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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

52尾崎清之輔:2007/12/13(木) 08:01:09
(前項より続く)

また、村上さんは、福澤諭吉の『学問のすすめ』にも触れており、福澤の説く「実学」が、単純に「世の中に役に立つ知識」のことではなく、一部からは「虚学」とも言われている「あまり役に立たない知識」のことでもなく、自分を造り上げるために必要である、あらゆる「役に立つ」ための知識活動であれば、福澤自身が「実学」の中に「修身」を含めていることからして、それらは全て「実学」であると仰っております。


◆その<Bildung>という概念を考えますと、福澤が、実学の中にちゃんと「修身」、「身を修める」という項目を入れているということは慧眼だと思います。自分を修めること、きちんとした人間として、正しいと思う方向に向かって自分を造り上げていくことをもって教養と理解するとなると、市井の中に埋もれている生活者、先に実は知識人ではないといった鋳掛屋さんだとか、花屋さんだとか、農民だとかいうような人たちの中にも、自分をしっかり持って、自分を見つけて、自分をきちんと造り上げていく人はいると確信しています。自分が親からいろいろ教わったことを受け継ぎながら、さらに気持ちを開いて、他者の言うことをよく理解しようとする姿勢を持ち続ける。その中で批判も生まれ、受け入れるべきものと、受け入れられないものとがきちんと分別され、その分別のための基準(私好みの言葉を使えば、まさしくそれは「規矩」ですが)が、次第に明確になる。こうして少しずつきちんとした自分というものが造り上げられていくことができれば、別段ギリシア・ローマがどうであったか、<mathematica>がギリシャ語であるなんていう知識は一切持たなくても、そういう人は十分教養のある人だと考えていいと思います。

◆つまり何を材料にして自分を造り上げるか。広い知識や広い体験は決定的に大事な材料の一つですけど、全部ではない。造り上げるというと、いかにも何かがちがちに造り上げた完成品ができてしまうように見えますけど、そうじゃないんですね。自分というものを固定化するのではなく、むしろいつも「開かれて」いて、それを「自分」であると見なす作業、そういう意味での造り上げる行為は実は永遠に、死ぬまで続くわけです。もしかすると死んでからも続くかもしれない。その中で、一生をかけて自分を造り上げていくということにいそしんでいる、邁進している。それを日常、実現しようと努力している人を、われわれは教養のある人というのではないか、そう私は思っています。


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