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日本茶掲示板同窓会

1匿名:2014/07/28(月) 04:40:24
告知失礼します
スレ立てしました
2chなので匿名で良いと思うので(もちろんHN付きでも可)来て下さい


日本茶掲示板同窓会
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/kova/1405456563/

126キラーカーン:2017/10/05(木) 23:51:18
6.3.1.1.5. 「第三極」(特に「みんなの党」)の離合集散と消滅

 1993年の非自民連立政権(細川内閣)の発足による政治改革の動きの中、非自民、非労組(≒旧社会党⇒民主党)つまり、規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を旗印に掲げる勢力が誕生した。我が国ではそのような政治勢力を「第三極」と称していた。

 二大政党の一角を占める民進党(旧民主党)も結党当初は、自民でも社民党(旧社会党)でもない政党として結党した過去があり 、民進党も第三極的色彩も有している。

 小選挙区制の導入や新進党の解党を経て、非自民勢力が、民主党へ一本化されていった。その過程で、旧社会党勢力も民主党へ吸収されることとなったため、自民党及び新進党とは異なる「第三極」として発足した民主党においても、旧社会党や民社党の支持母体である労働組合の発言力が強まり、リベラル・左派的色彩が強まっていった。

 このような民主党の「左傾化」及び自民・民主の二大政党化を受け、非自民・非民主の規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を目指す政党として「みんなの党」が結成された。

 以後、規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を目指す政党を「第三極」として扱われることとなり、「維新系政党」も「第三極」の一つとして扱われることとなった 。みんなの党は、一時期、公明党をも凌ぐ勢いも見せ、参議院選挙では三人区以上で議席を確保した。しかし、その後、程なく党勢は頭打ちとなった。

 このように、「みんなの党」と「維新系政党」は自由主義的政策志向という点において和性が高い。このため、両党の合同論は断続的に発生した。その一方、それ以外では所属国会議員間の政策距離が大きかった。このため、非自民・リベラル志向の議員も存在し、彼らは「維新系政党」よりも民主党に親近感を感じていた。それらの政党と離合集散を繰り返している。

 結局「みんなの党」の主流派は「維新系政党」との合流を選択し、「みんなの党」から分離し「結いの会」を結成した上で「維新系政党」と合流した 。しかし、合流した「維新系政党」の中でも、大阪派(橋下派)とそれ以外との路線対立が発生し、後者は民主党へ合流し民進党となった。

 このように「第三極」(と民主党)は規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」という点での共通点はあり、また、小選挙区制の選挙区(衆議院の選挙区と参議院の「1人区」)が多数を占めることから「第三極」として一つの政党に纏まるということは、国政政党として存続するうえでも望ましい選択であった。しかし、それ以外の点において政策距離が大きかったため、「第三極」は離合集散を繰り返し、現在では、「維新系政党」と民進党及び「小池新党」に吸収され、政党としては消滅している。

127キラーカーン:2017/10/08(日) 01:47:32
6.3.1.1.6. 自民党等の関係
 自民党との関係では、「自民党の右」に位置する「日本型ネトウヨ政党」(「たちあがれ日本」⇒「太陽の党」(⇒「維新系政党」)⇒「次世代の党」⇒「日本のこころを大切にする党」が対象となる。先に述べたように、安倍総理・自民党総裁が「自民党の中での『右』」に属する政治家であったため、潜在的「日本型ネトウヨ政党」の支持者層が安倍自民党支持層となっている。この結果。「日本型ネトウヨ政党」の党勢は伸び悩み、国会では自民党と統一会派を組むに至り、自民党に事実上吸収合併された形で、現在に至っている。ただし、「小池新党」(「希望の党」)結成を機に、「日本のこころを大切にする党」党首の中山恭子参議院議員は自民党ではなく、「小池新党」に合流した。

128キラーカーン:2017/10/09(月) 01:48:00
6.3.1.1.7. 2017年10月総選挙
(未定)

6.3.1.2. 英国(英国独立党の躍進)
6.3.1.2.1. グローバル化の勝者であるリベラルに対する反発
 英国でも福祉排外主義を唱える英国独立党(UKIP:United Kingdom Independent Party)が経済成長から取り残されたブルーカラーや非熟練ホワイトカラー層の支持を集めている。英国独立党の標語は「国民保護サービスであって国際保護サービスではない」というものであり、福祉排外主義に合致する。但し、英国独立党には「小さな政府」を志向するリバタリアン的潮流も存在する 。このため、今後、主たる支持者層である「没落した中間層」とリバタリアン的路線との間での軋轢が生ずる可能性もある。

 英国独立党のもう一つの支持者層は英国のEU懐疑派である。英国はEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)の原加盟国 ではない。それどころか、ECに対抗してEFTA(ヨーロッパ自由関税同盟)を設立したのちに、EFTAを裏切る形でECに加盟した(1971年)。また、サッチャー政権も「反ヨーロッパ」的姿勢をとっていた。英国労働党の支持者層が他国の「極右」政党と比べて支持者層の平均年齢が高いのはこのような歴史を実際に体験した層の一定程度が英国独立党の支持者層となっているからと推測されている。

 「近代化の敗者」或いは「EU懐疑派」どちらであっても「グローバル」よりは「ナショナル」である。それが、集合名詞であるところの「国民」としての拒否感であるのか、「個人(労働者)」としての拒否感であるのかの違いである。ここでもグローバル化の「勝者」としてのリベラルそして自国民よりも「非国民」の救済を優先するリベラルに対する「敗者」の反発がある。ここでもグローバル化の敗者に対するリベラルの冷淡さ が「ネトウヨ化」を招いていると見ることができる。

129キラーカーン:2017/10/10(火) 00:58:20
6.3.1.2.2. 英国内の地域対立とEU離脱問題との関係
 我が国では「英国」とあたかも単一国家のように扱っているが、英語で「UK:United Kingdom」というように、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域 からなっており、スコットランドには独自の議会も存在する。このため、これまで述べてきた地域間対立も「リベラルVS非リベラル」に影響を及ぼす。

 特にスコットランドは、2014年、スコットランドの独立を問う国民投票が実施されたことや北海油田の利益分配などでイングランドとは潜在的な対立関係にある 。EU離脱を問う国民投票では、スコットランドがEU残留で、ロンドン都市圏などを除くイングランドがEU離脱派という投票結果で、英国内の地域別の温度差が明らかとなった。

 2015年の総選挙でもスコットランドの地域政党であるスコットランド国民党(SNP:Scottish National Party)がスコットランドでは、59議席中56議席を獲得するという「完全試合」を成し遂げている。スコットランド国民党は中央レベルでは労働党と政策位置が近く、2015年の総選挙でも、仮に勝利すれば、労働党と連立を組むとの観測もあった。したがって、スコットランドにおいては、民族自決主義が「ネトウヨ化」或いは「極右政党」とは結びついていないというのが特徴となっている。

6.3.1.2.3. 2017年6月の総選挙(「大きな政府」路線による野党労働党の健闘)
 メイ首相は、労働党の合意を取り付け、EU離脱交渉を名目として解散総選挙に打って出ることとした 。解散時点では保守党が圧倒的有利であるといわれていたが、選挙期間中に労働党が差を詰めた。選挙結果は保守党が第一党の座を守ったものの、議席を減らし、過半数を割り込んだ。このため、実質的には保守党の敗北となった。保守党は、過半数まで10議席足らずという議席数であるため、少数単独政権を選択した。当面は北アイルランドを地盤とする保守政党である民主統一党(10議席)の閣外協力を得て政権運営を行うことを選択した。過半数を制する政党が存在しない中でのメイ首相の政局運営となるため、予断を許さない。

 労働党が健闘した要因としては、①「オールド・レイバー」とも言われるコービン党首が脱緊縮を掲げた政策を打ち上げたこと、②英国に選挙疲れがあったこと、などが言われている 。冷戦終結後の経済のグローバル化に対応したブレア元首相の唱えた「ニュー・レイバー」の効力が無くなり、長期低迷傾向にあった労働党が、「反緊縮」という旗印で「没落した中間層」の救済に取り組んでいるというメッセージを有権者に与えたことにより労働党が健闘した原因と言ってもよい。

 これは、トランプ大統領にも言えることであるが、「ネトウヨ化」の主力と見られている「没落した中間層」の票を獲得することができた効果でもある。これは、「欧米型ネトウヨ化」が経済主導型である事を如実に示している。

 ネトウヨ化以外の貧困対策(具体的には、反緊縮による「大きな政府」)を打ち出し、その政策が彼ら「没落した中間層」の琴線に響けば、左派であっても彼らの票を獲得できるということの証明でもある。

 その一方、ここ数年、英国政治の「台風の目」であった英国独立党(UKIP)が、今回の総選挙で敗北を喫した。前回の総選挙では二大政党に次ぐ得票率(10%超)を記録したが、今回は1%超の得票率にとどまった。EU離脱を掲げるUKIPの得票が激減したことも、労働党の健闘と合わせて、英国政治の「潮目」が変わったのかもしれない。その結果は、比例代表制で行われる次回の欧州議会選挙結果で明らかになるであろう。

130キラーカーン:2017/10/12(木) 01:04:09
6.3.1.3. 米国
6.3.1.3.1. トランプ大統領の誕生
 2016年の世界での最大ニュースがトランプ大統領誕生であったと認定しても、少なくない人が首肯するであろう。それほどまでに、トランプ大統領の誕生は世界に驚きと衝撃をもって受け入れられた。そして、大統領選を通じてグローバル化の「勝者」であるリベラルと「敗者」である「ラスト・ベルト」の労働者が対照的に映し出された 。勿論、前者の代表がヒラリー・クリントン女史で後者の代表がドナルド・トランプ氏であるのは論を待たない。クリントン氏はまさに「リベラル・エスタリッシュメント」の象徴として捉えられた 。

 ヒラリー・クリントン氏やハリウッドスターに代表される「セレブ」なリベラルがマスコミと一丸となって中間層(トランプ支持派)を「敗者」と見下し、見捨てるという構図は大統領選挙で明確に見受けられた 。その一方、大統領選挙でトランプ支持者に取材すると「『オレに意見を求めてくれるのか』『長く話を聞いてくれてありがとう』と喜んでくれた。しばらくして、わかった。自分の声など誰も聞いていない。自分の暮らしぶりに誰も関心がない。あきらめに近い思いを持っている人たちが多かった」 との反応が返ってきたというのがその一例である。

 トランプ支持を公言するとマスコミから人種差別主義者を始めとするリベラルから「PC」で袋叩きに遭うという現状から、マスコミの世論調査でもトランプ支持を公言できないという「隠れトランプ支持派」が存在するとされていた。大統領選挙の結果はその存在が事実であったことを如実に示した。

 大統領選挙でトランプ支持を公言した者に対して暴行を加えるという事件も発生しており、「残虐さ」ではリベラルも「極右」 も差はない。それどころか、マスコミは「極右」の暴力は

 トランプ氏は、リベラル的価値観ではなく、「没落した中間層」に「未開拓の票田」を見出し、大統領に当選した。この結果、リベラルを敵に回し、「分断」と正面から対峙せざるを得なくなったトランプ政権が、とりあえず、4年間の任期を全うできるか否かが焦点である。

131キラーカーン:2017/10/14(土) 02:14:04
6.3.1.3.2. シャーロッツビルでの左右両派の衝突
 2017年8月、米国バージニア州シャーロッツビルで、右派(白人至上主義者)と左派が衝突し、その際、左派の女性1名が死亡した。

 この衝突の発端は、南北戦争での南軍の司令官であったリー将軍の銅像を撤去することに反対の人々による集会であった。その集会に参加した人の中に、白人至上主義者やネオナチをいわれる者が参加したことに対してリベラル側が抗議集会を行った。その両派の集会を分離できずに衝突したが発端であった。

 先に述べたように、右派の参加者に白人至上主義者が存在していた。このことによって、この問題は、人種差別の克服という現代アメリカの「国是」を巡る論争へ移行した。また、左派の側に車で突入したことによる死亡者が発生したこともあり、マスコミの論調は「右派の全面否定」という様相を呈していった。

 この一連の事件に対し、トランプ大統領は、人種差別と「双方」の暴力を批判したことで、マスコミはトランプ大統領に「人種差別容認」とのレッテルを張ったが、左派の「暴力」については何も触れなかった。

 その後、左派の「反差別活動」はエスカレートし、米大陸を「発見」したコロンブスが「人種差別主義者」であるとして毀損されるという事例も生じ始めている 。このような事態を受け、トランプ大統領は「リー将軍の次はジョージ・ワシントンか」という旨の発言をしたが、当該発言も物議を醸しだしている。

6.3.1.3.3. 「分断」を白日の下に曝したトランプ大統領
 このような、一連の事態をリベラル・左派は「分断」と称している。そして、その分断は、「右派」によって生じたものであるとしている。さらに、シャーロッツビルの事件が深刻化した原因を「白人至上主義者」に対して断固たる態度をとらないトランプ大統領に原因があるとしている。

 しかし、トランプ大統領は「極右」の存在を完全に否定しなかったことで初めて、「分断」が認知された。確かに、大統領選挙結果からも「分断」の存在は可視化されていたともいえるが、今回のシャーロッツビルの事件によって、その分断が「だれの目にも」明らかになったことは相応の意味がある。

 トランプ大統領は「暴力的な左派」の存在を事挙げすることにより、リベラル・左派の暴力行為及び「違法行為」も避難していることもマスコミの批判を浴びている。「目的のためなら『違法』な手段も正当化される」というのはリベラル・左派の「伝統芸能」であることは、ソ連などの社会主義諸国の例を引くまででもない。また、北朝鮮や中国といった現時点における社会主義国が抑圧的な体制である事も論を俟たない。

 今般のシャーロッツビルの事件においてもリベラル・左派は、トランプ大統領が白人至上主義者を批判しなかったこと及び彼らの「暴力」をこれまでにない勢いで批判している。しかし、リベラル・左派の暴力・違法行為について批判することはない 。

 これまで、欧米のリベラル・左派は我が国のそれとは異なり、二重基準と反転可能性については厳しいものだと思われてきた。しかし、今回のシャーロッツビルの事件に対する一連の反応から、少なくとも米国のリベラル・左派は我が国のそれと同様の「自分勝手なダブルスタンダード」の陥穽に嵌ったと判断せざるを得ない 。
シャーロッツビルの事件におけるリベラル・左派の行状は「しばき隊」のそれの忠実なコピーのように見える。

132キラーカーン:2017/10/15(日) 00:31:17
1.1.1.1.1. 「分断」を作り出したのはグローバル化とそれに掉さしたリベラル・左派
 マスコミの論調ではこのような分断を生じさせたのはトランプ大統領の政治姿勢であるとされている。しかし、実際には、「分断」をもたらしたのはリベラル・左派の側である。トランプ大統領派その「分断」を利用して大統領になり、かつ、その「分断」を白日の下に曝したが、「分断」そのものの「原因」ではない。

 「ラスト・ベルト」に代表されるように、トランプ氏の大統領選出馬前から、米国には、グローバル化の波に乗れず、その結果、リベラル・左派から見捨てられた「没落した中間層」が既に存在していた。リベラル・左派はそのような存在から目を背け、無視し、「存在しない」かのように振る舞っていた。それを象徴するのが、ヒラリー・クリントン元上院議員の「deplorable」という発言であった。

 このように、リベラル・左派はそのような「没落した中間層」の存在を認知しないことよって、「分断」が存在しないものとして振る舞っていた。そのような「没落した中間層」の存在を否定する限り、「没落した中間層」との間に生じた「分断」の存在も否定され続ける(相手が存在しない限り、「分断」も存在しない)。

 また、リベラル・左派は「グロール化に掉差した成功者として、合法・違法を問わず、国境を超える人々の人権を擁護する一方で、「没落した中間層」の窮状に耳を傾けることはなく、彼らの窮状を無視し続けた。

 そして、リベラル・左派が育成・培養した「分断」即ち「没落した中間層」が一定の割合を超えたとき、彼らの代表が政治の舞台へ躍り出る。その代表例が共和党ではトランプ大統領であり、民主党において、そのような「没落した中間層」の声を救い上げたのは「極左」のバーニー・サンダースであった。

 大統領となったトランプ氏は言うに及ばず、サンダース氏も、エスタブリッシュメントの代表となったリベラル・左派の代名詞的存在となったヒラリー・クリントンに一太刀浴びせ、大統領予備選でも、最後まで、ヒラリー・クリントン女史と民主党候補の座を争った。このことからも、左右問わず、このような「没落した中間層」の声が大統領選を左右するまでに大きくなっていることを可視化した。

133キラーカーン:2017/10/19(木) 23:38:24
6.3.1.3.5. 南北戦争を巡る米国の歴史認識論争、それとも、米国の「文化大革命」

 先に述べたように、シャーロッツビルの事件の発端は、同市にあるリー将軍の銅像の撤去を求める声に対する抗議集会であった。リー将軍の銅像の撤去を求める声の背景にあったには「黒人奴隷制度を維持しようとした南部連合の総司令官であるリー将軍は人種差別主義の象徴である 」というものであった。その騒ぎが大きくなり、また、シャーロッツビル以外の地においても、「奴隷制度を支持した」南軍関係の銅像の撤去や目に触れないようにするなどの措置が広まっている。

 このような状況の中で、南北戦争の「敗者」である「南側」視点の「歴史認識」は奴隷制容認の御題目の前に十把一絡げに葬り去られようとしている。また、南軍関連の銅像が毀損される だけではなく、動機は不明であるが、リンカーン大統領の銅像に火をかけられたという事件も発生している 。

 南北戦争とは関係ないが、ジョージ・ワシントンといった人物についても「当時」奴隷を保有していたことや以って銅像が撤去されるとの懸念も出始めている 。また、米大陸を「発見」したコロンブスの銅像が毀損されるという事件も発生している 。

 ここまで事態をみると、かつて我が国でも四半世紀ほど前に繰り広げられた「歴史認識論争」が米国内部で行われている(というよりも、事件の激烈さから「歴史認識闘争」という方がより実態に即しているかもしれない)。また、このリベラル・左派による見境のない行動を文化大革命に准える人も出てきている。

 この南北戦争を巡る歴史認識論争は、これまでに述べたグローバル化が原因ではなく、国内事情というローカルな要因であるというところに特色がある。この場合、南側は我が国と同じ「敗戦国型」のネトウヨ化が深化するものと考えられる。ただし、コロンブス像にまで問題が波及していることから、南北戦争を超えて「コロンブス以後」のアメリカ合衆国の歴史に波及する可能性もある。

134キラーカーン:2017/10/21(土) 00:40:21
6.3.1.4. 仏国(「マクロン旋風」と「国民戦線」)
6.3.1.4.1. 大統領選挙(「対NF(国民戦線)大同盟」?)

 フランスはシラク大統領時代に大統領の任期が7年から5年に短縮された(シラク大統領再選時の2002年の大統領選挙から適用)。この憲法改正により、米国のような同時選挙ではないが、大統領選挙と国民議会選挙が同時期に行われるようになった。このため、大統領の与党と国民議会多数派とが異なる「コアビタシオン 」が生起する確率は低くなったといわれている 。

 コアビタシオンとは。我が国では「ねじれ国会」に相当する事態である。仏国第五共和国制において、大統領と首相との役割分担に関する規定が必ずしも明確でなかったことから、コアビタシオンの場合、大統領と首相のどちらが行政府の実権を握るのかという点が議論されてきた 。これまでの実例の積み重ねから、コアビタシオンが生起した場合、大統領が外交・防衛分野を担当し、首相が内政分野を担当するのがフランス政治における憲法的習律(暗黙の了解事項≒慣習法)とされている。

 2017年の大統領選挙の事前予想では「国民戦線」のルペン党首の決選投票進出が確実視されており、第1回投票 の結果、当初の予想通り、ルペン党首と「無党派(独立系)」で立候補したマクロン氏の両名が決選投票に進出した。

 確かに、事前予想ではルペン、マクロン両氏がやや優位に立っていたとはいえ、第1回投票直前では、中道右派のフィヨン氏と左翼のメランションの2氏を加えた4氏の支持率が20%前後で拮抗していた。このため、態度未定の有権者の動向によっては、4氏全員に決選投票進出の可能性があり、決選投票進出者が誰になるか予断を許さない状況であった。左右二大勢力に加え、極右(ルペン氏)と無党派(マクロン氏)が加わった四つ巴の選挙戦は第五共和国政治史上まれに見る大混戦であったといえる。

 そのような選挙戦の中で、特筆すべき事項として、現職大統領であるオランド氏が出馬断念に追い込まれたことである。更に、オランド大統領後継氏としての大統領与党(中道左派)の候補者が上位4人に大差を開けられていた。

 このような戦況情勢はフランス政治における「リベラル」或いは「左派」の退潮を示していた。「没落した中間層」を取り込むような「反緊縮」或いは「大きな政府」路線はメランション氏のような急進左派の主張となってしまい、冷戦終結後における左派・リベラルの主流派である「グローバリズムと多様性」では、最早「没落した中間層」をはじめとする国民多数派の支持を得られないような状況になっている 。

 マクロン新大統領は新首相に保守派のフィリップ氏(共和党)を指名した。現時点でのマクロン新党(「共和国前進」)の現職議員は社会党からの鞍替組のみという左派色が強いため、フィリップ首相指名を梃子に保守派の支持を獲得したいものと見られている。

135キラーカーン:2017/10/26(木) 00:30:57
6.3.1.4.2. 「NF(国民戦線)」に次はあるのか

 2017年の大統領選挙第一回投票では上位(有力)4名が支持率20%前後で争うという混戦となり、決選投票の顔ぶれさえ予想困難であった。しかしながら決選投票進出者は、事前の世論調査で僅差ながら上位であった、独立系(右派)のマクロン氏と国民戦線のマリーヌ・ルペン氏となった。その点では、激戦だったとはいえ、世論調査通りの「順当」な結果であった。

 国民戦線は2002年の大統領選以来の決選投票進出となった。2002年の大統領選では国民戦線は決選投票でも票の上積みができず(得票率は第一回投票から微増16.86%⇒17.19%)、決選投票に進出したことに意義があるという結果でしかなかった。

 しかし、2017年の大統領選挙では得票率を1.5倍以上に増やしており(21%⇒35%)、15年前に比べて国民戦線への拒否感は薄れているとみられる。国民戦線も人種差別主義的言動が目立った初代のジャン・マリー・ルペン氏から、二代目党首のマリーヌ・ルペン女史になってから、従来の人種差別的な政策ではなく、「フランス及びフランス国民ひいては欧州民主主義を防衛するための移民制限」という欧州の価値観防衛を前面に出している効果が表れていると見られる 。

 したがって、ルペン女史が共和党及び社会党という二大勢力を破り、決選投票に進出したという選挙結果は国民戦線にとって「次の大統領選」或いは国民議会選挙につながる敗北であったとみることができる。しかし、「反NF大同盟」に対抗できる切り札がなければ、マクロン新大統領が5年間の任期で結果を出せず国民戦線以外の選択肢が無くなったとしても、決選投票で勝利するには今のままでは不可能ということも予感させる。

136キラーカーン:2017/10/28(土) 01:06:19
6.3.1.4.3. 国民議会選挙(マクロン派の地滑り的勝利)
 「独立派」或いは「無党派」であるマクロン氏が大統領に当選したことで、次の焦点は、既成政党に基盤を持たないマクロン氏が6月の国民議会選挙で多数を握ることができるか否かに移った。もし、「否」となれば、コアビタシオンとなり、マクロン氏の権限は外交・防衛を中心とした外政事項に限定され、欧州の「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対する第一の処方箋となる経済政策や移民政策は国民議会の多数派の信任に基礎を置く首相の手に帰することとなる 。逆にマクロン新党(「共和国前進」)が過半数を制すれば、政府及び議会の双方におけるマクロン大統領の指導的立場が明確になり、マクロン大統領の政治基盤は安定する。

 議会選挙の結果 は、マクロン氏が率いる「共和国前進」が議会の過半数を占める地滑り的勝利であった(577議席中308議席。)。これまで仏政界を牽引してきた左右両派は主役の座から降りることを余儀なくされた。特に中道左派の凋落は激しいものがあった。

 国民戦線は議席を8議席(6議席増)としたものの、選挙制度の壁に阻まれ、議席数は振るわなかった。また、第一回投票結果同士で比較しても、大統領選挙から得票数を減らしており、大統領選挙での敗北の影響があったとみられる。その一方、メランション氏が所属する「屈しないフランス」は得票数は第一回、第二回双方とも国民戦線より少なかったが、国民戦線を上回る17議席を獲得した。

 この選挙結果により、大統領選と国民議会選を近接した時期に行いコアビタシオンを回避するという制度設計が生かされた形となっている。しかし、投票率も第二回投票で43%と史上最低を記録した(前回比11%減)。この点からも、マクロン氏の政権運営には不透明さが漂う。

 仏国でも、EU離脱問題は国内経済問題或いは移民問題と密接に連動している。この状況下で、コアビタシオンとなれば、「非決定による現状維持」の可能性も無視できず、マクロン氏の経済政策(一層のグローバル化の推進)が実行されないという可能性もある。兎に角、フランスの有権者は当面の国家運営をグローバリストに近いマクロン氏に託したということである。

 また、メランション氏率いる「屈しないフランス」が国民戦線を上回る議席を獲得した。このことも、「没落した中間層」を獲得できる政策が、これまでの主流派(左右問わず)からは出てこないことを意味している。マクロン氏の政権運営が失敗すれば、ルペン氏或いはメランション氏の存在感が増すこととなる。そうなれば、ルペン氏にせよメランション氏にせよ、これまでのグローバリズム的路線は転換を余儀なくされる。

137キラーカーン:2017/10/30(月) 01:30:14
6.3.1.4.4. マクロン大統領の失速
 これまで述べてきたように、大統領選挙に続き、国民議会選挙でもマクロン大統領が勝利した。このことにより、「コアビタシオン」の心配のないマクロン大統領の政権基盤は盤石なものとなったかのように見えた。しかし、就任後程なくしてマクロン大統領の支持率が急落している 。この支持率急落は前任のオランド大統領を上回るものと言われ、この趨勢が続けば、オランド前大統領のように、大統領の再選が望むべくもない情勢となる可能性も否定できなくなってきた。

 その場合、フランス国民の受け皿となるのは、「極右」の国民戦線とルペン党首か、「極左」メランション氏か。いずれにしても、
 これまでのような「中道」路線は否定される。
とは言っても、マクロン大統領には5年近い時間がある。言い換えれば、巻き返すだけの時間は残されている。また、マクロン大統領の人気が失速したことで、一敗地に塗れた中道右派の巻き返しのチャンスが巡ってきたともいえる。「マクロン一強」構造が崩壊の兆しを見せていることで、フランス政治の行方も予断を許さない状況となりつつある。

138キラーカーン:2017/11/05(日) 00:33:25
6.3.1.5. 独国(メルケル政権と「ドイツのための選択肢(AfD)」)
6.3.1.5.1. 総説
 メルケル政権はG7諸国の中で抜群の安定度を保ってきた。現在では、G7首脳の中で最先任となっている。また、2013年の連邦議会 総選挙 では、メルケル首相の出身政党であるキリスト教民主勢力(CDU/CSU) が約20年振りの得票率40%超えを達成し、議席占有率も1957年選挙に次ぐ2番目に高いものであった。

 2017年に国民議会の総選挙が行われ、キリスト教民主勢力(CDU/CSU)が引き続き第一党となった。与党の勝利は選挙前から有力視されていたため、その意味では予想通りであるが、選挙前には大連立を組んでいたしかし、他国と比べての保守政党が強いといわれるドイツにおいても反EU及び反移民を掲げる「ドイツのための選択肢(AfD;Alternativ Fűr Deutschland:英語ではAlternative for Germany)」という「極右」政党の台頭が著しい。AfDは2016年に行われた3つの州議会選挙(バーデン=ビュルテンベルク、ラインランド=プファルツ、ザクセン=アンハルトの各州)で5%阻止条項 を突破し、州議会での議席を確保した。

