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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
1
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ
175
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/18(水) 00:25:56 ID:tN1Jx9pU
6月18日はナポレオン戦争、ワーテルローの戦いが行われた日です
ナポレオンはライプチヒの戦い(諸国民戦争)に敗れ、エルバ島に配流されていました
しかしヨーロッパ諸国が
>>164
でも取り上げたウィーン会議で紛糾しているうちにエルバ島を脱出、フランス皇帝へと復位します
これに慌てた列強は第七次対仏大同盟を結成、ナポレオンに対抗しようとしました
ナポレオンは機先を制すべく同盟の迎撃態勢が整う前に戦いを挑み、緒戦に勝利を収めました
しかし最後の決戦となったワーテルローの戦いではイギリス・オランダ連合軍を崩し切れず、プロイセンの援軍が到着したこともあってナポレオン軍は崩壊、敗走を余儀なくされました
ナポレオンは戦後捕らえられセントヘレナ島へと流罪となり、皇帝復位からの「百日天下」は幕を閉じたのでした
本日はナポレオン戦争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・エミール・ルートヴィヒ、北澤真木訳『ナポレオン 英雄の野望と苦悩』講談社、2004年
・鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』講談社、2009年
・上垣豊『ナポレオン 英雄か独裁者か』山川出版社、2013年
176
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/18(水) 11:57:55 ID:9ctdsE8I
まるで世界史の資料集みたいだあ・・・(直喩)
177
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/19(木) 00:29:52 ID:y/wHmaEw
6月18日はメキシコ皇帝マクシミリアン1世が処刑された日です
メキシコは1861年にフランス皇帝ナポレオン3世にるメキシコ出兵により、フランスの占領下に置かれました
そして1864年、ナポレオン3世はオーストリアとの関係を強化するため、オーストリア=ハプスブルク家のマクシミリアンを皇帝に即位のさせ、傀儡政権を樹立します
しかしメキシコ国民はこの傀儡政権を認めず、各地で反仏ゲリラ闘争が展開されました
マクシミリアンは自由主義的・民主主義的改革を進めますが国民の支持は得られず、メキシコの内戦はさらに激しさを増していきます
さらにアメリカがメキシコを支持しフランスに圧力をかけたため、ナポレオン3世はマクシミリアンを見捨ててメキシコからの撤兵を選択しました
後ろ盾を失ったマクシミリアンは戦線を支え切れず、民主主義勢力の主導者フアレスに敗れ、処刑されます
こうしてメキシコは主権を取り戻すこととなったのでした
本日はメキシコ傀儡政権の打倒日です、おめでとうございます
参考文献
・増田義郎・山田睦男『世界各国史25 ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
・菊池良生『皇帝銃殺 ハプスブルクの悲劇 メキシコ皇帝マクシミリアン1世伝』河出書房新社、2014年
178
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/19(木) 11:07:07 ID:hGvE72m6
6月19日は記録に残る史上最古の野球の試合が行われた日です。
1846年、ニュージャージー州ホーボーゲンのエリシアン球場で、野球の父と謳われるアレクサンダー・カートライト率いるニッカーボッカー・クラブが
ニューヨーク・ナインというクラブとの試合を行いました。
この試合はカートライトが主審を務め、23-11でニューヨークナインが勝利しました。
当時はまだグローブというものは存在せず、素手で守備に就いていました。
また、バットとボールは現在のものより一回り大きいものであったようです。
本日は野球の誕生日です。おめでとうございます。
179
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/19(木) 22:13:57 ID:kw0IcymQ
6月20日は1956年から1976年までスペイン空軍に就役した単発低翼単葉、タンデム複座の軍用練習機、AISA I-115の初飛行日です
おめでとうございます。
180
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/19(木) 22:45:21 ID:96lpelX.
あんまりレスつかないけど、このスレってかなり凄いと思うの
181
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/19(木) 22:53:44 ID:VovAiFE2
>>178
ほへー
ペリー来航前にはもうやきう民がいたんか
182
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/20(金) 00:23:16 ID:Xzuf6KFk
6月20日は太平洋戦争、マリアナ沖海戦が終結した日です
1942年6月に行われ、
>>155
でも取り上げたミッドウェー海戦で正規空母4隻を一挙に喪失した日本海軍は、同年10月の南太平洋海戦で米機動部隊を破り、太平洋方面の米稼働空母を一時的に0隻に追い込みました
その後日本海軍は改装空母を順次就役させ航空戦力の再建に努めましたが、い号作戦やろ号作戦などでの敗北により消耗します
それに対しアメリカは次々と新造空母を投入、航空戦力の格差は開いていく一方でした
この状況において、日本は乾坤一擲の決戦に挑みます
それが1944年6月19日に始まるマリアナ沖海戦でした
日本海軍は新鋭装甲空母「大鳳」を投入し、小沢治三郎中将発案によるアウトレンジ戦法を仕掛けます
しかしこの作戦も日本航空機搭乗員の技量不足、米軍のレーダー・航空管制による防空網に阻まれ、「マリアナの七面鳥撃ち」と称される壊滅的な打撃を受けます
19日の間に「翔鶴」「大鳳」を失い、20日には「飛鷹」も沈没、残る空母も損傷を受け、これまでの海戦で一発の被弾も無かった「瑞鶴」も被弾し、決定的な敗北を喫したのでした
本日は大日本帝国海軍機動部隊の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・丸編集部『写真太平洋戦争7 マリアナ沖海戦・比島沖海戦(1)』光人社、1995年
・川崎まなぶ『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員激闘の記録』大日本絵画、2007年
・「決定版太平洋戦争6 絶対国防圏の攻防」学研パブリッシング、2010年
183
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/21(土) 00:30:10 ID:r0UypayY
6月21日は本能寺の変が起こった日です
1582年までに織田信長は畿内周辺を支配下に収め、さらに武田氏を滅ぼし、北陸の上杉・中国の毛利・四国の長宗我部・九州の島津の討伐を進めていました
信長はこれらの地域に重臣を派遣し、上杉には柴田勝家、毛利には羽柴秀吉、長宗我部には織田信孝・丹羽長秀をあてました
信長自身は羽柴秀吉の援軍要請を受け毛利攻めに向かい、明智光秀にも秀吉への援軍を命じます
しかし光秀は毛利攻めには向かわず信長が滞在していた本能寺を襲撃、信長を討ち取るのでした
この光秀謀反の動機としては、これまでに様々な説が提唱されています
光秀の野望説、怨恨説、四国征伐回避説、足利義昭・羽柴秀吉・朝廷などによる黒幕説、信長の野望阻止説...
本能寺の変は謎が多く、真相が解明されるのは長い年月が必要でしょうが、いずれ解明されることを期待したいですね
ともあれ、この事件により明智光秀が織田信長に謀反を起こし、一時的に畿内を掌握したことは確かです
本日は明智光秀「三日天下」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木真哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』洋泉社、2006年
・「新・歴史群像シリーズ9 本能寺の変 時代が一変した戦国最大の事変」学研マーケティング、2007年
・明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社、2013年
184
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/22(日) 00:42:10 ID:KYp0/GNw
6月22日はシセクの戦いが行われた日です
16世紀後半、オスマン帝国は黒海沿岸地域の支配権を巡り、ポーランドとの対立を深めていました
当時のポーランドはトランシルヴァニア公バートリが国王となり、ハンガリーやロシアにまで勢力を広げる大国でした
しかしこのバートリが急死し、その王位がオスマン帝国が推すスウェーデン・ヴァーサ家に継承されたため、ポーランド王位を狙っていたハプスブルク家との対立が表面化します
そして1593年6月22日、オスマン帝国ボスニア総督ハサン=パシャがハプスブルクとの国境地帯に進軍し、シセクの地にてハプスブルク麾下のクロアチア軍に大敗を喫します
この戦いでオスマン帝国はスルタンの縁戚、高級官僚、後宮の庇護を受ける人々に犠牲者を出したためハプスブルク家に対する態度が一層硬化し、オスマン帝国はハプスブルク家との全面戦争に発展することとなったのでした
本日はオスマン帝国・ハプスブルク「十五年戦争」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
185
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/23(月) 00:24:50 ID:w6pJuQK2
6月23日はナポレオンがロシア攻撃に出発した日です
>>164
より少し以前のこと...ナポレオンは1806年、アウステルリッツの三帝会戦、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利しヨーロッパの大陸領をほぼ制圧しました
さらに彼は最大の強敵イギリスに対抗するため大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布し、ヨーロッパ諸国とイギリスとの通商を禁止させました
しかしこの政策はイギリスよりもむしろ他のヨーロッパ諸国にとって打撃となり、各地でナポレオンに対する抵抗運動が起こるようになります
イギリスと並ぶ大国ロシアも例外ではなく、1810年には大陸封鎖令を破りイギリスとの通商を再開しました
ナポレオンはロシアを屈服させるべく、1812年6月23日、60万人もの大軍を率いてロシアへと侵攻します
しかしロシア、そしてその中心都市モスクワはこれまでにキプチャク=ハン国、クリミア=ハン国、ポーランド王国など様々な勢力に侵攻・攻略されるも焦土戦術などを駆使し奪還・撃退してきた都市...ナポレオンも苦戦することになるのです
本日はナポレオンのロシア遠征の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ナイジェル・ニコルソン、白須英子訳『ナポレオン1812年』中央公論社、1990年
・田中陽児他『世界歴史大系ロシア史2 18-19世紀』山川出版社、1994年
・ローラン・ジョフラン、渡辺格訳『ナポレオンの戦役』中央公論新社、2011年
186
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/24(火) 00:43:44 ID:3/ZDDCMM
6月24日はイタリア統一戦争、ソルフェリーノの戦いが行われた日です
イタリアではカルボナリ、青年イタリアの蜂起が失敗した後、サルデーニャ王国によるイタリア統一運動(リソルジメント)が進められました
サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と首相カヴールはフランス皇帝ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、当時北イタリアを勢力下としていたオーストリアに対抗します
こうしてサルデーニャ・フランス連合軍とオーストリア軍が衝突したイタリア統一戦争が始まり、6月24日のソルフェリーノの戦いで連合軍が決定的な勝利を収めました
しかしこの戦いは連合軍は17,000人、オーストリア軍は22,000人を失うという凄惨な結果となり、この惨状を目撃したデュナンは後に赤十字社を設立することになるのです
本日は赤十字運動の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・吹浦忠正『赤十字とアンリ・デュナン 戦争とヒューマニティの相剋』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』講談社、2012年
187
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/25(水) 00:32:38 ID:XOBq7zLw
6月25日はフォントノワの戦いが行われた日です
フランク王国はカール1世(シャルルマーニュ)の時代に大帝国を築き、800年にはローマ帝国の後継国家となりました
フランク王国では代々分割相続が行われてきましたが、カールの息子は多くが早逝し、長子のルートヴィヒが単独相続しました
このルートヴィヒ1世敬虔帝には3人の男子がいましたが、彼はこのうち長子ロタールを共同皇帝とし、残る2人ルートヴィヒ・ピピンを副帝とすることで分割相続との共存を図ります
しかし新たに4男シャルルが誕生するとルートヴィヒは彼にも領土を与えようとし、先の3人の息子は反発し、帝国は混乱状態に陥りました
この争いはルートヴィヒの死後さらに激化し、皇帝に即位したロタールに対しルートヴィヒ・シャルルが反乱を起こしました(ピピンはすでに急死)
こうして行われた戦いが841年のフォントノワの戦いで、この戦いにルートヴィヒ・シャルル軍が勝利したことで帝国の分裂は決定的となり、それぞれが独自の道を歩むこととなったのです
本日は事実上のフランク王国分裂の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統”の継承とイメージの変容』青木書店、2006年
188
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/25(水) 07:48:18 ID://bqy9nc
今日はザックジャパンの命日です
お悔やみ申し上げます
189
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/26(木) 00:55:27 ID:GrZhlZlo
6月26日はドイツの都市ハーメルンから子ども達が失踪した日です
1284年、ハーメルンにやってきた鼠捕りの男が笛の音色によって鼠を駆除したものの、町人が報酬支払いを渋ったため、6月26日に再びやってきて笛の音色で子ども達を連れ去る...という伝承が残されています
この伝承の元となった出来事として、中世ヨーロッパの様々な運動が挙げられます
当時盛んだった巡礼や異教徒に対する軍事運動、少年十字軍などです
その中でも特に有力とされるのが東方植民で、東欧の植民地で自身の村を創建するため、子ども達が自らハーメルンを去ったというものです
実際東方植民地においてハーメルンに由来する地名が存在しているのです
馴染み深い伝承を歴史上の出来事と結びつけて考えることができるのは面白いですね
本日は「ハーメルンの笛吹き男」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』筑摩書房、1988年
・山内進『北の十字軍』講談社、1997年
・伊東孝之他『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998年
190
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/27(金) 00:25:48 ID:rsX1IXR2
6月27日はデッティンゲンの戦いが行われた日です
>>154
でも取り上げたオーストリア継承戦争ですが、この戦争におけるイギリスは第二次英仏百年戦争を戦っていたこともあり、同じくフランスと対立するオーストリアを支援しました
当初イギリスは首相ウォルポールの平和外交政策もあって直接参戦することはありませんでしたが、その中立姿勢が国際的非難を浴び世論は参戦へと傾いていきました
ウォルポールは1742年に辞職し、さらに翌年には国王ジョージ2世自らが軍を率いて大陸に上陸します
このイギリス軍がオーストリア・ハノーファー軍とともにフランス軍と激突したのが1743年6月27日のデッティンゲンの戦いです
この戦いで連合軍は辛うじて勝利を収めますが、その中で軍の先頭に立ち、軍旗を掲げて鼓舞したのが国王ジョージ2世でした
そしてこの戦いはイギリス国王が戦闘に参加した最後の戦いにもなったのでした
本日はイギリス国王参陣の最終日です、お疲れ様でした
参考文献
・今井宏編『世界歴史大系イギリス史2 近世』山川出版社、1990年
・ジョルジュ・ミノワ、手塚リリ子他訳『ジョージ王朝時代のイギリス』白水社、2004年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
191
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/28(土) 00:23:29 ID:YSTQDarA
6月28日はサラエボ事件が起こった日です
>>97
で見たように18世紀以降、バルカン半島におけるオスマン帝国勢力は衰退していき、これに乗じて
>>163
で取り上げたオーストリア=ハンガリー二重帝国とロシア帝国が勢力争いを繰り広げるようになりました
その一方でバルカン半島諸民族もオスマン帝国からの独立運動を進め、二度に渡るバルカン戦争を通じてセルビア王国が主導権を握りつつありました
こうしてバルカン半島はオーストリアのパン=ゲルマン主義、ロシアのパン=スラヴ主義、そしてセルビアの大セルビア主義がせめぎ合い、諸民族の独立運動が激化する「ヨーロッパの火薬庫」となったのです
転機が訪れたのは1908年の青年トルコ革命でした
このオスマン帝国の混乱に乗じてオーストリアがセルビア人が多く居住するボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、これはセルビア人の統一国家建国を目指す大セルビア主義を刺激するには十分すぎました
そしてちょうど100年前の今日にあたる1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ=フェルディナントがセルビア人の青年に暗殺され、オーストリアはセルビアに対し宣戦布告することとなったのでした
本日は第一次世界大戦の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・柴宣弘『世界各国史18 バルカン史』山川出版社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
192
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/29(日) 00:43:53 ID:MFSDvBTc
6月29日は1958年FIFAワールドカップ・スウェーデン大会の決勝が行われた日です
第6回となるこのワールドカップでは、ヘルムート・ラーン擁する前回優勝国西ドイツ、マジック・マジャールが崩壊したものの予選を突破してきた前回準優勝国ハンガリー、史上最高のGKとも称されるレフ・ヤシン率いるソ連、一大会13得点という現在も破られていない記録を持つジュスト・フォンテーヌ擁するフランスなどが大会を盛り上げました
その中で決勝へと駒を進めたのが、グンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムのトリオ、通称「グレ・ノ・リ」を中核とする開催国スウェーデン
もう一国が、天才ドリブラーのガリンシャ、フリーキックの名手ディディ、そして弱冠17歳のペレを擁するブラジルでした
この2国が激突した決勝ではスウェーデンがリードホルムのゴールで先制するも、ババがすぐさま2点を決め逆転します
さらにペレが相手DFを浮き球でかわして置き去りにし、その落ち際をボレーで叩き込むというスーパーゴールを決めたのです
ペレ本人もベストゴールの1つに挙げるこのゴールに観客は酔いしれ、新たなキングに勢いづけられたブラジルは5-2でスウェーデン
を撃破し、ブラジルにとっての初優勝がもたらされたのでした
本日は「キング・ペレ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドソン・ペレ、鈴木武士訳『サッカーわが人生 ペレ自伝』講談社、1977年
・ペレ、伊達淳訳『ペレ自伝』白水社、2008年
193
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/30(月) 00:45:43 ID:tElnRBGo
6月30日はイングランド議会がオラニエ公ウィレムに国王就任を要請した日です
イングランドでは17世紀、清教徒革命とそれに続く共和制を経て、王政復古がなされていました
この時即位したのがカトリックのチャールズ2世で、彼は議会・法を無視した絶対王政を行ったことで支持を失い、イングランド国民の反カトリック感情はますます高まっていきました
チャールズの後を継いだジェームズ2世はさらなるカトリック優遇政策を強行し、議会との対立は決定的となります
さらにジェームズに嫡子となるジェームズ王子が誕生したため、カトリック王が続くことを危惧した議会はジェームズと対決するに至りました
ここで白羽の矢が立ったのがプロテスタントであるオラニエ公ウィレムで、彼はジェームズ2世の娘メアリを妻としていました
1688年6月30日、イングランド議会からの国王就任要請を受け取ったウィレムはこれを受諾し、ジェームズ2世との対決に臨むこととなったのでした
本日は名誉革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・今井宏『世界歴史大系イギリス史2 近世』山川出版社、1990年
・友清理氏『イギリス革命史(上) オランダ戦争とオレンジ公ウィリアム』研究社、2004年
・川北稔『イギリス近代史講義』講談社、2010年
194
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/30(月) 00:59:58 ID:tVP7rCoA
>>193
スチュアート朝とかいう汚点だらけのイギリス史のひときわ黒い汚点
195
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/06/30(月) 01:03:22 ID:tElnRBGo
>>194
やることなすこと裏目に出た印象ですよね...
