[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
配偶者がカルトに入ったらどうしますか
1
:
管理者
:2002/06/29(土) 12:05
妻顕さんより、スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。皆様の活発な議論を期待いたします。なお、提案趣旨は以下の通りです。
わたしはHNそのままの境遇に居ります。自分の配偶者がカルトまたはカルトといわれる宗教団体に入ってしまったとき、あなたならどうしますか?どういう行動を起こしますか?と言うようなテーマでスレッドを立ち上げていただけませんでしょうか。できれば特定の団体の誹謗中傷にならない形で、ぜひ、お願いいたします。
116
:
あ
:2002/07/29(月) 04:45
元・学会員、今・無所属の立場で言わせていただきます。
正信会会員(ここにおいでの皆さんはご存知の人だと思う)の開いているサイトで、とんでもないものを発見してしまいました。
阪神淡路大震災に関する、阿部日顕法主の発言です。
以前、2ちゃんねるで、「阪神淡路大震災は創価がニセ本尊を配った直後に起こった」と
わめいている宗門法華講員を見ました。
こういうウワサ話を宗教団体のメンバーは好むもので、私はあきれて見ておりました。
そうしたら、そのウワサ話の発信元は、阿部日顕法主その人だったということがわかりました。
これには、あきれて、言葉もありません。
「会員を100万人にしないと、北朝鮮からテポドンが飛んでくる」とわめいている、
どこぞの新興宗教と、まったく発想が同じではありませんか。
117
:
あ
:2002/07/29(月) 05:04
創価学会において過去に、ご本尊模刻事件というのがあったと聞いております。
どういう事件なのか詳細に知りませんし、興味もありません。
ただ、この時、宗門は学会を許しております。本来なら地獄堕ちの大罪であるにもかかわらず、です。
つまり大石寺の法主は、ご本尊を模刻しても地獄になぞ堕ちないことを、知っているのです。
それを知っていながら、今度は「大震災はニセ本尊が原因だ。謗法だ、罰当たりだ」と信徒を脅かしているのです。
大地震が起こるような、そんなに大変な大罪なら、宗門は金を出して全国紙の広告面を買い取って、大宣伝をすべきだったと思いますが
それをやった、という話は聞きません。
どこぞの新興宗教は「日蓮大聖人に帰依しないと日本は必ず滅ぶ」という大宣伝を全国紙でやりましたけどね。
「私たちはこういうことを信じています」という真実の姿は外部の者には見せず、
裏ではコソコソと信徒の間でウワサを流す。
こんな卑怯な宗教があるでしょうか。
118
:
あ
:2002/07/29(月) 05:12
阿部法主の発言からは、震災に遭った人たちへの同情が、感じられませんでした。
「そーれ、現証だ!」と喜んでいるようにも受け取れました。
震災に遭った人たちは、あの発言を、どう読むでしょうか。心が痛みます。
管理人様、私のレスが不適当でしたら、削除してください。
119
:
管理者
:2002/07/29(月) 07:39
116から118のレス、掲示板ルールには抵触しないと判断いたしました。
120
:
五月雨
:2002/07/29(月) 08:45
あ さん
お恥ずかしい事ながら、私もそう聞いてそうなんだと信じ、口にしていました。その頃、月刊誌“諸君!”で故・内藤国夫さんが学会問題についての連載を持たれてて、毎月読んでいました。その中で「宗門は今の関西大震災が起こったのは、ニセ本尊配布したからと言っているが何ていう言い方だ。」(趣意)と書いていました。私はそれを読んで「仕方ないじゃない、本当の事だから」と思っていました。(が、不思議とこの文章はいつまでも心に残りました。)
今になって、宗門信仰の間違いが分かり、その言葉の持つ大変な意味が分かりました。前にも書いたかも知れませんが、春頃に韓国の飛行機が墜落した時、法華講のおばぁさんが「韓国で学会が住職をいじめたから落ちたんだ」と言っていました。それを聞いて、物凄い憤りを感じました。死んだひとりの人間の遺族の気持ちを考えた事があるのかと、その数は何百人になるというのに。「なんちゅう事いうねん!!」と面と向かっては言いませんでした。ただ、おばぁさんはお寺で聞いてきただけなのでしょう。言われた事を口に出して言っただけなのでしょう。
慈悲の仏法を説く一宗の最高責任者が「バチが当たった!」と喜んでいるような姿を見せているのですから、信徒も同じ思考・行動になるのでしょうね。悲しい姿をさらけ出す彼らを哀れんでやって下さい。私も同類でした。
121
:
いちりん
:2002/07/29(月) 08:58
こういう教団って、「自分たちは正しい」という醜悪な「傲慢さ」を増幅し、
自分たち違う信仰をしている人、敵対する人たちを、「憎悪」し「軽蔑」するという心を育ててしまっているんですよね。
しかしまあ、どうして、こうなっていくのでしょうね。
わたしが思うのは、「宗教」(どんな宗教であれ)というものが、人間を駄目にしていくのかもしれないなあと思います。
その「宗教」とは、「自分たちが正しい」と主張する宗教。宗教だけではなくて、あるいは、イデオロギー、信念、主義も含めて。
この「自分が正しい」「自分たちが正しい」というエネルギーというか、魔力に取り憑かれると、駄目になっていくのかもしれない。
122
:
いちりん
:2002/07/29(月) 09:30
「宗教」という名前があっても、「思いやりの心」が育たないのは、宗教とはいえない。そうも、思いますね。
仏教では「慈悲」というのでしょうが。
やさしくいえば、あの人がつらい。それは、わたしもつらい。彼が苦しい、わたしも苦しくなる。
そういう心だと思いますね。「同苦」の心。
そういうことが教えだから、そうするというのじゃなくて、自然と、そういう心が湧いてくること。
その慈悲の心を育てるために、日々の勤行があり、唱題があるともいえるかもしれません。
で、慈悲の心が育たないような、勤行や唱題であったならば、それはオカしい。なにかが、まちがっている。人を裁き、人を軽蔑し、人を憎悪し、人の苦しみを喜ぶような心が育つようであれば、それは、まあいわば魔に憑依されているようなもの。
まあ、毎日の聖教新聞や、その日顕さんの発言を読むと、その格好のサンプルですね。
わたしは、日蓮さんのすばらしさは、いろいろありますけど、やはり「同苦の人」というように思っています。
弟子が地獄に堕ちたら、わたしもともに地獄に堕ちる。そういうお手紙がありますが、思いやりの深さにおいて、日蓮さんの心は、胸を打ちますね。
123
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 14:41
阪神淡路大震災については創価学会側も同じような論調であったと記憶しています。
また、今の顕正会の他国侵逼難妄想も同様のコンセプトではないでしょうか。
これらの人間性からの分析をするのであれば、やはり、社会心理学的な側面から見てみる必要があります。
「善いことはすべて自分たちに属し、悪いことはすべて他に属する」、換言すれば、善いことは全部、自分たちに関連して考え、悪いことはすべて他に関連して考えると言うことです。
これは以前も記しましたが、社会心理学では「連合」と言われるものです。コンピュータ用語で言う「関連づけ」に似ています。映画で言えばモンタージュという技法です。
このような“決めつけ”は強迫観念を伴うわけで、賞罰論とも結びつくわけです。そして、その接着力となるものが“妄想”でしょう。個人においてはパラノイアを形成していくのでしょう。
かつて池田さんが「東京に台風が来なくなったのは創価学会員が増えたからだ」と言って世間の失笑を買ったのは懐かしいところになりましたが、石山では「世界が平和なのは猊下が毎日、丑寅勤行で祈ってくれているからである」という形で相似形をなします。
なお、阪神淡路大震災を、石山が言う創価学会の「ニセ本尊」と関連づけた、というより、煽動したのは元創価学会大幹部・竜年光氏が『有徳王』と題した品格最低の雑誌で行ったことでした。しかし、この論調は要するに、かつての「折伏大行進」盛んなりし頃の、創価学会の論調そのままです。
実に創価学会、日蓮正宗、顕正会は同じなのであって、この憎悪、人の痛みも、宗教的価値観の違うものは人間扱いできず痛みとも思わない異常性、なんでも宗教の正邪でしか割り切れず、人権を無視し、差別を助長する日本最大の、宗教集団の心理的異常性を冷静に分析し、解消していくことは、しかし、その事実に気づくものがまず憎悪から脱却するところから始めなければいけないのだとわたしは思うのです。
124
:
アネモネ
:2002/07/29(月) 21:26
私は阪神・淡路大震災の翌月に入信したので、あのときのことはよく覚えてます。
入信して二週間ほどした頃に、はじめて青年部大会に参加しました。あのときは、初めての大会の雰囲気に正直なところ大変驚きました。
所狭しとギュウギュウに集まった人たちが、一斉に読経を始めたその早さと、ものすごい勢いにまずもって驚きました。もちろん私はとてもついていけず、お経本をただ目で追うのが精一杯でした。
次に驚いたのは奇跡のようなことを語る体験発表。ここは新興宗教だったの?と首をかしげたくなり、そして終盤になると幹部のような人が壇上に立ち、阪神・淡路大震災と学会ニセ本尊の因果を話し、「このことを折伏しようと思う人に話していって下さい」と言われました。
けど私は入信したばかりですし、ましてや地元には縁者と知人がいます、これをどう理解していいものやら。実際に被災して連日のように水汲みに出かけている未入信の家族や友人に話すわけ?‥話せるわけないなぁ、もしも話せば顰蹙もんやろうなぁと、本当に戸惑いました。
けど私とて、たいしたことは言えません、ユダヤ問題に傾倒していた当時の私は、「ユダヤが人工地震を仕掛けた」という噂のほうを半分信じかけてたんですね。これもある種のマインドコントロールだったのでしょう。似たようなもんです。
話を大会に戻しますが、最後に司会者2人が折伏『数』とその日の動員『数』を声高らかに発表して会場は大拍手。ふと壇上の横をよると、大きくその『数』が書かれた紙が貼られてました。
帰り際、お寺の青年部長に「どうでしたか?」と感想を聞かれましたが、「なんかマルチの会合みたいですね」と思わず本音を言ってしまいました。「確かにそういうところありますかね‥これは学会流が法華講に入ってしまったんです」などと言ってましたけど、当時の私にはわけわかりません。
けど、その数ヵ月後にはなんと私も『数』を書いた紙が貼られたところで、体験発表してるんですね。なんの変化も奇跡もないというのに、本当に思い出すだけでも、顔から火が出そうな思い出です。
不思議なことに、私の住んでいる県で折伏達成『数』がものすごいお寺があるのですが、実はその地域、マルチ商法をはじめとした勧誘ものでも営業成績県下トップが著しいところなんですね。なにか相関関係があるのかなぁと不思議に思いました。とにかくその地域はすごいところです。数字の桁が違います。
そういえば、ニューヨークのテロのときも学会の被害者がいたとかで、案の定「現証が出た」といった話が出てきました。その話を聞いたお寺の人が「やっぱりあんな謗法してるからよ、怖いね」と聞いたままを私に伝えてきました。でも、信徒『数』が法華講とは比べものにならないくらいあちらは多いわけですから、当然、あちらの信徒が事故に遭遇する確率は高いですよね、謗法の結果じゃなくて確率の違いじゃないかしら‥と言いましたら、けっこう納得してました。
125
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 22:14
アネモネさん:
> 「なんかマルチの会合みたいですね」
この会合初参加の“体験談”、お見事ですね。
笑えました。
御宝前で扇子振り回して、指揮を執って、みんなで合唱しませんでしたか「これは猊下が作った歌だから正座して」とか言いながら。もう、恥ずかしい限りですよね。
私は寺報の編集長をやっていましたから、体験談なんかもまとめて、ワープロで打ったりしたんですけど、さすが気持ち悪くなるような違和感がありました。それでも今から思うと、あのころは神経が麻痺していたんだろうなと。
あるライターが、(すぐに訴えるので名前を伏せますが)KのKに忍び込んで会合に参加した、代表のORが後頭部から光り当てて後光みたいな効果を使いながら、「我はブッダなり」って言った、信者は感動して涙を流しているんですが、あんまりおかしいので吹き出してしまったというのです。そうしたら、速攻、つまみ出されたと。同じようなものだと思うわけです。
私は若い頃、創価学会の文化祭に参加したのですが、(アネモネさんは知らないでしょうね、どんなものか)、もうフィナーレになると、みんな感動して涙を流しまくって「センセイー、センセイー」って池田さんに手を振る大合唱になるんですよ。もう感動のるつぼ(笑)
これは商売がうまくてビデオも売り出されるわけです。自分が参加したものだから買ったわけですが、それで折伏に使おうと思って友人に見せたんです。「あれ、これ北朝鮮のビデオ、いやだなあ、全体主義ってねえ」とか言われて、「はあ…」という感じで、「この謗法の輩が!」と怒ったりしていたわけです。会館で上映する池田さんの「世界平和旅」とかいう題だった映画を見せたときも、その時の友人は「なに、このへんなテカテカ脂ぎったしたオッサンは?」、それで私は「お前、罰が当たるぞ!」て怒鳴ったら、「なんでさ?」とぜんぜん悪びれることもなく、不思議そうな顔をしていました。…私もかつてはこんなことをやってきたのです。恥を偲んで記せば…
実際のところ、この指導者が、スライドして、代わっただけの感覚で、法華講の会合も運営されるわけです。これは異常と感じなければ、「やばい」ということになるでしょう。なかにいると異常なものを共有して「すばらしい」と思わせるような場の雰囲気だから、異常に「慣れてしまう」わけですね。
ところで阪神淡路大震災は学会の「ニセ本尊騒ぎ」の前、今回の宗創戦争の発端になった池田さんの「猊下軽視発言」は普賢岳噴火の前日だったんですね。これも、けっこう、喧伝に使われたものでした。ぜんぜん、被害者の苦しみなんかどこ吹く風の調子でしたね、このときも。私もこれらの煽動に乗ってきたのです、大いに反省しています。でも異常なものは異常、おかしいものは大笑いできる人間性は取り戻せたのですよ。
126
:
アネモネ
:2002/07/30(火) 00:40
犀角独歩さん
>御宝前で扇子振り回して、指揮を執って、みんなで合唱しませんでしたか
そう、そうなんですよ。何よりもびっくりしたのは、軍歌のような歌にあわせて一糸乱れず恍惚と躍るあの扇子踊り。思い出してしまいました。会合が始る前から、何度も何度も練習するんですね。
私はこれを忘却の彼方に封じこめてしまっていたようです。こういうの、心理学でなんとかっていうんですよね。
私は、御講や会合や法要では出来るだけ前のほうに座るクセがあるのですが、この踊りが始ると、目のやり場に困ってました。(下向いて、歌ってましたが‥)
私の隣に座っていた代々の法華講を自負する婦人部長に、「こういうのも法華講の伝統なんですか?」と聞きましたら、「みんな学会からきてるのよ」と言ってました。(これ、前にも書きましたね)
>KのKに忍び込んで会合に参加した‥
すごいらしいですね。人間って、演出に弱いですよね。正本堂の御開扉のあの感動は、今にして思うと演出効果が大きかったからかなぁと思います。それと自分の思い入れですね。
>私は若い頃、創価学会の文化祭に参加したのですが、(アネモネさんは知らないでしょうね、どんなものか)、
独歩さんが参加されてた頃より後でしょうか、日顕猊下と池田大作氏が、仲良く並んで観覧していたとかって話を聞いてますよ。あと、北朝鮮のマスゲームみたいなのは、テレビで少しだけ観たことあります。これも一糸乱れず、ものすごいですね。
>私もかつてはこんなことをやってきたのです。恥を偲んで記せば…
私も独歩さんの体験談、大笑いしながら読ませてもらいました。(再笑)すみません。
>でも異常なものは異常、おかしいものは大笑いできる人間性は取り戻せたのですよ。
笑えてしまうと、おかしかった過去の自分も愛おしいものです。そうして自分を取り戻して、やがては、他の人の悲しみに心が合わせられるようにもなっていくのすもしれませんね。
127
:
アネモネ
:2002/07/30(火) 00:49
126)の最後の一行の訂正です
誤−なっていくのすもしれませんね。
正−なっていくのかもしれませんね。
128
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 08:10
アネモネさん:
> 扇子踊り
うまいですね、この表現(爆)
私がいた寺なんかでは、そろいの着物をあつらえて、はちまき、たすきで集団踊り。
まさに恍惚の表情…、なんであんなことするんでしょうかね。
私が連れ出した友人、あれを見た瞬間に帰ってしまいましたけど。
それは帰りますよね、その前段で連れ出すために折伏トークで「日蓮大聖人は立正安国のために…」とか「お題目を唱えると功徳がある」とか、「日蓮正宗の御本尊だけが絶対なんだ」とか話して、ようやくと連れ出したら、あの扇子踊りですよ。怒ってましたもの、私の友人。
> …「みんな学会からきてるのよ」と言ってました
扇子振って踊るのは、池田さんの十八番。指揮を執って踊るために日本舞踊をたしなまれたというお話。…まことしやかに語られた創価学会口コミの一つ。
創価学会ではあの軍歌ばりの学会歌を合唱するのに、扇子を振り回して、指揮を執るのが一人から数人。でもこれはリズムに合わせて振り回すだけなんです。ところが!、池田さんは、扇子を使って歌に合わせて踊るんですよ。すると拍手拍手の大喝采、いやこれはすごかったですよ。
まだ創価学会が自前の大きな会館ももっていなかった頃、両国の日大講堂を借りて本部幹部会をやっていました。入場券がないと入れないんですが、うちの母親は、池田さんのおっかけでしたから、子供の私の手を引いて、絶対に行くわけです。入れなければ、漏れ聞こえる池田さんの声に涙するというわけです。外に学会歌が聞こえれば、周囲の歩行者なんか何のその、手拍子打って路上で歌っちゃってました。ああ、思い出すと恥ずかしいのですが。
たまたま入れたときのことですが、会合が始まって、先ず学会歌。司会が「指揮、○○!」とがなると「はいっ!!」とか返事して、扇子をもって飛び出してくる、そこで音楽がブンチャブンチャ鳴り出して、参加者全員の手拍子で大合唱となるわけです。指揮を執るのも体験発表をやるのと同様、栄誉なことと認識されていましたね。
池田さんは、こういうの大好きですから、式次第なんか無視して、「おい、○○、お前、指揮執れ」と壇上の大幹部に促して、また学会歌。扇子を振り回すわけです。
何度かそんなことを繰り返したあとに、いよいよ真打ち登場よろしく池田さんが立ち上がる。もう拍車拍手の大喝采。そこで踊るんですよ、壇上狭しとね。うちの母親なんかは興奮して「池田先生、素敵だねえ」と言いながらうっとりしている。私は子供心に「へーんなの」とか思っていましたが(笑)
ただ、法華講のほうでは達師が、こんなことが好きだったということになっていますね。…悪趣味ですよね。
> 日顕猊下と池田大作氏が、仲良く並んで観覧していた…
そう、それに私は参加していたんですよ。
これには後日談があって。終わったあとの参加者指導会で、幹部が「みんな、『先生、先生』って手を振っていたら、日顕上人、自分に手を振っていると思って気をよくしてましたよ」と、それでどっと大笑い。つまり時の猊下を物笑いにしていたわけです。まあ、悪意はなかったようだけれど、軽んじる風潮であったわけでしょうね。
こんな場面がありましたね。
なんだか、扇子踊りと文化祭をネタに揶揄しているような文章になってしまいましたが、あまり表に出ない秘話を披露して、集団心理になせる業を考えたと言うことで、まあ、この書き込みは管理人さんには勘弁していただければ、有り難く思います。
