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【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

28煌月の鎮魂歌 3 3/7:2015/04/06(月) 07:44:14
 突然のことに青年がむせ、反射的に顔をそむけようとするのを強引に引きつける。
小さい頭、片手で握りつぶしてしまえそうな繊細な頭に鉤爪のように指を食い込ませ、
前後にゆさぶり、腰を叩きつけんばかりに奥へ突っ込む。
 期待したような抵抗はない。青年の動きはまったく反射的なもので、抗おうとした
手からもじきに力が抜ける。喉の奥を突かれるたびに身体がひくつき、咽せる息が
わずかに漏れるが、うすく開いたままの目にうっすらと滲んだ涙以外、なにひとつ
変わりはない。
「くそっ」押し殺した声でユリウスは呻いた。「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ」
 全身を電流が走り、目がくらんだ。手を離し、ユリウスは溺れかけた者のように空気
を飲み込みながらベッドに身を沈めた。
 離された青年はその場に倒れ込み、両手をついて起きあがった。掴まれていいように
振り回された髪は雨のように散り、床に乱れて輝いている。美しく。何にも触れられる
ことなく。
「終わったのか」
 月が言う。天の高みの月が。何にも触れられない、孤高の月が。
「まだ、するか」
 その口もとにわずかにこびりついた白いものに気づいたとき、ユリウスの腹の底で
赤い潮が弾けた。
 獣のような叫び声をあげながら彼は相手を突き倒し、腕をひねりあげて床に這わせ
た。
「何を……」
 腰を上げさせられ、ズボンとベルトを引きちぎるように脱がされるのに一瞬の抵抗が
あったが、頬を数発張るとすぐに力は抜けた。光る海のような銀髪が汚れた床を
覆った。犬のような姿勢をとらされ、むきだしにされた臀を高く上げさせられても、
髪に覆われた白い顔はなんの感情も伺えなかった。
 慣らしもせずに突きいれたとき、背中がびくりと反り、手足がこわばったが、
それだけだった。そらせた白い喉は息をのむように一度上下しただけで、床の上に
ふたたび俯せた。
 狭くてきつい内部をユリウスは強引にかき混ぜ、突き上げ、揺さぶった。これまで
どんなクスリも酒も与えてくれなかった強烈な、吐き気のするような快楽だった。
熱くやわらかく、地獄の娼婦のあそこのように絡みついてくるそこは煮え立つ陶酔
の沼だった。

29煌月の鎮魂歌 3 4/7:2015/04/06(月) 07:45:04
 ユリウスは唸り、一度達し、また達した。欲望はまったく衰えなかった。それ
どころか、よけいに燃え上がった。中に出されるたびに短く息をのむ相手の身体が
目のくらむほど輝いて見えた。肘から先を床につき、はげしく揺さぶられながら
身体を支えている彼の動きを見て、ユリウスはあることに気づいた。
「お前。知ってるな」
 耳障りな呼吸音のあいだから、自分がそう言うのをユリウスは聞いた。髪で半分
隠れた相手の頬に、確かにかすかな震えが走った。
「犯られたことがあるんだろう。男に。それも何度も」
 青年は小さく息を吸い込み、何か反論しようとするかのように身を起こしかけた。
だがそれも一時のことで、すぐに唇を結び、あきらめたように力を抜いた。
「売女が」
 顔をそむけ、蒼白になりながら横たわる犠牲者に、ユリウスは毒のような言葉を
吐きつけた。毒は彼自身の舌も焼いた。喉を焼き、胸を焼き、一言口にするたびに
彼が相手に与えようと思う以上の傷を彼自身にも焼き付けていった。
「売女。淫売。牝犬。何がベルモンドの至宝だ。どうせ代々の当主様とやらと寝て
きたんだろう。それとも男なら誰でもいいのか。半分吸血鬼なんだったな。男と
やって、それから血を吸うのか。俺のことも、新しいミルクが欲しいってだけか。
この、淫乱が。牝犬。売女。売女」
「ちが……」
 あげた微かな声は小さな喘ぎにかき消された。これまでより強引に腰を叩きつけ
はじめたユリウスの動きで身体が揺さぶられ、声すらたてられないのだった。
 なめらかな内腿に精液と血が伝い落ちていく。上着が脱げ、乱れたシャツが
かろうじて引っかかっているだけの反った背中に爪を立てて、ユリウスは思いつく
かぎりの罵倒を嵐のように吐き続けた。売女や淫売はごく穏健なほうだった。
この地獄の街の最下等の娼婦でさえも顔色を変えるほどの悪罵が投げつけられた。
 呪詛にも似たそれを全身に浴びながら、青年はやはり動かなかった。苦痛に青ざめ、
大理石のような肌をいよいよ白くしながら、どんな罵倒にも屈辱にも殴打にも反応を
示さない。

30煌月の鎮魂歌 3 5/7:2015/04/06(月) 07:45:58
 それがいよいよユリウスを怒らせ、さらなる暴力に駆り立てた。上質なスーツの
上着の残骸がはぎ取られ、立てられた爪がいく筋もの赤い傷を作ってすぐに癒えて
いく。何度作っても消える傷に苛立ち、同じ傷をえぐるように爪を突き立て、噛み
つき、歯を立てる。
 血の味が甘く舌に溶けた。吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる。吸血鬼の血を
飲んだ者はなんになるのか。芳醇なワインのような数滴の血は味わったこともない
魔薬だった。夢中で腰を打ちつけ、毒の言葉を注ぎかけながら、ユリウスは甘い血と
肉をむさぼった。すぐに治ってしまう傷を舌でさぐり、食いちぎり、痛みと血を
そこから搾り取ろうとした。
 貫かれ、食われ貪られながら、青年はただ無抵抗に身を投げ出していた。うすく
開いた目にわずかに涙がにじんでいるほかは、ときおり震える息をついたり深々と
突かれて身をこわばらせたりするだけがすべてだった。人形同様に膝を立て、される
がままになっていることがよけいにユリウスを怒らせるのを知ってか知らずか、嵐の
吹きすぎるのを待つ花のようにじっと頭を伏せている。
 開いた喉もとになにか光るものがあった。血にくらんだ目でユリウスはそれを見た。
細い、古びた金の鎖。そう頭の端で思った。
 ぐいと大きく腰を進められ、声もなく青年は身をのけぞらせた。乱れたシャツの中
から鎖の先についたものが転がりだした。金色の、丸い、指輪のようなもの。男物の、
ごつい金の印章指輪──
 だがきちんと視界にとらえるより前に、さっと動いた青年の手がそれを隠した。
それまでの無抵抗が嘘のような素早い動きで青年は指輪をつかみ取り、手の内に
握りこんで引き寄せた。自分以外の誰の目に触れることも許さない、そんな動き
だった。
 握りこんだ拳を口もとに引き寄せ、唇がかすかに動いた。短い言葉が祈りのように
繰り返され、かたく閉じた目から涙がこぼれて落ちた。
 なんと言ったのかは聞き取れず、手の中に隠された何かを知らそうとしないことが
いっそうユリウスを激高させた。唇に甘い血をなめながら、ユリウスは獣と化して
責め立てた。

31煌月の鎮魂歌 3 6/7:2015/04/06(月) 07:46:44
 どんなにいたぶっても、殴られ抉られ痛めつけられても、拳はけして開かなかった。
ほとんどされるがままの青年の中で唯一力を持つもののように、かたくなにそれは
あった。汚れた床の上にたったひとつ残った、白く輝く意志。それはユリウスの、
こじあけて中を見てやろうという気持ちさえくじくほどの、強烈な拒絶を内包
していた。
 唸り、吠え、罵りながら、ユリウスは青年をただ犯した。銀色の月、天空にあって
ただ動かない、冷たい魔物の月を。

 
 汗と血と、──精のにおい。
 濁った空気の中に、ユリウスは手足を投げ出していた。指一本動かすのも億劫なほど
だった。肉体的にも、精神的にも。身体の下に汗で湿ったマットレスがあるのが
ようやくわかる程度だった。天井は霞がかかったように曇り、裸電球の光が橙色の
靄に見える。
 呼吸するのさえ一苦労だった。全身の力という力を使い果たしてしまったように
思える。
 長い時間だったのか、短い時間だったのかもわからない。朝なのか、夜なのかも
まったくわからない。外でいつのまにか百年が過ぎていたとしても、今のユリウス
なら受け入れたろう。
 頭が割れそうに痛む。たちの悪い酒を飲み過ぎたあとのような──だが、これまで
どんな酒だろうとクスリだろうと、バッドトリップの経験はなかったのだ。この美しい
魔に触れるまでは。
 きしむ首を無理に曲げて、ユリウスはベルモンドの使者のほうへ目を向けた。
 彼もようやく起きあがったところだった。いつまで続いたとも知れぬ激しい陵辱が、
さすがに彼の身体にもいくつかの痕跡を残していた。内腿にこびりついた血と精液の
跡、肩口や首筋に残る血、避けた服、透き通りそうなほど蒼白な頬。唇には噛み破った
あとがあり、朱い唇をいよいよ赤く染めている。
 むき出しの下肢をよろめかせつつ、壁にすがって立ち上がろうとするところだった。
今はかろうじて残骸が残っている程度のシャツの胸元、金鎖に通された何かをまだ
握りしめている。それが唯一の拠り所のように、しっかりと胸に押しつけて。

32煌月の鎮魂歌 3 7/7:2015/04/06(月) 07:47:28
 われ知らず、ユリウスは手をさしのべようとした。なぜ自分がそうしたのかわから
なかった。裸足の足の痛々しさに、むきだしの腰の細さに、引き裂かれた布に覆われて
いるだけの薄い肩に──手を触れて、支えてやりたいという闇雲な衝動がつきあげた。
 ゆっくりと顔がこちらを向いた。乱れた銀の髪の雲の向こうで、青い瞳が見つめて
いた。かすかな金色の光が奥で揺れていた。
「満足か」
 かすれていたが、言葉ははっきりしていた。ぎくりとユリウスは身を引いた。そして
自分が何をしようとしていたのかいぶかしんだ。
 青年は静かに、ただそこにいた。血と精液に汚され、血肉を食いちぎられ、服を引き
破られて体内までもさんざん蹂躙された直後にも関わらず、その声には一点の曇りも
なかった。
「私はお前の条件を飲んだ。今度はお前が私の申し出を飲む番だ」
 ユリウスは動けなかった。ブロンクスの悪魔、〈赤い毒蛇〉ともあろう彼が。
 悪罵も嘲弄も憤怒も、胸の中のすべてが死んでいた。酷い無力感と敗北感──普段の
彼であれば殺されようが認めなかったものが重くのしかかってきた。ユリウスは
はっきりと感じた。
 自分が敗北したことを。
「私とともに来てもらおう、ユリウス・ベルモンド」
 美しい声が弔鐘のように鳴り渡った。
「街の外に車を待たせてある。持ち物は要らない。すぐに出発する」

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49煌月の鎮魂歌4 追記:2015/05/23(土) 19:08:19
すいませんあとから気づきましたがベルモンドの若当主くんの名前間違えてますねorz
ミカエルはお父さんのほうで息子くんはラファエルでした…うあああorz
申し訳ありませんが脳内で修正してお読みください
お恥ずかしい…orz

作品庫に収納の際はすみませんが修正お願いいたします……orz

50管理者@うまい肉いっぱい:2015/05/25(月) 01:05:03
お疲れ様です
こちらもついでに修正後を代理投稿させて頂きます

51煌月の鎮魂歌4 1/16:2015/05/25(月) 01:05:43
Ⅱ  一九九九年  一月 (承前)

            1


 おおまかに言って、最悪な旅だった。ほぼ誰にとっても。
 ニューヨークの最底辺から着の身着のままで連れ出されてぴかぴかのリンカーン・
コンチネンタルにつめこまれ、本物の牛革のシートの上に尻を下ろさせられた。身体に
まつわりつくようなしっとりとしたシート、車内に備えられたバーに並ぶグラスとシャ
ンパン、ワイン、コニャックにブランデー。足の下の敷物でさえ特注品の緋色の毛足の
長い絨毯だ。
 生まれてこの方地獄の彼方に幻のように見るだけだった贅沢品の数々が、今は手を
伸ばせばどれでも取れるところにある。上等な酒の全部をつかみ取り、窓からばらま
いてやりたくてうずうずした。だが、身じろぎしたとたん、サルーン・シートの向か
い側に座っているアルカードの静かな目にぶつかって動けなくなった。
「飲み物を?」
 穏やかにアルカードが言った。ユリウスはわめきちらす寸前であやうく踏みとど
まり、「ブランデー」と不機嫌に言った。アルカードはちょっと動きを止めていたが、
他の者がだれも動かないと、自分で身を乗り出してバーから琥珀色の液体のたたえら
れた優美な瓶をとった。
 ユリウスはグラスに注ぐ暇を与えず、アルカードの手から瓶ごとひったくると、
これ見よがしにラッパ飲みした。はっと息をのむ声が聞こえた。アルカード自身は
当然のような顔で黙っているが、お上品なSPどもにとってはかなりのショック
だったようだ。
 ダウンタウンの安ウイスキーとは似ても似つかない、神の小便のような味だった。
瓶に半分ほどあったナポレオンの最高級グレードを三口ほどで飲み干してしまうと、
瓶を床に放り出して唇を嘗めた。
 アルカードが彼を連れて街を出てきたときの、黒服のSPどもの顔は確かに見もの
だった。

52煌月の鎮魂歌4 2/16:2015/05/25(月) 01:06:17
「アルカード様!」「よくぞご無事で──」と我勝ちに駆け寄りかけた奴らが、後ろ
に佇む半裸に革のジャケットとパンツだけをひっかけた、どう見てもストリート・
ギャングのユリウスを見たとたん、蒼白になって足を止めたのだ。
「彼がユリウス・ベルモンドだ」
 アルカードが言った。
「彼は私の要請を受け入れてくれた。すぐに本家に戻り、ラファエルとの対面と鞭の
授受に入る。ドアを開けてやってくれ」
 運転手がぎくしゃくした動きでリムジンの扉に手をかけた。ユリウスはすばやく
そいつよりも先に取っ手をつかみ、大きくドアを引き開けた。
「おっと失礼」
 蒼白に加えてひきつっている相手の顔に牙をむく笑いを返してやる。
「上流のマナーって奴には慣れてなくてね。赤ん坊じゃないんだ、車のドアくらい
自分で開けるよ。気分を悪くしたんなら謝るぜ?」
「ユリウス」
 穏やかな叱責が飛んだ。自分に対するものか、それとも立ったままわなわな震えて
いる運転手の気を静めるためかどちらかはわからなかったが。
 なんとか気を取り直した運転手はアルカードのためにドアを開け、貴公子はそうさ
れることに慣れきった動作で滑り込んできた。ユリウスの腹の奥でまた黒い何かが
うごめいた。ほとんど振動を感じさせることなくリムジンが夜の街を走り始めても、
その何かは消えることなくユリウスのはらわたをつついていた。
 目の前のアルカードはあの暴行の跡すらとどめていない。黒いスーツも白いシャツ
も、ぴったりと身に沿った新品そのものだ。
 ユリウスは彼が、それらを闇の中から呼び出して纏うのを目の当たりにした。壁に
身を寄せ、肩で息をしている青年の身体に甘えるように闇がまつわりつき、みるみる
うちに、部屋に入ってきたときとまったく変わらない衣装ひとそろいを織り上げた。
乱れた髪さえも見えない手で整えられ、もつれて汚れた髪はみるみるうちに輝きと艶
を取り戻した。顔をあげたときのアルカードは、すでに、ユリウスの前に現れたとき
とまったく変わらない、遠く輝く虚空の月に戻っていた。

53煌月の鎮魂歌4 3/16:2015/05/25(月) 01:06:49
ナポレオンを片づけたあとは、カットクリスタルのカラフェに入ったヴィンテージ
・ワインを、グラスに注ぐ手間は抜きにしてちびちび啜った。なめらかで冷たいガラス
の感触は何かを思い出させた。
 あの臭い地下室であったことを、ユリウスは目の前の麗人にあてはめようとしてみ
た。何もかもが夢だったような気がした。すぐ手を伸ばせば届くところにいるのに
触れることもできない存在、あれだけ喰らい、血を啜り、身体の奥の奥まで蹂躙して
やったというのに、その痕跡すら見えないことがたまらなく苛立たしかった。
 いっそあのボロボロの状態でここへ連れてこられたら、と夢想した。生々しい噛み傷
も腿を伝う血と精液もそのままの状態で、青年に心服しているらしいSPどもに、
こいつをこんな風にしたのは俺だと見せつけてやれたら。こいつが俺に身を投げ出し
た、だから好きなだけ犯してやった、何度でもまたやってやるとあざ笑ってやれたら。
 年月に熟成された赤ワインは血のように甘く渋みがあり、時間によって醸し出された
えもいえぬ芳香が一口ごとに広がる。だが俺はこれより美味いワインを知ってる、と
ユリウスはひそかに思った。向かいの席で微動だにせず目を閉じているアルカードの
細い白い首筋を見つめる。あの首に歯をたてて、にじみ出る血を嘗めたときの目くる
めくような感覚はこの瓶詰めの偽の血にはない。
 衝動的にカラフェをさかさにし、貴重な赤い滴をみな床にぶちまけた。周囲に座って
いたSPたちが一瞬腰を上げた。からになった器を放り投げると、繊細なクリスタルは
ふかふかの絨毯の上に転がって、切られた花のように横倒しになった。
「静かに」
 誰かが怒鳴り出す前に、アルカードが制止した。
「しかし、アルカード様。こいつはあまりに」
「ワインは換えがある。鞭の使い手に代わりはない。好きにさせてやるがいい。床を
片づけてくれ」
 SPたちが床を這い回り、ワインでシャツを汚しながら絨毯を畳み、バーの紋章入り
ナプキンや自分たちのぴしっとした白いハンカチなどで必死に床をこするのを、薄笑い
をうかべてユリウスは見ていた。全身に浴びる敵意が心地よかった。慣れた感覚だ。ブ
ロンクスではもっと酷い敵意、むしろ殺意が空気のようにそこらじゅうを漂っていた。

54煌月の鎮魂歌4 4/16:2015/05/25(月) 01:07:20
(そら、お前もだ)
 目の前で黙しているアルカードに向かって、声に出さずに呟いた。
(調子に乗った愚か者だと思ってみろ。自分を犯したあげくに好き勝手な馬鹿騒ぎを
やらかす思い上がった奴だ。怒れ。軽蔑しろ)
 しかしアルカードはまた目を閉じ、自分一人の世界に沈み込んでいるようだった。
組んだ腕がかすかに動き、胸元をさぐったように思えたが、すぐにまた彫像のように
動かなくなった。
 ユリウスは低声で呪いの言葉を吐き、すぐに大声でわめき始めた。ブロンクス仕込み
の聞くに余る下品な言葉が次から次へと連発される。SPたちが耐えかねたように口々
に騒ぎ始めた。
「うるさい、黙れ、こいつ──」
「下品にもほどがある! こんな男が鞭の使い手になど」
「アルカード様、こんな男が本当に正統なベルモンドの血を継いでいるのですか!?」
 アルカードはやはり無言だった。
 ユリウスはますます声を張り上げ、より抜きの汚い言葉を吐き、仲間内でさんざん
歌った卑猥な替え歌を声を張り上げて歌って、床をどんどんと踏みならした。視線は
アルカードに据え、その呼吸の一つまでも見逃さないよう感覚のすべてをとがらせて
いた。彼が不快の表情のひとつ、苛立ちの兆候のかけらでも見せればと願った。
 こんな黒服どもはゴミだ。塵だ。俺が見たいのは月だ。月が俺自身を見ているという
証だ。遠い遠い月、だれの手にも触れられない、触れたと思えば消えてしまう、幻の
ようなあの月だ──
 だがいくら騒ぎ立ててもアルカードの静かな顔は動かず、その口も最後まで開か
なかった。空港に到着したときようやく「降りろ」という事務的な言葉が発せられた
だけだった。
「ここからは飛行機だ。ベルモンド家所有の自家用機がスタンバイしている。税関を
通る必要はない。そのままゲートへ進めばいい。ついてこい」

55煌月の鎮魂歌4 5/16:2015/05/25(月) 01:07:50
居並ぶ空港職員の最敬礼と怪訝そうな顔を同時に向けられながら、目立たない片隅に
止められた航空機へと導かれる。
 外見はそう大きくはなかったが、内部はリムジンと同じく、最高級品に満ちたラウン
ジになっていた。こちらにもSPと、加えてそろいの制服を着たスチュワードが揃って
いて、アルカードが連れて乗り込んできた場違いもいいところなブロンクスの不良に
そろって目をむいた。
 自家用機はほとんど振動も何も感じさせることもなく大地を離れた。離陸するが早い
か、ユリウスはリムジンでもやっていた馬鹿騒ぎを再会した。シートベルトを放り投
げ、救命具を片端から放り出して床に散らかし、いくつかは風船のように膨らまして
からナイフを突き刺して、ぺちゃんこになるのを見て声を上げて笑った。いろいろ
いじくり回したあげく、お上品な天井に収納されていた酸素マスクが飛び出してきて、
不格好な海草のようにシャンデリアの隣でぶらぶらするのをあざけった。困惑している
スチュワードに次から次へと用事を言いつけ、無理難題を吹きかけた。
 手の届く限りの酒とソフトドリンクを全部要求し、半分ほどは飲み、あとは床や座席
や人にひっかけて回った。頭からコカ・コーラとシャンパンをかけられても、黒服の
SPたちはよく訓練された犬らしくじっと身動きもしなかったが、相手の感情を読む
すべに長けたブロンクスの蛇には、ロボットのようなかたい顔の奥で彼らがどんなに
怒り狂っているか手に取るようにわかった。ユリウスは笑って、オレンジ・ジュース
をもう一杯、おまけとして追加してやった。
 空飛ぶラウンジには怒りと苛立ちが充満していたが、ここでもそれと無関係な者が
いた。アルカードだった。
 彼は彼のために用意された席にじっと座り、膝に手を組んで窓の外に視線を向けて
いた。機内のことにはまるで注意を払っておらず、ユリウスがたてる騒音にも気づい
ていないかのようだった。

56煌月の鎮魂歌4 6/16:2015/05/25(月) 01:08:33
ユリウスもまた、彼などいないかのようにふるまっていた。酸素マスクはアルカー
ドの頭上にだけはぶら下がらず、所構わずひっかけられるジュースやビールはアルカ
ードだけは注意深く避けられた。
 混乱の渦の機内で、アルカードの周りだけが静謐だった。野卑な言葉をわめき、下品
なジョークをとばして馬鹿笑いしながら脇を通り抜けるときも、ユリウスは彼を無視
した。その存在を痛いほどに意識していたにもかかわらず。
「ユリウス」
 とうとう客席でやることが尽きて、ユリウスが操縦席へつながるドアをこじ開けよう
としはじめたその時、ようやくアルカードが口を開いた。
「子供っぽい真似はよせ。あと三時間ほどで到着する。それまでは座って、おとなしく
していろ」
 まるで手足から骨を抜かれたように、ユリウスはその場に座り込みそうになった。
 そのまま、操られるようにふらふらと席へ戻って、豪華なソファめいた座席に転げ
込んだ。席は彼自身がぶちまけたジュースとビールでべとべとになっており、アルコー
ルと柑橘類の入り交じった匂いがした。尻の下から台無しにされた飲み物がじわりと
にじみ出てくる。
 見るからにほっとした顔のスチュワードがそそくさと動き回り、ぐしょぬれになった
床を拭き、散らかった救命具や酸素マスクをもとに戻し、使い物にならないものは
どこかに運び去った。
 濡れた座席には応急処置としてビニールのクロスが敷かれた(ユリウスの所には
敷かれなかった。ささやかな抵抗というやつなのだろう)。配られた濡れタオルで
SPたちが頭や髪を腹立たしげにこすり、二度と着られそうにないスーツの上着と
シャツを換えているのを、ユリウスは黙って眺めた。頭にあるのは、アルカードの
冷静な一言だけだった。
『子供っぽい真似はよせ』。

57煌月の鎮魂歌4 7/16:2015/05/25(月) 01:09:10
つまり、すべてお見通しだったというわけだ。俺がさんざんわめき散らし、飲み物を
四方にひっかけ、下品か卑猥かあるいはその両方の(たいていは両方だった)馬鹿話で
騒ぎ立てていたのは、全部、この月色の貴公子から、なんらかの反応を引き出すため
だけだったということを。
 アルカードは相変わらず窓から外の雲海と、その上にさす陽光を眺めている。夜が
開けかけていた。昇ってきた太陽が雲の上にまばゆい光をそそぎかけ、空を半透明の
蛋白石の青に染め変えようとしている。
 アルカードの横顔も金色に縁取られ、月の髪もうっすらと黄金の靄をまとっていた。
ふと、かつては大学教授だったという酔っぱらいに教えられたいくつかの詩句が、
ユリウスの記憶の底から浮かび上がってきた。長い間思い出しもしなかった言葉だった。

  アポロンよ、あなたへの祈りから歌を初めて古の武士たちの勲しを
  思い起こそう、王ペリアスの命により黄金の羊毛を求めて
  黒海の入り口からキュネアイの岩礁を通り抜け
  みごとな造りのアルゴ船を彼らは漕ぎ進めていった。

 その老いた酔っぱらいは母が殺された直後、まだ街での生き方を知らなかったユリウ
スの面倒を見、食事と寝る場所をくれ、読み書きと簡単な計算を教えてくれた。だが
ある日、ひと瓶のジンを盗もうとして撃ち殺されてしまった。殺した奴らが部屋まで
押し掛けてこないうちに、ユリウスは数冊の本とありったけの金を持ってその場を逃げ
出した。
 本はその後しばらく手元を離さなかったが、ギャングの使い走りをするようになって
からは手に取ることも少なくなり、やがてどこかに行ってしまった。本など読むのは男
らしくない行為だというのが新しい同僚たちの意見だった。ポルノ雑誌や三流ゴシップ
誌、品のないカートゥーン、人殺しや強姦が満載のダイム・ノヴェルならまあいい。
しかし文学、特に古典や詩などという女々しいものはもってのほかだ。

58煌月の鎮魂歌4 8/16:2015/05/25(月) 01:09:43
 金羊毛。黄金の羊を求めたアルゴ号の英雄たち。あの部屋にあったのは酒と、それか
らぼろぼろになった古典のペイパーバックの山だった。古代ギリシャの原文を老人は
驚くほど流暢に暗唱してみせ、それに該当する英語部分を震える指先で指し示した。
まだ人を殺したことのなかったユリウスはじっとそのかすれた声に聞き入り、遠い昔、
遠い場所で、神話の英雄たちが繰り広げる冒険譚に耳をすました。

  さあ今度はあなた方ご自身が、金羊毛をヘラスへ持ち帰ろうと望む
  われわれに力を貸していただたきたい。
  わたしがこの旅をするのも、アイオロスの裔に対する
  ゼウスの怒りの元、プリクソスの生贄をつぐなうためであるから。 

 物語の中では世界は輝いていた。天には神々が君臨し、怪物がそこらじゅうを闊歩
し、魔法と苦難が英雄たちに襲いかかったが、彼らは知恵と勇気でそれらを乗り越え、
ついには目的を果たして国へと凱旋する。
 そんなことはしょせんあり得ないのだと、それからの数年間で嫌というほど叩き込
まれたはずだった。天に神などおらず、怪物とは人間そのものだ。知恵と勇気など
なんの役にもたたない。必要なのはただ用心深さと狡猾さ、益不益をすばやく見定める
獣の嗅覚と、敵を殺すためのナイフか拳銃、それだけだ。
〈蛇〉と呼ばれるようになって少しして自分の姓と、それが他人の目にそそぎ込む恐怖
──あるいは畏怖の意味を知ったが、その当時には何の意味もなかった。魔王? 
怪物? 英雄? ディズニー映画じゃあるまいし、と彼は嘲ったはずだった。そんな
ものがこの世にいてたまるか。歴代続く魔狩人の家系? 愉快だ、まったく滑稽だ。
楽しいおとぎ話だ。スピルバーグにでも話してやれば、大喜びで十本か二十本のばか
ばかしい映画を作って大当たりをとるだろうよ。

59煌月の鎮魂歌4 9/16:2015/05/25(月) 01:10:13
 しかし今はいつの間にかそのおとぎ話に巻き込まれ、身動きがとれなくなっている。
何を言われても聞く耳を持たない蛇、言うことを聞かせようとすれば毒の牙ですばやく
相手を殺すブロンクスの赤い蛇が、何かに操られるように自ら巣を歩み出て、こんな
豪華な飛行機のビール浸しの座席に腰を下ろして、見も知らない場所へ運ばれている。
一生行くことも、見ることもないと思っていた、父親の血筋が生きている場所へ。
 ななめ後ろに座っているはずの人物のことは考えずにおこうと努力していたが、難し
かった。どんなに頭をほかのことに向けようとしても、揺れる銀髪と氷河の青の瞳が
思考に割り込んできた。彼こそは魔法の使者であり、文字通り伝説の中の存在であり、
一千年近くを存在し続けている半吸血鬼なのだった。
 他はどうあれ、ユリウスはそのことだけは疑っていなかった。これほど強烈に人の心
を呪縛するものがただの人間であるはずはない。暗い地下室で無心に奉仕を続けていた
白い顔と、小さな舌の動きがふいに鮮明に脳裏をよぎった。それから乱暴に貫かれて
のけぞる背のしなやかな曲線と、何かを必死に握りしめていた傷ついた拳。
 下腹に急激にこみあげてきた熱を、ユリウスはむりやり押し戻した。立ち上がって
相手につかみかかり、床にねじ伏せてもう一度とことんまで犯しぬいてやりたい衝動
と彼は格闘した。
 アルコールの匂いのする座席に背中を押しつけて、むりやり目を閉じた。瞼をすか
してくる陽光が眩しい。疼く手足を折り曲げて、無意識の奥へ逃げ込もうと身を縮め
る。たちこめる匂いが記憶を誘った。すえたビールとジンの臭いに満ちた屋根裏部屋
で、幼い自分が必死に唇を動かしながら指で文字を追っている。耳の奥であのアル中
の老人のしわがれた声が、古代の詩人による黄金の詩句を静かに呟いていた。

  冷酷な愛よ、人間の大きな禍、大きな呪いよ、
  あなたゆえ、呪わしい争い、呻きと嘆きが
  さらにかぎりなく多くの他の苦しみがはげしく起こるのだ。
  神よ、われわれの敵の子らに武器をとって起ちたまえ、
  メデイアの胸にいとわしい狂気を投げ入れたときのように!

60煌月の鎮魂歌4 10/16:2015/05/25(月) 01:10:46



「ユリウス」
 いつのまにか、本当に眠っていたらしかった。
 軽く肩に手をおかれて、彼はまさに驚いた蛇のようにとびあがった。反射的に
身構え、いつも腰につけていたはずのナイフと鞭を手探りする。
「到着した」
 相手は平然としていた。ユリウスが目を覚ましたことを確かめると体を起こし、
席から立つようにうながした。
「ここから屋敷まではまた車だ。半時間ほどでつく。もう連絡は行っている。お前の
来るのを待っているはずだ」
「へえ、そいつはありがたいな」
 声がかすれる。舌が乾いて口蓋に貼りついているようだ。二、三度咳払いして、
ユリウスはなんとか嘲笑するような口調を保った。
「歓迎パーティでもしてくれるってのかい? なんだったらもっと芸をしてやるぜ。
おまわりか? お手か? ちんちんか? あんたも手伝ってくれるんだろうな」
 アルカードが聞いたようすはなかった。彼はすでに席を離れ、おろされたタラップの
方へラウンジの出口をくぐっていた。呪いの言葉を吐いて、ユリウスは後を追った。
 深い森林の中にまっすぐ延びた滑走路に、飛行機は停止していた。小さな管制施設が
隅にある以外は、建物らしきものはなにも見えない。あたりは静かで、鳥の声さえ
聞こえなかった。タラップを降りたすぐ先に、ニューヨークを出る時に乗ったリムジン
よりほんの少し小型なだけの高級車が止まり、ドアを開けて乗客を待っている。
「おいおい、なんにもねえじゃねえか。ベルモンドの本家に俺をつれてくんじゃなかっ
たのかよ」
「ここはすでにベルモンド家の土地だ」

61煌月の鎮魂歌4 11/16:2015/05/25(月) 01:11:23
 先にするりと乗り込んだアルカードが言った。あまりに自然な動きだったので、
ユリウスも思わず後に続いていた。バーがないだけでほとんど豪華さは変わらない車の
内装を見てから、こんなに素直に乗ってやるのではなかったと悔やんだが、もうその時
には運転手が扉を閉め、車はゆっくりと滑走路を出て森の中の道路を走り始めていた。
「正確に言うならば〈組織〉が所有している土地の一部だ。この一帯は闇の種族の侵入
を許さない結界と精霊の加護に守られている。闇の者のみならず、ベルモンド家の
人間、あるいは〈組織〉の中でもごく限られた人間でなければ、ここに入ることも
発見することもできない」
「ご大層なこった。よく俺なんぞが入れたもんだな」
「お前はベルモンドの血を継ぐものだ」
 あっさりとアルカードは言った。
「それでなければ飛行機はこの滑走路に降りることはできなかったし、そもそもこの森
を見つけることもなかったはずだ。ここは地上の一部ではあるが、なかばは異世界に
隔離されている。〈組織〉の全貌が誰にも知られず、構成員のほとんどさえ自分が何に
属しているのか知らないのはそのためだ。〈組織〉は異界と現界のはざまにあり、ベル
モンド家はその架け橋であり、門番として存在する」
「あんたはどうなんだ。ベルモンド家が架け橋であり、門なら、あんたは何だ──番
人か?」
 アルカードは答えなかった。
 車は木々の間に切り開かれた舗装路を抜けていった。まっすぐではなく、わざと曲げ
てあるかのようにカーヴの多いその道路をたどるうちに、うなじの毛を引っ張られてい
るような妙な感覚をユリウスは覚えだした。
「やはり、わかるようだな」
 うるさそうに手をあげて首をこすっているユリウスを見て、蒼氷の目がわずかに笑った。

62煌月の鎮魂歌4 12/16:2015/05/25(月) 01:12:00
「この森にほどこされた結界は非常に強い。〈ヴァンパイア・キラー〉の使い手が事実
上不在な今はことに強化されている。闇の者の侵攻がもしこの中心部にまで及んだ
場合、〈組織〉の心臓部は壊滅する」
「中心、というのが、ベルモンド家か」
「そうだ。あれだ」
 ようやく、緑が切れた。
 手と手を組み合わせて空間を遮っているようだった黒みを帯びた木々の枝がとつぜん
途絶え、広々とした芝生の中を車は走っていた。真正面におそろしく古風な、まるで
中世の城か砦のような巨大な石の門がそびえている。
 鉄の箍と鋲で補強された木製の扉は見るからに時代を帯びていたが、多少の攻撃程度
では傷もつけられないことは明白だった。でなければ風雨にさらされた木が、一目で
わかるほどの精気を帯びて傷なくそそり立っているわけはない。
 扉は車が近づくとゆっくりと開いた。周囲に杭を植えた空堀と落とし格子のないのが
不思議なほどの石の城門を通り抜けると、そこには美しく整えられた広大な前庭と、
白い砂利の敷かれた車回し、冬支度をして丁寧に世話をされた、花壇の広がる庭があっ
た。今は真冬でなにもないが、季節になればここは天国の花園になるのだろう。
 黒みを帯びた緑の木々を背景に、城郭と呼ぶにふさわしい、広壮な石造りの館が
そびえ立っていた。
 左右の翼が前庭を抱くように広がり、数多くの窓がたくさんの目のように陽光を
反射している。隅々にツタや蔓薔薇が絡みつき、冬だというのにちらほらと白い花を
咲かせている。巨大な獣が眠りながら意識は醒ましているかのように、どこか異様な
力と、畏怖を否応なく感じさせる屋敷だった。後方の森はさらに深く、暗く、その前
に建つゴシック様式の多くの尖塔を持つ館は、まさに闇と光の間にうずくまる番犬の
風格だった。
 白い砂利と芝生が広がる前庭から優美な曲線を描くスロープが登り、重厚な玄関の
大扉につながっている。扉が大きく開き、屋敷から誰かが飛び出してきた。一人の
少年が、モーター音を響かせながら、猛スピードでこちらへ向かってくるところだった。

63煌月の鎮魂歌4 13/16:2015/05/25(月) 01:12:35
「アルカード!」
 声変わりの終わりきっていない、高くかすれた声だった。ふさふさした金の巻き毛を
汗で額に貼りつけた彼は、乗っている電動車椅子から飛び出さんばかりの勢いで突進
してきて、車から降りたばかりのアルカードに体当たりするようにしがみついた。
「ラファエル」
 アルカードの声は甘えん坊の子供への愛情と困惑とを半々にしたものだった。彼は
無意識のように手をあげ、少年の髪をなでた。
「ベルモンドの若当主のすることではないな。礼儀はどこへいった」
「そんなもの、どうでもいい」
 つんと鼻をあげた少年は実に整った顔立ちだった。
 むろん、アルカードの人ならぬ美には及ばないものの、美少年と呼んでさしつかえ
ないだろう。長年にわたって注意深く混ぜ合わされてきたさまざまな血統が、この
少年には最良の形で現れていた。
 大人びて見えたが、おそらく二十歳にはまだなっていまい。ベルモンドの者によく
現れる濃いブルーの目、白い肌、貴族的な鼻筋と高い額、泡立つような金髪としっかり
とした肩と腕、広い胸。
 だが、そこまでだった。電動の大きなソファのような車椅子が、彼の腰から下を
支えていた。
 膝の上にかけられた毛布で、下半身はほとんど隠れてしまっている。車椅子の足乗せ
に乗った足はいくら上半身が動こうともぴくりともせず、贅沢なムートンと紋織りの
部屋履きで、完全に人目から覆われていた。
「ぼくは最後まで反対したんだよ、なのに、黙って行っちゃうなんてひどい」
 アルカードの袖をひっぱりながら、少年は頬を膨らませた。
「急いであとを追わせて間に合ったからよかったけど、もしそうじゃなかったら、
あなた、また一人で行ってしまうつもりだったんでしょう」
「私は一人でするべき仕事は一人でこなす。知っていると思うが」
「だって心配だったんだもの」

64煌月の鎮魂歌4 14/16:2015/05/25(月) 01:13:16
 すねたように少年は唇をとがらせた。ふっくらとした薔薇の花びらのような唇に、
純粋ゆえの幼い脆さがかいま見えた。
「あなたはベルモンドの大切な宝物なんだよ、それを忘れないで。あなたがいなくなっ
たら、〈組織〉も、ベルモンドも、きっとどうしていいかわからなくなっちゃうよ」
「私はそれほどたいしたものではないよ、ラファエル。──ああ」
 車を降りたユリウスにむかって、アルカードは振り返った。
「紹介しよう。こちらはユリウス・ベルモンド、母違いの君の兄だ。ユリウス、これが
君の義弟、ラファエル・ベルモンドだ」
 ラファエルはしゅっと息を吸う音をたてて口を閉じた。
 空気が張りつめた。二対の青い瞳が出会った。確かに同じ血を引いていると一目で
わかる、鏡に映したような濃いブルーの目だった。
 魔狩人ベルモンド家の瞳、聖なる鞭の使い手として連綿と受け継がれてきた血の証。
ユリウスは一瞬何もかも忘れ、自分と同じ力を帯びた、同じ血を継ぐブルーの瞳に見
入った。
「──ぼくに兄なんていない」
 沈黙を先に破ったのはラファエルのほうだった。
 赤らんでいた頬が徐々に青ざめていき、笑みの形の唇は凍りついてひきつった。彼は
アルカードから手を離して、あとずさるかのように車椅子の上で背を反らせた。
「ラファエル──」
「ぼくには、兄なんかいな
い!」
 喉を絞って叫ぶと、ラファエルはアルカードの手を振り払った。車椅子のタイヤをきし
ませて向きを変え、砂利を弾き飛ばしながら来たとき以上の勢いで屋敷へ向かって走っ
ていってしまった。
 正面扉がすさまじい勢いで閉まった。まだ少年の頭の位置に手を泳がせたままのア
ルカードは沈んだ表情で立ち、かき乱された砂利と屋敷から続くタイヤの轍を見ていた。

65煌月の鎮魂歌4 15/16:2015/05/25(月) 01:13:50
「……ハハ」
 はじめあっけにとられていたユリウスの喉に、急激に笑いがこみ上げてきた。彼は額
に手を当て、車によりかかって、心ゆくまで笑った。
「ハハハ。ハ、ハ、ハハハ、ハ」
 こいつはいい。あのお坊ちゃんが俺の弟か。あのお綺麗な金髪と女の子みたいにすべ
すべの頬の。この世の苦労や汚穢や本物の世界のどん底がどんなところか知りもしない
だろう、あのかわいらしい坊やが。
 吐き気がする。
「ユリウス」
 笑い続けて息を切らしているユリウスに、アルカードが声をかけた。
「到着してすぐで悪いが、〈組織〉の上層部が君に会いたがっている。疲れているだろ
うが、案内させるから身なりを整えて、本館の大広間に来てもらいたい」
「そいつは強制か、それともお願いか?」
 まだ止まらない笑いに息を詰まらせつつ、ユリウスは鼻を鳴らした。
「身なりと来たね。その上層部ってのが今の坊やみたいなお歴々ばっかりだとすりゃ、
ずいぶん陽気なパーティになりそうじゃねえか。なあ、兄なんていないんだとよ、
聞いたか?」
 くく、と喉を鳴らして、ユリウスはアルカードの胸をつついた。
 それから一転して野獣の形相になり、しわ一つないシャツの襟をわしづかみにして
引き寄せた。いっせいにSPたちが動きかけたが、アルカードの一瞬の視線で止められた。

66煌月の鎮魂歌4 16/16:2015/05/25(月) 01:14:44
「後悔させてやるぜ。てめえら全員な」
 ブロンクスの毒蛇と呼ばれた牙をむき出しにして、ユリウスは囁いた。
「どうこう言ったって俺にすがらなきゃならない能なしどもに思い知らせてやるよ、
てめえらがいったい何を引っばりこんじまったのかをな。ああ、鞭なら使ってやるよ、
だがその代わりに俺が何をしようが何を欲しがろうが文句はつけられねえってことを
忘れるな。あの坊やが使いもんにならねえ以上、俺がいなきゃ、〈組織〉とやらが何
百年もかけて組み立ててきた計画はいっさいがっさいおじゃんになる、そうだろうが?
だとしたらあんたたちみんな、目的を果たすためなら、這いつくばって俺のケツを
嘗めろと言われてもしょうがないってことになる」
 アルカードは無表情のまま見返していた。蒼く輝く、ふたつの遠い月の瞳。
 ふいに締めつけられるような胸苦しさを覚えて、ユリウスは乱暴にアルカードを突き
放した。
「さ、やれよ、とっとと」
 いまいましげに唾を吐いて、ユリウスは腕を組んだ。
「ケツを嘗めるのはまた別の機会だ。とりあえずはあんたたちの言うとおりにしてやる
さ。案内しな。ついてってやるよ」

67煌月の鎮魂歌5 1/22:2015/07/19(日) 09:47:55
             2

 見るからにおびえた顔のメイドが先に立ち、強面のSP二人があとに続いた。
ユリウスはのんびりとベルモンド家本邸の広い廊下を歩き、配された美術品や調度、
複雑な細工の羽目板、彫刻、ドアノブや窓枠ひとつにもある時代の積み重なった
貴重さを、慣れた盗賊の目で吟味した。
 あれをポケットに押し込めればブロンクスじゅうの女どもを買いきりにできるな、
と壁の小龕に配された掌ほどの大理石像を見て思う。いや、ブロンクスどころか、
ニューヨークじゅうの女を買っても山ほどお釣りがくるかもしれない。あるいは
アメリカじゅうでも。
 贅沢な紋織りの壁にかけられた小さなイコンや絹のように薄い東洋の壷、明らかに
著名な画家の手になるものと思われる絵画の数々、〈赤い毒蛇〉にとってはよだれの
出そうなものばかりだ。びくびくと後ろを振り返ってばかりのメイドと、怪しい動き
をすればすぐにも掴みかかろうと身構えているのが伝わってくる屈強な男二人に
はさまれて歩きながら、ユリウスはレザーパンツのポケットに指をかけ、口笛を
吹いていた。
 恐怖も敵意も毒蛇にはおなじみだ。刺激があっていい。こちらを伺うメイドに
歯をみせてにやりとしてやると、彼女は飛び上がらんばかりに縮みあがり、小走りに
先へ進みだした。ユリウスは笑いをかみ殺した。
 案内されたのは浴室のついた客用寝室らしきひと間だった。この一部屋だけでも、
ブロンクスの標準的な住民の住処からすればインドのマハラジャの宮殿に相当する。
飾り気のない家具はすべてアンティーク、天蓋つきの古風なベッドに糊のきいた白い
シーツがかかり、絨毯はアラベスク模様の壁布とよく調和する冴えた青のやわらかな
中東風だった。

68煌月の鎮魂歌5 2/22:2015/07/19(日) 09:48:41
 さりげない歴史と富、贅沢ではあるが上品な趣味の中で、アルコールの臭いの
しみついたレザーパンツとジャケットのユリウスはいかにもな異物だった。浴室へ
送り込まれ、すでに満々と湯のたたえられた広いバスタブに入るように言われた。
身体を隅々までよく洗い、それから用意された服に着替えて出てくるようにと。
 何か愉快なことを言って挑発してやろうとしたが、涙目でおびえきっているメイド
と、今にも銃を抜きかねない様子で懐に手を入れかけているSP二人を見て、ここで
騒ぎを起こすのはあまりおもしろくないと考えた。泣き出しそうな小娘ひとりと、
頭から湯気を立てている筋肉男二人程度では観客が足りない。サーカスには大勢の
お客が必要だ。ユリウスは肩をすくめて両手をあげた。
「オーケイ、わかったよ、おとなしくする。そのへんのものをちょいと失敬したりも
しない。だから出てってくれないか。ガキじゃねえんだ、着替えくらいひとりで
できる。それとも俺がちんぽを洗うのを手伝いたいかい、そこのお二人さんよ?」
 SP二人の黒いスーツが弾け飛びそうに膨らんだが、ユリウスが騒がない限り
手出しはしないように命じられているらしい。太い首まで赤黒くしながら、青くなって
震えているメイドを先に立てて二人は出て行った。無言の怒りを示すようにドアが
叩きつけられる。ユリウスはにやりとし、でたらめな口笛の続きを吹きながら、
服を脱ぎはじめた。
 率直に言えば、べとつくビールとジュースの混合物の臭いには少々うんざりして
きていたところだった。裸になり、香りのいい浴用塩の入った湯に身を沈めると自然
とため息が漏れた。
 ブロンクスでは入浴は最高の贅沢だった。少なくとも、〈毒蛇〉と呼ばれるように
なるまでは。あの寂れた教会跡に巣を作り、暴力と恐怖で君臨するようになってから
はほとんど手には入らないものなどなかったが、設備の整った浴室や快適な温度の
湯の出る蛇口など、そもそもあの地獄の鍋底には存在しない。

69煌月の鎮魂歌5 3/22:2015/07/19(日) 09:49:20
 ほとんど身体を洗わない者も多い中で、ユリウスは例外的によくシャワーを浴び、
身なりにもそれなりに気を使っていたが、それもまた、力の誇示の一つだった。髪を
清潔に整え、血の臭いをコロンで消すこともまた、毒蛇の鱗を輝かせる。むさ苦しい
ならず者は素人を怯えさせるかもしれないが、本当に危険なのは、紳士の身なりに
爬虫類の心を宿している奴らのほうだとユリウスは知っていた。
 熱い湯と冷水を交互に浴び、バスブラシとタオルですみずみまで身体をこするのは
実際気分のいいものだった。しばらく嫌がらせのことも忘れて、ユリウスは長年の
スラム暮らしでしみついた根深い汚れをこすり落とすことに専念した。赤い髪はいよ
いよ炎のように真紅に冴え、筋肉を覆う皮膚には若さのしるしの艶と張りが戻って
きた。バスタブの湯を何度か張り替え、きれいな湯に浸って芯まで温まるころには、
人の心を裂くような鋭い目つきのほかは、すらりとした長身の、かなり人目を引く
精悍な顔立ちの青年ができあがっていた。
 髪を乾かし、用意されていたバスローブをひっかけてぶらぶらと出ていってみると、
ベッドの上に新しい服が一式広げられていた。脱ぎ捨てた元の服を探したが、なく
なっている。おそらく持ち去られたのだろう。ユリウスは肩をすくめて、またあの
ビール臭い服を着て出て行ってやる計画を放棄した。服がないのでは仕方がない。
それに、せっかくさっぱりした身体にまたべとつく汚れた服を着るのもぞっとしない。
 服を調べてみたが、ここにある調度品と同様、どれもこれも一級品のテイラーメイド
だった。ブランド物などという俗な名では呼ばれもしない、ほんの一握りの人間だけが
手にすることのできる本物の高級店のタグが、控えめながら誇らしげに刻まれている。
 つややかな生地のディナージャケットを手にとって、鼻を鳴らす。あいつらは
本当に、俺がこんなものをいい子に身につけていくもんだと思ってるのか? あきれた
話だ。

70煌月の鎮魂歌5 4/22:2015/07/19(日) 09:49:55
 いっそのこと全裸で出て行けばいい気味だとも思ったが、さすがにそれは自尊心が
許さなかった。結局、下履きとスラックスに靴を履き、上半身は裸にシャツだけを
はおって、前は開けたままにした。ご丁寧に蝶結びのボウタイまでつけてあるのを
手にとってにやりとする。あいつらは本当に俺がこんなばかげたものをくっつけた
ウサちゃんになると思ってるのか?
 だったら見せてやろう。
 真新しい革靴に裸足をつっこみ、踵を履きつぶしてぶらぶらと出ていく。わざと
足をひきずって騒々しい音をたててやると、部屋の前で待っていた筋肉男二人が瞬間
息をのみ、それから全身を怒りに膨れあがらせた。
「戻れ」
 語気するどく一人が言った。
「服を着るくらい自分でできると言ったな。その格好はなんだ。もっとまともな格好
を……」
 ユリウスはその鼻先に指を突きだし、ひっかけたボウタイをくるくると回してみせる
と、肩にかけていたディナージャケットを持ち上げた。上等な生地が張りつめ、糸が
はじけた。丁寧な職人仕事の結晶はあえなく二つに引きちぎられ、黒い布の塊になって
だらりと垂れ下がった。
「すまんな。どうも不器用で」
 明るくユリウスは言った。
「ごらんの通りのスラムの鼠なもんでな。こういうしゃれた衣装には慣れてないんだ。
まあ勘弁してくれよ。で、お待ちかねの皆さんはどこだい?」
 二人は視線を交わしあうと、一人が脇に寄って携帯端末を取り出し、怒った口調で
何か囁きはじめた。ユリウスの態度に関して、誰か権限を持つ相手に対処を仰いでいる
らしい。ユリウスはうす笑いを浮かべて指先でボウタイを回し、踵を潰した靴をきしま
せながら待った。また新しい服が持ち込まれてきたとしても、同じことをしてやる
つもりだった。

