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立ち話・雑談スレッド

183エキストラオ:2011/01/26(水) 19:42:28

★ここの粛某くんてのは・驚くほど ノー天気だね・・・久しぶりに

大爆笑させてもらった・・・・いや・・アリガトアリガト・・・

庶民の苦悩救済だってさ・・・・

はははははははははははははははははははははははははははははははははっ・・

おかしいね。        

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184京阪電車でいこか ◆AIo1qlmVDI:2011/01/29(土) 01:39:52
>>183
「庶民の苦悩救済」を“しない”宗教だと認めたんか。なるほど。

さすが、人の死をもてあそぶ“信徒”(=トラオ氏)の所属する邪教だ。

185副管理人Z:2011/01/30(日) 21:37:23
188 :怖くて名乗れません:2011/01/27(木) 09:10:35
所や能と言っても依、用、化、証といろいろあって難しいです。
正しい使い方をご存知の方おられましたら教えてください。
よろしくお願いします。

186副管理人Z:2011/01/30(日) 21:38:17
189 :堅皇:2011/01/27(木) 11:22:07
>>187 >>188 所依とはそのまま依り所の事ですね。
で、能化とは指導者の事なので師と言う事です。

所化とは所依により得たものを伝えるという感じですね。

これを仏法に置き換えると
所依が法であり能化が仏であると言うこと。

ここで何故に所化が出てくるかといえば法は人がいないと広めれないからですね。
故に「人法共に尊し」と言う事ですね。
しかし人を依り所とはしてはいけないとするのが「依法不依人」
これはご本尊(法)が所依でありご本尊を教えてくれた能化(仏や師などと言った人)を依り所にしてはいけないと言う事ですね。

能証や所証と言うのは証と言う事ですから能証が成仏と言った証(果)であり所証が法として証したもの。

これらを踏まえて仏法とは如何様にして能化(仏)となるかを証した法であり所依となるものと言う事ですね。

しかし仏法では所依となる経文が山の様にある。
では一体どれを所依とするべきかと言う問いに日蓮はそれは法華経であると言ったわけです。

何故所依とすべき経文が法華経なのかといえば法華経のみが真実を明かしているからだと。
ではその真実とは何かといえばそれは「諸法実相」であると。
諸法がそのまま所依であり実相が能化と言う事ですね。

つまり法華経では所依を単なる法華経のみではなく諸法(一切の法門)が所依であるとしたからですね。
また日蓮は本因となる諸法が九界からなり本果である実相が仏界であるとも言っている訳で
ここで「九界即仏界」「煩悩即菩提」が成り立っているわけですね。
故に一切の法や人は決して捨ててはいけない、その全てが仏に成るための本因であるからだと言っている訳です。

187副管理人Z:2011/01/30(日) 21:39:07
190 :エキストラオ:2011/01/27(木) 13:39:53

★その本因たる 本化第一番の行法を 御戒壇様だったと いう事で
我々は信仰している訳です。 いやそれを 事もあろうに池田君は・
捨閉閣倣としてしまった訳です。

しかし有り難くも『金剛宝器戒』により・本因妙を一度下種されたが
最期 成仏の佛因は植えられたので・最期は救済されます。

有り難い事でございます。 合掌・・なむなむ ちぃ〜〜〜〜ん。

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188副管理人Z:2011/01/30(日) 21:39:43
191 :堅皇:2011/01/27(木) 16:33:18
>>エキストラオさん

> その本因たる本化第一番の行法を御戒壇様いう事で我々は信仰している訳です。

故に日蓮正宗は法華経を捨てたと言わざるを得ませんね。
法華経では所依となる本因は諸法だといってます。
諸法とは言うまでもなく釈迦が説いた八万法蔵の事ですね。

この諸法実相という真実に反しているのが真言と言う事になりますね。
真言はこの諸法実相を捨てて真言こそが実相だとしたわけですから。
つまり真言はこれまで積み上げてきた法を全て捨て去ってしまったわけですから。
対する法華経はあくまで諸法実相ですから法華経を第一に中心に据えれば密教経典に書かれている事も諸法の1つと捉え
法華経に組む入れることが出来るわけですね。

さて、そこで疑問が生じます日蓮も南無妙法蓮華経が本因である「本因妙」と言ったのではないか?
これはつまり南無妙法蓮華経が真言であると言う事で諸法を捨て去ったのではないかと。
また御戒壇様が本因たるものと考えるのは真言と同様なのではないかと。

いやいや「本因妙」たる言葉は日蓮の真蹟には全く残っていないというのが近年の調べで明らかになったこと。
現存するのは日時さんの書写物しかなく確固たる日蓮が書いたとする証拠は残ってないのですね。

そこで日蓮は法華経の諸法実相を否定すべき「本因妙」と言うものを本当に書いたと考えるか?
法華経第一と唱えた日蓮がそんな法華経の理を捨てる事を言うとは到底思えませんね。
故にこの「本因妙」と書かれている「本因妙抄」「百六箇抄」は世間一般で偽書扱いされているわけですね。
創価学会もこれに倣い最近では「本因妙抄」や「百六箇抄」を用いる事はありませんね。

未だにこの真言まがいの「本因妙」を平気で使っているのは日蓮正宗ぐらいです。
「本因妙」は日蓮正宗"だけ"に伝わる秘伝だそうだ、つまりはこの秘伝を使ったときから日蓮正宗は法華経を捨てたという事ですね。

189副管理人Z:2011/01/30(日) 21:40:22
192 :エキストラオ:2011/01/27(木) 17:44:15


★とりもなおさず・正宗は インド応誕の釈尊は 無縁の者くらいの
扱いですよ。ですから釈尊の法華経も日蓮大聖人から見れば・ものの
数ならず・・ですね。もちろん釈尊の法華経も去年のカレンダーくら
いの価値にしか見ていません。

末法の法華経は『御戒壇様』なんです。シンプルですよ・・でなきゃ
一切衆生の救済は不可能ですから。

疑問たら真言たら真蹟たら証拠たら理たらなんとか抄たら・一切不要
なんですよ。 そんなもんに拘りあっていたら・あっという間に人生
終わりますからね。

釈尊の法華経も諸法実相も まったく不要のガラクタですね・当方か
ら見れば・・・ですがね。ですから・ 信心の対象が全く違うという
のは・大変面白いですね。

3000年前の骨董品を撫でさすり大切にしている人々もいていいんです
またそういう方々が居ないとつまりませんからね。でも・ある人々に
は・そういう骨董品は『味噌汁の具』にもならん無価値なものです。

それを価値あるモノとして眺める・・それは自由な世の中なんですか
らね。  いや・有り難いことですよ。

私等流に言えば末法の法華経信仰は 御戒壇様信仰・・法華経を持つ
とは御戒壇様に身口意の三業で信仰する事ですよ。これを法華経を・
持つといいます。

日蓮大聖人様も『受けるは易く持つは難しされば成仏は持つにあり』
と・・実にシンプルですね。何を持つかは 其の人々ごとに違います
それを無理強いしない事です。

二座の御観念文は傑作です。 もう二度とこのような素晴しい御観念
文はつくれないでしょうね。 本地難思ですよ・・しかし・・
その本地を『我も得たり我も得たり』『オレもオレもわかっちゃった
ンだよん』という『タワケ者が末法には頻出することになっています
から』別に驚く事でもないわけです。

本地は『わかっちゃったから秘伝じゃないもん〜』と云う人がたくさ
ん居るわけですね。 いいですね・・しあわせで・といったスタンス
で眺めている人々もまた居るわけです。

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190副管理人Z:2011/01/30(日) 21:41:07
193 :しげきょん:2011/01/27(木) 19:13:12
坊さん丸儲けを許す体質の宗門とは違う創価学会です
坊さんの日蓮学はうまいようにて供養餓鬼の非難をかわすものです


194 :しげきょん:2011/01/27(木) 19:24:22
日蓮正宗は日蓮もどきもどきのくせに本物ぶるな!

191副管理人Z:2011/01/30(日) 21:41:44
195 :堅皇:2011/01/27(木) 21:34:04
>>エキストラオさん

シンプルなのは良いんだけどその「御戒壇様」って
日禅さんの曼荼羅のパッチワークですよね。
構造を言えば学会の日寛曼荼羅と同じ作りとなりますから
確かに本尊と言えば充分に本尊に成り得ると言う話ではあるんですけどね。

それとも日蓮正宗にとっての大聖人って日禅さんとなるのか
はたまた「御戒壇様」ってのも血脈相承の儀式というものがあるものか
それこそ法主だけが知りえる秘伝と言うやつですね。

であればそろそろ古くなってきた「御戒壇様」は新しいものにお取替えになる日もくるかな。

諸法実相という法華経の理が不要のガラクタで
パッチワークの「御戒壇様」がそれ程大事ならばそれはそれで良いでしょう。

192副管理人Z:2011/01/30(日) 21:42:33
196 :エキストラオ:2011/01/27(木) 22:19:27


★此処ではパッチワークの云々という表現は少数派ですね。でもいいんです
。なにかを 拠り所として 人は生きているのですからね。

日興上人が 身延沢から お運びになられた御戒壇様・・はなしだけでも、
感激しますよ・私はね。

人は信じたい・・そこから入るのですよ。何故か・『有り難い』とおもう
からなんですよ。これを初随喜といいます。一念信解ともいいます・・
此れだけ有れば成仏できると 日蓮大聖人はおおせです。何故か????????

法が偉大だからです。 学問ある者も無い者も 富ある者も無い者も・
老若男女 悪人善人無差別に救われなきゃ大乗とはいいませんからね。

もう理はいいんですよ・・『事の事を行ずる』 これが本物ですね・
少なくとも私はこう信じているわけですよ。 信じられない人に信じろ
といっても・無理です。

有り難いと思えないものに有り難いと思え・・・無理ですね。
秘伝・儀式・血脈相承・素晴しい言葉ですよ・・

・・なあむぅーーーーー・・ちぃ〜〜〜〜ん・・・

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193副管理人Z:2011/01/30(日) 21:43:10
197 :怖くて名乗れません:2011/01/28(金) 05:23:35
>>187 >>188のものです。
訳あって名乗れません。皆さんすみません。
堅皇さん、エキストラオさん、はじめまして、そしてお答えいただきありがとうございます。とくに堅皇さん、目からウロコです。感激です。勉強になりました。ありがとうございました。

また、これもちょっと気になっちゃって。
諸法と実相を違う角度で見えたりします、これって私だけでしょうか?
諸法がたえず変化する無常に属しているように。
実相がその諸法の奥に、つまり変化する層があってその層を越えてさらに奥に常に安定してというか、常住?とか普遍とか、それが実相?

寿命のうえからは無常に属するみたいですが、寿命間の範囲では、
地球を例にすると、地表からマントルまで?変化する層に属しているような部分と、
一番中心(核)が、ジョウジュウエクウ?は、あるとしても安定している部分。
これを地球の諸法と実相でみるなら中心の核が実相でその他が変化する層に属する諸法?
人間の体なら心臓が実相でその他が変化する層に属する?
じゃ人間の心では諸法と実相は?、心と密着してるのが迷いと悟り、客観でいうと無明と法性(意識からみて)、十界はここでは触れませんが、とにかく安定、常住?普遍?なものを獲得するために、知る、手に入れるために頑張っているということを、考えたりします。科学は、わかっていないところはあるにしても、「これが真実だ」が、どんどん変わっていきますよね。宗教もその範疇なのでしょうか?
こんな考え方はどうなのでしょう?

自己紹介もなしなので、そろそろこのへんで失礼します。ご迷惑おかけしました。
副管理人Zさん、寛大なお心、感謝いたします。ありがとうございました。

194副管理人Z:2011/01/30(日) 21:43:44
198 :堅皇:2011/01/28(金) 06:48:29
>>エキストラオさん

初随喜と一念信解は残し諸法実相は不要のガラクタですか、その辺の選択基準が良く解らないけど。
となると「諸法実相抄」もガラクタと言う事ですかね「実相は必ず諸法」と言ってるんですけどね。
日蓮正宗としては捨てときますか「本因妙抄」は大事だから取っておくとして。

あらためて四箇の格言を見るとこれらは悉く諸法実相から外れているわけですね。
例えば念仏、これは諸法には他力の浄土門と自力の聖道門と二つの法門と立て別けて
聖道門は大変だから浄土門で仏と成りましょうというお話。

当然念仏では聖道門と呼ばれる諸法は捨てられちゃいますので諸法から捨て去られてしまいます。
また、自力を捨て他力だけを求めるわけですから自ずと助けを乞うばかりの信心となってしまいます。
「念仏無間」とは日蓮もなかなか上手い表現をしたものだと感心させる言葉ですね。

仏法は自行化他の両輪ですからやはり諸法の分断と言うのはいけませんね。
「実相は必ず諸法」大事な言葉です。

ところでこの「二つの法門と立て別けて」ってどっかで何か聞いた事がありますね。
あーそうだそうだ「文底独一本門」だ。
なになに?日蓮の題目と釈迦の法華経と二つの法門があり釈迦の法門は捨てなさいとの話。
これって明らかに「実相は必ず諸法」に反してないか、日蓮は本当に「文底独一本門」なんて事を言ったのか。
こいつもどうやら日蓮正宗だけに伝わる秘伝って奴らしい、この秘伝って奴はどうも信用できない。
これは単なる日寛さんの我見という奴ではないかなと言う事ですね。

日時さんの「本因妙」にしろ日寛さんの「文底独一本門」挙句の果てには物質が所依となる「御戒壇様」。
何処まで日蓮の意を変え法華経の理を捨て去ろうとするのか
これでどう日蓮正宗が正当な血脈を相承してると言えるのかと言う話ですね。

195副管理人Z:2011/01/30(日) 21:44:18
199 :堅皇:2011/01/28(金) 06:49:19
>>197 怖くて名乗れませんさん

お話を伺っていると恐らく南無妙法蓮華経が諸法実相の実相だと思われていると思います。
これこそ日蓮正宗が用いた大謗法である「本因妙」と言う考え方です。
題目はあくまで法華経の題目(タイトル)であり「本因妙」と言った真言でも念仏でもありません。
南無妙法蓮華経は実相ではなく諸法の1つです。
あえて言うなら究極の諸法とでも言いましょうか。

これは法華経を読むと理解できますが法華経は爾前権経で説き明かした結論のみを羅列してある経典です。
仏法は本来宗教では無かったんですね、それを法華経が信じる事を取り入れて宗教にしたわけです。

理屈は簡単ですね。
法華経は爾前権経と違い何故と言う理由を一切説かず結論しか説いてないんです。
つまりは理由には一切触れずただ説かれた内容を暗に信じなさいと言う経典なんですね。
理由を書かないなんてなんて酷いと思われるでしょうが
理由が知りたければ爾前権経を読んでみればいいだけですからね。
読めば何故に法華経が正しいかが解ります、これが信を得るための行学の二道の理論ですね。

ですから法華経を得るには法華経を信じるか爾前権経を学ぶかのどちらかでいいわけですね。
ただ、一口に爾前権経を学ぶと言っても爾前権経は八万法蔵とあるわけですから学びきれないですよね。
だから手っ取り早く法華経を信じればよいと言う事なんです。

更に法華経で説かれた一念三千の法門を使い、この法華経の題目を信じる事により
経文である法華経を得る事になり法華経を得ると言う事は八万法蔵すべてを得ると言う事になります。
それもこれも法華経が爾前権経と全く外れる事無く同じ理で説かれているからと言う事に尽きるんですね。

更に日蓮の描いた曼荼羅に唱える題目は法華経以後の密教経典や日本の神々の教えまでも諸経と見なし
その題目の力とは実に寛大なものだと言えます、それこそ諸仏知恵 甚深無量ですね。

196副管理人Z:2011/01/30(日) 21:44:56
200 :怖くて名乗れません:2011/01/28(金) 10:20:06


★信を得るための行学の二道・・これはこれは 初耳。
法華経は随自意の法門ですが、成仏得道の法を説いていない大欠陥があります
日蓮大聖人の法華経はいきなり随自意ですよ・下種だから本因といいますね。

法華経を得ると言う事は『有り難いと思う一念』これだけです。
凡夫の我々がどちらの法華経を選ぶかなんていう問題じゃない。
一大事因縁を受けて初随喜を起す。それだけのことですね。信心というのは。

日蓮大聖人は『いのちすでに一念にすぎざれば』と・刹那の一念以外には
いのちなんてもんは無いんだとはっきり仰せです。

日蓮大聖人は久遠の本佛ですから、我々が選ぶなんて資格はありません。
ただ与えられたものを 理由も無くありがたいと思う・・これが信心ですね

でなければ、一切の衆生はすくわれませんからね。御本尊を顕す前に
草木成仏を日蓮大聖人は説かれていますね。これは言っておかないと・
楠の板が 佛になるということを知らせておく必要があったからです。

板だ・物だ・だから信じないという事を言わせないためですね。
『当世のならいそこないの学者夢にも知らざる法門なり』といわれた
のはそのためですね。

天台曰く『草にも木にも成る仏なり』を言われたのは草木成仏を信じ
させんがため・それだけのことですよ。

これは非情の成仏なりとも言われています。これを知らない人々を
『所詮 妙法蓮華経をしらざるゆえに迷うところの法門なり』

信じらんなあぃ〜〜と驚く人々を日蓮大聖人は『惑耳驚心』として・
笑っています。そしてそれらの人々は『一色一香』と罵ったりもする
とね・・・・

当然でしょう。日蓮大聖人様が言う『当世の学者』のレベルにも達し
ない・人々が 此処にも十万していますからね。『当世の学者』が・
夢にも知らざる事を・ここに登場する 人物が『あーでもねぇこー
こーでもねぇー』さわいでいるのですからね。

釈尊の法華経は未完成の欠陥法門ということになります。
『我本行菩薩道』といったのが最後のクライマックスですからね・
オラが成仏できた事の行法は 伏せたままですからね。
ですから中身は空っぽ・・なんですね。

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197副管理人Z:2011/01/30(日) 21:45:38
201 :堅皇:2011/01/28(金) 12:14:39
>>200 怖くて名乗れませんさん

> 法華経は随自意の法門ですが、成仏得道の法を説いていない大欠陥があります

まさしく真言が陥った過ちですね、また同じ罠に嵌ったのが日蓮正宗と言うところでしょう。
つまるところ爾前権経での未顕真実は法華経でも確固たる成仏のための本因を明かさなかったではないか
と言うご指摘ですね。

いやいや、法華経はちゃんと真実を明かしましたよ諸法実相「実相は必ず諸法」とね。
そもその実相とは何か、仏とは何かと言う事ですが
仏とは即ち悟りであり悟りと言うものはあくまで個人個人の内の中にあるものです。

人間の興味関心と言うのは人それぞれであり願いや希望も人それぞれです。
誰に強要されるものでもなくそれこそ桜梅桃李であるわけです。
あれが食べたいあれを知りたい何処へ行きたい何をしたいその目的を全て叶えるのが
仏であり悟りであるわけですからこれを顕す事は誰にもできない行為であり
それが解ったと言う人は大嘘つきであると言う事です。

本因を固定してしまうと言う事は結果も固定してしまう事になり
自分が思い願う結果は得られなくなってしまう事なのです。

法華経方便品でどうしても教えてほしいと懇願する舎利弗に対して釈迦はやめようと諭す訳ですが
舎利弗ほどの智慧ものに何故と言う話となります。
それもそのはず実相とは人の数ほど存在し、またその一人一人の中に数え切れない実相があるのですから。
故に「実相は必ず諸法」でなければならないと言う事ですね。

法華経はこの諸法実相を明かした事により自身が思うままの望みや願いが叶う如意宝珠を手に入れたということですね。

198副管理人Z:2011/01/30(日) 21:46:14
202 :堅皇:2011/01/28(金) 12:15:23
> 天台曰く『草にも木にも成る仏なり』を言われたのは草木成仏を信じ
> させんがため・それだけのことですよ。

では、草木成仏を通して物質も仏と成ったと仮定しましょう。
しかしこの物質は能化であって所依ではありませんね。
仏と成るにはあくまでも能化である仏に依って仏に成るのではなく
あくまでも所依である法に依って仏と成るわけですから物質を中心に考えるのは誤りと言えますね。

日蓮が本仏とする日蓮正宗も釈迦を本仏と捉える日蓮宗も
能化である仏を所依とする考えでどちらも誤りであると言わざるを得ませんね。

こと日蓮が御本仏と言うのもやはり日蓮正宗にしか伝わらないものであり
日蓮自身は唯一言も自分が御本仏などと言う言葉は発してはいません。
その全てが歴代法主という方たちの創作話、妄想話であると言うことです。

