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ホラーテラー作品群保管庫

1ほら:2014/06/03(火) 14:13:56 ID:j2Iwz4NM0
名作の宝庫だったので残したいと思います

83なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」1:2014/06/11(水) 17:56:43 ID:hD.sYvCs0
その年の夏は、猛暑に加えて全国的に中々雨が降らず、そこらかしこで水不足に悩まされていた。
ダムの水が干上がって底に沈んでいた村役場が姿を見せたとか、地球温暖化に関するコラムだとか、
『このままではカタツムリが絶滅してしまう』と真剣に危惧する小学生の作文とか、
四コマ漫画の『わたる君』の今日のネタは、『アイスクリームとソフトクリームはどちらが溶けるのが早いか』で、
わたる君が目を離した隙に妹のチカちゃんが両方平らげてしまうという、そんなオチとか。
床に広げた今朝の新聞。天気予報の欄に目を移すと、今後いつ雨が降るのかはまだ予想できないと書かれていた。
窓の外に目を向ける。確かに雨の予感は微塵も感じず、今日もうんざりするくらい晴れている。
「……なあなあ、ちょっとさ、休憩せん?」
「でーきーた。ほれよ、八百体目」
友人のKは僕の提案が聞こえなかった様で、数十体のティッシュペーパー人形が僕の目の前にどんと置かれる。
僕の仕事は、この人形たちの腰から下げてる糸の先にセロテープをつけて、一体ずつ天上から吊るすことなのだ。
すでに天上には七百体以上の人形が吊るされていて、まるで……と言っても形容できるようなシロモノではない。
この状況は、昨日の夜から今日の朝にかけて、僕とKが二人がかりで創り上げたのだ。
常識ある人が見ればギョッとするような光景だが、すでに僕の常識はマヒしているのだろう。
「Sも手伝ってくれりゃあ良いのになあ。途中で帰りやがって。冷てーやつだ、全くよぉ」
Sと言うのは僕ら二人の共通の友人だ。彼には常識があるし、間違っても徹夜で紙人形を作る様な人間では無い。
「まあバイトって言っても、この内容聞いたら普通は断るよ」
「おめーはやってんじゃん」
「内容訊かずに『うん』って言っちゃったからね」
もう分かっているかとは思うが、僕が言う人形とは、てるてる坊主のことだ。
しかもこの天上に吊るされている彼らは、皆一様にスカートを上に、頭を地面に向けている。
つまり逆さ。『ふれふれ坊主』だの、地方によっては『るてるて坊主』と呼んだりもするそうで、
Kは『ずうぼるてるて』 と呼んでいる。
普通のてるてる坊主が晴れを願って吊るされるものなら、『ずうぼるてるて』 はその逆、雨を願うものだ。
「さっき新聞で見たけど。今日からの週間天気予報じゃさ、雨が降る気配なんてこれっぽっちも無さそうなんだけど……」
「だから面白れーんじゃねーか。通常じゃありえねーことが起こるから、オカルトなんだよ。ったりめーだろ」
言いながらKは、二百枚入りのティッシュ箱を新たに開けて、一番上のティッシュ抜き出す。
ティッシュは薄い紙が二枚重なっているので、上手く剥がして一枚を二枚に分け、
ちょいと人差し指を舐めてから、その薄い一枚をミートボールくらいに丸める。
その上にもう一枚を被せ、首の部分をねじってタコ糸を添えてセロテープで固定する。
その流れる様な一連の手捌きは、もはや素人の域では無い。
「でもさ。これでもし明日普通に晴れても、バイト代返せなんて言わんでよ」
「言わねーよたぶん」
「いやたぶんじゃなくて」

84なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」2:2014/06/11(水) 17:57:35 ID:hD.sYvCs0
言い忘れていたが、現在僕が居るここはKの部屋だ。
僕がKに呼ばれて、この学生寮の二階の一番奥の部屋にやって来たのは、
今現在から十五時間ほど遡った、昨日の午後四時が若干過ぎた頃だった。
大学でその日一日の講義が終わった後、
「このあと暇ならよー、ウチで簡単なバイトしねーか?」というKの誘いに乗ってしまい、
オカルティックな趣味を持つKの実験に付き合わされることになった。
千体坊主。
全部Kから聞いたことになるけども、千羽鶴にも似たこのまじないは、
千体のティッシュペーパー人形(別に紙なら何でも良い)を吊るすことで、明日の天候を人為的に変えてしまうというものだ。
人形の頭を上にすると晴れ。下にすると雨。
但し、条件が三つあるらしい。
まず一つは、人形を作る時に中に詰める方の紙を、自分の唾液(ホントは血液の方がいいらしいが)でほんの少し湿らせる。
二つ目に、作っている人は千体坊主完成まで絶対に家の外に出ないこと。
この場合はKが作っている人になる。(僕は別に出ても良いらしい)
途中で出たらなんか悪いことが起きる、とのこと。
三つ目は、人形を千体吊り終えたら、とある『うた』 を歌うこと。
千体坊主が完成し、無事うたを歌い終えれば、次の日の天候はその人の望んだものになる、らしい。
K自身も知ったのはネット上のとある掲示板だという話なので、あまり期待はしてないそうだけども。
僕もオカルトが嫌いではないので、興味はある。
給料も出るということなので、だからやってみようと思ったのだが、予想に反して時間が掛かる掛かる。
はっきり言って最後の方はかなり後悔していた。
ちなみに、最後に歌うといううたの内容は、三番まであって、晴れ用と雨用の二種類あると言う。
それ以上は教えてもらってない。
てるてる坊主の歌というと、僕が知るのは童謡くらいだけども、関係あるのだろうか。

そうこうしているうちに、八百体目の人形を天上に吊るし終えた。
もうKは九百体に王手をかけ、カウントダウンが始まるのもそう先のことではないだろう。
但し、ここまで来るのに相当長かった。正確に言えば、食事と休憩も入れて十六時間くらい。
「うーん……、眠たーい寝たーい夢見たーいー」
「さっきからうっせーな。ダイジョーブだって。人間三日くらい寝ずに働いたって、死にゃしねえんだからよ」
「一体三円って、絶対割に合わない気がしてきた……、自給にしたら二百円以下じゃん」
「今頃おせえよ」
しかし、Kだって昨日から寝てないはずなのに、明らかに僕より元気なのが不思議だ。

そうこうしている内に、天井に吊るされた『ずうぼるてるて』の総数が九百五十を越えた。残り五十。
頭上を埋め尽くす逆さに吊るされた白い人形。
下から見上げれば、まるで僕らの方が天井にへばりついているかのような錯覚を覚える。
錯覚してる間に残り十体だ。Kも一緒に天井に貼り付けながら、カウントダウンが始まる。
……997……998……999……、1000。

85なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」3:2014/06/11(水) 17:58:18 ID:hD.sYvCs0
「おおー……!」
その瞬間、僕は思わず感動の声を上げていた。
消費ティッシュペーパー千と六枚(※途中鼻かんだから。最後で『六枚足りねえ』 ってなった)。タコ糸約三百メートル。
セロテープ丸々一個と半分。天上の消費面積、六畳間まんべんなく。総消費時間約十六時間と四十分。
千体坊主。完成。
「うわきめえー」
感動の千体坊主完成を経て、Kがまず発した言葉はそれだった。
僕はかなり本気で、バイト代要らないからぶん殴ってやろうかなこいつ、と思った。
「ま、何にせよ。後はうたを歌うだけってか。
 あー後は一人でやんよ。疲れただろ、ワリーなこんな時間までよ。……ほれ、バイト代」
そういってKはポケットから財布を取り出すと、ちょいと人差し指を舐めて、中から千円札を三枚取り出した。
もはや癖になっているようだが、やめれ。
「ってことで。今日は帰って、良く寝るこった」
「……今日一限目からあってだね。テストも近いから寝れん」
僕の言葉にKは「うはは」と笑う。
「マジかよー。でもまー、人間三日寝ずに働いたって死にゃしねえからさ。だから頑張れ若人よ……
 つーわけで俺は昼まで寝るわ。明日の天気を楽しみにしとけ。そんじゃ、おやすみ」
そう言ってKは部屋の隅に立ててあった折りたたみベットを広げると、その上に、バフン、と身を投げた。
ポーズじゃなくて本当に眠る気だったらしく、Kは十秒で死体の様に静かになった。
僕は最後に何か言ってやろうと思ったけど、結局、溜息だけをついて部屋を出る。
その際に、一度だけ振り返って再度部屋の様子を確認してみた。
千体の『ずうぼるてるて』 の下で気持ちよさげに眠るこの部屋の住人。
不思議と異様だとかは思わなかった。やっぱり、夜なべのせいで常識がどこかに転げ落ちたのだろうか。
僕は一限目の講義を受ける前に、せめてコーヒーを一杯飲んどこうと思った。瞼が重い。
学生寮から外に出ると、刺さる様な陽射しが出迎えてくれた。

この調子で本当に明日雨なんて降るのだろうか。講義中もふとそんなことを考える。
案の定その日の講義は、眠気と相まってさっぱり頭に入って来なかった。
昼からの講義で僕の隣に座ったSが、
「眠たげだな。まさかとは思うが……、一体何してたんだお前」
はい。てるてる坊主作ってました。ゴメンナサイ。

何とかノートを取ることだけに専念し、ようやく全部の講義が終了。
わき目も振らずに家に帰ると、ご飯も食べずシャワーも浴びずに即効でベッドに倒れこんだ。
完全に眠るまでに、三十秒もかかってないと思う。
その時見た夢は、今朝の新聞で見た四コマの『わたる君』 とまるで同じ場面だった。
妹のチカちゃんがアイスに手を伸ばそうとしている。
いけない。それは君のお兄さんが持つ知的好奇心から生まれた、素晴らしい実験装置なんだ。
何とか止めようとしたのだけれど、チカちゃん背に手を伸ばした瞬間に僕は目を覚ました。

86なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」4:2014/06/11(水) 17:59:01 ID:hD.sYvCs0
携帯が鳴っている。
かなり身体がだるい。僕は壁に掛けてある時計に目を向ける。午前零時過ぎ。真夜中だ。
電話なんて無視しようかとも思ったけど、一応相手を確認する。
Kからだ。僕は無視することにした。
……止まない。
観念して電話に出る。文句を言ってやろうと思ったけど、それより相手の声の方が早かった。
『おい、雨が降ってるぞ!』
中途半端に起こされたので、まだ片足が夢の中だった。だから僕は中々Kの言葉の意味を掴むことが出来なかった。
そりゃ雨だって降るだろう、降らなきゃ困る。今年だってそれで困っている人がたくさんいるのだから。
そんなことをたっぷり数秒考えて、僕はやっとその意味に至った。
「え、ホント!?」
僕は慌ててカーテンの隙間から窓の向こうを見やる。
外は晴れていた。僕は目をこすってもう一度星空の下を注意深く見る。比較的明るい夜だ。紛れもなく空は晴れている。
「……晴れてんだけど」
こんなつまらない冗談のために起こされたのかと憤慨しかけるが、
次いで聞こえたKの声は普段と違って割と真剣なものだった。
『すまん、聞こえねえ。もうちょいデカイ声で喋ってくれ』
「晴れてんだけど!」
『ああ、んなこた分かってる。それでも、雨が降ってんだ』
本格的に意味が分からない。晴れてるのに雨が降ってる。どんな状況だそれ。
「それって、キツネ雨ってこと?Kの寮の周りだけ?」
『は、キツネ雨?……違う。雨は降ってない』
少しイラっとくる。僕は眠たいのに。
「あんさあ、ちょっと意味が――」
『音だけなんだよ』
Kははっきりとそう言った。
『雨音だけが聞こえる。今外雨降ってないよな?だろ?なのに聞こえるんだぜ。耳ふさいでもまるで止まんねえし。
 最初は小雨程度だったけど、何かドンドン強くなってる気がするし。たぶんな、ちいとやべえよ、これ』
これは決して僕をからかっているのではない。これまでの付き合いから僕にはそれが分かった。Kは嘘をついていない。
本当に雨が降っているのだ。Kの中で。
『でさー。コレ非常に言いにくいんだけど、まー、頼みがあんだよ』
「……何?」
Kは本当に言い辛いのか、電話の向こうで数秒間を置いた。
『今からさ、バイトしねーか?材料はもう揃えたからよ』
その言葉で僕は全てを承知した。
「分かった……、行くよ」
電話を切り、そのまま家を出る。
そうして愛車のマウンテンバイクに跨る前に、僕は友人のSに電話をした。真夜中だがきっと起きてる。
予想通り電話に出たSに、僕は少し迷った挙句、正直にことの次第を話した。
「Kがバイト代も出すってさ」と言ったのが唯一の嘘だ。
しかしSは興味もなさげに一言、
『てるてる坊主のせいで幻聴が聞こえるとか、俺はそういった類は信じていない。
 あと今はテスト期間中だぞお前。二日も無駄にすんなよ』
僕は「そっか……。うん、分かった」と電話を切った。
僕はSとも付き合いが長いから分かる。そう言ってくるだろうとは思っていたんだ。

87なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」5:2014/06/11(水) 17:59:47 ID:hD.sYvCs0
Kの寮に行く前に、コンビニ寄って食品とコーヒーを買う。
自転車を漕ぐ。大学までの坂道がしんどい。
それでもかなり飛ばして、いつもの通学より大分早い、コンビニから二十分程でKの住む学生寮に到着した。
Kの部屋は二階の一番奥。鍵は掛かっていなかった。僕は二回ノックして、部屋に入る。
入って最初に思ったのは、天井のアレが綺麗に無くなっていて、さっぱりしたなということだった。
部屋の中ではもう、新しいてるてる坊主が山の様に積まれていた。二百はあるだろうか。
Kは僕が部屋に入って来たことに気付いていない様だった。黙々とてるてる坊主を作っている。
Kの顔は酷く青ざめている様に見える。
作業台の前に来ると、Kはやっと僕に気がついた様だった。「よお」と言うKの声が酷く掠れたように聴こえた。
そうしてKは、部屋の棚から一冊のノートとペンを僕に差し出すと、自分の左の耳を二度指で叩いた。
「……さっきから土砂降りでよ。なんか台風見てーだわ。……ワリーけど、何か言う時はそのノートに書いてくれ」
僕は軽く驚きながらも、『了解』 とノートに書いて見せる。

つい最近千体もの数を作った時と同じ様に、Kがてるてる坊主を作り、僕が天井に張り付けていく。
しかし、今回のKの手の動きは鈍かった。
しきりに頭を横に振っている。その額には玉の様な汗が浮かんでいる。
『作るの代わろうか?』 と書いて訊いてみるが、Kは首を横に振る。
どうやらこの千人坊主は、人形自体は自分の手で作らなければならないらしい。しかしまだ人形は二百と少し。
僕は少し焦っていた。もう病院に行った方が良いのでは、という考えが一瞬よぎるが、
この千人坊主のルールで、部屋を出てはいけないとあったのを思い出す。
悪いことが起こる。くそう、悪いことって具体的に何だよ。
その時、僕はふと雨音を聞いた気がした。
そんな馬鹿な。さっきまでは晴れてたのに。咄嗟に窓の外を見る。雨など降っていない。外は晴れている。
気のせいだろうか。いや、今もかすかだけど聞こえる。僕は一瞬、背筋が寒くなるのを感じた。
まさか僕も……?
しかし注意深く音の出ている方を探ると、それは僕の中ではなく、外から聞こえてくるものだと分かった。
Kだった。雨音はKの両耳の奥から洩れてきているのだ。
まるで他人のヘッドホンから音が漏れる様に、外に音が漏れるほどの激しい雨なのだ。
本人にとっては耳鳴りなどという生易しいものではないのかもしれない。
そこに至ったとき、僕は途端にどうすればいいのか分からなくなった。
見ると、Kは額だけでなく腕にも汗をかいている。部屋はクーラーが効いているのに。
僕はノートに『大丈夫?』 と書いて見せた。
Kはしばらくの間、ぼーっとその文字を見てから、「はは」と力なく笑い、「……やっべえ」と一言だけ呟いた。
初めて見るKのそうした姿だった。
僕は何も言うことが出来なくて、まあ例え口に出しても届かないのだけど、
目を瞑って「とりあえず落ち着いて考えろ」と口に出し自身に言い聞かせる。
しかし考えは浮かばず、どうして良いのか分からない。
今、Kの手は動いていない。顔をしかめてじっと俯いている。
どうしよう。どうしたらいい。考えろ考えろ。
自分一人に、何ができる?
部屋のドアが開いた。
「あー、本当にやってんのな」
そこに立っていたのは友人のSだった。
とりあえず僕は長い息を吐いてから、「おっせえ」と言ってやった。
これまでの付き合いから、ぶつぶつ言いながらも来るというのは分かっていたんだけれど。
「仕方ないだろ。そんなことより、バイト代はほんとに出るんだろうな」
金に困ってない癖に、Sはそんなことを言った。

88なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」1:2014/06/11(水) 18:01:23 ID:hD.sYvCs0
「……で?こいつは一体どうしたんだ」
言いながらSが作業台の横に来ても、まだKはSのことに気が付いていない様だった。
僕は今は会話できないKの代わりに、Sに現在の状況を一から説明する。
それに対してのSの感想は「ふうん……」と実に簡素なものだった。
それからKの方に近づいて、「俺には聞こえんな。雨音」と言う。
「――おいコラKっ!」
Kの耳元でSが叫ぶ。僕は驚く。しかしKは反応しなかった。
それを確認して「ふうん」ともう一度Sは言う。しかし、Sその言い方から何か納得はした様だった。
Sがノートを持って何かを書く。そしてKの肩をポンポンと叩いた。
Kが顔を上げた。その目が少しだけ驚いた色の光を放った。
しかし他の感情が見えたのはそこだけだった。Kは歯を食いしばって、暴音という痛みに耐えていた。
僕にはその実際の痛みの程は分からないが、表情だけで十分痛さが想像できる。
Sがノートを指差した。読めと言うことなのだろう。首を伸ばして覗くと、ノートにはこう書かれていた。
『前の雨乞いの時に使ったっていうてるてる坊主はどうした?』
もう喋ることも辛いのだろう、Kは黙ったまま押し入れを指差した。
Sが開けると、透明なビニール袋の中に入ったあの人形達が出てきた。ビニール袋は五つもある。
Sはそれを確認すると、またKの元に戻った。
『これからこの人形を全部捨てて来る。あと、今作ってる奴も一緒にだ』
それを見て僕は驚いた。前に使ったものは良いとしても、何故、今作っている人形まで捨てるというのだろうか。
しかし、Kはその文字をゆっくりと視線を這わすようにして読んだ。そしてSに視線を戻す。
それからきつく目を瞑り、天井を仰いで、Kは掠れた、しかしいつものKの声で言った。
「おーけー、わかった」
理由も聞かずにKはそう言ったのだ。
Sは一つ頷いて立ち上がり、机の上にあった作りかけの人形を集めて、新しくゴミ袋の中に入れた。
そして僕に向かって「半分持てよ」と言った。
混乱していた僕は、はっとして、急いで六つの内の半分を持った。量が多いだけで全く重くはない。

「あーそうだ」
部屋を出る際にSは何か思い出した様に呟き、ゴミ袋を床に置くと、Kの方へ戻って行った。
ノートを手に取って何かを書き、Kに見せる。Kが頷く。
するとSがKの背後に回る。それは一瞬の出来事だった。
Sの腕がKの首に絡みつく。五秒もかからずKは落ちた。
唖然とする僕に、Sは平然と「行くぞ」と言ってまたゴミ袋を手に取った。
「な、なな、なんで?」と訊く僕に、
Sは何でもない口調で「『それじゃ眠れねーだろ』って訊いたら、肯定したからだ」と言った。
「……チョークスリーパー?」
「いや、裸締め」
そう言えば、Sは中学高校と柔道部だったとKから聞いたことがある。
何でも、ものすごく強かったせいで喧嘩を売る輩が絶えず、しかしその全てに勝ったためSはその町の……、
いや、これ以上は言うまい。

近所のゴミ捨て場にでも捨てるのかと思ったら、
Sは自分の車を使って、人形達をどこか遠くへと捨てに行くつもりらしかった。
後部座席に五つゴミ袋を詰め込み、僕は袋を一つ抱いたまま助手席に座る。
車は未だ何処へゆくかも分からないまま発進した。
「なあ、これから、何処行くん?」
「河だ。近所の、汗見川」
Sはそう答える。それは意外な答えだった。
「か、川?」
「そうだ。……ああ、その前に、少しばかり酒屋に寄るぞ」
「さ、酒屋!?」
「酒が要る」
僕にはSの考えがまるでさっぱり分からなかった。
もちろん、夜の河原で酒盛りしようぜ、などと言っているわけではないことは分かる。
しかしなら何故、酒屋に寄って目的地が川なのか、僕の頭では合理的説明を出すことは出来なかった。
どうしてか。何故か。分からない。

89なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」2:2014/06/11(水) 18:02:20 ID:hD.sYvCs0
「……そもそもがおかしいだろ。その千人坊主ってのは」
「え?」
小さな交差点の赤信号で停まった際にSは話し始めた。どうやら僕の混乱を見てとったらしい。
「お前らは、おかしいとか思わなかったのか?」
「いや、思ったけど……。夜なべで千体もつくらなきゃいけないってとことか……」
「そうじゃなくてだな。
 結果からみても明らかだが、あれは天候を変えるまじないなんかじゃない……。人が人を呪う類のものだ」
信号が赤から青に変わって車は走り出し、僕は腹から胸に掛けて、ぐう、と慣性の力を感じる。
「まずやり方からしておかしいだろう。
 人形に自分の血か唾液を染み込ませるなんて方法は、どう考えても占いや呪術の方面だ。
 明日の天気を変えてほしいと願う対象を、自分の形代にしてどうする。自分で自分に願うのか」
「……かたしろ、って?」
「本物の模倣品ってことだ。呪いのわら人形とかもそうだろ。あれも相手の髪の毛や、身体の一部を用いるそうだから」
僕は自分の抱える数百体の人形を見る。この一体一体全てに、Kの身体の一部だったものが付着している。確かにそうだ。
「二つ目に、千体目が出来た時に歌う歌だ。
 ……実はKの家に行く前に、ちょっとネットで調べてみた。お前が電話で言ってた、千人坊主とやらをな。
 検索掛けたらすぐ出てきた。あるオカルト系の掲示板に、一からやり方全部載ってた。全く賑わってはなかったがな。
 最後に歌ううたは、晴れを願う場合は、有名な童謡の『てるてる坊主』 だ。聞いたことぐらいあるだろ」
そう言って、Sはそのうたの歌詞を口ずさんだ。

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに
晴れたら 金の鈴あげよ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願いを 聞いたなら
あまいお酒を たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョン切るぞ

「……これが、晴れを願う場合の歌なんだそうだ。一方で、雨を願う場合は少し違った歌詞になる」
そうしてSはまた口ずさむ。

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
いつかの朝の 地のように
降らせば 赤い飴あげよ

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
私の願いを 知ったなら
からいお酒を たんと飲ましょ

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
それでも笑って 晴れたなら
そなたの足を チョイと?(※も)ぐぞ

90なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」3:2014/06/11(水) 18:02:52 ID:hD.sYvCs0
「これが、雨を願う場合の歌詞。どちらも、大した変りは無い。
 三番目の最後の部分が、どちらも願いが叶えられなかったら危害を与える、という内容だ。
 実際にある童謡でも、ちょん切るとか言ってるしな」
「それが、耳の中に降る雨と、どう関わるん?」
「『そうされないために人形達は一生懸命天気を変えようとするのです』」
「え?」
「ネットの掲示板にあった言葉だ。やり方を説明した部分のな。
……もしも人形につばや血を付ける行為が、人形を限りなく『生きたモノ』 に近づけるためだとする。
そうして吊るされた千体の人形に、もしもほんの少しの意思を持ったとして、その意思は何のために使われる?」
「何のため……」
「天候を変えるためだ。しかし、現実はそんなに貧相なものじゃない。天気は気象にのっとって動く。変わらない。
 だとしたら、首を切られないために、足を?がれないために、千体の人形に変えることが出来るのは、どこだ?」
Sはゆっくりと続けた。
「それは頭だ。人間の脳味噌の中の、僅かな部分」
僕は黙ってSの話を聞いている。腕の中の人形達が何だかざわついている気がする。
「勘違いすんなよ。俺は別に、人形に命や意思が宿るなんて思っちゃいない」
そこでSは少しだけ笑った。何が可笑しかったのかは僕にはわからない。
「……つまりは、『そういう筋道』が、意識下か無意識かは人次第だろうが、
 この千人坊主を行うプロセスの中で、『出来上がって』しまう。
 ……千個も作った後なら、時間もかかって集中力も使ってるだろうしな、暗示に掛かりやすい状態ってわけだ。
 『部屋から出てはいけない』っていう注意文句もここに掛かって来る。
 時間を置いて作らせない、一気に集中的にやらせる」
Sの言葉によって、頭の中に一つの話の道筋が浮かんでくる。けれども、それは決して気持ちのいいものじゃない。
「あそこにアレを書きこんだ奴の気が知れないな。愉快犯って奴か。
 そう言う意味じゃあ、解決策と思しきものを暗に示してる、って点でもタチが悪い。
 雨が降り続ければ、人は晴れ間を望む。ああいう形でセット出だされれば、誰だってもう一方が解決策だと思う」
どくん、と心臓がはずむ。Sの言わんとしていることが理解出来たからだ。
雨を願って、Kの頭の中に雨が降る様になった。だとしたら、晴れを願えば……。
「これは憶測だが……目に関することじゃないかと、俺は思う」
光。光のイメージ。目の前で輝く何か、時を追うごとにそれはどんどん激しく眩しくなっていって、ついには……。
「俺は、幽霊とか超能力とか、基本的に信じていないが、『呪い』はあると思ってる。いや、あってもいい、と思ってる」
車は目的地である汗見川の川沿いに建つ、一軒の個人経営らしい店の前で停まった。
看板には『酒・タバコ』 とあるが、もうシャッターは閉まっている。
「あるプロセスを通して、生きた人間から生きた人間へ。
 その間に意思と脳みそがある以上、ある程度の何かが起こっても不思議じゃない」
そう言って、Sは一人車から降りていった。
そしてシャッターの横の勝手口の前に立ち、ノックした。
しばらく間があってから僅かに扉が開く。
そこでSが二言三言何かを言うと、ドアの隙間が大きくなって、Sは店の中に入って行った。
次にSが出て来た時、その手には一升瓶が抱えられていた。
「これ持ってろ。じゃ、行くぞ」
「……S。ここの人と、知り合いなん?」
「そんなとこだ。一番からいのを選んでもらった」

91なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」4:2014/06/11(水) 18:03:43 ID:hD.sYvCs0
そして車は近くの河原へと降りる道を進んで行く。
タイヤが河原の意思を踏む音がした時、Sは車を停めた。
河原自体はそれほど広くない。停めた車のすぐ近くに川の流れがあった。
「さてと。ここらで良いだろ」とSが言う。ただ、僕には何が良いのかは分からない。
Sが車のライトをつけたまま車を降りる。そして後部座席の戸を開いて、人形入りのゴミ袋を取りだす。
「これからやることだけどな。作業には変わりないぜ。ま、人形作って吊るすよりは楽だろうがな」
そう言って、SはさっきKの部屋でノートに書くために使ったペンを僕に渡した。持ってきていたらしい。
「ざっと説明するぞ。人形に顔を書く。記号的な顔でいい、凝る必要は無いからな。
 そんで、一袋分たまったら、酒をかけて、川に流す。分かったか?」
分かったけど、分かんなかった。実際に何をするかは分かったけど、何でそんなことをするのかは全く分からなかった。
僕は曖昧に頷く。
「……まあいい、ただ顔を書けばいいんだ。時間もアレだしな、さっさと済ますぞ」

夜の河原でティッシュペーパー人形に顔を描いてゆく。
ちょんちょんちょん、すうー。で目と鼻と口の出来上がり。簡単だ。一体十秒もかからない。
それでも千二百体は少なくともあるので、僕らはただ黙々と作業を続けた。
一つのゴミ袋に一杯になったら、その中に直接酒を入れる。
そして川に膝まで入って、中身を水の流れに沿って一気にぶちまける。
夜の川にさらさらと流れてゆく人形達は、どこか幻想的で、でもこれはゴミの不法投棄なわけで。

「……役目の終わったてるてる坊主は、こうして川に流すものなんだそうだ」とSが作業中、何処かの折にぽろりとこぼした。
そうなのか、と思った。確かに首や足を取られるよりかは、こっちの方が随分マシな様な気がする。

全ての作業が終わった時、もう東の空から太陽が上り始めていた。最後の一体を見送って、僕とSは同時に伸びをした。
「Kの奴は大丈夫かねぇ……」
「まあ、大丈夫だろ。呪いには呪いをってやつだ」
「何それ」
「知らん。適当に言ってみただけだ。いずれにせよ戻れば分かる、出すぞ」
Sが車に乗り込む、僕も慌てて助手席のドアを開けた。

日が出たと言っても、大学までの道に人影はほとんど無い。戻って来た学生寮の周辺もそうだった。
ここに戻って来た時、僕はどうしてか、
幼少時、母に怒られて家を飛び出したあと、そろそろと足音を立てないで家の窓から侵入した時のことを思い出していた。
なんだか妙に後ろめたいという感覚。
ただ、Sはそんな思いは微塵も感じていない様で、車を降りてずかずかと寮の中に入って行った。
Sは二階のKの部屋まで一直線に、僕はそろりそろりとその後ろをついて行く。
一階の集合ポストに新聞が挟んであったので、ついでにKの分を抜き取る。

92なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」5:2014/06/11(水) 18:04:29 ID:hD.sYvCs0
部屋の中でKは、僕らが出ていった時と同じ体勢で作業台の横に倒れていた。
Sがその背中を軽く蹴る。起きない。蹴る。起きない。
それからSはKの上半身を背後から抱き起こすと、両脇の下から腕を入れて両手をKの首の後ろで固定する。
その状態でSが「んっ」と力を入れると、Kの半開きの口から「ほひゅっ」と変な音が漏れた。
「……う、うおう!?」
Kが起きた。
するとSはすかさずKの目の前に自分の手をかざし、人差し指と中指と薬指を立て、極々小さな声で言った。
「……何本だ?」
Kは未だに状況が上手く掴めていないらしく、数回高速で瞬きした。
「何本だ?」
Sがもう一度、囁くように訊く。
「う、あ?……あ。えー、三本、だ?」
「よし。耳は聞こえてるな。目も意識も問題ないようだ」
そこでKはようやく自分の変化に気がついたようだった。
「お、おー!ホントだ。雨が、やんでら……」
それを聞いた瞬間、僕の中で張りつめていたものが煙の様な音を立てて抜けていった。
安心すると、油断をしたのか腹の底から大きな大きな欠伸が出た。そのせいでちょっと涙が混じった。
欠伸がてらに、上手く呑み込めていないKに状況の説明をしてやった。
こっちは真剣に話しているのに、相槌がいちいち「へーえ」とか「ほーお」とかばかりだったのが気になったが、
まあ、それは良いとしておこう。
「……呪いかよ。こえーなあ、しかも無差別なんだろ?」
「インターネットの様な環境は、そういうものをばらまくのに最適だからな。
 まあ、そんなもんに迂闊に手を出す奴も悪いんだが」
「あー、いや。マジ反省してる。……今回はキツかった。いやマジまいった。次からはさ、こういうことの無い様にすっから」
「次があったら見殺すぞ。あとバイト代よこせよコラ」
「はっはっは。またまた冗談を」
そんな今日も冴えている漫才コンビの後ろで、僕は先程ポストから持ってきた今日の朝刊の週間天気の欄を見ていた。
六日間晴れマークの続いた後に、ぽつんと傘のマークがついている。
ふと思い出す。
もしも今回のことが呪いのせいならば、
僕がKの耳元で聞いたあの本物の雨の音も、やっぱり呪いの類だったのだろうか、と。
分からない。呪いは伝染するのかもしれない。良い意味でも悪い意味でも。
その証拠に、SがKを絞め落とす際に見せたノートに書いた言葉、机の上に開きっぱなしになっているそれには、
『耳鳴りで眠れないか?』 の下に走り書きで、『目が覚めたら、全部終わってる』 と書かれていた。
もしかしたら、これがSの言っていた呪いには呪いというヤツだろうか。

ちなみに、四コマ漫画『わたる君』 の今日のネタは、
『どうしても遠足に行きたいわたる君が、てるてる坊主を百個作ってベランダに吊るして、
 作り過ぎだとお天道様に呆れられる』
というものだった。
Kに見せると、「ギャグ漫画にリアルで勝つとかオカルトだろ……」などとわけの分からないことを口走っていた。

93なつのさんシリーズ「Kとの出会い」1:2014/06/14(土) 01:15:02 ID:Hpd3syqU0
大学に入学して間もない頃、僕は学科の新入生歓迎会を通じて、とある面白い男と知り合った。
そいつは名をKと言って、人懐っこくて陽気な男だった。
正直なところ僕は小中高と友達が極端に少なく、
だから大学生活が始まって早々、Kと言う友人が出来たことが素直に嬉しかった。

歓迎会は、街の中心にある市民ホールみたいなところのワンフロアを貸し切って行われていた。
まるで身に入らない学長の話が終わった後、当然ながらすでに仲良くなった者同士グループで固まっていて、
僕とKはフロアの隅の方で、しばらくの間二人だけで話をしていた。
しばらく「出身地は何処か」とか、「趣味は何か」など、取り留めも無い話をしていた。
そして、そんな話題もひと段落したころ。
Kがおもむろに「あそーだそーだ。見せたいものがあんだけどよ」と言って、
傍に置いていた自分のバッグから何かを取りだした。
Kが取り出したのは、立方体の形をしたナニカだった。
大きさは一辺が十センチ程度、両親が結婚指輪を入れている箱よりは一回りほど大きいと言ったところだ。
Kはそれを僕の傍ら、料理を並べているテーブルの上に置いた。
「さて、ここで一つ質問。こいつは一体、何だと思う?」
箱を指差してKは僕に尋ねる。
質問の意図がイマイチ良く分からなかったが、僕はとりあえずその塊を一通り眺めてみる。
上部に周囲を一周する切れ目と、一つの面に可愛らしい蝶番が二つついていたこので、これは箱なのだと見当付ける。
材質は木製のようで、木目以外の模様は見えなかった。
「……えーと、箱、だと思う。木の箱」と僕が答えると、Kは満足そうに「おーけーなるほど」と言った。
「正解だ。んじゃ、それ手に取ってみて」
言われた通り僕は箱を手に取る。その時、ことり、と箱の中から僅かに音が漏れた様な気がした。
「開けてみ?」
僕はフタの部分を手で押さえ、箱を開けようとした。
「……あれ?」
開かない。少し力を込めてみる、がやっぱり開かない。
どころかいくら力を入れても、箱とフタの間に僅かな隙間も作れなかった。
「開かないよ?」
するとKは面白そうに「うはは」と笑い、僕はちょっとムッとする。
「まー開かねーだろうな。だってそれカギ掛かってっから」
「鍵?」
言われて僕は、改めて箱を見直してみる。