まあ本人達が無茶苦茶やってるから残当なのかな
196
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/01(火) 00:54:26 ID:aYKdGEBI
7月1日はルブリン合同が成立した日です
ポーランドでは
>>103
で取り上げたカジミェシュ3世が作り上げた国家を土台に、1386年、ヤゲウォ朝が興ります
その王はポーランド王とリトアニア大公を兼ね、ポーランドとリトアニアは同君連合となりました
このポーランド・リトアニア連合は約200年間存続し、中世ヨーロッパを代表する一大強国として繁栄するのです
ことポーランド・リトアニア連合が制度的な同君連合を形成したのが、1569年7月1日のルブリン合同です
この同君連合国家はヤゲウォ朝時代の繁栄を受け継ぎ、国王を選挙で選出する選挙王制を採用、貴族支配による民主主義が成立し、「黄金の自由」と称される繁栄を享受しました
対外的にも積極的な拡大政策を行い、ロシアを破ってモスクワを占領するなど強勢ぶりを発揮し、ポーランド、リトアニア、リヴォニア、プロイセン、ウクライナ、ベラルーシなどを含む領域を実現しました
>>90
で見たように、この大国家の後半は周囲の侵略を受け、ポーランドは列強の勢力争いの犠牲となった印象を受けがちですが、この16,17世紀のポーランドは紛れもない強国だったのです
本日はヨーロッパ史上最大級の国家、ポーランド・リトアニア共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ステファン・キェニェーヴィチ編、水島孝生・加藤和一夫訳『ポーランド史』恒文社、1996年
・伊東孝之他編『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998年
・アンドレス・カセカンプ、小森宏美・重松尚訳『バルト三国の歴史 エストニア・ラトビア・リトアニア 石器時代から現代まで』明石書店、2014年
197
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/02(水) 00:28:26 ID:hNx6siF6
7月2日はイングランド内戦、マーストン・ムーアの戦いが行われた日です
>>193
で取り上げた名誉革命より少し前のこと...処女王エリザベス1世の死によってデューダー朝は断絶し、スチュアート朝が開かれました
国王に即位したジェームズ1世は王権神授説に基づく絶対王政を展開し、議会と対立しました
この方針は息子のチャールズ1世の代にも引き継がれ、これに反発した議会は「権利の請願」を提出しますが、チャールズはこれを無視、さらなる専制政治を進めます
ここに至ってイングランドは国王を支持する王党派と議会政治を目指す議会派に分かれ清教徒革命が勃発、イングランドは内戦へと突入します
当初内戦は国王軍優勢で展開し、1642年10月23日のエッジヒルの戦い、1643年6月30日のアドウォルトン・ムーアの戦いで議会派を破りました
これに危機感を覚えた議会派のオリバー・クロムウェルは鉄騎隊を編成、1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦いに勝利します
この戦いでイングランド北部での戦いが優勢へと傾いた議会派は次第に国王軍を追い詰め、王政打倒へと至るのでした
本日はイングランド内戦戦局転換の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』清水書院、1984年
・清水雅夫『王冠のないイギリス王オリバー・クロムウェル ピューリタン革命史』リーベル出版、2007年
・岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』山川出版社、2010年
198
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/03(木) 01:11:50 ID:eLk/5wXw
7月3日は普墺戦争、ケーニヒグレーツの戦いが行われた日です
>>82
で取り上げたフランクフルト国民議会の後、ドイツ統一はプロイセンが進めようとしますが、ドイツ連邦の盟主オーストリアはこれに反発し、両国の対立は深まっていきました
これに加えシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争後の処遇を巡っても両国は対立、プロイセン軍がホルシュタインに侵入したことで普墺戦争が勃発しました
プロイセンは宰相ビスマルの鉄血政策によって富国強兵が進められ、オーストリアを凌駕する軍備を整えていました
さらに参謀総長モルトケはプロイセンの優れた電信設備・鉄道網を活かして分進合撃するという作戦計画を立て、他国の介入を避けるため短期決戦を構想します
そして1866年7月3日、分散して進撃したプロイセン軍はケーニヒグレーツの戦場で合流し次々とオーストリア軍を攻撃、プロイセン軍による包囲攻撃が完成し、オーストリア軍は壊滅しました
まさにモルトケの分進合撃戦術による勝利だったのです
この戦いにより普墺戦争におけるプロイセンの優位は決定的となりわずか7週間で決着、モルトケによる短期決戦の構想も実現したのです
この戦争後ドイツ連邦は解消、オーストリアはドイツ統一から除外され、プロイセンによるドイツ統一がさらに進むこととなるのです
一方オーストリアは
>>163
で見たように多民族国家としての道を歩むこととなりました
本日はプロイセン参謀総長モルトケの傑作の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・大竹武夫『参謀総長モルトケ ドイツ参謀本部の完成者』マネジメント社、1984年
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1996年
・渡部昇一『ドイツ参謀本部 その栄光と終焉』祥伝社、2009年
199
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/04(金) 00:39:56 ID:mwW5lFdI
7月4日はヒッティンの戦いが行われた日です
>>160
で見たように十字軍は1099年に聖地イェルサレムを占領し、イェルサレム王国を建国しました
イスラーム勢力もされるがままとなっていたわけではなく、12世紀半ばからザンギーによる組織的な反攻が始まりました
ザンギーは十字軍国家エデッサ伯領に侵攻、事実上滅亡させ、これが第2回十字軍のきっかけとなります
ザンギーはその最中暗殺されるも、その後継者ヌールッディーンが十字軍を撃退、さらにダマスカスを占領しイェルサレム王国を圧迫しました
このヌールッディーンの征服事業を引き継いだのがイスラームの英雄サラーフッディーン(サラディン)でした
彼はエジプトからシリアに至るイスラーム勢力を統合、イェルサレム王国に対する本格的な侵攻を開始します
そして1187年7月4日、ヒッティンの戦いでイェルサレム王国の主力を壊滅させ、ついにイェルサレム奪還を果たしたのでした
本日はイェルサレム王国に対する決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・アミン・マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房、2001年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
・佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン 十字軍と戦った男』講談社、2011年
200
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/05(土) 00:47:21 ID:9f1/WDKI
7月5日は小田原城が開城した日です(旧暦)
本能寺の変の後、羽柴(豊臣)秀吉は山崎の戦いで明智光秀を、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、小牧・長久手の戦いで徳川家康と講和しました
家康は後に臣従し、中央での勢力争いを制した秀吉は各地方勢力の討伐に乗り出します
中国の毛利輝元はいち早く秀吉に臣従し、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、富山の佐々成政、九州の島津義久も秀吉に降伏、残るは関東の北条氏直と東北の伊達政宗のみとなりました
1590年春、秀吉は全国の諸将を動員し約22万人とされる大軍勢で海陸から北条領へと侵攻しました
一方北条氏は八王子城や山中城、韮山城などの支城網を整備し、さらに上杉謙信や武田信玄をも撃退した小田原城に籠城、持久戦に臨みました
ところが秀吉軍は各地で北条の支城を次々と攻略し、忍城を除く全支城が陥落します
残る小田原城に対し、秀吉は石垣山城を築いて包囲します
この間に東北の伊達政宗が秀吉の陣を訪れて臣従し、残る敵は北条氏のみとなりました
その北条氏も1590年7月5日についに降伏、五代に渡って関東に覇権を唱えた戦国大名としての北条氏は滅亡したのでした
本日は豊臣秀吉の天下統一の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』中央公論新社、2005年
・黒田基樹『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』吉川弘文館、2013年
・森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』洋泉社、2013年
201
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/05(土) 13:17:23 ID:M2NIthe2
今日7月5日はツール・ド・フランスの開幕日です。
今年はイギリス・リーズからスタートします。
日本ではPM6:50よりJSPORTS3で中継が始まります。
選手の皆さん頑張ってください。
202
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/05(土) 13:24:14 ID:87rhB2/w
このスレ普通に為になるからすき
203
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/06(日) 00:18:09 ID:0rZsrgwg
7月5日は零式艦上戦闘機が初試験飛行を行った日です
太平洋戦争の開戦前、帝国海軍には九六式艦上戦闘機が存在しましたが、海軍はこれが間もなく時代遅れになることを察知し、新戦闘機の開発を命じました
新型機の開発主任となったのは三菱の堀越二郎で、海軍は彼に速度・上昇力・航続力・火力において過大ともいえる性能を要求しました
堀越はこの難題に徹底した軽量化・操縦系統の剛性低下・栄エンジンの採用によって応え、まさに全てにおいて優れた万能戦闘機を実現したのです
1939年7月6日、この零式艦上戦闘機は初試験飛行を行い、初めてその勇姿が大空に舞いました
この日は現在ゼロ戦の日となっています
翌1940年7月には正式採用され、同年9月の重慶上空にて初陣を果たすと太平洋戦争にも参加し、真珠湾攻撃、フィリピン上空戦、ミッドウェー海戦等で活躍します
米国の反撃が始まったガダルカナル攻防戦以降は、弱点である防弾性の低さもあって劣勢となり、マリアナ沖海戦では米軍F6Fに完敗、レイテ沖海戦では特別攻撃隊として突撃、そして本土防空戦でB29などと死闘を繰り広げるのでした
しかし「大空のサムライ」坂井三郎、「ラバウルの魔王」西澤廣義、坂井・西澤とともに「台南空の三羽烏」と称された太田敏夫、「ラバウルの貴公子」笹井醇一、「零戦虎徹」岩本徹三、「菅野デストロイヤー」菅野直など名だたるエースパイロットに愛された零式艦上戦闘機は紛れもない名機といえるでしょう
本日は「零戦」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「歴史人別冊 零戦の真実」KKベストセラーズ、2012年
・「月刊丸2014年2月号 大空の攻防戦」光人社、2014年
・「歴史街道2014年8月号 西澤廣義とラバウル航空隊」PHP研究所、2014年
204
:
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:2014/07/07(月) 00:21:46 ID:T9zAIJws
7月7日はジャンヌ=ダルクの異端裁判判決が破棄された日です
>>96
で見たように、ジャンヌ=ダルクの登場によってフランスは百年戦争の劣勢を挽回し、最終的に勝利を収めましたが、その途上でジャンヌはイングランドによって捕虜となっていました
ジャンヌは正当な王位継承者ではないシャルル7世の即位を支援したためイングランドから激しく糾弾されており、さらに異端裁判を主導したフランス人司教ピエール=コーションがイングランド寄りだったため、裁判はイングランドの思惑通りに進行します
裁判の内容も異例に異例を重ねたもので、ジャンヌは異端宣告を受け、後に処刑されてしまいます
百年戦争がフランスの勝利で終わるとこの異端裁判の見直しがなされ、1455年11月には異端無効化裁判が開かれました
この裁判で先の異端裁判が教会法に照らして不当だったことが証明され、1456年7月7日、ジャンヌの無罪が宣告されました
以後ジャンヌは名実ともにフランスの象徴として人々に崇拝され、1909年4月18日に列福、1920年5月16日に列聖されることになるのです
本日はジャンヌ=ダルク復権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高山一彦『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、2002年
・レジーヌ・ペルヌー、塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』創元社、2002年
・コレット・ポーヌ、阿河雄二郎他訳『幻想のジャンヌ・ダルク 中世の想像力と社会』昭和堂、2014年
205
:
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:2014/07/08(火) 00:29:46 ID:CItqeJOA
7月8日は大北方戦争、ポルタヴァの戦いが行われた日です
>>149
、
>>159
で見たように、スウェーデンはグスタフ=アドルフの三十年戦争介入によってヨーロッパの大国に成長しました
このバルト帝国をさらに拡大しようとしたのが「北方のアレクサンドロス」カール12世で、これに対し周辺諸国は反スウェーデン同盟である北方同盟を結成して対抗します
こうして始まった大北方戦争ですか、カール12世の攻勢は凄まじく、ザクセン選帝侯国、ポーランド・リトアニア共和国(
>>196
参照)、デンマーク=ノルウェーを次々と撃破し、さらに1700年のナルヴァの戦いでロシア帝国に壊滅的な打撃を与えます
しかしカール12世はモスクワへの進軍を避け、ポーランド方面の平定に動きます
この間にロシア皇帝ピョートル1世は国内の近代化を進め、軍の再建に着手します
カールがロシアへの侵攻を開始したのは1707年になりますが、ピョートルはこれに焦土作戦で対抗、スウェーデン軍を撃退しました
そして1709年7月8日、ウクライナへ向かいポルタヴァを包囲していたスウェーデン軍をロシア軍が逆包囲、スウェーデン軍は壊滅し大北方戦争はロシア優位に転換したのでした
本日は大北方戦争における決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・土肥恒之『ピョートル大帝とその時代 サンクト・ペテルブルク誕生』中央公論社、1992年
・百瀬宏他『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『物語スウェーデン史 バルト大国を彩った国王、女王たち』新評論、2003年
206
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/09(水) 00:37:47 ID:nTz.F9WI
7月9日は継続戦争、タリ=イハンタラの戦いが終結した日です
>>205
で見たように、大北方戦争の勝利でロシアは勝利し、バルト地域における優位を確立しました
さらに2次にわたるロシア・スウェーデン戦争によってスウェーデンからフィンランドを奪い、併合します
ところがフィンランドは1917年のロシア革命に乗じて独立を宣言、ロシア帝国に代わったソ連はフィンランド再併合を目論みます
1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると11月、ソ連はフィンランドへと侵攻しました
これが冬戦争で、フィンランドはマンネルハイム元帥指揮の下頑強に抵抗し、ソ連軍の弱体もあって各地でソ連軍に勝利を収めました
この時活躍したのがスナイパーとして有名なシモ・ヘイヘです
ソ連はフィンランドと1940年3月に講和しますが、翌1941年6月に再び戦争か勃発、これが継続戦争です
フィンランドは攻勢をかけカレリア地方を奪回、ここに防衛線を築きソ連軍を阻みました
フィンランド軍はソ連の大軍に押しこまれ次第に後退していきますが、ドイツからの援軍・支援物資が到着し、1944年7月9日、タリ=イハンタラの戦いに勝利します
以後ソ連の攻勢は鈍り9月の講和へと向かうのでした
本日は継続戦争の決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・百瀬宏『世界現代史28 北欧現代史』山川出版社、1980年