71煌月の鎮魂歌5 5/22:2015/07/19(日) 09:50:27
 この服は奇妙なくらいぴったりとユリウスの身体に合っている。つまり彼らとして
は、実際に接触する前からユリウスについて調べ上げ、文字通りスリーサイズから
尻の毛の数まで詳細に数えていたということだ。最初から特定の人物のサイズに調整
して作られていなければ、これほど身体に合ったものはできない。自分がベルモンド
家から無視されていると思いこんでいた長い間、彼らは一瞬たりとも目を離さずに
血族の物を監視していたのだ。ご丁寧にありがとうよ、クソ野郎ども。
 端末を切り、乱暴にポケットに押し込みながら男が戻ってきた。怒りと不満で今にも
はちきれそうになっている。
「ついてこい」
「このままでかい?」
 大げさにユリウスは驚いてみせた。
「こういう格好が上流の方々にゃ流行なのかい? そいつは驚きだね」
「いらん口をきくな。黙ってついてこい」
 二人は巨大な壁のような背中を向け、ぐんぐん廊下を進みだした。その膝を後ろから
蹴ってやる誘惑に屈しそうになったが、そんなことよりもサーカスを早いところ楽しむ
ことだと思い直して、ユリウスはことさら足を引きずって歩き、痛めつけられた子牛革
の靴が文句を言うように軋みながらバタバタ音を立てるのを楽しんだ。一方がちらっと
肩越しに睨みつけてきたが、それ以上構うなと指示されたらしい。ぐっと唇を引き
締め、意地のように前だけを見て、大股にさっさと進む。ユリウスは指先でくるくる
回る絹製の蝶のようなボウタイをもてあそびながら、調子外れな口笛を吹いてついて
いった。
 いくつもの扉を左右に見ながらかなりの距離を歩いた。少しばかりユリウスが退屈
しだしたころに、ひときわ壮麗な大扉の前で、二人は立ち止まった。
 扉の前には白い髪をきつくひっつめ、十八世紀の小説から抜け出してきたような
喪服めいた黒いドレスを着た老女がいた。相当な年齢のようだったが、その姿勢は
鉄棒のようにまっすぐで、あまりにもぴんとした背中は折り曲げることができるのか
どうか、ユリウスにも判断しかねるほどだった。皺だらけの顔の中で、二つの氷の
かけらのような目が、なんの感情も浮かべずに一行を見回した。

72煌月の鎮魂歌5 6/22:2015/07/19(日) 09:51:01
「ご苦労でした」
 たるんだ喉から出る声は木の葉のこすれる音に似ていた。
「お前たちは下がりなさい。わたくしはこちらのお屋敷の家政婦を任せられており
ます、ボウルガードと申します。皆様がお待ちです、ユリウス・ベルモンド様。
どうぞこちらへ」
「へっ、そいつはどうも」
 ユリウスは老女の鼻先でボウタイを振り回してみせたが、灰色の睫にとりかこまれ
た目はまばたきひとつしなかった。ぴんとした身体はきしみ一つあげずになめらかに
回り、ひそやかに扉を叩いた。
「皆様。ユリウス・ベルモンド様がご到着です」
「中へ」 
 誰のものともわからないくぐもった声が返った。老女はすべるように動いて扉を
開いて横に回り、頭を下げた。頭を下げてもまだ鋼鉄のガーゴイルのような存在感を
発する彼女をあえて無視して、ユリウスはゆっくりと扉の中に踏みいった。
 息苦しいほどの沈黙があり、それから、小さな生き物が騒ぎ出すように声を殺した
囁きとうめき声が四方からわきあがってきた。
 ユリウスは裸の胸にあたるシャツの襟をはじいて、歯を全部むいた最高に愛想のいい
笑みを見せてやった。ブロンクスではこれを見た人間で震え上がらない者はなかった
し、ほとんどの者は生き残りもしなかった。
「よう、ご一党」
 機嫌よくユリウスは言ってやった。
「はるばる来たってのにご挨拶もなしかい? 拍手の一つでもして迎えてくれても
いいんじゃないのかね」
「アルカード!」 
 年老いた震え声が憤然と叫んだ。
「これが本当にミカエルの落とし胤なのか? 間違いなく?」

73煌月の鎮魂歌5 7/22:2015/07/19(日) 09:51:36
「間違いない」
 耳をそっと撫でるようなやわらかい声が答えて、ユリウスの注意はいやおうなく
そちらに引きつけられた。
 ホッケーでもできそうなおそろしく広い部屋は何十人もの老若男女で埋まり、
ほとんどの顔が当惑や怒り、反感、困惑、嫌悪といった色に塗りつぶされていた。
その中心に、廷臣を従える幼王のように、車椅子に座したラファエル・ベルモンドが
青い瞳を憤怒に燃やしていた。
 そしてその隣に、銀色に輝く人型の月の影が、重みを持たない者であるかのように
静かに佇んでいた。
「彼がミカエルの息子であることは、この事態に彼を呼び寄せるにあたって徹底的に
再調査され、再検証された」
 淡々とアルカードは続けた。
「彼は確かにミカエルの息子であり、ベルモンドの血と能力を受け継いでいる。その
ことは、私自身も確かめた。ヴァンパイア・キラーの使い手となれる人間は、彼しか
いない」
「こんな……不良が、あの聖鞭の使い手になるだと?」
『不良』の代わりにもう少し不穏当な言葉を口に出しそうになったようだが、あやうく
踏みとどまったらしい。ユリウスは哀れみをこめて鼻を鳴らしてやった。お上品な奴ら
というのは面倒くさいものだ。もっとバリエーションのある呼び方を、ユリウスなら
いくつも知っているのだが。
「素質はある」
 アルカードの返答は動かなかった。
「むろん、未熟な部分はある。正式な訓練を受けていないし、人間相手はともかく、
人外の者との戦いは未経験だ。しかし、それはこれから習熟させればすむことだ。
私がやる」

74煌月の鎮魂歌5 8/22:2015/07/19(日) 09:52:10
「あなたが!?」
 ラファエル・ベルモンドが、殴られたようにぐらりと身体を傾かせて身をよじった。
かたわらのアルカードを見上げた顔は、衝撃で凍りついていた。
「あなたがあの……あの、野良犬の相手をするの? 訓練を? そんなことさせない、
僕は許さないよ! ベルモンドの当主として、あなたにそんなことはさせない、僕が
命令する!」
「われわれには時間がない、ラファエル」
 車椅子の少年を見下ろして、アルカードはさとすように言った。
「お前には師となる父がいた。だがミカエルはもういない。お前はまだ正式な鞭の
使い手ではない。私は五百年の昔から、代々のベルモンド達のそばにいた。彼らの
動きは熟知している。私がやるしかないのだ」
 それにそいつはそもそも立つことすらできない、とユリウスは声に出さずつけ加え
た。アルカードがあえてそれを口に出さなかったのはわかっていた。少年自身が、
そのことについて一番傷ついているのだから。ラファエルは豪華な革張りの車椅子の
肘掛けに爪を食い込ませ、身をこわばらせてただうつむいている。
「ここに集まっている者はみなわかっているはずだ。最後の戦いが近いことを」
 アルカードは一同を見回して少し声を張った。それだけでざわめきは静まり、人々の
視線は自然にこの銀の麗人に集まった。この座の本当の主人がラファエルではなく、
彼であることは一目でわかった。
 王者として生まれついた者の自然な威厳とオーラを彼はまとっていた。なかば吸血鬼
の血を引くだけではなく、人間離れしたその美貌や挙措の美しさだけでもなく、ただ
そこにいるだけでいやおうなく人々の魂をからめとってしまう、魔術にも、あるいは
呪いにすら似た力。ユリウスはふたたび月を思い、あのブロンクスの地下室で床に
広がっていた銀髪のきらめきを思った。自然に下腹に熱が集まり、呼吸が速くなった。

75煌月の鎮魂歌5 9/22:2015/07/19(日) 09:52:45
「あと半年で世界は終わる。われわれが何もしなければ」
 穏やかにアルカードは続けた。
「魔王の再臨。それだけは阻止せねばならない。そのためにわれわれは血を継ぎ、命を
重ねてこの時に備えていたはずだ。ヴァンパイア・キラーはこの計画の要だ。あの鞭
でなければ魔王を滅ぼすことはできない。鞭の使い手は、どんなことがあろうと存在
せねばならない。ほかならぬ彼が、魔王討伐の中心とならねばならないのだから」
「しかし、だからといってこんな──」
「選択の余地はない」
 弱々しくあがった抗議を、一言でアルカードは切って捨てた。
「われわれは最後の戦いに備えねばならない。そして必ず勝たねばならない。勝たねば
人間の世界は終わる。開けることのない夜と地獄が昼の世界に取って代わる。われわれ
には鞭の使い手が必要だ。ヴァンパイア・キラーを振るう人間が」
「ちょっと待ってほしいんだがな」
 アルカードの言葉にかぶせるようにユリウスは手を挙げた。氷河の蒼の瞳がゆらりと
こちらを向く。へその辺りがむずむずした。授業中にふざける生徒のように、ユリウス
はひらひらと手を振った。
「その選択の余地ってのは、俺にもあるのかい? 鞭の使い手ってのは」
「どういう意味だ」
 アルカードの視線がまっすぐこちらを見ている。心地よかった。腹の底の疼きが胸
まであがってきた。ユリウスははだけたシャツの前で腕を組んだ。
「つまり、俺が鞭を使いたくなかったらどうなるか、ってことさ」
 静まりかえっていた部屋がとつぜん息を吹き返した。「なんと不遜な──」「だから
雑種など迎えるべきではなかった」「本当にこの男しかいないのか? ほかに候補
は?」という囁きが矢のように周囲を回転した。ユリウスは片頬をゆがめて、アル
カードだけをまっすぐ見つめていた。

76煌月の鎮魂歌5 10/22:2015/07/19(日) 09:54:03
「俺があんたに了承したのは、ブロンクスを出てここまでいっしょに来ることだけだ。
鞭を使うかどうかはまだ訊かれてないぜ。俺の意見は聞いてもらえるのか? 鞭なんぞ
使いたくない、魔王なんぞくそくらえって、俺が言う権利も認めてもらえるのかい?」
「お前はヴァンパイア・キラーの持つ意味をわかっていない!」
 車椅子の上で、ラファエルが頬を紅潮させて身を乗り出した。
「あれがどれほど重要なものか、あれの使い手たることがどんなに──」
「静かに、ラファエル」
 アルカードが囁き、手を軽く叩くと、少年は悔しげに顔をゆがめたまま背もたれに
身を沈めた。足が動きさえすれば、椅子から飛び出してこの野良犬に思い知らせてやる
のにと思っているのがあまりに明白すぎて、ユリウスは思わず忍び笑いをもらした。
「ヴァンパイア・キラーは、自ら望んで手に取る者の手でしか力を発揮しない」
 歯ぎしりするラファエルをなだめるように肩を撫でながら、アルカードは言った。
「あれには意志がある。使い手を選び、鞭が認めた者にしか自らを振るうことを許さ
ない。使い手が自らの意志で鞭を手にすることはその第一条件だ。使い手たることを
望まない人間を、そもそも鞭は受け入れない。お前が鞭の使い手になることを選ばない
ならば、それまでだ。われわれに打てる手はなにもない」
「へえ、そうかい? ここにゃ色んなお歴々が集まってるんだろ、なんだか知らんが」
 ユリウスは肩をすくめて部屋を見回した。顔、顔、顔。どれもブロンクスでは天上で
仰ぎ見てきた人種の顔だ。裕福さと選ばれた人間の傲慢さが毛穴という毛穴からにじみ
出している輩だ。金と権力をちらつかせればなんでも思い通りになると思っている
やつらの顔だ。
「このご大層なお屋敷も、なにかの術で人目から隠してるんだろう。そんな力がある
んだったら、なんで俺を……そうだな、催眠術にかけるか、それともなにかその手の
魔法でも使って、言うことを聞かせないんだ? ご丁寧に迎えまでよこして」
「言ったはずだ。使い手は自らの意志で鞭を手に取る者でなければならない」

77煌月の鎮魂歌5 11/22:2015/07/19(日) 09:54:43
 アルカードがこちらを見ている。銀色に揺れる月の影だ。そうだ、彼は違う。彼
だけはこの世界から離れて、遠い天空に輝いている。汚れなく、孤高の空で、誰の手
にも触れられることなく。
「魔法や催眠術で意志を縛ったところで意味はない。心を持たない人形は鞭に触れる
こともできない。鞭の使い手はベルモンドの血を継ぐ者でなければならない。そして
その者は、あくまで自ら使い手たることを選んで鞭をとらなければならない。それが
ヴァンパイア・キラーの使い手に必要な、ただ二つの条件だ」
「で、俺はそんなものにかかわりたくないと言ったら?」
 息が苦しい。ユリウスは腕の下で早鐘のように拍つ自分の心臓の轟きを感じた。
部屋の広さが無性にいらだたしい。ほかのものはみなユリウスの視界から消え失せ、
見えているのはただ、有象無象の雲にかこまれて静かに立っている月の瞳だけだった。
「世界がどうなろうと俺には関係ない、ベルモンドの血なんぞ俺は知らん、鞭なんぞ
豚の餌にくれてやれ、と、そう言ったら?」
「──……どうも、しない」
 氷蒼の目が静かに伏せられる。
「私はお前をここへ連れてきた。しかし、それ以上のことを強制することはできない。
鞭の使い手は自らの意志で鞭を執らねばならない。お前があくまで拒否するのであれ
ば、もう手はない。鞭の使い手はもはや存在せず、魔王は復活し、この世は永遠の
闇に沈む」
 ふたたび周囲がさわがしくなった。とるに足らない顔どもの群れが何事かわめいて
いる。ふりそそぐ怒りと憎悪と軽蔑を快い雨のように感じながら、ユリウスの目は
ゆらめく銀色の髪と白い月の顔にしっかりと据えられて離れなかった。
「つまり、俺がうんと言わなければ世界が滅亡するってことだな?」
「そうだ」
「俺が自分の意志で頷かなければ駄目だと? 強制しても騙しても、操ろうとしても
無意味だと?」
「そうだ」

78煌月の鎮魂歌5 12/22:2015/07/19(日) 09:55:18
 大波のように笑いが込みあげてきた。身体を折って、吐き出すようにユリウスは
笑った。身体中が燃えるように熱い。どんなドラッグをやったときよりも意識が高揚
し、両耳から血を噴きそうなほど興奮していた。
 なんてこった。この偉そうな奴ら、俺を野良犬、雑種、混血と見下している阿呆ども
が、いずれにせよこの野良犬に頼るしかないとは。
 この全身に感じる怒りも憎悪も侮蔑も、すべてが快くてたまらない。この偉ぶった
奴らは、俺に頼らなくてはいずれ全員死ぬのだ。みんなそれを知っている。そして
怯えている。半年後には、どうしようもなく、みじめに魔王とやらの前に、下る闇に
呑み込まれてみじめに死ぬ、自分たちの運命に恐怖している。
 そしてその恐怖を打ち払う唯一の頼りが、ここにいる野良犬なのだ。
「──だから我々は、お前に頼むしかない」
 爆笑するユリウスをアルカードは静かに見つめていた。ひきつるような声であえぎ
ながらようやく顔をあげたユリウスに、月光の青年は変わらぬ静かな声で続けた。
「どうかヴァンパイア・キラーの新たな使い手として、最後の戦いに立ってほしい。
あの鞭でなければ、魔王を本当に封印することはできない。
 これまでベルモンド家の者は幾度となく魔王を封じてきたが、その度に封印は
破られ、繰り返し魔王は復活してきた。しかし、今回の降臨は違う。魔王は完全復活
をとげるが、同時に、完全にその闇の血脈を砕く機会も訪れる。この機会を逃せば、
二度目はない。人の世が滅びるか、それとも魔王を完全に滅して世界を闇から解放
するか、二つに一つだ。そのすべてがおまえの意志にかかっている、ユリウス・
ベルモンド」
「頼んでるんだな。この、俺に」
 アルカードは口を開かず、顎をひいてただユリウスを見つめた。 
「ブロンクスの蛇は何か見返りがないかぎり動かない。それをわかって言ってるんだな?」
 やはり無言。暗い地下室と荒い呼吸の音が耳の奥にこだまする。

79煌月の鎮魂歌5 13/22:2015/07/19(日) 09:55:56
「よし、わかった。それじゃあ──」
 ユリウスはずっともてあそんでいたばかげたボウタイを放り捨て、大股に部屋を
横切った。周囲があわてて誰も動くこともできずにいる間に、手を伸ばし、ぐいと
アルカードの手首をつかんで引きずり出した。車椅子の少年が顔色をなくして身を
乗り出した。
「アルカード!?」
「『こいつ』が、俺の条件だ、ご一同」
 手首をつかまれ、片腕に乱暴に抱き込まれたのアルカードをさらに引き寄せて、
ユリウスは勝ち誇った顔であたりを睥睨した。
「こいつを俺専用の牝犬にしてもらう。それが鞭を使う条件だ」
 おそろしく長く、肌に刺さるほどの沈黙があった。
「きさま……!」
 車椅子でラファエルが身震いして叫び、そのとたん火がついた。
 一気に急降下した部屋の温度は瞬時に沸騰した。椅子が倒れ、高価な酒や茶器が
あちこちで揺れてこぼれた。ガラスや陶器の割れる音があちこちで響いた。いたる
ところで人が立ち上がり、拳を振り回し、怒鳴り、わめいていた。
「なんということを……」「身の程を知れ、この雑種が!」「ベルモンドの名を継ぐ
者が、恥を──」「アルカード殿が何者なのか知っていて言っているのか、狂人
めが!」「汚らわしい──」
「言っとくが、ほかの提案なんぞ聞く耳もたないぜ」
 こいつらに俺が今まで聞いてきた罵声のひとつも聞かせてやりたいもんだ、と楽しみ
ながらユリウスは思った。お上品なこいつらの心臓はユリウスがため込んできたヴァラ
エティ豊かな罵りのかけらでも聞かせてやったら、その場で喉から飛び出して、心肺
停止の主人を後目にぴょんぴょん地球の果てまで青くなって逃げていくだろう。
「あんたらは俺を野良犬だと思ってるかもしれんが、俺は食い物は選ぶ主義なんだ。
投げられたものをガツガツ食うだけってのは気に入らない。それは蛇のやり方じゃ
ない。蛇は待って、飛びかかり、獲物を手に入れる。確実に。蛇に頼みごとをする
なら気をつけろ。思ってもいないことを要求されることがある。今みたいにな」

80煌月の鎮魂歌5 14/22:2015/07/19(日) 09:56:27
「アルカードから離れろ、この──雑種!」
 怒りのあまり、ラファエルは我を忘れて息を切らしていた。左右に控えていた
使用人が必死になって引き留めているが、そうしなければ今にも椅子から転げ落ち
そうになっている。
 足さえ動けば、と少年が焦げるほどに念じているのが脳味噌に突き刺さるほど
伝わってきて、ユリウスは笑った。足さえ動けば、この無礼な野良犬に当然の罰を
下してやるのに。そもそもこんな場所に、足を踏み入れさせることもしなかったのに。
アルカードに触れるなんて、そんな ──無礼な、汚らしい、そんなこと──
 ユリウスはそちらに牙をむいて笑うと、胸によりかからせたアルカードの顎を
つかんで上向かせた。氷蒼の瞳が驚いたように見開かれる。
「ユリウス? 何を──」
 有無を言わせず、ユリウスはその唇を塞いだ。
 腕の中でしなやかな身体が反射的に抗いかけたが、やがてだらりと力が抜けた。
抵抗しない甘く柔らかい舌を思う存分むさぼり、最後に濡れた唇に舌先を見せつける
ように走らせて、音を立てて離した。
「こいつは最高の牝だ。少なくとも、俺が見てきた中じゃな」
 呼吸も許されないほど手荒く口づけられたせいで息を乱しているアルカードを抱き、
朗らかにユリウスは宣言した。
「こいつを俺専用の牝犬にする。いつでもどこでも、俺の言うことならなんでも聞く
ペットだ。見た目もそう悪くない。まあ、しばらくは楽しめそうだ。味見もさせて
もらったしな。首輪と鎖は遠慮しといてやるよ。お上品なここじゃ、ちょいと場違い
だろうからな」
 車椅子の中でラファエルは身悶えしていた。
「アルカードを離せ、雑種! 出て行け、汚らわしい、こんな──」

81煌月の鎮魂歌5 15/22:2015/07/19(日) 09:57:01
「おいおい、お兄ちゃんにそんな言い方はないんじゃないか、兄弟」
 悲しげな顔をつくろい、ユリウスはラファエルに口をへの字に曲げてみせた。
「お前はずっとここで、この牝犬と遊んできたんだろうに。ちょっとくらい、
お兄ちゃんにわけてくれてもいいだろ?」
「アルカードをそんな風に言うな、犬はお前だ、雑種、野良犬!」
 本当に床に前のめりになりかけたラファエルを、使用人があわてて引っ張り上げる。
血の気をなくした顔の中で、ベルモンドの濃い青の瞳が憤怒のあまり鬼火のように
爛々と燃えていた。
「お前なんか兄じゃない、お前なんか認めない、兄弟だなんて、絶対に! 
アルカード、お願いだ、なんとか言ってよ」
 訴えるようにラファエルはアルカードに呼びかけた。
「こんな奴に好きなようにされるなんて許せない、あなたはベルモンドの宝なんだ、
ずっと僕たちを導いて輝いてきた至高の存在なんだ、なのに、こんな雑種の汚い手に
どうして捕まってるの、アルカード、お願いだからなんとか言ってよ、ねえ──」
 アルカードは聞いていたのかもしれないが、それに注意を払っているようすは
なかった。すでにあの澄んだ泉のような平静さを取り戻し、なめらかな白い顔で
じっとユリウスを見上げている。まだ濡れている唇が艶めいて光り、ユリウスは
もう一度ここで彼の服を引きはがして犯してやりたい衝動にかられた。青く澄んだ
瞳の奥に、わずかな金のきらめきが揺れる。
「……それがお前の条件か」
 ささやくように彼は言った。ブロンクスの地下室でと同じように。
 ユリウスの口の中が一気に干上がった。
「そうだ」
 口蓋に張りつく舌を動かしてやっと言った。周囲の喧噪も車椅子の少年も今はみな
遠かった。存在するのは自分と月、腕の中で長い銀髪を揺らし、遠い視線を送る白く
まばゆい月の顔だけだった。

82煌月の鎮魂歌5 16/22:2015/07/19(日) 09:57:36
「あんたを俺の物にする。それだけだ。ほかの条件は受けつけない」
「そうか」ユリウスの胸に手をつき、アルカードは視線を下げた。
「わかった」
「アルカード!」
「──ラファエル。そして皆」
 ユリウスに腰を抱かれたまま、アルカードは頭を上げて周囲を見渡した。
「私は、ユリウスの要求を了承する」
 室内の者がいっせいに息をのんだ。
「アルカード! いけない、そんなこと」
 ラファエルの声は今にも泣き出しそうな子供の金切り声だった。
「あなたがそんなことするなんていけない! そんなこと、あなたにさせられるわけ
ない、あなたがそんな奴に、そんな──」
「これは必要なことだ、ラファエル。皆も」
 人形のようにユリウスに抱かれながら、アルカードの言葉はなおも指導者の、王者
の気高い血を引く者のそれだった。
「われわれは魔王を封滅する。そのためには鞭の使い手が必要だ。そのためにはどの
ようなことであろうとせねばならない。彼の要求が私であるのならば、私がそれを
する。疑問の余地はない。鞭の使い手は存在しなければならない。彼が、その唯一
の者なのだ」
 視線をもどしてアルカードはひたとユリウスを見つめた。あまりにも深く強く遠い
まなざしにユリウスはめまいを感じた。それと同時に、自分がおそろしく間違った
選択をしてしまったような気がした。遠い昔に、街角で何一つ持たずに、母親の死体
を見下ろしていたときの空虚な感じ。
「私はお前のものだ」
 単なる事実を述べるように淡々とアルカードは言った。

83煌月の鎮魂歌5 17/22:2015/07/19(日) 09:58:15
「そしてお前には鞭の継承者としての教育を受けてもらう。ヴァンパイア・キラーの
使い手となるにはまず、人間の想像を超える相手に立ち向かうための手腕と、聖鞭
それ自身に認められるだけの精神が必要だ。私がそれを教える」
 これは違う、という言葉が喉元まであがってきたが、声に出すことはできなかった。
望んでいたのはこんなものではない。望んでいたのは、本当に欲しかったのは──
「魔王の城は魔物や悪魔の巣だ。そういったものへの対処法も学ばねばならない。
時間がない。お前は半年間ですべてを身につけ、その上で鞭に使い手として認めら
れねばならない」
 衆目の中で人形のように抱かれながら、アルカードは澄んだ泉のようだった。さざ
波一つ立たず、鏡のようになめらかな水面。ユリウスはいつかその氷青の瞳に映る
自分自身と目をあわせていることに気づき、ぎくりとして目をそらした。
「さっそく指図か」
 いつものような声が出せたのが不思議だった。口の中は砂漠を歩いていたように
乾ききっている。
「本当に俺がそんなことに我慢してつきあうと思うのか? 俺はあんたで遊びたい
だけで、ほかのことには興味なんかないかもしれないぜ」
 白い貝のような耳朶に囁き、腰から背を粘りつくようになで上げてやる。シャツの
裾から手を滑り込ませようとしたとき、初めてアルカードは身じろぎして抵抗する
素振りを見せた。
「ここでは──駄目だ」
「なに?」
「……あの子が見ている」
 ラファエル。
 少年は車椅子の上で石と化したようにかっと目を見開いていた。少女めいた甘さの
残る顔立ちは苦悶と焦燥にゆがんでいる。きっと俺を今すぐ殺したがっているだろうと
ユリウスは思い、心底愉快になった。

84煌月の鎮魂歌5 18/22:2015/07/19(日) 09:58:55
「ここじゃなければいいんだな?」
 素早く囁き、アルカードの手首をつかんで扉へ向かった。自分の中にうずくまる
正体のわからない逡巡から逃れたかった。いつの間にか背後にも回り込んでいた
人々が、悪臭を放つ獣にでも近づかれたようにいっせいに割れた。
「じゃあな」うなだれたまま後に従うアルカードをがっちりつかんで、ユリウスは
陽気に手を振ってみせた。
「まあ、せいぜい楽しませてもらうぜ、クズども。お前らが見下してる雑種の野良犬
にどんなことができるか、じっくりそこで見てな」
 最後の一言は奥で動かないラファエルに向かって投げつけられた。高らかにユリウス
は笑った。
 手の中のアルカードの手首は頼りないほどに細い。げらげら笑いながらユリウスは
アルカードを部屋から引きずり出した。黒い影のように立っていた家政婦の老女
ボウルガードが、何も見ていないかのようになめらかに頭を下げる。部屋から
噴き出してくる棘のような悪意と軽蔑と憎悪を快く感じながら、ユリウスは大股に
廊下を進み出した。


 世話係の手で部屋へ運ばれ、一人になるまでラファエルは泣かなかった。人前で
泣くというのは、誇り高いベルモンド家の当主としてあってはならないことだ。
「ご苦労」部屋着に着替えさせられ、ベッドの上に寝かされて羽布団をかけられて
から、尊大にラファエルは言った。
「時間になったら、ボウルガード夫人に食事を運ばせてくれ。今日は……食堂へ降りて
いかないから。少し疲れた。しばらく本を読むから、一人にしてくれ。用事があれば、
ベルを鳴らす」

85煌月の鎮魂歌5 19/22:2015/07/19(日) 09:59:31
 いかつい世話係の男は頭を下げ、顔をラファエルから隠すようにして出て行った。
そこに浮かんだ哀れみの表情を見られなくなかったのだろう。ラファエルはベッド
サイドに積み上げた本の一冊を手に取り、いいかげんに開いて読むふりをした。
 ドアがしまり、世話係の足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、少年は本を
投げ出し、枕の上にうつ伏した。
 枕に顔を押しつけて、声が漏れないように泣きじゃくる。足が動かなくなってから、
覚えたやり方だった。これまでにも深夜に、こっそり涙を流すことはあった。だが
今回は酷すぎた。あまりにも。
 アルカード。
 小さいころから、彼はラファエルにとって神のような存在だった。神以上だったかも
しれない。力を引き出す象徴として神のシンボルを利用するとはいえ、ラファエルは
真の信仰心を抱いたことなどなかった。そういった感情はすべて、五百年をこえて
老いることなく生きる、幻のような美貌の青年に捧げられていた。
 崇拝していた。アルカードは〈組織〉のために世界を飛び回ることが多く、ここに
戻ってくることはあまりなかったが、たまに戻ってきたときは全世界が光り輝くよう
だった。幼いラファエルの頭に手を乗せ、わずかに微笑するその顔ほど美しいものは
なかった。いつか彼の隣で鞭の使い手として、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
して魔王を封じる、それが自分の運命であり、使命だと信じていた。
 ある幸せな夏の日を思い出す。しばらく屋敷に帰ってきたアルカードが図書室にいる
と聞いて、取るものもとりあえずに飛んでいった。まだ十にもならないころだった。
アルカードは図書室のフランス窓のそばに腰を下ろし、何事か書類に目を通していた
が、おずおずと入っていったラファエルを微笑して迎えてくれた。
 大きくなったなと言ってくれた。アルカードはお世辞は言わない。彼は思ったとおり
のことを言う。誇らしかった。書類を仕上げるアルカードの足もとに座って仕事が
終わるのを待った。やがて仕上がったものを脇に置くと、勉強や修行の様子を尋ねて
くれた。懸命になって答えた。鞭の使い手として恥ずかしくないように。あなたの隣に
立つ者としてふさわしくなれるように。

86煌月の鎮魂歌5 20/22:2015/07/19(日) 10:00:16
 微笑しながら聞いていたアルカードは、それでもあまり根を詰めすぎるのはよくない
と諭して、蔵書の中では子供向きであると判断したらしい古い騎士物語を読んでくれ
た。彼自身がその物語の中から歩み出てきた者のようなのに。
 それ自体が音楽のような声が古雅な韻文を朗唱する。雄々しい騎士が数々の勲功を
あげ、竜を退治し、塔にとらわれた乙女を救い出す……それらはみないずれ、自分の
身に起こることの予言に感じられた。このたぐいなく美しい青年の隣で、伝説となる
べき戦いに身を投じるよう、運命づけられているのだと。歓喜に身が震えた。
 それなのに、あの野良犬が奪っていった。すべてを。
 兄だなどと呼びたくもない。考えるのもいやだ。あんな男の汚い手に、アルカードが
触れられると思っただけでも耐えられない。今はもういない父を呪った。なぜあんな
──もの──を生かしておいたのかと、胸ぐらをつかんでなじりたい気持ちだった。
 ぴくりとも動かない足など切り落としてしまいたい。どうしてこの足は動かないの
だろう。足さえ動けば、あの男が我が物顔にベルモンド家に踏み込んでくることは
なかった。聖鞭も、アルカードも、奪い去られることはなかった。腫れ物に触るように
接される日々はうんざりだ。誰もが自分はもうベルモンドとしては役立たずだと
知っていて、それでいて、必死にそう思っていることを隠そうとする。
 でもアルカードだけは離れてはいかないと、なぜか信じていた。それほどに、彼は
絶対の存在だった。
 なのにその彼さえも、あの男の薄汚い手にさらわれてしまった。
 守れなかった。ベルモンドの家長として、彼だけはどんなことがあっても守るべき
だった。守りたかった。
 ──守って、あげたかったのに。
 涙も声も白いリネンが吸い取っていく。力の入らない下半身を呪いながら、身を
よじって少年はむせび泣いた。握りしめた指がシーツに醜い皺を作っていく。カーテン
を締めきった部屋は薄暗い。
 家具の作る複雑な影の奥底で、何か小さなものが、ちらりと動いた。

87煌月の鎮魂歌5 21/22:2015/07/19(日) 10:00:51



「脱げ」
 屋敷から引きずり出して庭園の一隅までひっぱっていき、ユリウスは命じた。古い
屋敷の石壁に背を預けて、アルカードは動かなかった。
 じれて下の衣服だけをはぎ取り、壁にむかって手をつかせた。なめらかな臀が
あらわになる。ろくに慣らしもせずに突き入れると、白い背が一瞬弓のように反った。
喉の奥でかすかにうめき声をたてたようだったが、あまりに小さかったのでユリウス
の荒い息とベルトの音にかき消されてしまった。細い肩を砕かんばかりに掴んで、
ユリウスはきつく相手を壁に貼りつけた。
「あそこじゃ嫌だと言ったな。なら、ここでならいいだろう」
 激しく腰を使いながら、ユリウスは吐き捨てた。
「忘れるな。あんたは俺の牝犬になるんだ。そう言ったんだからな。俺がそう言えば
どこでも尻を差し出せ。ひざまずいてブツを嘗めろ。そういうことが大好きなん
だろう、え、この淫売、牝犬。何度もここに男をくわえ込んでるくせしやがって」
 ひときわ深く手荒く抉ると、シャツに包まれた肩がわずかにこわばった。
 蔦と苔におおわれた石壁に頬を押しつけ、強く目をつぶっている横顔からは、苦痛
に耐える以上のなんの表情も読みとれない。体だけが従順にユリウスに応え、熱く
狭く柔らかい肉で気の遠くなるほどの快楽をユリウスに返してくる。
 闇雲な怒りのままに、腰を動かしながら髪をつかんで顔を上げさせ、無理やり唇を
奪った。わずかな抵抗があったが、それも、すぐあきらめたように力が抜けた。その
無抵抗さがますます怒りを煽った。手を伸ばして、片手でへし折れそうな細い首を
つかむ。

88煌月の鎮魂歌5 22/22:2015/07/19(日) 10:01:21
 締めつけると、苦しげに身をよじり、むせた。
 開いた目がわずかに濡れていたが、涙ではなかった。瞳はあくまでも冷たく澄み渡
り、ユリウスの中に理由のわからない恐怖に似た何かをかきたてた。
 こいつは俺のものだ、とユリウスは繰り返した。
 俺のものだ。俺のものになった。俺だけの牝犬になることを承諾したんだ。
 なのに、なぜこれほど不安なのだ?
 さまざまなものが入り交じった感情が駆け抜け、ユリウスは呻いた。下腹部に疼いて
いた溶岩のようなものが一気に押し上げてきて、達した。
 脳天を雷に貫かれたような、目の前が白くなるほどの快楽だった。体内にぶちまけ
られたアルカードは小さく息を呑んで拳を握りしめたが、それ以外の反応は示さなか
った。溢れた精液が内股を汚して流れ落ちていく。
 俺の物だ。俺の物なんだ。
 手の届かない月。いや違う、そうじゃない、こいつはただの肉だ。俺をくわえこむ
牝犬だ。そら、こうして、俺のものをくわえ込んで喘いでいる。ああ、白い月の顔、
どんなに手を伸ばしても届かない、つかまえられない天空の月──
 二度三度と達しても、ユリウスに萎える気配はなかった。強姦は延々と続いた。
半身を血と精液で汚し、膝を震わせて壁にすがりながら、長く手酷い扱いの間、アル
カードは一言の声もあげなかった。悲鳴すら。

89煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:29:23
 Ⅱ   1999年 2月

           1

「触れ、だと?」
 ユリウスの声にはすでに危険なほどの怒気がこもっていた。
「そうだ」平然とアルカードは返した。
「どこでもいいから私に触ってみろ。指先をかすめるだけでいい」
「てめえ……俺をコケにしてんのか?」
 アルカードは平静な顔だった。冗談を言っている顔でもなかった。
 ベルモンド家の広大な敷地の一隅に設けられた訓練場は古く、広大で、石で張られた
床と壁はこれまで幾代ものベルモンド家の者の血と汗を吸い込んで黒光りしていた。壁
には鞭をはじめ剣や斧、短刀、鎖のついた鉄球、棍棒や杖、弓矢などあらゆる武器が
かけられ、そのどれもが使い込まれた道具の独特の精気を放っている。
 アルカードとユリウスはそこで向かい合って立っていた。両者とも武器は持ってい
ない。から手である。てっきり武器の訓練を始めるものだと思っていたユリウスは
不審に思い、そして、今は怒り狂っていた。
 アルカードは黒ずくめのスーツから妙に時代のかった、白い綿のシャツと膝丈の
スパッツに着替えていた。ぴったりした長い白靴下に、これまた博物館から持って
きたのかと思うような古風な短い革靴を履いている。シャツはひかえめに言っても
身体にあっておらず、もともと大きすぎるシャツを乱暴に着丈と袖丈だけひっつめた
ような妙なしろものだったが、アルカードはまったく気にしていないようだった。
だぶだぶのシャツにくるまれ、小さな短靴をはいたアルカードは、スーツ姿の時とは
うってかわってほんの少年のように、壊れやすくか細く見えた。
「俺がブロンクスで何をしてたか知ってんだろうが。その俺に、ガキの鬼ごっこを
やれってのか? ぶち殺すぞ、おい」
「それはまず、私に触れるようになってからやることだ」

90煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:30:10
 平然としたアルカードの返事に、一気に頭に血がのぼった。
「それじゃあお望み通り、そこに這いつくばらせてやるよ!」
 両足に力を込めて、ユリウスはまさに襲いかかる毒蛇の素早さでアルカードに突進
した。
 手は勢いよく空を切った。
 ユリウスはたたらを踏み、止まり、なんの手応えもなかった手を見下ろし、背後に
いるアルカードを呆然と振り返った。アルカードは何が起こったのかも知らぬ風で、
遠い目をどこかに向けている。
 ユリウスは唸り、わめき、猛然ともう一度つかみかかった。
 またもや空振り。そしてまた。三度。四度。
 よろめいて地面にぶつかり、ユリウスは唖然とアルカードを見上げた。
 彼は訓練開始からほとんど動いていない。立つ位置すら動かしていないのに、手は影
のようにそこを通り抜けてしまう。
「無駄な動きが多すぎる」
 四つんばいになったユリウスを見下ろして、あくまで淡々とアルカードは言った。
「勢いだけでとらえられるほど敵は甘くはない。相手の動きを予測し、必要最小限の
動きで正確に位置を定めるのだ。私に指一本ふれられないようでは、この先、魔物との
戦いはおぼつかない」
「この……」
 一気に跳ね起き、相手の腹にむかって突進したユリウスは、またも何もつかむことが
できずにバランスを崩して鼻から床に激突した。
「相手をよく見ろと言っているだろう」
 後ろからアルカードが言う。確かにそのどてっぱらにタックルする勢いで突っ込んだ
というのに、銀色の姿は幻のように通り過ぎて、前と変わらない位置に髪一本乱さず
立っている。
「力任せに動くだけでは無駄に体力を消耗するばかりだ。魔物との戦いは人間相手とは
わけが違う。素早く、正確に、相手の急所を一撃しなければそれはそのまま死につながる」

91煌月の鎮魂歌6 3/29:2015/08/27(木) 00:30:53
 ずきずき痛む鼻を押さえてユリウスはやっと起きあがった。鼻の頭を手ひどく擦り
むき、指の間からは血が垂れている。〈毒蛇〉が他人に血を流させられるなど言語道断
だ。ましてやスカったあげくの鼻血などと──
 野獣のような咆吼をあげてユリウスは突進した。両腕を振り回し、足を蹴り出し、
ブロンクスで身につけたなりふりかまわぬ喧嘩のあららゆる手を使ってゆらめく銀の
髪をつかまえようとする。
 そのたびにきらめきは影のようにすり抜け、何一つ動かず変わりもせずそこに立って
いる。ほんのすぐ指先にあるというのに、どうしてもその髪の先にすら触れることが
できない。まるで水に映った月をつかまえようとしているかのようだ。
 わめき声と罵りと荒い呼吸と派手な衝突音が二時間、三時間と続いた。
 身体じゅう擦り傷と埃と(自分の)血にまみれ、ついにユリウスは立ち上がる力も
なくしてその場に崩れ落ちた。動こうとして必死に唸るが、頭を持ち上げる力さえもう
どこにも残っていない。アルカードは訓練を始めたときとまったく変わらず、同じ場所
に静かに立っている。
「今日はここまでだ」
 起きあがろうと無様にもがいているユリウスを見下ろして、アルカードは穏やかに告げた。
「ボウルガード夫人が来る。彼女に着替えと昼食をさせてもらって、休憩のあとは東翼
の読書室に来い。午後からは魔物の種類とその対処法に関する座学を始める。まずは
魔物の名前を覚えるところからだ」 
 そのまましばらく──なんとも無様なことに──気が遠くなっていたらしい。我に
返るとアルカードの姿はなく、あの喪服めいた黒いドレスの老女、ボウルガード夫人が
古風な気付け薬の瓶の蓋をしめるところだった。鼻のまわりに強烈なアンモニアの刺す
ような臭いが漂っている。
「お立ちなさい」
 老女は仮面のような顔で告げた。

92煌月の鎮魂歌6 4/29:2015/08/27(木) 00:31:26
「アルカード様からのご命令です。離れの小食堂に昼食がご用意してごさざいます。
二時に迎えに参ります。そのあと、読書室へご案内します」
 ユリウスに言うことを聞かせられるものはほとんどいない。これまでいた少数の者は
いずれもユリウス自身の手で死んでいる。
 しかしこの鶏がらのような老女はいったいどういう手管を使ったのか、ふらふらの
ユリウスを起こし、浴室に放り込んで着替えさせ、食事をとらせ、時間通りに読書室に
送り込んだ。そこでは汗をかいた様子もないアルカードが、大きな分厚い樫材のテー
ブルの向こうで待っていた。
「来たか」
 ボウルガード夫人が一礼して下がると、アルカードは立ち上がり、テーブルを回って
ユリウスのそばに立った。白い指がそっと顎に触れ、魂までのぞき込むような瞳がまっ
すぐのぞき込んでくる。心臓が突き刺されたように震えた。
 だがそれも一瞬のことで、アルカードはつと視線をそらし、テーブルの向こうの椅子
にもどった。
「まずこちらの書物を暗記してもらう。本来なら一項目ずつ講義していきたいところ
だが、時間がない。暗記した上で、理解は訓練と実践の中でしてもらうしかない」
「おい、本気か?」
 ユリウスは思わず声を上げた。目の前に積み上げられた書物はどれも恐ろしく古く
分厚く、中にはばらばらになったページが紐で綴じられているだけの古文書とでも
呼ぶべきものもある。表紙に刻印されたかすれた金箔押しの表題は、古風すぎで判読
さえ困難だ。
「こいつをみんな暗記しろだって? 全部食っちまえと言われたほうがまだましだぜ」
「食べて覚えられるのなら、それでもいい」
 アルカードは動じなかった。
「ほとんどは羊皮紙だから動物性蛋白質ではある。しかし消化には悪いだろうし、効果
があるとは思えない。古英語や古典外国語の部分は私が書き直して現代英語の注を
入れておいた。読むのに支障はないはずだ。読み書きはいちおうできると聞いている。
質問は?」

93煌月の鎮魂歌6 5/29:2015/08/27(木) 00:31:59
 とっさに返事ができないでいるうちに、アルカードが最初の書物の一冊をとり、明瞭
な発音で読み始めた。
 授業は午後いっぱい、日が沈むまで休憩なしで行われた。途中でボウルガード夫人が
何か軽食を運んできたようだが、ユリウスはそれどころではなかった。アルカードが
読み上げる、ホラー映画や三文小説でしか聞いたことのない──または、それですら
目にしたことのない、異様な名前の魔物どもについての記述を復唱し、続いて自分でも
読み、与えられた紙に書きつづる作業で死にそうだったのだ。
「発音と綴りが違う」
 ちょっとした間違いでもアルカードは見逃さなかった。ユリウスの手元から紙を取り
上げ、さらさらと綴りと発音の間違いを美しい筆跡で書き込んで押し戻す。
「魔物は多かれ少なかれその真の名と本質に縛られる。彼らの名は彼ら自身でもある。
名の発音を誤っただけでも致命的な危地に陥る場合がある。いかなる場合でも正しい
名前を、正しい発音で口にせねばならない。魔物狩人としての基本だ」
「やかましい、くそっ、俺を誰だと思ってる」
 ペン軸(また古風なことにインクにつけて使用する羽ペンだった)を折れんばかりに
握りしめながら、ユリウスは歯ぎしりした。
「名前がなんだ。危地がどうした。俺はブロンクスで成り上がってきた赤い毒蛇だぞ。
致命的なんて言葉は本当に死んでから言えばいい。こんなものいちいち覚えなくても、
奴らが襲いかかってくる前にまとめてぶっ倒してやりゃそれで解決だ。イタリアの
パスタ食いとチャイニーズのオカマどもをまとめて相手にしてた俺をなめるな。こんな
蟻の行列なんぞ、奴らに比べりゃ朝飯前だ、くそっ、畜生」
 そう口にしたとたん、ユリウスは妙な空気を感じてふと手をとめた。アルカードが
手を本にのばしかけたまま、まじまじとこちらを見ている。
 これまでとはまったく違った目つきだった。ただ透明で美しく、冷たく澄み渡って
いた氷の青の瞳に、なにか別の色が現れていた。
 五百年を閲したその目の奥に見えたものは、およそ言語を絶するなにかだった。
終わりのない苦痛と悲しみ、それらに属するあらゆる感情の流す血が、凝縮された
ナイフのようになってユリウスの胸を切り裂いた。目まぐるしく変わるその色はときに
追憶、悲傷、哀惜、孤独──それらがとれるもっとも痛々しい姿がそこにすべてあった。

94煌月の鎮魂歌6 6/29:2015/08/27(木) 00:32:32
 片手が痙攣するように胸元にあがりかけ、力なく垂れた。一瞬にして瞳の色は消え失せた。
「……次はこちらだ」
 アルカードは目を伏せ、別の古文書を取り上げた。
「城に出没する中でも特に強力な混沌の一族について記されている。ただ徘徊するだけ
の下級の魔物どもとはわけが違う地獄の貴族たちだ。これらについては特に注意が必要
だ。私の発音をよく聞いて真似をしろ。くれぐれも綴りを間違えるな、いいな」

               2

「ユリウス・ベルモンドって、あんた?」
 寝椅子の上で怠惰に身じろぎし、ユリウスはうっすらと目を開けた。
 ガラスの天井からふりそそぐ陽光がまぶしい。ベルモンド家の広いサンルームは、
もっぱら滞在客たちの休息とレクリエーションの場とされていた。
 ユリウスがやってきた時も、数人の男女がテーブルを囲んで談笑したり、窓辺に
寄って何か秘密めいた話にふけったりしていたが、ユリウスが姿を見せるが早いか
全員が溶けるようにどこかへ消えていき、あっという間に誰もいなくなった。
 いつものように、ユリウスは気にもしなかった。ああいう連中はいちいち気にする
ときりがない。手近にあった寝椅子に寝転がって、置きっぱなしになっていたワインを
瓶ごと失敬し、ちびちびやりながら昼寝をきめこんでいたのだ。
 だらりとクッションに寄りかかりながら目の前のものをじっくりと観察する。
 見事なアンティーク・ドールが動き出したような少女だった。
 せいぜい十一、二歳といったところか。ほんの小娘だ。白い肌は陶器のように
なめらかで健康的なミルク色、波打つ髪はふさふさとした金髪。猫のようなつり上がり
気味の緑の瞳が目を引く。つんと上を向いた鼻先がちょっと生意気そうだが、小さく
ふっくらとしたかわいい唇は、咲き初めたばかりの薔薇のつぼみを思わせる。

95煌月の鎮魂歌6 7/29:2015/08/27(木) 00:33:10
 ワインカラーのベルベットにふんだんにフリルとレースをあしらったドレス、数える
のがいやになるほどのボタンとリボンと何枚ものペティコート、ぴかぴかの赤い革の
ブーツ。手にはいっぱしの貴婦人らしく、日除けの役にはたちそうにないレースと絹の
きゃしゃなパラソル。
 肩からはドレスとお揃いのちっぽけなポシェット。こちらもふんだんなレースと
ビーズで飾られ、肩紐は金の鎖と赤い革が交互に編みあげられた凝った細工、細い手首
には青いサファイアの輝きを放つ、シンプルなブレスレットがきらめきを放つ。
 肩の上には見たことのないインコほどの大きさの赤い小鳥。火のひとひらが羽に
なったような真紅の胸をつくろい、足もとには、白に黒の縞のはいっためずらしい柄の
子猫が金色の目でこちらを見つめている。どれもこれもが凝っていて、うんざりする
ほど愛らしい。
「ちょっと。人が話してるのに、返事しなさいよ」
 反応するほどの相手ではないと判断して目を閉じかけたとたん、ぐいとパラソルで足
をつつかれた。
 さすがにむかっ腹をたてて身を起こす。少女は気後れした風もなくまじまじと
ユリウスを見つめ、「ふうん」と鼻を鳴らして肩をすくめた。
「まあ悪くはないわね。とりあえずはだけど。アルカードが直接教えてるってことは、
なんとかものになりそうな素質はあるってことだし。ベルモンドの力は確かにある
みたいだから、あとは努力と、十分な精神力がそろってるかどうかってとこかしら」
「ひっぱたかれたいのか、クソガキ」
 ユリウスはうなった。
 この一週間ほど、アルカードはベルモンド家を離れている。
 何か理解できない理由で、世界の別のところに行く用事ができたらしい。出発の前日
に淡々とそのことを告げてから、自分の留守の間も訓練は続くと付け加え、山のような
課題図書と古風な字体でつづられた手製の問題集を押してよこした。さらに帰ったら
きちんと課題をこなしたかどうか口頭試験をすると宣言した。ユリウスはたっぷりと
文句と悪罵を並べたが、もちろんアルカードは聞く耳を持たなかった。

96煌月の鎮魂歌6 8/29:2015/08/27(木) 00:33:44
 初日には指をかすめることすらできなかったユリウスだったが、この半月で、
ようやくアルカードの衣服の端をつかむことに成功するようになっていた。ほんの
一瞬、それも十数回に一度という程度だったが、進歩は進歩だ。
 アルカードはそれを認め、戻ってきたら鞭の扱い方を初歩から再訓練すると言って
いた。から手での体術訓練も変わらず続ける。服だけでなく、中身にも触れられるよう
にならなければ魔物との組み討ちはままならない、ときれいな顔で言われた時には殴り
倒したくなったが、どうせ殴りかかってもまた空振りして無様にひっくりかえるだけだ
ともう理解していたので、我慢した。ブロンクスの連中が聞いたらツイン・タワーと
マンハッタンがまるごと崩れ落ちてくるかと思うことだろう。
 アルカードの代わりには、魔術と錬金術と科学の合体の産物らしい、金色に輝く奇妙
な球形の物体が相手をした。蜂の羽音のようなかすかな作動音をたてながら目にも
とまらぬ速度でユリウスの周囲を飛び交い、隙をねらって電撃や衝撃波、小さな矢や
自在に形を変える水銀のような刃で攻撃してくる。ユリウスは与えられた木剣で延々と
そいつらを払いのけ、はじき飛ばし、たたき落とした。
 アルカードの幻のような動きに比べたら、そいつらは実に退屈なしろものだった。
胸にこもった苛立ちをぶつけるように力任せに木剣をぶつけるとそいつらはほんの
しばらく停止して床に転がり、すぐに息を吹き返して浮かび上がる。金色の表面には
傷一つつかず、その球面に反射した自分の引き延ばされた顔を見ると、さらに苛立ちが
つのった。
 アルカードのことを思うと、また腹の底で欲望がうずいた。
 はじめの一週間はさすがに疲れ果ててそれどころではなかった。だが、訓練に慣れ、
ユリウスの若さと旺盛な体力が徐々に目を覚ましはじめると、ユリウスはアルカードに
約束を実行するよう要求した。自分の牝犬たること。呼べばすぐ這いつくばる自分の
ペットたること。
 アルカードは来た。
 来ないのではないかと半ば疑っていたユリウスの部屋の扉が真夜中、そっと叩かれ、
そこに、月光の精のような玲瓏とした美貌があった。