139キラーカーン:2017/11/08(水) 00:39:00
6.3.1.5.2. 堅調な与党(CDU/CSU)と極右政党(AfD)
 2016年に行われた地方選挙では与党第一党のCDU/CSUが堅調であり、地方選挙でも第一党の座を維持した。また、特筆すべき事項として、中央政界では二大政党の間でキャスティング・ヴォートを握り、長らく連立与党の座を維持してきたが2013年の総選挙で得票率が5%に達しなかったため、議席を失った自由民主党(FDP:Freie Demoktatische Partei、英語ではFree Democrat Party)も、一時期の低迷を脱し、連立与党として返り咲いた。

 緑の党は、環境保護を基本とした政党であり、基本的には左派政党と位置付けられている(これは他国でも同様)。しかし、同党の支持者層は、1980年代後半以降、所謂「ブルジョワ層」が主体となっている。その点では「富裕層が『リベラル』を訴える」という「リベラルのセレブ化」(というよりも「セレブのリベラル化」という表現がより適切か)という傾向はドイツにおいても妥当するといえよう。

 この結果、CDU/CSUは緑の党と支持者層が競合するという事態になり、緑の党も「敗者」である疲弊した中間層の声を救い上げる存在とはなっていない。

140キラーカーン:2017/11/12(日) 00:40:36
6.3.1.5.3. 極右政党(AfD)
 AfDは元来、EU離脱と移民反対という政策を掲げており、「国境」にこだわる政党であった。したがって、元来、AfDは反グローバル化を訴える政党ではあるが、経済主導型ではなく、「ドイツ」の維持というアイデンティティー主導型である。この点でAfD日本のネトウヨと共通している。そのため、発足当初のAfDは「没落した中間層」の支持を必ずしも期待しない政党ではあったことを意味している 。このため、本稿では、AfDを「欧米型ネトウヨ」ではなく「ドイツ側ネトウヨ」として独立した類型を設けた理由でもある。

 しかし、AfDは反グローバル化を主張していく中で、「没落した中間層」からの支持が高まり。政党としても彼らの支持を期待するようになる。この結果、AfDは失業率の高い旧東ドイツ地域で支持率が高い 。この点からも、他国と同様に国内の失業と「極右」政党の伸長との間に正の相関関係がみられる。全国レベルでも、連邦議会での議席獲得に必要な支持率である5%を世論調査でも一貫して超えており、2017年の総選挙での議席獲得が確実視されている。

しかし、AfDも2017年4月の党大会で、
①ペトリ党首が連邦議会への立候補辞退を辞退(党首辞任)
②穏健派(現実派)と原理派との路線対立
が明らかとなり、また、世論調査での低迷している(一時期は支持率が10%超であった)こともあり、一時期ほどの勢いは感じられない。

また、AfDの政策で特筆すべき部分として
①現在の歴史教育が『ナチス期に偏重』
②ドイツ史の肯定的部分への視野拡大
を要求しており 、日本における「つくる会」の「自由主義史観」に類似する部分もある。この点は、第二次世界大戦における敗戦国である日本とドイツとの共通点であるともいえる 。

141キラーカーン:2017/11/14(火) 00:13:13
6.3.1.5.4. 2017年9月総選挙
 2017年9月、任期満了によるドイツ連邦議会選挙が行われた。選挙前から、与党第一党であるCDU/CSUの第一党維持は確実視されていた。しかし、大連立を組んでいた二大政党(CDU/CSUとSPD:社会民主党)の一角であるSPDは大連立内閣で埋没し、党勢が伸び悩んでいた。それ以外の中小政党では、前回総選挙でAfDに支持者を食われる形で議席を失ったFDP(自由民主党)の議席回復とAfDの議席獲得が確実視されていた。

そのような中で選挙戦に突入し、投票結果は次の通りとなった。
① CDU/CSUが事前の予想通り第一党の座を維持したものの、246議席(選挙前 311)に減らし、CDU/CSUの得票率は1949年以降最低となった。
② AfDは94議席(連邦議会で初の議席)を獲得し、第三党となった。
③ 前回総選挙で議席ゼロとなった自由民主党も80議席を獲得し、連邦議会に返り咲いた。議席数では緑の党及び左翼党を上回る第四党となった。
④ 左派勢力では、社会民主党が第二党の座を維持したものの、史上最低の153議席(選挙前192)にとどまった。
⑤ 緑の党は69議席(選挙前63)及び左派党は67議席(選挙前64)と微増にとど まり、AfD及び自由民主党の後塵を拝することとなった。

 ドイツの「die Zeit」誌の分析によれば、今回総選挙の特徴は以下のとおりである
① 100万人以上の有権者が今回の総選挙でCDU/CSUからAfDに乗り換えた。
② 前回総選挙で左翼党に投票した者のうち11%がAfDに投票した。
③ AfDの得票のうち140万票が前回棄権した有権者である。
④ 今回自由民主党に投票した者の三分の一が前回総選挙ではCDU/CSUに投票した。

 この選挙結果から見れば、二大政党が議席を減らした分がAfDと自由民主党が分け合ったということになる。CDU/CSUは社会民主党との大連立で「左旋回」したため、CDU/CSUに取り残された右派の支持がAfDと自由民主党に流れ、前回総選挙で社会民主党に投じた層からは、CDU/CSU、緑の党、左翼党へほぼ均等に投票者が流出している。

 また、この選挙結果を受け、
① 大連立でCDU/CSUに埋没した社会民主党が連立を解消
② CDUと議会内統一会派を組むCSUが独自の立場で連立交渉に参加の動き
という事態が発生している。

 CDU/CSUと自由民主党の2党連立では過半数に達しないため、緑の党を加えた三党連立(ジャマイカ連立 )が本命視されているが、緑の党との政策距離が他の二党と離れていると見られていることから、この三党連立交渉は難航が予想される。

 連立の安定度から言えば、CDU/CSUと自由民主党の連立に社会民主党が加わる「超大連立」或いは総選挙前と同様のCDU/CSUと社会民主党が最適解であるが、社会民主党が歴史的敗北を喫した主因がCDU/CSUとの大連立にあったとの見解が一般的であるため、社会民主党が連立に加わることは現状ではあり得ない。

 その一方、安定した連立政権樹立には、与党の政策距離が近接或いは政策位置が連続している必要があるとする連立政権形成理論がある 。したがって、社会民主党を飛ばして緑の党を連立与党に加える「ジャマイカ連立」は連立政権の安定度に黄信号が灯るという結論になる。

 この結果、「ジャマイカ連立」の交渉が難航し、緑の党が連立に加わらない(或いは緑の党が閣外協力に転じる)CDU/CSU-自由民主党という少数連立政権の選択(これでも、社会民主党、緑の党、左翼党という「左派系」3政党の議席数の合計を上回る)の可能性も否定できない。

 更には、連立交渉難航の末、「三顧の礼」をもって社会民主党を連立与党にする大連立の復活もあり得ない話ではない 。この場合の前提は、緑の党との連立交渉が決裂することが前提である。過去において、CDU/CSU及び社会民主党双方との連立経験がある自由民主党が連立与党に留まるかは流動的である。

 AfD躍進の陰に隠れているが、連立政権となるメルケル政権の安定度にとっては、社会民主党の大敗、自由民主党の復活という「穏やかな右傾化」の影響の方が大きくなっている。

142キラーカーン:2017/11/18(土) 02:13:28
6.3.1.5.5. 今後のドイツ政治・社会
 既に述べたように、AfDの支持者層は、元来、「没落した中間層」ではなかった。しかし、反移民、反EUを訴える中で、「没落した中間層」を支持者に取り込んでいくうちに、運動方針も過激化していった。そのことは2017年総選挙での投票結果にも表れている。AfDは旧東ドイツ地域での得票率が高く、ルール地方或いは大都市での得票率が低い 。CDUよりも保守的と言われるCSUの地盤であるバイエルン州においてもAfDは順調に得票を伸ばしている。

 このことは、移民による「没落した中間層」の存在はドイツにおいても存在していることを意味している。大連立によるCDU/CSUの「左旋回」により、中道右派から保守に位置する有権者層の受け皿として従来のFDPと並んでAfDが選択されている。また、AfDには左翼党からも支持者を獲得していることから、旧東ドイツ地域を中心に「没落した中間層」からの支持を得ているとみられる。

 ドイツにおいて移民制限について議論することは、ホロコーストというナチスドイツに関する「歴史認識」を問われることと不即不離の問題として。この点が他の欧米諸国とは異なるドイツ独自の事情として存在する。そのため、先に述べたように、AfDもナチス時代の「自虐的な」歴史認識を問題としている。

 また、AfDは、その主張を過激化していった。政党が、主張を過激化・明確化・純化することは、「固定票」を確実に獲得できることが見込める。このことから、包括政党を目指さない(≒連立与党入りを目指さない)単一争点型政党において、確実に得票を重ねるため、そのような主張の過激化を行うことが発生する。AfDにおいても例外ではなかった。今回総選挙でも、選挙後にAfDの穏健派幹部が離党した 。
 EUの下で「欧州の盟主」として繁栄してきたドイツも他国と同様に、グローバル化による社会の分断の洗礼を受けている。これまで、先進国随一の安定度を誇ってきたメルケル政権の「最後の正念場」といえるかもしれない。

143キラーカーン:2017/11/22(水) 00:07:11
6.3.1.6. 伊国(「フォルツァ・イタリア」の勃興)
 イタリアでは、かつての自民党のように保守政党であるキリスト教民主党(DC)が一党優位的な政党構造であった。そのような一党優位的な政党構造は1990年代初めの「タンジェントポリ」といわれる政界汚職事件でDCをはじめとする既成政党が軒並み甚大な損害を受け、イタリア議会は再出発を余儀なくされた。このため、タンジェントポリを契機とする政治改革が一応の成果を見た1994年以降は第二共和政と言われる。

 イタリアは、北部が工業、南部が農業(一次産業)と南北の相違が明確であった。ミラノ、トリノという工業化の進んだ大都市を要する北部の方が経済的に豊かであった。そのため、北部の豊かな経済を他地域に分配せず、北部で独占すべきという方向での排外主義が生まれた。

 そのような「裕福さを維持するための排外・分離主義」 的な政党として「北部同盟」が1980年代末に結成された。国外では仏国民戦線や蘭自由党という「極右」政党と連携しているため、一般的には「極右」と言われている。国会や欧州議会にも議員を送り出しているが、地域政党の域に留まり、全国レベルでは、ベルルスコーニ氏が率いる「フォルツァ・イタリア」が右派の主軸となり、しばしば下院第一党 の座を獲得している。その結果。ベルルスコーニ氏も何度が首相の座に就いている。

 「フォルツァ・イタリア」は保守政党に分類され、「極右政党」や「ポピュリスト政党」には分類されないのが一般的である 。しかし、かつてイタリアを代表する保守政党であったDCとは異なり、イデオロギー上の明確な核を持たない政党と言われている。
また、政党としての行動もトップダウン型の「身軽さ」を武器にしていることと相まって、「フォルツァ・イタリア」はベルルスコーニ氏の「個人商店」という趣がある 。このため、「フォルツァ・イタリア」はDCのような保守政党というよりは「ポピュリスト政党」として扱われることが多い。このような「融通無碍」さと「身軽さ」が、「フォルツァ・イタリア」は保守政党ではなくポピュリスト政党に分類される理由ともなっている。

 結党当初、「フォルツァ・イタリア」は「1ビット」或いは「敵か味方か」的な二元論的な主張を繰り広げた。これは、イタリア第二共和制において、第一党に有利な比例代表制を取り入れたため、「右」のブロックでの優位を確実にするための行動とも言われている。この点も、小選挙区導入が主眼であった日本の「政治改革」と共通する。

 結局、ベルルスコーニ氏の個性、崩壊したDCをはじめとする既成保守層の取り込み、イタリアにおける二大政党ブロック化に伴う政策争点の近接化 など種々の要因が絡み合って、「フォルツァ・イタリア」は、イタリア政界において、「極右」ではなく、保守の「主流派」に近い位置を占めることとなった。
フォルツァ・イタリア」は2009年に「国民同盟」と合同して「自由の人民」となったため、一度、政党としては消滅した。その後、ベルルスコーニ氏が「自由の人民」から分派する形で、2013年、「フォルツァ・イタリア」が再結成され、現在に至っている。

144キラーカーン:2017/11/23(木) 00:27:23
ドイツの連立交渉が難航しておりますが、
問題は
1 AfDを連立交渉から排除
2 社民党は連立与党にはならない
という連立方程式の「答えが無い」と言う状態に陥ったことです

選挙結果から見れば、CDU/CSUと社民党との大連立
しか答えが無いのですが、上記の「2」から、それが不可能
となっていることです。

ここまでくれば、社民党に首相の座を渡してのCDU/CSUと
社民党との大連立継続という奇手も出てくるかもしれません

145キラーカーン:2017/11/26(日) 01:12:54
6.3.2.1. オランダ(既成政党が辛うじて踏み止まった)
6.3.2.1.1. 「極右」政党成立前史
 オランダでは、長く社会民主主義政党(左派)、キリスト教民主主義政党(中道右派)、自由主義政党(右派)が三大政治勢力であった。1970年代からの都市化、グローバル化などにより、これら三大政治勢力の支持基盤が流動化した。三大政治勢力の中で、この流れに乗ったのが自由主義政党であった。20世紀初頭から、「万年三位」に甘んじてきた自由主義政党が、2000年代初頭には、世論調査で、しばしば支持率第一位になるまでに党勢を拡大してきた。

 世論調査での支持率が一位となる事は議会第一党の座が視野に入るということを意味する。そして、それは、1918年以来、久しく絶えてなかった自由主義政党からの首相輩出が現実のものとなる事を意味した。自由主義政党からの首相輩出が指呼の間に迫ったその時、オランダ政界は激震に襲われることとなる。「フォルタイン党」の結成と同党の躍進であった。

 イスラム圏からの移民増大により、「没落した中間層」が発生した。彼らの不満が醸成される中で、イスラム教徒の「排他的」性格が、欧州の「自由主義」と相容れないのではないかという疑念が沸き起こってきた。それは、911同時多発テロ事件以降、イスラム過激派によるテロの増大によって裏書されてきた。

 そのような中、イスラムとの「融和」を唱えるリベラル・左派よりも、欧州の「自由主義の敵」としてイスラムを理解するという「排外主義」が発生してきた。オランダの「極右」政党は、そのような「西欧的価値観の守護者」として現れた。

146キラーカーン:2017/11/27(月) 00:59:19
6.3.2.1.2. 「フォルタイン党」の結成と躍進
 総選挙 を2か月後に控えた2002年3月、有名コラムニストのフォルタイン(Fottuyn)が「フォルタイン党」を設立した。同党の方針は、①既成政党批判、②多文化主義批判ひいては移民批判、が二本柱であった。結党二か月程度、そして、フォルタイン党首が投票日直前に暗殺されたのにも拘らず、同年5月の総選挙では第二党となり、連立与党の一角を占めた。

 初の総選挙で第二党に躍り出たフォルタイン党の政策や同党の躍進に見られる既成政党への不満は、支持者層が(一部)重なる他の連立与党(キリスト教民主主義力及び自由主義政党)にも影響を与えていった。フォルタイン党以外の連立与党は支持者をフォルタイン党に奪われるのを防ぐため、キリスト教民主主義勢力や自由主義政党は連立政権の政策として移民規制を取り入れることとなった。
フォルタイン党躍進のあおりを受け、2002年の総選挙では、自由主義政党は議席数を三分の二程度(38議席から24議席)まで減らすという敗北を喫した。この結果を受けて、自由主義政党も一般党員の声を聴くという「党内改革」を打ち出した。

 自由主義政党は、それまで、地方名望家などからなる「エリート政党」という色彩を残していた。しかし、フォルタイン党の躍進を受け、自由主義政党でも、「エリート」以外の支持者の不満を解消するため、一般党員や党員ではない支持者の声を丹念に拾い集めるという「党内改革」を行った。しかし、その「党内改革」は党勢を立て直すのではなく、本来の支持者層である所謂「エリート層(富裕層や地方名望家)」とそれ以外の党員・支持者との「路線対立」を引き起こした。後者は、後に自由主義政党を離脱し、自由主義系ポピュリスト政党を立ち上げることとなる。

147キラーカーン:2017/11/28(火) 00:45:07
6.3.2.1.3. 自由主義系ポピュリスト政党の出現とフェルドンクの退場
 フォルタイン党の躍進を契機とした自由主義政党の路線対立から、自由主義政党を離れて独自の政治活動を行う者が現れた。そして、その中から政治指導者として現れたのがウィルデルス(Wilders)とフェルドンク(Verdonk)であった。まず、フェルドンクについて述べる

 フェルドンクは、学生時代、最左派に属する政治的立場を取っていた。しかし、司法省や内務省での勤務経験を積むうちに「右旋回」し、自由主義政党へ入党することとなる。フェルドンクは女性であったこともあり、フォルタインに支持基盤を切り崩されようとしていた自由主義政党立て直しの旗頭とされた。フェルドンクは外国人・移民問題担当大臣として入閣し、移民・難民に対して厳しい政策を実施していった。

 そのような「右傾化」した政策は党の内外に物議を醸しだしたが、世論調査の結果を見る限り、彼女の人気は上がっていった。その国民的人気に対する反作用として、エリート主義の抜けきらない自由主義政党内部では、彼女は冷ややかな視線を浴びていた。とはいっても、自由主義政党はフォルタイン党の出現以後、有権者の支持を獲得するため「民主化」を迫られていた。2006年、来る総選挙の筆頭候補者(≒首相候補)を、初めて、一般党員の投票で決定することとした。彼女は筆頭候補者を争う党員選挙では、主流派の擁立した候補に敗北したが、彼女は諦めなかった。

 オランダの下院総選挙は比例代表制でありながら、個人名での投票も許容されていた 。この選挙生徒を利用して、彼女は、個人名投票を事実上の国民投票として、党員選挙での逆転を図ったのであった。その結果、本番の総選挙では、彼女は、自由主義政党の個人票で最多得票を獲得した。しかし、党執行部は党員投票の結果を優先したため、彼女と党執行部との亀裂が深まり、彼女は離党を余儀なくされた。

 彼女は新党「オランダの誇り」を設立し、2010年の総選挙に臨んだが、党内の指導力を確立できず、また、かつて左派の政治志向を持っていたことが災いし、獲得議席は「ゼロ」であった。この結果、彼女は政界引退を余儀なくされた。

148キラーカーン:2017/11/29(水) 00:34:32
6.3.2.1.4. ウィルデルスの台頭と自由党の結成
 ウィルデルスは10代後半にイスラエルに長期滞在した経験を持つ。その際にイスラムに潜む問題性を認識したといわれている。その後も、イスラエルを頻繁に訪れている。

 イスラエルから帰国してからは、オランダの社会保険関係の機関で勤務した。その時の経験から、労使の組織利益が優先されオランダ全体の利益が蔑ろにされているとの考えを持つに至ったとされている。その後、オランダの自由主義政党に入党し、有能な党職員として頭角を現した。また、イスラムに対する問題意識から、911同時多発テロが起きる以前からイスラム教徒によるテロの可能性を指摘していたことから注目を浴びるようになった。

 しかし、その後、イスラムを巡る扱いで、穏健路線をとる党執行部や議員団と衝突し、自由主義政党を飛び出し、独自の政治活動を行うようになる。

 ウィルデルスは2005年の欧州憲法条約批准を巡る国民投票で、反イスラムの立場を取り、国民投票を批准反対に導いた政治指導者としても注目を浴びるようになる。この結果を受け、ウィルデルスは「自由党(Partij voor de Vijheid:Party for the freedom)」を設立した。

6.3.2.1.5. 自由党の躍進
 自由党として初の総選挙となった2006年の総選挙において、自由党は得票率約6%で9議席を獲得した。その後。同党は10〜15%程度の得票率であり、オランダ政治における主要政党の座を獲得したといってもよい 。

 ウィルデルスは、イスラムの脅威を訴え、断固とした措置を訴える一方、既成政党による「古い政治」を打破するという姿勢を取り続けている。そのような自由党の支持層は、男性、若年層、非キリスト教徒、低学歴といわれている。それに加えて、「移民に批判的」及び「既存の政治に対する不満が強い」、「直接民主主義志向」があるといわれている。

149キラーカーン:2017/12/03(日) 00:15:30
6.3.2.1.6. ウィルデルスとフェルドンクを分けたもの
 ウィルデルスとフェルドンクは「似た者同士」であった。しかし、現在では、ウィルデルスの自由党は主要政党の一角を占め、フェルドンクの「オランダの誇り」は1議席も獲得できず政治の表舞台からの退場を余儀なくされた。このように、両者の現状は対蹠的である。

 では、ウィルデルスとフェルドンクの明暗を分けた者は何であったのか。ウィルデルスの手法を見ると
① 自由党員はウィルデルス「ただ一人」である(候補者や運動員は支援者に過ぎない)。
② 候補者の「質」には細心の注意を払っている(議席数よりも議員の質を優先)。
③ ウィルデルスの「一人政党」のため、制度化と意思検定に関する問題が生じない
と、「一人政党」ポピュリスト政党が陥りがちな急激な拡大による、①質の劣化、党としての規律低下、という悪弊を避けていることが自由党の成功の要因と見られている。

 一方、フェルドンクは、政治の「アウトサイダー」として民衆の期待を煽るカリスマという「正統的なポピュリズム」の道をなぞっていた。そして、そうであるが故に、政党の規律などが欠如し、「風頼み」から脱却できなかった。これが、ウィルデルスとフェルドンクとを分けたものであるといえよう。

150キラーカーン:2017/12/05(火) 23:46:18
6.3.2.1.7. 2017年総選挙(自由党の第一党ならず)と左右分極化?
 2017年3月に行われた総選挙は、英国のEU離脱、米国でのトランプ大統領誕生と「ネトウヨ化」の流れの中で行われることとなった。このような世界情勢を受け、オランダでも自由党が第一党(=ウィルデルスが首相となる)となる予想が有力であった 。しかし、選挙結果は、与党第一党である自由民主国民党(Volkspartij voor Frijheid en Democratie:People’s party for Freedom and Democracy)が踏ん張り、第一党の座を維持した。自由党も議席数を増やした(15議席⇒20議席)ものの第二党に留まり、ウィルデルス首相の誕生とはならなかった。

 この選挙結果は土壇場で「極右」政党の首相を阻止したが、自由党を「拒絶」したわけでもない。それどころか、国民への支持は広まっており、将来のウィルデルス首相誕生の可能性を残したものであった。

 このように、保守、右派が支持を伸ばしたのに対し、連立与党である中道左派の労働党(Partij van de Albeid:Party of the Labor)が議席を激減させた(38議席⇒9議席)。しかし、候等よりも「左」に位置する環境左派である「GL」(Groen Links:Green Left)及び「民主66」(Politieke Partij Democraten 66:Political party Democracy 66)が議席を伸ばした(GLが4議席⇒14議席、民主66が12議席⇒19議席)ことから、英仏両国と同様に左派の支持層が中道左派から急進左派へと「左傾化」或いは「過激化」していることが伺える。

 これは、左右両派で、穏健な中道路線よりも「過激な」路線が好まれている、或いは、「大統領制化」の影響と見ることも可能である。

 とにかく、自由党の第一党は指呼の間に迫ってきた。大統領選或いは総選挙で「敗北した」フランスの「国民戦線」とは異なり、次の総選挙でのウィルデルス首相の可能性が現実のものとなってきた。それとの合わせ鏡のように勢力を伸ばした急進左派勢力にも注目する必要がある。「イタリア第一共和制」のような分極化された多党制 に向かうのか、それとも、中道右派勢力が勢力を維持し、中道左派が巻き返すことにより、「国民統合」を回復するのかが注目される。

151キラーカーン:2017/12/08(金) 00:47:29
6.3.2.2. スイス(「魔法の公式」の崩壊)
6.3.2.2.1. スイスの政治体制と「魔法の公式」
 スイスは有名な多言語国家 であり、また、建国の経緯からも、連邦制を採っている。内閣を形成する7人の大臣は「同格」であり、輪番で1名が連邦大統領の職を務める。国会は、二院制である。同じく連邦制を採るドイツと同様に、国民による総選挙(比例代表)で選出される国民議会と州代表で構成される全州議会からなる。

 スイスは、内閣の構成員は、1名ずつ両院議会総会で過半数の賛成でもって選出される。スイスは、言語、宗教、地域による差異が大きく、内閣の構成員を選出する過程で与党は「過大規模連立」となりやすい。この結果、スイスでは、1950年代末から、自由民主党、キリスト教民主党、社民党及び農民党が7つの閣僚の座を2:2:2:1で分け合うという体制が維持されてきた。この内閣構成員の配分比率は「魔法の公式」と呼ばれてきた。

152キラーカーン:2017/12/09(土) 00:28:56
6.3.2.2.2. 「農民党」から「国民党」へ
 内閣構成員を送り出していた主要4政党は、特定の社会階層を支持基盤とするのではなく、国民全体を支持基盤とすべく包括政党化を目指していた。ここでは、農民党を取り上げる。農民党は1971年に「スイス国民党」へと党名を変更し、党の路線も保守から中道へ移行させたが、支持率は1990年代初頭まで10%程度にとどまっていた。

 地方レベルでは、農民党の系列であるチューリヒの地域政党「チューリヒ州党」が1970年代後半に実業家のクリストフ・ブロハー(Christoph Blocher)を党首に選出したことで、同党は転機を迎える。ブロッハーは「経営者目線」で党の改革に着手したが、支持者を若年層や女性に拡大したが、自由主義的な方針であったため環境問題等で立ち遅れ、1980年代後半には党勢は頭打ちとなった。

 この情勢を受け、ブロッハーは党の政策を「右転回」させていく。ブロッハーは「真面目」に働く者こそが「真のスイス人」であるとし、外国人などと区別していった。併せて犯罪や麻薬などの問題を「社会の安全」の問題と捉え、この両者を「移民」で結びつけた。 この結果、ブロッハーの政策は「怠け者の外国人」にも福祉を提供するリベラル的政策とは一線を画し「福祉排外主義」に近くなっていく。

 この「右転回」が功を奏し、国民党は1990年代に支持を伸ばしていく。この背景には、国民投票の機会が多いスイスの政治制度があると見られている。国民投票の度に、各政党は直接国民に訴えかける機会が発生し、国民党はそれを支持率向上へ結び付けた。
この実績を基に、ブロッハーはチューリヒの地方政治家の枠を超え、1996年の党大会で自派が党首と国民議会議員団長を獲得した。これは、ブロッハーが国民党内の権力闘争にも勝利したことを意味していた。

153キラーカーン:2017/12/11(月) 23:05:45
6.3.2.2.3. 国民党の急成長(党首の発信力とネット時代への対応)
 欧州各国の谷間にあって永世中立国として冷戦の影響をあまり受けなかったスイスであったが、(経済の)グローバル化の波は例外なくスイスにも襲ってきた。「魔法の公式」を支えてきた主要政党の「棲み分け」の基礎となっていた宗教や都市/農村などによる旧来の社会的分断線が曖昧となってきた。その代わりに、グローバル化における「勝ち組」と「負け組」が新たな社会的分断線として浮上してきた。

 国民党は冷戦終結という事態に対応し
① 反共・反社会主義(特にマスコミ、大学の「左傾化」への反感)
② スイスの歴史の中に存在する自由と自立の擁護による新自由主義と保守主義の両立
を柱として、冷戦後の社会主義・共産主義の敗北とグローバル化が進む世界情勢に巧みに対応し、スイス国民の支持を伸ばしていった。

 このようなグローバル化の進行の中で「負け組」に分類されたのは、伝統産業、自営・中小企業経営者、農民、肉体労働者であった。彼らは、当初、既成政党ではなく、「極右」に分類される新興政党の支持基盤となっていったが、最終的には国民党へ吸収されていく。

 「勝ち組」のうち、経営者層は国民党の支持基盤となっていき、情報・文化産業労働者や知的労働者層は社民党などのリベラル勢力の支持基盤となっていった。このように、国民党の支持者は「没落した中間層」に代表される「負け組」だけではなく、「勝ち組」(市場万能主義者)も存在していた。この点グローバル化における「勝ち組」を支持者に取り込んだという点において、スイス国民党は、日本の「維新」や「みんなの党」に代表される「第三極」と共通した特徴を持つ。

