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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

172荷主研究者:2011/06/25(土) 23:49:05

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110609/CK2011060902000105.html
2011年6月9日 中日新聞
小牧山城の石垣に墨書人名 国内最古の確認例

人名が墨書された石垣の石。職員が指をさしている部分に文字が残る=小牧市の保管施設で

 小牧市教委は8日、国史跡の小牧山城(同市堀の内)の石垣から、墨で人名が書かれた石1点が見つかったと発表した。織田信長が築いた小牧山城は近世城郭の原型とされ、文字が記されている石垣の石としては国内最古の確認例になる。

 発掘調査の過程で3月下旬に市教委文化振興課の小野友記子考古学専門員(38)が山頂付近の本丸北西斜面の石垣から見つけた。堆積岩の一種で非常に硬い「チャート」で、長さ60センチ、幅35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ。石垣のどの部分に使われていたかは分かっていない。

 名古屋市博物館に持ち込んで調査し、城郭に詳しい千田嘉博奈良大教授(47)らが鑑定した結果、石の平たん面中央に草書体で「佐久間」(縦12センチ、横6センチ)と縦書きされているのを確認。千田教授は「信長の重臣だった佐久間信盛を指している可能性が高い」と指摘する。

発見された石のイラストと拡大した文字

 石垣の石には築造担当者の名前や作業上の目印となる記号が記されている事例が多く、千田教授は「信長の複数の家臣が築造に関わった中で、城の心臓部とされる本丸の石垣普請は信盛が受け持っていたのではないか」と推察する。市教委は文字が色あせないよう保管する。

 石の一般公開は10〜22日に小牧市歴史館、7月27日〜8月1日にまなび創造館4階市民ギャラリーで。(問)市教委文化振興課=電0568(76)1189 (平井剛)

173荷主研究者:2011/06/25(土) 23:51:43

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110607/CK2011060702000142.html
2011年6月7日 中日新聞
利長の御殿 見つかるか? 高岡古城公園 本丸広場発掘へ

前田利長の御殿跡を探すため発掘される本丸広場=高岡古城公園で

市教委 周辺調査では発見されず

 高岡市教委は今月中旬から、県史跡の高岡古城公園で、初めて本丸広場を発掘するなど、学術調査に取り組む。国史跡指定を目指し、二〇一〇年度から三カ年計画で進めている調査の一環。高岡城を築いた加賀藩二代藩主前田利長が生活したとされる御殿や塩蔵といった当時の建築物の遺構を探す。(飯田克志)

 本丸広場の発掘は八月末まで。全面的な発掘ではなく、本丸広場の九カ所を、幅二メートル、深さ一メートル程度の溝状に掘る。御殿の遺構などが出土した場合は、発掘範囲を広げる方針。

 本丸広場は、一〇年度に周辺を調査したが、その際には江戸時代の遺構は発見されなかった。

 十〜十二月には、現在の朝陽橋付近にあったとされる「貫土橋」などの発掘を行う。朝陽橋付近については、学術調査をサポートする「高岡城跡詳細調査指導員会」の高岡徹委員が、江戸期の「高岡古城跡見取絵図」(金沢市立玉川図書館所蔵)を詳細に調査し、石垣と思われるものが描かれていたことが分かっている。

 高岡城の石垣について江戸初期の文献に記載はあるが、現存している当時の石垣は、本丸と二の丸を結ぶ本丸土橋だけ。朝陽橋付近の発掘では、新たな石垣の確認を目指している。

 本年度は発掘調査のほか、高岡城の石垣用に石を運び出した「石切丁場」を探すため、氷見市宇波川など三カ所の現地調査もしている。

174荷主研究者:2011/07/10(日) 21:20:07

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1106300045/
2011年6月30日 神奈川新聞
小田原城天守閣の耐震化、秋から検討も課題は山積/神奈川

 小田原のシンボルになっている城址(じょうし)公園(同市城内)の天守閣。懸案だった耐震化問題について、市は秋に検討委員会を設置して本格的な議論を始める。現行計画では2015年度までの完了を目標にしているが、課題は山積している。

 天守閣は、市が観光施設として1960年に建設した。鉄筋コンクリート造りで4階建て。高さ約39メートル、延べ床面積1820平方メートル。年間約40万人の観光客が訪れる人気スポットだ。

 1989年に実施した建物診断で劣化などが確認され強度不足も判明。市庁舎などとともに補強・補修すべき市公共施設にリストアップされた。

 一般に公共施設の耐震化は財政事情から遅れ気味。加えて天守閣は、甲冑(かっちゅう)や刀、絵図など貴重な内部展示物約800点の移動問題も抱えており、対応が事実上先送りされてきた。

 地震の多発や耐震化目標の時期が迫ってきたことから、市は秋に専門家らを加えた検討委員会を設置して年度内に再整備に向けた方向性を示したい考え。

 しかし、検討すべき課題は山積している。市観光課によると、公園内が国指定史跡になっているため、補強や建て替えいずれを選択するにしても、文化庁との協議が前提になる。

 原則は「史実に基づいた復元」。ならば木造での天守閣再建も候補の案になるが、同課は「費用面だけでなく、銅(あかがね)門の復元でも適した木材の確保に苦労した」という。

 一方、市は多額の工費費に備えて08年度から基金をスタート。現在の天守閣の工費は約8千万円で、このうち約2千万円を市民からの寄付金で賄った。

 同課は「乗り越えるべきハードルは高い。多分野の専門家から意見を聞き、目標年次までに再整備を終えるよう努力したい」と話している。

175荷主研究者:2011/07/10(日) 22:31:54

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110706t55013.htm
2011年07月06日水曜日 河北新報
伊達氏本拠論争に一石? 舘山城に新たな屋敷跡 米沢

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/tateyamajyou.jpg

 山形県米沢市教委は5日までに、仙台藩祖伊達政宗(1567〜1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城跡の発掘調査で、当時、重臣以上の武将が使用したとみられる武家屋敷跡を発見した。「舘山城本拠説」を裏付ける新事実との見方もあり、現在の上杉神社の場所にあった平城の米沢城か、市西部の山城の舘山城か、という伊達氏本拠論争に一石を投じる可能性もある。

 関係者の話を総合すると、屋敷跡は本丸部分東側の二の丸に当たる川岸で見つかり、複数の柱穴や井戸、屋敷を囲む塀などの遺構、短刀が出土した。構造などを分析した結果、16世紀の伊達氏支配時代に、極めて身分の高い武将が暮らした可能性が高いという。

 従来、舘山城は関連史料が乏しく、(1)政宗の父輝宗が隠居先とした(2)政宗が有力大名に対抗するため軍備を整えたが、1591年に岩出山城(大崎市岩出山)に移る際に壊した―などの情報しかなかった。

 一方の米沢城は、政宗に続き領主となった蒲生氏、上杉氏がともに本拠とし、専門家の間では「伊達氏本拠は米沢城」が通説とされてきた。

 市教委は2001年に舘山城跡北側から、16世紀と推定される武家屋敷跡を発見。二つの川に挟まれた立地が仙台城に似ている点などから舘山城本拠説を有力とみており、昨年から3年計画で城跡一帯約28万平方メートルの発掘調査を進めている。

 6日には安部三十郎米沢市長が現地を視察する。市長は「この発見は伊達氏と舘山城をつなぐ糸口だ。新たな歴史的関心は宮城の被災者にも明るい話題となるだろう」と語った。

176荷主研究者:2011/07/24(日) 17:42:15

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20110713/CK2011071302000125.html
2011年7月13日 中日新聞
新御殿の図面あった! 松本城の江戸中期藩主私邸

新御殿の平面図。指さしている部分が、長局があったとみられる部屋の連なり=千曲市の県立歴史館で

 江戸時代中期に国宝松本城(松本市)に建てられた松本藩主の私邸「新御殿」の平面図が、県立歴史館(千曲市)に所蔵されていることが、松本城管理事務所の後藤芳孝研究専門員の調査で分かった。これまで新御殿の存在は知られていたが、詳しい位置や規模は不明だった。後藤専門員は「藩主や家族の生活を知る手がかりになる」と期待している。

 図面は、明治維新以降に一時存在した旧筑摩県から長野県に引き継がれ、同歴史館が保存していた。縦、横約1メートルで、江戸後期に描かれたとみられる。

 図面によると新御殿は南北2棟。現在の松本市立博物館前にある広場のほぼ全体を占める広大さだった。各部屋の用途は記述がない。

 南棟は大小の部屋が無数に連なり、広い部屋は約20畳。北側に4〜8畳の部屋10余が東西に並び、付近に女性用便所が密集、台所と渡り廊下で結ばれていることから、御殿の女中が暮らした“長局(ながつぼね)”があったとみられる。その他、中庭や数寄屋なども確認できるという。庭との接続が良い西側は客人や家臣をもてなす場所、台所に近い中央部は藩主の生活空間だったと推測される。

 北棟は6〜8畳の計10間。後年の松本城絵図などに記されている「御子様方」と位置などが合致し、藩主の長男以外の子どもが暮らしたらしい。

 松本市は南西外堀の復元を進めるなど松本城の歴史的景観を街並みの中核に据えており、新御殿の位置などが分かったことは今後、観光客や研究者の関心を刺激しそうだ。

 後藤専門員は「これまで御殿での女性の生活場所は不明だったため大きな成果。現在の広場にこんな御殿があったと、観光客にイメージしてもらえるだけでも収穫」と話した。

 (杉浦正至)

【松本城の新御殿】松本城は本丸、二の丸、古山地の3御殿があったが、1727年に本丸が焼失。藩主の居住空間だった二の丸が政治に使われるようになり手狭になった。このため戸田光雄2代藩主の1732〜1756年ごろ、古山地を大幅に増改築し、新御殿を建てた。建物は明治ごろまで残ったが、取り壊され現存していない。

177荷主研究者:2011/08/14(日) 14:04:52

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110730/CK2011073002000129.html
2011年7月30日 中日新聞
加越国境城郭群と古道 国史跡申請へ市調査

11月から

 羽柴秀吉と徳川家康の対立を伝える「加越国境城郭群と古道」について金沢市は国史跡指定に向け、十一月から詳細調査に乗り出す。秀吉方の前田利家による切山城と家康側の佐々成政の松根城、両城を結ぶ小原越の実態を明らかにし、二〇一五年度にも国に申請する。

 二十九日の調査指導委員会で市側が方針を説明した。中世の加越国境城郭群は富山県小矢部市に一部またがる。市によると、道を挟んで対立する城跡の国史跡指定は全国でも例がなく、文化庁から〇七年度に歴史的重要性が指摘された。

 市は十一月から切山城の発掘調査に着手し約一カ月かけて築造の年代や構造などを調べる。発掘調査が済んでいる松根城跡は一二年度に測量調査をする。

 周辺には多数の山城が築かれていたため、委員から「切山、松根以外の城跡についても広く文献で調査した方がいい」などの意見が上がった。 (押川恵理子)

178荷主研究者:2011/08/28(日) 14:14:00

http://www.at-s.com/news/detail/100052635.html
2011年8/12 14:28 静岡新聞
駿府城天守閣、再建の議論加速

 静岡市葵区の駿府公園への駿府城天守閣再建をめぐり、地元関係者や市民団体の間で議論が活発化している。実際の城の設計図が発見されていないことから、これまで市は再建に慎重な姿勢を取ってきたが、4月に就任した田辺信宏市長が今月3日に「世論が盛り上がれば、可能性は大いにある」と発言。一方で、再建を求める市民団体からは市への申し入れが相次いでいる。

 推進派が期待するのは、再建による観光へのインパクトだ。市民団体「平成の駿府城をつくる会」の安池康之事務局長は「(駿府城を築城した)徳川家康の知名度を考えれば、国内外から人を呼べる。史実に基づいた“復元”は無理でも、今なりのやり方で“再建”はできる」と強調する。

 家康が残した文化遺産が「観光振興やまちづくりに十分生かされていない」との声も多い。長年、再建に向けて活動しているNPO法人「静岡文化・創造協議会」の池ケ谷恒雄理事長は「静岡に育った人間として、駿府城の価値が地元でさえよく知られていないのは寂しい」と語る。

 一方で、「史実に基づかない建物は造るべきでない」との慎重論も根強い。天守閣については、これまでに外観を示す絵巻やびょうぶ絵が発見されているが、絵柄が一致せず、設計図もない。有識者による市の建設可能性検討委員会は昨年3月、「現時点では復元すべきでない」とした報告書をまとめ、設計図のある天守台(城の土台部分)のみ再建を検討すべきと提言した。

 委員を務めた小和田哲男静岡大名誉教授は「かつては外観だけを史実に基づいて再現し、中身は現代建築という城も各地で造られたが、今は本物志向。中途半端な城を造っても観光客は呼べない」と現状での再建には否定的だ。

 田辺市長はマニフェストに駿府公園を歴史文化の拠点として活用する方針を掲げ、年度内をめどに名称を「駿府城公園」に改める考えを示している。園内では城の一部として復元された巽櫓(たつみやぐら)や東御門に加え、本年度は坤(ひつじさる)櫓の建設も始まる。

 田辺市長は今月、市内を巡回中のタウンミーティングで「天守閣がないのは画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」とし、まちのシンボルとして整備する可能性に言及した。再建への賛否が分かれる中で、意見集約できるかどうかは不透明だ。

179荷主研究者:2011/09/19(月) 11:12:57

http://kumanichi.com/news/local/main/20110825001.shtml
2011年08月25日 熊本日日新聞
熊本城の馬具櫓と続塀復元へ 来年1月にも着手

 熊本城の馬具櫓[ばぐやぐら]と続塀[つづきへい]の復元整備工事が来年1月にも始まる見通しとなった。23日に開かれた熊本市文化財保護委員会で復元整備計画が了承されたことに伴い、市は近く文化庁に復元許可を申請し、年内には所定の手続きを終える考え。

 市文化振興課によると、馬具櫓は行幸橋近くに位置し、江戸時代初期ごろ(慶長〜寛永年間)に作られた馬具を納める建物。続塀は同櫓から北に延びる延長約122メートルの塀。1877(明治10)年の西南戦争時までには解体されていたという。

 1966年に外観復元(骨格はコンクリートブロック造)されたが、老朽化のため2009年3月に解体。熊本城の第2期復元整備事業(2008〜17年度)として再整備を進めている。

 計画では、馬具櫓は高さ約7・2メートルの木造平屋で、床面積約130平方メートル。江戸期の絵図や明治初期の写真、史料などに基づき、すべて木造(本瓦ぶき、漆喰[しっくい]塗り)で江戸当時の建物を忠実に再現。高さ約2メートルの続塀も木造で整備する。既に終了した発掘調査などの費用を含めた総費用は4億7400万円(約2分の1は国の補助)で、約3年かけて整備する。

 復元整備計画は、文化庁の「史跡等における歴史的建造物等の復元の取扱いに関する専門委員会」が7月下旬に承諾。文化庁の許可も10月末には下りる見通しという。(浪床敬子)

180荷主研究者:2011/09/25(日) 15:03:28

http://kumanichi.com/news/local/main/20110831003shtml
2011年08月31日 熊本日日新聞
高麗門の遺構か 熊本市新町で埋蔵文化財調査

城下町を囲んでいたと考えられる堀の石垣を指さす県教委の担当者(中央)=熊本市新町

 熊本市新町に明治初期まであった高麗門跡で、県教委が埋蔵文化財事前調査を実施。31日までに門柱の基礎部分とみられる痕跡などが見つかった。遺構が高麗門である可能性もあり、地元まちづくり団体は「復元の足掛かりになる」と期待している。

 県教委などによると、高麗門は慶長3(1598)年、加藤清正が熊本城西方から城下町を守るために築いた櫓[やぐら]門。城下町への人の出入りを厳重に警戒する要の門で、高麗門踏切近くにあった。一説では2階建てで、幅約25メートル、奥行き約6メートルの大きさだったとされる。

 県のJR鹿児島線連続立体交差事業に伴い、同踏切東側約1キロ区間を7〜8月に試掘。その結果、門柱を据えたと思われる礎石下部の根固め石(直径約1メートル)が地中約40センチの深さで見つかった。

 大量の瓦や、城下町を囲んでいたと考えられる堀の石垣も確認された。石垣は3段積みで、判明分だけで約90メートルの長さがある。

 県教委は同日、現地で調査結果の報告会を開き、地元住民ら約40人が参加。県教委の担当者は「江戸時代の遺構かどうか調査を進め、歴史的、文化的な価値付けをしたい」と説明した。

 一新まちづくりの会の毛利秀士さん(69)は「高麗門の正確な場所を突き止める手掛かりとなり、新町が城域内にあった証明にもなる。城下町のシンボルとして門の復元を期待したい」と話した。(川崎浩平)

181荷主研究者:2011/09/25(日) 16:33:14

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110908t15005.htm
2011年09月08日木曜日 河北新報
仙台城跡、大広間整備へ 市教委が基本設計案

仙台市教委が作製した整備イメージ図。中央やや左に騎馬像があり、その右に大広間跡が広がる

 国史跡の仙台城跡(仙台市青葉区)で、本丸大広間の遺構を基に平面の野外展示施設が整備されることが7日、決まった。市教委が同日開いた「青葉山公園にかかる仙台城跡整備委員会」(委員長・入間田宣夫東北芸術工科大教授)で基本設計案を示し、承認を得た。大広間の規模や配置が浮かび上がり、仙台藩祖伊達政宗が築いた城の最重要建造物を体感できる空間になりそうだ。

 展示施設の予定地は「伊達政宗公騎馬像」の西側にあり、総面積は約2500平方メートル。大広間跡の整備は東西方向に33メートル、南北方向に26〜40メートルの範囲を想定している。

 大広間は藩政を執り行う中心的な施設で、藩主に家臣が謁見(えっけん)したり、将軍や天皇を迎えたりする場でもある。藩主が座した「上段の間」をはじめ、身分に応じて家臣に割り当てられた幾つかの部屋から構成される。市教委による発掘調査と江戸時代の「御本丸大広間地絵図」などから、規模や配置の詳細が判明しており、調査後に埋め戻された遺構の真上に整備する。

 設計案によると、各部屋の名称と役割を、地面に埋めた陶板パネルで解説。柱を支えた礎石や、軒からの雨水を受けていた雨落ち溝も配置する。畳敷きや板張りなど、部屋の格式の差は、舗装の色で表現する。

 隣地にある「仙台城見聞館」も改装する。館内の壁に「上段の間」の床の間にあった金箔(きんぱく)の「鳳凰(ほうおう)図」を原寸大で復元。政宗が愛した豪華絢爛(けんらん)な安土桃山文化の一端を再現する。

 ただ、市の仙台城跡整備基本計画は東日本大震災で見直し作業を強いられ、大広間跡の整備時期は未定。市教委文化財課は「被災石垣の復旧など災害対応を優先させながら、開始時期を見極めたい」と話している。

182荷主研究者:2011/10/01(土) 16:15:49

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110909/CK2011090902000129.html
2011年9月9日 中日新聞
光秀築いた城門か 聖衆来迎寺の表門

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011090902100072_size0.jpg
解体修理前の聖衆来迎寺表門。木材に移築された跡があり、坂本城築城時の建築物であることが分かった=大津市比叡辻で

 大津市比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅうらいこうじ)表門(県指定文化財)が、戦国武将明智光秀が築いた坂本城(同市下阪本)の城門だった可能性が県教育委員会の調査で高まってきた。同教委は「築城時の坂本城の姿を残す唯一の建築物になる」として注目している。

 同門は2009年11月から解体修理中。地域の言い伝えで坂本城の門を移築したとされてきたが、移築の経緯や建立年代を示す史料がなく、真偽は不明とされていた。

 今回の調査で、材料の木材が城門の様式から加工され、直した跡があったほか、柱に付いたかんなの刃の跡が、坂本城で建築工事があった時期と重なり、移築されたことを示す“決め手”になったという。

 坂本城は1571年から築城され、光秀が織田信長を討った本能寺の変後の戦乱で館に火が放たれるなどして荒廃し、現在は石垣が残る程度となっている。

 城と寺との距離は1キロほどで、光秀と関係が深かった同寺が、何らかの目的で1586年ごろに移築したとみられる。

 調査では、門の隣につくられた脇扉の高さが、修理前の168センチの半分に近い98センチだったことも分かった。通行の便利さよりも防御を重視した中世の建築様式の名残とみられ、今後の組み立て工事で元の高さに修復する。