97煌月の鎮魂歌6 9/29:2015/08/27(木) 00:34:18
 昼間はいくらつかもうとしても幻めいて指先から逃げていった身体は、あまりにも
簡単に腕の中に倒れ込んできた。乱暴に引き寄せられ、唇をふさがれても抵抗はなかっ
た。ベッドに突き倒され、脱げと命令されても、アルカードは従順にそれに従った。
 どんな恥ずかしい姿態、淫らな格好をさせられても、彼は黙って言われたとおりに
した。猥褻な言葉を言えといわれればそうした。屈辱的な姿勢で犯され、どんな娼婦
でも泣いて許しを請うか、生命の恐怖を感じて逃げ出すほどの残虐な責め苦を受けて
も、悲鳴一つもらさなかった。
 半ヴァンパイアの肉体はどんな人間よりも強靱でしなやかだ。酷い傷をきざんでも
すぐに癒え、爪や歯で引き裂かれた皮膚は見るまに跡形もなく塞がる。普通の人間なら
骨が折れるか関節が外れるほどの無理な姿勢をとらせても、かすかに苦痛に眉をひそ
めるだけで抵抗はない。
 だがおそらくその気になればどの瞬間にでも、アルカードはユリウスを殺せるのだ。
象牙細工のように繊細な指先には、ヴァンパイア王の超自然の力が秘められている。
おそらくユリウスの身体のどこにでも指を当て、軽く押しつけるだけで、ユリウスの
骨は枯れ木よりももろく砕けるだろう。それなのにアルカードは何一つ抵抗せず、
牝犬になると言った自分の言葉を、忠実に守り続けている。
 なぜかその事実が、ユリウスの怒りをかき立てた。アルカードが従順であればある
ほど、苛立ちは膨れ上がり、行為は苛烈さを増した。
 幼い頃に、ホームレスの暗い部屋で低い声で語られたある物語を思い出した。その
男は自分の息子を殺して神々の食卓に肉として供した罪のために、顎まで水につけら
れているというのに、喉が渇いて飲もうとすると、水はたちまち引いてしまうのだ。
どんなに欲しても一滴の水も口にはいることはなく、満々とたたえられた清らかな水を
目の前にしながら、永遠の渇きに苦しまねばならない。
 あれはただの古ぼけた淫売だ、と数え切れないほど自分に言い聞かせもした。どんな
に美しくとも清純そうに見えても、彼が五百年生きているヴァンパイアであり、過去の
いつかどこかで、誰か男に愛されたことがあるのは明白だ。

98煌月の鎮魂歌6 10/29:2015/08/27(木) 00:34:55
 何をしようがほとんど反応を見せないアルカードだが、身体に刻まれた悦びの記憶は
そう簡単に消えるものではないようだ。ことに、その男を今でも想っているのなら。
教え込まれた反応を、身体は従順に思い出す。たとえ快楽自体は呼び起こすことが
なくとも、受け入れる側にかかる負担を減らしたり、手荒く突き上げられている最中に
なんとか息を継ぐ仕草のそこここに、かつて愛され、おそらくはアルカードも愛した
のであろう相手の痕跡が感じられる。その痕跡の一つ一つが、棘のようにユリウスの
心をひっかいていつまでもじくじくと痛む傷を残す。
(くそ)
 話によれば、アルカードがいつ帰ってくるかはまだはっきりしないらしい。最終決戦
が迫っている今、一年や半年というほどではないだろうが、無機質な球体相手の訓練を
終え、自室で唸りながら書物を読んでアルカードの古風な書体の質問に対する答えを
暗記していると、どうしようもない焦燥感に下からあぶられているような心地になる。
 俺のものになると誓ったくせになぜここにいないのかとわめき散らしたくなる。紙
の上の流れるような書体からアルカードの涼しい声がはっきりと聞こえてきて、あの
なめらかな月光の髪に、指をすべらせたくて身体中が震える──
 ぐい、とまたパラソルでつつかれた。今度は腹を。思い切り。
「レディが話をしてるときは、ちゃんと座ってきくものよ」
 憤怒の表情で飛び起きたユリウスに、少女は小さな女王のようにつんと顎をあげた。
「もう一度きくけど、あなた、アルカードにひどいこと言ったそうね? 中身はだれも
教えてくれないんだけど。まあ細かいことはいいわ、でも、アルカードをいじめる人は
あたし、許さないわよ。あの子はあたしの、大事な弟分なんだから。いいこと?」
「……へえ、そうかよ」
 十歳そこらの小娘が、五百歳のヴァンパイアにむかって弟分とは大した言いぐさだ。
 相手をするのも馬鹿らしくなって、ユリウスはだらっと寝椅子の背にもたれ、
ポケットから煙草を取り出した。一本くわえてライターを手探りする。
 ポシュッと音がして目の前が明るくなり、すぐ消えた。

99煌月の鎮魂歌6 11/29:2015/08/27(木) 00:35:29
 ユリウスは唖然として口先からぱらぱらとこぼれ落ちる、煙草だったものの残骸を
見下ろした。少女の肩にとまっている赤い小鳥が、まだちらちらと火の名残がゆれる
嘴を閉じたところだった。
「バーディーは煙草が嫌いなの。あたしも」
 少女は冷たく言った。
「少なくとも、あたしのいるところでその臭いものを振り回すのはやめなさい。禁煙
するのがいちばんいいわ。いったいみんな、なんだってそんな臭い上に身体に悪いもの
を吸いたがるのか、理解できないけど」
「鳥が火を噴いた」
 やっとユリウスは言った。
 言ってしまってからなんて間抜けな台詞だと自分の唇を縫い合わせたくなったが、
少女は意に介していなかった。
「そうよ」
 小鳥の真紅の喉をくすぐってやりながら、何でもないように彼女は言った。
「バーディーはスザクですもの。火はこの子の身体そのものだわ。火を噴いたくらいで
何を驚くことがあるの」
「スザク……?」
「東洋の四聖獣のひとつですよ」
 新たな声がかかった。ユリウスはぎょっとして振り向いた。誰かが入ってきた気配
などまったくなかったのだ。
 閉めてあったドアはいつのまにか開いており、そこに、穏やかな笑みを浮かべた
東洋系の男と、後ろに、ティーワゴンを押したボウルガード夫人が付き従っていた。
 男は長身で若く、せいぜい二十歳半ばに見えたが、東洋人の年齢はよくわからない。
丸眼鏡をかけ、細い目が見えなくなるほどの微笑をうかべているが、かえってユリウス
は警戒心を抱いた。まっすぐな黒い長髪を後ろへ流し、スタンドカラーの白いシャツと
くたびれたジーンズ姿はまるで高校生だ。焼きたての菓子と紅茶の香りが漂ってくる。

100煌月の鎮魂歌6 12/29:2015/08/27(木) 00:36:05
「スザクは赤い鳥の姿の神で、南方を守護し、火を象します。北方のゲンブは蛇を従え
た黒い亀で、土を象徴します。東方のセイリュウは青い竜で水の守護、西方のビャッコ
は白い虎で風を司ります。西欧人には、あまりなじみのない概念かもしれませんね」
「誰だ、あんたは」
 ユリウスは身構えながらゆっくりと寝椅子から立ち上がった。たとえ眠っていても、
髪の毛一本落ちる気配でもすればたちまち目を覚ますのが毒蛇の性だ。それをこの男
は、少女に気を取られていたとはいえいつドアを開けて入ってきたのか、まったく
気取らせずにいつのまにか部屋にいた。
「ああ、申し遅れました。僕はハクバ・タカミツと申します。ハクバが姓、タカミツが
名です。日本人です。こちらをどうぞ」
 シャツの胸ポケットから取り出されたネームカードは厚みのある上質の紙で、雲の
ような銀色の筋と艶のある表面に、『白馬崇光』と漢字が並んでいる。日本語の読め
ないユリウスにはただの模様にしか見えない。
「どうぞスウコウ、とお呼びください。こちらの方々には、僕の名前はどうやら発音
しづらいようですから」
「こういう時はレディの紹介を先にするものよ、スーコゥ」
 脇に立ってとんとんと靴を鳴らしていた少女がとがった声をたてた。崇光は「おや、
これは失礼」とのんびりと言って一礼し、
「こちらは、イリーナ・ヴェルナンデス嬢。僕やあなたと同じく、七月の最終決戦に
備えて集められた戦士のひとりですよ。あなたはユリウス・ベルモンド、そうでしょ
う? ラファエルは気の毒なことをしました。あなたは彼の異母兄に当たられると
聞いていますが」
「よくしゃべる野郎だな」
 ユリウスは唸り、用心しながらまた腰を下ろした。ネームカードを投げ捨てようと
したが、「あ、そのまま」と止められた。
「それは護符の力もこめてありますから、そのまま身におつけください。このベルモン
ド家の屋敷内で何かあるとは思えませんが、万が一の時の保険になります。あなたまで
魔物に襲われては困る」

101煌月の鎮魂歌6 13/29:2015/08/27(木) 00:36:42
 ユリウスは眉をひそめ、漢字が書いてあるほかはなんの変哲もない紙切れに見えるカ
ードをにらみつけたが、肩をすくめてポケットに入れた。あとで部屋に戻ってから捨て
ればいいことだ。
「ボウルガード夫人、今日のお茶はなに?」
 ティーワゴンに駆け寄った少女が明るい声で尋ねている。暖かな陽光に金髪が揺れ、
そこにチイチイと赤い小鳥がまとわりついて、まったくあきれるほどにかわいらしい。
「ダージリンとウバ、セイロン、それにラプサン・スーチョンをご用意してございます」
「すてき。じゃあラプサン・スーチョンを、濃いめでね。スコーンにはスグリのジャム
を。スーコゥもそれでいい?」
「いやだといっても聞かないでしょう、あなたは」
 苦笑しながら崇光は窓際のテーブルに向かい、「どうぞ、こちらへ」とユリウスを
手招きした。
「われわれはいずれチームを組んで戦うことになる三人です。ひとつここで、親交を
深めておこうじゃありませんか。今日はアルカードがいなくて、お暇でいらっしゃる
でしょう。それになんといっても、ボウルガード夫人の淹れるお茶は最高ですよ」
 イリーナと紹介された少女は崇光が引いてやった椅子にちょんと腰掛け、レディ
らしくおすまし顔でレースの襞をととのえている。赤い小鳥はちょんちょんとテーブル
の上を跳ねて歩き、白い虎猫は椅子の足もとできちんと前足をそろえて上を見上げて
いる。桃色の舌でぺろりと舌なめずりした顔が、大きさに見合わずひどく獰猛そうに
見えた。
「いい子ね、ティガー。トトとニニーもいらっしゃい、いい匂いよ」
 ポシェットからのっそりと黒いものが首を出し、少女の手に支えられて、のそのそと
テーブルに這いだした。艶のある甲羅の、全身真っ黒な小さな亀だった。
 亀をおろした手首から、サファイアの細いブレスレットが流れるようにするりと
外れる。テーブルの上でそれは鎌首をもたげ、金色の稲妻のような目でユリウスを
見ると、シュッと音を立てて二股の舌を吐いた。

102煌月の鎮魂歌6 14/29:2015/08/27(木) 00:37:19
「彼女は当代最高の召還士なんですよ」
 呆然としているユリウスを、どうやったのか崇光はいつのまにかテーブルにつかせて
いた。前に紙のように薄い白磁のティーカップが置かれ、茶が注がれる。ユリウスが
知っているいわゆる『紅茶』とは、まるで違う色と香りがした。陽光のもとで金色の
輪がカップに広がる。
「四聖獣に愛された初代であるマリア・ラーネッドでも、聖獣の力を喚べるのはほんの
一瞬、それも時間をおいてでした。ましてや聖獣を常に実体化させてペット扱いできる
ほどの霊力など、前代未聞です。彼女、イリーナは、ラーネッドの血筋がヴェルナン
デスの血筋と合わされることによって生まれた、奇跡のような能力者なのですよ」
 お人形のような少女を、ユリウスはまじまじと見た。
 言われただけではとうてい信じがたいが、確かに先ほど、あの赤い小鳥が火を噴いて
一瞬で煙草を焼きつくすのを見た。見間違いとは思えない。小鳥が本当に火の化身と
いうスザクであるとしたら、ほかの三匹もまたやはり、ただの動物ではないのだろう。
「無駄話をしてるとお茶が冷めるわよ。はい、ティガー。あなたたちの分も、トト、
ニニー」
 ボウルガード夫人がボウルに入れたクリームを床の上に置いてやる。虎猫は待ってま
したとばかりに鼻先をつっこみ、威勢よく飲み始めた。
 指ぬきほどの小さなカップにも茶が注がれ、蛇と亀の前にも置かれた。蛇はさっそく
首を伸ばし、ちろちろと裂けた舌で茶を嘗めはじめたが、亀のほうはそれより銀器に
盛り上げられたスコーンとクッキーのほうが気になるようすで、皿のまわりを跳ね
回っている鳥と同じく、訴えるような目を主人に向けている。
「……で、あんたは?」
「はい?」
 いそいそとサンドウィッチを皿にとりわけている崇光に、ユリウスはうさんくさい目
をむけた。崇光は手を止めてきょとんとする。
「僕が、なんですか?」
「あんたはこのサーカスの中で、どんな役割をするのかってことだよ」
 とんとんとユリウスは真っ白なテーブルクロスを叩いた。

103煌月の鎮魂歌6 15/29:2015/08/27(木) 00:37:54
「俺は鞭を使って魔王を倒す。このお嬢ちゃんは聖獣だかなんだか知らんが、その
けだものどもで戦うんだろう……いてっ」
「けだものだなんて呼ばないでちょうだい。失礼ね」
 そしらぬ顔で言って、イリーナは品よくカップを口に運んだ。見かけより堅いブーツ
の先が、蹴飛ばしたユリウスの臑からすいと離れる。
「この子たちはバーディー、トト、ニニーにティガーよ。ちゃんと名前があるの。
あたしの大事なおともだちなんだから、ちゃんと名前で呼んでちょうだい」
「このクソガ……!」
 飛びあがりかけたユリウスに、いきなり冷たい風が吹きつけた。一瞬にしてエベレス
トの山頂に運ばれたような寒気。指がしびれて感覚がなくなる。見下ろすと、手の中の
カップの紅茶は凍りつき、指は紫色に革って白い霜で覆われていた。
 クリームをなめていた白い虎猫が顔を上げ、じっとこちらを見ている。
 金色にぎらつく双眸から、不可視の強烈な圧力が押し寄せてくるのがはっきりと
わかる。長い尾がゆっくりと左右に振られ、ユリウスの出方を伺ってでもいるよう
だった。
 鳥も、亀も、蛇も、スコーンのかけらやサンドイッチの端切れや茶のカップから
頭をもたげて、じっとユリウスを見ている。四組の視線はすさまじい重圧で、骨の
髄から少しずつユリウスを凍らせていくようだった。
「やめなさい、ティガー。カップをこわしちゃいけないわ」
 その一言で、寒気はみるみる去った。虎猫は横を向いてそしらぬ体でひげを洗い
始め、イリーナはすまし顔ですぐりのジャムを新しいスコーンにたっぷりと乗せた。
 鳥と亀と蛇も、またスコーンのかけらを転がしたりハムをつついたり茶に首を
つっこんだりと、それぞれにくつろぎ始める。霜は少しずつ溶けてしたたり落ち、
冷えた紅茶と、濡れて真っ赤になった手が残った。
「……まあ、そういうことで」
 崇光がため息をついて首を振った。

104煌月の鎮魂歌6 16/29:2015/08/27(木) 00:38:32
「彼女も大きな戦力です。あなたと、彼女と、アルカード。聖鞭〈ヴァンパイア・
ハンター〉は魔王討伐の要ですが、今回の最終復活では、鞭だけではとうてい追い
つかないほどの魔物や悪魔と戦うことになるでしょう。で、僕については、まあ、
その──」
「その?」
 冷え切った指を無意識に揉みながら、ユリウスはとがった目で東洋の青年を睨みつけた。
「──まあ、僕なりの役割があるということで」
 柔和に微笑んだが、ユリウスにはそれが内心を隠す仮面のようにしか見えなかった。
アジア人は年齢と同じように、内心までもあいまいな笑みにまぎらしてしまう。
「その、僕の家系は〈組織〉の中ではちょっと特別でして」
 ちょっと肩をすくめて、崇光は新しく注がれたカップを手に取った。
「ベルモンド家やヴェルナンデス家のような戦闘能力はありません。もともと、日本の
地に生まれた霊力というのはいささか特殊でしてね。祓い清め、なだめ封ずるという
のがミタマの基本なんです。日本の精神風土は、善や悪を西欧のように峻別しません。
善きも悪しきも、ひとつの存在の両面にすぎないという思想です。怒り狂い祟りをなす
アラミタマ、穏やかで人に恵みを与えるニギミタマが、同じひとつの存在の両面
であり、祓い清め、祈り鎮めることによって変化するとされているんです」
 いつのまにかユリウスの前にも、湯気を立てる新しいティーカップが置かれている。
冷たさにしびれた指が溶けるように暖まる。
 崇光のうまそうな顔につられるように啜ってみると、最高級の葉巻を精製して液化
したかのような、濃厚な香りが口から鼻腔いっぱいに広がった。驚いて口を離すと、
白馬のいたずらっぽい視線があった。
「いかがです? 煙草よりずっといいでしょう」
 肺癌の危険もありませんし、とつけ加えてまた一口崇光は茶を啜った。
「一九九九年七の月、皆既日食が起こります。これは単なる天体現象ではなく、闇の
世界、魔界と人間界の間のゲートの大規模な解放のために起こる現象です。この瞬間、
魔界はほんの一時ですが、人間界に大きく突出します。魔王ドラキュラはそれを機に、
一気に人間界を制圧し、すべてを闇の支配下に置くことを企んでいます」

105煌月の鎮魂歌6 17/29:2015/08/27(木) 00:39:03
「で、あんたはそいつにお祈りして、鎮まってもらうように説得する係だっていうのか」
「……いえ。残念ながら、そういうわけにはね」
 崇光は息をついた。
「魔王ドラキュラは混沌と闇そのものです。はじめは残っていた人間性も、滅びと復活
を繰り返すうちにすっかり摩滅して、今ではもはや人間への憎悪と破壊衝動しか残って
いません。説得も祈りも、するだけ無駄ですよ。僕にできるのはただ──封印です」
「封印?」
「皆既日食の、その黒い闇の太陽の中に、城ごと魔王を封じます」
 そう言われてももうひとつぴんとこない。これまでそういうオカルトじみたことには
縁のなかったユリウスだ。妙な顔をしているのに気づいたのか、崇光は苦笑して、
「どうやって、とか、なぜ太陽なのか、というのは、くだくだしい上にわかりにくい話
なのでやめておきましょう。とりあえず肝要なのは、僕は戦闘要員ではなく、あくまで
封印の術の遂行のために魔王の城の最深部まで同行すること、そのためにはあなたや
イリーナのような腕の立つ戦士が必要なこと、というわけです。ご満足いただけましたか?」
「アルカードは──」
 そう口にしたとき、崇光がぴくりと身を固くしたように見えたのはなぜだろう。
「あいつも同行するんだよな? 俺とこのお嬢ちゃんはわかったが、あいつはなんで
行くんだ。親父なんだろう? 魔王は」
 他人を思いやったことなど一度もないユリウスだが、あの銀色の青年が実の父親を
二度、この世からわが手で追い払わねばならなかったことを考えると、なぜかひどく
理不尽な気がした。
「親父を永遠にこの世から追っ払うことに荷担するってのに、あいつはそれでもいい
のか。聖鞭ってのはまだよくわからんが、魔王とやらを滅ぼすことができるのはその
鞭だけなんだろう。だったら今回も、鞭で魔王を滅ぼしちまえばそれですむ話じゃな
いのか。あいつは大事なベルモンドの宝だっていうじゃないか。行く必要がどこに
ある」
「……あの方は、人間の域をはるかに超越する戦士ですからね」

106煌月の鎮魂歌6 18/29:2015/08/27(木) 00:39:42
 崇光はすでに落ち着きを取り戻していた。しかし動揺の色は手にしたカップに浮かぶ
さざ波に残っており、ユリウスはそれを見逃さなかった。
「単純に、戦力は多い方がいいというだけのことですよ。あの方はこれまでに二度、
魔王ドラキュラを倒してこられた。一度は仲間と、もう一度は独力で。それだけの力を
お持ちの方に、戦列に加わっていただかない法はないでしょう」
 いちおう、話としてはわかる。だがどうしても、何か割り切れないものが残った。
 自分ならば顔を見たこともない父親の一人や二人、鼻で笑ってナイフを突き立てる
だろうが、アルカードの白くなめらかな両手が、父殺しの血に二度染まり、三度目にも
また染められようとしていると思うと、そんな痛ましいことがこの世にあっていいの
かという気がする。二度までも父親を殺すことになったアルカードに、三度目の父殺し
を強要しようというこの男に、無性に腹がたってきた。
「あいつが来る必要なんてない」
 ぶっきらぼうにユリウスは吐き捨てた。
「魔王は俺が倒す。吸血鬼殺しの聖鞭を使うのは俺なんだろう。それなら俺が魔王を
完全にぶち殺してしまえばいい。あいつは関係ない」
 イリーナが手を止め、カップの縁ごしに上目遣いに崇光を見た。
「この人、まだ聞いてないの? スーコゥ」
 崇光が少しあわてたように手真似をする。
「あー、イリーナ、その点についてはきっとアルカードがおいおい──」
「あのね、〈ヴァンパイア・ハンター〉の使い手として正式に選ばれるには、鞭その
ものに認められなければならないの」
 崇光の必死のジェスチャーにもかまわず、イリーナは先を続けた。
「ラファエルだってまだ鞭に認められるまでには行ってなかったのよ、だからあくまで
使い手候補というだけでしかなかったわ。あなただってそう。どんなに武勇に優れて
いても、強い力を持っていても、ベルモンドの血だけでは〈ヴァンパイア・キラー〉の
使い手ではない。あなたは戦いの技術を磨いた上で、鞭に宿るベルモンド家代々の
英霊に認められなければ、正式な使い手にはなれないの。そして正式な使い手以外の
手では、聖鞭は力を発揮しない。アルカードは言ってなかったの? あなたはまだ、
使い手『候補』の身なのよ、残念ながら」
 すまし顔でイリーナはさくりとクッキーをかじった。
 崇光は額に手を当てて天を仰いでいる。ユリウスはただ呆然として、小鳥にパンの
かけらをつつかせている少女の無邪気な横顔を眺めた。

107煌月の鎮魂歌6 19/29:2015/08/27(木) 00:40:19
             3

 アルカードが帰ってきたのはさらにその一週間後だった。
 半月の間、ユリウスはひたすら苛々して過ごした。苛立ちの正体が自分でもはっきり
つかめないのがまた苛立ちの種だった。表だっての意識では、自分が単に『候補』で
しかないことをアルカードが黙っていたことに腹を立てていたが、もっと深い部分
では、それだけではない何かがちくちくと胸を責め立ててやまなかった。
 鬱屈はひたすら訓練と課題を消化してやり過ごした。どうせ途中で放り出すと
ユリウスを冷眼視していた、屋敷に滞在する〈組織〉一同も目をむくほどの狂気じみた
熱心さだった。
 正確さを増した一撃で生命のない標的は次々とたたき落とされ、ほぼすべて破壊
されて交換しなければならない羽目になった。夜ともなれば深夜までデスクライトを
つけて、かび臭い書物と流れるようなアルカードの筆跡を交互に追った。
 酒と煙草はほとんど忘れられた。もともと酒は食事の時に添えられるグラス一杯の
ワインとブランデー程度に制限されていたが、煙草はイリーナに出会って以来、火を
つけようとしたとたんに指先で発火して灰と化すことが連続したあげく、指先にやけど
を負うこと数度に至ってあきらめた。どうやってかはわからないが、あの火の化身
であるむかつく鳥は、ユリウスが煙草を吸おうとするとどこにいようがすぐさま察知
して、強制的に禁煙させることにしたらしい。腹は立ったが、手の打ちようがない。
 あれ以来、白馬崇光とは会っていない。
 イリーナの発言でしばらく呆然としていたユリウスが気を取り直して質問を浴びせ
かけようとすると、「そういえばこの間、こんなことがありましてね」とまったく
関係のない話を明るい顔で始めた。
 あまりに白々しいやりくちに思わず椅子を蹴って胸ぐらを掴みそうになったが、
崇光の細い眼の奥の光がユリウスの手を止めさせた。
 その目は、笑っていなかった。

108煌月の鎮魂歌6 20/29:2015/08/27(木) 00:40:54
 ブロンクスの顔役と呼ばれる男たちの顔に何度も見たものに似ていたが、それより
はるかに得体の知れない何かを秘めていた。東洋人の表情はもともと読みにくい。
チャイニーズマフィアのボスたちの、慇懃で物静かな態度の裏に隠されたすさまじい
凶悪無慙をユリウスは骨の髄まで知り抜いている。
 この若い日本人はまだユリウスに対してこれといった悪意は抱いていないと思われ
るが、それでも、油断はできない。見かけはハイスクールの学生のようでも、魔王を
封印するために選ばれた稀代の術士なのだ。こちらの出方を見定めた上で、態度を
決めようとしているところかもしれない。それをイリーナにばらされるような具合に
なって、ごまかしにかかったというところだろう。
 イリーナとはその後も午後のサンルームで数度顔を合わせる機会があったが、そし
らぬ顔で、「どう、勉強はちゃんと進んでいるかしら?」と年上ぶった口調で訊かれた
だけだった。どうやらこの小娘は、アルカードを大きな弟扱いするのと同様、ユリウス
のことも弟分扱いすることに決めたらしい。けだものどもも知らん顔で、主人のまわり
で転がりまわって戯れている。
 ユリウスが無視して、長椅子の上で昼寝を決め込むポーズを取っていると、ティガー
と呼ばれている白黒の虎猫がひょいと腹の上に乗ってきて、同じように昼寝を始める
気配をみせた。
 むかっ腹をたてて払い落とそうとすると、猫は金色の目を光らせ、尖った爪をシャツ
に食い込ませて、獰猛そうな牙と桃色の舌を見せつけるように舌なめずりした。逆らえ
ば食い殺すという明確な意志に、あきらめて猫のベッドになるしかなかった。見かけ
よりぐっと重い猫が機嫌よくのどを鳴らして昼寝する下で、ユリウスは眠るどころでは
なく、イリーナがボウルガード夫人の給仕で、品よく午後のお茶をたしなむところを
見守るしかなかった。
 アルカードが帰ってきたと知らされたのもイリーナの口からだった。
 猫のベッド扱いされるのは癪だったが、あちこち行ってみても落ち着かず、
アルカードのいない読書室にひとり座っていても手持ちぶさたなばかりだ。かといって
自室にいても息苦しいだけなので、結局サンルームに足を向けることになるのだった
が、そこで、いつものように茶の給仕を待っていたイリーナが嬉しそうに言ったのだ。

109煌月の鎮魂歌6 21/29:2015/08/27(木) 00:41:27
「ついさっき、アルカードが帰ってきたわよ。玄関ホールで会ったわ。あなた、ちゃん
と課題を片づけたか確かめた方がいいわよ。彼、帰ったら試験をするって言ってたん
でしょう?」
 ユリウスがものすごい勢いで跳ね起きたので、ふっ飛ばされた虎猫がなりに合わない
怒りの咆吼を放った。イリーナはナプキンを片手に目を丸くしている。
「どこだ」
 テーブルまで数歩で歩みよってユリウスはイリーナの細い腕をつかんだ。四匹の聖獣
たちが肌を焼かんばかりの殺気を発しているが、今の彼にとってはそんなものは空中の
埃と同じことだった。
「あいつはどこにいる?」
「し、知らないわよ」
 さすがのイリーナが口ごもった。それから腹を立てたように早口で、
「玄関ホールではまだスーツのままだったから、着替えて一休みでもしてるんじゃない
の。本館のどこかでも探してみなさいよ。あ、言っておくけど、彼の部屋へ入ろう
なんて考えるんじゃないわよ。あそこは聖域で、彼以外の人間は誰も入れないん
だから──」
 それだけ聞けば十分だった。ユリウスは投げ出すようにイリーナを離すと、大股に
サンルームを出て本館へ向かった。後ろから猫の甲高い鳴き声と鳥の鼓膜を引き裂く
ような鳴き声に、ペットたちをなだめる少女のあわてたような言葉が重なって聞こえて
きた。

 ベルモンド家の屋敷は広い。中世から現代まで、長年の間〈組織〉の中枢として
増築と改築を繰り返してきた結果、城塞を思わせる石造りの屋敷の中は、古代式と
現代式、機能性と魔術的機能の複雑にまじりあった、迷路の様相を呈している。
 その中をユリウスはぐんぐん歩き抜けていった。普段ならば迷いかねないところ
だったが、今の彼には、たったひとつ闇に輝く月が、魔法のような磁力を発して
道しるべとなっていた。
 アルカード。

110煌月の鎮魂歌6 22/29:2015/08/27(木) 00:42:00
 本館はこれまでほとんど足を向けたことがなかった。初日に〈組織〉の一同と
ラファエル・ベルモンドに対面させられた時以来だ。それ以来一度も行ったことが
ないし、行く気にもならない。本館はベルモンド家直系の者とその従僕が行き来する
場だ。それだけでも敬遠する理由になるし、なにより、足を踏み入れて、あの車椅子
の子供に出くわしでもしたら、いらぬ騒ぎになるのはわかりきっている。
 だが今はそんなことは頭になかった。見えない糸がユリウスを引っ張っていた。
人間の狂気は月に影響されるという。なら人の姿をした月は、やはり人を狂わせるの
だろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、ユリウスは知らない廊下を、まるで
通い慣れた道のように次々と通り抜けた。
 銀のひらめきが見えた。
 角を曲がりかけて、ユリウスは打たれたように足を止めた。
 アルカードがいた。
 まだ旅装を解いておらず、ユリウスが最初に会ったときに来ていたのと同じ黒ずくめ
のスーツに身を包み、壁によりかかってぼんやりと視線を上に投げている。片手が
無意識のように、上着の下のシャツの胸もとをまさぐっていた。
 玲瓏たる横顔に、深い疲労の色が見えた。数日の旅行でたまるものではない。五百年
にわたる生と戦いが積み重ねてきた、凝り固まった澱のような疲れと悲哀の殻だ。
 アルカードはユリウスに気づいていないようだった。視線は向かい側の壁にずらりと
かかった肖像画の一枚に向けられている。長い廊下には壁を覆うほどに隙間なく肖像画
がかけ並べられていた。いちばん手前に見えている肖像の銘板を読んでみる。
『Michael Belmond』。
 知らない男の肖像を、さしたる感慨もなくユリウスは見上げた。どうやらこの廊下
には、代々のベルモンド家当主の肖像が掲げられているらしい。つまりこの男が
ユリウスの父というわけだ。なるほど。
「アルカード」
 声をかけたユリウスが驚いたほど、アルカードは身を震わせた。
 びくりと肩を跳ねさせ、何者かから身を守るように肩を抱いてこちらを見た。
 大きく見開かれた氷青の目に、めったに見たことのない怯えを見て取ったように
ユリウスは思った。

111煌月の鎮魂歌6 23/29:2015/08/27(木) 00:42:31
「帰ってきたんだな。こんなところで何をぼうっとしてる? あんたのことだから、
帰ったその足でまっすぐ俺のところへ来て、間違いなくあの本の山を片づけたかどうか
チェックにかかるもんだと思ってたぜ」
 アルカードが動けずにいるところなど見たことがなかったが、今がそうだった。突然
自動車のライトを浴びた猫のように、アルカードはすくみ上がっていた。完全にふいを
つかれ、どこか遠くにさまよっていた意識を無理やり引き戻されたことで、かすかに
口をひらいた驚愕の表情のまま、どこにも逃げられずに立ちすくんでいる。
 ユリウスが近づいて手首をひねりあげても、びくっと身をすくませただけだった。
これまでにも増して激しい苛立ちと、心臓を絞り上げられるような焦燥を感じた。
「どうした? 何をそんなにびくついてる? いつもみたいに張りつけたみたいな顔で
俺を無視しないのか? こんなに簡単に俺に捕まるなんざ、あんたらしくない」
 アルカードは捕まった子供のように弱々しくもがき、捕まれた手を離そうとして
いた。視線が助けを求めるように壁の肖像へ流れるのを追って、ユリウスは脳天に
雷が落ちたような衝撃を受けた。
 その画はかなり古いものだった。丁寧に修復され、埃を払われているが、年月を
重ねた色彩は褪色し、うす闇の中に浮かび上がっているような人物はわずかにくすんで
背景の闇色にとけ込んでいるかに思える。
 大柄な、壮年の男性だった。中世の郷士が着るような簡素だが合理的な衣装を身に
つけ、あせた色彩の中から、いまだ鮮やかなベルモンドの濃いブルーの瞳が射るように
こちらを見つめている。
 男性的なしっかりとした顔立ちで、鍛え上げられた体躯はまさに戦士というに
ふさわしい。開いたシャツの胸もとに横に流れる大きな傷跡が見え、左目を縦に
かすめるようにこれも傷跡が残っている。椅子にかけ、片手を肘掛けに置いているが、
ことあらばすぐに戦闘態勢に移れる猟犬の緊張感が画面に満ちていた。もう一方の手は
膝の上に置き、何かを握り込んでいるかのようなゆるい握り拳になっている。
 銘板にはこうあった。
『Ralph.C.Belmond』

112煌月の鎮魂歌6 24/29:2015/08/27(木) 00:43:03
「離せ!」
 アルカードが低い声で叫び、ようやく身をもぎ離した。
 つかまれた手首を押さえ、壁際にちぢこまった彼は、いつもの氷の無表情で淡々と
言葉を発する彼とはまるで別人だった。苦しげに胸を──違う、シャツの下の何かを
押さえ、色を失った唇を震わせている。
 わかった。理屈ではなく、ユリウスは悟った。
 読まされていた書物の中に、この男の名を何度も見ていた。なぜ気づかなかったの
だろう。アルカードと最初に出会い、ともに戦ったベルモンドの男。アルカードが
いまもベルモンド家に身を置き、彼らともに、彼らのために、働いている理由を
作った男。
 鋭いナイフのように言葉が口から飛び出た。
「こいつがあんたを抱いた男なんだな」
「やめろ──」
「こいつがあんたを仕込んだ。自分のものにして、毎晩さんざん可愛がって、あんたに
男の味を覚えさせたんだ」
「黙れ!」
 猛然とアルカードがつかみかかってきた。冷静さも何もない、ただの激情にかられた
子供の突進だった。
 ユリウスは簡単に身をかわし、細い手首をとらえてひねりあげた。そらした喉から
かすかな悲鳴があがるのを耳にし、暗い嗜虐の炎が燃え上がるのを感じた。
「半月も留守にして忘れちまったか? あんたは俺の牝犬なんだぜ。今はな」
 アルカードはかたく目をつぶって顔をそむけている。長い睫が震え、白い肌は血の気
をなくしてほとんど透き通りそうに青ざめていた。
「五百年も前の男がいまだに忘れられないってか? 大したもんだ、泣かせるよ。だが
こいつはとっくに土の下だ、骨だってもう残っちゃいねえ。そいつがわかってて、まだ
操立てか? こいつ以外の男じゃ、身体は開いても心は許しゃしないってか? よく
言うぜ、この淫売が」

113煌月の鎮魂歌6 25/29:2015/08/27(木) 00:43:36
「……やめてくれ」
 顔をそむけたまま、アルカードは呟いた。木の葉のこすれるようなかぼそい声だった。
「他でならいい──だが、ここでは……頼む──」
「そんな贅沢が言えると思ってんのか?」
 乱暴にユリウスはアルカードの腰を引き寄せた。
「忘れるな、あんたは俺に買われたんだ。あの、むかつく聖鞭とやらと引き替えにな。
しかも俺が、ちゃんとその鞭の使い手になるかどうかはまだわからないらしいじゃ
ねえか。鞭に認められなきゃ正式な使い手にはなれないんだって? じゃあ、俺がもし
鞭に認められなくて、使い手になれなかったら、あんたはどうする? 俺を放り出す
のか? 鞭を使えない男じゃあんたの役には立たないから? ふざけるなよ、牝犬」
「お前は──使い手になる──私が、そうする」
 もがきながらもアルカードは弱々しく反論した。
「でなければ、世界は終わる──〈ヴァンパイア・キラー〉を使う者がいなければ、
魔王の討伐は叶わない──お前が最後の希望なのだ、ユリウス・ベルモンド──お前が
鞭を使わなければ、世界は」
「世界なんぞ知ったこっちゃないと、前にあんたに言ったはずだよなあ、俺は」
 必死にそらそうとする顔をぐいとつかんで自分のほうへねじ向けさせ、ユリウスは
囁いた。
「俺が出した条件はたったひとつ、あんたが俺のものになること、それだけだ。なのに
他の男の、それも何百年も前に死んだ男の絵の前でぼうっとしてるのは気にくわない。
どうだ、ここで一発やらかしてやるか?」
 つかんだ肩がはっきりと恐怖にこわばったのを、戦慄とともにユリウスは酔いしれ
愉しんだ。
「やめてくれ、嫌だ、ここでは──ここでだけは……」
「相手はどうせ死人だ、気にすることがあるもんか。死んだ人間は生きた人間に文句を
つけられない、そいつが世の中の摂理ってもんだ。脱げよ、でなきゃ、無理にも脱がせ
てやるぜ。来いよ、ご主人様の命令だ」
「離せ……!」

114煌月の鎮魂歌6 26/29:2015/08/27(木) 00:44:10
 無理な姿勢から身体をひねったとたん、上着とシャツのボタンが弾けとんだ。前が
開いて白いなだらかな胸があらわになった。なめらかな素肌の上に、ごつい金色の、
ペンダントには多少大きすぎる何かが金の鎖でぶら下がっていた。
 ユリウスはそれが、ブロンクスのあの地下で一瞬目にしたものだと感じ取った。反射
的に手を伸ばして触れようとする。
『触るな!』
 その一喝は雷鳴のようにとどろき、ユリウスの頭上に墜ちてきた。
 人外の魔性の声、魔王の血を継ぐ闇の公子の声だった。一瞬あたりの景色がゆがみ、
ユリウスはふらついてあとずさりした。
 姿勢をくずして膝をついたまま、アルカードは肩で息をしている。
 端正な顔は怒りに凶暴にゆがみ、唇のはしから真珠のような牙が覗いている。氷青の
目はすでに人の色を失い、爛々と燃える暗黒の黄金に染まっていた。同じ人の形をして
いながら、それは『違う』者だった。
 半ヴァンパイア、魔王の血を引く者という真の意味を、ユリウスは眼前にしていた。
理屈ではなく、身体が動かなかった。黄金の双眸が傲然と人間を睨みすえている。
それは圧倒的な『上位者』の目、主人が家畜を見るのと同等、否、それ以下の力の差を
見せつけるものだった。
 おそらくそれほど長い間ではなかったのだろう。アルカードははっとしたように顔を
そむけ、同時にユリウスの呪縛もとけた。
 自分が呼吸を止めていたことに、ユリウスはようやく気づいた。全身が石になった
ように固まっている。長々と息を吐き、喉から飛び出しそうに早鐘を打つ心臓を
抑える。アルカードはこちらに背を向け、胸に下げたものを抱くようにして、身を
丸めて震えている。
「こっちを向け」
 からからの口を無理に動かして、ユリウスは命じた。
「俺に鞭を使わせたいなら、こちらを向け。顔を見せろ」
 アルカードはのろのろと従った。
 髪が乱れて額に散りかかり、青ざめた顔をヴェールのように覆っていた。眸にまだ
黄金の光は残っていたが、先ほどのすさまじい怒りの閃きはすでに失われていた。

115煌月の鎮魂歌6 27/29:2015/08/27(木) 00:44:46
「その胸に下げたものを渡せ」
「……それは」
「渡せ」
 かすかに唇を震わせたあと、アルカードはうつむき、ゆっくりと首から鎖をはずし
て、ユリウスの手のひらにそれを乗せた。
 ずしりと重い、大型の指輪だった。かなり古いものらしく傷だらけで、刻まれた紋章
も摩滅して薄くなっている。かろうじてそれがもともと、ベルモンド家の紋章の刻まれ
たものであることは読みとれた。
「こいつは俺がもらっておく」
 うなだれたアルカードにむかって、ユリウスは宣言した。
「俺のペットが俺以外の人間の首輪をつけているのは気にくわない。あんたは俺のもの
だ、それを忘れるな。あんたが俺のものでいる限り、俺は鞭を使う。少なくとも、
使い手として努力してやる。帰ったら試験をすると言ってたな。いいよ。やれよ。
俺がどこまでやれたか見せてやる」
 返事はなかった。うちひしがれた様子のアルカードに背を向けて、急ぎ足でユリウス
は歩き出した。ずらりと並んだベルモンド家歴代の肖像の目が、自分一人に集められて
いるように感じる。
 ラルフ・C・ベルモンドの肖像が、心に焦げるような痛みを焼きつけていた。
 アルカードがあの男に向けていた、五百年にわたる別離にも曇らされない、魂を
こめた思慕と愛情の視線が。


「アルカード」
 服を裂かれたまま、その場で立ち尽くしていたアルカードに声がかかった。
 のろのろと振り向く。丸い眼鏡の奥に沈痛な色をにじませた、白馬崇光がそこにいた。
「崇光……」

116煌月の鎮魂歌6 28/29:2015/08/27(木) 00:45:23



「本当に、あなたは彼が鞭に認められると思っているんですか?」
 口先では非難するような言葉をとりながら、崇光はつかつかとアルカードに近づき、
ちぎられたシャツの前をあわせて肌を隠してやった。アルカードは光のない目でされる
がまま立っている。
「彼は確かに優秀な戦士の素質を持っている。しかし、鞭に認められなければ使い手
にはなり得ないのですよ。あなたにこんなことをする人間を、鞭が認めるとは僕には
思えません」
「だが、認められなければ世界は滅ぶ」
 か細いが、断固とした言葉だった。
 崇光は膝をついてボタンを下まできちんと留め終え、立ち上がってアルカードに
相対した。表情の読めない丸眼鏡が、東洋人の青年の内心を完璧に隠していた。
 アルカードは小さく咳をして、いくらか声を強めた。
「彼は使い手になる。その力が彼にはあると私は信じている。信じなければこんなこと
はしていない。私がどれだけ長い間、たった一つの目的、ただ一日の決戦のために
生きてきたか、あなたは知っているだろう、崇光」
「知っているとも。その日を定めたのは僕なんだから」
 苦いものでも吐き捨てるように崇光は言った。
「そして魔王封印の方法も。ああ、そうとも、その点で僕はあの男と同罪なのかも
しれないな、少なくとも間接的には。選択の余地さえあれば、もっと別の道を考えて
いたとも。そうとも、ほかにもっと方法が──」
「時間がない」
 有無をいわせぬ調子でアルカードは遮った。
「そしてほかに方法などないのは、あなたが一番よく知っているはずだ、白馬崇光。
当代において最高の封印術士」
 崇光は心臓を突き刺されたような表情を一瞬うかべた。
「……心配しなくていい。私はすべてを受け入れている」

117煌月の鎮魂歌6 29/29:2015/08/27(木) 00:45:56
 アルカードはふらりと足を踏み出し、思いがけずしっかりした仕草で崇光の肩に
触れた。「指輪のことなら、もういい。あれはすでに私の持つべきものではなくなって
いた。この計画が動き出したときから、もう」
 動作も口調も落ち着いていたが、狂おしい色にきらめく瞳がすべてを裏切っていた。
「闇の血脈は断たれなくてはならない。今度こそ、完全に。地上に一滴すら残さず、
すべてを、闇のむこうに還さねばならないのだ」
 崇光がなにも言わず見つめ返すと、アルカードは耐えかねたように顔をそむけ、
「では」と低く呟いて、崇光をそっと押しのけ、ふらりと歩き出した。しおれた髪も
落ちた肩も、数歩離れたときにはもういつものすらりと背筋を伸ばした、沈着な
半吸血鬼のものに戻っていた。
 アルカードが廊下を曲がり、見えなくなるまで黙って見送っていてから、耐えかねた
ように崇光は向き直り、壁の肖像を見上げた。
「ラルフ・C・ベルモンド」
 痛みをこらえる者の、しぼりだすような声で彼は言った。歳月をへた肖像は壁の上に
静止し、その青い瞳は静かに前を見つめていた。
「なぜあんたはここにいない。なぜ彼のそばにいてやらないんだ。彼を本当の意味で
守れるのはあんただけなのに。どうしてそんなところで、黙って見ているんだ。
どうして──」
 言葉が続かず、しばらくはげしい呼吸をして、崇光は思いきり肖像の横に拳を
打ちつけた。
 鈍い音がして、額が少し揺れた。それだけだった。
 画の中の五百年前のベルモンドの男はただ黙し、描かれた瞳で、永遠の彼方を
見つめている。

118煌月の鎮魂歌7 1/17:2015/11/12(木) 20:42:34
 Ⅲ  1999年 三月

           1

 夢だと、最初からわかっていた。
 それでも醒めることはできなかった。今となっては自分の足で立ち、走れるのはただ
夢の中でだけなのだ。
 少年は薔薇の茂みにしゃがんでこっそり首を伸ばしている幼い自分をどこか遠いもの
のように感じていた。それでいて、感覚はしっかりとあの時のままの記憶を保っていた。
 晴れた五月の午後、薔薇のつぼみはふくらみ、あたりには眠くなるような蜂の羽音と
鳥の声がこだましていた。むせかえるような薔薇の香りと湿った土のにおいがあたりを
包む。
 初夏の風はあたたかく、やわらかい指先のように頬をなでていく。むき出しの膝小僧
に小石が食い込んでいたが、そんなささいな痛みは意識から吹き飛んでしまうほどに、
六歳の少年は目の前の幻のような光景に魂を奪われていた。
 そのひとは、蔓薔薇の絡む古い塔の石壁にもたれて座り、手ずれのした古い書物に目
を通していた。
 まるで伝説の中から抜け出てきたかのような姿だった。古風な形のだぶだぶのシャツ
にスパッツ、中世風の白い長靴下に、こびとが縫ったような小さな革の靴。手も足も
すらりと長く形よく、ただそこに腰を下ろしているだけなのに、その無造作な姿勢が
いつまでも見ほれていたくなるほどに優美だ。細い指がゆっくりと次の頁をめくる。
 風にふかれる長い髪は霞のようにきらめく月の銀色。顎の細い小さな白い顔は夜空の
月そのもの、なめらかに傷一つなく輝き、伏せられた青氷色の瞳は長い睫の下に優しげ
に煙っている。何事か考え込むように唇をひきしめ、わずかに眉根をよせている。塔に
からんだ蔓薔薇の白い小さな花がのぞき込むように後ろで揺れ、信じがたいほどのこの
麗人を、小さな妖精たちがそろって取り囲むように見えた。

119煌月の鎮魂歌7 2/17:2015/11/12(木) 20:43:10
『そこの、子供』
 どれほど時がたったのかよくわからない。そのひとが本を閉じ、静かな声で呼んだ
とき、彼は子兎のように飛び上がって逃げ出すところだった。
『こちらへおいで。お前はベルモンドの者だな。ミカエルの息子がもう大きくなったと
聞いている。怖がる必要はない。こちらへ来なさい』
 少年はおそるおそる薔薇の茂みを這い出た。
 父から、近づいてはならないと厳しく言い渡されている屋敷の一角に、午後のちょっ
とした冒険のつもりで潜り込んだのだった。将来、自分が継ぐはずのこのベルモンド家
の屋敷を知っておくのは次期当主としての勤めだと、幼い心にいいわけを作って、ふさ
がれている小径をくぐったのだ。
 幼少の頃から才に恵まれ、すでに多少の封印や障壁は解除することができた。父ミカ
エルしか通ることを許されていない小径、いつ見ても色とりどりに咲き誇る薔薇が、
美しい衛兵のようにふさいでいる不思議な路のむこうに何があるのか、ほんのちょっと
のぞき見るつもりだったのだ。
 ごそごそと這いだしてそばへ行くと、そのひとは、もじもじと立ち尽くす小さな子供
を冬の晴れ間の色をした蒼氷色の瞳で見上げた。軽く指先を顎にあて、顔を上げさせ
る。見つめられると、体の中を風が吹き抜けていくようだった。ふわふわと、その場
から浮き上がってしまいそうになる。少年はぎゅっと両手を握りあわせた。
『名前は』
 ──ラファエル・ベルモンドです。
『いくつだ』
 ──六歳です。来月で七歳になります。
 そう答える自分の声が別人のもののようだった。美しいひとは、七歳、と小さく呟
いて、視線をそらせた。見えない糸にからめ取られたようだった身体が、ふいにゆる
んだ。少年はほっと息をついた。美しいひとは何か考えるように、脇においた本に手を
すべらせた。

120煌月の鎮魂歌7 3/17:2015/11/12(木) 20:43:40
『もう七年もたつのか。ついこのあいだ生まれたと聞いたばかりのような気がするの
に。──早いな。人の世の時間は』
 そう呟いた声がひどく寂しげに聞こえて、少年はいそいで言葉を継ごうとし、言う
べきことが何も見つからないのに気づいた。
 美しいひとは目をあげて、ほほえんだ。小さな唇がかすかにほころんだだけの、
ほとんどそれとはわからないほどの微笑だったが、それは雷のように少年の小さい
心臓を貫いた。
『怪我をしている』
 つと指が上がり、頬骨の上をたどった。冷たい、なめらかな指先だった。少年は
あわてて頬をこすった。わずかな血と、泥がついてきた。茂みをくぐる間に、どこかで
ひっかけたに違いない。
 ──平気です、こんなの。なんでもないです。
 それよりも、たった今頬をかすめていった指の感触がうずいた。陶器の人形のようで
ありながら、活きたしなやかさと優しさのこもった指先。
『それでも毒がはいるといけない。そこにいなさい。薬をとってこよう』
 美しいひとはするりと立ち上がると、本を片手にゆっくりと歩いて、塔の後ろに
隠れてしまった。少年はぼんやりとその場で風に吹かれていた。たった今、目の前に
いたきらめく幻影が現実だったとはいまだに信じられず、きっとこのまま、日が暮れる
までひとり自分は幻を待ち続けてここに立ち続けるのだとなかば以上信じていた。
 しかしそうはならず、再びあらわれた美しいひとは本のかわりに小さな素焼きの壷と
水の入った桶に布を持ってきた。彼は少年を座らせ(その時になってようやく少年は、
この美しいひとが男性であることに気がついた)頬のかすり傷を丁寧に洗って、塗り薬
をつけてくれた。ついでに小石が食い込んでできた膝小僧の傷も同様に。
 薬はさわやかな薬草の香りがし、水はあくまでも澄んで冷たかった。なにもかもが
魔法のようだった。魔法や魔術には幼いころから慣れ、ある程度の訓練もすでに修めて
いたが、この薔薇に囲まれた庭と古い塔、そして月の顔と髪の麗人は、魔法以上の
なにものかだった。ただそこにいるだけで心をゆさぶり、少年の心を息苦しいような
ときめきで満たすなにか。