129
:
五月雨
:2002/07/30(火) 17:27
アネモネさん
阪神大震災の地元に親戚縁者・知人がおられたら、尚のこと戸惑いも大きかっただろうなと思います。私も関西圏に住んでいて、今まで経験した事のないあの揺れはいつまでも覚えています。(その時はうろたえるだけで布団かぶって震えていました。)
テレビを見たら、見覚えのある阪神高速が倒れていて、その上神戸の町が大火に包まれていてボー然です。神戸から100キロ離れていてもショックは大きかったのに、被災者の方の辛さを思うと「罰でこうなった」なんて言えるはずも無いですよね。きっと遠く離れた場所に暮らしているからそんな話になったのでしょう。こちらでは、罰の現証という話はあっても神戸方面の人にそういいなさいとはなりませんでした。被災者の為に何か役に立つものを送ろうと、講でもまた町全体でもそんな気持ちで物を集めたり、義援金を出し合ったものです。
自分が絶対正しいという思想は、残酷な発想をするのですね。
会合がマルチっぽいってお話ですが、私は、逆にマルチの会合に行って学会の会合と一緒だと思いました。あの盛り上げ方、拍手の仕方、そして真打登場で場内は最高の盛り上がり。ちょっと行ってみてと言った法華講のおばーさんに、「何や、学会の会合と一緒やん」と言ったら怒られました。それから後の法華講の会合は段々学会化してしまい既に登場の金銀の扇子踊りに手拍子に、今は「何や、法華講の会合と一緒やん」と訂正しなくてはなりません。
130
:
五月雨
:2002/07/30(火) 17:39
独歩さん
会合のお話を楽しくまた、懐かしく読ませて頂きました。そうそう、そうだったを何度繰り返したか分かりません。お母様のご熱心なご様子もそのお気持ちもよく分かります。
私もよく似たところがありました。私は池田せんせーは嫌いで「写真を飾って朝な夕なにお写真にあいさつしなさい」と指導されても飾りませんでしたが、回りの人間があまりに凄いせんせー、偉大なせんせーと言うものだから、段々そうかなと思うようになりました。ついには「池田せんせーはスゴイのよ」なんて事まで口走っていました。これもマインドコントロールの一種なのでしょうか。
毎年、正月に猊下は手作りの盆栽を池田さんに贈っていましたが、あの盆栽は今ごろどうなっているのでしょうね。
楽しいお話をまた聞かせてください。
131
:
アネモネ
:2002/07/31(水) 00:54
犀角独歩さん
池田さん自らが踊りを披露されていたとは、全然知りませんでした。これは私にとっては意外です。池田さんはエンターテイナーなところがあるんですね。
このスレッドでいちりんさんが105)で『新しいエネルギーを満たすために、みんなでわいわいやる。それが「祭り」。それが「ハレ」。』書かれていましたが、創価学会の文化祭はまさしくそういうものだっただろうと想像します。法華講の扇子踊りもそうした祭りの場のものであれば良かったですね。お祭りであれば、私にしても、また独歩さんの退散してしまったお友達にしても、さほど違和感なかったかもしれませんよね。
だけど、池田さんが、多くの人の心をつかんでしまうカリスマ性の一端を知ったような気もしますね。自ら踊るリーダー、私も好きになっていたかもしれません。(笑)
話に聞くだけでしか人物像を知りませんが、なんか憎めない人でもあるなぁという印象をいつも受けます。私が若い時期にもしも創価学会に入っていたならば、「池田先生命」になってたかもしれませんね。
たまたまの巡り合わせで、今はもの笑いの対象にしてしまってますが、考えてもみれば、これまでにも学会を擁護するような記述をついついしてしまうのは、私の中にそういう部分が多分にあるからではないかと、ふと自己分析するところです。笑ってしまうのも、自分を見ている気がするんですね。でも、「世界平和旅」と「池田大作」さんをセットでイメージしてしまうと、なぜこんなに笑えてしまうのか‥。こうして人に笑いを与えることだけでも、すごいことです。揶揄なのか感動なのかわからなくなってきましたよ。
132
:
アネモネ
:2002/07/31(水) 00:55
五月雨さん
>被災者の為に何か役に立つものを送ろうと、講でもまた町全体でもそんな気持ちで物を集めたり、義援金を出し合ったものです。
そうでしたか。こればかりは、何か嬉しいですね。
私は遠く離れてしまった立場なので、神戸で起きたことはどんなに心配しても、結局は傍観者の域を超えず、またそれが寂しさを感じるところでもあったんですね。家族の口からと、また友人の話を通して聞くことですが、あの時期の神戸は独特な強い連帯感と気持ちの高揚みたいなものがものすごくあったようです。そういうものがないと、乗り切れないほど打撃は大きかったわけですね。私もショックでしたし、また、今から振り返ると、改宗する大きなキッカケのひとつだったと思います。
地震発生をニュースで知って、家族の安否を確認するまでの約三時間、私は精神状態が本当におかしくなりそうでした。そんな状態を見かね取り乱しそうになっていた私に、「日蓮系の家は、案外と災害のとき助かるよ。しっかりして」と声をかけてくれた人がいたんです。冷静な今、振り返るとなんとも無責任な言葉ですけどね。その人が後に私に、日蓮正宗のことを教えてくれた、いわゆる私が下種の親と呼んでいる人です。それ以前に何かの折に、実家が日蓮宗だということを話していたんでしょうね。だけど、パニック寸前の私にとっては、この一言こそが精神安定剤の役割を大きく果たしたんです。
その後、家族から無事の連絡があったわけですが、この下種の親の一言は、私の心を大きく動かしましたね。こういうのが体験発表的な奇跡話のひとつでもあるのかもしれませんが、でも、下種の親は何も仏法を信じさせようと思って言ったことではなくて、取り乱した私をなんとか落ち着かせようと思って言ったことなんですね。後にどんな運命が待っていようと、心をしっかりさせなければならなかったわけで、その気持ちがなにより嬉しかったですよ。離れて暮らす家族や友人との連帯感のようなものは震災を境に強くなりましたね。お互いの安否を思いやる気持ちというのが強くなりましたね。
そうしたときが、また自分の人生の転換期でもあったこということもありますし、神戸の震災をキッカケに家族の生死を分けることに直面して、尚も仏教に対する思慕が芽生えたんだと思います。
>逆にマルチの会合に行って学会の会合と一緒だと思いました。
あぁ、確かに言われてみれば、マルチの洗脳方法の原点は学会(宗教)とみるほうが正しいのかもしれませんよね。マルチに嵌ってしまった友達がいて、私も義理で会合に出たこともありましたが、学会や法華講と共通していることは、入会(入信)をその場で即決させようと迫ることと、いったん入会(入信)するとなかなか辞められないな心理状態に追い込むシスムになっていることでしょうか。もうひとつ共通しているのは、閉鎖された場であるという印象も受けますね。洗脳するには、密室に限ります。マルチが原因で離婚した友人もいますし、また夫への不満から奥さんがマルチに嵌った友人もいます。
極端なことをいえば、夫婦間だってマインド・コントロールが成立しますよね。DV(ドメスティック・バイオレンス)なんかはその典型だと思います。
宗教の場も、マルチの場も、そして家庭も、閉鎖された場になりやすいですから、偏った人間関係が成り立ちやすいところなのだろうなとつくづく思います。そのような環境にいる中で、自らの力で脱却していくというのは、本当に至難ですね。物理的に離れるのが最短の方法とはいえ、心理的に強迫されてきているわけですから実際には困難ですし、その行動を起すにはものすごいエネルギーを要します。そのための「祭り」が必要なほどです。よほどのキッカケで開き直ることでもない限り、本当に難しいと思います。私もそうですが、五月雨さんにしても、組織から離れるよほどのキッカケをつかんだことはラッキーだったと思います。
133
:
犀角独歩
:2002/07/31(水) 06:51
アネモネさん:
五月雨さん:
創価学会と法華講には、当初の目的からして大きな差があると私は思っています。つまり、これが法華講より創価学会のほうが魅力的と感じる要因でもあると思うのです。
それは何かというと「共同体を構築しよう」という当初から目標と、その全国的な達成ということです。創価学会は一切合切が崩壊した敗戦後の日本の中で、特に地方から都心部に集まった核家族層の、それも低所得、低学歴といった、どちらかというと社会階層の、中より低い人たちに急速広まったわけです。
ここで広宣流布の具体的なイメージはしっかりあって、共同体の構築、つまり、創価家族などと称する自治組織を作り上げていき、実際にそれを完成させたわけです。それが強力な粘着力になって、会員同士を固い絆でつなぎ合わせています。いわば、公明党という政治組織も、この共同体を守るための一部門として位置づけられてきたのだと思います。
核家族として、何ら自分を守ってくれる人間的な関係もないところで、創価学会が共同体として、その各個人、各家族をまとめ、日本社会の中に、独自の共同社会を構築したということでしょう。
実は、これを成し遂げたのが池田さんであって、現在の実勢はどれ程か知りませんが、たぶん、シンパを含めて600万を上回る共同体の構築に成功したのだと思います。
この共同体が立派で堅固である象徴は、また、池田さんなのであって、だから、世界の要人と会ったり、勲章・名誉市民号・名誉博士号などを取れば取るほど、それはまた、この共同体の立派さ、換言すれば、自分たちが所属する共同社会の立派さが証明されることになるので、池田さんの外遊やら、高収入は、むしろ、自慢になるという効果もあるのだろうと思います。そこに自分自身を反映して自分の立派さを投影できるからです。
池田さんは自分の地位・名誉の構築に腐心したけれども、しかし反面、人々が“自分を信じている限り”安心して、意義と目的を持って生きられる共同体も構築していったのでしょうね。
学会員は、この社会の中では安心していられるし、困ったことがあれば、相互に助け合います。時には経済的な援助もし、共に祈り、共に泣き、共に感動し、人生を分かち合っているわけです。(このような構造は立正佼成会などでも共通するところかもしれません)
このような共同体の構築と実際の達成が、実は池田さんの魅力を形成しているのだと私は思うのです。
ただ、人間には嗜好があるし、好きがひっくり返れば「大嫌い」ということになりますね。
創価学会を脱会した人は、次の指導者を求めるわけです。しかし、その時、創価学会を経験した人には大きな誤算があります。それは何かというと、「どの指導者も共同体のトップである。指導者の下には共同体がある」という誤解を、意識的であれ、無意識的であれ、もって移動してしまうと言うことです。
134
:
犀角独歩
:2002/07/31(水) 06:51
―133からつづく―
ところが、ここから法華講の話になるのですが、そもそも石山における指導者とその共同体とは、最高位の僧侶と師弟関係を結ぶ僧侶と家族の共同体に過ぎないのです。法華講は、その共同体を支える資金源であり、労働源に過ぎないという点を見抜けないのです。
ここで創価学会から法華講に移動した人々は受け入れがたい現実に直面することになります。その時に採る態度は二つであって、一つは創価学会以上の共同体を作ろうとすること、もう一つは呆れ果てることです。
しかし、法華講で作ろうとする共同体は、どこまで言っても僧侶の共同体を支える外壁にしかならない、さらにそこにもう一つの束縛があるわけです。何かといえば、講の本来的な機能です。つまり、各末寺を護るという役割です。言ってみれば、法華講という共同体はどこまで行っても僧侶の共同体の資金源・労働源を超えることはないわけです。それも他宗の講であれば、末寺を護りさえすればよいものを、石山法華講では登山その他行事を本山に集中させ、そちらまで信徒によって賄うわけです。
明治前の寺請制度の場合、人々は徒弟制度・身分制度で社会的階層におけるポジションをもっており、そこで各共同体の一員として受け入れられた上で、自分の寺院を護るという副次的な関係があったのでしょう。だから、創価学会という共同体が石山の共同体を護るような形であれば、信徒はストレスはないわけです。
しかし、今の石山信徒には外に共同体はなく、そして、自分が共同体であると夢想するものは、自分たち信徒のものではなく、僧侶のものであるという現実にしばらく気がつけないでいるわけです。
結局、アネモネさんが感じる池田さんの魅力とは同じ信徒同士の共同体を完成させ、人々に慕われる長を見る視線と一致しているのだと思います。法華講という指導者不在の、いても柳沢さんのような僧侶側の論理しか考えられない傀儡より、池田さんを憎めないという気持ちはある面、当然であると、教義論争を除けば、思うわけです。
残念ながら、法華講には共同体としての機能は求められません。
おまけに構築されてきた石山教学というのは、この僧侶の共同体の肯定理論武装なのであって、それが今日的に信徒に用いられるときは、実質、共同体を護る兵士、あるいは奴隷以上の役割は与えられないことになります。
共同体としての機能もない、ただ僧侶の共同体を助けるばかり集まり、それを信仰という美名でハッパをかけられ、さらに創価学会と池田さんを憎悪させることによってパワーを増させる、そんなことが続けば、人間性は歪むでしょう。満たされない共同体幻想は、さらにまた、創価学会・池田さん憎悪にすり替えられてしまいます。しかし、これは創価学会の問題ではなくて石山と法華講の問題であるわけです。当の石山、僧侶を批判することは罰が当たると脅迫し、さらに創価学会を憎悪させ、講堂の原動力にするという仕組みです。
簡潔に言えば、こんな組織はダメなのです。教義がどう、信仰がどうというよりなにより、その根本をなすべき、人々の立つべき場所が考えられていないからです。ですから、アネモネさんや、五月雨さんのように、講中に見切りをつけるのが、いちばん精神衛生上、よろしいことになるのでしょう。
アネモネさんは創価学会を経験されていないようだから、石山法華講にない、創価学会の魅力を素直に感じられるのだと思います。(なんだか、こう書いてしまうとアネモネさんが創価学会翼賛者みたいになってしまうけど、そんな意味ではもちろんありません)
ところが五月雨さんや、私のように創価学会から出てきたものは、それを嫌いになって出てきたために、いわゆる生理的嫌悪感がついて回るわけです(五月雨さんのことをきめつけてはいけませんね)、あちらでも、共同体の強い結束を促す常套手段を使っているわけです。つまり憎悪する対象を設定して、それを徹底して憎悪させることによって結束を高めるというやり方です。それが今は石山・顕師ということになっています。こんな面も含めて、いくら共同体として、法華講よりすぐれているからと言っても戻りたいとは思わないわけです。
私自身は、共同体幻想から卒業して、元よりの仏教が教えていた自律の道を選ぶことにしたわけです。そして、共同体が与えてくれていた功利面を、今度は自分が与える側になるよう考えることによって意識の転換を図ってきました。つまり、これが菩薩道の再発見であったわけです。
独り歩むことは、しかし、実は孤独ではないのです。法の中で常に、日蓮と釈尊に向かい合っているからです。
お二人の投稿を拝見して、憎悪も憤慨も消えたいま、「池田センセー」を少し冷静に振り返ってみました。
135
:
五月雨
:2002/07/31(水) 09:08
独歩さん
学会・法華講についての分析はさすがですね。講中の問題の一番は横の繋がりが無い事です。異体同心といいながら、何故講員同士の諍いが絶えないのかよく分かりました。先日、講頭にばったり会った時に「講中の修羅の争いは大変ですね」と言ったら頷いていました。素直に頷いてどうするねんと心の中で苦笑いしてました。住職・役員・講員の三つ巴の諍いはいつまでもいつまでも果てしなく続くことでしょう。独歩さんが分析される通りです。石山・末寺・信徒の関係を見つめ直してみると、確かに私達は“奴隷”です。お金を運び、言われるままに労働力を提供して、私達は単なるお賄いだけしとけばいいのです。何を住職に言っても聞かない筈です。「お前らとは違うんだ」という住職の不遜な態度の意味がよく分かりました。
言われるままはもう止めて、講を見限るのが石山にはよく効く薬になるかもしれません。私の親しくしている78才のおばぁさんに石山の真実を話したら心臓マヒを起こすかもと思っていましたが、ここの独歩さんのレスをまずプリントして見せてあげます。独歩さんのお話は無駄が無く、本当に為になります。
>ところが五月雨さんや、私のように創価学会から出てきたものは、それを嫌いになって出てきたために、いわゆる生理的嫌悪感がついて回るわけです(五月雨さんのことをきめつけてはいけませんね)
いえいえ、確かにその通りです。学会員が戻っておいでとやってくるのですが、「何たわけた事言うてんねん、もうこりごりや絶対に戻らへんで」と言ってます。今は法華講にも生理的嫌悪感があります。結局組織の原点は同じなのかもしれません。
>独り歩むことは、しかし、実は孤独ではないのです。法の中で常に、日蓮と釈尊に向かい合っているからです
本当にそう感じます。文明の利器(言い方が古臭さ過ぎですね)のインターネットで、真実を知る事も出来るし、こちらの掲示板ではご親切にご教示頂けて、勉強も出来ます。何だか、講で活動第一とやってた時よりも、“法の中で常に、日蓮と釈尊に向かい合っている”気がします。
136
:
五月雨
:2002/07/31(水) 09:26
アネモネさん
あの大震災の時が、入信のキッカケだったのですね。そのお気持ちはよく分かります。下種の親の方のひと言に救われたのですね。不安な時のひと言は大きな影響があるものです。あの時を経験された方は分かると思うけれど、私はあの一日の何時何分にどうしていたかをハッキリと覚えています。そのくらい大変な日でした。遠く離れてその上に親御さんが被災地にいる不安は、他人が伺い知る事の出来ないものだと思います。でも、ご無事で良かったですね。
>私もそうですが、五月雨さんにしても、組織から離れるよほどのキッカケをつかんだことはラッキーだったと思います。
ホント、ホントそうですよね。嫌ーな事は経験したけども、それが今からの人生に役立つ事があるかも知れません。ああいう事を言ってくれた人は未だに講で修羅の争いの真っ最中です。嫌な人間だと思っていたけど、こうして私を生き返らせてくれた恩人と感謝しなくてはならないのかも知れません。
137
:
アネモネ
:2002/07/31(水) 21:58
犀角独歩さん
>日本社会の中に、独自の共同社会を構築したということでしょう。
なるほどね。神戸の震災後の、独特な連帯感と高揚感というのは、たぶん敗戦直後から復興までの日本の状態と似ていたのかもしれないと想像すると、その中にあって、創価学会が共同体構築を推進してきたということ、とても頷けます。
敗戦復興という艱難な時期を乗り越えて経済的にゆとりが出てくる頃には、共同体の急務な役目は終わり、次第に個人が各々の意思に基づいて自由になっていくことが求められますね。そのような流れのなかで、尚一層の組織の存在や拡大を図ろうとすれば、どうしても共同体での連帯感は半ば強制的に押し付けられるようになっていかざるを得ないでしょうし、それを束ねるための強烈なカリスマ性も示されるようになっていったこと想像できます。
>共に祈り、共に泣き、共に感動し、人生を分かち合っているわけです。
まさに私は、こんな法華講を求めていました。
かつて通っていた教会には、それらしきものが確かにあったんですね。だから、信仰の場とは、そういう場になるように務めていくものだと思ってました。だけどそれは石山についていえば、幻想に過ぎなかったとようやく気がつきました。
>人々に慕われる長を見る視線と一致しているのだと思います。
表向き創価学会を非難している人々が、ふと裏では懐かしがっている言葉を漏らしているのを耳にすると、どっちが本当なんだろうといつも思ってました。きっとどちらも本当なんでしょうね。一言で片付けられるものではないのでしょう。日本の社会も変わり、個人も変わり、そして学会も変化していったのかもしれません。