94なつのさんシリーズ「Kとの出会い」2:2014/06/14(土) 01:15:34 ID:Hpd3syqU0
そんな鍵がついている様には見えなかったけどなあ、なんて思いながら、もう一度四方八方360度見てみたが、
やっぱり鍵穴なんて何処にも見当たらなかった。
「鍵穴も、何も見えないけど……」
するとKはさらに「うははは」と笑い、僕はさらにムッとする。
「ワリー、ゴメンゴメン。でもな、本当、鍵はちゃんと掛かってんだよ。親指くらいのちっちぇ南京錠だけどよ」
「でも、」
「まあ聞けよ。鍵はな、外側からじゃなくて、内側から掛かってるんだ」
「……え?」
一瞬、頭の全細胞が急ブレーキをかけて動くのを止めたかの様に、僕の思考がストップした。
ただしその停滞は気のせいかと思う程短く、一秒かからず回復し、僕の脳細胞は再び自分たちの仕事を再開する。
「それはおかしいよ。箱を閉じた状態で、内側から鍵はかけれない」
「まーそらそうだな。つっても俺からは、『内側からカギが掛かってる』 って、それしか言えないわけだが……。
 なあ、箱、振ってみ」
数秒躊躇してから、僕は箱を軽く振ってみる。コツ、コツ、と中で音がする。何かが入っているようだ。
「音がすんだろ。そいつが箱の鍵だ」
鍵のかかった箱の中にその鍵がある。あくまでもKは、内側からカギをかけたのだと言い張るつもりのようだ。
僕は僅かな時間、箱を見つめてそれからKを見やった。
「でさ。この箱を僕に見せてどうしようって言うん?なんか理由が分からんのだけど……」
Kがまた「うはは」と笑う。どうやらこの笑い方は彼のクセらしい。
ふとKの笑い声が止んだ。そして間を置かず、口元に笑みの跡が残ったまま彼はこう言った。
「○○(←僕の名前)はオカルトを信じるか?」
沈黙。僕の頭はまたもやフリーズしていた。気のせいじゃない。今度ははっきりと、たっぷり十数秒。
「……何?」
「何って、ただの簡単な質問だって。オカルトを信じるか、そうでないか。
 あなたは地動説を信じますか、ってな質問と同じレベルだろ」
僕はすぐには答えられなかった。
質問の意図が分からなかったからと言うのもあるが、それ以上に、
口元は笑っていたが、Kは至って真面目に、真剣に、この質問を僕にぶつけた。それが伝わって来たからだ。
僕の回答を待たず、Kが口を開く。
「『その箱が本当に内側から鍵をかけられているのか』 ってのは、
 まあ○○(←僕の名前)の立場からすれば、考え方、まー可能性だな、は三つあらーな」
Kが両腕を前に出す。右手はピース、左手は人差し指だけ立てて。
「まーず、一つ。俺が嘘をついている。こりゃ簡単。箱は糊づけでもされてて、中には石コロなんかが入っている。
 ま、無難な考えだ」
Kの右手の中指が下がる。両手共に残っているのは人差し指。残り二つ。
「そんで二つ目。確かに内側から鍵は掛かっているのだけど、何らかの現実的な方法・手段を用いて俺がそうした。
 ま、ミステリの密室トリックみたいな感じだなこれ」
僕は何か言おうとした。しかしKがそれを制して言う。
「ただし、だ。前提としてだな、その箱は、箱部分とフタ部分の二パーツだけ。
 んでもって、その二つのパーツは、一つの材木から削りだされてる。見てみな、つなぎ目、無いだろ?」
「じゃあ、蝶番は……」
「おっと、良いとこつくな。でも残念。蝶番はネジ止めされてるんだが、ネジは箱の内がわでナットでとめられてんだ。
 意味分かるよな?」

95なつのさんシリーズ「Kとの出会い」3:2014/06/14(土) 01:16:19 ID:Hpd3syqU0
それはつまり、箱の内がわの『南京錠に鍵を掛けて鍵も中に入れてから、蝶番を取りつけて密室を作りだす』 、
それが出来ないということ。
「二つ目の可能性は、そこを踏まえてなお、俺が細工をした、っていうことだ。ここまで、二つは理解出来たな?
 よし。おーけーおーけー」
Kが立てている指が、いつの間にか左手の人差し指だけになっている。
「じゃ、最後だ。
 最後の可能性は、ここまでの俺の話は全部本当で、鍵を入れて箱を閉めた後、『何かが、箱の中で、鍵を掛けた』」
Kの左手の人差し指が、僕の手の中にある箱をさす。ことり、と箱の中で音がした。
「……だとしたら、その『何か』 は、まだ箱の中に居ることにならないか?なるよな?うん」
片手で持ててしまうくらいに小さな箱の中。
その中に、鍵を掛けてしまえる何かが存在する。常識的に考えれば、あり得ない。
しかし、今の僕の口からは何故か、その『ありえない』 という五文字の言葉が出てこなかった。
「もう一度聞こうか。『○○は、オカルトを信じるか?』」
Kが先程の質問を繰り返す。
「答えがNOなら、その箱、無理やり開けてみな。
 蝶番はネジ止めになってるから、そこのナイフでも使えばいけるだろ。石コロが入ってるかもな。
 ……しかしだ。し、か、し」
ずい、とKがこちらに一歩近づき、僕は思わず一歩下がる。
「その時、もし、箱の中にとめられた南京錠とその鍵が入っていたら……どうなる?」
どうなる。鍵が入っていたら。どうなる。
僕はその状況を想像してみるが上手くいかない。
ナイフで蝶番を壊し、開けた箱の中身、そこには靄が掛かっている。まるで浦島太郎の玉手箱だ。
僕は目を瞑った。暗闇の中でイメージはよりリアルになる。箱の中の靄が徐々に晴れて行く。雑音が消えた。靄が晴れる。
箱の中には、内側に掛けられた小さな南京錠と、小さな鍵が一つずつ。
その瞬間、足元が崩れ、僕の中の世界は壊れた。
刹那の落下の感覚。それが僕を想像の中から現実の世界に引き戻した。
目の前にはKが居て、腰に手を当てニヤニヤ笑いながら僕のことを見ていた。
僕は僅かに高まった動悸が鎮まるのを待って、一つ大きく息を吐いた。
「……箱は開けない。オカルトを信じるも信じないも、僕には分からないよ」
手にしていた箱をテーブルの上に置く。
するとKが噴き出した。笑う。「うはは」と。今までで一番大きな笑い声だった。周りのみんながこちらを見る程に。
呆気にとられた僕は、ぽかんと口を開けてKを見つめていた。
「うはははははっ、……あーいやー、ワリーワリー。はは、ゴメン。いややっぱお前おかしいよ。
 おかしいだろ?ふつー開けるだろ?はっ、うははは。分からないから、開けたくないって、マジかよ、はっは……」
よほどおかしかったのか、Kは腹を抱えて笑っている。
僕がこいつ今日初めて話したんだけど、殴ろうかどうしようか真剣に迷っていると、ようやくKの笑い地獄は収まった。
「あー、久々に笑ったわ。いやマジごめん。悪気は無いんだって。ただ、予想外の答えで面白かったからよ」
Kが箱を手に取る。
「俺よー。なんか自分と気が合いそうな奴みつけたら、この箱見せんだけどよ。さっきみたいに話しながらさ。
 そんで相手に訊くんだ。『オカルトを信じるか否か、箱を開けるか否か』 ってな。
 ……でもみんな結局は、箱を開けるって言うんだよな」
話しながらKは箱を回転させたり、軽く上に放ったり、色々弄んでから、箱の底部分に左手を、フタの部分に右手を添えた。
「そう言う時はネタばらしをすんだけど、『ごめんごめん。全部俺の嘘でした』 っつってさ。
 箱を取り返して、そいつとは縁を切る」
「……、え?」
「だーかーら、実際に箱を開けて見せるのは、お前で二人目だな、うん」
何かを問う暇もなかった。Kが「んよっ、」と妙な掛け声で気合いを入れると、
箱の蓋がまるでルービックキューブの一列だけ動かす時の様にスライドした。

96なつのさんシリーズ「Kとの出会い」4:2014/06/14(土) 01:17:09 ID:Hpd3syqU0
「え、え〜……?」
そのままKは、箱の蓋をジャムの瓶からフタを取るがごとくくるくると回す。数回転するとフタは箱から外れた。
途端に箱の中から何かが飛び出した。が、それはバネによって飛び出してきた白い紙人形だった。
紙人形は人魂のような形をしていて、足が無く、両手にプラカードを持っている。そこにはこう書かれていた。
『Welcome to Occult World!!』
「オカルトの世界へようこそ〜!」と親切にもKが訳してくれる。
見ると蓋の方に蝶番が二つともくっついていた。あれは最初から箱の方には固定されてなかったのだ。
やられた、僕は騙されたのだ。
「……ハナから嘘だと思ってるよーな奴に、ホンモンは見えねーんだよ。
 ……あ、ちなみに箱の中で音出してたのは石コロな」
そう言ってKは「うはは」と笑う。けれど、そこには嫌味だとかそういった感情は何一つ見えなかった。
再び蓋を閉じ、箱を元に戻したKが右手を僕の方に差し出す。
「握手」
僕はたっぷり躊躇って、恐る恐るその手を握った。上下左右に振り回される。痛い痛い。
「……お前、あの最初の挨拶で、学長のナナメ後ろに居た奴、……見えたろ。一人だけ全然違う方向見てたからよ」
手を握ったままKがぽつりと呟いた。
その言葉に、ああそうかと納得する。だからKは僕なんかに話しかけたのだ。
僕が、話をする学長の後ろ、ここのホールに居る『気配』 に気付いていたから。
「見えては無いよ。……なんか居るなー、くらい」
「上等上等。うはは、ま、そんなわけでさ。これからよろしくな。なんかお前とは長い付き合いになりそうだし」
何時の間にか『○○君』 から『お前』 になっているのはまあ良いとして、それにしてもと僕は思う。
小中高と友達が居なかった一番の『原因』 が、大学生になってすぐ友達が出来るきっかけになるとは。
世の中と言うものは分からないものだ。
「ところでよ、週末、街の北西にあるって言う廃病院行くんだけど、来るよな」
「え?……いや、僕、まだ足が無いから……」
「大丈夫だって。今日は『面倒臭え』 つって来てないけど、Sっていう俺のマブダチが車持ってっからよ。な、行こうぜ」
後にこのSとも僕は強烈な出会いをすることになるのだが、それはまた別の話。
気がつくと僕は廃病院行きを了承していた。

この日うっかりKの友人になってしまったことがきっかけで、僕は大学生活の中で様々な体験をすることになる。
まあその時はそんなこと知る由も無いのだがけども。
ただ、何だか面白いことになりそうだな、という漠然とした予感があったことだけは、はっきり覚えている。
それは、僕にとって今までに感じたことのない光。
やはりKは嘘つきだった。鍵はちゃんとあの箱の中に入っていたのだ。
『Welcome to Occult World!!』

「Kとの出会い」終わり

97なつのさんシリーズ「Sとの出会い」1:2014/06/14(土) 01:18:27 ID:Hpd3syqU0
大学一年生の春、僕は生まれて初めて自らの意思で心霊スポットに赴くことになった。
大学主催の新入生歓迎会で、オカルティストのKと知り合ったのがきっかけだ。
歓迎会があったその週の土曜日、深夜十時。僕は待ち合わせ場所の大学正門前でKと落ち合った。
Kの話によると目的の廃病院は、街を北西に向かい、その先の山を少しばかり上った場所にあるらしい。
もちろん歩いては行けない。
当時の僕は原付バイクの免許すら持ってなかったし、
そもそもこの歳で自転車すらまともに乗れない程の、『車輪オンチ』 だったのだけど、まあ、それはいいとしてだ。
廃病院までは、Kの友人のSという人が車を出してくれるらしい。
Sは僕と同い年で同じ学科だとKが教えてくれた。
僕はSと面識が無い。先日の歓迎会にも来ていなかった様だし、まともに会うのはその時が初めてだった。
僕はKに、Sはどういう人かと尋ねてみた。するとKは「うーん、まー、そーだなー……」と一つ間を置いてから、
「理屈好きで説教好きで頑固で皮肉屋でリアリスト」
そして可笑しそうに「うはは」と笑った。
僕は何を言えるでも無く、「ふーん……」とだけ述べておいた。
とりあえず僕の中でのSのイメージが、
一昔前の特撮アニメで出てきた白髪で眼鏡のマッドサイエンティストで固まったことだけは確かだった。
「KはS君と、前々から知り合いなん?」
「おう、小坊のころからだから、もう腐れ縁だな」
そう言ってKはまた「うはは」と笑う。
噂をすればなんとやらと言うが、Sがやって来たのはその直後だった。
正門前で待っている僕ら二人の前に、やけに丸っこいボディをした小型車がやって来て停まった。
窓が開いて、運転手が外に顔を出す。
若干細目で、髪ぼさぼさ、セットしていないのか所々寝癖の様にはねていた。この人物がSの様だ。
残念ながら白髪では無かったが、眼鏡はかけていた。
Kが僕のことを紹介しようとすると、Sは面倒くさそうに方手を振り「後でいい。とりあえず入れ。さみぃから」と言った。
Kが僕の方を向いて『だろ?』 と、そんな表情をした。僕は、なるほど、と思った。

新たに僕とK二人を乗せてSの車は走り出した。運転するのはSで、助手席に僕、後部座席にはKが座っている。
正直、今日が初対面であるSの隣よりは、後部座席の方に座りたかったのだけど、
Kが言うには、後ろは彼の特等席だから駄目らしい。
そしてKはと言うと、車が発進するや否や、二人分のシートにバタリと横になって眠ってしまった。
Kが僕とSの間を取り持ってくれると思っていたので、これは予想外の事態だった。
しばらくの沈黙。車内にBGMは無い。
「……Kから何処まで聞いた?俺のこと」
さてどうしようかと悩んでいると、Sがいきなり口を開き僕は慌てる。
「あ、それはえっと、えーとだね。……S君って名前と、あと理屈と説教と頑固と皮肉とリアリストが好きって」
しまった、間違えた。別にリアリストが好きだとは言っていなかったな。
しかし弁解する間もなく、Sは怪訝な顔をしてバックミラーを見やる。
「別に好きなわけじゃない。ってか何吹き込んでんだあの馬鹿は……」
すんませんK。僕は心の中で謝った。
「まあ、名前さえ間違ってなきゃそれでいいんだがな」
「……S君で合ってるよね?」
「ああ。それと、『君』 は要らない。Sでいい」
それから僕とSは互いに自己紹介も兼ねた会話を交わした。
初対面の時は気難しい印象を受けたのだけど、話してみれば意外とそうでも無く、
少なくともKよりはよほど常識を持った人の様に思えた、その時は。

98なつのさんシリーズ「Sとの出会い」2:2014/06/14(土) 01:19:04 ID:Hpd3syqU0
いつの間にか車は市街を抜け、山へと続くなだらかな坂道に差し掛かっていた。
しばらくその道を上って行くと、僅かな外灯の明かりの中に、その薄灰色をした建物は唐突に姿を現した。
Sがその入口の門の近くに車を停める。ここが目的の廃病院らしい。
後部座席で眠っていたKがむくりと身体を起こした。
「んふー……ふわあぁおぉえあ。んーだ?お、着いたみてーだな」
Kがドアを開けて外に出たので、それを追って僕も持参の懐中電灯を握りしめ車外に出る。
外は寒い。
門の向こうには少しばかりの駐車スペースがあるようだったけれど、
『立ち入り禁止』 の看板と共に門が閉められているので車は入れない。
門の向こうに見える建物は、昔は白かったのだろうが、灰色の外壁の表面が所々剥がれ、細い亀裂が幾本も走っている。
二階建てだった。
一階の窓や入口にはトタン板が打ち付けてあり、
山を背にしたその建物は、夜の暗さと相まって何とも言えない暗鬱な雰囲気を漂わせていた。
「……昔はなー、ここからもう少し上った場所には集落があった。
 でも、いつかの地震で大規模の地滑りが起きて、集落は無くなっちまった。
 その集落の人間が主に利用してたのが、この病院だったっつー話」
言いながら身体をほぐす様に色々動かしていたKが、
自分の手にしていたライトを一旦ズボンのポケットに差し込み、両手を自由にする。
「……ここには色々噂があってだな。それこそ今から全部紹介してたら、それだけで朝になっちまうくらい」
そしてKは門に手を掛け足を掛けて、そのままひょいと乗り越えた。向こう側に降り立ち、こちらを振り向く。
「ってなわけで。さっそく、行こうぜ」
門に貼られた 『立ち入り禁止』 の張り紙が空しく感じられる。一瞬躊躇うも僕も行くことにした。せっかくここまで来たのだ。
けれども、そこでふと気がつく。Sのことだ。Sはまだ車から出ていない。
何をしているのかと思ったその時、運転席側の窓がスライドしてSが顔を出した。
「……俺は別に、幽霊やらその類に興味はないんでな」
まるで見透かしたようなタイミングで僕に向かってそれだけを言うと、Sの首はまた車内に引っ込んだ。
ウィーム、と音がして窓が閉まる。
「あいつ、立ち入り禁止って場所には入ろうとしねーんだよな。……別にワリーことしに行くわけじゃねーのにな」
と門の向こうからKが言う。
確かに荒らしてやろうだとか、ヤクの取引場所として利用しようとか、そういう意識は無いけども。
「まあ、入ること自体が不法侵入っていう、れっきとした犯罪ではあるけどね……」
自分の口から出た言葉が、幾分自嘲気味に聞こえる。まあ、ここに来ると決めた時点で、開き直ってはいるのだが。
「ちげえよ。ちげえ。俺はちゃんと事前に役所に電話して、『入っていいか?』 て訊いたんだよ。
 そしたら、『駄目』 っつーもんだから、仕方なくこうやってな?」
「どっちにしろ入るんやったら、訊く意味無くない?」
「礼儀だよ。礼儀、いいじゃん。ほれ、いこうぜ」
Kに促され僕は門を乗り越えた。
敷地に降りた瞬間、何やら身体中を無数の手に撫でられるような感覚があった。鳥肌が立つ。
門という壁一枚隔てただけで、これほど空気が変わるものなのか。
Kもそれを感じていたのか、まるで泥棒の様にそろそろ歩きながら病院まで近づいた。
二階建ての病院は近くで見ると、先ほどより大きく見えた。夜だからだろうか。
二階の窓に一瞬何かが映った様な気がして、僕はとっさに目をそむける。
「んじゃ……、お邪魔しまーす……」とKが言った。
入口はトタン板で打ちつけられているので、その横の割れた窓から入ることにする。
おそらくは以前にここにやって来た僕らの様な人が、力ずくでトタンを剥がしたのだろう。
最初に入った先はどうやら受付をする部屋らしかった。

99なつのさんシリーズ「Sとの出会い」3:2014/06/14(土) 01:19:35 ID:Hpd3syqU0
年月のせいで黄ばんだ書類がカウンターの下に散らばっている。ここに通っていた患者の個人情報だ。
あまりじろじろ見てはいけない、と自分に言い聞かせた後で、そうした心遣いの無意味さに気付いてひとり苦笑する。
次の瞬間、文章が不自然な箇所で途切れている書類を見つけ、苦笑は止んだ。
ロビーに出る。二人分の懐中電灯の光のみが照らす病院内には、月明かりすら入って来ない。
侵入してから、二人とも未だ無言。
院内は外観に比べると比較的綺麗だった。
割れた蛍光灯の破片やパイプいすや医療器具などが散乱しているが、
有名な心霊スポットの様に壁や床への落書きなんかは見当たらない。
ただ、それが逆にこの病院が未だ『生きている』 ように感じられて不気味ではあった。
それともう一つ、音がしていた。微かだが確かに聞こえる。
Kは何も言わなかったけれど、おそらく気付いている。『キィ……キィ……』 という何か金属がこすれるような音。
僕らは二人とも、風のせいだと思いこむか、もしくは聞こえないふりをしていた。
音は二階へと続く階段から聞こえていた。ただ、Kは先に一階を見て回るつもりのようだった。

一階の手術室、レントゲン室、診察室などを順に見て回る。
どの部屋も印象深いが、特に手術室にあった緑色の手術台が目に焼き付いた。まるでまな板の様だと思った。
けれど考えてみるとそうだ。手術台は人を捌くまな板だ。台の縁には血痕の様なシミも残っていた。

一階を一通り見て回る。
他のドアは全て鍵が壊されていたが、何故か一番奥の霊安室だけは、鍵が掛かっていて入れなかった。

ロビーに戻り、そのまま僕らは階段へと向かった。
その際に、Kがぼそりと言った言葉がある。
「本番は、病室のある二階だ」
今までは前座だったのか。

二階に上がる。
……キィ、キィ、キィ……
音がする。一階に居た頃よりもはっきりと。
「……さっきから、何の音だろう?」と僕は呟く。
「……ここには、車イスの霊がでるって噂もある」とK。
何故か二人とも囁く様な小声になっていた。そして二人とも声が少し震えている。
僕はKが例え僅かでも怖がっていることに驚いていた。こういうことは慣れっこだろうと思っていた。
存外頼りないのかもしれない。ああ、そうか、だから僕を誘ったのか。Sは来てくれないから。

100なつのさんシリーズ「Sとの出会い」4:2014/06/14(土) 01:20:06 ID:Hpd3syqU0
Kの評価が段々下降修正される中、それを阻止しようとKはゆっくりと音の出所へと向かい、僕はその後ろをついて行く。
音の出所は『202号室』と書かれた病室の様だった。まだネームプレートもそもまま残っている。
井出……高橋……仲瀬川……一つプレートが空いている。ここは四人部屋らしい。
キィ、キィ、……キィ、キィ
音がする。音がしている。このドアの向こうで。
その時、ドアの前に立つKが何の前触れも無く、「……うははは」とひきつった笑い声をだした。
憑りつかれたのかと身構えるが、ただの緊張からくる笑いの様だった。
「……ノックが要ると思うか?」
「いらないと思う……」
「おーけー」
Kがノブに手を掛け、ドアをそっと押して開く。
懐中電灯二本分の光の筋が病室内を照らした。
部屋の端にそれぞれベッドが四つ。マットもシーツも枕もそのままだった。
ドアを開けた瞬間、僅かな風が頬を撫でる。
見ると、窓が割れていて室内に風が吹きこんでいる。
その風のせいで、半分天井から外れかけた蛍光灯の傘が揺れて、
ベッドの横、天井から床まで伸びる鉄製のパイプと擦れ合って、ひび割れた音を出していた。
音の出どころはこれだったのか。
ふう、と隣でKが息を吐くのが聞こえた。同様にKも僕が息を吐いたのが聞こえただろう。
病室内に入る。窓から外を見ると、門の向こうにSの車が見えた。
窓に近い方のベッドの骨組は錆つき、シーツは黒く変色している。
床や天井も幾箇所か剥げており、他の部屋は見ていないが、
おそらく窓が割れているせいで、廃れるのも早かったのだと見当付ける。
このたった四つのベッドで、一体何人の人間が息を引き取ったのだろうか。
一通り室内を見終わったらしいKが、病室を出ようとしている。
僕も入口のドアに向かおうとして、しかし、ふと立ち止まる。一瞬、懐中電灯の光が何かを照らした様な気がした。
入口から見て右手前のベッド。もう一度照らす。
ベッドの上、壁側、枕の横に何かが見えた。白を基調とした病室の中で、その色はちゃんと自己を主張していた。
僕はベッドに近づいてそれを拾い上げる。
折り紙だった。かなり変色しているが、青と、黒色。
鶴ではない。やっこさんだ。しかも袴、足がついている。二枚の折り紙を組み合わせて作るタイプのものだった。
身体が青。袴が黒。
誰かが患者のために折ったのだろうか。
そして僕は息を呑んだ。
ふと、そのやっこさんをライトで照らした瞬間気付いた。
袴の色は黒では無い。黄色だ。黄色い折り紙に、黒い文字がびっしりと書き込まれている。だから黒く見えたのだ。
『あし』
文字はひらがなでそう書かれていた。
よせばいいのに、やっこさんの袴を広げる。
やっぱりその紙には、裏表両方に隙間なく『あし』 と書かれていた。文字の大きさも、方向もバラバラだった。
良く見ると、ベッドの下に隠れる様に同じやっこさんが幾つも落ちていた。めくったシーツの中にも、枕の下にも。
割れた窓から風が吹きこんでくる。
カツン……ギギ……カツ……
半分取れかけた蛍光灯の傘が揺れて、鉄のパイプと擦れ合う音。
違う。音が違う。
僕が聞いたのはこんな音じゃなかった。
そうだ。それにそもそも、扉が閉まっている室内で僅かな風が音を鳴らしたとして、
それが一階まで聞こえて来るはずが無い。

101なつのさんシリーズ「Sとの出会い」5:2014/06/14(土) 01:20:43 ID:Hpd3syqU0
キィー……、キィ、キィ
背後であの音がした。大きい。何かが僕に近づいてきている。Kじゃない。Kはもう病室を出ている。
心臓が派手に脈打つ。息が出来なくなる。振り返れない。
キ……、……
音が止んだ。
誰かがそっと僕の上着の裾を引っ張った。丁度小さな子供が下から裾を引く様に。
意識の糸は極限まで張りつめ、失神しても何らおかしく無かったと思う。
その時、開いたままのドアから光の筋が射しこんできた。
「うおおっ!?」
誰かが奇声を上げた。悲鳴では無く奇声。Kが戻ってきたのだ。彼は僕の背後に居るナニカを見たに違いない。
ただ、その奇声のおかげで、僕は自身のコントロールを取り戻した。
足が動く。僕はわき目も振らず扉へダッシュし、病室を飛び出た。
その際にKと肩がぶつかったけれど、「ごめっ」と一言、構うこと無く一階ロビーへ続く階段を駆け降りる。
Kも後から走って追いついてきた。
受付の中に飛び込み、入って来た窓から外へと出る。
それでもまだ安心できず、僕とKは走って走って、すごい速さで門をよじ登り飛び越えた。

車のドアを開き、中に滑り込む。そこでようやく僕は病室からずっと止まっていた呼吸を再開した。
Sが突然の僕らの帰還を、驚いた様な呆れた様な目つきで見ていた。
僕は息を整えるので精いっぱい。Kは脂汗を浮かべながら、「あーやべえ、あれはやっべえ」と何度も繰り返していた。
シートに深くもたれかかる。怖かった。でも、助かった。
全身の力が抜ける。
例えば、ホラー映画ではこの瞬間が一番危ない。
コツ……コツ……
身体中の産毛が逆立つような感覚。反射的に飛び起きた。
誰かが車をノックしている。
僕が座る助手席の窓。僕はその方向を見てしまった。
白い手がガラスの下の方を叩いている。
「だあS車!」
Kが叫ぶ。彼にも見えたらしい。
二人がパニック気味になる中、只一人Sだけは怪訝そうな顔をしていたが、何も言わずエンジンを掛けた。
例えばホラー映画ではこう言う場合、得てしてエンジンが掛からないものだが、そんなことは無かった。
車はUターンするために一度バックする。
見えた。
それは車イスだった。それと、車イスを動かす白く細い手。
僕に見えるのはそこまでだった。後は何も見えない。誰が乗っているのかも分からない。
ただそれが何であれ、生きた人間でないことは確かだった。
「くっそが!病院外まで追ってくるとか……、おまっ……、ルール違反だろが!」
Kがその車イスに向かって叫ぶと、それに呼応するかのように、滑る様にイスがこちらに向かってきた。
「だああSもっと飛ばせよ!」
走り始めた車の速度は時速四十キロ。あの車イスはそれについてきている。
僕の頭は恐怖のためか、それとも単に混乱していたのか、
あの車イスにはたぶんターボが内蔵されているのだな、などとそんなことを思っている場合ではもちろん無いのだけれど。
「車イスは車だけど車じゃねえぞオイ!」
Kも同じ気持ちだったらしい。
そして彼が後ろに向けてツッコミを入れた瞬間、急ブレーキと共に僕らの乗った車が停止した。
それがあまりに突然だったので、後ろを向いていたKは慣性の力で後頭部を座席にしこたま打ち付ける。
僕はいつもの癖で無意識にシートベルトをしていたので助かった。
止まった。止まったら、追い付かれる。
「Sく……、だ、S君?」
慌てふためきながらSを見ると、彼はちょっと上を向いて、あーう、と長いため息を吐いた。欠伸だったのかも知れない。

102なつのさんシリーズ「Sとの出会い」6:2014/06/14(土) 01:21:42 ID:Hpd3syqU0
「……俺には見えねえけど。まだついてきてんのか?そいつ」
僕は後ろを向く、居る。十メートルくらい後方。間違いなく。近づいてきている。僕は何度も頷く。
「ふうん。……分かった」とSが言った。
それから後部座席の方を振り返り、
「お前ら、これから三十秒くらい、ずっと前見てろ。フロントガラスだけだ。
 目を逸らすな。逸らしたら死ぬってぐらいに思っとけ」
Kはまだ後頭部強打のダメージから回復していない様だった。虚ろな瞳でSの方を見ている。
僕は訳が分からず、あの車イスが来ていないか確かめようと後ろを向きかけた。
すさまじい摩擦音。
車が急発進し、僕の身体は誰かに体当たりされたかのようにシートに押し付けられた。
僕は驚いて視線を前方に移す。Sが限界までアクセルを踏み込んだのだ。
速度メーター。
この車はミッション車のはずだったが、それでも何の支障も無しに、速度はあっという間に時速百キロを越えた。
前方の景色が流線となって次々に後方へとカッ飛んで行く。
ここは高速じゃない。国道だ。道幅はそれほど広くない。カーブもある。
対向車のドライバーが口をあんぐり開けるさまが現れて消えた。
カーブの度にタイヤが滑る。ドリフト?訳が分からない。
後方に遠ざかるクラクション。直線。120キロ。S字カーブ。あ、死ぬ。
僕は前だけを見ていた。身体が硬直して目を離せなかった。
実際100キロ以上出していた時間はほんの十数秒程度だっただろうが、
あの時の僕にはその十数秒が一分にも三分にも感じた。

そのうち車は減速して、まるで何事も無かったかのように、路肩に停まった。
「……やっぱバイクと車じゃ感覚が違うもんなんだな」
Sの口調は、今日の新聞を読んで感想を言う時のそれだった。
僕は金魚の様に口を閉じたり開いたりしていたと思う。
「後ろを見てみろ」と、後方を指差してSが言う。
僕はその時、自分が車イス幽霊のことをすっかり忘れていたことに気がついた。
後ろを振り向く、車イスは何処にも見えなかった。
そしてついでに、シートベルトを付けていなかったKが、後部座席でもんどりうって失神していた。
「どうだ、居るか?」
その問いにSの方を向き直り、僕はゆっくりと首を横に振る。
「……恐怖って感情は、たまに人に余計なもんを見せることがある。
 まあ、簡単に言ってしまえば、お前らは、夜の病院ってとこから来る恐怖心から幻覚を見たんだよ」
Sは淡々と説明する。
そんな馬鹿な。幻覚。あれが幻覚なのだろうか。服の裾を引っ張られたのも、車を追ってきていたのも。
「ものすごい速さで車を追う幽霊ってのは、良く聞く怪談だけどな。
 幽霊が超人的な身体能力を持っているって説明よりは、
 全てはそいつの脳みそ自身が見ている幻覚だから、って説明の方がしっくりくるだろ。
 鼻先三センチで常に映画を上映されているのと同じだ。だから何処まで逃げたって追って来る」
「……じゃあ、どうして今は」
「ん?どうして追って来ないのか、か?」
僕は頷く。
するとSは「くっく」と少しだけ笑った。
「怖かったろ?さっきの」
Sは先程の国道暴走のことを言っているのだ。僕は真剣に何度も頷いた。
「幽霊とは違う、別の恐怖を上乗せされたからな。幽霊どころじゃなくなったんだよ、脳みそが」
「う、上乗せ?」
「イカレた強盗に銃を突きつけられた時、そいつの背後に幽霊が見えたとして、お前はどう怖がる?
 そんなに幾つも同時に処理できないもんだ。人間の頭はポンコツだからな」
Sはそう言って、後部座席のKをちらと見やり、
「そしてたまに、ショートもする」と静かに言った。
よくよく見たら、Kは口から少量の泡を吹いていた。
「さて、種明かしはここまでだ。帰るぞ」
「Kは起こさんでいいの?」
「寝かしとけよ。その方が静かでいいだろう」
そうして車は走り出す。発信の時心拍数が上がったが、今度は普通に、といっても法定速度よりは速かったけれど。
後で聞いた話だが、Sはこの時、車の免許を取ってまだ二カ月だったそうだ。
Sはそういう人物だ。僕はそれを初めて会った日に知ったのだ。

103なつのさんシリーズ「Sとの出会い」7:2014/06/14(土) 01:23:00 ID:Hpd3syqU0
「……S君は、本当に幽霊とか、信じて無いんだねぇ」
帰り道。僕がそっと呟く。
「Sでいい。そうだな。あるならある、居るなら居るで別に良いんだが……、今のところ敢えて信じる要素はないな」
その言葉に、僕は、あれ、と思う。引っかかるものがあった。
「……じゃあさ。何で今日とかついてきてんの?メリット無くない?」
Sが横目で僕を見た。けれどもすぐに前方に視線を戻すと、片手で口を隠し、何処か投げやりな口調でこう言った。
「Kの奴は車持ってねえし。俺は運転が好きだからな。それだけだ」
「……ふうん」
ふと、Kと大学前でSを待っていた時のことを思い出す。
あの時Kが言った言葉は何だったか。思い出せない。まあいいか。
その時、ふと、カサリ、という小さな音が聞こえた。何かを踏んづけたのだ。
見ると、それは病院で見つけたあのやっこさんだった。
逃げ帰ってくる時もずっと握りしめていたらしく、二枚の折り紙は両方くしゃくしゃになっていた。
取り上げて手に持ってみる。
大量に『あし』 と書かれた袴の部分。そしてやっこさんの身体。何故かもう恐怖心は無かった。
僕は何となく青いやっこさんを広げてみた。
裏の白い部分に何か書かれている。大量にではなく、小さな文字でひとことだけ。
『おねがいします』
その瞬間、僕の中で何かが繋がった。
『あし』……『幾つものやっこさん』……『追ってきた車イス』……『おねがいします』
「そっか。鶴には、足が無いもんね……」
小さく呟いた言葉はSにも聞こえなかったようだ。
僕はその二枚の折り紙をしわを伸ばして四角に折りたたみ、財布の中に入れた。
感覚的な真理としては、さっきしてくれたSの説明が正しいのだと思う。
幽霊は全部人間の脳が創りだした幻覚で、実在などするはずが無い。
しかし僕には、あの時感じた気配、音、掴まれた袖が引っ張られる感覚、
あれらが全て幻覚だとはどうしても思えなかった。
もしくは、足が治るようにとやっこさんを折る、その意思。
分からない。でも、それでいいんじゃないだろうか。

ちなみに、二枚の折り紙は現在も僕の財布の中に入っていて、今では僕のお守りの様な存在になっているが、
いつかは返しに行こうと思う。あの廃病院に。
ただし、もちろん行くのは昼間のうちにだけども。
もうカーチェイスは、こりごりだ。

「Sとの出会い」終わり

104なつのさんシリーズ「ふくろさん」1:2014/06/14(土) 01:24:09 ID:Hpd3syqU0
大学二年の春だった。
その日僕は、朝から友人のKとSと三人でオカルトツアーに出掛けていた。
言いだしっぺは生粋のオカルティストK君で、移動手段はSの車。いつもの三人、いつものシチュエーションだった。
車は今、左右を山と田んぼに挟まれた田舎道を走っている。車を運転しているのはSだ。僕は助手席、Kは後部座席。
目的地は、地元から二時間ほど車を走らせた村にあるという神社だった。
Kの話によると、何でもその神社は、ある奇妙で面白いモノを『神』 として祀っているのだそうだ。
「それってさ、僕らが行って見せてくれる様なモノなん?」
「……うーん? あー、……そこはだな、大丈夫じゃね。……たぶん」
後部座席から具合の悪そうな口調。Kは車に弱いタチなのだ。
「神主にはもう連絡とってあっからよ……。
 俺ら三人……、民俗学的な興味でやって来た、真面目な学生ってことになってっから。
 ……あー駄目だキモヂワリー……」
オカルトツアーは今までに何度も経験したが、僕らはそれが必要な場所は事前にアポを取る様にしている。
話をつけるのはKだ。大抵無下もなく断られるが、今回の様にOKの返事がもらえることもある。
まあ、許可が下りない時だって、『やるだけやった』 ってことにして結局行くのだけれど。
「でさ、その神社には何が祀られてるん?」
後ろを見やると、丁度Kの身体が横向きにバタリと倒れた。そのままの状態でKは言う。
「……袋だ」
「袋?」
僕は訊き返す。その神社は袋を祀っているのだろうか?
「あーうー、……いや、何か袋持ってね?やべ、吐きそう、っぷ」
運転していたSが黙って道の脇に車を停めた。
Kはヨロヨロと外に出て行き、林に少し入ったところで、今朝食べたナニカと感動の再会を果たしたようだった。