 また、国民党はブロッハー党首の「発信力」を活かし、他党に先んじて議題や論点を設定し、有利な土俵を設定した上で議論を有利に展開した。このスタイルはインターネットが普及したという時流にも乗った。この点も橋下徹氏の「発信力」と「ディベート力」に依存した大阪維新系の政党との類似性がある。

154キラーカーン:2017/12/13(水) 00:02:10
6.3.2.2.4. スイスの政治制度と「二者択一」との親和性(国民投票制度)
 スイスは、他国のような行政府の長が存在せず、国会議員から選ばれた7人の閣僚が対等であるという大統領制とは程遠い政治制度である(「首相」に相当する閣僚会議議長は輪番制)。しかし、5万人以上の署名を集めれば通常の法律案でも国民投票に付すことができるという制度があるため、他国に比べ、立法過程において国民投票が行われる頻度が高い。国民投票では「賛成」か「反対」の二者択一となるため、国民投票は全国規模で有権者に二者択一を迫ることとなる。

 このような国民投票が多用されるスイスの政治制度において、国民党が行った二者択一的な訴えは効果的であった。この結果、大統領制或いは大統領制化と程遠いとスイスの政治制度においても、大統領制化とは異なる形で二者択一と親和性の高い政治体制の下で「ネトウヨ化」が進んでいった。

6.3.2.2.5. スイスの「歴史認識」とネトウヨ化
 橋下元大阪市長の政治手法に見るまでもなく、二者択一的な訴えを行う場合、「敵」を措定する方が広範な支持を集めやすい。しかし、敵を措定するためにも、ある程度は「アイデンティティー」を持っておいた方がよい。スイス国民党がそのために用いたのは「歴史認識」であった。

 第二次大戦期、スイスにも、少なくないナチ協力者が存在したといわれている。しかし、国民党はスイスの現在に至るまでの独立と永世中立の歴史を前面に出した。具体的には
① エリートはともかく、一般国民は中立を守った
② 中立を守るために国境を守る『排外主義』は肯定される
③ スイスの連邦制を堅持することによる「国民投票制度」の維持
というものであった。

 国民党は、スイスの「誇りある歴史」を援用することによって、これまでの支持層を維持しつつ「極右」、肉体労働者、単純知的労働者という「没落した中間層」をはじめとする新規支持者の獲得に成功した。この結果、1999年の総選挙で議席数では社民党に及ばなかったものの、得票率では社民党と並ぶ第一党になった。

 このように、スイスの「ネトウヨ化」も他の欧米型(ドイツを除く)と同様に、移民問題に代表される経済問題主導型であるが、歴史認識を「ネトウヨ化」の補強材料としている点が他の欧米型ネトウヨ勢力とは異なる。

155キラーカーン:2017/12/13(水) 23:59:13
6.3.2.2.6. 国民党の伸長と「魔法の公式」の崩壊
 国民党は、得票率で第一党に躍り出た1999年選挙以後、「魔法の公式」の変更を目指した。しかし、先に述べたように、閣僚の選出には両院総会で過半数の賛成を得る必要がある。しかし、過半数を制する政党が存在しない現状では、閣僚の選出には、他党の協力が不可欠である。この閣僚選出制度が障害となって、国民党は、一人しか閣僚を選出できず、さらに、国民党の伸長(ネトウヨ化)の立役者であるブロッハーを閣僚に選出することができなかった。この背景には、閣僚の選出は現職優先ということもある。

 このため、国民党は「閣内野党」的立場を強め、国民投票制度を活用することによって政府に揺さぶりをかけていった。国民党は2003年の総選挙で、議席数、得票率ともに第一党の座を勝ち取った。国民党はブロッハーを含む2人の閣僚を送り込むことに成功した。それとの入れ替わりで、キリスト教民主党の閣僚数が1になった。

6.3.2.2.7. 国民党とスイスはどこへ向かうのか
 「魔法の公式」を覆してブロッハーの入閣に成功した後、国民党は内閣の決定をコンセンサス・全会一致方式から多数決制に変更しようとする。他の主要三政党は、危機感を持つ。しかし、2007年の総選挙で国民党は更に党勢を伸ばし、議席数・得票率とも史上最多となったのである。

 ここで、他の主要三党は「禁じて」を放つ。現職優先の閣僚選出の両院総会で現職閣僚であるブロッハーの再選を阻止したのである。この結果、国民党は下野し、選出された閣僚は党籍を離脱することとなった。国民党内でも「路線対立」が表面化し、ブロッハーを支持しない「穏健派」が国民党を離脱し「市民民主党(Bürgerich Demokratische Partei)」を結成した。その後、国民党を離党した閣僚が辞任し、その後任に国民党の閣僚が選出されたため、国民党は与党に復帰した。この結果、「魔法の公式」は自民:2、社民党:2、キリスト教民主党、国民党、市民民主党各1となった。

 2015年の小選挙では過去最多議席を更新し、閣僚配分も自民:2、社民党:2、キリスト教民主党:1国民党:2と2003年時点に復帰した。今後も、国民党の第一党体制はしばらく続くものと見られる。ただし、「協調・多極共存型」と言われるスイスの民主政治に意義を唱えたブロッハー国民党は今が絶頂期 であるとの見方もある。この後、スイスはどこへ向かうのだろうか。

156キラーカーン:2017/12/16(土) 01:13:42
6.3.2.3. オーストリア(ハイダーと自由党を中心に)
6.3.2.3.1. 総説
 オーストリアは、戦後長く、中道右派の国民党(Österreichsche Volkspartei:ÖVP)と中道左派の社会党(Sozialistische Partei Österreichs:SPÖ)との二大政党制となっていた(社会党は1991年に社会民主党へ改名)。1980年代半ばまで二大政党の間で埋没していた小政党であった.オーストリア自由党は1980年代半ばから勢力を伸ばし、1999年総選挙で国民、社会両党に匹敵する議席を獲得し、中道右派の国民党の連立相手として政権与党にもなった。これが、西欧諸国の極右政党の中で初めて政権与党となった事例である。

 オーストリアは大統領と首相の双方が存在する。大統領は国家元首であり、憲法上、首相以下の閣僚、最高裁判事などの高官の任免権を持ち、下院の解散権も有する。しかし、大統領の権限は首相によって代行されている。このため、オーストリアの政治体制は、憲法上は半大統領制と言えるが、実際上は議院内閣制となっている 。

 オーストリアドイツと同様に連邦制を採っている。このため、上下両院の選出方法もドイツと類似している。上院は各州代表として、各州議会によって指名される。しかし、ドイツとは異なり上院議員は個人で投票に参加する。下院は比例代表制により国民の直接選挙で選出される。

 比例代表制であっても、オーストリアは長らく社会党と国民党が二大政党として君臨していた。オーストリアの政党政治の特色として、両党の単独政権だけではなく、両党による「大連立」政権がしばしば樹立されることにある 。このため、オーストリアの政治風土は二大政党による対立主義ではなく、二大政党を含めた各種利益団体の同意・コンセンサス志向型 であるといわれる。しかし、冷戦終結後、グローバル化の流れの中で、そのようなコンセンサス方式による意思検定が揺らぎつつあった。

 ハイダー氏が党首となって以後の自由党は、グローバル化と冷戦終結という世界の変化に対応し、二大政党によるコンセンサス方式を(時代遅れ)の「既得権益」と攻撃する一方、グローバル化による外国人の流入によってオーストリア人のオーストリアが乱され、また、外国人によって国内オーストリア人の雇用が奪われたという主張を展開した。この点において、自由党は他の欧州諸国の極右政党と同一線上にある。しかし、旧ナチ党員の親を持つハイダー氏が「親ナチ」的だとして明確に排除の台頭となったのは他国と様相を異にする。

 また、ハイダー氏は党首討論などで「党首の個性」というものを党の任期を直結させることに成功しており、その点からは政治の「大統領制化」という最近の特徴も備えている。
自由党の政権参画は、そのコンセンサス方式放棄の流れを決定づけた。1990年代以降、自由党の躍進により、国民・社会(社民)二大政党制から、国民、社民、自由の三党鼎立体制となりつつある。

 しかし、「大連立」が例外的な手法ではないというオーストリアの政治風土は、大統領選挙のように「あれかこれか」という二者択一、ひいては国家規模の分断を迫る「1ビット脳的」政治とは異なり、「あれもこれも」という「ネトウヨ化」に対する処方箋の可能性を感じさせるものである。

157キラーカーン:2017/12/17(日) 23:09:36
6.3.2.3.2. ハイダー自由党の党勢拡大と政権参画
 オーストリア自由党(Freiheitliche Partei Österreich:FPÖ)は、ハイダー氏が党首になるまでは得票率5〜6%の小政党に過ぎなかった。1980年代前半には右派の国民党内では左派(リベラル派)に属するシュテーガー(Steger)党首の下で社会党と連立政権に参加することもあった。
しかし、連立政権に参加したことによる埋没及び、経済のグローバル化を背景に自由党内はシュテーガー党首のリベラル路線よりもイェルク・ハイダー(Jörg Haider)氏の「極右」路線が自由党内で支持を拡大したことが挙げられる。元ナチ党員を両親に持つ家庭環境で育ったハイダー氏は自然と戦後の「非ナチ化」に反発し、親ナチ的思想、ドイツナショナリズムを身に着けていった。ハイダー党首は自由党の「右傾化」を主導し、国民党躍進の立役者となった 。しかし、その言動から、ハイダー党首には親ナチ的政治家という評価が定着していた。

 ハイダー氏は自身に対抗する党員を自由党から追放するなど自由党の党内権力を掌握していき1986年には党首に就任した。ハイダー氏は党内権力掌握の過程において執行部よりもハイダー氏個人の指導力に負っていた部分が大きい。この点においても、現代政治における「大統領制化」を先取りしたものといえる。

 ハイダー党首は、既成政党を既得権益層として、学者、マスメティアを左翼・共産主義者として、外国人をオーストリア人の職を奪う者として郷劇の対象とした 。その結果として、EU(欧州統合)懐疑主義を採っていた。

 自由党はハイダー氏が党首に就任した1986年9月以降から党勢を拡大させ、冷戦終結によってその勢いを加速していき、1999年の総選挙で65議席獲得した国民党に次ぐ第二党 となり、ついに連立与党となった。

 スイスと同じくオーストリアにおいても経済のグローバル化と冷戦終結により、国民党、社会党という二大政党への凝集力は失われつつあった 。

 ハイダー自由党は、このような「極右的」主張を行うことによって、これまで「代替案」の存在しない政治体制(≒「大連立」が頻繁に生起する体制)の中で、二大政党制に風穴を開ける唯一の選択肢となり得たのであった。その結果、この二大政党に飽き足らない国民、特に若年層に対して、「既得権益に切り込む新しいリーダー・政党」という形で支持を拡大していった。元来、自由党は高年齢の自営中間層を基盤としていたがハイダー党首の下で若年層はもとより、ホワイトカラー。主婦、自営業者にも支持を拡大していき、更には、1999年の総選挙で、ハイダー自由党は社会党と匹敵し得る程度に労働者層の支持を集めるようになっていた。

 しかし、ハイダー党首の親ナチ的言動が問題とされ、入閣が見送られることとなった。州知事として統治経験を有していたハイダー党首が入閣できなかったことにより、自由党は政権の中で埋没していった。

 自由党の政権参画により、
① 政府事業の民営化
② 社会保障ではなく、自助努力を優先
③ その一方で育児手当の拡大
④ 法人減税
という新自由主義的政策変更がもたらされた。ただし、上記「③」については、女性、特に母親がフルタイムの労働者ではなく、パートタイマーを選択する誘因となり、「母親が家庭にいる」時間の拡大をもたらすという「保守的な」効果があった。

158キラーカーン:2017/12/19(火) 23:33:44
1.1.1.1.1. 自由党の失速から「オーストリア未来同盟」の結成、そしてハイダー氏の死
 連立与党となった自由党であったが、失速の兆候は1999年の総選挙直後から存在していた。

 既に州知事でもあったハイダー党首は、その言動から親ナチス的政治家とみなされていた。そのため、総選挙の結果、政権与党入りが確実になると、周辺諸国から、反ハイダーの声が高まり、ハイダー党首の入閣が見送られたのは先に述べたとおりである。与党経験が長い国民党、特にシュッセル首相(国民党党首)に対し、与党経験のない自由党が渡り合うためには、州知事経験のあるハイダー党首の副総理(格)としての入閣がほぼ必須条件であった。しかし、ハイダー党首の言動が災いし、その条件は成就しなかった。

 自由党は、国民党との連立政権の中で埋没し、支持率を低下させていった。ハイダー自由党は既得権益への「対抗者」ではなく、政権与党として「既得権益」側として選挙戦を戦うことを強いられた。その結果、連立与党となった後の地方選挙で得票率を減らし続け、2002年総選挙で議席をほぼ三分の一に激減するという「大敗」を喫したことが如実に表れていた。そのことは、1999年の総選挙でハイダー自由党が二大政党から「奪った」有権者が二大政党への「帰還」を意味していた 。

 ハイダーは入閣できなかったことを逆手に取り、自由党の党勢が失速したのは入閣した自由党幹部の責任とし、彼らを自由党から追放することに成功した。その後、ハイダー氏が党首に就任しないため、党首は短期間での交代が続き、自由党の体制は混乱した。結局、ハイダー氏は自由党から脱党し、「オーストリア未来同盟(BZÖ:Bundnis Zukunft Österreich)」を結成し、自由党所属議員の殆ど(18人中16名)がハイダー氏と行動を共にした。この結果、自由党の党勢の衰えは決定的になった。

 しかし、結局、「未来同盟」が自由党と入れ替わる形で連立与党となり、「未来同盟」もこれまでの自由党と同じく自由党の「ポピュリスト」的政策と連立与党としての責任との間で板挟みになり、党勢は伸び悩んだ。その結果、2006年総選挙では総選挙前の16議席から7議席に議席を減らした。この選挙では社民党が第一党に返り咲き、国民党との「大連立」が復活した。

 その後、2008年総選挙では「未来同盟」は21議席を獲得し「勝利」したが、その直後ハイダー党首が死去した。ハイダー党首死去後の2013年総選挙では議席獲得がならず、現在、「未来同盟」は消滅過程に入っている。

159キラーカーン:2017/12/24(日) 01:46:33
6.3.2.3.4. ハイダー離党後の自由党の復活
 2006年総選挙の結果、社民党が68議席、国民党が66を獲得し、第一党の社民党と第二党の国民党との大連立が復活した(自由党は21議席)。ハイダー氏による内紛の結果、連立与党から転落した自由党であったが、自由党はハイダー氏の「未来同盟」を尻目に2002年総選挙から3議席増の21議席を確保し、党勢を維持した。

 大連立復活後、与党第二党の国民党の中には大連立に対する不満が高まり、国民党の要求に応える形で2008年に総選挙が行われた。社民党が第一党を死守したが、社民、国民両党が議席を減らし、自由党と自由党分派であるハイダー氏の「未来同盟」が議席を伸ばした(社民党57、国民党51、自由党34、未来同盟21)。

 結局、社民党主導の大連立という「元の鞘」に収まったが、社民、国民両党とも議席を減らすという辛勝でもあった。二大政党が伸び悩む一方、自由党と未来同盟の合計が51議席と国民党の獲得議席数を超えた。

 その後、2013年の総選挙では、社民党52、国民党47、自由党40と事実上、三党鼎立状態となった。

 この選挙結果を背景に、自由党はいくつかの州政府では連立与党となっている。また、シュトラッヘ自由党党首は穏健路線を選択し、党内の右派を切り捨てた。その結果もあってか、2016年の大統領選挙では、同党のホーファー候補が第一回投票で第一位となった(決選投票で緑の党のファン・デア・ベレン候補に敗北)。

 このように、自由党は社民党及び国民党に次ぐ第三党の地位を確実にしつつあり、また、2016年の大統領選挙では二大政党以外の候補者が決選投票に進出したことで、オーストリアの二大政党制も岐路に立っている。

 「極右」国民党は、オーストリア政治の中で確固たる地位を占めているという意味では、欧州各国において最も成功した「ネトウヨ政党」といえるかもしれない。

160キラーカーン:2017/12/25(月) 01:58:41
6.3.2.3.5. 2017年総選挙(国民党の「右旋回」と自由党の復活)
 国民党は左からは社民党、右からは自由党の挟撃を受ける格好となった。2017年5月、国民党は移民に対して厳しい態度を採る31歳のクルツ外相を党首に立て、「右旋回」した形で選挙戦に臨んだ。結果的に総選挙の前哨戦となった大統領選挙で自由党のホーファー候補が決選投票に進出したこともあって、右派政党である国民党及び自由党の優位が予測されていた。

 選挙結果は、国民党61、自由党53、社民党52となり、自由党が1999年以来となる第二党となった。この選挙結果から、下馬評通り、国民党と自由党との連立政権の発足が確実視されて、2017年12月、連立協議がまとまり、国民・自由連立政権が発足することとなった。先の大統領選挙と併せて、後世、この選挙でオーストリアは国民、社民、自由の三党鼎立時代に入ったと評されるかもしれない。

 自由党は国民党との連立内閣で、外相、内相、国防相という外交防衛治安を所掌する大臣ポストを獲得し、移民受け入れなど対外治安対策については、これまで以上に強硬な姿勢を採ることになると見込まれる。

6.3.2.3.6. 自由党の復活をもたらしたもの
 2017年10月総選挙は、オーストリアに二大政党ではなく三党鼎立、それも、国民党の「右旋回」と極右」自由党の台頭という「右傾化した三党鼎立」、という選挙結果をもたらした。このようなオーストリアの「右傾化」も他の欧州諸国と同様に移民問題に対する国民の不満が直接の契機となっている。国民党の「右傾化」も「欧州型ネトウヨ化」した国民を支持者層に取り込むためという正当戦略上至極当然の結果である。

 オーストリアの二大政党制及び最近のオーストリア自由党の復活を前提とすれば、国民党が支持者層を拡大するためには、二大政党の一角である社民党の支持者を奪うよりは、自由党の支持者を奪う方新規獲得支持者数が多い。また、政策位置的観点から見ても、かつて社会党と名乗っていた左派である社民党支持者層よりも、保守或いは右翼政党と言われた自由党の支持者層を奪う方が容易であったと思われる 。

 これらのことから、国民党の支持者を拡大するためには社民党の支持者を取り込むべく「左旋回」するよりも自由党支持層を取り込む「右旋回」の方が容易であったと考えられる。また、社民党が第一党である状況で大連立を組んでいた2006年以降、「左派」の社民党に対する反感(或いは大連立での埋没感)も後押ししたのかもしれない。

 一方、そのような国民党の「右旋回」により、国民党との支持者の競合が激しくなったとみられる自由党が社民党と同程度の得票を挙げたことは、国民党だけではなく、オーストリア国民全体の「右旋回」が明らかになったともいえる。

 ハイダー氏が自由党党首になって以降、反移民、EU懐疑という政策を訴えてきた自由党が、「親ナチ」と言われたハイダー氏の軛を脱し、州政府での連立実績も踏まえ「『老舗かつ政権担当能力のある』欧米型ネトウヨ政党」として体制内政党として認知されてきたのが大きいと思われる。

161キラーカーン:2017/12/27(水) 01:48:52
7. 結論:グローバル化とリベラル・左派への反発としての「ネトウヨ化」
7.1. 結論1:「ネトウヨ化」の正体
7.1.1. 「ネトウヨ(化)」の類型化
 「世界総ネトウヨ化」といっても、その様相は単一ではなく、類型化が可能である。ネトウヨ化には
① 経済的軋轢主導型か歴史認識問題主導型か
② 戦勝国か敗戦国か
という2つの軸があり、それによって、各国のネトウヨ化も4つに分類が可能である。ただし、敗戦国であることと歴史認識主導型というのは親和性がある。これは、「歴史認識論争」においてある国家・共同体の持つ「歴史認識」が批判されることによって引き起こされるが、その場合、批判される「歴史認識」は所謂「敗者」の歴史認識であることが一般的である。ナチスドイツを巡る「歴史認識論争」は言うに及ばず、日本における「歴史認識論争」もそのような側面を持つ。しかし、敗戦国であることと歴史認識主導型が同一ではないとの判断から、この2つの軸を基準としている(後掲図1参照)。

 2つの軸によるに時限座標では4つの象限が存在する。そのことは、「ネトウヨ化」も、理論上、4類型が存在することを意味する。しかし、これまで述べてきたように、現在確認されている「ネトウヨ化」は3つであり、4つではない 。

その3種類とは、
① 「欧米型ネトウヨ化」(経済軋轢主導型)
② 「日本型ネトウヨ化」(歴史認識論争主導型)
③ 「ドイツ型ネトウヨ化」(経済軋轢・歴史認識複合型)
の3種類である。

その「ネトウヨ化」の特徴を類型ごとに纏めると、
① 欧米型:移民受け入れによる移民との経済面の軋轢から、世代を跨いで定住した移民
  との社会面への軋轢へ発展
② 日本型:「歴史認識論争」において母国の側に立つ「移民(在日朝鮮人)」との軋轢か
  ら「在日特権」という経済的不公平感が絡む「反移民(在日朝鮮人)感情」
③ ドイツ型:移民受け入れによる経済面の軋轢に「歴史認識問題(ナチス)」が絡む反移
  民、反リベラル化
となる

 これらのいずれの形態においても、結果として現れるものは「移民への反発」である。だからこそ、これらの傾向はその結果から「右傾化」と言われ、或いは、その政治手法から「ポピュリズム」という語で一括りにされ、「同じ物」であると認識されて 。

 「日本型ネトウヨ化」は歴史認識主導型であるが、日本において「福祉排外主義」が存在しないわけではない。日本においてもデフレ不況などから、生活保護の需要が高まる一方で、生活保護の支給レベル及び支給決定に関する不公平感から「生活保護バッシング」が発生した。「生活保護バッシング」そのものは日本国民に対する福祉の「公平な充実」を求めるものであるため、福祉排外主義にはなり得ない。

 在日韓国人の生活保護受給率及び在日韓国人が生活保護を不正に受給していたという事例が発生したことにより、それまで「在日特権」と呼ばれていたものと融合して「福祉排外主義」というべき事象が発生した 。しかし、そのような「福祉排外主義」は、飽く迄、それまでにも存在して「嫌特定アジア」とりわけ「嫌韓」感情を増幅させるものであって、「福祉排外主義」が主要因というわけではない。

 このことは、移民が押し寄せた国家において、新たに流入した移民と旧来からの住民との間の軋轢に起因する社会不安リスクが増大することを意味する。移民との軋轢が社会不安の直接の契機である以上、その社会不安リスクを解消する方策として経済面及び社会面の両面から移民排斥を唱えるという結果に至る。したかって、その傾向が「極右化」或いは「ネトウヨ化」と称されることは然程不合理ではない。改めてネトウヨ化の類型を図式化すれば、次の図のようになる。

162キラーカーン:2017/12/28(木) 01:19:10
7.1.2. 日本型ネトウヨ化(アイデンティティー危機が発端)
7.1.2.1. 「ネトウヨ化」の主要因である「歴史認識論争」の発生

 繰り返しを厭わず言えば、日本のネトウヨ化は、移民受け入れによる経済的な軋轢からネトウヨ化した欧米とは異なり、「従軍慰安婦問題」に代表される「歴史認識論争」に端を発する。

 「日本型」及び「ドイツ型」のネトウヨ化は、第二次大戦の「敗戦国」で生じ、それらの国々による第二次大戦中の行為は侵略に付随する行為ということで「絶対悪」という烙印を押された。その「烙印」に権威を与えたのは、日本に対しては東京裁判であり、ナチスドイツに対してはニュルンベルク裁判であった。だからこそ「東京裁判史観」という語も生まれた。そして、その「戦後処理」を国際法上担保するものとして、国際連合に「敵国条項」が設けられ 、国際連合の公用語である中国語表記(=正式名称)は「連合国」である。

 第二次大戦の敗戦国、特に日本とドイツは、第二次世界大戦という総力戦における徹底的な敗戦により、戦争中の事象は「歴史上比類のない悪行」として否定された。敗戦国は自国の歴史に誇りが持てず、否定的な態度を示すことが「国際社会」から強制されることに対する反発として現れる。

 国家或いは民族集団という共同体のアイデンティティーを形成する核として歴史 は大きな役割を果たす。このため、ということで、「歴史認識」が「ナショナル」なものを想起させる引き金として「ネトウヨ化」に対して影響を及ぼす。

 ある共同体のアイデンティティーに直結する「歴史認識」ついて「部外者」から否定的言辞で語られ、かつ、その言辞が「国際社会」からの圧力という形でもたらされる場合、当該共同体の中から、そのような外部からの「歴史認識」の強制に対する反発が生まれ、その結果外国に対し厳しい対応を求める態度として現れることは十分に予想される。

 このような部外者による「歴史認識」への介入を「グローバル化」の一環として是認したのがリベラル・左派である。このような「集団としての自己決定権」でさえも、「グローバル化」の名の下に放棄することさえ厭わなかった。

 そのような、リベラル・左派の態度は、経済政策面においては、移民によって発生した「没落した中間層」(ドイツ)や産業空洞化によって発生した「失われた世代」(日本)に該当する人々を自己責任であるとして無慈悲にも切り捨てていくことに繋がっていった。その結果、リベラル・左派は「自国民よりも(在住)外国人を優先」するという共通認識を生み出していった。

 冷戦の終結と社会主義の敗北により、存在意義の消滅の危機に瀕した左派は、社会主義に代わる理論的根拠を「歴史」に求めた。そして、その「歴史」から導き出される「悪の大日本帝国」の復活阻止或いはその遺産の糾弾を「錦の御旗」。それを梃子に左派としての「運動体」としての生き残りを図った。そのための「錦の御旗」として用いられたのが「従軍慰安婦問題」であることは、これまでに述べてきたとおりである。

 その「歴史認識論争」を仕掛けた左派と在日朝鮮人が「大日本帝国という『悪の象徴』」を媒介として共闘したことから、歴史認識論争は在日朝鮮人問題という色彩も帯びた。戦後、外国からの移民を他国に比べて厳しく制限していた 。このため、移民の流入に苦慮する欧米諸国とは異なり、日本では在日朝鮮人が「移民」と称され得る事実上唯一の存在であった。したがって、日本においての移民問題或いは在日外国人問題は在日朝鮮人問題のみであるといっても過言ではなかった 。このため、日本における「移民問題」は、まず、歴史認識論争の形をとって現われた。

 しかし、「歴史認識論争」は、多分に理念上の論争であり、経済的利害に結びついた議論ではなく、「日本人としての原罪」を巡るものであった。また、在日外国人の絶対数及び人口比率も欧米と比べて格段に低いため、欧米で見られるような、民族集団通しの争いは生じることがなく、また、経済的利害で在日朝鮮人と敵対関係になることはなかった。

163キラーカーン:2017/12/28(木) 22:52:59
7.1.2.2. 経済のグローバル化(産業空洞化)は「ネトウヨ化」のきっかけではない
7.1.2.2.1. 産業空洞化及びデフレ不況による「失われた世代」の発生
 日本では他国と比べて、終身雇用制である事と解雇の要件が厳しいといわれていることから、一度正社員となれば、刑法犯などよほどのことがなければ解雇されることはない。これに合わせて、日本は外国からの移民や難民の受け入れ数が少なく、日本の中間層の職を奪うほどの数的規模ではなかった。この結果、欧米とは異なり、経済のグローバル化による移民の流入によって日本国民が職を奪われることはなく、ひいては「中間層の没落」は生じなかった。

 日本ではグローバル化の影響は、移民の流入とは逆に、企業が海外に進出するという「産業の空洞化」として現れた。つまり、移民の流入による「没落した中間層」は発生しなかったが、産業の空洞化の結果、そもそも就職できない若者が増大した(「就職氷河期」の発生)。

7.1.2.2.2. 日本において「グローバル化」は「反移民感情」を惹起させなかった
 デフレ不況と産業空洞化の結果、日本では、グローバル化の負の影響は「没落した中間層」ではなく、そもそも没落しようのない「就職できなかった若年層(所謂「フリーター」、「ニート」)」として現れた 。後に、彼らは「失われた世代」と呼ばれることとなる。