どこまでこの日蓮正宗と言う教団は法華経を蔑ろにして謗法を犯せば気が済むのでしょうか。
嘘に嘘を積み重ねた結果、自分たちも何が嘘かホントかも解らなくなってしまったのではないでしょうか。

禅は経文を無視して己が仏であり真実であるとしました。
結果、規範とする法を忘れ何が真実かが自分でも解らなくなってしまう。
「禅天魔」とはまさしくこの禅の有り様を見事に付いた言葉だと思います。

次々に秘伝と称して己の思うままに法を改ざんしていった日蓮正宗にも見事に適合する言葉だと思います。

199副管理人Z:2011/01/30(日) 21:46:49
203 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:01:25


★物質中心という考えかたは偏頗ですよ。生の成仏死の成仏ですからね。

未曾有の大曼荼羅なりと日蓮大聖人はおおせですからね。有り難い事です

御戒壇様・そのまま一大事因縁なんです。禅はどこまでも禅のことですね

私達には無関係なんです。法華経から得るものは何一つありません。

豆腐のおからみたいなものですから・ま・少しは栄養がありますが・それ

くらいのものですね。能化も所化ももはや不要なんです。御戒壇様即・

善知識です。それ以上のものは不要なんです。歴代法主に執着していては

肝心の一大事因縁を亡失してしまいます。『諸法も実相』もただのことば

です。ことばを所依とした宗教はすべて妄想の宗派でしょう。妙法は・

言語道断ですからね・一旦遮しなければ到達できないのが妙法です。

諸法という言葉に囚われて言語の概念の夢の中に遊ぶ胡蝶の夢・・・

これがいい例ですね。御戒壇があり題目がある・ここには如何に誰人

も改竄の余地はありません。 言語に執着する事が不幸の原因です。

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200副管理人Z:2011/01/30(日) 21:48:01
204 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:18:32


★本因を固定しても結果も固定してしまう事にはなりませんね。なぜなら

本因とは成仏の種子ですから一切を開いていく功徳がありますね。

それは日蓮正宗で叶えられるということです。人それぞれに種々の謗法が

ありますから・誰でも私のようになれることではありません。世界の機根

も違い衆生の機根も違う異国の法華経を現在に振り回す愚は 当然の如く

末法の衆生には 不適であり 消化不良のもとになります。妙法は・つまり

大良薬ですから 末法の衆生にのみ処方されるものですね。ガイドライン

としての釈尊の法華経としてみれば『旨からずといい服せぬ者あり』・・・

ともあり・しかりですね。 そう・・釈尊の法華経は末法の法華経つまり

日蓮大聖人の法華経・を説明する分において・つまり流通分において・

かすかに 役立つ程度なんです。その証拠に歴代御法主を根本とする信徒

は一人も日蓮正宗にはおりませんね。

/////////////////////////////////////////////////////////////////

201副管理人Z:2011/01/30(日) 21:48:54
205 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:20:46
?
200と201は エキストラオでした。ゴメンネゴメンネ・・・//////////////


206 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:23:06
・訂正200はエキストラオ・・//////////////////////////////////////////

202副管理人Z:2011/01/30(日) 21:50:11
207 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:35:55


★日蓮大聖人が末法の御本仏とは名乗りませんね。当然ですよ。御内証
を・外に向って御示しあそばされたが・御戒壇様という未曾有の大曼荼羅
この国に立つべし・・これでチョンです・・あえて 自ら宣言する必要な
どは有りませんね。 これ言ってしまったら末法の衆生から総スカンされ
ます・御本仏ですから御存知でしたね。 此れは御本仏としてすごい判断
だと思います。 一般のミーちゃんハーちゃん相手にそれは言いません。

我々と御本仏が同格だとカン違いするところから・間違いは起きています
つまり・慢心の上からホトケを見ちゃいますからね。それを

寿量品の最期に『以常見我故 爾生僑恣心』とあり 常に慢心で法門を

弄び学する者が出て来る事が説かれてます。まさしくそのとおりでしょう

//////////////////////////////////////////////////////////////


208 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:44:41


★・・管理人様。  京阪君がなにを血迷ったか・音楽スレッドに

怨念のうえから 個人様の誹謗中傷と・・呪いの言葉を書き込んで

居られるようです。 ええ・私は結構ですから 『とらおスレッド』に

移動しておいてください。ええ・わたしは太っ腹ですから気にしません

彼には優しく対応 お願いします。私も彼の人間的成長を『御祈念』

させて頂きます。

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203副管理人Z:2011/01/30(日) 21:50:49
209 :しげきょん:2011/01/28(金) 21:47:14
日蓮災い教が  災い転じて福と為す=宿命転換の祈りだよ
創価にあるのは 日蓮災い教変じて日蓮バラモン教に落ちた
宿命主義者のトラオ君はほどほど救いようが無い

204副管理人Z:2011/01/30(日) 21:51:20
210 :エキストラオ:2011/01/28(金) 21:56:48


★大丈夫ですよ・しげちゃん・・あなたに救ってもらおうとは思いません

ぷっ・・・/////////////////////////////////////////////////////////

205副管理人Z:2011/01/30(日) 21:51:55
211 :京阪電車でいこか ◆AIo1qlmVDI:2011/01/29(土) 01:35:50
>>210

人の死をもてあそぶ最低人間のトラオさん。

ご本尊さまも、そんなあんたを“救って”くれないだろうね。

ご愁傷さま。

206副管理人Z:2011/01/30(日) 21:52:33
212 :堅皇:2011/01/29(土) 06:35:53
『以常見我故 爾生僑恣心』
常に我を見ることが出来なければ僑恣の心が生じる。(法華経はいらないんじゃなかったっけ)

我見ってのは自分だけの偏った考えって事ですから
それだけに捕らわれるなと言う事ですね、それが慢心に繋がると。

要するに俺の解釈に従わないとは何たることだこの罰当たりがと言ってるのが我見であり
また自分だけの偏った考えに捕らわれているのも我見と言う話。
常に自身の考えを顧みてニュートラルにすれば我見に捕らわれる事もなく慢心にも陥らないという事ですね。

ちなみに僕は日顕さんは賢い人だということは認めてますよ。
日寛さんもおそらく人々を救おうと思った中での結論だと思っています。
ただ、これに関して言えば法然さんも同様だと思います、なんせ「智慧第一の法然房」と呼ばれたくらいですから。
どれだけ賢いと思える人でも、また人の為にと思った行為でも結果としてそれが仇となることであれば
やはり従うわけには行きませんね、極々当たり前の話ですね我見に捕らわれるのは嫌ですから。

正直僕は全然自分の事を賢いとは思ってません、ただ法華経をニュートラルな気持ちで読んでいるだけですからね。
また日蓮の真蹟とされる部分とそうでない部分、更には日寛さんの教義をそれぞれ見比べてみると
日蓮の真蹟の部分は法華経の理(言語ではなく)と悉く合致しているのに対し
そうでないものや日寛教学は悉く法華経の理から外れているものであったということですね。
また、それらの理は日蓮が異を唱えた念仏、真言、律、禅の理と悉く合致していたと言う話ですね。

法華講であるエキストラオさんが日寛教義により法華経から得るものは何一つありませんと思うのは大いに結構です。
僕は法華経は捨てるべきではなくあくまでも法華経の題目を捉えるべきだと思うだけですから。

またまた要らない物が増えてきましたね諸法実相に次ぎ能化も所化も不要なんですか
それは人など要らないということですね、大切なのは物質である御戒壇様だけだと。

207副管理人Z:2011/01/30(日) 21:53:06
213 :堅皇:2011/01/29(土) 06:37:09
>>しげきょんさん

> 日蓮災い教変じて日蓮バラモン教に落ちた宿命主義者のトラオ君

これは日蓮正宗の事を指していると思いますが
具体的にどう災いなのどの部分がバラモンか教なのか教えてください。
俺には創価との違いが全く区別が付かないのですが。
出来れば感情論ではなく具体的且つ理論的にお願いします。

また日蓮正宗は「宿命主義者」なのですか?
そもそも宿命という表現は創価学会が用いている表現なので良くその意味が解りかねます。
加えて

> 災い転じて福と為す=宿命転換の祈りだよ

とのことですが災い転じて福と為すと宿命転換では少し理が違うような気がしますが宿命転換の意味を教えてください。
宿命とは宿る命と書きますがここで言う宿命とは「業」の事なのでしょうか
「生死一大事」の事でしょうか「出世の本懐」の事でしょうか。
これを転換すると言う事ですから酒屋に生まれた人間が八百屋を始めるというような話でしょうか。

208副管理人Z:2011/01/30(日) 21:53:40
214 :しげきょん:2011/01/29(土) 08:00:34
宿業とは無明のものの見方じゃ悪業のこと指すのよ
しかし法性の場合つまり妙法蓮華教の場合の立場からは
毒(悪業)変じて(薬、成仏の果)となるものよ
悪業を悪業と捉えるのは邇前教以前の教えなのよ

209副管理人Z:2011/01/30(日) 21:54:13
215 :堅皇:2011/01/29(土) 08:29:20
なるほど、宿命は宿業と言う事で宜しいですね。

ちなみに業とはカルマ、つまり行為の事ですね。
更に宿業と言えばその前世に行った善悪の行為が現世で報いとして宿る事。

基本人は「煩悩即菩提」を求める人が大半ですから
業と聞くと直ぐに悪業を連想してしまうと思いますが
業とは行為のことであり悪業に対し善業も当然あるわけです。

過去の悪業により報いを受けると言うのであれば善業も結果として現れるのも必然ですね。
じゃなければ善根を積む必要が全くなくなってしまいますからね。

とすればやはりこの宿命転換との言葉、やはり使い方が確実に間違っています。
「災い転じて福と為す」に当て嵌めるならせめて「悪業転換」とするべきか?

ただそれでもやはり不完全で悪業にも様々な種類が存在します。
「悪業転換」となるとコソ泥をやめて強盗にするというのも「悪業転換」になりますから。

何れにせよ「災い転じて福と為す」と「宿命転換」はイコールで繋げないものであると言えますね。

210副管理人Z:2011/01/30(日) 21:54:47
216 :エキストラオ:2011/01/29(土) 15:32:14


★しげちゃん・・感情的に成るのは良くないそうです。

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宿命の転換・・これも創価の造語の部類でしょうね。大聖人直結も・・

師弟不二も・・みんな・・流行を狙った造語です。 しげちゃん

それに妙法蓮華教 というのは教えですか・初めて目にしましたが

何でも造語の人にかかると 訳がわからなくなりますね。

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211副管理人Z:2011/01/30(日) 21:55:22
217 :エキストラオ:2011/01/29(土) 15:45:17


★しげちゃんが 池田君に 下駄を預けて 思考を停止して生きている・

それも宿業なんですね。日蓮大聖人は

『鷺の白きもからすの黒きもみな強く先業のつよく染みける〜』と・・

おおせですよ。外道はしらずして自然自然と言い張るともおおせです。

『霧島研修道場にかつて沿うか王国なる講想があり・財政難や・地元の

住民パワーで実現できなかった経緯がありましたね。強く池田君の・・

要望がありましたが、実現できてたら今頃大変でしたね。 日本一の・

三災七難の多い場所になっていますからね。 被災された方々には・

御心痛・お察しいたします。  それもこれも・元〔原因〕をたどれば

○○本尊を頭から湯気立てて 拝むという 乱国の一大原因があるから

です。指導者が戦闘に立ち・日蓮正宗総本山に対しお詫びして懺悔滅罪

を願い出れば これ等の七難は悉く 解決するでしょう。

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212副管理人Z:2011/01/30(日) 21:55:57
218 :堅皇:2011/01/29(土) 16:22:12
さてさて、エキストラオさんもしげきょんさんもこんな言葉尻捉えて
面倒くさいこと言ってるなと思っておられると思います。

何故こんな事をくどくど言うかとすれば正宗も創価も南無妙法蓮華経が本因妙だ文底独一本門だのと
題目が実相だとか自分たちの組織の考えや指導だけが実相だのと考えているから言ってるんですね。
法華経では実相は諸法の中にあるといっています。
日蓮もまた「実相は必ず諸法」と言っている訳ですからこれを信じれないかと言う事なんですね。

更にこの諸法は全て方便であるとも言っています。
つまり南無妙法蓮華経も自分たちの組織の教義や指導も全て方便として捉えていて
幾つかの方便を集めその中で実相を探ろうとすれば問題はないのですが
これ自体が実相と考えると本当の実相と言うものを見誤るぞと言いたいわけですね。

解りやすい例を出しますとハンムラビ法典。
これは正宗、創価も共通して邪経と判断されていますよね。
その代表的な言葉「目には目を、歯には歯を」これは思想自体が誤りであると思っていますよね。
この言葉の趣意は「毒を持って毒を制す」と同意義ですよね。
しかしこの理論があながち使えないかと言えばそうでもありません。
例えば免疫治療等ではこれで効果が得られるわけですね。
ただすべての事柄に当てはまるわけではないのでこれ自体を実相と捉えるのは誤りだと言う事ですね。

つまりどの様な言葉も実相ではなく諸法の1つであり方便の1つであると捉えれば活かす事が出来ると言うことです。
その為にはあらゆる法は諸法の1つと捉え法華経を中心とすることにより実相を得るためのパーツと捉えるべきだと。

この観点で言えば文底独一本門という題目が実相とする考えも
題目を唱えされるための方便の1つと捉えればその効果を得る事が出来るが
これ自体が実相と捉えてしまい大事な諸法を全て捨ててしまえば本当の実相を見誤ると言う話です。
本当の実相を得たいと言うのであれば常に法華経を中心に法華経の題目を唱えなければいけないと言う事ですね。

213副管理人Z:2011/01/30(日) 21:56:38
219 :堅皇:2011/01/29(土) 16:22:42
ですからそもそもが日蓮の題目と釈迦の法華経と言った隔たりなどありません。
法華経はあくまで法華経です、題目はあくまで法華経の題目であり
日蓮も「法華経こそ第一」と言っています。
この法華経を釈迦の法華経と言い放ち全て捨ててしまうのは全くの論外。

日蓮の言葉、御書には法華経を中心に据える為の方便を諸法を通じて沢山書かれています。
当然これらの言葉も全て実相ではなく諸法の1つです。
諸法の全ては法華経を中心に据えてこそ初めてその意味が理解でき実相が得られると言うものですね。

ですから日蓮も題目自体が文底独一本門であり実相であるなんて事は一言たりとも発していないわけです。
その全てがそれぞれの実相を導き出すための方便であると言う事。
「実相は必ず諸法」諸法実相という真実を明かしている法華経を第一に捉えないと
たとえ題目を唱えていても全くの無益であると言っている訳ですね。

仏法は実相に導くための限りなく実相に近い方便ですから
その理に合わない造語を勝手に突っ込むなと言う話ですね。

> 師弟不二も・・みんな・・流行を狙った造語です。

いやいや、師弟不二は創価造語ではなく日寛さんが作られた造語ですよ。
その元凶はやはり日蓮正宗にあるって事です。

214副管理人Z:2011/01/30(日) 21:57:15
220 :エキストラオ:2011/01/29(土) 16:38:36


★ 法華経は 遠くは 不軽菩薩の所持していた法華経から・釈尊の法華経

そして・末法の衆生には・機根・国土・時・というものに叶うべく末法の、

法華経があります。それを『味噌もくそも一緒くた』にしたところに、元々

の誤りがあります。末法の法華経は日蓮大聖人の御戒壇様ただひとつです。

3000念前の薬品は 賞味期限が切れて カビの臭いがします。どころか・
毒になってしまいます。 道理と言うものはこんなもんです。だれもが
納得できる道理ですね。

釈尊の法華経しかも・漢字に訳されて風味が抜けただけでなく・漢字の
ただ・『諸法実相』という 観念論のしかも俗諦の範疇のもので・人は
救われようもありませんね。

『諸法実相』は今・煮ても・焼いても 食用にはなりません。
太陽の出る国・・日本という名前に連なった『日蓮』という御本仏により
末法の人々は救済されるのです。

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215副管理人Z:2011/01/30(日) 21:57:48
221 :エキストラオ:2011/01/29(土) 16:47:24



★師弟相対は・出家の場合言うことがまま・あるが・

『俗の中で俗の上下を分け隔てるための師弟不二なんてものはあり得ません』

それ以外だと・俗の中ならば いけばなの中の世界なら在ってもよさそうで
すが・やはり生花の世界でも『師弟不二』などと とち狂った言い方はありま
せんでした。ね。

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216副管理人Z:2011/01/30(日) 21:58:23
222 :エキストラオ:2011/01/29(土) 17:08:36


★日蓮大聖人の悟りを・御本尊に顕した・これは内道でみていかないと
つまり・創価学会は外道で拝してきたので・大きな間違いが生じてきたのである。

日蓮己心の法を本尊に顕した・・・その悟りの内容は境智冥合の題目でしか
受け取る事は出来ない。諸法実相も 釈尊の二個人的日記の一行でしかない
ものですね。その執着が・無明の根源になります。所詮釈尊は我々には・
全くの無縁の仏です。しかも日蓮大聖人から見れば劣応仏でしか無い訳です

個人的に釈尊が好きだ嫌いだの範疇のモンでしょう。
ただ成仏には有縁の佛によらなければなりません。ここには釈尊のファン
がいる事も事実ですが、少数派です。 でも少数派は居なければ困るとい
う事もあります。 物の大小・遠近・などには・それらの 位置関係が・
必要だからですね。

文字をもたなかつた当時の人の教えが・必ずしも正確に末法へ伝わったと
いえる各章は如何なる学者も 検証することは不可能です。なのにそれでも
釈尊がすきな人々はいて当然です。 そこの世界が居心地がいい人にとって
は・・・です。しかしそれが正当性があるかと言えばそれは・無関係ですね

いかにしても・親を意識して生まれてきたものが居ないように・それは・
宿縁ということです。  麻原彰晃に有縁の人々はたくさんいました。
知能指数には関係無い事です・それを宿縁と大聖人はおおせです。

大聖人を 好きだといっている人が居てもやはり・いう事を聞かないとい
う・つまり『悪しくうやまう』といった・日蓮大聖人ファンは多いもので
す。 ファンでも・『如説修行のひとは稀な理』と・やはり日蓮大聖人も
おおせの通りですね。

私はありがたくも大聖人の仰せの如く『如説修行』させてもらっています
それで・今このように幸せなのです。これが・実証なのですね。

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217副管理人Z:2011/01/30(日) 21:58:59
223 :しげきょん:2011/01/29(土) 17:49:50
一体誰が流行語大賞を狙ってるんですか?
そんな人はいません
またテラオ君の妄想が始まりましたね
創価被害妄想病のテラオ君妄想と言えば妄想で折伏薦める
日蓮妄想宗の折伏ノルマの妄想達成がありますね
テラオさんも坊主に妄想たたきこまれたのでしょうか?
?なところです日蓮妄想宗は現実に折伏できない法華講があふれて
ネットの世界にあぶれてますよ

218副管理人Z:2011/01/30(日) 21:59:34
224 :エキストラオ:2011/01/29(土) 18:09:33


★流行語大賞?????   しげちゃんさ・・・一度病院へ行くがいいよ。

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219副管理人Z:2011/01/30(日) 22:00:10
225 :堅皇:2011/01/29(土) 18:57:43
さてさて「日蓮己心の法を本尊に顕した・・・その悟りの内容は境智冥合の題目」とな。

では境智冥合とはなんぞや
ざっと御書検索を掛けてみてヒットしたのが「当体義抄」と「御義口伝」の僅か2件。
「御義口伝」は日興さんの筆によるもで「当体義抄」はこれもまた真蹟が存在しないと言うではないか。
またまたこれも日蓮正宗による法の改ざんの1つなのですかね。
調べれば調べるほど日蓮正宗の謗法行為が濃厚となって行きますね。

はい、日蓮を本仏と捉えそれに対して境智冥合とはもうこれは確実に
所依(法)を無視して能化や所化(人)に依るという依法不依人に反してますね。

てか日蓮大聖人御書全集自体が日蓮の真蹟か否かをそっちのけで
『味噌もくそも一緒くた』なんですけどね。
毎日そのくそを食ってるもんだからもう味噌がどんな味なのかも解らなくなってしまったかな。

日蓮妄想宗の教義を未だに大事にしている創価学会も法華講と同様に妄想病ですね。

220副管理人Z:2011/01/30(日) 22:00:44
226 :堅皇:2011/01/29(土) 19:05:49
改めて日蓮正宗の御観念文を読み直してみると
日蓮の真蹟に存在しない文言がてんこ盛りですね。
せっかくの勤行唱題した後にこのような「くそ」をふんだんに毎日掻き込んでいたら
そりゃー味噌の味も解らなくなりますよね。