121煌月の鎮魂歌7 4/17:2015/11/12(木) 20:44:51
『さあ、これでいい』
 壷の蓋をしながらそのひとは言った。
『今日はもう帰りなさい。じきに日が暮れる。そのうち、ミカエルが正式に私を紹介
してくれるだろう。その時を楽しみにしていよう。また会おう、ベルモンドの子供』
 催眠術にかけられたように少年はあとずさり、くるりと向きを変えた。
 目の前に、それまではなかったはずの石の小径が開けていた。それが、障壁の隙間を
むりやりくぐり抜けた自分の通ってきた路ではなく、許された者だけが通る路、父と、
おそらくこの塔に身を置くあの麗人のみが通ることを認められた場所だと悟り、うずく
ような痛みが胸にわきあがってきた。それが嫉妬だということを、この時はまだ知ら
なかった。
 小径を通って戻ると、父がそこにいた。少年が障壁を抜けたことを知っているよう
だった。叱られ、罰されることを覚悟して前に進んだ少年に、父は、なぜか痛みを
こらえるような沈痛な目で答えた。
『彼に会ってきたのか』
 深くよく響く父の声は、どこか沈痛だった。黙って少年がうなずくと、『そうか』と
呟き、ゆっくりと後ろを向いて屋敷の方へ戻っていった。少年は拍子抜けした気分で
あわててあとを追った。
『父上』
 大股で歩く父の隣で息を切らしながら少年は言った。
『あのひとは誰なのですか。どうしてあそこにいるのですか。なぜ、ベルモンドの名を
知っているのですか』
 返事はなかった。あのひとが言ったとおり、いつのまにか日が暮れかけていた。あの
魔法にかかった場所では時間の流れが違うとでもいうように、明るい空は急速に
たそがれに染まり、星が空の高みに輝きだしていた。燃えつきかけた太陽がわずかな
残照を木々の梢に散らしている。

122煌月の鎮魂歌7 5/17:2015/11/12(木) 20:45:23
『父上!』
『──ベルモンドの者は、必ず一度は彼に恋をする』
 歩きながら、独り言のように父は言った。自分に言われているのかと少年は疑ったが、
父の深くくぼんだ目は自分ではない、どこでもない、はるか遠くを見つめていた。
『かなうことのない恋だ。だがともに戦うことはできる。彼の身を守り、いつの日か
来る魔王の再臨の日に彼の隣に立つこと、それがベルモンドの者の負った役割であり、
祝福であり、──呪いだ。先祖のベルモンドたちはみなその日だけを待って魔物を狩り、
彼ともに戦った。魔王の封印。私の代にはかなわなかった、だが、お前は──』
 その先は続かなかった。少年は跳ねるように歩きながら、父のいつも厳しくひきしめ
られている口がだらりと開いているのを見た。何かを奪われたものの顔をしていた──
あるいは、あらかじめ奪われていたことを、たった今思い知らされたものの顔を。
 ふいに気づいたように父は息子を見下ろし、さっと目をそらした。少年はそこに暗い
色を見た。ひどく暗いものを。厳しく笑顔をめったに見せない父の、はじめて活きた顔
を見た気がした。それは気分のよいものではなかった。夜気の中でぶるっと身を震わせ
るとともに、少年は、幼い心に奇妙な勝利感がわきあがるのを感じた。
(あのひとは、僕のものだ)
 幼い心に眠る、将来の男の声が呟いた。
(あの美しいひとは、いつかきっと、僕のものになるんだ)


 一月後の七歳の誕生日に、少年はあらためて彼に正式な紹介を受けた。塔の麗人。
ベルモンド家の宝。
 薔薇と塔にかくまわれて五百年を生き続けてきた、闇の貴公子。
 それまでは誰になにを訊いても答えてもらえなかった。父は巧妙に息子の視線を避け、
学問と訓練にのみ没頭させるように仕向けていた。毎夜の眠りの中で少年はあの出会い
を繰り返し、現実には交わすことのできなかった会話をあれこれと交わし、その微笑み
を浴びるように受け取った。夢の中で麗人はいよいよ美しく、魔法めいて、神よりも
天使よりもすばらしく輝きわたっていた。

123煌月の鎮魂歌7 6/17:2015/11/12(木) 20:46:01
 だが七歳の誕生日、黒ずくめの装束をまとい、緋裏の黒いマントをひるがえしながら
ゆっくりと歩いてきたそのひとを見たとき、少年は自らのどんな夢想も、現実には
とうてい及んでいなかったことを知った。
 やわらかくなびく銀髪をかきあげて、自分に向いた月の白い顔があのかすかな微笑を
浮かべたとき、あらゆる世界が少年のまわりで消え去った。
『また会ったな。ベルモンドの子供』
 極上のベルベットのような低い、やわらかな声が耳をそっと撫でた。
『私は、アルカード。人には、そう呼ばれている』
 ふわりと身をかがめて、子供の低い視線にあわせる。薔薇と、そして何か金属的な──
血、の匂いが漂い、くらくらと目が回った。どこまでも深く澄んだ蒼氷色の瞳が、
文字通り少年の魂を射抜いた。
 息が止まるような思いだった。ひょっとしたら、その場で倒れて死んでいたかもしれ
ない。それほどまでにきらめくその目の一瞥は強烈だった。彫像めいた手のひらが
そっと頬を包み、やさしくさすった時、ほとんどその場に卒倒してしまいそうだった。
『だからお前も、そう呼ぶがいい。私はベルモンドに従い、ベルモンドとともに、闇と
魔王の真なる打倒を目指すもの。いずれお前も、私の隣に立つようになる。ミカエルの
ように』
 黙して立つ父にも彼は目をやった。
 そのとたん、少年ははげしく胸を焦がす痛みを感じた。この麗人の瞳に見つめられる
のが、自分でないことに理不尽な怒りを抱いた。
 父はうなずき、笑みを返したが、その微笑がかすかにこわばっていることを少年は
見逃さなかった。自分の感じている痛みを、父もまた感じていることを、本能的に少年
は感じ取った。
 アルカードはなめらかに立ち上がり、緋裏のマントをさらさらと鳴らした。美しい剣
の柄が、細い腰に装飾品のようにきらめいていた。

124煌月の鎮魂歌7 7/17:2015/11/12(木) 20:46:51
『魔王の再臨は近いと告げられている。ミカエル、あるいはお前の代の間に、最後の
決戦がやってくるだろう。その日のために腕を磨くのだ、ラファエル・ベルモンド。
ベルモンドの血を継ぐもの。〈ヴァンパイア・キラー〉の使い手。魔王ドラキュラの
復活を最後のものとできるかどうかは、お前たちの肩にかかっているのだから』
 霞のようにたなびく銀髪を後ろにひいて、アルカードは背を向けた。
 細いブーツがゆっくりと床を踏み、いつの間にか、音もなく彼は姿を消していた。
誕生を祝うために集まっていた一族がいっせいに息をつき、生き返ったようにしゃべり
出すのを夢のつづきのように少年は聞いた。ある意味ではまだ、彼もまだ夢にたゆたっ
ていた。彼の香りが、薔薇とかすかな血の香りが、まだ身辺に絡みついて愛撫している──


 ラファエルは嫌々ながら目をあけた。
 朝の灰色の光がとじたカーテンのあいだから剣のようにななめに落ちて床を切り
取っている。起きなくちゃ、とぼんやり思い、無意識に布団をはいで身を起こそうと
して、びくっとした。
 いつもここだ。いつもここで、現実を思い知らされる。
 かたわらのナイトテーブルに手をやるより早く扉が開いて、ボウルガード夫人が
入ってきた。後ろに屈強な男の看護人を二人連れている。夫人は言葉少なにおはよう
ございます、と腰を折ると、流れるようないつもの手つきでラファエルの夜着を脱が
せ、昼間の服を着せつけはじめた。
 ラファエルは屈辱とあきらめの入り交じった気持ちでそれを受け入れた。受け入れる
ことを覚えなくてはならなかった。人の手を借りて着替えをしなければならないのは
二歳の時以来だ。よちよち歩きを卒業するとラファエルは断固として世話役の女中の
手を拒否し、自分で服を着替えるようになった。物心ついて以来、母とはほぼ会うこと
がなく、ほとんど想像上の存在であり、対して父は、頭上にそびえる巨大な山脈だった。
いつかその山脈を越えてゆかねばならないことを運命として悟っていた少年は、一刻も
早く大人にならねばならないことをすでに知っていたのだ。

125煌月の鎮魂歌7 8/17:2015/11/12(木) 20:47:26
 なのに、このざまだ。背中を看護人に支えられながら、ベッドの縁から垂れ下がる
力ない足にズボンと靴下をはかせるボウルガード夫人の動きに苦い思いをかみしめる。
どんなにラファエルが願おうとも、力のかぎりを尽くそうとも、腰から下の肉体は粘土
でできた人形のようにだらりと垂れ下がったままでいる。
 魔物に襲撃された夜の記憶は断片としてしか残っていない。死ぬところだった、という
話だ。ひらめくように浮かび上がるのは、巨大な魔物の黒い影、真紅に燃える血走った
双眸とかっと開いた口、爪、よだれの滴る牙、地獄の底から吹きつけてくるような臭気。
鞭を握った自分の手。
 最後に自分の両足で地面を踏みしめた、その感覚。
 日常生活ができる程度の回復ならできる、と告げられた。〈組織〉に属する治療術者
たちの力を結集すれば、傷ついた神経をなだめ、常人と同じ生活ができる程度には足を
動かせるようになる。あるいは魔術と錬金術の粋を尽くして、新たな人工の下肢に
とりかえることも。
 しかしラファエルはすべてを頑として拒否した。それでは意味がないのだ。ただ常人
と同じように、普通に暮らせる、ただそれだけでは。あの〈鞭〉が使えないなら。聖鞭
〈ヴァンパイア・キラー〉が使えないのなら、どんなことにも意味などない。
 聖鞭は強靱で瑕疵のない肉体と精神を持ち主に求める。あの鞭の強力な力の前では、
回復術や錬金術によるごまかしなど、なんの意味もない。
 服を着せられ、用意された車椅子にそっと降ろされる。ボウルガード夫人が膝掛けを
広げ、萎えた両足を丁寧に隠してくれることにわずかな安心感を覚えた。同時に、あの
魔物の襲撃以来、心に巣くって消えない虚無感がまたじわりと胸を噛んだ。

126煌月の鎮魂歌7 9/17:2015/11/12(木) 20:48:02
            2

「獣の臭いがするわ」
 ふいにイリーナが言った。
 それまで自分も小鳥のように肩にとまったバーディーとにぎやかにおしゃべりして
いたのが一変して、何か見えないものに対して身構えたかのようだった。緑色の妖精の
瞳が爛々と燃えている。
「あんたのけだものどもの臭いじゃないのか……てっ」
 またブーツですねを蹴り飛ばされ、ユリウスは罵り言葉を飲み込んだ。
 ここ数週間で、たとえ蹴飛ばされようがどうしようが、この少女の前で少女があるまじ
きことと考える何かを口にするが早いか、もう一度蹴飛ばされるか、四匹のけだものども
に殺気の渦で応じられるかのどちらかだと否応なく学習させられていたのである。
「確かですか、イリーナ」
 紅茶茶碗をおいて、崇光は真面目な顔になっている。
「このベルモンドの屋敷の中で、そんなものの気配のかけらでも感じられるとは思えませ
んが」
「闇の者だっていうのか?」
 すねをさすりながらユリウスはぶつくさ言った。だいたいなぜ自分がこの午後のお茶
の席に座らせられているのかわけがわからない。
 午後のサンルームには陽光が満ち、温室咲きの花と観葉植物か目に快い彩りを添えて
いる。お茶のテーブルについた三人と給仕のボウルガード夫人以外人影はなく、滞在客
は彼らが入ってきた時点で静かに退出するか、用事を思いだしたような顔をしてどこか
へ行ってしまった。

127煌月の鎮魂歌7 10/17:2015/11/12(木) 20:48:38
 自分だけでなく、崇光やイリーナも、ある意味で忌避されていることをここにいる数
ヶ月でユリウスは感じ取っていた。強力すぎる力の持ち主もまた、常人たちの中に
あっては異端者なのだ。このベルモンド本家に足を踏み入れられるほどの人間はみな
多かれ少なかれ超常の力を持つものではあったが、彼らでさえ、崇光とイリーナの
高すぎる能力には畏怖、あるいは恐怖の念すら抱いているらしい。
 今日は新月だということで訓練は休み。アルカードは一日自室にこもり、降りて
こない。半吸血鬼の彼は月の周期によってある程度の影響を受けるため、新月の日は
活動せずに眠って肉体の回復を待つのだという話だった。あの幻のような動きのどこに
衰えや不調があるのかよくわからないが、体内を流れる半分の吸血鬼の血が、昼間活動
することによってある程度の負担をかけるものであるらしい。新月の夜は特にそれが
顕著になるため、一晩休んで気力の回復を待つのだと説明を受けた。
 納得がいかない。
 確かにアルカードも活きているのである以上、疲労も休息も必要であるのはわかるが、
いつも大理石の彫像のように静かに、冷たく美しく佇んでいるくせに、新月だからと
姿を隠してしまうのは理不尽だ。それでは本当に月の化身のようではないか、と腹立ち
まぎれに考え、ぎょっとした。
 俺はなにを考えてる。あのむかつく訓練と頭がぼうっとするまで知識をたたきこまれ
る授業が一日休みになったんだ、喜べばいいだろうが。
 まあ、夜にあの身体を弄ぶ気晴らしが取り上げられるのは気にくわないが、それも
一晩のことだ。明日になればまた、あの牝犬は俺のところへやってきて這いつくばら
ざるを得ない──
 ティガーが鋭い声で鳴いて、ユリウスの考えを破った。白い虎猫のはかりしれぬ力の
こもる金色の目は、ユリウスの悶々とした気持ちを見透かすかのようにまたたきもしない。

128煌月の鎮魂歌7 11/17:2015/11/12(木) 20:49:23
「ティガー、おすわり」
 イリーナはうわのそらで呟き、しばらく遠くの音に耳をすますかのように空に視線を
据えて眉をひそめていたが、やがて小さく舌を鳴らして、「だめね」と言った。
「ほんの一瞬、確かに、あいつらのくさい臭いがしたんだけど。もうどこかへ消えて
しまったわ。考えてみれば、ベルモンドの結界を破れる魔物なんて、魔王ドラキュラ
そのものでもなければそうそういないはずなんだけど、でも間違いなくあれは闇の
感覚だった」
「あとで結界を確かめに回ってみますよ」
 とにかくお茶のお代わりを、と崇光はかたわらに控えたボウルガード夫人に手を
あげる。夫人は一礼して進み出、イリーナの前の茶碗をあけて熱いお茶をあらためて
注ぎなおした。同席者の崇光とユリウスの前にも同様に新たな茶の一杯が置かれる。
「滞在しているほかの家系の方々にもお伝えしておきますかね。魔王の復活が近く
なって、闇の勢力が思ったより活性化しているのかもしれない。最終復活に向けて、
どんな事態が起こっても不思議じゃないですし。備えを固めておいて悪いことはない
でしょう」
「あいつが怪我をしたのはここでじゃないのか?」
 ユリウスはかぐわしい紅茶を一口すすった。悔しいが、禁煙を余儀なくされてから、
この呪文のような名前の中国茶の中毒のようになっている。液体化した煙のような
複雑な香りと風味のお茶は、気がつけば、朝晩の食卓にかかせない飲み物になって
しまっていた。
「ラファエルが魔物に襲われたのはここではありませんよ。彼が魔物を狩りに出た先に、
罠が仕掛けられていたんです」
 崇光が静かに言った。
「本来なら〈ヴァンパイア・ハンター〉の持ち主である彼の父君──ミカエル・ベル
モンドが赴くべき任務でしたが、ミカエルはそのときすでに亡くなっていましたから。
まだ正式な使い手ではなくとも、自分が行くとラファエルは言い張ったんです。アルカ
ードは反対しましたが……」

129煌月の鎮魂歌7 12/17:2015/11/12(木) 20:49:58
 困惑したように崇光は言葉を濁した。
 言われなくともユリウスにはわかった。あの少年はアルカードに止められればそれだけ
強く、自分はもう大人であると、聖鞭の使い手として彼に、アルカードにふさわしい者で
あることを見せようと、意固地になったに違いない。アルカードの助力も断ったろう。
自分が護ると心に決めた相手に護られるほど、少年の誇りを傷つけるものはないだろう。
「そういえば、ラファエルはどうしているの? もうこのごろずっと、あの子の姿を見て
いないわ」
 イリーナが心配そうな声を出した。この少女にかかっては自分以外のほとんどすべての
人間が『あの子』扱いになる。
「ラファエル様は健康に暮らしておいでです」
 なめらかな手つきでポットに湯を注ぎ足しながらボウルガード夫人が答えた。
 下半身が動かないことを健康だと言えるものならな、とユリウスは考え、哀れみととも
に義弟に対して意地の悪い複雑な喜びを覚えた。
「食事もきちんととっておられますし、リハビリテーションも受けておられます。毎日
のお勉強も欠かしておられませんから、いずれまた、ベルモンド家の支柱として立派に
お立ちになられます」
「ずいぶん確信のありそうな言い方だな」
 皮肉な口調になるのを抑えられなかった。ユリウス自身、自分がベルモンドの家長に
なるなどという気はかけらもなく、今回のことが終わればさっさと古巣のブロンクスへ
──(アルカードの姿が幻のように胸に浮かび、心臓がずきりと痛んだ)──戻る気で
いたが、この老夫人が今は車椅子に乗った無力な子供でしかないラファエルに、
そこまで忠誠を捧げているのは意外だった。
「ボウルガード夫人はずっとベルモンド家の家令として使えてきた家系の裔ですから。
ああ、ありがとう、夫人」
 なだめるように崇光が言い、サンドイッチを皿に取り分ける老夫人に日本人らしく
几帳面に礼を言った。

130煌月の鎮魂歌7 13/17:2015/11/12(木) 20:50:34
「代々長子の男性がエルンストという名で家令を勤めてきたのですが、その名を継いだ
兄上が亡くなられましてね。戦争で未亡人になっていた彼女が呼び戻されて、こちらの
家政を見るようになったというわけです」
「はん。俺と似たような身の上ってわけか」
 鼻を鳴らしてユリウスは椅子にそっくりかえった。
 とたん、射るような眼孔に射すくめられて、反射的に身を堅くした。茶器を手にした
ままの無表情な老夫人が、灰色の目を矢のように鋭くこちらに向けている。
「わたくしは自らの血筋に誇りを持っております」
 細いが、その声は激しかった。お前などといっしょにするなという絶対の拒絶を、
ユリウスは感じ取った。この屋敷に来てからずっと感じていたものが、一瞬にして
人の形をとり、目の前に立っているようだった。
「兄が死んだことは悲しいことです。けれども、わたくしの務めははるか五百年、
いいえそれよりも前から、我が家に引き継がれてきた名誉ある任務。ベルモンド家に
お仕えすることがわたくしの運命であり、生命です。ご本家からお呼びをいただいた
ことを光栄に思いこそすれ、拒否するなどとはみじんも考えたことはございません」
「そうかよ。お偉いこったな、ばあさん」
 一瞬であれ鶏がらのような老婆に気圧されたことを隠すように、ユリウスは身を
乗り出して熱い茶をがぶりと飲んだ。のどを焼くその熱ささえ、老婆から突きつけ
られた拒絶と挑戦の証に思えた。
「それじゃあんたはあいかわらずラファエル坊やに仕える身で、俺はあくまで鞭を
使うために引っ張ってこられた道具扱いでしかないってことだ。思い出させてくれて
ありがとうよ。安心しな、俺は坊やに対してどうこうしようなんて思っちゃいないし、
こんなお堅いお屋敷に一生縛りつけられるのもまっぴらなんでね。仕事が終わりゃ
即座にこんな家おん出て、なつかしのニューヨークへまっすぐ帰ってやるよ。こんな
古くさいかちんこちんの家の主なんざ、あの車椅子坊やを座らせときゃたくさんだ」
「ラファエル様を愚弄することは許しません」

131煌月の鎮魂歌7 14/17:2015/11/12(木) 20:51:05
 老婆の目がぐっと細まった。ティーワゴンの取っ手に置かれたしわだらけの手に
わずかに力がこもったことをユリウスの慣れた目は見て取った。それがちぢかんだ
老婆とは思えない殺気のこもったものであることに内心ひそかな驚愕と興味を感じた。
「どうした。気に障ったなら勘弁しろよな。俺は知っての通り育ちが悪くてね、思った
ことがすぐ口に出ちまうんだよ。ひょっとしたら失礼な口をきいちまったかも
しれないが、あの車椅子坊やを悪く言う気はないんだ、ほんとだぜ。なんたって
わが尊敬すべき浮気な親父殿の息子同士なんだ。おふくろは違ってたって俺たちゃ
兄弟だ、かわいいちびの弟くんの悪口を言うほど俺も堕ちちゃいないさ」
「……貴方がミカエル様の血を継いでいるなどと」
 ほとんど喉の奥でささやいたようなものだったが、ユリウスには聞こえた。老婆の
灰色の目に瞋恚の炎が燃えているのを心地よくユリウスは見た。これでなくっちゃな、
とぞくぞくと背筋を駆け上がる興奮を感じながらひとり呟く。お上品なお茶会なんざ
飽き飽きだ。真綿にくるまれた中の棘をぼんやり感じて暮らすより、むき出しの嫌悪
と怒りをつきつけられたほうがよっぽどいい。そのほうがずっとすっきりする。まさか
相手がしわだらけの老婆とは思ってもいなかったが。
「アルカード様のお言葉でなければ、誰が貴方のことなど……」
「はいはいはい、落ち着いた落ち着いた」
 ふいに崇光が音高く手を打ち合わせた。鐘を打ち合わせたように高くよく響く神官の
拍手の音に、この場に覆いかぶさっていた重苦しい雰囲気は一気に吹き散らされるよう
に霧散した。
「せっかくのお茶が冷めてしまいますよ、ボウルガード夫人。君もいちいち無粋なこと
を言うのはおやめなさい、ユリウス、悪い癖ですよ。ここにいるわれわれは、夫人も
含めてみんな魔王封印のために一丸となるべき仲間なんです。血筋がどうこうなんて、
今さらここで話すことでもないでしょう。ごらんなさい、イリーナがびっくりしている
じゃありませんか」

132煌月の鎮魂歌7 15/17:2015/11/12(木) 20:51:50
 イリーナはびっくりしているというよりは、この少女にふさわしく機嫌を悪くして
いるように見えた。白い虎猫のティガーをぎゅっと抱きしめ、まるい頬をむっと
膨らませている。頭の上では小鳥のバーディーがにらみを利かせ、手首からは青い
小蛇のニニーが鎌首をもたげ、ポシェットからは亀のトトが頭を出している。臨戦態勢
である。
「うるさくする人は嫌いよ」むっつりとイリーナは言った。「そこのケーキをもう
ひとつちょうだい、ボウルガード夫人」
 夫人は一礼してそれに従った。粛々と。なめらかな両手の動きには少しの乱れもなく、
さっきの激情のかけらも感じられなかった。ユリウスは苦々しい思いで舌打ちし、茶を
押しやって、もはや居心地がいいとはいえなくなった茶席を立とうとした。
「アルカード」
 崇光の驚いた声がユリウスの動きを止めた。
 席を立とうとするユリウスを止めようと手をあげかけていた彼は、そのままの姿勢で
サンルームの扉に目を向け、眼鏡の奥の目をまたたいた。
「どうしたんです? 今夜は新月ですよ。あなたは部屋から出てくることはないと
思っていましたよ」
「……闇が接近している」
 アルカードは普段着ではなく、中世の絵画に出てくるような豪華な貴公子の衣装を
まとっていた。たっぷりと襞をとったシャツに絹のウェストコート、金刺繍の縁取りと
真珠のカフスのついた長い上着。襟元には燃える血色のルビー。なびくマントの裏地は
鮮血の紅で、鈍い金色の籠手のついた長剣が腰に見えている。青ざめた顔はいつもより
もっと血の気がなく、いささか死人めいて見えた。
「これまでになく近い。新月に乗じて結界を破るつもりかもしれない。その前に始末
する。崇光、イリーナ、援護を頼みたい。そしてユリウス」

133煌月の鎮魂歌7 16/17:2015/11/12(木) 20:52:33
 氷の蒼の視線がまっすぐにユリウスの心臓に射込まれた。
「お前には訓練の一環として同行してもらう。実地訓練だ。まだ聖鞭に触れさせること
はできないが、鞭を使った闇の者との戦闘がどんなものか、その身で味わってみるのが
いいだろう。ただし気を抜けば死ぬ。そのことを忘れるな」
「お待ちなさい、アルカード。危険です」
 焦ったように崇光が立ち上がり、一瞬ユリウスに目を走らせて口を結ぶと、思い切った
ように、
「今夜はあなたの力が弱められる夜だ。あなたが出向かずとも、僕とイリーナがなんとか
します。それにユリウスはまだ実戦に出すべきではない。彼が──その、死にはしない
までも傷ついて、最終決戦の時に動けなくなっていたらどうします。もう彼の代わりは
いないのですよ」
「だからこそ、私が行く」
 黒い微風のように歩み寄ってきて、アルカードはマントの中から一巻きの鞭を取り出
した。ユリウスがブロンクスで使っていたものではないが、ずっと細身で、それでいて、
身を休めている怜悧な猟犬のような、抑制された獰猛さを感じさせる品だった。
「彼の不足は私が補う。初めての実戦が最終決戦というのでは本末転倒だ。訓練にも座学
にも限界はある。実戦が彼にとってはもっと有効な授業となるだろう。ついてくるか?」
「……なめんじゃねえぞ、おい」
 氷蒼の瞳の奥にきらめく金色の光をユリウスは見た。一瞬頭に霞がかかったように
くらりとしたが、歯を食いしばり、差し出された鞭をむしりとった。なめした革が
慣れた蛇のように指に吸いついた。
「他人に守られるような俺じゃねえよ。上等だ。退屈なお勉強よりゃ、確かに俺にゃ
こっちがお似合いだ。あんたは後ろでだまって見てりゃいい。闇の者だかなんだか知ら
ねえが、ブロンクスの毒蛇にどんなことができるか、しっかり見届けるがいいや」
「つまり、さっき感じたいやな臭いは本物だったってことね」

134煌月の鎮魂歌7 17/17:2015/11/12(木) 20:53:24
 イリーナは椅子から飛び降り、スカートをなおして髪を撫でつけた。四匹の霊獣たち
はどことなく落ち着かない様子で唸り、はばたき、シューと舌を鳴らし、ポシェットの
中でもぞもぞ動いている。
「そこのがさつな坊やは論外だけど、でもアルカード、本当に大丈夫? なんならあたし
たちがこの子の面倒も見るわよ。ティガーたちは気に入らないみたいだけど、でもあたし
が頼めば、絶対にちゃんと傷をつけないようにしてくれるわ」
「気遣いはありがたいが、イリーナ、私は心配ない」
 いつもより色が薄く感じられる唇をかすかに笑みの形にし、アルカードは小さな女王
に軽く一礼した。絵の中の貴公子のような衣装の彼がすると、それはいっそうみごと
だった。
「これまでにも新月に戦わなければならないことなど何度もあった。忘れないでほしい、
私は五百年もの間、彼らと戦い続けているのだ。相手は新月であろうと満月であろうと
加減などしない。それでもこうして私は存在している。あまり過保護にされても困る」
「どうかしら。だってあなた、いつだって無理ばかりするんだもの。他人に隠して」
 イリーナは口をとがらせ、まあいいわ、とため息をついた。
「あたしとスーコゥががんばって、この坊やを怪我させないようにすればすむことです
ものね。みんな、聞こえた? 今回はお遊びはなしよ。初心者さんを連れていくん
だから、ちゃんと守ってあげて、痛い目にあわないようにしてあげてね」
 バーディーが高い声で鳴いてはばたき、ティガーが低く唸った。ニニーとトトも
それぞれのやりかたで(不承不承ながら)応じたらしく、四組の視線が自分に突き刺さる
のをユリウスは感じた。小さな女主人に迷惑をかけたら許さない、と雄弁に語るまなざし
に、ユリウスは身震いし、そのことに腹を立てて唾を吐いた。

135煌月の鎮魂歌8 1/29:2016/01/16(土) 18:31:42
 自動車はずいぶん長い間森の中を走り続けるように思えた。
「おい、いったいどこまで行くつもりなんだ? この森はどこまで広がっているんだ」
 しだいに焦れてきたユリウスがとうとう苛々と膝をゆすった。
 ベルモンド家へ連れてこられたときよりいくぶん小さく簡素だが、それでもかなり
高級な大型のロールス・ロイスは、木々の中をぬって走るアスファルトの灰色の上を
灰色の幽霊のように音もなくすべっていく。
「この森自体が結界の一部なのですよ」
 ハンドルを握っている崇光がいった。危なげのない手つきでギアチェンジし、大きく
曲がったヘアピンカーブを抜ける。
「特定の場所へ向かうには、一定の経路を通らないと永久にたどり着けません。たとえ
ほんの一メートル先にあるだけのように見える場所でも、正しい順路を辿らなければ
永遠の迷路に迷い込むだけです。この道路も地脈にそって築かれた結界の描線です。
僕たちはとても危うい蜘蛛の糸のような道を進んでいるんです」
「蜘蛛でもなんでもいい。ちゃんと相手のいるところへつくんならな」
 フロントシートに座らされ、生まれてこのかた着けたことのないシートベルトなどと
いうもので押さえつけられたユリウスは組んだ足をいらいらと揺すった。シートベルト
など当然のように無視して乗り込んだとたん、イリーナがいつもの小女王ぶりを発揮
してむりやり着けさせたのである。
 彼の長い足でもじゅうぶん余裕のある広いシートに、また妙にいらつく。これも
きちんとシートベルトを着けている崇光はちらりと目をやり、肩をすくめて同情する
ような仕草をしてみせた。ユリウスはあからさまに舌打ちして顔をそむけた。
 腰のベルトの下にそっと手をすべらせる。屋敷へ来てから与えられた黒い革のロング
コートの下に、新しいホルダー付きの革ベルトが増え、そこに、使い慣らされてしな
やかになった長鞭が、眠る蛇のように渦を巻いて束ねられていた。
 ブロンクスで使っていたものとは違うが、この数ヶ月、訓練で使用しつづけたおかげ
で手にはすっかり馴染んでいる。以前使っていたものよりも、むしろ使いやすいくらい
だ。油を擦り込まれ、激しい訓練で早くも擦り切れた握りを何度か取り替えたにも
関わらず、艶々と鈍く光る鞭の身を指でたどると、女の身体をなぞるような愉悦が指を
疼かせる。

136煌月の鎮魂歌8 2/29:2016/01/16(土) 18:32:30
「むずかるのやめなさい、ユリウス」
 リアシートからイリーナが偉そうに言った。がう、とティガーが声をそろえる。
「この森を本当に正しく移動できるのはスーコゥだけよ。あたしやアルカードでも抜け
られないことはないだろうけど、ずいぶん手間がかかるでしょうね。ましてや、あなた
みたいな素人じゃ、一生迷い続けても外へ出るどころか、もといた場所から半歩と進め
やしないわ。黙ってスーコゥにまかせてなさい。到着してからが、あなたの出番よ」
「素人呼ばわりかよ。くそガキが」
「その通りでしょうに」
 女主人に憎まれ口を叩かれて、四匹のペットがざわりと波立つ。手真似で彼らを抑え
て、イリーナは小さくため息をついた。幾重ものフリルとレースの重なるパニエが波の
ようにシートに広がる。
「忘れてるといけないから念を押しておくけど、あなたはまだテスト中の身なんですか
らね。聖鞭ヴァンパイア・キラーの正当な使い手になるには鞭に認められなければなら
ない、これはそのための試験のひとつなの。あなたはまだ正式に認められた戦士じゃ
ない」
「だが、そうなってもらわねば困る」
 アルカードが呟いた。黄金の柄の剣を穿き、中世風の豪奢な貴公子の装いのアルカー
ドは、レースやリボンに飾られたドレス姿のイリーナと並んでリアシートに座っている
と、そこだけが別の時代、別の世界に切り取られているようで、妙な非現実感があった。
 この黒ずくめの、ある意味時代錯誤な衣装も一種の魔法的な力を持ち、新月で力の減退
しているアルカードを守るものだと聴かされた。闇の力、闇の衣服。彼がこの世に表れ、
はじめて魔王ドラキュラを打倒したときにも、この衣装をまとっていたという。闇から
織られ、闇からとりだされた衣装は、夜そのもののように煌びやかに、月の貴公子を
包んでいる。

137煌月の鎮魂歌8 3/29:2016/01/16(土) 18:33:08
「何度も言ったが、魔王の真なる封印には聖鞭ヴァンパイア・キラーとその使い手の
存在が不可欠だ。われわれにとって、おまえは欠けさせることのできないピースなのだ。
おまえには試練を乗り越え、必ず聖鞭の正式な使い手として覚醒してもらわねばなら
ない。世界の安寧と、人類の存続のために」
「ピース、か」
 苦々しく呟き、ユリウスは暮れはじめた窓外に目をやった。魔王の封印という一枚の
絵図、それを組み上げるための一片。それ以上のものではない自分。腹の底が熱く煮え
立ち、指が鉤爪のように丸まって鞭をつかみしめた。一瞬、ここでその鞭を抜き放ち、
澄ましかえったアルカードの白い頬に背に力いっぱい振り下ろしてやりたい欲望にふる
えた。
 崇光が低く口笛を吹いた。
 ロールスロイスはほとんど衝撃を感じさせることなく停止した。
 あたりはいつのまにか夕暮れの薄闇に沈み、崇光はライトをつけていた。路肩によせて
停車した崇光はエンジンをかけたまま車を降り、ヘッドライトの照らし出す茂みの中を
数歩進んだ。
 つられるように、ユリウスは目をこらした。
 崇光は低い灌木のあいだを分けて歩いていく。かきわける手間もなく、彼の前で道は
勝手に開いていくようだった。車から数メートル離れた木立の中に、人間の幼児ほどの
高さの自然石が石碑のように立っている。ごつごつした表面に、黒と朱でなにごとかを
書きつけた札が一枚、貼られていた。崇光はそれに手をかけるといったん息を吐き、
鋭い気合いとともに一息に剥がしとった。
 どこか、ひどく遠くもすぐそばのようにも思える場所で、ごおっと地鳴りがした。
空気が震え、肌に触れる夜気の冷たさが微妙に変化したのをユリウスは感じ取った。
夜闇が濃くなり、また薄くなった。青みを帯びた霧がどこからともなく流れてきた。
「降りてください」
 いささか疲れたように崇光が言って、数歩石碑からさがった。

138煌月の鎮魂歌8 4/29:2016/01/16(土) 18:33:42
「ここからは歩きです。結界の外への道を開きました。僕たちが出たあとはすぐに閉じ
ます。急いで。一秒ごとに危険が倍加すると思ってください。早く」
 彼らしくもない、せっぱ詰まった口調だった。イリーナがドアを開けてぴょんと飛び
出し、アルカードが流れるようにあとに従った。ドアを蹴飛ばしてやりたかったが、
ユリウスも渋々と二人に続いた。
 三人が車を降り、道の先に集合すると、崇光はいま剥がした札をかかげ、手を離した。
札は見えない腕に奪い取られるように宙に舞い上がり、再びまた石碑の上に貼りついて、
瞬きのあいだ青い光を放って燃えた。石碑全体に青い稲妻が走り、またどこかで地響きが
低く腹をゆすった。
「ここからは敵地だ」
 アルカードが静かに言った。静まりかえった闇の奥に、その声はどこまでも深く反響
していくようだった。
「いつどこから闇の者が襲ってくるかわからない。用意をしておけ、ユリウス。崇光が
先に立つ。そのあとにおまえ、そしてイリーナ、しんがりは、私だ」

             3

 確かに空気が違っていた。冷たく心地よかった夜風はなにか腥いものを秘め、薄気味
悪く肌をなでていく。
 進むほどに、いよいよ闇は濃くなっていった。単なる夜ではない、月のない夜である
ことはわかっていたが、星さえ見えないとはどういうことだ。新月ならばあふだん月に
消されて見えないはずのもっと暗い星々もそらにきらめくはずだ、なのに、どこまでも
濃くねっとりとした糖蜜めいた暗黒が、周囲をどろりと取り巻いている。
 足首を擦っていく芝草の葉がいやに冷たく、まるで死んだ女の指にそっとさすられて
いるようで、ユリウスは思わず顔をしかめた。
 とたんに地面に顔を出していた石につまづき、悪態をついた。

139煌月の鎮魂歌8 5/29:2016/01/16(土) 18:34:17
「屋敷に帰ったら、石鹸で口を洗ってあげるわ」
 後ろから厳しい姉めいてイリーナが脅した。
「そういうことを言うのは、レディの前ではマナー違反よ」
「やかましい、くそチビが」少しでもぐらついたことが無様に感じられてたまらず、
ユリウスは乱暴に言い返した。「こんな真っ暗な中で、どうやって歩けっていうんだよ」
「闇の中を歩くのは狩人の基本能力よ。あなた、まだそんなこともできないの?」
「あまりいじめるのはおやめなさい、イリーナ。ほら、これを」
 先導の崇光が苦笑混じりに言い、手探りで何かを渡してきた。
 反射的に受け取ると、冷たいガラスのようななめらかな表面が心地よかった。指先
ほどの大きさの透明な玉、おそらくは水晶製で、しずく型の細い端を軽く横に曲げた
ような、奇妙な形をしている。一見頭のようにも見える太い部分に目のようにも思える
穴があり、赤と白の紐が複雑な結び方で結びつけられていた。
「夜明珠です。持っていれば、いくらかは闇も見通せるはずですよ」
 ユリウスは口をとがらせて押し戻そうとしたが、結局ひとつ舌打ちして、レザー
パンツのポケットに滑りこませた。
 確かに、それを指先に感じた瞬間から、一気に感覚が冴えた。どろりとした泥のよう
にしか感じられなかった濃い闇がわずかに色を薄くし、濃すぎるサングラスをかけた
ように曇ってはいるが、ものの形は見て取れるようになった。輪郭すらわからなかった
周囲の木々や地面の凹凸もある程度見えるし、前後を進む崇光やイリーナ、そしてアル
カードのなめらかな歩みも感じ取れる。
 視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚、それらほかの五感も冴えわたった。遠くで不吉に
ざわめく木々の音が聞こえ、何者かがきしらせる歯の音が肌に振動として感じる。
イリーナの言っていた「けものの臭い」をはっきりと感じる。病んだ犬の群を檻に閉じ
こめたまま腐らせておいたような強烈な獣臭と腐臭を煮詰めたような、なにか。
 崇光は迷いのない足取りで先へ歩いていく。

140煌月の鎮魂歌86/29:2016/01/16(土) 18:35:00
 進めば進むほど、ユリウスは肌に迫る異質な何かが、すぐそばで熱い息を吐いている
のを感じることができた。耳の後ろで腐肉の臭いを漂わせる何者かが、脅すように口を
開いて息を吹きかけ、またどこかへ漂っていく、だが、振り向いてもどこにもいない。
ただ血腥い気配と、毒に満ちた呼気が漂っているだけだ。
 ユリウスは意地のように視線を前に固定し、崇光の背中だけを追った。それ以外の
ものに目を向ければ、相手の思うつぼなのだということが本能的にわかっていた。
「まあ、素質はあるわね」イリーナが考え深げに呟いた。「それとも、本能的に生き延
びる方法を知ってるってだけかしら」
「うるせえぞ、ガキ」ユリウスは唸ったが、あまり注意は払っていなかった。彼の注意
は、刻々と周囲に集ってくる悪意と殺意の集積物のほうに集中していた。
 ブロンクスでのしあがった数年間、敵に取り囲まれたことは幾度となくあった。だが、
これほどひしひしと巨大で危険な何かに包囲されていると感じたことはなかった。しょ
せん相手は武装した人間程度であり、どれだけ凶暴で悪辣であろうと、それは人間の
尺度で測れる程度でしかない。
 いま周りを囲んでいるのは確かに地獄から這い出てきた何か、人間の意図を超越する
悪意と狂気、〈毒蛇〉、〈悪魔〉とみずから呼ばれたユリウスでさえ、確かにこいつら
は闇からやってきた怪物なのだと、有無をいわさず信じさせるなにかがあった。
「──来た」
 それまで口をつぐんでいたアルカードがふいに言った。
「崇光、結界を。イリーナ、ユリウス、構えろ」


 いきなりほとばしった閃光はまばゆく、ユリウスは目を突き刺されたように感じて
思わず目を覆った。
「バカ、しっかり見なさい! 目の前よ!」
 イリーナの高い声が頭上を越えていく。

141煌月の鎮魂歌8 7/29:2016/01/16(土) 18:35:35
 まばたきをし、くらんだ目を無理に開くと、光は地面に手のひらを叩きつけた姿勢の
まま動かない崇光を中心に、波紋を描いてあたり一帯に広がり、木立の一角を完全に
包み込んでいた。
 ぐにゃぐにゃと木の枝が変形し、幹がきしんでいっせいにこちらに身を傾けてきた。
木肌に裂け目が走り、鮮血のような赤い樹液があふれ出して、油の焼けるような音を
立てて地面を焼いた。節目や樹皮の影に見えていたものが凝集し、逆三日月型につりあが
った巨大な口と、それと向かい合うようにいやらしい笑いを浮かべた両眼に変わった。
「バーディー──スザク!」
 イリーナが叫んだ。
 高く掲げた手から赤い小鳥が飛び立ち、みるみるうちに翼を広げて、燃え輝く炎の
巨鳥の姿を現した。長い尾羽根も翼も胴体も優美な首も飾り羽根のある頭部も、みな
ゆらめく炎で形作られ、その中に黄金の神獣の双眸がひときわ鮮烈に燃えている。
 スザクは金の鐘のような声で高く一声あげると、どっと炎を噴出した。嘴から、など
というかわいらしいものではない、渦巻く全身の炎をそのまま豪炎の滝と変えて周囲の
怪植物どもにぶつけたのだ。
 怪樹どもが断末魔の声をあげて炎に飲み込まれていく。身悶えしながら焼かれていく
その姿からは、木ではなく、確かに肉の焦げる臭いがした。
「ユリウス!」
 まだようやく鞭を手にしたばかりだったユリウスは、魅せられたように見つめていた
怪樹の焼ける姿からはっと意識を引き戻した。眼前に、髑髏の模様を浮かばせた巨大な
翅がばたついた。なにも考えずに鞭を横なぎにすると、一閃でそいつは切り裂かれ、
赤ん坊の泣くような声をあげて落ちた。地面に落ちて暴れ回っているのは、両手を
広げたほどよりもなお大きい、翅に人間の髑髏の文様をはっきりと浮かばせた
妖蛾だった。
「触れるな!」
 嫌悪のあまり足をあげて踏みつぶそうとしたユリウスを、アルカードが鋭い声で
止める。

142煌月の鎮魂歌8 8/29:2016/01/16(土) 18:36:09
「触れてはいけない。そいつの毒は強烈だ。靴ごしに触れただけでも、今のおまえでは
身体の自由を奪われる」
 言いざま、目にもとまらぬ剣さばきで蛾を切り裂く。巨蛾はあっという間に塵と化し、
地面と同化して見えなくなった。
「アルカード──」
「毒消しを」
 断る間もなく、コートの内側にいくつものアンプルが押し込まれた。
「聖別された水が入っている。もし少しでも違和感を感じたらそれを飲め。おまえはまだ
魔界の毒に対する耐性が育ちきっていない。即死しないのはさすがにベルモンドの血
だが、動きが鈍れば奴らはその隙を逃さない。群が来る」
 声をかける間もなく、アルカードはマントを翻して崇光のほうへ駆け去っていった。
光の輪の中心でじっと動かない崇光の上に覆いかぶさろうとする妖蛾どもを右へ左へと
切り払い、次々と塵に変えていく。
 見ほれている暇はなかった。粉っぽい蛾の毒の鱗粉が霧のようにあたりに立ちこめ、
いまわしい翅のさらさら鳴る音が波のように押し寄せてきた。闇の中でも燐光を放つ
髑髏模様が歯をむき出して嘲笑している。
「クソッタレ!」
 声を限りにユリウスはわめくと、なにも考えずに渡されたアンプルの一本を口で
ちぎって吐きとばし、中身を口に放り込んだ。塩の味と、それとは別に強烈なウォッカ
を水銀で味つけしたような、強烈な刺激がのどを下っていった。そのとたんに、一気に
世界がクリアになった。
 すでに自分が毒の影響を受けかけていたことにその瞬間気づいた。周囲の音のボリュ
ームが最大限に高まり、焼ける怪樹のわめき声が鼓膜を突き刺し、蛾の腥い体液と鼻を
刺す鱗粉の刺激と炭になった肉が蠢きのたうちながらじゅうじゅう焦げていくその痙攣
が見える。

143煌月の鎮魂歌8 9/29:2016/01/16(土) 18:36:45
 もう一度大声で冒涜的な言葉をわめき、ユリウスは腕をふるった。鞭はまっしぐらに
蛾の群れをつらぬいていき、そこから大きく円を描いてぐるりと全体を包み込むと、
手首のひとひねりでぎゅっと収縮した。輪の中に囲い込まれた怪虫どもは一匹残らず
鞭の輪に締め上げられ、赤ん坊の泣くような声を上げて消失した。わずかな灰がはら
はらと草の上に散った。
「次がくるわよ」
 いつのまにかイリーナがそばにきていた。豪華なドレスの少女は爛々と目を輝かせ、
優美だがきわめて冷徹な殺戮者の顔を見せている。彼女もまた兵器として育てられた
少女なのだとユリウスはふいに気づいた──注意深く混ぜ合わせられた血の果てに、
戦いというたったひとつの目的のために生み出され、育てられてきた娘。真珠のような
白い歯をむきだした金髪の魔女に、ユリウスは突然自分でも思っていなかったほどの
親近感を覚え、あわてて打ち消した。
「トト──ゲンブ!」
 イリーナのポシェットからのっそり首を伸ばした黒い亀は、重さなど持っていないか
のようにふわりと浮き出ると、みるみるうちに空へ上り、巨大に、もっと巨大になった。
 またたきのうちに、森の上に、アメリカ軍が隠していたUFOの母艦と言われれば
信じるようなどでかい楕円形のものが浮かんでいた。
 どこかで見たような気がしてユリウスは首をひねったが、気づいて笑い出しそうに
なった。ジャパンで作られた古い映画だ。暇な午後にバカ笑いしながら見た。亀が巨大
な怪獣になって、襲ってきた別の不細工な怪獣と大戦闘をやらかす。まるでマンガだ、
そうじゃないか?
 だが目の前で起こっているのは映画でもなければマンガでもない。巨大な黒い聖獣は
空中で重々しく四肢を動かすと、象の何百倍あるかわからない脚を四本いっしょに振り
下ろした。ばきばきと地面が隆起し、焼き払われたあとに生えてきた新しい怪樹の腕が
押し寄せてきた岩と土に飲み込まれるように消えた。さらに上空を飛び回っている炎の
聖獣がまんべんなく炎を吐き散らし、まだぴくついているものを容赦なく灰に変えて
いく。

144煌月の鎮魂歌8 10/29:2016/01/16(土) 18:37:23
 耳の後ろに痛みにも似た本能の警告を感じた。とっさにユリウスはイリーナを抱き
抱え、横っ飛びに飛びすさりざま横ざまに鞭をふるった。
 たった今、少女とユリウスが立っていた場所を、紫色がかった肉の鞭が猛烈な勢いで
すぎていった。狙いをはずしたそいつは大きく弧を描いて向きを変え、真っ正面から
ユリウスに向かってきた。血走った眼球がひとつ、肉の先端にぎょろりと開いてまとも
にユリウスを見た。
 自分が何か叫んでいるのはわかったが、かまっている暇はなかった。逆方向に飛んだ
鞭を引き戻し、迎え撃つにはほんのコンマ秒の隙しかない。
 後ろにはイリーナがいる。喉も裂けんばかりに叫びながら、ユリウスはほとんどなに
も考えずに鞭の柄を引き、柄の反対側の先端を、ほとんど鼻のくっつきそうな距離の
相手の目玉につきたてた。
 顎の数ミリ先でガチンという鋼鉄の罠のかみ合うような音がした。目玉のすぐ下に、
ビラニアの歯を最悪に凶暴にしたような巨大な口が開いていた。目玉の真ん中に鞭の柄
を突き立てられながら、そいつはなおもユリウスの喉を食い破ろうとガチガチと開閉を
繰り返した。
 破れた目玉が酸のような臭いの漿液を垂れ流している。紫色の肉の胴体がうねり、
こちらに向かってくるのに先手を打って、ユリウスは指先で鞭にひねりをくれた。はね
戻ってきた鞭はきりきりと肉の筒のような胴体に巻きつき、次の瞬間、スライスされた
ソーセージのようにばらばらに寸断された。ばらばらと落ちた肉塊はシュウシュウと
湯気を上げ、周囲の草を毒で枯らしながらしぼんでいった。
「おい、くそガキ、無事か」
「それがレディに対して言う言葉?」
 間髪入れずイリーナは言い返してきたが、息が切れている。いかに天才児といえど、
少女の体力で四聖獣のうち二匹までもフルパワーで解放するのはさすがに負担が重い
らしい。ふっくらした頬が青ざめ、きっと噛んだ唇に血の気がない。細い肩が小さく
上下している。

145煌月の鎮魂歌8 11/29:2016/01/16(土) 18:38:45
「それより、あれはただの一部よ。本体がやってくる。用意はいい?」
「ああ、いくらでも俺がぶっとばしてやるからガキはすっこんでろ」
 イリーナは射殺すような目つきでユリウスをにらんだが、憎まれ口を返す余裕はない
と判断したらしく、前を向いた。「バーディー! トト!」と声を上げ、上空にいる
聖獣二匹を呼び戻す。真紅の小鳥と黒い小さな亀がふっと表れ、少女の肩とポシェット
に収まって、それぞれの言葉でうるさくさえずった。おそらく無理をするなというよう
な意味らしかったが、イリーナはそちらを見もしなかった。
「ニニー──セイリュウ! ティガー──ビャッコ!」
 手首からするりとサファイア色のブレスレットがほどけ、宙に舞った。脚もとで獰猛
な威嚇の声を放っていた白い虎猫が宙をひと跳びし、くるりと一転したかと思うと、
地響きをたてて着地した。
 焼き払われて開いた空き地いっぱいになるほどの白い虎の巨体が、地面に脚の形の
四つの深い亀裂を作った。ユリウスの腕より太い尾がうねり、白銀の体毛が逆立つ。
輝く体毛の下の筋肉は鋼鉄のようだった。聖獣ビャッコは女主人のほうを振り返り、
たいていの人間ならその場で心停止してもおかしくない形相で、すさまじく咆吼した。
 遠くのほうでメリメリと樹が折れる音がする。何者かが森の木を雑草でも分ける
ように踏み分け、こちらへ向かいつつあるのだ。
 ふたたび目がかすみ始めているのに気づいてまた聖水を口にする。魔界の瘴気を吸う
だけでも普通の人間にとっては致命的らしい。この中でそれをまだ必要としているのは
自分だけらしい事実に苛立った。ほんの少女のイリーナさえなんの補助もなくこの場に
立っているのに、自分だけがまだ脆弱な人間の弱みから脱しきれないままなのだ。四聖
獣の護り、ヴァンパイアの血、封術師としての腕──彼らはすでに戦士として完成されて
いる。自分はどうなのだ?
(聖鞭──〈ヴァンパイア・キラー〉があれば、俺も彼らと同じ地点に立てるのか?)
 暗い空が白くなるほどの稲妻が走った。暗黒の空に、自ら放つ冴えた青い光に包まれた
長大な身体がゆったりと舞っている。