>残念ながら、法華講には共同体としての機能は求められません。‥あるいは奴隷以上の役割は与えられないことになります。
一年かかりましたが、今は素直に頷けます。私のお寺を見る限りでも、法華講幹部は、人間的に講中から慕われている人ではなくて、「奴隷としての鏡」のような人が求められてきています。あんなに毎日が拘束されるような立場になんでなりたがるのか、私には理解できませんでしたが、講の中ではいつも、いかに「奴隷の鏡」であるかを住職に取り入る形でアピールしたり、または互いに足を引っ張り合うなどしながら、役職を奪い合ってきていました。五月雨さんのところと同じく、恐らくその修羅場は今も続いていることでしょう。
またそういう「奴隷の鏡」のような人が、住職の意向によって選ばれてきているわけですから、一般信徒もそんな「鏡」に照らしてどうしても奴隷にならされてしまうんですね。幹部たちはそういう「奴隷の鏡」としての使命を強く感じて講を運営しているのだということ、本当にようやく私にも見えました。
>石山法華講にない、創価学会の魅力を素直に感じられるのだと思います。
私も実家を離れて生きているひとりだからでしよう、間違いなく共同体を幻想する心がありましたね。言い換えれば、それが組織依存の心だったと思います。
それにしても、あそこまで巨大化した学会の集団組織は、さすがに呑み込まれそうで敬遠してしまいます。いい面も悪い面も、遠くから眺めているに限ります。
仮に共同体を求めることがあるとしても、小さくてそして上下関係のシンプルな出来ればフラットなネットワークがいいなぁと思います。そういうものは、どう考えても法華講に期待できるものではないですし、むしろそういうものを求めるエネルギーがあるならば、もっと別の面に注いでいくほうが遥かに仏道修行にかなっているものだと思うようになりました。
138
:
アネモネ
:2002/07/31(水) 22:01
五月雨さん
五月雨さんの地域でも揺れたんだすね。あのとき、神戸の人は情報源が断たれていて、まさか阪神地域だけの地震だったとはわからなかったようですね。最初に連絡をもらったとき耳にした言葉は「そっちは大丈夫なの?」
親というのは全く、どんなときでも子供のことを先に心配しているんだなぁと、涙が止まらなかったです。
入信以来、毎年お正月の初登山は欠かさなかったのですが、早朝にも関わらず必ず新大阪まで見送りに来るんですね。見送りなんていいからって言うのにね。いつか両親を折伏したいと思ってましたが、もう今は考えなくなりました。お正月もこれからは、実家でゆっくりして、そうそう阪神百貨店のイカ焼きでも食べに行きます。
139
:
犀角独歩
:2002/07/31(水) 23:57
あの、すみません。
一つだけ、記しておきます。
龍年光さんの煽動、顕師の発言はありましたけれども、全国的に法華講では義捐金を募りました。私もけっして褒められる金額ではありませんが、させていただきました。
事実を伝えるために、このことは記しておきます。
140
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 06:27
アネモネさん:
私もかつて、「奴隷の鏡」でしたよ。
私が一番、多く使った言葉は、たぶん「僧宝尊信」「信伏随従」だと思います。
今回の離間の時、かつて達師も言った「粥をすすっても正義を通す」という、恰も極貧を装ったお涙頂戴にまんまと引っかかってしまいました。
私は言っていたんですよ、「総本山が丸裸になったって、血脈付法の猊下と戒壇の大御本尊様があればいいんだ」、清貧の使命感があったのです。
だから、ただ、「広宣流布のために総本山を盛り上げる」ために、ワラシナさんじゃありませんが、すべて投げ出して、邁進すれば、いつかは自然と生活も豊かになると自分に言い聞かせていました。しかし、裕福になるのはいずこも団体だけですね。
ほんとか嘘か知りませんが、富士宮筋の金融関係者に言わせれば、「大石寺は1兆円持っている」ということでした。まあ、実否はわかりませんが、いずれにしても「大石寺にお金がない」は真っ赤な嘘のようです。陽動作戦にはまった気分です。
それにしても今の石山は、供養、登山、堂塔伽藍の建築、創価学会・池田憎しのほかに、行動の源泉があるのでしょうかね。反面、創価学会は選挙活動、新聞啓蒙、民音チケットの販売に明け暮れ、顕正会は年端もいかない子どもたちをサイン一つで勧誘して、数珠と経本を買わせれば一丁上がりの折伏、それですぐにでも国立戒壇が立つような論調で宣伝しています。
たしかに外から見た富士門は異常集団としか見えないだろうと溜息が出ます。
どんなに一所懸命にやっている人でも、みんな、「何かが違っている、おかしい」と心の中の良心の声を聞いているのでしょう。けれど、では、具体的にどうしたらよいかわからない、共同体から離れたことがないから、一人になったら、何もやり方もわからない、結局、組織の言うとおりに、あるいは組織にいるしかないとなっているのだと思います。
生命共同体、運命共同体という大きなお船に乗ることしか知らなかった人は、一人で泳いでいく方法がわからないのだと思います。
しかし、この「わからなくされている」ことが組織信仰を仕組む側の、罠の一つだったのだと思います。この罠で使われる「慈悲」など、そこにはないのでしょうね。
ここの掲示板が、この罠から抜けるきっかけになってくれればよいと思います。
本当の慈悲は、自分がどん底にあっても、それでも相手を思いやる心なのでしょうね。
阪神淡路大震災でアネモネさんを心配して親御さんに必至に連絡をしていた、それなのに、むしろ親御さんのほうが心配していたという話がそんなことを教えてくれた気がします。
141
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 07:04
五月雨さん:
阪神淡路大震災後、私がその被災地に行ったのは遅れ遅れて1カ月ほど過ぎた頃でした。(アネモネさんが入信した頃?)
細かいところは忘れてしまいましたが、倒れた高速道路、倒れていない所も、しーんと静まりかえって、もちろん、1台の車も走っていない道が延々と続いている様を見て、焼けた住宅地を見るのとは違った緊張感があったことは、今でも覚えています。
私の祖母は関東大震災で1回、東京大空襲でもう1回、自分が住んでいる所が廃墟になった話をいつもしてくれていました。母の家には、その日、隣の方が台所に真っ青な顔をして飛び込んできて、「いま天にも届く大きな火柱が倒れるのを見た」、これは予知幻覚?であったようで、その時はまだ大空襲があることも知らなかったと言います。その日、本当に火の柱が倒れるような大惨事が起きました。母たちは、その幻覚に心の準備をし、火柱が倒れたという方向と逆に逃げて助かりました。近所に住んでいた父は、逃げ場を失い、隅田川(ご存じかもしれませんが浅草を流れる大きな川です)にかかった大きな橋の欄干によじ登って、そのてっぺんで一晩中、しがみついていて助かったと言います。
街全体が火の海となり、橋を渡って逃げようとしても人が一斉に押し寄せたために動きが止まっている所を火が走っていったと言います。川に飛び込んで火から逃れようとした人も多くいたけれど、あの数百メートルはあろうかという川幅の水面を、火が水の上を這い、人を焼き尽くし、窒息させたというのです。
私は子供の頃から何度も何度もその話を聞かされ、「怖い」と子供心におびえることはあっても、その実感は沸きませんでした。けれど、大震災で廃墟になったあの地を見たとき、祖母や両親が味わった大惨事の一端を見る思いがしました。もちろん1カ月の遅れは、ほとんど間が抜けたものでしたが。
阪神淡路大震災は平成7年のことでした。この年にオウム真理教地下鉄サリン事件も起きました。天災と人災が同じ年に起きたということになります。
大災害の時、人心は乱れたときに、善意の宗教従事者は黙々と救済支援にあたり、反面、カルトと目されるような団体は、このときとばかり、「罰だ。この世の終わりだ」と騒ぎ立て、さらに人心を不安定にして、人の不幸を布教のネタにするのでしょう。
阪神淡路大震災のこと、そして、その悲惨な出来事に乗じる悪徳布教の実態、ともに風化させてはいけませんね。
142
:
五月雨
:2002/08/01(木) 09:31
独歩さん
お祖母さんやご両親の味わった災害、そして戦争の恐ろしさに身の震える思いがしました。あの時代の人達は、時代の波に巻き込まれて意図しない運命に悲惨な体験をしてきたんだと思います。私の父はシベリア抑留の目に合いましたし、内地にいた母親は空襲に怯えていました。今の世の平和は過去の人々の苦しみの上に立っていることを忘れてはいけませんね。
地震の後の神戸にいらしたのですか。私は行くことはありませんでしたが、神戸に縁する人は回りに数人いて、「今の神戸はこんなんやて」という話はよく聞きました。復興してからの神戸には何度か行きました。完全に復興はしていないと時々ニュースで見ますが、表向きは震災など無かったように感じられます。
ところで大石寺の歴史の過去ログをプリントして読ませて頂いている途中なのですが、石山の教義を考える時に、「歴史」の認識は必要なんだなとつくづく思いました。私なんか、有師と興師の時代がどのくらい離れているかとか、鎌倉時代は西暦に直したら何年とか知りませんでした。ところでこのような歴史を書いている本はどこに売っているのでしょうか、教えて頂けませんか。認識不足ですみません。
143
:
五月雨
:2002/08/01(木) 09:59
アネモネさん
ご両親のあたたかい思い遣りは本当に有りがたいですね。お互いに「親孝行したい時には親は無し」という諺を忘れずに親孝行したいものです。
あの時に関西の大部分と四国の一部では相当揺れましたよ。私の住んでいる地域では震度5でした。時々余震があったので、一ヶ月間はずーと身体が揺れている感じがしました。ちょっとノイローゼになりそうでしたよ。地震の時はどうするかと、一生懸命考えていましたが、今は咽喉元過ぎればなんとやらで油断しまくりの毎日です。でも夜寝る時の頭元の靴だけは置いています。
ご両親を折伏しなくて良かったね(?)私は凝り固まっていたので折伏した事があります。でも父親は新聞記者をしてたから、学会の裏の事を良く知っていました。娘だから強くは言わなかったけれど、私の話にどれ程嫌な思いをしていたか、させてしまったかを今になって心を痛めて反省しています。もう亡くなってしまいましたので、謝ることも出来ません。
お正月は親孝行と、阪神百貨店のいか焼きでお過ごしください。(まだ先の長い話ですが)
144
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 11:41
五月雨さん:
> 歴史を書いている本
この定番は、富士門では、やはり『富士年表』(富士学林版)ということになります。
これは石山の売店、あるいは法華講連合会で購入できたのではないでしょうか。
明治初期まででしたら、nbさんがネットにアップしてくれています。
http://kanazawa.cool.ne.jp/bn/hujinennpyoumokuji.htm
実はお望みのような的確な資料というのは、思いつきません。
なにせ、現石山教学というのは、寛師の時代までに起きた400年ぐらいの教学変遷を、すべて聖人の御在世に起きたとしてしまう二次元的なものだからです。その意味で、五月雨さんが今まで歴史感覚がなくきたのは、むしろ自然といってもよいぐらいのことでした。時間経過を正確に捉えた富士門資料というのは、残念ながら、私は思いつきません。
私が参考にしているのは執行海秀師著『日蓮宗教学史』(平楽寺書店)です。
ただ、内容は50年前のもの、それだけに難解です。もしかしたら、もう少し新しくわかりやすい本もあるかもしれません。
ロムの方で、良書をご存じでしたら、情報をお願いします。
145
:
五月雨
:2002/08/01(木) 13:30
独歩さん
さっそくにnbさんのサイトを教えて頂きまして、ありがとうございます。プリントして読んでみます。
石山教学は歴史を明らかにすることが、何か不都合な事でもありそうですね。あまり触れたくないように感じた事がありました
146
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 14:59
五月雨さん:
富士年表のデータは膨大ですから、プリントすると1冊の本になってしまいますよ(笑)
ですから、データをダウンロードして、必要なもの、興味のある語句や年代で、「検索して使う」ほうがいいですよ。
それにしても、これだけの入力は大変だったろうと思います。nbさんの労作業に、みな感謝しています。
> 石山教学は歴史を明らかにすることが、何か不都合な事でもありそうですね
石山の歴史は、道師の御伝土代、精師の家中抄など、まあ、それなりの資料性はあるわけです。精師のほうは相当怪しい記述も多いのですが。
むしろ、消極的なのは文献時代考証のほうだろうと思います。
よく記すのですが、昔の石山の学生はみな立正大学に行っていました。ですから、日蓮宗教学史ぐらい勉強しているわけです。法華経が釈尊の説いたものではないこと、仏滅年代が500年ずれていることも知っているでしょう。つまり五時八教説が成り立たないことも知っているわけです。でも、それをちゃんと調べない。相変わらずの調子で勉強会やら、御講で100年も前に疑義が提示されていることに見て見ぬふりをしてやっているわけです。ここに欺瞞があるといいたいわけです。
ただ、以前、顕師の説法を聞いていたら「大乗非仏説ということが言われるのだがね、そんなことはワシはないと思うんだよ」と、あの口調で語っていたことがありました。
ですから、案外、旧態依然とした台判の過ちなんかを受け入れられないで石山自体はやっているのかなと思ったことがありました。
けれど、そんなことは世間の学者の失笑を買うばかりで、そこで「信じないと罰が当たる。地獄に堕ちる」なんて脅しもまた、相手の失笑を買うだけなんです。
けれど、そんなことは内々わかっているのでしょう。だから、打って出て折伏なんかしないわけで、お山の大将宜しく、信者相手に、供養集めの御講説法をやるばかりと相成るわけでしょうね。
147
:
五月雨
:2002/08/01(木) 17:13
独歩さん
独歩さんの学会と法華講の分析をプリントアウトして、法華講のおばぁちゃんの家に行って来ました。勝手に使って申し訳ありません。著作権の侵害をしてしまったでしょうか。後でゆっくり読んでと渡しましたので今夜あたり読んでくださるでしょう。ついでに「二箇相承書」の事も言いましたが、御本尊様さえ信じていたら良いらしいです。ところで勤行・唱題をしないとまともな人間になれないのでしょうか。「誰々は変だから、勤行も唱題もしていないらしい」と話しているのを聞きながら、そんな教えか゛あったっけと思った次第です。
>法華経が釈尊の説いたものではないこと、仏滅年代が500年ずれていることも知っているでしょう。つまり五時八教説が成り立たないことも知っているわけです。
これってホンマですか。今読んでいる法華経の本は「ものがたり」と読んではいましたが
釈尊が説いたものを土台にして出来上がったものではないのですか。仏滅年代が500年のズレがあったり、五時八教説が成り立たないというのは、世間では常識なのですか。ホンマやったらショックです。(独歩さんを疑っている訳ではないのですが、再度確認の為です。お許しください)
>ですから、データをダウンロードして、必要なもの、興味のある語句や年代で、「検索して使う」ほうがいいですよ。
はい、そうさせてもらいます。
148
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 17:59
五月雨さん:
> 著作権の侵害をしてしまったでしょうか。後でゆっくり読んでと渡しましたので今夜あたり読んでくださるでしょう。
著作権、そんな大袈裟に考えないでください。ここで書いていることは、もうかなりあっちこっちで活用してもらっています。
ただ、一つだけ、カルト・メンバーの脱会支援の鉄則に(法華講がカルトだといっているわけではありません)、それは「望まない批判記事は提示しないこと」ということがあります。
読む気があるという場合は、この限りではありません。
読んでいただいて、なんか感じてくれると嬉しいのですが。
> 「二箇相承書」の事も言いましたが、御本尊様さえ信じていたら良いらしいです。
それはそれでよろしいでしょう。
こういう人は多いですよ。
> 勤行・唱題をしないとまともな人間になれないのでしょうか。
こういうことは統計的に考えればいいと思うのですよ。
いま法華講って何人ぐらいいますでしょうかね。そのなかでちゃんと勤行・唱題している人(ちゃんとって何かも問題なのですが)10万そこそこでしょうか。20万はいませんでしょう。
はい。ここで問題です。今の世界の人口は何人でしょうか。もし、勤行・唱題しない人がまともじゃないと世界の人々のほとんどすべてがまともじゃないことになってしまいますよ(笑)
>> 法華経が…釈尊が説いたものを土台にして出来上がったものではないのですか。仏滅年代が500年のズレがあったり、五時八教説が成り立たないというのは、世間では常識
ええ、残念ながら、そのとおりです。それも100年も前に、ほぼわかっていたことです。
ですから、私は来るべき21世紀(もう来ちゃいましたが)に通用する日蓮仏教にならなければ、崩壊するというのがそのことです。
だから、今頃、日蓮が本仏だ、戒壇之本尊は生身の日蓮だなんて言っている場合じゃないんです。
しかし、仮に法華経が釈尊直接でなくても、仏滅年代が違っていても、それを基にする聖人の教えが違っていても、私は聖人の人を思い、国を思う熱誠に違いはないと考えています。そこが全面に出ることが大切だと思うのです。また、法華経における菩薩道は、それが釈尊の教えでないとしても、人類の精神において宝であることは変わらないと思っています。
これらの点を鑑み、根本から見直し、整理し、未来に伝えることこそ、令法久住であると私は考えています。
参考に
『苦悶の選択』真実を見つめる勇気
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/kumon.html
149
:
五月雨
:2002/08/01(木) 22:06
独歩さん
独歩さんのご見解をプリントアウトして人に渡した事を、こころよくご了承下さいまして
有り難うございました。後日に感想など聞いてみたいと思います。
勤行・唱題でまともな人間云々に付きましては、面白い視点ですね。反対に勤行・唱題しているからまともな人間っていう人にも出会った事はありませんしね。
>ええ、残念ながら、そのとおりです。それも100年も前に、ほぼわかっていたことです
いやぁ独歩さん、簡単に仰ってくださいました。ちょっとショックを受けています。心の整理が出来ません。独歩さんの仰った事は理解出来るまでに時間がかかりそうです。
150
:
犀角独歩
:2002/08/02(金) 00:09
五月雨さん:
こんなショックは乾電池でビリッときた程度。
まだまだ、奥は深いですよ。
151
:
現時点
:2002/08/02(金) 04:34
148について
まさにそのとおりですね。
狭い視野で、あるいは過去の形骸化した思考回路やドグマ化された教えなどというものから
目覚めて、人類の未来が今よりもすこしでも明るい希望のもてるよう
生きていくこと、そんなことを読んで思いました
152
:
現時点
:2002/08/02(金) 05:01
五月雨さんへ
信仰をしている人たちの方がくるっている(というと語弊がありますが)のではないかとも
思われます。
信仰などに無縁であっても立派に生きている人たちが多いのではないでしょうか
選挙の時だけにこやかになって、終わると無視。こんな信仰者もいますよね。
勤行は確かに重要ですが、ノルマのような形になってはあまり意味のないものとなる
のではないでしょうか
ゆったりとこころをこめて 時間の多寡ではないと思います