 県教委では、工事の現地見学会を10月2日の午前10時と午後2時からの2回、同寺で開き、職員がこれまでの調査内容を報告する。

 問い合わせは県教委文化財保護課=電077(528)4673=へ。

 (中尾吟)

183荷主研究者:2011/10/02(日) 16:55:59

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201109120004.html
'11/9/12 中国新聞
福山城修理へ保存計画準備

 福山市教委は、国史跡の福山城(福山市丸之内)の修理や活用の方針を示す保存管理計画を策定する。近く有識者でつくる保存管理準備会を設け、2013年度までをめどに必要な資料を集め、整理する。

 準備会は文化財や郷土史の専門家7人程度で構成し、近く初会合を開く。福山空襲で天守閣などが焼失する以前の城の姿を伝える絵図や写真などの収集、資料提供の呼び掛け、分析・整理を進める。

 国は1979年、国史跡の保存管理計画の策定経費を補助する要綱を設け、計画を策定した史跡の老朽化や防災の対策を優先している。計画では修復などで参考にするために史跡の本来の姿を示す必要があるが、福山城は焼失前を記録した資料も空襲で焼けるなどして少ないため、策定が進んでいなかった。

 市教委文化課の村上寿広課長は「計画を策定すれば修理がしやすくなる。準備会を経て、策定委員会をつくりたい」と話している。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110912000401.jpg
【写真説明】福山市教委が保存管理計画の策定に乗り出す福山城

184荷主研究者:2011/11/13(日) 20:02:23

http://www.isenp.co.jp/news/20111018/news04.htm
2011/10/18(火)伊勢新聞
鳥羽城跡 天守西側から石組みの溝 22日に説明会

【雨水を受けるために作られた九鬼氏の遺構と考えられる石組みの溝=鳥羽市鳥羽3丁目の発掘現場で】

【鳥羽】鳥羽市教育委員会は十七日、七月から進めていた同市鳥羽三丁目の鳥羽城跡発掘調査について発表した。鳥羽城は水軍の将として豊臣秀吉に仕えた九鬼嘉隆が文禄三(一五九四)年に築城したとされ、天守台や本丸御殿の本格的な発掘調査は初めて。

 城は明治四(一八七一)年に廃城し、跡地には昭和四(一九二九)年に鳥羽小学校が建てられるなど、城跡周辺は時代と共に様変わりしてきた。平成二十一年に鳥羽小学校が移転。今夏、城の中枢部に当たる天守台や本丸御殿の遺構確認のため、旧運動場を二百六十八平方メートルにわたり調査した。

 天守台があったとされる場所は、表面から十センチのところで地山の岩盤が現れ、石垣の痕跡は確認できなかった。しかし、天守の西側には高い構造物から雨水を受けるために作られたと考えられる石組みの溝が二列確認できた。下層に当たる幅五十センチの溝では古い特徴の瓦も見つかり、発掘に当たった市教委の豊田祥三さんは「九鬼氏の時代の遺構と考えられる」という。

 発掘現場からは、九鬼嘉隆の家紋瓦や九鬼氏の後に城主となった内藤氏の家紋瓦などが出土している。豊田さんは「今回、本丸の調査まではできなかったが、礎石など城の痕跡について継続的に調査を進めていきたい」と話していた。

 市教委では二十二日、午前十時から市民らへの発掘現場説明会を予定している。無料。

185荷主研究者:2011/11/13(日) 20:37:24

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201110200076.html
'11/10/20 中国新聞
三原城跡から土留め出土

 三原市教委が進めている国史跡の三原城跡の発掘調査で、濠(ほり)への土砂の流入を防ぐ石列「土留め」が見つかった。現存する例は少なく、市教委は共に見つかった西国街道の道路遺構とあわせ「貴重な史料になる」としている。29日午後1時半から現地説明会を開く。

 土留めは濠の北側で東西に約20メートル、西側で南北に約10メートル残っていた。濠に面して見つかった西国街道の道路遺構の脇に直径約30センチの石が列をなしている。

 道路遺構は幅約6メートルで、いずれも緩やかな傾斜がある。市教委生涯学習課は雨水が道路にたまらない工夫だったとみている。

 時元省二学芸員は「城郭の全体像や周辺の様子を知る上で貴重な発見」と話す。濠北側の門に続く石垣の一部も出土した。

 遺跡の復元などが目的の調査で、天主台跡の濠に面した約3300平方メートルを2年がかりで発掘する。説明会は無料。25日までに同課に申し込む。電話0848(64)2137。

【写真説明】濠に並行して石が連なる土留め。左側は西国街道の道路遺構

186荷主研究者:2011/11/13(日) 20:51:18

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/268704
2011年10月17日 00:49 西日本新聞
佐賀藩の石垣、台場を造営 四郎ケ島 長崎港 保全へ機運

四郎ケ島に残された大規模な石垣を視察する歴史愛好家たち

幕末に築かれた石垣の一部は崩落が進んでいる

 長崎市・長崎港の入り口に浮かぶ四郎ケ島。西欧列強の外圧が強まった幕末、佐賀藩は陸地から約230メートル沖にあるこの小島まで堤防を築き、有事に備えて大砲を据えた。現在も砲台跡や土台の石垣が残るが、長年の風雨で石垣の一部が崩れるなど風化が進んでいる。近代日本の夜明けを今に伝える貴重な史跡。国史跡指定と保全を求める動きが県境を越えて盛り上がりつつある。

 コンクリートの堤防を歩き、石垣で囲まれた四郎ケ島に入った。東西約220メートル、南北約120メートルの小さな島だが、うっそうと木々が生い茂り、昼も薄暗い。草木をかき分けて獣道を進むと再び海に出た。石垣の上から海を見下ろす。高さ10メートルほどあるようだ。

 9月17日、四郎ケ島の保存と活用を探るシンポジウムが長崎市であり、島の所有者の許可を得て、現地視察が行われた。

 引率役の1人、「幕末佐賀研究会」(佐賀市)の原田彰さん(64)が約4キロ沖の伊王島を指さした。「長崎湾の入り口で敵を挟み撃ちするため、四郎ケ島と伊王島に鉄製大砲を置いたんよ。実戦で使われることはなかったけど、列強には脅威だったにちがいない」

 島の内部には巨大な石垣を使った砲台跡などがあるが、樹木の密度が高く、立ち入ることは難しい。「佐賀藩の科学力や土木技術の高さを伝える素晴らしい史跡」と原田さんは語るが、保全の手はほとんど入っておらず、海辺の石垣には一部崩壊も確認された。

   ■   ■

 「先人たちの技術の結晶が危機的な状況にある」。視察の後、活水女子大学で開かれたシンポジウムで、佐賀大学の長野暹名誉教授(日本経済史)は史跡の現状を説明した。「石垣が一つ壊れると、連鎖して一気に崩れる可能性がある。早急な対策が必要」と訴えた。

 シンポは歴史遺産の保全活動などに取り組む佐賀、長崎両県の市民団体が主催。両県の歴史愛好家など約200人が詰め掛けた。保存を求める声は地元からも相次いだ。

 「よくぞここまで生き残ってくれた。一日も早く助けたい」「長崎にとっても大切な遺産。佐賀と協力し、保全へ働き掛けていきたい」

 長崎市は国史跡指定に向け、09年度から調査を開始。土地の所有者である地元町内会からも同意を得た。本年度内に報告書をまとめるという。しかし、保全の実現にはなお曲折がありそうだ。

   ■   ■

 修復・保全には、巨額の予算が必要となる。国指定史跡となれば、最大で国から50%の助成金を受けることができるが、県や市、さらには所有者の負担も生じてくる。シンポに集った「幕末佐賀研究会」など佐賀、長崎の市民団体が協力して、募金活動を展開する予定だが、長崎市の文化財審議会委員長を務める、活水女子大学の下川達彌教授(考古学)は「たとえ指定史跡を受けても、資金不足になれば、保全の規模が小さくなる可能性がある」と懸念する。

 近代化遺産の大半が失われた佐賀市と異なり、長崎には数多くの史跡が残っている。長崎近代化遺産研究会の宮川雅一会長(77)は「ほとんど知られていない四郎ケ島にいかにスポットを当てていくのか」と問題提起。下川教授は「佐賀と交流を深めながら、官民一体で遺構の魅力を広くアピールする戦略を探るべきだ」と提言している。

▼四郎ケ島台場

 長崎警備に当たっていた佐賀藩が1853(嘉永6)年に整備。150ポンド砲や80ポンド砲など14門の大砲が配備された。島には砲台跡や石垣が残っているが、北西の石垣は台風や大波の影響で崩壊が進んでいる。

=2011/10/17付 西日本新聞朝刊=

187荷主研究者:2011/11/23(水) 16:38:40

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/11/20111102t65008.htm
2011年11月02日水曜日 河北新報
城堀跡めぐり議論二分 相馬・新市民会館の建設予定地

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20111101016jd.jpg
新市民会館の建設予定地にある相馬中村城の堀跡。自然石による石垣が確認できる=相馬市中村

 新しい市民会館が計画されている福島県相馬市で、建設予定地をめぐって議論が二分している。予定地に福島県史跡である相馬中村城の堀跡があるためだ。市は「復興のシンボルにしたい」と東日本大震災で中断した事業の再開を表明したが、市民からは保存を求める声も出ている。全市アンケートを行っている市は、計画通りに堀跡の上に建てる案と場所をずらして残す案を示し、結果を参考に最終決定する。

 新市民会館は、2009年に3回目の当選を果たした立谷秀清市長の公約。昨年5月、中村城東側に隣接する市有地に建設することが決まった。

 13年の完成を目指し本年度当初予算に建設費約4億6000万円を計上したが、震災で中断。9月議会で立谷市長が事業再開に意欲を示した。

 建設予定地は約1万5000平方メートル。カネボウ(現クラシエ)の工場跡地で、同社撤退後の99年に市が約8億円で購入した。2001年に調査した結果、南北に伸びる堀跡が確認された。

 長さ65メートル、幅7〜13メートル、深さ1.5メートルで、「東三の丸」を囲む堀の一部とみられる。石垣がはっきり確認できる場所もある。石垣の沈下を防ぐ「胴木」という木材なども見つかっている。

 建設検討委では「復興に向けすぐ着工すべきだ」「池として整備してはどうか」などとメンバーの意見が分かれ、市はアンケートを実施している。立谷市長は「拙速な結論は避けるべきだ。アンケートの結果を十分に検討したい」と話す。

 県史跡の指定地からは外れており、保存するかどうかは市の判断に任せられている。また、東隣には歴史収蔵館の建設も予定されている。堀跡を残すためには新市民会館を東側にずらす必要があるが、「収蔵館との間のスペースが減り、駐車場などに影響が出る」(市関係者)という。

 堀跡の保存を求める市文化財保護審議委員の岡田清一東北福祉大教授(東北中世史)は、「中村城は国史跡に指定されても遜色ない内容。その関連遺構なら、残して国史跡の指定に備えるべきだ」と指摘する。

 岡田教授はさらに「他県では、被災した文化財が国によって救済される例もある。市は保存へ向け早く対策を考えるべきだ」と求めている。

[相馬中村城]1611年、相馬家17代当主・利胤(としたね)が、伊達家の侵攻に備えて小高(現南相馬市小高区)にあった居城から移った。廃城後は公園として整備され、県史跡になっている。東日本大震災で一部被災したが、現在も大手門や堀が残っている。公園内の相馬中村神社は相馬野馬追の祭場地として知られる。

188荷主研究者:2011/11/23(水) 17:32:13

http://www.at-s.com/news/detail/100073780.html
2011年11/3 08:09 静岡新聞
名称「駿府城公園」へ 静岡市、来年度変更目指す

 静岡市は、来年4月から葵区の「駿府公園」の名称を「駿府城公園」に変更する方針を固めた。4日から市民意見の募集を行った上で、市議会2月定例会に関連議案の提出を目指す。名称変更は田辺信宏市長がマニフェスト(公約集)に掲げた政策の一つ。

 駿府公園は面積約18ヘクタールで、中心市街地にある公園として親しまれている。1949年に「中央公園」として利用を開始。51年に市民アンケートの結果、駿府公園の名前が付いた。公園は徳川家康公が築城した駿府城の本丸や二の丸部分に当たり、城の中心的役割を果たした場所だったという。

 名称変更は、城郭のイメージを出すことで市民に駿府城跡としての意識を深めてもらい、駿府城の歴史的価値を全国に発信する狙いもある。田辺市長は公園を「歴史文化の拠点」と位置付け、マニフェストの工程表でも来年度から名称変更する方針を示していた。

 都市局は「歴史を感じさせる公園を目指した再整備も進めている。市民が駿府公園が持つ価値をさらに理解する機会にしていきたい」としている。駿府公園では、天守閣再建にさまざまな意見があり、名称変更を機に再建議論の活発化も予想される。

 意見募集は12月5日まで。駿府城公園への名称変更理由などについての資料は市ホームページや各区役所などで見ることができる。意見は郵送やファクス、持参、メールで受け付ける。

 問い合わせは市緑地政策課<電054(221)1432>へ。

189荷主研究者:2011/12/11(日) 13:35:22

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20111112/CK2011111202000130.html
2011年11月12日 中日新聞
福井城巽櫓、国体までに再建を 市長に3項目要望

「ぜひ福井国体までに巽櫓復元を」と切望する吉田会長(左)と栗田名誉会長(中)=福井市役所で

 福井城巽櫓(たつみやぐら)の再建を訴える「福井城の復元をすすめる会」の栗田幸雄名誉会長、吉田純一会長らが11日、福井市役所を訪れて東村新一市長に要望書を手渡し、「2018年開催の福井国体までに実現を」と求めた。

 巽櫓は、現在県庁が立つ福井城本丸跡の東南隅にあり、1669年に天守閣が焼失した後は、明治初期に取り壊されるまでは城のシンボルだった。櫓とはいえ重要文化財・丸岡城(坂井市丸岡町)の天守よりも大きく、屋根にはしゃちほこも載っていたという。

 要望事項は、福井国体の開催までに巽櫓を再建する▽今後のまちづくりにおいて、福井城の旧本丸ならびに旧西二の丸・三の丸(現中央公園)の一画の再編整備に取り組む▽事業は市が主導し、県の協力を得ながら進める−の3項目から成る。

 栗田名誉会長と吉田会長は「県都のデザイン戦略も進む中、“福井の顔”をつくるために、藩主の御座所があった中央公園から本丸跡までを一体化して城跡公園を整備するべきであり、巽櫓はその第一歩だ」と強調した。

 東村市長は「国体までに整備するのはきつい。巽櫓再建となると、県庁移転も視野に入れることになり、今後考え方を整理しなければならない」と述べるにとどまった。

 (林朋実)

190荷主研究者:2011/12/11(日) 14:40:48

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20111116301.htm
2011年11月16日03時10分 北國新聞
次は鼠多門・橋 金沢城復元で谷本知事

 金沢経済同友会と谷本正憲石川県知事の意見交換会は15日、金沢市のANAクラウンプラザホテル金沢で開かれ、谷本知事は金沢城の復元整備について、橋爪門、玉泉院丸跡地に続き、玉泉院丸跡と尾山神社を結ぶ鼠多門(ねずみたもん)橋、鼠多門が次の復元対象になるとの考えを明らかにした。また、原子力災害時の指令拠点となる志賀原発のオフサイトセンターについて、国が原発から30キロ圏外に置くよう指定した場合、「北陸電力石川支店もある金沢に置くのが有力な選択肢ではないか」との見解を示した。

 意見交換会には会員50人が出席し、飛田秀一代表幹事があいさつした後、意見交換に移った。

 意見交換会の後、記者会見した福光松太郎副代表幹事らによると、金沢城の復元整備について、村浜肇専務理事の質問に対し、谷本知事は橋爪門や玉泉院丸跡地に続き、鼠多門橋、鼠多門が復元されれば、「武家屋敷から尾山神社を通って玉泉院丸跡、二の丸、三の丸、石川門、兼六園という回遊ルートができる」と述べた。

 復元整備計画に、歴代藩主が政務を執った二の丸御殿を盛り込む考えを問われたのに対し、知事は「二の丸御殿は規模が大きいので、復元の最後の仕上げという認識だ」と応じた。

 玉泉院丸跡の整備では、「露地役所」があった場所に、茶室にも使える和室、靴のまま入ることができる休憩室、案内スペースを備えた施設を設けると述べた。施設からは庭園(泉水・中島)や多彩な石垣が眺められる。廃止する県営丸の内駐車場は、以前は堀であったことが分かる形で園地として整備する方針が示された。米沢寛副代表幹事が尋ねた。

 福光副代表幹事は、志賀原発のオフサイトセンターの在り方や、来年7月に施行される再生可能エネルギー特別措置法をにらんだ県庁内の態勢について質問した。知事は、企画振興部内に再生エネルギー推進の施策を検討する組織を来年度に新設する意向を示した。

 清水義博理事の質問に対し、知事は、県中央公園をイベント利用に特化した広場として再整備する考えを明らかにした。また、県庁跡地の広坂庁舎は来年夏までに取り壊し、2013年に地下駐車場として供用する。庁舎跡の地上部分は、しいのき迎賓館横の駐車場を含め、芝生公園として整備する。

 半田隆彦理事は、北陸新幹線金沢開業に向けたPR戦略を尋ねた。知事は、新幹線開業PR戦略企画検討会(仮称)を12月に開き、効果的なPR戦略を来年度の実行委員会に引き継ぐと説明。その上で、開業PRを担当する専任組織を観光交流局内に設ける意向を明らかにした。

 高澤基理事は、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に「金沢市卯辰山麓」「加賀市加賀東谷」の2カ所が新たに決まり、県内の選定数が京都の7カ所に次ぐ6カ所になることを挙げ、全国発信の重要性を指摘した。知事は「ふるさと街並み遺産」など分かりやすいネーミングも大事だとし、関係各市や地元とアピール方法を協議したいと述べた。

 村上紀夫副代表幹事が閉会あいさつをした。

191荷主研究者:2011/12/11(日) 14:44:05

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20111117002.htm
2011年11月17日16時10分 北國新聞
金沢城 復元へ成果続々 橋爪門、玉泉院丸跡

 石川県が発掘調査を進める金沢城の橋爪門と玉泉院丸跡で17日、報道関係者向けの現地説明会が開かれた。県金沢城調査研究所は玉泉院丸跡の「色紙短(しきしたん)冊(ざ く)積(づ)み石垣」の下の滝つぼに水が落ちていたと指摘。橋爪門では柱の痕跡や柱を立てる礎石の根固めを確認した。金沢城公園の魅力を高める復元整備に向けて大きな成果 となった。

 橋爪門の二ノ門の復元に向けた遺構調査では、旧陸軍や金大時代の改変で遺構が大きく失われていたが、柱の礎石の根固めや、地下を通る石組みの排水溝、ますが発掘された。 現存する石垣には柱の位置を示すのみ跡や敷石も確認できた。

 柱の位置が確認できたことで、藩政期に2度再建された橋爪門は、宝暦年間の二ノ門が最も大きく、文化年間の二ノ門はそれより小さかったことが判明した。

 玉泉院丸跡は復元の検討のため発掘している。正方形(色紙型)と長方形(短冊型)の石を組み合わせた「色紙短冊積み石垣」は、上部に配されたV字型の石樋(いしどい)の 下に、落水によって掘られたとみられる滝つぼを確認。県金沢城調査研究所は石樋から水が落ちていたと解釈している。

 滝つぼには庭園を飾る石が見つかり、そこから水を流す地下水路があった。地下水路の先には昨年度に段々の滝が発掘されており、そこから池に流れ込んだとみられる。園路に 敷かれた飛び石も確認でき、さまざまな滝を配した景趣が造られたとみられる。

 県は19日午前10時半から玉泉院丸跡や石垣群を解説するガイドツアーを開く。定員は40人で、同10時から県金沢城・兼六園管理事務所前で受け付ける。

 同日午後1時半からは橋爪門と玉泉院丸跡の発掘調査の現場を公開し、担当者が説明する。希望者は二の丸案内所前に集合する。

192荷主研究者:2011/12/11(日) 15:22:52
>>191
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20111118/CK2011111802000164.html
2011年11月18日 中日新聞
金沢城公園埋文調査 橋爪門 3段階で変化