221副管理人Z:2011/01/30(日) 22:01:17
227 :しげきょん:2011/01/29(土) 22:14:20
ちびにっけんが文句言うなよおまえこそ病院に行け

222EUPA:2011/02/05(土) 07:03:59
世界の閉塞感は、やはり宇宙開発があまり進んでないからかも知れません。
宇宙のイメージは、暗い。生きるのが大変。このイメージを払拭できればと思うのですが。
月や太陽系の星に石油に相当するエネルギー資源が発見されたり、
過去のスタートレックの映画の中に、死んだ星を地球と同じ惑星に変える話なんか。
それよりいまだに解明されていない重力について、解明されれば人間の生活は、一変しますよね。(重力を操作できれば。)
宇宙の中に人間が楽に暮らせる(人間が暮らせる環境という意味で。)地球のような星々を人間自ら作っていく。
今は夢物語ですが、そのようになって行けば、人間はもう少し楽観的になれるのになと、思ったりします。

223EUPA:2011/02/05(土) 07:37:30
人生を攻略する、壁を打ち破る法は、ないでしょうか?
・あらゆるものには必ずスキがある。
スキを見つけて、そこからなし崩しに、攻略、制覇していく。この考えは?
動物が獲物を捕らえるのもスキを突く。スポーツ、武道でも。
そういう発想は、学問、勉強、ひいては人生、人生の壁も打ち破る、対象にあるものは、必ずスキがある。
もしかすると、智慧というのは一見、目に見えないスキを発見しているのかも知れません。
人生勝利の実相は、スキを見つけて、そこからひらく。
こんな発想を考えたりします。
古代ギリシャの英雄アキレスにも弱点(スキ)があった。

224EUPA:2011/02/05(土) 07:46:06

難、攻略の智慧もスキにあるのかも知れません。

225EUPA:2011/02/05(土) 08:17:30
連投、すみません。
三障四魔だって、多くのスキがあることを賢者は知っているのかも知れません。

名聞名利と一番になることの違いは、なんなのでしょう?
名聞名利は、悪いというイメージですが、これもそうなのかも知れません。
(人生崩壊のスキあり)

226堅皇:2011/02/05(土) 10:47:34
>>EUPAさん

全ては目的がなんなのかと言う話ですね。
また、その目的を達成した後その次の目的は何なのかと言う話にもなってきます。

一番になるため、これを目的に掲げるとするのは良しとしましょう。
では、その一番を手に入れたときその次の目的とは一体何なのでしょうか。
また、自分が何故に一番になろうとしようとしたのかその目的は一体何処にあるのか。

よくよく考えると一番になると言う事は1つの通過点でしかないと言う事。
一番になるのは他に何かを得る為の手段の1つであった事に気付かされるものだと思います。

「名聞名利」とはこの一番になるとか名声を得たいと言う事が目的になってしまってると言う事なのですね。
もちろん「名聞名利」を得ようとする事も一番を目指すと言う行為もけして悪いことではありません。
むしろ前に進もうと思う前向きな姿勢から発するものです。

ただ「名聞名利」は何かを行う為の1つの手段として捉えるか
「名聞名利」自体が目的となってしまうのかココに判断が分かれるものであるといえます。

「名聞名利」だけに溺れると自分が何をやろうとしていたかすら解らなくなってしまうと言う事です。

227堅皇:2011/02/05(土) 10:58:08
例えばノーベル賞と言うものがありますが
ノーベル賞と言う賞自体には何の価値もないものなんですね。

しかしその研究の成果に価値があるからノーベル賞を貰う事にも価値があると言う話です。

ですから賞を貰ったと言う事をいくら並べ立ててても人は何も素晴らしいとは思わないものなんですよ。
結局のところどの様な事を行ったか
これが見えてこない限りいくら賞だけ沢山貰い受けてても誰も感動しないと言う事でもありますね。

228EUPA:2011/02/08(火) 07:49:03
堅皇さま いつもお相手、ありがとうございます。まだまだ未熟なもので、
キャッチボールが出来なくて……。

他板のことで、すみません。 お手上げです。
2chの日蓮って.ver19で、>577で結論書いたのですが、納得してもらえません。>578のしつこい質問にお手上げです。

EUPAは、>560.561.565.566.577です。
質問者は、>571.578です。
時間があれば、また内容書きます。

ちょっと困っちゃって……。

229堅皇:2011/02/08(火) 10:36:10
>>EUPAさん

"釈迦のような仏"と言うものをEUPAさんはどの様にお考えなのかと言う事ですね。
そもそも仏とは何かと言う事になってくるのですが
仏とは神とか本仏と言った人々から崇められる本尊と言う存在ではありません。
何故なら仏法はもともとは宗教ではありませんでしたから。

仏とは悟りの境地でありあらゆる苦難に直面してもそれを乗り切れる智慧や力が身に付いた人の事を指します。
そういう意味で日蓮もこれを充分に有しているので立派な仏と言う事ではないでしょうか。
また自身が体験する苦難に対しそれに対処する智慧や力があればその時点で仏と言う事になります。
人は学びと経験により悟る事ができ、この悟りの状態を仏と表現しているわけです。
ですから仏とは人智を超える神の領域に辿り着いた時と言うのではなくあくまでも人智の領域による悟りと言う事です。

これまでの諸経では釈迦は生まれ持っての仏の様に描かれていましたが
法華経寿量品にてその釈迦もこれまで数々の学びと経験によって仏と呼ばれるようになったと説かれています。
つまりは皆さんと同じなんですよと言う話ですね。
これが法華経における方便品の諸法実相と並ぶ真実の部分であり久遠実成と言う事ですね。
言ってみれば世の中に全知全能の神もいなければ本仏と言う存在もありませんよと言う事を顕したのが
法華経寿量品と言う事になりますね。

仏法とはもともと釈迦が宗教からの脱却を図る為に説かれたものです。
それは一人の人、一つの法だけを信じてしまうと確実に波状を来たして結果的に不幸になってしまうからです。
そこで法華経は一つの法ではなく諸法全てをまとめ、一仏を置かずに信じることを取り入れ宗教としたわけです。
こうして仏法は法華経を経て宗教へと変化していったと言う話です。

釈迦のやり方では歴劫修業を要するのは釈迦仏法は信じることを取り入れない宗教では無かったからですね。
しかし、釈迦の理念から外れてしまっては釈迦が脱却を図ろうとした宗教と同じ状況に陥ってしまいます。

230堅皇:2011/02/08(火) 10:46:58
日本に仏法が伝わってきたのは法華経以後の真言、念仏と言ったものであるから
仏法=宗教と捉えられがちですが
実際に仏法が宗教となったのは法華経以後の話となります。

試しに法華経以前の諸経を読んでみれば何処にも「信じろ」なんて事は書かれていません。
「信じろ」と言い始めたのは法華経からであると言う事が解ると思います。
これはあくまで法華経で「諸法実相」や「久遠実成」が顕されてこそと言う事になります。

ですからこの法華経を無視してただ「信じる」という行為だけを真似た
真言や念仏は完全に仏法の理念から外れた誤った宗教であると言えるわけですね。

231堅皇:2011/02/08(火) 18:31:56
EUPAさんは釈迦も久遠に南無妙法蓮華経に出会って仏に成ったと認識しているのかと思いますが
久遠には南無妙法蓮華経はおろか仏法も存在していません。

釈迦は如何様にして仏に成ったかと言えばそれは自身の学びと経験によるものです。
それ以外は有り得ませんね。

また日蓮も南無妙法蓮華経によって仏に成った訳ではありません。
仏法を学びそれらを自ら体感して南無妙法蓮華経を導き出した訳ですから
順序がまるっきり逆だと言えると思います。

232EUPA:2011/02/09(水) 12:59:38
考えてみますと、法華経とは釈迦が、釈迦自身の生命、命とはこのような状態なんだと、言っているように思うのですが……。

つまりその他の諸仏が、自分の生命状態は、(仏が、仏の生命状態を述べれば、それは法華経?)このようなものだと、説けばそれも法華経なのでしょうか?

あとよく例に出てくる蓮について、その清らかさと瞬間に似た速さに注目し、仏に成るのに、歴劫修業ではなく、素早く成る法を探っているように思うのですが……。(諸仏の中に私は、このように素早く仏に成ったという仏の話や経を残しててくれればいいのにと、思ったりします。)

しかしあまりこのへんを探っていくと……。
一つ間違えば、〜真理経みたいな方向にいくのではないかと思うと、
恐ろしいです。

233堅皇:2011/02/09(水) 14:53:01
EUPAさんは法華経を実際に読まれたことはあるのでしょうか。
また、法華経以前の諸経を少しでも理解されていればその関係性が解るかと思うんですけどね。
法華経は単に釈迦が説いた諸経を1つにまとめた経典であると言えますね。
ですから、取り立てて諸経に説かれてない新たなる内容と言うものは記されていません。

強いて言うなら釈迦自身が生まれ持っての仏と言う事ではなく
それは過去世に置いて自らが学び経験した事による結果だと述べているぐらいですね。
ここが寿量品の肝心と言うところです。

で、釈迦は何を学んだかと言えば物事の道理の部分ですね。
腹が減ったらどうするか、病気になったらどうするか、人から嫌がらせを受けたらどうするか
こう言った当たり前に思うことの積み重ねと言う事ですね。
それぞれその場その場をどうして行けば幸せになれるかを歴劫修業の末学び体験していった結果と言う事です。
そうしてこれら対処方法を身に付け(悟りを得て)人々に伝えたのが諸経と言う事になります。

ただ、あくまで諸経と言うものは一方的な物の見方で得た判断なので
その人その人の立場と成れば人の善悪は変わってしまう。
一方が得をする判断であれば一方が損をする事になってしまう。
結局は万民に通じる究極の法など存在し得ない訳です。
しかし、そこで釈迦の説いた諸経の中でもどれが一番正しいのだという争いが生まれてしまう。
こいつはいかんと言う事で生まれたのが法華経と言う事になります。

法華経はどれが一番正しいなどと言う事は一切言ってないわけです。
それぞれがそれぞれにみんな正しくそれぞれがそれぞれの中に正解が存在すると言う結論を出している訳です。
ですから法華経自身が真理と言う事ではなく真理は諸法の中に存在すると。
これが「諸法実相」と言う事ですね、更に言えば諸法は全て方便であるから諸法の中の文の底と言う事ですね。
ですから自分達だけが正しいのだと言ってしまった時点で法華経を捨てた事になるという話です。

234EUPA:2011/02/11(金) 15:04:44
吉川英治氏の三国志は、読んだことがあると知人の弁護士と話した時に、原文の三国志演義を勧められたことがあります。その弁護士は、毎年、年のはじめに挑戦されるそうです。
法華経も全文はまだありませんので挑戦してみたいと思います。

ところで般若心経を唱えると頭がよくなるのででしょうか!?

235EUPA:2011/02/11(金) 16:52:01
「智人は起を知る、蛇は自ら蛇を知る」や、「法華を識るものは世法を得る」
これむずかくって……。
とくに世法を得るとは、どういうことなのでしょう?

236堅皇:2011/02/11(金) 21:57:08
>>EUPAさん

法華経の日本語訳は何種類かの本が出ていますしネットでもアップされていますから
けっこう手軽に読めると思います。
また、方便品や寿量品なんかは日ごろ音読していますから割とすんなり読めるのではないかと思います。

> 般若心経を唱えると頭がよくなるのででしょうか!?

これはなんとも言えませんが真言密教はもともと頭の良い人のための教えみたいなものですからね。
密教は仏法を段階的に捉え解った人に次の課題を出していくと言う感じですね。
日蓮正宗でも僧侶だけが知りえるとか、法主だけが知りえる事柄だとか
創価学会に置いてもこれは幹部に聞かないととか、池田さんしか解りえないだろうという考えが既に密教と言える訳です。

これに対して念仏はそんな難しいものではなく万民を救おうと考えたわけで
比較的簡単な浄土経のみで仏に成ろうとして他を全て捨ててしまったわけです。

日蓮の題目の理論は万民を救おうとする念仏の意図は全く同じであり
それが浄土経ではなく法華経に依るものであると言うこと。
何故に浄土経でなくて法華経だと良いかと言えば法華経は諸経を集約したものであり全てを得る事が出来るからです。

浄土経だけだと法華経を始め残りの諸経を全て捨てなければいけないが
法華経を中心にすれば浄土経はおろか一切諸経を全て得る事が出来るからです。

> 世法を得るとは、どういうことなのでしょう?

世の中の仕組み、事の善悪が理解できると言う事ではないでしょうか。

237EUPA:2011/02/12(土) 17:05:14
>>236
>法華経を中心にすれば浄土教はおろか一切諸教を全て得る事が出来るからです。
堅皇さまの言われるとおり、EUPAもそのとおりだと思います。

南無妙法蓮華経の信心をしているのは、
何かを証明するためにこの世に生まれて来たと考えるのはどうでしょう?
自分の考え、体で何かを証明するために。
人間の可能性の挑戦?
不可能と誰もが思うことを自らが挑戦し、可能にしていく?

対象に影響されるのではなく、自らが人々の対象になって影響を与えていく……。
EUPAも世の中のお役に立てる生き方をしたいと思うのですが、
なかなか難しいですよね……。

日常と非日常……毎日が惰性なのか、日々新鮮なのか?
極端な考え方かも知れませんが、EUPAは対象とするもの(現実世界)は、
たとえ非日常であってもそれは日常ではないかと……。
新鮮(と感じられる)な毎日は、自らが作っていく……。
それが非日常ではないかと……。

238堅皇:2011/02/12(土) 23:51:05
>>EUPAさん

>>法華経を中心にすれば浄土教はおろか一切諸教を全て得る事が出来るからです。
> 堅皇さまの言われるとおり、EUPAもそのとおりだと思います。

この点をご理解いただけるのはありがたく思います。
更に日蓮の描いた曼荼羅を見るともっと凄いのです。
釈迦が説いた一切の諸法だけに留まらず真言密教で説かれた経典をも受け入れて
更には日本古来より伝わる神々の教えまで全てを抱擁されているわけですね。
またその受け入れが可能な法華経の素晴らしさでもあるわけです。

題目1つで世法を得るとはここでも言えるわけですね。
他の教えが全て誤りだと全て捨ててしまうのと他の教えを用いなくても得る事が出来るとでは全く意味が異なってきます。

他を切り捨て自身の考えだけが正しいと考える事から争いは生まれてきますが
他の意見を全て受け入れその中で答えを見出すと言うのでは争いが生まれてくることはありません。

念仏は浄土経の中にこそ真実があるとし、真言もまた密教にこそ真実があると考えるから救われる事がないんですね。
対する法華経の題目は全ての中に真実を見出そうとするから万民を救う事が可能となるわけです。

ですから同じ題目を唱えていても自分達だけが真実であり自分達だけが正義であると言って他を切り捨てる行為は
題目を唱えながら法華経を捨てている行為だといえると思います。
これがいわゆる日蓮が言う「信心の血脈」と言う事だとも思います。
そういう意味では日蓮正宗にはもう最初の時点からこの「信心の血脈」と言うものが存在してないと僕は思います。

239堅皇:2011/02/12(土) 23:51:53
> 南無妙法蓮華経の信心をしているのは、
> 何かを証明するためにこの世に生まれて来たと考えるのはどうでしょう?

その考え方は悪くないと思いますが
何の為に証明するかですよね。
それは自己満足の為だけであってはならないし自分を犠牲にしてまでの他人の為だけであってもいけないという事ですね。

法華経はあらゆる人の考えを全て取り入れてその中で答えを見出すわけですから
自分の考えや誰かの考えだけに固執していては偏った答えになってしまいます。

信心は自行と化他行の両輪と言う事ですから
自分が納得し尚且つ周りの人の納得を得るということが最も重要な事だと言える訳です。
解りやすく言えば自行だけを突き進めば真言の様に自身は一瞬は栄えるが最後には人々が離れやがて亡国へ向かい
また化他行だけであれば自身の発展が無くなってしまい結局辿り着く先は念仏の様に無間地獄と言う事になってしまいます。
どちらも真実と言う先を見誤っているからだといえるのだと思います。

> 日常と非日常……毎日が惰性なのか、日々新鮮なのか?

自分や周りから惰性だと思われればそれはおそらく惰性であり
自分や周りから新鮮だと思われればそれはおそらく新鮮だという事ではないでしょうか。

要は自他共に、身土、依正共に納得する人生が過せると言うのが仏であり
それを得る事が出来るというのが法華経の題目と言う事ですからね。

240しげきょン:2011/02/14(月) 20:34:34
まず始めに信ずるものが宗教という説と祈ること(請願)が宗教という説
があって舎利仏以来の二乗は信ずる面の宗教観が強く
上行、を始め地涌の菩薩達は祈り請願の宗教世界をかもしだしてて
どちらも人間の一生成仏にとって必要であると言えます

241堅皇:2011/02/15(火) 08:41:55
信じることも祈ることも一緒だよ。
宗教とは何かに執着することを基本とするから仏法は先ずこの執着を解く為の脱却を図ったわけ。
方便品で言う「無数方便。引導衆生。令離諸著。」
「無数の方便を使って衆生を引導してきて諸の執着を離れさせてきた」ってね。

と言うわけで法華経以前の仏法には執着に繋がる「信」の文字はない。
しかし、法華経では一見相反するかのように思われる執着する事無く「信じる」という行為を取り入れたわけです。
「信」はどうしても一転すると執着に変わってしまいます。
故に法華経は「難信難解」の法と呼ばれるわけですね。

で、何故に法華経のみが執着せずに「信」を用いる事となったかと言えば簡単な話
独一法門に執着することなく諸法を信じるからであり、一仏に執着することなく事無く諸仏を信じるからです。
要は凝り固まった一辺倒な物に執着せずに視野をもっと大きく広げ世界を見渡せと。
そして信じるのはその全てを信じて判断しろと言う事なんですね。
そうすれば1つの物事に執着する事無く「信」を得る事が出来ると言う話です。

自身が生まれ育って得てきた物、それが全て正しいと思って信じていても
世の中が急転してしまった時に如何にその価値観に付いて行けるかと言う話。
執着を捨てきれずにいればその判断力を大きく見誤ってしまう。
解るかな、この「難信難解」の法の理論が。

> 何か池田先生を指導者と仰いだらまずいと言う勢力でもあるんですかね

しげきょんさんの思考回路は完全に創価学会と言う考え方だけに執着している状態です。
政財界に多く進出していてマスコミに対してもスポンサーとなっている創価学会だ。
利益を考えて守る事はあっても攻撃を加える理由はあまりにも希薄です。
もし、攻撃を加えるとすればそれは利益を考えない人たちの力と言う事でしょうね。

242堅皇:2011/02/15(火) 08:53:32
世間の池田さんに対する評価は比較的適切なものと思われます。
逆に創価学会内での池田さんの評価の方が異常と思えるのが妥当な判断と言えるでしょう。

池田さんにはどうしてもファシズムの匂いがしてなりませんね。

243堅皇:2011/02/15(火) 09:57:42
法華経は諸法の中に実相があると言う教えなので広く世間を見つめ
様々な意見を多く取り入れその中で真実を見つけようとするものです。

対し創価学会の指導は真実は聖教新聞にしか書かれていない世間一般に書かれている事は全て嘘だあるから
見るな聞くな惑わされるなと言います。

さて、この法華経に書いてあることと創価の指導を二つ並べてみて
あなたはどちらを信じますかと言う話だけですからね。
僕は間違いなく法華経を信じますね。
それに対してしげきょんさんは創価学会を信じていると言う話。

僕からすればしげきょんさんは創価の執着から逃れられずにいて苦しんでいるように見えますが
それはあくまでも第三者から見た個人的意見です。
それによって苦しんでいるか楽しんでいるかは当人にしか解りませんからね。

今の日本では信仰は自由ですのでどちらを選んでもそれは自由と言う話です。

244堅皇:2011/02/15(火) 13:23:42
そうそう、あと「一生成仏」と言う言葉ね。
これは「一生成仏抄」から来る言葉であり僕も一生成仏抄は書かれている内容でも
個人的にはかなり好きな部類での御書であります。

しかしこの「一生成仏」と言う言葉は一生成仏抄でしか用いられておらず
更にこの一生成仏抄も贋作であると言う説が濃厚となっていると言う事も言っておきますか。

さて、その理由ですが
一生成仏抄は富木常忍に宛てられた御書であるとの話ですがこの富木常忍と言う人は
日蓮が亡くなった後に出家し日常となり御書を収集された人としても有名な方ですよね。

その富木常忍に宛ての御書はすべて格護されているにも係わらず、一生成仏抄は真蹟が残っておらず
また、常修院聖教緑にも記載なし。同年代の御書とも法門の内容が合わず。
との指摘をされた段階ではこれを日蓮の真作と捉えるには確かに矛盾が生じるものと思えます。

となると「一生成仏抄」が日蓮の真作であると言う思い込みの執着から逃れるべきであると
僕はそう判断するわけですけどね。
これ一本だけに執着する事無く信じれる日蓮の真蹟は他にも多数存在するわけですから。

その中で日蓮の真意と言うものは汲み取っていくべきだと僕は考えますが。

245しげきょん:2011/02/15(火) 16:31:29
何か堅皇氏は創価学会がマスコミを支配しているような大手スポンサーのような
印象を受けるような事書いてらっしゃるが何か事実でもあるのですか?