私はご本尊様を拝しても長年の蓄積でどうしても大聖人様にだぶってしまって
教主釈尊にならないのですが まあ あまり気にせず ゆったりと のんびりと
楽しみながら やっていこうと思います
153
:
犀角独歩
:2002/08/02(金) 07:34
> ご本尊様を拝しても…大聖人様にだぶって…教主釈尊にならない
さらりと書かれていますが、重要な点だと思います。
本尊は人と法である、というのが理解の仕方であるといいます。
それで寛師教学では人は日蓮、法は大曼荼羅と、こう言います。
これに対して、他門では人は釈尊、法は大曼荼羅であると。
一見すると整理され、事実と映るように見えますが、私は違うと思っています。
曼荼羅に聖人を見るのは当然でしょう、なぜならば「日蓮在御判(花押)」と認められているからです。もっと言えば四菩薩も、その他の諸尊も認められています。その一切を観じるための曼荼羅であると私は考えます。以前に勧請について喧しい議論をしたのはそのためです。
本尊に人・法を立てることは、私には異論があります。本尊というのであれば、仏・法でしょう。
ここのところ取り沙汰されている本尊問答抄が真筆でなければ、法の本尊ということにも、実は異論があります。そもそも、見ることも、解すこともできない「法」をどうして、具象的な本尊とできるのかという疑問があるからです。これはまた「法とは(南無)妙法蓮華経である」という常套句についての疑問でもあります。私たちは仏の教法を通じても、実は法を観られないのではないのか、だから、仏への帰依があるのではないのかと私は考えるのです。
何度となく書いてきましたが、「仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。」という諸法の実相、天台はこれを観法として十界の十如と立てるのでしょうが、さらに寿量品を通じて仏の三世間も三千を言います。妙楽が一念三千と呼称したところです。しかし、天台はこの三千にすら執着してはいけない三千は三千だが、しかも三千ではないと不可思議境をいうのです。この境地の時、百法界も三千も超えてしまう。つまり、天台の説いたことは一念三千を超えたところにあると私は思うのです。
このことは南無妙法蓮華経にも言えるのではないでしょうか。聖人の言う妙法蓮華経は法華経の題目と言うけれど、実は経典の題号ではない、久遠に釈尊が悟った妙法のことである、だから、その妙法を直ちに唱えるのだという説明は私も一往の納得はできます。
けれど、これは理屈でわかっているだけです。しかし、お悟りの法を一言に妙法蓮華経と“言葉”として表されるものなのかという疑問はあります。また、そもそも久遠の妙法というけれど、それはどのようなものなのか、どのように法華経の題号と違うのか、ということは所詮、仏にあらずんば知ることのできないものであるのでしょう、また、言葉で表せるものでもないのでしょう。つまり、私たちが唱える題目は久遠の妙法だと思いながら、結局は法華経の題号に南無を冠し唱えることから一歩も出ていないのではないのかという思いが、私には常にあります。
もちろん、この点は聖人は充分に見抜かれています。故に
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ
しかも、ここで言う一念三千とは上述する如く不可思議境を指してのことであろうと私は拝察するわけです。
さらに重要な点は、聖人が立てる法門は、実は悟るためのものではなく、仏の悟りの功徳を譲り受けるところに力点があるのでしょう。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ
それ故、その意味を悟ることをしなくても南無妙法蓮華経と唱えることによって釈尊の因行果徳が自然譲与されるというのです。つまり、ここで自ずと釈尊の恩徳を有り難いと思う心、換言すれば仏本尊を釈尊と見る思いが生じるのでしょう。しかし、その仏本尊の果徳を譲り受けることを行とする故に、そこで口をついて出るのは、南無釈迦如来ではなく、南無妙法蓮華経なのでしょう。
しかし、これは人本尊、法本尊ということではないように私は思えます。
さらにこのことを教えてくれたのが日蓮であれば、そこに恭敬の念が生じるのは当然のことであり、我等を四菩薩が守護をしてくれるという以上、ここにも恭敬の念は生じるでしょう。その意味から聖人が終生、釈尊の一体仏を捧持され、さらに曼荼羅を示したことは至極自然な所作であったと思えます。さらに滅後、それらを教え示してくれた祖師を仰ぎ、像に刻み、手を合わせ、さらに今時、我等に果徳を譲る釈尊を像に刻み、さらに守護の四菩薩を像に刻んで、仏像本尊としていくことも、信仰心の表れとしては、ごく自然あろうと思うのです。
以上はしかし、経釈がどうという煩瑣な議論を望むものではありません。本来はツブヤキに記すべきであったかもしれません。
154
:
五月雨
:2002/08/02(金) 09:03
独歩さん
乾電池程度のショックですか。次は100Vの感電ですか。私は痛がりなので手加減してやと言いたい気分です。大石寺の過去ログをまだ読んでいます。ちょうど、私が疑問に思う所を読みました。例によって難しい部分の理解は浅いかもしれませんが、真実は真実として受け止めなければと思っています。次のショックが楽しみです(?)
155
:
五月雨
:2002/08/02(金) 09:18
現時点さん
はじめまして、だったと思います。よろしくお願いします。(前にも挨拶しましたでしょうか)
>信仰をしている人たちの方がくるっている(というと語弊がありますが)のではないかとも思われます。
私もそう思っていました。組織の論理で思考・行動するので世間から遊離しているのでしょうね。一般常識をもって物事を見るだけで、その組織の矛盾はいくらでも分かるのに、アネモネさんのお話の中にありましたように、信心をからめた話で矛盾から目を逸らしているのでしょう。そうするように仕向けられてもいるのでしょう。昨日も法華講のおばぁちゃんとお話してて、何か空しいものを感じた次第です。
156
:
犀角独歩
:2002/08/02(金) 14:35
五月雨さん:
ショックについては、たぶん五月雨さんは充分に耐えられるようになっていくでしょう。組織矛盾を現実の窓を見つけられたから、そこをのぞき込む勇気も既に持っておられるから。
ショックで立ち直れなくなる人は窓があっても見ないようにするか、閉めてしまいます。
信仰という色眼鏡を外してみる、あの組織は何とまあ、魅力のないことか。しかし、ここの書き込みを見てわかるとおり、組織批判をする人でも、教義、本尊を捨て去っているわけではない、だから、付随的に組織も認めているという構図があると思うのです。
実はここのところは重要なのです。信仰は各人の自由ですから、極端なことを言えば、鰯の頭を信じたって周囲がとやかく言えないと言うのが法律です。(ちなみに金比羅さんのご神体はガンジス川のワニ?、お稲荷さんはキツネ)
けれど、五月雨さんがショックを超えて踏み込もうとしているところは、自分の存在、アイデンティティを支えてくれたそのものなのでしょう。
絶対の本尊、その継承者、その信徒としての自分の位置、永遠の生命、死後の約束、運不運を左右する方法などなど、それらを「違っているのではないのか」という視点で、再点検してしまおうという作業です。
ただし、法華講のお婆ちゃんの話を書かれていらしたけれど、このような方に、ここの再点検はさせないほうがよいと思います。変な言い方ですが、考えて答えを出すのに、心の柔軟度も、人生の残り時間も、あまりにも不足しているからです。
このような人たちには、「組織は人間のやることだから過ちがあるのも仕方がない。でも、お題目に間違いがあるわけではないから」と現状を肯定してあげることが必要であると思うのです。
「それは方便ではないのか?」という疑問も生じるわけですが、しかし、私はこの時点で真跡はないけれど、いつも心している御書の一節があります。
さて此の品(提婆品)に浄心信敬(しんきょう)の人のことを云ふに、一には三悪道に堕(だ)せず、二には十方の仏前に生ぜん、三には所生の処には常に此の経を聞かん、四には若し人天の中に生ぜば勝妙の楽を受けん、五には若し仏前に在らば蓮華より化生せんとなり。
この『女人成仏抄』にいう「浄心信敬」が組織・指導者にではなく、仏様と自分を直接つなぐ心の置き所となるとき、たしかな目標となると私は考えています。外に向かう菩薩道(慈悲)に対し、内に仏に向かう自利の要です。
同じく真跡はないものの『教機時国抄』に言われる
仏は金師に数息観を教へ、浣衣の者に不浄観を教へたまふ
というように、人にあった“提示”の仕方を考えることは大切なのであろうと思います。
人の心を動かすことは容易なことではないですね。まして忠言は耳に逆らいますし、強固な信念を持った人は「自分の影響力の中毒」になっていますから、考えに異論を述べられることに憎悪を懐くものです。
もちろん、五月雨さんは、以上のようなことは十分にご承知で、お考えの所とは思いますが、法華講のお婆ちゃんの書き込みで、少し思うところがありました。余計なことと思いながら、記させていただきました。
157
:
五月雨
:2002/08/02(金) 16:16
独歩さん
ご忠告をありがとうございます。私も「いのちみじかしそうな昔・乙女」のおばぁちゃんにいうのに、少し迷いもありました。でもこの人が一番身近にいる人で長年一緒にやってきたのです。私の数少ないよき理解者でしたから、一度くらい聞かせてあげた方が良いのではないかと判断してのことでした。でも、やっぱりあまりの年寄りに言うのは止めます。
158
:
犀角独歩
:2002/08/02(金) 16:38
五月雨さん:
> 157
このような五月雨さんの優しさを慈悲の顕現というのでしょうね。
159
:
アネモネ
:2002/08/03(土) 01:10
五月雨さん
法華経が釈尊の説いたものではないこと、私は、一年半前にこの掲示板に最初に参加してときにやはり独歩さんのレスで初めて知ったんですよ。だから、石山のまやかしよりも半年前に、その根幹部分がもろくも崩されてしまいました。これは本当にショックでしたよ。
正直言って、二箇相承の信憑性が崩れたことよりシッョックでしたね。なんせ先日お話した、下種の親に最初に教えてもらったことが、この五時八教で、これでいよいよ本気で信仰してみようかなと思い始めたようなものなんですね。それこそ体験発表にも、そう教わり入信を決心しましたと書いたくらいです。
ところが今では逆に、「法華経は釈尊の説いたものではないらしい」ということを、私が下種の親に話すことになってしまいました。科学的な史実を無視することを嫌う人ですので、受けとめておられましたが、なんせ話すのが私ですので、どうも説得力に欠けるところです。そのうち自分で確認することと思います。
たけど、独歩さんから教わったことをキッカケにして、私は法華経も読破できないうちから、先に法華経を中心とした大乗仏教の発生から成立の過程に興味を持ってしまったんですね(私の悪いクセです)。私はその成り立ちを大雑把に知って、けっこう気に入り、なんとかショックを克服してます。
過去のスレッドでも、詳しく書かれているところ出てくると思いますので、新しい発見(ショック?)があればご披露くださいね。
160
:
現時点
:2002/08/03(土) 06:46
上記で池田さんのほほえましい扇子踊り、なつかしく思い出しました。
これらはほほえましいエピソードですが、池田さんのいびりは、それはそれはひどいもので
会合でも大幹部を満座の前でいびる
こうじて精神病になった方もいらっしゃます
私は池田さんは嫌いです なぜなら身勝手だからです それとおおらかさがない
臆病で昭和45年の言論問題の時には箱根の研修所に引きこもって おろおろしていた
それで本部総会で 謝罪したのですが 口の根も乾かない先から あれは真意ではないという異常神経
の持ち主です
戸田さん時代も「はったり会長」と言われて まあ問題もありましたが
池田時代になると 神経がピリピリした 組織になりましたね
161
:
五月雨
:2002/08/03(土) 08:30
独歩さん
>このような五月雨さんの優しさを慈悲の顕現というのでしょうね。
お褒めの言葉をありがとうございます。でもそんなに言って頂くほどの価値があるかどうかは分かりません。正直言って、他の人に話すことは、「自分が絶対正しい病」に罹って、ただ主張したいだけじゃないのかと思う事もあります。でも知らないという事は可哀相だから言ってあげたくもなりますし、気持ちの揺れがあるのです。独歩さんがここまで言って下さるお気持ちを有り難く思って、自分の気持ちを確かめながら、真実を伝えていきたいと思います。
独歩さんに教えて頂きたい事があります。『謗法』の正しい定義は何なのでしょう。今月のお講の説法で「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」とお話があったらしいです。法華講のおばぁさんが、私の話を聞きながら言ったので、私の話の内容が『謗法』に当たると言いたかったのかもしれません。法を謗るのが謗法というのは分かるのですが、具体的にはどんな事なのか分からなくなりました。大聖人様の仏法を捻じ曲げて教えてきた宗門から、そんな事を言われたくない気持ちもあります。詳しく教えて下さい。よろしくお願いします。
162
:
五月雨
:2002/08/03(土) 08:40
アネモネさん
ショックの受け方は色々ですね。私の一番目のショックは勧められて読んでいる「法華経」の訳本を数ページ読んだ時、「これってただの物語じゃない」というものでした。法華経誹謗の罪で、重い宿業を背負ったのですから、法華経が物語だったというのは拍子抜けしました。これは軽ーいジャブ程度のものでしたが。後のショックは石山のまやかし、法華経の真実と続くのですが、まだ乾電池程度らしいので、次のショックが楽しみです。その時はまた報告させてもらいますね。
163
:
アネモネ
:2002/08/03(土) 09:00
五月雨さん
>「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」
私のお寺でも、青年部会で所化さんがそのような話をしてましたね。
御本尊様を護るために人殺しをした人は、世法では殺人者として罰せられるけれども、仏法では成仏する。護れなかった人は成仏できない。そんな話をされてました。
護る対象が御本尊様だけに、私も含めて誰ひとり、異論も質問もできなかったです。
だけど、青年を相手に好ましくない話だなぁという印象を受けました。極論過ぎます。これが高じると、オウムのポアと同じになっていくのではと懸念したものです。
その所化さんは、話の仕方もなかなか上手で、青年部ではけっこう慕われてましたから、危ないなと思いました。
今、どこかのお寺の住職になっているらしいです。
それと、法華講か学会かはよくわからないのですが、ある信者さんが、会社のお金を横領して逮捕され、その為に信徒として除名されたという話を聞いたことがあります。「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」というのが正論なら、矛盾してますね。
164
:
アネモネ
:2002/08/03(土) 09:06
現時点さん
>会合でも大幹部を満座の前でいびる
こうじて精神病になった方もいらっしゃます
そのようなこともあるのですか。共同体のトップがそのような振る舞いをすれば、現時点さんのように「嫌いだ」と思わない限り、下の者は同じ振る舞いをする人間になるでしょうね。やはり、虚像と実像は全く違う人だということ、わかりました。
165
:
アネモネ
:2002/08/03(土) 09:11
レスを錯綜させてしまいました。
独歩さん
五月雨さんのレス161)のご質問、
>『謗法』の正しい定義は何なのでしょう。
よろしくお願いいたします。
166
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 09:24
○ショックから立ち直ること、…私的経験ですが
五月雨さんが法華経が釈尊の教えではなくショックであったといい、アネモネさんもそうであったと記されています。私は20代のときに神経障害を煩ったことをここで敢えて告白しました。実は私が精神的に追い詰められていった原因の一つに教学上の問題がありました。私の症状は、実は創価学会の52年度路線前に始まり、池田さんの辞任の頃にピークに達しました。池田さんの無謬正を信じ、さらに創価教学の無謬性を信じて、さらにそれが無謬の石山教学と合致するものであると思い込んでいた私にとって、創価学会と石山の教学上の不和、そして、それにより知れた池田さんが久遠の師・日蓮の生まれ変わりではないという、当時の私にとって、到底受け入れがたい結論に、煩悶とした二人の自分が心の中で葛藤していました。そして、ある日、ちょうど圧力を加え続けたガラスがそれまで何事もなかったように見えていたのに、一瞬に割れ崩れるように、私は発症しました。それは同時に、私の中の池田神話の瓦解を告げるものであったけれど、耐え難い苦痛を伴うものでした。当時の日記を読み直すと「生きながら地獄にいるようなものだ」と何度となく記されてあります。
この段階で私を救ったのは石山の無謬性を求めた信仰心でした。当時、御書全集を何度も何度も読み返し、富士宗学要集は、その時期だけでも3回は通読したものでした。朝晩寺院に通い詰め、御講、勉強会、その他法要の一切に欠かさず参詣する日が何年も続きました。
下種三宝への絶対の信、すなわち、戒壇の本尊を生身の日蓮聖人と仰ぎ、唯受一人血脈付法の猊下、その代理たる寺院住職を含めた僧宝の尊信の徹底を強固にしていくことによって病魔退散と生活向上を願ったのです。
法華講への入講は、昭和56年以降からの私の悲願でした。けれど、当時、宗門と創価学会は、和解が採れ、寺院・法華講は創価学会員を移講させてはならないという宗門からの厳しいお達しが出ていました。そんな事情もあって、私は何年も寺院に通っていましたが、その間、一度たりとも法華講員と言葉を交わすことも、挨拶を交わすこともありませんでした。一度、わからないことがあり、寺院の階段ですれ違った講員に声をかけると、汚らわしいものを見るような険しい顔をし「話しかけないでくれ!」とはき出すように言われたものでした。そんな意味で寺院への日々の参詣は屈辱的でもあったのですが、耐えることが信仰であるとも思っていたものでした。
それが、平成に入って起きた宗創戦争によって、学会の勧誘が許されるや、真っ先に声をかけてくれたのは、かつて在勤の僧侶でした。地方からわざわざ電話をくれたのです。私は急いで駆けつけました。「私の寺院で中心者になって、法華講を作ってもらいたい」、私は即座に快諾しました。喜びを所属寺院に伝えに行ったのです。しかし、ここで住職から「待った」がかかりました。「猊下から、脱会した学会員は、その地域の寺院に所属するよう指導が出ている」ということでした。「いや、それじゃ、私はあの御僧侶を裏切ることになります」「ワシが言っておくよ」という一言で、私は地元寺院に所属することになりました。それからのことは既に記したとおりです。
法華講は、私にとって夢にまで見た存在であったのです。数カ年を経て、「やめよう」と結論するしかなかったのです。日記に「山は遠くから眺めていれば美しい」と記したものでした。
夢にまで見た法華講と、石山僧の現実は、私が濫読してきた富要に記されてある僧宝ではなかったのです。この“ほつれ”を手繰っていくとき、そもそも石山教学とは何か、何より、法華経とは何か、自分の病は何であったのかを改めて考えてみたのです。そうして、徹底して再確認してきた結果を、実は、私は、ここ富士門流信徒の掲示板に記してきたのです。問答名人さんとのやり取りはまた、多くの示唆を与えてくださったものでした。
167
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 09:25
―162からつづく―