礎石の位置などから江戸時代に3段階で変化したことが判明した橋爪門二ノ門の遺構

玉泉院丸跡 石垣から水流出か

復元へ多くの手掛かり

 県と県金沢城調査研究所は十七日、金沢市の金沢城公園で埋蔵文化財調査の本年度成果を報道陣に説明した。復元整備を行う橋爪門は、礎石の位置の変化などから江戸時代に門の大きさが改築によって三段階で変わったことが判明。今後の復元計画の参考にするため遺構の全容を調べている玉泉院丸跡では、石垣上部から水が滝として流れ込んでいた可能性が高いことも分かり、全体構造を解明する多くの手掛かりが得られた。(室木泰彦)

 橋爪門は二ノ丸の正門で、通行制限が特に厳しかったという石川門、河北門と合わせ「三御門」と呼ばれる。一八八一(明治十四)年に焼失。県は二〇一四年度末までに整備する前に、一〇年度から調査をしている。

 本年度の調査で、橋爪門の二ノ門が江戸時代に二回火災で焼失した後、改築のたびに大きさが変わっていたことを確認。ただ中央と背面の二本の大きな柱の間隔は約三・六メートルのまま変わっていないという。原因は不明。県などは、門の大きさが二回変わりながら、大きな柱二本の間隔と寸法が変わっていない理由を今後究明する。

石垣を利用した滝の水が流れ落ちていたとみられることが新たに判明した玉泉院丸跡=いずれも金沢城公園で

 一方玉泉院丸跡では、一〇年度の調査で庭園内の斜面に三〜四段の連続する滝状の流れがあったことを確認。本年度は、その水がどこから流れ込んだか調べるため、斜面のさらに上部の石垣周辺を調査した。

 その結果、石垣上部には水の流出口とみられるV字型の石でできた流路が口を開けていたが、このまっすぐ下の地面に水を受けるための平らな石が敷かれていたほか、水圧によるとみられるへこみが確認できた。このため、実際に流出口から水が滝となって落ちていた可能性が高いことが判明した。

 さらに、へこみの近くに暗渠(あんきょ)とみられる水の流入口が確認できたため、滝から流れ落ちた水が、この暗渠を通って三〜四段の連続する滝まで流れた可能性も高まった。

 今回初めて園内の散策路とみられる一部も発見。県などは散策路の配置など、庭園の構造解明につなげたい考えだ。十九日午後一時半から一般対象の現地説明会が開かれる。問い合わせは同研究所=電076(223)9696=へ。

193荷主研究者:2011/12/11(日) 15:29:28

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628204.shtml
2011/11/19 08:00 神戸新聞
姫路城大天守に幻の窓 「大修理」で8カ所発見

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/b_04628205.jpg
築城当初の計画を再現したイメージ写真(左上)と現在の大天守(提供写真を合成)

 姫路市は18日、「平成の大修理」中の世界文化遺産・国宝姫路城の大天守最上層で、四隅の壁の中から窓のかもいと敷居が新たに8カ所見つかったと発表した。最上層の全周が窓で囲まれる構造となり、市は「410年前の築城当初は、死角を作らず360度城下町を見渡す構想があったようだ」としている。計画は途中で変更され、完成時は塗り込められて壁になったとみられるが、大パノラマを展望する計画がなぜ変わったのかは謎だ。(田中陽一)

 現在の最上層は南北に各5カ所、東西に各3カ所の引き違いの窓(縦150センチ、横160センチ)が配置され、四隅は壁になっている。

 「平成の大修理」で土壁や板壁をはがしたところ、四隅の壁8面からそれぞれ横幅160センチの敷居とかもいが見つかった。溝の幅や深さが他の窓と同じで、部材も古いことから、築城時に設けられたと判断した。

 現在の姫路城は、西国守備を任された池田輝政が1601〜1609年にかけて築いた。築城着手の前年には「天下分け目」といわれた関ケ原の戦いが終わったが、不安定な情勢は続いていた。市の担当者は「防衛のために全方位が見えるようにした」と推測する一方、「来客に360度の眺望を見せ、力を示そうとする意図もあったのでは」とみる。

 築城のどの段階で、なぜ計画が変わったのかは不明だ。大天守には8万枚もの瓦が使用され、屋根は相当の重量になる。

 「柱だけで支えるには無理があると分かり、耐力壁を設けた可能性がある」とするのは、江戸期の建築に詳しい平井聖・昭和女子大特任教授(82)。実際、新たに敷居とかもいが見つかった壁には厚さ5〜6センチもの頑丈な板壁がくさびでがっちりと固められ、強度を高めていたという。

 姫路城大天守保存修理検討会会長の多淵敏樹・神戸大名誉教授(78)は「いまだに新しい謎や資料を提示してくれる姫路城は、日本の城郭建築にとって貴重な研究対象だ」と話している。

194荷主研究者:2011/12/11(日) 15:30:18

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628190.shtml
2011/11/19 08:40 神戸新聞
姫路城石垣など特別史跡に追加指定 文化審議会が答申

特別史跡に追加指定された姫路城跡南東部の石垣(県教委提供)

 国の文化審議会は18日、姫路市の特別史跡「姫路城跡」に、これまでの発掘調査で見つかった堀の石垣と、城門だった石垣のある計2地区を追加指定することを文部科学大臣に答申した。

 姫路城跡は1956年に特別史跡となった。本丸などの内曲輪や、上級家臣の居住地だった中曲輪のほぼ全域が指定されている。天守閣などの建造物は51年に国宝になり、93年には世界遺産に登録された。

 今回、特別史跡に追加されるのは、城跡南東部に位置する2地区、計約380平方メートル。1カ所は、2008年の発掘調査で見つかった中堀の石垣。現在は埋め戻され、マンションの敷地になっている。もう1カ所は中曲輪の城門「総社門」の一部で、石垣が市有地に残っている。

 県教育委員会文化財室は「いずれも姫路城の防御構造を把握する上で重要」と評価している。(本田純一)

195荷主研究者:2011/12/30(金) 20:52:06

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201111230013.html
'11/11/23 中国新聞
松江城の耐震調査が始まる

 松江市は、国重要文化財の松江城天守閣の耐震調査に着手した。当初は4月からの予定だったが、東日本大震災の影響で財源とする文化庁からの補助額決定が遅れ、約8カ月ずれ込んだ。調査結果を基に、今後の保存活用策計画をまとめる。

 調査は文化財建造物保存技術協会に業務委託し、21日から12月17日まで実施する。天守閣を支える柱の材質や構造などを詳細に調べるほか、建物に使われている木材の痛み具合などをチェック。床の傾きに加え、天守閣周辺でボーリング調査も行い、地盤の固さや石垣のゆがみも確認する。

 市は調査を受けて、城の修理や災害対策、展示活用策を盛り込んだ保存活用計画をまとめる。来年3月までに専門家でつくる計画策定委員会を設置し、2013年度末までに策定する。一連の関連事業費を約5900万円と見込み、半額は国の補助金を充てる。

 松江城は1611年の築城。地下1階地上5階建て。1935年に国宝保存法で国宝指定されたが、50年の文化財保護法の施行で、重要文化財となった。松江市は「安土城の伝統様式を受け継ぐ唯一の正統天守閣」とし、国宝化に向けた活動に力を入れている。

【写真説明】松江市が保存活用に向けた調査を進める松江城

196荷主研究者:2011/12/30(金) 22:19:39
>>192
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2011120402000170.html
2011年12月4日 中日新聞
城内庭園 憩いの場に 解明進む 金沢城玉泉院丸跡

本年度の発掘調査で石垣上部から落差9メートルの滝が流れ落ちていたことが分かった

滝つぼ、園路など確認

 金沢市の金沢城公園西側にある玉泉院丸跡で、二〇一一年度の発掘調査によって、石垣から落差約九メートルの滝があったことが判明した。その下に三段ほどの連続した滝状の流れがあったことも分かっており、高低差二十二メートルの立体的な庭園にあった流水の姿が明らかになりつつある。調査結果を踏まえ県は、一四年度の北陸新幹線金沢開業までに庭園跡をながめることができる休憩室などを設け魅力を発信する。(室木泰彦)

 ◇良好な状態

 玉泉院丸は、一六一四(慶長十九)年に二代藩主前田利長が高岡で亡くなり、金沢へ戻った妻の玉泉院(永姫)の屋敷が置かれ名が付いた。その後、城内に辰巳用水が引かれ、三代藩主利常が京都から庭師を招き池などがある庭園を築いた。その後も改修が繰り返され、明治時代に軍用施設として使われた時に荒れ果て、戦後は〇八年まで県体育館が立っていた。

 県は、庭園の遺構を確認し今後の保存や整備方針を定める資料を得ようと、〇八年度から埋蔵文化財調査を実施。一〇年度までに庭園の池の中島や出島、護岸の石垣、池に流れ込んだ三〜四段ほどの滝状の流れを裏付ける石を組んだ跡などを確認した。絵図などと照らし合わせ、最終段階の庭園の遺構が良好な状態で残っていることも分かった。

高低差22メートルの立体的な庭園に滝から水が流れ込んだ構造の解明が進む玉泉院丸跡。右手奥が広坂合同庁舎=いずれも金沢城公園で

 ◇手掛かり豊富

 本年度調査は、三段ほどの滝の上部の石垣付近を中心に発掘。石の構成が特徴的な高さ約十メートルの「色紙短冊積石垣」で、上部にあるV字状の水路口「石樋」の約九メートル真下に滝つぼがあるのを確認した。水が落ちたとされる付近は玉石が敷き詰められ、高さ約二メートルの板状の大きな石を中心に大小の石が組み合わされて配置されていた。石の敷面は水で洗われ、かなりの勢いで水が落ちたことを裏付けるへこみも見つかった。

 滝つぼ付近から下方へ水が流れた可能性を示す排水口のような跡も見つかり、庭園の景色を構成した重要な斜面に大小二つの滝があったことが解明された。斜面の下方の石は体育館建設の際などに抜き取られたようで詳細は不明ながら、抜き取った跡が分かるため構造を探る手掛かりは多い。また、本年度は庭園の園路の一部を初確認。今後も園路が見つかれば、庭園全体の構造がさらに詳しく解明できるという。

県、休憩室や案内所整備へ

 ◇新幹線開業控え

 成果を生かすため、県は一四年度新幹線開業までに跡地の一部に庭園の魅力を紹介する休憩施設を設け、暫定供用する基本設計を進める。庭園跡と石垣を一望できる場所に、靴のまま入れる休憩室と茶室機能を備えた和風建物を設置。香林坊など繁華街からの玄関口となるため案内所も整備する。

 休憩室では庭園の歴史や特徴を紹介、和風建物は兼六園の時雨亭のように庭園の雰囲気を味わいながらお茶を楽しめる空間を演出する。ゲストハウスや観月会など季節に合わせた文化行事開催などの活用も想定。谷本正憲知事は二日の県議会で「都心のにぎわい創出のため重要な場所。城内の庭園という歴史的、文化的空間の魅力を高めたい」と述べた。

 後記

 玉泉院丸跡は、尾山神社や県中央公園、しいのき迎賓館から歩いて数分。整備が進めば石川門などと並び金沢城公園の“顔”となる場所にある。現地で石垣から滝が落ちた場所を確認しながら、当時は一体どんな美しい光景だったのかと思いをはせた。今後の調査で、そんな庭園の忠実な再現につながる資料が出るのを期待する。

 一方、県は本年度当初予算で、玉泉院丸跡を含め金沢城公園整備に約4億5490万円を計上。多額の税金が投入されている。調査結果がきちんと県民に還元されていくかも注視したい。

197荷主研究者:2012/01/02(月) 02:02:35

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/273838
2011年11月18日 00:43 西日本新聞
志布志城跡に朝鮮古銭

志布志城跡から出土した「朝鮮通宝」。4文字が上、下、右、左の順番に並んでいる

 鹿児島県志布志市志布志町帖(ちょう)の国指定史跡「志布志城跡」で、15世紀の朝鮮半島を支配した李王朝の銅銭「朝鮮通宝」1枚が出土した。過去に琉球王国の銅銭も出土しており、市教委は「アジアに開かれた港町として発展した志布志の歴史を反映する史料」と評価している。

 志布志城跡は、志布志湾に注ぐ前川の河口付近にあり、シラス台地の高低差を生かして空堀を巡らせるなどした四つの山城で構成している。14世紀には既に城があったとされ、戦国時代には肝付氏や島津氏が支配した。

 朝鮮通宝は李氏朝鮮時代に鋳造され、直径2・4センチ、厚さ1・5ミリ、重さ4グラム。市教委は2006年から4城の中心の「内城(うちじょう)」を発掘し、今年10月17日、敷地北側で朝鮮通宝を見つけた。現場は盛り土された平地で、造成時期などの詳細は不明という。

 当時の日本では外国の貨幣も広範に輸入されて流通しており、出土自体は珍しくないが、志布志城跡では15世紀の琉球王国の銅銭「大世(たいせ)通宝」やタイ製の陶磁器の破片も出土しており、東南アジアとの交流ぶりをうかがわせる。

 市教委埋蔵文化財係の大窪祥晃さん(36)は「志布志城は南九州で最大規模の中世山城。その後の城に比べて外見が分かりにくく、地元の人にもよく知られていないが、これを機会にもっと知ってもらえれば」と話している。

=2011/11/18付 西日本新聞朝刊=

198荷主研究者:2012/01/31(火) 23:34:32

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2012011209515111/
2012/1/12 9:51 山陽新聞
津山城宮川門跡、修復工事進む 石垣解体、積み直し 3月上旬終了予定

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修復が進む津山城宮川門跡の石垣

 津山市教委は、崩落の危険性が高まっていた国史跡・津山城跡(鶴山公園、同市山下)の宮川門跡にある石垣の修復工事を進めている。石垣をいったん解体し積み直しており、3月上旬には作業が終わる予定。

 津山城は初代津山藩主森忠政(1570〜1634年)が築城し、1616年に完成。城の周囲には堀がめぐらされ、南東部にあった宮川門を含め六つの門が設置されていた。現在、堀はなく、門に接していた石垣の一部が残る宮川門と京橋門の位置は確認されている。宮川門跡の石垣は、数年前から外側にせり出し、崩落の危険性があった。

 修復が進められている石垣は長さ約25メートル、高さ約4メートル。40〜60センチ四方の石が約270個使われ、大きいものでは1個800〜900キロという。

 昨年10月から石に一つずつ番号を付け、石垣を写真撮影して解体。11月中旬から写真を参考にしながらクレーンを使って元の位置に積み直す作業を進めている。

199荷主研究者:2012/02/16(木) 00:04:11

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20120113/CK2012011302000163.html
2012年1月13日 中日新聞
富山城 規模より広く 絵図位置10メートル外側 内堀跡を確認

発見された富山城西側の内堀跡(点線内)=富山市丸の内で

市埋文センター調査

 富山城の西側(富山市丸の内の市立図書館南側)で発掘調査をしていた市埋蔵文化財センターは、現場で江戸時代に造られた内堀跡を新たに確認した。絵図などで推定された位置より十メートルほど外側で、城の規模がもう少し広かったと考えられる。一般説明会は十三日午後一時半から発掘現場で開かれる。(山田晃史)

 センターが十二日開いた報道機関向け説明によると、内堀は敵の侵入を防ぐため城周囲にめぐらされた溝で、今回見つかったのは北西の角の部分。城の南側にある現存する堀とつながっていたが、戦後に埋められた。

 地表から六メートル下で、人工的に整えられた地質を発見。底が平面になっている「箱堀」という構造で、一六六一(寛文元)年に初代藩主の前田利次が改修したとみられる。今回の発見で、富山城の正確な配置や規模の解明が進みそうだ。

 調査は、雨水貯留施設を地下に造る工事に伴って昨年十二月十五日から開始。堀の跡は工事を進めるために再び埋める。一般説明会は参加無料で、問い合わせは同センター=電076(442)4246=へ。

200荷主研究者:2012/02/19(日) 01:12:17

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120119/CK2012011902000111.html
2012年1月19日 中日新聞
堀の形状など調査へ 松坂城跡、再度発掘

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前回の調査で、堀跡の存在が確認された原田二郎旧宅の庭園=2011年10月21日、松阪市殿町で

 松阪市教育委員会は、市指定文化財「原田二郎旧宅」(同市殿町)の庭園で来週にも、再度発掘調査を始める。前回の調査では、国史跡・松坂城跡の堀が定説よりも城下町側にある可能性が指摘されており、今回の調査で、その部分の堀の形状など実態を明らかにする。

 調査は、庭園内の石敷きを残し、昨年8〜9月の調査で掘った場所を拡幅、延長して実施する。市文化財センターによると、松坂城の堀の護岸は、一部が石垣や素掘りと分かっているが、全容はつかめていない。今回の調査で、護岸の様子や堀の深さなどを調べたい考えだ。

 前回調査で、隣地との境界線を探る目的で庭園を掘ったところ、深く落ち込む場所を発見。ほか2カ所でも同様に深く掘られた跡が見つかり、城の堀跡と推定されるが、水が湧き出るなどして、底に達するまで掘れなかった。

 堀は明治以降に徐々に埋め立てられたとされる。発掘により城下町の暮らしで使われた生活用品やおもちゃなどが見つかるとも期待される。

 新たな堀跡は、江戸時代に徳川家光が全国の大名にまとめさせた「正保(しょうほう)城絵図」や明治初期の地籍図に書かれた堀の位置とは異なり、松坂城の堀の形が変わる可能性を秘めている。 (戸川祐馬)

201荷主研究者:2012/02/26(日) 17:08:21

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1201260038/
2012年1月27日 神奈川新聞
小田原城で謎の堀見つかる、場内の「縄張り」解明する手掛かりか/小田原

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見つかった北条時代の「障子堀」=小田原市栄町1丁目

 小田原市は26日、同市栄町1丁目の小田原城三の丸跡で戦国時代と江戸時代の堀が見つかったと発表した。いずれも城絵図に記載がない“謎の堀”。同市文化財課は「城内の『縄張り(配置)』を解明する貴重な手掛かりになる」と話している。

 二つの堀は、昨年11月から始まったマンション建設に伴う遺跡調査で相次いで発見された。現場は三の丸北側の出入り口だった幸田口門の手前。城の防御を固めるために造られた。

 1号堀と名付けた堀は、16世紀末から17世紀前半の江戸時代に構築されたと推定されている。堀に沿って玉石積みの石垣が一部残されていた。南北方向に延びており、過去の調査から堀の幅は約20メートルの比較的大きなものとみられる。

 一方、2号堀は東西方向に延びている。1号堀によって壊された場所があり、それ以前に造られたことが分かる。上から見ると、田のあぜ道のように十字に仕切られた構造が特徴の「障子堀」の可能性が高い。

 障子堀は北条氏が多用した築城技術。隣接する八幡山古郭西曲(くる)輪(わ)西堀跡に次いで2例目の発見になる。この堀は幅が最大約23メートル、深さ約7メートル。中世の小田原城では最大規模とされる。

 2号堀は幅約7メートル、深さ約2・5メートル。全体像は今回の調査では判明していないが、1例目よりひと回り小さそうだ。底部で出土した土器「かわらけ」の分析で、1570〜80年代の構築と推定される。

 年代の異なる堀は二の丸蓮池に沿って発見された。しかし、当時の「相州小田原古絵図」(加藤図)に描かれていない。幸田口門を守る堀の変遷を調べる貴重な資料になるという。

 交差するように見つかった堀について、調査担当者は「北条氏から大久保氏に城主が代わり、形状を変更した。地震で壊れて復旧する際に一度埋めて違う場所にしたことなどが考えられる」と話している。

 民間が実施している今回の調査は27日に終了、堀はその後埋め戻される予定。

202荷主研究者:2012/03/04(日) 13:14:52

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120201/CK2012020102000118.html
2012年2月1日 中日新聞
松坂城の空堀確認 「原田二郎旧宅」の庭園

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空堀と確認された発掘場所。手前の護岸から、奥の民家までの測量値が江戸時代の文献にある堀の幅とほぼ一致した=松阪市殿町で