 この若者の就職難約10年に亘って継続したため、「就職氷河期 」と称されるようになった。このような長期の就職難の時代が発生したことにより、就職できなかった学生が社会に無視できない割合で存在することとなった。しかし、「最初から転落した若者」の存在による経済面での悪影響が社会全体で認知されるには相応の時間が必要であった。

 日本は、従来、国外からの移民受け入れ数は少ないといわれている。このため、他のG7諸国とは異なり、経済がグローバル化されても、移民の流入による社会不安はゼロではないが他のG7諸国と比べて低い水準にあった。

 日本において「福祉排外主義」が勃興するのは、その「失われた世代」が一定の規模となったことから、社会保障制度が社会的問題となった以後である。社会保障制度が社会的問題となる中で、「生活保護バッシング」に代表される社会保障制度の欠陥と「在日特権」が結びつくことで「嫌韓」或いは「嫌特亜」意識に裏打ちされた「福祉排外主義」が勃興してくるのである。

7.1.2.2.3. デフレ不況による「福祉排外主義」と「ネトウヨ化」への影響
 日本は他のG7諸国と比べて移民が少ないといっても、先に述べたような「福祉排外主義」が日本の「ネトウヨ化」を加速或いは従来のネトウヨ層を先鋭化させていったのは間違いのないところであろう。

 しかし、繰り返しを厭わずに述べれば、日本においては「福祉排外主義」とは関係なく「2002年の衝撃」により「ネトウヨ化」が進行していたということが欧米型ネトウヨ化と決定的に異なる点である

 このまま、所謂「アベノミクス」が軌道に乗り、日本の経済が回復し、福祉排外主義が無くなったと仮定しても、日本においては、最早、「ネトウヨ化」は止まらないと思われる。

 それは、「2002年の衝撃」から見ても明らかである。また、ユネスコの世界遺産認定を巡る対立に見られるように「嫌特定アジア」の主戦場は依然として「歴史認識論争」である。「従軍慰安婦強制連行説」が事実上破綻した今日では、新たに「関東大震災における朝鮮人虐殺」や「第二次世界大戦中の強制労働」を「錦の御旗」を変えて運動を継続しようとしている。そこには、欧州に見られるような「福祉排外主義」は見られない。

164キラーカーン:2017/12/28(木) 22:56:26
7.1.2.2.4. 「在日特権」と社会保障制度改善要求の混合物としての「福祉排外主義」
 バブル崩壊後の景気低迷は2000代半ばに一息ついたが、それもつかの間のことであった。2008年のリーマンショックで全世界的な不景気となり、日本も多大な影響を被った。リーマンショックによる不況と「2002年の衝撃」以後醸成されてきた「嫌韓(ネトウヨ意識)」とが結びつくこととなった。これにより、日本のネトウヨと欧米の「極右」のイメージがある程度重なるようになった 。具体的には、生活保護受給を巡る「不公平感」を巡る問題として表面化した。

 生活保護は日本国憲法第25条に規定された生存権の具現化であり、生活保護は現金が支給されるだけではなく、本来3割が自己負担となる保険診療も自己負担がゼロとなるなどの特典もある。

 これらを勘案した「実質支給額」を加味すると年金生活者はもとより、デフレと就職氷河期で低賃金に甘んじている若年層(その象徴として「年収300万円」という語がある )よりも支給水準が高い(実質年収400万円)ともいわれている 。

 このため、生活保護関連費の地方自治体財政負担は小さいものではない。このように、生活保護は一部(25%)が地方自治体負担(75%が国庫負担) となることから、自治体財政健全化の見地からは生活保護認定を極力制限するということが「適切な行政」となる。いきおい、生活保護の申請書を窓口の役人が受け取らないといった「水際作戦」というような手法を採ることもあったといわれている 。この結果、生活保護受給認定を受けることは「針の穴を通す」ように難しく、そのため、生活保護が受給できず、「餓死」するといった事件も発生していた。

 しかし、特定の勢力 の「後ろ盾」或いは「口添え」があれば、比較的容易に生活保護の申請が受理されるということも都市伝説的に言われている。また、生活保護の受給認定がなされず餓死するという事案が発生する一方で、本来なら受給されない者に対しても生活保護が受給されるという「不正受給」の問題も表面化した。

 行政(地方自治体)は、日本国民に対しては「あの手この手」で生活保護申請取下を求めるのに、在日朝鮮人に対しては甘い審査で申請を認めるという俗説が所謂ネトウヨ層の間に広まっていった。その俗説を裏付けるかのように在日朝鮮人世帯の生活保護受給率が日本国民との比較でも言うに及ばず、他の在日外国人 と比べても極めて高い水準にあるといったデータがネット上で発表された 。それが転じて、生保受給(認定)も「在日特権」として語られることもあった。

 このような、生活保護を巡る
① 年金生活者や若者の平均年収と生活保護支給水準との間の不公平感
② 生活保護申請すら認めない「水際作戦」と弁護士や地方議員の「口添え」或いは在日
 朝鮮人のような「弱者」には生活保護申請が認められ易いという生活保護認定を巡る
 生活保護認定を巡る不公平感
という2つの不公平感が醸成されていった。

 特に後者の不公平感は、不正受給の温床と言われてきた。この不公平感を裏付けるように、在日朝鮮人による不正受給や平均年収より遥かに高収入の芸能人による生活保護不正受給事案が発覚する一方で、真面目な日本国民には生活保護が受けられず餓死したという事例 も発生している。また、2014年4月には「反差別活動家」であった在日朝鮮人が生活保護不正受給容疑で逮捕(同年8月に有罪判決)されたことも、生活保護バッシングの一環で「福祉排外主義」が勃興する一因ともなった。

 この結果、「歴史認識論争」や「2002年の衝撃」を経た末の「嫌特定アジア」特に「嫌韓」感情の増幅装置として「生活保護バッシング」に代表される「福祉排外主義」が機能したことであった。

 生活保護受給に限らず、リーマンショック以前から、特別永住資格以外にも虚実が入り混じった「在日特権」 と言われるものが存在するといわれてきた。

 それは、生活保護に限らず、住民税減税など在日朝鮮人への「不当」な経済的利益の付与が「在日特権」であるという形で言説化された。「在特会」の「在特」は「在日特権」の略であり、同会の設立が2007年であったことから、「在日特権」そのものについては、リーマンショックの前から人口に膾炙し始めていた。

 結果として、生活保護受給を巡る問題は在日朝鮮人をはじめとする外国人の生活保護不正受給事案の発覚も日本国民と在日朝鮮人との「格差」ひいては「在日特権」の存在を認識させることとなった。国民国家或いは国民主権の建前から言えば、日本国政府及び地方自治体は「日本国民のため」が第一義である。最高裁判所の裁判例もそれを支持している 。したがって、外国人よりも自国民を優先して生活保護を行うべきとの世論すなわち「福祉排外主義」の勃興を促すこととなった。

165キラーカーン:2017/12/30(土) 01:18:20
7.1.2.3. 「1989年の衝撃」(「ネット右翼の発生」)
7.1.2.3.1. 冷戦終結と「歴史認識論争」のグローバル化と産業空洞化
 日本型ネトウヨ化にとって冷戦終結 によるグローバル化とは移民に代表される「人的移動」のグローバル化ではなく、国家、或いは民族共同隊のアイデンティティーに関わる「歴史認識論争」のグローバル化及び人件費等各種経費削減のために国内企業が生産拠点を国外へ移転するという産業の「空洞化」として現れた 。この結果、日本では経済のグローバル化に伴う移民の流入は欧米各国に比べると格段に少ないものであった。このため、日本においては、欧州各国で見られるような経済のグローバル化による「反移民感情」というのは殆ど発生しなかった 。

 最近では右派・保守の側から「歴史認識論争」を「歴史戦」と称することもある 。これは、「歴史認識論争」が一種の戦争であり、ひいては(歴史学の枠を超えて)国際紛争或いは閔則紛争という国際政治の文脈で語られることを示している。

 実際、日本を巡る歴史認識論争の主戦場は日本や中朝韓という当事国ではなく国際機関・会議や米国である 。これは、当事者ではない第三国を味方につけることにより、中朝韓三国が日本に対する有利な立場を得ようとしているからである。

 これまで述べたように、ソ連(当時)が冷戦に敗北したことにより、「社会主義」や「共産主義」は左派の結集軸(「錦の御旗」)としての効力を失った。この結果、日本の左派は左派的活動を継続するために社会主義や共産主義に代わる「錦の御旗」を必要とした。
7
.1.2.3.2. 昭和天皇穂崩御と戦後40年(昭和の「歴史化」)
 冷戦終結と前後して、昭和天皇崩御という歴史的事象も重ねて生じた。昭和天皇の崩御は昭和を「歴史」として扱うことを可能とした。昭和天皇の崩御時、第二次大戦終結から40年以上が経過しており、実際に軍隊経験がある人は既に60歳の定年となり、社会の第一線から退いていた。更に、終戦時に義務教育を終了した年齢層(昭和8年生まれ前後)もあと数年で定年となり、社会の第一線から退場することが見込まれていた。

 このことは、「第二次大戦の体験」が現在の人々が生きる「今」から、社会の第一線を退いた人たちの「過去」即ち「歴史」となる事を意味していた。そのため、昭和戦前期の日本を「歴史的に」捉えることに対する実社会での障害は格段に少なくなっていった。そして、「嘘」を重ねたとしても、「生き証人」から反発を食らう可能性が格段に減少することも意味していた。

166キラーカーン:2017/12/30(土) 01:20:39

7.1.2.3.3. そして左派は「歴史」を新たな「錦の御旗」に選んだ
 このような時代背景により、左派は、社会主義国家や共産主義国家の実現という「未来」よりも「歴史上類を見ない極悪・残虐な大日本帝国」という「過去」を「錦の御旗」とすることを選択した。
歴史という「錦の御旗」下で個別の「象徴的事実」として採用された個別具体的な歴史的事実は色々あるが、衆目の一致する代表的な「象徴的事実」は「従軍慰安婦問題」であるのは衆目の一致するところであろう。この「従軍慰安婦問題」を「エース」として、左派は「歴史認識論争」を仕掛けていった。

 先に述べたように、「従軍慰安婦問題」は冷戦終結とともに歴史の表舞台に躍り出たことは定説化している。知ってか知らずか「従軍慰安婦問題」は日本の左派の「自虐史観」と韓国の右派との「ディスカウント・ジャパン」という「連係」を生み出した。そして、以前から連携していた日本の左派と北朝鮮シンパの在日朝鮮人との連携も含めた日朝韓連携が日本において「反左派」及び「嫌韓」ひいては「反朝鮮半島」感情を生み出し、「日本型ネトウヨ化」へとつながっていった。

 しかし、そのような「反朝鮮半島感情」は、これまで「在日差別」と絡み合った「朝鮮半島タブー」のために1990年代ではあまり大きなものとはならなかった。「反朝鮮半島感情」が「公認」されるのは、日韓W杯及び金正日が日本人拉致を認めた「2002年の衝撃」を俟たなければならなかった。

 このように、1990年代前半の段階で所謂「自虐史観派」は歴史認識論争と冷戦終結により「敵」を見失った韓国の「ナショナリズム」や「東京裁判史観」或いは「戦勝国史観」を巧みに結び付けることに成功した。そのことによって、所謂「自虐史観派」は「歴史認識論争」を自身に有利な形で国際化することに成功した。そのような左派によって仕掛けられた「歴史認識論争」は、日本において、と在日朝鮮人の活動家とが結びついた「反日民族運動」となっていった 。

 この「歴史認識論争」に起因する「ネトウヨ化」(日本型とドイツ型)は基本的に「敗戦国」の側で生じていることが特徴である。というよりも、「勝者の正義」に立脚する戦勝国(特に国連安保理常任理事国)は「勝者の正義」によって「歴史認識論争」によって他国から批判を受ける理由が存在しない。従って、第1図においても、「戦勝国で歴史認識主導型」の象限は空欄となっている 。

167キラーカーン:2017/12/31(日) 02:05:17
7.1.2.4. 「2002年の衝撃」(「ネット右翼」から「ネトウヨ」へ)
7.1.2.4.1. 総説
 2002年は日韓W杯及び小泉総理の訪朝により、「南北朝鮮の『双方』が反日」であることが満天下に示されることとなった。これにより、「差別」という名目で維持されてきた「朝鮮半島タブー」が事実上解禁されることとなった 。

 これにより、これまで、「歴史認識論争」が主であり、反朝鮮半島意識が従という意識が逆転し、反朝鮮半島意識が主、「歴史認識論争」が従という意見が主流となっていく。この

反朝鮮半島意識が主、「歴史認識論争」が従

が主流となる契機が2002年に生じたので、本稿では「2002年の衝撃」と表現している。

 これ以降『嫌韓流』に代表される「嫌韓・嫌朝鮮」本が一つの分野として成立していくこととなる。これも、冷戦終結後に「仮想戦記」が一つの分野として成立したことと軌を一にしている。また、この「2002年の衝撃」をきっかけに一躍小泉後継争いに名乗りを上げ、小泉総理退任後の総理・総裁の座を射止めたのが安倍晋三現総理である 。

 この結果、「ネトウヨ」が「ネトウヨ元年」ともいえる年となった 。

7.1.2.4.2. 「2002年の衝撃」前史
 「従軍慰安婦」問題をはじめとする「歴史認識論争」は1990年代から盛んであった。1990年代半ばから、インターネットの普及により、「歴史認識論争」は市井の人々を巻き込み、更には国境を越えて市井の人々の間で活発に行われるようになった。「新しい歴史教科書をつくる会」には、そのような「インターネットを入り口に、保守/右翼的活動を始めた」人々 が参加していった。そのような「インターネットを入り口に、保守/右翼的活動を始めた人々」が「ネット右翼」と呼ばれるようになっていった。

 現実問題として、ネット上での「言論活動」と「リアル」での運動とは相性が良いとは言えない。このため、「ネット右翼」で「つくる会」などで実際に運動している人の割合は高くないと推測できる(自由時間の一部としてネットでの書き込み・議論などをしており、「野外」での運動に参加する暇がない)。

 したがって、「ネット右翼」には「ネット空間『だけ』で威張っている」という「ひきこもり」や「内弁慶」的な性向を揶揄する響きもある。それが「リアル」で「市民活動」を行ってきたリベラル・左派との大きな相違点となっている。

 そのような「ネット右翼」が「嫌韓」或いは「嫌南北朝鮮」意識を前面に押し出した「ネトウヨ」へ変化する契機となったのが、「2002年の衝撃」である。

168キラーカーン:2017/12/31(日) 02:05:38

7.1.2.4.3. 「2002年の衝撃」
7.1.2.4.3.1. 2002年W杯
 2002年は世界第歳のスポーツイベントの一つであるサッカーW杯が初めてアジアで開催された年でもある。当初、日本の単独開催が有力視されていたが、現代財閥のオーナー一族である鄭夢準氏が国際サッカー連盟(FIFA)の副会長であったことから、韓国側の巻き返しも強烈で、日韓共催となった。

 この開催地を巡る争いで単独開催を共同開催に「譲歩させられた」として、日本側で不満を持つ素地ができた。共催決定後は、韓国側が、「歴史認識」を梃子にして日本側に譲歩を迫る手法を採ってきた。その例として
① サッカーのピッチを題材としたポスターの図柄が「日」の字に似ているとして拒否
② 国名はアルファベット順という慣例を無視して、Korea, Japanの順にした
 (本来はCoreaだったのが、日韓併合時に日本の後に来るようにKoreaとされたと主張)
というものがあった。

 このような韓国側の主張は、どのような案件でも「歴史認識」を持ち出して日本より優位に立とうとするものとして、嫌韓感情がさらに醸成されていった。W杯では韓国が準決勝に進出するというアジア初の快挙を成し遂げたが、韓国戦絡みの「誤審」が相次ぎ韓国による審判買収も取りざたされるような事態となった。FIFA100周年記念DVD収録のW杯「10大誤審」のうち、日韓大会で5つ、うち4つが韓国戦である。

 このような状況であったのにも拘らず、日本のマスコミはこの「誤審」問題を全くといってよいほど報道せず、「日韓友好一辺倒」であったことも「マスコミ不信」が増加することとなった 。とはいっても、この結果、韓国に対する批判が抑えきれなくなっていき「嫌韓」の端緒となっていった。

7.1.2.4.3.2. 小泉総理訪朝
日韓W杯が「韓国批判の解禁」であったとすれば、小泉総理の訪朝と北朝鮮が日本人拉致を認めたことは「北朝鮮批判の解禁」であった。この両者が同じ2002年に起きたというのは象徴的である。つまり、「南北朝鮮タブー」が同時に取り払われたことも「嫌朝鮮半島」に拍車をかけたということは間違いない。

 冷戦時代、当然のことながら、韓国は資本主義陣営、北朝鮮は社会主義陣営の一因であった。このため、リベラル・左派が圧倒的優勢である日本のインテリ及びマスコミにおいては、韓国は「悪の独裁国家 」であり、北朝鮮は「地上の楽園」であった。

 したがって、同じ「朝鮮半島タブー 」といっても、北朝鮮のそれの方がはるかに厳しかった。特に、マスコミでは「北朝鮮」という略語すら単独で使用できず、最初に「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言わなければならなかった。国内においても北朝鮮に批判的な発言をすると、朝鮮総連から「強烈な抗議」を受けたりして日常生活に支障をきたすということが言われていた。

 冷戦が終結し社会主義の退潮が明確になり、更に、日本海側を中心とする日本人行方不明事件が北朝鮮の犯行であるとの状況証拠が揃っても、マスコミや有識者の「北朝鮮への肩入れ」は継続しており、拉致事件も「右翼の反北朝鮮キャンペーン」に利用されるとして表立って取り上げることが憚られる雰囲気であった 。

 そのような、「公開の場において北朝鮮に対してものが言えない雰囲気」が一変したのが、小泉総理訪朝時に金正日総書記が日本人拉致を認めたときであった。そして、小泉訪朝に随行していた安倍官房副長官(当時)が「拉致問題に言及がないならこのまま帰りましょう」と小泉総理に進言したとされている。

 拉致事件を北朝鮮が認めたことにより、これまで「抑圧」されてきた北朝鮮批判、ひいては北朝鮮を陰に陽に支援してきたリベラル・左派への批判が「解禁」されることとなった

169キラーカーン:2018/01/01(月) 02:28:19
7.1.2.5. 「日本型ネトウヨ」は安倍首相の存在により、既存政党に包摂された
7.1.2.5.1. 総説

 これまで述べてきたように、欧州においては、仏国の国民戦線や独国のAfDなどの所謂「極右政党」(本稿での「欧米型ネトウヨ政党」)が存在し、それらの政党が議会に確固たる地位を占めつつある。また、オーストリアの自由党は連立与党入りが取り沙汰されている。しかし、それらの「極右」政党は「アウトサイダー」化しており、議会内で「まともな政党」として扱われていない。それは、第一党が過半数を採ることがない国家、即ち、連立政権が常態である国家において、そのような「極右」政党は連立交渉相手として見做されていない。旧西側諸国においては、唯一、オーストリア自由党のみが連立与党となったことがあるだけである。

 その一方、欧米と同様に右傾化が進んでいるといわれる日本においては、欧米諸国とは事情を異にする。欧米諸国とは異なり「日本型ネトウヨ政党」である「日本のこころ」は事実上自民党に吸収され、政党としては消滅した状態にあるといっても過言ではない 。

 また、米国にも「ティー・パーティー」或いは「オルタ右翼」と言われるような日本でいう「ネトウヨ勢力」が存在するが、それらの勢力は自前の政党を有しておらず、予備選などを通じて共和党内部で影響力を行使する道を選択している 。このように、欧州各国では「極右」と称される「欧米型ネトウヨ政党」が存在しているのに対し、日本及び米国においては所謂「ネトウヨ勢力」が既成政党に包摂されている 。

7.1.2.5.2. 日本型ネトウヨ政党・勢力の現状

 現在「日本型ネトウヨ政党」としては「日本のこころ」があるが、2017年10月の解散総選挙を機に離党者が発生し、同党所属の国会議員が1名となった。この結果、国会議員数での政党要件である「5名以上の党所属国会議員」を満たさなくなった。更に、総選挙での得票数が全国で2%に達しなかったことから、政党要件を失うこととなった 。この総選挙で政党要件に届かないという結果及び国会内では自民党と統一会派を組んでいるという現状により、「日本のこころ」は政党としては事実上消滅状態にある。

 「2002年の衝撃」以降、日本社会では排外主義的な「ネトウヨ化」が着実に進んでいるといわれているのにもかかわらず、日本の政治において「日本型ネトウヨ」は可視化されず、組織化もされていない。わずかに、2014年の東京都知事選で田母神氏が60万票を獲得したという事例があるだけである。

170キラーカーン:2018/01/01(月) 02:28:38
7.1.2.5.3. 日本型ネトウヨを包摂した安倍自民党

 では、なぜ、日本では欧州各国とは異なり、「ネトウヨ政党」特に「日本型ネトウヨ政党」が存続できないのかが論点となる 。日本で所謂「ネトウヨ勢力」の活動が認知されだしたのは「2002年の衝撃」の後、となる。小泉政権時代の「強力」な自民党に陰りが見え、ねじれ国会となり、リベラル・左派政党である民主党が自民党に代わって政権に就くという可能性が無視できなくなっていった。

 そのような状況の中での「ネット右翼」の危機感が「在特会」の結成(2007年)など、所謂「ネトウヨ勢力」がネットだけではなく「リアル」の世界でも政治的活動を行うようになっていった。民主党が政権与党であった2009年から2012年は、民主党が明確な「敵」であり、また、中国漁船の海保巡視船への「体当たり事件」など、所謂「ネトウヨ勢力」が危機感を持つ事象が発生していた。

 2012年に第二次安倍政権が発足した後は、「安倍一強」ともいわれる政治情勢の中、安倍総理が所謂「ネトウヨ勢力」を自民党に繋ぎ止めている格好となっている。

 安倍晋三氏は「2002年の衝撃」を機会に頭角を表し首相にまで上り詰めた。また政治思想的にも「自民党の右」に位置する政治家であるとされており、月刊誌に寄稿した文章も「戦後レジームの打破」など「自民党の右」という世評に違わぬものであった。このため、安倍氏はリベラル・左派からは「ネトウヨの頭目」とみなされている 。

 このような経緯から、安倍総理はリベラル・左派からは「不倶戴天の敵」扱いされていることは容易に想像がつく。安倍総理は確かに「自民党の右」に位置する政治家であるが、実際の政策はそれほど「右」というわけではない。「特定秘密保護法」や「平和安全法制」や「共謀罪」の法定化は世界標準で見れば当然の法整備であり、それ自身が「右」と言われるものではない。そのため、外国では、安倍総理は「リベラル」な政治家と見られることもある 。

7.1.2.5.4. 安倍自民党以後に日本型ネトウヨ政党は復活するのか

 現時点において日本型ネトウヨ政党が一定の政治勢力まで成長していないのは、安倍晋三という個人に日本型ネトウヨ勢力が包摂されているという属人的事情が大きいと考えられる。このため、「安倍一強」が継続している限り、日本型ネトウヨ勢力は安倍自民党に包摂されたままでいると予想される。

 とは言っても、第二次安倍政権が行っている政策は月刊誌へ寄稿した文章より穏健なものであり、海外の識者からは「リベラル」と評されるようなものである 。このため、これからも自民党が日本型ネトウヨ勢力を包摂できるか否かは不透明である。

 例えば、自民党の「左」に位置する政治家が第二次安倍政権の後に総理・総裁となれば、或いは、旧民進党勢力が政権奪取に成功した場合、そのような日本政治の「左傾化」に危機感を抱いた日本型ネトウヨ勢力が自民党から分かれて独自の活動を立ち上げる可能性がある。そうなれば、都議選での田母神候補の「善戦」のように、政界のアウトサイダーとして一定の存在感を示す機会があるかもしれない 。

171キラーカーン:2018/01/03(水) 01:06:35
7.1.2.6. 他国における「日本型ネトウヨ化」と思われる例
 日本国外における日本型ネトウヨ化と思われる事例の中で最近の有名な例は、2017年8月に発生した米国のシャーロッツビルでの事件での左右両派の衝突事件である。この事件は、「南北戦争」を巡る歴史認識である。この問題は、日本でも大きく報じられたが、米国内戦に起因する米国内の問題であるため、排外主義的な主張には発展しなかった。したがって、ネオナチや在特会のような「分かり易い」例ではないが、「敗者の側」に属する共同体の歴史認識が問われた例であることから「日本型」の一例として見做すのが妥当であろう 。

 先に述べたように、この事件は南北戦争に絡む「南部側の歴史認識」が直接の引き金なっている。この事件の結果、リー将軍をはじめとする南軍関連の銅像が「南部史観」(⇒奴隷制の正統化⇒白人至上主義)の象徴として毀損されることを避けるために南軍関連の銅像を「非公開」にする事例が発生している。

 シャーロッツビルの事件は米国の国内問題の枠に収まるものであるが、日独の場合は論争が国外に波及し、国際問題となる。「主な敗戦国」ではないオーストリアの場合 でもナチスという「歴史」が絡めば、ハイダー氏が率いる自由党が連立与党入りした際にはEU域内での制裁論議にまで発展した 。

172キラーカーン:2018/01/05(金) 01:32:08
7.1.3. 欧米型ネトウヨ化(グローバル化による経済的不安が発端)
7.1.3.1. 総説
 欧米のネトウヨ化は、日本のネトウヨ化とは異なり、「歴史認識論争」からではなく、経済のグローバル化によって増大した移民によって引き起こされた国内経済状況の変化特に「中間層の没落(の恐れ)」による移民排斥感情が引き金となっている。

 先に述べたように、欧州各国における移民問題は、冷戦終結前からドイツ(旧西ドイツ)のトルコ人移民のように散発的に表面化していた。しかし、それは、移民の労働環境の劣悪さの告発が主題であり、現在の「没落した中間層」や「福祉排外主義」という文脈ではなかった 。

 冷戦終結後の経済のグローバル化の進展によって、経済的な裕福さを求めて外国から欧米先進国への移民の流入が増大した。さらに、冷戦時代のような米ソ超大国による「たが」が無くなり、(全世界的紛争に発展する可能性のない)地域紛争が増加し、難民保護の観点から欧米先進国にそのような戦災難民も流入するようになった。

 そのような難民や移民は肉体労働的な職に就くことが多かった。その結果、移民先の中間層の国民が担っていたが移民との競合にさらされ、多くは移民がその仕事を奪っていった。また、EU発足によって、加盟国間で移民に対する取扱の差異が残存しているのにも拘らず、EU域内における経済的国境が事実上撤廃されたことも、移民流入の増加傾向に拍車をかけることとなった 。

 このようにして移民に仕事を奪われた「没落した中間層」が、その対策として移民の流入制限等の施策を求めるのはミクロレベル或いは対症療法的には正しい。移民が増えることにより増大する社会的リスクは、その移民に仕事を奪われた「没落した中間層」の発生だけではない。移民増大によって彼らの声が無視できなくなり、旧来からの住民と新しく移住してきた移民との間でアイデンティティー摩擦が生じることである。特に、宗教的価値観の異なる国(例:イスラム圏からキリスト教圏である欧州)へ移住した場合、その摩擦は大きくなる

 このように、移民の流入や経済のグローバル化によって、経済的状況のみならず、所属する共同体のアイデンティティーといった欧州社会の安定を担ってきた層が「没落した中間層」となっていった。「極右」政党は、移民排斥だけではなく、経済のグローバル化によって祖国(ひいては欧州)がアイデンティティー危機に陥っているという点を訴えた。そして、そのような「没落した中間層」の声をくみ取る努力をしてきたのは「極右」政党のみであった 。その結果、「極右」政党は、「我こそが欧州社会の守護者」へと変革を果たし、主要政党の座にのし上がった。

 その後、「多文化共生」 の名の下に、移民増大による従来からの社会的アイデンティティーが揺さぶられることとなり、「極右」政党も福祉排外主義一辺倒ではなく、極右政党こそが「自由でリベラルな」欧州社会の担い手であるとして支持を伸ばしてきた。更には「福祉排外主義」により、先ず「没落した中間層」である国民の救済が第一という施策を掲げ、本来、左派の支持層である貧困層にまで支持が浸透してきた。それが、欧米における「右傾化」の実態である 。