私は川蝉さんのように台学を修め、聖人の祖書に精通し、さらに700年来の文献を精査される行学に、敬意を表します。また、その規範に基づいて、論理性を立て、ここに示していただくことに感謝しています。これは重要なことだと思います。
私も、その在り方が日蓮仏法の信行学であるという点には何の疑義を挟むものはありません。この点から富士門流を見直すことは重大な意味を持っていると思います。
その前提を踏まえて、今度は逆に、「すべてをリセットして、法華経を読み直してみる」ということを、私は人に勧めてきました。この場合、法華経とは妙法蓮華経ばかりではなく、正法華経でもよいし、正しい教えの白蓮でもいいのです。
天台の釈、聖人の教えにとらわれず、自分の感性で読み直してみると、まるで違った法華経を発見できるからです。
法華経を釈尊が説いた可能性は限りなくゼロに近い。残念ながら、これは事実でしょう。しかし、天台釈、日蓮義を敢えてよけて読むとき、つまり、一念三千であるとか、久遠の妙法であるとか、末法であるとかといった教条性をすべて取り去って虚心坦懐に読むとき、この題名でもある「サ・ダルマ(正法)」(羅什が妙法と訳した部分ですが)とは何であろうかと考えるとき、正しい法を勧めるということについてだけ言えば、それは間違いなく釈尊の教えに違いないということだけは事実です。八正道と説かれる生き方が数百年を経て菩薩道を得、さらに完成されて、ここに記されているのは事実であると私は思っています。
一字三礼さんは自由に通読した結果、「室座衣の三軌を自行化他の心構えにして、法華経の五種を勧めること」と独自に思ったと書かれていた。私は、こうやって自分で読み掴むことは尊いと思うのです。
私が掴んだ部分は、二十四文字の法華経でした。私から見るとき、そこに法華経の精神のすべてが凝縮されている思えます。その法華経に南無をするのです。
以前にも書いたとおり、羅什は嫌いですが、しかし、半世紀も唱えてきた「南無“妙”法蓮華経」を今さら、南無正法蓮華経としようとは思わないのです。また、それが唱題、あるいは読経という形で表すことばかりが信仰であるとも思わないのです。うちに正しい法(道)を鑑み、外に菩薩道を歩むことが法華経であると思います。その道すがら、唱える言葉が「南無妙法蓮華経」です。
自分にもっとも適した、そして慣れてきた調子で、私は今も南無妙法蓮華経と唱えます。そして、天台の卓越した三諦論にも驚嘆します。今でも日蓮を敬愛します。
「菩薩道と発展した正しい法(道)」を信じ、実践しようと思うのが、私の法華経観です。私はこの考えにいたり、「ショック」から立ち直っていきました。そして、この考えは、現在の文献学的、考古学的成果とも、精神医学、社会心理学その他人文科学とも矛盾しないものであると思っています。
168
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 09:26
間違えました。167は166からのつづきです。
169
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 10:10
五月雨さん:
アネモネさん:
謗法ですか。恐怖操作の呪文でしょうね。
難しく考えることはないと思います。
真跡ではありませんが、謗法とは謗仏・謗僧の総意で、それは三宝一体であるからだと言います。石山が大好きな一節です。僧侶を謗れば謗法にあたるわけですね。
「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。是(これ)涅槃経の文なり」(真言見聞)
私からすれば、「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」なんていうことが謗法そのものだと思います。
アネモネさんが記された「御本尊様を護るために人殺しをした人は、世法では殺人者として罰せられるけれども、仏法では成仏する。護れなかった人は成仏できない」なんてこという、この発言が謗法でしょう。
謗法とは法を下げることだと言います。こういうおバカちゃんが、頭剃って袈裟衣つけて格好ばかり僧侶に似せて、こういう虚けたことを人の前で話すことが謗法でしょう。
上の“坊さん着ぐるみ”さん達の発言は、謗法ではなく謗石山でしょう。
しかし、やがて、着ぐるみ脱いで、本当の僧侶になることもあるでしょう。
謗らず施を止め近づかないが立正安国論の聖人の教えでしょう。
法というのは道ということです。道とは倫でもあるのでしょう。
それに背くことが謗法であると私は思っています。
170
:
五月雨
:2002/08/03(土) 10:18
アネモネさんのお寺でもそういうお話があったのですね。私はまだ石山思考回路ですので、そこまで考えませんでした。それを真に受けたら猊下を守る為といい、成仏は確約されているからと殺人にはしっても不思議はないですね。そういえば、宗・創戦争が始まった頃に、東京の学会の建物のベランダで割腹自殺を図った人がいましたね。ただのケガで済んだみたいですが、それを私に教えてくれた副講頭(元・学会圏指導長)は「猊下様を守るためにしたのよ」と言ってました。それが何で猊下を守ることになるのか、チンプンカンプンでしたが幹部の威厳を漂わせているので、恐ろしくてツッコメませんでした。
その年には、高松の学会婦人部本部長が本山に「爆弾を仕掛けた」といって電話で脅した事件もありました。私の姉の住んでいる地域の婦人部長でしたから、姉もその人となりをよく知っていたので、「どうしてそんな事をしたのか分からない、おとなしい人なのに」と話していました。
人身を惑わすという言葉がありますが、人身を惑わす指導をする組織は怖いですね。
171
:
五月雨
:2002/08/03(土) 10:48
独歩さん
独歩さんの苦悩が伝わってきました。大変な道を歩まれたのですね。だからこそ『真実』を見極められたのですね。「真実を見極める道」は平坦では無いのだから私も少々のことで“ネ”をあけ゛ていてはいけませんね。
謗法の事でもうひとつ教えて頂きたいのですが、十四誹謗というものが説かれています。私は組織に出なくなって「十四誹謗」を犯していると言われました。
「軽善」「憎善」「根善」「嫉善」は特に犯してはいけないそうです。そういう心を持つのは成仏の根を絶ってしまうそうです。誰に何を言われようがされようが、絶対に持ってはいけない感情らしいです。「人間は感情の動物」なのにそれに
は無理があると思うのは、仏法から外れていますか。
173
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 11:35
五月雨さん:
十四誹謗ですか。これは譬喩品の
きょう慢懈怠我見を計する者には 此の経を説くことなかれ
凡夫の浅識 深く五欲に著せるは
聞くとも解すること能わじ 亦為に説くことなかれ
若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば
則ち一切世間の 仏種を断ぜん
或は復顰蹙して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ 斯の如き経典を誹謗することあらん
経を読誦し書持すること あらん者を見て
軽賎憎嫉して 結恨を懐かん
を妙楽が法華文句記に釈したものです。
惡因十四。一きょう慢。二懈怠。三計我。四淺識。五著欲。六不解。七不信。八顰蹙。九疑惑。十誹謗。十一輕善。十二憎善。十三嫉善。十四恨善。
聖人の真跡には見られませんが、真偽未決、松野殿御返事、新池御書に見られます。
先に五月雨さん、アネモネさんが挙げた石山僧の発言は、新池御書の
此の経の十四謗法の中に、一も二もをか(犯)しぬれば其の罪消えがたし。所以は何(いかん)、一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争(いか)でか一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。
の教条解釈と言えるでしょうね。
十四謗法(誹謗)は、もう一方の松野殿御返事には
此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし。
と記されています。何も寺院から離れたから十四謗法ということは言えないでしょう。
この十四、1のきょう慢は傲慢みたいな者、2の懈怠は怠け心。3の計我は自分勝手な考え。4の淺識は知識が浅い。5の著欲は欲望に支配される。6の不解は理解しないこと。7の不信は信じないこと。8の顰蹙は顔をしかめること。9の疑惑はそのままですね。10の誹謗はまあ謗法に似たり。11の輕善は善を軽んじること。12の憎善は善を憎みこと。13の嫉善は善いことをする人をねたむこと。14の恨善は善いことをする人を恨むこと。
この14は、根拠となる譬喩品の該当部分はともかくとして、一つひとつはもっともなことです。このようにならないように心がけることは大切であると思います。
しかし、感情を持ってはいけないなどということは、もちろん、ありませんでしょう。
コンピュータのプログラムから外すような発言ですね。
でも、五月雨さん、よーく当て嵌めて見てください。石山僧俗にも当て嵌まること、たくさんあるでしょう。在家出家に亘るべしです。(笑)
教条的にとらえないこと、そして、恐怖操作に引っかからないことです。
> 「人間は感情の動物」なのにそれには無理があると思うのは、仏法から外れていますか。
を関西弁で怒鳴ってみてください。それで正解です(笑)
174
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 12:00
―173からつづく―
書き落としましたが、真跡に十四誹謗の記述はなかったと思いますが、反面、「因謗堕悪必因得益」という妙楽の釈は使われています。
毒鼓の縁とか、逆縁という言葉はご存じかと思います。
此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但(ただ)妙法蓮華経の五字を以て幼稚(ようち)に服せしむ。「謗に因(よ)って悪に堕つは、必ず因って益を得(う)」とは是なり。
聖人は折伏の折伏の依文として使われているようです。
因謗堕悪必因得益は、そのあとに如人倒地還從地起と続きます。
謗ることによって悪に墜ちても必ず益を得るでしょう。それは人が地面に倒れたら、その地面から起きあがるようなものですと言った意味です。
私は、むしろ、こちらに聖人の精神を見る思いがします。
175
:
五月雨
:2002/08/03(土) 12:15
独歩さん
ご説明有り難うございます。
>11の輕善は善を軽んじること。12の憎善は善を憎みこと。13の嫉善は善いことをする人をねたむこと。14の恨善は善いことをする人を恨むこと。
ここの部分の解釈が違っていました。何故だか「善」という事が抜けていたのです。ただ、人を憎んだり、嫉んだり、恨んだりしてはいけないと思っていました。
私はそう教わったように思いますが、どうして「善を行う人に対して」という主語?が抜けていたのでしょう。「善」を行う人に対してならば、そういう気持ちを持ってはいけないというのはよく分かります。
それでは関西弁で怒鳴らせていただきます。「 !」
あースッとした。(表現が適切でないかもしれませんので、文字はカットしました)(笑)
176
:
いちりん
:2002/08/03(土) 12:44
わたしの親しい知り合いに、スリランカの僧侶がいます。
上座仏教というと戒律でがちがちの不自由な教えと思われるかもしれませんが、なかなか自由闊達な生き方をしています。いま、その方のお話を、少しずつまとめているのですが、誹謗との関連で、参考までに紹介します。
---------------------------------------
わたしたちは、日常のなかで、つい怒ってしまいます。嘘をついたり嫉妬したり、気ままに行動して、他人に害を与えたり迷惑をかけたりします。
そのような悪いクセから離れる努力を、仏教では「戒」といいます。
それは、お釈迦さまが命令されたものではありません。信じて守りなさいというものでもありません。本人が望む道を行くための近道、方法を教えたものです。実践するもしないも、本人次第なのです。
わたしたちの上座部仏教には、膨大な「戒」があります。とてもそのとおりには守ることは困難です。お釈迦さまも、比丘たちが完全に守れるわけではないことは、よく知っていました。
「戒」を破ったからといって罰則があるわけではありません。
それは懺悔をすればよいのです。お釈迦さまは、罪を犯してしまった人を、叱ることはありませんでした。しかし、「自分が悪いことを認めないのだったら、どうしようもない」と言われました。
わたしたちは、朝晩、「いろいろ失敗して大変申し訳ございません」と、謝りながら生活するのです。もう懺悔ばかりです。今日も朝、一生懸命懺悔してきたのです。帰ってからもやります。お坊さんに出会ったら、わたしたちは「おはようございます」と言わないのです。お坊さん同士の挨拶というのは懺悔なのです。
「そんなに謝ってばかりだったら、そもそも間違いをしなければいいのではないか」と思われるでしょう。でも、いくら努力しても、どこかで失敗してしまうものです。
じつは「戒」とは、自分のダメさ加減に気がつくためでもあるのです。わたしたちは、戒律を守ろうとしますが、守れないとき、自分の心の弱さに気がつくのです。「戒」があることによって、わたしたちは、「自分は不完全で、どうしようもない」ということに気づくのです。
大切なことは、「自分自身は、いくら努力しても、そもそもだらしがない、ろくでもないのだ」ということを、とことん認めて生きるということです。
「そのままでいい」と思ってしまったら、どんどんと堕落していくものなのです。
自分の不完全さに気づいて、少しずつ一歩ずつでも、努力すればいいのです。
---------------------------------------
戒を破ったから、あるいは誹謗したから、地獄に堕ちるとかいうことではなくて、大切なことは、そういう戒めをいつも念じつつ、それが守れない自分の愚かさ、弱さ、どうしようもなさによく気がつくこと。それによって、心を浄めていく道なのだというところ。そこなことを説いていました。
177
:
犀角独歩
:2002/08/03(土) 13:23
> 176
いつもながら、すばらしいお話、有り難うございます。
ああなるほどなと、「戒」というのも、このように考えるのかと新鮮に感じました。
178
:
いちりん
:2002/08/03(土) 18:41
さきほどのお話だけですと、「なあんだ上座部の坊さんってわりと戒律を保つ意識が薄いんだなあ」と思われてしまうかもしれないので、補足のお話です。おなじく、スリランカの坊さんの語ったことです。こちらも、戒律の基本の考えだと思います。
---------------------------------------
わたしたちは、「小さな悪いこと」を、いくらでもしています。毎日やっている小さな悪いことが、やがて大きな殺人や盗みという結果になるかもしれません。
だから、日々おこなっている小さな過ちに対して、充分に気をつけなければいけません。小さなことをいい加減にしていると、大きな罪も平気で犯してしまうようになるからです。
「悪いこと」は、どんな小さなことでも、たとい一回であっても、決して行わないと心に決めるべきです。なぜなら、悪いことはクセになって心が汚れていくからです。
仏教では「戒律」があります。それは、悪から遠ざかること、よい習慣をつけるためのものです。戒律を守ることによって、心を清らかにすることを目的としています。
だから、「盗むなかれ」という仏教の戒めは、糸一本でも、他人のものを盗ってはいけないのです。「嘘をつくなかれ」という場合も、「たとい遊ぶ気持ちでも、偽りを言ってはならない」と戒められています。
「これくらいなら、いいや」という心でいると、大きな悪でも、同じように「これくらいなら、いいや」という気持になってしまいます。
「百円くらいごまかしても、どうってことはないんだ」と思う人は、何千万円のごまかしもなんとも思わなくなります。小さな嘘をつく人は、平気で嘘をつくようになってしまいます。
わたしたちは、「ウソをつくのは仕方がないときもある。ウソも方便だ」などと例外を作ります。しかし、悪いことは、決して例外を作ってはいけません。
人間というものは、ひとつ例外を作ると、どんどんと都合のいいように解釈していきます。「敵ならばいい。悪人ならばいい。自分のいのちを守るためには、殺しても構わない」というように、どんどんとエスカレートしていきます。
例外を作ることで、すべてを台無しにしてしまうのです。
お釈迦さまは、「自分が殺されるようなときでも、殺してはならない」と説かれましたのです。
---------------------------------------
179
:
いちりん
:2002/08/04(日) 09:31
松野殿御返事には、こうありますね。
「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたりと見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」。
それが「相手が、在家であろうが坊さんであろうが」「それが、ほんとうであろうがなかろうが」一言でも謗ってはならないよ、と。「若実若不実」というのは、徹底していますね。
なぜなら、「法華経をたもつものは、みな仏なんだ。だから、仏を謗ることになるんだよ」というわけです。
ここで、問題となるのは、「法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか」ですね。
つまり、相手が『法華経』をたもっていない(つまり他宗とか邪宗とか外道とか)、あるいは真実の『法華経』の道を歩んでいない(つまり同門でも、血脈を受けていないとか、謗法を犯しているとか)と、いうのであれば、罵っても構わないという真理になります。
で、それを決めるのは、こちらの尺度であったりしますね。あるいは、教団のリーダーの解釈に従ってしまう。
創価学会が日蓮正宗を罵っても平気なのは、相手が『法華経』を保つ者とみていないわけです。つまり、大謗法の輩・仏敵と思いこまされているわけです。だから、罵ったり攻撃することが、むしろ大聖人の意図である、功徳になるという思いがあるのでしょう。
そうして、いずこの宗教も、互いに「自分だけが正しい」「他は間違っている」という思いがあるから、「敵というレッテル」を貼れば、晴れやかに胸を張って、神仏のご意志であるというような顔をして、非人間的な行為でも行ってしまう。
「信仰深い人」にあっては、異教徒は、おんなじ人間じゃないのですね。
それは、悪魔であり、仏敵であり、謗法であり、それを責めることが「正しい」という真理になりやすいです。そうして、それを決めるのは、教団・宗団の指導者で、信徒は彼の言うことに、簡単になびいてしまう。
簡単にリーダーのことばになびいてしまうのは、常日頃から、「自分の頭」で考え、「自分の感性」でとらえるということが、否定されているからです。
そこが、宗教の怖さの一つでしょうね。
180
:
いちりん
:2002/08/04(日) 09:50
わたしが思うには、「罵ったら地獄に堕ちるよ」というのは、ひとつの脅しだと思いますね。
『法華経』には、そのように言い回しがたくさんありますし、日蓮さんもそういう影響を大きく受けていますね。わたしは、そのあたりが、なんとも受け入れがたいのでありましてね。
脅して、恐怖で、縛り付けるというのは、身動きのできない人間になってしまいます。なにをするにしても、恐怖が背後にあって、自分では判断できなくて、宗教指導者(あるいはそういう権威あるもの)にお伺いを立てて、それでやっと安心して、行動する。それでは、は奴隷的な人間になってしまいます。
原始経典などを読みますと、ブッダにはそういう脅し文句は、見あたりませんですね。(まあ、出家に対しての指導が多いので、それは厳しい言葉はありますが)