それからしばらく走り、村に着く。山間に造られた小さな村で、神社はすぐに見つかった。
入口には石の鳥居。近くの路肩に邪魔にならない様駐車して、僕らは外に出た。
Kもどうやら息を吹き返したようだった。
「間違っても境内では吐くなよ。まがりなりにも神の居るところだ」
SがKに向かって言う。
「……吐かねーよ。もう腹ん中になーんも残ってねえし。ってかお前、そんなん信じる奴だっけか?」
「郷に入れば……って奴だ。それに俺らは今、民俗学専攻らしいしな」
鳥居の向こう側には、自転車で行けるんじゃないかってくらいなだらかな階段が木々の間を伸びていて、
その奥に拝殿らしき建物が見えた。
鳥居をくぐって参道に入る。
頭上には周りの木々の枝と葉が陽の光をいくらか遮っている。木漏れ日。風が吹く度にさわさわと足元の影は形を変える。
吸い込む空気がどこか違うもののように思えた。

参道で一人の腰の曲がった老婆とすれ違った。彼女は僕らを見とめると、しわの刻まれた顔で微笑み会釈した。
僕は軽く頭を下げ、Kが加えて「ちわー」と声を掛ける。参拝客だろうか。
境内はあまり広くない。拝殿と、その後ろに本殿。
参道から向かって右側には、水で手や口を清める場所。水盤舎というのだったか。
その隣には、人の背丈よりは大きい程度の社があった。
社の近くに箒を持って掃除している人が居た。
男性。歳は四十後半だろうか。上は青いジャンバー、下はジャージとラフな服装だった。
「ああ、君らかえ。電話くれたんは」
僕らを見つけると、彼は穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。ということは、この人がここの神主さんなのだろう。
想像していたより若い。
互いに自己紹介を済ますと、普段は農家でゆず等を作っているらしい神主さんは、箒の柄の部分で隣の小さな社を指した。

105なつのさんシリーズ「ふくろさん」2:2014/06/14(土) 01:25:58 ID:Hpd3syqU0
「ほれ、これが電話で言うた『ふくろさん』 よ。まずはどういうもんか、よう見とき」
どうやら目的のものはこの社の中にあるらしい。神主さんに促され僕らは社の中を覗く。
両開きの扉の奥、そこには何やら奇妙な物体が置かれてあった。
『ふくろさん』
名の通り、それは袋だった。
材質は麻だろうか。薄茶色をした人の頭ほどの大きさをした袋。上部を赤い紐で縛っている。
それだけなら、何だか良く分からないモノで済んだのだが、
異様だったのは、その袋の接地面を除いたありとあらゆる箇所に、『針』 が刺さっていることだった。
待ち針も縫い針も長い針も短い針も、様々な針があった。
「さっきは『ふくろさん』 っていうたけんど、名前なんてあって無い様なもんやけぇ。これには。
 うちの親父なんかは、ハリネズミさま、ハリネズミさま言うとったわ」
社の屋根に手を乗せて神主さんが言う。
「こいつに針を刺すと、過去の罪とか過ちが消えるって言い伝え、本当ですか?」
Kの言葉に、僕は針だらけの袋を見やった。なるほど、只の袋では無いと言うことか。
でも、そんな言い伝えがあるような大層なモノには見えないのだけれど。
「そうな。言い伝えがあるんはほんまよ。信じるか信じんかは人次第やけんど。
 村のジジババらあはまだ信じとって、刺しに来るもんもおらあな。
 ……君らも刺すか?何かやましいことでもあるんやったら」
僕らは互いの顔を見合わせる。僕は首を横に振って、Kはへらっと笑い、Sは小さく肩をすくめた。
三人ともやましいことなど何も無いと思っているのだろう。バチ当たりな連中である。
「はっはっは。ほうかほうか。真っ当な人生を送りゆうようで何より何より」
そう言って神主さんは可笑しそうに笑った。
「じゃあ、私はちょっくら向こうの方を掃いてくるきよ。なんか聞きたいことがあったら呼びんさい」

神主さんが本殿の方へ行ってしまい、残された僕ら三人は、改めて社の中の『ふくろさん』 をじろりじろりと観察していた。
「針を刺すと過ちを払う袋、か。初めて聞いたな」とSがぽつりと呟く。
「『ふくろさん』 って名前がどうもなあ。それだと頭に『お』 をつけたらお母さんになっちゃうし」と僕。
「正式な呼び名は無い、って言ってたろ。その『ふくろさん』 も、参拝客の間で広まった名前だろう。
 ……で、結局のところだ。俺らは今日、この袋をただ拝みに来ただけってことか?」
そう言って、SはKの方を見やった。
それは僕も思っていた。
確かにこの幾本も針の刺さった袋は異様ではあるけれど、Kのオカルトアンテナに反応する程の物件では無い気がする。
言ってしまえば、この袋はそこらの寺に置かれている仏像とさほど変わりはない。
Kは「うはは」と笑う。
「んなわけねーじゃん。それと、今日拝みに来たのはこの袋じゃねーよ」
そしてKは僕とSの胸ぐらをつかみ自分の方へと引き寄せると、
「拝みに来たのは、この袋の中身だ」
囁く様な声でそう言った。
袋の中身。
僕は何となく綿でも詰まっているのだろうくらいにしか思っていなかったのだけれど、
Kの口調からすると、まあ綿ではないみたいだ。
「この袋には噂があるんだよ。針を刺した瞬間袋が動いたり、鳴き声を上げたり。
 ……中には動物が入ってんじゃねえかってな。
 火の無いところにゃ煙は立たず。本当に動物か、もしくはそれ以外か……」
その瞬間、辺りに何かの鳴き声が響いた。僕は思わず社の中の袋を見る。
けれども鳴き声は頭上からで、鴉だろうか、黒っぽい鳥が一羽空へと飛び立っていった。
「……どうやって、見せてもらうのさ」
一つ息を吐いてから僕はKに尋ねる。
先程話した印象では神主さんは気さくな人柄だったが、そうやすやすと自分のところの御神体を見せてくれるだろうか。

106なつのさんシリーズ「ふくろさん」3:2014/06/14(土) 01:26:58 ID:Hpd3syqU0
それに、袋には数え切れない程の針が刺さっている。
袋を開けて中を見るには、これらを一本一本抜かなくてはならないだろう。
「別にこの目で見ないと収まらねーってわけじゃねえよ。
 ま、手っ取り早い方法は神主のおっさんに訊くことだよな。そのために電話したんだし。答えてくれるか知らねーけど」
「訊くだけでいいん?」
「それで納得出来りゃあな」

というわけで、神主さんの元へ話を聞きに行く。彼は本殿の周りの掃除をしていた。
「最近掃除もサボっとったき、えらいことになっちゅうな。はっは」
僕らが近づくと、しゃがんで本殿の下を掃除していた神主さんは笑いながらそう言った。そして腰を叩きながら起き上がる。
「なんぞ聞きたいことでもあるかえ」
「あーはい。あの『ふくろさん』 の中って、何が入っているんですかね?」
何の探りもひねりも入れず、ストレートにKは尋ねた。一呼吸程おいて神主さんがKを見やる。
「聞いてどうするよ。大学のレポートにでも書くかえ?」
「あ。そのつもりっす」
嘘だな、と僕は思う。神主さんは穏やかに笑った。
「メモの用意を忘れとるぞ」
その言葉にKは少しうろたえる。その様子を見て神主さんはまた「はっは」と笑う。
「ええよええよ、わかっとる。前にも、君らの様な若者らあが、興味本位でやって来たことがあったきよ。
 まあ君らは礼儀正しい方やけんどな。ちゃんと、事前に連絡もくれたしな」
どうやら僕らの目的は最初から筒抜けだったようだ。
「中身、見せてくれませんか?」
「すまんけんど。それは出来んわ」
穏やかな口調の中に断固とした意思が感じられた。これはいくら頼んでも無駄だろう。
「あの中身については、教えるわけにはいかんのよ。
 ……ああ、それとも、君らの内、誰か一人がここの跡継ぎになてくれたら、そうなりゃあ教えちゃれるわ。
 おう、そらええ考えやと思わんか?」
本気で言われているのか、からかわれているのか、どっちとも取れず、
「はっはっは」と笑う神主さんを前に、僕らはただ曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
結局、『ふくろさん』 に関して神主さんからは何も情報を引き出せず。
僕らは一旦彼にお礼を言って、神社から出ることにした。

車に戻り、どこか憤慨したようにKが言う。
「くっそ、あのオッサンめ。代々神主しか知らない中身って、余計気になるじゃねーか」
「もしかしたら、俺らのこと監視してたのかもな。神体に妙なことしないかどうか」
Sが運転席に腰かけ、リクライニングを少しばかり後ろに倒しながらそう言った。
「そうなん?」と僕。
「……さっき、あのオッサン言ってたろ。前にも同じようなことがあったって。
 でも俺らとは違い、電話でアポはとってなかった。
 ……それでもそいつらが、『若者たち』 だって知ってるってことは、何かやらかしたんだろうな、そいつら」
「その場に居たんじゃない?神主さん」
「あのオッサン、あんま頻繁にここに詰めてる風でも無かったろ。まあ、居たかもしんね―けど」
「やらかしたって、何をやらかしたん?」
「知らねえよ。俺に訊くな」
その時、Kがぽつりと呟いた。「……呪いだ」と。僕とSは後部座席を振り向く。
「それってよ。そいつら、袋に何かしたせいで呪われちまったんじゃねーの?
 で、どうしようも無くなって、あのおっさんに泣き付いた」
「ねーよ」
即座にSが否定する。

107なつのさんシリーズ「ふくろさん」4:2014/06/14(土) 01:27:53 ID:Hpd3syqU0
「そーか?俺的にはイイ線いってると思うんだけどな……」
Sに否定されたせいで、Kの名推理はしおしおとしぼんでしまった。
「……で、どうするのさ?」
僕がKに尋ねると、Kはうーんと軽く唸った後、運転席を後ろから蹴りあげて、
「おーいS、車出せよ」
そしてシートにもたれかかって目を閉じる。
「俺たちは、やれるだけやった」とそう言った。
事前に見に行くと連絡を入れ、袋の中身は何なのか聞き、見せてくれないかとも頼んだ。
それでも駄目だと言われれば、それはもう仕方が無い。
結局は無断で見せてもらうしかないわけだ。

その日の夜のこと。
神社から少し離れた場所に車を停めて、僕とKは懐中電灯を片手に、またあの石造りの鳥居をくぐっていた。
Sは来なかった。「俺は眠い」とだけ言って、今は車の中でお眠りしているはずだ。
夜の境内は朝とはまるで違う雰囲気だった。
前に来た時には爽やかさを含んでいた木々のざわめきが、今や得体の知れない何者かの息使いに聞こえる。
「そこだ」とKが言う。水盤舎の隣の小さな社。
見ると、朝は開いていたはずの扉が閉まっている。近づいて良く見ると、鍵もかかっているようだ。
どうするのかと思っていたら、Kが社に近づき、僕に「ライトで扉を照らしてくれ」と言った。
ポケットから何かを取り出す。どうやらそれは、工具用の細いドライバーと針金の様だった。
※以下は空き巣の手口と同様なので、ここに書き示すことは出来ません※
そのうち、ガタリと音を立てて扉が外れる。その扉をゆっくりと地面に置いて、Kは「ふう」と一息ついた。
社の中に手を入れ『ふくろさん』 を取り出す。そして地面に置いた扉の上にそっと乗せた。
「うひゃあ、犯罪だねえ……」と僕が呟く。
「しかも完全犯罪だぜ。明日来たって誰も気づかねーからな」
もちろん、袋の中身を見た後は、全て元通りにして退散するつもりだった。
立つ鳥跡を濁さず。それがオカルトに準ずる者のマナーだと、Kは常々言っている。
僕は手にした懐中電灯の光で、袋を色々な方向から照らして見た。やっぱり針だらけだ。
そこで気がついたが、袋の口を縛る赤い糸、その結び目にも一本の針が通してあった。
「ふくろ、重かった?」
「いや、それほどでもない。一キロかそこらってとこじゃね」
そして僕とKは互いに顔を見合わせる。
「んじゃ、抜いてくぞ」
Kが呟き、最初の針をつまむ。するり、と針は抜けた。
刺さっていた部分と外に出ていた部分で色が違う。先の方は、まだ銀色の光沢を放っていた。
一本、一本と針が抜けて行く。抜いた針は、車から持ってきたティッシュの空き箱の中に入れていた。
Kは全部の針を抜いてから、口を縛っている紐を解くつもりの様だった。
もしかしたら針を抜いている間に何かが起きるかもと、期待したのかもしれない。

108なつのさんシリーズ「ふくろさん」5:2014/06/14(土) 01:28:30 ID:Hpd3syqU0
袋をライトで照らしながら、僕は針の数を数えていた。半分ほど抜き終わったところで四十一本。
そうしてから、ふとこの針の数は、人の犯した過ちの数なのだと言うことを思い出す。
僕たちは今何かとんでもないことをしているのかもしれない。
それでも針は抜かれてゆく。
針は残り二十程。
その時だった。鳴き声が聞こえた。
僕ははっとして辺りを見回す。鳥?違う、猫の鳴き声に近い。赤ん坊の泣き声にも聞こえる。
赤ん坊、自分で連想した言葉に背筋が凍る。
Kの手が止まった。彼にも聞こえているのだ。まだ鳴いている。
けれど鳴き声の出所が分からない。左の茂みの中からでもある様な、右の拝殿の下からでもある様な、
空からでもある様な、地面の中からでもある様な。
そして、すぐ傍らの袋の中からでもある様な。
袋。
袋が微かに動いた。
「うわ!」と僕は反射的に後ろに飛びのいた。Kは動かなかった。
ザア、と枝の擦れる音、ナニカのなき声。
頭の中でみーみーみーとエラー音が鳴る。経験上、この音が鳴りだすとヤバいことが起きる。
目を見開く。
それでもまだKは袋から針を抜こうとしていた。
「K、もう止めよう!」と声を掛けるが、Kは針を抜くのをやめないどころか、僕の声も聞こえていない様だった。
立ち上がると足が震えた。全身の血流が段々早くなっているのが分かる。
骨振動で伝わる心臓の鼓動が、まるで大太鼓の様だ。
どうすればいいのか、何をすればいいのか。
Kを殴り倒せばいいのか。Sを呼んでくればいいのか。分からない。動けない。
「そいつをはった倒しい!」
声が聞こえた。
その瞬間、僕の身体は動き、両手でKを突き飛ばしていた。
ライトの光が僕の身体を照らし、僕は振り返った。
そこに居たのは、朝と同じ服装の神主さんだった。
「やれやれ。心配になって来てみりゃあ……、案の定かえ」
外された社の扉とその上に乗った袋を見て、神主さんは深く息を吐いた。
「このバカたれが」
「す、すみません!」
突き飛ばしたKは未だ起き上がって来ない。仕方なく僕は一人きりで神主さんに向かって頭を下げた。
「まあ……間にあったき良かったわ。あれを見とったら、そういうわけにもいかんきよ」
そして神主さんは倒れているKの方を見やる。
「その子を起こしんさい。君ら二人、やらんといかんことがあるけえ」
数回肩を揺すぶるとKは目を開いた。
しばらく焦点のあっていない目で神主さんの姿を見ていたが、はっと我に返り、
「すいませんでしたあ!」とその場に土下座する。
「もうええもうええ。そんで、針を抜いたんは、どっちかえ」
「あ……俺です……」
そろそろとKが手を挙げる。
「ほうか。そんなら君の手でまた針を戻しんさい。
 その袋は針を刺すたんびに、ケガレをはろうてくれるき。罪もそう、過ちもそう……。
 すみませんでしたと思いながら、一本一本丁寧にな」
「……何か見えるんですか?」
恐る恐るKが尋ねる。
「見える言うた方が怖がるやろうが……、あいにく見えん。でもな、この袋は昔っから『そういうもん』 やき。
 それにな、前に来た若者らあは、それを見て、戻ってこれんようになった」
ぞくりとした。

109なつのさんシリーズ「ふくろさん」6:2014/06/14(土) 01:29:02 ID:Hpd3syqU0
Kもそれ以上は何も言わず、黙って針を元通り刺し始めた。
「……まあでもなあ、これだけ言うても、知らなんだらまた来るかもしれんきねぇ」
黙々とKが針を刺していく中、神主さんがぽつりと呟く。
「やりながらでいいき聞きんさい。
 この袋はな、本当は『ふくろさん』 じゃのうて、別に名前があってな、本当の名は『いぬがえし』 っちゅうんよ」
Kと僕は驚いて神主さんを見る。
すると彼は穏やかに笑って、
「好奇心が猫を殺すんなら、今の内にその好奇心を殺しとこうち思うてな。それも、誰にも言わんと、約束できるんならな」
僕らは頷く。
そして神主さんはこの袋のことを話してくれた。
いぬがえし。漢字で書くと『犬返』 となるそうだ。
中に入っているのは動物の死骸。それも血と内臓を抜き取り、ミイラ状態になったモノが入っているという。
「中を空っぽにするんよ。生き物やなく入れ物になるよう。
 ……そうして、その入れ物の中に、針を通して人の持つケガレを移しかえる。
 いぬがえしの目的は、そのケガレを払うということ。
 ああ、誤解せんでほしいんは、それらの動物は、ちゃんと寿命をまっとうしちゅうき」
今は袋の中には猫のミイラが入っている。と神主さんは言う。
「親父は、ネズミ何かもよう使っとったな。まあ、あれは針がようけ刺せんけぇ。あまりようない言うとったけどな。
 猪もあった、ヘビも、犬もあった……」
動物なら何でもええんよ。と神主さんは言う。
「針を通してケガレがいっぱいになったら、そのミイラは本殿の中で祀られる。神さんになるんよ。
 長いこと、人の代わって多くの恨みつらみを担いだけえ」
人々のケガレを代わりに担いでくれるモノ。
「今でこそ農業の神さんを祀っとるが、昔この神社は、そうやって出来たミイラらあをひっくるめて、主神として祀っとった。
 『おおいぬ様』 いうてな」
言わばそれは、大きなケガレの塊、恨みつらみの塊ではないのだろうか。それをこの神社では神として祀っている。
「神道ではな、エライもんが神様になるんじゃのうて、力のあるもんが神になる……」
僕の疑問を読み取ったかのように、神主さんはそう言った。
例えそれが恨みつらみだとしても、力があれば神にもなる。
「……お、終わったか」
話している内に、Kが抜いた分の針を刺し終わっていた様だ。
それを確認し、神主さんは懐から何かを取り出すと、僕とKに手渡した。
それは針だった。
「これが、今日君らが犯した過ちの分やき。これもちゃんとゴメンナサイ言うて刺しい」
悪さしてすみませんでした。でも悪気は無かったんです。本当です。ゴメンナサイ。
そんなことを思いながら僕は袋に針を刺した。
「よし、これで君らは大丈夫」

110なつのさんシリーズ「ふくろさん」7:2014/06/14(土) 01:29:38 ID:Hpd3syqU0
それから僕とKは袋を元の位置に戻し、外した扉を直してから、神主さんに二人でもう一度謝った。
「ええよええよ。まあ、これに懲りたら。もう、危ないことはしなさんなよ」
そう言って、神主さんは最後に僕らの頭に一発ずつ痛いゲンコツをくれると、
笑って「機会があれば、また来んさい」と言ってくれた。

車に戻ると、仮眠から起きたSが僕らの表情を見て軽く吹きだしていた。どんな表情をしていたのか自分でも分からない。
でも、今回のオカルトツアーで、僕らは多くのことを学んだと思う。
帰り道、窓の向こうを流れる夜の山々を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
ふと、後部座席のKを見やると、さすがの彼も反省している様だった。
何か思いつめた表情で足元を見ていたが、やがて顔をあげると、僕に向かってぽつりと呟く様に言った。
「……あのオッサンの話聞いてたらさ、本殿には人のミイラとかありそうじゃね……。お前どう思う?」
「……、……あったら、どうすんの?」
「見せてくれってあのオッサンに聞いてみる」
「駄目って言われたら?」
「そん時は、やるだけやったんだから……あ!いや駄目だ!うーんとだな……ええ?
 うおおっ、どうしようS!俺どうしたらいい!?」
「とりあえず黙れ」
訂正。今回のオカルトツアーで、僕らが多くのことを学んだというのは間違いだった。
好奇心猫を殺す。
たぶんそれが僕らの得た唯一の教訓だった。
まあそれだけでも、大きな進歩ではあったのだけども。

111なつのさんシリーズ「さがみトンネル」:2014/06/14(土) 01:32:19 ID:Hpd3syqU0
小話を一つ。

僕の住む街から車で少し走ると見えてくる山には、オカルトスポットとしてそこそこ有名なトンネルがある。
開通したのは昭和の初めで、山を越えて隣町に行く人が利用していたそうだが、
昭和から平成に移る頃に、別にもっと便利な道とトンネルが出来てしまったため、
滅多に人が通ることも無くなった、とのこと。
旧さがみトンネル。
何でも、トンネル内で行方不明になった女の子が、数ヵ月後にトンネルの出口からひょっこり出て来た、とか。
トンネルに入った時は確かに夏だったのに、出てきたら雪が降っていた、だの。
白い服を着た女の幽霊に壁の中へと連れ込まれる、といったものもあり。眉唾な噂話には事欠かない。

大学生時代、僕は一度だけこの旧さがみトンネルを通ったことがある。
季節は夏、時刻は午後十一時ごろ。
暗闇でも撮れるビデオカメラ一台と懐中電灯を持たされて、僕は一人トンネルの前に立っていた。
一緒に来た友人KとSの二人は、一足先にこのトンネルを越えた向こうで待っている。
といっても、トンネル内は道が悪く車が入れないので、彼らは車で新しい道の方からぐるりと回ることになる。
そうして、ジャンケンで負けた僕一人がトンネルを通るのだ。
ビデオカメラの電源を入れる。入口の横に、トンネルの情報を掘った石碑があったのでついでに撮っておく。
そうしてから、僕は唾を一つ飲み込み、懐中電灯を構えて暗闇の中に足を踏み入れた。

トンネル内はとても寒かった。ネズミ色の壁は無骨で、触るとやすりの様にざらざらとしていた。
地面には剥がれた壁の欠片や、風で運ばれて来たのだろう枯れ枝などが転がっている。
トンネルは入り口から向かって右の方へと緩やかなカーブを描いていた。
自分の足音と、入口から吹きこんでくる風の音が反響する。嫌なBGMだ。
ライトの光は頼りなかったが、手に持ったビデオカメラの赤外線映像は見なかった。

その内に出口が見え、僕はトンネルの外に出た。
いざ歩き終えてみれば別に大したことは無かったな、というのが感想だった。
辺りには人の気配は無かった。K達が待っているはずなのだが、どうやら僕の方が先に着いてしまったらしい。
外で待つこと数分、迎えがやって来た。
車から降りてきたKが「何かあったか?」と聞いて来るので、素直に「何も無かったよ」と答える。
それから三人で、先ほど僕がトンネル内を撮影した映像を確認した。
映像は二分半ほどだったが怪しいものは何も映っておらず、僕らは随分拍子抜けして、その夜は帰路に着いたのだった。
もう数年前の話だ。

ところがつい最近のことだ。
久しぶりにKと会って酒を飲んでいると、Kがあの夜肝試しで行った『さがみトンネル』 の話をしだした。
何でも、PCの整理をしていたら、あの時に撮った映像のデータを発見して、ふと懐かしく思い見てみたのだそうだ。
「当時は気付かなかったけどよ。意外と、とんでもねえもん撮れてんのな」
「何か映ってたん?」
「いや、別に妙なもんは映ってねえよ。……お前、トンネルに入る前に、傍にあった石碑撮ってたろ?」
それでも要領を得ない顔をしていると、Kが教えてくれた。
『さがみトンネル』 の全長は625メートル。あの石碑に小さく彫ってあったのだそうだ。
そのトンネルを、僕は僅か二分足らずで歩き切った。走っていないことは映像が証明している。
唖然とする僕を見て、Kは「うはは」と可笑しそうに笑った。
ちなみにあのトンネル。オカルトマニアの間では、『タイムトンネル』 と呼ばれているのだそうだ。

112なつのさんシリーズ「ぐるぐる」1:2014/06/14(土) 01:33:29 ID:Hpd3syqU0
僕の友人にオカルティストで霊感もそこそこ強いKという奴が居る。
ある日そのKに、「今まで生きてて一番怖かった体験は何か?」と訊いてみた。
すると、彼は視線を上の方に据えしばらく考えた後、
「んー……そら、ぐるぐるの時だな」と言った。
「ぐるぐる?」
「そー。ぐるぐる」

以下はKから聞いた話になる。
…………
十年くらい前の話だ。
俺が小学五年生の時、当時通ってた小学校内で妙な噂が流れていた。
噂は学校からそう遠くない場所にある南中山という山に関してだった。
『あそこの山には、ぐるぐる様が出るぞ』
話が広まり出したのは夏休みが明けた九月のことで、噂は火災時の煙の様にまたたく間に校内中に広がった。
何でも六年生達が夏休み中に南中山で肝試しを行い、そこで何かしら見たという話が出火元らしい。
多くの噂話や都市伝説がそうであるように、ぐるぐる様に関しても次々にボクも見たアタシも見たと目撃者は増え、
ぐるぐる様を見た者は呪い殺されるだの、日にちが経つごとに話は膨らんでいった。
身長は子供大から数メートルまでばらつきがあったし、男か女かも証言者によって分かれた。
ただ、そんなバラバラな話の中にも共通点があった。
それは、目でも腕でも頭でも、ぐるぐる様は身体のどこかしらが回転しているという点だ。
名前が名前だからそこは外せないんだろう。
あと、ぐるぐる様は黒いらしい。

そんなこんなで盛り上がる周りを他所に、俺は噂とは無縁に至って平凡に過ごしていた。
当時の俺は、オカルトにはあまり関心の無い普通の子供だったのだ。
まあ、まだ十かそこらだ。目覚めるには幾分早い。怖がりだったし。
代わりに四つ歳上の姉貴が目覚めてた。
「あ、Kー。晩御飯終わったら、南中山行くからね。準備しとくんよ」
朝から雲が無くて、朝夕晩通してこれでもかと暑い一日だった。
時刻は午後七時前。夕飯を前に、姉貴は風呂に行こうとしていた俺を捕まえてそう言った。
「南中山?……ぐるぐる様?」
というか、それしかない。
「そう。ぐるぐる。面白そうじゃん。ぐるぐる」
姉貴はトンボを捕まえるときのように、俺の目の前で人差し指を回転させる。
しかし、何がそんなに面白そうなのか、当時の俺にはいまいちピンとこない。
「当然、父さん母さんには内緒にね。決行は夜の十一時。それまでにちゃんとトイレは済ませときなさいよ」
関係ない話だが、俺は小学校低学年の時に観た、『学校の階段』 という子供向けのホラー映画でやらかしたことがある。
先程の姉貴の発言は、完全にそれを馬鹿にしたものだ。
実際のところ行きたくなかった。
しかし、ここで『行きたくない』 と言ってしまえば、更に馬鹿にされた上に、
これ以降俺の呼び名が『根性無し』 になってしまうことは確実だった。
弟に拒否権は無かった。
結局、しぶしぶながら俺は「……おーけー」と答える。
姉貴は「それでこそ私の弟だ」と満足そうに頷いた。

今夜、ぐるぐる様に会いに行く。
おかげで、風呂で頭を洗う時に目を瞑れなかった。
目を瞑ると、イメージされたぐるぐる様の映像が頭の中でぐるぐる回るのだ。
俺は夕食の後、念入りに下腹部内のタンクを空にした。

夜中の十一時。俺と姉貴は子供部屋のある二階の窓から外に抜け出した。
母と、一緒に住んでる祖母はもう寝ているようだったが、父が未だ居間でテレビを見ていた。
身を屈めて動く。玄関近くの車庫から音を立てない様に自転車を取り出す時が、一番緊張した。
自転車は一台。警察等に気をつけながら俺が前でペダルを漕いで、姉貴は後ろの荷台に座っていた。
夜中だが外は暑かった。
俺も姉貴も半袖半パンだったが、後ろで姉貴が鼻歌交じりに風を受けているのに対して、
俺は風は受けているが、同時に二人分の重量を乗せた自転車を漕いでいるのだ。
「重ぇー!あとアッつい。疲れた。しんどい」
「はいはい黙って漕ぐ漕ぐ。あと少しだから」
姉貴の口調は心底楽しそうだった。
南中山の入り口は家から自転車を漕いで二十分程の場所にある。
街の中にある小さな山で、子供の足でも二十分も上れば頂上につける。

113なつのさんシリーズ「ぐるぐる」2:2014/06/14(土) 01:34:07 ID:Hpd3syqU0
「……実はね。お母さんが子供の頃にも一度、学校内で噂になったんだって。南中山にはぐるぐるがでるぞー、ってさ」
もうすぐ山に着く頃、姉貴が後ろからそう言った。
街中を流れる川に沿ったゆるい坂道にそろそろ息が切れていた俺は、返事をしなかった。が、姉貴は構わず続ける。
「それどころか、おばあちゃんも若い時に聞いたことあるって言ってたからね。ぐるぐるはそんだけ長生きな怪談話ってこと」
俺の背後から気味の悪い笑い声がする。それはまるで女の子らしからぬ笑い方だった。
「面白いと思わない?ぐるぐる。
 この街だけに伝わる都市伝説だし、長生きだし、それでいてずっと語り継がれてるわけじゃないし。
 途切れ途切れに、ある時期になるとぽんと顔を出すの。思い出したように。
 ……ねえ、それって一体何でだと思う?」
完全にスイッチが入ってしまっているようだ。こうなるともう、非力な弟ではとめられない。
「え、俺?いや、そんなん分かんねーし知らねーし……」
「ま、そりゃそっか……。あ、心配しなくても、帰りは私が漕ぐからね。あー私すっごい優しいお姉さん!」
そりゃ帰りは楽だからだろ。ゆるくても下りだし。
しかしながら姉貴は、ぐるぐる様に関して俺より多くのことを知っているようだ。

しばらくして、ようやく俺と姉貴は南中山の入り口に辿り着いた。
車が入れる道もあるが坂が急で、ここから自転車は荷物になるだけだ。その辺の電話ボックスの隣に停めておく。
「「こりゃあ、なんちゅうやまじゃあ……!」」
二人で夜の南中山を見上げ、ここに来る人が必ず想像すると言われるお決まりのギャグをハモる。
と言っても、それほど何かが特徴的な山でも無いのだが。唯一、ぐるぐる様が出るという噂を除いては。

車が通る道路の方は使わず、俺たち二人は歩行者用の階段を使って山を上り始めた。
俺らが自転車を降りたのが山の南側で、ぐるぐる様は北側の斜面に出るのだと姉貴が言った。
自転車を漕いで居た時にはずっと聞こえていた車の走行音が、
今は木の葉の擦れ合う音や鈴虫の鳴き声に取って代わっている。
俺はずんずんと前を行く姉貴の後ろに、まるでコバンザメの様にぴたりと張り付いていた。
「今、小学校でも、ぐるぐるの噂って、流行ってんでしょ?」
不意に前を向いたまま姉貴が俺に尋ねる。
俺は「おう」とだけ返した。流行っていると言えば流行っている。今話題のたまご型携帯ゲーム程ではないが。
「それって、どんな噂?」
「どんなって……、なんか、色んな話がごっちゃになってて……、よう分からん」
すると姉貴はぱっと振りかえり、俺の顔面にライトの光を当てて、
「そう、それなんよねー。私のとこでもよく話は聞くんだけど。最近のは、一貫性が無いって言うかねぇ。
 だから、お母さんとか、周りのじいちゃんばあちゃん達にも訊いてみたんだけど」
「姉ちゃん眩しい眩しい」
「出来るだけ多くの話を集めてさ。集計してみたわけ。そしたらある程度特徴が分かったんよ。
 例えば容姿とか居場所とか、あと挙動ね」
「眩しいって」
姉貴は俺の話を聞いてくれない。
「容姿は知れたとおり。真っ黒で、ぐるぐるな身体。片腕は無し。
 とあるおじいちゃんなんかは、黒いのは火傷の跡だって言ってたけど……。
 場所はさっき言った北側の斜面ね。
 挙動は、特に何をするわけでもない。人を呪ったりはしないし、追いかけて来る訳でもない」
「まぶ……」
「ただ、姿が異様なだけ。怖さはあるけど危険では無いから。
 だから、世代間の間でちゃんと伝わって行かないのかもね。その場だけで終わっちゃうって言うか。
 ……おっと?あー、めんごめんご」
姉貴はやっと懐中電灯を俺から逸らしてくれた。
その間俺はずっとサーチライトに照らされた怪盗ルパンみたいな体勢をしていたわけだが。
「あんたはその辺どう思う?」
俺はまた返答に窮してしまう。当時の俺は基本的に姉貴に付いていけてなかった。
「……ってか俺、ぐるぐる様の姿知らないし」
「あれ、そうなん?それじゃあ、見てからのお楽しみってことね」
そう言って、また姉貴はずんずんと階段を上って行った。
階段の途中で俺たちは山をぐるりと回る横道に逸れて、山の北側へと回った。

114なつのさんシリーズ「ぐるぐる」3:2014/06/14(土) 01:34:43 ID:Hpd3syqU0
しばらく歩くと、細い道から少し開けた場所に出た。姉貴がライトの光を左から百八十度、ゆっくりと右へと回す。
「ここだね」と姉貴が呟く。辺りは靴を隠すくらいの高さの雑草と、うっそうと茂るナラの木に囲まれていた。
「……なあ、見える?」
俺は恐る恐る尋ねる。
「いたら見えるでしょ。私も、あんたも」
一寸先も見えないほどではないが、辺りは大分暗かった。
街の明かりも星の光も、頭上まで伸びる木々の枝や葉に遮られ、ここまで届いてるのはごく僅かだ。
虫の鳴き声。木々の囁き。目はラク出来るが、耳は忙しい。
「……今日はお留守かな?」と、辺りを見回しながら姉貴が呟く。
「寝てるんじゃね?」と言いながら、俺は若干ほっとしていた。
その時、ふと姉貴の照らすライトの光が白っぽい何かを浮かび上がらせた。
危うく飛び上がりそうになるが、それは石だった。何枚かの平たい石が縦に積まれ、小さな塔の様になっている。
高さは俺の背の半分程だった。
「……あれ何?」
「たぶん、お墓。名前が彫ってあるわけじゃないだろうけどさ。……供養塔だね」
訊いといて何だが、姉貴からしっかりした返答があったことに俺は驚く。
「誰の墓?」
「ん?いっぱい」
姉貴はこともなげに言ったのだが、俺にはその意味が良く分からなかった。
「だから、個人のお墓じゃなくて。そーねぇ……。
 ここの、南中山にはね。昔、戦争中に死んだ、身元の分からない人たちの遺体が埋められてるから。いっぱい。
 言うたらさ、この山自体がお墓なんよ」
思わず足元を見る。だとしたら俺たちは今、堂々と墓を踏んづけていることになる。
「で。私は、それを確かめに来たわけなんだけど……」
「あえ、何が?」
「んーん。何でもない。なんか、今日は出てこないみたいだし。ぐるぐる。だったら、ここに居ても意味は無いし」
帰ろうか、と姉貴は言う。俺は喜んで賛成した。朝までここに張り込むだなんて言われたらどうしようかと思っていたのだ。
「でも、もと来た道を戻るのはつまらないから、このまままっすぐ、山を一周しようか」
姉貴の提案に、帰れるなら何でも良い俺は素直に首を縦に振る。
そうして、また姉貴が前を行く形で俺たちは歩きだした。
「なぁ、帰りは姉ちゃんが自転車漕ぐんだろ?」
「ぐるぐる見れなかったから、やっぱりあんた漕いで」
「おい何だよそれー。……、……え、マジで?」