 このように、欧米型ネトウヨ化は、経済のグローバル化とそれによる移民の流入による「中間層の没落」を契機として、移民の増大によって欧州社会のアイデンティティーが揺さぶられたことに効果的に対応できたことによって発生した。

 「極右」は移民排斥という処方箋を提示した一方、リベラル・左派の側は有効な対案を提示的なかった。リベラル・左派は、これまで、「多様化」や「グローバル化」の観点から、移民受け入れに賛成であり、それに反対する人々を「排外主義者」や「人種差別」として糾弾するだけであり、「没落した中間層」の救済へ意識を向けることはなかった。

 この結果、左派・リベラルは本来の支持者層である「没落した中間層」にそっぽを向かれ「極右」の台頭を指を咥えてみているしかなかった。これからは、左派・リベラルが彼らに対する「処方箋」を提示てきるか否かが焦点となる。それが、左派・リベラル復活のカギとなる。

173キラーカーン:2018/01/06(土) 01:44:05
7.1.3.2. 経済のグローバル化による移民の増加による「没落した中間層」の発生
 「資本主義の勝利」となった冷戦終結後、東西の壁が取り払われることとなった。この結果、世界経済はより一層の多国籍化・グローバル化が加速することとなった。いきおい、欧米先進国には豊かさを求めて、旧植民地や発展途上国からの移民が押し寄せることとなった。その一方、日本では、移民を受け入れる代わりに、国内企業が製造コストの低減のため、国外へ生産拠点を移すという事態も生じた 。

 そして、その移民の流入(欧米)にせよ、産業の空洞化(日本)にせよ、その結果は国内の中間層の職が奪われるというものであった。その典型例が米国の「ラスト・ベルト」と呼ばれる地帯に住む白人たちである。

 同じ仕事であっても移民の方が低賃金を苦にしないのが一般的傾向である(先進国では低い給与水準であっても出身国に比べれば十分に「贅沢」ができるだけの給与を移民が受け取れる)。この結果、移民を受け入れた国では、低賃金でも働く移民が仕事を奪い、産業が空洞化した国では経済・給与水準の低い進出先の国民が仕事を奪っていった。勿論、ある産業は移民が仕事を奪い、ある産業は空洞化により進出先の国民が仕事を奪うというように、国家レベルでは移民流入と空洞化が同時に発生しているという方がより正確であろう。

 移民や空洞化により職を奪われた、或いは、職にありつけなかった人々は経済的に困窮していく。この状況は「没落した中間層」と移民との間における経済的利益の対立関係と表現せざるを得ないものである。この移民と「没落した中間層」との対立の結果、限られた福祉予算を巡り移民や外国人を優先するのではなく、「国民共同体」或いは「国民主権」の論理から、国家などの公的団体が行う福祉施策については自国民を優先すべきとの「福祉排外主義」が生起してくる。その声を巧みに吸い上げたのが「極右」と言われる欧米型ネトウヨ政党であった。

174キラーカーン:2018/01/08(月) 02:13:54
7.1.3.3. 移民の増加による「外国人コミュニティ」の形成とアイデンティティー摩擦
 移民が流入することは、中間層から職を奪うだけではない。移民と旧来からの住民との間で生活集団を巡る摩擦を必然的に引き起こす。移民がもたらした問題は「没落した中間層」だけではない。移民が移民先の社会秩序に適合しないことによる社会不安及びアイデンティティー危機も発生する。「郷に入れば郷に従え」ということわざもあるように、移民側が少数であり、かつ、移民先の文化に「同化」する形であればこの問題は生じない(例:日系米国移民 )。たとえ摩擦が生じたとしても「制御可能」な範囲に緩和される可能性が高い。この点で移民の流入の制限にしている日本は極右にとっての手本になっているというのは先に述べたとおりである。旧植民地では「中〜上流」に位置する「エリート」が旧宗主国に移住する場合には、流入する移民の数も多くはなく、かつ、そのような「秩序ある平穏な移民」であることも期待できる。

 しかし、移住国の文化などに無関心な「一般庶民」の移民や宗教的戒律が絡む場合、外国からの移民が移民先の社会慣習に「同化」することは容易ではない。特に宗教が絡む場合、移民先への「同化」が往々にして「棄教」を意味することもあり、容易ではない。特に、内心と行動とが分離できない(宗教的戒律で日々の行動が細かく規制されている)イスラム教徒にとって、移民先の欧米の習慣に「同化」することとイスラム教の戒律との両立はかなり困難である。例として、1日5回の礼拝を挙げるだけで十分であろう。この礼拝の戒律が非イスラム圏で多数を占める人々との生活習慣との間で摩擦を生じさせることは容易に想像できる。

 宗教的戒律だけが問題ではないにせよ、欧州キリスト教圏とイスラム圏との間ではツール・ポワティエの戦いや十字軍など、イスラム教徒キリスト教は1000年以上にわたって争いを繰り広げている。現在においても、「イスラム国(IS)」といったイスラム過激派による欧州キリスト教圏でのテロは収まる気配がない。キリスト教徒とイスラム教徒との共存は現在においても困難な状況にある。

 このように、移民は「没落した中間層」の発生という経済的問題だけではなく、移民先のキリスト教文化に統合・包摂されない現代の「まつろわぬ民」という副産物をもたらした。このイスラム教徒の移民という「まつろわぬ民」を如何にして社会に統合・包摂するかという問題と移民によって発生した「没落した中間層」を如何にして救済するかという問題の二つが絡み合った複合問題に対する「処方箋」を持ちえたのは「福祉排外主義」と(イスラム教)移民移民の排斥(或いは、排斥できないまでも移民受け入れに関し「厳格な管理」を行う)という施策を打ち出した「極右」だけであった。

 このような経緯を経て、極右は経済のグローバル化によって動揺した社会を立て直すため、「極右」と言われながらも、欧米的な「自由主義」の護持者としての地位を固めていき、政治の舞台における地歩を固めていき、いくつかの国では連立与党として政権に参画するまでになっている。

175キラーカーン:2018/01/09(火) 00:10:06
7.1.3.4. 「維新系政党」は「欧米系ネトウヨ政党」か「ポピュリスト政党」か

 本稿においては、所謂「維新系政党」を欧米系ネトウヨ政党として扱ってきた。これは、「維新系政党」の政治手法が欧米諸国の「欧米型ネトウヨ政党」との類似点が多いためである。というよりも、移民に対する態度を除けば「同じ類型」であってもよいと言えるからであった。

 つまり、欧米型ネトウヨ政党とはポピュリズムに反移民感情が結合したために「極右」とみなされているが、日本の維新系政党は反移民感情と結合していないことから「極右」や「ネトウヨ」ではなく、単なる「(右派)ポピュリスト政党」ではないか説も成立する余地がある。

 確かに「欧米型ネトウヨ政党=ポピュリズム+反移民感情」という等式を全盛とするのであれば「欧米型ネトウヨ政党-反移民感情=ポピュリズム」という等式も成立する。また、「『維新系政党』=欧米型ネトウヨ政党-反移民感情」であるとすれば、前述の等式と併せれば「『維新系政党』=ポピュリズム」となる。

 しかし、日本においても維新系政党は、自衛隊や平和安全法制に対しては与党(特に自民党)の立場に近いことから、野党系「保守」政党として捉えられることが多い 。このため、リベラル・左派の側からは「維新系政党」や維新系政党の議員も「ネトウヨ政党(政治家)」と称されることがある。

 これまでに述べたことからの結論からすれば、「第三極」、「右派系ポピュリスト政党」と「極右」政党そしては本稿では触れることのなかった「左派系ポピュリスト政党」との境界線は
第三極:新自由主義○、ポピュリズム的手法×、反移民×
維新系(右派系ポピュリスト)政党:新自由主義○、ポピュリズム的手法○、反移民×
欧米型ネトウヨ政党:新自由主義○、ポピュリズム的手法○、反移民○
左派系ポピュリスト政党:新自由主義×、ポピュリズム的手法○、反移民×
ということになろう。

 また、マスコミなどの外国政治に関する記事においても、極右政党の特色として「反移民(感情又は政策)」が挙げられている。

 つまり、新自由主義的な政策志向を持つ第三極にポピュリズム的手法が付加されると「維新系政党(右派ポピュリスト政党)」となり、それに「反移民(感情・政策)」が付加されると「欧米型ネトウヨ政党」となる。したがって、明確な反移民(特に反在日朝鮮人)という政策志向を持たない維新系政党は「極右」ではない。

 これらのことから、「維新系政党」は右派ポピュリスト政党 であるとするのが妥当であろうというのが本稿の立場である。

176キラーカーン:2018/01/09(火) 23:46:45
7.1.4. ドイツ型ネトウヨ化(移民流入と歴史認識論争との複合型)
 日本と並ぶ「二大敗戦国」であるドイツにおいても、冷戦終結とドイツ統一により、歴史認識論争が生じている 。大きなものとしては、
① ナチスとは異なり、ドイツ国防軍は清廉潔白という「ドイツ国防軍神話」への疑義
② いつまでナチスのことを反省しなくてはならないのか
という2つである 。後者については、ドイツの極右政党AfDも政策綱領に入れている。

 このため、ドイツにおける「ネトウヨ化」においては、移民問題と歴史認識論争との「二本柱」となっているため、「日本型」及び「欧米型」とは異なる第三の類型として「ドイツ型(複合型)」とした理由である 。

 ドイツ型ネトウヨ化は日本型と欧米型の複合型という性質を持つので、その内容については、日本型ネトウヨ化及び欧米型ネトウヨ化の双方の特徴を持つ。最近における特記事項としては、2017年9月の総選挙において「極右」AfDが、ドイツ連邦共和国となって以降初めて所謂5%阻止条項を突破して連邦議会で議席を確保したことである。且つ、その議席数は、AfDより前に「5%の壁」を突破して連邦議会に議席を得ていた緑の党や自由民主党などを上回る第三党となったことである。「欧州」或いは「EU」の盟主であるドイツで極右政党が躍進したことは欧州の「ネトウヨ化」の流れが止められないというところまで来ているのかもしれない。

177キラーカーン:2018/01/10(水) 22:40:20
7.2. 結論2:「世界総ネトウヨ化」をもたらした原因
7.2.1. 総説
 日本型、欧米型、ドイツ型という差異はあっても、日本や欧米各国で「ネトウヨ化」或いは「右傾化」と言われる事象が進行していることは事実である。前節では、その類型化と歴史的経緯について述べたが、本節では、その原因についてまとめる。

ネトウヨ化の原因には
① グローバル化による「反移民感情」の醸成
② 大統領制化とポピュリズムの蔓延(「1ビット脳的政治」の広がり)
③ それらの事態に対するリベラル・左派の「自滅」
の3つが挙げられる。

 ネトウヨ化については「反移民感情・政策」がカギとなることから、その直接的原因となったグローバル化については、前節で触れたところである。しかし、「大統領制化」やリベラル・左派の「自滅」については断片的に触れただけであるので、本節で整理したいと思う。

178キラーカーン:2018/01/11(木) 23:39:06
7.2.2. 冷戦の崩壊によるグローバル化(「1989年の衝撃」)
7.2.2.1. 日本型ネトウヨ化:歴史認識論争のグローバル化
7.2.2.1.1. 「1989年の衝撃」
 冷戦の崩壊により、「社会主義」或いは「共産主義」がリベラル・左派の「錦の御旗」としての魅力を完全に喪失したといってもよい状況となった。冷戦の終結はリベラル・左派にとって「革命」という「未来」への希望を喪失したことを意味した。「歴史」という「過去」を新たな「錦の御旗」にすることを選択した。特に「従軍慰安婦」の「強制連行」問題は「女性への性的暴力」も絡む案件である事から、現代社会に与える衝撃も大きく、一躍、歴史認識論争の「大黒柱」となっていった。

 このような「日本初」の歴史認識論争に対し、反日闘争を「建国神話」としたい中韓朝の「特定アジア三国」、更には「戦勝国史観(≒東京裁判史観)」維持の観点から欧米各国が便乗した形で、「自虐史観」の国際ネットワークが形成されていった。「自虐史観派」が構築した国際ネットワークの成果の一例が「クラワスミ報告」であり、同報告によって「性奴隷」という語を一般化させたことである。

 この国際ネットワーク化の反作用として、中朝韓の中で突出して積極的に「歴史認識論争」を仕掛けてくる韓国に対する反感が日本国内において強くなっていったことが挙げられる。勿論、日本においては、韓国だけではなく、中国や北朝鮮に対する反感も存在するが、中朝両国は、独立以来、冷戦時代にはソ連圏の一員(社会主義国)として「日本の敵国」であったため、「1989年の衝撃」による中朝両国の「反日度」の変化は比較的小さいものであった。

 したがって、中朝両国は「1989年の衝撃」以前も以後も「反日」である事には変化がなかったため、「1989年の衝撃」の影響を真正面から受けたのは韓国だけであった。その結果、現在のインターネット圏域においては、日本と韓国が冷戦期間中において「反共の同志」であったという歴史的事実は忘れ去られた格好となっている。

179キラーカーン:2018/01/11(木) 23:40:33
7.2.2.1.2. 「2002年の衝撃」
 「1989年の衝撃」があった後も、反韓(中朝)傾向はネットの中、それも「従軍慰安婦」問題を筆頭とする「歴史認識論争」に付随したものに限定されていた。その一方、マスコミでは依然としてリベラル・左派の威力が強いものがあった。そのため「朝鮮半島タブー」が当時においても残存しており、南北朝鮮に対する批判的言説を述べるには「特別な配慮」が必要であった。また、「リアル」な社会では「韓流」といった「韓国ブーム」が生起しており、「反韓(中朝)」は「ネット限定のブーム」として社会的関心を引かない、或いは、「ネット発」ということで一段低く見られていた。

 このような状況が一変する契機となったのが、日韓W杯と小泉総理訪朝が契機となった「2002年の衝撃」であった。日韓W杯では韓国の日常としての「反日」が市井の人々の芽にも顕わになり、小泉総理の訪朝でそれまで「疑惑」に過ぎなかった北朝鮮による日本人拉致が北朝鮮の犯行によるものであったことが明らかになった。これにより、ほぼ時を同じくして南北朝鮮双方に関する「朝鮮半島タブー」が解禁された 。

 このような状況の中で、これまで「歴史認識論争」の附属物であった「嫌韓(中朝)」との関係が逆転する契機となった。また、それに付随して、冷戦時代から北朝鮮を支持してきたリベラル・左派の言説の信頼性が地に堕ち、リベラル・左派の落日が誰の目にも明らかになった瞬間であった。

 「2002年の衝撃」以降、出版界では「嫌韓本」というジャンルが成立し、「嫌韓」は完全に市民権を得た。そのような日本国内情勢を意に介さないかのように「特定アジア三国」は反日デモ(中国)、告げ口外交(韓国)、拉致問題へのおざなりな対応及び核・弾道ミサイル開発による日本への威嚇(北朝鮮)を繰り返している。そのような状況もあり、「自民党の右」に属する政治家の政権である第二次安倍政権が国政選挙で5連勝を果たし、2017年現在、衆議院で与党が2/3以上の議席を占めている。

180キラーカーン:2018/01/13(土) 00:09:52
7.2.2.2. 欧米型ネトウヨ化:経済のグローバル化と移民・難民の流入
 冷戦の終結により、日本では歴史認識論争に起因する「右傾化」が発生したが、日米欧では多国籍企業のみならず、経済全体のグローバル化が生起した。(巨大)多国籍企業自体は冷戦終結時には存在していたが、生産設備(工場等)だけではなく、人の移動に関しても国境を越えて多国籍化した。このような状況の中で、より良い暮らしを求めて、西欧諸国には外国からの移民の流入が増大した。

 それに加えて欧州はEUなど欧州統合の動きの中で、経済活動に関しては、事実上、欧州域内の国境を廃止したのと同様の状況となっていたため、EU域外からは、いずれかのEU諸国で移民が認められれば、そこを足掛かりにしてより経済状況の良いEU域内の国への移住が自由にできるようになった。更に、最近は、中東やアフリカの内戦などを避けて欧州へやってくる難民も増大している。

 移民の祖国は西欧諸国より経済水準が(各段に)低いため、西欧の基準では「低賃金」であっても彼らにとっては「高収入」である場合も多い。このため、西欧諸国における肉体労働などの分野では移民先の「現地人」から仕事を奪うこととなる。或いは、工場の海外移転(産業空洞化)によって解雇される労働者も発生する(日本において「失われた世代」が発生したのはこのパターン)。このような経緯で経済的に発展した先進諸国において「没落した中間層」が発生することとなる。

 移民によって発生するのは「没落した中間層」ひいては所得格差だけではない。移民が多くなれば、移民先の社会に同化しない(できない)人も増える。それでも、移民が少数であり、かつ、時間はかかっても移民が移民先の生活習慣などを尊重し、移民先の社会へ「同化」すれば摩擦も少なくなる。日本がこれに該当する。

 しかし、欧州において、イスラム圏からの移民や難民の流入が多く、彼らは、容易に移民先の社会へ同化しない。イスラム教はキリスト教や(大乗)仏教と異なり、日々の行動がイスラム教の戒律に結びついている(一日5度の礼拝やラマダンなど)。このため、キリスト教社会である欧州の生活様式とイスラム教の信仰を守ることが二律背反となる可能性が他の宗教と比べて高くなる 。この結果、冷戦終結後における欧州へのイスラム系移民の流入増加は従来からの住民から職を奪うだけではなく、生活共同体も破壊するという「二重の不利益」をもたらすこととなった。

 リベラル・左派は「(グローバル化する世界で)国境という概念は古い。(可哀想な)移民を受け入れよ、反対する者は人種差別主義者である。『没落した中間層』は自己責任」としか主張せず、「没落した中間層」の痛みを無視し目を背け続けてきた。

 それに対して「極右」は、「(国民国家の主権者である)あなたたちは国からの救済を受ける資格がある。我々は、欧州の自由な社会を守りたい。そのためには移民の流入を制御・制限するしかない」という主張を掲げ、民衆の支持を得てきた。これが、欧米型ネトウヨ化の本質である。

181キラーカーン:2018/01/14(日) 22:06:02
7.2.3. 「没落した中間層」を嘲笑し「差別主義者」となったリベラル・左派
7.2.3.1. 総説(「没落した中間層」や「ネトウヨ」を「存在しない」ことにしたリベラル)
 本節では、これまで述べてきたような「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対する左派・リベラルの対応はどのようなものであったのか、そして、リベラル復活の兆しはあるのか。その点について考察する。

 「欧米型」、「日本型」を問わず、ネトウヨ化の経済的背景としては、グローバル化による「没落した中間層」の存在が挙げられる。欧米型では移民の流入により職を奪われ、日本型ででは「産業空洞化」により職が存在しなかったことで「失われた世代」となった。彼らは、「グローバル化」による「他国民の救済」よりも国民主権に基づく「自国民の救済」を優先せべきであると主張し、それは「福祉排外主義」へとつながっていった。

 救済の対象が他国民であっても自国民であっても、経済的格差の是正のため、景気対策或いは失業対策による「没落した中間層」への手厚い支援が当面(短期的)施策としては主眼となる。古い言葉でいえば「大きな政府」路線への回帰である。

 しかし、グローバル化した経済の結果、冷戦後の主流派リベラル(≒中道左派)は「国際協調」或いは「グローバル化」に反するような施策は採りづらくなってきた。また、欧州ではユーロという国際通貨を導入したことから、各国の予算の収支にも制限が課せられ、財政赤字拡大を覚悟する「大きな政府」路線は採りづらくなっていた 。

 そのような情勢の中、「グローバル化」への選好を有する(≒「国境」には否定的)リベラル・左派は、「グローバル化」が進む世界の中で「勝ち組」となっていった。グローバル化は本質的に国際社会の基本構造の一つである「国境(国家主権)」の絶対性を否定或いは「国境(主権)」の相対化を目指す傾向にある。そのようなリベラル・左派にとって、難民や移民は「国境を超える」存在として救済の対象となるが、「没落した中間層」は「国境を越えられなかった」愚かな人間として、救済の対象とはみなされず、そして、リベラル・左派の視界から消えていった 。

 その一方、「極右」或いは「欧米型ネトウヨ政党・勢力」がそのような「没落した中間層」に光を当て、彼らの救済を図るべきと訴えた際には、「(『没落した中間層』に光を当てること自体が)国内に『分断』を持ち込もうとしている」として批判したのであった。

182キラーカーン:2018/01/16(火) 00:31:44
7.2.3.2. 欧米型(「没落した中間層」の救済から逃避したリベラル・左派)
7.2.3.2.1. 「没落した中間層」の発生と「国家」の復活と「極右」の台頭

 冷戦終結前から多国籍企業を代表格として「国境(国家主権)」の絶対性が揺らぎ始めているのではないかという議論は存在していた。そして、冷戦の終結以後、「唯一の超大国」となった米国や欧州統合の動きなどから、冷戦終結後の世界においてはグローバル化(≒国境の相対化)の動きも加速していており、その傾向は現在においても継続している。

 ナショナリズムを否定するリベラル・左派にとってグローバル化或いは国境(国家主権)の相対化は相性が良い。その逆に「国境の内側」でしか生きられない「没落した中間層」とは相性が悪い。彼らリベラル・左派にとっては「国境」という概念を相対化或いは消し去ってくれる難民や移民の方が「救うべき同胞」として認識することができる。

 また、貧困にあえぐ人を「国境を越えて」救済するというリベラル・左派としての自己満足も得られる。その一方で「国境の内側」の「没落した中間層」はリベラル・左派にとって「存在しない」人々とされ、リベラル・左派の視界から消え、「見捨てられた人々」 となっていった。

 そのようにしてリベラル・左派から「見捨てられた」存在となった「没落した中間層」を「(救済されるべき)同胞」としてとして扱ったのが極右政党であった。極右政党は「反移民」の側面が強調されるが、実際は、「反移民」と「没落した中間層」の救済とが「福祉排外主義」によって結合され、この両者は合わせ鏡のように表裏一体となっている。

 このようにして、リベラル・左派は、本来、彼らの支持母体である労働者階級を「見捨てた」ことにより、退勢に向かうこととなった。逆に、そのような「弱者」に救いの手を差し伸べることで「極右」は勢力を伸ばしてきた。

 現在において、「多様性」や「反差別」といった「政治的に正しい○○」(所謂「ポリコレ」や「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー(SJW)」は「金持ち(リベラル)の道楽」となっている。リベラル・左派から見捨てられた「没落した中間層」にはそのような「道楽」に付き合うだけの経済力はもはや残っていない。
そのような「インテリ左翼」は「没落した中間層」や自身の政策に賛成しない者を「我々の政策の良さを理解できない『知的に劣った』者」として蔑み、見下しているからである 。

 リベラル・左派は本来の支持者層である貧困や生活水準の低下に苦しむ人々を見捨て、「外国人」の救済に力を注いでいくことは、政治勢力としてのリベラル・左派の「自滅」を意味するものであった。

183キラーカーン:2018/01/19(金) 00:07:16
7.2.3.2.2. 「没落した中間層」を嘲笑し、見捨て、「差別されるべき者」としたリベラル

 そのような移民の増大によって疲弊し貧困や生活水準の低下に苦しむ「没落した中間層」に対し、リベラルは救いの手を差し伸べることはなかった。それどころか、経済のグローバル化に乗り遅れた「敗残者」とされ、国境を越えてくる難民や移民よりも救済する価値のない人々とされた。そして、彼らの存在を「なかったことにする」ことによって、「分断」の存在を否定した。

 この点からも、リベラル・左派は「没落した中間層」の救済はおろか、同じ「人間」として扱っていない「差別主義者」と言っても過言ではなかった。「グローバル化」は、そのリベラル・左派が「没落した中間層」を「差別」するためのイデオロギーとして機能した 。

 リベラルは、「グローバル化」の流れとともに「国境から解脱した」民として「国民共同体」或いは「国境」への対抗意識は高まっていった。EUという形で、実質的に国境を廃止した欧州はその到達点ともいえた(とはいっても、EUとそれ以外の地域という「国境」は存在する)。更に、WTOやTPPといった自由貿易の推進や関税の廃止などにより、経済面での「国境の無効化」は加速していった。

 このように「グローバル化」への志向を有するリベラル・左派は「国境の内側」で懸命に生きる「没落した中間層」を「グローバル化に対応できなかった『敗者』」、「愚か者」或いは「自己責任」による因果応報として嘲笑した 。

 このような「没落した中間層」に属する人々は冷戦終結までは、リベラル・左派が最も重要視していた支持者層であった。それは、英国をはじめとする少なくない欧米のリベラル・左派政党が「労働党」或いはそれに類する党名をつけていることでも明らかである。
しかし、冷戦終結後のグローバル化の流れの中で、リベラル・左派は彼らを見捨てた。そのようなリベラル・左派に「没落した中間層」をはじめとする国内勤労者階級の支持が戻ることは考えにくい 。

 その結果、「国境」を意識から消し去ったリベラル・左派は、「国境を超える」ことを意識させてくれる「国外」の貧困(移民・難民も含む)には手を差し伸べるが、「国境を意識させる」国内の貧困には見向きもしなかった。リベラル・左派が優位な国家では、国家は主権者である国民を救済せず、「赤の他人」である外国人の救済に血道を上げていると「没落した中間層」からは見られていた。

 このように、増加しつつある「没落した中間層」に対して
① リベラル・左派は、彼らを嘲笑し、「劣った」存在として差別されるべき存在とした
② 「極右」は彼らを「同胞」として見捨てないと訴えた
この「没落した中間層」に対する対応の差が現在のリベラルの衰退と「極右」の伸長とリベラル・左派の退潮という両者の明暗を分けることとなった。

184キラーカーン:2018/01/20(土) 00:33:21
7.2.3.2.3. 「没落した中間層」を直視したリベラル・左派(「極左(急進左派)」の誕生)

 欧米では、このような「極右」の伸長に危機感を持ったリベラル・左派の中から、これまでリベラル・左派が見捨ててきた「没落した中間層」に真剣に向き合うべきだという考え方が現れた。しかし、その考え方の担い手は、英国のコービン氏を除けば、ヒラリー・クリントン氏に代表される旧来の主流派である「インテリ左翼」或いは「セレブ左翼」ではなく、「極左(急進左派) 」と呼ばれるようになった 。

 コービン氏も英国における二大政党の一角である労働党の党首であるが、その政治的立場は労働党内の左派である。コービン党首はブレア元首相に代表される「ニュー・レイバー」ではなく、旧来の社会民主主義(オールド・レイバー)であるといわれている。その点では、国内の貧困に向き合うというリベラル・左派或いは「労働党」の原点を見つめなおすことがリベラル・左派復活の鍵であるのかもしれない。

185キラーカーン:2018/01/22(月) 00:27:52
7.2.3.3. 日本型(「反日運動」に資源を集中)
7.2.3.3.1. 総説
 繰り返しになるが、日本の「ネトウヨ化」は、欧米諸国(特に欧州諸国)の「移民の流入による経済的困窮」による「没落した中間層」の発生ではなかった。左翼活動家や「進歩的知識人」などのリベラルは、社会主義、共産主義が敗北した世界である冷戦後の世界においても左翼的活動を継続するための理論的支柱を「自虐史観」に見出した。そのような背景を持つリベラル・左派の「歴史認識論争」に対する反発である「反自虐史観」としてのナショナリズムの勃興が日本における「ネトウヨ化」の始まりであった。

 したがって、これまでにも述べたように、現在では「ネトウヨ」か否かの判断基準となっている「嫌韓」若しくは「反朝鮮半島」、「反特定アジア」感情の比重は少ないものであった。嫌韓」若しくは「反朝鮮半島」、「反特定アジア」感情は、飽く迄、その「歴史認識論争」の副産物であった。その「反自虐史観としてのナショナリズム」と「反特定アジア」感情との主客交代は「2002年の衝撃」を引き金とした「反朝鮮半島感情」を契機として生じ、現在に至っている。