 松阪市教育委員会は31日、市指定文化財「原田二郎旧宅」(同市殿町)の庭園に、松坂城の空堀が存在したとする調査結果を発表した。この部分を含む170メートルの区間で、堀の位置が定説より東側に8・5メートルずれると推定され、城南東部の「搦手(からめて)口」の構造が変わる可能性が出てきた。

 発掘調査は8〜9月に続いて2回目。前回の調査で見つかった堀の端から神道(じんどう)川に向かって2カ所で幅2メートル、長さ7・5〜8メートルを掘った。市文化財センターによると、深さ2・1メートルまで掘り進め、堀の護岸から、神道川対岸の周囲より少し高くなった民家までを測量すると18メートルだった。1647年ごろに作成された「勢州飯高郡ノ内松坂城町絵図下帳」にある堀幅(16・2メートル)や深さの記述とほぼ一致。今回の発掘結果が、江戸時代の文献で裏付けられことになる。

 空堀は明治時代以降、3時期に分けて埋め立てられたと考えられており、周囲よりも土地が低い。隣接地も空堀の延長線上は低くなっていることから、同センターの木之本和之主幹(51)は「堀の位置が定説とずれていたのは間違いない」と指摘。「松坂城跡が国史跡となって研究を進める中で、有益なデータが得られた」と話した。

 (戸川祐馬)

203荷主研究者:2012/03/04(日) 13:16:07

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120204/CK2012020402000131.html
2012年2月4日 中日新聞
浜松城天守閣に16万3500人 昨年入場者数が過去最高を記録

浜松城天守閣で、熱心に見学する来訪者ら=浜松市中区元城町で

家康に関心「若者のファン増えた」

 徳川家康の居城で知られる浜松城天守閣(浜松市中区元城町)の2011年(1〜12月)の入場者数は約16万3500人で過去最高になった。浜松モザイカルチャー世界博、国民文化祭・しずおか2009という二大イベントの恩恵を受けた09年の約14万3200人が最高だったが、大きく上回った。市などの関係者は「戦国武将ブームは一過性ではなく本物。天下人家康への関心はますます高まってきた」と分析する。(飯田時生)

 浜松城は1958年に市民の寄付金で、旧天守台の上に天守閣が再建された。年間入場者数は一時5万人台にまで落ちたが、指定管理者移行などを機に盛り返し、2006年は約9万5000人、天守閣再建50年目の08年は約11万2000人に達し、増加傾向が続いている。

 来訪者の案内にあたる浜松観光ボランティアガイドの会員は「とりわけ若者の姿が増え、熱心に見学してくれる。夢が持ちにくい現代だから、混沌(こんとん)とした戦国の世に天下をとった家康をもっと知りたい気持ちがあるのではないか」と話す。

 11年は、浜松生まれの徳川二代将軍秀忠が重要な役割を担ったNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映も追い風になったとの指摘も出ている。

204荷主研究者:2012/03/31(土) 18:25:23

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20120206/CK2012020602000109.html
2012年2月6日 中日新聞
石田三成の居城“再現” 彦根商議所青年部

石田三成の居城・佐和山城をイメージした「佐和山一夜城石造」=彦根市古沢町の佐和山会館で

 戦国武将・石田三成の居城だった佐和山城をイメージした石造「佐和山一夜城石造」が、佐和山の麓にある彦根市古沢町の佐和山会館に建立され5日、披露式があった。

 佐和山城は関ケ原の合戦(1600年)後、初代彦根藩主の井伊直政が入城。没後、廃城となった。城跡には本丸を囲む土塁跡など遺構が残るが、県外から訪れた歴史好きの観光客らから「建造物がなく、写真を撮る場所がない」との不満が度々、聞かれるという。

 そんな中、佐和山城跡で、巨大なベニヤ板に佐和山城を描くイベントをかつて開いた彦根商工会議所青年部が立ち上がった。彦根城とともに新たな観光名所になればと、1年半前、市内の田中家石材に建立を依頼した。

 石造は高さ2・5メートル。1・7メートル四方の土台となる石垣の上に5層の天守を備えた。黒御影石や白御影石を材料に、西明寺に残る古絵図などを参考に仕上げた。石造の設立の経緯などを記した石碑も建てるという。

 式には、青年部の川地将人会長(41)や、同会館を管理する地元の城北東部美郷会の来本作治代表(77)ら約40人が出席。訪れた三成ファンらが早速、石造を前に、記念撮影を楽しんでいた。 (古根村進然)

205荷主研究者:2012/03/31(土) 19:09:33

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120215103.htm
2012年2月15日03時55分 北國新聞
金沢城鶴丸倉庫、行楽期に特別公開 石川県、観覧機会増やし魅力発信

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/H20120215103.jpg
新年度から行楽期に特別公開される鶴丸倉庫=金沢城公園

 国重要文化財の金沢城土蔵(鶴丸倉庫)が新年度、行楽期に特別公開される。園内の歴史遺産を観覧できる機会を増やし、多くの観光客に歴史、文化的価値に理解を深めてもらう。金沢城を紹介するホームページに中国、韓国語版も加えて海外客の利便性を図る方針で、城の魅力を発信し、国内外からの誘客促進につなげる。

 鶴丸倉庫は、1848(嘉永元)年に建てられた土蔵で、武具の蔵として使用された。延べ床面積は636平方メートルで、城郭内に残る土蔵としては全国でも最大規模とされ、2008(平成20)年6月に国重要文化財に指定された。

 これまで内部を観覧できるのはイベントなどに限られていたが、県は金沢城公園の利活用策としてゴールデンウイークや旧盆期、文化の日などの行楽期に公開することにした。

 金沢城公園では、県が河北門の復元を機に2010(平成22)年度から国重文の「石川門」と「三十間長屋」の定期公開を始めた。今年度は冬季(12〜2月)を除く土、祝祭日の年間103日に公開日を拡大しており、県は行楽期に鶴丸倉庫を特別公開することで入園者のさらなる増加を見込む。

 さらに県は金沢城を紹介するHPも充実させ、日本語や英語版に加えて中国語や韓国語版も新たに作成し、台湾や中国、韓国からの観光客に金沢城の魅力を発信する。

 県は「北陸新幹線金沢開業を前に金沢城の魅力を高め、誘客につなげたい」(公園緑地課)としている。

206荷主研究者:2012/03/31(土) 19:29:48

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20120218/723686
2012年2月18日 下野新聞 朝刊
新たに石列と石組を発見 唐沢山城跡の遺構調査

 【佐野】2013年度内の唐沢山城の国指定史跡化に向けて調査を進める市教委は25日、本年度の発掘成果を公開する現場説明会を開く。前年に続き、城主の下屋敷があったと考えられる「御台所」(約90メートル×約45メートル)の発掘に重点が置かれ、縁辺部で新たに石列や石組みが確認された。市教委は「今後の調査に期待が持てる発見」と評価している。

 唐沢山城は戦国時代に築かれたとされる山城。市は史跡化を目指して、08年から5カ年事業で調査しており、13年7月に国へ申請する方針を固めている。12年度は報告書作成などが中心となるため、本格的な遺構調査は本年度が最後だという。

 17日には報道陣に現場が公開された。本年度は御台所の北東で30メートル以上の石列が見つかり、下層を調べると、1辺20〜30センチの四角い平石が4個見つかった。上面は平らで、市教委は「庭園の足場に使われた飛び石の可能性もある」と説明する。

 北西部の下層では、約2・3メートルの等間隔に並ぶ石組みを確認。斜面の縁に沿う形であることから、塀などの名残とも考えられるという。御台所の周りの堀と土塁に関しては、山際まで約300メートルにわたって広がっていることが判明し「御台所の重要性をさらに裏付ける結果となった」

 説明会は田沼高東側で25日午後1時30分から。同日午前10時からは文化会館小ホールで、奈良大文化財学科の千田嘉博教授(城郭考古学)が「唐沢山城から見た日本の城」と題して講演する。講演会は事前予約が必要。

 申し込みや問い合わせは市生涯学習課電話0283・61・1174。

207荷主研究者:2012/04/08(日) 16:12:56

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20120222/CK2012022202000117.html
2012年2月22日 中日新聞
豊富な資料、研究成果も 彦根城博物館、開館25年

開館25年を迎えた彦根城博物館=彦根市金亀町で

◆課題は設備老朽化、学芸員定着

 「近世の大名文化の発信」をテーマに掲げる彦根城博物館(彦根市金亀町)が11日、開館25年を迎えた。古文書や美術工芸品など井伊家から寄贈された約4万点の資料を基に、能装束などの大名道具や彦根藩政の研究を進めてきた。一方、老朽化した設備の買い替えや学芸員の早期離職など悩みも抱える。これまでの歩みと課題を探った。

 館は、井伊家伝来の江戸時代後期の絵図などを参考に、藩政をつかさどった「表向き」と、藩主の生活空間「奥向き」を備えた表御殿を復元し、1987(昭和62)年に開館した。延べ床面積は4863平方メートル。事前の発掘調査で、表御殿の遺構と絵図が一致していることが判明、忠実に再現できた。

 館は寄託の1万4000点を含む8万4000点を所蔵。国宝(彦根屏風)が1件あり、井伊直弼の大老在任中の幕末外交文書、藩政や幕政に関する文書を総称した「彦根藩井伊家文書」(2万7800点)を含む重要文化財(重文)が4件ある。

 文書は使途がなく廃棄されるが、国替えのなかった彦根藩では残りやすかった。国宝9件、重文59件を所蔵する徳川美術館(名古屋市)の企画情報部長小池富雄さん(58)は「これだけの文書が散逸せずに残っているのは旧大名家の中でも珍しい」と高く評価する。

 研究も盛んだ。これまでに、幕末の政治史や藩政、大名の儀礼を彦根城博物館叢書(そうしょ)にまとめた。全7巻は直弼の評価など各研究の基礎資料として役立っている。彦根藩士の役職や経歴を記した「侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」を翻刻し、既に12巻を刊行した。彦根の歴史を読み解く貴重な資料となっている。

 だが課題も多い。温度や湿度を管理して資料を保存する空調設備は開館当時のもので老朽化が心配。旧型で部品も少なく、新たに購入すると「何億円にもなる」(市幹部)。市は財政難で予算計上できないのが実情だ。

 学芸員の離職も気がかりだ。現在、学芸員は7人。だが、これまでの学芸員の離職者は13人に上る。中には大学教授になった人もいるが、大半が5年未満で辞めており、研究成果が蓄積されにくい。

 活路の一つは集客維持にありそう。2010年度の入館者数は15万3980人で県内の博物館では二番目。集客は予算にも響くが、本年度も上向きで好調だ。彦根城や、館に登場するひこにゃんに引っ張られる形だが、館は「うちの良さをPRしたい」と広報に力を注ぐ。

 08年度から、小学校や自治会に学芸員が出向き、歴史などを教え、地域とも連携している。「入館者は観光客が多い。市民が親近感を持ち、訪れてもらえるようにしたい」と西田哲雄副館長。佐和山城など地域史の展示を続けるなどし、打開策を練っている。

 (古根村進然)

208荷主研究者:2012/04/18(水) 01:12:49

http://kumanichi.com/news/local/main/20120305004.shtml
2012年03月05日 熊本日日新聞
熊本城の城門土台発見 加藤、細川時代の参道も

細川時代の櫓門の土台部分(右)について県教委文化課から説明を受ける地元住民ら。写真左が九州新幹線高架橋=熊本市

 県教委は5日、県のJR鹿児島線連続立体交差事業に伴う熊本市新町・横手地区の埋蔵文化財調査で、細川時代の熊本城の城門の土台や、加藤、細川両時代の菩提[ぼだい]寺につながる参道などが見つかったことを明らかにした。

 同調査検討委員長の甲元眞之・永青文庫研究センター長は「熊本城西側の全体構造が判明した。国民の共有財産」と評価。同検討委は、国の史跡に追加指定すべきとして2月末、県教委に意見書を提出している。

 調査は、高麗門踏切〜下馬天神踏切の約200メートル区間で昨年7月から2期に分けて実施した。

 県教委文化課によると、高麗門踏切そばには加藤清正が慶長3(1598)年ごろ、熊本城西方からの敵を防ぐため築いた高麗門があった。細川時代に櫓門に建て替えられたが、明治初期には解体されている。

 同踏切北側で、櫓門の土台だった土が固められた跡(3×14メートル)を確認。門柱の礎石下の根固め石も発見された。細川家家紋が入った瓦や清正時代の慶長4年の瓦も見つかり、高麗門もほぼ同じ場所にあったとみられている。

 また、両踏切区間では、土層断面に時期の異なる道路面も見つかった。加藤家の重臣らの菩提寺への参道を、後の細川家が拡張整備した跡と考えられている。

 同調査区間は鹿児島線高架橋の建設予定地にかかっており、2013年度末に上下線とも高架に切り替わる計画。県鉄道高架推進室は「文化財をどう保護できるか、JRと協議し、対応を検討したい」と話している。

 5日には地元住民ら約100人が参加し、現地調査報告会があった。(川崎浩平)

209荷主研究者:2012/04/25(水) 00:51:09

http://www.minyu-net.com/news/news/0320/news6.html
2012年3月20日 福島民友ニュース
小峰城跡の石垣撤去開始 復旧作業、観光活用へ

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/0320news6.jpg
震災で崩れた白河小峰城跡の石垣。重機を使って石の撤去作業が始まった=19日午後

 東日本大震災で被災した白河市の国指定史跡・白河小峰城跡の石垣撤去作業が19日から始まった。市教委によると、完全な復元は5〜7年かかる見通しで、復旧作業自体を観光に生かそうという試みも検討。復旧過程を公開することで観光振興に役立てたい考え。

 今後は崩れた石に番号を付けた上で石垣を撤去、石垣の背面状況も記録する。撤去した石垣は安全対策を講じた上で、同城がある城山公園内などに設置し、再利用できるかなどを詳しく調べる。石垣が崩れた原因も調査し、復旧状況の記録化もしていくという。

210荷主研究者:2012/04/25(水) 00:56:40

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1203230019/
2012年3月23日 神奈川新聞
小田原市が史跡を先行公開へ、三の丸外郭新堀土塁など暫定整備完了/神奈川

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暫定整備が完了、公開される三の丸外郭新堀土塁=小田原市城山

 小田原市は、暫定整備を進めてきた「小田原城跡・三の丸外郭新堀土塁」(同市城山)と「早川石丁場群」(同市早川)を今週末から公開する。

 三の丸外郭新堀土塁は北条時代末期、豊臣秀吉との対決に備えて小田原城の守りを強化するために造られた。周囲約9キロの長大な「総構(そうがまえ)」の最も外側で、侵攻の拠点だった石垣山に面している。

 公開するのは、アジアセンター跡地だった場所で広さ約1万2千平方メートル。同市が2008年2月に購入し、安全確保のためのロープや説明板などを設置した。

 市は、周辺が史跡や別邸巡りのルートにあることから先行公開を決定。国指定史跡になっており、史跡公園として引き続き整備する予定。

 早川石丁場群は、県の広域農道工事に伴って05年度に発掘調査、江戸城の石垣用に巨石を切り出した「生産遺跡」であることが確認された。

 文化庁から国指定史跡に値する遺跡と評価されたことから保存し、切り出した当時の様子が分かる約450平方メートルを暫定整備。出入りの階段や観覧台などを設けた。

 公開は、三の丸外郭新堀土塁が24日から、早川石丁場群は25日から。三の丸外郭新堀土塁は住宅街にあるため、防犯上の配慮から午前10時〜午後3時とする。

211荷主研究者:2012/04/25(水) 01:08:44

http://www.at-s.com/news/detail/100110956.html
2012/3/29 09:14 静岡新聞
韮山城を本格調査 北条、豊臣の攻防解明 伊豆の国市

 伊豆の国市は新年度から、同市の韮山城跡の本格的な整備に向けた調査を開始する。戦国大名の北条氏(後北条)の拠点だった同城の全体像を解明し、貴重な歴史資源の保護につなげる。

 調査では本丸などのある「主郭部」や同部の南側の山域にある「天ケ岳砦(とりで)」に至る尾根筋の樹木を伐採し、当時の遺構を明らかにしていく。専門家の協力を得て、城内の建物の配置などを記した「縄張り図」の作成も進める。

 同市文化振興課によると韮山城は1500年前後、伊豆地方へ進出した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって築城された。豊臣秀吉による小田原攻め(1590年)の際は、北条氏側の拠点として約3カ月間の籠城戦に耐えたという。1601年に廃城となった。

 市は今後、豊臣方が韮山城を攻めるため使用した周辺の「陣城」も調査する予定。担当者は「今まで知られていなかった北条、豊臣両陣営の攻防の様子を明らかにし、北条氏に関連する自治体との連携も進めていきたい」と話している。

212荷主研究者:2012/04/28(土) 15:20:22

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20120330/CK2012033002000141.html
2012年3月30日 中日新聞
松本城の人気上昇 歴史ブーム、ドラマが背景

年間の入場者数が12年ぶりに70万人を突破した国宝松本城=松本市で

 2011年度の国宝松本城の入場者が、12年ぶりに70万人の大台を突破した。近年の歴史ブームや松本地域が舞台のテレビドラマの放映や映画の公開などが人気を後押ししたとみられる。松本市は観光客を中心市街地に呼び込み、街の活性化につなげたい考えだ。

 11年度の入場者数は2月末時点で74万1458人(前年度比9・6%増)で、1999年度以来の70万人超えを達成した。2000年代は旅行離れもあって一時低迷し、05年度には過去最低の53万3517人を記録したが、その後は増加の傾向にある。

 増加の背景としては、NHKの大河ドラマで06年以降、戦国時代が舞台になった作品が続き歴史ブームが起きたことや、連続テレビ小説の「おひさま」や映画「岳−ガク−」「神様のカルテ」が公開され、松本地域の観光客が増えたことがある。

 バブル期に多かった団体客が減り、65歳前後の団塊の世代がグループで来場しているケースが多い。東京電力福島第1原発事故の影響で外国人客が一時激減したが、今年に入ってアジアからの観光客が戻りつつあるという。市松本城管理事務所の担当者は「70万人を超えたのは非常にうれしい。今後は松本城の入場者を、市街地に呼び込めるよう方策を考えていかなければいけない」と話している。

 (出来田敬司)

213荷主研究者:2012/04/28(土) 15:25:42

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20120330/CK2012033002000173.html
2012年3月30日 中日新聞
金沢城玉泉院丸跡 石垣復元 13年度着工

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2014年度末までの完成を目指す玉泉院丸跡の先行整備計画イメージ図=県提供

新幹線開業へ庭園先行整備

旧体育館道路も撤去

 金沢城公園西側の玉泉院丸庭園跡の調査と整備方針を協議する県の検討委員会(委員長・飛田範夫長岡造形大教授)の会合が二十九日、県庁であり、新幹線開業に合わせ二〇一四年度末に完成させる庭園部分の整備計画をまとめた。石垣の復元や道路の撤去などを盛り込んだ。一三年度に着工する方針。 (室木泰彦)

 計画では、旧県体育館の出入り用道路の整備時に壊された石垣を復元し道路を撤去。庭園前の石垣が連続する景観が生まれ、石垣前の緑地が広がる。

 丸の内駐車場側の鼠多門跡は、歴史的価値を理解できるように江戸期の絵図に基づき鼠多門の跡を表示する。

 県中央公園側の入り口も、城郭本体の門と誤解しないように形状を簡素化。階段の勾配も緩め、石垣の遺構保護に配慮する。

 検討委は、庭園の価値として▽滝の流れ、滝石の配置、大小の島がある池、複数の橋がある回遊式大名庭園▽池の水源は兼六園と同じ辰巳用水▽意匠性の高い色紙短冊形に積まれた石垣との造形美が際立ち、池底から石垣最上段まで高低差二十二メートルの立体的な構造−などを挙げ「他に例がない貴重な庭園」と評価した。

 当初は発掘調査優先の方針だったが、金沢の魅力アップにつなげようと、新幹線開業までに庭園部分を先行整備することにした。一五年度以降は、発掘調査結果や絵図などに基づく本格整備に移行する。県は、秋ごろ開く会合で基本設計案を示し一三年度に整備を始める考え。県は今後の検討委で丸の内駐車場側の整備方針も検討課題に加える方針を伝えた。