・武田龍夫『物語北欧の歴史 モデル国家の生成』中央公論社、1993年
・デイビッド・カービー、百瀬宏・石野裕子監修『フィンランドの歴史』明石書店、2008年
207
:
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:2014/07/10(木) 00:19:46 ID:CbP7JC9A
7月9日は乙巳の変が起こった日です
厩戸皇子(聖徳太子)の死後、蘇我氏の勢力はますます大きくなり、蘇我馬子の死後も蝦夷が大臣を引き継ぎ、その権勢は天皇家をも凌駕するほどとなりました
蝦夷は推古天皇が後継者を定めることなく崩御したため、田村皇子の即位を強行します
これが舒明天皇で、舒明天皇の崩御後は皇后が即位し(皇極天皇)、蝦夷の専横は続きます
これは蝦夷の息子入鹿の代でも続き、入鹿は皇極天皇の次期天皇に古人大兄皇子を擁立するため、対抗勢力である山背大兄王一族を滅ぼしてしまいます
この蘇我氏の専横に対し、中臣鎌子(鎌足)と中大兄皇子が中心となって蘇我氏打倒のクーデターを起こしました
これが乙巳の変で、蘇我入鹿は殺害され、蝦夷もこれを知ると邸宅に火を放ち自殺します
蘇我氏本宗家はここで滅亡し、中臣鎌子と中大兄皇子は政治改革を進めていくのでした
本日は大化の改新の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・遠山美都男『大化改新 六四五年六月の宮廷革命』中央公論社、1993年
・中村修也『偽りの大化改新』講談社、2006年
・市大樹『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』中央公論新社、2012年
208
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/11(金) 00:17:14 ID:e20q1x2A
7月11日はコルトレイクの戦いが行われた日です
870年、フランドル地方はメルセン条約によって形式上西フランク王国の封建家臣となりましたが、東西フランク王国、そしてフランス王国・神聖ローマ帝国の間に位置する緩衝地帯として独立性を維持していました
11世紀頃からは毛織物産業の中心地として大いに繁栄し、ヨーロッパ経済の中心地としての位置を占めることとなります
政治的にもフランドル伯はフランス王権に匹敵する影響力を持ち、また第4回十字軍の際に建国されたラテン帝国の初代皇帝にはフランドル伯ボードゥアンが選ばれたのです
このフランドル地方に目をつけたのが、フランス王権の確立を図るフィリップ4世でした
フィリップは1297年、フランドル地方の併合を宣言しフランドル伯ギーを捕え、ジャック=ド=シャティオンをフランドル総督とします
しかしジャックの支配は過酷で、これに反発したフランドルの領民は都市連合軍を結成、1302年7月11日、フランス軍を破りフランドル地方の独立を守ったのでした
本日は中世における騎士軍に対する市民歩兵軍勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄他『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・アンドレ・ジョレス、瀬原義生他訳『地域から見たヨーロッパ中世 中世ベルギーの都市・商業・心性』ミネルヴァ書房、2004年
209
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/11(金) 22:31:56 ID:UrF99frU
>>208
フランダースにそんな歴史があったとは
210
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/11(金) 23:02:24 ID:e20q1x2A
>>209
フランドル地方はけっこう中世史に出てきて面白いね
211
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/12(土) 00:41:58 ID:lk6tyLS6
7月12日はライン同盟が成立した日です
1805年12月に行われたアウステルリッツの三帝会戦でオーストリア帝国・ロシア帝国を破ったフランス帝国皇帝ナポレオンは、プレスブルクの和約によりオーストリアを屈服させます
オーストリアは領土の割譲を余儀なくされ、神聖ローマ帝国を構成する大邦であるバイエルン選帝侯国、ヴュルテンベルク選帝侯国、バーデン選帝侯国がナポレオンの影響下に置かれました
ナポレオンはこれを期にドイツに圧力をかけ、ドイツ諸侯は名目上の存在と成り果てていた神聖ローマ帝国から離脱し、フランス帝国と同盟します
ナポレオンは先の三選帝侯国を中心とする西南ドイツ諸邦を束ね、自信を盟主とするライン同盟を結成しました
ライン同盟はその後加盟国を増やし、ほぼ全てのドイツ諸邦が加盟するドイツ地域の一大勢力となるのです
本日は神聖ローマ帝国の実質的な命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・本池立『ナポレオン 革命と戦争』世界書院、1993年
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・ジェフリー・エリス、杉本淑彦・中山俊訳『ナポレオン帝国』岩波書店、2008年
212
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/13(日) 00:03:37 ID:69JQEOzQ
7月13日は第一回ワールドカップ・ウルグアイ大会が開会した日です
>>119
で見たように、FIFAはサッカーの世界選手権を開催するために創設されました
その願いは第三代FIFA会長、ジュール・リメによって実現されました
開催国に選ばれたのはウルグアイで、ウルグアイには建国100周年を記念した近代的なスタジアムが存在し、またオリンピックサッカーにおいて1924・28年に連覇を達成、参加国の受け入れ態勢も十分と、開催国として申し分ありませんでした
まず近隣諸国であるブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ペルー、ボリビアが参加を表明、北中米のメキシコ、アメリカも参加しました
ヨーロッパ諸国は当初船での長旅などを理由に不参加を表明していましたが、リメの呼びかけによりフランス、ユーゴスラビア、ベルギー、ルーマニアが参加することとなりました
そして1930年7月13日、第一回ワールドカップが開催されました
記念すべき大会初ゴールを決めたのはフランス代表のルシアン・ローランでした
決勝に駒を進めたのは開催国ウルグアイと南米王者アルゼンチンで、これは4-2でウルグアイが勝利、ウルグアイは熱狂に包まれました
得点王には8得点でアルゼンチンのギジェルモ・スタビレが選ばれ、大会は大盛況のうちに終えたのでした
現在開催中の2014年ワールドカップはいよいよ明日7月14日のドイツ−アルゼンチンが決勝、好試合に期待したいですね
本日はFIFAワールドカップの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上忠恕・後藤信男『ビバ!ウルグァイ ワールドカップを制した人口300万人の小国』STEP、2003年
・千田善『ワールドカップの世界史』みすず書房、2006年
・FIFA「1930 FIFA World Cup Uruguay」〈
http://www.fifa.com/tournaments/archive/worldcup/uruguay1930/index.html
〉(2014年7月12日参照)
213
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/13(日) 08:39:00 ID:BIN/7usE
本日は柏原竜二さん(富士通)の誕生日です。
おめでとうございます
214
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/13(日) 09:34:15 ID:uPqTz8hw
柏ワ恋聴!
215
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/14(月) 01:53:31 ID:j96TnUgw
7月14はバスティーユ襲撃が起こった日です
18世紀末、フランスではルイ14世の度重なる対外戦争やルイ16世まで続く放漫財政により、多額の赤字となっていました
この赤字によって第三身分である平民に大きな負担を強いることとなりました
ルイ16世はテュルゴーを財務長官に任命、第一・第二身分である聖職者・貴族に課税しようとしますが、猛反発にあって失敗、辞任します
次いで財務長官となったネッケルは税制改革ではなく構造改革による財政改善を図りますが、これも特権階級の反発によって頓挫しました
ここに至りルイ16世は三部会を開催しますが、多数を占める第三身分の議決権に対し特権階級が反発、議論は平行線を辿ります
これに失望した第三身分は独自に国民議会を発足させ、球戯場の誓いによって結束を固めました
もちろんこれにルイ16世や特権階級は反発し、フランス国内は緊張が高まります
そしてルイ16世が国民に人気のあったネッケルを罷免すると民衆は怒りを爆発させ、1789年7月14日、バスティーユ牢獄を襲撃しフランスは激動の時代へと突入するのでした
本日はフランス革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄他『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀半ば』山川出版社、1996年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
・柴田三千雄、福井憲彦・近藤和彦編『フランス革命はなぜ起こったか 革命史再考』山川出版社、2012年
216
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/14(月) 23:13:12 ID:ddGlQutw
ということはアンドレの命日…と思って調べたら昨日やった
217
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/15(火) 00:12:04 ID:INd.GfNA
7月15日はタンネンベルクの戦いが行われた日です
>>189
で見たように、13世紀以降のドイツでは東方植民が進められ、ドイツ騎士団がその中心となっていました
一方、その植民の対象地域となっていたポーランドでは、
>>103
で取り上げたカジミェシュ3世がドイツ騎士団に対抗し、枯れの死後成立したヤゲウォ朝ポーランド・リトアニア同君連合が引き続きドイツ騎士団と戦います
その最大の戦いとなったのが、1410年7月14日に行われたタンネンベルクの戦いです
タンネンベルク村周囲の平原で展開されたこの戦いは、リトアニア騎兵の先制攻撃で始まりました
ドイツ騎士団はこれを迎撃し撤退させ、さらに追撃戦に移ります
しかしこれは罠でした
追撃戦に移行したことでドイツ騎士団の軍勢は間延びした形となり、偽って撤退したリトアニア騎兵が反転しドイツ騎士団の側面を攻撃、本隊のポーランド軍も押し出し、ドイツ騎士団を散々に破ったのです
この戦いの勝利によりヤゲウォ朝はドイツ騎士団を服属させ、さらに黒海方面へも領土を拡大、その最盛期を築くことになるのでした
またこの戦いはポーランド国民にとっても非常に意義のあるもので、グルンヴァルト(タンネンベルクのポーランド語読み)村では毎年7月中旬に戦いを記念した祭りが開かれ、このグルンヴァルト歴史祭りはヨーロッパ最大で、周辺諸国民が多数参加する最も国際的な祭りの1つとなっているのです
本日はポーランドの歴史的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山内進『北の十字軍』講談社、1997年
・伊藤孝之他『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・阿部謹也『ドイツ中世後期の世界 ドイツ騎士修道会史の研究』未来社、2002年
218
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/16(水) 00:34:37 ID:5A1Ma2RU
7月16日は東西教会が相互破門を行った日です
395年のローマ帝国分裂以降、ローマ・カトリック教会とビザンツ教会はそれぞれ独自の道を歩み、対立を繰り返していました
例えば教皇首位権の問題、イコノクラスムなど様々なものがありますが、大きな対立点は2つ挙げられます
まず1つ目は、フィリオクェ問題です
これは第一回コンスタンティノープル公会議で定められたニカイア・コンスタンティノープル信条における「聖霊は父より出で〜」の部分に、ローマ・カトリック教会が「フィリオクェ(子からもまた)」と付け加えたことにビザンツ教会が反発したことで起こったものでした
ビザンツ教会にとって、ニカイア・コンスタンティノープル信条があくまで正統な信仰告白だったのです
もう1つが聖体拝領の問題です
ローマ・カトリック教会では、聖書に種なしパンの記述があることを理由に聖体拝領において種なしパンを用いていましたが、ビザンツ教はこれをユダヤ教的であると批判、酵母パンを用いていたのです
そしてビザンツ帝国が帝国内のローマ・カトリック教会に酵母パンの使用を求めたことで大問題となりました
ローマ教皇レオ9世はこれら2つの教義・典礼の問題においてローマ・カトリック教会の正統性を主張するため枢機卿フンベルトゥスをコンスタンティノープルに派遣します
しかしコンスタンティノープル総主教ケルラリオスとの協議で一致点を見出だすことはできず、フンベルトゥスはハギア・ソフィア大聖堂の祭壇に破門状を叩きつけ退去、ケルラリオスもフンベルトゥスを破門したのです
つまり1054年7月16日のこの事件は新しい対立が生まれたわけではなく、すでに存在していた教義・典礼の問題によってお互いが相容れないことが決定的となったのでした
本日は東西教会の相違の確認日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高橋保行『東方の光と影』春秋社、1991年
・M・D・ノールズ他、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』平凡社、1996年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年
219
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/17(木) 01:00:04 ID:y5X1FJE6
7月17日は百年戦争、カスティヨンの戦いが行われた日です
>>96
で見たように、百年戦争は1429年のジャンヌ・ダルク登場によりフランスの優勢へと戦局が転換しました
1431年にはフランス優位の下休戦が成立、1435年にはアラスの和平を結びブルゴーニュ公国とイングランドとの同盟を解消させることに成功します
このブルゴーニュ公国はフランス王の封建領邦でありながら、フランス王に匹敵する権勢を誇り、百年戦争後期にはフィリップ善良公が最盛期を築いた強力な勢力であったため、その離脱はイングランドにとって大きな痛手でした
フランスは休戦期間が過ぎた後さらなる攻勢に乗り出し、ノルマンディーを制圧しました
さらにフランスは、12世紀のプランタジネット朝成立以降イングランド領として存続していたガスコーニュを攻め、1451年にはその中心都市ボルドーを陥落させます
しかしボルドー市民はイングランドによる統治を望み、イングランド軍を招き入れ、ガスコーニュの緒都市もこれに追随、イングランドはガスコーニュを最後の砦として抗戦します
しかしイングランドの劣勢はいかんともし難く、1453年7月17日、カスティヨンの戦いにて大敗を喫し、ガスコーニュにおける影響力を失います
10月には再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終結することとなるのでした
本日は百年戦争最後の戦いの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山瀬善一『百年戦争 国家財政と軍隊』教育社、1981年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三他編著『中世英仏関係伺 1066−1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年
220
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/18(金) 00:37:13 ID:VSwD13SU
7月18日はローマ大火が起こった日です
54年にローマ皇帝に即位したネロは、哲学者セネカや近衛長官ブッルスの補佐を受け、その治世初期は善政を行っていました
64年7月18日に起こったローマ大火の際も、自らが陣頭指揮を行い鎮火を進め、被災者救済のための政策を実行するなど、ローマ市民の評判は良いものでした
しかし即位後間もなく、ネロは母アグリッピナの政治干渉を受けることになります
アグリッピナはネロに遠ざけられるようになると、帝位継承権を持っていたブリタンニクスを皇帝にしようと画策しました
このブリタンニクスはネロによって毒殺されたとされますが、これによってネロとアグリッピナの対立は決定的となったのです
ネロは59年にアグリッピナを殺害、続いて62年に不仲だった妻オクタヴィア、そして65年にはセネカも殺害します