246しげきょん:2011/02/15(火) 16:55:56
堅皇氏こそ 依法不依人せよ
それはただの人師の堅皇氏が読むところの法華経解釈であり堅皇氏独自の解釈である

247堅皇:2011/02/15(火) 18:07:36
> 創価学会がマスコミを支配しているような大手スポンサーのような

充分大手スポンサーですよ。
ちなみに地方の広告代理店に勤めていた事があるわけでテレビのCMの放送料がいくらで
新聞の広告費がいくらかぐらいは大体想像が付きます。
特にテレビCMに関してはローカルスポットだけではなくなったので
どれぐらいのお客さんかと言う事も解る訳ですよ。
特に今は娑婆は不景気ですからね、ハッキリ言って上得意様の部類ですね。

俺が営業マンだったらあれだけのCM打ってくれるスポンサーは正直言って神様ですよ。

248堅皇:2011/02/15(火) 20:13:16
ところで「人師」とは、なんじゃらほい。
ざっと検索を掛けてみたけど

「経師は遇い易く人師は遇い難し」(資治通鑑)
経書の文や章句の講釈をしてくれる師は沢山いるが、人の行うべき道を教えてくれる師はいないものだということ。

「名利に人師を好むなり」(親鸞)
自自分は有名になりたいし師匠と仰がれたい思いがある。

ここから察するに人の道を教えてくれる師匠と言う事ですか?
そんな立派なもんではありませんよ。

249怖くて名乗れません<m(__)m>:2011/02/16(水) 02:27:49
一見、普通の女の子の日記ですが、
ある事をした後に更新しています。
かなり中毒性が高いので注意が必要かもしれないです。

ttp://prof9pop.web.fc2.com/hrk/

250しげきょん:2011/02/16(水) 23:47:27
そんなに立派なもんじゃありません
そのとおり仏の真意から 己義流の解釈の人のことを
人師という折伏の言葉として大聖人が使われている
人師=我流の人文証もなく自分勝手みそな見解を立てる人のこと

251しげきょん:2011/02/17(木) 01:04:56

創価に執着も諸法の一つではないでしょうか?

252堅皇:2011/02/17(木) 01:05:21
でさー、どこがどう独自の解釈か言ってみてよ。
ちゃんと法華経から文証出してる訳ね。

逆に本因妙を文証出して説明してみてよ。

253しげきょん:2011/02/17(木) 01:21:51
↑訂正創価の信仰も諸法即実相に入るのではないか
それが僕個人の執着だとしても
それを度外視しても創価の人自体は 意識があろうとなかろうと
諸法即実相に自然に生きてるのじゃないか?
そりゃ諸法実相に生きる人が多い少ないッ論議
省いても  世法の中で仏法を得て生きなさいという仏法だから
人生道の諸法に実相ありきじゃなきゃ仏法自体嘘になる
ただ迷い無く実相と思えるか迷うか宿業によるけどね

254しげきょん:2011/02/17(木) 01:42:13
一生成仏抄が真筆じゃないと誰にいつ教わったのか?
その証拠は

255しげきょン:2011/02/17(木) 02:17:33
文証またいつか遠い日にね〜〜〜
正直言って堅皇の話さっぱわからないし読んでて面白くないのよ
なんか二乗の人相手にしたら〜〜て感じ
てなことでばあい〜〜

256堅皇:2011/02/17(木) 07:49:11
当然、俺は創価の信仰も諸法の一つと捉えているよ。
ただ、創価の方々がそれ自体が実相として捉えているから誤りだと指摘しているわけよ。

一生成仏抄は御書を見ても解るように真蹟の存在が記されてないでしょ。
そこへ持ってきて >>244 の理をぶつけられたら納得せざる得ないでしょう。
確かに「一生成仏」という言葉自体が一生成仏抄にしか出て来てない事も事実だし。

それを単に嘘だと主張してもそれを覆すだけの確固たる証拠が必要でしょ。
それと別に一生成仏抄がなくても題目の必要性を説く事は幾らでもできるわけだから。

さっぱり解らなくてつまんないと思うなら他人の事をいちいち誹謗するなよ。
折角題目唱えても誹謗していては無意味になるからね。
しげきょんさんの場合はもう誹謗する事が信心と捉えてしまっているところにあるから。

257しげきょん:2011/02/17(木) 08:35:19
僕が誹謗するのが信心ならばそれも諸法でしょうね
つまんないと言う赤裸々な実相があるからね

258堅皇:2011/02/18(金) 01:05:34
今の生活がつまんないと思うからという現実がそうさせるのだと思いますよ。

259EUPA:2011/02/26(土) 10:58:22
理想の創価学会の姿とは、どういう姿なのでしょう?
最近おかしいのか? もともとおかしいのか?
考えていくと、教義を間違ってとらえているのか? いや教義自体に間違いはないか? 理想の創価の在り方を願う心は、尊いと思います。
(これだけ世界的に大きな団体は、影響力は大きいし、方向性を間違えば、世界を不幸にするかも知れない。)

創価は、堅皇さまの意見を謙虚に聞くべきかも知れませんね。

私は、創価学会員ですが、こういう考え方もあるのかと、勉強させてもらい、
堅皇さまの話を大事に受け止めています。
私の場合、中から変えて行こうと思いますので、よろしくお願いします。

しげきょんさま はじめまして
堅皇さまは、創価を潰そうと思われていないと思いますので、
理想の創価を語り合うことで意見が合ってくるのではないでしょうか?

ぶしつけな事を言って申し訳ありません。

260しげきょん:2011/02/27(日) 01:10:00
EUPAさん はじめまして 堅皇氏の意見も(感情的に拒絶しなければ)創価の中から
改革する前提で聞けば建設的であると思います
ただ自分のペースやモチベーションを保ちながら聞く余裕をもって聞くことが大切です
広宣流布といっても僕らの運動であるから主体的精神は大切です
主体性を尊重しないものは拒まれてもしかたありません
むしろ主体性に 意味や価値を深めてく知識などは好まれます
そのようにありたいと願うものです

261EUPA:2011/02/27(日) 11:47:43
主体的精神……大事なことだと思います。
1. 組織は、人々を従属させるために存在するのか?(組織のために)
2. 組織は、人々の可能性を拓くために存在するのか?(人々、民衆のために)

指導する側が、2. の姿勢でも指導される側が、1. の従属しようとする姿勢で臨んでいたら?
指導する側が、1. の姿勢で臨んでくる人々をいかにして、主体的精神に立たせるか?

錯覚もありますよね。
聖教新聞の会合や、幹部会の写真。
軍隊のように集団で、従属しているように。
しかし違いますよね。
結果を出してる人も、出せなかった人も、(能動的に、積極的に、)励まされに来ている。より自分の可能性を引き出せるように。(能動、受動の観点から述べていますが、出席されている人たちは、それぞれのしっかりした目的を持たれて参加されている。)

聖教新聞の読み手側も、従うために読んでいるのか? 自分に対して励み励まされるために、自分の可能性を引き出すために読んでいるのか?
そんなの意識しないでいいのかもですが、生命力が弱っているとどうしても、受動的になり、従属する方向にならないかと。

従属の反対は、率先 ?
では、師弟の理想の関係とは ?
(質問以前に、答えを誘導しているような文章で、すみません。)

262堅皇:2011/02/27(日) 12:36:03
> 理想の創価学会の姿とは、どういう姿なのでしょう?

この場合創価学会と言う組織が何を理想に置いているかで変わりますね。
池田さんの思想を理想とするのか、法華経の題目を理想とするのか。
純粋に理想を追うとするなら全くの条件を付けずとも誰彼なく集まってくるものと言う事が理想なのではないかと思いますね。

> 最近おかしいのか? もともとおかしいのか?

日蓮宗及び日蓮正宗が、もともとおかしいと思いますから日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
また、近年にいたっては誰が見てもおかしいと思うから会員の減少や非活の増加が目立っているといえるのではないでしょうか。
認めようが認めまいが衰退の事実が組織のあからさまにおかしいという証明とも言えますね。

> 考えていくと、教義を間違ってとらえているのか? いや教義自体に間違いはないか?

これは両者共にあるものと思います。
事実、本因妙抄等は学術的にも日蓮の真作ではない事が証明されていますし創価もこれを明確には否定しておりません。
しかし、戸田さんの御書の編纂目的を見るとこの本因妙抄等の収録が最大の目的であるとの趣意が発刊の辞にも述べられています。
つまりこの時点でも創価は過ちを犯しているという事になります。

また日蓮を本仏、御書を聖典と捉え文証とする考え自体も日興門流特有の考え方であり
これらもまた本因妙抄を機軸とした考えであるという事を言わざるを得ません。

この様な歴史的事実を踏まえ創価学会と言う組織が今後どう転換するかと言う事に掛かっているかと思います。
目指す方向は法華経の行者なのか、それとも阿鼻地獄なのかと言う事ですね。
今のままでは確実に後者のほうだと言わざるを得ないですね。

263しげきょん:2011/02/27(日) 13:46:23
理想の創価と言っても、一人一人の内面に希望が燃えてるか、どうかだと思います
希望をさえぎる 魔性の奪命を破る希望でなければ、ならないと思います
要は理想の創価は希望の信仰によって一人から始める一人立つ信仰であると思います
一人に続く二人三人の原理だと言えます

264しげきょん:2011/02/27(日) 14:05:07
組織に従属とは苦しい境涯でありますね
むしろ仏法者は依報(環境周囲など)に対し主体者であり主人公であり
自由自在で在り続けるのが理想です

265しげきょん:2011/03/01(火) 00:19:44
EUPAさん>従属の反対は、率先 ?
では、師弟の理想の関係とは ?
従属の反対は自由自在の境涯だと思います
一つ仏法は、元品の無明からの解放です

266東(空):2011/03/04(金) 13:39:34
昭和32年 [戸田先生] 生きていることが、楽しい状態だよ。私が、もし、ふつうの教授やなんかでありまして、ここで講義をしておったら、何時間講義しなきゃならん、どうしなきゃならんと思うでしょうが、私はイヤならやめちゃう。

私は生きて楽しんで講義してるんです。あなた方に義理なんか立てていませんよ。だからご遠慮なく(笑)

私は自分で生きているんです。講義をしたいから、しているので、イヤになったらやめてしまうだけのことだよ。
それを三身即一身の境涯というのだよ。

イヤならやめる、好きならやる。それで人に迷惑はかけないぞ。人に迷惑はかけちゃいかん。
自分だけのことは、自分が楽しんでおればいい。

今日の講義なんかも、自分で好き放題のことを言っているんです。こういったら、ほめられるか、こういったら嫌がられるか、そんなことは微塵(みじん)も考えてないぞ。
僕の思い通りの講義してるんだから。それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないか(笑)

それを、三身即一身、自我得仏来の境涯というのだよ。それを習って帰って
「おれは、自我得仏来だ、一パイ出せ」なんて、女房に言ったら承知しないぞ(爆笑)

わが心の境涯は、広々として、天空をわたるような境涯でなければならぬと、私は思うのだがな。
だから、僕は、講義していても楽しいのです。

267堅皇:2011/03/04(金) 18:09:27
> 今日の講義なんかも、自分で好き放題のことを言っているんです。こういったら、ほめられるか、
> こういったら嫌がられるか、そんなことは微塵(みじん)も考えてないぞ。
> 僕の思い通りの講義してるんだから。それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないか(笑)

これはもうジャイアンの言い分ですね。
リサイタルをやりたいからやる、それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないかと言われても
のび太くんたちには選択権は無いわけですから。

「イヤならやめる、好きならやる。」
こんな無責任な態度であれば、確実に人に迷惑はかける状況を生んでしまいます。

「妙法」はもちろん自分が楽しむ事が大事であるとも言ってるのですが
と同時にそれによって周りも楽しむと言う事も大事であると言うことですね。
「依報 正報ともに妙経を宣ぶ」であり、どちらか一方が欠けても妙法では無いと言う事ですね。

禅は依報と関わりを断ち正報のみで仏性を見出そうとするもので
真言は正報が依報を支配するというものでありますから戸田さんの理論は真言と言う事になるかと思います。
ちなみに、依報のみに走るのが念仏と言う事になりますね。
ですからこの場合講義を行っている戸田さんが真言であり講義を聞いてる人たちが念仏と言う事になりますね。

で、戸田さんが何故にこんな事を口走ったかと言えば他でもない
日蓮正宗が発する「本因妙抄」と言う偽書に魅入られてしまったからであり
妙法とは正報を指す事だと思われたのでしょう、だから自分が楽しければ周りも楽しい筈だと思い込んでしまった。
これに関してはしょうがないところだと思います、なんせ日蓮正宗の教義はこの時点で偽書まみれだったわけですから。
端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。

268東(空):2011/03/05(土) 03:43:20
>日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
>端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。

[戸田先生 質問会より]
「初代会長が罰論をいったとき、罰論は創価学会がかってにつくったものだといって、
坊さんのあいだにもずいぶん非難がありましたが、これは創価学会がつくったものでもなんでもなく、
御本尊様がきちんとおっしゃっているのです。うそだと思ったら、御本尊様をよく拝んでみなさい。
右のかたには 『若し悩乱せん者は頭七分に破れん』と罰論が、きちんとあります。
また左のかたには『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』と功徳論が厳然としてあるのです。

戸田第二代会長が執筆された「寸鉄」より

昭和28年
・或る僧侶云く「此の頃少し罰と功徳の事がわかって来たよ」と、おそいおそい。

・御僧侶たりとも、信心および折伏の指導に誤りありと思わば直ちに会長に報告すべし。

・御僧侶に望む。現時の御僧侶は尊敬されるべき何物も持合せていないと思う。
若し、尊敬を受けたら自ら御自身に言い給え「衣の功徳と御本尊の御威光である」と。

・僧侶にして信心なしと云わば毛のなき猿が衣をつけたようなものである。

・なげかわしきかな魔の僧侶よ、大御本尊様は大慈大悲の大聖人様が凡夫マルだしの
その凡夫に賜わった事を知らざるか、僧衣をぬいで速かに地獄へ行け。

騙されたどころか戸田先生は坊主を諌めていらっしゃいます。

269東(空):2011/03/05(土) 03:44:29
>これはもうジャイアンの言い分ですね。

てんとう虫コミックス、ドラえもん 全45巻 及び ドラえもんプラス全5巻において、
ジャイアンが「リサイタルに来るのが嫌なら来なければいい」といった趣旨の発言をしてるシーンは、
どこにもありません。したがってジャイアン、キャラクターと同列に論じるのは無理があります。

>日蓮正宗が発する「本因妙抄」
創価学会版御書に「本因妙抄」(P870)が記載されています。

>「イヤならやめる、好きならやる。」

例えて言えば、嫌な会社を辞めて、好きな会社に移り仕事をする事を「無責任」とは言わないでしょう(笑)

>この場合講義を行っている戸田さんが真言であり講義を聞いてる人たちが念仏と言う事になりますね。

この場合、戸田先生は師匠であり講義を聞いてる人たちは弟子です、師弟不ニ。

270堅皇:2011/03/05(土) 11:09:02
師弟不ニとは如何なる理論か。

単純な話、日蓮の師匠は道善房となる訳ですから日蓮は念仏を唱えなければならないと言う事ですね。

ま、法華経を第一とすれば「捨てた方便」の1つであり
法華経を受持し未だこの師弟不ニに執着していると結果的に謗法者となり阿鼻地獄と言うところですね。

法華経を理解するには真言、念仏はある意味誰もが通る道なのかもしれませんね。
空海、法然、日蓮と続くように
また、若き日の日蓮も真言がもっとも素晴らしいのではないかと誓いを立て
その後釈迦仏に念仏をした後、ようやく法華経に辿り着きましたからね。

正宗教義も日有さんの「本因妙」という真言思想から
日寛さんの「独一本門」という念仏思想による題目の解釈。
戸田さんの真言的解釈から始まり創価学会が流布した南無妙法蓮華経と言う念仏と言うものに出会い
ようやく法華経の意味を理解する事が出来たわけですから。

歴史は本当に繰り返されているものだと思いますね。

そう考えると
空海(日有)さん、法然(日寛)さん、極楽寺良観(池田)さんにも感謝するべきだと言う事は
最近は特に感じるところです。

271東(空):2011/03/05(土) 12:20:31
>師弟不ニとは如何なる理論か。

師弟不二とは、師匠が持っている智慧を弟子がそっくりそのまま感じ取ることができるのか否かになる。

師匠は自分の持っている智慧を 惜しみなく全部弟子に分かち与えたいと考えている。弟子はその智慧を欲しいと思うか思わないかという立場になる。


戸田先生が生命論で述べている文章

「自分自身が死に直面したらどうか(中略)キリスト教の信仰にはいったり、
または阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、
心の奥底(おうてい)から納得するものはなにひとつ得られなかった。」

「道を求めてきた」というところが要点。

>戸田さんの真言的解釈から始まり創価学会が流布した南無妙法蓮華経と言う念仏と言うものに出会いようやく法華経の意味を理解する事が出来たわけですから。
>空海(日有)さん、法然(日寛)さん、極楽寺良観(池田)さん

↑これはもう酔っ払っている泥酔者の言い分ですね。昼間から酒盛りですか?(笑)

んで、
>日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
>端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。

に対して、>>268に書いた事に関しては、反論出来ない、とみていいのかな。

272堅皇:2011/03/05(土) 14:37:55
「真書と偽書と歪曲する等読者を迷わす事甚だしく、到底之を信頼する事が出来ない上、
最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は巳に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、
宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。」

と言うのは戸田さんが御書全集発刊に置いて書かれた発刊の辞でありますね。

つまるところ戸田さんは偽書である「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」こそが
「宗祖の御真意」だと思われたと言う事ですね。

この時点で大間違いって事ではないですかね。

>>268 で戸田さんが日蓮正宗内に説法した内容は「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」と言う事なのかと。
と言う事はこの偽書中心の教学を植えつけた戦犯の中心人物であったと言う事になりますね。

この辺は創価学会の齊藤教学部長の方が良くご存知の事だと思います。

ただ、表立って戸田さんは間違いを犯していると言う事は言えないですね。
自身の保身の事を考えたら。
即組織から追われる立場になってしまいますからね、可哀想に。

これから出す御書全集に関しては発刊の辞を消す必要があるかもしれませんね。
こう言った改ざんや黙って消去すると言う行為は創価では日常に行われてきた行為ですから。

ただ、ここまで出回ったものを今更そんな事ぐらいで消せるものとは思えませんが。

273東(空):2011/03/05(土) 16:57:21
御書 発刊の辞より抜粋 昭和27年 

「大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御書全集が皆無に近い現状であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠つていたが、相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし、或は誤をその儘伝え又は偽書を真書となし、真書と偽書と歪曲する等読者を迷わす事甚しく、到底之を信頼する事が出来ない上、最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は巳に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。」


>つまるところ戸田さんは偽書である「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」こそが

戸田先生は当時、は巷に出回ってる学者などの出した御書に、偽が出回っていることや、最も重要な、血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄が巷のどの御書にも載っていない、宗祖の御真意を拝したいと念願する者をして、遺憾の念を抱いた、と言っているのであり、
>>272のような「切り文」でもって相手を騙そうとする手口はホケコーの十八番なのだ。

発刊の辞をよく読み直すことですな「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」が偽書とはどこにも書いてないぞ、まだ酔いが覚めてないのかい?(笑)

274堅皇:2011/03/05(土) 17:29:14
全文載せてみたところで
「最も重要な、血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」との表現は覆い隠す事は出来ませんね。

何故ならこの「血脈抄」「本因妙抄」があってこそ日興唯一論、日蓮本仏論といったものから
日寛さんの六巻抄を始め文底独一本門といった
日蓮正宗特有の石山教学が成り立っていると言えるわけですから。

ハッキリと申し上げて僕は日蓮仏法を否定しているわけではありませんよ。
日蓮正宗の教義と未だ日蓮正宗の教義に依存しきっている創価学会の教学を否定しているのですから。