 玉泉院丸  広さは約2ヘクタールで、加賀藩主前田家の重臣屋敷があったとされる。2代藩主前田利長が高岡で亡くなり、金沢へ戻った妻の玉泉院(永姫)の屋敷が置かれ名が付いた。

214荷主研究者:2012/04/30(月) 10:49:50

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120406/CK2012040602000206.html
2012年4月6日 中日新聞
「家康の城」発信 静岡・駿府城跡で整備本格化

公園改称、石碑がお目見え

坤櫓の完成予想図

 静岡市は4月から、徳川家康が市中心部に築城した駿府(すんぷ)城跡の再整備を本格化させている。第1弾として、1日から駿府公園を「駿府城公園」に改称。当時の武具倉庫「坤櫓(ひつじさるやぐら)」の再建工事にも着手した。天守閣の再建を求める市民団体は、再整備を機に議論の高まりを期待している。 (奥村圭吾)

 ◇駿府“城”公園

 5日午前、園内の一画に「駿府城公園」と彫られた石碑(縦1・2メートル、横2・5メートル)がお目見えした。田辺信宏市長は除幕式で「家康が過ごした名物城の歴史を広く伝えたい。大勢の観光客に足を運んでもらえれば」とあいさつした。

 改称は昨年4月に就任した市長の選挙公約。300万円をかけ、周辺の観光看板も付け替えた。城跡だった史実を公園名に入れ、家康ゆかりの地として栄えた歴史的価値を全国発信し、誘客を狙う。

公園の一画にお目見えした「駿府城公園」の石碑=静岡市葵区の駿府城公園で

 ◇やぐらの復元

 坤櫓は6億3000万円を投じ、公園南西部に2013年度末の完成を目指す。木造2階3層建て延べ480平方メートル。県産木材を材料に、くぎをなるべく使わない伝統工法で建てる。公園整備課は「多くの人に城跡の魅力を肌で感じてもらえる」と完成を待ち望む。

 ◇天守閣再建の議論

 市が08〜10年度に設けた有識者の検討委員会は「正確な設計図が見つからない現時点では復元すべきでない」と結論付けた。200億円近い建設費もネックだが、複数の市民団体が「観光資源や市の象徴として再建するべきだ」と市への要請を続けている。

 昨年5月に公園の改称と天守再建を市に要望した市民団体「平成の駿府城をつくる会」の安池康之事務局長は「願いがかなってうれしい。再建に向けた議論が熱を帯びるきっかけになる」と期待する。田辺市長は「再建は財政面も含めて市民の議論に委ねていきたい」と見守る構えだ。

駿府城跡 静岡市が1949年に国の払い下げを受け、駿府城の本丸と二の丸部分18ヘクタールを「中央公園」として整備。51年には市民公募で「駿府公園」に改称された。

 駿府城は本丸が完成した1607年に失火で御殿や天守閣、本丸が焼けた。再建されるが、28年後に全てを焼失した。市は1989年に巽櫓(たつみやぐら)、96年に東御門を再建した。

215荷主研究者:2012/05/13(日) 16:23:31

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1204260026/
2012年4月27日 神奈川新聞
小田原城跡・八幡山古郭、市が一部用地取得へ/小田原

 小田原市が整備を目指している小田原城跡・八幡山古郭で、同市は一部用地(同市城山)の取得を26日までに決めた。市の保存管理計画で「優先的に国史跡の追加指定を図る」とされている場所。遅れていた整備が進む弾みにもなりそうだ。

 市文化財課によると、今回取得が決まった用地は、小田原城址公園の北西側にある住宅地の一角。広さ約1200平方メートル。2010年4月に史跡公園として整備した八幡山古郭・東曲輪(ひがしくるわ)に隣接する。

 この場所は、民間業者による宅地造成が計画されていた。市が10年度に策定した保存管理計画で周辺が優先的に史跡指定すべき場所に位置付けられ、市が11年10月に実施した調査で戦国時代の堀などが確認されたため、取得協議が行われていた。

 業者の同意を得たことから、市土地開発公社が今月中旬に売買契約を締結。取得額は約1億3千万円。国の史跡指定を受けた後、9月以降に市が購入する予定。

 さらに、追加指定が求められる場所として同公園の後背地もある。公有地化の必要性は既に所有者に伝えているという。取得協議が進展すれば、八幡山古郭の一体的な整備が進む可能性も高まる。

 八幡山は大森氏が15世紀に築城した初期の小田原城の中心地。眺望の良い海抜約70メートルの尾根に山城として建設された。その後、奪取した北條氏以降、規模を拡大しながら、現在の城址公園一帯に移動していったとされている。

 こうした二極構造が小田原城の特徴の一つとされるが、八幡山の整備は城址公園のある本丸・二の丸地区に比べて遅れているのが現状。東曲輪の史跡公園もマンション開発に端を発して公有地化された。

 八幡山古郭のうち東曲輪は城址公園に面しており、周辺に広がる城郭跡「総構」を巡る玄関口にも位置付けられている。現在は住宅地だが、老朽化した空き家や未利用地も見られる。

 同課は「具体的な整備計画の策定は14年度以降になる。ただ、今回のように開発検討のタイミングを逃さず、公有地化の協議をしていきたい」と話している。

216荷主研究者:2012/05/27(日) 12:04:21

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120506t55005.htm
2012年05月06日日曜日 河北新報
本拠地論争、本丸へ 米沢市教委、舘山城を今月から現地調査

 仙台藩祖伊達政宗(1567〜1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城について、米沢市教委は今月中旬から初めて本丸部分を含めたエリアの現地調査をする。現在の上杉神社の場所にあった平城の米沢城との「本拠地論争」を終結に導く新事実の発見が期待されている。

 市教委は2001年、舘山城北側から家臣団のものと推測される武家屋敷跡を発見した。これを受けて10年、舘山城一帯約28万平方メートルを対象に現地調査を開始。昨年、二の丸部分に当たる本丸東側の平地から、庭園や井戸などを有した屋敷跡を見つけた。伊達家の時代に城主級の武将が使ったとみられる。

 今回は主に(1)東側平地で昨年発見された大きな丸柱周辺にあると推定される大手門遺構の確認(2)東側平地につながる通路の特定など本丸の調査(3)北西部の川岸にある石垣を含めた未確定の敷地範囲認定−を進める。

 舘山城は、政宗の祖父晴宗が1548年に西山城(福島県桑折町)から米沢に拠点を移した際の主要な城だとされているが、不明な点が多かった。文献では(1)政宗の父輝宗が隠居先に使った(2)政宗が整備を進めていたが1591年に豊臣秀吉の命令で岩出山城(大崎市岩出山)に移る際に取り壊した−などの事実しか裏付けられていない。

 市教委は、二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地するという仙台城との酷似点に着眼。二の丸などの居館を周辺に配する構造は岩出山城とも共通しており、「今回、舘山城が仙台城の原形になったことを裏付けたい」(文化課)と考えている。

 2014年度まで現地調査を進め、15年度の国の史跡指定を目指す。将来的には一帯を伊達家の歴史を伝える公園として整備することも視野に入れている。

 安部三十郎市長は「調査を受け、上杉の前には伊達の歴史があった場所として米沢が広く認識されていくといい」と期待している。

217荷主研究者:2012/07/01(日) 11:23:18

http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13390746668253
2012年6月8日(金)茨城新聞
水戸城大手門、斉昭時代に再建か 市教委発掘調査、土塁から瓦と側溝

【写真説明】発掘調査で発見された側溝=水戸市三の丸2丁目の水戸城大手門跡

 水戸市教育委員会による水戸城大手門跡の発掘調査で、大手門は何らかの理由で再建されていたことが、7日までに分かった。大手門は明治時代以降に取り壊されており、門跡の土塁から再建前の門に付いていたとみられる瓦などが出土。初代藩主徳川頼房の時代に造られた可能性のある側溝も見つかった。調査成果について、同教委文化課は「水戸城の歴史を推測するのに重要な情報が得られた」という。8日午後から、埋め戻し作業を行う予定。

 調査箇所は、同市三の丸2丁目の茨城大付属小学校敷地内にある大手門跡の土塁。下部から側溝を発見するとともに、中ほどに瓦の層と白壁に使われたしっくいの層が見つかった。格式の高い水戸徳川家の三つ葉葵(あおい)の入った直径15センチの丸瓦も出土した。

 この丸瓦は格式の高さから大手門以外の使用は考えられず、丸瓦が出土した土塁は大手門が取り壊された明治以降に再構築された可能性はないことなどが決め手となり、再建前の門のものと断定。同時に、9代藩主斉昭の時代のものとみられる茶わんのかけらも出土したことから、再建は斉昭時代と推測される。

 県の文化財保護審議会会長で、日本近世史が専門の鈴木暎一茨城大名誉教授(73)は「水戸城の土塁はこれまで研究されていない。どのように出来たのか、造成過程が分かる。城全体の研究にも役立つ」と評価する。

 側溝は幅40センチ、内径20センチで2代藩主光圀が整備した笠原水道と同一の地元産石材「神崎石」(凝灰質泥岩)が使われ、工法も同一。また、頼房の時代に城を大改修した記録が残っていることから、江戸初期に造られた可能性がある。

218荷主研究者:2012/07/08(日) 14:54:31

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/06/20120616t13032.htm
2012年06月16日土曜日 河北新報
仙台城跡本丸跡西側、国史跡追加指定へ 石垣修復に弾み

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国史跡に指定される見通しになった仙台城本丸跡西側の石垣(仙台市教委提供)

 仙台市青葉区の「仙台城跡」本丸跡西側の山林約2.4ヘクタールが15日、国史跡に追加指定される見通しになった。文化審議会が同日、追加指定を答申した。これに伴い、東日本大震災で崩れた石垣の修復に弾みがつくとみられる。

 追加指定される山林に残る江戸期の石垣「切石積」(全長約200メートル)は震災で3カ所、約60メートルにわたって崩落。民有地のため国の災害復旧事業が適用されず、市道仙台城跡線が通行止めのままとなっている。

 指定範囲にはこのほか、石垣で囲われた「酉門(とりのもん)跡」や番所跡などが入っている。土塁で囲った「曲輪(くるわ)」と呼ばれる区画も良好な状態で保存されている。

 仙台城跡は約103ヘクタールのうち、約68ヘクタールが国史跡に指定されている。

219荷主研究者:2012/08/12(日) 21:12:32

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120705103.htm
2012年7月5日03時22分 北國新聞
七尾城跡、全山に精巧な防御構造 石垣など広がる

 七尾市教委の七尾城跡石垣調査委員会は4日までに、石垣など石の構造物が城内に約380カ所あることを確認した。分布が広範なことから、日本最大級の山城である七尾城は全域にわたって精巧な防御構造を備えていたことが明らかになった。同市教委は今後も調査を続け、2015(平成27)年度以降に石垣などの整備を図る。

 同委員長の谷内尾晋司石川考古学研究会会長らが4日、同市役所で調査の中間報告をした。

 約380カ所のうち約100カ所は石垣と見られ、野面積みの石垣は、防御や土留め、装飾などそれぞれ異なる機能を持つことも分かった。七尾城は前田利家によって大改修を受けたという説もあるが、分布が広範であることから、「利家入城後の約1年間で構築するのは無理がある」(文化課)という。

 この調査で、現在の大手道以外に、西側の麓から山上に向かう新たな道筋が確認された。道中には巨石「九尺石」を使ったものなど、数カ所の枡形(ますがた)があった。

 谷内尾委員長は、能登畠山氏と姻戚だった南近江守護の六角氏の観音寺城(滋賀県近江八幡市)も多くの石垣を備えた山城と指摘。「積み方などから畠山氏の時代と見られる石垣もあれば、利家入城以降の石垣と見られるものもある。調査で全容を明らかにしたい」と話した。

 同副委員長の東四柳史明金沢学院大教授は「戦国中後期に、六角氏と能登畠山氏が交流する中で、南近江の石(いし)工(く)集団が七尾に招かれて築城に関わっても不思議ではない。観音寺城との関連も含め、詳細に調査しなければならない」と語った。

220荷主研究者:2012/08/12(日) 21:29:35
>>219
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20120705/CK2012070502000179.html
2012年7月5日 中日新聞
七尾城石垣 新たに50基 二の丸北など 広範囲の分布確認

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今回の調査で新たに確認された石垣=七尾市の七尾城跡で

 七尾市教委は四日、国指定史跡七尾城跡(同市古城町ほか)の石垣調査結果(中間報告)を発表した。二の丸の北側などで新たに五十基を確認し、計百基の石垣が山上から山麓まで全域に分布することが分かった。

 七尾城は十六世紀初期に能登国の守護大名だった能登畠山氏が築いた山城。上杉謙信の侵攻を受け一五七七年に陥落、八一年には前田利家が入城した。城域は約二百ヘクタール。畠山氏が造成し、本丸周辺の石垣は前田氏が改修したとみられる。

 調査は二〇一〇年に開始。石材は石垣のほか、土留めや防御にも使用され、計三百八十カ所に及んだ。城の正面に達する重要な道の跡や曲輪(くるわ)(造成された平らな面)と曲輪を結ぶ通路も確認した。

 調査を指導した七尾城跡石垣調査委員会(谷内尾晋司委員長)の委員の千田嘉博奈良大教授(城郭考古学)は「広範囲に石垣が築かれ、畠山氏(時代)の七尾城の先進性と壮大な規模が明らかになった。戦国時代から近世移行期にかけた能登の歴史を考える重要な発見」と評価している。

 市教委は今後、城の構造や変遷、石垣の性質などを検討して一四年度ごろに報告書をまとめる。崩落の危険がある石垣の測量も実施。発掘調査や保存整備につなげる。 (小畑一成)

221荷主研究者:2012/08/12(日) 21:30:06

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20120701/CK2012070102000191.html
2012年7月1日 中日新聞
金沢城「三御門」復活へ 橋爪門が起工

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起工式の後に公開された橋爪門の復元工事現場を見学する来園者たち=金沢城公園で

 金沢城で特に重要な役割を果たした「三御門(さんごもん)」の一つ、橋爪門の復元工事を前に起工式が三十日、金沢城公園内であった。焼失から百三十年余りを経て、当時の景観がよみがえる。二〇一五年春に完成予定。現存する石川門、一〇年に再建された河北門と合わせ、三御門がすべてそろう。(日下部弘太)

15年春完成 焼失から130年余

 橋爪門は藩主が住む二の丸御殿の正門にあたり、二つの門で構成。一の門と隣接するやぐらは〇一年に復元された。今回、二の門と周囲の土塀を再建して復元が完了する。

 二の門は高さ一二・八メートル、幅一四・四メートル。門内に来訪者を調べる「番所」があった。藩政期に大火に二度遭い、そのたびに建て直されたが、一八八一(明治十四)年に再び焼けた。

 県は一〇年から現場を発掘し、礎石や柱の位置を調査。かつて再建された際の日誌や城の絵図も確かめ、門を設計した。当時と同じく継ぎ目に金物を一切使わない工法を用いる。

 起工式で、谷本正憲知事は門の完成と同時期までに予定される北陸新幹線の開業に触れ「全国の人に、門が復元された金沢城の勇壮な姿を見てもらいたい」とあいさつ。市内の「御山(おやま)まつり保存会」が、石垣を造るときに大岩を引いた様子を再現して盛り上げた。現場では職員らが説明した。

 五千円を寄進し、門の壁板と土塀の瓦の裏面に名前を記す企画の募集も始めた。問い合わせは、県公園緑地課=電076(225)1772=へ。

222荷主研究者:2012/08/13(月) 23:16:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120716/CK2012071602000073.html
2012年7月16日 中日新聞
守れ飯田城趾 住民“のろし”

◆森町で保存会結成

約100年前に飯田青年会が建てた石碑=森町飯田の飯田城趾で

 築城は600年ほど前にさかのぼるという森町の「飯田城趾(じょうし)」の整備に、地元の住民らが乗り出した。徳川と武田の攻防の舞台にもなったとされる山城跡だが、現在は荒廃農地が広がるばかり。新東名高速道路の開通を機に、地域の文化遺産を後世に伝えようと6月、住民が保存会を結成した。

 飯田地区は新東名森掛川インターチェンジから直線で三キロほど。遠方からも訪れやすくなった上、城趾周辺の荒廃農地をクリ園に改植する動きがあることから、整備・保存への機運が高まった。

 人々の間には「地域のシンボルを守り、顕彰することで地元の振興につながる」「住民同士のつながりを深めたい」といった期待もある。保存会の結成には、土地所有者を含めて約百人が参加した。

 城の主郭付近には現在、百年前に地元の青年会が建てた二・五メートルほどの石碑がある。青年会は毎夏に草刈りや供養を続けているが、八年ほど前に地域の共同茶工場が解散すると、城趾にある茶園に手が入らず荒れ放題になった。

 今後の整備について、保存会は遺構にはできるだけ手を加えず、倒木や雑草を取り除き、桜やショウブを植えたり、駐車場を確保したりして、四季折々に散策が楽しめる場を目指す考え。歴代城主山内氏の菩提(ぼだい)寺で、城趾の一角に立つ崇信寺に資料館を造る構想もある。

 七月中にも町教育委員会の立ち会いで木を切り、遺構の状態を分かりやすくする。保存会の鈴木広一郎会長(63)は「観光化を目指そうという気持ちはない。城趾にはいい空気がある。疲れた現代人のよりどころになれば」と話している。

(袋井通信部・河野貴子)

 <飯田城趾> 室町時代の1400年ごろ、飯田山内氏の初代、道美(どうび)が築城したとされる。1500年代後半、遠州での覇権を争う徳川家康や武田信玄に攻められた。落城後の歴史は不明。発掘調査は行われていないが、実測を基に城の様子を示す縄張図が作られた。1978年、約1600平方メートルが町の指定文化財になった。

223荷主研究者:2012/08/17(金) 18:10:19

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20120728/CK2012072802000006.html
2012年7月28日 中日新聞
飯田城の遺構「脇坂門」を元の場所に

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市の有形文化財に指定されたころの脇坂門=飯田市美術博物館前で(飯田市提供)

 飯田市は、飯田城の遺構「旧飯田藩馬場調練場の門(通称・脇坂門)」を、調練場があったとされる旧飯田測候所敷地に戻すため、検討を進めている。一八六九(明治二)年に移築されたという説もあり、百四十年ぶりに元の場所に戻されることになる。飯田城の遺構を管理している会社から六月に寄付を受けており、同測候所跡の整備に合わせ、二〇一三年度以降に設置する見通し。

 脇坂門は、飯田城主脇坂氏の家臣の屋敷が近くにあったことから、こう呼ばれるようになった。正面の間口は約五・四メートルで、切り妻造り。調練場の門として使われたとみられている。

 調練場から移築された後、城から払い下げられたものを管理する協同合資会社が管理、市美術博物館前に設置されていた。一〇年に市の有形文化財に指定され、今年六月に、同社から寄贈を受けた後は、市の施設に解体保管されている。

 今年四月に国の有形登録文化財指定が決まった同市馬場町の旧飯田測候所では、残った庁舎の補強や周辺の公園化整備を本年度に進める。脇坂門については、一三年度以降の設置となる。

 飯田測候所周辺では、武家屋敷の雰囲気が残る通りや、菱田春草の生誕地整備事業が予定されている場所もある。地域づくりを進める橋北まちづくり委員会の梨子田善則会長は「地域一帯を古い歴史を感じられる場所にしていきたい」と期待をかける。 

 (吉田幸雄)

224荷主研究者:2012/08/17(金) 19:40:23

http://yamagata-np.jp/news/201207/31/kj_2012073100765.php
2012年07月31日10:54 山形新聞
政宗生誕地、可能性高まる 米沢・舘山城跡で説明会

舘山城跡で見つかった水路遺構=米沢市

 仙台藩主伊達政宗との関わりが指摘されていた米沢市の舘山城跡の発掘調査現地説明会が30日開かれ、市教委は新たに16世紀ごろのかわらけ(素焼きの土器)の破片などが発見されたと発表した。これにより城が日常的な生活の場だったことが証明され、この時代に米沢を支配していた伊達家の中心的居城で、政宗生誕の地である可能性がさらに高まった。