そしてネロの悪名を決定的なものとしたのはローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことでした
ローマ大火に関し、一部の市民の間ではネロが故意にローマを燃やし、自分好みの新しい都を造り直そうとしているという噂が広がりました
この噂を払拭するためにキリスト教徒を犯人に仕立て上げたというのです
真意は不明ですが、ローマ大火を機に始め、以降も続けられた迫害で最も著名な使徒であるペテロやパウロも殺害したネロの評判が、キリスト教文化圏で低いことは確かでしょう
本日はキリスト教徒迫害の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・タキトゥス、国原吉之助訳『年代記 ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、1981年
・フィリップ・ファンデンベルク、平井吉夫訳『ネロ 皇帝にして神、芸術家にして道化師』河出書房新社、1990年
・青柳正規『皇帝たちの都ローマ 都市に刻まれた権力者像』中央公論社、1992年
221
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/19(土) 22:42:05 ID:x136ac9M
7月19日はフランス皇帝ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告した日です
>>82
で見たように、プロイセンは普墺戦争に勝利した後、北ドイツ連邦を形成してドイツ統一を推し進めました
これに危機感を覚えたのがフランスでした
ヨーロッパ中央部、それも隣国に強大な統一国家が成立することはフランスにとって大きな脅威となるからです
ビスマルクはこの危機感を巧く利用しました
フランスを侵略者に仕立て上げ、ドイツが一体となって対抗するように仕向け、南ドイツの併合を円滑に進めようとしたのです
ビスマルクはエムス電報事件を起こし、フランス世論を煽ることに成功します
以後状況はビスマルクの思惑通りに展開します
フランス世論に押されたナポレオン3世は1870年7月19日、プロイセンに宣戦布告、これに対し南ドイツはプロイセン側として戦うことを表明したのです
戦争自体は
>>198
でも取り上げたモルトケの指揮によってプロイセン優位に進み、ケーニヒグレーツの戦いとともにモルトケの傑作とされるセダンの戦いによってナポレオン3世を捕虜とします
9月19日にはパリ包囲が始まり、翌1871年1月28にはパリが陥落し戦争は終結します
そして戦争中にプロイセン王がドイツ皇帝に推戴され、統一ドイツ帝国が成立したのでした
本日は普仏戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1996年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
・松井道昭『普仏戦争 籠城のパリ132日』春風社、2013年
222
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/20(日) 00:46:04 ID:cgDURJ5Q
7月20日はアンカラの戦いが行われた日です
オスマン帝国では1389年、コソボの戦いの最中にムラト1世が暗殺されるとその息子バヤジット1世がスルタンに即位しました
バヤジットはバルカン半島においてさらなる勢力拡大を進め、セルビア・ブルガリアを制圧するとコンスタンティノープル包囲にも着手します
これに危機感を覚えたキリスト教勢力はハンガリーを中心に十字軍を結成しますが、1396年、ニコポリスの戦いにおいて大敗します
オスマン帝国はバルカン半島においてほぼ覇権を確立し、ビザンツ帝国もコンスタンティノープルを開城する目前となっていました
しかしこの時、東方ではモンゴル帝国の後継者としてティムールが勢力を拡大していました
そしてティムール朝支配下の黒羊朝をバヤジットが攻撃したため、両者の対立が深まっていきます
この東西の二大帝国が激突したのが、1402年のアンカラの戦いです
この戦いでオスマン帝国は大敗、バヤジットも捕虜となるなど壊滅的な打撃を受けます
オスマン帝国は空位状態となり、滅亡寸前だったビザンツ帝国は延命することとなったのでした
本日はオスマン帝国一時中断の誕生日です、ビザンツ帝国の皆様おめでとうございます
参考文献
・加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』北海道大学図書刊行会、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・永田雄三編『世界各国史9 西アジア史2 イラン・トルコ』山川出版社、2002年
223
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/21(月) 00:34:32 ID:qRtHHaJ6
7月21日はパッサロヴィッツ条約が結ばれた日です
>>64
で見た1204年の第4回十字軍を機に、ヴェネツィア共和国は東地中海に勢力を拡大し、その覇権を確立しました
しかし
>>146
で取り上げたように、1453年、オスマン帝国はビザンツ帝国を滅ぼし、東地中海世界のさらなる制圧に乗り出します
この2国による15〜18世紀に渡る一進一退の争いがヴェネツィア・トルコ戦争です
オスマン帝国と直接争ったもう1つの国がオーストリア帝国です
>>184
で見たように、オーストリア・ハプスブルク家とオスマン帝国は16世紀末から対立を深め、交戦状態となっていました
オスマン帝国が1683年の第二次ウィーン包囲に失敗するとオーストリアは攻勢をかけ、1699年のカルロヴィッツ条約でついにオスマン帝国の領土を奪うことに成功します
そして18世紀、ヴェネツィアとオスマン帝国がペロポネソス半島を巡り争いを始めると、これを機にオーストリアがヴェネツィア側で参戦、二正面作戦を強いられたオスマン帝国はオーストリアに敗戦、ヴェネツィアとの戦争も決定打に欠き、1718年7月21日、両戦争の講和条約であるパッサロヴィッツ条約を結びました
これ以後オーストリアはオスマン帝国に対しさらなる攻勢を強める一方、ヴェネツィア共和国は領土割譲によりオスマン帝国と戦う力を失ってしまうのでした
本日は長期に渡るヴェネツィア−トルコ戦争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・ジャン・モリス、椋田直子訳『ヴェネツィア帝国への旅』東京書籍、2001年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797』岩波書店、2004年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年
224
:
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:2014/07/22(火) 00:09:23 ID:VMdZjKjg
7月22日はゴドフロワ=ド=ブイヨンが聖墳墓教会の守護者に選出された日です
>>160
で取り上げたイェルサレム攻囲戦は、トゥールーズ伯レーモン、下ロートリンゲン公ゴドフロワ=ド=ブイヨンらを中心とする軍勢によって開始されました
一方イェルサレムを守るのはファーティマ朝でしたが、ファーティマ朝はシリアを巡るセルジューク朝との争いで疲弊しており、イェルサレムも十字軍が到着する1年前に奪還したばかりで、防衛態勢は十分とは言い難い状態でした
しかし十字軍もまた食料・水不足に苦しみ、イェルサレム攻撃は遅々として進みませんでした
しかし幾度にも渡る総攻撃、ジェノヴァ共和国の軍勢による攻城塔が投入されたこともあってイェルサレム守備隊は支えきれず、攻囲戦開始から約一ヶ月後の7月15日についに陥落、聖地イェルサレムはキリスト教徒の手に渡ったのです
そして十字軍による略奪・虐殺が一段落した7月22日、イェルサレム攻囲軍の指導者ゴドフロワ=ド=ブイヨンは「聖墳墓教会の守護者」に選ばれ、実質的な王となったのです
本日は実質的なイェルサレム王国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田広訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・ジョルジュ・タート、南条郁子他訳『十字軍 ヨーロッパとイスラム・対立の原点』創元社、1993年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
225
:
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:2014/07/23(水) 00:08:30 ID:xBrACThU
7月23日は青年トルコ革命が終結した日です
オスマン帝国は
>>223
で見たように18世紀以後ヨーロッパに対しての劣勢が決定的となりました
また
>>205
で取り上げた大北方戦争において、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世の亡命を受け入れ、戦争に関与したことでロシアの侵攻も受けるようになりました
こうしてオスマン帝国はオーストリア、ロシアに押され、
>>112
で見たようにエジプトの自立も許すようになってしまいます
オスマン帝国は状況を打開するため、タンジマートといわれる近代化改革を進め、その一環としてミドハト憲法を制定、憲政が始まりました
しかしスルタン専制政治復活を目指すアブデュル=ハミト2世は1878年、露土戦争敗北を口実にミドハト憲法を停止します
これに反発した「青年トルコ人」は憲法復活運動を展開、1908年7月3日に青年トルコ革命を起こし、同22日にはアブデュル=ハミト2世は専制政治を放棄、ミドハト憲法復活を認め、憲政が復活したのでした
本日は青年トルコ時代の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年
226
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/24(木) 00:38:38 ID:aXJSWqes
7月24日はスチュアート家のジェームズが即位した日です
スコットランドでは13〜14世紀に行われた独立戦争によってイングランドから独立し、1371年にはスチュアート朝が開かれました
スチュアート家の起源はフランスにあり、対外的にもスコットランドはフランスと同盟・イングランドと対立という構図が伝統となっていました
1542年に女王となったメアリ=スチュアートもフランス貴族の娘で、彼女はイングランド女王エリザベス1世が庶子であるとしてイングランド王位を要求、スコットランドとイングランドとの対立は深まります
またスコットランド国内でもプロテスタントとカトリックによる内乱が繰り広げられ、メアリの治世は非常に不安定なものでした
その中で1567年7月24日、メアリはスコットランド王から退位させられ、わずか1歳の長男ジェームズが即位します
これがスコットランド王ジェームズ6世で、後
>>197
で見たように、イングランド王ジェームズ1世として騒乱の中心人物となっていくのです
本日はスコットランド・スチュアート朝第9代国王の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・今井宏『世界歴史大系イギリス史2 近世』山川出版社、1990年
・リチャード・キレーン、岩井淳・伊藤早織訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社、2002年
・高橋哲雄『スコットランド歴史を歩く』岩波書店、2004年
227
:
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:2014/07/25(金) 00:33:08 ID:1OpnXoLk
7月25日はニカイア皇帝ミカエル=パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪回した日です
>>64
で見たように、1204年の第4回十字軍によりビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは征服され、各地にビザンツ亡命政権が建国されました
その中でも最有力となったのが、コンスタンティノープルの対岸を支配するニカイア帝国でした
ニカイア帝国はラテン帝国の脆弱な統治体制、バルカン半島でのブルガリア帝国の強勢もあって徐々に勢力を拡大していきました
そのような状況でニカイア帝国の実権を握ったのがミカエル=パレオロゴスで、この人物は
>>40
で取り上げたシチリアの晩禱においても影で反乱を操り、シャルル=ダンジューのコンスタンティノープル攻撃の十字軍計画を頓挫させるほどの智謀の持ち主でした
ミカエルは1260年のペラゴニアの戦いでラテン帝国・エペイロス専制侯国・ブルガリア帝国などからなる連合軍を破り、ニカイア帝国の優位を決定的なものとします
そして1261年7月25日、ラテン帝国軍及びヴェネツィア共和国海軍が遠征のためコンスタンティノープルを留守にした隙を突き、ミカエルは帝都を攻撃しその奪回に成功するのです
こうして約60年に渡り中断していたビザンツ帝国は再興され、ミカエルはビザンツ皇帝ミカエル8世として即位したのでした
本日はビザンツ帝国・パレオロゴス朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
228
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/26(土) 00:34:59 ID:JsWVFXkI
7月26日はブリスカの戦いが行われた日です
これは
>>133
のブルガリア帝国強勢より少し前の時代になります
ブルガリアは7世紀以降、ビザンツ帝国と抗争し、一進一退の攻防を展開していました
805年にはクルム=ハーンがアヴァール人を攻撃、バルカン半島で勢力を拡大し、トランシルヴァニア・パンノニアを支配、さらにビザンツ帝国領のマケドニアやトラキアへも侵攻するようになりました
一方ビザンツ帝国では女帝エイレーネーの治世で財政が破綻し、彼女の後を継いだニケフォロス1世が改革を行っていました
彼は減税廃止や徴税強化を始めとする経済政策を行い財政再建に着手しました
また帝国領への支配を強化し、バルカン半島・小アジアでの防衛力増強にも取り組みました
その中でブルガリアの攻勢は憂慮すべき事態だったのです
ニケフォロスは大軍を率いてブルガリア領に侵攻、811年7月にはその首都ブリスカを占領するなど成果は上々と思われました
しかしブリスカを焼き払い、さらにブルガリア領深くへと侵攻しつつあった7月26日、ブリスカ近郊のバルビツィア峠にてクルム率いるブルガリア軍の夜襲に遭いビザンツ帝国は大敗、皇帝ニケフォロスも討ち取られてしまいます
以後ブルガリアはトラキアを征服、帝都コンスタンティノープルを包囲するなどビザンツ帝国に対し攻勢を続けることとなるのでした
本日はビザンツ帝国初の皇帝戦死の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
229
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/27(日) 00:31:15 ID:f6DOLRr6
7月27日はブービーヌの戦いが行われた日です
>>172
で見たように、イングランドではジョンが即位した当時、フランス王フィリップ2世尊厳王によってフランスにおけるイングランド領の大部分が失われていました
一方神聖ローマ帝国ではホーエンシュタウフェン朝のハインリヒ6世の死後、シュタウフェン家のシュヴァーベン公フィリップとヴェルフェン家のオットーが争い、フィリップの急死によりオットー4世として即位したものの、その勢力基盤は脆弱でした
このジョンとオットーはともに教皇権の拡大を目指すインノケンティウス3世と対立・破門され、国内において窮地に陥ることとなります
また叔父・甥の関係でもあった両者は同盟を結び、共通の敵であったフランスへの攻撃を取り決めました
そして1214年、ジョンはギュイエンヌ、オットーはフランドルから侵攻しフランスを挟撃しますが、同年7月27日、ブービーヌにおいてイングランド・神聖ローマ連合軍はフィリップの率いるフランス軍に大敗しました
この結果神聖ローマ帝国ではオットー4世が皇帝位を追われフリードリヒ2世が戴冠することとなり、イングランドは大陸領の回復に失敗、マグナ=カルタを認めざるをえない状況となります
一方フランスは両国に対する優位を確立し、フランス王権はますます高まることとなるのでした
本日は中世最大の会戦の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ジョルジュ・デュビー、松村剛訳『ブーヴィーヌの戦い 中世フランスの事件と伝説』平凡社、1992年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
230
:
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:2014/07/27(日) 19:49:19 ID:B6tALqFw
黎明期からここにおるけど、このスレの存在を初めて知った…
凄すぎるやろ、歴史に自信ニキ…
しかもコピペじゃなさそうだし、参考文献もワイも読んだ本がチラホラあるが
確実に良書を揃えてきてる感があるし
これから応援しますんで、頑張ってください!
