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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて
58
:
尾崎清之輔
:2007/12/21(金) 15:22:21
(No.57から続きます)
『事物の本性について現在認められている見解と矛盾するという理由で』容赦なく却下する権威が、その一方では『定説に著しい修正をもたらすような見解に対して最大級の敬意を払う』ことに対して、ポランニーは、
◆こうした明らかな自己矛盾も、私たちが外界を認識する際にいつもその底流にある、形而上学的根拠に立脚すれば解決される。ある物体を見ると、その物体には別の側面と隠れた内部があり、私たちはそうしようと思えばそれらを探求できるということが分かる。つまり、誰かを見るということは、無限に存在するその人の精神と肉体の隠れた働きをも見るということなのだ。知覚とはかように底なしに奥深いものなのである。なぜなら、私たちが知覚するのは実在(リアリティ)の一側面であり、したがって数ある実在の側面は、いまだ明かされざる、おそらくいまだ想像されざる、無限の経験に至る手掛かりになるからである。
また、全く連携性が無かったにも関わらず、複数の同時的な発見や新見解の提示といったことについては、以下のように述べております。
◆事が成就する(イヴェント)以前に未来に目を向けているという点で、発見の行為は、個人的で不確定なもののようだ。それは、問題の孤独な暗示、すなわち隠れたものへの手掛かりになりそうな種々の些末な事柄の孤独な暗示から、始まるのである。それは未だ知られざる、一貫した全体の、断片のように見える。こうした試行的な先見性(ヴィジョン)は、個人的な強迫観念へと転じられねばならない。なぜなら私たちを悶々とさせぬ問題は、もはや問題とは言えないからである。その中に衝迫(ドライヴ)が存在しなければ、問題は存在しないのだ。私たちを駆り立て導く、この強迫観念がどこから由来するものなのか、それは誰にも分からない。なぜならその内容は定義不能で不確定なものであり、きわめて個人的なものだからだ。実際、それが明らかにされていく過程は「発見」として認識されるだろう。その理由は、言うまでもなく、所定の事実に明白な規制をいくら適用し続けても、そうした発見に到達することはできないからである。真の発見者はその大胆な想像力の偉業によって称賛を受けるだろう、その想像力は思考の可能性という、海図のない海を渡ったのである。
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