ブッダの基本は、次の二つかなあ、などと思います。
一つは、「自分が嫌なことは、他人にしてはならない」よ、と。自分が殺されたくなかったら、自分が罵られたくなかったら、嘘をつかれたくなかったら、他人にそんなことをしてはいけない、よ。
一つは、「何をするにしても、自分の心から起きてくることだから、いつも心を浄めなさい」と。「悪いことをするな、よいことをしなさい」というのは、自分の心を浄めるためだよと。悪いことをすれば、心は汚れ、よいことをすれば心は清まる、と。
ですから、十四誹謗などの禁戒というのは、「自分が嫌なことをされたら、つらいわけだから、そんなことを他人にしてはならない」ということであり、さらには「そんなことをすると、心が汚れてしまうよ。心が汚れたら、煩悩が増大して、ますます苦しいことになるよ」という意味だと、わたしはとらえています。
その意味では、相手が『法華経』をたもっていようがいまいが、仏敵であろうが、大悪人であろうが、自分を害する人であろうが、怒ったり憎悪したり罵ったりしないほうがよい。そういうことなんだろうなと思うわけです。
まあ、創価学会などは、「悪に対しては怒れ」「悪に怒らない者は、善人ではない」などと鼓舞しています。その悪かどうかは、いつも池田さんが、指示するわけですが、(あるときは、他宗。共産党。佼成会。日蓮正宗。山友。竹入などなど、そのうちいろいろ出てくることでしょう)。
しかしまあ、たとい悪であっても、怒ること、憎悪すること、罵ることは、自分の心を汚してしまうことになる。そのように思うわけです。
じゃあ、しかし、怒るというのは人間という自然の行為である。怒らざるを得ないときは、どうするのか。ということになるかと思います。それについては、仏教では、どんなときにも怒らない心を作り上げる実践があるわけですね。それが「戒」ということで、生活習慣ともいえましょうか。あるいは、八正道ということになりましょう。
181
:
アネモネ
:2002/08/07(水) 01:13
>「自分が嫌なことは、他人にしてはならない」
キリスト教の場合でも、イエスはちょっと似たようなことでこんなことを言っています。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」
どちらも戒めでありながら、一方は「してはならない」という行動規制の戒めであり、一方は「しなさい」という行動推進の戒め。
全般的に、キリスト教では決まった「行」がないかわりに、「互いに愛し合いなさい」から始って、「こうしなさい」という為すべきことの戒めが多い気がします。
いずれにしても他人を思いやりなさいというだとすれば、その心は似ているものだといえますが、だけどよーく考えていくと、ここに確かに違いもあるのかなと感じます。また、両方とも大事なことかもしれないです。
でも、キリスト教国の欧米大国が、なんでもグローバルスタンダードと称して、自分たちの流儀を最高なのだと世界中に押し付けてきているところ、皮肉なことにイエスの教えが裏目に出てしまったのかなぁと、こじつけのようでもありますが、そう思ったりします。相手にとっては嫌なことかもしれないというところに、思いが至っていない場合がありますね。
そして布教をしていくということは、布教される相手にとって、それが嫌なことなのか、それともしてほしいことなのか‥、結局は布教する人の人間性やその振る舞いが、それを左右するところなのかもしれないなぁと思います。
182
:
いちりん
:2002/08/07(水) 11:02
「心を尽くして神を信ずること」と「隣人を愛すること」が、キリスト教の実践の本質ですよね。
そうして、「隣人を愛する」とは、《何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ》(「マタイによる福音書」第7章) ということになります。これが、キリスト教の「黄金律」(ザ・ゴールデン・ルール)と。
隣人との関わり方において、東洋は少し違いますね。
孔子は、《己れの欲せざるところ、他人にほどこすことなかれ》(『論語』顔淵2)と。
イエスは、自分がして欲しいと思うことを、他人にしなさい。
孔子は、自分がして欲しくないことは、他人にするな、と。
で、ブッダのことばを、もっとも古い経典である「ダンマ・パダ」あたりから、拾ってみますと。
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」(50)
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない」(65)
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(129 )
「まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう」(58 )
「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い」(159)
こうみてきますと、ブッダは、他人をどうこうせよというのは、あんまりありませんね。
大切なことは、「ただ自分を観よ」「自分の心を浄めなさい」ということです。
他人が間違っている、あの人はおかしい、あれはけしからん……ということは、生きている日常には、数限りなくありますが、そんなことに煩わされるなと。ただ、自己を見つめよと。
そして、他人に教えることがあるとしたら、「まず自分をととのえてから、人にああせいこうせいと言いなさい」と。
さらに、こうしなくてはいけない、あれはしてはいけない、という戒律がありますが、それは命令ではなくて、基本は「己が身をひきくらべて」というところだと思います。
自分のこととしてとらえたとき、悪口を言われるのは嫌だ、だから人の悪口はやめよう。殴られるのは嫌だ、だから殴るのはやめようと。
まず、大切なことは、「自分の気持ちが分かること」。これ、簡単なようで、とっても難しいことです。そして、「他人の気持ちが分かること」。
なにかを信じて、それが正しいとして頑張って生きるというようなことよりも、大切なことだと。
自分の気持ちが分かると、人の気持ちも分かってくる。
人の気持ちが分かると、自分の気持ちも分かってくる。
そのあたりが、わかつてくると、人生はいろいろと、おもしろくなって生き生きとしてくるかなあと思います。
183
:
アネモネ
:2002/08/10(土) 01:19
>これが、キリスト教の「黄金律」(ザ・ゴールデン・ルール)と。
遠い昔、私の聖書の扉に牧師さんが書いてくれたフレーズです。今はその聖書は手元にありませんが‥。クリスチャンはみんなこのフレーズが好きですね。
ブッダのやさしい言葉、なにかとても新鮮な響きがしながら、また、どこか聖書の言葉も思い出されてしまうような懐かしさも感じてしまいます。
なんとなく近いものを感じる言葉を、ひろってみました。
>「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」(50)
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この石を投げなさい」(ヨハネによる福音書)*姦淫の女に制裁を加えようとしている民衆に向けられた言葉です)
>「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない」(65)
「人を裁くな、あなたがたが裁かれないようにするためである。あなたがたは自分の裁く裁きで自分が裁かれ、自分の量る秤りで量られる。」(マタイによる福音書7章)
「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな口から出てきて、人を汚すのである。」(マルコ伝7)
*ブッダは「みずからが汚れる」といい、イエスは「人を汚す」という。ここにも厳密な違いがみえるようです。
>「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(129 )
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイによる福音書5)
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5)
>「まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう」(58 )
「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイによる福音書5)*山上の垂訓の一説
「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8)
「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷になる」(ヨハネによる福音書8)
184
:
アネモネ
:2002/08/10(土) 01:20
(つづき)
>「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い」(159)
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目のなかにある丸太は見えないのか。兄弟に向かって『あなたのおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。まず自分の目からおが屑を取り除け。そうすれば、はっきり見えるよになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7)
おが屑と丸太の譬えは言葉通りに想像すると、ちょっと笑ってしまいます。イエスは大工の息子ですから、こういう譬えが出たのでしょう。(笑)確か子供の頃にも、教会でこの一説を読み、思わず吹き出してしまい、肩を震わせて笑いをこらえていた記憶があります。
イエスの言葉は確かに、他人に対してどうこうということが多く目につきます。自分の心を見よといったことを言っているのは、おが屑と丸太の話しかひろえなかったほど。
イエスの言葉も長く私の心に残ってきましたが、ブッダの言葉はまた新鮮であり、とてもきれいで、やさしく、そっと心にとどまりそうです。
お喋りなインド人のイメージは、お釈迦さんには全然感じられないですね。むしろ寡黙な人のようにも思えたり。
法華経の読破は頓挫してしまいましたが、このようにやさしいお釈迦さまの言葉なら、私にも読みきれるかな‥と、かすかな期待を持ってしまいます。
185
:
アネモネ
:2002/08/10(土) 01:21
(つづき)
自分の心をみつめるという修行‥ここのところ自分のも含めて掲示板で体験発表を振り返ることが多かったのですが、どうもあの体験発表が信徒を勘違いさせてきているような気もします。
私はこんだけ信心やりましたと壇上で発表し、そのことで奇跡が起きたかのように語って、聴衆から大きな拍手を受ける。語るほうも、聞くほうも、明らかにここで、勘違いしていくところだなあと思います。
たとえばイエスは、「人の見ているところで善いことをしようと思うな」といったことを言ってます。そしてお釈迦さまは誰もいない菩提樹の下でひとり悟りを得られたわけで、修行や行いや信仰というのは、人の見ていないところで出来てほんとかなと思います。そして、それをひけらかしてしまっては、だいなしになってしまう。ひけらかすようでは、まったく修行になっていないということでしょうね。
>己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ
この教えは、現代人にとってもとても重要なことばだと感じました。
「殺さしめてはならぬ」はとても意味が深い気がします。
聖書では、たとえ殺さなくとも、少しでも相手を憎いと思ったならば、それはその人を殺したのと同じ罪であるといった教えがあったかと思います。
イエスの教える神の存在というのは、外側に神の存在がいると捉えるよりは、心の中のことと捉えるほうが、かえってその真意がわかる気がします。心の中で思ってしまう善くないこと、それは他の誰が知らなくても、神がご存知だ。つまり自分自身が知っていることなんだ。そのことで自分が苦しんでいくのだから、だから、善くないことを思ったときには、悔い改めなさい。そういう教えだったのではないかと、キリスト教から離れて何十年もたって、少し仏教に触れることで、改めてイエスの導こうとしたところも知ったような気もします。
それでも、イエスは「裁き」というある種の脅しの手法を使っています。脅しを使わずに人々を導いたブッダの心を、これから学んでいきたいなぁと思います。
(スレッドテーマとかなり離れ、また聖書の言葉の多くの引用は、あまり好ましくなかったかもしれません。ロムされている方で、気を悪くされている方もおられるかと思います。その点、お詫びいたしまして、お含み頂ければ幸いです。)
186
:
いちりん
:2002/08/10(土) 14:33
アネモネさん
>キリスト教から離れて何十年もたって、少し仏教に触れることで、改めてイエスの導こうとしたところも知ったような気もします。
ブッダを学ぶことで、イエスのことがまた理解できて、イエスを学ぶことでブッダのことが理解できる。ひとつの宗教を深めていくと、さまざまな思想の違いを越えて、その心の深みを学んでいけるんだと思います。
愚かな学び方とうのは、違いばかりにとらわれて、優劣にとらわれてしまうことですよね。わたしの宗教が正しい、他は間違っているという生き方をしていたら、心は荒廃していくと思うことがあります。
こないだ教育テレビの「心の時代」を観ていたら、鈴木大拙さんに指導を受けた浄土真宗の板東性純さんがお話をされていました。板東先生が、鈴木大拙さんの思い出の中で、こんなことを言っていたのが、心に残りました。
精神が未熟だと、違いを悩み
成熟すると、違いを味わう
このように、鈴木大拙さんは、言っておられたということでした。
たしかに、そうですよね。人は、違いを悩むどころか、ときに憎悪しますよね。とくに、宗教者であればあるほど、違いを憎悪したり。
ひとつの成長、成熟、悟りというのは、違うということを、味わうことができる。面白く感じることができる。遊べるんじゃないかと思ったりしました。
187
:
アネモネ
:2002/08/11(日) 03:29
いちりんさん
>精神が未熟だと、違いを悩み
成熟すると、違いを味わう
とても深い深い言葉ですね。
この言葉は、この世の中のいろんな事に通じることだと思います。
男女の違い、世代の違い、学校の違い、職業の違い、地域の違い、習慣の違い、言葉の違い、人種の違い、宗教の違い、宗派の違い、etc‥
違いに悩んで、それが憎しみへと変わると、違いは苦みにな。だけど違いを味わえるなら、それは楽しみへと変わり、やがて違いは尊重しあえる。
本当に深い意味を感じます。
>ひとつの成長、成熟、悟りというのは、違うということを、味わうことができる。面白く感じることができる。遊べるんじゃないかと思ったりしました。
まさに、遊学ですね。「遊」という字、私はとても好きです。
時々思うのですが、禅宗の方の言葉というのは、言葉少ないのに、なにかとても深いものを感じさせますね。それこそ味わい深いです。
ところで、教育テレビの「心の時代」って、テレビ好きの私ですが、知りませんでした。今度、ぜひ観てみたいと思います。
188
:
アネモネ
:2002/08/11(日) 03:32
187)訂正
誤→違いは苦みにな。
正→違いは苦みになり。
189
:
宮本
:2002/08/11(日) 05:10
いちりんさんへ:
横レス失礼致します。
私は、成人の頃よりの学会の信仰についたせいか
どうもなじめない部分が、多いですね。
「...違いを味わう」とは、なるほどとは思うのですが
どうもその感覚というか、考えのようなものが
学会の人には、理解できない人の多いのにビックリした記憶があります。
一つは、多様性の容認ていった感覚が、あるようで全くないんですね。
一方だと、常にもう一方といった考えの人が、多いのです。
宗風なのかもしれませんが。(いちりんさんもそれとなく書いておられましたね)
必要性があってそれが、実際の事例にはまるといいのですが
恐ろしい程の独善姿勢にビックリした記憶もありました。
外部の友人曰く、急進改革には、便利な考え方ではないのかな・・。
とよく議論になりました。
学会幹部だと、結論をあらかじめ一定の所にさだめたような、
会話も多いこともあって
これじゃ会話にならんのかな・・。と思ったりもします。(自分は
ないつもりなんですが)
ある時、他の人が
「信仰を止めたい人がいますが。」と言ってきました。
ひにくでもなんでもなくて、
「止めるようなことなにもない。そのままでいい。」
「仏の慈悲は、云々とかあるのでは・・」 と言うと
きょとんとしていました。(凡夫の私のような者が、
罰があたるとか言うのは、とんでもない話です)
自分では、「この今の時代に
信仰の自由とか言っている以上、当然の事で
止めるとは、おかしな事を言う奴」
と思っていたんですが。
どうも今思えば、学会の一部の人は、違うようです。
(他の皆さんは、わかりません)
「信仰は、仕事ではないので、本人がしたければ、すればいいし、
したい時にすればいいのであって、強制的なのは、おかしい。
間違いがあったら、後で正せばいいのでは」
という私の感覚は、おかしいのでしょうね。
自分の祖父は、海外生活が長く、多民族国家の中で生活していたので
その影響もあり、多様性の容認には、理解のある方だったので
そのせいかもしれませんね。
私の感覚は、理解してもらえない場合が多いようです。
仮に、いちりんさんが
ある宗のある寺の住職だとすると
「来るも来ないも、お前さんの自由にするがいい」
「大金など、持ってくることはない。」
「袈裟、衣も類は、暑苦しくてかなわんなー」とか言うのでしょうね。
では、また。
(特定の人、他講の方々をさしているのではありません。その点、御容赦下さい)
190
:
求道
:2002/08/11(日) 09:44
> とくに、宗教者であればあるほど、違いを憎悪したり。
と思うところが未熟なのでは。偏狭な宗教者であればあるほどなら、当たり前の話
しですけれども。一つの中心的信念を以て、統一的な意識から他を肯定している場
合ではなく、何でも良いじゃないかと他を肯定するふるまいを偽善と言います。
鈴木大拙師の「精神が未熟だと 違いを悩み 成熟すると 違いを味わう」ですが、
精神が未熟とは、統一されていない状態です。だからこそ、個々の違いに悩みます。
精神が成熟するとは、統一された状態です。統一のもとにある個々は、その違いの
価値が活かされます。
191
:
アネモネ
:2002/08/11(日) 14:04
求道さん
こんにちは。よろしくお願いいたします。
>と思うところが未熟なのでは。偏狭な宗教者であればあるほどなら、当たり前の話
しですけれども。
恐らくいちりんさんは、偏狭な宗教者のことを意図して書かれているのだと思います。カルト信仰は社会的問題であり、ここの掲示板で常にテーマとなってきていることですから、そこは敢えて明記されていなくても読み取れるかと思います。
また、宗教とはそういう危険を持ち合わせたものであるという警鐘も発していらっしゃること、これまでのいちりんさんの様々なレスで十分に理解できますし、それはまたとても重要なことだと思います。
>一つの中心的信念を以て、統一的な意識から他を肯定している場
合ではなく、
ここでいう「統一的な意識」の意味がよくわからないのですが。
>何でも良いじゃないかと他を肯定するふるまいを偽善と言います。
「何でも良いじゃないか」を偽善とまで言うのは大袈裟で、適当とか、おざなりとか、いい加減とか、無関心とか、悪くとってもせいぜいそんなところのことだと思います。
そもそも鈴木大拙さんの言葉は、「何でも良いじゃないか」という真意の言葉なのでしょうか。私にはそうは感じませんでしたけど。
>精神が未熟とは、統一されていない状態です。だからこそ、個々の違いに悩みます。