それは積み上げられた石の前を通った時だった。
ふと視線の端に何かが居た気がした。
帰れると思ってすっかり気が抜けていた俺は、疑問を抱く前にそちらの方を向いてしまった。
石の横に何かが居た。
最初は猪か何か、獣かと思った。
少量の水で溶いた墨をぶちまけたかのような暗闇の中で、そいつは確かにこちらを見ていた。
身体が固まる。しかし無意識に前に居る姉貴の服を引っ張っていたらしく、姉貴が振り向く。
何か俺に文句を言おうとしていた様だが、それが口から出て来る前に姉貴も俺が見ている何かに気がついた。
ライトの光がそいつを照らす。
ぐるぐる様。
俺の聞いた噂では、身体のどこかが回転しているから、ぐるぐる様だと言っていた。
だが違った。『身体のどこか』 では無かった。全部だ。
例えば、こちらを向いてまっすぐ立った人間を一本の棒と見る。
その棒の腰辺りを正面を向かせたまま、向かって左に曲げる。胸の辺りでもう一度同じ方向に曲げる。首も曲げる。
まるでカタツムリの殻の様に、コーヒーに垂らしたクリームが渦を巻く様に、ぜんまいの様に、
そいつの身体は頭を始点にして渦を巻いていた。
だから、ぐるぐる様なんだ。
頭と思しきモノが膝の横にあった。

115なつのさんシリーズ「ぐるぐる」4:2014/06/14(土) 01:35:29 ID:Hpd3syqU0
渦の外側はあまりに急激な角度で曲げられているため、所々黒い皮膚が裂けて、骨やら肉やら中身が飛び出している。
更に、ぐるぐる様は片方の腕が無かった。残った手は、バランスの悪い身体を支えるため地面についている。
身体のほぼ全身が黒かった。特に左半身が炭の様になっていた。目も開いているのは片目だけ。
異様だった。冗談だろ、ってくらい。
その姿は俺の想像のはるか上までぶっ飛んでいたため、悲鳴も出なかった。
俺は口を半開きにぼんやりと、ただ目の前の存在を見つめるだけだった。
「……ちょっと、ライト持ってて」
姉貴の言葉で、俺の中に放浪していた自我が一部戻ってきた。
姉貴はそんな俺の手にライトを握らせると、ぐるぐる様の方へゆっくりと歩み寄った。
『駄目だ』 とも『行くな』 とも言えず、俺は何をして良いか分からないまま茫然と姉貴とぐるぐる様に光を向けていた。
姉貴はぐるぐる様のすぐ傍で止まった。しゃがむ。何をしているのかは分からない。何もしてない様でもあった。
一度俯いて、それから立ち上がった。
「ライト消して」と、俺の方を向かずに姉貴は言った。
まだ茫然としていた俺は、二度同じことを言われてようやく反射的にライトのスイッチを切った。
暗闇。数十秒か数分。もしかしたら数秒かもしれなかった。
ただ、何も見えない中で、俺は段々と自分を取り戻していった。膝ががくがくと震えだす恐怖も一緒に。
「もういーよ。つけても」
姉貴の声がして、俺は急いでライトをつけた。光の先には姉貴の姿だけがあった。ぐるぐる様は居ない。
「大丈夫、どっか行ったから」
そうして姉貴は、未だ恐怖の余韻に震える俺の方を見て大いに笑った。
「なんか、生まれたての小鹿みたい」
馬鹿にされてもしょうがない。後で思ったことだが、ここに来る前にトイレに行っといてホントに良かった。
俺の震えは、姉貴に頭をたたかれないと歩き出せない程だった。

自転車を置いた場所に戻る前に、姉貴は積んであった石に向かって手を合わせた。
どうしてだか分からなかったが、急いで俺も倣う。『どうか祟らないでください』とお願いした。

それから二人で山を降りた。
「帰りは私が前」と言う姉を強引に後ろに乗せて、俺は若干飛ばしつつ深夜の家路を走った。
身体を動かしていた方が余計なことは考えずに済むだろうって寸法だ。と言っても、それは無駄な抵抗に近かったが。

「……あん時さ、ぐるぐる様と何してたんだよ?」
帰り道の途中、まだ怖かったが、俺は思い切って訊いてみた。
後ろで鼻歌を歌っていた姉貴は、そのまま歌う様に答えた。
「見てただけ」
「……どこ見てたんだよ?」
「うーん……。足の甲にあったVの字とか。あ、ローマ字の、大文字の方ね。おかげで、はっきりした」
「は、Vの字?」
「下駄か何かの、履き物の紐の跡。下駄なら鼻緒って言うんだっけ?そこだけ、うっすらと白かったから」
俺は馬鹿だったから、姉貴が何を言いたいのか分からなかった。

116なつのさんシリーズ「ぐるぐる」5:2014/06/14(土) 01:36:14 ID:Hpd3syqU0
「それが何?」
「火傷を免れた跡ってこと。しかも、あの子の火傷は、左側が特にひどかった。たぶん、爆弾じゃないかな」
やっと呑みこむ。爆発に巻き込まれたから、あんな身体になり、火傷も負った。
しかし爆弾と言われても、現在を生きる俺には現実味が無かった。
「地面に落ちる前に塀か何かに当たって、丁度真横、左側、頭より上で爆発した。
 ……証拠は何も無いけどね。そう的外れでも無いと思う」
「爆弾って……、戦争?」
「そうだよ。だから、おばあちゃんの頃からこの話が伝わってる。
 南中山に埋められているのは、昭和二十年ごろに起きた大空襲の被害者って話だから。
 身元の分からない人もたくさんいた。その内の誰かじゃないかな」
昭和二十年。何年前だろう。とりあえず、俺が生まれていないことだけははっきりしている。
「……姉ちゃん、さっき、『あの子』 って言った?」
すると姉貴は、それを言うのをほんの少しためらった。
「……うん。子供だった。あんたと同い年くらいかな」
俺と同じくらい。
ぐるぐる様は戦争で死んだ子供だった。
それを思うと少しだけ、
ぐるぐる様に対して今まで抱いていたの恐怖の隙間を通って、しんみりとした何かが染み出して来た。
「どうして、今も出てきてるんだろ……」
呟く。
「空襲があったのは、夏らしいからね。忘れられないために、出て来るんじゃないかな。勝手な推測だけどさ」

それから少しの間、俺と姉貴は黙ったままだった。
夜空見上げ、俺はふと思う。
明日学校に行ったら、この噂を広めてやろう。
ぐるぐる様はただの妖怪とか幽霊じゃないんだぞ。戦争で死んだ子供なんだ。忘れられないために、出てきているんだ。
「平和にぃ、感謝だぁーっ!」
突然、後ろの姉貴が大声で叫ぶ。危うくこけそうになった。
振り向くと姉貴は「うははは」と可笑しげに笑っていた。
………………

「……まあ、十歳そこそこの頃に、姉貴に無理やり連れ出されて、いきなりアレだからなあ。ありゃ怖かった」
時間はそれから約十年後。ここは大学近くのKが住む学生寮の一室。
「って言うか。……Kって、姉さん居たんだねぇ」
「お、そういや言ってなかったっけか。何なら、今度紹介するぞ?最近近くに男っ気無くて暇だとか言ってたからよ」
「……いや、遠慮しとくよ。何かスゴイ人の様だし」
さっきの話で、今現在のKがこうもオカルト好きな理由の一端を垣間見た気がした。
類は友を呼ぶ、ならぬ、類は友を造る、か。
「そういえば、そのぐるぐる様ってさ。今も居るんかな?」
「ん。そらまた何で?」
「あ、いや。Kが一番怖いって言うくらいだからさ。僕も一度くらいその姿を拝んでみたいなー、なんて思ったりね」
「あ?あ、いやー違うぞ。そこじゃねぇ。確かに怖かったけどさ。一番って程でもねえよ。
 ……ワリーワリー。重要な部分が抜けてたな」
僕は首をかしげる。一体どういうことだろう。
「今までで一番怖かったのはさ。
 ……あの後、家に帰った後にな、抜け出したことが親にばれたんだよ。
 姉貴が夜に叫ぶもんだから、近所の人に聞かれちまって。
 で、家に帰ってから、猛烈に怒られるわけだ」
「……」
「そん時のオカンが、一番、怖かったな」
そう言ってKは「うははは」と笑った。

なつのさんシリーズ「ぐるぐる」終わり

117なつのさんシリーズ「うじの話」1:2014/06/14(土) 01:39:10 ID:Hpd3syqU0
僕の友人にオカルトの類に詳しく、にも拘らずオカルトと聞くと鼻で笑い飛ばす、Sという奴が居る。
ある日そのSに、「今まで生きてて一番怖い体験は何か」と訊いてみた。
するとSは読んでいた本から僅かに顔を上げて、いつもの興味無さそうな表情でちらりとこちらを見やり、
「一番って……、いちいち順位なんて決めてねえよ」と言った。取り付く島も無いとはこのことか。
「それじゃあ、最近一押しの怖い話とかは?」
僕は負けじと質問を重ねる。
Sは僕に向かってハエでも追い払うかのように手を振った。
それから何か言おうとしたようだが、ふと開きかけた口を閉じて、考える様なそぶりを見せた。
「……なるほど、怖い話か」とSが呟く。
その口調に何やらとても嫌な予感がした。
「一応訊くが、これは相当ヤバい話だ。最後まで聞く覚悟はあるか?」
そこまで言うか。僕は一瞬迷ったが頷く。
「そうか」
ゆっくりと本を閉じ、Sは話し始めた。
「実際に起こった事件だ。数ヶ月前、近くの街で、一人の女子大生が自殺した。それに関わる話だ」

以下しばらくSから聞いた話になる。
………………
大学二年の夏だった。今はもう辞めているんだが、当時俺は駅前の居酒屋でバイトをしてた。
そこで何時だったか、バイト仲間で飲み会をしようって話になった。
場所は一年上の先輩が住んでるアパート。
その人は俺がドリンカー(※裏方でお酒を作る人)として色々教わった先輩だった。
俺らと同じ大学の先輩だ。お前も見たことぐらいはあるだろうな。
自分で言うのも何だが、無愛想な俺にも普通に接してくれる人だった。八方美人と言えば言い方は悪いが。
おそらくその先輩からの誘いじゃなかったら、俺は飲み会なんか断ってたと思う。

当日。集まったメンバーは六,七人だった。
宅飲みだからとことん安上がりにしようってことで、
各自スナック菓子やらチューハイなんかを買い込んで、先輩の家に持ちよった。
飲み会は確か夕方の六時に始まって、七時を過ぎる頃にはもう周りは全員酔っぱらいと化していた。
その内、きっかけは忘れた。とにかく、先輩が昔付き合ってた女性の話をしだした。
何でもその女は隣町の大学生で、随分前に別れたそうだが、相手が納得せずしつこく付き纏われ、
いわゆるストーカーになってしまったらしい。
その話は前に先輩から聞かされ知っていた。飲み会から数日前の話だ。
「俺は、どうすればいいだろう?」と相談を持ちかけて来る先輩は、真剣に悩んでいる様に見えた。
その時俺は、「誰これ構わず、愛想を振るから……。勘違いする奴が出てきて当然ですよ」と答えた。
我ながら冷たい返答だとは思うが、先輩は納得したようで、「そっか、やっぱりそうだよなあ」なんて言っていた。
後で知った話だと、先輩は他のバイトメンバーにも、同じような相談をしていたようだ。

118なつのさんシリーズ「うじの話」2:2014/06/14(土) 01:39:44 ID:Hpd3syqU0
時間を飲み会当日に戻す。
「最初の方は、まだ許せたんだけどさ。
 だんだんエスカレートしてきて、『あなたを呪う!』みたいな手紙まで出してくるようになってさ……。まいったよ」
そう言って、酔った先輩はふらふらと立ち上がって、
背後の戸棚を探り、その元カノからだと言う手紙を出して俺たちに見せた。
真ん中に先輩の名前があり、あとはA4サイズのルーズリーフにびっしりと『呪う』という文字が書きこまれている。
「きめえ」だの、「ひどい」だの感想が飛んだ。
「……まあ、俺が悪いってのも、分かってんだけどさ。何も、そこまでやることはないだろう……こんなさあ……こんな、」
先輩は自分でも酒に強い方じゃないとは言っていた。その時はろれつも上手く回っていなかった。
でも、だからこそ、つい口を滑らしてしまったんだろう。
「それに、最近さ。なんか俺の部屋、蛆が、出るんだよな……」
先輩がそう呟いた。途端にそれを聞いた全員が、何を喋るでもなく口を開いた。鳩が豆鉄砲食らった様な顔だ。
言った本人も場の空気に気付いて慌てたようだった。
「あ、いや、これ秘密にしてたんだった。しまったな……」
それからは詰問の嵐だ。
最初の方こそ渋っていたが、周りが酒も絡ませながら問い質していくと、ものの数分で先輩は陥落した。
本当は誰かに喋りたかったのかもしれない。
「何かさー。家から帰って来るとさ。シンクの中で何か動いてるんだよ。こう、こう、白くて小さいつぶつぶが数匹。
 何だろなって思って良く見てみると、……蛆だった。ウジ。
 昨日なんか、風呂場にも出たぜ。バスの中の排水溝から、栓を押しのけてゾワゾワ湧いてた」
数名の女性陣が同じ色の悲鳴を上げた。
俺と同期のバイト仲間が「で、その後どうしたんすか」と訊くと、
「ああ。普通に、捨てたよ」と先輩は答えて、それから赤い顔で自嘲気味に笑った。
「俺さ……これ、これって。元カノの呪いじゃないかって思ってるんだけど」
再び女性陣から悲鳴が上がる。
その後で、何人かがシンクや風呂とか、先輩が『出る』 って言った水回りの確認をしていたが、
生憎というか、その日は何も居なかった。

それから一週間程経った後のことだ。
先輩の元カノが死体で見つかったと聞いた。自殺をしていたのだと。
俺がそれを知ったのは人伝だったが、地方のニュースで取り上げられるくらいには大した事件だったそうだ。
発見のきっかけは、アパートの部屋の周りに異常時発生した蠅だった。
郵便受けの蓋と挟まったチラシとの隙間から、異常な数の蠅が出入りしているのを、
訪ねてきた新聞の勧誘員が見つけたんだそうだ。
アパートの管理人がドアを開けた時は、約数十キロもの肉が腐った果ての猛烈な匂いと、
黒い竜巻かと見紛う程の蠅の大群が、同時に中から飛び出してきたらしい。
そして遺体は風呂場で発見された。
部屋の中からは遺書が見つかった。大学ノートに彼女の文字で。
そこには、『人生に悲観して』 という内容だけ書かれていた。
先輩も警察に呼ばれたそうだが、あまり込み入ったことは聞かれなかったそうだ。
警察も最初から自殺として扱っていたんだろう。

119なつのさんシリーズ「うじの話」3:2014/06/14(土) 01:40:23 ID:Hpd3syqU0
発見された時、彼女は死後三週間ほど経っていた。
それはつまり、俺たちが先輩の家で飲み会をしていた時には、
彼女はまだ誰にも見つからず、長風呂を楽しんでいたということだ。
しかし、夏の間に死んだ人間が三週間も放置されたのだから、その様子はすさまじかったと言う。
風呂桶の中で自ら首を掻っ切ったまでは良かったが、
場所がアパートの角部屋で、運悪く隣近所に誰も入居者が居なかった。
そのために匂いに気付く者がおらず発見が遅れ、ただの死体から腐乱死体へと昇格をする羽目になった。
何処からか入りこんだ蠅が死体に卵を生み、孵化して蛆が湧く。蛆は蠅となり、その蠅がまた死体に卵を産む。蛆が湧く。
この連鎖は、放っておかれた死体が朽ちるまで続く。
彼女は服を着たままで、発見当時、風呂桶には水は溜まっていなかった。
水というのは、死後人間から染み出す大量の腐乱液も含めてだ。それが無かった。
つまり、風呂の栓が空いていたということだ。
下水道へと通じるその穴にはきっと、
水分と肉とが混ざった腐乱液と一緒に、彼女の身体から湧き出た蛆が流れ込んだみ違いない。
下水道というものがどこまで繋がってるのかは知らないが、
『先輩の家に出たと言う蛆は、彼女の身体をもって生まれた奴らではないか?』
『先輩は元カノに死後もストーカーされた』
その後しばらくの間、バイト内ではそんな噂話が絶えなかった。
………………

「駄目だ……、グロいのは、駄目だ」
ここはSの家。
Sの話を聞くうちに、僕は段々とグロッキー状態になっていた。
隣町で自殺した大学生がすごい状態で見つかったというニュースは、僕にも聞きおぼえがあった。
けれでも、と僕は思う。
確かにちゃんと『怖い話』 ではあったが、やっぱりグロいのは駄目だ。虫も駄目だ。
いや、虫はいいが、ぞわぞわと湧きでて来るのは駄目だ。
「グロいのは駄目だ……」
Sは繰り返す僕の主張を無視して、代わりに欠伸を一つしていた。
「……お前が話しろっつったんだろうが」
「怖い話とグロい話は違うと思う。この世の中には、ちゃんとスプラッターとホラーって二つのジャンルがあってだね」
「それって、同じもんじゃなかったか?」
「違う違う。ホラーっていうのは、もっとこう、スマートに……」
言いかけたが、僕は口をつぐんだ。これを話していると夜を超えて朝になってしまう。
「しかしまあ……、下水を越えてやって来る大量の蛆虫かあ……、なんか夢に出そう」
僕は素直な感想を言っただけのつもりだった。けれどSはそんな僕を見やり、馬鹿にしたように「くっく」と笑った。
「……なんよ?」
「いや。やっぱり怖いなと思ってさ」
「だから、何が?」
「そうやって、人の話を簡単に信じるだろ。それが、怖い」
僕は首をかしげる。Sは何を言いたいのか。人の話を信じることが怖いこと。それは、つまりだ。
考えた末、思考が一つの可能性に行きあたった。
「え……、作り話なん?」
しかしSは、「それは違う」と首を振った。
「事実だよ。さっきの話は、俺が実際に体験したことで。そこに偽りはない」
「んじゃあ、」
「お前は一つ、勘違いをしてる」
僕の言葉を遮り、Sはそう言った。
「まあ、普通に考えれば分かることだが。あの話の中には、一つ、嘘がある」
それはつまり、登場人物の誰かが嘘をついたということだろうか。と言っても、先のSの話の登場人物はそれほど多くない。

120なつのさんシリーズ「うじの話」4:2014/06/14(土) 01:41:00 ID:Hpd3syqU0
そしてS自身は、先程自分の体験が嘘では無いと言った。ならば残された人物は……。
「……先輩が、嘘をついてた?」
そうだとSが頷く。
「でも、何について?」
ため息が聞こえる。おそらくは、僕の頭の回転の鈍さに嫌気がさしているのだろう。
ああ駄目だ駄目だ。自分で頭を叩く。Sに頼りっきりでどうする。考えろ考えろ僕の頭。
先輩は嘘をついていたのだ。何についてか。元カノについて?手紙について?ストーカー被害について? 
違う。
「……蛆虫だ」
僕はようやくそこに行き着いた。考えてみれば当然のことだった。
最初から『怖い話』 として聞いていたせいで、常識的な考え方がすっかり抜け落ちていた。
Sを見る。僕の答えは正解だったようだ。
「そうだな。不自然なのは蛆の話だ。
 普通に考えて、蛆が下水を通って上って来るなんてありえない。排水溝には虫の侵入を防ぐトラップもあるしな。
 まあ、そこを無視して成立するからホラーなわけだが、現実ではそうもいかない。つまり、嘘だ。
 あれは先輩の作り話だったんだ」
僕は自分の家の排水溝を覗き込んだ時のことを思い出した。確かに虫が上ってこれない構造になっていた。
それに元々、定期的に水を流していれば、虫は侵入できない。
現実。そうだ、ここは現実なのだ。その言葉が、僕の脳内に記憶されているSの体験談を徐々に浸食していく。
「飲み会があった日は、先輩の元カノが死んで十日が経った頃だった。
 しかも、蛆が出ると言った場所は、シンク、風呂、トイレ、全部下水から繋がった場所。
 ……ここまでくれば、自然と一つの推測が成り立つ」
そこまで言うと、Sは少し間をおいた。
「……少なくとも、飲み会のあった日。先輩は、元カノがどういう状態で死んでいるのかを知っていた。
 見つけてたんだ。彼女の遺体を、誰よりも早く」
現実的に考えて、先輩の家に蛆が現れることはない。けれど先輩は、S達に居もしない蛆の話をした。
『彼女の呪いかもしれない』 という言葉まで添えて。
そして、実際彼女は蛆の湧いた状態で見つかった。
「……でもさ、それだけなら、ただの冗談とか、偶然ってこともあるんじゃない? お酒も入ってたわけだし……」
するとSは黙って立ち上がり、戸棚から中から何かを取りだして僕に見せた。
それは、何か文字の書かれた二枚のルーズリーフだった。
「……何これ?」
「彼女の遺書の一部」
「い!?」
Sはそれを僕の目の前に置く。
一枚は普通の文面で何か書かれている。
そしてもう一枚には、誰かの名前を中央に、夥しい数の『呪う』 が書かれていた。
それはSの話に出てきた、彼女の呪いの手紙と酷似している。
何故こんなものがここにあるのか。
何も言えずに僕はSを見やる。Sは肩をすくめた。
「俺だって、蛆の話だけで決め付けたわけじゃない。ただ疑いは持った。
 それで、事件の後しばらくしてから、先輩んちに行ってな。隙を見て探したら、それ出てきた。
 飲み会した時にも、気にはなったんだ。棚には鍵掛かってたんだが。そこはまあ、……アレでな」
アレと言うのはおそらく、ここに書いてはいけない技術のことだ。が、まあそれは良いとしてだ。
僕は再び彼女の遺書に視線を戻す。『呪う』 と書かれた紙とは別の方。
そこには『私』 と称した一人の女性が、付き合っていたとある男に浮気され捨てられそうになる、その現状が書かれていた。
「そこにある男ってのが、先輩だ」とSが言った。
「先輩は彼女の家の合鍵を持っていた。随分前に別れたと言っていたが、実際はまだ『合鍵を持てる程の関係』 だった。

121なつのさんシリーズ「うじの話」5:2014/06/14(土) 02:03:53 ID:Hpd3syqU0
 まだ先輩は別れていなかったんだ。もしかしたら、その話をするために、彼女の家へ行ったのかもな」
遺書の最後には、『今死ねば、私はずっとあなたの彼女でいられる』 と書かれてあった。
この二枚の遺書を先輩は持っていた。
しかし、ふと単純な疑問がよぎる。
「……どうしてすぐに燃やしたりしなかったんだろう?遺書」
「だよな。ま、過ぎたことだ。そこは、本人に訊く以外、何をもってしても想像でしか埋まらん」
Sもそこについてはよく分かってないようだ。何らかの後悔や、それを持つことで贖罪の意識があったのかもしれない。
「とにかく確かなことは、飲み会があった日の前に、先輩は彼女の家に行ったんだ」
Sは続ける。
「そこで、先輩は彼女の遺体と、この遺書を見つける。
 先輩は遺書の内、自分の名前がある頁を破り取って逃げた。幸いにも、ルーズリーフだったから痕跡も残らないし。
 それに、残りの遺書は本物で、かつ、それだけで辻褄が合った」
先輩は通報しなかった。

122なつのさんシリーズ「うじの話」6:2014/06/14(土) 02:11:21 ID:Hpd3syqU0
先輩が逃げた理由は、何となくだが想像ができた。
遺書の内容が事実なら、彼女は先輩の心移りのせいで、自殺にまで追い込まれたことになる。
そこでもしも、先輩が遺体を見つけたその場で通報してしまって、事件が発覚すると、
『移り気によって彼女を自殺させた』 と彼の評判は地に落ちてしまう。それを恐れたのだ。
しかし自ら、『随分別れた元カノに付きまとわれている』 と吹聴し、
彼女が十分にストーカーへと変貌した後で、死体が発見された場合はそうはならない。
実際、先輩に下った評価は『死んだはずの元カノにストーカーされる哀れな男』 だったのだから。

123なつのさんシリーズ「うじの話」7:2014/06/14(土) 02:12:17 ID:Hpd3syqU0
それに当然だが、先輩は死んだ彼女の彼氏だったんだからな。発見が遅れるのも計算済みだったんだろう」
僕は大きな大きな溜息を吐いた。これで、隠れていた話の大部分が見えてきた。
ただ、一番大きな疑問がまだ残っている。僕はそれを訊かねばならないのだろう。

124なつのさんシリーズ「うじの話」8:2014/06/14(土) 02:12:48 ID:Hpd3syqU0
「でさ……。Sはさ。何で今、これを持ってるの?」
そう言って、僕は目の前の二枚の遺書を指す。
「ん?だから言ったろ。先輩の家にお邪魔した時に、失敬したって」
「そうじゃなくて!……僕が訊きたいのは、Sがこれを盗んでどうしようとしたのか、ってこと。
 何で、警察の元に、これがいっていないのかってこと」
すると、Sは肩をすくめて少しだけ笑った。
まさか、と僕は思う。Sは先輩のことを見逃したのだろうか。
先輩だと言った。世話になった人だと言った。だから見て見ぬふりをしたのか。
「……お前、普通に考えて、この事件における先輩の、刑事上の責任がどうなるか分かるか?」
「え?」
唐突な質問に僕は口ごもる。
「死体遺棄にはあたるだろうが。しかし、直接の死に関わった積極的な死体遺棄じゃない。
 更生を誓いさえすれば、ほぼ確実に執行猶予がつくだろうな。
 ストーカーのでっち上げなんてのはもっと酷い。しらばっくれられたらそこで終い。
 それに、そもそも被害者が居ないんだからな」
僕には法律の知識など無いから、ここで何か言えるわけが無かった。
「それは、彼の犯した罪からしてみれば、
 自殺まで追い込まれ、さらに死んだ後にストーカーにされた彼女から見れば、あまりに軽い。
 と、『個人的に』俺は思ったわけだ。……が、俺は同時に、『個人的に』 先輩に対して恩も感じていた」
だから、とSは言った。
「だから、俺はまず、先輩に訊いてみた。ルーズリーフ見せてな。これからどうするつもりですか、ってな。
 自首するならそれでいいと思ってたし。ゴネるなら考えがあった」
そうしてSは、先輩に自分が真相を知ったことを告げた。
「意外と簡単に白状したよ。全部。……遺書を見つけて、怖くなってやっちまったんだと。でも、自主はしたくないと言った。
 あの人の八方美人は、生きている人間限定だったらしい。その後、彼女の悪口を散々聞かされたよ。
 友達の少ない子で、同情心から構ってやってたら離れなくなって、仕方なく付き合ってた、だとかな」
Sが鼻で笑う。けれども、先輩としてはそうなんだろう。自首する気があるなら、最初から遺書を破って逃げたりしない。
「この事件がもし、彼女の自殺と先輩の遺体遺棄だけで済んでいたら、俺は見逃してたと思う。
 でも先輩はその後、死人に罪を着せて保身を図った。これは明らかにアンフェアだ。
 公にしたくないと言う先輩の言い分も分かる。ただし、罰は受けなければならない。
 だから、俺は一つ提案をした」
提案。どうやらSは、先輩をタダで見逃したわけではないようだった。そのことに少しだけホッとする。
しかし、続くSの言葉は、そんな僕の安堵を軽く吹き飛ばすものだった。
「……先輩の家には今でも、定期的に元カノからの手紙が届くそうだぜ?」
「は?」
僕はつい間抜けな返答をしてしまう。
彼女は死んでいるはずだ。本当に届いたとすればそれは、それこそ現実を離れたホラーになってしまう。
「あ!」
思わず声に出していた。
当たり前のことだ。死者は手紙を送れない。手紙を送るのは生きた人間だ。Sが言う罰とはそういうことだったのだ。

125なつのさんシリーズ「うじの話」9:2014/06/14(土) 02:13:30 ID:Hpd3syqU0
「一体誰に教えたんだよ……、真相を」
僕がそう言うと、Sは『よくできました』 とでも言うように小さく拍手をした。
元カノの遺族か、もしくは交遊のあった人物か。
いずれにせよその人物は、先輩に対してメッセージを送り続けているようだ。
それは『まだ許さない』 か、もしくは『絶対に忘れるな』 だろうか。
「……彼女の父親だよ」とSは言った。
真実を知ったのは死んだ彼女の父だった。
「『彼』 は先輩を訴えることも出来た。そうすれば、俺も協力するつもりだった。でも、『彼』 はそうしなかった。
 法に照らすことはせず、代わりに、手紙だ」
僕は思う。それは法による罰では無く、個人的な復讐を選んだということだろうか。
「……反社会的だと思うか?けどな、先輩も含め、全員がそれで納得しているんだ。
 これで良かったと言うつもりはないが、執行猶予を過ぎて全て終わった気になるよりはいいだろ。
 ……噂の通りだよ。彼女は死後も、ちゃんと先輩をストーカーしてる」
ここで僕はようやく今までの話が、何だかとてつもなく大きな何かを含んだ話だったことに気がついた。
僕の知らない間にSはとんでもない経験をしていたのだ。
身体が重い。ただ話を聞いただけで、精神と体力を大きく消耗してしまった様だ。
「……でだ。最後に、もう一つ」
Sが言う。まだ続くのか。僕は露骨にげんなりする。
「もちろん、この話をお前にした意味は、分かってるよな」
「……え。意味?」
そんなことを言われても意味が分からない。この話自体は単純に僕の『怖い話が聞きたい』 から始まったはずだ。
ただ、どうしてか分からないが、はっきりと嫌な予感がした。Sが話し始める前に感じた嫌な予感の正体でもあった。
「今は手紙だけだが……、もしも今後、先輩が誰かに殺されたとする。
 すると、俺は思うわけだ。犯人はきっと『彼』 に違いないと。
 で、それが本当に当たっていたら、向こうの方でも、真相を知りうる俺が邪魔だと思うかもしれない」
僕は思う。Sは何を言っているのだろう。
「その果てにもし、俺の身に何か起こったとする。
 そうなれば、彼女の自殺に始まる、事件の全貌を知りうる人物は、もう犯人とお前だけってことになる。
 今、全部話したんだからな。……まあ、その後どういう行動に出るかは、お前次第だが……」
そしてSは、真顔で僕の右肩に手を置いた。
「公表するか、黙っとくか。どちらもそれなりにきついだろうが。
 たった今俺の話を聞いたお前は、万が一の場合は、そのどちらかを選ばなければならない。
 迷惑な話か?でも、俺は最初に聞いたよな。『この話を聞く覚悟はあるか』 ってよ」
僕は言葉が出なかった。混乱していた。
部屋の外、廊下で回る換気扇の音がいやに大きく聴こえた。
これはどうやら、とんでもないことに巻き込まれたようだぞ。と、脳みその隅の方で誰かが僕に告げていた。
どうしよう。という言葉が、頭の中で暴れまわっている。
まだ肩に手が置かれたままだった。Sが『おい、どうすんだ?』 といった表情で僕を見ている。
怖い。
唾を飲み込む。
その瞬間、頭の中で暴れる『どうしよう』が、『どうしようもない』へと進化した。
僕は無言のままぎこちなく笑い、Sに向かって親指を立てて見せた。
しばしの静寂。
突然、Sが噴き出した。そんなSを見るのは随分久しぶりのことだった。
茫然としていると、Sは僕の肩を二度軽く叩きながら。
「……ジョークだよ」と言った。
「ジョークだ。ジョーク。ワリー。……でも、それなりに怖かったろ?」
その言葉が止めだった。僕の混乱は最高潮に達した。
ジョーク。つまり、冗談。
ジョーク。つまり、悪ふざけを伴った物語。
ジョーク。つまり……。
先輩は?
事件は?
死んだ彼女は?
なんだか前にもこんなことがあった気がするな。
「……あのさ。さっきの話の、どこからどこまでが、ジョーク?」
僕が辛うじてそれだけ尋ねると、再び読みかけの本を開いていたSは、ちらりと僕の方を見やって、
「さあて。どこまでだろうな」と、少し笑いながらそう言った。

126なつのさんシリーズ「言伝」1:2014/06/14(土) 20:32:48 ID:Hpd3syqU0
大学時代の冬のある日のことだった。
その日一日の講義が終わってから、僕は友人のSとKと三人で心霊スポット巡りに繰り出していた。
言いだしっぺはK、車を出すのはS、僕はおまけ。いつものメンバー、いつものシチュエーションだった。
目的地は、僕らの住む町から幾分遠い場所にある、今は入居者のいない古い集合住宅。
噂だと、そこには複数の首のない幽霊が出るらしいのだけれど。
結論から言うと、今回はハズレだった。
あたりが暗くなってからようやく目的の廃マンションにたどり着いた僕らを迎えてくれたのは、
色とりどりの落書きと、階段の踊り場で季節外れの花火をするマナーの悪い先客だった。
久々の大ハズレだ。
「ああいう奴らってのは決まって、怖い思いしたり祟りに遭ってから、
 『後悔してる。あんなとこ行くんじゃなかった』 とか言うんだ。
 くっそ、馬鹿じゃねーのか。呪われねーかな、あいつら。それか花火で火傷しろ、ヤケド」
帰りの車の中、いつもなら車酔いでダウンしているはずのKが、後部座席でぶつぶつ愚痴をこぼしている。
花火をしていた若者たちとは接触自体はなかったのだけれど、Kは彼らの行為に相当おかんむりのようだ。
「覚悟がねー奴は後で後悔すんだよ。『やっぱり止めとけば良かった』 とか俺だったら死んでも言わねーし。
 逆に、『やっぱそうだよな』 って言うな、うん」
「知らねーよ……」
運転しているSが若干うんざりした様に呟いた。
Kは廃マンションを離れてからずっとこんな感じだ。
車は郊外、左右を田畑に挟まれた道を走っていた。
暖房が暑くてウインドウを少しだけ下げる。僅かに開いた隙間から入り込んでくる冷たい空気が気持ちいい。
けれど、やりすぎると車内が冷える。僕はすぐにウインドウを閉めた。
確かにKの言うことも分からなくもない。
僕だって心霊スポットと呼ばれる場所に行くときには、『何が起こっても不思議じゃない』 という意識でもって行く。
実際、過去にたくさん怖い目にも遭ったし、死ぬかもしれないと思ったことだって一度や二度ある。
それでも、今日だってKが「首なしマンション行こうぜ」と言うと、ほいほい誘いに乗るのだから、
『何されたって文句は言わない』 くらいの覚悟は、僕自身持っているつもりなのだろう。

「なーなー、俺腹減ったんだけどよ。なんか帰りにラーメンでも食べて帰ろうぜー。俺今日は金ねえけど」
Sが「餓死しろ」と冷たく言い放つ。
僕もKに何か言おうと後ろを振り向いたその時だった。僕らを乗せた車が急ブレーキをかけて止まった。
道がちょうど見晴らしが悪く細い山道へと入るところだったので、死角からトラックでも出て来たのかと思った。
けれども、そういうわけでは無い様だ。
「……事故だ」
僕とKに向かってSが短く言った。事故だと。
それから車を道の脇のスペースになっている部分に寄せる。
車のライトの先、白いガードレールのそばに、確かに倒れたバイクと共に人影らしきものが倒れていた。
ライトはつけたまま、シートベルトを外してSが車を降りる。
僕とKは一度車内で顔を見合わせた後、無言でSに続いて外に出た。
「おい、大丈夫か?」
Sはもうすでに倒れている人のそばにしゃがんで声をかけていた。
仰向けに空を見上げるその人は、フルフェイスのヘルメットをしていた。ガタイが良く男性のようだった。
声をかけても反応がないと知ると、Sは顎とヘルメットの隙間に掌を差し込んだ。
「おい。お前らぼーっとすんな。K、救急車と警察呼べ」
「お、おう」
「○○(←僕の名前)はバイク道のわきに寄せて、車が来ないか見張ってろ」
「分かった」
僕は周りを見回す。耳も済ませてみたけれど、近くに車の気配はない。
停めた車の近くでKが電柱を睨みながら救急車を呼んでいる。
黒いバイクを苦労して起こし、邪魔にならないように路肩に寄せる。
バイクは前輪がゆがみ、フロントライトが粉々になっていた。それが他の部品と共に辺りに砕けて散らばっている。
傍らでSが「ちっ」と舌打ちしたのが聞こえた。見ると、Sが男の被っているヘルメットをゆっくりと脱がそうとしている。
「なあ、大丈夫なん?こういうときって、動かすのって駄目なんじゃ……」
「呼吸も脈もない。このままだとどっちにしろ助からない」
こっちを振り向かないままSはそう言った。
助からない、という言葉にどきりとする。それは死ぬということだろうか。目の前で。人が。
Sが脱がしたヘルメットを横に置いた。
露わになったその鼻と口から、赤黒い血が流れていた。目は閉じている。短髪の男だ。
生気のない死人の顔だった。