146煌月の鎮魂歌8 12/29:2016/01/16(土) 18:39:25
 東洋の竜──西洋のドラゴンとは違う、それ自体が神である一族だ。長い髭と鹿のそれ
に似た角、黄金と青にきらめく鱗、短い前脚には真珠のように光る宝珠をつかみ、慈愛と
も諦観ともつかぬ金色の目で下界を見下ろしている。
「セイリュウ!」
 イリーナの声とともに、あたりが目もくらむほどの光と轟音に包まれた。
 しばらくはなにも見えず、聞こえなかった。くらんだ目がもどってみると、ゲンブと
スザクに焼き払われた残骸がすべて取り払われ、開いた空間のむこうに、白い人影のよう
なものがぼんやり浮かんでいるのが見えた。
『生意気なお嬢ちゃんだこと』
 毒のきいた蜜のような声が風にのって運ばれてきた。
『目上の者を出迎えるときは、それなりの礼儀を払うものよ』
「あんたなんかに払う礼儀なんてないわ、闇の者」
 イリーナの消耗が激しい。なんとか自分で立とうとしているが、脚を震わせて大きく
肩で息をしている。どうやら今の一撃は相手そのものを狙ったらしいが、すべてそら
されたというわけか。
「どうやってここに入ってきたわけ? 誰もあんたなんか招待してやしないわよ。いずれ
魔王といっしょに滅ぼされるのに、ずいぶんお急ぎね」
『あら、人間と遊ぶのはいつでも大好きよ』
 女は──少なくともその姿をした部分は──毒々しい色に塗られた長い爪を唇にあてて
妖艶に笑った。
『そちらが新しいベルモンドの男? そう。いくら潰しても次から次へと湧いてくる
のね。虫けらだけのことはある』
 ユリウスはイリーナを強引にコートの内側に押し込み、後ろに下がって鞭を握り
しめた。なぎ倒された樹木の中をゆっくりと進んでくるのは、まさに悪夢の生き物
だった。

147煌月の鎮魂歌8 13/29:2016/01/16(土) 18:39:58
 本体は腐った沼の緑色をしたカメレオンと、ヤモリのあいのこのような生き物だった。
ぬめぬめした粘液を垂らす皮膚と堅い緑色の鱗がでたらめに入り交じり、見ていると目
が回るような極彩色の巨大な目玉が左右別々にきょろきょろと動く。吸盤のある脚は
全部で六本あり、先細りの長い尾は先のほうになって黒光りする甲殻に代わり、鋭く
曲がった毒針がついていた。不吉なタールのような液体が、すでに滴を作っている。
弓なりになったとげだらけの背中には、あの毒蛾どものものをそのまま人間代に拡大
したかのような、蛾の翅が一対突っ立っている。いまわしい髑髏の模様が青い妖光を
放って、せせら笑いを浮かべていた。
 だがさらにおぞましいのは、その舌だった。いや舌、と呼ぶべきなのだろうか。
カメレオンの長い舌の先端は、中ほどで立ち上がって、肉感的な半裸の女の姿になって
いた。女は睫をそよがせ、指をのばしてユリウスにむかってちょっちょっと舌を鳴らして
みせた。これまで感じたこともないほど強烈な嫌悪に襲われて、ユリウスは顔を
そむけた。どんなに唾棄すべき最低の娼婦でも、ここまでユリウスの吐き気を催させた
者はなかった。
 女は美しかったが、それは地獄の美だった。汚らわしい快楽と魂をもてあそぶ堕地獄
のためのものだった。豊かにもりあがった白い乳房に海草のような濡れた黒い髪が
ぬめぬめとまとわりつき、秘密めいた下腹に、裸よりももっと扇情的な透ける黄金の
飾りを巻いているだけのほとんど裸体。そして豊かなふくらはぎから下は化け物
カメレオンの紫色がかったべとべとの肉にとけ込み、見えなくなっている。
『陛下のご復活は近い』
 女──の形をしたもの──は言って、唇をなめた。唇もまた濡れて、たった今血を
舐めたばかりのように毒々しく赤い。
『われらはその露払いとしておまえたちのような虫けらを排除する義務を負っているの。
闇の王国の臣民にして魔王の眷属として。でもそれ以前におまえたちは目障りだわ。人間
などというものはもともと家畜として地上を這い回る猿のくせに増えすぎた。おまえたち
は増長しすぎたのよ。誰かがそれを思い知らせるべきときだわ』

148煌月の鎮魂歌8 14/29:2016/01/16(土) 18:40:37
「その声は、ムタルマ女伯爵か」
 低い声がして、身構えるユリウスのそばをゆらりと黒いマントが揺れて過ぎた。
なびく銀髪をあとにひいて、剣の柄に手を置いたアルカードがゆっくりと前に進み出る。
瞳はいまだにさえざえとした蒼色を保ち、ユリウスにはそれがまだアルカードが戦う意志
を表に出していないせいか、それとも新月のために魔力を解放するのを邪魔されているた
めか、判断できなかった。
『ああ、公子様、いと貴なる闇のお世継ぎ様』
 ムタルマ女伯爵と呼ばれた魔物はあえぐように言い、懇願のしぐさで白い両腕を前に
差しだした。黒い瞳が情欲めいたものでぬれぬれと光っている。ユリウスはぎょっとして
アルカードの優美な後ろ姿を見つめた。
 公子? 魔王の世継ぎ?
 ドラキュラの、魔王の息子ということか──こいつが?
『なぜそんなところにいらっしゃるのです? なぜ人間などといっしょに? あなた様
こそわたくしどもの先頭に立って、お父君の復活に力を尽くすべきお方ではありません
か。どうぞ剣などお納めになって、父君のもとにお戻りください。いまわたくしが、
あなた様にたかるこの不快な虫けらどもを駆除してごらんにいれますから、どうぞ、
あるべき地位にお戻りになって。闇の臣民たちはみな、この数百年のあいだずっと、
あなた様のお帰りをお待ち申し上げているのでございますよ』
「私に帰るところなどない」
 短く言い切って、アルカードはすらりと剣を引き抜いた。細い刀身が闇の中でそれ自体
白い光を放つように輝線を描く。
「私の望みは魔王ドラキュラの完全なる覆滅、それだけだ。あの男は地上にあっては
ならぬ者だ。私はただそれだけのために存在し、ここに立つ。闇の呼び声に耳など
貸さぬ」
『やはり応じてはいただけぬのですね、高貴なるお方』

149煌月の鎮魂歌8 15/29:2016/01/16(土) 18:41:30
 求愛をすげなく退けられた乙女のように、ムタルマ女伯爵は悲しげにうつむいた。
細い両手がゆたかな乳房の上で重ねられて震えている。意を決したようにさっと上げた
顔で、蛾の複眼と化した両眼がカットされた巨大なダイヤモンドのようなきらめきを
放った。
『それでは、やはり──そのお命から卑しい人間の血を抜き取り、本来の闇の生命に
目覚めていただくしかなさそうですわね!』
 ユリウスはほとんど本能に突き動かされるように鞭をとばした。鋼鉄を打ったような
手応えがあり、一瞬のうちに頭上数センチのところに迫っていた黒光りするサソリの
尾が、からめとられてはね飛ばされた。鉛色の毒液があらぬ方向へとび、どこかで
じゅっと焼ける音がした。生臭い悪臭に、苦い酸の突き刺すような臭いが入り込んで
きた。
 巨大な六本脚の爬虫類の舌先で、昆虫の目をした女がのけぞって狂笑を放っている。
頭を低くして身構えていたビャッコが、咆吼とともにつっこんでいった。かっと開いた
顎が爬虫類の垂れ下がった喉袋に食らいつき、噛みちぎろうと頭を振る。肉がちぎれ、
ぼたぼたと緑色の血液めいたものが草地を汚して、女と爬虫類の口から同時に、聴くに
耐えない苦悶と怒りの声があがった。
 口をあけた傷口めがけて、ユリウスの鞭が槍のようにつきささる。扱う者が使えば
刃物よりも強力な武器になる鞭は、鼻をさす煙をあげながら緑の血を垂らす傷口を
さらに大きく裂き、そのまま下から打ちあげるように、六本の前脚の一本をなかばから
切りとばした。
 女の口からなにか理解できない叫び声がもれ、両腕がさっと開いた。爬虫類の背中の
翅が大きく広がり、燃える髑髏紋が生き物のようにかっと骨ばかりの顎を開いたかと
思うと、そこからあの巨大な毒蛾の群れが風に跳ばされる吹雪のように吐き出された。
 アルカードの剣が一閃する。ユリウスとイリーナにかぶさろうとした蛾の一団が、
瞬時に塵となって散った。
 青白い稲妻が入り乱れ、青銅の鐘を鳴らすにも似た声が上空から響く。ユリウスは
全身に電光をからみつかせながら、目を怒らせ威嚇するように地上を見据えるセイリュウ
を見た。

150煌月の鎮魂歌8 16/29:2016/01/16(土) 18:42:04
『美しきお方、尊きお世継ぎ様、これほどまでにお慕い申し上げておりますのに』
 重なり合ってざわつく毒蛾の向こうから、女の怨ずるような声が聞こえる。
『あなた様ほど麗しく高貴なるお方は、魔王そのお方を除いて誰ひとりいはしない──
それなのになぜ、闇の愛をしりぞけ、あなた様を慕う民をお打ち据えになるのです?』
 アルカードはもう応えなかった。蛾を切り払った剣をそのまま舞わせ、あたりに塵と
なった蛾の死骸を散らして突進すると、裸形の女の前に立ち、目にも留まらぬ手さばき
でその乳房の真ん中を貫き、首をはねた。黒髪を散らした頭部はごとりと重い音をたてて
転がり落ち、わずかな緑色の血が糸を引いた。
『ああ、愛しいお方』
 地面に落ちた頭が哀れな声で嘆いた。
『これがあなた様をお慕いする女にお与えになる口づけですの?』
「アルカード、離れて!」
 イリーナの悲鳴のような警告より早く、アルカードは大きく飛び離れて剣をたてて
身を守った。打ち下ろしたユリウスの鞭が鉄枷のようにアルカードをとらえようとした
首なしの女の両腕を寸断し、胴体を大きく切り裂いた。ざらついた、錆びたおびただしい
釘を一斉にこすりあわせるような苦鳴とも怨唆ともつかぬ声が、地の底から響いてきた。
『無礼な虫けらども』
 すでに女のものではないその声は地獄の憤怒を煮えたぎらせていた。
『高貴なお方に与えられる傷ならばまだしも、このわたくし、闇の宮廷にて讃えられる
女伯爵ムタルマに、卑しい猿の分際で刃向かうか。この傷の礼、どれほどにして与えて
くれるか見るがいい』
 ユリウスの目の前で寸断された女体はぐにゃぐにゃと輪郭を崩し、紫色の肉となって
爬虫類の舌と一体化した。目まぐるしく色を変えるカメレオンの巨大な目は狂ったように
蠢き、ひび割れた喇叭のような声をとどろかせた。うねうねとのたくる舌の先がぶくりと
膨れ、人間に似た頭の形を作りだした。まるい頭に蛾の触覚と複眼、ずらりと牙の並んだ
巨大な口をもつ、女とも昆虫ともつかぬ頭部。

151煌月の鎮魂歌8 17/29:2016/01/16(土) 18:42:37
『この姿を見せたからには、貴様たち、生かしては返さぬ』
 火を吐くように言い捨てると、メキメキと樹木がきしんだ。
 中途で断たれていた前脚から緑の粘液がしたたり、すみやかに新しい脚を作り上げた。
ずしんと地面を踏みならした怪物は、その巨体から考えれば驚異的な早さで木々の間を
すべり抜け、ユリウスたちに這い寄った。押し分けられた樹木が葦のように左右に倒れ、
根こぎにされた株が土をまき散らして次々とはね飛ぶ。鼓膜に釘をつきたてるような狂笑
を放ちながら、昆虫の目をした女の頭がぐるりと回転した。爬虫類の背で髑髏蛾の翅が
逆立ち、震え、文様の髑髏が歯を鳴らして地獄の門を開こうとする。
「禁!」
 澄み渡った声がして、二条の光が翅めがけてとんだ。
 今にも開こうとしていた髑髏のあぎとは白い光を放つ二枚の長方形の符によって閉じ
られ、それ自体苦しみもがくかのように悶えたかと思うと、吐き出してきた毒蛾どもと
同じく塵になって四散した。
「遅れて申し訳ありません。結界を安定させるのに手間取りました」
 白馬崇光が青白い顔をして立っていた。髪は乱れ、血の気のない唇を強く引き締めて
いるが、胸の前にトランプのカードのように何枚も広げた呪符は小揺るぎもしない。
「まさかこれほどの大物が侵入しているとはね。屋敷に帰ったら、それこそ結界班を
総動員して全結界の再チェックと強化をしなければ」
 翅を失った爬虫類が咆吼し、女の頭部が異界の言語であろう耳障りな言葉で狂ったよう
に叫んだ。両方の鼓膜に錆びた釘をつっこまれたようだ。ユリウスは目の前に黒い点が
飛び交うのをこらえて、聖水のアンプルを口に含んで飲み下した。これで三本。
 あと四本。
 地獄のトカゲが身をうねらせて突進する。ユリウスは身をひねり、頭部をねらうと
見せかけて皮のたるんだ腹部を狙って鞭をとばした。剃刀のような鞭先が正確に急所を
直撃し、怪物はその場で立ち止まって頭を振り立てて足踏みした。地面が揺れる。まるで
地震のような揺れにふらついたとたん、「トト!」と叫ぶイリーナの声がした。

152煌月の鎮魂歌8 18/29:2016/01/16(土) 18:43:11
 たちまち地震は静まり、代わりに獣の眼前に轟音をたてて岩と土の衝立がせり上がる。
ポシェットから首を出している黒い亀を片手で押さえて、イリーナは肩で息をしていた。
「イリーナ、無理をしてはいけません。あなたは体力が──」
「ここでこいつを止められなかったら体力なんて意味ないわ。バーディー! ニニー! 
ティガー!」
 肩をつかもうとした崇光を乱暴に振り払い、かすれた声をイリーナは振り絞った。岩を
踏み砕き、土を突き崩して怪物の醜怪な頭が迫ってくる。
 無我夢中でユリウスは動いた。頭上で竜がとどろく雷鳴とともに稲妻を降らせ、白い
巨虎が爪と牙をむき出しにして隣を走る。
 闇を裂いて烈しい炎が筋を引き、目まぐるしく色を変えるカメレオンの片目を
焦がした。電光のまといついたユリウスの鞭がその傷をえぐり、虎の牙と爪が生き物で
あれば脳髄に達するほどに深々と突き刺さる。
 黒いマントが翻り、月光の髪が頭上をこえていった。片目を潰されてもがく怪物の鱗
におおわれた首に剣がひらめき、直線を描いた。前進しようとする怪物の身体が一瞬
ずるりとずれ、醜怪な頭部とのたうつ紫の舌が地面に転がり落ちた。
『お恨みいたしますわ、公子様──』
 ひくつく舌の先で女の頭が嘲笑のようにささやいたかと思うと、いきなり舌だけが蛇
のように伸び上がった。
 溶けて消えていくトカゲの頭をあとに残して襲いかかる。ゆく先はアルカードだった。
蛾の女の頭は多面体のガラスめいた複眼に情欲の緋色を走らせ、牙だらけの口を悪夢の
ような微笑にゆがめていた。
 アルカードは真っ向からひと太刀で真二つに切り払ったが、切られて左右に分かれた
怪物は、そのまま二つのまったく同じ頭になり、あっという間にアルカードの全身を
からめとった。
「アルカード!」イリーナが悲鳴をあげ、崇光が低い罵りめいた言葉を呟く。アルカード
はもがいたが紫色の肉の蛇はゆるまず、剣をにぎった腕は身体の横に縛りつけられて
動かせない。じりじりと脚が地面を離れ、アルカードの身体は宙に浮いた。

153煌月の鎮魂歌8 19/29:2016/01/16(土) 18:43:44
 ユリウスはがむしゃらに鞭を打ち振るったが、魔界の生命力を結集した肉の蛇はびく
ともしなかった。女怪の頭は二つの驕笑をあわせて、アルカードの頬にすり寄る。
『これほどお慕いしておりますのに、なんとつれないお方でしょう』
『ああでも、やはりお愛しい。美しいお方、尊い魔王のお世継ぎ』
『憎いのはその人間の血、汚らわしくも温かい、甘美な血』
『さあ、その血を流し出し、わたくしと愛の抱擁を』
『麗しき、闇の若君よ──』
 女の口が開き、さらに開いた。おぞましい大アナコンダの口のように顎骨がはずれ、
膜が広がってずらりと並んだ牙が見えた。
 そこから濃い血色をした蛭のようなものがのたくり出てきた。懸命に顔をそむけ、
身をもぎはなそうとするアルカードの白い首筋にいやらしい蛭が迫っていく。蛭の先端
には円形の口が開き、口しかなかった。ある朱の吸血鰻のように円形にずらりと並んだ
棘が蠢き、獲物の肌を裂いて流れ出る血を吸い尽くそうとしている。
「アルカード!」
 イリーナが笛のような悲鳴をあげている。それとも怒号なのだろうか。目のはしに
ちらりと見えた少女の顔は涙にぬれて蒼白だった。天上からひらめく青い稲妻が幾条も
地面を打ち、炎の筋が乱れ飛ぶ。巨虎が牙をむきだして飛びかかり、のたくりながら
這いずってきた頭のない爬虫類の身体にはじき返される。首をなくしても身体は身体
のみの生命を保っているかのように動き続け、盛り上がる岩を踏みつぶし、稲妻に
巻かれても耐え、炎に鱗を焦がされても止まろうとしない。
「禁! 正! 抑! 停! ……」
 崇光が続けざまに札を放つが、やはり封術師である彼の術では怪物の進行を止める
ことしかできない。ユリウスはちぎれるように痛む筋肉にかまわず打撃をとばしたが、
それもまた、爬虫類の身体にはばまれてアルカードには届かない。
 おぞましい蛭の口がアルカードの喉に触れる。
 ユリウスは自分が何か叫んだと思った。

154煌月の鎮魂歌8 20/29:2016/01/16(土) 18:44:36
 思っただけで、声にはなっていなかったかもしれない。一瞬あたりの音が消え、稲光
や炎のすさまじい乱舞も消え、手の中にある鞭の感触だけが鋭利な剃刀のように感じ
られた。
 そしてアルカード。
 けがらわしい女妖に抱きすくめられてがっくりと仰のいた、アルカードの白い横顔。
 懐に固いものがある。聖水の入ったアンプル。
 ほとんどなにも考えず、ユリウスは残った四本のアンプルをまとめてつかみ出し、
力をこめた。ガラスのアンプルは拳の中で砕け、破片が深々と手のひらに食い込む。
血と聖水の混じったうす赤い液体が流れ、たらたらと鞭の柄に、身に滴った。
 急速に世界に音が戻ってきた。ようやくユリウスは自分の発している咆吼を聴くこと
ができた。嵐のように打つ心臓も、ぎりぎりときしむ骨も筋肉も、すべてが限界まで
引き絞られる。
 聖水とベルモンドの血に濡れた鞭が、聖者の大剣のようにまっすぐに振りおろされた。
 首のないカメレオンの身体はあっさりと二つに裂けた。蠍の尾がひきつり、割れた切断
面にぞっとするような内臓と漿液のつまった袋が見えたが、それもたちまち塵となり、
あっけなく崩れて形をなくしていく。
 妖女の顔が引きつった。アルカードの喉にへばりつきかけていた蛭めいた舌は垂れ下
がり、死んだ蚯蚓のように垂れ下がった。おぞましい抱擁がとけ、アルカードは地面に
転がって倒れた。
『おのれ……ベルモンドの男……またしても──』
 しゃべった妖女の口から、ちぎれて落ちた蛭の舌が灰になって散った。
『呪わしきはベルモンド……だが魔王様のご復活は必ず……必ず──』
 ひとつの頭が内破するように潰れ、もう一つもあとを追った。腐った肉の悪臭が瞬間
あたりに漂い、夜風に吹き散らされた。わずかに紫色の塵が執念のようにアルカードに
まつわりつこうとしたが、すぐにそれも崇光の鋭い気合いひとつに吹き払われた。
 ユリウスは凝固したように立ちつくしていた。たった今、全身を駆け抜けた蒼白い炎、
これまで経験したどのようなエクスタシーよりも強烈なパワーの渦に文字通り金縛りに
なっていた。

155煌月の鎮魂歌8 21/29:2016/01/16(土) 18:45:17
 それはユリウスの精神と肉体を内面から焼き尽くし、何かまったく新しいものに生まれ
変わらせたかのようだった。まったく新しくなった視覚で、ユリウスは周囲を見回した。
 闇が透明なガラスのようだった。それまで沼の底も同じだった闇は清澄に澄みわたり、
あらゆるものがはっきりと感じられた。視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚が、これまでの
レベルではなく強烈に冴え返っていた。傷ついた手から血がこぼれ、熱湯に漬けたような
痛みが肘のあたりまで上ってきていたが、夜という言葉、闇というものに抱いていたもの
が一気に塗り替えられた衝撃に、海を初めて見た少年のようにユリウスは新たな闇の世界
に吸い込まれるように見入った。
「アルカード!」
 イリーナがわっと泣き出した。ユリウスは殴られたようにふらついて我に返り、
アルカードを振り向いた。
 金の籠柄の細剣が草の上に転がっている。うつ伏せになったアルカードはぴくりとも
せず、こちらになかば向いた顔はぞっとするほど色がなかった。
 年相応の、身も世もない泣き方で泣きじゃくりながら、イリーナが動かないアルカード
に駆け寄る。竜も白い虎も消え、サファイア色の光がまっしぐらに降りてきて、少女の
手首に巻きついた。白い虎猫と赤い小鳥が、あわてたように鳴き騒ぎながら少女の周囲を
飛び回っている。
「アルカード、しっかりして、アルカード!」
 銀髪の青年にすがりついているのはいつもの女王然とした態度などかなぐり捨てた、
幼いひとりの少女だった。青ざめた顔をのけぞらせているアルカードのマントを握り
しめて、懸命に息を計ろうとしている。
 ユリウスはよろめくように近づいた。急ぎ足に寄ってきた崇光がかたわらに膝を
ついて、傷の様子を調べている。抱き起こすと、むきだしになった喉に、円形に針を
刺したようにぷつぷつと穴があいて血がにじみ出していた。あの妖女に吸いつかれ
かけたあとだろう。
「泣かないで、イリーナ、心配ありませんから」

156煌月の鎮魂歌8 22/29:2016/01/16(土) 18:45:58
 しゃくりあげる少女の背中をさすりながら、なだめるように崇光が言い聞かせていた。
「毒は残っていないようですし、ただ気を失っているだけです。やはり新月にアルカード
を戦わせるべきではありませんでしたね。どうやら相手は、魔王復活の前にあわよくば
彼を我々から奪い取るつもりだったらしい。確かにそれをやられれば致命的だ」
「なにやってるの、ユリウス、早くこっちへ来て!」
 泣いていたイリーナがきっと顔を上げ、ユリウスのコートの袖を乱暴につかんで
ひっぱった。たたらを踏んでユリウスは膝をついた。まだ先ほどの力の噴出にくらくら
して頭がうまく働かない。
 地面に寝かされたアルカードの顔はいつもにも増して白い。妖女のいまわしい口づけ
の痕から細く血が流れている。
「アルカードに血をあげて、早く! 新月で彼は弱ってる、でもベルモンドの血なら、
誰よりも強力なベルモンドの血なら──」
「待ちなさい、イリーナ!」
 かがみ込んでいた崇光がはっとしたように手を伸ばした。
 だがすでにユリウスは、涙声のイリーナに引っぱられる形でアルカードの唇の上に
手を差しだしていた。
 アンプルの破片がいくつも食い込んだ手のひらから、血が筋をひいて流れ落ちる。
 濃い真紅の血がひとすじ、色を失ったアルカードの唇に流れこんだ。
 アルカードは意識のないままかすかに唇を動かし、血を含んだ。流れる鮮血が、
アルカードと自分を真紅の糸のようにつないだ。
 唇がわずかに動いた。
 アルカードはばね仕掛けのように跳ね上がった。
 突き出された腕が避ける間もなくまともにユリウスの胸にぶつかった。ユリウスは
たわいなく後ろに倒れた。尻をついたまま、ユリウスはくらむ視界にアルカードを
とらえた。
 こわばった頬が震えていた。かすかに血の残った唇がわななき、たった一つの言葉
を呟いた。

157煌月の鎮魂歌8 23/29:2016/01/16(土) 18:46:57
「嫌だ」
 見開いたままの瞳からつっと涙がこぼれた。赤い涙、血の涙だった。
 ユリウスはそれを、たった今自分が口に垂らし入れた血そのものと感じた。ユリウスの
血を体内にとどめておくことが耐えられないとでもいうように、涙は白い頬を伝って
地面に滴った。
「嫌だ」
 もう一度呟くと、アルカードは力なく目を閉じ、かたわらの崇光の腕にぐったりと寄り
かかった。
「ど、どうしたの、アルカード」
 予想外の反応に、イリーナが泣きやんでおろおろとスカートを揉み絞っている。
「あたし、あたし何か悪いことしたの、何かいけないこと──」
「いえ、大丈夫ですよ、イリーナ。あなたは悪くない」
 ため息まじりに崇光は言い、意識のないアルカードの目尻をぬぐって赤い涙を拭くと、
唇を開かせて、その上に指を持っていった。
 親指と人差し指を絞るようにあわせると、その間から一滴の血が絞り出され、アルカー
ドの唇に消えた。アルカードは苦しげに眉根をよせて頭を振ったが、やがて、小さく喉を
鳴らして血を飲み込んだ。
「これでしばらくは大丈夫でしょう」
 アルカードを人形のように抱え上げて崇光は立ち上がった。
「本家に式を飛ばしました。まもなく迎えが来るはずです。戻ったらすぐに、本格的な
処置をしなければ。あなたもですよ、ユリウス」
 見返った目にはどんな表情も読みとれなかった。
「その手はかなりひどい。瘴気の毒がまだ残っているかもしれません。浄化と治癒の処置
を、できるだけ早く。僕たちは、あなたまでも失うわけにはいかないのですから」
「──あいつは誰だ」
 まだ呆然としたまま、ユリウスは呟いた。
 真紅の血の糸がアルカードと彼をつないだ瞬間、心にひらめいた映像があった。

158煌月の鎮魂歌8 24/29:2016/01/16(土) 18:47:31
 一本の蝋燭に照らされた、石造りの部屋。昔風のベッド。乱れたシーツと、その上に
横たわって目を閉じる、日に灼けた肌のたくましい男。
 男らしく整った顔は静かで、誰かをたって今まで抱いていたかのように右腕を広げ、
濃い褐色の髪は奔放に乱れている。閉じた左目の上には縦に長く傷跡が走っている。何か
楽しい夢でも見ているのか、厚めの唇が幸福そうに微笑んでいる。筋肉の張った首筋に
二つの小さな針で刺したような傷があり、うっすらと血がにじんでいる。
 そしてそのかたわらに、アルカードがいる。
 黒衣のマントを後ろに引いて、何かに祈るようにひざまずき、シーツの上に両手を
組んで、食い入るように男を見つめている。きつく組み合わされた手の中に、何か光る
ものがある。金鎖のついた、ごつい印章指輪。明らかに、彼の細い指には大きすぎる、
金の指輪。
 赤い涙がすべり落ちてシーツに染みを作る。散ったばかりの赤い薔薇の花びらのように。
 声もたてずにアルカードは泣いている。眠る男を起こすことを恐れるように、ひっそり
と、音もなく。内心に荒れ狂う苦痛も悲嘆も孤独も、その身を千にも引き裂かれるほうが
はるかにましであろう、悲しみのすべてを飲み込んで。
 ほんの瞬きの半分ほどの幻視だったにもかかわらず、ユリウスにはそれが過去に現実に
あったことだとわかっていた。誰だ、と口にはしたものの、その男が誰なのかもすでに
理解していた。
「あいつは──俺、は……」
「あなたには関わりのないことです」
 崇光の声は変わらず平坦だった。
「さあ、早く。イリーナももう限界に近い。早く屋敷に戻らなければ、ここで第二陣に
でも襲われたら、抵抗もできないまま潰されますよ」

159煌月の鎮魂歌8 25/29:2016/01/16(土) 18:48:07
              4

 十分とたたずに迎えがきた。車を先導していた金色に光る紙人形をとらえてふところに
しまうと、崇光はユリウスたちをせきたてて車に乗せた。来るときあれだけ走ったのに
迎えが来るのは十分とはわけがわからなかったが、おそらくこれも崇光の言う『経路』
のひとつなのだろう。
 座席に収まるとイリーナはすぐに眠ってしまった。人事不省の深い眠りで、四匹の
おともも少女に身をすり寄せて眠り込んでいる。さすがにこの戦いは幼い少女には酷
だったようだ。
 ユリウスの手足も鉛を詰めたように重い。ともすれば降りてこようとする瞼と必死に
戦いながら、それでもユリウスはリアシートに寝かされて崇光の処置を受けている
アルカードから目を離さなかった。
 崇光もまた疲労の色が濃く、目の下にくっきりと隈を浮かせていたが、アルカードの
上を動く手は遅滞なかった。小さく呪を呟きながら指をそろえて印を切り、人型に切った
紙で魔物に受けた傷をたどる。いつもなら目に留まるほどの時間もあけずにふさがって
しまう程度の傷はいつまでもじくじくと血をにじませていたが、やがて人形が黒ずんだ
血の色に変わり、車がベルモンド家の車止めに停車するころには、ようやく小さな赤い
痕が残るばかりになっていた。夜はすでに開けかけており、わずかな暁光が屋敷の石造り
の屋根にさしそめていた。
「治療者と、念のために祓魔術の処置を」
 まだ意識のないアルカードを座席から抱き下ろし、運転手に命じてイリーナもつづけて
降ろさせながら、崇光はそれだけ言った。
「アルカードは僕がこのまま診ます。イリーナは部屋へ運んで、眠らせてやって
ください。ユリウス、君はその手の治療を。かなり深く切っているはずだ。瘴気の
毒の対策も受けておきなさい」
 言い争うにはユリウスは疲れすぎていた。アルカードは透き通りそうに白い顔のまま、
どこか苦しげに眉をよせて崇光の胸に頭をもたせている。手がふいに、思い出したように
うずき始めた。

160煌月の鎮魂歌8 26/29:2016/01/16(土) 18:48:43
 無表情な医師と、続いてやってきた顔も知らない能力者の処置を受ける間、ユリウスは
彼にしてはありえないほど静かだった。だが心の中では嵐が吹き荒れていた。処置が
終わって解放され、自室のベッドに身を投げ出したとたん、脳裏にあの蝋燭に照らされた
部屋の光景がぐるぐるとめぐり始めた。
 自分が眠っているのか起きているのかわからなかった。悪夢のような迷宮を、ユリウス
はどこまでもさまよった。何度もあの光景が、古風なベッドに眠る男とそのそばに身を
寄せるアルカードが、その目から流れ落ちる血の涙が、あらわれてユリウスを苦しめた。
 どれほどそこに近づこうとしても、いくらあがいても、小さなその光はますます遠く、
いつまでも手の届かない場所にあって、ユリウスの侵入を拒否していた。
 いや、拒否ならばまだよかった。最初から彼らにとって、ユリウスなど存在しても
いなかった。彼らはただ彼らだけの小さな世界に住んでおり、それ以外の人間など
はじめから居はしないのだ。
 そこはあまりにも完璧で、完璧すぎたが故に壊されたのだ。エデンの園がいつまでも
楽園ではいられなかったように、最高位の天使と讃えられたルシフェルが天から墜ちて
悪魔と呼ばれたように、完璧にすぎるものはいつか崩れ去ることによってその完璧さを
完成させるのだ。
 自分がアルカードにした仕打ちも現れたが、それは影よりも薄く、すぐに雪の一片の
ように溶けて消え去っていった。どんなに惨い仕打ちも、淫らな言葉も、屈辱も苦痛も、
すべてあの美しい月にとっては別世界の出来事にすぎなかった。彼が住んでいた、そして
今も住んでいるのはあの男と二人だけの世界、蝋燭に照らされた小さな箱庭の中。
 たとえユリウスがあの胸を裂き、ナイフで心臓をえぐり出したとしても、淡々と彼は
それを受け入れただろう。彼の心臓はそこにはないのだから。アルカードの心臓はいま
もあの男のそばにあって、終わりのない苦痛と悲傷に血の涙を流しつづけているのだ。
 ラルフ・C・ベルモンド。
 最初にアルカードと出会い、その身と魂に深い絆と消えない傷を刻み込んだ男。

161煌月の鎮魂歌8 27/29:2016/01/16(土) 18:49:18
 なかば夢見、なかば目覚めながら、ユリウスはベッドの上でのたうち、呪いの言葉を
吐いた。目覚めたばかりのベルモンド家の力が体の中で言うことをきかない獣のように
暴れ回っていた。あの男の中にも宿り、血を通じて連綿とユリウスまで受け継がれて
きた、退魔の力が。
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
 幾度かそんな言葉を吐いた。どんな時だったかもう覚えていない。裸体に剥かれた
アルカードを、かんしゃくを起こした子供のようにもみくちゃにして犯しながら叫んだ
気がする。
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に
流れてるベルモンドの血だけなんだ、この雌犬が』
 その通りであることを、まざまざと目の前につきつけられた思いだった。アルカード
が取り乱したのはたった一度だけ、あの指輪を、あの男の形見であるあの印章指輪を
奪われた時だけだった。今となってはその理由もわかる。彼にとってはあれは、心臓
の一部をむしりとられるに等しい行為だったのだ。なぜ彼が黙って指輪を手放したのか
信じられない。取り戻そうとすらしないことも。ちぎりとられた傷口は、見えない血の
涙を流していまこの時も泣き続けているのだろうに。
 ──汗まみれになり、胸を大きく上下させながらユリウスは天井を見上げて横たわって
いた。
 いつのまにかまた日が暮れていた。窓の鎧戸はおろされて、ベッドサイドのランプだけ
がぼんやりと灯っていた。
 シーツは汗で冷たく、力に煽られた身体は炙るように熱い。ランプの橙色の光があの
静かな小さい世界を照らす蝋燭を思い起こさせ、目を腕で覆って顔をそむけた。
 手に巻いた包帯が自然にほどけて落ちた。傷はきれいに癒え、何のあとも残っていない。
 喉がひりついた。枕もとに用意されていた水差しの中身をひと息に飲み干し、溺れる
もののようにあえいだ。一日以上なにも口にしていないはずだったが、空腹は感じ
なかった。体内を荒れ狂うベルモンドの血、あの男から受け継いだ呪わしい力が、飢え
を感じなくさせていた。

162煌月の鎮魂歌8 28/29:2016/01/16(土) 18:49:54
 くしゃくしゃになったシーツを押しやり、身を起こす。サイドテーブルの引き出しを
あけて、中をさぐった。鎖のついた重い金属に指が触れる。つまんで、引き出した。
すり減って傷だらけの古びた金の指輪が、なにかの死骸のように重く手の上に転がった。
 橙色のランプの光がその表面に揺れた。一瞬、頭の奥でこぼれる赤い涙と眠る男の姿
がフラッシュした。衝動的に立ち上がり、窓を開けると、外の真っ暗な夜に向かって、
指輪を投げつけようとした。
 だが、できなかった。片手を振りあげた姿勢のままユリウスはしばらく硬直し、身を
震わせていたが、やがて疲れ果ててベッドに崩れるように腰を落とした。開いた窓から
夜の風と気配が流れ込んでくる。
「……嫌だ」
 ユリウスは呟いた。それはアルカードが彼に向かって呟いたものと同じだった。嫌だ。
嫌。絶対的な拒否の言葉。いまだかつてアルカードが口にしたことのなかった言葉。
「嫌だ。放してなんてやるもんか。絶対に放しゃしない。あいつは俺のものだ。俺の
ものなんだ。何百年も前に死んだ男のものなんかじゃない。あいつは俺のだ。俺の、
ものなんだ……」
 握りしめた拳に力をこめる。赤い髪が垂れ、血の出るほどに唇をかみしめるユリウス
の若い顔を隠した。わななく手の中で、金の古い指輪が人肌に温められ、ゆっくりと
ぬくもっていった。

163煌月の鎮魂歌8 29/29:2016/01/16(土) 18:50:52



 ──森の奥で、小さく蠢くものがあった。
 芝草の影から、それはほとんど闇にとけ込む昏い色の翅で舞い上がった。小指の爪を
あわせたほどの、小さな小さな黒い蝶。
 蝶はよろめくように木々のあいだを抜け、ときおり地面に落ちそうになりながらも、
まっしぐらにある場所をめがけた。
 ベルモンド家の屋敷は、静かな夜の中に堅固な城として建っている。蝶は風にまぎれる
ようにその中へと吸い込まれていった。
 人目に止まらぬ影をくぐり、闇を抜け、明かりの届かぬ片隅を抜けて、蝶はついに
ひとりの婦人にたどりついた。旧式な形に結い上げた白髪の髷の中に吸い込まれる
ように潜り込む。
「……そう」
 やがて、婦人は独り言のように言った。
「あの男はベルモンドの力に目覚めたの。なんとおぞましい。計画を進めなくては
ならないわ。ラファエル様のために。ラファエル様のために」
 彼女は立ち上がり、軽く髪を直すと、黒いドレスの裾を鳴らしながら茶器を片づけ
始めた。そばのベッドに眠る金髪の少年をちらりと見やる。車椅子は隅に片づけられ、
大きな枕の上には眠りに落ちる直前まで読んでいた、騎士物語の書物が開いたままになっていた。
 茶色く灼けたページには、薔薇の絡む塔に閉じこめられた乙女と、そこへ向かって
馬を走らせる、凛々しい騎士の木版画があった。
 ボウルガード夫人は書物を取り上げ、書棚の所定の位置にきちんと片づけた。
 少年の寝息を確かめ、肩にかかった毛布をかけ直す。灰色の目は常と変わらず、沈着に
澄み切り、ほぼなんの感情も浮かべてはいなかった。

164煌月の鎮魂歌9 1/22:2016/06/18(土) 06:00:09
 Ⅳ  1999年 五月

            1

 ユリウスはゆっくりと階段を下りていった。
 先に立っている崇光のひょろりとした背中が一定のリズムで左右に傾く。地下へと
下ってゆく螺旋階段は際限もなく感じられ、足の下に長年の行き来によって踏みけず
られた段はわずかに中央部がくぼんでいる。壁のところどころには弱々しいライトが
灯っていたが、おそらくは、それらは以前は古めかしい松明にすぎなかったのだろう。
湿った冷たい石壁にはいまも積み重ねられた月日の垢のように黒く煤がこびりつき、
文明などというよわよわしい代物が投げるうすっぺらな光を嘲笑するかに思える。
 ベルモンド家の最奥、多くの守護者と使用人たち、そして誰よりも、家長である
ラファエル少年に守られた聖所。
 自らをベルモンド家の人間とは考えたくないユリウスではあったが、そこへ足を踏み
入れるための資格、ヴァンパイア・ハンターとしてのベルモンド家の血をその身に継い
でいることは、どれほどラファエルが怒ろうと否定しようのない事実だった。
「だめだ」
 少年は言い張った。興奮するあまり血の気のない頬はほてり、車椅子にかけられた膝
掛けがずり落ちそうになっている。
「アルカードがあんなに傷ついたのはお前のせいなんだ。お前みたいな素人を連れて
いったから、あんなに彼が傷つかなければならなかった。彼に会う資格なんてお前には
ない。僕はお前をベルモンドだなんて認めない。聖所の扉はお前のためになんか開か
ないぞ、ならず者め。とっとと出て行って、自分に似合ったネズミ穴に帰ってしまえ」

165煌月の鎮魂歌9 2/22:2016/06/18(土) 06:01:26
 地下へと続く両開きの大扉の前に、異母兄弟はまるで不倶戴天の敵のように向かい
合っていた。少なくとも、ラファエルの方はそうだった。少年はいま、半吸血鬼の公子
が地下のもっとも魔力の強い場所で眠りについていることについての全責任を、ユリウス
にかぶせるつもりでいるようだった。この少年にとってかの銀髪の麗人以上に大切な人間
などこの世に存在しないのであり、それに対して、突然現れた異腹の兄──兄とは断固と
して認める気がなくとも──は、あくまで自分から聖鞭と、何よりも公子を奪い、蹂躙
した許すべからざる敵にほかならなかった。
「帰ってもいいが、それじゃあんたたちが困るんじゃないのかい」
 自分でも思っていなかったほどおだやかな声が出た。ラファエルは言葉につまり、のど
の奥で唸ってますます頬に血の色を上らせた。そばに控えたボウルガード夫人が身を屈め
て膝掛けをとりあげ、丁寧な手つきで幼い主人の膝にかけなおした。
「俺だってここに喜んで連れてこられたわけじゃないのを忘れるなよ。俺がいなくなった
ら例の鞭を使う人間がいなくなる、そうだろう? だったらあんたがいくら吠えたところ
で俺の要求は通さざるを得ないわけさ。それに俺はなにも悪いことをしようとしてるん
じゃない。あんたが言うように、アルカードが傷ついたのが俺の責任だっていうのなら、
見舞いのひとつもしに行くのが筋ってもんだろう。これでも心配してるんだぜ、なんたっ
て、あいつは俺の可愛い雌犬だからな」
 最後の一言は残酷な意図を持ってつけ加えられた。その意図は当たった。少年は真っ赤
になり、それから紙のように蒼白になった。
「お前が」
 怒りのあまり、少年の両手は車椅子の肘掛けの上で筋張った骨の形をくっきり浮かせて
震えていた。
「お前が、お前なんかが、そんな口を、彼に──」
「ラファエル」
 落ち着いた声が割って入ったのはその時だった。白馬崇光が、誰にも気づかれないうち
に影のように滑り込んできていたのだった。
「彼を聖所へ連れて行きます」

166煌月の鎮魂歌9 3/22:2016/06/18(土) 06:02:03
「崇光!」
 ラファエルは叫んだ。
「僕は許さないぞ、そんなことは断じて」
「彼がこの扉をくぐる資格を有していることは確かです」
 周囲でどちらの味方にもつけず、おろおろしていた使用人たちの腕をするりとくぐり抜
けて、崇光はユリウスの隣に立った。
「彼に、ベルモンド家にとってアルカードがどのような存在であるか、知らせておくのも
この際必要なことでしょう。累代のベルモンドたちが彼をどのような思いで見守ってきた
のか、彼に負わされた運命がどれほど重いものか、ベルモンド家の者として、彼とともに
魔王を封印し、すべての運命から彼を解放することがどれほど大切なことか」
 ユリウスはじろりと頭一つ低い日本人青年を見下ろした。
 長髪を後ろでひとつにまとめ、丸い眼鏡をかけた青年神官の表情は、いつも通り読みづ
らかった。暗い照明がレンズに反射し、その奥の目の色をさらに読みづらくしていた。
「それに、忘れないでください、ラファエル。彼が言ったとおり、彼以外に〈ヴァンパイ
ア・キラー〉の使い手たる人間はいないのです。あなたにとってはどうしようもなく辛い
事実でしょうが、認めるほかありません。そして今のところ彼は、それなりの実力をもっ
ていることを証している」
 眼鏡がわずかに傾き、切れ長の目が一瞬するどい一瞥をユリウスに投げた。ユリウスが
負けずににらみ返すと、青年は何事もなかったようにまたラファエルの方をむいた。
「先日の敵の侵入は、僕にも予想外でした。あれほどの高位の妖魔が襲撃してくること
も。素質の足りないものであれば、あの夜に一瞬にして死んでいておかしくないのです。
しかし彼は生き延び、怪我もなく、この場に自分の足で立っている」
「アルカードを犠牲にしてだ」
 叫ぶようにラファエルは言った。
「そいつをかばったために、アルカードはまだ眠り続けて目覚めないんじゃないか。もう
あそこに入ってから十日近くたつのに、そいつが無能だから、だから」

167煌月の鎮魂歌9 4/22:2016/06/18(土) 06:02:37
「あなたがそう思いたいのと、現実とは同じではないのですよ、ラファエル」
 なだめるように崇光は言った。
「現実の彼は無能にはほど遠い。僕はこの目でそれを確認しました。アルカードもそうと
認めたからこそ、彼を鞭の保持者候補として選定しているのです。彼を見つけ、使い手と
して連れてきたのは他ならぬアルカードであることを忘れないでください。彼は単に
ベルモンドの血が入っているからというだけの理由で、余所で好き勝手に生きていた
ギャングのボスをここに引っ張り込んでくるような考えなしではありません」
 あるいは崇光はユリウスをも怒らせるつもりだったのかもしれないが、そのような
言われ方はこの屋敷に連れてこられてから、ユリウスにとっては聞き飽きすぎてそよ風
ほどの効果ももたらさなかった。
「それで、結局どうなんだ?」
 わざとらしくあくびをかみ殺して、ユリウスは腕を組んで退屈そうなポーズをとって
みせた。
「いつまでもここのドアマットの上でキャンキャン吠えあってなけりゃいけないのか? 
面会謝絶ってならそう看板を出しといてもらいたいもんだ。それだって、まともな病院
なら身内の人間くらいは入れてくれそうなもんだが。ま、あんたたちとしちゃ俺のこと
なんぞ身内と認めたかないのは承知してるがね、こっちはこっちで、権利ってやつがある
なら最大限使わしてもらう主義なんだよ。ひょっとして、ここで鞭の腕前を披露して、
その大仰な扉をぶち破ってみせなきゃいけないのかね?」
「そんなことをしてみろ、僕がこの手で──」
「もうおやめなさい、ラファエル」
 静かな、だが有無をいわさぬ口調で崇光がさえぎった。

168煌月の鎮魂歌9 5/22:2016/06/18(土) 06:03:10
「彼は資格を有しています。であれば、いかにあなたがベルモンド家の当主であろうと、
この場では鞭の使い手の──鞭に認められるまではあくまで候補であるとはいえ──彼の
意向が優先されます。ボウルガード夫人」
 ボウルガード夫人は黙って一礼し、抗議するラファエルの車椅子を押して、扉の脇へと
退かせた。使用人一同も、ざわざわと押し合いながらいっしょになって後ろへ下がる。
「やめろ! 行かせないぞ、僕は──」
 車椅子から落ちそうなほど身悶えし、ままにならない体を必死によじりながら、ラファ
エルは悲鳴のような声をあげて金髪を振り立てた。
「貴様、アルカードにこの上何かしてみろ、僕は、僕がきっと」
「彼はアルカードになにもしませんよ、ラファエル。そうですね? ユリウス」
 またちらりと向けられた一瞥には、底知れない冷たい光と力が宿っていた。ユリウスは
ただ肩をすくめるだけにとどめた。
「また僕が同行するかぎり、そんなことは誰にもできませんし、させはしません。聞き
わけなさい、ラファエル。あなたはそんな愚かな人ではなかったはずですよ」
 ラファエルは頭が膝につくほど身を折り曲げ、低い呻き声を漏らした。
 かすかにきらめいたのはこぼれ落ちた涙の粒のようだった。ボウルガード夫人は脇の
使用人から受け取った上着をラファエルの背中に着せかけ、少年の震える細い身体が
すっかり覆われるようにきちんと整えた。
 もうそれ以上頓着することはせず、崇光はユリウスの先に立って、鉄と青銅で護られた
大扉の前に進んだ。
「ではユリウス、これからあなたをベルモンド家のもっとも聖なる場所に案内します。
ここはベルモンドの血を継ぐ者、及び、彼らによって特別に許可された人間しか出入り
を許されない至聖所です。僕でさえ、先代当主によって許可されていなければ、ここには
一歩も足を踏み入れることができなかった。この扉をくぐるというのがどういうことか、
よく考えて前に進みなさい、いいですね」

169煌月の鎮魂歌9 6/22:2016/06/18(土) 06:03:46
「ごちゃごちゃ言わずにとっとと開けろ」
 それだけ、ユリウスは答えた。
 崇光はしばらく扉に手をかけたまま、量るように赤毛の青年の横顔を眺めていたが、
やがて扉に向き直り、巨大な取っ手に手をかけて、引いた。
 非力そうなひょろりとした青年の手にもかかわらず、扉は動いた。地面の底からわき
あがってくるような軋みが、何者か地中深くに封じ込められたものの苦悶の声のように
とどろいた。緑青をふいた青銅の縁取りのむこうに、かすかな橙色の光に明るんだ、
うす闇が覗いた。
 声を殺してラファエルがすすり泣いていた。人ひとり通れるだけ開かれた扉の隙間を
崇光がくぐり抜け、続いてユリウスも歩を進めた。
 しめって冷たい地下の空気が頬をなでた。背後で扉がかすかな地響きと共に閉ざされ
た。ユリウスが立っているのは、どこまでも続くかに思われる、地下への螺旋階段の
頂点の小さな踊り場、その縁だった。

            2

 階段がついに尽きた。
 降りてゆく間、崇光は一言も口をきかず、振り返ろうともしなかった。ユリウスも
あえて話しかける必要は感じなかった。二人分の足音が気の遠くなるほどの長い縦穴に
反響しては消えていった。しんしんと二人はそれぞれ頭の中に唯一のものを思い描きつつ
進んだ。
 最底部はまた小さな踊り場になり、構えが上ほど仰々しくはない、両開きの質素な扉が
あった。見たところ、扉は扉だけでその場に自立しており、背後には壁もなければ部屋が
あるようにも見受けられない。ユリウスは答えを急かすように崇光を睨んだ。崇光は
あわてずさわがず、手をあげて扉の表面に手をあて、なんらかの言葉を二つ三つ呟いた。
 扉は開いた。というよりも、その場で霧のように薄れ、かわりに、扉に刻み込まれて
いた蔓模様がふいに生気を取り戻し、ほどけて、一気に空間全体に広がったように思えた。

170煌月の鎮魂歌97/22:2016/06/18(土) 06:04:20
 崇光は猫のようにそっと中に踏み入っていった。
 ユリウスも黙ってあとにつづいた。自然に足音をひそめる形になった。
 それを必要とさせる厳粛な静謐さがそこには満ちていた。これまで降りてきた長い長い
螺旋階段とは違い、ここには電気のライトなどという無粋なものは置かれていない。
かわりに輝いているのは、花だった。
 いちめんの薔薇の花。床を覆い、壁に交差し、天井からカーテンのように垂れている
エメラルドのような緑の枝とみずみずしい葉の間に、まばゆいほどに純白の大小さま
ざまな薔薇の花が咲き誇っている。
 ふっくらした花びらは露をたたえ、葉もしっとりとした霧にぬれていた。日光もなけ
れば通風も十分でないはずのこの深い地下の一室で、どうやってこのようなおびたたし
い薔薇が生気をたもっているのか、ユリウスには見当もつかなかった。
 足の下は石や人工の床ではなく、青々とした若草と、細い茎をからみあわせた小さな
野薔薇の茂みだった。
 そこここに、季節にはまだ少し早いクローバーの小さなまるい花が内気な乙女のよう
に揺れている。全体は月光めいた青い光に満ち、胸が痛むほどの静けさだった。
 その中央に、アルカードがいた。
 眠っていた。大きな天蓋つきの寝台に寝かされていたが、この寝台もまた、周囲の薔薇
にまつわりつかれ、まるで薔薇そのものでできているかのように輝いていた。
 天蓋からは細い薔薇の花綱が垂れ、あらゆるところから伸び上がった大輪の白薔薇が、
主人を気遣う子猫のように寝台の主のまわりを取り囲んでいる。露をおびた蔓と葉が
シーツの代わりに身体をそっと包み、眠る彼の組み合わせた手の上に、重なるように
かぶさっていた。