231
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/28(月) 01:06:14 ID:2LFUlGmQ
7月28日は呉軍港空襲が行われた日です
太平洋戦争の末期、聯合艦隊では燃料不足のため、その主力艦艇の多くが呉軍港に繋留されていました
燃料が無いため動かすこともままならず、敵からの発見を避けるため樹木や網などで覆い、甲板上に小屋を置いて居住区に見せかけ、道路を描いたりするなどの偽装を施すという状態でした
もちろん巨大な軍艦を隠し切ることはできず、空襲が行われ発見されるとそれぞれ対空射撃を行うことになります
最初の空襲は1945年3月19日で、ミッチャー中将率いる米軍第58機動部隊の襲撃を受けました
この空襲では各艦艇の損傷はさほどではなかったものの、7月24日・28日に行われたハルゼー大将率いる第38機動部隊の空襲によって呉軍港の聯合艦隊は壊滅することになります
「伊勢」「日向」「天城」「葛城」「鳳翔」「龍鳳」「青葉」「利根」「北上」「大淀」...聯合艦隊を支えてきた歴戦の艦艇が決死の対空戦闘を行うも次々と着底、転覆していきました
>>72
で取り上げた「榛名」もその一艦で、主砲塔に縞状の迷彩、艦橋には網で偽装を行い、三式弾による対空射撃も及ばず、20発以上の命中弾を受け大破着底します
http://i.imgur.com/Q2Wsz6n.jpg
http://i.imgur.com/1MGmXxg.jpg
こうして高速戦艦として聯合艦隊を支え、太平洋戦争主要海戦の多くの最前線で戦い続けた金剛型戦艦、その最後の一艦となった武勲艦「榛名」はその役目を終えたのでした
本日は金剛型戦艦3番艦「榛名」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・「歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.10 連合艦隊の最期」学習研究社、1995年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争9 神風特別攻撃隊・本土防空決戦』光人社、1995年
・「丸」編集部『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 戦艦榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』光人社、1996年
232
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/29(火) 00:01:09 ID:KMz9w4Js
7月29日はクレディオン峠の戦いが起こった日です
>>133
や
>>228
で見たように、バルカン半島においてブルガリアの勢力拡大は著しく、ビザンツ帝国は劣勢が続いていました
しかし「ブルガリア皇帝」となったシメオン1世の死後は度重なる征服戦争による国力疲弊が表面化し、次第に衰退の兆しを見せるようになります
一方のビザンツ帝国ではブルガリアの後退とほぼ同時期に優れた3人の軍人皇帝が台頭します
すなわち、ニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世です
ニケフォロス、ヨハネスは軍事改革を進め、積極的な対外政策に乗り出し、ビザンツ帝国の領土を回復していきます
この拡大路線が最高潮となったのがバシレイオスの代でした
ビザンツ歴代皇帝のなかでも最長、976年〜1025年、実に49年もの在位期間を過ごした彼は、全ての権限を一身に集めて独裁政治を行う、ビザンツ帝国を代表する専制君主であり、ビザンツ帝国の全盛期を現出した非常に有能な皇帝でした
彼はビザンツ帝国を悩ませてきたブルガリアにとどめを刺すべく、自ら先頭に立って遠征を推し進めました
そして1014年7月28日、クレディオン峠の戦いでブルガリアに大勝します
この戦いで1万5千人のブルガリア兵を捕虜にしたバシレイオスは、ブルガリア人捕虜を100人ずつのグループに分け、各グループのうち99人の両目をくり抜き、残りの1人だけは片目を残して道案内役をさせ、ブルガリアに送り返したたのです
ブルガリア王サムイルはその光景を見て卒倒し、死亡してしまいます
やがてブルガリアはビザンツ帝国によって完全に併合され、一方バシレイオスはその後輝かしい外征を展開していくのでした
本日は「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
233
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/30(水) 00:29:23 ID:EgD0c5Ak
7月30日はアル=マンスールがバグダードを建設した日です
ムハンマド、正統カリフ時代を経て成立したウマイヤ朝は「アラブ帝国」と称されるように、アラブ人優遇政策をとっていました
そのため非アラブ人のムスリムであるマワーリーは不満を高め、またウマイヤ家の専横もあり、次第に反ウマイヤ家運動が高まっていきました
この反ウマイヤ家運動の主導者がアッバース家で、その当主アル=アッバースは反ウマイヤ家勢力を結集、ウマイヤ朝を打ち倒すというアッバース革命を成功させ、アッバース朝を開きました
アッバース朝はアラブ人の特権を廃止し、ムスリムのコーランの下での平等が達成されたことで「イスラーム帝国」が実現されたのです
このイスラーム帝国の都となったのか、アッバース朝第2代カリフ、アル=マンスールが建設したバグダードでした
ユーラシア大陸の中央部を支配し大帝国となったアッバース朝とともに発展したバグダードは、政治・経済・軍事・交易・文化の中心地として大いに繁栄し、中国の長安やビザンツ帝国のコンスタンティノープルなどと並ぶ世界屈指の巨大都市として君臨するのです
本日は「マディーナ=アッ=サラーム(平安の都)」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・家島彦一『イスラム世界の成立と国際商業 国際商業ネットワークの変動を中心に』岩波書店、1991年
・佐藤次高・鈴木董『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界』講談社、1994年
234
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/07/31(木) 00:39:38 ID:1wJNg.zM
7月31日はアウラングゼーブがムガル皇帝に即位した日です
ムガル帝国はバーブルによって1526年に建国されましたが、第2代フマーユーンの治世にはデリーから一時的に追われるなど、その支配は脆弱なものでした
しかし第3代アクバルの時代、異教徒に課されていたジズヤ(人頭税)を廃止し融和政策を進め、支配者層にラージプート族を加えるなど寛容な政治を行います
彼の後を継いだ第4代ジャハーンギール、第5代シャー=ジャハーンもアクバルの政策を踏襲し、宗教融和が継続されましたが、一方でムスリムから不満が出、また帝国領においても各地での劣勢が目立ちました
第6代皇帝として1658年7月31日に即位したアウラングゼーブは、このような状況を背景に宗教政策を転換、シャリーア(イスラーム法)に基づく厳格な統治を行い、異教徒勢力の弾圧に乗り出し、1679年にはジズヤを廃止します
さらに彼は大規模な外征を展開し、特にデカン高原方面への勢力拡大に尽力しました
この約20年間に渡る外征により、アウラングゼーブはムガル帝国を苦しめてきたマラーター族をインド南端に追いやり、ムガル帝国の最大領域を実現するのでした
本日はムガル帝国全盛期最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・小谷汪之『世界歴史大系南アジア史2 中世・近世』山川出版社、2007年
・小名康之『ムガル帝国時代のインド社会』山川出版社、2008年
・佐藤正哲・水島司・中里成章『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年
235
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/01(金) 00:44:47 ID:cGeAIprg
8月1日はユスティニアヌス1世がビザンツ皇帝に即位した日です
395年にローマ帝国が最終的に分裂して以降、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)はテオドシウス2世が帝都コンスタンティノープルに大城壁を築くなど守勢に回り、ゲルマン人やブルガール人の侵入に対抗していました
やがて帝国は財政破綻に陥り危機を迎えますが、491年に即位したアナスタシウス1世は財政改革を行い、帝国財政の再建に成功します
このアナスタシウスの帝国を引き継いだのが、527年8月1日に即位したユスティニアヌス1世でした
ユスティニアヌスはローマ帝国復興を掲げ、積極的な外征に乗り出します
彼は名将ベリサリウスを起用し、ササン朝ペルシアの攻勢を阻止し和平を結ぶことに成功します
続いてベリサリウスは北アフリカに軍を進めヴァンダル王国を滅ぼし、総督府となるカルタゴを奪回します
さらにベリサリウスはイタリア半島に侵攻、東ゴート王国を破りローマ帝国の都ローマを奪回、さらに総督府となるラヴェンナも奪回しました
これらの征服戦争によりビザンツ帝国は地中海沿岸地域の大部分を帝国領とし、部分的なローマ帝国復興が実現するのです
この外征によりビザンツ帝国の財政が傾き、拡大した帝国領の維持という問題が発生することでビザンツ帝国衰退の原因ともされますが、一時的とはいえ地中海帝国を復活させ、帝都ローマを帝国領としたことはビザンツ帝国のアイデンティティとなり、その後の帝国観に大きな影響を与えたといえるでしょう
「ローマ帝国」の伝統は生き続けることとなるのです
本日はビザンツ帝国「大帝」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・歴史学研究会編『幻影のローマ*顗氾租釥匹侶兢気肇ぅ瓠璽犬諒冤董拈通攴馘后*2006年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年
236
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/02(土) 00:36:18 ID:5S7MC0cY
8月2日はカンネーの戦いが行われた日です
前241年に終結した第一次ポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴは、シチリアを奪われ地中海における覇権を失い、挽回の機会を伺っていました
まずヒスパニアをハミルカル=バルカが征服し、その娘婿ハスドルバル、そしてハミルカルの息子ハンニバルに引き継がれました
このハンニバルが前219年、ローマの同盟市サグントゥムを陥としたことで始まったのが第二次ポエニ戦争です
ハンニバルはアルプス越えという奇策で防備の薄いローマ北方を襲い、ティキヌスの戦い・トレビアの戦い・トラシメヌス河畔の戦いなどに勝利し、ローマ領内部への侵攻を進めました
ローマの独裁官ファビウスは当初持久戦によるハンニバル軍の消耗を狙いましたが、その作戦が臆病だと非難され、ローマでは決戦の機運が高まります
そして前216年8月2日、ハンニバル軍約5万人とローマ軍約8万人との間で行われた決戦がカンネーの戦いです
ともに重装歩兵を中央に、騎兵を両翼に配した陣形で行われたこの一大決戦は、ローマ軍重装歩兵がハンニバル軍中央を押し込むも、ハンニバル軍両翼の騎兵がローマ軍の両翼を突き崩し、ローマ軍の背後に回ったことでハンニバル軍による完全包囲が完成します
ローマ軍は混乱状態に陥り、戦闘後はハンニバル軍による一方的な殲滅戦となるのです
この戦いによるローマは約6万人の死傷者・約1万人の捕虜を出し、約80人の元老院議員を失うという壊滅的な大敗を喫したのでした
本日は包囲殲滅戦の模範の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ジョン・プレヴァス、村上温夫訳『ハンニバル アルプス越えの謎を解く』白水社、2000年
・テレンス・ワイズ、桑原透訳『カルタゴ戦争 265BC−146BC ポエニ戦争の軍隊』新紀元社、2000年
・長谷川博隆『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』講談社、2005年
237
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/03(日) 00:33:32 ID:NNrCPW22
8月3日は百年戦争、カレー包囲戦が終結した日です
>>96
などで見てきた百年戦争、カレー包囲戦はその序盤にあたります
1337年の宣戦布告以降、イングランド王エドワード3世はガスコーニュや北フランスに侵攻しますが、フランス軍の抵抗に遭い膠着状態となっていました
しかし1340年のスロイスの海戦に大勝しフランス艦隊が壊滅したことで制海権を握り、作戦行動が容易となりました
1341〜45年のブルターニュ継承戦争において有利に休戦協定を結ぶと、1346年7月にはノルマンディーに上陸、本格的な侵攻作戦を開始します
同年8月、クレシーの戦いでイングランドの長弓隊がフランス騎士軍に大勝して陸上においても主導権を握ると、イングランドはカレー攻略に取り掛かりました
カレーはドーバー海峡に面するフランス側の重要な戦略拠点であり、フランスはここに城塞を構え防備を固めていました
イングランドにとっても、カレーはブリテン島への最短距離に位置する都市であるため、フランス軍によるイングランド侵攻という恐れがあると同時に、占領すればフランス侵攻の前線基地となる存在でもありました
1346年9月4日に始まったカレー包囲戦はフランス側のジェノヴァ海軍の撤退、海上・陸上におけるフランス軍の敗退もあって次第にイングランド優位に展開、ついに1347年8月3日、カレー市民は降伏し開城、イングランドの手に渡ったのでした
本日はイングランド領カレーの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年
238
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/04(月) 01:03:00 ID:2iy6.vAY
8月4日はアルカセル・キビールの戦いが行われた日です
大航海時代、インド航路を開拓したポルトガルはアジアとの貿易を維持し、ヴェネツィア共和国に対抗するため、北アフリカに植民地を求めていました
そこで目をつけたのがイベリア半島の対岸に位置するモロッコでした
モロッコはサード朝が支配しており、スペイン王国とオスマン帝国との地中海における覇権争いを利用し、勢力を拡大していました
しかし1574年、ムワッタキルがオスマン帝国の支援するアブドゥルマリクによって王位を奪われるという事件が起こります
ムワッタキルはこれに対しポルトガル王セバスティアンに支援を要請、北アフリカへの進出を希望していたセバスティアンはムワッタキルと同盟し、アブドゥルマリクとの戦いに臨みました
そして1578年8月4日、セバスティアン・ムワッタキルの連合軍とアブドゥルマリクのモロッコ軍がアルカセル・キビールで激突しました
この3人の王によって行われた「三王の戦い」は激戦の末モロッコ軍が大勝するものの、3人の王が戦死するという結果となりました
モロッコでは戦死したアブドゥルマリクを継いだアフマドがスペイン・オスマン帝国と渡り合いサード朝の最盛期を築きます
一方ポルトガルはセバスティアンの戦死によりスペインによる併合を招いてしまいます
しかしポルトガルではセバスティアンは戦死しておらず、いずれポルトガルに帰国するとの信仰が広がり、スペイン支配に対抗する際の心の拠り所となるのでした
本日はセバスティアン主義の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・那谷敏郎『紀行モロッコ史』新潮社、1984年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年
239
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/05(火) 00:07:19 ID:i1umwnTM
8月5日は第一次ポーランド分割が行われた日です
>>196
で見たようにヨーロッパにおいて強勢を誇ったポーランドでしたが、17世紀の大洪水時代によって衰退が決定的となり、次いで
>>205
の大北方戦争でスウェーデンの傀儡政権がたてられるなど混乱の時代が続きました
さらにこの傀儡政権が原因で、ポーランドはヨーロッパ列強のさらなる干渉を受けることとなり、18世紀に起こったポーランド継承戦争でもポーランド王位が列強の思惑に左右されるなど、ポーランドは衰退の一途を辿ります
ポーランドへの干渉は、特に隣国のロシア・プロイセン・オーストリアが積極的で、ロシア皇帝のエカチェリーナ2世は親ロシアの国王を即位させるなどの干渉を行います
プロイセン王フリードリヒ2世はポーランドがロシアに牛耳られることを危惧し、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世を誘いポーランド領の分割を提案しました
エカチェリーナもこれに応じ、1772年8月5日、3国によるポーランド分割が行われることとなったのでした
ポーランドではこの後改革が進められ、
>>90
で取り上げた5月3日憲法の制定につながることになります
本日は3度に渡るポーランド分割の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・田中良英『エカチェリーナ2世とその時代』東洋書林、2009年
240
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/05(火) 00:27:01 ID:0lUD/nC2
見落としてたけど5月3日って憲法に縁のある日なんやな
241
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/06(水) 07:20:44 ID:4.JIgnzI
8月6日はフランツ2世が神聖ローマ皇帝位を放棄した日です
>>211
で見たように、1806年に成立したライン同盟により、神聖ローマ帝国は実質的にその役割を終えていました
きっかけは1804年にもありました
この年、ナポレオンが「フランス皇帝」に即位、これまでヨーロッパの皇帝といえばローマ帝国の後継者が名乗るものとされていましたが、ナポレオンは初めてその慣習を破ったのです
これに対し神聖ローマ皇帝フランツ2世も神聖ローマ皇帝とは別に「オーストリア皇帝」を名乗り、フランツ1世として即位するのです
このような状況で起こったのが、「皇帝」ナポレオン1世との間で起こったアウステルリッツの三帝会戦での敗北、そして神聖ローマ帝国諸侯が帝国から離脱するというライン同盟の成立でした
もはや神聖ローマ帝国は皇帝という「名」も、帝国領という「実」も伴わないものとなり、1806年8月6日、神聖ローマ皇帝フランツ2世は皇帝位の放棄を宣言します
