させていくためには、個々人がそれぞれの立場とか立場を超えて不断に探求する努力を欠かしてはならないと思います。
最後に、果たしていま多くの人間は、『いつわり』を受け入れているのか、それとも『いつわり』にさえ気が付かなくなってしまっているのか、先に申し上げましたように、このオペラ演出家は作品を通じて問題提起をしているよう見受けられましたが、社会(延いては世界)の中における「個」という存在を良く見詰めなおし、「個」が抱える問題を普遍的な問題であるとして考え行動していくことの重要性が、私たち一人ひとりに問い質されていることは確かではないでしょうか。
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