いくら齊藤教学部長がそのほころびをせっせと埋め繕い見せ掛けだけで誤魔化そうとしても
もうそろそろ限界なんではないですかと言う話ですよ。

学会のお掛けで念仏を唱えても、ある一定の功徳と言うものは得られると言う事は学ばせていただきました。
これが「魔の通力」と言う奴ですね。
しかし、あまりにも念仏が過ぎるとそのうち自身の未を滅ぼす結果になってしまいますよと警告しているだけですから。

そもそも真言と念仏と題目ではその発生する音の違いだけではなく、その理論がそれぞれに異なっています。

真言とは宇宙の真理、真如を指し示す言葉です。
つまり、題目を本因妙や宇宙のリズムと捉えること自体が真言と言う事ですね。

また、念仏とは仏に念ずると言う行為の事を指す訳ですね。
つまり、人本尊である日蓮に対し念ずる、法主に対して念ずる、創価三代を永遠の指導者として念ずる。
いずれにしても題目を念仏として捉え唱えていると言う事になりますね。

275堅皇:2011/03/05(土) 17:47:49
かたや題目とは何か。
その名と通り「お題目」つまりはタイトルの意味を指します。
つまりは法華経に書かれている法自体を信じる事になるわけです。
当然、文底独一本門といった物により書き換えられた法華経ではなく
ありのままの法華経を信じると言う事。

法華経では権実大小のあらゆる経文を賛美し、またこれから現れるであろう法も全てが一乗に帰する事が書かれています。
だからこそ、法華経の題目を唱える事によりあらゆる法を自らの力で得る事が出来るわけですね。

これを文底独一本門を義によって捨閉閣抛する事によって
この題目は法華経の題目ではなく文底独一本門の題目となってしまい。
結果的にあらゆる法を誹謗し謗法の輩に転じる事となってしまうということですね。

正に文底独一本門とは法然の記した「選択集」と同じ理論が綴られています。

ただ「南無妙法蓮華経」と唱えたところで肝心な理屈が念仏と同意なら全く持って意味を成さない。
行き着く先は当然見えてくると言う話です。

276東(空):2011/03/06(日) 08:23:09
>日蓮正宗の教義に依存しきっている創価学会の教学を否定しているのですから。

初代会長、牧口先生のときから創価学会は坊主によらず、最初から御書を根本としてきた←聖教新聞社の、教学談話室という本にちゃんと書いてある

念仏だ真言だと、八百神信仰みたいなことを目指してるのかな?くだらんw

277堅皇:2011/03/06(日) 11:58:20
確かに牧口さんと戸田さんは最初から日蓮正宗とは別組織で出発しましたから
それは日蓮正宗と相まみえない部分はあったでしょうね。

また、牧口さんと戸田さんでもその方向性は若干違いますからね。
牧口さんは日蓮正宗とは距離を置いて付き合っていたのに対し戸田さんは宗内に入り込んでの付き合いですからね。
この辺を掘り下げると長くなりそうですから割愛しますが。

僕は聖教新聞社の本も読む事はありますがそれ以外の本も読みますからね。
やはり両者の物を読まない限り真実は見えてきませんからね、それこそ諸法実相で考えてますから。
真実は身に非ず土に非ず、身土にありってところでしょうね。

学会員の方は聖教新聞社系の本しか読まないし、アンチの方はアンチの本しか読まないから
情報を鵜呑みにしてしまうと思います。
同じニュースを複数の角度から読んでいけば情報に騙される事はないと思っています。

278東(空):2011/03/06(日) 13:04:33
>>269のように私はドラえもん、も読んでいる

279ぜんまい:2011/03/06(日) 14:10:19
>>278

東さん、はじめまして。


私もドラえもんは読んでいました。

280ぜんまい:2011/03/06(日) 14:16:32
>>277

はじめまして。


>学会員の方は聖教新聞社系の本しか読まないし、アンチの方はアンチの本しか読まないから



私は立ち読みを含めて、アンチ系の本を読むことはありますよ。


またアンチ系のサイトを閲覧する事もあります。

281東(空):2011/03/06(日) 19:37:43
ぜんまいさん、こんにちは(^ω^)

282しげきょん:2011/03/07(月) 00:12:33
念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです
それを 師匠に念ずる 日蓮大聖人に念ずるとかて考えの概念を持つのは
創価学会員か元会員の堅皇氏lぐらいです
ごく一般的認識では 学会員は念ずるという言葉よりも
御祈念するという言葉を多用し、
決意を祈念する宗教的文化をもっています
御本尊に誓いを立てるyという行為は従来の阿弥陀思想のすがるという念仏思想からは
生み出されない民衆自立の文化です
それを学会指導者たちは現代語に訳し、一人立つ、と簡潔に訳されてます
仏典でも 師に誓いを立てる
釈尊の十第弟子のフルナの弘教の請願などがあるように
誓いを果たす弟子の力によって 教団の行く末を興隆するものです
大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)
の請願があります、修学時の請願が大聖人の青春であられたのでしょう

283しげきょん:2011/03/07(月) 00:25:16
続き、大聖人の「一切衆生の智者と成らせたまえ」という請願は
即主師親の徳を因果具時に成就されたのでしょう
詳しくは省きますが
無作の三身の如来成就とも言えましょう
絶対の安穏の境智です
法難にあえども門下を慈しみ 親以上にも門下を大切にされ
末法の未来を託されたのです

284しげきょん:2011/03/07(月) 00:37:04
>282  教団の行く末=サンギャ和合僧団の行く末
平たく言えば 日蓮門下の善智識の集いの行く末
とも訳されます

285堅皇:2011/03/07(月) 00:58:09
>>ぜんまいさん

はじめまして。

> 私は立ち読みを含めて、アンチ系の本を読むことはありますよ。

これは僕が学会員時代から基本の行為でしたね。
その昔は「週刊実話」なんかを読むと結構楽しい事が書かれていまして。
会館内の写真を掲載して、「この中で日夜幹部たちは宴会を繰り広げている」なんてね。

あーなるほど、あれだけだだっ広い畳敷きの部屋を見ると確かに知らない人が見ると宴会場に見えるわなと。
嘘もこれだけ書かれると気持ちが良いというのと相手に実状を説明するにはこういった記事を目にした方が
実際の答弁はしやすいものなんだと思いよく読んでいたと言う事はありましたから。

もっとも同時に組織内での体験発表や聖教新聞に載せるときの原稿に
幹部が赤ペンを入れて修正している事実も目の当たりにはしていたんですけどね。

まーある意味どちらの立場に置いても、その目的を考えた上である程度冷静な態度で
寛大に受け止めていたんですけどね、若い頃からそのへんだけは大人でしたから
水清ければ魚住まず、嘘も方便って事で。

このお互いの方便合戦に対して徐々にアンチ側からまともな指摘が入ってくる事が増えてきましてね。
それに対する創価の過剰反応に少し戸惑った時期もありました。

もっとも今はその戸惑いを通り越したものになってしまった訳でして
これでも昔はアンチからの指摘に対しある程度の弁護はしてきたつもりなんですけどね。
でも正直今は弁護が全く出来ない状況だと言う感じですね、残念ながら。

286堅皇:2011/03/07(月) 01:53:00
>>しげきょんさん

> 念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです

そうですね、単なるイメージと言う事ですね。
つまりは思い込みと言う事になろうかと。

さてさて、仏は一体何の為に法を説いてきたと言うのでしょう。
毎日読んでいる方便品にはここ書かれています。

吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
「私は仏と成っより已来(このかた) 種々の因縁、種々の譬諭をもって
広く言教を演べ無数の方便をもって衆生を引導して。諸の執着を離れさせてきた。」
だそうです。

つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。

> 大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)

その通りですね、若き日の日蓮は真言こそが第一と思われ、真言密教の菩薩である虚空蔵菩薩への誓いを立て
釈迦仏を本尊として念仏により経を読誦されました、間違いはございません。

この後に日蓮は法華経第一と悟られ立宗宣言を行ったわけですから。

ですから、真言も念仏も一度は通る道なのかもと言っているではないですか。
ただ、くれぐれも念仏が過ぎると行き着く先に気をつけましょうと言うことですね。

287しげきょん:2011/03/07(月) 08:59:03
日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?
ひいては法華経しゃくもんの立場も破り去った本門上行の垂迹を払って
久遠以来の如来の境涯を開かれた
末法の衆生の主師親のを確立したのではないだろうか

288堅皇:2011/03/07(月) 10:44:02
> 日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?

吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。

更に言えば真言念仏は権経ではございません。
いずれも実教である法華経以後のものであり、その法華経の理に反し
尚且つ法華経を無視したり法華経より優れているとしているから謗法だと言う事です。

方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか説いてないわけですね。
舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

また、比喩品では世尊は舎利弗に遊び場で此の法印を宣伝するのはダメだと説かれています。
何故ならば、この「以信得入」の此の法印は利益か大きいのと同時に大変危険だからと言う事ですね。
特に執着の強い人、依存の強い人(増上慢)に聞かせれば法を謗り阿鼻地獄へ落ちるとも言われているからです。

解ります?「以信得入」と言ってもただ何でもかんでも信じればよいと言う話ではないんですよ。
創価の指導では誰彼構わずにこの「以信得入」と言う言葉を宣伝してますが。

密教の始まりはこれらを元にして段階的に秘密裏に仏法の実践を行おうとしたわけですね。
もちろん密教の形態では、取り仕切り側のさじ加減で変わるものなので法華経の趣意を掴んでいるとは言いがたいのですが。

しげきょんさんの話は日蓮や法華経の理論ではなく日寛さんの理論ですね。
「選択集」と同様な理を立てた日寛さんは執着の強い人(増上慢)だったと言えると思います。

289御意見番:2011/03/07(月) 14:05:37
>>288

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。


>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

釈尊が十如是・世雄偈を説いた後、舎利弗以外の衆生が動執生疑を起こし、
舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりの後に「五千の上慢」が会座から
立ち去ってはいるけど、霊鷲山の会座には五千に留まらないほど数多くの
衆生が集ってたわけですが。


堅皇さん。

貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?

290堅皇:2011/03/07(月) 15:44:54
> 方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
> 霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。

ちもろんその程度の事は理解しております。
但し、立ち去っていった上慢の比丘・比丘尼の存在があると言う事ですね。

更に加えて言えば、この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね。
彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから。

具体的に謗法者となるのは此の法を謗る事にあるわけですからね。

つまりは権経自体は法華経に近づけるための方便と言う事になり
法華経を知りつつ法華経を謗る真言念仏が謗法と言う事になりますね。

日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。
さて、法華経の何処に権経を誹謗して捨閉閣抛しなさいということが書かれているというのでしょう。
ましてや法華経を所破とはあるまじき行為であり正に念仏と同じく謗法であると言えますね。

291御意見番:2011/03/07(月) 17:16:11
>>290


>ちもろんその程度の事は理解しております。

堅皇さんは「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」と言ってたでしょ?

舎利弗を対告衆として、霊山の会座にいた一切衆生に説いたとされる方便品の経文と
異なる話をしておきながら、な〜にが「ちもろんその程度の事は理解しております」
ですか(呆)


>この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね
>彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから


「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。

その上で、十是実相の話に動執生疑を起こして霊山の会座から立ち去ったという
方便品の流れを理解出来ないで、な〜にが「彼らはまだ此の法に出会ってない」
ですか(呆)

292堅皇:2011/03/07(月) 17:28:52
ところでふと思ったのですが御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。
経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。
もしかして法華経の解説書などを目にされてそう思われたのですかね。
ちなみに僕はこの「妙法蓮華経」自体が方便であると捉えたから舎利弗と言う個人ではないとの判断なのですがね。

また訳を読むにあたって一人の訳では読んでないわけですね僕は
より現代訳に近い方が読みやすい理解しやすいと言う事はありますが同時に意味が若干異なる場合があります。
例えば「三昧」と言う言葉等を取り上げれば「瞑想」などと訳されているものもあります。
確かに解りいいと言うこともありますが、では「禅定」とは何か。
同じく「瞑想」と訳されていたり、「如来」と言う言葉も単純に「仏」と訳されている場合もあります。
「如来」と「仏」が同義であれば最初から書き分ける必要はないわけですね。

1つの訳文、解説書に依存してしまう事も同じく著に囚われる事だと思います。
御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると判断されたのかは解りかねますが
もし、解説書に書かれているからと言う理由であれば解説書に依存されている事になり
その状態こそが増上慢だと言う事になるかと思います。

と言うのも石山教学に触れている方々は南無妙法蓮華経という教相が真言であるとの考えですから
御書を読む場合でも教相で捉えるところがあると思います。
方便品を教相で捉えると単に舎利弗という二乗作仏の話と捉えられてしまいますが
これを観心で捉えると二乗作仏であるなら全ての衆生もまた十如是であるから自ずと「煩悩即菩提」の文字が浮かび上がってくるわけですね。

つまりは「煩悩即菩提」は確かに密教で表現された言葉ですが
法華経の文の底に既に沈めてあったということになります。

よく石山教学の方々も文証、理証、現証と言う言葉を使われますが、実際に用いられているのは文証だけですね。
理証となる考えはどこかの解説文書に依存して現証に至ってはまるで無視、これを増上慢と言わず何を増上慢と言うかですね。

293堅皇:2011/03/07(月) 17:34:15
> 「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。

「十是実相」は法華経の触りですよ。
舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。

294しげきょん:2011/03/07(月) 18:02:08
>方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
>霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが

それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ

295御意見番:2011/03/07(月) 18:03:17
>>292-293

>御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。

「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことを
いうわけでしょ。


>経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。

方便品の始めに

「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく」

で、「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」とする堅皇さんは、釈尊が「舎利弗に告げたまわく」で
方便品を説き始めた時、霊山には「舎利弗一人しかいなかった」と解釈してたの
ですかい?


>「十是実相」は法華経の触りですよ。
>舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。


舎利弗が三度懇願したのは「十是実相」の後でしょ。



堅皇さんの発言を再掲

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。


堅皇さん。

貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?

296しげきょん:2011/03/07(月) 18:10:26
舎利仏は一人霊山会にいたのではありません
二乗を代表してその他の眷属一同釈尊の十如是方便を説いたのです

297しげきょん:2011/03/07(月) 18:44:48
>日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。

間違ってる事説きなさんな
しゃへいかくほうは法然の説いた謗法でしょう
混乱狂学は止めなさいよ

298しげきょん:2011/03/07(月) 19:02:33
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。
権教は欲望やエゴの生き方をセーブしてきたけど
末法に近くなり権教の僧が欲得や名声欲に溺れて着出してもはや方便の権教じゃ
治せなくなっており
日蓮は方便権教ではもはや成仏もかなわないし
社会も混乱して何も解決しないと説かれて南無妙法蓮華教の 大法をもって
根本的無明法の正しい道に暗き衆生にっとって太陽のように明るい希望の道を切り開いたのです

299堅皇:2011/03/07(月) 20:44:22
> 堅皇さんの発言を再掲

> >方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
> >説いてないわけですね。

> >舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
> >更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

御意見番さんがどう解釈したか存じませんが

僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然

「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を指しているわけですよ。

つまりは三乗はなく全てが一乗であるというくだりの部分ですよ。
ここが世尊が説くのを最もためらった重要な箇所なんですから。

> 「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことをいうわけでしょ。

そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり
唱える題目も「南無妙法蓮華経」であるわけですからそれ以外は全ては参考程度と言う話ですね。

300堅皇:2011/03/07(月) 20:46:28
>>しげきょんさん

> それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
> 異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
> 六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
> これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ

創価学会も何時の間にか本当に傲慢な存在になってしまったもんですね。
創価学会は地涌の菩薩確定と言う話ですか。

俺がまだ子供の頃は「法華経に地涌の菩薩の事は書かれているが創価学会が地涌の菩薩のという確証はない
でも我々が地涌の菩薩だと言う事を信じて頑張ろう」という話をする幹部も沢山いたのですが
もうこう言った姿勢で捉えている人は誰もいないという話ですね。

もうこうなると「嘘も方便」ではなく「方便が真実」って事になってしまっているわけだ。
もっとも「本因妙」と言う言葉自体が「方便が真実」って話なのでしょうがないですけどね。

301堅皇:2011/03/07(月) 20:49:40
その勝手な思い込み、依存、執着の持ち主の事を「増上慢」と言うわけですよ。

302しげきょん:2011/03/07(月) 21:27:18
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな

303しげきょん:2011/03/07(月) 21:28:22
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな

304御意見番:2011/03/07(月) 22:25:13
>>299


>僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然

>「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
>最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を
>指しているわけですよ。


堅皇さんの元発言を再掲

>吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。


「吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。」

この経文は「汝已慇懃三請」の後ではなく、十如実相(十是実相は漢字間違いでした)
の前に説かれているわけでしょ。


>そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり

七文字の題目を信じるのもいいけど、法華経の教学を語るならば、
法華経開結の読み下し文を読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。

305堅皇:2011/03/07(月) 22:54:55
>>御意見番さん

まいりましたね、ここでも切り文で来ますか。

>>286 僕の発言は
吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。

この辺の説明では「此の法」とは言ってないですよ。
僕は「仏法とは」と表現してありますからね。
> つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
> 確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。

そりゃそうですよ、毎日勤行で唱えている部分はこれまでの権経を褒め称えている部分であり
まだ核心部分に入ってないですからね。

何故に石山流の勤行が長行ではなく「十如是」までで終わっているかは
「十如是」が核心部分だと思ったか、増上慢の集まりの団体だからかは知りませんけどね。

方便品の一連の話をちゃんと最後まで聞いて初めて
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」となるわけですから。

いきなり権経の方便を取り去ってしまったら法華経にたどり着く事も出来ないわけではないですか。

つまるところ仏法の何たるかを理解する為にも権経は必要であり
また、法華経に辿り着いた人は権経の理に執着してはいけないという事でしょう。
石山教学は完全にその逆を行っていると申し上げたいわけですね。

306堅皇:2011/03/07(月) 23:50:27
>>しげきょんさん

> なんか過去の指導者の言に拘ってますな

指導じゃないよ、それだけ昔は御書を創価から配られた解説本だけを鵜呑みにしないで
ちゃんと考えて読んでいた人が多かったって話よ。
当事は、子供だったからそれこそ意味が全然解らなかったけど今になっていろいろと思い出すことが多いわけ。
「久遠元初」に対してなんか言い訳臭くて納得できないなと言う話や
日顕曼荼羅が謗法曼荼羅と言い出したのは危険な話だとか
「九識論」と「一念三千」は本来別次元の話だとか。

今となるとなんでこの様な議論をしていたかの意味が良く解るという話ね。

307堅皇:2011/03/08(火) 18:13:57
えーと、1つだけ僕の書き込みに関してのお詫びです。
勤行に関しての方便品での「十如是」と言う物は石山流に限った話ではないということ。
また、この「十如是」までを長行とする考え方もあるみたいですね。

これは一体何を所依としているかと言う根拠までは解りかねますが。

一宗派の問題に書いた事はお詫びいたします。
宗内の腐敗に関した事例も日蓮正宗だけに限らずその他の日蓮宗派でも多かれ少なかれありますからね。

もっとも広宣流布というものを目指しながら各門流と称し組織の分裂を繰り返しているのは
何も石山派だけに限った話ではないということでもありますからね。

308御意見番:2011/03/08(火) 23:16:09
>>305

>僕は「仏法とは」と表現してありますからね

ほぉ〜

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

「此の法」を「仏法」とした場合、

そうなると釈尊は「仏法」を「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」
ということなのなのかい?