171煌月の鎮魂歌98/22:2016/06/18(土) 06:04:52
 白い顔はぴくりとも動かず、大理石でできた彫像のように完璧で冷たく、なめらかな
肌は死人よりもさらに蒼白だった。
 銀髪は滝のように流れて寝台の縁を越え、薔薇の蔓に支えられるようにして床へと
広がっている。長いまつげが疵ひとつない頬に透明な青い影を落とし、薄い唇は軽く
結ばれて蒼白の固さにのまれている。人間であるにはあまりに美しい顔は、超自然の
眠りにのまれることでさらに人間らしさを消し、遠い異教の神が魔法の眠りの中にいる
かのような近づきがたさを感じさせる。
 閉ざされたまぶたややわらかい巻き毛に宿るのは、薔薇の花びらよりもまだ繊細な、
あわく透き通る影だった。大小さまざまな薔薇の萼が眠れる主人を気遣う侍女のように
あたりに集い、侵入者たちを非難するかのように、いっせいに音のないさざめきを発した。
「おい……大丈夫なのか?」
 ようやく、ユリウスは言った。声を出すのにはそうとうに思い切る必要があった。それ
ほどこの静寂は聖なる威厳と緊張感に満ちていた。
 崇光は厳しい顔をしたまま返事をしなかった。ユリウスが同じ質問をもう一度繰り返し
てようやく、彼のほうをむいた。
「問題はありませんよ。一応はね」
 ひっかかる言い方をしやがって、とユリウスは思ったが、口には出さなかった。
「ここはベルモンド家の地所でももっとも強力な大地の力の集まる場所です。過去のベル
モンドたちはここに彼の故郷──ヴァラキアの土を埋め込み、その上で、さらに力の流れ
がこの一点に集約するように、何代もかけてここを築き上げたのです。彼がひどく傷つい
たとき、それに見合った治療の力を受けられるように。何百年もの戦いのうちには、アル
カードとて深く傷つくことがなかったとはいえない。彼の超人的な能力とはいえ、限界は
やはりあるのです。とはいえ」

172煌月の鎮魂歌9 9/22:2016/06/18(土) 06:05:27
 崇光はふと言葉を切って、ユリウスをじっと見つめた。
「今回のニュイ女伯爵とかいう妖魔相手でしたが──正直、アルカードがこれほど疲弊す
るような相手ではなかったと、僕は見ています。幼いイリーナが体力を消耗するのは必然
ですが、歴戦の戦士であるアルカードが、ここに入らなければならないほど力を弱められ
るのは、異常事態と言わねばなりません」
「だから、俺のせいなんだろ」
 不機嫌にユリウスは吐き捨てた。聞くところによるとイリーナは日課のお茶会をまだ休
んではいるが、ここ数日でベッドに起きあがって、あの女王めいた物腰で尊大にスコーン
とジャムにダージリンのポットを命じる程度には回復しているそうだ。また茶会への呼び
出しがかかるのも遠いことではなかろうと考えると憂鬱になる。
「ド素人の俺がついてったおかげで足を引っ張られて、こいつが重傷を負った。もう聞き
飽きてるよ。だからって、俺にどうしろっていうんだ」
「ラファエルはそう思いたがっているようですが、僕は賛成しません」
 そっけなく崇光は言い返し、眠るアルカードにゆっくりと歩み寄った。薔薇たちは不服
そうにざわめいたが、主治医としての彼が近寄ることは了解しているらしく、左右にわか
れて道をあけた。崇光は手を伸ばし、アルカードの動かない頬に慎重に指をふれた。
「あなたどころか、まったく戦力にならない一般人を抱えて戦う経験も、彼はいくつも
している。彼が五百年生き、その間ずっと闇の勢力と戦い続けていたことを忘れないで
ください。魔王その人とでさえ、二回までも相対して、一時の封印には成功している
のですよ」
 ユリウスは唇をかんだ。崇光は続けて、

173煌月の鎮魂歌9 10/22:2016/06/18(土) 06:05:58
「彼はもっとひどい傷やダメージからも回復してきましたし、これほど長い間ここで
眠り続けるほどの重傷ではないはずです。少なくとも記録に従えばそのはずだし、僕の
看立てでもそうだ。彼はとうに目覚めていておかしくはないし、そもそも、ここに入って
眠らねばならないような重大なダメージをうけたのは、これまでの歴史でも片手で足りる
ほどしかない。それもほんの一、二時間から半日というところで、こんなに長く眠り続け
ているというのは、明らかに異常です」
「じゃあ、いったいなんだっていうんだ」
「あなたは彼に血を与えましたね」
 断定するように崇光は言った。
 ユリウスは身がこわばるのを感じた。
 いくつもの言葉が喉に押し寄せたが、すべては舌の上で氷に変わった。
 あの一瞬の記憶が脳裏にまたたいた。泣き叫ぶイリーナと、指先から流れ落ちる血。
アルカードの唇に流れ込む真紅の滴。記憶の中で、粘る飴のように、落ちていく血は
とても遅く見えた。
 そしてその後に閃いた、遠い過去の光景──
「何をしたかが理解できているようでよかったですよ」
 ユリウスの沈黙を正確に読みとり、冷然と崇光は言った。
「ベルモンドの血は力に満ちている。アルカードとベルモンド家の関係を本当の意味では
知らないイリーナが、弱った彼にもっとも力あふれる血を与えようと判断したのは間違っ
てはいない。まああなたも、知らなかったのだから無理はありませんがね。見たのでしょ
う?」
 何を指しているかは言われるまでもなかった。ユリウスは声も出ないまま、わずかに頭
を動かした。

174煌月の鎮魂歌9 11/22:2016/06/18(土) 06:06:35
「これまでベルモンドの者が彼に血を与えたことがなかったとは言いません」
 と崇光は続けた。
「しかし、その場合、彼は何重にも用心し、けっして直接血を飲むことはなかったし、前
もってしっかりと精神を鎧って、記憶が呼び起こされることのないよう封じていました。
彼にとってあれはもっとも触れたくない、誰にも触れてもらいたくない秘密なのです。僕
がそれを知っているのは、ある事情から彼が話してくれたからにすぎない。その時で
さえ、彼の苦悩と悲しみは言葉につくせないほどのものでした。それを、ひどく弱って
いる時に直接あなたの血を口にしたことで、あまりにも生々しく、突然に呼び起こされて
しまったのです。彼の受けたショックがどれほどのものだったか、あなたに想像できますか」
 黙ってユリウスは唇をかんだ。しばらく返事を待つように口を閉ざしていてから、崇光
はまた続けた。
「ベルモンドの者は生涯に一度は彼に恋をする──そう言われています」
 ユリウスはびくりと目を上げた。とたんにこちらを見据える崇光の鋭い眼光に射抜かれ、
反射的に目をそらした。青年神官の眼鏡の奥の瞳は、いつもの穏やかさを脱ぎ捨てて、刃
のような悽愴な光をたたえていた。
「でも、彼がここに身を置くようになって四百年近く、だれ一人としてそれをかなえた者
はいない。なぜかわかりますか」
 問われているのではなかった。その答えはすでにユリウスの中にあった。ただ言葉に
されるのを拒んでいるだけだった。言葉にされ、口にされてしまえば、それは認めざる
を得ない真実となってしまう。ユリウスは力なく頭を振り、聞くまいと顔をそむけた。
「彼はただ一人のベルモンドを愛している。今も。そしてこれからも。
 ──そしてそれは、あなたではない」

175煌月の鎮魂歌9 12/22:2016/06/18(土) 06:07:41
 むなしく声は耳につきささった。
 自然に顎に力がこもり、口の中に血の味が広がった。鉄錆の味はいつもと違ってひどく
苦く、酸のように舌を灼いた。
「彼と最初に出会い、愛し合ったただ一人のベルモンド。ラルフ・C・ベルモンド。彼
だけが、アルカードにとって唯一であり絶対なのです。
 ほかのすべてのベルモンドはただ、彼の血を継ぐ者というだけにすぎない。もちろん
ひとりひとりを愛していなかったわけではないでしょう。しかし、最初の一人のように
彼を愛し、愛された人間はいない。誰も」
 かたくなにユリウスは顔をそむけていた。噛み破った唇から血が流れているのをわずか
に意識した。血の味がめまいを引き起こす。血。指先から流れてアルカードの唇に落ちた
血。
 その血を含んだとたん、彼は跳ね起きて呪うようにユリウスを見た。いや、ユリウスを
ではない、今も彼を苦しめてやまない、運命と離別の夜を見た。そしてただ一言、拒否の
言葉を口にした。『いやだ』。血の涙だけがあの夜と同じく、赤い筋をひいて頬に流れた
……
「あなたは彼から指輪を奪いましたね。金の、古い指輪を」
 冷然と崇光は言った。
「あなたが彼をどのように扱っているかは知っています。彼が選んだことですから、僕は
それに関してどうこう言うつもりはありません。
 しかし、あなたがその指輪を奪ったことが彼にとってどんな意味を持つかは知っておき
なさい。あれは彼にとっては生命と同じ、彼を愛し、愛された相手が遺したただ一つの
形見です。あれだけが、彼にとって唯一、自らの生を認めてくれるよすがなのです。
それを、あなたは奪った」

176煌月の鎮魂歌9 13/22:2016/06/18(土) 06:08:23
「あいつは俺のものだ」
 ようやく、ユリウスは言った。自分の耳にもその声は聞こえづらく軋み、かすれて苦し
げだった。
「あいつが俺に言ったんだ、俺のものになると。俺の言うことはなんでもきくと。俺のも
のに、俺の……」
「あなたがベルモンドの血を継ぐ者でなければ、彼はあなたなど見もしなかったでしょうね」
 容赦なく崇光は言った。
 ユリウスの全身がむち打たれたように震えた。
「そしてあなたが唯一残った聖鞭の使い手でなければ、彼は、けっしてあなたに屈服する
ことなどしなかった」
「俺は──」
「これだけは理解しておくことです、ユリウス・ベルモンド」
 畳みかけるように崇光は続けた。
「アルカードが見ているのはあなたではない。彼が見つめ、愛するのは今も昔もただ一人、
ラルフ・C・ベルモンドと、彼の遺した血のみです。あなたが彼にしているような仕打ち
が許されるのはひとえに、あなたの体内に流れる血と、聖鞭の使い手の資格によってであ
ることを知りなさい。
 あなたはけっしてあなたとして彼の目に映ることはないし、本当の意味で愛されること
もない。彼が愛しているのは過去も現在もただ一人、それ以外の人間は、彼にとって一瞬
で過ぎ去る夢のようなものにすぎない。それがいかに愛すべき夢であっても、──憎むべ
き夢であっても」

177煌月の鎮魂歌9 14/22:2016/06/18(土) 06:09:00
 崇光ははじめて視線をそらし、眠るアルカードの顔に目を落とした。すでに死せる者を
見るかのように痛ましげな、悲傷に満ちた色が頬のあたりをよぎった。手を伸ばしてそっ
とシーツにあふれる銀髪をさする。白い薔薇たちが見下ろすように揺れる。
「彼にとってはすべてが夢なのです。闇の公子として生まれ、父殺しの宿命を負って五百
年。彼はずっと、醒めない悪夢の中で生きてきた。その中で、ただ一つの愛の記憶だけが、
彼にとっての生命なのです。あなたが奪った指輪は、その生命そのものにほかならない」
「あれは返さない」
 からからの舌を動かして、ユリウスはやっと言った。
「俺は……あれは、俺のものだ。俺のものだ。俺の……ものなんだ」
「なら、そう思っていなさい。どちらにせよ、事実は変わらない」
 ふいに崇光はすべてに興味をなくしたようだった。どうでもよさそうにそう吐き捨て、
ユリウスに背を向けてアルカードにかがみ込んだ。薔薇の侍女たちが音もなくさざめき、
白いボンネットのような頭を傾けて主治医のまわりに輪を作った。
「彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド」
 眠るアルカードに医師の慣れた手つきで触れながら、そっけなく彼は告げた。
「僕が言っておきたかったのはそれだけです。あなたが理解しようとしまいと、どうでも
いいことだ。あなたの中の血、その血が与えている鞭の保持者としての資格。アルカード
が見ているのはそれだけです。あなたではない。けっして」
 それ以上口を開かず、崇光はアルカードの上にかがみ込んだまま、何か複雑な図形を宙
に指で描きはじめた。指の動きにつれて、淡く輝く線が空中に魔法陣のような立体図形を
組み上げていく。

178煌月の鎮魂歌9 15/22:2016/06/18(土) 06:09:37
 アルカードは薔薇に覆われたベッドの上で、死病におかされた子供のように身じろぎも
せず、あふれる銀髪と薔薇の花弁に埋もれて目を閉じていた。うす青い瞼にまたたく図形
の光がちらちらと揺れる。
 ユリウスは踵を返し、その場を逃げ出した。



 何者かに追われるように足をもつらせ、数度は躓き、何度かは膝が崩れて倒れそうにな
った。
 気がつくと自室にいてベッドに腰を下ろし、呆然と壁を見つめていた。
 夜半で、なかば開いた窓からは初夏の涼しい夜気が流れ込み、カーテンにじゃれる月光
が床にも、足首にもまつわりついている。どれほど激しい鍛錬をしても堪えたこともなか
ったのに、まだ膝が震え、足に力が入らなかった。押しつけられるように胸が痛む。喉が
締めつけられ、息がつまる。無理に呼吸をしようとすると、空気が大きな固まりになって
肺につかえた。なんとか息を吸おうとあがいても、身体が石になったように重く、がくが
く震えて言うことをきかない。
 組み合わせた両手で何か堅いものをきつく包み込んでいることにようやく気づいた。意
のままにならない手を苦労してほどいてみると、古い、すり減った金の指輪が、鈍い光沢
をおびてそこにあった。
 シャツは丸めて投げ捨てられ、ブーツは横倒しになって壁の近くに転がっていた。意識
しないうちに背中が丸まり、両足をきつく胸に引き寄せていた。ベッドから腰が滑り落ち、
床についた。ユリウスは床にうずくまり、両膝をかかえてかたく身体を丸めた。赤い髪が
裸の肩にこぼれて、顔をかくした。

179煌月の鎮魂歌9 16/22:2016/06/18(土) 06:20:12
「俺のものだ」
 誰にともなくユリウスは呟いた。
「俺のものだ──俺のものだ──俺の、ものだ──俺の」
 だがその声はひどくかすれ、自分のの耳にすらうつろに響いた。
 今背を預けている同じベッドで、あの白い肢体を何度蹂躙したことか。抵抗一つしない
身体を思うがままに痛めつけ、恥知らずな姿勢をとらせて、最下級の娼婦に等しい扱いを
した。命じるままに鎖につながれ、雌犬の姿勢で自分を受け入れる彼に嘲弄の言葉を投げ
つけもした。
 だがその心を折ったと感じたことは一度もなかった。いつでも次の朝になれば、何事も
なかった顔をしてアルカードは白い月のように現れた。どんなに手を伸ばしても届かない
天上の月。いっときこの手につかんでも、たちまち指のあいだから滑りおちていってしま
う。
 ゆれるカーテンのむこうから欠けた月が覗いている。新月からしだいに満ちていく月は、
いまだ過程の途中にあって細っている。弱く頼りない光だが、訓練によって慣らした目に
は、そのわずかな光も明るく感じる。

 足首にまつわっていた微かな月光が肩に触れ、髪にまつわる。その冷たい感触を、ユリ
ウスは知っていた。あの細い指先。絹よりまだ柔らかくなめらかな、透き通るあの肌。
すくい上げれば滝のように流れる、銀色の髪。強引なくちづけにもあらがわず、わななき
ながら開かれる仄赤い唇。

180煌月の鎮魂歌9 17/22:2016/06/18(土) 06:21:23
 また、その内部に秘められた熱さを知ってもいる。大理石の彫像を思わせる肉体は、
その内部に熱せられた蜜を含んでいた。毒のある蜜蜂が集めたかのような、人を狂わせる
魔性の蜜。
 触れればたちまち理性を奪われ、狂ったように行為に沈み込むのはいつもユリウスの方
だった。微かな苦鳴も苦しげな呼吸も、渇望をあおり立てる種だった。触れれば触れる
ほど、口にすればするほど飢えをそそられ、渇きはいや増す。どれほどむさぼり尽くして
も飽き足りない、いっそこの身体をばらばらに引き裂いて心臓を引きずり出してやりたい
欲望にすらかられる。
 血まみれの胸から引きずり出した心臓を、自分の胸を引き裂き、その傷口に押し込めば
この渇きは癒えるだろうか。自分の心臓を引きちぎり、そのかわりに冷たい胸の奥で拍っ
ている心臓を置くことができれば。二つの心臓を溶け合わせて、ひとつにする方法が
わかれば。冷たく白いこの月の精霊に、本当の意味で手を触れることさえできれば。
(彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド)
 わかっていた、とユリウスは思った。
 わかっていながら知ろうとしなかった。あの女妖と戦った夜に、体内に荒れ狂うベルモ
ンドの退魔の力に翻弄されながら、それは何度も幻に現れたはずだ。あの箱庭の天国、
二人だけのエデン。誰の侵入も許されない国、あまりに完璧すぎた故に破壊された幸福。
アルカードとあの男以外には存在しない、絶対の王国。
 明らかな事実から目をそむけて、意味のない行為に惑溺することで自分をごまかして
いた。そしてその見ようとしない事実と自分自身に苛立ち、怒り、そのすべてを目の前に
捧げられた肉の身体にぶつけていた。何の意味もないことを、心の奥では知っていたと
いうのに。

181煌月の鎮魂歌9 18/22:2016/06/18(土) 06:22:08
 アルカードは自分を見ない。
 誰のことも見てなどいない。彼が見ているのはずっとあの一瞬、あの永遠の夜、アル
カードの心が今もとどまり続けている、数百年も前の現在なのだ。
 戦いのあとの混乱した記憶がふたたび脳裏を支配した。イリーナの小さい手が手首を
つかみ、有無を言わさず引き寄せる。傷ついた手のひらからしたたる血が筋をひいて
アルカードの唇に落ちていく。真紅の濃い生命の一滴がその唇を通り、のどをかすかに
動かし──
 そして彼は跳ね起きた。灼けた鉄板に乗せられたかのようにその場で跳ね上がり、
ユリウスを見た。致命的な毒を盛られたことを悟ったかのような、絶望と悲嘆にあふれた
まなざしで。
(違う。そうじゃない)
 あれは彼を見ていたのではなかった。アルカードが見ていたのは、遠い過去だった。
ユリウスの血によって呼び起こされた遙かな記憶、彼がはじめて地上に生き、ベルモンド
の血を継ぐ人間と愛し合った時の出来事。流れ落ちる血の涙と、白いシーツに落ちた薔薇
の花びらのような染み。白ではなく赤い薔薇、赤い血の涙の一滴、引き裂かれた心から
流れ出した灼けつく記憶のかけら。
 そして彼は口にした、ただひとこと──『いやだ』。
 あれは何に対する拒否だったのだろう。自分にではないことをユリウスはとうに悟って
いた。あの時のアルカードの知覚に、彼は映っていなかった。崇光も、イリーナも入って
はいなかった。
 アルカードはベルモンドの血によって呼び覚まされた過去にいたのであり、おそらくは、
もはや起こってしまった変えようのない悲劇に、運命に、甲斐のない抗議をしていたのだ

182煌月の鎮魂歌9 19/22:2016/06/18(土) 06:22:46
 どれほど酷い行為かを知りつつ、それをせねばならなかった自分、にもかかわらずまだ
生きて地上にいなければならない自分、人でも魔でもない黄昏の者として永遠に、死ぬ
ことも忘れることも許されず生き続けなければならない自分、いずれは三度目の父殺しを
行わねばならない自分、そういった自分自身すべてに対して、無力な拒否をつきつけてい
たのだ。
 そしてそれが無力であり、意味などないことも彼は知っている。文字通り、骨の髄まで。
遠い記憶のあの男の血を継ぐ人間たちとともに、魔王と化した父と戦い、最終封印を
施して完全に滅すること、ただそれだけが現在の彼の使命であり、生き甲斐であり、
存在価値なのだ。
 ベルモンドの至宝とたたえられ、どれほど多くの者から慕われ愛されようと、本当の
意味でアルカードが満たされることはけっしてないだろう。彼の愛は遠い昔にあるベルモ
ンドの男とともに埋葬されたのであり、その男の血と誓いとを守るために、三度目の封印、
光と闇の最終戦争に立ち向かおうとしている彼は、実質、あの頃の彼の抜け殻でしかない。
どれほど強くまたやさしく、果敢に闇に立ちふさがろうと、彼の心は数百年を閲してまだ
生々しい──忘れることができないからこそいっそう生々しく、いつまでも血を流し続け
る、あの夜に縛られつづけている。
 それでも彼は立つのだ、他の誰のためでもなく、ただ、あの男との約束のために。遠い
過去に置き去りにした恋人、心と身体、魂のすべてをかけて愛した、ただ一人のベルモン
ドのために。
 手の中の指輪が灼けつく。いや、これこそが心臓だ。あのなめらかな胸の中から取り出
されて、血を流しながら脈打っている。

183煌月の鎮魂歌9 20/22:2016/06/18(土) 06:23:24
 熱く燃えているはずなのに、その熱はけっしてユリウスには触れてはこない。握りつぶ
すほどに強く握りしめても、それはユリウスにとってはいつまでも固く冷たい金属の塊で
しかない。それが命をとりもどすのはおそらく、アルカードの手の中にある時、彼の魂と
記憶のすぐそばに寄りそう一瞬だけなのだ。
 それでも、離すことはできなかった。溺れる者が命がけでつかむ命綱のように、ユリウ
スの指は指輪をつかんで肉に食い込むほどにかたく、より強く握りしめていた。
「俺のものだ」
 むなしい言葉をまた繰り返す。声は口からこぼれたそばから砕け、どこへ届くこともな
く薄れて消えた。
 すべてのベルモンドは一度は彼に恋をするとあの日本人は言った。ではこの心も血に促
されてのものにすぎないのか。そんなわけがない、それならばこれほど苦しいはずはない。
ベルモンドの名などいらない、血筋などもともと望んで受け継いではいない、鞭もどのよ
うな特権もいらない、望むのは、ただ、あの月だけ。
 あの月がほしい、あの瞳に自分を映してほしい、他の誰かにではなく自分に、自分にだ
け、あのまなざしを向けてほほえんでほしい。見苦しく地面に這ってすがってでも、そう
望んでいることをユリウスは知った。
 最初の夜からそうだった。どれほど酷く扱ってもこちらを見ない彼に苛立ち、なんとか
して自分を見させようと子供じみた真似を繰り返した。軽蔑でも嫌悪でも、憎悪ですら
かまわなかった。それが自分に向けられたものであるなら。他の誰でもなく、この自分
自身に

184煌月の鎮魂歌9 21/22:2016/06/18(土) 06:24:11
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に流れてるベルモンドの血だけなんだ……』
 そうではない、と言ってほしかった。否定の言葉が聞きたかった。
 もちろん言わせれば諾々とアルカードは命ぜられた通りの言葉を繰り返した。だがそれ
はユリウスの心をますます引き裂くばかりだった。そこに本当の心はなく、教えられた
通りの言葉を真似る鳥と同等の行為だった。ユリウスはますます逆上し、さらに加虐の
行為に手を染め、せめて肉体に所有のしるしを刻みこもうと躍起になった。
 すべてに降り注ぐ月の光だけではなく、その本当の心ごと抱き取ってしまいたかった。
だがそれが不可能なことを、ユリウスはもう見てしまった。遠い過去のあの一瞬に、ユリ
ウスの手は届かない。絶対に。あそこにいるのはただ二人、月とその魂を捧げた恋人だけ、
そして、あの記憶の中に月の心と愛は永遠にしまいこまれている。
 ふいに手首を引き裂き、喉を切り裂いて全身の血を流し出してしまいたい衝動にかられ
た。だがそれはできない。それをしてしまえば、今度こそユリウスはアルカードにとって
一片の価値すらない、ただの塵になる。
 どれほど呪おうと、この血、体内に受け継ぐベルモンドの血脈、あの夜に置き去りにし
た恋人の遠いこだまが、かろうじてユリウスをあの月につなぎとめている糸だ。彼が見て
いるのが血のみ、血と鞭の資格者という自分であって自分でない影でも、手放すことなど
できなかった。考えただけで気が狂いそうだった。

185煌月の鎮魂歌9 22/22:2016/06/18(土) 06:24:51
 ぬけがらの身体をどれだけ痛めつけても、反対にどれだけ甘く愛撫し崇めても、けっし
て彼に届くことはない。アルカードは自分を見ない。誰のことも見てはいない。ただ美し
い光だけを地上にあふれさせながら、遠い天上に冷たく凍りついている。
 頬に熱いものが流れた。喉がつまり、全身がこわばってきつく丸まった。
 もはやいつだったかも正確には思い出せないあの日、母の死体が狂人の足の下で踏みに
じられていた時にさえ出なかったものが、顎をつたって滴った。
 ベッドの上できつく膝をかかえ、無力な少年のように、ユリウスは声を立てずにむせび
泣いた。

186煌月の鎮魂歌9後半 1/24:2016/07/31(日) 20:15:19
            3

 ボウルガード夫人に車椅子を押され、自室へ戻る最中、ラファエルは一言も口をきか
なかった。
 少年の青い瞳は嵐の色に染まり、心臓では炎が荒れ狂っていた。地獄にひとしい炎
だった。彼は父親を呪い、義兄──とも呼びたくはないが、汚らわしいとはいえ血の
つながりは否定できない──を呪い、何よりも、ぴくりともしない自分の足を心底
呪った。なめらかに動く車椅子の感触さえ、怒りをかき立てた。こんながらくたでさえ
すらすらと床の上を動くことができるのに、どうして自分の足は指先ひとつ上げること
が許されないのだろう?
 ようやく自室へたどり着き、ボウルガード夫人に支えられてベッドに身を投げて、
出て行けと身振りをする。枕に頭を埋め、今にも噴出しようとする叫び声を押さえ
つけた。今はただ、ただひとりで怒りをかみしめ、その苦さと熱さに存分に身を焼き
たい。他人に苦悩を覗かせるのは誇りあるベルモンドの者のすることではない。ベル
モンドの者はひとり、ただひとり、常に人間と世界の守護者として立つことを要求
される。誇り高いベルモンドの男として、ベルモンドの……
 食いしばった歯から、耐えきれずにすすり泣きが漏れた。もう自分にはそんな資格は
ないのだ。鞭の使い手としての地位はあの野良犬に奪われてしまった。ベルモンドの
当主としての地位はあるにせよ、それがどうしたというのだろう。
 聖鞭を使い、きたるべき最終闘争において〈彼〉の隣に立つこと、それこそが、
累代のベルモンドの悲願であり、夢だった。
 自分がその代にあたることを知ったときの喜びを思う。自分ではなく、息子がアル
カードの隣に立つことを知った父の、複雑な思いをこめた視線を心地よく感じたことを。
『ベルモンドの者は誰もが一度は彼に恋をする』。だが、その恋がかなえられないこと
はみな知っている。それにもっとも近いのが唯一、彼とともに戦うこと、聖鞭ヴァンパ
イア・ハンターの使い手として認められることなのだ。

187煌月の鎮魂歌9後半 2/24:2016/07/31(日) 20:16:09
 ひょっとして父は、かなえられなかった自らの想いをとげる息子を邪魔するために、
あの野蛮な野良犬を生みだし送り込んできたのではないかという疑念すらわいた。
そんなことはありえないのがわかっていたが、思わずにはいられなかった。
 なぜ? なぜ、ようやく彼の隣で戦えると約束されたのに、それをあんな汚らしい
混血に奪われなければならないのだ? それも、尊敬できるような相手ならまだしも、
こともあろうにアルカードを公然と雌犬呼ばわりし、蹂躙してやまない輩に? ベル
モンドの至宝を泥にまみれさせ、娼婦扱いして恥じもしない屑が、なぜ聖鞭の使い手に
なれるというのだ?
 アルカードは間違っている、とラファエルは思った。
 あいつがベルモンドのはずがない。たとえその血をひいていたとしても、聖鞭が
あんな男を認めるはずがない。アルカードはあの男を連れてきたりすべきではなかった。
いくら最終闘争の時がせまっていようと、あんな男に身を任せてまで、聖鞭の使い手を
用意する意味などあるのだろうか。
 魔王が降臨すれば世界は闇に包まれる。わかっている。だがいま、ラファエルの頭に
あるのは、しいたげられ逍然とうなだれるアルカードと、その上に仁王立ちになって
悪魔の笑いを浮かべるあの男だった。滅ぼされるべきは魔王ではなく、あいつだ、と
ラファエルは思った。
「死んでしまえ」
 ラファエルは呟いた。小さく、ごく小さく、枕に顔を埋めて呟いた言葉だったが、
そこに込められた憎しみと殺意はナイフのように鋭かった。
「死んでしまえ。あいつなんか死んでしまえばいい。あいつに世界なんて救えるもんか。
聖鞭なんて、あいつにはふさわしくない。世界なんて知るもんか。アルカードが不幸に
なる世界なら、みんな滅びてしまえばいい……」

188煌月の鎮魂歌9後半 3/24:2016/07/31(日) 20:16:54
「お苦しいのですね。ラファエル様」
 低い声がした。
 ラファエルはぎょっとして、身体が動くかぎり身をそらし、部屋の隅を振り向いた。
 そこに、ボウルガード夫人がいた。いつものように黒いドレスで、白髪をかたくひっ
つめにし、棒のようにまっすぐに身体を立てている。とうの昔に出て行ったものと思っ
ていたラファエルは、いまの姿を彼女に見られたと知り、猛烈な怒りと恥ずかしさに襲
われた。
「なぜここにいる」
 にじんだ涙を急いでぬぐい、ラファエルは当主としての口調ではげしく言った。
「僕は出て行けと命じたはずだぞ。なぜまだここにいる? 用があればベルで呼ぶ。
さっさと行け」
「わたくしにはよくわかります。ラファエル様の怒りが。お苦しみが」
 ボウルガード夫人はすべるように近づいてきた。ベッドサイドのライトに皺深い顔と、
奇妙な熱を帯びて燃えるような両目が照らし出された。うすく口紅を塗った唇はほとんど
見えないほどかたく引き締められ、表情はなかった。すべての感情と動きは、ただ熱に
浮かされたようにぎらつく両の目にしか存在していなかった。
「あのような男をベルモンド家に引き入れるべきではございませんでした。ミカエル様は
あやまちをおかされました。ラファエル様という立派な跡継ぎがおありなのに、どこの
誰とも知らぬ相手と、あのような汚らしいものを」
「父上は立派なお方だ」
 反射的にラファエルは言ったが、ボウルガード夫人の紙のこすれるようなささやき声は
影のように彼の心にすべりこんできた。そうだ、父は、あんな子供を作るべきでは
なかった。ベルモンドの血は常に、誇り高く育てられた正統の血でのみ受け継がれて
きた。それを、あのような雑種が受け継ぐなど、あってはならないことだ……

189煌月の鎮魂歌9後半 4/24:2016/07/31(日) 20:17:32
「あのような男がベルモンドとして認められるなど、あってはならないことです」
 いつのまにかボウルガード夫人はベッドの縁に腰掛け、骨ばった手でそっとラファエル
を抱いて髪を撫でていた。めったに個人的な感情を表さない彼女としては異常と言って
いい態度だったが、自分の苦悩と痛みに沈み込んでいたラファエルは気づかなかった。
ただ、髪を撫でる手をここちよく感じ、自らの秘めた思いを形にしてくれる低いささやき
声に、夢見るように耳をかたむけていた。
「間違いは正されなくてはなりません。ベルモンドの正統はラファエル様であり、あの
ような雑種ではありえません。汚らわしい血は、排除しなくてはならないのです」
「排除……」
 なかば夢うつつでラファエルは繰り返した。何を口にしているかはほとんど意識して
いなかった。やさしく髪を撫でる手は、そのまま彼の傷ついた心を愛撫する手だった。
「排除する……あいつを……でも、聖鞭の使い手は──」
「聖鞭の使い手はあなたです、ラファエル様」
 きっぱりとボウルガード夫人は言った。ラファエルの髪をすく手はどこまでも優しく、
子供を眠りにいざなう母の手を思わせた。
「ほかに、誰がいるというのでしょう。ラファエル様はミカエル様の正統のお子、あの
ような雑種と比べものになどなりはしません。アルカード様をお救いし、そのお心を手に
入れるのは、ラファエル様、あなた様しかおられません。アルカード様をあのような男の
手に預けておいて、ラファエル様、あなたは平気でいらっしゃるのですか」
「そんなわけがないだろう!」
 一瞬猛烈な怒りにかられてラファエルは叫び、起き直りかけたが、ボウルガード夫人の
あくまでもおだやかな愛撫に導かれて、ふたたびうっとりと身を横たえた。今ではボウル
ガード夫人は黒いショールですっぽりとラファエルを包み込み、赤ん坊でも抱くように両
手を回して、やさしく揺さぶっていた。

190煌月の鎮魂歌9後半 5/24:2016/07/31(日) 20:18:04
「あの男を排除しなければならないのですよ、ラファエル様」
「排除……あいつを……」
 ぼんやりとラファエルは繰り返した。
「そして取り戻すのです、あなたの当然の権利を。聖鞭とアルカード様を。あなたが世界
のすべてと引き替えても手に入れたいあの方を、雑種の汚らしい手からお救いするの
です。あなたならそれがおできになります、ラファエル様」
「でも、足が」
 わずかに苦痛の記憶を思い出して、ラファエルは身じろぎした。羽毛布団の上に力なく
投げ出されたままの萎えた両足。
「僕の足は動かない。この足では、アルカードの役には……」
「動きます。あなた様さえ、その気になられれば」
 ぐずる子供をあやすように、頬をくっつけてボウルガード夫人はささやいた。筋肉が
落ちて細くなった足を、いとおしむようにそっとさする。
「お信じなさいませ。あなた様こそベルモンドの正統の当主にして、聖鞭の主。アルカ
ード様の隣に立つ者。それを、あのような下賤の雑種になど、奪われてよいはずがあり
ません」
「正統の……当主」
 ラファエルは呟いた。傷ついた心に、その言葉は恵みの雨のように染み込んでいった。
 むろん、これまでずっとラファエルはベルモンドの男として丁重な扱いを受けてきた。
父が死に、当主の座を受け継いでからは特にそうだった。
 だが、半身不随の身となり、聖鞭の使い手としてはもはや使い物にならないと判定され
たとき、周囲の、そして誰よりもラファエルの中で、さまざまなことが微妙に変化した。
 もはやラファエルは絶対の自信をもってベルモンドの当主であると言えない自分を発見
した。周囲は変わらずラファエルをベルモンドの当主とし、そのように扱うが、そこに哀
れみと、腫れ物にさわるようなおずおずとした遠慮を、鋭敏な少年の感性は感じ取らずに
はいなかった。

191煌月の鎮魂歌9後半 6/24:2016/07/31(日) 20:18:46
 年端もいかない少年が半身の自由を失う。それは確かに悲劇であったろう。だが、もし
彼がベルモンドの人間でなく、聖鞭の使い手として定められておらず、アルカードととも
に戦う運命を将来に見据えていなければ、彼の痛手はこれほどまでに深く食い入ることは
なかった。
 累代のベルモンドの当主たちが使った聖鞭ヴァンパイア・ハンターを取り上げられ、
それを存在すら知らなかった異腹の兄──唾棄すべき路傍の野良犬──に奪われた衝撃
は、ただでさえ身体の自由を失った少年の心を、さらに深くえぐった。
 ユリウスがストリート・ギャングの育ちではなく、もっと普通の育ち方をした人間で
あれば違っただろうか。いや、そうではない。ユリウスの傍若無人ぶりはよりいっそう
彼に対する怒りと憎悪をあおり立てはしたが、たとえユリウスが今のような相手でなく
とも、ラファエルは彼を憎んだろう。
 なによりも欲するアルカードの隣に立つ権利、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
いう資格こそ、ラファエルの求めるものだった。ベルモンドの当主という肩書きは、
その前ではほとんど意味を持たない。
 アルカードを手に入れる、誰よりも彼に近いものとなる、それこそがラファエルの、
そしてこれまでのベルモンドたちが願い続け、かなえられなかった夢だった。その夢が
すぐ手の届くところまできていたというのに、奪われた。卑しい雑種、戦士の誇りも
矜持もかけらも持たない、あの至高の存在を雌犬呼ばわりして得々としている下劣な
男によって。
「……許さない」
 ラファエルが発したのか、それともボウルガード夫人が呟いたのか、判然としない
呟きが漏れた。
「許さない……許さない。あの男を許さない。ヴァンパイア・キラーは渡さない……
アルカードには触れさせない。あいつなんか死ねばいい。死んでしまえ。死んでしまえ。
死んでしまえ」
『死ね』

192煌月の鎮魂歌9後半 7/24:2016/07/31(日) 20:19:26
 もはやどちらとも判別しがたい声がそろって言った。
 そのまま、部屋は沈黙にひたされた。ベッドサイドのランプが不安げに踊り、抱き
合ったまま動かない老女と少年の影を、異様に大きく拡大して壁に投げた。 


「まったく、ボウルガード夫人はどうしちゃったのかしら」
 不機嫌にイリーナが指を鳴らした。そばで白い虎猫が、同意するように桃色の口を
あけて小さく鳴いた。
「彼女がこんなに長いこと姿を見せないなんて。せっかく彼女のお茶がまた飲めると
思ってたのに、これじゃ起きたかいがないわ」
「きっとラファエルの世話で忙しいんですよ。それとも、あの女妖魔のことの後始末で
走り回っているか」
 穏やかに崇光は応じ、ポットを手に小さくなっているメイドに励ますようにうなずき
かけた。彼女はおずおずと微笑み、丁寧な手つきでカップに澄んだ茶を注いだ。
「ありがとう。ほら、飲んでごらんなさい、イリーナ、ボウルガード夫人のお茶とくら
べてもなかなかのものですよ。あとで、僕が日本から持ってきた緑茶を淹れてあげます
から、ご機嫌をなおしてください、お姫様」
 イリーナは運ばれてきたソーサーをむくれた顔で受け取り、ひとくちすすって、まあ
そう悪くはないわね、と不承不承呟き、縮みあがっていたメイドの胸をなでおろさせた。
 ニュイ女伯爵と名乗る女妖の襲来から、はじめての午後のお茶会だった。ようやく
ベッドを離れられるようになるが早いか、イリーナはさっそく一同に招集をかけ、待ち
望んだいつものサンルームでのお茶の集いを再会したのだ。
 とはいえ、まだ長い間座っていられるほど体力は戻っておらず、イリーナはいつもの
女王然とした大きな肘掛け椅子ではなく、いつもはユリウスが占めていたゴブラン織を
張った猫足の長椅子に横たわっている。しかし小さくとも女王はあくまでも女王であり、
泡のようなレースとリボンと幾重ものドレープとオーバースカートに飾られた彼女は、
人型をした豪華な花束を横たえたように堂々としていた。

193煌月の鎮魂歌9後半 8/24:2016/07/31(日) 20:20:04
「あんな大物を送り込んできたっていうことは、相手もかなりせっぱつまっていると見て
いいのよね」
 イリーナはソーサーを支えたまま器用に姿勢を変え、寝転がった長椅子をさらに優雅に
かつ装飾的に占領した。肘掛けのところに腹這いになっていた虎猫が位置を変えて
背もたれの上に移動し、バーディが赤い羽毛を散らして女主人の肩にとまる。サファイア
色の小蛇はいつものように少女の細い手首でうつらうつらしており、口の開いたポシェ
ットから、小さな亀のとがった口が、お茶菓子のかけらを待って辛抱強く覗いている。
「いまは五月。あとほとんど一ヶ月しかないわ、ユリウスがヴァンパイア・キラーの使い
手として仕上がるまで。大丈夫なの、スーコゥ? 彼、ちゃんとできる?」
 まるで幼稚園の子供のことでも言っているような言いぐさだ。
 いつもの場所を奪われ、かといって女王のお気に入りであるところの肘掛け椅子に座る
ことも許されず、じゅうぶん快適ではあるがいささか見劣りのする一人がけのソファに
追いやられていたユリウスは、仏頂面でただ黙っていた。
 以前の彼ならば憎まれ口のひとつも叩いただろう。だが、あの地下の至聖所で眠るアル
カードを見、自らの真の心をつきつけられて以来、胸の奥にどうやっても解けない冷たい
塊が居座り、動かすことができなかった。
 アルカードの姿はない。もともと、この昼の光あふれるサンルームには姿を現すことが
あまりないのだが、あの地の底で眠る姿を見て以来、ユリウスはまだ彼を一度も見ていな
かった。
 主治医である崇光がリラックスした様子で茶碗を傾けているということは、もう側に
ついていなければならないほどの状態は脱したと考えていいのだろうが、それでも苛立
たしいような、それでいて恐ろしいような、不快な感じが腹の底に横たわる。
 今すぐ会いたい。会って無事を確かめたい。しかしいざ会ったとしても、何を言い、
どんな態度をとっていいのか、それがわからない。

194煌月の鎮魂歌9後半 9/24:2016/07/31(日) 20:20:44
 少し前までは怒りと焦燥とともにあって簡単明瞭だったことが、あの一夜以来、焦げる
ような感情と苦痛は倍加したのに、まるで暗い霧の底に沈んでしまったように思える。
覗きこめば覗きこむほど混迷に引きずり込まれ、とるべき道もわからず立ちすくむしか
なくなるのだ。
 それをつきつけた当人である崇光はいつもの穏和な仮面をまたかぶりなおし──今では
ユリウスも、その柔和な微笑が本来の鋭利で冷徹な知性を覆い隠すためのものだと知って
いる──少し困ったような顔で、イリーナにサンドイッチとスコーンを盛った皿を回して
いる。
「まあ、技術的にはそこそこちゃんとしていますね。アルカードもそれは認めています
し」
 こちらも、反対側の隅でふてくされているユリウスなどいないかのような調子で答えた。
「ニュイ女伯爵の件は、被害もありましたが、使い手としての彼の資質を試す試金石と
しては充分すぎるほどでしたよ。尋常の能力では、あの妖女との戦いで生き残ることは
できませんでした。ただ問題は、鞭に宿る英霊が彼を認めるかどうかですがね」
「英霊ってのはなんだ」
 無視されつづけていることについに我慢できなくなり、ユリウスはかみつくように口
をはさんだ。二人はいっせいにユリウスを見た。まるで、なんだおまえそこにいたのか
とでも言いたげな目つきだった。
「英霊というのは、これまで聖鞭を握ってきたベルモンドの歴代使い手の魂ですよ。
その記憶、というべきでしょうかね」
 崇光が説明した。
「ヴァンパイア・キラーの使い手は、単に技量に優れているだけでなれるというものでは
ありません。最終段階として、実際にヴァンパイア・キラーそのものを手にし、そこに
宿った歴代の使い手たちに認められる必要があるのです」

195煌月の鎮魂歌9後半 10/24:2016/07/31(日) 20:21:20
「それじゃ、俺はたぶん不合格だな」
 そっけなくユリウスは吐き捨て、足を投げ出して腕を組んだ。
「どうせ、野良犬育ちの小汚い雑種だからな、俺は。お高くとまったベルモンドの英雄
様方が、そこらへんの雑種なんぞを認めるはずがない。残念だったな、当てが外れて」
「血統の純粋さは問題ではありません。問われるのは、心の有りようです」
 静かに崇光は言った。
「聖鞭を振るうのにふさわしい魂の持ち主かどうかは、鞭と、英霊たちが決めることです。
僕たちには推測することさえ許されていません。あなたもですよ、ユリウス」
 見据えた眼鏡の奥の瞳に、彼本来の鋼のような光がうすく宿った。
「アルカードでさえ、鞭の決定に関与することはできないのです。あなたはアルカード
によって鍛えられ、鞭の保持者としてまずは合格と言える力量を身につけた。言えるの
はそこまでです。あとは、鞭の与える試練を乗り越えたあと、あなたがまだ正気でいる
かどうかでわかります」
「正気?」
 いささかぎょっとしてユリウスは問い返した。
「それはどういう意味だ。鞭の試練だって?」
「言葉の通り、試練ですよ。それ以上でも以下でもない」
 崇光は視線をそらし、さめたお茶を飲んで眉をひそめ、自分で新しいのをもう一杯
そそいだ。
「それについて語ることは別に禁じられてはいませんが、それがどんなものかは、受け
たもの以外知ることができません。試練をくぐって鞭の所持者となった者は試練につい
ては口を開かず、なれなかったものは永久に言葉を失うからです。まあ、廃人になった
ところで、生活はきちんとベルモンド家と〈組織〉が保証しますから心配することは
ありませんがね」

196煌月の鎮魂歌9後半 11/24:2016/07/31(日) 20:21:58
「廃人?」
「何人かはいたのよ。ベルモンド家でも、それ以外の血統でも。聖鞭を奪って自分が頂点
に立ち、〈組織〉と権力を手に入れようとする人間が」
 返事ができずにいるユリウスに、退屈そうにイリーナは言った。
「でも、例外なしにそういう輩は鞭に拒否され、手厳しいしっぺ返しを受けたわ。運が
よくて即死、悪ければ心神喪失、発狂、廃人」
 頭をこすりつけてくる虎猫に目を細め、サンドイッチのピクルスを亀の口に放り込んで
やりながら、なんでもないことのように続ける。さっそくぱくりとのみこんだ亀はすっぱ
さに驚いたようににゅっと首を伸ばし、しゅっとハンドバッグにひっこんだ。
「ベルモンド家の家長が代々聖鞭の使い手をつとめてきたのは単に血統だけの問題じゃな
いのよ。ベルモンド家の者として厳しい教育と訓練に耐え抜いた者だけが、試練を通過で
きる強靱な精神を持ちうる確率が高いから。それだって、単に確率が高いというだけ。百
パーセントじゃないの。
 過去には、ベルモンドの正統の長子であっても、試練に耐えられなくて死んだり狂った
りした人間の記録がいくつも残ってる。あなたがどちらになるかはあなた次第ね、ユリウス」
 一瞬、ユリウスは二人の言葉の中に悪意や中傷、脅しの響きをさぐろうとした。だが、
そんなものはどこにもなかった。二人はたんに事実を述べているだけであり、ユリウスが
これから直面しなければならないことに対して、多少の情報を与えているだけなのだ。
「まあ、あなたが合格することを期待していますよ」
 崇光は言った。

197煌月の鎮魂歌9後半 12/24:2016/07/31(日) 20:22:35
「むしろ、祈っているといってもいいですね。あなたが倒れれば、もうほかに鞭の使い手
になれる者はいない。今からまた探し直して訓練する時間もない。あなたが廃人になって
戻ってくれば、それでこの世は終わり。魔王の侵攻は止められず、世界は闇のものとなる
でしょう。なにしろあと一ヶ月、それだけしか時間はないのですから」
 明日の天気のことでも話すような淡々とした口調だった。多少哀れんでいるような響き
すらあった。ユリウスは両膝に手をつき、渡されたまま手をつけていない茶碗の底に目を
落とした。さめた紅茶の表面に、自分のやせた厳しい顔が見えた。まるで他人のもののよ
うだった。


「アルカード?」
 がむしゃらな鍛錬をひとりで終えて自室に戻ってきたユリウスは、予想もしなかった
人物の影を扉の前に見つけて動揺した。
 アルカードは静かに顔をあげた。
 いつもの大きすぎる白いシャツに、細身のスパッツと古風な革靴を身につけている。
輝く銀髪は廊下の薄明かりの中でも自ら光を放つように見え、光輪にふちどられた白い
顔は以前と変わらず平静で、なんの感情もうかべていなかった。
「ようやく崇光に出歩く許可をもらった」
 低くやわらかい声がユリウスの耳朶を擽った。背筋に快い震えが走り、ユリウスは
なぜかその場で背を向けてあとも見ず逃げ出したくなった。
「鍛錬の相手ができなくてすまなかった。だが、見たところ確実に腕は上がっている
ようだ。おそらくニュイ女伯爵と戦ったときよりもはるかに強くなっている。私が
教えるべきことも、もうさしてないようだな」

198煌月の鎮魂歌9後半 13/24:2016/07/31(日) 20:23:13
「何をしにきた」
 恐ろしく間の抜けた質問をした、と気づいたのは言葉が口から出てしまってからあと
のことだった。アルカードはけげんそうに目を細め、首をかしげた。細い眉のあいだに
わずかにしわが寄った。
「私はお前の雌犬なのだろう?」
 その単語がアルカードの口から出ることがひどく奇妙だった。なんの怒りも嫌悪も
なく、ただの一単語として発されるのはなおさら。何度も自分で口にし、嵐のような
情事の最中にも強いて叫ばせたにもかかわらず、ユリウスはひどく動揺した。 
「ユリウス?」
 アルカードは扉の前で待っている。
 ユリウスは白く輝く影から無理やり視線をひきはがし、大股に歩いて扉の前まで行く
と、乱暴にアルカードをおしのけた。触れた腰の細さがはっきりと手のひらに感じられ、
指がひきつるように思った。いったいこれほど脆そうな美しいものに、なぜあんな扱い
ができたのだろう。
「ユリウス」
 扉をあけて自分だけが入り、そのまま閉めようとするユリウスに、アルカードは
あわてたようにしがみついてきた。
「何を怒っている? 来られなかったのはすまなかった。崇光がなかなか地下から出る
許可をくれなかったのだ。一昨日にはもう起きられていたのに、崇光があくまでもう
しばらく休養しろと言い張って。けれどもお前との約束があるから、あまりに長く閉じ
こもっていることはできないと思ったのだ。だから」
「もういい」
 振り返りたくなるのをこらえるのには相当な意志力が必要だった。アルカードの指が、
迷子の子供のように袖をつかんで離れない。振り払って突き放し、扉をしめてしまえば
それですむ話だと考えながら、どうしてもそれができない。

199煌月の鎮魂歌9後半 14/24:2016/07/31(日) 20:24:10
「……ユリウス?」
「もういいと言ったんだ」
 歯ぎしりのようにユリウスはようやく言葉を絞り出した。
「もうここには来なくていい。勝手に自分の部屋へ行って寝ろ。俺は一人で寝る。訓練
で疲れてるんだ。ほっといてくれ」
「ユリウス」
 袖をつかむ手にぎゅっと力がこもった。
「どうして怒っているのだ? 約束を守れなくて悪かった。それは何度でも謝る。あそこ
まで消耗するとは、自分でも予想できなかった。だがもう大丈夫だ。私は耐えられるし、
お前との約束だ。いらないというのなら、理由を教えてくれ。ユリウス」
「飽きたんだよ」
 言葉は苦い薬をなめたように舌を刺した。自分の一言一言が自らの胸をえぐっていくの
を感じながら、ユリウスは懸命に部屋の奥に目を据えつづけた。振り返ってしまえばたち
まち意志は崩れて、無我夢中ですがりついてしまうことがわかりきっていた。
「あんたに飽きた、それだけだ。理由なんかほかに要るのか? あんたには山ほど大事に
してくれる相手かいるんだろう、そっちへ行って世話をしてもらえ。もうたくさんだ。俺
は一人になりたいんだ。もうあんたなんかうんざりだ、さっさとどこへでも行ってしまえ」
 袖をつかんでいた手がゆるみ、力なくすべり落ちた。
 そのまま扉をくぐれ、とユリウスは自分に命じた。すがりつく手を振り払って力まかせ
に扉を閉め、まぼろしの月と自分を、永遠にへだててしまうのだ。
 けれども、できなかった。手が離れるのに引かれるようにして、ユリウスは振り返って
しまった。
 アルカードは両手をだらりと垂らし、なすすべのない子供のようにただ立っていた。
ほとんど表情を表さない彼が、いまは行き場をなくしてとほうに暮れた少年の顔をしていた。