127なつのさんシリーズ「言伝」2:2014/06/14(土) 20:33:19 ID:Hpd3syqU0
僕は目をそむける。腹の下から何か熱をもったものがせり上がってきていた。冷静にならなければ、と自分に言い聞かせる。
そこで初めて、僕は男が倒れていた位置から少し離れた場所、道路についたタイヤの跡に気がついた。
等間隔で二本の黒い線が、不自然に弧を描いている。
二輪ではなく、四輪車が慌てて急ブレーキを踏みハンドルを切った様な跡。
僕はもう一度周りを見回した。車の気配は無い。
ひき逃げ。そんな言葉が頭をよぎった。
びい、と何か布の裂ける様な音。
振り向くと、Sが男の胸の上に両手を置き、心臓マッサージを始めていた。
男の口には中ほどまで裂かれたハンカチが乗ってある。救命措置。Sは呼吸も脈も無いと言っていた。
事故に遭ってから僕らが来るまでに、どれくらいの時間があったのだろう。
何度か心臓マッサージをした後、Sが男の鼻をつまみ、顎を持ち上げ人工呼吸をする。そうして、また心臓マッサージ。
それを繰り返す。
「救急車も警察も、あと十分くらいでこっち来るってよ」
電話を終えたらしいKが戻って来る。Sは振り向かず「そうか」と一言。救命処置を続ける。
僕はKに向かって、「……ひき逃げかな」と道路に着いたタイヤ痕を指差す。
Kは目を凝らしてそれを見てから、「マジかよ」と小さく呟いた。

「おい、どっちでもいい、救命講習受けたことあるか」
しばらくしてSがマッサージを続けながら尋ねる。
確か車の免許を取る時に受けたはずだ。三十回心臓マッサージをした後に人工呼吸だったか。
いや、それよりまず気道確保だ。
「できるぞ」
僕がもたもたと一連の内容を思い出していると、Kが一歩進みでてそう言った。
「じゃあK、代わってくれ。俺も休みたい」
「お、おう。分かった」
Sが立ち上がり、Kと交代する。
「ふう」と溜息に似た息を吐くSの額には僅かに汗が浮かんでいた。風のせいで辺りは震えるほど寒いにも関わらず。
「助からないかもしれないな」
僕の視線に気付いた様で、Sは腕で額をぬぐいながら言った。
「まあ、医者が死亡と下すまでは生きてるわけだが。
 それでも、ああも冷たいとな……、人形を必死に生き返らせようとしている気分になる」
それからSは道路のタイヤ痕に目をやり、「ふん」と小さく鼻を鳴らした。
「……ひき逃げかな」
僕は先程Kにしたのと同じ質問をする。
「さあな。それは警察に任せとけ」というのがSの答えだった。
それからSは地面に腰を下ろすと、ガードレールにもたれかかって目を瞑った。
その手に赤いものが付いているのが見える。血だ。
僕は倒れている男に視線を移した。あの男はまだ死んでいない。医者で無い僕らにその判断は出来ないのだ。
救急車で運ばれて、医者に確認されて、初めて死んだことにされる。
それでもSは冷たいと言った。実際に触れていない僕には分からないが、その言葉は確かな実感を伴っていた。
死んではいないが、生きてもいない状態。だとしたら、男の魂は今何処をさまよっているのだろう。
目の前ではKが屈みこみ人工呼吸をしている。僕はその様子をただぼんやりと眺めていた。
身体を起こしたKが、びくり、と震える。
何だろうと思った。
そのままKは動かない。心臓マッサージを続けないといけないのに。Kはただ自分の両手を眺めていた。

128なつのさんシリーズ「言伝」3:2014/06/14(土) 20:33:51 ID:Hpd3syqU0
「……K?」
僕が呼んでも反応は無い。
それからKはふらっと立ち上がると、男の身体越しにガードレールを掴み、そこに人指し指を当てた。
何かを書いている様だった。
不安になった僕はKに近寄り、その肩を掴んだ。
その瞬間、何か電気の様なものがKの身体を通じて、僕の足の先から頭のてっぺんまで走り抜けて行った。
驚いて思わずKの肩から手を放す。同時にKが僕の方を振り向く。
「……いちよんななきゅう」
「え?」
唐突にKが言った。
「おい……、『いちよんななきゅう』 って何だ?それに、『みさき、ゆか』 って何だ。人か……?」
いきなり矢継ぎ早に質問され僕は狼狽する。僕にはKが何を言っているのかも分からない。
その思いが顔に出ていたんだろう。Kもはっとした表情になる。
「何してんだ?」と横からSの声がする。
「……いや、何でもねえ。……わりい。俺もまだ何が何だか分かんねえから……」
そうしてKは僕の方を向いて、
「ちょっと代わってくれ。頭がガンガンする……」
目の辺りを押さえ未だフラフラしながらKはその場を離れた。
残された僕は、Kが先程掴んでいたガードレールを見やる。
そこには赤く掠れた血文字で、辛うじて『1479』 と書かれていた。
それから僕はKと交代して救命処置を行った。Sの言った通り男は確かに冷たかった。

救急車と警察がやってきたのは、僕がKと代わってから五分程経った後ことだった。
男が担架に乗せられ運ばれて行くのを横目に、僕らは警察の質問に答えた。答えていたのはもっぱらSだけれど。
三人とも訊かれたのは氏名と住所。
もっと面倒なことになるのかなと思っていたのだけれど、しばらくすると警察に「もう帰ってもいいよ」と言われた。
僕ら三人は顔を見合わせて、黙って車に乗りこんだ。
やるだけやったという思いも無く、僕らはただ疲弊していた。
帰り道、車内にはなんの会話もなかった。

それから二,三日経った日の朝のことだった。突然Kから電話が掛かって来た。
黒いスーツを持ってないかということだった。
どうするのかと訊いたら、『葬式に出る』 と言い、
誰の葬式に出るのかと尋ねたら、あの事故に遭った男性の葬式だとKは答えた。
『言わんといけないことがあるからな』
車はSが出してくれるらしい。
Kがどうするつもりか気になった僕は、スーツを貸す旨と、自分もついて行くとKに伝えた。

葬式の会場は、偶然にも僕らが事件の日に訪れた廃マンションのすぐ近くだった。
すでに多くの人が集まっており、僕とSを車に残してKは一人会場の中へと入って行った。
「どうしたんだろ。K。……Sは何か聞いてる?」
「いや」
行きの車の中、Kは何事か考えている様でずっと無言だった。ただ単に車に酔っていただけかも知れないけれど。

車の中で待っていると、思ったよりも早くKは戻って来た。
ドアを開け、気だるそうな動作で後部座席に座ると、「……あーあ」と呟き、
「……おう、悪かったな、付き合わせて。ほれ、帰ろうぜ」と言った。
Sは何も言わず車を出した。

129なつのさんシリーズ「言伝」4:2014/06/14(土) 20:34:23 ID:Hpd3syqU0
当然だけれど、帰り道の途中に事故のあった現場を通り過ぎる。思わず注視してしまう。
事故があった痕跡は、もう路面のタイヤ痕だけだった。
「被害者は……、首をやっちまってたらしい」
後部座席からKの声がした。
「頸椎だっけ?が折れるか断裂かしてて、だから痛みも感じず死んだはずだって。言われたわ。奥さんに」
まるで独り言のように、ぽつりぽつりとKは言葉を紡ぐ。
「それに、俺らが見つけたのは、意識も呼吸も脈も無くなってからだった。
 だったら最後の言葉なんて残せるはずもないよな。
 泣きながら言われたよ。『お心遣いは有難いですが、馬鹿にしないでください……』 だとさ。
  ……まあ、当然だけどな。警察にも言ってないことだし」
最後の言葉。僕は思い出す。あの時、数字と共にKが呟いた言葉があった。
『みさき、ゆか』
Kはそれを伝えに来たのだ。
けれど、それは生きている人間が発した言葉ではなかった。普通の人には決して聞くことのできない、死人の言葉。
「理解されないってのは分かってるんだがなあ……。覚悟もしてた。
 でも、こうなんだよなあ。壁があってさ。その向こう側に何があるかなんて、見える奴にしか分からねえんだ」
そうしてKは、「やっぱそうだよなー……」と呟いた。
三人とも口をつぐみ、しんとする車内。
急に亡くなったばかりだし、今は時期が悪かったんだ。Kは悪くない。当然のことをしただけだ。
言うべき言葉は山ほどあったのに、その全てが口の中で空回り、外に出ることなく萎んでいった。
けれども何か言わなければと思い、僕は無理やり口を開く。
「……ラーメン」
意識していたわけでは無かった。ただ、出てきた言葉がそれだった。
どうしてラーメン。自分でも分からなかった。見ると二人が何事かという表情をしていた。
「ラーメンだ……。そうだ、ラーメンを食べに行こう!
 お腹が減ったしさ、時間も丁度いいしさ、前には行けなかったわけだしさ」
ヤケになって喋る。
けれども、今がお昼時なのも事実だし、お腹が減っているのも本当だ。そして何よりラーメンはKの好物だ。
Sが小さく吹きだす様に笑った。
「そうだな……。どっか寄ってくか」
賛同してくれたことに僕はホッとする。
その途端、車の中の温度が少し上がった様な気がした。
「あ、でもさ。実は俺、今日は金ねぇんだけど……」とKが言う。
またかと僕がつっこむ前に、Sが前を向いたまま、ひらひらと片手を振った。
「いい。おごってやるよ」
その親切な言葉にKは驚いて固まっていた。僕も吃驚してSを凝視する。
こいつは本当にSだろうか。そんな疑問まで浮かぶ。
「マジで……?」
「香典で使って金がねえんだろ。だったら、おごってやるよ」
Sの言葉に僕は思い出す。確かに会場に行く前、Kは封筒を手に持っていた。
「……うおおマジかよ!言ったなS。だったら俺メッチャ食うぞ」
「別にいい。でももし車内で吐いてみろ。窓から放り出して轢き殺すぞ」
「上等だ。化けて出てやるよ」
「あ、S、じゃあ僕もおごって」
「うるさいお前ら」

130なつのさんシリーズ「言伝」5:2014/06/14(土) 20:34:57 ID:Hpd3syqU0
そうして僕らはその後、走りながら見つけた中華料理店に立ち寄りラーメンを食べた。
結局Sは全員分奢ってくれたし、
結局Kは帰りの道中で車に酔って、醤油ラーメン大盛り餃子セットをまるごとリバースしたのだけれど。
それからKはずっと後部座席でダウンしていたのだけれど、
「うー気持ちわりい……殺してくれー……」と垂れ流すKはいつものKだった。
そうして隣では、辛うじて車内では吐かれなかったものの、「せっかく奢ってやったのに」だとかSが小言を言っている。
いつも通りを久しぶりに感じた様な気がした。
やっぱりこういうのがいい。僕はSの小言を聞きながら、安堵と共に欠伸を一つする。

今回のこと。人の死をリアルに垣間見てしまった後でも、結局懲りずに僕らはまたオカルトに首を突っ込むのだろう。
どうしてかと問われても、きっと分かりっこない。
説明なんて出来るはずもない。そういうモノこそが、オカルトなのだから。
ちなみに後日、僕らが遭遇したひき逃げ事件のことと、そのひき逃げ犯が捕まったいう記事が地方紙の片隅に載っていた。
記事によると、被害者の血で書かれたナンバーが現場に残されており、それが決め手となったそうなのだが。
事故後、頸椎を損傷した被害者は文字が書けなかっただろうこと。
そして、そのナンバーが実は被害者の死後に書かれたものだとは、何処にも載ってはいなかった。

131なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」1:2014/06/14(土) 20:36:31 ID:Hpd3syqU0
そろそろ二十世紀が終わろうかという年の九月のことだった。
当時まだ十歳にもなっていなかった僕はその夏、一人の宇宙人に出会った。
僕が住んでいた街の外れには、四階建てのそこそこ大きいデパートがあって、
そこの屋上は、小さな子供たちが遊べるスペースになっていた。
百円玉を入れると動き出すクマやパンダの乗り物や、西洋のお城の形をした巨大なジャングルジム、
クモの巣状に張られたネットの真ん中に、トランポリンが付いている遊具とか。
とにかく、子供心をくすぐるような場所だった。
それらいくつかの遊具の中に、銀色のUFOの形をした遊具があった。
当時はそれがアダムスキー型だということは知らなかった。
UFOの下部にはやじろべえの様に支柱あって、子供が中に入って動き回るとその重心が移動した方にぐらりと傾くのだ。
地面からUFO本体までは、大人の背丈ほどの高さがあった。
中に入るには、等間隔で結び目のついている縄ばしごを上らないといけないので、本当に小さい子は上ってこれない。
それでいて単調で単純な仕掛けだったから、他の遊具に比べると人気も無く、中に人がいることは滅多に無かった。
けれど、僕はそんな UFOが大のお気に入りだった。
当時、たまに母の買い物に付いて行くことがあって、
その時は100円と消費税分だけ貰って、デパート内の痩せた店員さんが居る駄菓子屋で菓子を買い、
母が下で買い物をしている間、僕はUFOの中でその菓子を食べながら、一人宇宙人気分を味わったりしていた。

その日は小学校が昼に終わって、家に帰った僕は、夕飯の買い物に行くという母の後ろをついて行った。
いつもの様に100円分のラムネ菓子や飴やガムやらを買って屋上に行き、
UFO下部に空いている三つ穴の一つから、縄ばしごを伝って中に入ろうとした。
すると中に一人先客がいた。女の子だった。赤い服に長めのスカートをはいている。
こちらに背を向けて、外側に出っ張っている半球状の窓から屋上の様子をぼんやりと眺めていた。
平日だったので誰もいないだろうとタカを括っていた僕は、女の子の存在に少しばかりドギマギした。
すると女の子がこっちを振り向いて、僕は更にドキリとする。
けれども、ここで頭をひっこめると何だか逃げ出したみたいで恰好悪いと思い、僕は黙って中に入った。
僕が入って来たせいでUFOの重心がずれ、ぐらり、と傾いた。
女の子から一番離れた壁にもたれかかりながら腰を下ろして、
下の階で買って来た駄菓子の中から、まずラムネ菓子の包を開いた。
ちらりと見やると、女の子はまた窓の外の方を見やり、こちらに背中を向けていた。歳は僕より一つか二つ上だろうか。
窓から入って来る夏の強い光のせいで、肩まで伸びる黒髪の輪郭がちりちりと光っている。
あの子はどうして外ばかり見ているのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、ラムネが一粒、手の中から転げ落ちた。
ころころとUFOの中を転がり、あっと思った僕はその後を追いかける。
すると、手が届きそうなところでUFOの重心が移動して、
ラムネはまるで僕から逃げる様にあらぬ方向へと転がってしまった。
ようやく捕まえて、汚れを払うために息を吹きかける。
笑い声が聞こえた。
いつの間にか女の子が僕の方を見ていて、両の手を口にあてて、くすくすと笑っている。
「……それ、食べるの?」
そう言って女の子は、僕の手にしたラムネを指差した。
その口調がまるで『一度落ちた物を食べるなんて、キタナイ人』 と言っている様な気がして、
むっとした僕は返事の代わりに無言で、ぽい、とラムネを口の中に放り込み、大げさにがりがり噛んで呑みこんだ。
「おもしろいね」
女の子がまた笑った。
面白いのはけっこうだけれど、面白がられるのは愉快なことではない。
憤然としていると、女の子はすっと片手を僕の方に差し出して、
「わたしも甘いもの欲しい。一つください」と言った。
口調は丁寧だけども、図々しいにも程がある。僕は幼い頭で何とか嫌味を言ってやろうと考えた。
「知らない人から物を貰っちゃいけないって、習ったことはない?」
どうだ。

132なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」2:2014/06/14(土) 20:37:01 ID:Hpd3syqU0
けれども女の子はまるで怯まなかった。
「うん。でも……、でも、わたしはあなたのこと、知ってるよ」
僕は驚く。僕と彼女はどう考えても初対面だった。それとも実は同じ学校に通ってるとかだろうか。
「あなたはキミでしょ。アンタでもあるし、お前にもなるね。それと、人間で、男の子。たぶん私より年下ね。
 今お菓子を持っていて、わたしのぜんっぜん、『知らない人』 ……
 ほら、あなたのことだって、もうこんなに『知ってる』んだから」
ぽかんとする僕に、女の子はもう一度「だから、ください」と掌をこっちに押し付けて来る。
正直意味が分からなかったけれど、勢いに負けたというか、返す言葉も思いつかなかった僕は、
黙ってラムネを分けてあげた。
「ありがとう」
そう言って女の子はにこりと笑った。
笑うと可愛い女の子だった。

それから僕たち二人は、むしむしと暑いUFOの中でおしゃべりをした。
といってもほとんど女の子が何か尋ねて、僕が答えるという形だったけれど。
女の子が訊き出し上手だったのか僕が隠し下手だったのか、
その日のうちに僕は名前から住所から洗いざらい吐かされて、
しばらく経った頃には、女の子にとっての僕は本当に、『知らない人』 から『知っている人』 へと変わっていた。
買った駄菓子も結局半分くらい食べられた。

どれくらい話しただろうか。そのうち窓の方を見やった女の子が、「お父さんだ」と声を上げた。
見ると、外に黒い野球帽を被った男の人が立っていた。
「迎えが来たから、もう行くね」
「……あ、待って」
UFOの中から出て行こうとした女の子を僕は呼びとめる。
色々と訊かれるままに答えてしまったし、お菓子は半分食べられたし、このまま帰してしまっては僕だけが損した形になる。
それに、僕はまだ彼女の名前も訊いてなかった。
「名前を教えてよ」
女の子がこっちを振り返った。その顔は何か思案している様だったけれど、やがてにこりと笑って、こう言った。
「うちゅうじん」
「え?」
「ワタシハ、宇宙人デス」
自分の喉を小刻みに叩きながら、女の子は震える声でそう言って、にこりと笑った。
ひとり分の重量がなくなったUFOがぐらりと傾き、僕だけが船内に残される。
ぽかんと口を開けたまま、天井に取り付けられた窓から青い空を見上げた。
自分を宇宙人だと言った女の子のまぶしいくらいの笑顔が頭に残っていた。
確かに宇宙人だ。とその時は思った。

133なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」3:2014/06/14(土) 20:37:35 ID:Hpd3syqU0
それからというもの。僕はよくデパート屋上のUFOの中で宇宙人と遭遇するようになった。
学校が終わってからの時間や休みの日。僕が行けばほぼ必ず彼女は居た。
大抵彼女が先にUFOの中に居て、僕が後からというのが多かったけれど、僕が先に着いて待つこともあった。
彼女と会うと僕は必ず質問攻めに遭った。生い立ちのこと、両親のこと、学校のこと、友達のこと。
彼女の問いに、僕はいちいち馬鹿正直に答えた。
当時の僕は、学校はつまらなかったし友達はいなかったし、それでいて親に対しては『いい子』 を演じていた。
けれども、彼女には何も隠さなくても良かった。
デパートの屋上の小さなUFOの中が僕らの唯一の接点だったから。
どこかふわふわとしていて、掴みどころの無い子だったけれど、彼女と話している時間は楽しかった。
僕らは色々話して、沢山笑った。
いつしか、僕はデパートに行って彼女と話すのが楽しみになっていた。
僕は何の用事のない日でも、気が向けばデパートに行くようになっていた。

「それじゃあ、君も、宇宙人なの?」と彼女に訊かれたことがある。
僕にあまり友達が居ないことを白状させられた時のことだ。
「違うよ。僕は地球人」と返すと、「ちきゅうじん」と僕の真似をするように言って、くすくすと笑っていた。
ぐらぐら揺れるUFOの船内で隣り合わせに座り、二人でラムネなんかを食べながら。
僕から彼女に質問することはなかった。それが無くても、僕たちの間に話題はたくさんあった。
それに、自分のことについてはほとんど話さなかった彼女に、子供なりに遠慮していたのかもしれない。
たまに自分から口を開いたと思ったら、
「私のお母さんが宇宙人で。だから、私も宇宙人なの」などと彼女は妙なことを言って、一人で笑うのだった。
けれども、僕はそれが嘘だとは思わなかった。
彼女は自分のことを「宇宙人だ」としか言わなかった。
僕は女の子が実は本当に宇宙人で、それ以上の秘密を知られたら、自らの星に帰ってしまうんじゃないかと、
割と本気で思っていたのかもしれない。

でも、何度も何度も会って話すうちに、僕はどうしても、あの子のことをもっと知りたいと思う様になった。
出会ってからもう一ヶ月程がたっていたけれど、僕はまだ彼女の名前も教えてもらっていなかった。
だからその日、いつものように迎えが来てUFOから出て行こうとする女の子に向かって、僕は思い切って訊いてみた。
「ねえ、名前を教えてよ。『宇宙人』 じゃなくて、君の本当の名前」
それを訪ねるのは二度目だったのに、一度目よりも緊張した。
彼女も少し驚いたような顔をした。
すぐにいつものあの笑顔に戻ったけれど、その顔はどこかしら困った様にも、はにかんでいる様にも見えた。
「……分かった」
一呼吸置いて、
「  。」
少し俯き、呟く様に、彼女はその名前を口にした。
そうして、いそいそとUFOから出て行ってしまった。
しばらくして、僕は自分耳やら頬やらが火照っていることに気付いた。
初めて彼女の名前を聞き出せたのだし、彼女が答えてくれたこともう嬉しかった。
次会ったらどんなことを訊こうかと、その時からもう色々と質問を考えはじめていた。
けれどもその日以降、僕が彼女に何か尋ねることはなかった。

次の日、学校から帰った僕は、何の唐突も無く原因不明の高い熱を出してしまい、しばらくデパートへは行けなかった。
寝込んでいる間、何の根拠もなく、彼女があのUFOの中で僕のことを待っている様な気がして、
何だか申し訳ない気持ちになったりした。

134なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」4:2014/06/14(土) 20:38:08 ID:Hpd3syqU0
そうして幾日か経ってから、回復した僕は学校が終わってからいそいそとデパートへと向かった。
彼女に会ったら、数日間来れなかったことを謝らないと、と思いながら。
けれども、屋上へ続く階段をあがった僕は、自分の目を疑った。
そこに有るべきものが無かった。
UFOが無い。たった数日間の間に消えていたのだ。
それがあった場所はただのがらんとしたスペースになっていて、支柱を支えていたボルトの跡しか残っていなかった。
辺りを見回してみたけれど、女の子の姿も見当たらない。
僕はデパート内に降りて近くにいた店員に、屋上のUFOはどうしたのかと訊いてみた。
するとその店員は作業していた手を止めて僕を見下ろし、
「ごめんなさいねボク。UFOと言われても、私は聞いたこともないし、知らないの」と言った。
そんなはずはないといくら言っても、店員は首を横に振るだけだった。
話にならない。そう思った僕は、別の店員を捕まえて同じ質問をした。
けれども返って来たのは同じような答えだった。三人目、四人目もそうだった。
僕は茫然としながら屋上に戻った。沢山ある遊具の中、UFOだけが存在していない。
辺りには他の遊具で遊ぶ子供たちの声がしている。まるで誰もそこにあったUFOのことなんて覚えていないかのように。
当時、『喪失感』 なんて難しい言葉は知らなかったけれど、あの時感じたのはきっとそれなんだろう。
僕はベンチに座って女の子を待った。
でも結局いくら待っても、その日女の子が屋上に現れることはなかった。
もしかして、あの子もUFOと一緒に消えてしまったのかも知れない。僕があの子の名前を知ってしまったから。
そんなくだらない思いつきを、その時の僕は懸命に振り払わなくてはならなかった。

それから僕は、ほぼ毎日の様にデパートに足を運んだ。
百円分のお菓子を買い、いつも半分だけ残して、ベンチに座ってぼんやりと女の子が来るのを待った。
皆UFOのことを知らんぷりする。あの子ならきっと僕の気持が分かってくれると思っていた。会って話がしたかった。
けれども、幾日が過ぎても、何週間と経っても、彼女が僕の前に現れることはなかった。

そんなある日。ベンチに座って女の子を待つ僕の体に肌寒い風が当たった。
その瞬間、僕は自分が女の子の名前をすっかり忘れていることに気がついた。
あり得ないことだった。
あれだけ知りたいと思った彼女の名前を、やっと教えてくれた名前を。
あの時の映像はしっかりと思いだせるのに、彼女が何と言ったのか、どうやっても思い出せないのだった。
ああ、やっぱり。
知ってしまったからだ。
そう僕は思った。
僕が彼女のことを知ってしまったから。だから彼女は僕の前から姿を消してしまったんだ。
自分の名前と存在した痕跡だけを消して。
UFOと一緒に行ってしまったんだ。
気がつけば僕は泣きだしていた。
ずっと何かを溜めこんでいたダムが壊れて、溢れた水は両の目から涙になってこぼれた。
周りから、あの子はどうしたのだろうと視線が集まる。
風が夏の終わりと秋の訪れを告げる中、僕は声をあげて泣いていた。

135なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」1:2014/06/14(土) 20:38:57 ID:Hpd3syqU0
あの夏から約十年が過ぎた。大学二年の冬休みのある日。
ひょんなことで故郷の街に戻ってきた僕は、友人のSとKと三人であのデパートを訪れていた。
そのひょんなことと言うのは、冬休みに入る前、大学の学食で三人で昼食を食べていた時のこと。
Kの提案で、その場でそれぞれ子供時代の不思議な思い出を語ることになり、僕はあの夏デパート屋上での話をした。
それに思わぬ食いつき方をしたのが、オカルティストのKだった。
「うおおUFOとかマジかよ!なあ、今度さ、そのデパート行ってみようぜ」
僕が散々十年以上前の話だし今行っても仕方がないと説明しても、Kは聞く耳も持たなかった。
「居ないなら居ないで、ショッピング楽しめばいいじゃん。別に誰が損するわけじゃねえし。いいだろ?」
「うはは」と笑うKの横で、Sがぼそりと「……ガソリン代はどっちか出せよ」と呟いた。こうなればもう止まらない。
かくして数日後、冬休みに入った僕らは、Sの運転する車に乗って僕の故郷へと出発したのだった。

僕は県内の大学に進学したのだけれど、実家のある街までは国道なら車で大体三時間はかかる。
朝の九時頃から車を走らせ、デパートの外観が見えてきたのは陽も昇った正午過ぎだった。
ちなみに、面倒くさいので実家に寄らなかった。日帰りだし、どうせ年末戻って来るのだし。

Sが立体駐車場の一階に車を止めた。周りは昼時だと言うのに、繁盛しているとは言えない駐車状況だった。
おそらく、街の郊外に大手の大規模なショッピングモールが出来たせいだろう。
昔、このデパートが街の商店街から客を奪ったのと同じことだ。
駐車場から店内に入る。
確かに昔ほどの人込みはないけれど、胸にこみあげてくるものがあった。
実は約十年前、屋上でわんわん泣いたあの日から、僕はこのデパートには近づかない様になっていた。
母の買い物に付いて行くのも止め、中学生の頃も、高校に上がってからも避け続けた。
そうして、消えたUFOのことも、そこで出会った女の子のことも、これまで周りの誰にも、親にさえ話したことはなかった。
何故かと訊かれると、僕にも分からないと言うしかない。
だから、どうしてその隠してきた話をKとSの二人だけには打ち明けて、
今自身も十年とちょっとぶりにこのデパートにやって来ているのかも、当然分かっていない。
強いて言うなら、魔が差したんだろう。

僕らは一階からエスカレーターを使って四回まで上がった。屋上へは四階から階段を使わないといけない。
階段へ向かう途中、百円ショップの隣、昔いつも買い物をしていた駄菓子屋の横を通る。
ふと横目で見ると、レジの方に見覚えのある店員さんの姿を見つけた。
十年前と変わらぬ陳列棚にも、昔と同じ駄菓子が並べられていた。あのラムネ菓子もあった。
屋上へと続く階段は手すりの白い塗装が記憶よりも随分剥げていて、錆びた鉄の部分が露出していた。
屋上への入り口が見えた。前を行く二人の友人の後ろで僕は一度立ち止まる。
夏。階段を一段上るにつれて差し込んでくる光の量は増していき、青い空と沢山の遊具が徐々に徐々に見えてくる。
それが何だか無性にワクワクして、途中から僕はいつも走って駆けのぼるのだった。
その記憶の中の光景に比べると、冬の光は弱く、空は少しくすんでいる様に見えた。
いつの間にか階段を上がりきり、僕は屋上の入り口に立っていた。
こんなに狭かったかなと思う以外は、屋上は最後に見た記憶のままだった。
やはりUFOのあった場所は、ただの空きスペースのままだった。
僕ら以外に人影も見当たらない。音を立てて吹く冬の風のせいか、遊具で遊ぶ子供の姿も無かった。
「さみいなあ。なあなあ、ところでUFOどこよ?」
ポケットに手をつっこんだKがそう訊いて来る。僕は黙って昔それがあったはずの場所を指差した。
「何もねえじゃん」
「僕はゆった。今行ってもなんも無いよって」
「ふーん。UFOだけに、宇宙まで飛んでっちまったのかねえ……」
つまらなそうにそう言うと、Kはクモの巣状に張られたネットの真ん中にトランポリンがある遊具に向かい、
一人でポンポンと跳ね始めた。
ふと見やると、Sが昔UFOがあった場所で俯いて地面を見つめている。
そばに近づいてみると、彼はUFOの支柱をとめていたボルトの跡を見ているらしかった。
「確かに、ここに何かはあったんだな」とSが言った。
「え、何。僕の話、信じてなかったん?」
「記憶ってのは簡単に曲げられるし、一部消えたり、書きかえられることだってあるからな。特に子供の頃の思い出はな。

136なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」2:2014/06/14(土) 20:39:31 ID:Hpd3syqU0
信じてなかったわけじゃない。鵜呑みにしなかっただけだ」
「あそう」
「ただ、まだ呑み込めない部分もあるけどな」
「え……、何それ、どこ?」
Sは僕の問いには答えず、トランポリンの次はジャングルジムに上りだしたKの方をちらりと見やってから、
一人階段へと向かって歩き始めた。
「腹減った。とりあえず下に降りて、飯食おうぜ」
けれども、僕は先程の言葉が気になって仕方が無い。
「ねえ、僕の話の、どこが引っかかってるんよ」
するとSは振り向いて、
「お前の記憶の中にある、店員の対応。それと……」
何故かSはその後の言葉を口にするのを、一瞬だけ躊躇った様に見えた。
「……それと、お前が、確かに教えてもらったっていう、女の子の名前を覚えていないこと」
そう言って、Sはまた階段へと向かう。
隣ではKがいそいそとジャングルジムから降りてきていた。
そんな二人の様子を見ながら、僕はその場に立ったままSの言葉の意味を考えていた。
店員の対応と言うのは、『UFOなんて知りません』 と言ったあの言葉のことだろう。
でも、実際に屋上からUFOは忽然と姿を消したのだ。まるでそんなもの最初から無かったかのように。
もう一つは彼女の名前。
あの時の光景は今でもはっきりと覚えている。
蒸し暑いUFOの中で、天井の丸い窓からスポットライトみたいに円柱状の光の筋が注いでいて、
目の前の女の子は、笑顔の内に少しだけはにかんだ表情をしている。
その口が動く。けれどもここだけが、耳を閉じたわけでもないのに、何を言っているか聞こえない。
外ではしゃぐ他の子供たちの声も、辺りに広がる街の喧騒も消える。無音。
一時期は、本当にアブダクションされて宇宙人に記憶を消されたのではないか、と思ったことさえある。
今思えば微笑ましい妄想だけれど。
でも確かに、Sの言う通り何かが引っかかっている気がした。
形のはっきりとしない何かが、伸ばしても手の届かないギリギリの辺りを漂っている様な。
僕は目を瞑り、集中して、その何かを掴もうとした。
「おーい。そんなとこで突っ立ってんなよ。早くこいよ」
けれども失敗に終わった。その声で僕は我に返ってしまった。
見ると、Kが階段の入り口に立っている。Sはもう階段を下りてしまった様だ。
僕は頭を振って、歩きだそうとした。
その時、ふと視界の隅に何かが映った。
昔UFOがあったスペースの隅に、ぽつんとジュースの空き缶が置かれてある。空き缶には一輪の花が差されてあった。
紫色の花。
頭のどこかがうずいた様な気がした。僕はその花の方へと少し近づいた。
花は折り紙だった。上手く作ってあって、遠目からは本物の花に見える。茎も葉もある。
空き缶は上部が缶切りか何かで切り取られていた。
まるで献花のようだ。
あの日と同じく冷たい風が吹いた。
その瞬間、今度こそ僕は、僕の中で漂っていたそれを掴み取っていた。
ああ、そうか。
だからか。
だからあの日、UFOは忽然と姿を消して。
だから店員は僕に、『UFOなんて知らない』と言って。
だから僕は、彼女の名前を忘れることにした。
僕は全てを思い出していた。
でもそれは鈍い痛みを伴っていた。あのまま忘れていた方が良かったのかもしれない。
僕は空を見上げ、誰に向かってでも無く、声にも出さず問いかける。
もう一度、忘れることは出来るだろうか。
答えは自分の中から返って来た。それは出来ない。
「……おいおいおい、何やってんだよ。さっきから一体全体よ」
僕のすぐ後ろでKが怪訝そうな顔をしていた。
それと、あんまり遅いから戻ってきたのだろう、階段の入口の方にSの姿も見えた。
僕は何を言うことも出来なかった。そのまま歩きだし、黙って二人の横を通り過ぎた。
背中にどっちかの声が当たったけれど、あまり気にならなかった。

137なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」3:2014/06/14(土) 20:40:53 ID:Hpd3syqU0
階段を下りて、僕の足は四階の駄菓子屋の前で止まった。
中に入ると、十年ぶりの店員さんが笑顔で迎えてくれた。
当然だけれど、僕のことなんか覚えていないだろう。
たとえ覚えていたとしても、僕自身十年前とは顔も体つきも変わっている。
友人二人は駄菓子屋の外で呆れたように僕の様子を眺めていた。
僕は駄菓子をきっかり百円分買った。
あの頃と同じ、三十円のラムネや、当たり付きのフーセンガムや、スーパーボールみたいな飴玉を。
「あの……、覚えてますか?」
カウンターで百円玉と十円を一枚ずつ出しながら、僕はレジを打つ店員にそっと尋ねてみた。
その痩せた五十代前半くらいの男性はふと僕の方を見やると、「何のことですか?」と問い返してきた。
やっぱりというか、僕のことは覚えていないようだ。
「あの僕、久しぶりにこっちに帰ってきたんですけど。……昔、屋上に、UFOの遊具があったでしょう」
すると、店員は「ああ」と肯定の声を出した。
「ありました、ありました。うん、確かに。UFOでしょう。グラグラ揺れる」
僕は頷く。UFOはあったのだ。最初から無かったのではなく、僕の記憶違いでもなく。確かに屋上に存在した。
呼吸を一つ。
「……でも、事故が原因で無くなったんでしたよね?たしか、女の子が、巻き込まれた」
僕が熱を出して寝込んだ日。TVである事故のニュースが流れた。
デパートの屋上で女の子が遊具から転落して、意識不明の重体。
原因は、他の子供達が外から遊具を揺らし、バランスを崩したからだと。
けれども、店員は少しばかり眉をひそめ、僕の方を見やった。
「あなたは、ライターですか?」
警戒しているのだろうか。
「いえ。大学生です。昔よくここに、駄菓子を買いに来てました。いつも百円分。
 たまに消費税の五円は、まけてくれたりしてましたよね」
店員の表情が崩れたのが分かった。
話してもいい相手だと思ったのか、もしかしたら僕のことを思い出したのかもしれない。
実は話し好きだったらしい痩せた店員は、それから色々と教えてくれた。
「そうですね。もう大分昔のことですし。
 ……ええ、確かに。夏ですね。夏の終わりごろ。屋上で女の子が遊具から転落する事故がありました。
 意識不明の重体で、打ちどころが悪かったんでしょう。数日後に、亡くなったそうです」
彼女の意識が無かった数日間、僕は熱を出して寝込んでいた。
「その時、子供が数人、周りに居たんですよね」
「はい。数人がかりで、中に上るための紐を持って遊具を揺らしてたそうです。
 見かけたここのスタッフが止めに入ったそうなんですが、間にあわずに……」
そうして彼女は、落ちて、死んだ。
「だから、遊具を撤去した?」
「そうです。普通の怪我ならともかく、死者が出たんですから。
 それにあの頃は、他の公園なんかの遊具も、アレは危ないから外せだの、色々と言われていた時期でしたから」
「……僕、あのUFOが好きだったんですよ。でも、ある日屋上に行ったら、いきなり、無くなってたんです。ショックでしたよ。
 店員さんに訊いても、UFOなんて無い、知らないって言われましたし。何が何だか、分からなくって……」
「ああ……、それはすみません」
そう言うと、店員は僅かに頭を下げ、先程よりも小さな声で、
「確かな話じゃありませんが。あの亡くなった女の子は、学校で苛められてたんじゃないかって。
止めに入ったスタッフが、色々酷い言葉を聞いたそうです。
 だからというか、あの時は、取材と称した方がたくさん来られましたよ。
 店員は下で働いているんだから分かるはずもないのに、事件の様子とか、細かくね。
 中には、子どもを使って訊き出そうとする輩までいたそうですよ」
だからあの時、店員は僕に対して『UFOのことなんて知らない』 と言ったのだ。
おそらくは、店の方から事件については何も喋らない様にと言われていたのだろう。
「可哀そうにねぇ……」
遠い目をしながら痩せた店員は呟いた。

138なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」4:2014/06/14(土) 20:41:23 ID:Hpd3syqU0
「あの子の父親は、このデパートで働いていたんですよ」
「え?」
「あ、いえ。と言っても私はあまり関わりも無かったんですが。傍から見ても、仲の良い親子だったんですよ。
 お父さんの方は朝から夕方までここで働いて、夜はまた別の仕事があったそうですが、
 あの子は、いつもお父さんのことを待っていてね。
 二人、下で夕飯の材料を買って帰るんです、いつも。
 料理はあの子がしてたそうですよ。何でも、母親が病気だったそうで」
「病気……」
「ええ。病名は忘れましたが、大分特殊な病気だったそうで」
『私のお母さんが宇宙人で。だから、私も宇宙人なの』
ふと、彼女が言った言葉を思い出した。けれども、それについては何も分からない。
彼女は自分のことに関しては、ほとんど何も話さなかった。
「もしかして、今、その父親の方は……ここに?」
「いえいえ。あの事件があった後、すぐに辞めましたよ。彼の気持ちを考えたら、とても居られないでしょう」
「そうですね。……あの、有難うございます。何だか色々と教えてもらって」
「いえいえ」
店員にお礼をして、五十円分ずつ別の袋に分けてもらった菓子を持って、僕は駄菓子屋を出ようとした。
けれど、ふと思い出して振り返る。
「あの、最後に。屋上に折り紙の花が置いてあったんですが。あれって……」
「ああ、それは多分。清掃の人が置いたものでしょう。中沢さんじゃないかな。
 ああ、大層恰幅の良いおばちゃんなんですけどね。はは。あの人も私と同じくらい長いですから」
「あの花って、確か」
「ええ。スミレですね」
礼を言って、僕は店を出た。
友人は二人とも百円ショップの前で退屈そうに商品を見ていた。
Kは僕の姿を見つけた途端、「おっせーよ」と言った。
「用は済んだのか?」とS。
僕は、まだ、と首を横に振る。
「先に食べといて。一階にフードコーナーがあるはずだから」
「なになに、なんなのさっきからお前。変だぞ。なんかあったんか?それとも何か隠しててていてて痛いSイタイ」
たぶん一番状況を理解していないKが、Sに首根っこを掴まれて引きずられて行く。
僕は片手を上げ、無言でゴメンと二人に謝ってから、また四階からさらに上へのぼる階段へと向かった。
歩きながら思う。
僕は本当は全部分かっていたんだ。自宅であのニュースを見た時に。もう女の子には会えないということを。
けれども僕の頭は、それをどうしても否定したかったようだ。
高熱は出たけれど、もしかしたらそのおかげかもしれない。僕は事故の存在と彼女の名前を忘れることに成功した。
あの子はまだ生きていると、自分に思いこませるために。
彼女に会いたいがために。
僕は目を細めた。
屋上へと続く階段に、さっきまでとは違う大量の光が降り注いでいた。透明な冬の光ではなく、色のついた夏の光だ。
所々塗装がはげていた階段も、いつの間にか白く綺麗になっていた。
十年前に見た光景だった。何も変わらない。そうして今、僕はあの時と同じように百円分のお菓子を持っている。
戸惑いながらも一歩ずつ階段を上る。上りながらSが言った言葉を思い出す。
記憶は簡単に曲げられる。
だったら、一秒前の記憶はどうなのだろう?ゼロコンマ一秒前の記憶は?ゼロコンマゼロ一秒前なら?
意識と言うモノが記憶の集合体ならば、僕が今見ている景色はそういうモノではないだろうか。
そう強引に納得して歩を進めた。
光が段々強くなってくる。どこからか夏の匂いがした。子供たちの声が聞こえた。
たまらなくなって、気がつくと僕は走り出していた。階段を駆け上がる。

139なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」5:2014/06/14(土) 20:42:06 ID:Hpd3syqU0
屋上。
そこにはあの銀色をしたアダムスキー型のUFOがあるはずだった。
そして夏の光の中、確かにそれはあった。
僕は急いでその傍へと駆け寄った。早くしないと僕に掛かっている魔法が切れてしまいそうで怖かった。
けれど目の前まで来ても、確かにUFOはそこにあった。
小さい頃は届かなかったそのボディを、僕はそっと手で触れてみる。ザラザラとしたプラスチックの手触り。
僕は縄ばしごに手をかける。入口の穴は頭のすぐ上にあった。
この中に居るのだろうか。
けれども、そこでふと立ち止まる。
このままUFOの中に入ってしまって良いのだろうかという疑問が降って沸いてきた。
いまだ魔法は解けず、僕はしっかりとあの日の夏の屋上に居る。
けれどもだ。僕は本当にこのUFOの中に入ることが出来るのだろうか。
出来る。と答える自分が居た。
でも、もし本当にそれが出来てしまったら。
縄ばしごに足をかけて、僕の身体が地面を離れた瞬間……。
この幻覚は、幻覚で無くなってしまうのではないか。
『……どうしたの?』
すぐ頭の上から声がした。聞き覚えのある懐かしい声。
縄ばしごを持ったまま、あまりの唐突さに僕は息をするのも忘れていた。
『入って来ないの?』
彼女の声。
この声すらも僕の脳が創りだした幻なのだろうか。それとも。
『お話ししようよ。私が引っ張って上げようか?』
入口の穴から小さな手がこちらに向かって伸びてきた。掌を上に。顔は見えない。手だけだった。
もしその手を握ればもう戻れない。そんな予感があった。
たっぷりの戸惑い。数秒の迷い。そして一瞬の躊躇。
そうして僕は、自分の右手をそっと彼女の手に重ねた。
重ねて、離した。
彼女の小さな手には、ラムネ菓子や、飴玉が入った袋が乗っていた。五十円分。
それをきゅっと握って、手がUFOの中へと戻っていく。
「ごめん。僕は乗れない。友達を待たせてあるから」
少し僕の言葉を吟味するような間があった。
『……ともだち?』
「うん」
『ともだちが、できたの?』
「うん」
『それは、良いともだち?』
「うん」
懐かしい。昔もこうだった。彼女が質問して、僕が答える。
『私も、良いともだちだった?』
「うん。……もちろん」
何か冷たいものが頬に触れた。
雪だった。
夏のデパートの屋上に、粒の細かい雪が風に乗ってちらほらと舞い降りていた。
そろそろ魔法が解けるのかもしれない。いつの間にか手にしていたはずの縄ばしごの感覚が消えていた。
周りの子供たちの声もしなくなった。
もう残っているのは、目の前の銀色のUFOだけだ。
僕はそれが消えてしまわない様、目を逸らさずにじっと見つめていた。
不意にUFOの入り口の穴から、こちらを覗きこむように女の子が顔を出した。
そして、にこりと笑った。僕の記憶にあるそれと寸分違わない笑顔だった。
『おかし、……ありがとう』
返事をしようとした僕の目に雪が入って、一瞬、瞬きをした。閉じて、開いて。
それだけでもう僕の目の前にUFOは存在していなかった。
雪の降る屋上には人影も無く。足元にUFOを支えていたボルトの跡があるだけだった。
僕はしばらくの間、何もしないで、ただ空を見上げていた。
僕は一体、何を見たのだろう。Sに言わせると、幻覚幻聴、または妄想ということになのだろう。
そして僕は、ふと自分の手の中にあるものを見やった。

140なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」6:2014/06/14(土) 20:42:58 ID:Hpd3syqU0
「うおお。雪だ。雪降ってんじゃん!」
声のした方を向くと、一階のフードコートに居るはずのKとSが屋上に上がって来ていた。
見ると、Sは方手にビニール袋を持っている。
「二人共……どうしたの?」
尋ねると、Sがその手に持ったビニール袋をひょいと持ち上げる。
「屋上で食った方が美味いんじゃないかってな。下で買って来たんだよ。ほら、お前の分のサンドイッチだ」
そう言って、Sは紙袋に包まれた湯気の立つ大きなサンドイッチを僕によこしてきた。
僕はしばらくサンドイッチを眺めていた。せっかくさっき泣かなかったのに、また涙が出てきそうで。
必死に我慢しながら、無言で一口齧る。
Kの笑い声。何だろうと思った。Sも小さく笑っていた。
いきなりむせた。
辛かった。
からしだった。大量のからしが、サンドイッチのパンとパンとの間に塗りたくられていたのだ。
咳き込んで涙が出た。前言は撤回だ。こんなヤツら、全然良いともだちじゃない。
「俺じゃないぞ。主犯はKだ」
止めない時点で同罪だろう。
二人に対してあまりに腹が立ったので、僕は残りのからしサンドイッチを全部一気に平らげてやったら、もっと笑われた。
大量のからしを食べすぎるとそうなるのか、口だけじゃなくて目まで痛くなった。
三人で屋上のベンチに座って、僕は口直しに渡されたお茶を飲む。
それすらも罠じゃないかと怪しんだけれど、幸い普通のお茶だった。
「で、用事ってのはもう済んだのかよ」とKが訊いて来る。
僕は頷いた。Kは何があったのかを聞きたそうだったけれど、今のところ僕に話すつもりはない。
代わりに、手にしていた五十円分の菓子が入った袋を開け、中身をそれぞれ半分ずつKとSに手渡した。
「何だコレ?」
僕の行動を測りかねた二人が同時に尋ねて来る。
さっきのお返しだとばかりに、僕はたっぷりと意味ありげに笑って答えた。
「言わば、それはKの大好物で、なおかつ、Sが到底呑みこむことの出来ないもので……」
僕の言葉に二人は、お互い訳が分からんといった風に顔を見合わせた。
「さらに言えば、僕がさっき宇宙人にあげたもの、かな」
Sは手にしたガムを怪訝そうに見やり、Kは包を開いた飴玉を恐る恐る舐める。
僕はそれを見て、また少し笑うのだった。

141なつのさんシリーズ「やまびこ」1:2014/06/14(土) 20:44:58 ID:Hpd3syqU0

以下は友人のKから聞いた話だ。

………………
季節は夏で、俺は当時小学校の高学年くらいだったと思う。
家族で父方の親戚の家に泊まりに行った時のことだ。毎年一度はやっている親族の集まりだった。
夜、酒を飲むばかりの大人たちに退屈していた俺と四つ年上の姉貴は、
何か面白いものはないかと探し回り、ついに隣の村で祭りをやっているという噂を聞き付けた。
そしてこれはもう行くしかないと、無理やり親戚のおじさん(下戸)を一人引っ張って、車を出してもらった。
おじさんの話によれば、その祭りは『やまびこ祭り』 という名前らしい。
なんでも、その周辺には昔から『やまびこは山の神の返事だ』という言い伝えがあり、
豊作や雨を願う際、他にも何か願い事がある時には、
山の頂上付近にある突き出た岩の上から叫ぶ、という風習があった。
『やまびこ祭り』 という名前はそこから来ているらしく、
今でも祭りの終盤には子供たちが山に登り、自身の願い事を叫ぶ行事があるそうだ。
聞けば、おじさんも子供の頃祭りに参加して、叫んだことがあるんだとか。
「おじさんは、何て叫んだんです?」
行きの車の中で姉貴が尋ねる。
「『頭が良くなりますように』 ってな」
おじさんは「ははは」と笑った。俺と姉貴も遠慮なく笑った。

移動手段が車だったので、そう時間はかからなかった。
祭りのある村も含め、周辺地域自体が山間のそこそこ高い位置にあるんだが、
祭りの会場は、もう少し山を上ったところにあるダム湖の横の広場だった。
俺たちがついた頃にはもう祭りは始まっていた。
広場の中心にはステージがあって、広場の周りをぐるりと囲むようにたくさんの提灯と屋台が並んでいた。
田舎の小さな祭りだと思っていたんだが、人の集まりもにぎわいも思ったよりある。
二時間後に車に戻って来ることをおじさんと約束して、ついでに少々の小遣いをせびって、
俺と姉貴は祭りの人混みの中へと溶け込んでいった。

まずは綿菓子やイカ焼きを買って食べる。
しかしまあ、祭りで売っている食べ物はどうしてあんなにうまそうに見えるのか。
腹も満足したところで、姉貴が「金魚すくいがしたーい」と言うので、それに付き合った。
「わたし昔さ、金魚すくいの『すくい』 の部分って、救いの手を差し伸べることだと思ってたんよね。
 金魚たちは悪い人に捕まってて、助けてあげなくちゃってね」
「うわ、馬鹿じゃん」
「うっさい、若かったの。
 でさ、前の年にやぶれた金魚すくいの網を一本いただいて、次の年に自分でやぶれない紙張って持ってったの。
 さすがに百匹超えた時点で止められたけど、でも、あの時の店のおじさんの顔ったらなかったわー」
もう言うまでも無いが、俺の姉貴は少し変わっている。いや、少しじゃないな。
ふと見上げると、金魚すくいをしている俺らの会話を、店の店主が険しい顔で聞いていた。
マズイかなと思った俺は二,三匹救った時点でわざと失敗して、やぶれた紙を店主に見せた。
姉貴は空気を読まずに三十匹ほど取ってたけど。
姉貴はその内の二匹だけを袋に入れてもらって、アカとクロという名前をそれぞれつけた。俺は金魚はもらわなかった。
そんなこんなで、俺と姉貴は祭りを十二分に楽しんでいた。

142なつのさんシリーズ「やまびこ」2:2014/06/14(土) 20:47:52 ID:Hpd3syqU0
そうして俺たちが祭りに参加して一時間ほど経った頃だった。
『時間になったので、子供たちは集合してください』
突然辺りに拡声器の声が響いた。
それを合図に辺りから子供が集まって来る。
どうやら、おじさんが言っていた行事がこれから始まるらしい。
俺と姉貴は顔を見合わせた。
「……どうする?」
「行くに決まってるでしょ。おもしろそうじゃん」
やっぱりか。
行くと、何やら番号のついたカードを渡された。
子供たちは渡されたカードの番号の下、幾つかの班に分かれることになった。
集まっていたのはほとんどが小学生くらいの男の子で、他に数人、お守役なんだろう、姉貴と同い年くらいの男子がいた。
俺と姉貴は同じ班になった。
といっても、子供たち全員が一斉に山に登るのだから、班の意味はあるのだろうかと、その時は思った。
今考えると、お守役の子の負担を考えてということだろうが。

ダム湖横の広場から、山頂に続くという細い山道を一列になって歩いた。
列の途中途中にいるお守役の兄ちゃんが提灯のような明かりを持っていたので、そう暗くはなかったが、
祭りの明かりから離れるにつれ、夜の山の雰囲気は不気味さを増していった。
俺は知らぬ間に、前を行く姉貴の裾を掴んでいた。
虫や鳥の鳴き声以外、誰も声を出さなかった。まるで肝試しだ。
女の子がほとんどいないことにも、これで納得だ。こんなとこに来る女の子なんてのは、よほど変わり者か物好きだろう。
その物好きは、俺の前でさっきから全く喋らずに黙々と歩いている。
こんなに登るのかと内心愚痴る程、道は急で長かった。

随分高いとこまで来ただろうと思ったところで、いきなり開けた場所に出た。
一枚の大きな岩が山肌から突き出ていて、俺たちはその岩の上にいるようだった。
周りは落下防止用のフェンスで囲まれている。
お守役の男子の一人が俺ら姉弟を含めついてきた子供たちに、「今からあそこで叫ぶんだ」と説明した。
カードに書かれた番号順。俺と姉貴は最後の方だった。
暗くてよく分からなかったが、岩の向こうは谷か崖のようだった。その向かい側、遠くかすかに黒い山脈の影が見える。
最初の男の子が、岩の先に立ってありったけの声で叫んだ。
よく聞き取れなかったが、ゲームか何かが欲しいと叫んだんだろう。
若干のタイムラグの後、その声はしっかりとしたやまびことなって返って来た。
「……誰の声だろ?」
隣の姉貴がぽつりと呟く。
俺はてっきりさっきのやまびこのことだと思い、「誰って、やまびこじゃん」と若干馬鹿にしたように言った。
しかし姉は、俺の話を聞いていないようだった。辺りをきょろきょろと見回している。
そうこうしている内に、二人目、三人目と子供たちは順番に叫んでいった。
意中の子へのありったけの想いを叫ぶ男の子もいた。
その全てが、やまびこになって返って来る。
「やっぱり聞こえる。……違う。誰。誰?」
そうしてやまびこが返って来る度に、姉貴の様子はおかしくなっていった。

143なつのさんシリーズ「やまびこ」3:2014/06/14(土) 20:48:45 ID:Hpd3syqU0
俺が半ば本気で心配しかけた時、姉貴はカードの順番を無視して走るように進み出た。
周りの何だ何だという雰囲気も、順番を守れという声も、姉貴には届いていないようだった。
突き出た岩の先、落下防止のフェンスを掴み、姉貴は大声で叫んだ。
「誰!?答えてっ!」
大声だったのに姉貴の声は返って来なかった。
代わりに、地の底から吹き上げるような強い風が吹いた。
それはまるで人間の唸り声みたいで、その場にいた全員が固まったと思う。ただ一人、姉貴を除いて。
俺の直感が『何かやっべえぞ!』 と警告を発した。
それと同時だった。突然、姉貴が笑いだした。「うはははは」という、正気とも狂気ともつかない笑い声だった。
呆気に取られる俺を含め周りをよそに、フェンスを掴み崖下を覗き込みながら姉貴は笑う。笑いながら叫んだ。
「すごい、すごい、すごいっ。人だ。やまびこなんかじゃない!
 這いあがって来る。わっ、すごい。ほら、来て。皆にも見せてあげて!」
その瞬間、別の叫び声が上がった。俺の傍にいた一人の子供が出したものだった。
その叫びはやまびことなり、こだまする。
俺も叫びたかった。
人だ。
何本ものあり得ないくらい長く細く白い腕が、崖下から伸びてフェンスを掴んでいた。
何かが這いあがって来ているのか。姉貴は胸から上をフェンスから身を乗り出して笑っている。それは心底楽しそうに。
気付けば辺りはパニックになっていた。叫び声は叫び声を誘発し、場の混乱は個人の思考の自由を奪う。
ほとんどの者がその場を逃げ出し、あっという間に岩の上に残っているのは俺と姉貴だけになった。
実際のところ、俺だって逃げたかった。けれどそもそも足が震えて動かない。それに姉貴を残して逃げるわけにもいかない。
「……ね、ねえちゃん」
辛うじて声が出た。けれど姉貴には届かない。
俺は目を瞑り、一度深呼吸をして、目を瞑ったまま叫んだ。
「ねえちゃん!」
一瞬の間、俺の声がやまびことなって戻って来る。
ゆっくりと目を開くと、姉貴がこちらを振り向いていた。いつの間にかフェンスを掴んでいた白い手も消えている。
「あらら、……皆いなくなってる」
辺りを見回して姉貴はそう言った。いつもの姉貴だ。途端に膝の力が抜けて、俺はその場にしりもちをついた。
「何してんの、あんた」
その言葉に緊張の糸が切れ、俺は長い長い溜息を吐いた。
「……そりゃこっちのセリフだよマジで」
姉貴がこっちにやって来て、俺の手を掴み引っ張り起こす。
「それにしても、すごかったね」
姉貴はまだ興奮している様だった。
フェンスをよじ登ろうとしていた、あの白い手のことを言っているのだろう。
もしかしたら、姉貴には全身像が見えていたのかもしれない。
「……なに、アレ?」
「わかんない。でも、みんな顔中が口だらけだった。目も鼻も無くて。それが、私の声を真似してた」
ぞっとする。
「大丈夫だったのかよ……」
「ん?ああ、大丈夫大丈夫。嫌な感じはしなかったから」
ヤツらの容姿と危険度は必ずしも比例しないというのが、姉貴の持論だけども。
こういうことに関しては、俺は姉貴に何か言える立場ではない。
そもそもヤツらとの付き合いの長さ深さが、俺と姉貴では比べ物にならなかった。

144なつのさんシリーズ「やまびこ」4:2014/06/14(土) 20:49:19 ID:Hpd3syqU0
「でも、どうして、何かいるって分かったんだよ……」
「下から聞こえてきたから。崖の下から。
 普通やまびこって、向こうの山に声が反射して聞こえるものでしょ。それが、崖の下、それも近いところから聞こえたんよ」
俺には何も聞こえなかった。あいつの腕を見たのだって、『見せてあげてよ』 という姉貴の声がきっかけだった。
「おじさんの言う通り、やまびこが神の返事だとしたら、アレが神さまってなっちゃうけどね。
 ……いっぱいいたけど、それぞれが神様なのかな」
「……皆同じだった?」
「ううん。男の人も、女の人もいたし、髪の長いのも短いのもいた。着物を着てたのも、そうでないのもいた。
 同じなのは、顔中口だらけってだけ」
俺はそんな神様はいやだと心底思った。
それにそもそも、うじゃうじゃ崖を上って来る神様なんて聞いたことがない。
でも、こちらに危害を加える悪霊でも無ければ、神さまでも無いとしたら、アレは一体何だというのだろう。
「わたしも、アレはたぶん、神さまじゃないと思う」
俺の思考を読み取ったかのように姉貴が言った。
「ここからはわたしの勝手な想像になるけど……いい?
 まず疑問なんだけど、ここが神様にお願いする場所だったとして。
 飢饉で食べるものが無いとか、長い間雨が降らないとか、
 そういう時に人間って、ただ叫ぶだけで、願いが聞き届けられたと思うものかなぁ……」
姉貴は首をひねる。俺もつられてひねる。
「普通、やまびこって、明らかに自分の声じゃん。どこの山でもあることだし。
 ……それを、それだけを神さまの返事ってするには、ちょっと無理があると思うんだよね。
 だとしたら、神様に願いを聞いてもらうために、必要なものは何だろうね?」
「え、え……、えーと……」
「生贄。人身御供」
イケニエ。俺が言えない言葉を、姉貴は簡単に言ってのけた。
「極端な話をすれば、ね。でも実際に谷底にいた、『アレ』は『それ』じゃないかって、私は思うんだけど」
生贄、人身御供。それは、今の時代の感覚では到底理解できない風習。
「……人を捧げて、それから願い事を叫ぶ、返事が返ってくる。それを、神の返事だってことにする。
 そんな流れが、あったんじゃないかなぁって」
フェンスに囲まれた山肌から突き出た岩の先を見やる。あそこから突き落とせば、人は簡単に死ぬだろう。
崖の下から聞こえてきたという声。願いを叶える神さま。色々な言葉が、断片的に俺の頭の中でぐるぐると回る。
「もしもさ、あそこから落された人たちが、自分が犠牲になることで人々が幸せになると信じていたら、だよ?
 その意思が谷底にまだ残っていて、そこに、沢山の人の『願い』 が降ってきたら……」
頭の悪い俺に整理する時間も与えず姉貴は喋る。
「口がね。たくさんの口が、それぞれ何か呟いてたんよ。
 よくは聞きとれなかったんだけど、たぶん、『お願いします。お願いします』って。
 ……あの人たちは、聞こえて来る願いに、一生懸命応えようとしているんじゃないかな。
 分かんないけど。……分かんないけど」
そうして姉貴はようやく口を閉じた。
対して俺は、ずっと口を半開きに姉貴の話を聞くだけだった。
何も言えなかった。それは間違っているとも、それは正しいとも。
でも、一つだけ疑問があった。
生贄とは、命を犠牲に人々の願いをかなえようとする行為だ。
だとしたら、願いを叶えるためにそいつらが要求するのは、やはり命では無いのか。自分がそうしたように。
俺自身としては、その辺りはもう姉貴の言葉を信じるしかない。『いやな感じはしなかった』 という若干頼りない言葉だが。
まあ、結果としては、確かに何事も無かった。ちゃんと帰りつくまで油断は出来ないが。
そこ至って、俺はようやく一つの現実的な問題に行きついた。
「……ところでさあ、これもしかして、明かりが無いから、下まで帰れないんじゃね?」
恐る恐る俺はその疑問を口にした。
唯一の明かりであった提灯は、先に逃げた奴らによって全部持っていかれていた。
今は月明かりがあるので、辺りがまるで見えないほどではないが、木々の茂る山道に入ると何も見えなくなるだろう。

145なつのさんシリーズ「やまびこ」5:2014/06/14(土) 20:50:02 ID:Hpd3syqU0
「あー……本当。誰か来てくれるのを待つしかないかな。ま、大丈夫じゃない?気付いてくれるでしょ。おじさんもいるし」
確かに助けは来るだろう。でも、それがいつになるかは分からない。
「……これ、おじさんに怒られるかもな」
すると姉貴は意味ありげに笑って、背後の岩の先端辺りを指差した。
「心配なら、『どうか怒られませんように』 って、向こうに立って叫べばいいんじゃん?きっと叶えてくれるから」
「いやぁ、……やめとく、やめとく」
その瞬間、俺の耳元で『……やめとく』 と囁くような声がした。
それは耳に直接息使いすら感じる程の至近距離からの言葉だった。
俺は飛び上がった。まさか、未だ隣にいるのだろうか。やまびことか良いから、もう勘弁してほしい。
そんな俺を見て姉貴は心底可笑しそうに笑った。
こいつの神経は一体どうなっているのだろう。俺はこの時程、姉貴が怖いと思ったことはなかった。

その後のことは姉貴の言う通り、捜索に来た大人たちによって俺たち姉弟は無事保護された。
もちろんおじさんには怒られたけれども、正直怖いとは思わなかった。たぶん、もっと怖い体験をしたからだ。

姉貴がすくった二匹の金魚は、二匹ともいつのまにか死んでいた。
酸素が足りなかったのか、姉貴に振り回されたことが原因か、
はたまた、『皆にも見せてあげて』 という姉貴の願いを叶えたその代償だろうか。
姉貴は「救ってあげられなかったね……」と肩を落としていた。

『やまびこ祭り』 の真相については、未だに確かなことは分かっていない。
その昔、あの地域で生贄、人身御供があったなんて話は聞かないし、姉貴の言葉が全部真実だとも思わない。
生贄とか、そんなもん妄想空想の類だ。と言えればいいが、生憎俺は『アレ』 の一部を見てしまっている。
結局、アレは何だったのか。
もしかしたら確かめる方法はあるのかもしれない。
それは、もう一度あの山に登り、岩の上から直接『叫んで』返事を聞くことだ。あんたらは一体何なんだ、と。
しかし、俺は未だに実行しないでいる。
もし、それを知って、代償として何かの命が要るのなら、割に合わないからだ。
金魚二匹分の命で答えてくれるのかもしれないが、生憎俺たち姉弟はそろって動物好きだった。

ちなみに、これは数年経って親戚の家に行った時に聞いたんだが、
あの夜の騒ぎのせいで、次の年の祭りから子供たちだけで山に登るという行事は無くなったらしい。
「……俺たちのせい?」と隣にいた姉貴にそっと尋ねると、姉貴はからから笑いながら、
「おれたちのせい」と、まるでやまびこのようにそう言った。

146なつのさんシリーズ「遺影」1:2014/06/14(土) 20:50:53 ID:Hpd3syqU0
小話を一つ。

季節は春で、僕がまだ小学校にも上がっていなかった頃の話だ。
その日、僕は家族と一緒に母方の祖父母の家に遊びに来ていた。
まだ夕飯を食べる前だったから、時刻は午後六時か七時か、その辺りだっただろうか。
大人たちは居間でおしゃべりをしていて、
僕はその隣の神棚のある部屋で、従姉で二つ年上のミキちゃんという子とおままごとをして遊んでいた。
いや、遊ばれていたと言った方が正しいかもしれない。
ミキちゃん曰く、『近所迷惑なほど泣きわめいているという子供役の人形』を一生懸命あやしながら、
夫役だった僕は、ふと誰かの視線を感じて背後を振り返った。
後ろには誰もいない。
ただ、天井近くの壁には、僕が生まれる前に死んだという曾祖父の遺影が、
こちらに覆いかぶさるように少し傾けてかけられてあった。
白黒写真の中からひいおじいちゃんがこちらをじっと見ている。
何となく居心地の悪さを感じた僕は立ち上がって、
人形を抱いたままその視線から逃れようと部屋の反対側に移動した。
けれど移動中も、移動した後も、曾祖父の視線はしっかりと僕を追いかけていた。
「何してるん?」とミキちゃんが不思議そうに尋ねて来る。
僕は写真を指差して言った。
「ひいおじいちゃんがね……、さっきからずっと僕を見てるんよ」
今思えば何ということはない。
お札などで試してもらえれば分かると思うけれど、
平面に書かれた人の顔と言うのは、真正面から見て視線が合っていれば、
見る角度を変えても視線が外れることはないのだ。
でもその時は、どうして写真の中のひいおじいちゃんが僕を見つめているのか、不思議で不思議で仕方が無かった。
ミキちゃんは遺影を見上げて、それから僕と同じように部屋の中をうろうろ移動した。
「ホントだ……」
ミキちゃんは少し困った顔をして、それから僕に向かって「ちょっと待っててね」と言い残し、
襖を開けて大人たちがいる隣の居間へと行ってしまった。
僕は人形を抱いたまま再び遺影を見上げた。僕のことを見つめる曾祖父は、えらく気難しそうな顔をしていた。

しばらく待っていると、突然、向こうの部屋で笑い声が上がった。
襖が開いてミキちゃんが戻って来る。
どうやら、写真の中の人がこちらを見つめて来る理由を、大人たちに聞いて来たみたいだ。
「あんね。シャシンを見るとね。どこにいても、向こうもこっちを見ている様に見えるんだって。
 それは当り前のことなんだって。
 だからね、不思議なことでも、怖いことでも何でもないんだって。……分かった?」
いまいち良く分からなかった僕は、曖昧に首を傾げた。
すると、ミキちゃんはますます困った顔をして、「ちょっと待っててね」と言ってまた襖の向こうへと行ってしまった。
また大人たちの笑い声が聞こえた。
戻って来たミキちゃんは、遺影から見て左右、部屋の両端を交互に指差した。
「じゃあね。○○(←僕の名前)はこっちにおってね。あたしが向こうに行くから。
 それから、せーの、で写真を見るんよ。
 それで、ひいおじいちゃんが、あたしのことも○○のことも見てたら、それはおかしいでしょ?
 一人は二人を一緒に見れないんだから」
僕は頷く。確かに、あの写真の位置から部屋の両端にいる二人を同時に見ることは出来ない。
つまりミキちゃんは、部屋の左右から同時に写真を見上げて、
二人が同時に写真の中の人物に見られている、というあり得ない状況を創り出すことで、
それがただの『現象』 であって、不思議なことではないんだよ、ということを僕に伝えたかったのだ。
けれども、当時幼かった僕には、
その実験の結果がどういう結論に至るのか、そこまで理解する知恵も脳細胞もまだ無く、
ミキちゃんに言われるままに、ただそこに突っ立っていた。
ミキちゃんが部屋の向こう側に立った。

147なつのさんシリーズ「遺影」2:2014/06/14(土) 20:51:25 ID:Hpd3syqU0
「じゃあいくよ。……せーの」
声に従い遺影を見上げる。
「ほら、あたしのほう見てる。○○のことも見てるでしょ」
即答できなかった。
「……ううん」
見上げたまま僕は首を横に振る。
「ひいおじいちゃん、ミキ姉ちゃんのほう見てるよ」
怖がらせてやろうだとか、そういう気持ちは微塵も無かった。見えたままを言っただけだ。
写真の中のひいおじいちゃんの黒目の位置が先ほどとは違っている。明らかに僕でなくミキちゃんの方を見ていた。
「僕のことは見てないよ。ミキ姉ちゃんのほう見てる」
もう一度言った。
空白の時間が数秒あった。
そして突然、ミキちゃんが大声で泣き出した。
あまりに唐突だったので、僕は大いに驚いて慌てた。
抱いていた人形を放り出し、どうにかして泣きやまそうとしたけれど、無駄だった。
泣き声を聞き付けた大人たちがゾロゾロと部屋に入って来た。
ミキちゃんが「○○が怖いこと言った〜」と泣く。
唖然としていると、両親にミキちゃんを泣かした犯人としてひどく怒られた。
あまりの理不尽さに僕も泣いた。
「ひいおじいちゃんが、僕じゃなくてミキちゃんを見ただけだ」といくら説明しても、両親は信じてくれなかった。
他の大人たちもそうだった。

ミキちゃんはそれから僕と話もしてくれなくなった。
一応後日仲直りはしたけれど、その時は僕は大人たちに問答無用で嘘つきの烙印を押され、
何だか無性に悲しかった。
けれども、その中でただ一人、眠っていて騒ぎに乗り遅れた曽祖母だけは、
夕食の後、落ち込んでいた僕をきにかけてくれて、僕の話をうんうんと頷きながら聞いてくれた。
「そおかあそうかあ。そらあ、貧乏くじを引いてしもうたのう」
僕の頭を優しく撫でながら、ひいおばあちゃんは静かにこう言った。
「この家には男が多いけんのう……。子供も親戚も男ばあよ。あの人は、娘が欲しい欲しい言うとった。
 ……きっと男の子のおまんよりも、女の子のミキの方が可愛い思うたんやろうねぇ……」
理不尽だ。
僕はまた泣いた。