ヴォルテールによって「神聖でも、ローマ的でも、帝国でもない」と称された神聖ローマ帝国は何ものでもなくなったのでした
本日は神聖ローマ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ピーター・H.ウィルスン、山本文彦訳『神聖ローマ帝国 1495-1806』岩波書店、2005年
242
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/07(木) 00:08:27 ID:fFu2VNpA
8月7日はオットー1世が東フランク国王として戴冠した日です
シャルルマーニュが築いたローマ帝国の分裂は
>>151
でも取り上げましたが、ここではそのドイツ地域について見ていくことにしましょう
>>187
で見たように東フランクはルートヴィヒが統治し、彼は東フランクの諸部族を統括し次第にドイツ王国を形成していきました
このルートヴィヒ「ドイツ人王」の王国は843年のヴェルダン条約によって承認されました
ルートヴィヒが亡くなるとカロリング家の血筋は断絶し、新たにコンラート1世が即位します
コンラートの国王選出は、カロリング家である西フランク王、シャルル単純王の東フランク王位継承権を否定したものであり、これはドイツ地域における独自の国家作りへの一歩でした
コンラートはフランク王国の支配者層であるフランク人でしたが、次の国王ハインリヒ1世はザクセン人であり、その支配がカロリング家に承認されたことでますますドイツ色が強まることとなります
そして936年8月7日、オットー1世が東フランク王に即位しますが、これには王国内の全てのドイツ部族の代表者が参加し、カロリング家から離反したことで「ドイツ王国」がより強調されるようになります
フランク王国の慣習である分割相続を否定し、オットーによる単独相続が行われたことも重要でしょう
オットーがドイツ人の王として戴冠したことで、東フランク王国からドイツ王国への移行がなされたのでした
本日は「ドイツ国王」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・リーベリヒ・ミッタイス、世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』創文社、1971年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
243
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/08(金) 00:43:27 ID:.B3ZpQQk
8月8日はアルマダの海戦が終結した日です
16世紀のスペインは広範囲に領土・植民地を持ち、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれる繁栄を享受していました
そのなかでもスペイン領ネーデルラントの収益は大きく、新大陸からの銀収入をも上回るものでした
しかしそのネーデルラントにも宗教改革の波が押し寄せ、スペインに対し反乱を起こすようになると事態は複雑なものとなっていきます
ネーデルラントへの最短ルートはフランスが有していましたが、フランスは中立の立場を採り、スペインは通行できなかったのです
スペインはそのためミラノ公国を経由する迂回ルートをとりますが、そのためにサヴォイア家やスイス、その他アルプス街道沿いの諸侯との交渉が必要であり、さらにフランスはその迂回ルートによりスペインに包囲されていると感じ、ますますスペインに対し態度が硬化していきます
またこの迂回ルートをとらざるを得なかったのは、カトリックを敵視しスペインと対立するイギリスの存在がありました
イギリスはネーデルラントへの航路を妨害したため、スペインはイギリスとの交渉を行いますが頓挫、ここに至ってスペインはイギリス侵略の艦隊を派遣するのです
1588年7月31日、スペインから出港した「無敵艦隊」はイギリス海峡にてイギリス艦隊と交戦、そして8月8日、ついには敗北という結果に終わったのです
しかしこのアルマダの海戦でイギリスに覇権が渡ったわけではなく、スペインは海軍の軍事改革を進め、以降も無敵艦隊を編成しイギリス艦隊を度々撃破しイギリスに対する優勢を維持するのでした
なお、この海戦では従来の主戦法であった衝角攻撃に対し、大砲による砲撃戦が勝利を収め砲手の地位が向上したことから、海上戦闘における一大変革がなされた海戦であるといえるでしょう
本日は、近世海上戦闘の変革日です、おめでとうございます
参考文献
・マイケル・ルイス、幸田礼雅訳『アルマダの戦い スペイン無敵艦隊の悲劇』新評論、1996年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・アンガス・コンスタム、大森洋子訳『図説スペイン無敵艦隊 エリザベス海軍とアルマダの戦い』原書房、2011年
244
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/09(土) 01:19:10 ID:R0xr/tag
8月9日はファルサルスの戦いが行われた日です
共和政ローマでは大規模な改革に着手したグラックス兄弟と元老院が対立したことにより、内乱の1世紀と呼ばれる内乱状態が始まりました
この対立はグラックス兄弟が属する平民派と、元老院を支持する閥族派との争いに発展し、前者を代表するマリウスと後者の代表者スラとの内乱へと至ります
この内乱はスラの勝利に終わりますが、その間にマリウスによる軍制改革が行われ、スラが独裁政権を確立しローマを安定させたことで、強大な軍事力を持つ有力者が支配する体制へと変化していったのです
スラの死後、ローマはカエサル・ポンペイウス・クラッススによる第一回三頭政治が行われます
しかしクラッススが対パルティア戦で戦死するとその体制は崩れ、カエサルとポンペイウスは対立しローマ内戦が勃発することとなります
ポンペイウスは元老院と結びカエサルに対抗しますが、前48年8月9日、ファルサルスの戦いにおいてカエサルに敗れエジプトへと逃亡しました
この戦いでの勝利以降カエサルは元老院に対して優勢となり、ローマにおける覇権を確立することになるのでした
本日はローマ内戦最大の戦いの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・トム・ホランド、小林朋則訳、本村凌二監『ルビコン 共和政ローマ崩壊への物語』中央公論新社、2006年
・モムゼン、長谷川博隆訳『ローマの歴史4 カエサルの時代』名古屋大学出版会、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
245
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/10(日) 00:53:35 ID:Afeyl3K2
8月10日はレヒフェルトの戦いが行われた日です
9世紀にヨーロッパに移住し、パンノニアに定住したマジャール人は、アールパード朝を開いた大公アールパードの下で強勢を誇り、度々西欧へと侵攻していました
一方、その侵攻の最前線となったドイツ地域を支配していたのは、
>>242
でも取り上げたオットー1世でした
彼は東フランク王国における権威を高め、さらにはローマ皇帝権の復興を目指していましたが、当時ローマ皇帝への戴冠にはローマ教皇による認可が必要でした
そのような状況で起こったのが、955年8月10日のレヒフェルトの戦いです
アールパードの孫タクショニュを、オットーはレヒフェルト平原にて破り、以降西欧にとって脅威となっていたマジャール人の侵攻は途絶えることになります
彼は東欧・北欧の異教徒から西欧キリスト教を防衛することに成功し、西欧における優位を確立したのです
コルヴァイのヴィドゥキントによればオットーは軍隊によって「祖国の父にして皇帝」と称えられ、実質的に皇帝に昇格したとしています
ローマ教皇も「キリスト教国を異教徒マジャールの禍から救った聖なる戦士」オットーの権威を認め、ローマ皇帝としての戴冠を行うことになるのでした
本日はオットー大帝による「西欧キリスト教世界の防衛日」です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年
246
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/11(月) 01:16:17 ID:/s9HYC/U
8月11日はテルモピレーの戦いが終結した日です
前499年、ギリシアのイオニア植民市による、アケメネス朝ペルシアに対する反乱から始まったペルシア戦争は序盤、ペルシア王ダレイオス1世が反乱を鎮圧しエーゲ海の諸島、ペルシアに反抗的なギリシア諸ポリスを攻略していきました
ダレイオスはさらにアテネに近いマラトンに上陸しますが、前490、アテネ・プラタイア連合軍に破れ上陸作戦は失敗、一時ペルシア本国へ撤退します
やがてダレイオスが亡くなると、その後を継いだクセルクセス1世が再度ギリシアに侵攻します
ペルシア軍はギリシア軍を次々と破り、ギリシアはテルモピレーとアルテミシオン沖に防衛ラインを敷き抵抗を試みます
このテルモピレーを任されたのがスパルタ王レオニダスでした
ギリシア軍の先鋒として精鋭のスパルタ重装歩兵を率いるレオニダスは、テルモピレーの狭隘な地形を活かし、ペルシア軍を食い止めることに成功します
しかし多勢に無勢、数度に渡りペルシア軍を撃退したスパルタ軍も前480年8月11日に全滅し、防衛ラインは破られることとなります
しかし約一週間ペルシア軍の侵攻を食い止め、同時期に行われたアルテミシオン沖海戦でもギリシア海軍が善戦したことが、ペルシア戦争の決定的な戦いであるサラミスの海戦における勝利につながることになるのでした
本日はレオニダス以下スパルタ兵300人の玉砕日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
247
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/12(火) 00:40:58 ID:8.FBYgyI
8月12日はアスカロンの戦いが行われた日です
>>224
で見たゴドフロワ=ド=ブイヨンの聖墳墓守護者への選出と、それに伴う実質的なイェルサレム王国の成立により、第1回十字軍の目的は達成されました
しかしイェルサレムを攻撃されたファーティマ朝も手をこまねいていたわけではなく、イェルサレム攻囲戦が行われていた段階で、大軍をイェルサレム向けて進発させていました
1099年7月15日のイェルサレム陥落時点でファーティマ朝軍はイェルサレムに到達しておらず、十字軍によるイェルサレム支配はその間に着々と進められていました
8月に入るとファーティマ朝軍はイェルサレム近郊のアスカロンに到着し、イェルサレムの明け渡しを要求しましたが、もちろん十字軍側はこれを拒否します
8月10日にはファーティマ朝軍を撃退するため、ゴドフロワ自ら軍を率い、イェルサレムを出撃してアスカロンへと向かいました
そして8月12日、十字軍とファーティマ朝の両軍が激突します
数においてはファーティマ朝軍が優勢でしたが、すでに衰退期に入っていたファーティマ朝軍は弱体で統率が取れておらず、十字軍の猛攻により潰乱し、多くの戦死者・捕虜を出して撤退します
こうしてアスカロンの戦いは十字軍の勝利に終わり、翌日にはファーティマ朝軍はエジプトへと撤退、十字軍はシリア・パレスチナでの支配を固めることとなるのでした
本日は第1回十字軍最後の戦いの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田広訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・ジョルジュ・タート、南条郁子他訳『十字軍 ヨーロッパとイスラム・対立の原点』創元社、1993年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
248
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/13(水) 00:54:54 ID:ojFTFSLo
8月13日はコルテスによってテノチティトランが陥落した日です
コンキスタドール(征服者)として知られるエルナン・コルテスは1485年にスペインにて生まれ、その家系は後にイスパニョーラ島の統治者となるニコラス・オバンドの縁戚に当たっていました
15世紀末のスペインは海外進出に積極的で、特に新大陸、アメリカ大陸の植民地化が進められていました
コルテスも新大陸に渡ったスペイン人の一人で、1511年、ディエゴ・ベラスケスのキューバ征服に参加し、その秘書官としてキューバ経営に参画します
しかし次第にベラスケスとの関係が悪化し、1519年、コルテスは500の兵を率いてメキシコに侵攻することになります
一方、その当時のメキシコはというと、アステカ帝国が繁栄を享受していました
1428年に成立したアステカ帝国はモンテスマ1世が積極的な遠征を行い、メキシコ湾岸地域を次々と支配下に収めていきました
その後もアステカ帝国の版図は広がり、1502年に即位したモンテスマ2世は太平洋沿岸地域にも勢力を拡大、彼の代でアステカ帝国の最大版図が実現されます
首都のテノチティトランは大いに繁栄し、まさに絶頂期といえましたが、その繁栄の一方でアステカ帝国支配下の諸民族は重税に苦しみ、アステカ帝国への不満を高めていました
コルテスはそのような状況下におけるメキシコに侵入したのです
わずか500人の兵で進軍したコルテスでしたが、反アステカの諸民族が次々にコルテスと同盟を結び、その連合軍は大軍へと膨れ上がります
コルテスは当初テノチティトランに迎え入れられるもやがて追放され、さらに1520年にはアステカ人がスペイン人に対して反乱を起こし、反乱を止めるよう説得したモンテスマ2世も殺されてしまいます
コルテスはいったん退却し、1521年、改めて連合軍を率いて侵攻します
そして同年8月13日、数ヶ月間に渡る包囲の末テノチティトランは陥落し、アステカ帝国の広大な領土を獲得したのでした
本日はアステカ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・モーリス・コリス、金森誠也訳『コルテス征略誌 「アステカ王国」の滅亡』講談社、2003年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
249
:
Republica de Venexia
:2014/08/19(火) 00:43:07 ID:???
8月19日は楊玉環が玄宗の皇后となった日です
唐は第2代太宗が「貞観の治」と呼ばれる善政を敷き、唐は安定した時代となっていました
しかし第3代高宗は政治への関心に乏しく、その皇后である則天武后が実権を掌握し、実子である第4代皇帝睿宗を廃位して自ら皇帝に即位、国号を周としました
やがて則天武后が亡くなると中宗が第5代皇帝となり周は滅亡しますが、今度は中宗の皇后である韋后が中宗を毒殺、政治の実権を握ります
しかし韋后も殺され、この間皇帝が短期間で交代を繰り返す混乱時代となりました
この「武韋の禍」を収め、712年に第9代皇帝となったのが玄宗です
玄宗は「開元の治」と呼ばれる善政を行い、再び唐は安定期を迎えます
その勢威は中央アジアにも及び、また市舶司を設置して海上交易にも力を入れ、文化的にも盛唐と呼ばれる繁栄を見せ、都の長安も大いに栄え、まさに唐の全盛期を築いたのです
しかし最初の皇后である武恵妃が亡くなると、玄宗は新たな皇后を求めます
そして745年8月19日、楊玉環が皇后に迎え入れられ、楊貴妃となったのです
玄宗はこの楊貴妃を溺愛し、次第に政治への関心が薄れるようになっていきます
751年にはアッバース朝とのタラス河畔の戦いに敗れ、さらに755年に起こった安史の乱が決定的となりました
玄宗はこの反乱に有効に対応することができず長安を捨て逃走、唐の全盛期は終わりを迎えることとなったのでした
本日は「傾国の美女」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・村山吉広『楊貴妃 大唐帝国の栄華と暗転』中央公論社、1997年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
250
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/19(火) 00:53:38 ID:cQpPfdWM
>>249
結婚記念日を悔やまれる女
残当
251
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/19(火) 00:56:53 ID:7p9v9sho
ご無沙汰じゃないですか!
このスレだいすき
252
:
Republica de Venexia
:2014/08/19(火) 01:14:00 ID:???
>>250
それまでが上手くいってただけに、楊貴妃以降がほんと残念ですよね
>>251
規制中書き込めなくて...
キャップ発行されたので再開できそうです!
253
:
Republica de Venexia
:2014/08/20(水) 00:40:41 ID:???
8月20日はヤルムーク河畔の戦いが行われた日です
>>235
で取り上げたユスティニアヌス1世の死後、ビザンツ帝国は急速に衰えていくことになります
ユスティニアヌスの征服事業は帝国の国力を大幅に消耗するものだったのです
彼の後継皇帝は広大な領土経営に悩まされます
それぞれ文化・伝統が異なるイタリア・北アフリカ、シリア・エジプト、そしてギリシア・小アジア、これらの統合は困難で、イタリアにはランゴバルド族が侵入、シリア・エジプトにはササン朝が侵入するなど帝国は内外で混乱の極みに達していました
この状況を救ったのがヘラクレイオスでした
彼は帝都コンスタンティノープルで暴政を行っていたフォーカスに対しカルタゴから反乱を起こし、皇帝に即位します
即位当初はシリアでササン朝軍に大敗、聖地イェルサレムを攻略され十字架を奪われてしまいます
しかし622年、ヘラクレイオス自らが遠征を指揮し、6年間に渡る激闘の末ササン朝を撃破したのです
一方、奇しくもヘラクレイオスが遠征を開始したのと同じ年の622年、アラビア半島ではイスラームが勃興していました
イスラームは急速に勢力を拡大し、長年の激戦により疲れ果てていたビザンツ帝国とササン朝に対し攻撃を仕掛けます
そして636年8月20日、ヤルムーク河畔においてイスラーム軍はビザンツ帝国軍に大勝します
ヘラクレイオスは「シリアよさらば、何と素晴らしい国を敵に渡すことか!」と悲痛な叫びをあげたといいます
ヘラクレイオスが長年に渡って築き上げてきた事業がこの一戦で崩壊したのです
一方、イスラームはまたたく間にシリア・エジプトを制圧、地中海にも進出し、大帝国を築くことになるのでした
本日はイスラーム領シリアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
254
:
Republica de Venexia
:2014/08/21(木) 00:55:16 ID:???
