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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

38尾崎清之輔:2007/12/02(日) 22:52:56
ところで、十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、このシエナ出身の銀行家にアゴスティーノ・キジという人間がおり、当時の教皇ユリウス二世にとりいって、メディチ家にとって代わるほどの財力を持つ実力者へ成り上がったことと、メディチ家と同じく芸術を愛していたことから、ラファエロとも親交を持って(正確には目をかけていた)おりましたが、このアゴスティーノ・キジに熱愛されたのが、26歳という若さで亡くなったインペリアという、当時のローマで最も有名なコルテジアーナであり、これまで私が何度か引き合いにさせて頂いた「ラ・トラビアータ(邦題:椿姫)」のクルティザンヌをイタリア語にしたのがコルテジアーナであることを知ったことで、漸くその歴史的な背景を正しく理解することができました。

先に紹介した書籍では、コルテジアーナを「芸奴」としておりましたが、やはり日本にはそのような歴史が存在していないので、だいぶご苦労されたなと思いつつ、該当する箇所について、以下に抜粋させて頂きます。

◆コルテジアーナがローマにおいて特別な例外的地位を得たのには、いろいろな理由があった。ボルジア治下においては、上流社会の婦人たちは勢力と批判力を持っていた。とくに彼女たちは教会の堕落に対して非難をしていた。したがってユリウス二世は、これらの婦人を教皇庁から締め出すことを試みた。アレキサンデル六世の時代以来ますますいちじるしくなった風俗の退廃に対して、上流社会の婦人たちは顰蹙し、ローマに住むことを喜ばなかった。ユリウス二世の時代、教皇庁に勤めるものたちは、婦人を自分の家にとどめた。ローマは子女を教育するのに適さない都市であった。気位の高い婦人たちは、自分の代わりに主人の日常の世話をコルテジアーナに任せることを、あえてした。高級なコルテジアーナは枢機卿や外国使節、文学者、詩人、美術家たちと交じわり、彼女たちはルネサンスの「サロン」を支配した。インペリアはもちろん、そのなかでも最も有名なコルテジアーナで、枢機卿の住まいにも劣らぬ大邸宅を持ち、彼女の名前のようにローマでも最も自由奔放に振舞った。

◆彼女の住まいは、このように洗練された住まいであった。スペインの行儀の悪い使節が絨毯の上に唾を吐こうとして、そこに立っていた召使いの顔に吐きかけて、「許してくれ、ここには、お前の顔より汚いものは何もない」といったエピソードが残っている。

そして、先述の通りインペリアは26際の若さで夭逝されましたが、多くの方々に愛されていたようで、それが死を悼む数多くのエピグラムへと繋がるのですが、先の著書ではブロシウスのエピグラムが載っておりましたので、以下紹介をもってこの文章を閉じさせて頂きます。

◆二人の神がローマに二人の大きな贈り物をした。マルスは至上権(インペリウム)を、ヴィーナスはインペリアを。彼らの力は比較すべくもなかったが、この二つに対して、二人の力があった。それはすなわち、幸運と死であった。幸運はインペリウムを滅ぼし、死はインペリアを滅ぼした。われわれの祖先たちはインペリウムに対して嘆き、われわれはインペリアに対して嘆くのである。われわれの祖先たちは、この世の支配力を失った。われわれは、われわれ自身と、われわれの心を失ったのである。


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