終わり

148なつのさんシリーズ「ノック 上」1:2014/06/16(月) 21:47:33 ID:mn6OmNt.0
僕の住む町から、県境を跨いで車で四時間ほど走った先にある小さな街。
数年前、その街で身元の分からない一人の男の子が保護された。
調べてみると、男の子は街の人間ではなく、遠く何百キロも離れた他県で行方不明になっていた子供だった。
その子の証言によると、数日間、見知らぬ女の家に監禁されていたのだという。
実は同様の事件、――他県で行方不明となった子供がこの街で見つかるという事件――は、
過去にも四回程起こっており、警察は連続児童誘拐事件とみて捜査をしていた。
被害にあったのは全員、小学校低学年程の男児。
けれどもこの事件が特異だったのは、
発見された男児たちに特に目立った外傷も無く、何かしらの危害を加えられたわけでもない、ということだった。
親元に身代金が要求された様子もなかった。
誘拐された男の子たちが入れられた部屋は、外が見えないように窓の部分が塗り固められていたという。
といっても電灯はついており、食事は三食きちんと与えられ、部屋にはTVの他、本やマンガ、ゲーム等もあった。
誘拐犯の女は顔を隠すこともせず、連れてきた男児を本名では無く『●●』 と同じ名前で呼んだ。
そして子供たちに、自分と会話することを求めた。
そうして数日が経つと、女は眠っている子供を車に乗せ、街の外れで解放した。
警察は、被害にあった子供たちの証言から、街に住む一人の女性を容疑者に上げた。
彼女は街外れの古民家で一人暮らしをしていて、
彼女自身の子供も、誘拐事件が起こるよりも以前に、事故か事件に巻き込まれたのか、行方不明の届けが出されていた。
失踪した息子への想いが犯行に走らせた、と警察は考えた。
そして警察は彼女の家を訪れたのだが、その時すでに家に彼女の姿は無かった。
古民家の中からは、子供たちの監禁に使ったと思しき部屋が見つかり、
その部屋の中からは、『息子の元へ行きます』 という内容の遺書らしき紙と共に、
誘拐した子供たちへの謝罪の手紙が見つかった。
『●●』 とは、彼女の息子の愛称。
誘拐された子供たちは、『怖かったけど、女の人は優しかった』 と口をそろえて証言した。
自身も行方不明となった女性は、彼女の息子と共に未だに発見されていない。
その特異性から、この誘拐事件は一部のメディアでも取り上げられることになった。
そうして有名になった代価か、事件の舞台で今や廃屋となった古民家には、
夜な夜な親子の話声が聞こえるだとか、行方不明になったはずの子供の霊が出るといった、
真偽の定かではない噂話がまとわりつくことになる。

149なつのさんシリーズ「ノック 上」2:2014/06/16(月) 21:48:10 ID:mn6OmNt.0
――――――
誰かが玄関のドアを叩いている。
閉められたカーテンの隙間を縫って、強い陽の光が室内に差し込んでいた。
壁にかけてある時計を見ると、短針はアラビア数字の11を僅かに通り過ぎている。
ベッドの中で目を覚ました僕は、両腕をつき上げて伸びをする。
来客か、それとも宅配便か何かだろうか。
コンコン、コンコンと人を急かすようなノックだ。
「……はーい!」と向こうに聞こえるよう大声で返事をして、僕は未だ名残惜しいベッドの海から抜けだした。
玄関まで行く途中で洗面台の鏡を覗きこみ、酷い寝癖が無いのを確認してから、ロックを外しドアを開けた。
玄関前は無人。
あれ、と思い左右を確認するも、各部屋のドアが並ぶアパート二階の通路には人の気配は無い。
おかしいな、と首をかしげる。寝ぼけてあるはずのない音でも聞いたのだろうか。
いずれにしても誰も居ないのだから、しょうがないか。
扉を閉めて、あふあふと欠伸などしつつ、二度寝をするため玄関に背を向けた。
コンコン。
背後で扉を叩く音がして僕は振り向く。
確かに誰かがノックをしている。
「はいはい」と返事をしつつ、再度扉を開けた。
けれどそこには誰もいない。
閑散とした通路を見回し、子供のイタズラかなと思う。
でも、僕の部屋はアパート二階のほぼ中心にあり、
ドアをノックして急いで逃げたとしても、端の階段につくまでに背中くらいは見えそうなものなのに。
下から石でも投げたのだろうかと地面を見やるも、そんな痕跡も無かった。
しばらく一体どうやったのだろうと思案してみて、止めた。分からないものは分からない。
そんなことより眠たくてしょうがない。もどって寝よう。僕は扉を閉めた。
……コンコン。
またノックの音だ。
どうやら、向こうはこちらの動きをどこかで監視しているらしい。
こういう手合いは相手の反応自体を楽しんでいるのだ。もうドアは開けてあげません。
僕は居間へと戻って夢の続きを見ることにした。

もぞもぞと、布団にもぐり込む。
コンコン……、コンコン……、コンコンコン。
しつこい。あのドアの向こうに居るのが誰であれ、相当しつこい。僕がドアを開けるまでそうしている気だろうか。
やれやれと思いながら、再度布団から這いだして、足音を立てないよう気配を殺して玄関まで向かった。
ドアの目の前まで来る。ノックの音は続いている。
その時、ようやくというか、ふと一つの疑問がわく。
これがピンポンダッシュなら、どうしてインターホンではなくてノックなのだろうか。
本当は、ここでいきなりドアを開けて逆に驚かしてやろうと思ったのだけれど、
その前にと僕はドアに顔を近づけ、そっと覗き穴から外の様子を覗いてみた。
魚眼レンズを通して見る、一点を中心にぐわりと湾曲した玄関先の光景。
そこに見えるのは、赤ペンキが塗られた手すりと、コンクリートの通路だけだった。誰の姿もない。
ドアを叩いて音を出すようなものは何も無い。

150なつのさんシリーズ「ノック 上」3:2014/06/16(月) 21:49:46 ID:mn6OmNt.0
コンコン。
ノックの音。
外の様子を覗いている最中だった。その意味を理解した途端、首筋、うなじの辺りが粟立つのを感じた。
姿が見えないモノのノック。
残っていた眠気が綺麗に吹き飛ぶ。
どうやら、金属のドア一枚隔てた向こう側に、得体の知れないナニカが居るらしい。
その時、アパートの階段を上って来る足音が聞こえて身構える。足音はこちらへと向かってくる。
覗き穴の前を買い物袋を下げた人が通り過ぎた。
同じアパートに住む隣人だった。
反射的に僕はドアを開いて外に出ていた。そして部屋に入ろうとしていた隣人を呼びとめる。
「あの、すみません」
隣人とはあまり親しくは無く、会えば挨拶する程度だ。
確か僕より一つ二つ年上で、学部は違うけれど同じ大学に通っているくらいにしか知らない。
どうやら昼ご飯を買って来たらしい彼は、突然呼びとめられ、一体何事かと僕を見やった。
「はあ、え、何?」
「今さっき。僕の部屋のドアを、誰か叩いてませんでした?」
「いや、見てないな。俺は叩いてないよ?」
「ここまで上がって来る時、誰かとすれ違いました?」
「いや」
「ノックの音とか聞きました?」
「……いや」
僕は確信する。やはりこの通路には最初から誰も居なかったのだ。
「そうですか……。分かりました。ありがとうございます」
隣人はどうにも釈然としない表情をしていたけれど、それ以上関わり合いになることもないと思ったのか、
「じゃ」と言って自分の部屋に入って行った。
僕も部屋に戻る。

扉を閉めると、途端にノックの音が再開した。
とりあえず構うことはせず、台所で砂糖入りのホットミルクを作って、居間に戻り、ベッドの縁に腰かけてゆっくり飲んだ。
飲みながら現状を確認する。
もはや子供のイタズラである可能性は低いだろう。
だとすれば、所謂ラップ音と呼ばれる現象と同じ類だろうか。
今のところ被害は音だけ。それ以上害が無いなら、放っておいてもいいのかもしれない。
けれども、と思う。どうして『今日』 で、『僕の部屋のドアを叩く』 のだろうか。
大学生活のためこのアパートに越して来て大分日が経つけれど、
こんな現象は今日が初めてだし、この部屋が曰くつきだなんて話は聞いてない。
部屋が原因で無いとしたら、原因は僕自身にあるってことになる。
部屋のドアをしつこく何度も叩かれる原因を、どこかでつくったのだ。
一つだけ、微かな心当たりがあった。
ホットミルクを飲みほした後、僕は携帯を取り出して、友人のKに電話をかけた。
コール音が耳元で何度も繰り返される。
結局Kは電話に出なかった。たぶん寝ているんだろう。
Kは自他共に認めるオカルティストなので、色々と相談したかったのだけれど。
次に僕はもう一人、友人のSに電話をかけた。
数回のコールの後、『……何だよ』 とSの声が聞こえた。
「あ、Sー?僕だけど」
『ンなこた分かってる。要件を言え』
Sの声は少々不機嫌だ。どうやら彼も寝起きらしかった。
「じゃあ、簡潔に。あんさ。昨日肝試しに行った場所までさ、もう一度連れてって欲しいんだけど」

151なつのさんシリーズ「ノック 上」4:2014/06/16(月) 21:50:50 ID:mn6OmNt.0
今からまだ数時間前の今日のことだ。
真夜中、僕とKとSの三人は、ここから大分遠い街の、女性と子供の霊が出ると噂の古民家へと、
肝試し兼オカルトツアーに繰り出していた。
それ自体はいつものことなのだけれど、街までが非常に遠かったため帰りが朝方になり、
そのせいで今日は三人とも起きるのがおそい。
古民家では何も見なかったし、何も起こらなかったのだけれど、
もしかしたら、いわゆる『お持ち帰り』 をしてしまったのかもしれない。

『昨日の?……理由は?』と訝しげなSの声。
僕はつい先ほど体験したことをかいつまんで説明する。
これがオカルティストのKならノって来るのだけれど、Sは超常現象と聞くと鼻で笑うタイプの人間なので、
何時『……くだらねぇ』と言われ、電話を切られるかとドキドキしながらの説明だった。
昨日だって、Sだけは肝試しでは無く、夜の長距離ドライブという感覚だったに違いない。
「……あ、もちろん、ヒマだったらで良いんだけど。駄目っていうなら、電車とバスで行くし」
幸い途中で切られもせず、全部話すことができた僕は、最後にそう付け加えた。
『電車とバスで行け』
電話が切れた。
だよねー、と思う。存外に遠いというのは昨日の経験から自明だし、断られるのは予想していた。
それに何しろ、どうしてもう一度そこへ行くのか、自分でもよく分かっていないのだ。
本当なら、何かに憑かれたようなのでお払いしてくださいと、お寺に行くか、
もしくは、幻聴が聞こえますと、病院に駆け込むのが正解なのだろう。
コンコン、といくらかの間を開けながら、未だにノックの音は続いている。
けれども、どうしても気になってしまう。
何故か、気味が悪いだの、鬱陶しい、煩わしいなどとは思わなかった。
むしろ、原因を突き止めたいといった好奇心、もしくは使命感が僕の中にあった。
立派なオカルティストであるK程ではないが、僕自身もそういう類の話には関心の強い方だ。
自分が住むアパートで起こったのなら、なおさら探究心は膨れ上がる。
それに、主な被害がノックの音だけ、というのが気になっていた。そのせいで危機感も薄いのだろうけれど。
ノックの音が聞こえるも、おもてに人はいない。その手の怪談は聞いたことがある。
夜中にノックの音がして、けれども、扉を開けても誰もいない。
聞き間違いかと思い、戻ろうと振り返ると背後に居た、というヤツだ。
その際のノックの意味とは、扉を開けさせることなのだろう。
そう言えば、前に読んだ小説だけれど、陰陽道に関する話で、
家とはそれ自体が家主を守る結界のようなもので、あやかしは中から招かれない限り入ることは難しい、
と書いてあったことをふと思い出す。
自らドアを開けることは、相手を受け入れるのと同意。
なのでその作中のあやかしは、あの手この手で中の者に扉を開けさせようとする。
けれども、この場合は事情が違う。僕は一度ドアを開けた。なのにノックの音だけが続いている。
嫌がらせでなければ、それはまるで、僕にこの部屋から出てきて欲しいと言っているようだった。
呼ばれている、と言えばいいのだろうか。
延々と扉を叩く目的が、自らが中に入るためでは無く、僕を外に連れ出すためだとしたら。
あの音の主は一体僕に何をさせたいのだろう。
考えた結果が、あの昨日訪れた古民家だった。
ここ数日の内に原因があるとすれば、あの場所しか思い当たるふしはない。
ベッドから立ち上がり、しかし自分って本当に行き当たりばったりで無計画な人間だなあ、などと内心思いながら、
出掛けるための身支度をする。

シャワーを浴びて出て来ると、携帯が一軒のメールを受信していた。
Sからだった。
『【件名】さっきの件について。

 【本文】昨日の分と合わせてガソリン代を出すなら、考えなくもない。』
全くSらしいというか。僕は少し笑って、『おいくら?』 と返信した。

152なつのさんシリーズ「ノック 中」1:2014/06/16(月) 21:51:55 ID:mn6OmNt.0
走行中の車の窓から外の景色を見やる。前方から後方へ。車に近いものほど早く、遠いものほどゆっくりと。
約半日前にも通った道なのだけれど、状況は違う。
あの時は陽が昇る前だったので辺りは暗く、車酔いのため後部座席で死体のように寝転がっていたKも今はいない。
運転席の方から欠伸が聞こえて、僕は窓の外から視線をそちらに移す。
ハンドルを握るSは、先程から非常に眠たそうだ。居眠り運転で事故されても困るので、何か話しかけることにする。
「あんさあ、Kが昨日話してくれたこと。覚えてる?」
「……誘拐事件の話か?ああ、大体はな」
数年前。僕らが高校生の時に起こった連続児童誘拐事件。僕は覚えていなかったけれど、そこそこ世間を賑わしたらしい。
真夜中。その事件現場である古民家の庭先で、Kは僕とSを前に、
誘拐事件発生に至る経緯から、警察の捜査状況、どこで仕入れたんだというような情報まで熱く語ってくれた。
「冗談半分に聞いてくれればいいけど。
 もしかしてさ。昨日、あんな話をKがしたから、僕の家にやって来たんじゃないか、って思うんよね」
「何が」
「さっきも言った、ノックの主」
Sが欠伸をする。眠たいのか、馬鹿にされているのか。
「いや、でも、そんなことのためにわざわざ悪いね。二度も。遠いのにさ」
「ああ、全くだな」
Sは心底面倒くさそうに言った。だったらあんなメール寄こさなきゃいいのに、と思う。
ちなみに、ガソリン代として要求されたのは4480円だった。
十円単位で要求してくるとは、ちゃんと残量をはかって計算したのだろう。キッチリしてるというか、何というか。
「そういや聞きそびれてたな。お前、あの空き家に行ってどうするつもりなんだ?」
「んー、まだ決めてないな」
「……何だそりゃ」と前を向いたままSが呟く。
実際に決めてないのだから仕方が無い。
「もしかしたら、家の中に入ることになるかもね」
前夜の段階では、事件のあった古民家を外から眺めるだけだった。
現在、誰が管理しているのかは分からないが、
窓にカーテンが掛かっていて中は見えなかったけれど、おそらく、家具はそのままにしているのだろう。
ここの住人はあくまで行方不明扱いで、いつか戻って来るかも知れないのだ。
「住居不法侵入だな」
「分かってるよ。でもさ、それってさ。向こうの方からウチに来いって、『呼ばれて』 それで入ったとしても、罪になるんかな」
「……お前がどういう場合を想定してるかは無視してだ。今回の場合では、なる」
「あーそっかぁ」
「大体どうやって入るつもりだ。玄関にはカギが掛かってるだろ」
確かに。当然の話だけれど、昨日確認した限りでは、玄関のドアは鍵なしでは開かないようになっていた。
侵入できそうな窓もない。一ヶ所だけ、内側から窓が塗り固められている部屋もあった。
「ノックすれば開けてくれるんじゃない?」
僕は冗談のつもりで言ったのだけれど、
Sは今度は、確実に僕のことを馬鹿にしているのだと分かるような欠伸をして、こう言った。
「……中に人が居りゃあな」

それから数時間と数十分車で走って、僕とSの二人を乗せた車は、目的の古民家がある街まで辿り着いた。
時刻は四時半を過ぎたところだった。
昨日と同じ場所、少し離れた場所にある住宅街の一角に車を停める。
「着いたぞ。ここからは歩いて行けよ」とSが言う。
そうして彼はシートベルトを外すと、後ろにシートを倒して目を閉じた。
どうやら、これ以上付き合う気はなく、僕が戻って来るまでにひと眠りするつもりなのだろう。
しばらくしてSが目を開けた。
「……何だよ。早くいけよ。場所は分かってんだろ?」
怪訝そうに言うSを、「ちょっと待って、静かに」と制す。
何か聞こえた気がした。
……コンコン。
ノックの音。
早く車から出ろと言っているのだろうか。
「この音、聞こえる?」
僕が尋ねると、Sは「……いや」と首を横に振った。
「あーそっか……、これ、今日以降もずっと続くようだったら、やっぱ病院かなぁ」
「おい……」と何か言おうとしたSを置いて車を出る。
少し歩くと後ろでドアの閉まる音がして、振り返るとSがのろのろと大儀そうに車を降りていた。

153なつのさんシリーズ「ノック 中」2:2014/06/16(月) 21:53:45 ID:mn6OmNt.0
住宅街からしばらく歩いた、山へと続く細い坂道の脇に家はあった。ここに来るのは二度目だ。
振り返ると、眼下に僕らが車を停めた住宅街が一望できる。
近くに他の家の姿は無く、まるで仲間外れにでもされたかように、ぽつりとその古民家は建っていた。
瓦屋根の平屋で、建物自体は相当古くからここにあるのだろう。
昨日は夜中だったのでよく分からなかったのだけれど、所々に年季を感じる。
ただ、窓の向こうに見えるカーテンの模様などは現代風で、つい数年前まで人が住んでいたという名残もあった。
家自体の大きさは、親子二人だけで暮らすには少々もてあましそうだった。
雑草の生えた花壇のある小さな庭を通り、玄関の前で立ち止まる。擦りガラスがはめ込まれた木製の二枚戸だ。
「で、どうすんだ?」とSが言う。
僕は戸に手をかけ、力を込める。当然のことだけれど、鍵が掛かっていて開かない。昨日の夜も確認したことだ。
ノックの主が僕をここまで呼んだのなら……。という淡い期待もあったのだけれど、現実はそう甘くは無いようだ。
しばらく無言のまま玄関を見つめていた。
始まりは、僕の部屋の玄関から聞こえたノックの音だ。
僕はその音に誘われて、四時間もかけて再度ここまでやって来た。運転したのはSだけど。
玄関に呼び鈴等は付いていなかった。二度、軽くノックする。扉が揺れて、ガシャガシャとガラスが身悶える音がした。
コンコン。
中から返事があった。渇いた響き。僕がアパートの自分の部屋で聞いた音とまるで同じだった。
たとえこの音が幻聴だとしても、僕はこの音に呼ばれている。それは確信できた。
後ろに居たSの方を振り返る。
「どうにかしてさ、この中に入れないかな」
僕が尋ねると、Sは非常に面倒くさそうな表情をした。
そうして投げやりな口調で、
「……どうにかしたいんなら、入る方法なんていくらでもあるが」と言った。
「どうにかしたいね」
僕は答える。
Sは肩をすくめた。
「一応念を押しとくが、どういう形で入るにしろ。れっきとした犯罪だぞ」
「今さら?」と僕は少し笑って返す。
Sは少し上を向いて、「ふー」と小さく息を吐く。
「……やれあの街に連れてけだのやれ扉を開けろだの。全くやれやれだな」
嘆きながらSはドアの前にしゃがみ、戸の下部分、ガラスがはめ込まれている細い骨組の部分を掴んだ。
「ん」と一声、力を込める。どうやら、襖を外す時のように、二枚の戸を同時に持ち上げようとしているらしい。
鍵が掛かっているなら扉ごと外してしまえ、という作戦だ。
そんな安易な力技で大丈夫なのだろうか、と僕が思った瞬間だった。派手な音がして、二枚戸が玄関の奥へと倒れる。
扉が外れた。
唖然としている僕を尻目に、Sは外した二枚戸を引きずって玄関の端によせると、
「二枚戸で、立てつけの悪い家なら、こういう侵入方法もある。
 まあ、窓を割るのが一番手っ取り早いが、不法侵入に器物破損が加わるのもアレだしな」
と何気もなく言った。
何でそんなこと知ってんだと正直思ったけれど、聞かないことにした。

154なつのさんシリーズ「ノック 中」3:2014/06/16(月) 21:54:30 ID:mn6OmNt.0
戸の無くなった玄関から家の中を覗く。すぐそこは、四畳半ほどの板の間だった。
一本の紐を渦巻状に敷き詰めたような丸いカーペットが、無造作に敷かれている。
正面と左右にそれぞれ戸があり、各部屋へと繋がっているのだろう。
「とっとと行って来い。人が来ないか見ててやるからよ」
Sの声に背中を押される形で、僕はその一歩を踏み出した。
「おじゃましまーす……」
玄関で靴を脱ぎ、僕は一人中に入る。
玄関の方からしか陽の光が届いていないせいか、意外と薄暗い。埃が舞っているらしく、鼻孔が少しムズムズした。
しばらくじっと耳を済ます。けれども何も聞こえてこなかった。あのノックの音もない。
何故だろう。自分で探せといいたいのだろうか。
ふと、家の西側の部屋が、誘拐事件の際に子供たちの監禁に使われた部屋だということを思い出す。
昨日鍵の有無と共に確認した事柄だ。
内側から窓を塗り固めた部屋。そこへ行こうと僕は左手の戸を開いた。
まっすぐな廊下が伸びてあって、三つほど扉がある。
手前のドアから順に開けて確かめていく。物置。次いで客間だろうか、空の部屋。
そうして残ったのは、一番奥の部屋。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。
一瞬、ドアの隙間から暗闇が飛び出してきたような錯覚を覚えた。
暗い。辛うじて、開いたドアから差しこむ光が、室内を僅かに照らしている。
誘拐された子供たちは、ここで監禁生活のほとんどをすごしたのだ。
部屋の中、ドア近くの壁に、明かりのスイッチらしきものがあったので押してみる。
途端に温かみのある柔らかな光が室内に満ち、見えなかった部屋の様子が照らし出された。
どうやら、電気は未だ送られているようだ。
そうして僕はハッとする。電気をつけてしまって良かったんだろうか。まあしかし、やってしまったものは仕方が無い。
部屋の入り口から見て、左手には大きなベッドと、
天井に届くかという程の高さで、マンガ本や図鑑などがびっしり収まっている本棚。
右奥にはいくつかのゲーム機器が並ぶ納棚があり、
その上に、当時としては最新型だっただろう薄型テレビが置かれている。
壁の方を見やると、クレヨンだろうか、全身真っ黒な人間を書いた落書きがあった。
子供が書いたものじゃないかと推測する。
その落書きの上、窓があると思われる部分が、周りの壁と同じ色の薄い板で覆われていた。
窓がないという一点を除けば、ここで過ごすのに不便など何も無い、快適な子供部屋と言えた。
天井には、電球に白い傘を被せただけの簡素な照明がぶら下がっている。
「白熱灯だな」
いきなり背後から声。
比喩でなく心臓が弾け飛び散るかと思った。
振り向くと、いつの間にかSが背後に立っていて、僕の肩越しに室内を覗きこんでいた。
「あー、びっくりした……足音くらいたててよ」
「勝手に入った見も知らぬ人の家でか?馬鹿言うなよお前」
まるで正しいことのように聞こえるけれど、それはどうなのだろう。
「……見張ってるんじゃなかったん?」
「飽きたんだよ。……それにKの話をよくよく思い出してみりゃ、気になることがいくつかあったしな」
入口付近に立っていた僕の肩をちょいと押し脇にどけると、Sは室内の丁度真ん中でぐるりと周囲を見回した。
「お前は、どう思う?」
突然のSの質問に僕は「え、何が?」としか返せなかった。
「何がも何も、この部屋だ。気にならないか?」
言いながらSはおもむろに、ベッドの下から何か箱を引き出してくる。
「失礼」と言ってSが箱のフタを開けると、中には様々な種類の玩具が詰め込まれてあった。
「あれもこれも、小さな子供の身分にしちゃ、少し贅沢過ぎるんじゃないか?
 まあ、一人っ子なんて大体こんなものかも知れんが。やっぱり、ちと過保護の気があるな」
Sが何を言いたいのか分からない。まさか、自分の子供時代と比較して拗ねているのだろうか。
「誘拐してきた子供のために買いそろえたんじゃない?」と僕が言うと、Sは首を振った。
「全部じゃないかも知れんが、名前が書いてある。●●ってな。ここの子供の愛称だったか」
玩具箱を覗きこむと確かに、一つ一つの玩具に『●●のもの』 と書かれたシールが貼られている。
「ここで数人、Kが言うには四,五人だったか、の子供たちが、何日間か監禁されたんだったな」
玩具箱のフタを閉め、元通りにベッドの下に戻しながらSが言った。
確かにその通りなんだろうと僕は頷く。

155なつのさんシリーズ「ノック 中」4:2014/06/16(月) 21:55:22 ID:mn6OmNt.0
「おかしいだろ」
「どこが?」
立ち上がったSは部屋の中をぐるぐると色々見物しながら、僕の方は見ずに言った。
「ここが監禁に使った部屋だとしたら、一人監禁して逃がした時点で普通バレる。普通ならな」
それはどうだろうか。Sの言葉に僕は首をひねる。
「……そうかな?」
「子供は証言したんだ、『窓の無い部屋だった』 ってな。
 詳しく聞けば、警察も内側から窓を隠したってことが分かったはずだ。
 そうして、家を外からみりゃ、この部屋が窓を塗り固めてるってことは一目で分かる。
 つまり、傍から見ても犯行現場である可能性が大なんだよ、ここは」
窓のない部屋が存在する家。同じ街で解放される行方不明だった子供。誘拐犯の女。
被害にあった子供の証言とこれだけの要素があれば、容疑者を特定して逮捕に至るのは簡単だ。とSは言う。
なのに何故か、事件は二度目ならまだしも三度目、四度目まで起こった。
「たぶん警察は犯人が、子供たちが窓の外を見て景色を覚えるといけないから、窓を潰したんだと。
 その視点で捜査をしたんだろう。だから捜査が遅れた。
 それともう一つ、近所の住人から、この家の情報が警察に行かなかったのも、同じ理由だな」
僕自身も、この部屋の窓を潰した理由は、子供に場所を特定させないためだろうと思っていた。
大体、他に一体何の理由があるというのか。
「光線過敏症」
耳慣れない言葉がSの口から出て来る。
「平たく言やあ、紫外線を受けると、人の何倍もの速度、深度で日焼けする体質のことだ。
 まあ、それを誘発する病気によって、症状はいくつかあるがな。
 ともかく、この部屋に『本来』 住んでいた子供は、それだったんだろう」
「え……、や、ちょ、ちょっと待ってよ。何でそんなことが分かるのさ」
するとSは天井を指差し、「白熱灯はな、光量が少ないわりに電気代が高いんだよ」と、良く分からないことを言った。
「まあ、まだ他にも色々と根拠はあるが。
 別の部屋にいくつか本があってな。光線過敏症、またはポルフィリン症についての本だった。
 が、一番は、写真があったからな。黒い頭巾を被った子供の写真がな。
 ……ともかくだ。この部屋の窓が潰されたのは、誘拐事件が起こるずっと前で、
 なおかつ、周りの人間もそれを知っていたんだろうな」
「その、光線過敏症ってことは、太陽の照っている時は、外に出られないの?」
「そうだな。陽の光には当たらない方がいいからな。だから、部屋の中で不自由なく遊べるよう、色々買い与えたんだろ」
僕はあらためてこの日光の差さない部屋を見やった。
内側から潰された窓、まだ小さな子供に過保護な程与えられた本や玩具。
もしかすればSの言う通りなのかもしれない。
「……それが、Sの気になったことなん?」
「気になったことの、一つ、だ。でもそれは、向こうで見た光線過敏症に関する本と、この部屋の白熱灯で大体確信できた。
 問題はもう一つ、その先の話だな」
うろうろと見物しながら歩きまわっていたSが立ち止まり、僕の方を見やる。
「光線過敏症である子供がだ。日光を避ける生活をしている子供が、行方不明なんかになるか?
 たとえ行方不明になったとしてもだ。未だに発見に至ってないのは、何故だ」
「それは……、ただ単に行方不明になって、ただ単にまだ見つかってない……じゃ、駄目なん?」
「こういった症状を持つ子供の、行動範囲がそれほど広いとは思えない。
 となれば誘拐、ということになるが、お前が誘拐犯だとして、黒い頭巾を被って顔も見えない子供を、誘拐しようと思うか?」
「それは、分からないけど」
「身代金の要求があったわけでもなさそうだしな。ただ単に行方不明なんだよ。ここの女が起こした事件と同じでな」
「じゃあ、Sは、どう思ってんの」
「俺は、」
Sはそこでいったん言葉を切った。
「……俺は、その失踪した息子が、いや、誘拐犯の女自体も、まだ、この家にいるんじゃないかと思っている」

156なつのさんシリーズ「ノック 下」1:2014/06/16(月) 21:56:04 ID:mn6OmNt.0
誘拐犯の女とその息子が、まだこの家の中に居る。
すぐには理解できなかった。噛み砕いて、その言葉の意味をゆっくりと脳に染み込ませる。
ようやく理解し、最初に出てきた感想は「そんな馬鹿な」だった。
「そんなこと……」
「無いと言い切れるか?お前、Kが言ってた、犯人の女が失踪する前に残した、遺書らしき手紙の内容覚えてるか?
 確かな情報じゃないかも知れんが、『息子の元へ行きます』って言葉は、『息子の居場所』を知っている者の台詞だ」
「……何年も行方不明で、死んだものと思ったんじゃない?」
「個人的な視点になるが、俺はそうは思わない。息子のために、白熱灯ならまだしも、部屋の窓を潰すような母親だぜ?」
「でも、だったら……、行方不明は、狂言だったってこと?」
「さあな。それは分からないな」
「狂言なら、まさか、二人共生きてる……?」
「いや。少なくとも息子は死んでるだろうな。だから、彼女は誘拐事件を起こすんだよ。
 動機については、警察の見立てで間違ってないと思う」
いなくなってしまった息子への想いから、同じ年頃の男の子を誘拐しては、数日間だけ一緒に暮らす。
息子と同じ部屋に閉じ込めて、息子と同じように会話をしようと話しかける。
「つまり、だ。
 俺は、母親は何らかの理由で死んでしまった息子の死体を、
 どこかに隠し、周りには行方不明になったと伝えた、と考えてる。
 認めたくなかったのか、他の理屈が働いたのかは知らないがな」
そして、一人に耐えきれなくなった母親は誘拐事件を起こす。
息子の部屋で子供と接することで、自分の子供は生きていると思い込みたかったのだろうか。
けれども、その行為を数回終えたところで悟ったのだろう。所詮、彼らは自らの息子じゃないのだから。
「でもさ、何で、その二人の死体が『この家にある』 って分かるんよ?」
「別に分かってるわけじゃない。ただの希望的確率論だ。
 自分の一人息子なんだから、少しでも傍に置いときたいと思うのが人情だろ」
そしてSは壁を二度、コンコンとノックする。
「……そして、だから、お前は今日ここに来たんだよ」
「は……?」
紙風船から空気が抜けたような間抜けな音が僕の喉から滑り落ちる。
「……僕が、何?」
「言っとくが、今俺が言ったのは、未だ真相でも何でもない。全て想像と憶測の産物だ。
 ただ、お前も、俺と同じように考えたに違いないんだ。否定するか?お前は無意識下の元ロジックを組み立てたんだよ。
 そうして、それを探したい、見たいという欲求が、ノックの音になって意識下に現れたんだ」
「なっ、な、おい、何でSにそんなことが分かるのさ」
「お前に聞こえるノックの音は、俺には聞こえない。だとすれば、そいつはお前の中で鳴っている音だ。
 お前自身が脳みそをノックしてたんだよ」
「そんなこと言ったって、僕は、この家の子が日光に触れちゃいけない体質だったなんて、初めて聞いたよ?」
「数年前に、この事件が世間で話題になった時、そのくらいの情報は流れただろうな」
「し、知らないし、見てないし、覚えてないし」
「覚えてなくたって、ちらりと見やっただけの情報も、脳みそはちゃんと保存しているもんだ」
そんな馬鹿な、と言おうとしたけれど、それより早くSが口を開く。
「じゃあ聞くが。お前、この家に入ってから、ノックの音は聞いたか?」
その言葉に僕は絶句する。
確かにそうだ。この家の中に入ってから、それまで僕を誘導していたノックの音はぱたりと止んだ。
まるで、その役目を終えたかのように。
「その音の役割は、お前を、親子二人の死体がある『らしい』この家に連れて来ることだ。
 ここまでは無意識下で組み立てられても、肝心な死体がどこにあるかなんて分からないからな。誘導しようがないのさ」
僕は目を瞑り、後ろの壁にもたれかかる。身体から、どっと力が抜けてしまったようだ。
Sが小さく笑って、僕の肩をたたく。
「もう、ノックが聞こえることは無いだろ。ま、喜べよ。Kにいい土産話が出来たじゃないか」
全く慰めになってない。僕は力なく笑った。
それは結局、僕は自身の思い込みに従い、大きな大きな無駄足を踏んだということだ。
「帰るか」というSの言葉に、僕は黙って頷いた。
トボトボとSの後ろをついて家を出ることにする。
当初、ノックの主に呼ばれているだなんて思っていた僕が馬鹿みたいだ。
それでも。と頑張って思い直す。
今日の体験が、非常に不思議で、なおかつドキドキワクワクして面白かったことは間違い無い。
ノックの音に誘われて、僕はこんなところまで来てしまい、
そこで起こった事件の裏の一面を、少しでも垣間見たかもしれないのだ。
まあ、良い体験をしたと思おう。

1572なつのさんシリーズ「ノック 下」2:2014/06/16(月) 21:57:04 ID:mn6OmNt.0
玄関のある部屋まで戻る。Sはもう靴を履いて外へ出ていた。
これから、あの外した玄関の戸を元に戻さなくてはいけない。立つ鳥跡を濁さずってわけだ。
その時、ズボンのポケットの中で携帯が振動した。電話だ。誰だろうと思い取り出してみると、それはKからだった。
少し早めに恥ずかしい土産話を披露することになるのだろうか。
一人で苦笑いしながら、僕は外に居るSに「Kから電話」と伝えて、玄関の段差に座り、通話ボタンを押した。
『よおー。俺だ。昼に電話くれてたけどよ。何か用かー?』
どことなく陽気なKの声。
「え?K、まさか今起きたん?」
『わりーかよ』
確か時刻はもう五時に近いはずだ。
「遅いよ。何時だと思ってんだよ、もう夕方になるよ?」
『うっせーなー。何だよ。ソッチの要件は何だったんだよ』
う、と言葉に詰まってしまう。Sの方を見ると、そっぽを向いて欠伸をしていた。
「……ノック」
『はぁ?』
「ノックだよノック。そのノックのせいで、精神的にもノックアウトしちゃってさ。もうまいっちゃってさ」
やけくそになって、僕は床を拳で軽くコンコンコンコンと叩きながら「あはは」と笑う。上出来な自虐ギャグだ。
自分でも可笑しかった。可笑しくて笑う。床を叩いて笑って、そして僕は笑うのを止めた。
電話の向こうでKが何か言っている。でも、何を言っているのかまるで聞こえない。
床を叩く。
コンコン。
もう一度、違う場所を。
コンコン。
立ち上がって、携帯を切った。
外と室内を繋ぐ四畳半程の部屋には、カーペットが敷かれている。
最初に入って来た時も見た、渦まき模様の丸いカーペット。僕はその端を持ち、少しめくってみた。
カーペットの下は板の間で、そこには半畳程の大きさの正方形の扉があった。
心臓が音を立てて鳴っている。頭の中を様々な思考が飛び交っているのに、何も考えることが出来ない。
それは、取っ手の金具を引き出して上に持ち上げるタイプの扉だった。この先に何があるのか、何の扉かもわからない。
手を伸ばして、扉を叩く。
コンコン。
それは僕が今日、今まで聞いてきたノックの音と全く同じ音だった。
どうしてだろう。どうして僕は、『この音』 を聞くことが出来たのだろう。
先程Sが言ったことが正しければ、僕は僕が聞いたことが無い『この音』 を創り出せたはずがないのだ。
……コンコン。
僕は叩いていない。
それは今まで聞いた中で一番弱々しかったにも関わらず、一番はっきりと聞こえたノックの音だった。
決して脳内で創り出した音なんかじゃない。僕の鼓膜は確かにその微弱な振動を捉えていた。
扉についている金具を引き出し、僕は扉を持ち上げる。
かなり重かったけれど、ゴリゴリと音を立てて、扉の下からゆっくりと、まるで井戸のような黒いうろが姿を見せた。
据えた匂いと、ひやりとした空気が、穴から立ち上る。背筋がぞくりとして、全身に鳥肌が立った。
扉を落としそうだったので、裏側にあったつっかえ棒で固定する。
「……何やってんだ?」
いつの間にかSが、玄関からまた家の中に入って来ていた。
僕は返事もしないで、扉の奥の穴を見つめていた。
「そいつは……、たぶん、芋つぼだろうな」
「芋つぼ……?」
「その名の通りだよ。芋を保存しとくために、地下に掘る天然の土蔵だ。古い民家なんかにはたまにある。
 ……というか、お前これどうやって見つけたんだ?」
Sの話を聞くでもなく耳にしながら、僕は穴の奥から目が離せないでいた。
「……Sさ、車の中に、懐中電灯ある?」
少しの沈黙の後、Sは「あるぞ」と言った。
「それさ、取って来てくれない?」
Sは何も言わず黙って車へと向かった。