200煌月の鎮魂歌9後半 15/24:2016/07/31(日) 20:24:58
「ユリウス」
 アルカードは言った。
「私は人が本心からその言葉を言っているかどうかくらい判別できる。お前はなにかに怒
っている。愛想をつかしてもいる。けれどもそれは私にではない。では、いったい何なの
だ? 私にはそれがわからない。私に飽きたのでないなら、どうして帰れなどという? 
本当にここにいてもらいたくないというのなら帰る。だが、お前の心はそれを望んでいな
い。いったい、私はどうしたらいい?」
 進退窮まってユリウスは戸口に立ちつくした。            
 アルカードは青く冴える瞳をまっすぐに向けて、ユリウスの返事を待っている。この
月の前では偽りも虚勢も通用しないのだ、とユリウスは思った。青と黄金に映える彼の
瞳は、望むと望まないにかかわらず、真の心と思いを読みとってしまう。
 ユリウスは唇をかみしめ、ぐいとアルカードの手首をつかんだ。自分がためらって
しまわないうちに一気に部屋にひきずりこみ、扉を閉める。引っ張り込んだ勢いのまま、
ベッドの上に放り投げるように投げ出した。手もなく倒れたアルカードが身を起こし、
命令を待つように乱れた髪の頭をあげる。
 ユリウスはそのまま、どっかとアルカードの隣に腰をおろした。
 いつものように奉仕を強制されるものと思っていたらしいアルカードは、またけげん
そうに首をかしげ、動きを止めた。
 ユリウスは言った。
「鞭の試練の話を崇光から聞いた」
 かすかにアルカードの頬がひきつった。ユリウスは続けた。
「死か廃人の危険があると、言われた」
 アルカードは口を結んで視線をそらしている。こわばった肩がそれとわからないほど
震えていた。
「俺は、どっちになると思う。死人か、よだれを垂らした生きた屍か」
 アルカードはかなり長い間黙っていた。ユリウスは彼の性にこれまでなかったことだが、
返事が来るまで辛抱強く待ち続けた。

201煌月の鎮魂歌9後半 16/24:2016/07/31(日) 20:25:42
「……どちらにも、ならない」
 息の詰まるような沈黙を、アルカードがようやく破った。
「お前は試練を乗り越える。お前は生きて戻り、聖鞭の所持者として戦う。私とともに」
「なぜわかる?」
 あざけるような口調になるのを抑えられなかった。崇光の冷ややかな目と声、お前は
けっしてアルカードの目に本当に映ることはないと告げられたあの言葉が脳裏で皮肉に
唸った。
「俺があんたにどういう扱いをしてるかはわかってるよな。これまで、どんな生き方を
してきたかも」
 アルカードはうつむいて答えなかった。
「おきれいな英雄様とはほど遠い、ごみ溜め暮らしの野良犬だ。罪のある人間も、ない
人間も、山ほど殺して踏みにじってきた。それでもなんとも思っちゃいなかった。ほしい
ものはなんでも手に入れてきた」
 お前以外は、と心の中でつぶやく。この、人の姿をした月以外は。
「そんな人間でも、鞭とやらは使い手として認めるのか? 俺はベルモンドの血を引い
てるのかもしれないが、私生児で、しかもとんでもない悪党だ。悪魔だって顔をしかめ
るくらいだ。俺は赤い毒蛇と呼ばれてた。覚えてるか。あの街で、あの地下室で」
 横に置かれたアルカードの手を、ユリウスはきつく握りしめた。アルカードが小さく
眉を寄せたほどの強さだった。
「俺があんたにしたことを。まさか忘れちゃいないよな?」
 手の中で白い指がぴくりとする。
 そのまま、この作り物のような手を握りつぶしてしまいたい衝動に駆られる。半吸血鬼
に対してただの人間の力がむろんかなうわけはないのだが。あの暗い地下室でも、アル
カードはいつでもユリウスの首をへし折り、そのまま平然と出てこられたはずだ。四つん
這いになって獣のように犯されなどせずとも、すぐに。
「……私は、知っているからだ」

202煌月の鎮魂歌9後半 17/24:2016/07/31(日) 20:26:27
 また長い沈黙があった。ぽつりと、アルカードが呟いた。
「何をだ?」
「お前の魂」
 アルカードはふいにまともにユリウスを見つめた。
 澄みきった蒼氷の双眸に自分が映るのを見て、ユリウスは自分でも思っていなかった
ほど、はげしく動揺した。
「お前の、真の精神の姿」
 アルカードは言った。
「私は長く生きてきた。人の知らないもの、けっして知ることのないものも、多く見て
きた。お前は鞭にふさわしいものだ、ユリウス。聖鞭はお前を受け入れる」
「ずいぶん自信がありそうだな」
 動揺を抑えてユリウスは吐き捨てた。
「そいつは事実じゃなく、願望ってやつじゃないのかい。俺がダメになればもう鞭の
後継者はいなくなる。あの日本人は言ってたぜ、そうなりゃ世界は終わりだってな。
まあその時には俺は死んでるか狂ってるかだから関係もないだろうが、あんたたちにと
っちゃ、俺が試練とやらに合格して暮れなきゃ困るってわけだ。はたしてそううまく
いくもんかね」
「私はお前を訓練し、お前を読み、お前を知った」
 アルカードは動じなかった。
「私は願望と事実の違いを理解している。私はお前が鞭にふさわしい者だと確信した
からこそこの場に迎え入れたのだ。ベルモンドの血は資格のひとつに過ぎない。聖鞭は
資格者の魂を読む。私は理解する、お前を──」
「──あんたに何がわかる!」
 ついに耐えきれなくなって、ユリウスは叫んだ。
 アルカードがそれとわかるほどぴくりと身をすくませる。
 ユリウスは彼の顔に目を据えた。美しい、美しい、遠い遠い月の顔。

203煌月の鎮魂歌9後半 18/24:2016/07/31(日) 20:27:12
 魂の底まで読みとる力を持ちながら、その実、なにひとつ理解しようとしない。理解
することができないのだ。その視線はつねにあまりにも遠く、はるかな昔しか映すこと
はない。
「……何がわかる」
 力なくユリウスは繰り返し、アルカードの手を離した。
 こわばった指をはがすのには非常な努力を要した。一本一本をはがすごとに、生皮を
はがされるような痛みが胸を突き刺した。
 アルカードは大きく目を見開いたままじっとしている。呆然とした様子で、つかまれ
た腕を無意識にさすっていた。手首に浮いた指の形のあざは急速に薄れてゆき、ユリウ
スが完全に手を離しておろすと同時に、もとどおりの白いしみ一つない肌にもどった。
 酷いやるせなさがユリウスの腹を重くした。
「話をしろ」
 気まずい雰囲気を払うように、ぶっきらぼうにユリウスは言い、長靴を蹴って脱いで
部屋の隅へ放り投げ、ごろりと寝転がった。
「話……」
「このくそいまいましい屋敷ときたらテレビもラジオもありゃしない。なんでもいいから
話でもしろ。ラジオの代わりにゃなるだろう。こっちは疲れてるんだ。どたんばたんやら
かすよりはくだらん話でも聞いてる方が楽だ。好きなことをなんでも話せ。くだらなかろ
うがばかばかしかろうが、多少の退屈まぎらしにはなる」
「……好きな、こと」
 アルカードはよけいとまどったようだった。寝転がったユリウスの隣に自分も寝たほう
がいいのか、それともそのまま座っていたほうがいいのかわからないようで、中途半端な
姿勢で動きを止めている。
「……そう言われても、何を話していいのかわからない」
「あんたは長く生きてるんだろう。四百年だか、五百年だか。そんだけ生きてりゃなにか
話題くらいあるだろうが。まさかずっとここの屋敷にとじこもって生きてきたわけでもあ
るまいに」

204煌月の鎮魂歌9後半 19/24:2016/07/31(日) 20:27:57
 アルカードはうつむき、かすかに頬をこわばらせた。ユリウスはひそかに自分をのの
しった。おそらく、ここで生きてきた間、それ以前に彼が生きていた場所、それらの中で、
語れるような楽しい思い出など数えるほどしかないのだろう。触れて痛みを与えないよう
な記憶は。
「あのなんとかいう女妖魔、あんたを知っていたみたいだったな」
 ほとんど手探りで、ユリウスは話の接ぎ穂を求めて言った。これがアルカードの心を
痛める記憶でないことを祈った。もっとも訊きたいこと──壁にかけられた、あの顔に
傷のある肖像の男──に関することは、けっして触れてはならないのだとわかっていた。
あの金の指輪はまだ、机の引き出しの奥に、厳重に布にくるんでしまわれている。
「ニュイ女伯爵……」
 アルカードは呟き、首を振った。
「……彼女も、……彼女も、昔はあれほどの異形でも、邪悪でもなかった。父の狂気に
巻き込まれて、本来の魂を失ったのだ」
 ユリウスは頭の後ろで手を組み、続けろ、と顎で命じた。アルカードはときおりつっ
かえながら、遠い過去から言葉をすくい上げるように、ゆっくりと話しつづけた。
「私はかつて、父の宮廷で彼女と踊ったことがある。まだ、ほんの少年のころだった。
私を嫌う貴族たちも多かったが、彼女は私にやさしくしてくれた。小さい私を軽々と
振り回し、くるくると広間じゅうを踊り回った。曲が終わって、目を回しかけながら
礼をしようとする私を支えて、すてきなひとときに感謝いたしますわ、小さな公子様、
と微笑んだ。
 ああ、あのとき彼女は綺麗だった。人間の貴婦人の姿をとって、髪に青い鋼玉と緑柱
石の髪飾りをつけていた。広間には精霊たちが明かりのかわりに飛び回っていて、雨の
ようにきらめく髪飾りにまつわりついて遊んでいた。集まった皆は笑いさざめき、上座
に座った父と母は、手を取り合って寄り添っていた。

205煌月の鎮魂歌9後半 20/24:2016/07/31(日) 20:28:37
 母は父の肩に頭をあずけ、父は母の肩を抱いていた。魔王と呼ばれてはいたが、父は
寛大であり、王侯としてふるまうことを心得ていた。宮廷の皆が楽しむことを喜んでいた。
何よりも、それによって母が楽しむことを喜んでいた。父にとって母は唯一であり、母
にとっての父も唯一だった。人間と吸血鬼、ささげられた人間と魔王という関係では
あっても、二人が愛し合っていることは子供の私がいちばんよくわかっていた。私は、
二人の愛が形をとったものだったのだから。
 私は母の膝に座り、父の手に頭を撫でられた。冷たい手だったが、私は幸せだった。父
は私を愛し、母も私を愛してくれているのがわかったからだ。私は父の顔を見上げ、
彼が微笑しているのを見た。今でも覚えている。めったに笑うことのない父だったが、
母がそばにいる時だけは、彼は笑うことができた……」
 はじめのうち、ためらい、途絶えがちだった言葉は、したたり落ちる滴からしだいに
小石のあいだをぬって流れる細流れになり、やがて、とぎれることなく流れる川になり、
夢のように歌いながら記憶の河をたどる大河となった。
 そこではすべての伝説とおとぎ話が現実であり、小さな妖精や魔法の生き物、醜い
小鬼や皮肉っぽい人外の貴族たち、影のように床の上をすべっていく亡霊、霞のような
裳裾をひいて歩き回る妖精の侍女たちが、魔王の影の城の中で優雅に輪舞を踊っていた。
その中心には常に魔王ドラキュラと、その妃、誰からも愛され、誰をも愛した美しい女性
がいた。
 長い年月にうみ果てた魔王の物憂げなまなざしは妻子に目を向けるときだけ生気を
帯び、かつて人間だったころの光をとりもどした。銀色の髪の公子は父の膝によりかかり、
人類は知らず、この先もけっして知ることのないであろう数々の秘密を聞いた。そばには
兄弟のように育った二人の少年がいた。彼らは人間ではあったが、強力な魔力をその身に
宿していた。三人は闇の深奥の秘儀を学んだあと、歓声をあげて城の庭に走り出た。

206煌月の鎮魂歌9後半 21/24:2016/07/31(日) 20:29:17
 そこでは王妃そのひとが、笑顔と、お菓子のたっぷりのった食卓を準備して待っていて
くれた。少年の片方の妹も、ふっくらした頬を上気させて心から崇める貴夫人につき
従っていた。蝶やとんぼの薄い羽根をふるわせる小妖精たちに囲まれて、子供たちは
本当のきょうだいのように食卓を囲んだ。小さな公子は母の胸にもたれ、やさしい笑い
声を聞きながら、蛍のように飛び回る妖精たちの羽根がひく光の筋を見上げた……
 アルカードの声は低く、しだいに、その意識の中からユリウスの存在も、現代という
時代も消えていくようだった。空中に向けられた彼の瞳はほのかな金色を帯びていたが、
戦いの時の燃えるようなそれではなく、夕映えの空を映したようなおだやかな光だった。
 遠い昔に失われ、永遠に破壊されてしまった幸福な時代を、いまひとたびかつての公子
は生きていた。ユリウスは顔を天井に向け、目を閉じた。心地よい清水のように、アル
カードの声が胸に染み渡る。引き込まれるように、いくつかの場面が脳裏によみがえって
きた……
 母が死んでしばらく、頼るもののない自分を世話してくれたのは元どこかの教師だった
とかいうアルコール中毒の老人だった。彼がねぐらにしていた立ち上がれば頭をぶつけそ
うな屋根裏部屋は、床から天井まで古本とごみ屑で埋まっていた。ほとんどは酔って正体
を失っていたが、たまに比較的しらふな時には、教師だったことを思い出すのか、どこか
で雑誌や捨てられた広告を拾ってきて、ユリウスに読み方を教えてくれた。
 彼が泥酔してごみためのような寝床でいびきをかいている深夜、空腹で眠れずにいると
き、たったひとつの逃げ道は読むことだった。積み重なった古本や茶色くなった雑誌や写
真の束から手当たりしだいに引っ張り出し、読める単語を拾い読みした。わからない単語
は読み飛ばすか、前後の意味からだいたいあてはめて読んだ。
 しゃれたドレスを着てポーズをとった美貌のモデルに、うっすらと昔、こんな人がそば
にいたことを思った。しかしすぐにそれは踊る男と血まみれの肉塊の記憶に覆い隠され、
あわててその写真は棚の奥につっこんだ。

207煌月の鎮魂歌9後半 22/24:2016/07/31(日) 20:29:56
 いちばん安全なのは文字だった。古い本の古い文字、いま自分がいるここからは遠く離
れた場所や、別の世界のことを書いた文字がいい。そこにはナイフを持った恐ろしい狂人
はいない。手足をへし折られ、顔もわからないほど踏みつぶされる女の死体もない。
 かろうじて天井に開いた天窓はほこりまみれで、煤煙とやにですりガラスのように
なっていた。それでも月の光は入ってくる。冷たく冴えた満月は、黄色い電球の濁った
光よりずっと清浄でやさしい。
 昼間の熱気は夜になってもさめず、むっとした空気の中にアルコールと吐瀉物と垢の
すっぱい臭いが入り交じる中で、小さい赤毛の子供は無心に本の中の別世界にもぐり
こんだ。雄々しい英雄たちが人喰いの怪物を退治する世界。美しい人々が行き来し、
神話の動物たちが駆け回り、正義が行われ、悪は罰され、よい人間が幸福を得る世界。
外の世界とはあまりにも違う、あまりにも、正しい世界。
 その正義と理想の物語など、たかが夢だと笑い飛ばすことを、いつから覚えてしまった
のだろう。
 ふと目を開くと、アルカードはまだ静かに語りつづけていた。ただ、上体がわずかに
ゆらぎ、ゆっくり前後にふらついている。やはりまだ、体力が戻りきっていないらしい。
長時間座って話し続けて、疲れたのだろう。
 ユリウスは肘をついて身を起こし、アルカードの腕をとった。
 驚いてアルカードは話しやめ、問いかけるような視線を向けた。かまわず、ぐいと引く。
細い身体はかんたんに倒れて、ベッドの上に転がった。
「余計なことは考えるなよ」
 いらぬ気を回される前に、ユリウスは釘を差した。
「俺はあいにく、しゃべりながら居眠りしかかるような奴を抱くような趣味は持ってない
んでね。そのまま黙って寝ろ。じゃなきゃ、自分の部屋へ行って寝ろ。俺はどっちでも
いい」

208煌月の鎮魂歌9後半 23/24:2016/07/31(日) 20:30:36
 アルカードはしばらくベッドに頬を埋めたまま目を丸くしていたが、やがて睫を伏せて、
小さく、ここでいい、と呟いた。
「ここで寝る。ひとりは、……好きではない」
 ユリウスは無言で腕をのばし、アルカードを引き寄せた。
 腕に収まる身体は、驚くほど華奢だった。何度もわしづかみにした肉体がこれほど
か細いことに本当には気づいていなかった自分を、ユリウスはいぶかった。あれほど
夢中でむさぼったのと確かに同じ身体なのに、なんと壊れやすく、小さく感じられる
のだろう。
 柔らかな銀髪が顎の下に触れる。髪は夜と、月の匂いがした。冷たくかすかに苦く、
ハッカのように涼しい。
 ユリウスの胸に頭を寄せたとき、もうアルカードの目は閉じかけていた。長い睫が
頬におり、吐息が首筋をくすぐった時、かすかな記憶の一片が心をかすめ過ぎていくの
をユリウスは感じた。
 疲れと、昔の記憶で呼び起こされた、かつての思い出のかけら。わずかとはいえアル
カードに血を与えたつながりが、アルカードの夢のひときれを運んだのだろう。
 アルカードは誰かの腕に抱かれて眠っていた。太い腕が頭の下に置かれ、たくましい
胸に髪をよせかけている。あたりは暗い森、焚き火が揺れ、馬が蹄を踏み換える音が
する。強く確かな鼓動が聞こえ、熱い体温としみついた革の匂いが、たとえようもない
安心感を運んでくる。

209煌月の鎮魂歌9後半 24/24:2016/07/31(日) 20:31:38
 ユリウスは歯を食いしばり、もう寝息を立てているアルカードをきつく抱きしめた。
 いまお前のそばにいるのは俺だと叫びたかった。遠い昔に死んで埋められた男ではなく、
俺が、お前を抱いているのだと、ゆさぶり起こしてでも知らせたかった。
 しかし、できなかった。ユリウスはかたく目を閉じ、安らかに寝息をたてるアルカード
の髪に頬を当てて、流れ込んできた記憶を塗り消そうと努力した。眠りにつくアルカード
を見下ろすその顔、濃い色の髪、ベルモンド家の特徴をそなえた精悍な顔立ち、深く青い
瞳に、左目をたてにかすめるような傷痕をもった、その男の、愛のこもった微笑を。

210煌月の鎮魂歌10 1/43:2017/08/12(土) 22:43:08
 Ⅴ  1999年 六月

             1

 石畳の上にブーツが音をたてた。
「試練の通過は本人の帰還によってのみなされ、かつ証立てられる」
 この場を取り仕切るのは背筋をまっすぐに立て、青白い刃を目に宿した白馬崇光だった。
円形の競技場を思わせる大広間は寒く、壁際に立って両手を組んでいるイリーナの頬
は青ざめていた。白い息が少女の朱い唇のまわりに靄のように漂っている。
「この試練を無事通過することによって、鞭の所持者の資格は決定され、完全なものとな
る。聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉の主として、ユリウス・ベルモンド、汝は闇と魔から
人の世を守る守護者として立つことを認められる」
 ユリウスは小さく顎をひいてそれに応じた。


 早朝から聖堂に参じて祈祷を受け、聖水と聖餅による浄めを受けた。衣服はいったんす
べて奪われた上で、裸の身体を乳香と没薬で現れ、あらたに十字架の縫い取りのあるマン
トで覆われて御堂を出る。
 ベルモンド家の広大な敷地の中で、この御堂と白い円形競技場は格別の意味を持ってい
た。アルカードが眠る地下の聖堂を陰の心臓とするなら、こちらは陽の心臓だ。めんめん
と伝えられてきた吸血鬼殺しの聖鞭の所持者のしての資格は、この至聖所の中で行われる
試練によってのみ、ためされる。

211煌月の鎮魂歌10 2/43:2017/08/12(土) 22:43:53
 ユリウスは身にぴたりと添うレザーのジャケットとパンツを身につけ、使い慣れたライ
ダーズブーツを履いていた。どこもかしこも白く、神聖な印と古風な荘厳さに飾られた古
来の聖堂では、現代風のその衣装はいかにも場違いだったが、アルカードはなにも言わな
かった。イリーナの隣に立ち、美貌を永遠の輝きの中にかすませて、黙然とユリウスを見
守っている。目にしみるこの大広間の白さの中で、二つの黒い影がユリウスとアルカード
だった。ふたごの影のようにじっと立つアルカードを、ユリウスは見ないようにした。
 先月、ベッドでアルカードに寄り添って眠って以来、会うのはこの場がはじめてだっ
た。あの日以降、ユリウスは部屋に戻らず、夜は外に出てひとり鍛錬に汗を流すか、木立
や青草の上にまるくなって寝んだ。朝になると黙って屋敷に戻り、用意された食事を取っ
て、また黙々と身体を動かす日課に戻った。ベッドはからのまま何日も放置され、もし誰
かが尋ねてきていたとしても、それはユリウスの知るところではなかった。
 アルカードの心は読めない。いつもと同じように。もはや教えることはないと言ったの
は本当なのか、彼は昼間の鍛錬にはもう姿を見せなかったし、ときおり顔を出していたサ
ンルームのお茶会にも現れなくなった。できればユリウスも遠慮したいところだったのだ
が、イリーナがうるさいせいでこれにだけは列席しなくてはならない。
「このごろおとなしいのね、ユリウス」
 小さな女王はお茶のカップを前に、胸元のリボンをひねくりながら上目遣いでユリウス
を見た。
「あなたらしくないと言うべきかしら、それとも、あなたもやっと少しは分別が身につい
たと思うべきなのかしら」
「どっちでもいいさ」
 ユリウスは呟き、食いかけのサンドイッチから抜いたベーコンを白い虎猫に投げた。虎
猫はひょいと空中でつかまえ、旺盛な食欲でかみ砕いた。

212煌月の鎮魂歌10 3/43:2017/08/12(土) 22:44:28
 記憶と夢のあの一夜が、自分にどのような影響を与えたのかはよくわからない。ただ、
あの日の翌朝めざめて、胸を食い荒らしていた怒りと焦燥、心臓を引きちぎる痛みが、嘘
のように消えていたのは事実だった。
 いつ眠り込んだのかもはっきりしない。腕の中で寝息をたてるアルカードのぬくもりと
重みを感じ、あふれ流れる銀色の髪に踊る月光をぼんやり眺めているうちに時間がたって
しまった気もする。気がつくとすでにアルカードはおらず、ユリウスは広いベッドに一人
で横たわっていた。
 身を起こすと、かすかな薔薇の香り、そして清水に似た夜の冷気がにおった。奇妙なほ
ど平静な気持ちでユリウスは腕を持ち上げ、そこにひと筋の銀髪が残っているのを見た。
ほとんどなにも考えず、自然にそこに唇を押し当てていた。唇の上で髪は泡雪めいて冷た
く、薫り高かった。
 脳裏であの男の顔、深く濃い青の瞳と左目をかすめる傷跡をもつ男の面影がまたたいた
が、それは苦痛ではなく、淡い哀しみと郷愁に似た念を呼び起こすにとどまった。それは
おそらくユリウス自身のものではなく、昨晩腕の中で眠った者の、心のこだまが痕を残し
たものだと思われた。
 ユリウス自身はといえば、自分でもおどろくほどに平静だった。あるいはあまりに揺さ
ぶられすぎた心が、ついに無感覚に陥っただけなのか。どちらともわからない。いずれに
せよ、生まれてこのかたユリウスを灼いてきた強酸のような憤怒は、月を抱いて眠った一
夜のあいだに、あっけなく解けて流れてうせていた。
 奇妙な寂寥感があった。自分がからっぽになった気がしないでもなかったが、それはい
まだかつてユリウスが慣れたことのない、平安というものによって身体を満たされていた
せいかもしれなかった。

213煌月の鎮魂歌10 3/43:2017/08/12(土) 22:45:09
 むろん、馴染みの怒りが戻ってきて、とがった指ではらわたをつつくこともあった。だ
がその時には、いつでも指に残った銀髪と、そのひやりとした感触がよみがえり、燃えか
けた火はすみやかに凪いだ水面の静謐さに変わった。ユリウスは黙々と身体を動かし、こ
れまでにはなかった静穏さのなかで鞭をふるい、修練用の魔道機を次々と落とした。
 やってみると、これまでいかに怒りと憎悪が感覚を曇らせていたかがわかった。気づい
ていなかった目覆いがふとすべり落ちたかのようだった。派手な身振りは影をひそめ、必
要最低限の動きで鞭を操ることに、ユリウスは慣れた。立ちつくしたまま、わずかな手首
と指のひねりだけで、数十に及ぶ目標を落とすこともわけなくできた。
 ユリウスの目は澄み、赤くぎらついていた毒蛇の目はしだいに、深く青いベルモンド家
の瞳に似通ってきた。血を浴びたような赤毛はそのままだったが、挙動には急速に落ちつ
きと一種の優雅さがそなわり、粗野のかわりに沈黙と思慮がとってかわった。
 崇光でさえ、彼が変わったことを認めずにはいられなかった。神官の視線はあいかわら
ず厳しかったが、それでも日ごとにユリウスを見る視線には考え深い色が宿り、思案げに
指を唇にあてることが増えた。
 ユリウスは気にしなかった。以前──あの月の夜以前──なら、そんな風にうかがわ
れ、力量を取りざたされることにははげしく反発しただろうが、彼にはもう、眠る月と彼
のこぼした記憶のかけらがあった。涼しい薄荷の一片のように、それはいつでも匂やか
に、香り高く彼の胸をなだめた。あるいは薔薇。露を含んだ、清らかな純白の薔薇の花び
ら。
「決戦が近づいています」
 そしてついに、崇光は決断を下した。
「ユリウス・ベルモンドに、聖鞭の所持者の試練を。彼に準備ができていようと、いまい
と、あとのことは鞭自身が決定するでしょう」

214煌月の鎮魂歌10 5/43:2017/08/12(土) 22:45:52
 儀式の場に臨むのは崇光、対象者であるユリウス、イリーナ、そして、闇の公子アル
カード。余人はここに加わることを許されない。本来ならばベルモンドの当主、もしくは
それに準ずる血筋のものが司る儀礼とされていたが、崇光による再三の要請にもかかわら
ず、当主であるラファエルは姿を現さなかった。
 ──ラファエル様はご不調でいらっしゃいます、と代理として出てきたボウルガード夫
人が慇懃に答えた。
 ──お医者様からも無理はおさせしないようにと厳重に申し渡されております。鞭の授
受に関しては、白馬様にご一任せよとの仰せです。
 そうきっぱりと申し渡されてしまうと、崇光にもそれ以上無理強いすることはできなか
った。少年がこの半年間の出来事にいかに傷ついているか、知らぬ崇光ではない。ラファ
エルが同席せずともユリウスの鞭の試練を行うことはでき、また同席したところで、いた
ずらに少年の苦悩を増すことにしかならないのを考えれば、いたしかたのないことではあ
る。列席したところで、ラファエルにできることはなにもないのだ。
 円形の広間はほのかな微光に充たされていた。どこにも光源らしきものはなく、ただ磨
いた壁面や床面から、霧のような光の粒がただよって、空気そのものを輝かせているかに
思える。
 ユリウス、そして列席者一同が入ってきた扉は閉ざされ、内側からはどこにあるかもわ
からない。正面には高い祭壇と、その上にささやかな十字架、そして、鉄の枠のはまった
古びた函があった。函の蓋はひらいていた。ユリウスは黙って立ち、その内部からさす、
他の人間には知覚できない光と霊気を感じた。
「ユリウス・ベルモンド。こちらへ」
 手をあげて崇光が招いた。ユリウスは静かに前に出た。純白の床石がふわりと光る霧を
舞わせた。

215煌月の鎮魂歌10 6/43:2017/08/12(土) 22:46:27
「飲みなさい」
 大ぶりの酒杯が差し出された。重厚な装飾が施された銀製の高坏の中に、濃い紅の液体
が揺れていた。ユリウスは取って飲んだ。渋くてきつい酒精が舌を灼き、喉をしびれさせ
て胃の腑へ下っていった。
「とりなさい」
 酒杯を返して口をぬぐうユリウスから目を離さず、崇光は蓋の開いた函を示した。ここ
まで近づくと、その宝物の放つ力が肌に針で刺すように感じられた。
 凍りついた鋼鉄の塊に近づいたような、あるいは不機嫌にうずくまる猛獣の檻にいれら
れたような。背筋が粟立つ。首筋の毛がひとりでにひきつる。脳をそっと、だがさほど優
しくはなく、指でさぐられた思いがして、ユリウスはふらついた。
 崇光がじっと見つめている。
「……なんでもない」
 ユリウスは顔をぬぐった。知らないうちに汗をかいていた。指先にぬるりとした感触を
覚えて驚き、見てみて、それが脂汗の一滴でしかないのにまた驚いた。むしろ血の一滴で
あったほうが納得したのに。
 喉の奥に酒の渋さがまだ残っている。紅い葡萄酒。キリストの血。
 だが神はここにいない。真の聖性と神の名は別物だと知っている者しかここに入ること
はできない。かかげられた十字架は神のしるしではなく、この象徴のもとに集って闇にあ
らがってきた多くの人々の精神の精髄であり、あがめられているのは強靱な意志と不屈の
生命のみである。
 キリストの司祭ではない崇光が祭司として儀式を進めるのは、宗教的に見るなら奇妙な
ことかもしれないが、闇の最前線に立つものとしては当然だろう。ともに戦い、意志と力
を暗黒にささげる剣となす者が、儀式をとりおこなうのになんの不思議があろうか。
 ユリウスは血に擬した酒を口にし、それが身体で燃えるのを感じた。

216煌月の鎮魂歌10 7/43:2017/08/12(土) 22:47:04
 彼にとって、血とその味に結びつけられる人物は一人しかいない。それはどこともしれ
ない天国に座す神の子ではなく、たった今、この同じ部屋にひっそりと佇んでいる、月の
顔をした闇の公子だ……
「鞭をとりなさい、ユリウス・ベルモンド」
 崇光の声が強さを増した。
「鞭をとり、そして、出会いなさい。あなたの宿命に」
 ユリウスはもう一度大きく息を吸った。
 そして手を伸ばした。すぐ目の前にある祭壇がひどく遠く思えた。空気が粘りけをま
し、自分の腕が伸びていくのがひどく遅く見えた。自分のものではないような手が、函に
ふれ、その内部に眠るものをつかむ。
 それは手の中で一瞬もがくように思えた。触れた瞬間は冷たくてざらついていると感じ
たが、一瞬のち、それは熱くなり、なめらかな絹の手触りになった。手のひらを温かな繻
子の表面がこすると感じて、ユリウスはさらに手を入れ、その、古びた皮の鞭の握りを、
しっかりと掴んだ。
 なにも起こらない──そう思った。
 だが、口を開こうとした次の瞬間、足もとの床が割れた。
 口を開いた暗黒がユリウスを飲み込んだ。白い石が音もなく舞い、立ち上がって周囲か
ら折り重なってきた。崇光とイリーナ、そして、アルカードの姿が上昇し、小さくなっ
て、視界の果てに消え失せた。墜落と失墜の恐ろしい感覚がユリウスを捕らえた。
 ユリウスは叫んだ。だが、声にはならず、なったところで誰も聞いてはいなかった。
 底もなく続く暗黒の陥穽の底へ、ユリウスは墜ちた。

217煌月の鎮魂歌10 8/43:2017/08/12(土) 22:47:39
 儀式が開始されたちょうどそのころ、屋敷の奥で、ボウルガード夫人はそっと寝室の扉
を後ろ手に閉じた。
 衣擦れの音をさせながら進む。窓は閉ざされ、室内には異様な熱気がこもっていた。卵
の腐ったような臭気──硫黄の臭いだ。夫人はしとやかに口を押さえ、ベッドのカーテン
を押しのけて、かがみ込んだ。病の子供を思いやる母のしぐさだった。
「ラファエル様」そっと彼女はささやいた。
「あの野良犬が鞭の試練に挑んでおりますよ」
 低い呻り声が応じた。
「ええ、ええ、さようでございますとも──そのようなこと、許してはおけませんとも。
そうです、ラファエル様をおいて、あの鞭を手にすべき方などおられません。聖鞭を手に
し、アルカード様の隣に立たれるのは、ほかならぬラファエル様であるべきです。でなけ
れば、すべては間違っています」
 またしばらく口をつぐんで、
「そうですね、白馬様はそう思っていらっしゃるようです。最終決戦における鞭の使い手
たる資格があの男にはあると。なんという勘違いでしょう。あのような賤しい私生児に、
鞭が自らを手にすることなど許すはずがございません。アルカード様もお気の毒に。ご自
身のお父君の復活を、本来ならば子として喜び迎えるべきところを、人の操り人形となら
れ、本来ご自身のものたるべき闇の王冠を砕く手伝いをなさるとは」
 細い指が弱々しくシーツを掻いた。ボウルガード夫人は頭を傾けて何かに聞き入るしぐ
さをした。きっちりと結い上げた白髪は微動だにせず、しわの寄った顔にはなにか超越的
な微笑が漂っていた。彼女は布団に手を入れ、そっと少年の指を包んで胸に抱いた。そし
て赤ん坊を抱いて揺するようにかるく揺すった。

218煌月の鎮魂歌10 9/43:2017/08/12(土) 22:48:10
「そうです──なにもかもが間違っているのです、ラファエル様。あなた様こそが聖鞭の
使い手として、アルカード様のおそばに立ち、あの方の心を手にすべきでした。何百年も
前に死んだものではなく。あなた様こそベルモンドの誉れであり、父上ミカエル様でさえ
とげられなかった偉業をなすよう定められたお方でしたのに。
 あの男の手に触れられたことで鞭はあなたを裏切り、ベルモンドの血もあなたを裏切っ
たのです。あのような男、試練どころかベルモンドの名さえ名乗る資格も持たない。あの
者を受け入れることを決めたとき、ベルモンドはあなた様の故郷であることを自ら放棄し
たのです。その資格なきものを、こともあろうにあなた様に替えようとした罪で」
 低かった呼吸が耳障りになった。ざらついた吐息が何事かを叫び、やせ細った腕が引き
つれた。ボウルガード夫人は骨と皮ばかりになった少年の手を頬にあて、口づけ、恋人の
仕草で乳房に押しつけた。
「おお、そう、そう、そう」
 老女はうめいた。濡れた舌がくねり出て、ねっとりと唇をなめた。異様に長く、とがっ
た赤い舌だった。ほとんど顎までも届きそうな舌が唇にひっこむ。白髪が解け、肩から腰
へとなだれ落ちた。ベッドの端に腰をおろした夫人は、身震いして髪の重さを払いのけ
た。
 頭を持ち上げ、満足げに指をなめるその横顔から、しだいにしわが消えていく。まつげ
は濃く黒く、髪もまたつややかに黒く。肌は深海の真珠に似て冷たく青白く、唇はあくま
で赤い。禁欲的な繻子のドレスの下から、肉感的な肩と腰、なまめかしい白い首、脂のの
った太股とゆたかな乳房が、夜の花のように開きだす。
「さようでごさいます。間違ったことは正さねばなりません。あの野良犬が触れた品な
ど、もはや聖なる品でもなんでもない。ラファエル様がおとりになるのは、もっと良いも
のでなければなりません。正しきあなた様の武器を、こちらに」

219煌月の鎮魂歌10 11/43:2017/08/12(土) 22:48:44
 いまや妖艶な女の姿となったかつてのボウルガード夫人は、性の極みにあるかのように
唇を半開きにし、身をくねらせて手をのばした。
 そこに、鞭があった。黒く、沈んだ色の黄金と宝石で飾られており、赤い光がちらちら
とまつわるさまは、その場にありながら地底の炎をまつわらせているかのようだった。握
りに填められた黄色い琥珀が魔物の目のようにまたたいている。
 ラファエルは獣のようにうめいて手をのばした。その手の触れる寸前、女はつと鞭を後
ろへ引いた。
「ああ、いけません、いけません」
 唸り、叫び、首を左右にふってもがく少年に、女は唇を突き出して指を振った。
「これは正しき鞭。あやまった聖鞭を砕くべく作られたあなた様の鞭、ね、でも、これを
おとりになるには、今のままではいけません。いえ、これはあなた様の鞭です、資格だな
んだ、うるさいことは申しませんわ、でもね、ラファエル様、これをお持ちになるには、
たった一つ、せねばならないことがありますわ──」
 開いた唇がみだらに喘ぐ。硫黄の臭いが強まった。少年は叫び、身もだえ、鞭を求めて
悲鳴を上げた。ほとんど言葉になっていないその声にこもった意味を、妖女は正確に理解
した。
「ああ、わかってくださるのね、ラファエル様」
 唇が開き、その肌よりももっと白い、長大な牙がこぼれ出た。
 墓場の臭いが一気に強くなった。
「嬉しいわ」
 女の影がベッドに倒れこんだ。かすかにすすり泣く悲鳴が上がり、ばたばたと手がベッ
ドを打って、やがて力なく垂れさがった。あふれる長い黒髪が夜の滝となってベッドを覆
う。猫が舌を鳴らすのに似たぬれた音。
 そして静寂。

220煌月の鎮魂歌10 11/43:2017/08/12(土) 22:49:21

            2

 はためく時間と記憶のただ中を、まっしぐらにユリウスは落ちていった。
 頭を下にしているのかそれとも足を下にしているのか定かではなかった。そもそも肉体
があるのかどうかさえ判然としない。ユリウスの存在は膨大な記憶と積み重ねられた過去
のなかに解けさり、存在のしるしとしては、ただ観察者としての位置、はためき過ぎてい
く累代の鞭の所持者たちの顔や手や動きを、ちらと認識するだけの無力な通過者でしかな
かった。
 見たことのない男たち……時には女もいる……その誰もがきびしい青い目をし、同じ聖
なる、または呪われた、革の鞭を手にしている……しなる胴体は蛇のようにかれらの運命
に巻きつき、締めつける……たくましい肩や胸、踏みしめた足……はためくコートと切り
裂かれる肌、その上に咲く血の赤い花、目の端をよぎる怪物のおそろしく歪んだ顔貌、よ
じれた手、むきだした牙……血が油のようにゆっくりと滴り、何者かの命数がつきたこと
を告げる……黙然と立ちつくす長身の影……手にはだらりと下がった鞭がある……一瞬、
どこかで記憶を刺激する顔立ちが、同じく遠い記憶の中にあるような、ほっそりした背中
の女と寄り添っているのが見えたが、それもまたすぐに、重なり合う時間の翼のむこうに
はばたいて去ってしまう……
 くるりと場面はまわり、銀髪をなびかせた男が鞭とともに古い呪文を口にし、あたりを
払っている……銀髪……銀髪……胸が苦しいのはなぜだろう……また視界がまわる……
 現れた男はどこか記憶を切りつける痛みをもたらす……声を上げようとするが喉も唇も
存在しない……ちがった、これは〈あの男〉ではない……彼よりも若く、いくぶん穏やか
な目をしている……戸惑ったような……悲しげな? いや……金髪の幼い少女がいる……
四匹の獣たちをつれて……少女はいつのまにか成長して若い娘になる……銀髪……黒衣の
……また舞台がかわる……

221煌月の鎮魂歌10 12/43:2017/08/12(土) 22:49:56
 涙と夜の底で鞭が生まれる瞬間を目にする。若き騎士は夜の王たる吸血鬼に汚されたわ
が身を恋人にささげて武器と化す。喜びと幸福しか知らなかった青年は恋人の生命と魂の
変じた呪わしくも愛おしい武器を抱いて号泣する……
 知覚と、そして手の中の熱だけが存在のすべてだった。回転する過去のまわり舞台の中
心にユリウスはいて、そして果てしなく落ちつづけていた。まわりで過去がはばたき、か
すかな衣擦れとため息に似た音をさせて頭上へと飛び去った。灼けた鉄のように握りが手
のひらに焦げつく。
 自分の名前すらほとんど思い出さなかった。身体と精神のなかを突きぬけていく歴代の
記憶、鞭に眠る累代の使い手たちの意識の前に、ちっぽけな個人の意識などは激流にのま
れる小石のようなものだった。じわじわと熱が広がり、残った意識をも呑み込んでいく。
それは奇妙にもここちよかった。混乱した意識を、あらがいがたい時間が広くなめらかに
撫でていき、個人の意識という突堤をならして、永遠の意識の中に織り込もうとする。
 落下のただ中で、もはや意識されてもいない顔が、微笑を浮かべた──のかもしれな
い。ほとんど唯一となろうとする手の中の灼熱にすべてを明け渡し、感覚をとざそうとし
たその時、ちらりと深く鋭い青の瞳が、意識の中に焼き付いた。
 ユリウスはかっと目を開いた。
 ぐるりと身体が回り、平らな場所に勢いよく放り出された。
 あやうく受け身を取って立ち上がる。どこともしれない広い場所だった。足の下は平ら
だが床の存在は感じられず、ただ足を支える空間だけが、身を置いたその場にのみ出現す
る白い虚空だ。上も周囲も限りなく、ただ無。
 白熱する針がこめかみに燃えている。目も頭もずきずきと痛み、背中はこわばって堅
い。手足はうまく動かず、ともすればひきつって自分では意図しない動きをとろうとす
る。皮膚が針でさされたように感じる。空間に電気がみなぎっているかに思える。
 何かがいる──この奥に。
 ユリウスは鞭を引きつけ、待った。

222煌月の鎮魂歌10 13/43:2017/08/12(土) 22:50:29
 長い一呼吸ののち、白い虚無の奥に、何かが動いた。
 ユリウスは唇をあけ、あえいだ。その相手は大型の獣のように静かに、優雅とさえ言え
る動作でこちらに向かって進んできた。
 古風な長いコートの裾が動きにつれてゆっくりとなびく。肩を少し越えるほどのかたい
茶色の髪、精悍な顔立ちはまさに狼。彫りの深い男性的な顔立ちに、夏空の深みを思わせ
る鮮やかな青のベルモンドの目が光り、その左目をたてに裂くように、灰色を帯びた傷跡
が走っている。そして広くあけた上衣の胸にも、大きな傷跡が。
 男は鞭を手にしていた。ユリウスが手にしているのと寸分たがわぬ、聖鞭〈ヴァンパイ
ア・キラー〉を。
 ユリウスは男の名を知っていた。
 いまだ会ったことはなく、この瞬間までは会うこともなかったが、この世でもっとも憎
む男の名を。


 忘れたと思っていた憤怒がなにもかもを押し流すいきおいで噴出した。
 ちぎらんばかりに鞭をつかみ、雄叫びをほとばしらせて、ユリウスは黙然と立ちつくす
相手に向かって飛びかかっていった。
 化鳥の叫びとともにうち下ろされた鞭はあっさりと片手で跳ね返された。まったく同一
の鞭を手にした男は右の前腕をわずかに振っただけでユリウスの攻撃をしりぞけ、同じ一
動作でユリウス自身へと攻撃を跳ね返らせた。ユリウスは歯をむき出して鞭をひき、大き
く肩を開いて真横から鞭をしなわせた。
 攻撃がかすめた場所には、もはや男はいなかった。空を切った一撃に気づいてユリウス
が身をひるがえす前に、男は彼の背後に移動していた。ほとばしる無音の気合にユリウス
が身をひねった瞬間、とがったブーツの先があばら骨を砕かんばかりに蹴り込まれた。

223煌月の鎮魂歌10 14/43:2017/08/12(土) 22:51:04
 たまらずユリウスは膝を折った。痛打された腎臓が破裂するような激痛を生み、酸い胃
液が勝手にこみあげてきて喉を灼く。傾きかかる身体をののしって頭を振り、つきかけた
腕をよじって肘をつきあげる。
 肘はがっしりした胸をかすめ、相手がわずかに息を吐くのを感じた。勢いをかってわざ
と倒れ込み、転がって敵の下から逃れる。痛みは煮えたぎる感情のあらしにさらされてど
こかへ飛び去った。
 迫る風の音を耳というより肌で感じる。一瞬早く体をさばいたが、攻撃はなおも追いす
がった。胴体に衝撃。息が絞り出され、あばらが軋む。腰から胸に巻きついた鞭が大蛇の
ように締め上げ、肉と骨とを食いちぎろうとしている。勢いに逆らわず、鞭の方向に従っ
て転がった。相手がさらに締め上げるより早く回転して束縛を脱する。鞭の先端がカミソ
リのように肌を傷つけ、血が流れた。白い空間に鮮血が点々と散る。
 両腕をついて跳ねあがる。大きく空中に鞭を舞わせた相手の姿がさかさに見えた。その
濃い青の双眸が胸をつらぬく。左目をかすめる傷跡、彫りの深い厳しい顔立ち。その顔が
どれほど柔らかくなごむか、ユリウスは知っている。
 筋肉の限界まで身をよじって、高く脚を蹴り上げた。同時に手の鞭がうねる。操り手の
錯綜する感情をそのまま映したかのような、絡み合う軌跡が描かれた。一目ではとても見
てとれない複数の打撃が相手の頭上に広がる。姿のない蜘蛛がいっせいに糸を吐いたかの
ような、それぞれが必殺の気をこめた鞭が唸りをあげる。
 打たれようが刺されようがどうでもいい。たとえ心臓をえぐり出されたとしても。
 俺は。 
 お前にだけは。

224煌月の鎮魂歌10 15/43:2017/08/12(土) 22:51:37
 蹴り上げた脚が交差する。
 男は体躯に似合わない軽い動作でつま先を弾き、ひらりと回転して地に降りた。複雑に
交差した鞭の軌道はたちまちほどけ、弾けてユリウスのもとに跳ね返ってきた。自らの放
った攻撃をことごとくそっくりそのまま戻され、ユリウスは声高に呪った。自分自身の技
をさばくのに気を取られたすきに、敵の鋭い攻撃が絡むように這い寄ってくる。
 ユリウスは罵声とともに身を低くし、相手のブーツの足首めがけて這うような蹴りと鞭
の触手をとばした。はためいた相手のコートの裾が下に降りないうちに跳ね起き、血の駆
り立てるままにまた技を繰り出す。赤い髪は逆立ち、まさに毒蛇にふさわしい鎌首をもた
げて乱れ飛んだ。足首を絡まれて、男はわずかに動きを止めた。とたん、一瞬にして百に
もおよぶかと思われる鞭打の波が、身を低くした彼に襲いかかる。
 伏せられていた男の目が光った。──青く。
 何が起こったのか、見て取れるものはいなかったろう。なにか形のない、しかしすさま
じい質量を持つ突風に、ユリウスは吹き飛ばされた。骨がきしみ、砕ける音がした。声を
もらした唇から血のしずくがこぼれ、虚空に赤い筋をひいた。
 手の中の燃える鞭の感触が薄らぎ、遠ざかった。ユリウスの繰り出した攻撃はことごと
く打ち砕かれ、塵となって失せた。男の腕のまわりで聖鞭ヴァンパイア・キラーは生き物
のようにうねり、宙をないだ。鞭のうなりがかすかな残響となって漂った。
 男はまた静かに立ちつくした。すべては一瞬のことであった。
 ユリウスは打ち倒され、鞭も砕かれて、その場に横たわっていた。なすすべもなく。短
い交戦によって骨の髄まで打ちのめされ、敗北を刻みこまれていた。
 敵手はこの空間そのもののように強力で抜かりがなく、情けもなく、ただ冷徹な知性と
戦闘の意志に満ちていた。人間のかなうはずもない相手なのだった。ましてや感情に突き
動かされ、泣き叫ぶ幼児のように飛びかかっていったユリウスでは、とても。

225煌月の鎮魂歌10 16/43:2017/08/12(土) 22:52:14
 喘ぎ、すすり泣きながらユリウスはそれでも立とうとした。とたん、目にもとまらぬ一
撃で脚を払われ、背中をうたれた。手のひらで叩かれたようにその場に押しつぶされ、這
いつくばってもがいた。
 全身が重く、冷たい。きしむ骨の一本一本が音を立てて砕けていくのがわかる。指を離
れた鞭をさぐろうとして指を動かすと、苦痛の花が全身にひらいた。喉の奥から糸を引く
苦鳴がもれる。
 ゆっくりと相手が近づいてくる。必死に反撃の方法をさぐろうとするが、身体はまった
く言うことをきかない。痛みの巣となった脚も腕もだらりと垂れたまま動かず、燃えるよ
うな苦痛だけが存在している。
 男がすぐそばに立った。静謐な存在感と、圧倒的な力の気配だけが感じられる。
 そしてあの目。
 夏空の色をした、あの男の青い目が。
「お──まえ──だけは」
 もがき、ユリウスは呻いた。ざらついた声がやすりとなって喉をこすった。苦い血が舌
をこがし、頬が濡れた。
「お前だけは──許さない……」
 鋭い一撃が肩胛骨の真ん中を打ち、起きあがろうとしたユリウスをふたたび地面に釘付
けにした。
「お前だけだ。あいつはお前しか見ない。お前のことしか考えていない、それなのに、お
まえは──あんたは、あいつを独りにした……」
 しゃべると血が筋をひいてしたたった。落ちた滴は赤く、ぼんやりとにじんでいた。頬
を伝う熱いものを、ユリウスはぬぐわなかった。身も世もなく、彼は泣いていた。マンハ
ッタンの毒蛇が、幼い子供の涙を流して、人目もはばからず泣き崩れていた。

226煌月の鎮魂歌10 17/43:2017/08/12(土) 22:52:50
「あんたしかあいつを温めてやれるものはいない。なのに、なんでそばにいてやらなかっ
た。なんであいつを独りにした。あいつは五百年間ずっと独りだった。あんたのことしか
見ていないのに、あんたはどこにもいない。血の継承なんかくそくらえ。ここにいるべき
なのは、本当は俺じゃなくてあんただったのに。あいつを守ってやれるのは、あんただけ
だったのに、なのに、なんで死んだ」
 かざした拳は床にうちつけられた。「なんでなんだよ」
 また打ち据えられるのかと一瞬思ったが、苦痛はやってこなかった。そのことにユリウ
スはいっそう傷ついた。
 子供じみた理屈で、道理に合わない難詰をならべているのは十分知っている。ユリウス
が求めるのは、罰されることだった。あの銀色の月を、救うことも守ることもできず、そ
の心の空虚を埋めるすべさえもたないまま見つめるしかない自分。あまりに遠いその心に
ふれることすらできず、苛立ちのままに蹂躙することしか知らなかった。
 いつか見た光景が脳裏にまたたく。寝台で眠る男と、そのかたわらに膝をついて身じろ
ぎもしない白い影。わかっていた──この男もまた、ユリウスと同じく、月を抱いて過ご
す永遠を望んだのだと。
 しかし、陽光と夏に属する彼を、闇と冷気の世界へ引き込むことを月は肯んじなかっ
た。離れたのは月のほうだ。魂を捧げた恋人に、身を縛る呪いの円環をきせまいと、ひと
しずくの血を残しただけで姿を消した、敷布に残った薔薇の花弁、赤い涙のあと……
 だが男はあきらめなかった。人が唯一永遠を得られる方法で、いつか目覚めるもののた
めに寄り添うべきものを遺した。自分の血を引き継ぐ子孫。血の中に受け継がれた生命が
必ずまた愛する者を迎えると信じて、力と意志を後の世に送り出した。
 だが彼が考えなかったのは、血の器として生まれたものたちにも心があり、魂があった
ことだ。引き継がれた血はどうしようもなく愛を求め、喪われたものの代わりに自分がな
ることを欲する。どうあがいてもかなえられることのない願い。月が求めているのは遠い
昔に別れた相手だけだというのに。器でしかない自分は本物にはけっしてなれないと知り
つつ、だが、愛することはやめられない。