8月21日はスウェーデン王グスタフ3世がクーデターを起こした日です
スウェーデンでは
>>205
で取り上げたカール12世がポルタヴァの戦いに敗れたことで、大北方戦争において劣勢を余儀なくされました
カール12世は1718年に急死し、妹のエレオノーラが女王となりましたが、スウェーデンでは元老院が絶対王政を否定し、王権を制限する憲法を発布します
エレオノーラは1720年に退位し、その夫フレドリクが国王に即位しますが、その王権は極度に制限されたものでした
こうしてスウェーデンの国政は議会が握り、「自由の時代」が到来することとなりましたが、対外的な影響力は大きく低下し、かつての「バルト帝国」と称された頃の強勢ぶりは見る影もなくなってしまったのです
このようなスウェーデンの衰退を憂い、かつての強国を復活させようとしたのがグスタフ3世でした
彼は1772年8月21日、議会に対してクーデターを起こし、貴族から実権を奪取、さらに新憲法を発布させることで王権の強化に成功します
このクーデターによってスウェーデンの絶対王政は復活し、グスタフの指導によって対外影響力を強化、さらに「ロココの時代」と称されるように文化面でも大きな発展を見せることになるのでした
本日は「グスタフ朝絶対主義」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史 悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
255
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/21(木) 01:13:39 ID:nVTvF/YA
ヴェネツィア共和国ニキが誕生日スレニキだったんか!
コンシーリオ・ディ・ディエチに所属してそう
256
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/08/21(木) 18:28:07 ID:vy.aqFWc
今日は僕のカッチャマ…の誕生日です
おめでとうございます。
257
:
Republica de Venexia
:2014/08/22(金) 01:02:34 ID:???
8月22日はボズワースの戦いが行われた日です
百年戦争後に勃発したイングランド王位の継承争い、薔薇戦争は
>>173
で扱いましたが、ここではその決定的な戦となったボズワースの戦いを見ていくことにしましょう
薔薇戦争においてヨーク派が一時的に勝利し、ヨーク朝を開くもののその治世が不安定であったことは先に述べましたが、ヨーク派に対する反乱の指導者の一人がヘンリ=テューダーでした
ランカスター家の血を引く最後の男子であったヘンリはヨーク派に命を狙われ、一旦はフランスに亡命します
しかし亡命先のブルターニュで庇護・援助を受け、さらにヨーク派を支援するブルゴーニュ公国と対立するフランス王ルイ11世の支援もあり、ヨーク朝のリチャード3世に決戦を挑みます
ランカスター派の拠点でありヘンリーの出身地でもあるウェールズに上陸したヘンリはランカスター派諸侯をまとめ、さらにヨーク朝リチャード3世に不満を持つ貴族も糾合し、ロンドンへと進軍します
そして1485年8月22日、ボズワース近郊で両軍が激突、戦いはリチャード3世の戦死によりヘンリが勝利を収めました
この決定的な勝利によって薔薇戦争は実質的に終結し、ヘンリ=テューダーはヘンリ7世として国王に即位、イングランドにおける絶対王政を開始するのでした
本日はイングランド・テューダー朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・エドマンド・キング、吉武憲司他訳『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年
258
:
Republica de Venexia
:2014/08/23(土) 01:11:50 ID:???
8月23日はチャルディラーンの戦いが行われた日です
16世紀の西アジアでは、オスマン帝国とサファヴィー朝という2大イスラーム国家が興隆し、互いに覇権を争っていました
オスマン帝国は
>>146
で見たメフメト2世によるコンスタンティノープル征服後も各地に勢力を拡大、バルカン半島の諸地域を制圧し小アジアのビザンツ亡命政権も滅ぼしました
メフメトの後を継いだバヤジット2世は勢力拡大には消極的だったものの、クーデターによりスルタンとなったセリム1世は再び対外積極策を展開、西アジア方面への征服を開始しました
一方、西アジアでは
>>222
でも登場したティムール朝の衰退後、アゼルバイジャンより興ったサファヴィー朝が台頭していました
サファヴィー朝はキジルバシュと呼ばれる強力な騎馬軍団を擁し、建国者イスマイール1世はこのキジルバシュを駆使し連戦連勝、オスマン帝国も手を焼いた白羊朝を滅ぼし、さらに東方のシャイバニー朝も破り西アジアに強力な国家を築きます
サファヴィー朝はシーアの一派十二イマーム派を国教とし、スンナ派を信奉するオスマン帝国は軍事的・政治的・宗教的にもサファヴィー朝は宿敵として登場したのです
オスマン帝国・サファヴィー朝両国間の緊張は高まり、1514年8月23日、小アジア東部のチャルディラーンにおいて激突しました
サファヴィー朝軍の主力はもちろん、その勃興当初より無敵を誇る騎馬軍団キジルバシュ
一方のオスマン帝国はスルタンの直属部隊、最新鋭の火器で武装したイェ二チェリを中核とし、コンスタンティノープル攻囲戦でも威力を発揮した大砲も配備されていました
戦いは一進一退でしたが、火力にと数に勝るオスマン帝国が勝利し、不敗神話が崩れたイスマイール1世は対外消極策に転じることとなりました
一方セリム1世は火力の充実に自信を深め、西アジア地域における征服活動を本格化させていくのでした
本日は火器による騎馬軍団に対する決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・永田雄三編『世界各国史9 西アジア史2 イラン・トルコ』山川出版社、2002年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年
259
:
Republica de Venexia
:2014/08/24(日) 01:19:50 ID:???
8月24日はアラリックがローマを攻略した日です
ローマの攻略・略奪は
>>93
でも取り上げましたが、遡ること約1100年、同じような事件がローマを襲っていました
375年、本格的に大移動を開始したゲルマン人はローマ帝国の各地に定住しましたが、その最初の集団となったのが、アラリックが属する西ゴート族でした
西ゴート族は378年のハドリアノポリスの戦いでローマ軍を壊滅させ、ローマ皇帝ウァレンスが戦死するなど、ローマ帝国にとって危険な存在となっていました
それでも皇帝テオドシウス1世は西ゴート族に対して妥協し、その勢力を抑えることに腐心していました
しかしテオドシウスが亡くなり、アルカディウスが後を継ぐ頃には西ゴート族の独立心は高まり、アラリック王の下で攻勢に出ます
アラリックはギリシアの各地を略奪するとさらに西方へと向かいます
このアラリックの軍勢は、いったんは西ローマ帝国の将軍スティリコによって撃退されます
しかしエピルスで力を蓄えたアラリックは再び西方へと進軍し、ついにイタリアへと侵入します
この西ゴート族の侵入に対し西ローマ皇帝ホノリウスは宮廷を捨ててラヴェンナに逃亡するなど消極策を取ることしかできませんでした
アラリックによるローマ包囲に対し、ホノリウスは和平交渉を進めるものの成果は芳しくなく、宮廷内の混乱もあって交渉は破綻します
そして410年8月24日、ローマはアラリックによって攻略され、「永遠の都」が蛮族によって蹂躙されるという衝撃を人々に与えたのでした
本日は西ゴート族による「ローマ劫掠」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年
260
:
Republica de Venexia
:2014/08/25(月) 01:09:14 ID:???
8月25日はベルギーで独立運動が始まった日です
>>164
で見たように、ナポレオン戦争の終結後ウィーン議定書がまとめられ、ヨーロッパはウィーン体制と呼ばれる国際体制に移行しました
しかし自由主義・国民主義を抑制するこの体制も、その動きを抑えきることはできず、1830年7月、フランスにおいて復古王政打倒の革命が勃発します
反動的な復古政策を進めていたブルボン朝のシャルル10世は追放され、自由主義に協力的なオルレアン公ルイ=フィリップが国王に即位し立憲君主制が成立しました
この7月革命と呼ばれる市民革命はヨーロッパ各地に波及することとなりました
その地域の一つがベルギーです
ベルギーはウィーン議定書によってオランダとともにネーデルラント連合王国に再編されましたが、カトリックのベルギーとプロテスタントのオランダという宗教上の相違が存在し、また王国の支配が全てオランダ人によって行われていたこともあって、ベルギー地域では不満が高まっていました
そこに起こったのが先に挙げたフランス7月革命であり、この革命の成功はベルギー市民を大いに勇気づけたのです
そして1830年8月25日、ブリュッセルにおいてオランダ支配に反対する暴動が発生、独立を求める革命へと発展します
同年10月には独立が宣言され、翌1831年2月には憲法が制定されます
オランダはこの独立運動を鎮圧しようとするものの、ヨーロッパ列強はベルギーの独立を事実上承認し、オランダは単独で戦わざるを得なくなります
また同じカトリックのフランスがベルギーを支援したこともあってオランダは鎮圧を断念、1839年にはベルギー独立を正式に認めることになるのでした
本日はベルギー独立革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ジョルジューアンリ・デュモン、村上直久訳『ベルギー史』白水社、1997年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・松尾秀哉『物語ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路』中央公論新社、2014年
261
:
Republica de Venexia
:2014/08/26(火) 00:48:30 ID:???
8月26日はマンジケルトの戦いが行われた日です
ビザンツ帝国は
>>232
で見たように、バシレイオス2世によって全盛期を迎えていました
しかし彼の死後、ビザンツ帝国は衰退へと向かっていきます
バシレイオスは徹底した緊縮財政、貴族や官僚を抑圧した専制政治によって国力を増強していましたが、彼の死によって不満が表面化し、反動的な状態となったのです
後継皇帝たちは放漫財政を続け、特に大規模な建築事業によって浪費、やがて財政が破綻します
貴族もバシレイオスの抑圧から解放され、自分たちに都合の良い皇帝を次々と擁立、その結果、
>>46
で見たアレクシオス1世の即位までの約50年間に皇帝交代が4年に一度の頻度で行われる混乱時代となったのです
さらにマケドニア朝時代の軍人皇帝とは対照的に、この時代の皇帝は財政難から軍事費を削減、ビザンツ帝国の強兵は解体されていったのです
このような状況で東方より襲来したのがセルジューク朝でした
トゥグリル=ベクに率いられたセルジューク族はイランを制圧、さらにバグダードに入りスルタンの称号を得ます
トゥグリル=ベクの死後はアルプ=アルスランが継ぎ、侵略は一層激しくなりました
そして1071年8月26日、小アジア東部のマンジケルトにおいてビザンツ帝国軍とセルジューク朝軍が激突、ビザンツ帝国は壊滅的な敗北を喫し、その衰退が決定的となります
一方セルジューク朝は順調に侵略を進め、小アジア全域を支配することとなるのでした
本日は「ビザンツ帝国史上最大の災厄」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
262
:
Republica de Venexia
:2014/08/27(水) 01:07:20 ID:???
8月27日はプラタイアの戦いが行われた日です
イオニア植民市の反乱をきっかけに始まったアケメネス朝ペルシアによる征服戦争、ペルシア戦争は、
>>246
で見たテルモピレーの戦いの後、サラミスの海戦に勝利したことでペルシア王クセルクセス1世が撤退し、ギリシア側有利へと傾いていました
ペルシア軍は王の撤退後もギリシアに残り、将軍マルドニオスが指揮をとっていました
マルドニオスは占領したアテナイの街を破壊し、テーベに拠って挽回しようとしましたが、ギリシア諸ポリスの指揮は高く、マルドニオスの派遣したペルシア騎兵を度々撃退しました
ここに至ってマルドニオスは自身が率いる本隊を進出させ、ギリシア諸ポリスとの決戦を挑みます
そしてテルモピレーの戦いからほぼ1年後の前479年8月27日、プラタイアにおいてペルシア軍とギリシア連合軍が激突しました
ギリシア連合軍を率いるのは、テルモピレーで玉砕したレオニダス王の甥パウサニアスで、彼の指揮によりギリシア重装歩兵がペルシア軍を撃破、指揮官マルドニオスも戦死しします
この戦いの後、ペルシア側についていたテーベはギリシア連合軍によって攻略され、さらにほぼ同時期に行われたミュカレ海戦でもギリシア連合軍が勝利、この陸海での勝利によりペルシアはギリシア本土からの撤退を余儀なくされるのでした
本日はペルシア戦争におけるギリシア側決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
263
:
Republica de Venexia
:2014/08/28(木) 00:59:57 ID:???
8月28日は西ローマ提督の将軍オレステスが皇帝ネポスを追放した日です
>>259
で見た、西ゴート族のアラリックによるローマ劫掠の衝撃を受け、西ローマ帝国は混乱状態に陥りました
これは西方への侵入を進めていたゲルマン人にとって好都合となり、西ゴート族は南ガリア・ヒスパニアを領有します
イタリア・ガリアにもゲルマン人が侵入し、この対処に追われることになった西ローマ帝国はブリタニアの支配を放棄、ここにはアングロ・サクソン族が入りました
ガリアも西ローマ支配の弱体化に乗じてフランク族やブルグント族が侵入します
特に強力だったのがヴァンダル族で、ガイセリックが率いるこのゲルマン人の一派は、西ローマ帝国支配下の地域を縦横無尽に暴れ回り、439年にはカルタゴを征服しヴァンダル王国を建国します
455年にはローマも占領し、さらにヴァンダル王国討伐に派遣された東ローマ帝国艦隊も壊滅させ、地中海地域を掌握する一大勢力となったのです
西ローマ皇帝にユリウス・ネポスが即位したのはこのような状況においてでした
ダルマツィアに勢力基盤を持つこの皇帝は西ローマ帝国領の統合を試み、西ゴート族との交渉をまとめ、講和することに成功します
しかし軍務長官にアッティラの重臣であったフラウィウス・オレステスを任命すると、この野心的な将軍は475年8月28日、ネポスに対し反乱を起こし、ロムルス・アウグストゥルスを皇帝に即位させます
帝都ラヴェンナから追放されたネポスはダルマツィアに渡り、アウグストゥルスは僭称皇帝であり、正当な皇帝は自分であると主張しました
東ローマ皇帝ゼノンもアウグストゥルスの皇帝位を認めず、ネポスを支持します
ここに、西ローマ帝国には実質的に2人の皇帝が並立するという事態となったのでした
本日は対立皇帝ネポスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年
264
:
Republica de Venexia
:2014/08/29(金) 00:34:03 ID:???