精神が成熟するとは、統一された状態です。統一のもとにある個々は、その違いの
価値が活かされます。
ここでいう「精神が成熟するとは、統一された状態」という意味がよく読み取れません。個人の意識が全体に統一されるということを意味するのでしょうか。それが仏教の成仏や成道ということなのでしょうか。
もしもそうだとすると、そこではもはや個々の違いはなくなってしまい、個々の違いの価値は活かされるものではないと思いますし、これでは、単なる全体主義ではないかと思います。全体主義が精神の成熟を意味するものとは、私には思えないんですね。
なにか統一というと、画一化とか規格化されるように感じ、没個性をイメージしてしまいます。それでは、みんな金太郎飴みたいになってしまわないでしょうか。
私は日蓮聖人の、権力や権力に巣食う既存仏教に対する毅然とした批判精神や改革精神(仏教的には不適切な言葉かもしれません)は、ものすごく好きなんですね。だけど、その精神が今日までには概ね排他精神として捉えられて浸透し、そして社会からは独善的な印象を持たれているということを、とても残念に思うのです。
もちろん、それは聖人の言葉にも起因しているかもしれないことは否めないでしょう。
またそれは、そうした言葉となった時代背景やそれに対する聖人の心も考慮せず、ただその言葉だけを以って日蓮仏法としてきてしまったことにも因るところが大きいと思います。
だからこそ、そういう危険性というものもよく熟慮して心得ていかなければならないと思うのです。それとも私が、求道さんの言葉の真意を取り違えているでしょうか。
192
:
求道
:2002/08/11(日) 15:46
鈴木大拙師の件は、「違いはあっても何でも良い」そういう単純な意味ではないこ
とを説明しています。全体主義というのは、何らかの意図を持って、全体の利益の
ためにと理屈をつけて個を強要します。意図を持つ者の考えが、全体の中心に座ろ
うというものであって、所謂支配的なものです。精神の統一された状態とか成熟と
は全く関係ない話です。融和統一された精神によって、個々の違いは包摂されてい
ますから、違いは味わえます。
個々の精神には、人類共通の普遍の精神があります。それらの共通の精神があるこ
とによって、バラバラと思う個々が統一的に相関関係を以て理想に向かおうとしま
す。個々の特殊な部分は、統一的な理想実現のために、否定されるのではなくそれ
ぞれに役割を果たしていきます。十界と言われるように自己の精神も、様々な精神
が混在しています。自己の普遍の精神によって統一されていくのが、成熟の段階で
ありましょう。そういう法華経・日蓮聖人の思想を理解しないと、全体なるものに
対して批判的精神を持つことが是であるとか、或いはそれは社会的には独善である
から否であるとかという、個々の価値観からの考えによって対立を生じます。
193
:
アネモネ
:2002/08/12(月) 23:09
求道さん
>鈴木大拙師の件は、「違いはあっても何でも良い」そういう単純な意味ではないこ
とを説明しています。
ということは、「偽善」という言葉は鈴木大拙師の言葉に対して向けられた言葉ではないわけですね。
>全体主義というのは、何らかの意図を持って、全体の利益の
ためにと理屈をつけて個を強要します。意図を持つ者の考えが、全体の中心に座ろ
うというものであって、所謂支配的なものです。
この点の見解は私も同じです。既存の宗教組織、こと富士門における組織信仰は全体主義的に誘導していることを、この掲示板で議論してきたところですが、その点の認識は同じなのでしょうか。
>精神の統一された状態とか成熟と
は全く関係ない話です。融和統一された精神によって、個々の違いは包摂されてい
ますから、違いは味わえます。
関係ない話というよりは、全体主義は個人の精神の成熟を阻害するものであると私は考えます。
求道さんのいう「精神の統一」とか「融和統一された精神」とかが、まだ私にはうまくイメージがつかめません。個々の精神が組織的(全体的)に統一されていることを意味して書かれているのか、それとも個人の中でのバラバラの精神が、一点に統一されるといった意味なのでしょうか。
>個々の精神には、人類共通の普遍の精神があります。
仏教で説くところの十界と理解して良いでしょうか。それとも仏格のことですか。
>それらの共通の精神があるこ
とによって、バラバラと思う個々が統一的に相関関係を以て理想に向かおうとしま
す。
ここがわからないのです。個人の中の普遍の精神(十界)が仏格に統一されるということでしょうか。それとも、個々の精神がひとつの理想(成仏)に向かって志を同じにしたときということでしょうか。成仏した個の精神のことを指しているのか、それとも成仏に向かう個々の集合体としての精神を指すのかでは、違ってくると思います。
教義を体系的に理解されている多くの方は、求道さんが何を言いたいのか読み取れていらっしゃるのかもしれませんが、それこそ未熟な私には、どうしてもつかみきれません。大変申し訳ないことですが、もし出来ましたら、法華経か聖人の御文などでお示し頂けないでしょうか。それをもとに、理解を深めたいと思います。
194
:
アネモネ
:2002/08/12(月) 23:11
(つづき)
>個々の特殊な部分は、統一的な理想実現のために、否定されるのではなくそれ
ぞれに役割を果たしていきます。
特殊な部分というのは、たとえばどういう精神でしょう。
統一的な理想実現というのは、「成仏」ということでよろしいでしょうか。
>十界と言われるように自己の精神も、様々な精神
が混在しています。
自己の普遍の精神によって統一されていくのが、成熟の段階で
ありましょう。
ということは、求道さんがこれまで言われてきた「統一される」とは、十界が統一されるということを意味していることになるかと思いますが、となるとここでいう「自己の普遍の精神」というのは、何になるのでしょうか。やはり仏格でしょうか。
十界が仏格に包摂されたとき、個々の違いは味わえるものだと。こういうことでしょうか。
>そういう法華経・日蓮聖人の思想を理解しないと、
つまり、そういう法華経・日蓮聖人の思想を理解しないと鈴木大拙師の言葉は、「違いはあっても何でも良い」という偽善になりますよということが求道さんは言いたいのでしょうか。
だけど、鈴木大拙師は禅の方だそうですから、法華経・日蓮聖人の思想のうえでの言葉ではないわけですから、そうなってくると求道さんが言われる「鈴木大拙師の件は、『違いはあっても何でも良い』そういう単純な意味ではないことを説明しています」と言ってしまうことは、矛盾を起こしてませんでしょうか。
求道さんは何を批判されているのでしょう。
そもそも、私が聖書の言葉を記したことを受けて、鈴木大拙師の言葉が紹介されたわけで、そのあたり全体への批判であるならば、混乱を招いた原因は私ですから、その点はレスの最後に書きましたように、お詫びしたいと思います。
195
:
アネモネ
:2002/08/12(月) 23:13
(つづき)
>全体なるものに
対して批判的精神を持つことが是であるとか、
全体なるものに対しての批判ではないのです、求道さんも記された「所謂支配的なものです」といった全体主義に対する批判です。それが、ある意味でこの掲示板のコンセプトでもあることは、理解されていますでしょうか。
今ある全体主義的な富士門の組織信仰の現状を鑑みて、尚且つ宗教のもつカルト的要素にもしっかり認識したうえで、法華経・日蓮聖人の思想をあらためて研磨していこうというところだと思うのです。
求道さんの書かれたレスが、私には、全体主義的なことを是とする内容のようにも読めたため、それならば賛同はできないと思いました。しかし勘違いがあるのかもしれません。ただ、いまだに何を主張されようとしているのか、私にはよくわからないのです。
>或いはそれは社会的には独善である
から否であるとかという、
私は、法華経・日蓮聖人の思想が否だと言っているわけではないんですね。ただし少なくとも、富士門における全体主義的な組織信仰は、かなりカルト的であり、社会的にみても独善的と思われていることは事実です。この点はどうでしょうか。謗法の者たちの評価など取るに足らないと考えられますでしょうか。
社会的な評価はともかくとしても、私自身が自分の目で見て感じたマスナス的な要素は、なにも法華経・日蓮聖人の思想を否定したり誹謗したりすることを意図したものではありません。ここは理解して頂きたいです。
ただし、マイナスに働きかねない数々の言葉が法華経や聖人の御文に由来していることは、信仰する者としても目を向けて考えておくべきだと思うのです。言葉は生きていますから、同じ言葉でも時代を超えて人に与える作用というのは、昔と今では違っていると思います。だから、その言葉だけを空覚えするのではなく、その言葉の心を知ることが大事だと私は思うのです。そのためには、時代背景もその心を知るとても重要な要素のひとつとなりますね。そのうえで、時代を超えて学び語っていかなければならないこととは、言葉を通したその心だと思うんですね。
>個々の価値観からの考えによって対立を生じます。
はっきり申し上げますが、対立を生じさせる内容を書かれているのは、むしろ求道さんではないかと思います。しかしここは広く議論を許された掲示板ですから、それは多いに結構なことなのです。同じ考え方の人ばかりでは、それこそいつしか独善的にもなっていくやもしれません。
ただしここは考えて頂きたいのですが、自分と違う意見に対して反論をするときに、わざわざ相手のことを未熟だとか、偽善だとか、そのように人格的に貶めるようなことを書く必要はないと思うんですね。教義的なことを議論するなら尚更だと思います。
個人的に反論があるにしても、相手に烙印を押すようなことはなさらないほうがいいと思います。
自分の意見の正当性を示そうとするとき、異なる意見の人を人格的に貶めるところから反論をする論法こそ、日蓮主義の悪しき色をつけてきたものではないかと、私は思ったりもします。如何でしょうか。
196
:
いちりん
:2002/08/13(火) 01:05
アネモネさん
「こころの時代」というのは、NHK教育テレビで、日曜日の朝の5時と昼の2時にやっています
学者が出てくるときには、眠くなりますけど、ときたま、すんごい坊さんが出てきたりします。
れいの村上公照さんも、いちど出演しました。
わたしの知り合いの、スリランカの坊さんになども二度くらい出ました。
197
:
アネモネ
:2002/08/13(火) 02:23
いちりんさん
えー、あの素敵なお坊さん(既に直接知っているかのような書き方、怖いですね)村上公照さんや、いちりさんがご存知なスリランカのお坊さまも出られたことがあるのですか。
ぜひ観ます。日曜日の楽しみがひとつ増えました。
ありがとうごさいます。
198
:
いちりん
:2002/08/13(火) 10:24
アネモネさん
こちらのサイトに、今までの放送記録が少しありますね。
村上公照さんのもありました。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/4323/index2.htm
しかし、番組そのものは、睡眠誘導の役に立ちます。
199
:
アネモネ
:2002/08/26(月) 00:21
いちりんさん
サイトのご紹介、ありがとうございます。
番組のほうは先週は旅行で見過ごしたのですが、今回は観れました。お寺の御講よりも全然勉強になりますね。なにより話が「我田引水」ではないので、聞いてて気持ちいいです。
早々にご紹介下さったこのサイト、なんと番組を愛する方が開いている、非公式のサイトなんですね。管理者の方がノートにメモしたものを、番組記録として掲載しておられて、これはすごいです。終末医療についてのテーマもありました。
村上公照さんと、板東性純さんのを読みました。
お二人ともキリスト教へのアプローチも深く、まずこのことに大変驚きました。
禅宗の方の言葉というのは、いちりんさんが時々書かれているように、確かに理屈ではなくて直観的ですね。だからこそ即座に相手を唸らせてしまうほどに、その言葉が生きているのだと思いました。
私が特にびっくりしたのは、板東性純さんが語られる鈴木大拙博士のイエスの話、
「カトリックの神父さんで修道士のトマス・マートンと言う人は『聖書の本当の深い意味を東洋人で見ていたのは鈴木大拙博士である。』と言われた。例えばイエスが十字架に掛かり復活される。それを3日後ではなく『即時である』と。十字架の所に復活がある。間髪を入れない。マートン神父は非常に当を得た解釈とされている。3日というのは神話的な数字である。十字架即復活でなくてはならぬ。」
この捉えかたは確かにすごいです。クリスチャンを即唸らせるものだと思いました。私も納得です。
私などは、もともとの性格が強いので、どちらかというと気持ちが高揚しやすい唱題よりも、心を鎮めるような静かな禅のほうが必要なのかもしれないなと思ったりもします。唱題で心が静まるようになれば、本当の唱題といえるのかもしれないですが。
もちろん坐禅は一度もしたことがないのですが、既に身近な日本の文化のなかに禅の精神が深く根付いたものがありますね。私の場合、禅に通じるものの経験としては、茶の湯かなと思います。小学生の頃と大学生の頃、お饅頭食べたさでお稽古に行っていました。
茶道のお手前は、一服のお茶を立てるひとつひとつ所作、襖の開け閉めから、畳の歩き方、お湯の注ぎ方、茶巾のたたみ方に至るまで、その全てが実はとても理にかなったものだといわれていますが、しかしその理にかなったお手前を頭で覚えて身につけるのではなく、ひとつひとつを体で覚えいくんですね。体が覚えないと、美しいお点前にはならず、それが一服のお茶の味をも変えてしまう。
その趣が、禅からきたものだということを知ったのは、茶道のお稽古をやめてからです。
すっかり今ではお点前も忘れてしまいましたが、今となっては続けられなかったのがすごく残念です。
200
:
アネモネ
:2002/08/26(月) 00:23
(つづき)
静かな行というのもいいなぁと思います。特に私のような強い性格の場合、こういう静かなひとときが必要なんですね。唱題ももちろん大事だと思うのですが、私は、端座して何も唱えずただただ、合唱したままじーっと御本尊と向き合うこと、実はとても多いです。
昨年、北条時宗展に行ったときに購入した資料が非常に面白いことが書かれてあったのですが、北条時頼は中国から一流の禅僧を来日させ、自らも禅を極めていくわけですが、当然のことながら、日本からも中国へ多くの僧が禅を学びに留学しているわけです。中国から来た一流の禅僧にいわせると、直観で悟りを開く禅の要諦を見事に体得していたのは、北条時頼と時宗の親子だけであったということが資料に書かれてありました。そのことは非常に彼らを驚愕させ感銘させたといったと同時に一方で、日本から中国に留学してきたほとんどのバイリンガー僧は、禅僧といえども禅の真義はほとんど極めず非常に浅いものだったとのこと。
たぶん、ファッション的に坐禅をして幕府にパラサイトしていたバイリンガー禅僧が、日蓮聖人の目からは、「禅天魔」と映ったのかもしれないな‥と思ったりしました。
独歩さんに以前教わったのですが、日蓮聖人も遊学中は比叡山で坐禅をされていたということですから、なおさら、当時のバイリンガー僧の浮ついた感じが、批判せずにはいられなかったのだろうなと思ったりします。
とはいえ、今の禅宗は鎌倉時代とは違い、文化に禅の精神を宿すほどに極められ、高められていっているとするなら、もはや天魔というものではないでしょうね。
それにしても、日蓮聖人も今のいちりんさんのように、当時のいろんな宗派の修行を実践されていたんですね。真理の探究の姿を見る思いです。
念仏はちょっと抵抗がありますが、坐禅は私は密かに惹かれます。
201
:
いちりん
:2002/08/26(月) 11:03
アネモネさん
村上光照さんの友人で、押田神父という方がいます。
神父というのですから、もちろんクリスチャンですが、宗派にこだわらない賢者であると、わたしは思っています。八ヶ岳の高森草庵で土を耕しながら、暮らしておられます。
わたしはお会いしたことはないのですが、本を読みますと、ことばが生きているのですね。
---------------------------------------
坐禅は、坐れば坐るほど、謙遜になる人と一緒に坐って下さい。
坐れば坐るほど、わたしは専門家だという人と、絶対に一緒に座ってはいけませんよ。
教える世界、意識の世界、そういうものと行が結びついたら、邪道になります。
無が行するところがない限り、行は邪道になります。
それでは、どうしたらいいか。何を目標にしたらいいか。
かくれた謙遜な信仰者に学んで下さい。魚屋のおっちゃんでも誰でもいいんだ。
ほんとうに謙遜に信じて、いつも頭を下げている人。その生き方に学んで下さい。
坐れば坐るほど、ほとけさまのあわれみを人々が感じるようにならならくちゃ、これは行じゃないんです。
「祈りの姿に無の風が吹く」(地湧社)より
---------------------------------------
かくれた謙遜な信仰者に学べというのは、ほんとうに、そうだなあと思います。
行が深まれば深まるほどに、謙遜になる人に学ぶこと。
202
:
いちりん
:2002/08/26(月) 11:20
鈴木大拙さんのことが、出ていましたので。
鈴木大拙が「妙好人浅原才市集」というのを書いています。
浅原才市(あさはらさいち)という人は、真宗の信仰者でした。
純粋素朴な信仰に徹した人でした。
彼は下駄作りの職人で、ひらがなしか書けない人でしたが、たどたどしい筆で、念仏を賛嘆することばを帳面に書き付け、それが百冊にもなったといいます。
念仏信仰というと、日蓮主義の人は、即座に顔をしかめます。心の中に、念仏無間ということばが湧いてきます。軽蔑の気持が置きます。ほとんど、自動反応ですね。
それでいて、「浄土三部経」も読んだことはない、「歎異抄」も読んだことはない。「浄土宗」と「浄土真宗」の区別も知らない人が、ほとんどです。
で、どんな信仰であれ、信仰者のすがたというものから、学ぶことができます。さまざまな人の心がわかる生き方であるためにも、信仰の異なる人から学ぶことが、大切だろうと思います。
そして、なにより、信仰一筋の人のことばは、生きていますよね。
職業宗教家のことばは、頭で語っているので、心に響かない。それは、ほんとうにわかつていないからでしょう。魂が感動してないのに、仕事・役目として信仰のすばらしさを説くので、それはエネルギーが閉じこもったお仕着せのことばになります。そうして、わかっていない人に特徴的なことは、人を脅すことは得意ですね。
203
:
いちりん
:2002/08/26(月) 11:22
この才市という人のことばが、柔和でひろびろして、屈託なくて、とてもいいんですね。
ということで、紹介します。(いちりんが、勝手に漢字にしている文字があります)
---------------------------------------
ええな 世界 虚空が 皆ほとけ
わしもそのなか なむあみだぶつ
わたしゃ あなたに つかわれて
稼業のなかの なむあみだぶつ
稼業のなかも 苦にゃならぬ
なむあみだぶつと いると思えば
みだの衆生は わたしのことよ
稼業するなか なむあみだぶつ
よろこびを まかせるひとは なむの二じ
われが よろこびや なむがおる
才市や どんどこ はたらくばかり
いまは あなたに く(苦)をとられ
はたらくみ(身)こそ なむあみだぶつ
らくもこれ よろこびもこれ さとるもこれ
らくらくと らくこそらくで うきよをすごすよ
--------------------------------------
らくもこれ よろこびもこれ さとるもこれ
らくらくと らくこそらくで うきよをすごすよ
いいですよね。
204
:
いちりん
:2002/08/26(月) 11:47
アネモネさん
>静かな行というのもいいなぁと思います。特に私のような強い性格の場合、こういう静かなひとときが必要なんですね。唱題ももちろん大事だと思うのですが、私は、端座して何も唱えずただただ、合唱したままじーっと御本尊と向き合うこと、実はとても多いです。