 このため、現在において主流となっている「ネトウヨ」を対象としてきた言説は全て「2002年の衝撃」特に「日韓W杯」を起点としているといっても過言ではない。その結果、2002年より前の「ネット右翼」の時代は、「神代」として、当事者の記憶の中にしか存在し、その断片が稀にネット上の「思い出話」として流れてくる程度である。

 リベラル・左派の暴力化、不寛容化、独善化などに対する反動としての「ネトウヨ化」という点では「欧米型ネトウヨ化」と「日本型ネトウヨ化」の共通点はある(だからこそ欧米型ネトウヨと日本型ネトウヨとの差異をあまり意識せず、双方を同一の「ネトウヨ」としてまとめて論じることも発生するということである)。
このように、日本型ネトウヨ化は、「歴史認識論争」というイデオロギー論争から発生したという点で、移民の流入による「没落した中間層」の発生を契機として「ネトウヨ化」が生じた欧米諸国とは一線を画している。このため、日本のリベラル・左派は経済問題ではなく、「歴史認識」や「多文化共生」といった政治的或いは非経済的側面にその言論を集中させている。

 特に民主党左派(民進党左派⇒立憲民主党)は、新自由主義的な「小さな政府」具体的には「財政健全化」を志向する傾向が強い(これが、民主党・民進党も「第三極」的要素を持つという実際的な理由である)。

 その結果、日本のリベラル・左派は、欧米のリベラル・左派のように「大きな政府」或いは積極的な財政出動による経済刺激策は「小さな政府」や「財政健全化」という政策を唱えることはほとんどない。日本におけるリベラル・左派の活動は「反原発」、「反集団的自衛権」など、庶民の日々の暮らしに直結しない「イデオロギー論争」といったものが主流となっている。言い換えれば「安倍退陣が実現するなら飢えても構わない」ということである。

 したがって、「日本型リベラル・左派(≒「パヨク」)」は、「失われた世代」或いは「失われた20年」を生み出したデフレ脱却をはじめとする貧困対策(経済政策)には全くと言って興味がない。それどころか「貧困のために安倍首相を支持するのは『肉屋を支持する豚』であり、自殺行為である」言い換えれば「霞を食って生きることのできない者は愚かである」として、反安倍闘争のための飢えに耐えることのできない者に対して、「人間失格」という差別的嘲笑を行っている。

 リベラル・左派の支持層は、景気回復政策ではなく、かつての学生運動といった「左翼運動の夢よもう一度」や高度成長やバブル景気の果実を享受して「逃げ切り体制」に入った高齢者が主である。
このように、経済的側面に目を向けないリベラル・左派が、「左翼学生団体」としてのSEALDsなどという「若者」の運動を盛り上げても、リベラル・左派の訴求力は目に見えて落ちている。それに対する焦りもあって、「しばき隊」のような暴力行為に走る活動の先鋭化やマスコミの「角度をつけた」誤解を招くような「フェイク・ニュース」化を引き起こしている。

 そのような、「味方の暴走」をリベラル・左派の識者は咎めることをしないどころか、逆に、そのような運動と一体となって「暴走」しているという現状がある 。それによって、日本の多数を占める「ノンポリ層」(≒無党派層)の離反を招くというリベラル・左派にとっての悪循環に陥っている。

 これは、アベノミクスが一定の成果を挙げ、若年層の支持が高い安倍政権と対蹠的である。言い換えれば、雇用状況などの経済好転による恩恵を受けている層(主に若年層)の安倍内閣及び自民党支持率が高いということと対蹠的である。

186キラーカーン:2018/01/23(火) 00:40:21
7.2.3.3.2.歴史認識論争

 日本の「ネトウヨ化」は「1989年の衝撃」によるリベラル・左派(当時の言葉でいえば「進歩的知識人」)のアイデンティティー崩壊の危機を回避するため、社会主義・共産主義に代わる「錦の御旗」として「自虐史観」を持ち出したことに起因する。この「自虐史観」に基づくリベラル・左派の反転攻勢として歴史認識論争が発生した。

 この「自虐史観」によって生じたアイデンティティー危機に対抗するための「反自虐史観」という形で丁度普及し始めたインターネットを利用して「保守的(反自虐史観的)歴史観」を開陳する市井の人々を総称する形で「ネット右翼」という語が誕生した 。
その後「2002年の衝撃」で反在日朝鮮人、反特定アジア感情と結びつく形で「排外主義」と言われるようになり、更に(バブル崩壊後の「失われた20年」)に生じた経済的停滞と結びつくことによって「生活保護バッシング」の一環として在日外国人への生活保護支給を問題視する「福祉排外主義」という色彩が付加され、欧米型ネトウヨ化との差は縮小していった。しかし、日本のリベラル・左派は国内貧困対策には全くと言って無関心であり、反差別や反排外主義という政治イデオロギーに特化した活動を行っているという点に、日本型ネトウヨ化の特徴が表れている 。

 このように、「歴史認識論争」が「1989年の衝撃」を契機に活発化したのではあるが、歴史認識問題自体は「侵略」から「進出」へ書き換えるよう検定意見がついた問題 や「新編日本史」の検定を巡る問題 など、冷戦終結前から存在していた。また、冷戦前においても、そのような歴史認識問題は、マスコミが騒ぎ立てること により、中韓両国を巻き込んだ国際問題へと発展したこともあった 。

 既に述べたように、冷戦終結前においては、それらの「論争」は論壇或いはマスコミの論説の枠内で行われていた。冷戦が終結してもインターネットが普及する前においては、「歴史認識論争」も当初は論壇の枠内であった。1990年代半ばにインターネットが一般家庭にも普及すると、「いつでも、どこでも、誰とでも」議論ができる環境が構築され、「草の根」レベルでもれ式認識論争が行われるようになったのはすでに述べたとおりである。

 「歴史認識論争」の基本は、社会主義という「錦の御旗」をなくしたリベラル・左派が自身のアイデンティティー維持或いは活動隊としての継続性を目的として、「戦前の日本という『絶対悪』を叩く『絶対正義』の存在」として自己の正当性を維持しようとしたものである。そして、日本のリベラル・左派の間において

「絶対悪の日本人」であることを懺悔し、悔い改めて日本人から『解脱』した存在として、我々リベラル・左派は、「国境」や「民族」にとらわれ、未だに「日本人」解脱できない「愚か」な『ネトウヨ』を教え導く

という「教義」を確立するに至った。この「(リベラル・左派である)日本人が(それ以外(リベラル・左派のいう「ネトウヨ」)日本人を『絶対悪』として叩く構図」から「反日」或いは「自虐 」と称された。

 その「教義」を「布教」するために必要な「殉教者」或いは「聖人」として外国人の「従軍慰安婦」の存在を必要とした 。更に「従軍慰安婦」のみならず、日本を厭占めるためなら「手段を択ばない」或いは「嘘も方便」とばかりに、虚実ない交ぜの言説で「ジャパン・ディスカウント」を行ってきた。それに対して「ネット右翼」の側は、一次資料と合理的推論に基づき、その「自虐史観派」の言説に潜む、嘘、誇張、ダブルスタンダード、ひいては、それを生み出す「反日的」イデオロギー的基盤を批判していった。

 このような議論の姿勢が功を奏したのか、ネット上では「ネット右翼」或いは「ネトウヨ」的言説が優勢を占めるに至り、ひいては、最近の「安倍一強」とまで言われる政治状況を生み出した。
しかし、「1989年の衝撃」や「2002年の衝撃」を経てもマスコミにおいては、リベラル・左派的言説が圧倒的優勢であった。そのため、ネット言論とマスコミの論調との乖離は非常に大きいものがある。このようにして、日本の「右傾化」は始まった。

187キラーカーン:2018/01/24(水) 01:07:32
7.2.3.3.3. 「没落した中間層」の救済には無関心でイデオロギー闘争主体のリベラル・左派

 かつては、湯浅誠氏のようなホームレス支援活動家をリベラル・左派が旗印にしようとしたこともあった。しかし、結局、リベラル・左派は経済では緊縮財政路線 、イデオロギーではグローバリズムと国民経済軽視という従来のスタンスから脱却できていない。このように「1989年の衝撃」以降、日本では、欧米諸国と異なり、右傾化に対するリベラル・左派の対応として貧困対策は重視されていない。

 また、彼らは「没落した中間層」を「貧しく、馬鹿、キモイ、オタク、ネトウヨ」レッテルを張り、一方的な侮蔑ひいては差別の対象としている。このように、リベラル・左派はあたかも「没落した中間層」を教え導く「全能の神」であるかの如く振る舞っている。そのように振る舞うことに疑問を持たないリベラル・左派が従来の方針を転換して「没落した中間層」の声に対して向き合う気配は今のところ見られない 。

 サンダース、コービン両氏に代表される昨今の欧米のリベラル・左派の復活の兆しに見られるような「没落した中間層」の救済を日本のリベラル・左派が旗印に掲げる動きは見受けられない。それどころか、デフレ経済によるデフレ不況、産業空洞化、就職難という国民生活に直結し、ひいては「没落した中間層」の救済につながる経済政策への無関心を貫いている。

 日本のリベラル・左派は、「衣食足って礼節を知る」という箴言を忘れ、過去の大日本帝国のなした「世界史上比類のない」悪逆非道な行いに対する「反省の証」としての特定アジア各国に対する謝罪と贖罪の証として「反差別」を主張することを最優先している。その一方でリベラル・左派は「反差別闘争」、「アベ政治を許さない」というイデオロギー闘争に傾斜していった。

188キラーカーン:2018/01/25(木) 00:37:39
7.2.3.3.4. そしてリベラル・左派は暴力化・先鋭化していった

 グローバル化の中で、リベラル・左派の活動は、経済的不安なく政治闘争に没入できる人々のたしなみという「金持ちの道楽」となっていったのは日本でも欧米でも共通した傾向である。国政選挙では連戦連敗を重ねるリベラル・左派が、その停滞状況を打破するために「しばき隊」に代表される「暴力路線」に希望を託したのも故なきことではない 。

 そのようなリベラル・左派の暴力化・先鋭化の結果として「リベラル思想」が反対者に対する差別・暴力的弾圧という人権侵害行為を正当化するための口実となっている(「反差別」を掲げればどのような暴力・人権侵害も正当化される) 。

 そのリベラル・左派の暴力化・先鋭化の危険性が現実のものとして顕現したのが「しばき隊リンチ事件」であり、その「リンチ事件」に対して岸正彦、金明秀氏をはじめとする「インテリ左翼」が行った隠蔽工作であった 。彼らの言う「反差別行動」とは、しばき隊などの暴力集団がリベラルを標榜しつつ、「カウンター」と称する反対勢力への暴力的威圧行為を繰り返すことであった。その手法は、彼らが相手を全否定するために「万能の剣」として使う「ナチス」と類似しているのは皮肉でも何でもない。そして、現在においてもリベラル・左派の暴力化・先鋭化の傾向には歯止めがかからない状況となっている 。

 ネット上では、このような、リベラル・左派の「対話拒否・闘争路線」に対し「ネトウヨ四天王」を自称する者がツイッターで以下のような投稿をしている。

それでもネトウヨの私は「発言」することをやめなかったし、もう議論は無駄だと結論付ける事もしませんでしたよ。
そして、少なくとも私の見た限り、(ネトウヨの中には)「言葉の力を見限る」人は出なかった
デマツイートを集めて、ツイッター社の前で踏みつける者も出なかった。私たちは「リベラルと違う」

リベラルは
「議論をつくせ」
「対話で解決すべきだ」
これらの言葉はもう二度と口にしないでください
「対話を捨てた」のですから
リベラルの口から出るこの言葉には
「俺の言う通りにしろ」
以外の意味しかない

(ネトウヨである)私は、私たちはデマへの言葉の無力を感じながら言葉の力を信じたんですよ。やめなかったんですよ
リベラルにそれは出来ませんか
「それは差別だやめるべきだ」
と指摘することさえ、もう諦めてしまうんですか。「言葉の力」を見限ってしまうんですか

ネトウヨが口汚く感情的に主張をしたとき、「学歴も仕事もないとネトウヨのようになる」
と嘲笑われたからですよ。
怒りを怒りのままぶつけたら
「黙れネトウヨ」
と一蹴されたからですよ

 リベラル・左派はこのように、自身に賛同しない者を一方的に嘲笑し、蔑み、貶めていった。このようなリベラル・左派が「没落した中間層」に対して共感し、彼らの苦しみを分かち合うことができず、一方的に、ネトウヨ、人種差別主義者というレッテルを張り、悪罵を投げつけることしかできなかった。しかし、逆に、リベラル・左派の側がネトウヨを「差別」していた。その結果、「没落した中間層」がリベラル・左派から離れていくのは理の当然のことであった。

189キラーカーン:2018/01/26(金) 00:52:35
7.2.3.3.5. リベラル・左派の自壊・自滅による「安倍一強」の継続・強化

 リベラル・左派が「反日活動」に集中したため、産業の空洞化や就職氷河期によって発生した日本版「没落した中間層」の支持を失っていった。それは逆に、そのような「没落した中間層」に向かい合い、彼らのための政策を行っているのが「アベノミクス」に代表される第二次安倍政権である。「アベノミクス」の成果は、第二次安倍政権の発足から約5年を経て、株価やGDP、そして、求人倍率や失業率の数値が改善され、デフレ経済脱却の芽が見えてきたことにも表れている。

 安倍内閣の支持率は、そのような景気対策の影響が大きい若年層になるほど高くなっていることからも明らかである 。その逆に、民主党・民進党左派を中心に結成した立憲民主党の支持率は年齢層が高くなるほど支持率が高くなっている。また、公明党及び第三極の諸政党は年齢層による差はあまり見られない。この傾向は、森友・加計問題によって安倍内閣の支持率が低下しても変化しておらず、2017年10月の衆議院総選挙においても同様であった 。

 日本の「右傾化」或いは「ネトウヨ化」への左派・リベラルの対応において顕著となる。そして、日本では、そのような左派・リベラル勢力に変革の兆しが見えず、逆に「しばき隊」に代表される「極左暴力路線」という民意に反する方向への傾斜を強めている。その結果、リベラル系のマスコミがいかに安倍政権を批判しても、森友・加計問題までは安倍内閣の支持率は一貫して40%を超える水準にあった。その一方、野党第一党の民進党は、支持率低落傾向に歯止めがかからない。

190キラーカーン:2018/01/27(土) 01:16:33
7.2.3.3.6. 有権者から見捨てられたリベラル・左派

 自民党が歴史的大敗を喫した2017年の都議会選挙でも、「都民ファーストの会」の約188万票に次いで、自民党は約126万票を獲得していた 。獲得議席数では自民党と然程の差がなかった共産党(約77万票)や公明党(約73万票)の得票数と比べても、得票数では大差をつけている。また、机上の計算ではあるが、国政で連立を組んでいる自民、公明両党の得票数を合計すれば「都民ファースト」の得票数を上回っている。

 それとは逆に、選挙前から離党者が続出した民進党は獲得議席数が5議席、獲得票数が約39万票であり、公明党はおろか、共産党にもはるかに及ばない得票数にとどまっている。このことは、民進党が「反自民」の受け皿として不適格であると、有権者から完全に見放されたといってもよい状況であるといえよう。

 しかし、共産党も、議席数では2議席増に留まっている。このため、今までの路線を維持する限り、議会の過半数を制する「政権政党」には脱皮できず、これ以上の「伸びしろ」は見当たらない。この都議選の結果、民進党にせよ、共産党にせよ、「リベラル・左派」政党は反安倍或いは非安倍の受け皿として完全に見限られたとみてよい。

 さらに言えば、「アベノミクス」により、民主党政権時代から経済指標、特に失業率や主食内定率の改善が著しい。この結果、「自民党の右派」であり、「経済政策でも結果を出している」安倍政権にとりあえず死角が見えず、「安倍一強」と言われる政治状況に変化がみられる様子はない。

 都議会選挙から約3カ月後に行われた2017年10月総選挙でも与党(特に自民党)が現状勢力を維持できた一方で、野党第一党の民進党が事実上崩壊し、民進党(参議院のみ)、立憲民主党、希望の党、無所属の会と事実上4党に分裂した 。また、総選挙後は内閣支持率も回復傾向にある。このまま、日本のリベラル・左派が自滅・自壊を続けるのであれば、日本におけるリベラル・左派の復活の芽はないと言って良い。日本においては左派・リベラル勢力の復活の芽は見えていない。

 もし、「安倍一強」に陰りが見えるとすれば、「自民党のリベラル」再結集(所謂「大宏池会 」構想)が現実となり、更に、「大宏池会」が連立与党である公明党又は「維新」や「都民ファースト」に代表される「第三極」とが連携する場合であろう。

 いずれにしても、安倍政権のライバルは自民党の中或いは連携勢力の中にあり、民主党をはじめとする野党ではない。

191キラーカーン:2018/01/28(日) 01:06:48
7.2.3.4. ドイツ型(移民の流入と歴史認識論争との複合型)

 移民問題主導型ではあるが、ナチスドイツの負の遺産から歴史認識論争 も一定の比重を占める複合型というのがドイツ型である。このため、ドイツのリベラルも欧米型及び日本型双方の色彩を示すという特徴を有する。両者が複合するという点がドイツ型の特徴であるため、それぞれの特徴については、欧米型及び日本型の特徴を参照されたい。

 因みに、ドイツにおいては、ナチスの存在があまりにも大きく、「歴史認識論争」の占める比重は移民のそれに比べて低い。そのため、「混合型」と言っても、移民の流入によるネトウヨ化主導という点では欧米型ネトウヨ化に近い。

192キラーカーン:2018/01/28(日) 01:07:35
7.2.4. 「没落した中間層」を「救済すべき『同胞』」とみなした「極右」

 グローバル化の中で、国境にとらわれないリベラル・左派が国境の内側で呻吟する「没落した中間層」を見捨てていく中で、「国家はそのような人々を見捨てるべきでない」と「没落した中間層」の声を汲み上げようとしたのが「極右」政党であった 。その結果、「極右」政党は「行き場のない不満」を抱えた「没落した中間層」の不満を吸い上げることに成功し、「極右」政党の勢力拡張に成功した。この結果、極右政党は欧米諸国で勢力を伸ばし、国によっては、大統領或いは議会第一党の座を伺うまでになった。

 「極右」は「没落した中間層」のような国内の貧困は「国家」の名で「没落した中間層」を救うとの政策を掲げた。そのためには外国人や移民に厳しい「(福祉)排外主義」や「ネオナチ」と言われることも辞さないとの立場を取った。これでは、選挙においてリベラル・左派と「極右」との人気の差は火を見るより明らかである 。

 「極右」勢力は様々な批判を受けつつも欧州各国で勢力を伸ばしていき、オーストリアでは連立与党となったのを始め、仏国民戦線は大統領選挙で決選投票に進出し、オランダでは第二党に躍進した。また、選挙制度上の壁から議席が余り獲得できない英仏両国においても、比例代表制を採る欧州議会選挙では相応の議席を獲得しており、存在感を示している。

 このことは、「没落した中間層」を「愚者」として貶めるリベラル・左派と「同胞」として救済しようとする極右との差が現在の「勢い」の差になって現われている。そのような「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対し、「弱者救済」を主眼とした「急進左派」が勃興しつつあるところである。

193キラーカーン:2018/01/28(日) 22:52:03
7.2.5. 政治の「大統領制化」
7.2.5.1. 総説

 本来的には「ネトウヨ化」とは関係はないが、「世界総ネトウヨ化」の促進要因となったものとして最近の(比較)政治学において「大統領制化」という現象がある。

 そもそも、大統領制或いは二元代表制は、行政区域内でただ一人の当選者を選ぶ「究極の庶選挙区制」である。、大統領制は、民主政治の中にゼロサム・ゲームと「勝者総取り」的結果に向かう傾向を導入したともいえる 。この結果、大統領制或いは二元代表制は議院内閣制と比べて国民の間の亀裂或いは分断を固定化・拡大する傾向が強い。

 また、大統領という職責から、大統領(候補者)は有力政党の指導者(≒党首)であることが一般的である。したがって、大統領は「国家の顔」だけではなく「政党の顔」という役割も担わされることとなる 。その「政党の顔」という側面が強くなれば、国全体が、「大統領派」か「反大統領派」に二分される。その結果、大統領制の国家或いは二元代表制の地方自治体においては、反大統領派によるクーデター又は革命を惹起させやすく、その結果、大統領制は議院内閣制よりも民主主義の安定度が劣るとの議論が提起された 。

 当選者が一人という大統領(首長)選挙や小選挙区制においては、有力候補者が2名 に収斂するというのがデュヴェルジェの法則が予測するところである。この法則があるからこそ、「政権交代可能な二大政党制」を目指した日本の政治改革を実現する制度改革として、日本の衆議院選挙に小選挙区制が導入された。

 小選挙区制や大統領選挙のように(有力)候補が二人に収束する選挙戦では「敵か味方か」或いは「共通の敵」を作り出すという二分法が選挙戦術として有効となる場合が多い。そして、国全体でただ一人しか当選者を輩出しない大統領制ではその「二分法」による弊害が最大となる。また、「当選者が一人」ということから、大統領制は独裁制へ転化しやすい 。民主党が2009年の総選挙で政権奪取に成功したのは「反自民」という世論の後押しがあったのは言うまでもない。このような「敵か味方か」という二分法或いは「一ビット脳的政治」を招きやすい大統領制或いは「二元代表制」という特性に便乗して、最近では議会との対立を煽る首長が目立ってきたのはこれまで述べてきたとおりである。

 このような「反○○」という「(共通の)敵を作り出す」手法で当選してきた大統領・首長は、当選後の新たな敵として議会を標的にする。この場合、二元代表制の首長側が大統領・首長と議会との対決姿勢を増幅する働きをする 。我が国においてこの手法を多用しているのが改革派首長或いは所謂維新系政党(「都民ファースト」及び「希望の党」を含む)である。彼らは、「既得権益」などの「敵」を作り上げ、「敵味方」という二分法で有権者の感情を煽る というポピュリスト的手法を活用している。そのような対決型の首長が当選した自治体が増加した(そして、そのような自治体は「劇場型」であるがゆえにニュースとなり易く、世間の注目を浴びる頻度が高くなる)結果、分割政府における統治機能の麻痺・機能不全という二元代表制の弊害が日本においても顕わになってきているのが最近の改革派首長の弊害でもある。

194キラーカーン:2018/01/30(火) 01:00:05
7.2.5.2. 「大統領制化」とは何か

 本節でいう大統領制化 というのは、制度としてのそれではなく、大統領制、半大統領制、議院内閣制という政治体制を問わず、政治権力が行政権の首長、すなわち、大統領又は首相に集中する傾向を指す。具体的には

① 行政府(執政府)及び出身政党における首長(指導者)の権力資源の拡大
② 行政府(執政府)及び出身政党における首長(指導者)の権力の自律性の増大
③ 首長(指導者)の指導性を重視する選挙過程

の3つの特徴を持つという。これは、

① 首長の権力の源泉は議会に依存するのではなく、直接選挙で選出されたことによる
② 首長の指導力は(選挙での勝利を条件として)出身政党の圧力から保護される
③ 首長は「選挙の顔」として選挙結果に直接影響を及ぼす

という大統領制化の効果をもたらす。日本においては、「改革派首長」を淵源とする「首長権力の大統領制化」というものは、橋下元大阪市長をはじめとする「維新系政党」で一応の完成をみた。その正統後継者は小池都知事である 。

 問題は、この「大統領制化」が属人的なものであるのか、構造的・制度的なものであるのかということである。属人的なものであるのであれば、一過性のもので終わる可能性があるが、構造的・制度的なものであれば、ある程度継続的なものとなる。勿論、構造的・制度的なものであったとしても、首長の座に就いた人の属人的な資質によって大統領制化の度合いは変動する 。これは、同じ「大統領制化」といっても、大統領制、反大統領制及び議院内閣制と政治体制が異なれば、その「大統領制化」の範囲も異なることと同様である。

 日本でいえば、地方自治体レベルでは改革派知事或いは維新系政党は制度変更と伴わないため(というよりも、制度自体が大統領制の一種である二元代表制となっているため)属人的色彩が強い 。或いは、既存の制度を活用しただけであり、これまでは、属人的事情で大統領制化が「抑制」されてきたともいえる。

 国政レベルでは小選挙区制導入や首相権力(官邸)の強化という制度改正を伴っていることから、意図的に首相権力を高める方策ととってきたと言える。また、リベラルが主流のマスコミによる批判的な報道にも関わらず。国政選挙での連勝により、安倍総理・総裁への求心力は維持されており、国政では「安倍一強」と言われる政治状況となっている。

195キラーカーン:2018/01/31(水) 00:16:12
7.2.5.3. 「1ビット脳的政治」と大統領制化とポピュリズム

 これまでも述べているように、大統領制或いは二元代表制における大統領選或いは首長選は「究極の小選挙区制」である。勿論、大統領選は国を二分する戦いになる。特に大統領選が決選投票制を採っている場合、その決選投票は文字通り「国を二分する」選挙戦となる。

 このような「国を二分する」選挙戦、「敵か味方か」或いは「反○○」という二分法は、全ての問題が究極的には「0と1」に二分される「1ビット脳的政治」は相性が良い。ここに、ポピュリスト的政治家が付け込めば、「風」に乗って政権を奪取することも可能である。

 この種の問題は大統領制においては「政治の素人」が大統領になるというリスクとして知られている。「素人」は資質・経歴の問題であるが、「ポピュリスト」は政治手法の問題である。但し、全国民(住民)の直接選挙で選ばれる大統領、首長であるからこそ、「素人」或いは「ポピュリスト」という語が選挙に際して有利に働くこともある。

 トランプ米大統領や橋下元大阪府知事のように、この両者は矛盾せずに重なり合うことが往々にして存在する。勿論、アイゼンハワー米大統領 のように「政治の素人」であっても、大統領として及第点を与えられている者も存在するので、「政治の素人」であるから大統領或いは首長として不適格とはならない。従来の経緯や文脈から離れた変革が必要な場合はそのような「外部の血」を入れるという利点もある。日本の例では、官僚出身の「改革派知事」というのが該当する。

 ただし、国家(自治体)全体でただ一人を選出された者に権力が集中していく大統領制化と「1ビット脳的政治」との融合は「右」だけで起きているのではない。それは「左」の側にも起きている。有名な例はスペインの左派ポピュリスト政党の「ポデモス」である。

196キラーカーン:2018/02/01(木) 00:36:48
7.2.5.4. 議院内閣制における大統領制化
7.2.5.4.1. 総説

 (半)大統領制を採る国が「大統領制化」するのはある意味当たり前であるが、前述の『民主政治はなぜ「大統領制化」するのか』においては、議院内閣制をとる国も含めて「大統領制化」という概念が使用されている。昨今の政治体制論における「大統領制化」を巡る議論もこの前提に立っている。

 議院内閣制において「大統領制化」という語が用いられる場合は首相(与党第一党党首)への権力集中という意味で使用されている。最近、議院内閣制においても首相への権力集中・自立化という「大統領制化」が進んでいるというのが、ポゲントゲとウェブの立論である 。

197キラーカーン:2018/02/01(木) 00:37:31
7.2.5.4.2. 日本における首相の「大統領制化」

 この「議院内閣制における『大統領制化』という点において、1990年代に「政治制度改革」を経験した我が国は分かり易い実例となっている。細川内閣の成立以後の日本の「政治改革」は首相権力の強化・自立化という点で一貫している 。

 自民党総裁としては、小選挙区制の導入は自民党の権力の源泉である公認権とそれに付随する選挙運動を総裁-幹事長という党中央で掌握することを可能とし、「党中党」としての派閥の存在意義を消滅させた。

 行政の長としての総理大臣としては、「官邸機能の充実」という掛け声のもと、総理直属の機関が拡充強化されている。これは、行政権を分担管理する各省大臣から独立した総理権力の強化・自律化という結果をもたらす。

 このような、政治制度改革後に強化された総理権力或いは自民党総裁権限を最も効果的に使った総理として小泉総理を第一に挙げるのは衆目の一致するところであろう 。「刺客候補」、「派閥推薦を受けない大臣人事」、「偉大なるイエスマンと自称した幹事長」など、小泉総理の「大統領制化」を語る逸話を挙げるのに苦労はない。