8月29日はモハーチの戦いが行われた日です
>>258
で見たチャルディラーンの戦いの後、オスマン帝国はさらなる領土拡大を続け、1517年にはエジプトのマムルーク朝を征服、聖地メッカをも支配下に収めます
セリム1世は1520年に病没しますが、その後を継いだのが、「壮麗者」と呼ばれ、ヨーロッパ世界を恐怖のどん底に叩き込むことになるスレイマン1世でした
スレイマンはスルタンとなると、バルカン半島への進出を開始します
彼はビザンツ帝国を滅ぼし「征服者」と恐れられたメフメト2世が攻略できなかった要衝、ベオグラードとロードス島の攻略に取り掛かりました
ベオグラードはハンガリー平原への入り口にあたり、トランシルヴァニアやオーストリアに進出する際の拠点となる都市で、ここを1521年に陥とします
ロードス島は聖ヨハネ騎士団の根拠地であり、小アジアの喉元に位置するこの島から騎士団は度々出撃、イスラームの商船を襲撃していました
しかしロードス島もスレイマンにより1522年に征服され、いよいよヨーロッパ世界へ進出する際の障害は無くなったのです
1526年、ついにスレイマンは大軍を率いてハンガリーへと侵攻します
これに対抗するのはハンガリー王ラヨシュ2世でしたが、当時ハンガリーは農民運動が激化しており、さらに貴族の対立によって不安定な状態でした
弱冠20歳のラヨシュではこれを制御し切れず、統制の取れないままオスマン帝国軍を迎え撃つことになります
そして1526年8月29日、ハンガリー王国の首都ブダの南に位置するモハーチにおいて、ラヨシュ率いるハンガリー騎馬隊を、大量の大砲を有するオスマン帝国軍が完膚なきまでに粉砕し、ラヨシュは戦死します
これによりハンガリーはオスマン帝国に従属し、スレイマンはこの後オーストリアのウィーンまで侵攻することになるのでした
本日はオスマン帝国による本格的な西欧進出の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
265
:
Republica de Venexia
:2014/08/30(土) 00:58:39 ID:???
8月30日は東ゴート王テオドリックが死去した日です
西ローマ帝国は
>>263
で見たネポス追放、ロムルス=アウグストゥルス即位の翌年、476年にゲルマン人親衛隊長オドアケルによって皇帝位が廃され、滅亡します
ダルマツィアに逃れ皇帝権を保持していたネポスも480年に暗殺され、オドアケルはダルマツィアを併合しました
オドアケルは自ら皇帝に即位することはなく、西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返上し、イタリア王となります
しかしオドアケルが東ローマ帝国の内政に干渉するようになるとゼノンはオドアケル討伐を決定、これを命じられたのがしたら東ローマ帝国の軍事長官、東ゴート族のテオドリックでした
テオドリックは488年にオドアケル討伐に着手し、493年にはラヴェンナを攻略、イタリア王となります
この王位は497年、東ローマ皇帝アナスタシウス1世によって正式に認められ、ここに東ゴート王国が成立したのです
テオドリックはこの功績により「大王」と称され、東ローマ帝国に従属しつつ、西ローマ帝国の継承を意識した国家作りを進めました
ローマ法の理念も引き続き適用され、混乱していた旧西ローマ帝国地域におい安定した時代を現出しましたが、男子の後継者が産まれなかったことが東ゴート王国に暗い影を落とすことになります
526年8月30日にテオドリックが亡くなると、王国の諸問題は次第に表面化、後継者を巡る争いも激化したことで王国は没落、やがて
>>235
で見たように東ローマ帝国によって滅亡するのでした
本日は東ゴート王国衰退の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・松谷健二『東ゴート興亡史 東西ローマのはざまにて』中央公論新社、2003年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
266
:
Republica de Venexia
:2014/08/31(日) 00:52:27 ID:???
8月31日はアル=カーミルがアイユーブ朝のスルタンに即位した日です
アイユーブ朝は
>>199
で取り上げた始祖サラディンが1169年に建国して以来、十字軍との抗争を繰り広げました
1193年にサラディンが病没すると、アイユーブ朝の領土はその弟や息子たちによって分割相続され、実質的な分裂状態となります
そのなかで勢力を伸ばしたのがアル=アーディルでした
アーディルはシリア・エジプトを基盤に勢力を拡大し、十字軍勢力に対しては通商関係を持ち和平協定を結ぶことで共存を図ります
このアーディルの死後、1218年8月31日にスルタンとなったのがアル=カーミルでした
彼はアーディルの政策を継承・発展させ、十字軍勢力や西欧との通商関係を維持し、さらに領内のキリスト教徒を保護するなど、異教徒に対して寛容な姿勢で臨みました
その最も顕著な例が、フリードリヒ2世の「破門十字軍」への対応です
カーミルと同じく異文化に理解を示し、「玉座に座った最初の近代人」と称される神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、聖地イェルサレムを交渉によって奪還しようと試みます
カーミルはこの異文化に理解があるフリードリヒとの書簡を交わし、学問も含めた議論を行ううちに、互いの想いが同じであると認識しました
ここにおいて和平交渉がまとめられ、10年間の休戦協定と、イェルサレムの返還、双方の宗教的寛容を内容とする協定が成立しました
これに対する周囲の反応は冷たく、フリードリヒは異教徒との戦いを避けたことを非難され、カーミルもイェルサレムの放棄を糾弾されます
しかし異教徒に対する理解が十分に進んでいない時代において、2人の指導者が異文化理解に基づく和平協定を行ったことは特筆すべきことでしょう
本日はアイユーブ朝第5代スルタンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・アミン・マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房、2001年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
・エルンスト・カントロヴィッチ、小林公訳『皇帝フリードリヒ2世』中央公論新社、2011年
267
:
Republica de Venexia
:2014/09/01(月) 10:13:56 ID:???
9月1日はフランス王ルイ14世が死去した日です
>>106
で見たように、1643年5月14日に即位したルイ14世の治世は苦難から始まりましたが、宰相マザランの補佐もあって難局を乗り切ることに成功します
1661年にマザランが亡くなるとルイは親政を開始し、ブルボン朝絶対王政の絶頂期を築き、「太陽王」と呼ばれることになるのです
ここでは、ルイ14世の治世を簡単に見ていくことにしましょう
親政を開始したルイは財務総監にコルベールを起用し、その重商主義政策によって財政を再建します
またコルベールは海軍大臣にも就任し、フランス海軍の強化にも貢献しました
陸軍の強化も並行して行われ、陸軍大臣ルーヴォワ侯によって軍制改革が進められ、フランス陸軍もまた強力なものとなります
ルイはこの強大な軍事力を背景に征服戦争を進め、ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争によって領土を拡大、ヨーロッパに対する影響力を大きく高めます
さらに彼は王権神授説に基づいた絶対王政を展開、その権威は最高潮となります
1682年に築いた絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世絶対王政の象徴といえるでしょう
しかしルイ14世の晩年はその栄光に陰りが見えるようになります
ファルツ継承戦争やスペイン継承戦争では成果を得られず、戦争による出費や贅沢な暮らしによって財政難に陥ったのです
そして1715年9月1日、ルイ14世は72年110日という長い治世の幕を下ろしました
これはフランス史上最長のみならず、国家元首としても最長記録ということで、ギネス世界記録にも認定されています
本日は「中世以後の国家元首として最長の在位期間」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀なかば』山川出版社、1996年
・長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
268
:
Republica de Venexia
:2014/09/02(火) 00:45:32 ID:???
9月2日はアクティウムの海戦が行われた日です
ローマでは
>>244
で見たように、ポンペイウスを倒したカエサルが独裁権を握ることになりました
しかしカエサルによる急速な改革は共和派の反感を買い、カシウスやブルートゥスらがカエサルの暗殺を計画しました
前44年にカエサルは暗殺され、その遺志は彼の後継者たちに引き継がれます
まずカエサル子飼いの将軍、アントニウスがカエサル派を糾合し元老院の主導権を握り、カエサルを暗殺した共和派を追放します
またカエサルの遺言状には彼の甥であるオクタウィアヌスを養子・財産継承者とする旨が書かれており、カエサルを継承するリーダーとして台頭するようになります
当初この2人は対立していましたが、オクタウィアヌスはカエサル派の連携を第一と考え、同じくカエサルの部下であったレピドゥスを誘い第二回三頭政治が成立しました
こうしてローマではカエサル派による支配が確立しましたが、オクタウィアヌスとアントニウスは互いに勢力を競い合い、オクタウィアヌスはイタリア・ヒスパニアを、アントニウスは全東方・ガリア・ナルボンネンシスの統治権を握ります
レピドゥスはこの2人に対抗するには非力で、やがて三頭政治から退き、いよいよ2人の直接対決へと向かいます
イタリアと西方での支配権を確立しローマの最有力者となったオクタウィアヌスはアントニウスと結んだプトレマイオス朝に宣戦布告、前31年9月2日、アクティウムの海戦が勃発します
この海戦に敗れたアントニウスは逃亡しその後自殺、プトレマイオス朝の女王クレオパトラも自殺し、オクタウィアヌスによってローマによる地中海世界統一が達成され、ローマの内乱に終止符が打たれたのでした
本日は「内乱の一世紀」の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
269
:
Republica de Venexia
:2014/09/03(水) 01:10:33 ID:???
9月3日はアイン・ジャールートの戦いが行われた日です
モンゴル帝国初代、チンギス=ハーンの代より行われてきた大西征は一時中断されていたものの、第4代モンケの代に再び計画され、西アジア方面にはモンケの弟フレグが派遣されました
フレグはイラン北西部、アラムートを拠点にモンゴル帝国に対抗していた二ザール派(暗殺教団)を破ると、1258年にはアッバース朝を滅ぼし、バグダードを潰滅させました
フレグは続いてシリアに侵入し、1260年2月にはアレッポとダマスクスを相次いで陥落させ、いよいよマムルーク朝が支配するエジプトへと侵攻する段階となっていました
しかしここでモンケが死去したとの報が伝わり、フレグはモンゴルへの帰還を決意します
フレグ率いるモンゴル軍は、中東地域において恐れられていた二ザール派、そしてイスラームの最高権威アッバース朝を葬り、まさに無敵の軍団と見えたことでしょう
しかし、そのモンゴル軍が引き上げていった...このフレグの旋回により、シリア以西の諸地域は救われたのです
モンゴルの大西征が決定的に食い止められたのは、アイン・ジャールートの戦いによってでした
フレグの本隊が引き上げた後も、先鋒部隊としてキト=ブカの手勢がシリアに駐留していました
キト=ブカは雑多な諸民族・諸教徒からなる混成軍が崩壊するのを恐れたのか、自身の手勢のみで南下を開始、マムルーク朝への攻撃を試みます
一方のマムルーク朝もフレグ本隊の引き上げを好機とみて北進を開始しており、両者は1260年9月3日、アイン・ジャールートにおいて激突します
寡勢のモンゴル軍は、マムルーク朝の英雄バイバルスによって大敗を喫し、潰走しました
バイバルスはその後もモンゴルとの戦いにおいて連戦連勝を重ね、モンゴルはこれ以後シリアを確保できず、中東にはフレグ=ウルスとマムルーク朝の均衡状態が生まれることになるのでした
本日はモンゴルの大西征の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡』講談社、1996年
・牟田口義郎『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』中央公論新社、2001年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
270
:
Republica de Venexia
:2014/09/04(木) 00:01:31 ID:???
9月4日はロムルス=アウグストゥルスが廃位された日です
西ローマ皇帝ネポスが廃位され、ロムルス=アウグストゥルスが即位したのは
>>263
で見ました
このロムルスはネポスを追放したオレステスの実子で、実権はオレステスが握る傀儡政権でした
このオレステスの支配も長くは続かず、ロムルスが即位して1年足らずの476年9月3日、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱によってオレステスは殺害され、ロムルスはローマ皇帝位を追われました
その後の経緯は
>>265
で見た通りで、西ローマ皇帝位は東ローマ皇帝が保持し、名目上統一ローマ帝国が実現することとなります
この統一ローマ帝国は、
>>235
で取り上げたように、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によるイタリア支配により一時的に実現しますが、それも長続きしなかったのはこれまで見てきた通りです
西ローマ帝国の復活は、800年のシャルルマーニュの戴冠によって果たされることになるのです
本日は西ローマ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年
271
:
Republica de Venexia
:2014/09/05(金) 01:33:56 ID:???
9月5日はマルヌの会戦が行われた日です
>>221
で見た普仏戦争での勝利により、ドイツの統一は達成され、以後ビスマルクは対外戦争を控え外交政策に専念、フランスを孤立させるためロシアとも条約を結んでいました
しかし1890年にビスマルクが失脚しヴィルヘルム2世が親政を始めると、ロシアとの再保障条約更新を拒否し、その結果フランスとロシアが同盟、ドイツは東西に敵を抱える形となりました
この状況において参謀総長シュリーフェンはシュリーフェン・プランを考案します
その内容はまずフランスを全力を挙げて早期に攻略し、その後鉄道網を活用してロシアに軍を送るというものでした
シュリーフェンは1905年に退任し、第一次世界大戦におけるシュリーフェン・プランは
>>198
でも取り上げたモルトケの甥小モルトケが実行することになります
1914年に第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍は計画通りフランスに侵入しますが、9月5日、マルヌ河畔においてフランス軍の抵抗に遭います
フランスはタクシーを活用した輸送作戦を実施、強固な防衛線を築き、ドイツの侵攻を食い止めることに成功します
ドイツ軍はフランス軍を突破できず、当初の計画は失敗に終わります
以後両軍は塹壕を築いて対峙し、長期にわたる塹壕戦に突入することになるのでした
本日はシュリーフェン・プランが挫折した会戦の誕生日です、フランスの皆さんおめでとうございます
参考文献
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・アンリ・イスラン、渡辺格訳『マルヌの会戦 第一次世界大戦の序曲 1914年秋』中央公論新社、2014年
・木村靖二『第一次世界大戦』筑摩書房、2014年
272
:
Republica de Venexia
:2014/09/06(土) 01:42:42 ID:???
9月6日はマゼラン艦隊がスペインに帰港した日です
スペインでは1492年にナスル朝を滅ぼしレコンキスタ(再征服運動)を完遂すると、ポルトガルが先行していた新航路開拓に本格的に乗り出しました
同年8月にはスペインの支援でコロンブスば西回り航路での航海に出発し、10月には西インド諸島に到達しました
その後もスペインは南北アメリカ大陸への進出に力を入れることになります
1519年8月にはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の命でマゼラン(マガリャンイス)が同じく西回りでのアジア到達を目指します
マゼラン艦隊は南アメリカ大陸の南端を回り、太平洋に進出しました
この際通った大西洋・太平洋を分かつ海峡は後にマゼラン海峡と命名されます
マゼランは1521年には現在のフィリピンに到達し、フィリピンの諸部族を征服していきました
しかし部族長の一人ラプ=ラプはこれに抵抗おし、マゼランは討伐に赴きますが、逆に敗れ戦死してしまいます
マゼランの死後、艦隊の指揮官はエルカーノが引き継ぐことになります
フィリピン出発後のマゼラン艦隊は苦難の連続でした
インド洋海域はポルトガルの勢力圏であり、マゼラン艦隊は補給に苦労し、さらに壊血病や栄養失調により乗組員が次々と死亡、出発当時5隻265人だった艦隊は1隻18人にまで減少してしまいます
それでも1522年9月6日、エルカーノ率いるマゼラン艦隊はついにスペインに到着しました
エルカーノにはカルロス1世より、地球の図に「我を一周せし最初の者」と刻まれた紋章が与えられ、その功績が讃えられることになるのでした
本日は世界一周の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・増田義郎『図説 大航海時代』河出書房新社、2008年
273
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/09/06(土) 11:05:35 ID:lAG07cCg
やっぱり地中海世界が多いですね
274
:
Republica de Venexia
:2014/09/06(土) 11:28:00 ID:???
>>273
基本的に自分の関心ある分野から選んでますねー
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