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配偶者がカルトに入ったらどうしますか

206アネモネ:2002/08/27(火) 23:19
いちりんさん

>かくれた謙遜な信仰者に学べというのは、ほんとうに、そうだなあと思います。
行が深まれば深まるほどに、謙遜になる人に学ぶこと。

本当にそうですね。法華講にいる間に、なにか違うものが身についてしまっているようで、この言葉がものすごく新鮮に心に響きます。考えてもみれば、本当にその通りです。

>念仏信仰というと、日蓮主義の人は、即座に顔をしかめます。心の中に、念仏無間ということばが湧いてきます。軽蔑の気持が置きます。ほとんど、自動反応ですね。

固定観念というものを嫌ってきたつもりの私ですが、すっかり固定観念があるんですね。いちりんさんの言う通り、自動反応で完全に暗示にかけられています。

いちりんさんにご紹介いただいた才市さんの言葉、私は声を出して読みました。念仏をきちんと口にしたのははじめてかもしれません。声を出して読んで、最初の四行に、なんか思わず涙しました。その四行を繰り返し読みました。
というのも、父のことを思い出してしまったんです。お地蔵さんでも、地域の氏神でもなんでもそこにある神仏に必ず手を合わせてしまう人なんですね。
「おかげさんで、つつがなく」よくそう言ってます。
「なむあみだぶつ」の心も、いいなぁって思います。そのまま心やさしい響きがありますね。

>インドのお香ですが、とても気持ちのいいのが手に入りまして、ロウソクに火をともして、お香をつけながら坐ります。チベットの大きなリンがあるので、ごおぉぉぉーーんと叩きながら。

いいですねぇ。五感を刺激するところからはじまるひとときを想像します。

>まあ、「久遠即ただ今」みたいな感じでも、思っているのです。
坐ったときが、久遠といいますか、いのちの本源みたいな。そこから、また新しく出発できるような。本因妙なんてことばがありますが、この一日、この瞬間を結果として生きるんじゃなくて、原因として生きる、みたいな。

いちりんさんはそんな感じでお仏壇に向かっているのですか。そんなことを教えてもらったのははじめてです。それっていいなぁって、素直に思います。
私も真似して、そんな面持ちでお仏壇に向かってみます。
坐ったときが久遠で、そしてその時を、原因として生きるっていうのが、すごくいいです。

>まあ、あるお寺では、唱題と坐禅を組み合わせていましてね。これが、なかなかよかったです。

坐禅から入って唱題をし、そして坐禅に終わる。
一連の流れを読ませていただくと、確かに呼吸を大事にした「行」のようですね。
読ませて頂いて、私も体験してみたくなりました。


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