227煌月の鎮魂歌10 18/43:2017/08/12(土) 22:53:24
 血の呪いというなら、これこそがまさにそうだ。けっして自分を見ない相手を、狂うほ
どに愛しつづける運命を刻まれている。魂を焦がす苦悩は、同時にあまりにも甘美だ。ど
れほど憎もうとしても、かぐわしい月の光にふれればたちまち幸福が全身を満たす。
 だが月を癒すことはだれにもできない。喪われた本当の伴侶以外には。絶望と愛に引き
裂かれながら見つめるものの前で、月は手も届かない高みで輝く。その光で万物を照らし
ながら、自らは、孤独のうちにただ刻々と凍りついていくというのに──
 頭上で相手がゆらりと動いた。
 もはや口もきけず、うなだれたまま涙で頬をぬらしていたユリウスは、今度こそ審判が
下るものと感じ、戦慄にも似た期待に身をこわばらせた。相手は一歩前に進み出、ゆるや
かに身を屈めてきた。濃い茶色のかたい髪が頬をかすめた。
(──、)
 耳に吹き込まれた一言に、ユリウスはまばたいた。
 予想もしない言葉だった。思わず相手を振りあおごうとしたとたん、身体が傾いた。反
射的にもがいて掴まるところを探したが、触れたところから白い床は霧となって虚空にと
け、ミルク色の粒子が渦を巻いた。
 再びユリウスは落ちた。無音の虚無をどこまでも落下していく。自分の赤毛が上方に向
かって吹きなびき、握った鞭もまた何かを求めるかのように遠い空へとのびている。
 小さくなる視界の中心に、あの男がいた。同じ鞭をもち、夏空の青の目をして、読みと
れない表情を血を継ぐものに向けている。
 そのひらいた胸元に、小さく光るものをユリウスは見た。無骨な指先が、いつくしむよ
うに触れている。鎖を通して首から下げられた、きゃしゃな銀色の指輪。まるで月光で─
─彼のあのひやりとする髪をとって編んだかのような、細く美しい指輪。

228煌月の鎮魂歌10 19/43:2017/08/12(土) 22:54:05
「ユリウス?」
 急速に音が戻ってきた。
 ユリウスは目を開き、真っ白な床と、そこに立つ自分のブーツのつま先を見つめた。驚
くほど頭が澄み渡っていた。つい今まで感じていた苦痛は夢の一片として記憶にあるばか
りだった。
 腕は眼前の函の中に伸び、そこに置かれた古びた革鞭の握りをつかんでいる。函のかた
わらには崇光が立ち、油断のない姿勢で手をなかば持ち上げている。強烈な視線がこちら
にむけられているのを感じる。
「ユリウス? どうしました?」
 ユリウスは長い息をついた。
 そしてゆっくりと腕をひき、鞭を函からとった。
 ひどく軽かった。これまで持ったどの鞭よりも軽く、それでいて弱々しいところはまっ
たくない。なめし革で巻かれた握りは手にしっくりと吸いつく。生まれてこの方、この鞭
を手放したことなどないように感じた。はじめから身体の一部だったという気さえする。
編んだ革の先にまで神経が通い、鞭がこすった繻子の布のなめらかさまでも指に触れる。
 それでいて、新たな力が身のうちを駆けめぐっている。先ほどまでは圧迫感としてあっ
た強烈な力と霊気が、血管に流れる血と同様に心臓を出入りし、神経の火花として動いて
いる。
 両手に持って鞭を張ると、小気味いい音がした。軽くしごいて力をくわえる。鞭はしな
って大きな弧を描き、幾重もの円を繰り出して、一瞬にしてまたユリウスのもとにもどっ
た。受け止めたユリウスの手で、鞭は機嫌のいい猫のように温かく身を丸めた。
「鞭は彼を使い手として認めた」
 低い声がした。崇光は振り返った。アルカードが壁際から歩いてきて、ユリウスの前に
立った。あとからイリーナが小走りにやってきて少し離れたところで立ち止まり、鞭を手
にしたユリウスを丸い目をして見た。

229煌月の鎮魂歌10 20/43:2017/08/12(土) 22:54:46
「……そのようですね」
 からになった函と、輪にした鞭を手に黙って立ちつくしているユリウスを崇光はしばら
く見比べていたが、やがて小さく息をついて蓋をとじた。うつむいた顔は表情を消してお
り、そこからは、ユリウスが死ぬことも狂うこともなく、試練に合格したことを喜んでい
るのか苦々しく思っているのかは、見分けられなかった。
 ユリウスはぼんやりと鞭を腰のベルトにつけた。すでにそれは呼吸するのと同様に、ご
く自然な日常のものとなっていた。アルカードは鞭を見つめ、またユリウスを見つめた。
氷青の瞳の奥に金色の光がちらつき、ユリウスはめまいを覚えた。
「よかったわ、ユリウス」
 イリーナがやってきてユリウスの手をとった。
「新しいヴァンパイア・キラーの使い手の誕生ね。どうなるのかと思って気が気じゃなか
ったけど、あなたが無事生き残ったのはうれしいわ。鞭の使い手がいなければ、ドラキュ
ラの打倒は不可能なんですもの」
「……俺はどのくらい眠っていたんだ」
 無意識に指を曲げ延ばししながらユリウスは尋ねた。「眠っていた?」イリーナはけげ
んそうに眉をひそめ、
「眠ってなんかいないわ。あなた、鞭にさわってほんの一瞬固まっただけよ。一秒もなか
ったんじゃないかしら。スーコゥが声をかけたら、すぐ動き出したわ」
 ああ、とユリウスは呻いた。
 あのどこともしれない虚空で相対した男の顔が目の奥にある。鞭に宿る英霊──数多く
のベルモンドの魂がこの鞭にはこもっているはずだが、その中であの男が姿を現したの
は、はたして鞭の意志なのか、それとも──
 ユリウスはアルカードの目を真正面から見た。アルカードはまばたき、それから顔をそ
むけた。珍しいことだった。いつもは、目をそらすのはユリウスの方だというのに。

230煌月の鎮魂歌10 21/43:2017/08/12(土) 22:55:20
 俺はあいつに会った、という言葉が喉まであがってきた。だが唇を開いたとき、声にな
ったのは別のことだった。
「俺は聖鞭の所持者になった」ユリウスは言った。「満足か?」
 アルカードの肩がふるえた。視線をそらしたまま彼は手をあげ、胸元をさぐるような仕
草をした。そこに何もないことに気づき、はっとしてやめる。ユリウスはふたたびめまい
を感じた。あの男が触れていた銀色の細い指輪が浮かんだ。月の色の金属、まるで目の前
の者の髪をとって編んだかのような。
 わけのわからない苛立ちが押し寄せ、ユリウスはブーツを鳴らして背を向けた。崇光は
音をたてずに函をしまい、儀式の道具をもとに戻している。イリーナはなにかしゃべりな
がら後についてきた。ほとんど注意を払わず、ユリウスは扉があったと記憶しているあた
りに歩み寄り、手を伸ばした。記憶と感情が再び平静をとりもどすまで、誰にも会わず、
夢も見ずに眠ってしまいたかった。
 ほとんど継ぎ目の見えない壁面にユリウスが触れようとしたとき、壁の向こうがわか
ら、あわただしい気配が伝わってきた。一歩下がって、すでに肉体の一部となった聖鞭の
柄に手を触れる。イリーナが急に頭をあげ、鼻をつきだして空気をかいだ。魔女の瞳が緑
色に爛々と燃えだした。
『非常事態……大変です……害──……様が』
「なにがあった」
 ユリウスの手の甲を一本の指が押さえた。いつの間にかアルカードがそばにいて、ユリ
ウスが鞭においた手を人差し指で抑えている。彼は頭をかたむけ、扉のむこうに耳を寄せ
た。
「どうしたんです」
 崇光もやってきて、三人をかばうように扉との間に立ちふさがった。
「ここにはだれも近づいてはならないはずです。いったいなんの騒ぎですか? 闇の者の
襲撃ですか?」

231煌月の鎮魂歌10 22/43:2017/08/12(土) 22:55:54
「ラファエル」
 突然、イリーナが言った。三人の青年はぎょっとしたように少女を振り返った。
「何か見えるのですか、イリーナ」
「大きな闇。強力な暗黒の力。どんどん大きくなってる」
 そう呟くと、イリーナは震えはじめた。見開いた両目にみるみる涙がふくれあがる。両
手で口をおおって、震えながら少女はしゃくりあげた。
「ああ、駄目、駄目よ、ラファエル、その手をとっては駄目。でももうあの子に声は届か
ない。誰の声も聞こえない。あの子は行ってしまったわ、闇の奥へ、魂の深淵に潜む夜の
領域へ。誰かあの子を止めて、あの子は、もっとも忌まわしいものとして、自ら生んだ暗
黒の淵に沈もうとしている。彼を救ってあげて」
 崇光が鋭く息を吸った。飛びつかんばかりに壁に手を伸ばした彼を、「待て」とアル
カードが制止した。
「開けるな。聞け」
 崇光はまばたき、頭をもたげて耳をすませるしぐさをした。イリーナは震えてしゃくり
あげている。ユリウスはわれ知らず少女の肩に手を回し、そばに引き寄せていた。自然に
鞭に手が伸びる。ヴァンパイア・キラー。吸血鬼殺しの鞭、闇のものを払う聖なる武器
は、まるで狩猟の予感にわななく猟犬のように感じられた。
「近くにいる。接近している」自然に言葉が漏れた。アルカードがちらりとこちらに視線
を投げた。
「なんということだ」崇光が吐息のように呟いた。
 壁のむこうで重いものの倒れる音が連続した。古くなった果物の潰れる音、あるいは水
を詰めた袋が破裂する音。そうした胸の悪くなる音のあいまに、さらさらという衣擦れの
ような音が混じる。舌なめずりと小さな足音、忍び笑い、そして風を切るなにか細いもの
のたてる音──

232煌月の鎮魂歌10 23/43:2017/08/12(土) 22:56:30
「皆、離れなさい!」
 崇光が叫ぶと同時に、アルカードが彼をかかえて数メートル近く後ろに飛びすさった。
ユリウスも、ほとんど考えることなくイリーナを抱いて同様にしていた。床におり、本能
の訴えるままに少女を腕にかばって身をかがめる。ほとんど時をおかず、壁面にひびが入
った。一瞬、黒い爪のようなものが見えたが、すぐに縦横無尽に飛び交うなにかが、傷一
つない壁をずたずたに引き裂いた。
 破片が崩れ落ちる。イリーナをかばいながら、ユリウスは頭を上げた。破壊された壁の
むこうに、小柄な影が立っている。背後は暗い。濃い血臭と、なまぐさい腐臭が流れ込ん
できた。蒼白い鬼火が明かりの代わりに、点々と闇を照らしている。
「アルカード、見てよ、僕、立てるようになったんだよ」
 無邪気な声がした。彼はゆっくりとがれきを踏み越え、破壊された室内に入ってきた。
 金髪の巻き毛を輝かせ、満面に誇らしげな笑みをたたえた、すらりとした少年。萎えて
骨と皮ばかりだった彼の下肢はまっすぐで強く、こともなげに段差を踏み越えてそのてっ
ぺんに立っている。
 靴先が血しぶきで赤く染まっていた。少年は呆然と見上げるひとびとを見回し、主人然
とほほえんだ。手には宝石で飾られた豪奢な鞭がある。鞭は油を塗られて黒く、無機物に
擬態した爬虫類めいていて、少年の手のうちで悪意のこもったとぐろを巻いていた。
 一目見た瞬間、強烈な嫌悪と反発がユリウスを襲った。それはいま彼が手にしている鞭
の、完全な陰画として作られたものだった。光に対する闇、肯定に対する否定、真実に対
する欺瞞。存在すること自体が聖鞭ヴァンパイア・キラーに対する侮辱であり、使い手に
対する嘲笑だった。
 アルカードの唇がうすく引き締まった。蒼氷色の瞳が色を淡くし、揺らめいて、黄金色
の炎に変わって燃え上がった。
「……ラファエル」
「ラファエル」くいしばった歯から、ユリウスは声を絞りだした。
「なんで、おまえが──」

233煌月の鎮魂歌10 24/43:2017/08/12(土) 22:57:04
 ラファエルの顔がひきつった。
「僕の名を口にするんじゃない、野良犬!」
 絶叫とともに鞭の一撃がとんだ。ユリウスはヴァンパイア・キラーをあげて応えた。二
つの鞭はぶつかり合い、火花を散らして絡み合ったのち、弾けるように双方の所持者のも
とへ戻った。ユリウスはしびれた指をもみ、イリーナをさらに後ろへ押しやった。
「お前なんか、生まれてきたのが間違いだったんだ」
 ゆらゆらと上半身を揺らしながら、ラファエルはまた笑った。彼の萎えていた足はまっ
すぐに立ち、なんでもないことのようにがれきを踏みこえて、凍りつくユリウスたちに近
づこうとしていた。砕けたがれきがこまかい塵になり、煙となって立ちのぼった。血の臭
いがさらに強くなった。崩れたがれきのむこうに、潰れた肉体がいくつも散らばり、血の
池を作っているのがちらりと見えた。
「間違いは正さなきゃいけない、そうだよね、アルカード? あなたのそばに立つのは、
僕のはずなんだから。でも、そんな野良犬の手で汚された鞭なんて、もういらない。僕は
僕のための鞭を手に入れたよ。だからこっちに来て、アルカード。僕、歩けるし、走れる
よ。あなたの隣で戦える。こっちに来て、僕といっしょに遊ぼうよ、アルカード」
「目を覚まして、ラファエル!」
 イリーナが前へ出ようとして、崇光とユリウスに押し戻される。小女王の威厳をたもつ
余裕もなく、少女は身を揉んで泣きじゃくった。
「あなたはベルモンドの長なのよ。どうしてこんなことを──」
「うるさいなあ」
 うんざりしたようにラファエルは片目を細めた。

234煌月の鎮魂歌10 25/43:2017/08/12(土) 22:57:38
 とたん、流れ込んできていた黒いもやが凝集し、蝙蝠の羽を持つ芋虫のかたまりがイ
リーナに飛びかかった。イリーナは悲鳴をあげて顔をおおった。ユリウスの手と、瞬時に
姿を表したバーディーの吐く炎が宙を走った。ユリウスの拳につぶされ、炎に焼かれて魔
物はあっという間に灰になった。ラファエルの澄んだ笑い声が響いた。
「ベルモンドなんてもうどうでもいいんだ」
 くすくす笑いながらラファエルは楽しげに言った。
「父上は裏切り者だ。そんな汚い野良犬を作っておいて、よくベルモンドの当主だなんて
言えたよね。さっさと放り出して、生まれにふさわしいどこかのどぶで死なせるべきだっ
たのに。なのに、そいつを家に入れて、僕の代わりにしようだなんて、許せないよ。死ぬ
べきなんだ、みんな」
 ほがらかにラファエルは言い切った。
「薄汚い雑種がみんなを汚してしまったんだから、汚いやつらは、みんな消してしまわな
くちゃ。必要なのはあなただけだよ、アルカード」
 息すらしていないかに見えるアルカードに、ラファエルは手をさしのべた。哀願するよ
うに、
「あなたは、どんなことがあっても汚れたりしないもの。馬鹿なやつらが邪魔したりさえ
しなきゃ、あなたは僕のものなんだ。それがいちばん正しいんだ、アルカード、なのにど
うしてまだそんな奴のそばにいるのさ?」
「だめよ、みんな、落ち着いて、静かにして」女主人に加えられた危害に反応して猛り立
つ四聖獣を、必死にイリーナはなだめている。
「あれはラファエルなのよ、何かにとりつかれて、あやつられているだけなの、彼を傷つ
けることはできないわ。お願いだからおとなしくして、みんな、あたしは大丈夫だから─
─」

235煌月の鎮魂歌10 26/43:2017/08/12(土) 22:58:15
 ラファエルはうんざりしたように首を振った。「邪魔しないでったら」
 崇光がうめき声を上げた。
 懐に忍ばせた呪符を取りだそうとしていた手がずたずたに裂け、鮮血が滴っていた。両
手のひらと甲が骨に届くほど深々と裂かれて、はじけた生爪が指先にぶら下がっている。
「みんないらない」
 手に陰の聖鞭をもてあそびながら、ラファエルは奇妙にしなやかな足取りでがれきを乗
り越えてきた。
「おいでよ、アルカード」
 少年は愛らしく小首をかしげて呼びかけた。
「ベルモンドなんてもうない。魔王封印なんて知らない。僕にはあなたさえいればいいん
だ。ねえアルカード、僕のこと、好きじゃないの? 好きでしょう? 僕、あなたがいれ
ばとても強くていい子になれるよ。世界なんてどうでもいい、人間なんて、僕にも、あな
たにも、ひどいことしかしてこなかった。みんな滅んでしまえばいい。僕と、あなたと、
たった二人きりで、いつまでも楽しく遊んでいようよ、アルカード」
 さしのべた両手に点々と血が飛び散っていた。アルカードは爛々と燃える目をすえてそ
れを見つめていたが、ややあって顔を伏せた。かと思うと、はじかれたように頭を上げ、
目にも留まらぬ動作で何かを投げた。細い銀のナイフが宙を飛んで、ラファエルの背後の
虚空に突きたった。
「ベスティス女侯爵。──お前か」
 低く、アルカードは呟いた。
「ムタルマ女伯爵はおまえの姉妹だったな。彼女が先に侵入したのもお前の差し金か。ラ
ファエルをとらえてどうするつもりだ」
『今さらそれをお訊ねになりますの? 尊き君』
 ねっとりと絡みつくような女の声がした。

236煌月の鎮魂歌10 27/43:2017/08/12(土) 22:59:05
 ラファエルの背後から白い腕が伸び、少年の体を抱き込むように巻きついた。微笑した
ままのラファエルの顔のそばに白い影がにじみ出て、黒い髪を奔放に乱した美女の顔にな
った。
 以前に表れた妖女ムタルマ女伯爵の顔に似ていたが、こちらのほうがはるかに美しく、
さらに邪悪で、虹色のオパールに似た目は緑色にきらめく鱗で縁取られていた。頭と両手
以外は空中にとけ込んだ霧となっていて定かではない。女はふっくらした唇を開いて婉然
とほほえみ、少年の頬に耳をすり寄せた。空中にとどまった銀の投げナイフがぱらぱらと
落ちる。一本をつまんでみだらなしぐさでその刀身に唇をよせ、舐めあげた。
『わたくしども姉妹がどれほどあなたさまをお慕い申し上げているか、子存じないはずが
ありませんわ。妹はいささか性急にすぎてあなたさまのお手討ちにあいましたけれど、き
っとすばらしい最期を迎えたことでございましょうね。いずれ魔王ドラキュラ様ご復活の
折には妹もあらたな姿でよみがえるのでしょうから、そのとき話を聞くのを楽しみにして
おりますの。この少年はとても気に入りましたわ、若君、とても闇が濃くて、狂うほどあ
なた様を愛していて、まるで、わたくしたちのよう』
 微動だにしない笑みをうかべているラファエルの頬に口づけ、額をさすり、耳朶を赤い
舌でたどる。見ているだけで、こちらの魂までも直接舐めずられているようなおぞましさ
がこみあげてくる。
「あんたが殺したのね、闇の者」アルカードのマントの後ろに押しやられたイリーナが、
なんとか前に出ようともがく。
「ラファエルのそばについていた人たちはどこ? ボウルガード夫人も、まさか、あんた
が」
『ああ、彼女? 彼女なら、ここにおりますわ』
 むっちりと脂の乗った肩が表れた。見る間に、白い肉は粘土のように盛り上がり、うね
うねと蠢いて、ひとつの年老いた女の肉面を作り上げた。手のひらほどの大きさに縮小さ
れていたが、それは確かにボウルガード夫人のしぼんだ顔だった。イリーナはかすれた悲
鳴を上げた。

237煌月の鎮魂歌10 28/43:2017/08/12(土) 22:59:44
 ──許すものか。
 ボウルガード夫人の面は小さな口を開いて呟いた。唇がめくれて歯が見え、小さな瞼の
下で悪意に満ちた目が白くきらめいた。
 ──許すものか。ベルモンドの長はミカエル様の正統でなければ。どこの馬の骨ともし
れぬ雑種が。許さない。許さない。わたしではない誰かの子が、ミカエル様のあとを継ぐ
など。許さない。許すものか……
『この女は先代のベルモンドにたいそう恋着していたそうな』
 猫撫で声で妖女は言った。
『正式に結ばれた妻ならまだあきらめもつく。だが、そうではない女の息子など、許さな
い。自分ではない女が、妻でもないのに、愛しい男の情を受けたなどと、認めない。自分
こそがそうなるべきだった地位を、横から奪い去った女の子供など、けっして、けっして
許しはしない……』
 妖女は白い手を口にあてて狂笑を放った。ユリウスはただ茫然として、声もなく口を動
かしているボウルガード夫人の、憎悪と嫉妬にゆがんだ肉の面を見つめていた。
『哀れな女。恋しい男を思いきるために結婚して外国に渡ったというのに、夫は戦災で死
に、出てきた家に再び舞い戻ることになってしまった』
 いつくしむように妖女は老女の顔の輪郭をたどった。
『けれども男の息子の養育をゆだねられ、妻ではなくとも子を育てることはできると、そ
れだけは心をこめて養育してきた。なのに、その子は体の自由を失い、いてはならない私
生児が呼び寄せられて、その子の場所に座ろうとする。自分があきらめた男の愛を手に入
れて、子まで生むことを許された女。自分が育てた子の権利を奪い取ってのさばろうとす
る雑種。どうして許せるものか。許せるはずがない。みな死んでしまうがいい。わたしで
はなくほかの女を、ほかの愛を選んだ男の息子も。みなことごとく闇に沈め。世界も、人
も、砕けて消えてしまうがいい』

238煌月の鎮魂歌10 29/43:2017/08/12(土) 23:00:31
 途中から声はしわがれたボウルガード夫人のものになっていた。腫物じみた老女の顔が
ぶつぶつと口を動かすのに合わせて、毒のしたたるいまわしい呪詛が低く紡がれていく。
「いつから夫人に憑いていた。どうやって彼女をたぶらかしたのだ」
『たぶらかしてなどおりません。この女は自ら私を呼んだのですわ。その魂に育てた闇と
憎しみとで。お気づきにならなかったのは、若君、あなた様でいらっしゃいます』
 またなめらかな声に戻って、妖女ベスティア女侯爵はいとおしげにボウルガード夫人の
顔をさすった。それからからふいに爪をのばし、老女の顔の白い目玉に深々と突き刺し、
えぐった。か細い悲鳴があがり、ユリウスはぎょっとして鞭を取り直した。
「やめろ、化け物!」
『おや、いっぱしの口をきくのだね。ベルモンドとは名ばかりの雑種風情が』
 女侯爵は冷然たる目をユリウスに向けた。あげた爪から古い油のようなどす黒い血と漿
液がしたたった。
『お前こそがこの悲劇を招いたのに、よくもまあそんなことが言えたこと。お前と、お前
の母の存在が、この子とこの女を狂わせたというのに。この子の呪いを聞かなかったのか
え? わが宿りとなった哀れな女の叫びは? いまいましい聖鞭を手にしたからといっ
て、思い上がらぬがいい。お前の存在は、血を分けた弟の魂を踏みにじった上に成り立っ
ているのだよ』
「耳を貸すな、ユリウス」
 アルカードがささやいた。ユリウスは頷き、一歩前に出た。鞭を持つ腕が熱湯に浸けた
ようにちりちりと熱い。ラファエルはほがらかな笑みを顔に貼りつけたまま、妖女の腕の
中に身を預けている。
「ボウルガード夫人、どうしてアルカードはこっちに来ないの?」がんぜない幼児のよう
な舌足らずの口調でラファエルは尋ねた。

239煌月の鎮魂歌10 30/43:2017/08/12(土) 23:01:05
「あいつが邪魔しているせい? あいつ、まだ、僕のことを邪魔するの?」
「──俺はラファエルの相手をする」
 ユリウスは言った。
「おまえはあの女魔物をやれ、アルカード」
 アルカードは瞬いてなにか言おうとしたが、ユリウスは重ねて強く、
「これはヴァンパイア・キラーの所持者が対処することだ。鞭は鞭でしか砕くことができ
ない。崇光」
 背後でイリーナを抱えている崇光に呼びかける。
「あんたはそのチビを守れ。いまのあんたじゃ戦力にはならない。チビとけだものどもも
だ。自分とそいつの身を守ることに専念しろ。俺とアルカードが片付ける」
「──承知しました」
 一瞬の間を置いて崇光は応えた。抵抗するイリーナヲ腕にしっかり抱き込み、裂けた手
を振って血の滴で自らの周囲に円を描く。金色の光炎がぱっと立ち、崇光とイリーナを光
の網でくるみこんだ。
(アルカード! ユリウス! ……)中でもがいているイリーナの姿がぼんやり見える。(ユリウス!)
 泣き声混じりのイリーナの声を後ろに聞きながら、ユリウスはあらためて、両手にぴん
と鞭を張った。鞭の発する力と精気が全身に脈打った。自分自身の陰画である暗黒の鞭を
目前にして、鞭が嫌悪に身震いするのを感じた。
「僕に逆らう気なの? 雑種のくせに」
 ラファエルはそりかえって笑った。手首を返すと、紅玉と琥珀で飾られた闇の鞭が寒気
のするような音をたてて風を切った。
「ああ、でも、そのほうがいいね。そうすれば、僕の方が強いってアルカードもわかって
くれるもの。ねえ、見ててね、アルカード。あなたにひどいことをした野良犬を、僕、ち
ゃんとこらしめてあげるから」

240煌月の鎮魂歌10 31/43:2017/08/12(土) 23:01:53
『よろしいのですか? あの二人を争わせておいて』
 妖女は白い霧となってゆらりと漂い離れた。女の顔をした霧の塊が宙を移動し、凝固し
て、豊満な肉体に純白のドレスをまとった、黒髪の女が立ち上がる。
「ヴァンパイア・キラーは闇の存在を許さない。自らの影の鏡ならばなおさら」
 アルカードはすでに剣の鞘を払っていた。相対するユリウスとラファエルからじりじり
と離れ、砂でざらつく円形の広間の端へと移動していく。
「そして私もお前の存在を許さない。闇に還るがいい、ベスティア女侯爵」
『ええ、でも、その時はあなた様もご一緒に、尊きお方』
 妖女は両手を高々とかかげた。白い腕が伸び、また伸び、さらに伸びた。めきめきと関
節が音を立て、数を増やし、凝乳のようななめらかな肌が、黒々と渦巻く剛毛に覆われ
た。地の底からの笑い声がすさまじく轟いた。女の顔が裂けて牙をむきだした鰐めいた野
獣の顔となり、硫黄の息を吐いて咆哮した。
 ユリウスは床を蹴り、ほほえむ腹違いの弟にむかってまっすぐに襲いかかった。

               3

 二つの鞭の争いはまさに鏡の闘争だった。どちらもベルモンドの鞭術を身につけてお
り、血によって伝えられた技倆も同等だった。ラファエルが父によって訓練され、ユリウ
スがアルカードに訓練されたという違いはあったが、両者の身体を流れるベルモンドの血
脈は、それぞれの駆使するどんな攻撃も技も事前に察知して跳ね返し、さらなる逆襲に変
えて繰り出してきた。
 ユリウスはほとんどなにも思考しなかった。なにかを考える前に身体は反応しており、
呼吸するように鞭が動いて、攻撃し、防御し、貫き、打ち、払っていた。ユリウス自身の
精神はどこかにあって、奇妙に冷静な視線で戦闘を眺めていたが、その一方で、鞭と同一
化した一部が穢れた鞭の陰画にむかって怒りの声をあげ、戦いの昂奮に心臓を轟かせてい
ることも感じていた。

241煌月の鎮魂歌10 32/43:2017/08/12(土) 23:02:28
 鞭の試練で英霊の化身と戦ったときとは違った。あの時は、ユリウスと鞭とはあくまで
別の存在であり、それをあやつるのはユリウスの手であり意識で、鞭はユリウスの意志の
延長だった。
 しかし、真の所持者となった今、ユリウスにとって鞭は完全な肉体の一部だった。それ
以上であったかもしれない。肉体は鞭を操るための道具にすぎず、奇妙に冴えた意識はあ
らゆる空気の動き、気配の揺らめきをとらえた。ぶつかり合って離れる互いの鞭の衝撃は
そのままユリウスの肌に与えられる痛みで、相手の暗黒に染められた鞭の瘴気は、古くな
った酢のようないやな後味となって舌を刺した。
 攻撃しているのはユリウスではなかった。むしろ、主体となっているのは鞭の意志その
ものにほかならない。感じる憤怒と闘争心は、ただ冒涜された吸血鬼殺しの鞭の霊が発す
るものであって、ユリウスが感じているのは、ぼんやりとした苦痛と、静かに胸を浸して
いく悲しみの念だった。
 はじめて彼は、自分を憎む異腹の弟の顔をしげしげと眺めた。本当に子供だ、と思っ
た。ほんのガキだ。俺がブロンクスでネズミを食っていたときよりもっと──何も知らな
いガキだ。母親には放置され、父親には裏切られ、ただアルカードしか愛する相手を知ら
なかった、寂しい子供の顔だ。
 ユリウスは母の顔をほとんど知らない。だが、ナイフを振りかざした麻薬中毒者の前か
ら、息子を突き飛ばした両手は覚えている。幼い息子を壁際に押し倒し、背中を血まみれ
にしながら母は息絶えた。狂ったように踊り続けるジャンキーの靴に踏みにじられていた
母が、どんな顔をしていたのかもうわからない。苦痛の表情か、それとも──
 だが、ユリウスには、あのとき、目の前いっぱいに広がった母の手と、勢いよく突き飛
ばされた肩の痛みが、鮮明に残っている。激しい戦闘の中で、ふと、その手の感触を思っ
た。子供を抱えた若い女の生活が楽だったはずはない。その手は苦労の果てに荒れ、ひび
割れていたはずだったが、思い浮かぶ母の手は不思議にきれいでなめらかだった。その手
が髪をなでる感触さえ、今ははっきりと思い出せる気がした。

242煌月の鎮魂歌10 33/43:2017/08/12(土) 23:03:03
 おそらくラファエルは、そんなことも知らずに育ったのだろう。ベルモンドの末裔とし
て、聖鞭の所持者としての人生しか用意されず、またその人生しか自分にはないのだと教
え込まれて育った。愛情と言えるようなものはほとんどアルカードに対するものしか知ら
ず、すべてを失ったあと、そのアルカードすら見も知らぬ粗暴な異母兄に奪われたと感じ
た少年の絶望とは、いったいどれほど深いものだったのだろう。
 敵であるはずの闇のささやきに心を奪われるほどの苦悩を、彼にもたらしたのは確かに
ユリウス自身だった。ラファエルがもっと強靱であるべきだったということはできる。だ
が一度は孤独の中で、抱いてくれるものもなく泣いたことのあるものが、泣き方すら教わ
らず育ったものにむけてそのようなことを言えはしない。強靱であることを求められつづ
けたあげくに、弱さを自分自身にすら認めることができなくなってしまったのだ。
 かつて、ユリウスは弱い自分を嫌悪し、生きるために戦った。ラファエルは強者として
生き続け、それ以外の生を想像することがついにできなかった。哀れな子供とは、いった
いどちらのことなのだろう。
「なぜそんな顔をする?」
 ラファエルが叫んで、空中から強烈な一撃を繰り出した。ヴァンパイア・キラーは下か
ら跳ね上がり、暗黒の鞭に交差して、ユリウスの頭を割ろうとしたその軌道を変えた。
「そんな目で僕を見るな! 雑種のくせに! 雑種! 野良犬め! 父上にも見捨てられ
た、汚い捨て子のくせに!」
 そうだな、と声に出さずにユリウスは応えた。俺は捨て子で、私生児だ。お前からすり
ゃ雑種だし、街角で、ごみをあさって育ってきた、人殺しの犬だ。
 だけど俺は雑種の俺を知ってる。自分がごみあさりの野良犬で、どうしようもないごろ
つきだってこともわかってる。それが俺で、俺はこれまでそうやって生きてきて、ここに
いる。強さと純粋さしか知らないおまえが見たことのない、弱さと汚辱の底の底を、俺は
歩いてここへ来た。

243煌月の鎮魂歌10 34/43:2017/08/12(土) 23:03:38
「雑種! 私生児! ベルモンドの名前に値しない屑め、お前なんかが聖鞭を手に入れる
なんてあるはずがない! 消えろ、薄汚い犬! ただの人殺しの捨て子め!」
 ののしられようとも、もはやユリウスの心に怒りはわかなかった。ベルモンドの名も、
聖鞭の所持者の資格も、ユリウスにとっては自分とはほとんどかかわりのないなにかであ
って、たまたま運命がその気まぐれで与えたにはた迷惑な代物でしかない。それによって
自分を支えてきたラファエルにとって、それらを失うことは天地が砕け散るのと同じ災厄
かもしれない。だが、もともとブロンクスの〈赤い毒蛇〉として立ち、ベルモンドの名に
背を向けて成長したユリウスにとって、投げつけられる言葉はたんなる自己確認の意味し
かもたず、かえって、必死に言いつのる異腹の弟に、あわれみめいたものを抱かせた。
「なんとか言えよ、──ちくしょう!」
 白い歯をむいて、ラファエルは叫んだ。取り戻した足を踏みならし、ユリウスののど元
めがけて闇の鞭を飛ばす。皮膚のすぐそばへ迫る革でできた毒蛇の牙をユリウスは感知し
た。肌にとまる塵を払うのと同じだった。空中で屈曲したヴァンパイア・キラーはおよそ
物理法則を無視した動きを見せ、自らの暗黒の影を叩いて、その先を真っ二つに裂いた。
生きた暗黒の鞭は金切り声を上げてきしみ、よじれた。ラファエルもまたのけぞって腕を
押さえた。裂かれた鞭と同様、腕には肉のはぜた傷口が口を開いて湯気を立てていた。地
は一滴も流れなかった。
「なぜ? なんでだよ!」ラファエルは泣き叫んだ。
「僕は強くなったのに。偽ベルモンドの贋の鞭なんて、僕の敵じゃないはずなのに!」
「ベルモンドであろうがなかろうが、俺は俺だ」
 ユリウスは呟いた。ラファエルの耳には届いていないようだった。金髪を振り乱して叫
びつづける腹違いの弟に、これまで感じたこともないほど胸が痛んだ。できねことなら手
を伸ばして抱きしめてやりたかったが、それがもっとも、相手にとって残酷な侮辱となる
こともわかっていた。
「そして俺は、俺のやるべきことをやるだけだ、ラファエル。俺は──」

244煌月の鎮魂歌10 35/43:2017/08/12(土) 23:04:17
 言葉を切って、ユリウスは、生涯にたった一度の言葉を自分に許した。
「──お前のために、俺は、生まれてこなきゃよかったよな。弟」
 聖鞭は稲妻の弧を描いてとび、後退した闇の鞭を追撃した。裂かれた暗黒の鞭は身もだ
えして逃げ惑ったが、自らを冒涜する存在を聖鞭は許さなかった。黄金が剥げ、宝石が墜
ちた。ひび割れた革はこぼれて腐汁となって流れた。使い手もまた縦横無尽の傷を刻ま
れ、悲鳴をあげて倒れ伏した。投げ出された鞭が断末魔の咆哮をあげ、黒い塵となって四
散した。


 離れたところでもうひと組の戦いの舞踏が繰り広げられていた。ベスティア女侯爵を相
手取って、アルカードは複雑な剣閃のステップに足を踏み入れていた。妖女の長い髪は逆
立って千ものかぎ爪に変わり、銀髪の公子をあらゆる方向から取り囲んで引き裂こうとす
る。それを正確無比な攻撃で払い落としながら、アルカードの顔は小揺るぎもしなかっ
た。彼はどこか遠い視線で冷静に戦いの帰趨を見つめ、光と闇の鞭を戦わせているユリウ
スとラファエルの異母兄弟に目をやっていた。
『昔を思いだしますわ、若君』ベスティア女侯爵はささやいた。
『妹とともに参りました宮廷で、ごいっしょにこうしてダンスをいたしましたわね。覚え
ていらっしゃいますかしら。あなた様はとても幼くていらして、父君の膝の上からよちよ
ち降りてきて、わたくしどもの輪にお入りになりましたわ』
「あの時お前は美しかった。ムタルマ女伯爵も。父も。母も。すべてのものが」
 腹に食らいつこうとした巨大な鰐の首がパクッと音をたてて空を咬む。突き出た口吻は
一瞬にして輪切りになり、ばらばらと墜ちた千と見るに、それらはたちまちいやらしい針
を逆立てたやまあらしめいた生き物に変わり、いっせいにアルカードにとりつこうとす
る。軽くマントを払うと、ぱっと散った火花が小怪物どもを焼き尽くした。

245煌月の鎮魂歌10 36/43:2017/08/12(土) 23:05:19
『でしたらなぜ、わたくしどもと父君のもとにお戻りになりませんの? 人間の世など汚
く醜いことばかりだと、とうにご存じでいらっしゃいましょう。あなた様が見つけていら
したベルモンドの私生児は、鞭の代償にあなた様の御身を穢すことを望みましたわ。その
ような相手に、どんな義理があるとおっしゃるの』
「私の身などなんの意味もない。世界から魔王と闇の血を払い、これ以上の父の愚行を食
い止める、そのためだけに私は在る」
『魔界の至尊の血を受け継ぐお方が、どうしてそのようなことを』
「それがかつて母が願い、私が望んだことだからだ」
『そうして、ご自身ですら騙していらっしゃるのね。おかわいそうに』
 転がるがれきが身じろぎし、石でできた魔狼の群れとなってむくむくと起き上がった。
妖女の繊手が降られるが早いか、口と爪のついた毛皮の壁のような一団が、大津波となっ
てアルカードに迫った。腕を伸ばしてなぎ払うと、先頭の数頭が勢いのままに顎を裂か
れ、そのまま真っ二つになって転がった。血の霧は途中で崩れた壁の塵になり、もうもう
と立ちのぼった。
『どれほど人間に奉仕しようと、しょせんあれらは卑しい獣。高貴なるあなた様を受け入
れることはできません。わたくしはこの女の中でずっと見てまいりましたのよ』
 ざわざわと蠢く獣毛と爪と口、濡れた牙とぎらつく目と舌とおぞましいさまざまの中に
立って、ベスティア女侯爵は胸をはだけた。ゆたかな乳房の真ん中に、ボウルガード夫人
のひからびた顔が口を動かしている。そんな状態になっても、まだは彼女は生きている
のだった。うつろな白い目を開いて、報われなかった恋と、先代ミカエル、そしてミカエ
ルの愛を受けて息子を産んだ女に対する、尽きることのない呪詛を呟いている。

246煌月の鎮魂歌10 37/43:2017/08/12(土) 23:05:59
『ご覧くださいまし、この哀れな女を。自らに与えられなかった愛の幻ひとつのために、
わたくしに魂を食い破られても気づきもしなかった。いいえ、気づいていて、歓迎さえし
た。すでに死んだ女への嫉妬の炎がこの女の身も心も焼き尽くし、わたくしのために絶好
の扉を開いてくれた。この女にとって、みずからの嫉妬のためには、愛した男の息子もな
にもかも、絶好の道具でしかなかった。人間の、なんという悪辣さでございましょうね、
若君、わたくしども闇の者でさえ、愛にはもうすこし忠実ですわ』
「お前が私を殺して闇に連れ帰ろうとするように?」
『ああ、わかってくださるのね──』
 嬉しいわ、と女侯爵は歓喜に震え、かっと牙をむいた。美しい女の顔がばりばりと音を
立てて裂け、とげのような歯をおびただしくそなえたひとつの真っ赤な口になった。果物
の皮をむくように顔だったものがめくれあがり、首が伸びた。アルカードは剣をあげて応
じた。妖女の石榴めいた頭部が刃に当たって音をたてた。酸のしずくがシュウシュウと滴
り、踏みとどまるアルカードのブーツのそばを黒く焦がした。
『闇の者は一度愛した相手をけっして裏切りはいたしません』
 そのような状態でもどこでしゃべっているのか、女侯爵の声は嫋々と続いた。
『そして愛する者を愛という美名で縛りあげて自由を奪うことも。ベルモンド家の人間が
してきたことは、結局それではございませんでしたか? 人間にはあなた様を理解でき
ず、あなた様の力と長命と美は、結局は人とあなた様をへだてる壁でしかなかったので
は? いったい何人の人間を、あなた様は見送られました? まばたきの年月で燃え尽き
ていく人間など、あなた様には塵でしかない。なのにその塵が、塵なりのちっぽけで偏狭
なそれぞれの独善と執着心から、愛という名の鎖でよってたかってあなた様を縛る。あな
た様の苦痛など考えることもせずに』
「私が選んだことだ」
 短く答えて、アルカードは剣を振り払った。

247煌月の鎮魂歌10 38/43:2017/08/12(土) 23:06:33
『そうですかしら』
 押し返された妖女の頭がぐるりと円を描き、ごつんと音をたてて肩にもどる。くるくる
と巻き上がった革がまた、すましかえった女の妖艶な笑みを形作った。
『あそこにいる二人がいい例ですわ。彼らが、愛の名のもとにあなた様に何をしました?
 かわいそうな少年!』鈴の声で妖女は笑った。
『あの子はあなた様を愛していると思っているのですよ、こっけいだこと! 愛というも
のがどれほど危険か知りもせず! かわいいけれど愚かなあの子は、愛しさえすればあな
た様が愛してくれると無邪気に信じているのです。あの私生児もまた、同じく愚かしい愛
の迷妄にとらわれて、あなた様の幸福などみじんも考えない』
「お前は考えているとでもいうのか?」
『ああ、どうかお帰りくださいませ、闇へ、あなた様の継がれるべき世界へ!』
 女侯爵の声が熱を帯びた。
『あなた様は誰よりも、何よりも美しくまれな尊き血の君、人間などという不完全な生物
には不釣り合いな、完璧なる生命。狭量なこの人界はあなた様を傷つけ、苦しめるばか
り。どうして苦しみしかないとわかっている場にとどまり、あなた様を決して理解せぬ生
き物のために働かれるのです。苦悩と悲しみにさいなまれながら、人の身勝手な愛に切り
裂かれるあなた様を、どうして放っておけましょう』
 頭上に林のように垂れた鉤爪のある手が垂れ下がり、何十本ものしなやかな女の腕とな
ってアルカードに絡みついた。白い頬を撫で、肩をさすり、腰をたどってみだらな仕草で
哀願する。
「だから私の人の部分を殺し、純粋な闇の者とすると?」
『必要なことですわ!』女侯爵は叫んだ。若い処女のように、彼女は泣いていた。美しい
目から透明な滴がいくつも転がり、何十本もの白い腕にからみつかれたアルカードに向か
って、彼女はすすり泣きながら細い両手をさしのべた。

248煌月の鎮魂歌10 39/43:2017/08/12(土) 23:07:08
『あなた様の人の血が御心をまどわせているのであれば、まどいの元を取り除いてさし上
げるのがわたくしどもの務めです。ああ、愛しきお方、わたくしどもがどれほど愛し申し
上げているか、お見せできたら! でもきっと、人の血のまじった今のままでは、わかっ
てはいただけないのでしょうね』悩ましげに女妖は胸を抱いて悶えた。
『お願いですわ、剣をおろして、わたくしに身をお委ねになって。そのあとであれば、わ
たくしはお手ずから五体を引き裂かれて血の霧となってかまいません、いいえ、きっとそ
れは、この上ない愛の贈り物となりますわ。闇の愛の深さを歌いながら、あなた様の手で
死ぬのです。闇に還られたあなた様の前では、わたくしなどほんの蚊とんぼの一匹、わた
くしの愛など砂粒のひとつにも満たない。それでもわたくしは心から満たされて灰とな
り、あなた様が領される新しい闇の宮廷で咲く一輪の花となりましょう。永劫ののちにあ
なた様はわたくしをもう一度見いだし、踊っていただけることでしょう。妹のムタルマと
二人、わたくしどもは、果てなき闇の領主たるあなた様のもとで、人にはかなわぬ暗黒の
愛のとりことなるのですわ──』
 情熱をこめて語っていた女侯爵の言葉がふいに途切れた。
 妖女は両手をかかげ、胸の真ん中を突き通したアルカードの剣をつかんだ。ゆがんだ口
からどっと血があふれ、乳房と胸をまだらに染めた。
「愛なら知っている。人の愛も。暗黒の愛も」
 アルカードは呟いた。
 身を絡め取っていた妖女の触手めいた腕はまばたきの間に切り払われ、わずかな砂とな
ってこぼれた。両手で構えた長剣がまっすぐ突き出され、妖女の胸の真ん中の老女の顔を
貫いていた。
「私はかつて愛し、裏切った。そしてまた裏切ろうとしている。暗黒の愛が裏切ることの
ないものなら、愛を裏切る私は、おそらく闇のものではないのだろうな」

249煌月の鎮魂歌10 40/43:2017/08/12(土) 23:07:52
『お、お、若君──』ベスティア女侯爵はもがいた。胸を貫かれたとき、魔物としてのな
にか致命的な部分も砕かれたようだった。アルカードの長剣の切っ先は背中まで突き通
り、脂のような血を垂らしていた。心臓めいたどす黒い肉界が身体の外に飛び出して、狂
ったように拍動していた。彼女は答申を握りしめてあえいだ。両手が切れて、薔薇を思わ
せる鮮やかな赤の血がちらちらとこぼれ落ちた。
『なぜ拒まれるのです──どうして、そこまで──人の子などくだらぬと、だれよりご存
じのはずのあなた様が──ああ』
 必死に首をねじ向けて、妖女はかっと目をむいた。唇がめくれ上がり、美女の偽装がは
がれ落ちた顔は、銅色の毛に覆われたおぞましい獣の顔貌をむきだしにした。
『そんな! なぜ、あの男が? ベルモンドの私生児! いまいましいあの男! わたく
しの与えたあの鞭が、打倒されることなどありえない──』
「彼はユリウス・ベルモンド。ベルモンドの裔にして、聖鞭の所持者」
 アルカードはささやき、剣の柄をひねった。
「──闇を払う〈吸血鬼殺し〉の、使い手だ」
 一息に引き抜く。
 空気の抜けるような音がして、妖女は身を折った。かぼそい悲鳴がひびき、彼女はそれ
でも、なお愛する公子に両腕をさしのべようとしたが、かなわなかった。銅色の毛があせ
てゆき、硫黄のにおいがたちこめた。急速にしぼんでいくベスティア女侯爵の身体は、数
瞬のうちに腐った藁屑めいたものになり、虚空に溶けて見えなくなった。

250煌月の鎮魂歌10 41/43:2017/08/12(土) 23:08:28


「ユリウス」
 背後から近づいてきたアルカードに、ユリウスは意識を引き戻された。
 視界の端で金色の結界の光が消え、腕にイリーナを抱えた崇光が姿を現した。イリーナ
はぐったりとして意識がない。あまりの心理的負担が限界を超えたのか、それとも、これ
から起こることを少女には見せたくなかった崇光が眠らせたのかはわからない。
 ユリウスはちらりとアルカードを振り返り、また視線を落とした。戦いの高揚は消え失
せ、重い倦怠と悲哀が全身に覆いかぶさっていた。
 高揚も俺のものではない、とユリウスは苦く思った。この戦いに喜びはなく、ユリウス
の使い手としての初陣は、血を分けた兄弟を敵手とするものだった。鞭は自らの闇の鏡像
を打ち破ったが、ユリウスがいま眼前にしているのは、一度もわかり合う機会がなく、い
までは永遠にその可能性も失われようとしている、幼い異腹の弟だった。
「……アルカード?」
 ラファエルがぼんやりと目を開いた。瞳は白く濁り、もはや何も見えてはいないようだ
った。だらりと投げ出された手はまだなにかを握りしめるように曲げられている。ラファ
エルは頭を動かし、手探りするように指をひくつかせた。
「アルカード。どこにいるの」呟いて、ラファエルは左右にわずかに首を動かした。
「よく見えないや。僕、どうしたの? なにがあったの? せっかく動けるようになった
のに、どうしてだか、あなたが見えないや──」
 横たわる上半身に傷はなかったが、闇の力に浸された下半身は、ベスティア女侯爵が消
滅するのと同時に、黒い液体になって流れ去っていた。あとには萎えて骨と皮にしぼんだ
下肢が遺された。
 あおむいたラファエルの顔に、苦痛はなかった。少年は幼げな顔で、見えない目をふし
ぎそうに瞬き、しきりにあたりを見回してアルカードを探した。

251煌月の鎮魂歌10 42/43:2017/08/12(土) 23:09:07
「ねえ、アルカード、どこ……? 僕、強くなったでしょう? 立派なベルモンドの男で
しょう? これで、あなたのそばに立てるよね? 僕、あなたといっしょに、魔王を封印
する戦いに出るんだ、そうだよね?」
 かすかな鞘鳴りがした。アルカードが剣を抜いていた。
「俺がやる」
 剣を手にしたアルカードが前に進もうとするのを見て、ユリウスは語気荒く言った。
「こいつは俺の弟だ。始末をつけるのは、兄貴である俺の役目だ」
「さがれ」
「アルカード──」
「さがれと言っている」
「アルカード!」
「血族同士が殺し合うのはもうたくさんだ!」
 絞り出すようにアルカードは叫んだ。
 それからはっとしたように口を覆い、うつむいた。衝撃のあまり、ユリウスは動けなか
った。アルカードがここまで感情を迸らせるのもはじめてだったが、その時彼の顔を走っ
た、狂気に近い絶望の色がユリウスの胸を深くえぐった。
「ユリウス。こちらへ」
 崇光が腕に手をそえてユリウスを下がらせた。彼の顔も青白くこわばり、せねばならぬ
ことへの嫌悪と悲しみに凍りついていたが、口調に揺らぎはなかった。
 ユリウスは声もなくあとずさった。入れ替わるようにアルカードが前に出る。彼は剣を
構えて、ラファエルのそばに跪いた。白く光る切っ先が少年ののど元にさしつけられる。
「アルカード?」夢見るように少年は呟いた。
「アルカード、僕、鞭を使えるようになったよ。僕きっと強くなる、アルカード。あなた
に似合うくらい強くなるよ。父上よりも、先祖のだれよりも強くなるよ。僕を見て、笑っ
てよ、ねえ、アルカード。アルカード」

252煌月の鎮魂歌10 43/43:2017/08/12(土) 23:09:56
 切っ先が震えた。アルカードは長い息をつき、肩をふるわせて頭を垂れた。長い銀髪が
垂れ下がって顔を隠した。ユリウスは彼が泣いているのではないかと思った。だが、ふた
たび顔を上げたアルカードの目は乾いていた。
 その唇が小さく動いた。なんと言ったのか、ついにユリウスにはわからなかった。その
まま一息に刃が降りた。少年の声が断ち切られたように消えた。黒い塵がさらりと舞い、
そして、何も残らなくなった。
 なにもなくなった地面に、アルカードは膝をついた姿勢でしばらく動かなかった。剣は
切っ先を地面に突き立てたまま、白く輝いている。
「アルカード」
 呼吸すらしていないかに見えるアルカードに、崇光がそっと声をかけた。丸めた背に触
れようとした手から逃れるように、アルカードはすらりと立ち上がった。
「アルカード、彼は──」
「大丈夫だ」
 アルカードは言った。まるで機械に言わされてでもいるかのような、感情の窺えない声
だった。彼はマントを払い、平静な仕草で剣を鞘に収めた。唇がかすかに震えていたが、
ユリウスがそれを目にするより早く、強くかみしめられて見えなくなった。
「私は、大丈夫だ」
 アルカードは言った。崇光を避け、ユリウスをそっと押しのけて、廊下へ出ていく。
「大丈夫だ……」
 その動きのあまりのなめらかさに、ユリウスはほとんど狂い出しそうになった。駆け寄
って胸ぐらをつかむか、殴りつけるかなにか、どんなことでもいいから、彼が泣くような
ことをしてやりたかった。だが、血まみれの廊下に立つ彼の背中は、月よりも、星よりも
遠く、小さく、近づきがたかった。
 ──遠くの方から今さらのように、人の騒ぐ声と、あわただしい足音が入り乱れて近づ
いてきた。


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