堅皇さんの発言を再掲

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です


舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりは、会座にいる衆生を意識した内容に
なってるでしょ。

舎利弗「今者四衆、ことごとく皆疑い有り、唯、願わくは世尊、この事を敷演したまえ」
釈尊「もし、この事を説かば、一切世間の諸天及び人、皆当に驚疑すべし」

会座の衆生が十如実相の文を聴いて疑いを起こしたがゆえ、その衆生の心を知った
舎利弗が、衆生の疑いを晴らすため、代表して釈尊に教えを懇願し、
釈尊がそれを拒否するやりとりが「三止三請」なわけだろ。

だからこそ、舎利弗が、会座の衆生を代表する「対告衆」としての意義があるわけ
じゃんか。

「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」は、
五千の上慢に入らなかった会座の衆生を無視した我見だぞ。


何度でも言うけど、法華経の教学を語るならば、法華経開結の読み下し文を
読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。

309しげきょん:2011/03/08(火) 23:24:15
堅皇氏の考えると言うのは疑うと言うことを意味している
つまり不信を合えてするという考えですね
不信こそ 迷いの主、、無明ですよ
以信得入以前の考えですよ 悟りから迷いへの転落ですよ 即身成仏から
歴劫修行への転落ですよ

310堅皇:2011/03/08(火) 23:50:09
>>御意見番さん

解んない人ですね。

仏法と言えば南無妙法蓮華経も権実大小も全て含まれるわけでしょう。
それに対する「此の法」と言う表現は見て取れば解るっしょ。

>>しげきょんさん

先ずは方便品を全部読んでみるとこ。
また比喩品に書かれている「以信得入」の前後をよく読んでみることですよ。

そうすればただ何でもかんでも信じればよいと言う事ではない事が解りますよ。

先ずは信と著の違いを見極める事ですね。
しげきょんさんのは信ではなく著だから。

311しげきょん:2011/03/09(水) 19:18:37
別に以信得入を説いたからと言って
なんでもかんでも 信じろと説いていません
貴方の脳内変換で 勝手に言われちゃ話になりませんわ
もちろん御本尊の当体であることを  強く信じ智恵へと転換することですよ
基本は御書御本尊大聖人です

312しげきょん:2011/03/09(水) 19:30:43
堅皇氏の説は 方便を説かなきゃ仏法に入れないという執着に囚われています
法華経の真実から法は説くべきです
勇気があれば、、、だが

313しげきょん:2011/03/09(水) 19:42:08
方便をごまかしごまかし説いていけば ごまかしが本当と思う人が出るでしょう
真実を説くから大聖人と同じ勇気慈悲が湧現するから人生が楽しいのでしよう
つまり方便は方便でしかないのです法華経は題目で得た真実の体験を説くものです
回りくどい方便なんか説いていたら広宣流布は大変立ち遅れてしまうものです

314堅皇:2011/03/10(木) 12:11:11
>>基本は御書御本尊大聖人です

かつては同じくそう思っていたんですけどね。
ただ、御書御本尊大聖人と言う事自体が、日蓮正宗が作り上げた「本覚思想」によって成り立っていますからね。
この「本覚思想」と言う物は秘伝や口伝主義が多発し比叡山の僧風を堕落させた中古天台と同じ思想ですからね。

また御書を基本と据える事が秘伝や口伝を持ち込むには都合の良い状況であるとも言えます。
簡単な話、秘伝や口伝を日蓮の御書だと信徒に触れ回れば良いだけの話になりますからね。
つまりは中古天台の悪しき時代に逆戻りと言う事になると言う事です。

仏法では「信」を段階的に捉えているわけですね。
シュラッダー:信 プラサーダ:浄信 アディムクティ:信解 バクティ:誠信

で、バクティと言う物は本来仏法にはないものでヒンドゥー教によるもので
まーバクティとは「絶対の帰依」と言う事ですね。
これに対する仏法はプラサーダ止まりと言う事でも仏法が宗教では無かったと言う事が物語れますね。

羅什の「妙法蓮華経」が逐語訳ではなく意訳と言う事はご存知かと思いますが
本来のプラサーダをバクティに意訳したのは他でもない羅什と言う事になります。
余程その書かれている内容に確信があったという裏づけにもなりますよね。
更にこのただでさえ「信」をより強調した羅什訳の「妙法蓮華経」に対し更に「南無」を加えて
更に「信」を強調したという事になります。
つまり日蓮にとっての「妙法蓮華経」と言う物は「絶対の絶対の帰依」と言う事になるわけですね。

そこまで日蓮が誠信を尽くした「妙法蓮華経」を何故に信じれなくて本覚思想の秘伝や口伝書を信じるのかと言う話。
であれば、「南無御書御本尊大聖人」でいいのではないですかね。
もっとも石山派の中ではそれ以前にやってる行為が「南無日寛上人」「南無六巻抄」「南無文底独一本門」ですけどね。

315しげきょん:2011/03/10(木) 22:56:22
所詮仏法が存在するのは
行学二道が行われるところしか存在しないのでは
折伏の行、教学の学の、二つを怠りなく進める人のいる場所が寂光土ではないかと
言えるのです
学だけでは観念的にしか仏法がありそうなだけで 実践の行に具体的証拠になる
仏法の実在が出てくるのではと思います
それは権益冥益の二つの利益があるのは当然ですが自身の命に実態として
どちらも行学の結果証拠として現れてくるものだと確信します

316堅皇:2011/03/11(金) 02:37:02
>>しげきょんさん

行学二道と言ってもねぇ。
その「行」をやるにしてもしげきょんさんの場合、体力も精神力も既に枯れ果ててるのではないですかね。
ぶっちゃけた話、両親が倒れてしまったらしげきょんさんはどうやって生きていくのか。
しげきょんさん自身の体調も去ることながら両親ももう若くないでしょうに。
一日も早く依存癖から抜け出せるようには願ってます。

と言う事で構うのはもうお仕舞い。
このままではもう何も変わらないと思うので、本当に困ったときが来たら
訊ねてきてくれればいいから。

それでは説教オヤジさんの復活も見込めそうに無いので
お元気じゃなさそうだけどお元気で。

317しげきょん:2011/03/11(金) 23:16:34
お構い無く、、、依存じゃなく親子互いに協力し合って生きています
これも創価のおかげです
仲良く協力し合っているのが 言葉だけで依存と断じられては
かなわないよ ほっといて下さいなとしか言いようがない


貴方は貴方の道を歩めばいいよ

320首都高バトル01:2011/09/30(金) 10:11:09
堅皇さんと説教オヤジさん〜 のスレで、

>50 より、たぶん勢いで書かれたと思うのですが、
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」とありますが、一念三千は、天台によってではないですか?
そのところ、すみませんが補足願えれば、ありがたいのですがよろしくお願いします。 しょうもないツッコミをしてすみません。

どこに書いていいのやら、ここのスレの皆さん、突然 申し訳ありません。

321首都高バトル01:2011/09/30(金) 11:14:08
ついでですので、十如是ってなんでしょう?
十の如是の語句の解説ではなく、華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。
十如是の映像を持って十界が顕れ、十界のそれぞれの一念によって十如是の映像が、顕れる。
依正の依、つまりまわりや環境、他人の一瞬のしぐさに十如是の映像を見る間もなく(本当は見ているが、めちゃくちゃ速い)、十界のどれかを観じ、
そしてそれに素早く反応しようと今観じた十界とは別に、対処しようと(依正の正)、自らに内在する十界が顕れ、どう対処するかの十如是の映像が意識に顕れる。これも瞬間なので内在する十界のどれかが顕れ、その強い一念で十如是の映像を確認することなく、その映像のとおりに行動しているのかもしれない。

つまり十界互具は、互具にとどまらず、互顕するのではないでしょうか?

まとめてみます。
「 十如是を持って、十界は顕現し、十界を持って、十如是は顕現する。南無妙法蓮華経を持って(唱えることにより)、仏界が湧現し、仏界を持って最高理想(具体的行動内容)の十如是が顕現する。

観心本尊抄講義で戸田先生曰わく、「 妙法蓮華経とは、即これ十界互具である 」

322首都高バトル01:2011/09/30(金) 11:28:53
では、仏界の一念とは、どのような生命状態なのでしょう?
一つの方向から、また機会があれば述べてみたいです。

一応まとめていますので...。

323説教オヤジ:2011/09/30(金) 22:14:57
開目抄上
「法華経方便品の略開三顕一の時仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う、」
開目抄下
「宗宗互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり
天台の一念三千これなり」

一念三千法門
「法華経は念念に一心三観一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され
無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身煩悩具縛の身即本有常住の如来となるべし、」

一念三千法門
「法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観一念三千と云う事あり、」

まだ、言わせるか?

324堅皇:2011/09/30(金) 23:07:08
>>首都高バトル01さん

一念三千は、天台によってではないですか?

これは説教オヤジさんに対しての質問だと思いますがその通りで
一念三千は法華経の諸法実相、十如是を天台が釈したものですね。

更に言えば十界論も天台の釈ですね。

ただあえて言うならば諸法実相も十如是も一念三千も十界論も同義であると言えますね。
天台は法華経最上の元で釈されてますので
全てが一乗と言う事で法華経の義に反してないと思われますから
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」と言う文には
僕は指した違和感は感じません。

厳密に言うのであれば釈迦は法華経は説いてませんし
法華経を説いたのは釈迦滅後の僧集団であり
更に天台や日蓮が指す法華経とは、その梵本法華経の事ではなく
鳩摩羅什訳の妙法蓮華経を指すわけですから
「釈尊は法華経方便品に於いて」の時点で釈尊は法華経を説いてないだろうとなりますし
「法華経方便品に於いて十如是を説き」の時点で法華経では十如是は説いてないだろうと言う話になりますからね。

325堅皇:2011/09/30(金) 23:07:45
> 華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、
> 一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。

これは違うと思います。
と言うより妙法蓮華経第一の解釈ではないと言えます。
華厳経にある義を妙法蓮華経の義により釈すのは妙法蓮華経第一となりますが
妙法蓮華経の義を華厳経の義により釈すとそれは華厳経第一となってしまいます。

例えるならそれは「煩悩即菩提」を「菩提即煩悩」としてしまう様なものですね。
これは真言宗が妙法蓮華経第一と捉えずに大日経等を第一と据えてしまった事と同じ過ちに思います。

日蓮の言い分によりますと真言は天台の一念三千を用いているにも拘らず
妙法蓮華経の義(もちろん諸法実相)から外れているので、語だけを用いるのは泥棒だと揶揄しているわけですね。

もっとも妙法蓮華経よりも華厳経が第一であると捉えられているのであれば
華厳経より妙法蓮華経がどれだけ優れているかと言う話から始めなければいけなくなりますが。

でもって天台の一念三千、三千一念は当然一念が実相であり三千が諸法と言う事が当て嵌まりますが
その一念とは何なのかと言われれば、やはりそれは諸法実相と言う事になろうかと思います。
つまりは、諸法実相の実相とは諸法実相であり、その実相もまた諸法実相で形成されていると言う事。

人間は何により形成されているかと言えば細胞の集合体であると言う事
その細胞は何により形成されているかと言えば細胞を形作っているものの集合体。
何処まで言っても諸法実相は諸法実相で形作られており実相と言う単体の存在はない
無限の無始無終と言う話であると言う事であると言えますね。

この妙法蓮華経の諸法実相に反し全ての宗教は始まりを見出そうとして
その始まりを神や本仏と言うもの作り出しているわけで
真実は諸法実相、十如是と言う縁起によって成されると説かれているのは
妙法蓮華経以外に現時点では存在していないと思いますから僕は妙法蓮華経を信じているわけです。

326説教オヤジ:2011/10/01(土) 05:44:57
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
>一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、

十法界事
>本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、

まだ挙げろってか?

327堅皇:2011/10/01(土) 18:38:53
説教オヤジさん

「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」も「十法界事」も単なる日蓮の釈ですよ。
ここでの質問は法華経(妙法蓮華経)に一念三千や十界論と言う物が出てきているのかと言う話です。

一念三千や十界と言うものはあくまで天台が妙法蓮華経の「義」によって表現された「語」であるという事です。

328首都高バトル01:2011/10/02(日) 02:05:11
遅くなって申し訳ありません。
説教おやじさんへ
いっぱい書いてくださいまして本当にありがとうございます。
勉強になりました。 子どもがおぼえたての言葉を連発するように、こういう指摘をすると言うことは、まだまだ未熟者です。ご勘弁のほどを。

堅皇さんへ
諸法実相の言葉は、そのとおり諸法実相なんですが、しかしその言葉は、指すゆびですよね。この世の中というか、十法界、森羅万象という大きな視点というか、全体像で視ると、諸法実相の実体は、生命ですよね。

それからご指摘の文章が、華厳経第一(私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)にならないようにするには、どう書き換えるかということですよね。

(1)引用文が見当たらない。
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。
(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?
(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?
(5)とにかく妙法蓮華経こと法華経第一にしたいので、文章をどう組み立てたらいいか考えてみます。、、、文章をあとさき逆にしてもなぁ〜、五陰もな〜、難しいです。ハイ。

329首都高バトル01:2011/10/02(日) 02:42:28
付け加えて〜
諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。

330堅皇:2011/10/02(日) 14:23:54
首都高バトル01さん

> (私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)

とのお話ですが基本的に日蓮信者の方々は法華経が第一ではなく
日蓮及び御書第一と捉えられている方が多いと思います。

更に言えば日興門流では日興第一であり御書に外れる義であっても遺誡置文にあればこれが第一
もっと言えば、日蓮正宗で言えば歴代法主の書にあればこちらの方が第一となり
御書や妙法蓮華経から外れる義であっても、これを第一として捉えているわけです。

これが正解か不正解かと言う議論はその内容を精査する必要があるとして
言えるのは妙法蓮華経が第一と言う事ではなくなってしまっていると言う事です。

その際たるものが「久遠元初の自受用報身」や「文底独一本門」と言う事ですね。
妙法蓮華経にある語は「久遠実成」に「諸法実相」ですから
この義に照らせば「久遠元初」は「久遠実成」と義が異なりますし「文底独一本門」は「諸法実相」と義が異なりますよね。
異なる義が交差する時にどちらの義を根本に第一として捉えるかと言う事ですね。

僕は妙法蓮華経を第一と据えますから「久遠元初」や「文底独一本門」と言う方便は法華経を理解した時点で捨方便しますが
日蓮正宗及び創価学会の方々は歴代法主の書を第一と捉えてますから逆に
「久遠元初」や「文底独一本門」を持ってして「久遠実成」や「諸法実相」の方を捨方便していますよね。

ちなみに天台の「一念三千」は「諸法実相」に義が異なるものではありませんが
「一念三千」の「一念」もまた「諸法実相」ではなく「実相」と言う単体のものと解釈するならば
妙法蓮華経と義が異なるものとなり、禅宗や真言宗の様な捉え方となってしまうということです。

また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが

331堅皇:2011/10/02(日) 14:24:37
また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが
「久遠元初」では九界の境界を超えた仏性はある日突然一人の人物によって発生させたという考えであり
天台の「十界互具」と言う事にも義が異なると言えると思います。

以下ご質問の回答です。

(1)引用文が見当たらない。

僕は妙法蓮華経を第一として考えていますので文証は基本的に妙法蓮華経及びそれを証明させるための諸経です。
加えて妙法蓮華経を第一と捉えた上で妙法蓮華経を守らんがための第二に大般涅槃経を用います。

日蓮信者の方々はどうしても「語」に拘る方が多いようですが
僕は「義依不依語」の観点から「語」ではなく「義」を追求しているわけです。
「語」に拘り音読、丸暗記を基本として考えているのは真言密教の考え方ですね。

対する羅什、天台、日蓮に共通する事は「語」に依らず「義」に依り解りやすく意訳して伝えているところにあります。
これが仏法がインド、中国、日本へ渡って使われる言葉や表現方法が異なれど
その「義」が伝わるものだと言えますが
密教が用いた音訳は発声自体は継承されても「義」が全く異なり
仏法が仏法で無くなってしまった所以であるとも言えると思います。

大切な事は「語」なのか「義」なのか、その両方を比べた時
僕は間違いなく「義」が大切なものであると思っています。

意味の解らない丸暗記の文章を羅列するよりは、その「義」を汲み取り
少しでも理解しやすいように伝える事が本命だと考えています。

332堅皇:2011/10/02(日) 14:25:26
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。

先にも説明しましたが人は「十界互具」であり「久遠実成」であるわけですから
「仏の目や境界(境涯ではなく境界)を通せば」で言う「仏」とは人々に内在するものですから
なにも偏った思想では無いと言うことです。
「仏の目や境界」とは誰もが既に用いているものであると言えますから。
これを引き出せるか引き出せないかと言う話であり、仏とは人間を超える何かと言う事ではありませんから。

(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?

諸法の引用はしますよ、妙法蓮華経では一切の諸法を認めているわけであり
また、それらの諸法の中に実相があると言っているわけですから引用しないわけがないです。

但し、天台も日蓮も諸法の段階的な優劣は説いています。
これは妙法蓮華経を守り広めるための大般涅槃経の義ですね。

どちらも間違いではないと言う観点に立ち、どちらが最上かを計るためのものですね。
A案しかなければA案を選択するしか道はないですが
A案とB案が存在すれば、どちらがベストであるか計る必要があるでしょう。
互いに逆の方向を目指せばまとまるものもまとまらない。
そこで優劣を決め考えを纏める必要があるということです。

その中で最も優れていると判断されたのが妙法蓮華経であるわけですから
華厳経の義を妙法蓮華経で解釈すれば最上の解釈となり
逆に妙法蓮華経を華厳経の義で解釈すれば最上の解釈ではなくなるということですね。

333堅皇:2011/10/02(日) 14:26:04
ちなみに華厳経では仏とは盧舎那仏と言う一仏に集約されていると言う教えであり
妙法蓮華経では仏とは一切衆生に内在するものであり全ての人々が仏であると言う教えです。

妙法蓮華経を華厳経で解釈すれば一切諸仏は一仏に集約すると言う考えになり
華厳経を妙法蓮華経で解釈すれば一仏(盧舎那仏)とは一切諸仏の集合であると言う考えになります。

日蓮は本尊と言う形をとり華厳経の一仏信仰の様な形を取っていますが
その実は曼荼羅と言う形で本尊の中に一切諸仏が描かれているわけで
妙法蓮華経の義に異なる事無く一切諸仏を敬う形に纏め上げているわけです。
これは華厳経を妙法蓮華経で解釈しているという事になりますね。

逆に曼荼羅を用いて、これこそ御本仏(盧舎那仏)、日蓮大聖人のお姿だと解釈するなら
妙法蓮華経を華厳経で解釈したと言う事になります。

もともと法華経を突き詰めると華厳経に逆戻りしてしまう事は良くある話です。
日本でも過去に聖徳太子の時代に広まった法華経が聖武天皇の時代では華厳経に陥ったと言う。
縦軸で考えるところでは一番遠いところに位置しているように見えるが
実のところ、らせん状に繰り返し輪廻している事が解ります。

(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?

妙法蓮華経の持つ義を華厳経の義を持って解釈するならそう言う事になりますね。

「変毒為薬」や「煩悩即菩提」と言う考え方も妙法蓮華経の義に即していると言えます。
薬を成す為に毒を用いるわけであり、毒と言われるものでも使いようによれば薬として活用できるわけです。
と言う事は毒の中に薬となる成分が既に内在していると言う事ですね。
ですからここでも「十界互具」や「久遠実成」と言う義は当て嵌まるわけです。

毒と言う存在を「捨閉閣抛」してしまうと薬を得ることも叶わなくなってしまいます。

334堅皇:2011/10/02(日) 14:26:51
と言う事は逆も言えるわけですね、薬を持ってして毒を作り出す事だって出来るんですから。
薬の中には毒の成分も内在しているわけですから逆に用いると
薬を飲んでいるように思っていても実はどんどん毒を盛り込んでいる事にもなりかねない。

「即」と言う事でイコールと考え逆に用いても同じだろうと考えがちですが
「変薬為毒」や「菩提即煩悩」と使い方を間違えれば浮かばれる事はありませんからね。

> 付け加えて〜
> 諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。

これも逆の捉え方だと思います。
「究極するところ十如是は、御本尊」ではなくて
「究極するところ御本尊は、十如是」なのだと思います。

以上、大変長くなってしまいましたが。

335首都高バトル01:2011/10/03(月) 11:02:22
堅皇さんへ
長い文章でのご説明ありがとうございます。
まだまだ勉強不足なもので、仏教用語で理解できてないものがいっぱいありすぎて、難しいです。 しかし勉強になります。

「 諸法の実相は、南無妙法蓮華経 」この文章で、実相と南無妙法蓮華経は、一緒だと思うのですが、よくよく考えてみると同じものでありながら、別物にみえてくるのですが。つまり実相は、南無妙法蓮華経を指す言葉であると言うことが。 私の見解ですみません〜 十如是は、御本尊と思えてなりません。

語より義が第一 〜 堅皇さんの言われるとおりだと思います。
では、義は、何を指しているのでしょうか? まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。義と言う文、語の先と言うより、義の言葉の中の底へ突き当たる、行き止まりまで。そこが、その言葉の、その文の底、一番深いそれより行きようがないところがあるように思えるのですが。義は義だから何ものでもないと言われればそれまでなのですが...。


あまり詳しくないのですが、天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり、もっとすごいのは、ぐるぐるお堂の中を歩きながら、念仏を唱える修行、四種三昧の中の常行三昧で、般舟三昧経によって設けられたものだそうです。まず道場を荘厳して阿弥陀仏の像を本尊として安置し、九十日間外出しないで、沐浴しつつ本尊の阿弥陀仏のまわりを、阿弥陀仏の名を唱え、念じ歩きながら歩き回る修行だそうです。天台大師が止観(の中の円頓止観)を修する為に行う修行の一部だそうです。
天台大師は、どのように瞑想や念仏を唱える修行をとらえているのでしょう?
また日蓮大聖人は、天台大師のこのような行いをどうとらえられているのでしょうか?また天台大師が瞑想や念仏を修行に取り入れているのに、大聖人の時代、日本の天台宗が真言はさておき、(どういう意図の流れで真言を取り入れたかは、勉強不足でまだわからないないので、すみません)、念仏を取り入れたことに反対され曲解と言われるのでしょうか?

