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配偶者がカルトに入ったらどうしますか
137
:
アネモネ
:2002/07/31(水) 21:58
犀角独歩さん
>日本社会の中に、独自の共同社会を構築したということでしょう。
なるほどね。神戸の震災後の、独特な連帯感と高揚感というのは、たぶん敗戦直後から復興までの日本の状態と似ていたのかもしれないと想像すると、その中にあって、創価学会が共同体構築を推進してきたということ、とても頷けます。
敗戦復興という艱難な時期を乗り越えて経済的にゆとりが出てくる頃には、共同体の急務な役目は終わり、次第に個人が各々の意思に基づいて自由になっていくことが求められますね。そのような流れのなかで、尚一層の組織の存在や拡大を図ろうとすれば、どうしても共同体での連帯感は半ば強制的に押し付けられるようになっていかざるを得ないでしょうし、それを束ねるための強烈なカリスマ性も示されるようになっていったこと想像できます。
>共に祈り、共に泣き、共に感動し、人生を分かち合っているわけです。
まさに私は、こんな法華講を求めていました。
かつて通っていた教会には、それらしきものが確かにあったんですね。だから、信仰の場とは、そういう場になるように務めていくものだと思ってました。だけどそれは石山についていえば、幻想に過ぎなかったとようやく気がつきました。
>人々に慕われる長を見る視線と一致しているのだと思います。
表向き創価学会を非難している人々が、ふと裏では懐かしがっている言葉を漏らしているのを耳にすると、どっちが本当なんだろうといつも思ってました。きっとどちらも本当なんでしょうね。一言で片付けられるものではないのでしょう。日本の社会も変わり、個人も変わり、そして学会も変化していったのかもしれません。
>残念ながら、法華講には共同体としての機能は求められません。‥あるいは奴隷以上の役割は与えられないことになります。
一年かかりましたが、今は素直に頷けます。私のお寺を見る限りでも、法華講幹部は、人間的に講中から慕われている人ではなくて、「奴隷としての鏡」のような人が求められてきています。あんなに毎日が拘束されるような立場になんでなりたがるのか、私には理解できませんでしたが、講の中ではいつも、いかに「奴隷の鏡」であるかを住職に取り入る形でアピールしたり、または互いに足を引っ張り合うなどしながら、役職を奪い合ってきていました。五月雨さんのところと同じく、恐らくその修羅場は今も続いていることでしょう。
またそういう「奴隷の鏡」のような人が、住職の意向によって選ばれてきているわけですから、一般信徒もそんな「鏡」に照らしてどうしても奴隷にならされてしまうんですね。幹部たちはそういう「奴隷の鏡」としての使命を強く感じて講を運営しているのだということ、本当にようやく私にも見えました。
>石山法華講にない、創価学会の魅力を素直に感じられるのだと思います。
私も実家を離れて生きているひとりだからでしよう、間違いなく共同体を幻想する心がありましたね。言い換えれば、それが組織依存の心だったと思います。
それにしても、あそこまで巨大化した学会の集団組織は、さすがに呑み込まれそうで敬遠してしまいます。いい面も悪い面も、遠くから眺めているに限ります。
仮に共同体を求めることがあるとしても、小さくてそして上下関係のシンプルな出来ればフラットなネットワークがいいなぁと思います。そういうものは、どう考えても法華講に期待できるものではないですし、むしろそういうものを求めるエネルギーがあるならば、もっと別の面に注いでいくほうが遥かに仏道修行にかなっているものだと思うようになりました。
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