 舘山城は、小樽川と大樽川が交わる丘陵地の山城で、16世紀の伊達晴宗、輝宗、政宗3代の時代の城であることが分かっている。今回の調査では、山の麓にある入り口「大手口」から山頂にある本丸の玄関口「虎口(こぐち)」までの通路と、虎口周辺の計約140平方メートルを調査。通路の途中から、かわらけや土鍋などの破片約50点が見つかった。発見場所の上部にある本丸から流れてきたとみられ、本丸が日常的な生活の場だったことが分かった。

 他に、通路部分の道幅が約3.6メートルだったことや、虎口部分から長さ7メートルの水路遺構が発見されたこと、床に当たる部分が粘土を張り付けた構造になっていることなどが報告された。通路の大半は崩落しており、政宗が米沢から岩出山城(宮城県大崎市)に移る際、故意に破壊した可能性が高いという。

発見されたかわらけの破片など

 政宗は米沢生まれで、24歳までを過ごした。生誕地の「米沢城」は現在の上杉神社の場所にあったとされてきたが、政宗時代に書かれた書物には「城は山の上にあった」との記述があることから、舘山城が生誕地との指摘もされていた。本年度は10月ごろに調査を再開し、城跡北側の石垣を調べる。予定していた本丸部分は来年度調査する。市教委は「伊達家の家紋が入った器などが見つかれば、生誕地と証明される」と話している。

225荷主研究者:2012/08/23(木) 23:49:58

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1208090013/
2012年8月9日 神奈川新聞
全国的に珍しい、小田原城跡で「瓦積塀」の一部を立ったままの状態で発見/小田原

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御用米曲輪跡

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御用米曲輪で見つかった江戸期の瓦積塀(小田原市提供)

 小田原市はこのほど、2010年度から史跡発掘調査を進めている小田原城址公園(同市城内)の「御用米曲輪」で江戸時代中期以降に造られた「瓦積塀」の一部が見つかったと発表した。立ったままの状態で発見されるのは全国的にも珍しいという。同市は18日、市民見学会を開催して公開する予定。

 今回の調査地は、同公園内にある天守閣の北側、江戸幕府へ送る米を保管していた場所。当時の絵図に複数の米蔵が描かれており、管理が厳重な区域だったとされている。

 見つかった瓦積塀は2カ所。1カ所は長さ約2メートル、幅約0・9メートル、高さ約1・3メートル(最大)。内部に瓦が19段積み上げられた土塀になっている。実際の壁の長さは5メートル以上あったとみられる。

 もう1カ所は、同市根府川周辺で産出される平たい石(根府川石)の基礎部分と、積み上げられたと思われる瓦が確認された。

 約10メートル離れた両塀の前面には、約1・6メートル間隔で柱の跡、後面に石積みもある。瓦積塀は江戸期に起きた大地震で壊れた建物の瓦を再利用。強度が高いことから、屋根を設けて火薬庫などの建造物にした可能性があるという。

 小田原城の建造物は、明治時代に入り、ほぼすべて解体された。唯一残っていた二の丸平櫓も関東大震災で倒壊した。

 現在見られる瓦積塀としては、戦後造られた同市板橋の市郷土文化館別館「松永記念館」がある。

 市文化財課は「火薬庫とすれば、戦乱の時代が終わって利用は減った。斜面の土砂が崩れて埋もれても放置され、残ったのではないか」と推測している。

 広さ約1万8千平方メートルの御用米曲輪では、昨年度に戦国時代の障子堀跡が確認。今回も瓦積塀以外に、大規模な建造物(礎石建)跡が出ているなど、興味深い遺構の発見が相次いでいる。

226荷主研究者:2012/09/17(月) 10:10:57

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208150036.html
'12/8/15 中国新聞
福山城石垣、撤去3年も…

 福山市がJR福山駅南口の地下送迎場の整備に伴って、福山城の外堀遺構の一部である石垣を撤去して3年になる。400年前の歴史遺産とみられる約680個で、市内のごみ処分場跡地で保管。管理する市教委はモニュメントの材料や福山城の石垣の修繕での活用を想定するものの、今も具体的な予定はない。

 駅前から北東に6・5キロ離れた同市春日町宇山の山中にある処分場跡地。白色で数字の書き込まれた石が整然と並ぶ。周囲の草は市教委が年2回、刈り取っている。

 福山城は、初代福山藩主の水野勝成が築いた。石垣があった外堀も当時の築造とみられている。とりわけ貴重とされたのは水路を通じて荷を積んだ船が出入りした舟入遺構。海に面しており、全国でも珍しいという。

 市は2005年、遺構の撤去を伴う地下送迎場の整備を公表した。しかし、保存を求める市民の要望を受けて08年、舟入遺構を含む6割余りの外堀遺構を地下に埋め戻して残す計画に変更した。

 延長183メートルの石垣は、舟入遺構以外で地下送迎場の出入り口などに当たる65メートル区間を撤去した。09年6〜11月、石の元の位置が分かるように数字を書いて処分場に搬入した。

 市教委は今後、福山城の保存管理計画の策定に向けた検討の中で活用について考えるとしている。

【写真説明】外堀遺構から撤去され、ごみ処理場跡に並ぶ数字が書かれた石

227荷主研究者:2012/09/17(月) 10:43:40

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/08/20120821t13030.htm
2012年08月21日火曜日 河北新報
仙台城跡の石垣、15年度完了目標 現地で起工式

神事を行い修復工事の安全を祈った

 東日本大震災で一部が崩落した国史跡「仙台城跡」(仙台市青葉区)の石垣の修復工事が21日、始まった。現地で起工式があり、関係者約20人が工事の安全を祈願した。

 仙台城跡の石垣は、本丸西側の3カ所が高さ約5メートル、長さ約60メートルにわたって崩落。宮城県護国神社所有の私有地のため、費用面から復旧工事ができずにいた。崩落場所を含む山林がことし6月、国史跡に指定され、国の災害復旧事業が適用できるようになった。

 本年度中に崩落した石垣を全て取り除き、来年度に積み上げ工事を始める。

 復旧費用は十数億円の見込みで、市地下鉄東西線が開通する2015年度中の工事完了を目指す。

 崩落に伴い、市道仙台城跡線は、本丸詰門(つめのもん)跡から市道青葉山亀岡線との接続点までの約500メートルが全面通行止めになっている。

 奥山恵美子市長は21日の定例記者会見で「市道仙台城跡線の通行止めが、観光の痛手となっている。一日も早い復旧が必要だ」と話した。

 仙台城跡は、約103ヘクタールのうち約70ヘクタールが国史跡に指定されている。

228荷主研究者:2012/09/22(土) 18:37:54

http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13462455448962
2012年8月30日(木)茨城新聞
水戸城大手門、位置がほぼ判明 土塁から礎石跡発見

【写真説明】土塁から発見された礎石跡(中央の白線で囲まれている部分)=水戸市三の丸2丁目

 水戸市教委による水戸城大手門跡発掘調査で、大手門の位置と平面規模が29日までに、ほぼ判明した。同市三の丸2丁目の市立水戸二中敷地内の土塁から、大手門の礎石跡などが見つかり、6月の前回調査と合わせて門の四辺がおおむね確定。大手門は弘道館前の大手橋を渡った市道を横切る形で立ち、幅は約17メートル、奥行きが約5・4メートルで地表部分の面積は約91・8平方メートルとなる。市教委は「水戸城全体の歴史的価値の向上につながる」(文化課)としている。

 大手門は市道両側の土塁に接して立っており、20日に始まった今回の調査は弘道館から見て左側の水戸二中の土塁で実施。門の四隅の一角を示す礎石跡が見つかった。市教委によると、礎石は一辺の長さが少なくとも90センチを超していたと推測される。

 前回調査では、右側の茨城大付属小の土塁から一角を示す大きな礎石の一部を発掘済みで、市教委は今回見つかった礎石跡とは対であるとの見方を示す。この2点を結ぶ辺が門の幅に当たるとみられ、約17メートルあった。

 礎石跡と約5・4メートル離れた場所で、約40センチ四方の小形の礎石も発見。市教委はこの小形礎石が反対側の一角のすぐ近くにあったと推測、礎石跡との距離が門の奥行きに当たるとした。

 このほか、前回調査で判明した大手門が水戸藩9代藩主・徳川斉昭の時代に再建されていたことを裏付ける土塁の層も今回、見つかった。

229荷主研究者:2012/09/23(日) 00:13:13

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208270021.html
'12/8/27 中国新聞
広島城天守閣、完成年判明

 原爆によって倒壊した広島市中区の広島城の天守閣は、遅くとも1592年には完成していたことが分かった。広島城の学芸員が東京大に所蔵されている当時の武将の手紙に記されていることを突き止めた。専門家は「未知だった部分を解明する、極めて重要な史料だ」としている。

 武将は常陸水戸(水戸市)の平塚滝俊。豊臣秀吉の朝鮮侵略の役に参加するため、1592年(天正20)年に京都から侵略拠点の肥前名護屋(佐賀県唐津市)へ向かった。

 手紙は4月22日に到着した直後につづったとみられる。道中に見た広島城の石垣や天守閣を「見事なること申すに及ばず候」と書き記している。

 書面の写しを東京大史料編纂(へんさん)所が保管。指定管理者の「市未来都市創造財団広島城」の篠原達也学芸員(45)が今春、同編纂所のデータベースで記述を見つけた。篠原学芸員は「4月上旬には完成または、それに近い状態だったと考えられる。東国の武将の史料から手掛かりが見つかるとは思いもしなかった」と話す。

 広島城は1589年、毛利輝元が築城に着手。城下町を含む城全体は1600年に完成したが、広島藩の地誌「芸藩通志」にも天守閣の完成年は記録がない。毛利氏を研究する県立広島大の秋山伸隆教授(日本中世史)は「城の成立を考える上で役立つ」と評価している。

 天守閣は原爆で破壊された。現在の天守閣は1958年に建てられた。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20120827002101.jpg
【写真説明】昭和初期ごろ作成された絵はがきに写る初代の広島城天守閣(広島城提供)

230荷主研究者:2012/10/28(日) 21:39:56

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/wakayama/feature/wakayama1335710211332_02/news/20120429-OYT8T00769.htm
2012年4月30日 読売新聞
藩主の通路 優美に復元

新緑に映える「御橋廊下」

天守と新緑を背景に、優美な姿を見せる御橋廊下(和歌山市で)

板張りの急な坂になっている御橋廊下の内部

 伏虎山の新緑がまぶしい和歌山城(和歌山市一番丁)。その北側の堀に6年前、長さ27メートル、幅3メートルの優美な木造橋がよみがえった。大奥といった藩主の生活拠点があった二の丸と、能舞台が設けられるなど趣味の空間だった西の丸とを結んでいた「御橋(おはし)廊下」だ。

 二の丸は西の丸より約3メートル高いため、橋には約11度の傾斜がつけられ、外から見えないように屋根と壁が設けられている。靴を脱ぎ、しっくい塗りの内壁に格子窓を備えた板間に足を踏み入れると、日常から切り離された異空間に迷い込んだような錯覚を覚える。

 江戸後期の絵図に描かれている御橋廊下は、発掘調査の結果、紀州藩初代藩主・徳川頼宣(1602〜71)の時代から存在していた可能性もあるという。「藩主が参勤交代で江戸から帰ってくる度に使われ、男性は、藩主とその子ども以外は渡ることはできませんでした」と、和歌山市文化財専門員の武内善信さん(58)が教えてくれた。

 藩主とその家族らが渡った廊下だが、1871年(明治4年)の廃藩置県で廃城となったことにともない、いつしか姿を消した。

 復活のきっかけは、1999年から二の丸付近で行われた発掘調査。御橋廊下の礎石などが見つかり、文化庁の後押しも得て再建計画が進んだ。発掘調査結果や絵図の分析などに基づいて設計し、約2億1000万円をかけて、百数十年ぶりによみがえった。

 市内の小学校などの遠足では定番コースとなり、昼間は、子どもたちがはしゃぎながら渡る様子が見られる。日没から午後11時まではライトアップされ、同様に照明がともされる天守を背景に、昼とは異なった美しさを見せる。

 市和歌山城整備企画課の柳雄介さん(25)は、「夏空とのコントラストや、紅葉に映える姿など、四季折々の姿を楽しみながら、廊下周辺を散策して下さい」と話している。

     ◇      

 ちょっと足を止めたくなるような県内の名所旧跡や街角の風景を、写真を添えて紹介します。読者のみなさんのお薦めスポットを、和歌山支局まで、手紙やファクス、電子メール(wakayama@yomiuri.com)で教えて下さい。

 御橋廊下 入場無料。年末年始以外は無休で、午前9時から午後5時。問い合わせは市和歌山城整備企画課(073・435・1044)。

231荷主研究者:2012/10/28(日) 21:40:52

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/aomori/news/20120926-OYT8T00041.htm
2012年9月26日 読売新聞
弘前城石垣を大修理 16年度から

弘前城本丸の石垣修理に向けて、堀で進む調査作業

 弘前市のシンボル・弘前城の本丸石垣が崩落する危険があるとして、同市は2015年夏に天守を移動させたうえで、16年度から本格的な修理を実施する方針を決めた。最長で10年ほどかかる可能性もあるが、弘前さくらまつりは修理期間中も開かれる。

 市公園緑地課によると、石垣は本丸東面で最大約1メートルの膨らみがあり、このままでは崩落する恐れがある。07年度から測量を行い、08年度には専門家らによる弘前城跡本丸石垣修理委員会を設置し、検討を重ねてきた。今年8月に開かれた同委員会で石垣の修理範囲は、天守の下の南面から東面にかけた計約40メートル、東面の一部約60メートルと決まった。

 さらに、現在約30センチ傾いている天守の補正も行うため、天守は15年夏、解体せずに曳家(ひきや)工法によって北西方向の本丸内に約70メートル移動させ、コンクリート製の土台に据える。移動は数か月かかる見込みで、その後は一般公開を再開する。

 市は7月から石垣の状況を調べるため試掘調査を行っている。石垣が面する堀では、一部の水を抜き、石垣の基礎部分が堅固かどうかを調査。さらに石垣の内部の状況を確認しており、調査は10月末頃まで続けられる予定。

 調査を基に、来年度は工事の実施設計をつくり、14年度に基礎工事を行う予定で、同課は、「石垣の下部や内部の詳細は、石垣を取り外してみないとわからない。状況が悪ければ、工事は10年がかりになる可能性もある」としている。

 弘前城は江戸時代初期の1611年にほぼ完成し、2代藩主の津軽信枚が堀越城(弘前市堀越)から移った。現在の天守は1810年に完成した。

 天守の下の石垣は明治時代の1896年に崩落しており、天守を移動したうえで、大正時代にかけて修理している。市公園緑地課によると、当時の修理資料はほとんど残っておらず、「残っていれば、今回の修理にも役立ち、修理期間を短縮できたかもしれない」としている。

232荷主研究者:2012/10/28(日) 21:50:08

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/324113
2012年9月15日 01:06 西日本新聞
福岡城石垣修復に着手 明治以降初の大規模工事

上之橋御門の石垣を解体するため、土台を設置する作業を進める作業員たち

 福岡市中央区の国指定史跡「福岡城跡」で、市が城の表玄関だった「上之橋御門(かみのはしごもん)」北側の石垣の修復工事に乗り出している。2005年3月の福岡沖地震の影響などで石垣にずれやゆがみが目立ち、崩壊の可能性があるためで、明治以降では最大の修復工事となる。工事が順調に進めば、14年3月に往年の姿がよみがえる。

 市大規模史跡整備推進課によると、上之橋御門の石垣は福岡城北東の堀に面しており、高さ約8メートル、幅約28・8メートル。石垣の築石(つきいし)は約750ある。

 修復工事は7月に始まり、9月末までに石垣の重なり方などを記録し、10月上旬から築石を解体する作業に着手する。解体後はゆがみの原因などを調査し、来年4月から専門の職人が再度、石垣を積み上げる。整備費は約1億4千万円。

 福岡城跡には総延長約3・4キロの石垣が残っている。今回の修復箇所以外でも、樹木が内部に根を張るなどし、ずれやゆがみが生じている石垣も多い。市は福岡城跡の観光活用に向け、13年度に整備基本計画をまとめ、14年度から櫓(やぐら)や門の復元などを始める方針。同課は「崩落の可能性がある石垣の調査や修復計画などを基本計画に盛り込みたい」としている。

=2012/09/15付 西日本新聞朝刊=

234荷主研究者:2012/11/18(日) 14:48:34

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20121016/CK2012101602000028.html
2012年10月16日 中日新聞
松本城枡形跡地で石垣発見 市教委発掘

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発見された松本城大手門枡形の石垣=松本市大手で

 松本市の松本城の大手門の前にあった空間「枡形(ますがた)」の東辺に当たる石垣が、市教委が進めている同市大手の大手門枡形跡地の発掘調査で見つかった。城を囲んでいた総堀の堀底の一部も見つかり、市教委が所有する松本城の絵図と現在の街の位置関係を確認できた。

 大手門は城下町と城内を隔てる松本城の“正面玄関”。敵の侵入を防ぐため、その門前に塀で囲んで設けた四角い空間が枡形だ。

 今回見つかったのは江戸時代に造られたとみられる枡形の東部分の石垣の一部で、約二十メートルにわたり、高さ一・二メートル前後まで石が積み上げられていた。石は天守などに使われているのと同じ「山辺石」とみられる。

 石垣の東側では小さな石や瓦が帯状に大量に出土。石の下層部に瓦が集まっていることから、市教委は一八七一(明治四)年ごろに取り壊された大手門の土塀に使われていた瓦と、七六年以降に壊された石垣上部の石が破棄されたものとみている。また、明治時代に埋められた総堀の堀底の一部も確認した。

 市教委文化財課の担当者は「明治時代の取り壊しや、昭和四十年代のビル建設により、石垣の残存状態が分からなかった。思ったよりもしっかり残っている部分があり、絵図との位置関係が確認できた」と話した。

 跡地に広場を整備する市の「大手門枡形周辺整備事業」に伴い、城に関連する遺構の残存状態や構造を明らかにするため七月末から発掘調査をしている。調査後は土地を埋め直し、年末までに作業を終える予定。

(斉藤珠美)

235荷主研究者:2012/11/18(日) 15:07:47

http://yamagata-np.jp/news/201210/27/kj_2012102700797.php
2012年10月27日15:51 山形新聞
山形城に天守閣造りたかった? 最上家の家紋描いた断面図に注目

 山形城に天守閣を造る構想があった? 最上義光統治下の1605(慶長10)年に描かれ、義光に仕えた大工が所有していたとみられる1枚の天守閣断面図が今、注目を集めている。遺構や当時の絵図から、山形城に天守閣自体はなかったことが濃厚。だが、断面図には最上家の家紋が描き込まれており、造ろうという計画があったかもしれないというのだ。

 研究しているのは県立米沢女子短期大の吉田歓教授(47)=日本古代史、米沢市=と東洋陶磁学会員の高橋拓さん(38)=南陽市。断面図は鶴岡市郷土資料館が所蔵し、縦横ともに3メートル超の大きなサイズ。庄内藩の大工棟梁(とうりょう)家に伝わった文書群の中に、義光に仕えた大工小沢若狭守光祐が集めていたとみられる資料群があり、断面図もこの中にあった。

 断面図には10分の1程度に縮尺された5層の天守閣が描かれている。図中の説明から、作製したのは桜井越後守吉久で、慶長10年12月、小沢宛てに送ったものとみられる。桜井が何者かは不明だが、他にも小沢に宛てた建築技術に関する図面があり、最上家とは別の大名家に仕える大工と推測できるという。「(天守閣の)立断面図は、大体このようなもの」という内容の記述があり、桜井が小沢に請われ、一般的な天守閣の断面図を描いたとみられる。

 最上層の破風(はふ=屋根の切妻に付いている装飾板)には最上家の紋章である菊と桐(きり)の紋が描き込まれ、丸瓦には、山形城跡から多く出土している丸瓦と同じ「山」という字が見える。吉田教授は「受け取った後で、小沢若狭守が書き入れたのではないか」と分析する。天守閣は軍事上重要な意味を持つ建造物。そうした機密情報に関わる図面を他の大名家から取り寄せたとみられることから「藩として天守閣造営に関するそれなりの決意があった、という推測もできるのでは」とも話す。