336首都高バトル01:2011/10/03(月) 11:38:14
その状況が大変なら大変なほど、この先どうなるんだろうという思いを強くした時、この先の状況が意識に映像とまで言わなくても、「これから、ああなって、こうなって行きそうだ」と思いますよね。最悪ならば状況打開の案を考えますよね。一見、状況をもとに、打開案が根本みたいですが、状況を捉えるもの、打開案が出てくる先、というか捉えるところと、出てくるところが元であり、もっとも状況打開案が出てくるところが大事と思っていますので、義はそこにあるとして、そのことを文章にすると華厳経第一には、ならないですよね。華厳経の文を引用しても。  しつこくてすみません。

普段人間が行っていることですよね。そういう機能というか、、、
大変になればなるほどそのような状態が命の中から起こってきますよね。

337首都高バトル01:2011/10/03(月) 12:17:48
すいませんもうひとつ。真言宗で一念三千を取り入れると泥棒と、日蓮大聖人は言っていますが、例えば五智(十八円満抄の中の)は、弘法大師によるものですよね?違いましたら訂正して下さい。すいません。
とにかく日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?

法華経は主だから、全て法華経よりのものだから法華経の持ち物(爾前.権教)だから許されると言う考え方?

338首都高バトル01:2011/10/03(月) 13:12:16
ほかに判ずる本門(法華経の)より次元の高い経がないから「 但真実の依文判義は本門に限るべし 」ですが、まだ奥がありますよね。
「  」の文の上ならそこまでですけど、もっと奥の文の底の行き止まり、これ以上ないところ、つまり文底独一本門の義によって文上の本門は判ぜられる(依義判文)ほかないと言うこと。

したがって、文底独一本門の南無妙法蓮華経のみが他の義を借りずに、そのまま真実・究極の義を示す「 依文判義 」であると言うこと。

339首都高バトル01:2011/10/03(月) 13:44:54

究極するところ「 義 」は、文底独一本門の南無妙法蓮華経であると言うこと。

340首都高バトル01:2011/10/03(月) 15:27:10

南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。(ほうぼうや曲解するとあるかな〜?) ほうぼうの漢字が出てこなくてすみません。

九界即仏界は煩悩即菩提に、 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?、仏界所具の九界や、仏界所具の地獄もあるし煩悩があとにくることはあるでしょう。)に、皆、お題目を唱え、悩み苦しみながら闘い、またお題目を唱え闘う、そのくりかえしのなかに、より強靭な煩悩即菩提になっていくように思ったりします。九界即仏界と煩悩即菩提を同じ意味にとるのは、まずかった?
まだまだ教学力は、この程度なのですみません。

死に金と生き金という考え方(NHKの龍馬伝より)
その場でなくなる金の使い方か、使うことによって何倍もの大金になって帰って来たり、大きな価値を生み出す金の使い方。

こんな言葉はないですが、死に教学と生き教学というものは、どのようなものなのでしょう?
さらに、死に人生と生き人生とは?

破壊のための行動なのか、創造する行動なのか?
生き金を使い、生き教学を実践し、生き人生であゆみ、破壊する人ではなく創造する、創造していく、人でありたいです。



ちなみに生き教学(本当の教学の実践)には、励ましと激励は、必要ですよね。

341首都高バトル01:2011/10/03(月) 16:33:28
これは、当てはまらないのかな〜?
変毒為薬〜毒の中に薬の成分が潜んでいる。薬の中に毒が潜んでいる。
それでは、煩悩の中に菩提が潜んでいる。菩提の中に煩悩が潜んでいる。
悩みの中に悟りが潜み、悟りの中に悩みが潜む。
九界の中に仏界が潜んでいて、仏界の中に九界が潜んでいる。
これぐらいでやめときます。まだまだ理解には、とおいので、、、菩提即煩悩がもしあったら、悟りの中に悩みがあるなんて今は理解できません。またそれを考えると、仏界即九界の仏界の中に九界が潜んでいる。これもよくよく考えると難しいですよね。

寿量品の文に、「 以何令衆生. 得入無上道. 速成就仏身. 」は、仏界即九界なのかな〜 ?  とにかくお題目を唱えることは、九界即仏界ですよね。

結論を出してから投稿するではなく、ひとりごとのような質問をぶつけるスタンスでの投稿ですみません。

342堅皇:2011/10/03(月) 19:01:54
首都高バトル01さん

> 義は、何を指しているのでしょうか? 
> まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。

皆同じ事を考えるようですね。
この考えの下に天台門下は真言密教に染まっていったのだと思います。

基本的に仏法は無始無終の輪廻を説くものであり
何処まで言っても行き止まりは無いという考えであるという事です。
これに逆らっているのが真言密教であると言う事です。

つまり仏法では「深理」は追求できても「真理」は顕せない。
「絶待」は求められども「絶対」は存在し得ない。
この「真理」や「絶対」は存在し得ないと言う絶対的な真理を顕したのが妙法蓮華経と言う事。

> 天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり

基本的に天台の止観行のベースは禅定ですからね。
日蓮のように曼荼羅(世界)に向けるものではなくあくまでも己心の中での行法となりますから
折角一念三千の法理を明かしているのですが依報に働きかけずに己心と言う正報に留まっているので
「理の一念三千」と呼ばれるわけですね。
対する日蓮の場合は己心から曼荼羅(世界)と言う依報に働きかけているので
「事の一念三千」となるわけです。

加え、ちと天台の教えと天台門下による天台宗の教えとがごっちゃになっているような。
阿弥陀仏はあくまで念仏が用いたものであり
もともとの天台では釈迦如来や薬師如来がベースであり
念仏を取り入れた事により、これらが全て阿弥陀如来にすげ変わったものだと思われます。

343堅皇:2011/10/03(月) 19:02:26
> 日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?

これは僕も当初抱いた疑問でしたね。
先ず何より、本尊や曼荼羅と言うものは完全に真言のパクリではないかと。
更にいえば「南無」は念仏のパクリであるという事ですね。
泥棒、泥棒といっている日蓮の方が泥棒なんじゃないのか?と正直思いました。

で、よくよく内容を読んでみるとパクリは仏法的に全然OKなんですよ。
咎められるのは、パクって義を変えた"まがい物"を作って
これが本物だと言い張るのが罪であるという事ですね。

アイデアだけを盗み取り、全く違うものを正規品として触れ回る事を泥棒と言っているわけです。

で、真言も念仏も毒であるわけですが
毒の中にも薬の成分が内在しているわけであり「久遠実成」「十界互具」ですから
それを「変薬為毒」した形で、本尊や曼荼羅、「南無」と言うものを活用していると言えるでしょう。

また、妙法蓮華経では新たなものを取り入れてはいけないかと言えばそうではなく
後世に妙法蓮華経を補填する諸法が現れることも示唆されています。
それが「陀羅尼品第二十六」ですね。

日蓮は全てのを否定しているのではなく誤りの部分を指摘しているだけの話ですから。
故に日蓮がしたためた曼荼羅には密教の不動明王や愛染明王
日本の昔からの神々である八幡大菩薩や天照大神なんてのも記されています。

日蓮正宗的に言えばこれらを讃えるなんて大謗法だという考えなんでしょうけど。

344堅皇:2011/10/03(月) 19:02:59
> 南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。

万能薬なんてものはこの世に存在しないですよ。
薬を服用する事により必ず副作用と言うものが付きまといます。
また、薬に依存する事により薬無しでは生きられない状況にも陥りますからね。

よく薬を過信評価する人がいるのですが
薬は極力服用しないで治せるものなら治すというのが医学の中では常識事です。
もちろん、服用すべき時に服用しないと言うのももちろん問題ですが。

> 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?

たえず煩悩が前なのではなく、煩悩を菩提を持って行った方がいいですよねと言う話。
菩提から煩悩へ、仏界から九界へ向かいたいと言うなら止めはしませんが
苦しみたいから仏法を実践していますと言う人はいないのではないかと。

もちろん理論的には同じ事ですから可能ですが不毛だと思います。

345首都高バトル01:2011/10/04(火) 01:09:34
ちょっと、ひとりごとを書きます。

生命は勝負に勝つことで生存し、人間にまで進化した。人間世界では、正しき法の下での勝負しか許されない。これは、人間が破滅しない為、人間が生存していくには正しき法の下が、不可欠であるということを人間は知っている。(勝負に勝つことが、生存の第一条件)...まず勝負を先とするは、生存の極意。

ひとの前に灯りを灯せば、我がまえ明らか。治世産業と相違しない(一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず)...人は負ける時、不幸せになるのが世の中の一般である。弱肉強食しかり、戦争、災害、しかし人が負けても(人を負けさせても)幸せになる、幸せにさせる法則がある。社会も経済もその法則で動いて人間社会、お互いが生存、共存しあっている。つまり世を治める産業もこの道理で円満に動いて発展、繁栄して行っている。
...ひとを驚かせ勝っても、負けた人たちを不幸にしない、ひとを驚かせ、ひとに勝つことが...おのれの対象者が、驚き負ける事が、より幸せになる法則がある。...ピータードラッガー風に言うと、イノベーションサプライズ;既存の常識を超えた発想、創造する価値がひとを驚かせ、ひとに負けを与えるがその中身は、納得と感動があれば、それに対してひとは負けを受け入れ、幸せになる、その気持ちを得る。そういう提案、行動するひと、団体、組織、企業は、隆盛、繁栄していく。
(例)身近なところで、男女の恋愛、、、彼女をデートに誘う、彼は付き合ってお互いをもう充分知り、もうボチボチいけると感じている。
デートは、サッカーか、野球観戦に。(ありふれていてスミマセン)
そこで彼がイノベーション.サプライズを起こす。;電光掲示板に、プロポーズのメッセージ..彼女が驚き、納得、感動すれば、彼女は負けを認め、プロポーズを承諾し、幸せを受け入れる。そして彼は、ガッツポーズを決め、勝利を手に入れ、彼女を驚かせ負けさせたのに、彼女からありがとうの感謝の言葉までもらう。
自分が勝つことで皆を幸せにできるんだったら、絶対やった方がイイ。

ひとは驚きと、納得と感動を与えられたら、負けを認め、幸せを受け入れる生きものである。〜 最高の勝利の法則 〜 by 首都高バトル01。
その上で、お互いが信じあえるひとや世界を広げていくが大事。
実践する方からは、驚き負けの幸せにするである。
ひとりごとでした。

346首都高バトル01:2011/10/04(火) 02:47:02
ひとりごと(2)
持つは難し。〜最高の勝利の法則〜を陳腐化させないために、
モチベーションアップ法カレンダー(成功、失敗カレンダー)を作ってみる。
今日の1日の終わりに、自分の評価を記す。
記入は簡単。  〜最高の勝利の法則〜を実践し、失敗したか、成功したか、記す。
失敗したら[失敗.明日こそ成功させる]と書く。
成功したら[成功、明日も成功させる]と書く。
これを繰り返し毎日書く。

その効果は〜 勝負心が養える。勝ちぐせがつく(世の中、そう甘いかな?)。
明確な目標と設定が、はっきりしてくる。一日一日を勝とうとする意欲と、強くなる力がつく。信心の基本、人生の勝利につながる。題目の向上、真剣な祈りの題目が、あげられるようになる。人生はどこまでいっても、これの繰り返し、挑戦しないと未来は拓けない。だらだら生きる毎日にいい未来はない。限界まで努力する習慣がつく。人生に結果を出そう。結果を残そう。勝利しよう。毎日の成功の積み重ねが、その割合が大きくなればなるほど、未来の扉は大きく開く。
(なんかちょっと How to 本みたいになってしまいましたが、もしかしたら誰かの役に立つかも知れません。)

わが友に贈る・2011.9.10付ー聖教新聞より。
未来のために今日を勝つことだ。 今を勝つことだ。
不撓不屈の信心で。 さあ挑戦の一歩を!

(地湧の菩薩、本因の仏として、目覚めたら)全ての人の一日一日は、(本当は)超過密スケジュールである。気づかないだけである。

学会活動及び座談会に参加すれば、仲間、同志とのふれあいにより、安心感と元気が出る。信行学に徹し、学会活動をしっかり行えば、モチベーションアップ法カレンダーは必要ないかも知れない。

法華経題目抄より「 妙と申すは開と云う事なり 世間に財(たから)を積める蔵にカギなければ開く事かたし 開かざれば蔵の内の財を見ず 」

347首都高バトル01:2011/10/04(火) 14:44:23
十如是の説明にこうありました。
十は、(十界それぞれに、瞬間の生命にそなわる十種の共通の構造)は、置いといて、 如是は「是(か)くの如(ごと)き」と読み、「ありのままに見た事物・事象のすがた」という意。
わかりやすく付け加えて、
目や感覚器官、心を通して意識に描かれる映像はなんでしょう?
それは、十の構造を持つ、「ありのままに見た事物・事象のすがた」であると言うこと。 これを十如是と言います。 たいへんよくできました。

あまりきかない、聞いたことがない、それはあっているのか?いないのか?
正統なものの理解につながるのか?
そういう内容を「 冒険 」と表示してから、これからは、書きます。

さっそく冒険します。
・ 一個人の生命自体について依正を立て分ければ、一念心が正報であり、肉体が依報になります。
・ 一念三千の法理を依正に立て分ければ、五陰と衆生の二世間が正報であり、国土世間が依報になります。依正の二報ともに一念の生命に収まるということ。

問題(1):依正を一個人の生命で立て分ければ、肉体と一念心になりますが、また一念三千も依正に立て分ければ、上記の通りですが、
では、 三世間を一個人の生命で立て分ければ、どうなるでしょう。

問題(2) 地湧の菩薩のすがたは、どれくらいあるでしょうか?
一例、・虚空会の儀式に現れる。・末法のはじめに上首の上行菩薩として現れる(日蓮大聖人)(再往、内証は、置いときます)。その教えを受持して悪世末法に弘めている私達は、そのけんぞくとなります。
いろいろとほかにも出てくると思いますが、質問の意図は、問題(1)と同じで、最終的に一個人の生命(内)では、どのすがたが、地湧の菩薩であるか?が、知りたい訳なんです。 虚空会の儀式での地湧の菩薩のすがたと行ない、それと御本尊の前で我々、一個人の生命(内)で起こる現象が相似していること。
生命(内)において地湧の菩薩のすがたを指す実体はなにか?
また本化地湧の菩薩が所持している本法とはなんなのでしょう?

思うのは、なんでもかんでも一個人の生命(内)に約すのは、よくないのか?約せるものと約せないもの、約さない方がいい、約す必要がない?なぜ地湧の菩薩のすがたを生命においてこれだと言わないのか?依正、つまり人と環境あたりで表現はとめておいたほうがいいのかと言うこと。はっきり言って一個人の生命(内)において地湧の菩薩は、仏界の一念心、そして本法

348首都高バトル01:2011/10/04(火) 16:46:30
>>347の続き〜
本法は、仏界の一念心(一念発起心?)が一緒に持ってくる自らが生命の中から引っ張り出した、仏界の瞬間の生命にそなわる十種の構造の事物・事象のすがた、ここでいうところの本法とは十如是、仏界の一念心と言っているので必要ないが、生命内に十界を互具しているうちの仏界所具している十如是(自分が行なう具体的行動内容)。
こうなってくるとだんだん迷路にはいりそうなので(いや、充分入っている)
いやなんですけど、とにかく進めます。
・環境から生命に取り入れる十如是と・生命内から引っ張り出してくる自分がこれから行うであろう具体的行動内容の十如是をどう分けて表現したらいいか?単純に、所と能なら十界で使っている所具、能具と混同、混乱しかけない。所や能と言っても、具、化、開、依、証などいっぱいあるし。とにかく所と能の能の方と言うことで勘弁して下さい。
こんな私でも、創価王道の掲示板の十如是1~3は、所と能の違いと言う表現で、終わっており、ここまでバチッと言えていません。

またそこから発展して冒険します。
(1)利潤弘深についてどう捉えるか?
・横軸に時間と空間、縦軸に一瞬の瞬間の一念心の生命内より生命(身)に起こる現象。横軸の各点は妙法が行われる場所(虚空会の儀式、御本尊の前で唱題する一個人とその生命)、両端は、過去の始まりのちょっと前(竹膜の違い、観心本尊抄参照)と無限の尽未来際へ。縦軸は先ほど言った横軸の各点より下というか無量の義がいっぱい詰まっている、法性之淵底玄宗之極地、九識心王真如の都、縦軸の下。縦と横は、十文字ではなく、横軸の各点より下、つまりTの字。縦の上は、横軸の各点より上に、全方向に広がっていくかたち。縦軸に横軸を全て包含し、その場所で瞬間、瞬間に起こる(虚空会の儀式の場所と仏壇の前の我々が、ゴッチャになりそうですが)虚空会の儀式や、唱題する我々の生命内から生命(身)に向かって起こる現象。一瞬に時間と空間を包含する、これを宇宙即我と言い、弘く潤っていく(虚空会の儀式に地湧の菩薩が出現し、使命をおびて四方に去っていく、また一個人では生命に現象が起こり広がっていく。これを我即宇宙。(2)地湧の菩薩と本法を 体 と 用 で表現するとどうなるか?(一個人の生命においてはこれも一緒)(地湧の菩薩が、日蓮大聖人であれば、本法所持の本法とは、南無妙法蓮華経、そして日蓮大聖人の体から出した用は、南無妙法蓮華経)

349首都高バトル01:2011/10/04(火) 18:31:53
宇宙即我と我即宇宙を断定して言ってしまいました。
まだ充分な理解に至っておりません。
宇宙との一体感なら宇宙.我.一体でいいわけだし,
宇宙即我も我即宇宙も自分中心(我)で展開しますよね。
そうであるならばですよ、一体感ではなく、宇宙即我は自分に引き寄せている。我即宇宙は自分から宇宙に解き放っている。
宇宙の星々も人間と同じ生命であるという実感?そんな考え方も。

とにかく目的は自己啓発、人間革命なので、それを手助けする為に、教学では生命において何を指しているのか、何を表現しているのかを踏まえて、取り組みたいと思います。

研究対象の教学もありますが、それは研究される人に任せて(堅皇さんはそういう取り組みをされているのかな〜?)、信心は幸せになるためにやっているので
、はっきり言って、教学は究極のHowtoであり、御書は究極のHowto本ではないでしょうか。御本尊の凄さを説明し、こうやれば幸せになりますよと、励まし、激励と共に人々を幸せにしていくために本来、教学はあると思います。

ちょっと話はそれますが、私は、沖浦克治さんは、学会教学を、正確に捉えられていると思います(何もかもわかった上でこれが最上だとかなり強引に進んでおられると思います。)宗門の策謀によりひどいやり方で学会を切り離し、その後この問題は解決せず年だけを重ね、現在に至っています。
その宗門と創価学会が別れたところを分岐点として、もう宗門とは、完全に別れてしまったんだ。そう結論づけるのか、そうではなく宗門と創価学会の再生はあるのか?どちらに転ぶかわからない?とにかく宗門は破折する、それが続いたまま。今になる。
そこのところで信心の捉え方が、
(1)以前のまま
(2)分岐点より宗門との和解は未来永劫ないとして、信心を新たに組立て直す。(沖浦さんは、この位置だと思います。たとえ矛盾が出ても、本人はそれはわかっているんですが、しかばねを乗り越え、強引にでも、信心はこうやってやるんだ、という確信で突き進んでおられるのだと思います。)

(3)分岐点も時代の要請も関係なく、信心は完璧に完成されているので
あり、何があろうと教学の中身は変更しない。

(1)か(3)とにかく学会は、いままでどおり教学に関しては変わってないと思います。
あるかないか、、、もし学会と宗門が和解した時、沖浦さんの教学の捉え方は、どうなってしまうかと言うことです。

350首都高バトル01:2011/10/04(火) 19:24:20

無作の三身は、一個人の生命においては、何を指すのでしょうか?
一心三観や、当体義抄で説明されていますので、
これは、これ以上、冒険しません。

351堅皇:2011/10/04(火) 21:40:25
首都高バトル01さん

>>345 のひとりごとに関してはほぼ同意です。
・勝負に勝つことが、生存の第一条件
・おのれの対象者が、驚き負ける事が、より幸せになる法則がある。...ピータードラッガー風に言うと、イノベーションサプライズ
・ひとは驚きと、納得と感動を与えられたら、負けを認め、幸せを受け入れる生きものである。

結論から言えば勝負は方便であり実相は幸せを得れるかどうか。
また、幸せを得れるかどうかもまた方便であり実相は悟り、仏性を得れるかどうかに掛かるものだと。

>>346
> 失敗したら[失敗.明日こそ成功させる]と書く。
> 成功したら[成功、明日も成功させる]と書く。

したがって、これでは足りないと思います。
失敗したら「その原因を探る」
成功したら「その原因を探る」やはり全ては一乗であると言う事。

暗に一つの策に溺れ執着しても勝負を制する事もできず
また、勝ちに執着しても悟り、仏性を得る事ができない。

>>347
> 問題(1):依正を一個人の生命で立て分ければ、肉体と一念心になりますが、また一念三千も依正に立て分ければ、上記の通りですが、
> では、 三世間を一個人の生命で立て分ければ、どうなるでしょう。

同じく五陰、衆生、国土の三世間により正報が形作られていますね。

352堅皇:2011/10/04(火) 21:40:58
> 問題(2) 地湧の菩薩のすがたは、どれくらいあるでしょうか?