 そのような中で、旧来の派閥政治の経験に依拠した「古い」タイプの政治家は時流に取り残されていった 。総理大臣でいえば、福田康夫氏、自民党脱党組でいえば政調会長、通産大臣を歴任した亀井静香氏といったところであろうか。福田氏は総理退任後存在感を発揮できず政界を引退し、亀井氏は自民党を離党し、国民新党を結成し鳩山政権から野田政権までの間連立与党として一定の存在感を発揮したが、結局、泡沫政党のままで政界を引退することとなった。

 一方、安倍晋三氏は、第一次政権での蹉跌を経て、第二次政権で「安倍一強」とまで言われる政治情勢を現出させたことから見ても「大統領制化」という流れに適応したと判断してよいと思う。また、副総理兼財務相として安倍総理を支える麻生元総理も「キャラが立って」おり、その点では大統領制化と親和性が高い。リーマンショックで解散総選挙の時期を逸した ことで結果として自民党を下野させたが、その「個性」から、第二次安倍政権では副総理兼財務相として独自の存在感を放っており、「暫定」であれば総理再登板の芽が残っているともいわれている。

198キラーカーン:2018/02/02(金) 00:54:34
7.2.5.4.3. 首相の解散権の制約と「大統領制化」

 最近、議院内閣制を採る国において注目すべき傾向がある。それは、首相の解散権の制限を規制する国が増加傾向にある事である。首相の解散権制限は、国会議員の生殺与奪の権を制限するため首相権力の弱体化を意味する。

 しかし、逆に、首相の解散権が制限されるということは国会議員の任期に対する総理の影響力が低くなり、議会の進退と内閣(与党)の進退との独立度が高くなり、議会と内閣との間の関係の独立性が高くなる。その結果、一般的に議会の解散がない ことを特徴とする大統領制へ制度的に接近していくこととなり、一種の「大統領制化」といってよい状況となる 。

 最近になって、首相の解散権に制限を加えた代表的な例は、2011年に「固定任期議会法」を制定したイギリス がある。

199キラーカーン:2018/02/03(土) 01:23:33
7.3. 結論3:将来への展望(「国民国家の「統合」再生への処方箋)
7.3.1. 総説

 グローバル化とそれに対する反発としての「ネトウヨ化」の流れは大陸を超えて存在している。それに対するリベラル・左派の対応は、ネトウヨ化を軽蔑し嘲笑するのみで有効な対策を立てられていない。その結果、国政選挙においてリベラル・左派の主流派は巻き返しの切っ掛けさえ掴めていない。

 更に、インターネットの発達により、発信力という点でリベラル・左派が圧倒的に優勢であるマスコミや学界(特に社会科学分野及び人文科学分野)の優位性が減殺される傾向にある。インターネットは、リベラル・左派が優勢なマスコミや学界の自己矛盾と二重基準を白日の下にさらけ出し、その結果、リベラル・左派は「自壊」或いは「自滅」と言ってよい状況に陥った。その「反リベラル・左派」も「ネトウヨ化」に一役買っている。

 更に、そのようなリベラル・左派の自壊・自滅以外にも「世界総ネトウヨ化」を下支えするような「大統領制化」という傾向もある。現実に、「ネトウヨ化」の流れはG7諸国のみならず東欧にも広がっている。このような昨今の情勢を見る限り、「世界総ネトウヨ化」の流れは「時代の必然」なのであろうか。

 本節では、社会の分断が「ネトウヨ化」を進行させているという認識の下、社会の分断を食い止めるための方策を検討する。
筆者は「ネトウヨ化」のもう一つの主要要因であるリベラル・左派の自壊・自滅については、「自業自得」として冷淡な態度をとるが、もしリベラル・左派の反撃というものが存在するのであれば、どのようなものが考えられるかについても可能な限り考察を試みる。但し、現在のリベラル・左派、特に日本のリベラル・左派の状況では、そのような方策を採ることは事実上不可能に近く「絵に描いた餅」に等しいものとなろう。

 勿論、「21世紀の政治制度改革」だけでネトウヨ化ひいては社会の分断が緩和されるとは思えない。ネトウヨ化ひいては社会に分断が緩和される為には、制度改革だけではなく、実際に指導者(大統領や首相)に就任する人物にもよるところは大きい。どのような人物が指導者に就任しても現在問題となっている「分断」を食い止め治癒できるための政治制度とはどのようなものかについて論ずることは可能である。本節では、代表的な政治体制である、大統領制、議院内閣制及び反大統領制についての概要を述べた上で、「分断」を食い止める或いは緩和するための政治体制はどのようなものかについて考察する。

200キラーカーン:2018/02/04(日) 00:52:08
7.3.2. なぜ、日本型ネトウヨ政党は消滅の危機にあるのか

 欧米各国では、「極右勢力」の台頭により、国内の「分断」が深刻化しているといわれている。著者もその見解に同意する。そのような「世界総ネトウヨ化」の中で、「ネトウヨ政党」が消滅の危機にある唯一の国と言ってもよいのが日本である。

 これまで述べたように、日本型ネトウヨ政党は事実上自民党に吸収され、事実上消滅したといってよい状況にある。それは、安倍晋三総理が自民党の右に位置する政治家であり、彼が総理であり、彼の出身母体である清和会が自民党主流派である限り、「ネトウヨ政党」として独立して存在する意義を持たないからであろう。衆議院の小選挙区制や参議院ではの一人区が多く占めていることも、大政党の公認を得た方が有利であり、小政党であった日本型ネトウヨ政党の自民党への吸収傾向を後押ししていた。

 我が国の「リアルの社会」において、「ネトウヨ化」が認知されだしたのは、小泉総理の退陣後、第一次安倍政権が誕生した後である。これは、先の記述と一見矛盾するようではあるが、第一次安倍政権もリベラル・左派からは「右翼」や「極右」とみなされており、リベラル系のマスコミや市民運動などの攻撃が強まった反作用として「リアルの社会」に「ネトウヨ」が飛び出していったという経緯があるからである。

 この経緯については「在特会」創設者であり、「ネトウヨ政治家」の代表格である桜井誠氏も2006年の河野談話撤回要求運動は転機であると述懐していたことからも裏付けられる 。

 これは、欧米各国では、「欧米型ネトウヨ勢力」の受け皿として既存政党が機能せず、彼らが独自に政治勢力(≒政党)を結成せざるを得なかったことと対蹠的である。そして、欧米各国では、その政党が泡沫政党の地位から脱したとしても、オーストリアといった少数の例外を除き、既存政党側から連立与党として招聘されない状況にある 。

 この例から言えば、我が国で「ネトウヨ」が独立した政治勢力となるには、安倍政権が退陣し、自民党が旧宏池会や旧経世会を中心とした「自民党内リベラル」が主流派となる「自民党の左旋回」という状況が起きるような状況にでもならなければ、日本型ネトウヨ政党が独立した政治勢力となる見込みはないであろう。

201キラーカーン:2018/02/05(月) 00:25:50
7.3.3. リベラル・左派の反撃はあるのか

 これまでに述べたようなリベラル・左派の傲慢が現在の「極右」の台頭を招いたという反省から、欧州のリベラル・左派勢力には、「原点回帰」の立場から「没落した中間層」への支援を真剣に考えるべきとの動きも出ている。その代表格は英国のコービン労働党党首、仏国のメランション氏、米国のサンダース上院議員であり、彼らは一般的に「急進左派」と呼ばれている。

 近年選挙があった米国、英国、仏国では、急進左派の側からそのような「大きな政府」路線を掲げる候補・政党が現れ、一定の支持を集め
① 米国ではサンダース上院議員が民主党の大統領予備選において最後までヒラリー・ク
 リントン氏に食い下がり
② 英国ではコービン氏が率いる労働党が健闘し、保守党が第一党の座を死守したものの
 過半数割れに追い込み
③ 仏国ではメランション氏が大統領選で「4強」の一角として、最後まで決戦投票進出
 の可能性を残していた。

 現在は「セレブ」と化し、「没落した中間層」をはじめとする貧困層を見下すようになり貧困層からの支持を得られなくなったリベラル・左派であるが、元来(冷戦終結前)、リベラル・左派は貧困層の救済となる社会福祉充実のため「大きな政府」を志向する傾向があった。そのようなリベラル・左派の原点に立ち戻り、「没落した中間層」の支持を取り戻そうとしている、急進左派の動きは20世紀(或いは冷戦終結)まで見られたリベラル・左派への原点回帰ともいえる。

 米国では2016年大統領選挙の民主党予備選挙においてサンダース上院議員が「社会主義」的な政策を掲げ、民主党予備選挙における「絶対的本命」と言われたヒラリー・クリントン氏に最後まで食い下がった。当選した共和党のトランプ大統領も共和党の中では小さな政府への志向度が一番小さいといわれている 。

 英国では、EU離脱交渉を前に政権基盤の強化を図って解散総選挙に打って出た保守党が過半数を割り込み、当初劣勢が伝えられていた労働党が意外な検討を見せた。英国労働党が善戦した要因として、労働党が医療サービス支出増など、既得権益バッシングの「ない」「反緊縮」政策をとった事が挙げられている 。

 仏国では、大統領選挙で急進左派ともいわれるメランション氏が労働者保護を掲げ、支持率を伸ばした。メランション氏はマクロン大統領らと「4大候補」の一角を占め、マクロン、ルペン両候補を僅差で追いかけ、決選投票進出の可能性を残すまでに「健闘」した。

 英国や仏国或いは米国のサンダース氏ように、健闘した左派・リベラルが掲げた「没落した中間層」を取り込む「反緊縮」或いは「大きな政府」路線はメランション氏のような急進左派のものとなった。冷戦終結後における左派・リベラルの主流派である「グローバリズムと多様性」では、最早「没落した中間層」から「福祉排外主義」に移行しつつある国民多数派の支持を得られないような状況になっている。

 このように、欧米では、リベラル・左派が「没落した中間層」を「グローバル化の敗者」として嘲笑し、救済する価値もない存在として切り捨て、彼らの救済を「国家に押し付けた」 。それと引き換えにリベラル・左派は「国境を超える」グローバリストとしてのアイデンティティーを確固たるものとしたのであった。そして、「没落した中間層」の代わりに、そのグローバリストとしての存在を満足させるための「弱者」としてグローバリストの救いの手が差し伸べられたのが「難民」であった。

 リベラル・左派の主流派がそのような現状に甘んじている限り、リベラル・左派の復活はなく、「左派の復権」はメランション氏に代表される「急進左派」によって成し遂げられることになろう。

202キラーカーン:2018/02/07(水) 00:19:52
7.3.4. 分断を緩和する可能性のある政治体制は存在するのか
7.3.4.1. 総説

 本節では、大統領制、議院内閣制及び反大統領制の各制度について解説する 。

 なお、本稿では、政治体制としては、(立憲)君主と大統領は国家元首として同値であるという前提に立っている。もっと単純化していえば、「元首が非世襲であれば大統領制、世襲であれば(立憲)君主制」との前提に立っている。このため、(立憲)君主制の項は存在しない。必要に応じ、「大統領」を「君主」に置き換えれば良い。

 議院内閣制と大統領制は二律背反であると思われているが(一般論としては正しい)、端的な例を挙げれば、(半大統領制ではない)「大統領が存在する議院内閣制」という政治体制も存在する。
大統領と首相と双方が存在する政治体制において、どちらが政治的実権を握っているか、即ち、大統領制化議院内閣制かということを判別する分かり易い目安として、「サミットに誰が出席するか」ということが挙げられる。例えば、G7サミットでいえば、大統領が出席する国は大統領制(米国)又は半大統領制(仏国)であり、首相が出席すれば議院内閣制(日本、英国、独国、伊国及びカナダ)である。G7諸国で議院内閣制を採っている国のうち、日本、英国、カナダ の3カ国が立憲君主制、独国、伊国の2カ国が大統領を有する議院内閣制である。

203キラーカーン:2018/02/08(木) 00:35:31
7.3.4.2. 大統領制
7.3.4.2.1. 総論

 政治体制論でいう大統領制は「大統領」という役職(国家元首)が存在しているという政治体制を指すという意味ではない。言い換えれば、役職の名称の如何を問わず、国家元首が以下のような性質を持っている場合に「大統領制」に分類される。
① 国家元首を(実質的 )直接選挙で選出する
② 国家元首は議会により、任命又は罷免させられない
③ 大統領と内閣との間に「二重の権威」を認めない。国家元首は内閣を指揮する

 当然のことながら、上記の条件を満たさない、「大統領が存在する『議院内閣制』」という政治体制が存在するのも、既に述べたとおりである。。

 サルトーリは「大統領制はあまり機能しなかった。アメリカ合衆国を唯一の例外として(中略)それらは決まってクーデターや革命に屈した。」と大統領制の安定性について厳しい評価をしている 。逆に、だからこそ、唯一の成功例としての米国の大統領制を「ベスト・プラクティス」として分析する意味はある。

7.3.4.2.2. 失敗例としての南米諸国

 南米諸国は19世紀に相次いで独立を果たすが、独立後の政治体制については、米国を参照とし、大統領制を採用した。しかし、多くの国でクーデターなどによる民主制(大統領制)の崩壊を経験している。この原因は、「強力な大統領」という「幻影」に怯え、大統領権力を弱体化する方向へ政治力学は働いた結果、「決められない政治」に陥ったというものである 。

7.3.4.2.3. 成功例としての米国
 「世界に冠たる民主主義国家」としての米国の名声は不動のように思える。勿論、人種差別など米国の民主主義にも問題がないわけではないが、「世界一の民主主義国家」として米国を挙げることに異を唱える人は少数派であろう。その米国が「大統領制発祥の地」であることから、「君主制の改良型」である議院内閣制よりも、民選の元首である大統領制の方が「民主的」であるとの「イメージ」も強い 。しかし、米国以外の大統領制は必ずしも「民主度」は高くない。サルトーリは米国の大統領制が成功している理由について、
① 思想的な無節操
② 脆弱で無期率な政党
③ 地域中心的な政党
の3つを挙げている 。

 つまり、米国の政治風土が党派的、思想的な原因により議会の対立軸が固定化されることを回避する、言い換えれば、その時々の議員個人の選挙区の利害関係によって議会での態度(投票行動など)が決定されるということである。また、このことを裏面から表すものとして「(米国の大統領は)建国の父たちが、党派的な対立から超越してそれを抑制する存在として設計したものである 」という表現もある。その議員の利害を纏め望む法律案を成立させるためには、議員を調停できる「強い大統領」を必要とした。

 これらを纏めると、
① 議会内の対立軸は案件により異なり、政党間で固定化されてい「ない」
② 大統領は議会内の対立から超然としているべきである
というのが元来の米国の大統領制の制度設計であったといえる 。

 サルトーリは、このような分断が固定化されていない米国の政治環境が米国の大統領制を「成功」に導いたとしている。言い換えれば、大統領制においては、行政府を掌握している「強い」大統領と、案件に応じて党派性を超えた投票行動を容認する「弱い議会政党」が成功する大統領制の条件である(分離から融合)。

7.3.4.2.4. 米国大統領制の黄昏?-トランプ大統領を生み出したものは何か

 米国においても、大統領は「行政の長」よりも「政党の顔」としての比重が大きくなってきている。このため、大統領の議会への働きかけ自体が党派的対立を招くようになったとされている 。また、法案に対する大統領の立場表明によって、それを支持するか否かで二分されやすいという傾向にある 。

 これらのことから考えれば、党派対立から「超然」とした行政府の長としての大統領とを、ここ数十年の傾向として、共和・民主の二大政党に対応した党派性に基づく二分化の傾向が強まってきた議会 との相乗効果によって、米国政治も二分化される傾向にあるとの推測は成り立つ。その党派性による分極化・分裂がトランプ大統領の登場により誰の目にも明らかになってきたのでないかと推測できる。

204キラーカーン:2018/02/09(金) 00:00:19
7.3.4.3. 議院内閣制
7.3.4.3.1. 総説

 議会と政府との完全分離或いは相互独立性を基盤とする大統領制とは異なり、議院内閣制とは、政府(内閣)の存立が議会の投票結果により、政府(内閣)全体或いは政府の長が誕生し、必要な場合には議会は政府に対する支持を表明し、罷免される政治体制である 。このため、政府の任期議会の信任が無くなるまでであり、政権存続期間は一定しない 。この政府の存続が議会の信任に依存している結果、議院内閣制においては立法権と行政権(執行権)は(連立)与党において共有されることとなる 。

7.3.4.3.2. 首相の立場による分類

 議院内閣制は、(米国)大統領制のように一人の人間に権力(行政権或いは執行権)が集中することを排除する政治形態である。この結果議院内閣制における首相の地位、権力については与党議員との関係に依るため、次の3つに分かれるとされている 。
① 非同輩者の上に立つ第一人者(a first above unequals)
  与党議員から不信任を突きつけられる可能性がなく、閣僚を意のままに任免できる
② 非同輩者中の第一人者(a first among unequals)
  閣僚を罷免することはできるが、自身は罷免されない
③ 同輩者中の第一人者(a first among unequals 或いは primus inter pares)

  自身が自由に任免できない(押し付けられた)閣僚が存在する
議院内閣制においては、フランス第三、第四共和政のような「強い議会」と「弱い首相」の組み合わせではなく、英国やドイツのような「非同輩者の上に立つ第一人者」による政府(内閣)が与党からある程度の独立性をもって行う政治システム(宰相システム )の方が安定するといわれる(融合から分離)

205キラーカーン:2018/02/10(土) 01:33:57
7.3.4.4. 半大統領制
7.3.4.4.1. 総説

 半大統領制とは、国民の直接投票で選出される行政府の長である大統領と議会の信任に依存する首相との間で行政権(執行権)を共有している体制を指す。即ち、大統領は首相行政府の権限を共有し、首相は議会(与党)と権限を共有する。

 とはいっても、大統領と首相が「並立」しているのではない。大統領の出身政党と議会多数派が同じである場合には、大統領制が優位に立ち、そうでない場合には、首相が優位に立つ。但し、劣位になった方の権力・権限がゼロになる事(つまり、純粋な大統領制と議院内閣制との「交代」)にはならない 。

7.3.4.4.2. 半大統領制の持つ「曖昧さ」

 このように、半大統領制は大統領制と議院内閣制との間を揺れ動く「曖昧な政治体制」ということもあり、論者によって半大統領制に該当する国家には異同がある。ここでは、代表的な論者として、「半大統領制」という語の生みの親であるデュヴェルジェと「交代大統領制」(この語については後述)の提唱者であるサルトーリを例に引く(図3参照) 。

 デュヴェルジェは、フランス、ヴァイマール・ドイツ、ポルトガル、フィンランド、スリランカ、オーストリア、アイルランド、アイスランドの8カ国を半大統領制の国としている。一方、サルトーリはオーストリア、アイルランド、アイスランドの3カ国については、大統領の権限が名目化していると判断して議院内閣制としている。「半大統領制」という語はフランス第五共和制の政治体制を説明するためにデュヴェルジェが作った語であるが、デュヴェルジェもサルトーリも第五共和制以前に消滅した政治体制であるヴァイマール・ドイツを反大統領制に分類しているのは興味深い 。

 この「元首(大統領)」の権限が実質化したために、政治体制が議院内閣制に移行したという事象は、欧州における多くの立憲君主国に見られたのみならず、戦前期日本の「憲政の常道」期にも見られたものである。半大統領制か(大統領の権限が名目化した)議院内閣制かの判定は、民主政の発展段階にある立憲君主制における君主の権限と首相の権限との判別、或いは、立憲君主国に多く見られる君主権力の名目化と同様の問題である。しかし、半大統領制はその「曖昧さ」を活かして、政治状況に応じ、大統領制と議院内閣制を「切り替える」ことを可能とする政治体制なのかもしれない。

 そして、半大統領制の持つ大統領制と議院内閣制との間の「振動」という性質に着目し、その可能性に着目したサルトーリは「交代大統領制」(後述)提唱する 。また、「交代大統領制」の実例とはみなされていないが、実質的に大統領制(超然内閣)と議院内閣制(憲政の常道)の間を揺れ動いた体制として大日本帝国憲法体制、特に「1900年体制」がある。このように、大統領制でも議院内閣制でもなく 、その両者の間を「振動する」政治体制が、現在のような「ネトウヨ化」した社会において分断を緩和する可能性のある政治体制として以後述べていくこととする。

206キラーカーン:2018/02/11(日) 01:37:57
7.3.5. 「分断」を食い止める政治体制
7.3.5.1. 総説

 先に述べたように、大統領制、議院内閣制、半大統領制それぞれに長所と短所がある。一般的に大統領制は硬直的であり、議院内閣制は柔軟であるといわれている。そのことを示す言葉として「議院内閣制の危機は体制の危機ではなく政府の危機である」というものがある 。また、選挙制度においても小選挙区制と比例代表制では相反する長所と短所がある。このため、政治危機に応じて最適な政治体制を柔軟選択又は変更できる体制を構築しておくのが理想的である。

 しかし、憲法を英語で「constitution」というように、憲法では国家権力行使に関しての構造化、制度化が主眼の一つである。言い方を変えれば、憲法は「最高」の国家行政組織法でもある。したがって、どのような政治体制を採用するかについての基本的構造は憲法に規定しなければならない。これは、先の述べた「政治危機に応じて柔軟に政治体制を変更できる 」とは二律背反する要求である。

 現在「ネトウヨ化」と並んで問題となっている「分断」であるが、その「分断」を食い止める或いはその分断を治癒できるための政治制度はどういうかを選択できる融通性を持った政治体制 を憲法にどのように規定するのかついて考察を行いたいと思う。
安定し、効果的な統治をもたらす政治体制は
① 大統領制においては、強い大統領による議会への働きかけで大統領への支持を調達
 (大統領と議会との分裂からの統合)
② 議院内閣制では、強い首相による内閣(行政府)の与党からの独立性の確保
 (首相と議会(与党)との融合から分離)
③ 反大統領制においては、政治状況に応じた大統領制と議院内閣制との「切り替え」
 (状況に応じた大統領と首相(与党)との間の最適バランス)
ということになる。

 しかし、これまで述べてきたように、大統領制は、現在、「国家元首」というよりも、「政権与党の顔」としての役割が増大しており、「党派的傾向」が強くなってきている。それと「大統領制化」と言われる状況とも相まって、「分断」を拡大させ、固定化させこそすれ、その分断を押しとどめる効果は少ないと考えられる。これは、議院内閣制と小選挙区制(≒二大政党制)との組み合わせを選択した場合においても生じやすい。

207キラーカーン:2018/02/12(月) 01:21:07
7.3.5.2. 政治体制はどの程度まで憲法で規定すべきか

 憲法典において規定されている事項は各憲法典によって異なる。先に述べたように日本国憲法は統治機構についての規定が粗いため、他国では憲法改正を要するような統治機構改革も法律改正で可能と言われている。

 大日本帝国憲法に至っては、更に規定が粗く、天皇と大臣のみしか規定されておらず、天皇を各大臣が輔弼するという体制のみが規定されていた。したがって、首相の権限をはじめとする内閣の職務権限、或いは首相任命手続などについては憲法ではなく、法律レベル で規定されていたか或いは「慣行」に任されていた。

 現代においては、そこまで「粗い」ということは許されないであろう。少なくとも、
① 大統領制、半大統領制、議院内閣制のいずれか
② 国家元首について(非世襲≒大統領制、世襲≒君主制)
③ 政府の長(首相又は大統領)の任命資格及び任命手続政府の長と各閣僚との関係
④ 内閣の権限内閣の組織
⑤ 大統領弾劾或いは内閣不信任と議会解散
については憲法において規定されるべきであろう。

 また、サルトーリのいう「交代大統領制」を採用する場合には
⑥ 大統領制、半大統領制、議院内閣制が変更される要件
についても規定する必要がある。

 選挙制度については、議論が分かれると思うが、
① 大統領制を採用する場合には大統領選挙
② 連邦制を採用する場合には、上院(州代表)と下院の議員資格及び選挙制度
は規定する必要があると思われる 。

208キラーカーン:2018/02/13(火) 00:03:19
7.3.5.3. 緊急避難としての「(挙国一致)大連立」の効用
 政治体制の基本は憲法で定めるべきであるという大原則を是認したとしても、憲法レベルでの規定が不可能である「事実上の」政治体制がある。それは「(挙国一致)大連立」である。

 大連立とは、平事においては政権を争うライバル関係にある政党或いは政治勢力が、国家的危機などに際して一時的に連立を組むということをいう。このような事態は、まさに、国家消滅の危機でなければ是認し得ないものである。歴史上では、英国が第一次及び第二次の両世界大戦時に対外戦争を行う際に実施した「(挙国一致)大連立」が有名な例である。

 最近、特に本稿の趣旨でいえば、「極右政党」の台頭により既存の政治体制の安定が損なわれるため、既存の政治勢力(≒政党)が連合することによって既存の政治体制を維持しようという動機が生まれる。そして、それまで政権を争っていた各勢力が連合することでしか過半数を確保できないという状況になったときに、極右政党を連立与党から排除するために大連立を組むということがある。現在、ドイツにおいて行われているCDU/CSUとSPDとの大連立交渉がこの例である 。

 政治的危機を乗り切るための劇薬としては有効な場合もあるが、長期間にわたると、政権交代の可能性が無くなり一党優位制へ転換する契機も生まれる。したがって、大連立は、大連立を必要とした状況がある程度緩和された段階で解消するのが正しいと思われる。

209キラーカーン:2018/02/13(火) 00:04:07
7.3.5.4. 緊急避難としての「超然内閣」の例(イタリア)

 現在、所謂先進民主主義諸国において、一番「交代大統領制」に近い政治体制を採っているのがイタリアである。イタリアは基本的に議院内閣制であり、下院第一党党首が首相になる事を原則としている。しかし、タンジェントポリ のような多くの国会議員を巻き込んだ政治危機の際には、大統領の決断により、疑惑の当事者となっている国会議員による内閣ではなく、非議員による「超然内閣」 を結成して政治危機を乗り切るという手法を採ることがある。

210キラーカーン:2018/02/13(火) 23:11:51
8. 試論:「ネトウヨ化」への処方箋としての「交代大統領制」
8.1. 総説

 本節では、前節の内容を受けて、ネトウヨとリベラル・左派との間の分断を緩和する可能性のある政治体制としての「交代大統領制」とその実例としての「1900年体制」について述べていく。

8.2. 「交代大統領制」とは何か

 交代大統領制は政党政治の比較分析などとして世界的に高名なジョバンニ・サルトーリ氏の提案である 。サルトーリは「交代大統領制」の根幹制度を
① 政府は総選挙時に終了し、総選挙の結果発足する政府は議院内閣制である
② 内閣不信任の際は大統領が「超然内閣」を組織する(大統領制への移行)
③ 大統領は直接選挙により有権者の過半数で選出され、任期は議会の任期と一致する。
とする。

 サルトーリは、これにより、議院内閣制と大統領制との間での「体制の均衡」が成立するとしている。その理由として
① 議員は倒閣運動に参加しても閣僚になれない
② 「政府の長」としての大統領には再選がない
としている。

 このような、議院内閣制を基準としながら、政治危機には時限大統領制で対処するという考え方は、イタリアにおける緊急避難的な超然内閣を思わせる 。

211キラーカーン:2018/02/15(木) 00:46:47
8.3. 「交代大統領制」の実例としての「1900年体制」
8.3.1. 総説

 本節では、サルトーリが提唱した「交代大統領制」の実例としての我が国の「1900年体制」を紹介する。1900年体制はサルトーリの提唱前であるが 、先に述べたイタリアの例を除き、交代大統領制の実例として一番適当であると考えられる。また、日本語で書かれた本稿においては、日本の実例を引いた方が適当であると考える。

 議院内閣制と超然内閣の「いいとこ取り」で戦前日本において政治が一番安定していた時期であったといっても過言ではない。本節では、1900年体制を「ネトウヨ化」ひいては国家の分断を緩和するための「ベスト・プラクティス」として論じてみたい。

