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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

8尾崎清之輔:2007/11/13(火) 00:18:02
昨夜の私の文章に余りにも飛躍し過ぎて分かりにい部分がございましたので、追記させて頂きます。

『投機』という言葉の語源が、禅語で「修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指す」ことや、「身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る勇気のこと」であったにも関わらず、『いつのまにか商取引などという概念だらけの世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になってしまったのはどうしてなのだろうか』、と玄侑宗久氏が仰ったことに対して、私の昨夜の文章では、

>ちょっと歴史を振り返れば、マネーが価値交換媒体としての役割以上の存在になってしまってから、非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。

に続く形で、

>しかも、マネーは今やほぼ完全に電子化されてしまったため、本当に文字通りの単なる概念でしかなくなくなってしまい、

となっており、これでは肝心な説明(私見)が全く為されていないことに、恥ずかしながら読み返してみて気が付きました。

この『非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。』の文章の後に、

◆本来の『投機』を意味する「身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る」ための一環としては、自ら築き上げてきた「財」を捨て去ることも含まれており、これは元来「浄財」と呼ばれ、「布施」とか「喜捨」と同様の意味を持つ、愛他的精神に結び付いた、公共や公益また慈善事業に使われるお金のことを示すはずであると思いますが、この「浄財」という言葉さえも、今や横文字にすると文字通りの「マネー・ロンダリング」になってしまい、本来の「浄財」が持つ意味とは大きく懸け離れてしまっていることから、嘗て藤原さんが自著で喝破した「革命」という言葉と同様に、「浄財」も矮小化されてしまったのではないかという私見を持っております。従いまして、『機に投ず』が、短期決戦的な即時的満足(つまり市場原理主義社会や賤民資本主義社会においてはマネーないしそれに準ずる存在)という意味に捉えられてしまうようになったのではないかと思う次第です。

という一文を付け加えさせて頂きます。


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