これは無数に存在しますよ、生物は生死流転しますから地湧の菩薩の誕生は後を絶たないものといえます。
自身の体の構造を考えてみても絶えず古い細胞は死に新しい細胞は生み出されるわけですから。

>>349
> 宇宙即我と我即宇宙を断定して言ってしまいました。

誰が断定しているんですか?
「宇宙即我」と言えば「梵我一如」と同義に思えます。
少なくとも仏法は「諸法無我」ではないかと思います。
更にいえば「縁起」も無視していますから既に仏法ではないと思います。

「宇宙即我」だとバラモンやヒンドゥー教
もしくは道教や禅宗と同様の捉えかたであると思いますね。

あえて表現するのであれば「宇宙即我々」と言う感じですかね。

そう言う意味では「当体義抄」に書かれていることも仏法に反すると思っています。
誰が書いたか知らないけれど日蓮の法を下げる行為に繋がっている書のひとつであると思っています。

353首都高バトル01:2011/10/06(木) 09:46:57
冒険します。

・一個人の生命自体について三世間を立て分ければ、五陰世間は十如是、衆生世間は十界互具、国土世間は心をとりまく一個人の生命全体。
・一個人の生命自体について事の一念三千の観心(一番大事な、御本尊に向かって唱題の時、生命に起こる、また起こす現象)において三世間を湧出品(法華経)に描かれる地湧の菩薩で立て分ければ、
五陰世間は、本法所持の本法(所証及び能証の智、この説明は後の観心本尊抄の文意で)。衆生世間は、地湧の菩薩(十界互具、十界が所具する仏界の一念)。国土世間は九識心王真如の都、法性之淵底玄宗之極地(生命内奥)。

「我等己心の釈尊は五百塵点の当初・名字凡夫の御時に所顕の三身にして無始の古仏なり」御書P1022。

「妙楽大師いわく[当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し]等云云」〜観心本尊抄よりの文意は、「当に知るべし本地自受用身の身土・我等が信心の一念の中の三千である。ゆえに成仏の時この本地難思の境智の妙法に称い、一身の五大が法界に遍じて所証となり、一念の信心が法界に遍じて能証の智となり(十界互具、つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕れ、十如是(御本尊)を見とる、読み取るを所証とし、そして自らの命の中から十界「最高の仏界を湧現が目的」が顕われ、最高理想の自らこれから行う具体的行動内容の十如是の姿を感じ見とる、自らが行う幸せの答えを能証の智とし)、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。」

「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕わし給えり」P513。

即について、また冒険したいので機会があれば、、、。
なぜ仏法即社会なのか?、、信心即生活なのか?
即が使われる熟語をできるだけ集め、それらの表現から共通の法則性を見つける。
今考えられるのは、無明即法性と法性即無明の冥伏と顕現(総勘文抄を参考にして)。法華の円。どちらを主にするか? 。体と用の関係で表現できるのか?。
即より右側の語に変化移行をどう捉えるのか?。能(主)具所(従、受)具は冥伏、能証所証は顕現。また即は左右の語が合体(どちらも顕現した状態)、しかしそれなら不二や体一や一体、一如だし、、、。 難しいです。

これぐらいで、またいつかと言うことで、今日はこのへんで、失礼いたします。

354首都高バトル01:2011/10/06(木) 11:01:13
訂正〜つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕われ〜
 つまりまわりや環境を通じて五大こと自らの身に受ける作用により十界として顕われ。

訂正ではなく付加〜久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。〜
 久遠元初の境智冥合の自受用報身と顕れるのである。


「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じ三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、 能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の効能なり敢て之を疑うべからず之を疑うべからず、」
御書.P512

355首都高バトル01:2011/10/06(木) 12:24:42
一個人の生命自体について事の一念三千の観心において、相似している虚空会の儀式に出現する地湧の菩薩の姿と行いを三世間で立て分けたとき、
衆生世間は、(命の中なのに世間と言うのはおかしいですが、)地湧の菩薩、
その証得する所証の実体は、、、御本尊 。

356首都高バトル01:2011/10/06(木) 12:44:42

事の一念三千の観心は、受持即観心。

357説教オヤジ:2011/10/07(金) 15:21:18
>首都高バトル01

この御仁・・・・・
かなり面白き人物なり。
ワシも勉強になりそうじゃ。
いずれ、教学談義でもやらかそうかの。

358首都高バトル01:2011/10/07(金) 16:31:00
説教オヤジさんへ
いえいえこちらの方こそ、いつも勉強させてもらってます。
まだまだ未熟者でありまして、機会があればいろいろ教えて下さい。


「 eijisenseiのブログ ブログテーマ.現象展開の法則=十如是 」 
という、成長の家の関係者のブログがあるのですが、十如是の捉えかたが似ているように見えますが、似て非なるものである事を書きます。

十如是を一個人の生命において五陰、感覚器官や心を通じて意識に映る映像と捉えている。
ではなくて、〜を通して意識に顕われる映像の事物、事象の姿が、十如是。
十如是を映像と捉えると、堅皇さんの言われる、その義は華厳経第一になってしまいます。権経と実経の区別が付いていない。
だから十如是の考えと色即是空は、一緒、同じと、ブログでは書かれています。
どこからその発想が出てくるのか、あまり詳しくないのですが、信仰の対象が神になってます。
十如是の捉えかたが、少し似ていると見えますが、似て非なるものであると言うことを書きました。
法華経の奥義が示すところまで、ぜんぜん届いていない内容です。

359首都高バトル01:2011/10/07(金) 17:18:16

なぜ色即是空は、色と言わず依正の依を使い、、、
依即是空 空即是依 依不異空 と言わないのでしょう?(依即是空ありました?ありませんよね?)  
依即是空にしたらもう少し広がるように思います。 色即是空は、人間生命において五官の働きや五陰、意識との関係性について語られている。
そこに映し出される映像の姿まで到達してしていない。

宇宙生命に約せば、色即是空は科学がもっともって発達しないとその作用は、わからないのではと思います。いろんな宗教家たちが言っていることは、宇宙生命に約そうとして、とらえどころのない一般人にはわからない内容になってしまっている。さらに進んでわからない事自体が色即是空。多くの般若心経の出版物の内容は混沌の中にある、混沌だから答えを求めて出版物が増えていく。

360首都高バトル01:2011/10/07(金) 21:20:48
>>358
訂正〜 × 成長の家
  ○ 生長の家

361堅皇:2011/10/07(金) 22:53:35
首都高バトル01さん

> なぜ色即是空は、色と言わず依正の依を使い、、、
> 依即是空 空即是依 依不異空 と言わないのでしょう?(依即是空ありました?ありませんよね?)  

「色即是空」は「色心不二」と同義で「色」は「色心不二」の「色」ですね。
で、「色心」を併せ持ったのが「正」となり、これに不二なのが「依」になるわけです。

対する「空」は三諦で顕すところの仮諦、空諦、中諦の「空」
「仮」と「空」を併せ持っての「中」であり、「正」に匹敵するわけですから
「依即是空」ではバランスがおかしくなります。

ちなみに十如是に当て嵌めれば
「空」が「性」で、「中」が「体」であり、「体」を「因」とし
「縁」に匹敵するところが「依」と言う感じですかね。

362首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:00:44
・大志、大願、決意が、命の中から何が現れてくる。
よし頑張ろうと決めた時、出てくるものはなんだろう?

・まる子「お母さ〜ん、この料理、めちゃくちゃ美味しいね!私も作りたい。
お母さんどうやって作るの?教えて?」
・まる子のお母さん「めんどくさいわね!できたもの食べてりゃいいでしょ。」
・まる子「ねぇ〜ねえ〜お母さん、おせえてョ〜」

・まるこのおかあさん「しょうがないわね〜。じゃ実さいにどう成って、どうやってつくるか、おかあさんといっしょにつくりながらおぼえて、まるこも実さいに、ひとりでもつくれるように成りなさい。」

・まる子のお母さん「このおりょうりは、いちば〜んさい初は、なべにみずをいれるのよ。」

・ナレーター「こうしてまる子は、美味しい料理をつくれるようになったのである。 おしまぃ。」

・研究者にとって、ものごとの成り立ちは、研究課題であり仕事である。

363首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:46:14
ちょっと冒険。気にしないで下さい。
一念に三千が収まる。〜三千即是一念。

空は、唯識(識というぐらいだから意識全般?)や法相宗の考えによく出てきますよね。空と心は一緒なのかなぁ?
空の領域に心がはいるのかなぁ?反対に心の領域に空が、、、?
もし空の領域に心が入るのであれば、、、、一念三千即是空。

364首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:57:41
堅皇さんへ
>>361 ありがとうございます。
難しい内容ですが、理解できるように頑張ります。

365首都高バトル01:2011/10/08(土) 00:27:59
冒険が脱線ぎみなので、
題目を唱え、気を引き締めることに、そうすることにしよう。

そうすることにしよう〜は、エジソンの母でよく使われていたなぁ〜。(ひとりごと)

366堅皇:2011/10/08(土) 07:54:09
首都高バトル01さん

> 空と心は一緒なのかなぁ?

僕は一緒であると思います。
ただ、空は仮と縁しないと中諦とならないわけですから
性は相と縁しない限り体を成さないと言う事で
つまり空は心と言えども空だけでは自我としての心と言う体は成さないところにあると思います。

で、死んだらどうなるかと言えば心は色(身体)から離れて空のみとなるので自我は無くなるが
確かにこの世に存在すると言うもの。

ここでも心や空の「非実非虚」が顕せると思います。

自我とは何処から生まれるかと言えばあくまで「縁」に接する事によりその実を知る。
つまり「因」があれども「縁」がなければ「因」であると言う認識も出来ない。

人間の感情の変化と言うものは全て「因」と「縁」とのギャップにより認知するもの。
美味いという感情は不味いものを知った上で、美味いと感じるところ。
好きと言う感情も、嫌いなものを知った上で、嫌いと感じるところ。
もちろんその逆も言えます。

これは光が何故明るいと認識できるかと言う事と同じであるといえますね。
光が明るく感じるのはそれを照らす対象物があって始めて成り立つというもの。
何もない宇宙空間が真っ暗に思うのは光を受ける対象物
つまりは空があれども仮がないから光を感じさせず
性があれども相がない、因があれども縁がない状態を示しているものかと。

故に空や一念と言うものを単独で顕す事は不可能であり、一念もまたその一年を作り出す三千により形成されていると言う事だと思います。

367河内平野:2011/10/21(金) 18:09:59
皆さん、お久しぶりです。ちょっと宣伝させてください。

「河内平野の教学研鑚ノート」を作りました。

最新
『創価学会と三時の弘教』をアップしました。(長文です)

http://kawachiheiya.blog.fc2.com/blog-category-2.html

368はぐれ雲 ◆HHaU7zEjNg:2011/10/21(金) 19:07:46
こら!かわっち平野よ、暇なやっちゃの〜w

369ぜんまい:2011/10/21(金) 22:53:40
河内平野さん、はぐれ雲さん、お久しぶりです。

元気にしていますか?





370首都高バトル01:2011/10/22(土) 00:16:37
河内平野さん どうもです。
また教学研鑽の為に拝見させてもらいます。

お知らせ、ありがとうございます。

371京阪電車の燈 ◆AIo1qlmVDI:2011/10/22(土) 12:49:38
重厚かつ長大な研鑽ノートの完成、おつかれさまです。

感想を兼ねて、明確に断言させていただきますと、
「何一つ間違った事は書いておられません。」です。

今後、つまらん揶揄を含め、反発をも予想されますが、
軽く一蹴されることでしょう。
彼らは恥をかくだけです。

372はぐれ雲 ◆HHaU7zEjNg:2011/10/22(土) 13:11:05
ぜんまいさんおひさ〜^^

京阪さん心配性ですね〜^^誰も書いてないからかわいそうにと思ってかいてあげたのですがなにか?w
たまたま覗いた所でかわっちさんのこの書き込み見たものだからつい反応してしまったのもありますが・・・・・

374首都高バトル01:2011/10/23(日) 21:54:29
十界互具を人間の生命内に観ると、
まず依報(さまざまな十如是の姿)を覚知することにより十界が顕れる。
そしてそれに対処しようと、正報の自らの境涯に応じて収まる十界が顕れることにより対処しようとする十如是(立ち向かう自分の姿)が、顕れる。

十界×十界、それぞれに十如是が収まる。心具から始まり心生(湧現、顕現)へ・・・十如是を持って十界は顕れ、十界を持って十如是が顕れる。

働きを捉えることで、十界互具がどういうものか、見えてくる。

妙法蓮華経は、即これ十界互具である。

認識と対処・・・
生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。

十界互具についてこういう捉え方をする内容があるかを
あちこち見たのですがなかったものですから、これについてお尋ねします。

みなさんどう思われます?

375首都高バトル01:2011/10/23(日) 22:30:55

一瞬の生命、一念に十界互具を含む三千諸法が収まる。

一念三千は十界互具より起こる。

376首都高バトル01:2011/10/24(月) 13:34:45

難信難解だからなぁ〜(機根が整わない?)

十界互具は、法数のカウントに留まり、もう一歩突っ込んだ説明がない。

こういう視点で観ているのは、首都高バトル01だけかぁ〜???

377高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/10/29(土) 12:18:31
首都高バトル01さん こんにちは!

 人とは、何かを考えたことは、ありますか?

 例えば、ダーウィンの進化論的なこと・・・など。

378首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:16:29
高速太郎さん どうもです。

すごく哲学的ですね。
人はなんであるか?・・・考える葦であるとか、言いますよね。

進化論ですか。壮大なお話ですね。
勉強になりますので、また教えて下さい。 よろしくです。

379首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:28:49
・サイコロを転がすと毎回、目が数が違う(同じ数の時もある。)。(サイコロが止まった瞬間や、止まった時)

・生命は、たえず変化している。いま見た瞬間が次には、変わっている。転がしたサイコロのように定まらない。
そしてグ〜ルグル回っている。グ〜ルグルと。

・色心で見てみます。
生命は永遠不変であり、人間の生命は、肉体を構築し、肉体(妙法蓮華経の姿)に属します。
仏界は、心に属し、本門に有ります。また縁に随がい(御本尊、題目)、現れます。
生命も仏界も差別がなく、絶対であります。

その生命と心、仏界と肉体をグ〜ルグルまわり、一定にとどまらず、変化します。

・永遠不変の生命から縁に随がい心(十界、仏界)が現れ、その心が肉体を動かします。

・サイコロの目、数のようにある時は、永遠不変の生命のまま(ボ〜としているのかどうなのか?心が現れていない状態)。
またある時の一点をみると、心が肉体を動かしている状態。つまり不定。

生命とは、迹門不変真如。 仏界とは、本門随縁真如。
人が生きている限りたえず変化し、一定でない。

・依正で見てみます。
御本尊は、非情に属し、体は永遠不変の生命の冥伏した妙法蓮華経の姿というより、体は永遠不変の生命を保ち(冥伏し)ながら、仏界の生命が全面に出たまま、(ヒーローズのヒロ.ナカムラが時間を止めたそのままの状態)止まっている状態。

・とても失礼で申し訳ないのですが、
サイコロをふってみます。
御本尊は、不変真如から随縁真如、出現停止状態。我々は、その都度変わる、変化する。

・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。
随縁不変・一念寂照の御本尊。

・迹と本は定まらない。・・・迹本不定。

寝ているとき人は、迹(不変真如のまま)?

参考・・・御書P.708
御義口伝の冒頭の帰命についての所、参考にして下さい。

380首都高バトル01:2011/10/30(日) 02:36:58
訂正
×出現停止状態
○出現して、停止状態

381高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/10/30(日) 09:49:18
首都高バトル01さんへ こんにちは!

 十界互具を理解するには、人とは何なのかを考える事も必要かと・・・。

>>379 >・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。

 すべてのもの(生命)とは、人の生命のことを指しているのですか、それとも全生物の生命ですか?

382首都高バトル01:2011/11/02(水) 21:00:28
>>381
そうですよね。 生命と表現したらそう思いますよね。

すべてのものとは、宇宙に存在するすべてのものと言う意味でご理解下さい。

383無名:2011/11/14(月) 21:49:36
>>372
沖裏の太鼓持ちは引っ込んでいてくれ。

384首都高バトル01:2011/12/23(金) 00:20:05
忘れまじ、学会精神!!!

>>http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19990427/p1

385首都高バトル01:2011/12/23(金) 05:52:03
一番大変な時、先生は何をされていたか?

>>http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20041215/p1

386首都高バトル01:2012/08/03(金) 21:44:43
若き指導者は勝った

[ 少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。
願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ ]

[ 世界の文学を友とする青春時代だった。
シラー、カーライル、プラトン、ルソー、エマソン、モンテーニュ、
ユゴー……。
いかなる状況にあっても向学心は衰えない。
ホイットマンの『草の葉』を何度も読み返す。
「さあ、出発しよう!悪戦苦闘をつき抜けて! 
極められた決勝点は取消すことができないのだ」(昭和24年刊、富田碎花訳)という一句も胸に刻んだ。]

 [ 君らは一流から学ベ 
全体観と団体観──。
高い視点から全体を見渡すべきであり、自分の団体だけに固執してはいけない。「水滸会のことだけを考え、青年部のことを考えないようでは、
それはいけない。青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ」 
さらに戸田会長は続けた。 
「それだけではない。学会のことのみを考え、社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。大きく考えることが必要だ」 
水滸伝のケースにあてはめてみれば、梁山泊の生き残りだけを考えるのでなく、どうすれば宋の国がよくなるのかを念頭に行動しろというのである。]

池田大作──その行動と軌跡 若き指導者は勝った
http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-163.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/2009/koudou.html

387首都高バトル01:2012/08/04(土) 22:18:40
ホイットマン

[ 青春の宝の一書  
 民主主義の詩人、国民の詩人、
人間と宇宙を謳った詩人―ホイットマン(一八一九〜一八九二年)。  
 我が人生を謳い、人間と生活をほめたたえて生きる人は幸福である。
愚痴は自分も他人をも不幸にする。
頭を上げて、人生を「謳い」、
希望を「歌う」心豊かな青春であっていただきたい。  
 私が、彼の詩集『草の葉』と出あったのは、
約四十年前のの二十三歳のころであった。
同じくらいの年代の方もいらっしやると思う。
「自由」「平等」「友情」の賛歌、
そして「民主主義」「人間主義」の叫びを込めたこの詩集を、
私はこよなく愛した。
それは、私にとって、まさに青春時代の「宝の一書」となった。
多くの詩を暗唱し、折あるごとに人々に聞かせてあげたものである。]
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/hoitoman.htm

388首都高バトル01:2012/08/04(土) 22:57:07
おめでとうございます!

全国ダンスドリル選手権大会 関西創価高校が日本一 堂々の文部科学大臣賞
http://blog.goo.ne.jp/yosidashouinnkyousitu/e/7b017f6bd98568ebf179e988a50a902b

389首都高バトル01:2012/08/17(金) 13:18:31
創価の同志が頑張っています。

日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ
http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/

の、はじめましてさんの
最新コメント( [ 2012/08/16 22:50 ] はじめまして )が秀逸です。
感動しました。

390名無し:2012/09/07(金) 10:14:03
非公認板で朝からインターネットにかまけている人たちがいます。沖裏氏はその代表です。

391エキストラオ:2012/10/10(水) 13:06:02
★・・あたしは・沖浦氏を応援します・・・理由は彼は人間カクメーしようとがんばってるからです・・・
★貴重な意見を陳べさせていただきました。・・・・・

392エキストラオ:2012/10/10(水) 13:11:11
★それにさー・・敵の敵は味方だしさ・・・寛大にならないとね・・
★耕治君も元気なのかな・・・彼ともやりあったなーーーー・・・少しバカみたいけどね・・

393エキストラオ:2012/12/17(月) 06:44:17
相変わらずだな、ここも、


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