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配偶者がカルトに入ったらどうしますか

167犀角独歩:2002/08/03(土) 09:25

―162からつづく―

私は川蝉さんのように台学を修め、聖人の祖書に精通し、さらに700年来の文献を精査される行学に、敬意を表します。また、その規範に基づいて、論理性を立て、ここに示していただくことに感謝しています。これは重要なことだと思います。

私も、その在り方が日蓮仏法の信行学であるという点には何の疑義を挟むものはありません。この点から富士門流を見直すことは重大な意味を持っていると思います。

その前提を踏まえて、今度は逆に、「すべてをリセットして、法華経を読み直してみる」ということを、私は人に勧めてきました。この場合、法華経とは妙法蓮華経ばかりではなく、正法華経でもよいし、正しい教えの白蓮でもいいのです。

天台の釈、聖人の教えにとらわれず、自分の感性で読み直してみると、まるで違った法華経を発見できるからです。

法華経を釈尊が説いた可能性は限りなくゼロに近い。残念ながら、これは事実でしょう。しかし、天台釈、日蓮義を敢えてよけて読むとき、つまり、一念三千であるとか、久遠の妙法であるとか、末法であるとかといった教条性をすべて取り去って虚心坦懐に読むとき、この題名でもある「サ・ダルマ(正法)」(羅什が妙法と訳した部分ですが)とは何であろうかと考えるとき、正しい法を勧めるということについてだけ言えば、それは間違いなく釈尊の教えに違いないということだけは事実です。八正道と説かれる生き方が数百年を経て菩薩道を得、さらに完成されて、ここに記されているのは事実であると私は思っています。

一字三礼さんは自由に通読した結果、「室座衣の三軌を自行化他の心構えにして、法華経の五種を勧めること」と独自に思ったと書かれていた。私は、こうやって自分で読み掴むことは尊いと思うのです。

私が掴んだ部分は、二十四文字の法華経でした。私から見るとき、そこに法華経の精神のすべてが凝縮されている思えます。その法華経に南無をするのです。

以前にも書いたとおり、羅什は嫌いですが、しかし、半世紀も唱えてきた「南無“妙”法蓮華経」を今さら、南無正法蓮華経としようとは思わないのです。また、それが唱題、あるいは読経という形で表すことばかりが信仰であるとも思わないのです。うちに正しい法(道)を鑑み、外に菩薩道を歩むことが法華経であると思います。その道すがら、唱える言葉が「南無妙法蓮華経」です。

自分にもっとも適した、そして慣れてきた調子で、私は今も南無妙法蓮華経と唱えます。そして、天台の卓越した三諦論にも驚嘆します。今でも日蓮を敬愛します。

「菩薩道と発展した正しい法(道)」を信じ、実践しようと思うのが、私の法華経観です。私はこの考えにいたり、「ショック」から立ち直っていきました。そして、この考えは、現在の文献学的、考古学的成果とも、精神医学、社会心理学その他人文科学とも矛盾しないものであると思っています。


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