 ただ、図面作製時期は関ケ原の戦い(慶長5年)の後。小沢がこの時期、個人的に建築技術全般をまとめる作業に取り組んでいることから、その一環とも考えられるという。結局は「現状では可能性が併存する。第3の資料を待つしかない」と吉田教授。「これまであまり人目に触れていない資料なので、たくさんの謎がある。情報を集めたい」としている。

トレース図の縮小版、県立博物館で展示

 高橋さんが資料をデジタルカメラで分割撮影して作製したトレース図の縮小版が、県立博物館で開催中の企画展「出羽国成立一三〇〇年」(12月9日まで)で展示されている。

236名無しさん:2012/11/21(水) 04:35:49
佐和山城の全貌が分からないのは家康のせい

関ヶ原後に家康は佐和山城を山ごと壊してしまった

237名無しさん:2012/11/23(金) 01:24:13
安土城炎上の犯人不明

238荷主研究者:2012/11/25(日) 23:28:39

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201210230144.html
'12/10/23 中国新聞
広島藩校の書庫土蔵を移築

 修道学園(広島市安佐南区)は22日、修道中・高(中区)に移築した江戸後期の土蔵を公開した。土蔵はかつて広島城内にあり、学園の前身に当たる広島藩の藩校の書庫とみられている。

 土蔵は2階建てで延べ約45平方メートル。4月からの第1期工事を終わり、足場を取り外したのを機に学校関係者たち約50人が見学した。はりや柱に高級な木材が使われ、往時がしのばれる。

 土蔵は明治期に東区へ移された。元の所有者が学園に無償譲渡。移築工事は2014年8月の完了を目指す。修道中・高の田原俊典校長(56)は「修道の歴史を象徴する建物。教材として活用していきたい」と話していた。

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【写真説明】土蔵を見学する学校関係者

239名無しさん:2012/11/29(木) 11:13:07
上田城跡にめぼしいものがない

240名無しさん:2012/11/30(金) 14:57:52
熊本城の絵図面には、いざというときに豊臣秀頼を迎える部屋がある。
しかし、単なる貴賓室という説もある

241荷主研究者:2012/12/09(日) 12:49:07

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20121106101.htm
2012年11月6日01時57分 北國新聞
金沢城二の丸御殿、内装詳細に 県調査研が立面図確認

江戸後期とみられる金沢城二の丸御殿の立面図=金沢市の石川県金沢城調査研究所

 石川県金沢城調査研究所は5日までに、江戸後期のものとみられる金沢城二の丸御殿の 立面図2巻を確認した。研究所によると、内装部材の詳細な寸法を記した二の丸御殿の立 面図は希少。御殿内の書院の内部構造が正確に分かる貴重な資料で、研究所は将来的な復 元の参考資料になるとして、年代の特定などさらに調査分析を進める。

 確認されたのは、「奥書院・御居間(おいま)書院の御棚・付書院立面図等」(幅24 .7センチ、長さ7.68メートル)と「竹之間・小書院の付書院・納戸構(なんどがま え)立面図等」(幅29センチ、長さ3.55メートル)の2巻。九つの部屋で棚や付書 院など立面図19点が10分の1、20分の1縮尺で明記されている。

 巻物には、礼儀の場「表向(おもてむき)」で年寄衆八家(はっか)や家老役が藩主に あいさつする「奥書院」、藩主が執務する「御居間書院」、藩主の側室や子女が居住した 「御広式(おひろしき)」の居間や対面所、広間などの立面図が列記されている。さらに 、御殿で最も広い竹之間の付書院や棚のほか、「表向」の一つで八家や家老役が元日に藩 主にあいさつする「小書院」で納戸構の襖(ふすま)につけられた金具なども記されてい る。

 立面図は、加賀市教委の田嶋正和文化課長が金沢市内の古道具店で入手し、約3年前に 研究所へ調査を依頼。1904(明治37)年に原本を書写したものと判明した。

 研究所は「牡丹(ぼたん)之御前」と小書院の間に納戸構を配置してある構造や、奥の 空間を「御広式」とし記すなど、部屋の呼称が全て金沢城二の丸御殿と一致することから 、金沢城二の丸御殿の立面図と断定した。

 研究所によると、二の丸御殿の図面は約80点あるが、ほとんどが平面図で、藩主が着 座する周囲の内装が分かる立面図は極めて珍しい。これまで見つかった図面はいずれも年 代が不明で、時代によって同じ場所でも寸法に差異があることから、時代の特定が課題に なる。

 二の丸御殿の復元をめぐっては、膨大な絵図や文献資料の解読に長期間の調査が必要で 、費用や活用策について、さらなる検討が必要とされている。

 県金沢城調査研究所は「時代背景が分かっていけば、復元の参考資料になる」(木越隆 三副所長)とし、今後も金沢城二の丸御殿の図面が集まることに期待を寄せている。

 田嶋氏は立面図を県に寄贈する意向で「将来の復元資料に生かしてもらえるとありがた い」と話した。

242荷主研究者:2012/12/12(水) 00:49:04

http://www.at-s.com/news/detail/474540033.html
2012/11/8 08:51 静岡新聞
本丸巡る石垣や堀切発見 浜松市が二俣城跡発掘調査

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浜松城と同じ野面積み 堀尾吉晴の造成か

 浜松市は7日、天竜区の二俣城跡の発掘調査で、本丸を巡る石垣や堀切などを発見したと発表した。石垣の工法や同時に見つかった陶器の年代から、市は安土桃山時代の1590〜1600年ごろに西遠江一円を治めた堀尾吉晴による大規模改修の跡とみている。

 市は2009年に発掘に着手し、それまで確認されていた本丸の天守台のほか、二の丸に続く門などを見つけた。新たに発掘した石垣は本丸の南側。高さ約2メートル、幅15メートル以上で堀尾氏が造成したとされる浜松城と同様、大小の石の組み合わせで強度を高める「野面積み」だった。堀切は二の丸の南側で深さ約4メートル、幅約11メートルだった。

 土中に埋まっていた石垣は状態が良く、市文化財課の鈴木一有さんは「ここまできれいに残っているのは貴重。堀尾氏の改修は城の荘厳化で権威を誇示する狙いがあった」と推測する。

 市は11日午前10時半と午後1時、現地で開かれる「戦国山城まつり」の中で説明会を開催する。

243名無しさん:2012/12/12(水) 22:00:31
>>242
もすけ(堀尾吉晴)が作ったのか

245荷主研究者:2012/12/20(木) 00:55:25

http://www.shinmai.co.jp/news/20121117/KT121115GUI090003000.php
2012年11月17日(土)信濃毎日新聞
松本城外堀の一部を国史跡に 文化審議会答申

史跡への追加指定が答申された松本城南・西外堀の一部。現在は宅地となっている。写真右側の木立の部分は既に史跡指定されている松本城公園

 文化審議会(宮田亮平会長)は16日、松本市の国宝松本城の外堀(南・西外堀)の一部を史跡に追加指定するよう田中真紀子文部科学相に答申した。今回の指定範囲は、埋め立てられた外堀上の居住地域のうち土地権利者が同意した0・72ヘクタール。指定面積はこれで計9・1ヘクタールになる。

 南・西外堀は大正から昭和にかけて埋め立てられて宅地となり、現在は約80棟が立ち並んでいる。市は外堀復元を目指している。

 同市教委は1997年から3回の調査で、堀の範囲や石垣などが良好な状態で残っていることを確認。松本城二の丸の正面側を守る堀として位置し、城の構造を知る上で重要な部分とする。追加指定により、現状を変える行為には文化庁長官の許可が必要となるため、遺跡保全が図れる。用地買収費や復元工事をする場合には国補助を得られる。

 追加指定は2007年の松本城西総堀土塁跡以来。埋め立てられた外堀は計0・92ヘクタールで、市松本城管理事務所は残りの0・2ヘクタールについても「権利者の同意を得た所から、さらに追加指定の申請を検討したい」としている。

246荷主研究者:2012/12/20(木) 01:01:39

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20121117401.htm
2012年11月17日03時04分 北國新聞
土清水塩硝蔵跡、国史跡に追加指定 「辰巳用水」に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/HT20121117401.jpg
加賀藩が黒色火薬を製造していた土清水塩硝蔵跡の遺構=2007年10月、金沢市涌波町

 国の文化審議会(宮田亮平会長)は16日、土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)(金沢市大桑町など)を国史跡辰巳用水に追加指定し、名称を辰巳用水附(つけたり)土清水塩硝蔵跡に変更するよう田中真紀子文部科学相に答申した。土清水塩硝蔵は江戸時代を通して加賀藩が辰巳用水の水力を利用して黒色火薬を製造した全国最大級の火薬製造施設。歴史都市金沢の価値がさらに高まる。

 土清水塩硝蔵跡は金沢城から南東約4.5キロの辰巳用水中流部に位置し、敷地面積は幕末時点で約11ヘクタールと想定されている。一帯は現在、宅地化が進んでいるため、追加指定地は約3.24ヘクタールで、2010年に国史跡に指定された辰巳用水を含め計約14.72ヘクタールとなる。

 敷地の東側には辰巳用水が流れ、その水流を利用して水車を回して黒色火薬が製造された。操業期間は1658(万治元)年から1870(明治3)年ごろまでと考えられる。加賀藩領だった越中五箇山(現在の南砺市)で独自製法により生産された塩硝や、越中立山(現在の立山町)で採取された硫黄に、塩硝蔵内の施設で生産された木炭を加え、黒色火薬に加工された。

 金沢市が2007〜10年に行った発掘調査で、塩硝蔵の建物や施設の遺構が良好に残存していることが判明。辰巳用水と強い関連性を持った文化財であり、国史跡に追加指定することで、保護に万全を期すこととした。

 土清水塩硝蔵跡は軍事機密として謎に包まれていた藩政期の火薬製造に迫る全国でもまれな文化財といえる。山野之義金沢市長は国史跡指定を機に指定地の公有地化を積極的に進める方針で「市民とともに歴史遺産を生かしたまちづくりを推進したい」と強調した。

247名無しさん:2012/12/21(金) 05:56:31
石田三成の居城だった佐和山城 発掘中

248名無しさん:2012/12/23(日) 07:09:31
>>247
佐和山城は関ヶ原の戦いの後、家康の命令で山ごと崩されてしまった・・・

249名無しさん:2012/12/28(金) 20:25:26
清州城廃城⇒名古屋城

250名無しさん:2012/12/29(土) 18:11:26
清洲城

慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城

251荷主研究者:2012/12/30(日) 22:04:51

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201211220008.html
'12/11/22 中国新聞
松江城の通用門図面見つかる

 松江市は21日、松江城内にあった通用門「中原口柵門」の図面が見つかったと発表した。幕末に松江藩の大工頭だった馬場佐々右衛門(ささえもん)の縁者が保管しており、今月上旬に市に寄託した。松江城国宝化に向け正門の大手門の復元を目指す市は、さらなる資料の発見に期待を寄せている。

 図面は縦50センチ、横74センチ。松江城の北西に位置していた木造の柵門の正確な縮図とみられ、裏面には「御城内中原口柵門絵図面」と墨書されている。

 ほかに、松江藩主松平家の菩提(ぼだい)寺の月照寺(松江市外中原町)を大正期に再建した際の図面、寺社建築の装飾パターンを記した手引書など、幕末〜大正期の資料計30点が見つかった。

 佐々右衛門の兄の子孫にあたる雲南市の男性方に保管されていた。松江歴史館によると、城内の門の詳細な図面が見つかるのは初めてという。

【写真説明】「中原口柵門」の図面(手前)について解説する松江歴史館の学芸員

252荷主研究者:2012/12/31(月) 00:19:41

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/334002
2012年11月14日00:33 西日本新聞
佐賀城天守台九州最大級 市教委が発掘調査

佐賀城の天守台跡を調査する佐賀城天守台調査指導委員会の委員たち=13日、佐賀市

 江戸時代中期に焼失した佐賀城天守閣があったとされる天守台跡の発掘調査を進めている佐賀市教委は13日、有識者でつくる「佐賀城天守台調査指導委員会」(委員長・高島忠平旭学園理事長)の第3回会合で、天守台の面積が、小倉城(北九州市)に匹敵する九州最大級であると報告した。全国的にみても江戸城(東京都千代田区)、大阪城(大阪市)、名古屋城(名古屋市)に次ぐ規模という。

 現在の佐賀市城内にある佐賀城は1611年に完成。1726年に大火で焼失した。市教委は佐賀城築城400年記念事業として、2011年9月から発掘調査を開始し、天守閣の規模や構造の解明を進めている。

 市教委によると、天守閣の土台となる天守台の上面の広さを計測したところ、南北の長さ約29・6メートル(15間)、東西の長さ約25・6メートル(13間)だった。小倉城、熊本城(熊本市)など九州にある佐賀城以外の15カ所の城の資料を取り寄せ、比較したところ、熊本城(13間×12間)などを上回り、小倉城(15間×13間)と同じことが初めて分かったという。

 また、佐賀城の天守台にはこれまで5重の天守閣があったとされているが、市教委は「幕府隠密復命書」(1627年)など14の絵図を調査した結果、「4重の天守閣だった可能性が高い」としている。国内の城に詳しい広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)は「かなり大きい天守閣があった可能性がある」と話している。

=2012/11/14付 西日本新聞朝刊=

253荷主研究者:2013/01/03(木) 10:03:16

http://www.isenp.co.jp/news/20121204/news05.htm
2012/12/4(火)伊勢新聞
県指定史跡「亀山城多門櫓」を復元 江戸末期の姿よみがえる

【江戸時代末期の姿に生まれ変わった「多門櫓」=亀山市西丸町で】

【亀山】亀山市は、亀山城周辺保存整備事業として、平成二十三年八月から着手していた県指定史跡「亀山城多門櫓」の復原修理工事が三日、ほぼ完成。江戸時代末期の姿に生まれ変わった。

 同櫓は、県内唯一の城郭建築物で、城下町亀山を象徴する貴重な文化財である。平成十九年に発生した地震により、石垣の一部が崩壊。また、老朽化に伴う雨漏りが目立つなど大規模な修理の時期を迎えていた。 同二十年に策定した「亀山市歴史的風致維持向上計画」に基づき、事業費七千四百万円の内、50%に当たる三千七百万円は、国交省「歴史的環境形成総合支援事業」の補助金を活用。木造平屋建て延べ床面積百十八平方メートルの建物を半解体し、柱と梁材の痕跡から文化財調査に基づき、板壁から、白色のしっくい塗壁とした。また、小窓も設けた。

 同市まちなみ文化財室の嶋村明彦室長は、「当時の資料がなく苦労したが、本来の姿に復原できました」と話していた。一般公開は、建物周辺を整備後の来春を予定している。

254荷主研究者:2013/01/06(日) 12:52:50

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121221000175
2012年12月21日 23時26分 京都新聞
聚楽第の石垣、東西に32メートル 自然石で勾配

聚楽第跡本丸南端で東西32メートルにわたって見つかった石垣(21日午後2時半、京都市上京区上長者町通裏門東入ル)

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、京都市上京区の聚楽第跡で、本丸南端の石垣を東西計32メートルにわたって確認した、と発表した。徹底的に破壊されたと伝わる豊臣秀吉の聚楽第の遺構が大規模に残っていたことになる。自然石のみで積み上げた石垣の整った形からは当時の高度な技術もうかがえる。

 調査地は聚楽第本丸の南端。10月に石垣の一部(約7メートル)が見つかり、さらに東側に掘り進めていた。石は約70個あり、全て切り割りしていない自然石。墓石などの転用石はない。比叡山周辺か大津市・田上山が産地と考えられる。石垣表面は約55度の緩い傾斜できれいにそろっていた。

 石の一辺は約0・7〜1・5メートルで、大手門があったとされる本丸南端の中心部へ向かって、順に大きな石が使われていた。「大手門を通るときの見栄えを意識して積んだのではないか」(同センター)という。残っていたのは3、4段分で本来の高さはわからないが、最も高い場所は約2・3メートルだった。

 石垣と背面の土の間には、水はけのために「栗石」という細かい石が敷き詰められていた。石垣に詳しい金沢城調査研究所の北垣聡一郎所長は「秀吉が築いた大坂城の石垣には転用石が使われていたが、聚楽第は自然石のみで勾配をそろえ、美しい。秀吉の権威を示したのだろう。同時代の石垣研究の基準になる」としている。

 24日午前10時〜午後3時に現地説明会を行う。現地事務所携帯電話090(9613)4694。

■聚楽第(聚楽城) 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅として、大内裏跡で1586年に着工し、翌年完成。秀吉の威を示す豪華絢爛(けんらん)な造りだったとされ、後陽成天皇が行幸した。おいの秀次に譲ったが、秀次の追放と切腹後、徹底的に破壊したとされる。

255荷主研究者:2013/02/03(日) 13:08:01

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1301090006/
2013年1月9日 神奈川新聞
小田原城の曲輪から庭園跡発見 北条氏主殿の可能性高まる、整備計画の大幅見直しも

御用米曲輪跡で見つかった庭園の水路跡=小田原城址公園

 小田原市は8日、江戸時代の遺構とされてきた小田原城址(じょうし)公園(同市城内)の「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」跡から、戦国・北条時代の庭園遺構が見つかったと発表した。同曲輪跡では昨夏、同時代の主殿級建物跡の一部が出土している。一連の発見で「市内でも先例のない近世、中世の複合遺跡」(市文化財課)に格上げされ、市は整備計画を大幅に見直すことになりそうだ。

 同課によると、庭園遺構は曲輪の南側、天守閣側の斜面を背景に配置されていたとみられる。発掘調査で石組みの水路や池、箱根産などさまざまな種類の庭石が出土。周辺に敷いたとされる多数の玉石もあった。

 一方、曲輪内の北側に数十メートル離れた場所では昨年8月、礎石建物跡が発見され、関係者を驚かせた。

 その後の調査で少なくとも3回建て直された跡が確認され、利用頻度が高い施設だったことが判明。近くで祭祀(さいし)用に使った土器「かわらけ」も千点以上が出土した。

 ただ、現状の建物跡は細長く規模が小さいため、礎石は付帯施設のもの。今回の発見により、この建物に広い庭園が設けられていたことが推察され、3代・北条氏康以降の城主が儀式などに使っていた重要な場所である可能性が高まった。本体の主殿は庭園との中間地点にあったとみて調査範囲を広げる方針。

 この曲輪はこれまで江戸時代の米蔵跡とされ、2010年度から史跡整備に向けた発掘調査が行われている。

 同課は「城の中心を確定する大きな発見が相次いでいる。地層的に積み重なる異なった遺構をどう残し、整備するのか、難しい問題。国指定史跡であり、文化庁の指導を受けながら全容解明のための調査をまずは尽くしたい」と話している。

 市は2月16日、現地で市民見学会を開催、遺構を公開する予定。

256荷主研究者:2013/02/06(水) 00:04:45

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/news/20130110-OYT8T01497.htm?from=os2
2013年1月11日 読売新聞
甲府城の「鉄門」復元

公開が始まった鉄門(10日、甲府市丸の内で)

 甲府市丸の内の甲府城跡で、「鉄(くろがね)門」の復元工事が完了し、10日、一般公開が始まった。

 甲府城は安土桃山時代の1590年代に築城され、鉄門は当時からあったとされる。明治初期に取り壊されたが、県教委が2010年9月から復元工事をしてきた。城の南側にあり、1階が門、2階がやぐらの「やぐら門」の構造で、高さ約9メートル60、最大部分の幅約12メートル70。門扉に鉄板を貼って攻撃に備えたことが名前の由来だ。

 一般公開に先立って行われた竣工記念式典で、平出亘副知事は「(鉄門は)甲府の市街地からも眺望でき、市街地の景観に歴史的な重みがさらに加わった」とする横内知事の式辞を代読した。2階のやぐら部分では、公開記念特別展「よみがえる鉄門」が14日まで開催されている。

257荷主研究者:2013/03/31(日) 22:45:23

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303020191.html
'13/3/2 中国新聞
三原城跡に西国街道の遺構

 三原市教委が同市本町で進めている国史跡の三原城跡発掘調査で、堀の西側に西国街道の道路遺構が見つかった。道路幅は約10メートルとみられる。3日午後2時から、現地説明会を開く。