212キラーカーン:2018/02/15(木) 00:48:23
8.3.2. 「1900年体制」とは何か

8.3.2.1. 一般的な意味における「1900年体制」

 「1900年体制」とは板野潤治氏の創案とされている 。詳細は同書に譲るが、「1900年体制」を簡潔にいえば

 伊藤博文率いる政友会と山縣有朋率いる官界が疑似二大政党的に交互に政権を担当する政治体制

といえる。この体制の大枠が明治33年(1900年)の立憲政友会の設立で定まったことから「1900年体制」と板野は名付けた。しかし、この体制の下で伊藤或いは山縣が首相となったことはなく、事実上、山縣の後継者である桂太郎と伊藤の後継者である西園寺公望が交互に政権を担当した「桂園時代」の別称 として用いられている。

 この時代は、内閣史の観点から見れば、大日本帝国憲法下の日本で一番政権が安定していた時代であった。これは、超然内閣(桂)と政党内閣(西園寺)とが交互に政権を担当することにより、「交代大統領制」が期待した効果を挙げた時代であるともいえる 。

213キラーカーン:2018/02/15(木) 00:49:35
8.3.2.2. 拡張された「1900年体制」(本節における「1900年体制」

 本節では、一般的な意味における「1900年体制」を拡張して

政党指導者と官界の指導者が交互に総理大臣となることが基本であった第一次大隈内閣から清浦内閣まで

とする。これは、実際の「政局」ではなく、内閣の性質(政党内閣か超然内閣か)に着目したものである 。

 但し、第一次大隈内閣と第二次山縣内閣は1900年体制確立のための前段階(移行期)とした方が正確かもしれない。というのも、
① 第一次大隈内閣の与党となった憲政党は大隈の改進党と板垣の自由党との合同に元老
 が政権担当意欲をなくしたための「突発的」政権交代であり、「体制」とまで制度化され
 ていなかったこと
② 第二次山縣内閣は松方、西郷といった元老が閣僚として名を連ねており、「最後の藩閥
 内閣」
という性格も持つ
ということから、純然たる1900年体制とは言い難い面がある。この点に配慮して、本稿では、この両内閣を「第0期」としている。

 そして、政党(選出勢力)と官界(非選出勢力)との間の疑似二大政党制的政権交代構造の維持が不可能になったことが白日の下に曝された時点(第二次護憲運動から加藤憲政会内閣の成立)によってこの「広義」の1900年体制は終わりを告げることとなる。

214キラーカーン:2018/02/16(金) 00:21:39
8.3.2.3. 「山縣スタイル」(現役軍人首相)の発生
8.3.2.3.1. 総説

 ここで、1900年体制において鍵となる概念である「山縣スタイル」について触れなければならない。

 「山縣スタイル」とは現役軍人のまま首相に就任するということを指す言葉であり、この形態で初めて首相に就任した第三代総理の山縣有朋に由来する 。その後、桂太郎、山本権兵衛、寺内正毅、加藤友三郎、東条英機、東久邇宮稔彦王と敗戦まで断続的にこの類型の首相を輩出してきた

 そのような実例に反して、大日本帝国憲法体制の下では「山縣スタイル」は予定されていなかった。というのは、予備役制度発足(明治21(1888)年12月)と同時に、部外の文官職に専任となった武官は予備役に編入されるという規定が創設されたからである。この規則に従う限り、現役軍人の総理大臣は存在しえない。なぜなら、総理大臣はどの省にも属さない「文官職」であるからである。

 この規則の例外として、「同じ軍内の文官職」に専任となる場合には現役残留が可能であった。例えば、文官の学校教官が充てられる職(例:英語教官)に駐米武官経験者を充てる場合には現役残留が可能である(勿論、予備役編入の上「文官」として就任することも可能)。

 このように「現役軍人首相」が不可能な制度設計であったのにも拘らず、
① 「山縣スタイル」が発生したのはなぜか
② 「現役軍人首相」がなぜ日本では「平穏無事」に成立したのか
③ 「文民・文官」首相ではなく、現役軍人首相がなぜ選択されたのか
という「1900年体制」を生み出した理由について考察していきたい。

215キラーカーン:2018/02/16(金) 00:22:26
8.3.2.3.2. 大日本帝国憲法体制の例外としての「山縣スタイル」

 なぜ「山縣スタイル」が発生したかといえば、政治家としての山縣の特別な地位に由来する。山縣は元勲元老の中でただ一人現役軍人であり続けた人物である 。予備役制度創設時、山縣は「陸軍外の文官職」である内務大臣であったが、現役武官の監軍(後の教育総監)が内務大臣を兼任 するという形で現役に留まっていた。しかし、山縣が首相となれば、監軍兼首相というわけにはいかない。しかし、首相に相応しい武官職がないため、このままでは首相専任とならざるを得ないが、それでは山縣は予備役編入となる。

 山縣の政治家としての権力の主な源泉は「現役軍人」である。当時の政治情勢から見て山縣が首相に就任するのは当然視されていた 。首相に就任するからと言って山縣が予備役編入となることはあり得ないというのも当時の政治家にとって「常識」であった。この二律背反を解消するために、「勅語」による現役残留という「超法規的措置」ととらざるを得なかった 。これが「山縣スタイル」の始まりである。

 その後、終身現役である元帥で首相になった第二次山縣及び寺内内閣を除き、桂太郎(第一次、第二次)、山本権兵衛(第一次)、加藤友三郎が首相に就任する際もこの方式が踏襲された。この結果「現役軍人が首相の大命降下」を受けた場合、勅語を受けて現役に残留するのが「異例の慣例」となった 。

 そして、この歴史的経験の上に、東条内閣という「戦時内閣」、そして、東久邇宮内閣という「終戦処理」が成立するが、それは「現役軍人首相」という形態のみを借用したものであり、「1900年体制」下の現役軍人首相とは性格が異なっている 。

 但し、この「勅語による現役残留」は現役軍人が首相に就任する場合「のみ」に発出されるのを原則とした 。したがって、現役軍人は首相と軍部大臣以外の閣僚に専任となる場合には閣僚就任とともに予備役編入となった。予備役制度創設時、西郷が「陸軍中将の海軍大臣」であるが故に予備役編入されたのもこの延長線上にある。

216キラーカーン:2018/02/17(土) 02:35:08
8.3.2.3.3. 「革命政権」としての維新政府が「山縣スタイル」を生んだ

 明治維新(維新政府)は戊辰戦争という内戦を経て樹立されたことは言うまでもない。また、その維新政府の一応の完成は1877(明治10)年の西南戦争終結後ということも異論は少ないであろう。偶然にも、維新の三傑はこの前後に全員が相次いで亡くなる
。しかし、そのような内戦を経て確立された維新政府において、戊辰戦争から西南戦争までの「軍功」により政府高官の地位を占めた者は少なくない。

 元勲元老(格)である黒田清隆や山田顕義は陸軍中将でありながら軍部大臣以外の閣僚として活躍している。「山縣スタイル」の創始者であり、終身現役の元帥として陸軍に影響力を維持していた山縣も軍部大臣以外の閣僚や枢密院議長の経験がある。その他にも、例えば、維新政府では軍人にならなかった板垣退助は戊辰戦争で討幕軍の総督、参謀としての軍功、軍歴がある。更には、目立った軍功があったわけではなく「軍人政治家」に含まれることはないが、西園寺公望も戊辰戦争では総督や参謀を務めたという軍歴がある。

 このように、日清戦争の頃まで、軍功により軍以外の政府高官の地位を占める者が存在し、ひいては、軍功などにより陸海軍の将官にまで上り詰めた上で軍部大臣以外の閣僚に就任する「軍人閣僚」或いは「軍人政治家」が一定数存在したことにつながる 。例えば初代内閣である第一次伊藤内閣では、首相も含めた10名の閣僚中「軍人閣僚」は過半数の6名であり、維新政府内閣(1900年体制より前の内閣)の掉尾を飾る第二次山縣内閣では、同じく10名の閣僚中5名が軍人閣僚である。

 現役軍人首相内閣であるが、軍人閣僚率が15名中の5名(うち現役3名)である東条内閣を「殆ど軍部の直接支配」と評する のであれば、維新政府内閣の最初と最後を飾る第一次伊藤内閣や第二次山縣内閣で軍人閣僚率が50%以上というのは、「軍事独裁政権」と言っても過言ではない。しかし、そのように評する人は管見の限り見当たらない。

 つまり、維新政府内閣において軍人閣僚率が高いのは、軍部支配というよりも、内戦を経て成立した明治維新政府であったため、維新政府の高官を占めるべき「建国の功労者」の中に軍人が多かったということである。それは、ジョージ・ワシントンが米国初代大統領となり、ド・ゴールが第二次世界大戦終結後に政府首班を務めた事例に近い。

 そのような維新政府における「軍人政治家」頂点に位置したのが山縣有朋であるということについては衆目の一致するところであろう。その意味において、政治家としての山縣を温存する「山縣スタイル」というのは当時の政治情勢から生み出された一種の必然でもあった。「現役」であることに拘った山縣という存在が「山縣スタイル」そしてそれを一般化した「現役軍人首相内閣」という政軍関係理論上の「特異点」を生み出した 。

 しかし、それは山縣個人或いは山縣とともに戊辰戦争や西南戦争を戦った軍人政治家に対する「属人的例外措置」を正当化するものであっても、彼ら以後の世代である桂以後の軍人政治家が「山縣スタイル」によって首相就任することを正当化するものではない。山縣と同世代ではない彼らが「山縣スタイル」を踏襲するのであれば、「属人的例外措置」を「制度化」するそれ相応の理由が必要である。次節ではその理由ひいては「1900年体制」の基礎条件を「軍人閣僚」を補助線として考察していくこととする。

217キラーカーン:2018/02/18(日) 01:45:18
8.3.2.3.4. 維新政府の名残としての「山縣スタイル」或いは軍人閣僚

 本節では「山縣スタイル」の補足として、首相以外の軍人閣僚について述べることとする。軍人閣僚といえば軍部大臣(陸軍大臣及び海軍大臣)が代表的存在であるが、明治時代においてはそれ以外の大臣にも軍人(陸海軍将官)が就任している。本節ではそのような「軍人閣僚」に焦点を当てる。

 ここでは、将官(少将以上)で大臣(首相及び班列を含む)に就任した者とする。本稿で軍人閣僚を将官以上に限定した理由は、当該大臣が形式的な軍歴があるだけではなく、「軍人(武官)であることを主要な理由として 」大臣に任命されたという実質的要件を担保するためである。任官後短期で退官し、退官後の経歴が認められて大臣に任用された場合はもとより、徴兵経験者の大臣を排除する必要もあるからである。

 「将官」以上に限定するもう一つの理由は大臣の任用資格との関係である。大臣のにんよう資格については、
① 軍部大臣の任官資格が中将以上
② 軍部大臣を含め国務大臣は親任官
とされていることから、それとの均衡上必要とされる「軍歴」は中将以上である。百歩譲って、「軍歴+α」の「合わせ技一本」で大臣に任用される場合であっても、「軍人政治家」と称されるに足る軍歴として将官以上の軍歴は必要となる 。

 内閣制度草創期には現役・非現役問わず、将官でありながら軍部大臣以外の閣僚(非軍部大臣)に就任する者が一定数存在した。また、将官以上で軍部大臣や総理大臣を含む閣僚に就任した者のうち軍部大臣のみの閣僚経験は一人(仁礼影範)だけである。

 このことは、明治維新後約20年経過しても、軍が大臣級高官の主要な人材供給源であったことを示している。国家機構整備が軌道に乗り、官僚から大臣が輩出できるようになると軍人閣僚は減少していき 、日露戦争後には、軍人政治家としての出世コースは軍部大臣から総理大臣のみとなった。

 このように、日露戦争の頃には、ヒラ閣僚級では軍人閣僚に頼らなければならないという状態は脱することができた。しかし、官僚出身者が非選出勢力を取りまとめるだけの実力を持つ「大物政治家」となるにはもう少し時間を要した。日露戦争から約10年経過し、元号も大正へと変わった頃になり、ようやく、平田東助、清浦圭吾という「官僚政治家」が首相候補に名乗りを上げるようになった。

 しかし、それでも、当時、の軍人政治家の筆頭格と目されていた桂太郎、山本権兵衛、更には山縣や桂の後継者と目された寺内正毅よりもより見劣りするのは否めなかった。政党政治家にめを転じてみても、大隈重信や板垣退助という「明治の元勲」から政争に敗れ政党政治家に転じた者、或いは、戊辰戦争に従軍した西園寺公望といった公家政治家ともかく、松田正久、原敬という「純粋」な政党政治家が首相候補に名乗りを上げるのはまだ先のことであった。
このような状況では、非選出勢力を纏めるのは引き続き軍の領袖である「軍人政治家」の役割であり、そのような軍人政治家が現役のまま首相に就任する場合、「山縣スタイル」という前例を踏襲するのは合理的である。

 官界と政党が十全な政権担当能力を身に着けていない時代であった1900年体制においては、山縣が政治の第一線を退いた後も山縣の後継者である桂や寺内という軍人政治家が官界を含めた非選出勢力全体の領袖である事が求められたため、「山縣スタイル」を継続しなければならなかった。

 大正の末期になり、官界と政党(特に憲政会)が首相輩出勢力として一本立ちし、その一方で総力戦遂行の観点から軍(特に陸軍)としても(現役)軍人首相を求めなくなった時代となったことで、「山縣スタイル」ひいては「1900年体制」はその歴史的使命を終えた。そして、時代は政党政治に親和的な「最後の元老」西園寺公望と「憲政の常道」の時代へと移っていくことになった。

218キラーカーン:2018/02/19(月) 00:27:38
8.3.3. 「1900年体制」前史(「藩閥内閣」から「大日本帝国憲法体制」へ)

8.3.3.1. 総説

 明治政府が薩長或いは薩長土肥という雄藩を主力とする藩閥政府であったということはよく知られている。維新政府樹立後、征韓論などで明治政府を追われた者が自由民権運動ひいては帝国議会(衆議院)を活躍の場とし在野の知識人などを糾合していった。その代表的人物が、板垣(征韓論で下野)や大隈(明治十四年の政変で失脚)であった。
 一方、明治政府に残留した者は国家機構の整備に伴い、文武官を糾合していった。前者(選出勢力)の代表人物が板垣退助及び大隈重信であり、後者(非選出勢力)の代表人物が山縣有朋であった。
 後に立憲政友会総裁となり、「政党政治家」へ転身する伊藤博文は、の死後、政府で頭角を現してきた伊藤博文は、長州閥ひいては藩閥政治家の領袖となるように、元々は藩閥政治家側の人物であった。しかし、伊藤は、大日本帝国憲法の実質的起草者であったことにより「憲法伯」の別名を持つことからも、国会(大日本帝国憲法上は「帝国議会」)特に衆議院の果たす役割を軽視していなかった。

 伊藤は、日清戦争後には、政党の関与・協力がなければ政府運営は不可能であるとの認識に立っていた。その結果、政党に拒否反応を示す他の元老、特に山縣との政治的立場を異にしていく。そして、第一次大隈内閣総辞職後の1900年、旧自由党(板垣系)と伊藤系の官僚を糾合して立憲政友会を設立した。官僚側はその反作用的に、山縣を盟主とする「非選出勢力」としてまとまっていった。ここに、20世紀最初の25年間の政治体制を規定した1900年体制が確立したのであった。

219キラーカーン:2018/02/19(月) 00:29:44
8.3.3.2. 「元老」とは何か。

 ここで、大日本帝国憲法体制を語る上で避けることのできない、元老に触れる。

 元老の一般的定義は、「国政の重要事項について影響力を行使し、首相奏薦について天皇の下問を受け、その他宮中関係事項について発言する指導者層」とされており、当初の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道の7名に桂太郎及び西園寺公望の2名を加えた9名を指すのが一般的とされている。

 元老は明治維新後の政治状況の中で自然発生的に生まれた集団であるため、明確かつ統一的な定義が存在しない。一般的には「『元勲優遇の勅語』 を授かった者」を元老の定義とすることが多いが、少なくとも伊藤から西郷までの7名(以後、「元勲元老」という。)は当該勅語を授かる前から元老であった 。例えば、西郷はその死去まで当該勅語を授かっていないが、西郷を元老の一員に含めることについての異論は見られない。

 その後、大正になり、元老を追加する必要に迫られた際、「追加された元老」であることの対外的証明として「元勲優遇の勅語」を授けられることが取り沙汰された。しかし、「最後の元老」西園寺が元老の追加に反対したため、桂太郎及び西園寺公望を最後に元老は追加されず、その結果として、「元勲優遇の勅語」を賜った者はいない。

 では、元に戻って元老を如何にして定義すればよいのか。それは、彼ら(特に元勲元老)の閲歴から判断して帰納的に彼らが元老とされた条件を抽出するしかない。そして、元勲元老とその他の政治家(「維新の三傑」を除く)を区別するための基準は彼らの経歴を見れば明らかとなった。明治維新の功労者の中で、元勲元老とその他の元勲とでは明らかな違いがある。それは

維新政府における太政官制終了時において参議以上の職を占めていた者で内閣制度創設とともに引き続き天皇の(政治的)輔弼職(閣僚及び内大臣)に留まった者

である。現代における元老研究の第一人使者と言っても過言ではない伊藤之雄氏も彼らに共通するこの経歴に注目している 。

 この定義を厳密に解釈すれば、黒田清隆が外れ、山田顕義と三条実美の2名が加わるので、「元勲元老」の7名と差異が生じる。

 しかし、黒田は、当時、長州閥の領袖であった伊藤と並んで薩摩閥の領袖であったことから、第一次伊藤内閣発足時の入閣は憚られたものと考えられる。事実、黒田は、伊藤の対抗として初代首相候補にも名前が挙がっており、第一次伊藤内閣の後、「(山田を含む)元勲元老の総意」で第二代首相に就任した。このことから見ても、第一次伊藤内閣発足時に入閣しなかったのは、黒田の政治生命が尽きたのではなく、当時、薩長藩閥内で伊藤に次ぐ地位にあったため、入閣が憚られたためであったことは明白である。

 残る三条と山田2名は元勲元老の一員とされることはまずない。学術研究の政界においても正式に元老の列に加えている研究者はいない。しかし、山田及び三条も他の元老に伍して元老的な役割を果たしたとの見解 が存在することは事実である。このため、彼らを「元老以前の元老」と見做せば、この定義と矛盾をきたさない。

この両者を「元老以前の元老」と表現した理由は
① 山田は「元勲優遇の勅語」を賜る前に死去した(これは西郷と同じ)ため
② 三条はその死まで内大臣の職にあり、「元勲優遇の勅語」を賜る機会がなかったため
であったと考えられるからである 。

 元勲元老の後継者として「追加された元老」には桂と西園寺と両名を挙げるのが一般的であるが、桂については元老格となってから短期間で死去したため、元老に含めない見解もある 。

 ちなみに、元老とよく似た言葉で「元勲」という言葉がある。「(維新の)三傑」と並んで「元勲」も明治維新の功労者として用いられるが、元老よりも広い範囲で用いられる。この語も明確な定義がないのは元老と同じであるが、敢えて「元勲」を定義すれば

(家柄ではなく)明治維新の功績により、維新後、参議以上の職に上り詰めた者

となるであろう。

220キラーカーン:2018/02/20(火) 00:19:33
8.3.3.3. 半大統領制の「大統領」としての元老

 元老は、大日本帝国憲法体制において、事実上の「政治面での天皇の代行者」つまり、政治体制論上において大統領制或いは半大統領制の大統領或いは君主と同視すべき存在であった。但し独任制である大統領とは異なり、元老は複数人であるという時代の方が長い。このため、元老個々人が「大統領」(「君主」)であるというよりも、政治家集団としての「元老」が大統領(君主)と同値であるということである。

つまり、
① 事実上の大統領制:元老である彼らが現役の政治家として首相(閣僚)となっている
           時代。所謂「超然内閣」(図3の「レベル2」或いは「レベル1 」)
② 事実上の議院内閣制:政党内閣の下で、彼らの存在が名目的(図3の「レベル4」)
③ 事実上の半大統領制:元老(特に山縣)が健在の政党内閣(図3の「レベル3」)
となる。

 松方が死去し、元老が西園寺のみになる(大正13年)までにおいて、首相が元老と異なる政治勢力に属している(前述の「レベル3」)場合、元老と首相との間での「コアビタシオン」状態となる。

 このように、元老が健在の間の大日本帝国憲法体制は、元老と首相との力関係により、事実上の政治体制が変化するという「柔軟性」に富んだ体制でもあった。そして、その「柔軟性」が本節でいう、「交代大統領制」のベスト・プラクティスとしての1900年体制論へと展開される。

 この観点からも「元老」というのは政治体制の安定剤として機能し、大日本帝国憲法に規定がない存在でありながら大日本帝国憲法体制の安定に大きく寄与した。このように「元老」は大日本帝国憲法体制を読み解くうえでの鍵となる存在でもある 。そして、明治維新による「革命政府 」から「憲政の常道」(「議院内閣制」)までの「事実上の政治体制の変更」を許容する大日本帝国憲法体制というものの「懐の深さ」も特筆すべきものがある 。

221キラーカーン:2018/02/21(水) 00:15:37
8.3.4. 「1900年体制」本論
8.3.4.1. はじめに

 「1900年体制」とは、先に述べたように、政権担当能力のある2大勢力の間における疑似二大政党制的政権交代構造が確立されたということである。この場合は、伊藤博文が総裁として率いる立憲政友会(選出勢力)と、山縣有朋を盟主として結集した文武官による「山縣閥」(非選出勢力)である。しかし、1900年体制において伊藤と山縣が首相となることはなかった 。

「1900年体制」の存続期間は、大略、伊藤博文による立憲政友会の結成から二個師団増設問題に伴う第二次西園寺内閣の崩壊までということになる。この時期における総理大臣は短命に終わった第四次伊藤内閣を除けば、桂太郎と西園寺公望の両名のみであったことから、結果的に、事実上「桂園時代」の別名ともなっている。ここでは、政党内閣(政党指導者が首相である内閣)と超然内閣との政権交代構造である点に注目して、「桂園時代」を離れて時代区分を設定する。

222キラーカーン:2018/02/21(水) 00:16:23
8.3.4.2. 第0期:「プレ1900年体制」(第一次大隈内閣から第四次伊藤内閣)

8.3.4.2.1. 政党との連携から政党内閣へ

 この時期は、第一次大隈内閣⇒第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣と、政権交代形態から見れば1900年体制と同じである。但し、この時期は「体制」というわけではなく、当時の政治情勢の結果として偶発的にそのような政権交代になったという方がより正確であろう。

 明治31(1898)年、板垣系の自由党と大隈系の進歩党との合併により衆議院に圧倒的多数を占める第一党(憲政党)が成立した。このような状況を受け、当時首相(第三次伊藤内閣)であった伊藤は総辞職を決意し、大隈と板垣の両名を次期首班として奏薦すべきとの立場を取った。

 他の元老は政党党首を首班にするのは反対であったが、かといって、誰も首相を引き受ける者がいなかったので、初の政党内閣である第一次大隈内閣が誕生することとなった。

 第一次大隈内閣成立前においても、政党と超然内閣との連携は模索されており、第二次伊藤内閣では板垣が内相として入閣し、続く第二次松方内閣では大隈が外相として入閣 している。また、結果として超然内閣となったが、第三次伊藤内閣も発足時は自由党及び進歩党との連携を模索していた。しかし、この時点では、政党は飽く迄「招かれた政治勢力」であり、単独で政権を担うだけの政治勢力とはみなされていなかった。

 第一次大隈内閣は、軍部大臣以外は全員政党員という当時の政治体制においては最も「政党内閣度」が高い内閣であった 。しかし、自由党と進歩党との合併から間もないため、両派の融合が進んでおらず、両派の内紛という形でこの内閣は半年足らずで総辞職となった。

223キラーカーン:2018/02/22(木) 00:54:26
8.3.4.2.2. 憲政党結成の反作用としての「山縣閥」の形成と第二次山縣内閣

 第一次大隈内閣の後を襲ったのは、第二次山縣内閣であった。第一次大隈内閣までの政党勢力の伸長への対抗上、官僚勢力は山縣 を結集軸とした。そして、下野していた伊藤も自身が率いる政権担当能力のある政党の結成を目指していた。

 このように、憲政党の結成から第一次大隈内閣の誕生を契機として、選出勢力と非選出勢力への二分化による棲み分け相互依存による両勢力間の政権交代構造が確立されつつあった。また、第一次大隈内閣から、内閣総辞職によって軍部大臣以外の閣僚が「総入れ替え」になり、名実ともに「内閣総辞職」となっていった 。これが、この時期を「第0期」とした理由でもある。

 第二次山縣内閣は超然内閣ではあったが、国会対策上、憲政党(旧自由党系)と連携した。この点も桂園時代の「情意投合」を彷彿とさせる。しかし、第二次山縣内閣は松方や西郷という元勲元老が入閣していたため、「最後の藩閥内閣 」という側面も持つ。

224キラーカーン:2018/02/22(木) 00:54:57
8.3.4.2.3. 立憲政友会結成と第四次伊藤内閣

 明治33(1900)年9月伊藤が旧自由党系と自身に連なる官僚を主体として立憲政友会を結成した。山縣は政友会の体制が整わないうちに総辞職し、政友会内閣としての第四次伊藤内閣が発足した。第一次大隈内閣のような「突発事故」ではなく、政治体制として超然内閣と政党内閣とが交代に誕生するという政権交代形態が形作られたのがこの時期(第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣)である。

 山縣の目論み通り、第四次伊藤内閣は一年足らずで総辞職となった。これを最後に元勲元老が入閣はおろか、首相になるのも最後となった 。伊藤と山縣は「1900年体制」を残して次の世代へ明治政府を引き渡すこととなった。このようにして内閣史上では、元勲元老の時代が終焉し桂園時代が幕を開けることとなった。

225キラーカーン:2018/02/23(金) 00:26:19
8.3.4.3. 第1期:「桂園時代」(第一次桂内閣から第二次西園寺内閣)

 第四次伊藤内閣総辞職後、次期首相の座は、時存命中の元勲元老で総理未経験者であり且つ総理就任への意欲を持っていた井上馨に下った。しかし、井上は蔵相に希望していた渋沢栄一に入閣を断られ、また、与党と頼む立憲政友会 も第四次伊藤内閣総辞職の痛手から立ち直っておらず、井上は組閣断念に追い込まれた。

 ここに及んで、元勲元老から首相を輩出することは不可能となった。元老が選んだのは陸軍大臣を長く務め、山縣の後継者の立場を固めつつあった桂太郎であった。桂は山縣閥に連なる官僚を主体として第一次桂内閣を発足させた。

 桂よりも先に入閣した山縣閥の官僚(芳川顕正、清浦圭吾)が存在したのにも拘らず桂が首相となったのは、当時において、帝国大学による官僚の人材育成が軌道に乗っておらず、軍人が非選出勢力を取りまとめざるを得ない状況にあったことを伺わせる。

 その傍証として、桂内閣では現役軍人である児玉源太郎が陸相から内務大臣(一時文相も兼任)に転じている 。第一次伊藤内閣以降超然・藩閥内閣にほぼ一貫して見られた非軍部軍人閣僚は児玉内相で一時途絶え、226事件後に復活する。このように非軍部軍人閣僚となった児玉は「最後の維新型軍人政治家」ともいえる。

 第一次桂内閣は、元老との良好な関係もあり、日露戦争を挟んで4年超の存続期間を誇る。これは、1内閣の存続期間としては、日本国憲法が改正されない限り更新不可能な最長不倒内閣である 。また、国会対策では西園寺率いる政友会との良好な関係構築に成功し、「情意投合」とも言われる政権たらい回し構造の確立に成功する 。この時期においては、次期首相指名のための元老会議は事実上開催されていない。

 桂は、この体制のもと、第一次内閣で4年超、第二次内閣で3年超の長期安定政権を築く。一方の西園寺も、第一次内閣で約2年半、第二次内閣で二個師団増設問題があったものの約1年4カ月と比較的長期政権を築くことに成功した。第一次、第二次の西園寺内閣は純然辰政党内閣ではなかった ものの、政権担当能力を示すことに成功し1900年体制の安定化に寄与した。

 しかし、この桂園時代の安定は意外なところから綻びを見せ始める。それは、明治45(1912)年7月30日、明治天皇崩御がきっかけであった。


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