わたしも、よく仏壇の前で瞑想しています。ヨーガの瞑想スタイルですけどね。
日常生活のなかでは、ごちやごちゃした時間に流されてしまうことが多いですから、まずは仏壇の前に坐る。もちろんお題目もよいし、そしてただ坐ることもいいですよね。
こないだ、部屋の模様替えをしまして、いちばん坐りやすい位置に仏壇を置きました。
ふとした気分転換とか、出かけるとき、かえってきたときなど、すっと坐るのですね。
インドのお香ですが、とても気持ちのいいのが手に入りまして、ロウソクに火をともして、お香をつけながら坐ります。チベットの大きなリンがあるので、ごおぉぉぉーーんと叩きながら。
まあ、「久遠即ただ今」みたいな感じでも、思っているのです。
坐ったときが、久遠といいますか、いのちの本源みたいな。そこから、また新しく出発できるような。本因妙なんてことばがありますが、この一日、この瞬間を結果として生きるんじゃなくて、原因として生きる、みたいな。
>それにしても、日蓮聖人も今のいちりんさんのように、当時のいろんな宗派の修行を実践されていたんですね。真理の探究の姿を見る思いです。念仏はちょっと抵抗がありますが、坐禅は私は密かに惹かれます。
坐禅も、やってみると、ほんとうにすばらしいですね。
まったくシンプルですね。ただただ呼吸に意識を向けるだけ。三日くらいとことんやったことがありましたが、身体の細胞がまったく生き返ったような、感動がありました。
まあ、あるお寺では、唱題と坐禅を組み合わせていましてね。これが、なかなかよかったです。
はじめは、坐禅します。すると、頭にごちゃごちゃと、いろんなものが浮かびます。
そして、お題目。はじめは、ものすごくゆっくり。なーーーむ、みょーー。。と。
そして、次第に速くなります、そしてすごく速くなります。
そして、こんどは、ゆっくりしたペースに戻ります。なーーーむ、みょーー。。と。
それから、また坐禅に入ります。
このとき、わたしはとても驚いたのが、唱題前の坐禅のときの、ごちゃごちゃした雑念が、唱題のあとには、きれいに吹っ飛んでいたんですね。まさに、すっきり静寂。
そうして、それまで、聞こえていなかった虫の声が、しみじみと聞こえてきました。
この身体感覚の変化には、とてもおどろいたのです。
これは、ある日蓮宗の寺院でのことですけどもね。千葉の山奥の。
それ以来、いろんな宗教体験を探求するようになってしまいました。
205
:
犀角独歩
:2002/08/26(月) 15:36
千葉の山奥のお寺…、「ああ、あそこか」とすぐに思い当たりました。
いちりんさんの記述を読んでいますと、自分が臆病になっていた変成意識の問題を、もう一度、真面目に考えてみたい、そんな気持ちになってきます。
95年の地下鉄サリン事件以降、あたかもオウムが神秘体験を代表するような状態になっていたため、宗教テロリズムと神秘体験がイコールでつながれて、単純に忌避され否定される傾向が生まれてしまいました。
けれど、いちりんさんが書かれるような座禅、お題目、お念仏でも、その行が与えてくれる精神への功利性、やはり見直されるべきでなのだろうと、改めて思ったものです。
ある意味、現代人に、いちばん欠けてしまった側面ですね。そんなことから起きている心の鬱積、心の病は多くあるように思えます。数千年の歴史を持つ心の治療法、実戦経験を色々とお聞かせいただければと思います。
206
:
アネモネ
:2002/08/27(火) 23:19
いちりんさん
>かくれた謙遜な信仰者に学べというのは、ほんとうに、そうだなあと思います。
行が深まれば深まるほどに、謙遜になる人に学ぶこと。
本当にそうですね。法華講にいる間に、なにか違うものが身についてしまっているようで、この言葉がものすごく新鮮に心に響きます。考えてもみれば、本当にその通りです。
>念仏信仰というと、日蓮主義の人は、即座に顔をしかめます。心の中に、念仏無間ということばが湧いてきます。軽蔑の気持が置きます。ほとんど、自動反応ですね。
固定観念というものを嫌ってきたつもりの私ですが、すっかり固定観念があるんですね。いちりんさんの言う通り、自動反応で完全に暗示にかけられています。
いちりんさんにご紹介いただいた才市さんの言葉、私は声を出して読みました。念仏をきちんと口にしたのははじめてかもしれません。声を出して読んで、最初の四行に、なんか思わず涙しました。その四行を繰り返し読みました。
というのも、父のことを思い出してしまったんです。お地蔵さんでも、地域の氏神でもなんでもそこにある神仏に必ず手を合わせてしまう人なんですね。
「おかげさんで、つつがなく」よくそう言ってます。
「なむあみだぶつ」の心も、いいなぁって思います。そのまま心やさしい響きがありますね。
>インドのお香ですが、とても気持ちのいいのが手に入りまして、ロウソクに火をともして、お香をつけながら坐ります。チベットの大きなリンがあるので、ごおぉぉぉーーんと叩きながら。
いいですねぇ。五感を刺激するところからはじまるひとときを想像します。
>まあ、「久遠即ただ今」みたいな感じでも、思っているのです。
坐ったときが、久遠といいますか、いのちの本源みたいな。そこから、また新しく出発できるような。本因妙なんてことばがありますが、この一日、この瞬間を結果として生きるんじゃなくて、原因として生きる、みたいな。
いちりんさんはそんな感じでお仏壇に向かっているのですか。そんなことを教えてもらったのははじめてです。それっていいなぁって、素直に思います。
私も真似して、そんな面持ちでお仏壇に向かってみます。
坐ったときが久遠で、そしてその時を、原因として生きるっていうのが、すごくいいです。
>まあ、あるお寺では、唱題と坐禅を組み合わせていましてね。これが、なかなかよかったです。
坐禅から入って唱題をし、そして坐禅に終わる。
一連の流れを読ませていただくと、確かに呼吸を大事にした「行」のようですね。
読ませて頂いて、私も体験してみたくなりました。
207
:
いちりん
:2002/08/29(木) 12:56
アネモネさん
>「おかげさんで、つつがなく」よくそう言ってます。
「なむあみだぶつ」の心も、いいなぁって思います。そのまま心やさしい響きがありますね。
「なむあみだぶつ」と発音すると思うと、なんか唱えにくいとおもいますが、浄土宗あたりでは、
なあーーーーむ ぁぁああああーーみ だぁああっぶぅぅうーーー という感じですね。
「あーーーーーーー」と「うーーー」が、ポイントでしてね。なんかこう、「おまかせっ」という波動になりやすいです。
南無妙法蓮華経のばあいには、「おーーー」と「ん」が基調ですね。これは、「よしいくぞぉっ」という波動に成りやすいでしょうね。
まあ、天台の行法で「朝題目、夕念仏」といわれますが、お題目は朝日のエネルギー、念仏は夕陽ですね。どちらが、正しいとかいう世界ではなくて、それぞれにいいわけです。
心が落ち着いて、おだやかになって、おまかせ的な生き方には、念仏かなあ。
元気でやるぞ、しっかり達成するぞという生き方には、唱題かなあ。
しかし、阿弥陀というのは、なかなかいいことばです。
原語では「アミターユス」「アミターヴァ」。アミタ(量ることのできない)アーユス(いのち)。
無限なる光、無限なるいのち、という意味合いですよね。
わたし自身は、いろんな真言とかお題目とか、まあいろいろと音の響きを味わいながら、それに太鼓のリズムをつけたり、インドの弦楽器でメロディーをつけてみたり、太陽に向かって発声してみたり、あるいは森の中で樹木に響かせながらやってみたり。いろいろと探求しています。
音の響き、とくに母音の響きですね。それと、身体との共振というところを、探求しています。
>確かに呼吸を大事にした「行」のようですね。
読ませて頂いて、私も体験してみたくなりました。
音の響きとともに、呼吸が大きなポイントですね。
208
:
いちりん
:2002/08/29(木) 13:00
独歩さん
>いちりんさんの記述を読んでいますと、自分が臆病になっていた変成意識の問題を、もう一度、真面目に考えてみたい、そんな気持ちになってきます。
こんどのミニオフのときに、もし和室などが借りられれば、そこでいろいろデモンストレーションしてみましょうかね (笑
インドの太鼓とか、弦楽器を持っていきますので、その響きに合わせて、お経とか真言とかを唱えたら、どんな感じになるか、とか。
レストランで、そんなことすると、アブないと思われて追い出されてしまいますが。
209
:
アネモネ
:2002/08/31(土) 20:18
いちりんさん
>しかし、阿弥陀というのは、なかなかいいことばです。原語では「アミターユス」「アミターヴァ」。アミタ(量ることのできない)アーユス(いのち)。無限なる光、無限なるいのち、という意味合いですよね。
そんな意味があったのですか。知らないということは‥、というか食わず嫌いとでもいえばいいでしようか、思い込みとって損だなぁって思いました。
深く知らないところでの私の印象ですが、念仏の感じってキリスト教に近いなとも思います。日蓮正宗に入ることでキリスト教への否定を心掛けてきたのですが、今はそんな全面否定をやめてみると、同じように阿弥陀仏の存在もまた違ったものに捉えられてきますね。
自分の人生の流れに身を任せ、全てを受け入れていく、そんな感じを受けます。
>わたし自身は、いろんな真言とかお題目とか、まあいろいろと音の響きを味わいながら、それに太鼓のリズムをつけたり、インドの弦楽器でメロディーをつけてみたり、太陽に向かって発声してみたり、あるいは森の中で樹木に響かせながらやってみたり。いろいろと探求しています。
かつて、私が人生で一番落ち込んだある日のNHKの深夜放送で、「聞こえない音」というのをやっていまして、眠れない夜に、見入ってしまったんですね。その音の学術的名称を思い出せないのですが、人間の耳には聞こえない音の領域というのがあるそうです。ところがこの音は、聞こえないようだけれども確かに感じ取っている音で、しかも、実は非常に人間の精神にとって癒しの効果があるとか。心を鎮める音らしいんですね。
その番組では、「聞こえない音」がどこに多くあるのかを探し求めていくのですが、なんと、音楽の分野でいえば、西洋音楽よりも東洋音楽に多くあり。日本の雅楽にも聞こえない音がふんだんにあるらしいです。楽器でいえば、最も顕著なのが太鼓だそうです。
また、もっと驚きなのはその音が自然界にもたくさんあって、どこに多くあるかというと、実は森林の中だということでした。
私はその落ち込んでいたちきに観たその番組にも驚き今も忘れてないのですが、いちりんさんは、そうしたことをご自分の感覚でみつけてしまわれている。もっとすごいことです。
ちなみに、聞こえない音はデジタルのCDよりもアナログのレコードのほうが記録できるそうですね。
>音の響き、とくに母音の響きですね。それと、身体との共振というところを、探求しています。
母音の響きって確かに大きいですね。音楽の歌詞によって感じがガラリと違うことからもわかります。私は、「ア」の音が響く歌に共鳴することが多いなって感じます。深層心理としてはもしかすると、「なむあみだぶつ」かもしれませんね。
いちりんさが仰っているように、両方大事なんだと思います。ポジティブな題目と、癒しの念仏。人間には、両方必要ですね。
いちりんさんの「行」の体験、いつ読んでも本当に面白いです。頭で考えずに、体で体感し、心に響かせるっていう感じ、いいなぁって思います。
210
:
犀角独歩
:2002/09/01(日) 11:08
いちりんさん:
3日ばかり、家を空けておりました。
返信が遅れて申し訳ありません。
> こんどのミニオフのときに、もし和室などが借りられれば、そこでいろいろデモンストレーションしてみましょうかね
休み明けである明日、池上会館のほうで部屋を調べ、予約してきますね。
ぜひ、お願いします。楽しみが増えました。
この三日間のうちで、早朝は時間が空いていたので、日蓮宗の大きな寺院の朝勤に参列してみました。
梵鐘を合図に朝の5時半から始まる儀式はなかなか荘厳でした。このお寺では1週間で28品全部を読誦するということでした。その日は神力品でした。道場、勧請、開教と順々に進められ、火打ち石で浄めたあと、ゆっくりと御簾が上がられると御影像がようやくと見えます。やや下を向いたような彫像は堂内を静かに見据えているような面持ちでした。石山などで知っている日蓮の顔とは違っており、聖人という気はしませんでしたが、しかしなかなか雰囲気がありました。その後ろは一塔二尊で、火災であとから補完された部分もあるとのことでしたが、元来、奈良時代の彫刻を使ったものであるというのです。終了後、近くで見せていただきましたが、なかなか秀逸なものでした。
石山の朝勤とは違い、天拝はなく方便品も読まれませんでした。寿量品、自我偈は三度繰り返されて読まれるのですが、この時、信者さんがそれぞれ持参してきた太鼓を叩き、代表の信者さんなのでしょうか、四つの大太鼓に合わせて堂中、太鼓の音が響き渡ります。これがなかなかよかったですね。
神力品も信者さんはすらすら読んでいました。要するに二十八品全部、すらすら読むのでしょう。すごいなと。
キリスト教の牧師さんも何人か一緒に参列していたんですが、終わったあとに、「音楽的だ」と感想を漏らしていました。ですから、「太鼓が、ですか」と訊いたら、「いや、お経も、題目も全部、そう感じました」と言っていましたね。
でも続けて「でもお経って、何を言っているのかわからないですよ。教会の説教と違いますね」というわけです。ですから、「教会は説教の前に賛美歌を歌うでしょう。それから説教ですね。読経・唱題を、その賛美歌の歌のポジションに充ててイメージしてみてください。お経のあとにここでも説教があったでしょう」と言ったら「あ!」とポンと手を打っていました(笑)
読経の音韻は日本ではすっかり失われてしまっていますが、インドではずっと音楽的ですね。こんなイメージを、この前、ちょっと口ずさんでいただいたいちりんさんの読経から、私はイメージできたのです。
まるで逆の視点ですが、この間、ちょっと、大きなコンサートに行ったのです。
あの演出って、現代の宗教だと直感的に感じましたね。光と音の壮大な演出のなかで人々が熱狂し、全員が立ち上がって忘我の熱狂、その中心でスポットライトを浴びて歌い続けるシンガーは、さながら現代の学神に見えたのです。
他で法華経のことをいちりんさんが書かれていますが、あの荒唐無稽の物語。でも文字だけだと音が伝わらないのですが、そこに無数の人々のに読経と大合唱ち、ありとあらゆる楽器の演奏、光の演出が加わっていかないと、その荒唐無稽さというか、迫力は百分の一も理解されないのだろうなと。
いちりんさんもご存じの静岡のあの方と話していたら、日蓮の漫荼羅のアイデアの基になった法華経の記述は、空中に浮く地球大の宝塔に二仏が座り、その周囲を諸尊達、そして無数の菩薩達が右回りに巡り続けている立体的な表現ではないのかとこう仰っていた。そこで奏でられる楽器、日月星辰、自然界の壮大な景色を光の演出のなかで、無数の人々が歌のように合掌する読経の一大ドラマで法華経を見直すと、なかなかどうして、すごい芸術性があると思えたのです。
イメージが貧困だと、やはり、雰囲気は伝わりませんよね。
仏教における音楽がどんなものであるのか、いちりんさんの演奏と歌声(読経・唱題・念仏と言ったほうがよいのでしょうか?)を楽しみにしています。
211
:
アネモネ
:2002/09/01(日) 12:20
横レス失礼します。
犀角独歩さん
>「教会は説教の前に賛美歌を歌うでしょう。それから説教ですね。読経・唱題を、その賛美歌の歌のポジションに充ててイメージしてみてください。お経のあとにここでも説教があったでしょう」と言ったら「あ!」とポンと手を打っていました(笑)
それ、私もピッタリイメージします。勤行で読むだけしかわかってませんが、法華経って特に自我偈は、仏様を讃える讃美歌、まさに「ハレルヤ」だなぁって感じました。
それを全身で表現すれば、とっても音楽的になりますね。
神仏を讃える魂の叫びで、ゴスペルやソウルミュージックにも通じるものだろうと思います。本当に音楽って宗教的だなぁと思います。
音楽と宗教に関して、面白いのをみつけました。
http://www.kumagaya.or.jp/~yoko_c/link_6/p3.html
http://www.kumagaya.or.jp/~yoko_c/link_5/r8.html
http://www.kumagaya.or.jp/~yoko_c/link_5/r7.html
>光と音の壮大な演出のなかで人々が熱狂し、全員が立ち上がって忘我の熱狂、‥
独歩さんがそんなコンサートに行かれるとは、これこそ大変な驚きです。
>日蓮の漫荼羅のアイデアの基になった法華経の記述は、空中に浮く地球大の宝塔に二仏が座り、‥
確か、真言密教の胎蔵界両曼荼羅も顕している世界は、球体だということを聞いたことがあります。
以前、真筆なのかどうかはわかりませんが、まるで日の丸のように円形に認められた御本尊を本で見たことがあります。蒙古襲来のために旗に認められたものでした。その旗がそのまま写真で紹介されており、私はてっきり日の丸を曼荼羅で描いたのだと思ってしまいました。日の丸なら、日輪ですからまさに球体ですが‥。日の丸ではないにしても、顕された世界は球体なんですね。
212
:
犀角独歩
:2002/09/01(日) 18:06
アネモネさん:
> 音楽と宗教に関して、面白いのをみつけました
ここで書かれてあることはそれなりに面白いのですが、このサイトって?
> 真筆なのかどうかはわかりませんが、まるで日の丸のように円形に認められた御本尊を本で見たことがあります。蒙古襲来のために旗に認められたものでした。
なかなかお詳しいですね。以下の漫荼羅ですか?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/moukotaiji_mandara.jpg
真筆…、じゃないように見えます。
これは球体と見るのは新鮮ですね。
>> 光と音の壮大な演出…
> そんなコンサートに行かれるとは、これこそ大変な驚き
私は一緒に総立ちになって歌を歌ったりしませんよ(笑)
人が熱中しているとどんどん冷静になる習慣が身に付いていますから、そんな群集心理を観察しているだけなんですが。ひょんなことから行くことになりました(笑)
213
:
アネモネ
:2002/09/01(日) 21:51
犀角独歩さん
>ここで書かれてあることはそれなりに面白いのですが、このサイトって?
大変失礼しました。私もよくわかってません。よくよく見てみると、なんかアブナイ感じもするサイトですね。
ただ音楽療法っていうのは、いろんな意味で、精神面でも身体面でも、いいだろうなぁと関心を持っています。その始まりは、もしかして実は宗教にあったりするのかなぁと‥思ったりもします。
>なかなかお詳しいですね。以下の漫荼羅ですか?
確かにこんな感じのものなのですが、私が見たのは、本当の旗(カラー写真のもの)だったんですね。戦のときに立てる幟のようなものだったんです。かなり痛んだ感じでしたが、曼荼羅の図はしっかり残ってました。
>私は一緒に総立ちになって歌を歌ったりしませんよ(笑)
もう少しで、独歩さんのこれまでのイメージを変えねば‥と思ってしまうところでした。(笑)
214
:
犀角独歩
:2002/09/01(日) 22:09
213 アネモネさん:
固定観念をどんどん、刷新していくことは私は大賛成なのですが、こんなことで、変えられてしまっては…、と思いました(笑)
215
:
犀角独歩
:2002/09/02(月) 07:50
やや間が空いていますが訂正です。
【210の訂正】
誤)歌い続けるシンガーは、さながら現代の学神に見えた
正)歌い続けるシンガーは、さながら現代の楽神に見えた
“楽神”=音楽の神様の意味で使いました
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板