 今回の調査は昨年9月から堀の西側約千平方メートルで開始。南北約30メートルの道路遺構を確認した。遺構の西側に沿って武家屋敷の土塀に使われたとみられるしっくい入りの土も発見され、市教委生涯学習課は道路と屋敷の境界とみている。

 堀の石垣の内側約1メートルには、堀への土砂の流入を防ぐ石列「土留め」が南北約30メートルで見つかった。通貨「天保通宝」も初出土した。

 土留めは、2011年度の調査でも堀の北側で確認されている。同課は「城下町の状況がより鮮明になってきた」としている。説明会は無料で、当日受け付ける。同課=電話0848(64)2137。

【写真説明】堀の石垣の内側で見つかった道路遺構。左側の石列が土留め(三原市教委提供)

260荷主研究者:2013/04/21(日) 10:59:59

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20130316/CK2013031602000048.html
2013年3月16日 中日新聞
小牧山城の2段石垣復元へ 価値高める狙い

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2013031502100175_size0.jpg
小牧山の山頂周辺から見つかった2段の石垣跡=2012年3月、小牧市堀の内で

 小牧市は小牧山城の発掘調査を二〇一三年度に終えた後、山頂周辺に巡らされた二段の石垣を復元整備する方向で検討する。土の流出を防ぐため埋め戻されている石垣部分を織田信長が築いた当時の姿によみがえらせ、城の価値を高めていきたい考えだ。

 小牧山城では一〇年度の発掘調査で自然石を積み重ねた上下二段の石垣が出土。近世城郭の原型を示す貴重な資料と分かった。その後も人名が墨書された石や山頂に延びる大手道の存在などが確認され、城の歴史的な評価や観光資源としての価値は高まっている。

 市は詳しい調査が必要として、一〇年度に終える予定だった発掘調査を三年間延長した。最終の一三年度は山頂北東斜面を調査し、城や石垣全体の構造把握に努める。

 調査結果を踏まえて、市は一四年度に文化庁などと協議し、復元整備に向けた実施設計に入る。山崩れなどの恐れもあることから、どの程度まで復元するかについて、江口光広教育長は「専門家の意見を聞きながら検討する」と話す。

 着工は早くても一五年度。補強のために石垣を新たに組み直す必要もあるという。江口教育長は「城の価値が後世にしっかり引き継がれるよう整備する」と強調した。

 (平井剛)

261荷主研究者:2013/04/21(日) 12:48:24

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303210014.html
'13/3/21 中国新聞
大型石積み遺構発見 松江城

 島根県教委は、県庁本庁舎(松江市殿町)敷地内の松江城三之丸の発掘調査で、江戸時代の井戸か池とみられる大型の石積み遺構が見つかったと発表した。三之丸で堀の石垣以外の主要な遺構の発見は初めて。

 石積みは深さ1・7〜2メートルのL字形で、東西3・6メートル、南北5・7メートルを確認。一部に階段があることや、三之丸を描いた江戸期や明治期の絵図から、井戸や池、船着き場の一部の可能性があるという。石積みは「打込接乱積(うちこみはぎらんづ)み」と呼ばれる工法で、城下町遺跡で似た様式の石積みが確認されている。

 県庁地下タンク移設に先立ち調査を2月に開始し、今月11日に見つかった。遺跡保護のため、4月にも埋め戻す。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20130321001401.jpg
【写真説明】県庁敷地内で見つかった松江城三之丸の石積みの遺構

262荷主研究者:2013/04/21(日) 14:48:29

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/351772
2013年3月8日10:06 西日本新聞
福岡城跡に土塀の柱穴 福岡市「全体の構造解明期待」

上之橋御門の修復工事で見つかった掘っ立て柱の跡(写真手前部分)=福岡市提供

 福岡市が復元に向けて整備を進める国史跡の福岡城跡(中央区城内)から、土塀を支える掘っ立て柱の穴が見つかった。城跡には江戸時代の土塀や柱は残っておらず、その遺構が見つかったのは初めて。市は「福岡城全体の塀の構造を解明する上で貴重な資料となる。城の正確な復元に弾みがつく」と期待している。

 市大規模史跡整備推進課によると、柱穴があったのは城の表玄関だった上之橋(かみのはし)御門。昨年7月から始めた門北側の石垣(高さ10メートル、幅28メートル、奥行き10メートル)の修復工事に伴い、表面の築石(つきいし)や背後の土などを約1・1メートル分取り除いたところ、柱穴が18カ所見つかった。

 直径約1・3〜1・5メートル、深さは約1メートルで、等間隔で並んでいることなどから、柱の跡とほぼ断定した。修復工事に伴い、既に崩されており、市は写真や図面などの記録を保存している。

 絵図や古写真では、福岡城には総延長3キロ以上の石垣があり、その一部には漆喰(しっくい)を塗られた高さ2メートル程度の土塀が上に築かれていたとされる。だが、土塀や柱は石垣と比べ構造がもろく、明治以降に解体や建て替えが進んだため、江戸期の塀は現存しておらず、福岡城復元の課題となっていた。

 柱穴からは瓦などの遺物も見つかっており、同課は「今後、出土品の年代や文献資料を分析し、造られた年代や、土塀の構造の特定につなげたい」としている。

=2013/03/08付 西日本新聞朝刊=

264荷主研究者:2013/05/12(日) 14:54:01

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304180034/
2013年4月19日 神奈川新聞
小田原城址「御用米曲輪」の整備方針を見直し、戦国期の発掘調査本格化/小田原市

戦国期の発掘調査が本格化する御用米曲輪=小田原城址公園

 小田原市は、国指定史跡・小田原城址公園内の「御用米曲輪(くるわ)」の整備方針を見直すことを決めた。事業期間を2015年度から18年度に延長して戦国時代の発掘調査を本格的に進め、「前例のない近世と中世の複合遺構」(市文化財課)の保存を目指す。

 同曲輪の整備事業は、江戸時代の蔵跡保存を主目的に10年度にスタート。発掘調査を実施していたところ、12年8月以降、戦国時代の大型建物跡や水路を巡らせた庭園跡など貴重な発見が相次いだ。

 庭園付きの大型建物となれば、城主級の居館跡である可能性が高まる。北条氏が関東制覇の拠点を構えた中世小田原城の姿を解明する、有力な手掛かりを得たことになる。

 市民の注目度もアップ。市が2月中旬に行った同曲輪の見学会には同種の催しでは過去最多の約970人が参加した。

 市は13年に入って文化庁と整備の方向性について協議、3月までに蔵の規模を見極めるよう求められていた。

 1月に現地を視察した文化庁の調査官から「近世の盛り土を一部掘り下げも中世遺構の全容を把握すべき」「計画の変更はやむを得ない」などの指導を受けた。

 当面、市による発掘調査は継続されるが、今後の焦点はその保存法になる。協議の中でも「複数時期の遺構を一度に見せる整備は見学者が混乱する」など事業の難しさが指摘された。

 また、同曲輪内の北東土塁では、クスノキと遺構保全の両立を図る植栽管理問題も抱えており、慎重な整備が求められる。

 市文化財課は「今回の発見は、未解明だった中世小田原の中心地を特定できる学術的な価値がある。調査を進める一方で、その成果の見せ方についても、じっくりと議論していきたい」と話している。

 ◆御用米曲輪 小田原城址公園(小田原市城内)の天守閣の北側に位置する。園内でも周囲に土塁が残る戦国期の面影が見られる場所。古い絵図には江戸期に幕府の米を蓄えた蔵が描かれ、発掘調査で6棟の跡が確認された。整備対象は約1万8千800平方メートル。

265荷主研究者:2013/05/12(日) 15:35:06

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20130412/CK2013041202000007.html
2013年4月12日 中日新聞
松本城内堀の泥、くみ出し培養土に

昨夏、水位が低下し泥が浮き出た松本城内堀。水面に映る姿も汚れでぼやけている=松本市で(松本城管理事務所提供)

 松本市の国宝松本城の内堀の底にたまり、悪臭の原因となっている泥の除去作業に市が本年度、実験的に取り組む。築城時の堀や城の石垣を崩さないようにポンプで泥を吸い上げ、水分を抜いて培養土として活用したい考えだ。市によると、大規模な堀の泥のくみ出しは記録が残る江戸時代後期以来になる。

 江戸城の内堀に当たる千鳥ケ淵(東京)で二〇〇五年から翌年にかけて実施された方法を参考にした。堀の水を全て抜いてから重機で泥をかき出す作業とは異なり、堀にいるコイやハクチョウをはじめ、微生物など生態系に悪影響を及ぼす恐れが少ない。費用が安価なのも利点で、関連費用として千八百万円を本年度一般会計予算に計上している。

 松本城の堀の水は周辺の五カ所の井戸の水を引いている。泥は魚のふんや落ち葉が分解されてたまった物。窒素やリンなどを多く含んでいるため花壇や畑の培養土に適しているが、検査で金属成分などが含まれていれば、セメントの材料にすることも検討している。作業のためのプラントは、観光客の邪魔にならないよう公園の一角に置く。

 本年度の実験成果を踏まえて来年度以降は外堀や総堀の泥のくみ取りに着手する。

 昨夏は降水量が少なかったため堀の水位が低下し、内堀の泥が表面に浮き出て悪臭を放ち、景観上も問題だった。松本城管理事務所の土屋彰司所長は「できるだけ早い時期に実施して、八月のトップシーズンに間に合わせるようにしたい」と話している。

 (佐野公彦)

266荷主研究者:2013/05/12(日) 15:35:27

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130417/CK2013041702000017.html
2013年4月17日 中日新聞
赤井家住宅を初の一般公開

 伊賀上野城の城下町で今も江戸時代の武家屋敷の面影を残し、国の登録有形文化財に指定されている伊賀市上野忍町(しのびちょう)の赤井家住宅が、大型連休に合わせて初めて一般公開される。所有者の市が、住宅を公共施設に改修するのを機に計画した。

 住宅が位置する市の中心市街地は昔ながらの町並みが残るが、空洞化が指摘され、市は住宅の活用方法を検討した。市によると、国の登録文化財は文化財保護法が適用されるので外観は変えられないが、内装は改修できる。そこで、住民が利用し、観光客も立ち寄れる施設に改修することにした。

 一般公開は無料。二十七、二十八、五月三〜五日の午前十時から午後三時まで実施する。

改修される「赤井家住宅」の母屋=伊賀市上野忍町で

 住宅は千六百五十平方メートルの敷地に母屋、茶室、離れなど八棟(計三百八十二平方メートル)が立つ。樹齢二百〜三百年のクロマツやクロガネモチがそびえる日本庭園もある。このうち国の登録有形文化財は、江戸時代末期に築かれた東、南側の土塀や、明治時代に建てられた母屋、茶室など計五件。三年前に指定された。

 市は一億円余りをかけて耐震化。作品の展示室や、伊賀の情報を発信するスペース、多目的トイレも設ける。ことし中に着工し、二〇一五年中にオープンさせる。入場料は取らず、部屋を一時利用する時に使用料を支払う形式を予定している。

江戸時代末期に築かれた土塀=伊賀市上野忍町で

 市は中心市街地にある城下町の歴史的な建物を積極的に活用。藤堂(とうどう)藩の藩校だった旧崇広堂(すうこうどう)(上野丸之内)や、かつての料亭「栄楽(えいらく)亭」を改修した生涯学習施設・栄楽館(上野相生(あいおい)町)などを住民や観光客に公開している。

 一般公開の問い合わせは市中心市街地推進課=電0595(22)9825=へ。

 (安部伸吾)

 <赤井家住宅> 江戸時代、伊勢の国の一部と、伊賀の国を治めた藤堂(とうどう)家の家臣だった赤井氏が住んでいた。現在の建物は、武家屋敷だった時の間取りを受け継いでいる。国の登録有形文化財に指定された翌年の11年、所有していた元京大助教授の赤井龍男さん(84)=京都府城陽市=が市に建物を贈った。県内には現在、国登録有形文化財が144件ある。

267荷主研究者:2013/06/20(木) 00:09:33

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013060622493748/
2013/6/6 22:49 山陽新聞
旧備中松山藩御茶屋の整備完了 方谷ゆかりの建物、9日落成式

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2013060622493748-1.jpg
高梁市が整備した、山田方谷ゆかりの「旧備中松山藩御茶屋」

 老朽化のため高梁市が手掛けていた備中松山藩主の別邸「旧備中松山藩御茶屋」(同市奥万田町)の整備工事が完了した。幕末に同藩の財政再建を断行した儒学者・山田方谷(1805?77年)ゆかりの建物。9日に落成式を行い、生涯学習の場として活用していく。

 御茶屋は城の南1・4キロにあり、6代藩主板倉勝職(かつつね)が江戸後期に築造。方谷は50代以降、現在の市北部に居を構えていたといい、城下滞在時の宿舎として主に使用したほか、方谷を慕って来た長岡藩士の河井継之助や倉敷市出身の漢学者・三島中洲らとの交流の場だったとされる。

 近年は空き家の状態だったため方谷顕彰団体などの要望を受け、市が所有者から土地(443平方メートル)と平屋の建物(49平方メートル)を購入、2012年度に工事着手した。

 事業費は約3千万円。市歴史的風致維持向上計画として国の交付金を活用した。落成式の関連行事として、9日午後1時半から市文化交流館(同市原田北町)で、「河井継之助記念館」(新潟県長岡市)の稲川明雄館長を招いた講演会を開く。無料。問い合わせは市まちづくり課(0866(21)0257)。

268荷主研究者:2013/06/23(日) 12:01:24

http://www.jomo-news.co.jp/ns/5113706170467527/news.html
2013年6月8日(土)AM11:00 上毛新聞
戦国の城門復元  高崎・箕輪城の櫓門と高麗門

 高崎市教委は7日、同市箕郷町の国指定史跡「箕輪城跡」について、防御上の重要拠点だった「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」(高さ6.3メートル)など二つの城門を16世紀末の戦国時代の姿に復元すると発表した。19ヘクタールの史跡には石垣や土塁、堀の形状が残るだけで、城に付随した建造物の大規模な復元は初めて。城門のほか、土塁や散策用の橋なども整備し、新たな観光資源としてPRする。来年度着工し、2018年度の完成を目指す。

 市教委によると、復元するのは門柱の土台となる礎石の状態が良かった「郭馬出西虎口門」と「本丸西虎口門」。文化庁の諮問機関「復元検討委員会」で3月末に復元案が承認された。

 郭馬出西虎口門は、戦国時代の城郭で規模が確認されている門跡としては関東最大規模を誇る。幅5.7メートル、奥行き3.6メートルの2階建ての櫓門(やぐらもん)で、登城のための3本の道がこの門に集約され、極めて重要な位置にあった。

269荷主研究者:2013/07/04(木) 23:49:18

http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0720130612eaad.html
2013年06月12日 日刊工業新聞
関西大など、鉄筋補強による城郭石垣の安定化工法を考案

 関西大学環境都市工学部の西形達明教授は、安藤ハザマと共同で、石垣を維持・修復して延命化に貢献する「鉄筋補強による城郭石垣の安定化工法」を考案した。石垣に排水機能をもたせた棒材を打設して補強する。建造物の老朽化が危惧される中で、修復作業が困難な文化財の劣化も懸案材料の一つとされている。石垣の外観を維持したうえで、遺構そのものも改質せずに補強できる工法として活用が期待されそうだ。

高さ約2mの石垣モデルで実施した鉄筋打設の実証実験
(西形教授提供)

 研究グループは2メートル四方の間隔で、直径約30ミリメートルの鉄筋補強材を石垣から土塁手前の小石を敷き詰めた栗石層まで打設した。

 高さ2メートル程度の石垣モデルで鉄筋打設が可能であることを確認し、遠心加速度が20Gの遠心載荷実験をしたところ、補強材で石垣の石の変形が抑制されたうえで、栗石の移動を拘束している状況を確認したという。穴があいた鉄筋は排水機能も備える。西形教授によると国内の県庁所在地の約7割が城下町という。

270荷主研究者:2013/07/11(木) 00:12:45

http://www.shinmai.co.jp/news/20130617/KT130616ATI090007000.php
2013年06月17日(月)信濃毎日新聞
松本城に「丸馬出」 土塁造成 厳重に守る

松本城北門があったとされる松本市北深志1の住宅地で見つかった土塁「馬出(うまだし)」の遺構。敵が真っすぐ侵入できないように設けた防御施設で、土塁の中心部分に使われた黄色の土の層が見える。

 松本市教育委員会は16日までに、松本城の北門があったとされる同市北深志1で発掘調査をし、門の手前にあった土塁「馬出(うまだし)」の遺構を発見した。敵が門に真っすぐ侵入できないようにする防御施設。江戸時代の松本城の絵図では城の周囲に4カ所描かれているが、明確に確認できたのは初めて。遺構を確認した信州大副学長の笹本正治教授(日本中世・近世史)は「松本城の研究上、極めて重要な発見」としている。

 馬出の遺構が見つかったのは、松本城天守閣の北東でかつて北門があった同市北深志1の住宅地。住宅の建て替えを計画していた所有者の同意を得て、今月10〜12日に試掘調査をした。土塁基底部の遺構の他、土塁が崩れないようにした土留めの石や木製のくいの列などが見つかった。土塁は上から見ると三日月形の弧を描いており、「丸馬出」と呼ばれる構造と確認した。

 馬出の外側にあった堀との境では、木製のとがったくい4本も発見。敵の侵入を困難にするためで、かつて松本城の最も外側にあった「総堀」の調査でも見つかっている。市教委文化財課は「(くいの存在は)馬出でも予測されたが、確認できたのは非常に大きい」と話している。

 松本城の丸馬出は、前身の深志城を攻め取った戦国武将武田信玄が、1550(天文19)年に改修した際に設けたと推定されている。市松本城管理事務所が所蔵する1728年の城下町の絵図には、今回の馬出の他、城の東側の上土町、北側の松本神社と、西側の現在の松本税務署がある場所にも馬出が描かれている。

 笹本教授は「黄色い土の層は土塁の中心部分で、土塁を造った経過が見えている。出入り口は城の最も大事な部分で、厳重に守った様子が分かる。松本城の歴史を考える上で極めて興味深い発見」と評価。「一度造った土塁を大きくするためにさらに手を入れた状況も分かり、土塁がどう造られたか、技術の一端が見えてきた」としている。

 馬出の遺構が見つかった場所は12日に埋め戻した。同課によると、松本城に関係する調査への市民らの関心は高く、昨年発掘調査した「大手門枡形(ますがた)」の見学会には1日1300人が参加した。馬出の遺構についても「見つかったのは市民の協力のおかげ。結果を広く知らせたい」としている。

271荷主研究者:2013/07/11(木) 00:14:51

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20130622/201306220937_20288.shtml
2013年06月22日09:37 岐阜新聞
美濃金山城跡、国史跡に 織豊時代の面影残す、文化審答申

国史跡指定として答申された美濃金山城跡がある古城山=加茂郡八百津町から望む

 文化審議会の21日の答申で、県内では、木曽川中流域の左岸にある東美濃の中心的な山城「美濃金山城跡(可児市兼山)」が史跡の対象に入った。答申通り告示されれば、県内では24番目、可児市内では長塚古墳(同市中恵土)に次いで2番目の指定となる。

 今回指定を受けるのは、古城山(276メートル)山頂にある城跡やその山麓約30万平方メートル。石垣や瓦を使用した織豊時代の面影を色濃く残し、城割(しろわり)の状況などもよくとどめている点が評価された。

 美濃金山城は1537(天文6)年、美濃国守護代の一族斎藤正義によって「烏峰城(うほうじょう)」として建立されたが、美濃国制圧を目指す織田信長の配下森可成が65年に城主となり「金山城」と改名。関ケ原合戦後の1601(慶長6)年、犬山城主によって破却された。

 明治維新後は御料林となり、1953年に兼山町(現可児市)に払い下げられるまで、人が出入りすることがなく、本丸の礎石や瓦、破却された石垣などが良好な状態で保存されている。

 可児市は2006年から5年間にわたり発掘調査を実施し、歴史的価値の見直しを図ってきた。冨田成輝市長は「400年以上もそのままの姿が残り、戦国時代に思いをはせることができる全国でも貴重な史跡で、市民にとっての誇り」と話している。


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