1582なつのさんシリーズ「ノック 下」3:2014/06/16(月) 21:57:49 ID:mn6OmNt.0
しばらくして戻って来たSの手には、二本の懐中電灯が握られていた。
玄関先から、その内の一本を僕に投げてよこす。
「ありがと」
ちゃんと光がつくかどうか確かめて、僕は再び穴に向き合った。
そっと光の筋を穴の奥に這わす。
思ったより穴は深いようだった。三メートルほどだろうか。
木の梯子がかかっていて、下まで降りたところで横穴がまだ奥に続いているらしい。
横穴の様子は、ここからでは窺えない。
何故か迷うことは無かった。僕は穴の中に入ろうと、扉の縁に手をかけた。
「おい」
Sの声。僕は顔を上げる。
「数年間放置されてたんだ。梯子が腐ってることもある。気をつけろよ」
「……OK」
梯子に足をかける。最初の一歩を一番慎重に。腐っている様子は無い。二歩、三歩と、僕は芋つぼの底に降りてゆく。
頭まで完全に穴の中に入ったところで足元が見えなくなり、あとは完全に感覚で梯子を下った。
しばらくすると、足の裏が地面の感触を掴む。芋つぼの中はかなり寒かった。
湿気なども無さそうで、なるほど、と思う。食料を保存しておくには適した場所だろう。
スイッチを入れっぱなしにしていたライトをポケットの中から出す。そうして僕は、ライトの光をそっと横穴に向けた。
あの時の光景を僕は一生忘れない。
暗闇の中、足元からすぐ先に、一枚の茶色く変色した布団が敷かれている。
その上で一組の親子が、互いに寄り添う様にして静かに眠っていた。
掛け布団の中から二つの頭だけが出ている。きっとあの見えない部分では、母親がわが子を抱きしめているのだろう。
僕はライトの光を向けたまま茫然と立ち尽くしていた。
それ以上、一歩も前に進むことが出来なかった。
足やライトを持つ手が震えているのが分かった。恐怖では無い。ただ、身体が震えていた。
息をするのも辛くなって、僕は二人に背を向けた。
その時、初めて自分が泣いているのだと知った。嗚咽もなく、ぼろぼろと涙だけがこぼれた。
涙は熱く、頬に熱を感じる。
怖くは無い。悲しくもない。感動しているわけでもない。よく分からない。
ただ、強いて言うなら、『痛いから』 だった。
自分の中の芯の部分が、ネズミのような何かに集団で齧られているような。そんな気分だった。
頭上からライトの光が降って来る。Sだった。自分が照らされていることを知り、僕は俯いて涙をぬぐった。
身体の震えはいつの間にか消えていた。
梯子をつたって上へと上る。
震えは止まったけれど、思うように身体が動かず、えらく時間をくった上に、最後はSに引っ張り上げてもらった。
Sは何も言わなかった。僕が落ち着くまで待つつもりなのだろう。
ふと玄関の方を見やると、家の中を隠すように戸が玄関に立てかけられていた。
「ごめん……。もう大丈夫」
そして、僕はSについ先ほど見てきた光景を話した。
「そうか」
Sの感想はただそれだけだった。
僕はずっと考えていた。それは、僕がどうしてあの二人を見つけることが出来たかについてだった。
偶然だったのか。または必然だったのか。僕が無意識下でまたやらかしたのか。
それともあの二人に、もしくはどちらかに、呼ばれたからだろうか。
答えは出なかった。
僕はポケットから携帯を取り出す。
「止めとけよ」
その次の行動を見透かしたようにSが言った。
「……何を?」
「警察に通報するつもりだろう」
「……そうだけど。どうして?」
「俺が警察なら、お前を真っ先に疑う」
その口調には何の力も込められていおらず、ただ、いつも通りのSの言葉だった。
「あの二人をここに閉じ込めて殺した犯人としてな。
 ノックの音が聞こえたんでそれで来ました、なんて言ってみろ。それこそ、精神異常者として扱われるのがオチだ。
 まあ、色モノが大好きな世間様には気に入られるだろうが」
「それじゃあ、公衆電話から……」
「そんな電話、こちらから名乗れない以上、イタズラと思われて終いだろう。警察はイタズラ電話多いからな」
「じゃあ、どうすんのさ……、だからって、このままにしとくわけにはいかないしさ」

1592なつのさんシリーズ「ノック 下」4:2014/06/16(月) 21:58:23 ID:mn6OmNt.0
すると、Sはゆっくり息を吸って、こう言った。
「何がいけないんだ?」
それは予想もしなかった言葉だった。
「何がって……」
「俺は別に良いと思うけどな。このままでも。親子水入らずで過ごせるんだ。別に悪いことじゃないだろ」
僕はあの二人の姿を思い出す。二人で寄り添い、一つの布団に入って眠っていたあの姿を。
ここで親子の居場所を外に教えることは、あの二人の間を裂くことになるのではないか。
何故いけないのか。そうだ、何故いけないのだろうか。
僕は答える。
「……やっぱり、駄目だ。知らせよう」
病弱な息子を守りたい、危険から遠ざけたいとした母親。でも、息子の方からすればどうだったのだろう。
生きている頃も、窓の無い部屋でずっと母親に守られ、死んでからも、こうして母の手に抱かれている。
「あのさ……、性懲りもなくって思うかもしれないけんど……。
 僕が聞いたノックの音って、あの男の子が僕を呼んだんじゃないか、って思うんよ」
芋つぼの扉を叩いた、弱々しくもはっきりとしたあの音。あれは『外に出たい』意志の表れではないだろうか。
「あの子が生前、病気で思うように外に出られなかったとしたら。
 死んで身体から離れた今だから、自由にしてあげたいじゃない。
 ……でも、あれだけ母親に大事に抱え込まれてたらさ、それも出来ないんじゃないかなぁって……
 だから、何と言うか、お母さんの方も、子離れしないといけないのかなぁ、てね?」
最後の方は、何か言ってて自分で恥ずかしくなったのだけれど、Sは黙って聞いてくれた。
そして「ふー」と、欠伸ともため息ともつかない息を吐くと、
「親の心子知らず、されど子の心親知らず、ってか」と小さく呟いた。
「分かった。好きにすりゃあいいさ。
 ただ、直接警察に言うのは止めとけよ。見知らぬ親子のために、色々犠牲にすることは無いからな」
じゃあ、一体どうすればいいんだろう。
そんなことを思っていると、いきなりSが立ちあがり、未だ開いていた扉から穴の中に片足を入れた。
「え?わ、何、どうすんの?」
慌てる僕を横目に、身体の半分ほど穴に下りたSは一言、
「まあ、任せておけばいい」と言って、さっさと降りて行ってしまった。
穴の下を覗きこむも、Sが何をしているのか分からない。というよりも、Sはあの空間に居て平気なのだろうか。

しばらくして、Sが梯子を上がって戻って来た。
やはりというか、当然だけれど、その表情には動揺が見えた。でも、僕ほど取り乱した様子もない。
「流石保存用の土蔵だな。イモだけじゃなくて、人間も保存できるのか……」
それから、Sは携帯の写メを使って色々家の中を取り始めた。
あっちの部屋に行ったと思ったらこっちの部屋に行き、芋つぼの様子を真上から撮影して、
最後に外に出て、家全体の様子を映して、ようやく何かが終わったらしい。
「さて、もう良いだろ。おい、外した戸を元に戻すから手伝え」
二人で二枚戸を元に戻す。
外すことが出来たんだから、戻すのも簡単だろうと思っていたのだけれど、
それは間違いで、思ったよりも時間がかかってしまった。
ようやく戸が元に戻った時には、もう時刻は午後五時半を過ぎていた。
カラスの鳴き声と共に、辺りが段々と暗くなり始めている。
Sが家に向かって一礼した。僕も倣う。
そうして、僕らは未だ一組の親子が住む古民家を後にした。

1602なつのさんシリーズ「ノック 下」5:2014/06/16(月) 21:59:03 ID:mn6OmNt.0
「帰りに、ちょっとネカフェに寄ってくぞ」
車に戻りながらSが言った。
「Sさ……大丈夫なん?眠いんじゃない?」
「大丈夫だ。さっきのを思い出しさえすれば、眠気は飛ぶからな」
そういうSの表情からは、冗談かそうでないかの判別がつかない。
ふと、そう言えばKの電話を切ってから、携帯の電源をOFFにしていたことを思い出す。
電源を入れると、着信履歴にKの名前がズラリと残っていた。電話するのも面倒くさいので、メールを一通入れておく。
『約四時間か五時間後にそっち行くよ。尚疲れたので、帰るまで電話もメールも受け付けません』
そして再び電源を切った。
車に戻る頃には、陽は西の山に全部沈んでいた。夕焼けの残りが、オレンジ色の光を僅かに空に留めていた。

「それで、ネカフェに行って何すんの」
帰りの車の中、僕はSに尋ねる。
「別に……大したことじゃない。ただ掲示板上に、写真を織り交ぜて、体験談風のウソ話を投稿するだけだ。
 もちろん、過去に起こった誘拐事件の概要、不法侵入の場面や、死体を発見した場面は真実を添えてな。
 後は勝手に親切な有志達が、警察に通報してくれる」
「……写メ撮ったの?」
「肝心なとこは撮ってねえよ。そんな気も起こらなかったしな」
「……大丈夫かね。その文章と写真、直接メールで警察に送った方が早いんじゃない?何か余計な話題にもなりそうだし」
「別に評判を貶めようってわけじゃないんだ。それに、メールで通報ってのは、ネット上の犯罪行為に限られてくるからな。
 心配しなくても、ちゃんと警察まで届くよう、別の手も打っとくさ」
「何なん、別の手って」
「そのうち分かる」

そのまま僕とSは帰り道の途中にあったネットカフェに立ち寄り、そこで軽い食事もとって、
また自分たちの街へと車を走らせた。
その際にSは何度かKとメールのやり取りをしていて、帰りに彼の家に寄っていくことになった。
やっぱりと言うか、Sも相当疲れているらしく、運転中、何度も眠たそうに目をしぱしぱさせていた。

Kが住む大学付近の学生寮についたのは、午後十一時頃だった。
Kはどうやら僕らが来るのを待ちかねていた様で、
僕らが部屋の扉の前まで来ると、ノックをする暇もなく戸が開いて中に引き込まれた。
「うおおっ、お前ら見ろお前ら!昨日行った児童誘拐事件の現場がすごいことになってんぞっ!」
Kのテンションがすごいことになっている。
そうしてKは、開いたノートパソコンの画面を僕らに押し付けて来た。
そこには、数時間前にSがネカフェで作成したウソ半分本当半分の体験談が、もちろん僕とSの名前は伏せて載っていた。
「いや、俺もSに言われて初めてこのスレッド知ったんだけどよ。いやあ、やべえなあこいつら。
 何かさ、扉壊してまで入ってさ。中で地下の隠し通路見つけてさ、さらに死体発見してやんの。
 しかもそのまま逃げ帰ってるしよ。あんまりなもんでさ、俺警察に通報しちゃったよ!マジで」
ああ、なるほどな、と思う。別の手とはコレのことだったのか。
興奮冷めやらぬKとは間逆に、Sは心底眠たげな目を、ぐい、と擦ると、
「……おい、K、悪い、布団借りるわ。数時間寝る」と言って、部屋の隅にあった折りたたみベッドを広げると、
ばたん、と倒れるように眠ってしまった。
「何だよあいつ。ことの重大さが分かってねえぞ。
 ……いや、ってか俺さ、明日暇だからよ。も一度あそこに行ってみようかと思うんだが。なあなあ一緒に行こうぜー!」
正直僕も眠たいのだけれど、がくがく肩を揺さぶられては仕方が無い。
「……すくなくとも、Sは行かないと思うよ」
「何でよ?いやまあいいや。そんなこともあろうかと、ちゃんと電車代とバス代いくらかかるか調べてあるから。
 片道四時間二十分。往復で五千円もかからないとよ、……ああ、アレだ、そう、片道2240円だとよ。往復で4480円」
ん、何か聞き覚えのある数字だな、と思うけども、疲れて頭が上手く働かないので思い出すことが出来ない。
「あれ……、そういや、お前ら、今日どこに行ってたんだよ?」
その言葉に僕は思わず笑ってしまった。
そうだった。そもそも土産話をしにここへ来たのだった。
疲労でぼんやりとした頭を二度、コンコンとノックして、僕はこの元気な友人に一から語ってあげることにした。
「いやぁ、今日の昼頃なんだけど、ノックの音がね……」

終わり

1612なつのさんシリーズ「蛍」1:2014/06/16(月) 22:44:24 ID:mn6OmNt.0
八月。開いた窓から吹きこんでくる風と共に、微かに蝉の鳴き声が聞こえる。時計は午後六時を回ったところ。
陽はそろそろ沈む準備を始め、ラジオから流れて来る天気予報によれば、今夜も熱帯夜だそうだ。
僕を含め三人を乗せた軽自動車は、川沿いに伸びる一車線の県道を、下流域から中流域に向かって走っていた。
運転席にS、助手席に僕、後部座席にK。いつものメンバー。
ただ、Kの膝の上にはキャンプ用テント一式が入った袋が乗っていて、
車酔いの常習犯である彼は身体を横にすることも出来ず、先程から苦しそうに頭を若干左右に揺らしている。
僕らは今日、河原でキャンプをしようという話になっていた。
Kが持つテントの他にも、車のトランクの中には食料や寝袋、あとウィスキーを中心としたお酒等も入っている。
夜の川へ蛍を見に行こう。
言いだしっぺはKだった。何でも、彼は蛍のよく集まる場所を知っているらしい。
意外に感じる。
Kはオカルティストで、いつもならこれが『幽霊マンションに行こうぜ』 やら、『某自殺の名所に行こうぜ』となるのだけれど、
今回はマトモな提案だったからだ。
「蛍の光を見ながら酒でも飲もうぜ」とKは言った。
反対する理由は無い。でもそれだと車を運転する人が、つまりSが一人だけ飲めないことになる。
「お前だけジュースでも良いだろ?」と尋ねるKにSは、「お前が酒の代わりに川の水飲むならな」と返した。
だったら、不公平のないよう河原で一泊しようという話になった。キャンプ用品はSが実家から調達してくれた。

川の流れとは逆に上って行くにつれ川幅は徐々に狭くなり、
角の取れた小さく丸い石よりも、ごつごつした大きな岩が目立つようになってきた。
D字状に旧道と新道が別れているところに差しかかる。
山沿いに大きくカーブを描いている旧道に対して、新道の橋はまっすぐショートカットしている。
車は旧道の方へと入って行った。

川を跨ぐ歩行者用の吊り橋のそばに車を停める。吊り橋の横には河原へと降りる道があった。
僕とSの二人で手分けして荷物を河原まで下ろす。その荷物の中には、車酔いでダウンしたKという大荷物も含まれていた。
川はさらさらと音を立てて流れている。川幅は十四,五メートルといったところだろうか。
対岸はコンクリートの壁になっており、その上を県道が走っている。
時間が経ち、陽の光が弱くなるにつれ、透き通っていたはずの緑は段々と墨を垂らしたように黒くなってゆく。
蛍の姿はなかった。出て来るのは完全に暗くなってからだと、ようやく回復したらしいKが言う。
「雲も出てるし、風邪もねえし、絶好の蛍日和じゃん」
蛍は、自分達以外の光を嫌うものらしい。それがたとえ僅かな月明かりでも。
「Kって蛍に詳しいん?」
「蛍だけじゃねえよ。俺は昆虫博士だからな。なにせヤツらは、そもそもは地球外から降って来た宇宙生物って噂だし」
ああなるほど、と僕は思う。

そんなこんながあってから、三人でテントを張った。
河原では地面にペグが打ちこめないため、テントを支えるロープを木や岩などに結び付ける。
五〜六人の家族用のテントなので、中は結構広い。
そのうちKが、小型ガスボンベに調理用バーナーを取り付けて鍋を置き、湯を沸かし始めた。
テントを張る時の手際を見た時も思ったけれど、Kは意外とアウトドア派なのだろうか。
Sに尋ねてみると、「……おかげでガキの頃は色々連れ回された」と嘆いてから、「いや、今もだな」と付け加えた。
それからKは、大きな石を移動させて大雑把な囲いを作ると、周りの木々を集めて組み立て、たき火を起こした。
僕も手伝おうと薪を拾ってくると、「そりゃ生木だお前。煙が出るだけだぞ」と笑われた。

1622なつのさんシリーズ「蛍」2:2014/06/16(月) 22:45:30 ID:mn6OmNt.0
夕食が完成した頃には陽はだいぶ落ちて、辺りはオレンジ一色だった。
夕食は、ぶつ切りにしたキャベツやニンジンや玉ねぎやナルトや魚肉ソーセージを一緒くたに放りこんだ、
ぞんざいなインスタントラーメン。
でも見た目はアレでも味は中々で、鍋はすぐに空になった。
ラーメンが無くなると、紙コップにウィスキーを注いで、三人で乾杯した。
残ったキャベツやソーセージをつまみに。Sは何もなしで飲んでいた。
たき火の火に誘われてか、小さな虫たちがテントの周りに集まって来ていた。
蠅を一回りでかくしたような虫に、腕や足などを何箇所か噛まれて痒い。
「テジロちゃんだな」とKが言った。
何でも、捕まえてよく見ると、前足の先が白いんだそうだ。だから手白。
「よっしゃ、捕まえてみるか?」
「……蠅を見に来たわけじゃないでしょうが」
「そりゃそうか」
僕らは蛍を見に来たのだ。
「まだ出てこないね」
時刻は午後八時を回っていた。辺りはもう十分暗い。
「そろそろだろーな」
そう言うとKは立ち上がり、空の鍋に川の水を汲んできて、たき火の上にそれをかけた。
火が消え、辺りは目に見えて暗くなる。雲が出ていて月明かりもない。
辛うじて、テントの入口あたりに置いておいたガスランタンの小さな光だけが、視界を奪わないでくれていた。
暗闇の中、僕らはしばらく何も喋らず、黙ってウィスキーを胃袋に放りこんでいた。

「……そう言えば、お前らには話してなかったっけか」
沈黙を破ったのはKだった。
「この辺りじゃあな、数年に一度、丁度これくらいの時期に、蛍が大量発生するんだとよ」
興味を引かれた僕は、「へえ」と相槌を打つ。
「数年置きとかじゃなくて、本当にランダムなんだそうだ。研究者の間でも確かな原因は分かってない。
 ……でもな、この辺りじゃ、密かに噂されてる話があってな」
Kの表情は分からない。輪郭は辛うじて分かるけれど、この明かりでは互いの表情までは見えなかった。
「この川な。下流はそうでもないが、中流辺りだと突然深くなる場所とか、渦を巻いてる箇所とかあってだ。
 けっこう溺れて死ぬ奴がいるんだわ。近隣の小学生とか特にな。
 もちろん、そういう場所は遊泳禁止には指定はされてるんだが、……ま、子供の好奇心にゃ勝てんわな」
僕はふと、自分のコップが空になっていることに気付いた。ウィスキーのビンを探したけど、見えない。
「まあ、そうは言っても、数年に一人か二人だけどよ。
 でも、重なるらしいんだよな。水死者が出た年、蛍が大量発生する年。
 ……ああ、わりいわりい。ウィスキー俺が持ってるわ」
Kが僕の方にビンを差しだし、僕はKに紙コップを差しだす。
タタ、と音がして、辛うじて白と分かるコップに、何色か分からない液体が注がれた。
「……今年は、その、溺れた子がいるん?」
一口飲んで、焼けるような喉の刺激が去ってから、僕は尋ねる。
Kは「うはは」と笑って、「そんなこたぁ、俺はシラネー。ここには蛍を見に来ただけだからな」と言った。
「んでだ。その話には、もう一つ不思議なことがあってな」
Kが続ける。
「日本で見かける蛍ってのはさ、ゲンジボタルかヘイケボタル、大体この二種類でな。
 ゲンジボタルの成虫が出るのは、五月から六月、遅くて七月上旬にかけてだから。
 そうすると、八月のこの時期に出るのは、ほぼ年がら年中見られるヘイケボタルってことになる」
Kは本当に昆虫に詳しいらしい。
こういう風に、なるほどと思える話をKから説明されることは珍しいので、何だか違和感を覚える。
いつもならそういう解説はSの役目なのだけれど、彼はさっきからつまみも挟まず静かに飲んでいる。
「でもヘイケボタルってのは、集団発生はしねーんだよ。
 年がら年中見れるってこたぁ、成虫になる時期が同時でないってことだ。
 逆に、皆そろって成虫になるのは、ゲンジボタルの方なんだけどよ。
 でも、ゲンジはこの時期にゃあ交尾終えて死んでるし」
酔った頭でも何となく理解出来た。
つまり、Kはこう言いたいのだ。

1632なつのさんシリーズ「蛍」3:2014/06/16(月) 22:46:03 ID:mn6OmNt.0
「……つまり、大量発生するその光は、ホタルじゃないかもしれない、ってこと?」
「おうおうおう!何だ、察しがいいじゃねーか。……
 ま、普通に異常発生したヘイケボタルっつう可能性の方が高ぇだろうけどよ」
「蛍じゃなかったら、なんなのさ」
「シラネーよ。見たことねえし。でもまあ強いていやぁ、そうだな。……鬼火とか、人魂とか、怪火の類?」
「……今年も見れると思ってるんじゃない?」
「シラネーシラネー」
そう言ってKは「うはは」と笑った。
またオカルト絡みか。今日はただ蛍を見に来ただけだと思っていたのに。
蓋を開けてみれば、やっぱりKはKだったということなのだろうか。
その時、今までずっと沈黙を守っていたSが、ふと口を開いた。
「出てきたぞ」
その言葉に、僕はハッとして川の方を見やった。
何も見えない。じっと目を凝らす。
ちらと、青い火の粉のような何かが視界の隅に映った。それを区切りに、河原に無数の青白い光が浮かび上がる。
突然、辺りがさらに暗くなった。KかSのどちらかが、テント前のガスランタンの光を消したからだろう。
おかげで目の前の光がよりはっきりと見えるようになった。
光は明滅していた。それも飛び交う全ての光が同じタイミングで消えては光る。
それはまるで、無数の光全体が一つの生き物のように思えた。
時間の経過とともに、光は更に数を増していった。河原を覆い尽くすかのように、僕らの周りにも。
思考も感覚もどこかへ行ってしまい、目だけがその光を追っていた。
度の強いウィスキーのせいで幻覚を見ているんじゃないかと疑う。それほど幻想的な光景だった。
雲に隠れた星がここまで降りてきたかのような、そんな錯覚さえ抱く。
「もの思へば、沢の蛍もわが身より、あくがれ出づる、魂かとぞ見る……」
ふと、我に返る。Sの声だった。
「……何それ?」と僕が訊くと、「和泉式部」とSは言った。
「誰それ」とさらに尋ねると、溜息が返って来た。
「お前、文系だろうが」

それから数時間もの間。僕らはただ、目の前の星空を眺め続けた。飽きるという言葉すら浮かばなかった。
時間はあっという間に過ぎた。
その内に少しずつ数が減ってきて、時刻が夜十時を過ぎた頃、光は完全に沈黙した。
Kがいったん消した焚き火を組み直し、火をつける。
つい先ほど見ていた光とはまた別の火の光。ぱちぱちと薪が燃えて弾ける音がする。
「昔の人は、人間に魂があるとすれば、それは火の光や蛍の光のようなものだと考えたんだが……。
 今のを見れば、まあ分からなくもないな」
手の中で空の紙コップを弄びながら、Sがぽつりと言った。
あの数は大量発生と言えるのだろうか。だとすれば、今年も誰かが川で溺れて亡くなったのだろうか。
感動と共に、僅かな疑問が頭をよぎる。
「……あ、そう言えばKって、虫取り網持ってきてたよね。使わんかったん?」と僕はKに尋ねる。
おそらくは、あの光が人魂か虫かを確かめるためには、捕まえるのが一番手っ取り早いということで持ってきたのだろう。
「ああ、忘れてたな……。ま、いいや。ありゃ人魂とかじゃねえよ。蛍だ。集団同期明滅してたし」
蛍だった、とKは言いきった。
「ああ、あの同時に消えたり光ったりしてたやつ?」
「そ。ありゃ蛍の習性だからな。ああやって、同時に光ることで雄と雌を見分けてんだよ」
「ふーん」
「……あーあ、でも俺ぁてっきり、今までに死んだ水死者の魂が、飛び交ってんだと思ってたんだけどなあ」
ただ、そういうKの顔に落胆の色はなかった。あれだけのものを見たのだ。満足しない方がおかしい。
僕たちはそれから焚き火を囲んで少し話をして、三人でウィスキーを二本ともう半分開けてから、寝ることにした。
興奮はしてたものの相当酔っていたので、熱帯夜にもかかわらず、すぐに眠りにつくことが出来た。

1642なつのさんシリーズ「蛍」4:2014/06/16(月) 22:46:51 ID:mn6OmNt.0
次の日の朝。起きると、テントの中に残っているのは僕が最後だった。
外に出ると、Sは河原の石に座って釣りを、Kは底が硝子になっているバケツを川に浮かべ、網を持って何かを探していた。
その日は、すっきりと雲ひとつない天気だった。
川の水で顔を洗ってから、釣りをしているSの元へと行ってみた。
「釣竿なんか持ってきてたっけ?」と僕が尋ねると、「昨日、そこの茂みで拾った」と言う。
じゃあ餌は何を使っているのかと聞けば、昨日の内にテジロちゃんを捕まえておいたので、それを使っているらしい。
見せてもらうと、テジロは本当に手の先が白かった。
ちなみにSはこの後、立派な岩魚を二匹釣るという快挙を成し遂げた。
塩焼きにして昼飯になったのだけれど、すごくおいしかった。
Kの元へ行くと、彼はゴリという名の小魚を捕まえようとしているらしい。
ちなみに彼はこの後ゴリを十匹ほど捕まえ、それは昼飯の味噌汁の具になるのだけど、
ゴリは骨ばっててとても不味かった。

二人共元気なことだ。などと思いながら、僕は河原を行ける所まで散歩していた。
その時、ふと足元に黒い昆虫の死骸が落ちていることに気がついた。
十字の模様がついた赤い兜に、黒い甲冑。拾い上げてみると、それは一匹の蛍の死骸だった。
そのまま持ち帰ってKに見せてみた。
「おう。蛍だな」
ちらりと見やりそれだけ言うと、Kはまた腰をかがめて水中に意識を戻した、かと思うと、
がばと起き上がり僕の腕を掴み、もう一度その蛍の死骸を見やった。
「ゲンジボタルじゃん……」とKは呟いた。
「ゲンジボタルなん、これ?」
「ああ、頭のところに十字の模様があるだろ。てっきりヘイケボタルかと思ってたけど。
 ……でも、何でこんな時期に出て来てんだコイツ。一,二月くらいおせぇのに」
僕はもう一度、自分の手の中のゲンジボタルの死骸を見つめた。
Kは「おっかしいな〜」などと言いつつ、ズボンから携帯を取り出すと、何かを調べ始めた。
おそらくインターネットで、ゲンジボタルの生態でも確認しているのだろう。

1652なつのさんシリーズ「蛍」5:2014/06/16(月) 22:47:57 ID:mn6OmNt.0
「……あ?」
しばらくして、Kが妙な声を上げた。携帯の画面をじっと見つめている。
「……どしたん?八月でも出ますよってあった?」
「いや、そうじゃねえけど。いや、これは俺も知らんかったわ」
「だから何が」
Kは開いた携帯の画面を僕に見せながら言った。
「ゲンジボタルの学名だ。……『Luciola cruciata』 ラテン語で、『光る十字架』だとよ」
頭部の辺りに見える黒い十字が見えるけれど、これが十字架なのだろうか。
「……何を祝福してんのか知らんけど、溺れた奴が全員キリスト教でもねえだろうにな」
そう言ってKは「はは」と小さく笑った。
光る十字架。
僕は昨夜の光を思い出す。
ゲンジボタルが光る時期より一,二ヶ月遅れたこの季節は、子供たちが川で遊ぶ季節だ。
そうして人が溺れて死んだ年だけ、光る十字架たちは飛び回る。
全くの無関係なのだろうか、それとも。
ふと、昨夜Sが口ずさんだ歌を思い出す。
あの後、Sにあれはどういう意味かと訊くと、彼は面倒臭そうにこう言った。
『恋心に沈む自分の魂を、蛍にたとえた歌だ』
昔から、人は人間の魂を蛍の光に例える。
僕は首を振った。僕には何も分からない。

昼食が終わった後、僕らはテントを片付けて荷物を車に運び込んだ。
出発する前にKが「ちょっと待ってくれ」と言い、半分残ったウィスキーの瓶を持って、吊り橋の上へと向かった。
何をするのかと見ていると、Kは橋の上からウィスキーの瓶をひっくり返し、残っていた液体を全て川へと振りかけていた。
「よ、待たせたな」
戻って来たKに、何をしていたのか尋ねようかとも思ったけれど、止めておいた。
Kは何も言わなかった。だったら、こっちから聞く必要もないだろう。

車のエンジンがかかり、僕らは川を後にする。
「いやぁ、でも、良いもの見たしね。楽しかった」
走り始めた車内で、僕は本心を言った。
「そうだな」と珍しくSも肯定してくれたので、「また機会があれば、行こうよ」と二人に提案してみる。
「おう、そうか。だったら、次は山だな」とKが言う。
「かなり遠いけどな。昔人喰いクマが出て有名になった山があってな」
いやそれはちょっと勘弁してくれ、と僕は思った。

終わり

1662なつのさんシリーズ「異界」1:2014/06/16(月) 23:29:45 ID:mn6OmNt.0
大学もバイトも、何もイベントのない日。昼寝から起きると、時刻は午後五時になろうとしていた。
携帯を見ると、一通のメールが届いている。知り合いからだ。
その人とは、大学一年の時にボランティアを通じて知り合った。メールもボランティアメンバー全員に宛てたものだった。
メールの内容は、『○○公園のソメイヨシノが開花したよ』 というちょっとしたお知らせ。
大きく拡大した桜の花びらの写真も添えてある。
四月四日のことだった。
僕の家の近くには、桜の名所として全国的にもそれなりに有名な公園がある。
標高二百メートルくらいの小さな山の山頂にある公園で、
山には桜並木の他に、広いグラウンド、美術館、寺、展望台、また山頂に繋がるロープウェイもあり、
地元の人はそれら全てをひっくるめて○○公園と呼んでいた。
休日となると観光客も訪れ、春には花見客が地面に敷くブルーシートで公園中が青くなる。そんなにぎやかな場所だった。
夕食の食材を買いに行くついでに桜を見に行こう。そう思い立った僕は、簡単に身支度を済ませて原付に跨った。

山に沿って建てられた住宅街からカーブの多い山道を上り、○○公園へ。
いつもは子供たちが野球の練習をしている公園敷地内のグラウンドの端に、原付を停めた。
風はなく、上着は必要なさそうだ。
僕は公園全体をぐるりと一周するつもりで歩きだした。散歩コースとしても、この公園は中々良い。
事実、平日の夕方にも関わらず、何人か犬を連れて散歩する人や、ジョギングをしている人とすれ違った。
道の脇に植えられた桜は、見たところ二分咲きほど。開花したと言ってもまだ蕾の方が多い。
それでも、人はいないが屋台のテントを三つほど見かけたり、
大学生らしき若者たちが数人、ベンチのある広場に集まってお酒を飲みながら騒いでいたりと、
花見シーズンがもうそこまで来ているのだと感じさせる。
僕はだらだらと歩き、立ち止まっては桜を見上げ、また歩く。
桜並木から少し離れ、右手にグラウンドが見える坂を下る。

左手に、今はもう誰も住んでいないだろう廃屋の横を通り過ぎた時だった。
廃屋の向こう側に道がある。立て札があり、『○○墓地入口』 と書かれている。
この辺りに墓地があることは知っていた。けれど、その墓地へと続く道の脇にはもう一つ道があった。
おや、と思う。知らない道だ。
ちょっと覗いてみる。林の中へ分け入る道。
舗装はされておらず、折れた木の枝などが所々に落ちていて、頻繁に人が使っているわけではなさそうだ。
人とすれ違うのにも骨が要りそうなほど細い道が蛇行しながら、こちらから見れば下向きに伸びている。
どこに繋がっているのかは分からなかった。
どうせ暇だから来たんだしと思い、僕はその道を下りてみることにした。
知らない道を行くのは、何だか冒険をしているようでワクワクする。

顔面に蜘蛛の巣の特攻を受けながら少し進むと、木々の隙間、眼下に、僕が原付で上って来た側の住宅地が見えた。
帰りがけに寄ろうと思っていたデパートの看板も見える。
あの辺りに出るのかと思いながら、もう少し歩を進める。
すると、前方に分かれ道があった。下っている右の道と、若干上りになっている左の道。
どちらかと言えば右の方がちゃんとした道に見えたので、僕は右の下りる道を選んだ。
思った通り、その道はデパート近くの住宅地に出た。
傍らにはお坊さんを彫ってある大きな岩があって、
その横の朽ちかけた立て札は、『思索の道。この先○○寺』 と辛うじて読める。

1672なつのさんシリーズ「異界」2:2014/06/16(月) 23:31:04 ID:mn6OmNt.0
来た道を逆に、分かれ道まで戻る。
さて、どうしようか。結局、僕は来た道は選ばず、まだ行ってない方の道へと進むことにした。
小さな山だ。きっとどこか知った道に合流するだろうと、そう思っていた。
この時、僕はまだ好奇心に支配されていた。

それから少し歩くと、道のすぐ傍らに一匹の痩せた犬が横たわっていた。
歩を止める。
ぴくりとも動かない。しばらく見やって、死んでいるのだと知った。
小バエが数匹、辺りを飛び回っていた。毛並みは茶色。
腐敗はそこまで進んでいないようだったが、耳の根元が黒ずんでおり、眼球がなくなっていているのが分かった。
そこからハエが体内に出たり入ったりしている。
どうしてこんなところで死んでいるのだろう。
野良犬自体なら、この公園近辺には多くいる。観光客がくれる餌を求めてやって来ているのだ。
けれど、目の前で横たわる犬は首輪をしているように見えた。
そのまま犬の傍を通り過ぎ前へと進むか、そうでなければこのまま引き返して来た道を戻るか。
僕は選ばなければならなかった。
少しばかり迷う。
そうしてから、僕はゆっくりと足を前に踏み出した。
正直、死骸は怖かった。いや、怖いというよりは、ただの毛嫌いだったのかもしれない。
ドラマなどで見る安っぽい死ではなく、目の前の犬の肉体は限りなくリアルだった。
そうして、だからこそ、気持ち悪いから逃げ帰るなんて失礼だと思った。
死骸の様子を間近で見る。途端に一つ心臓が跳ねた。
首輪だと思っていたものは傷口だった。
喉元がばっくり開いていて、そこから染み出した血が黒く固まり、首輪のように見えたのだ。
犬同士の喧嘩の末にこうなったのだろうか。
しかし、傷口は噛み痕には見えず、何か刃物で切られたようにまっすぐ喉を裂いていた。
注視したせいか吐き気を覚える。やっぱり引き返した方が良かっただろうか。
白い歯が覗く半開きの口は、僕に何かを訴えているようにも見え、
頭が勝手に、目の前の死骸がいきなり喋り出す様を想像した。
ただの穴となった眼窩から蠅が飛び出して、僕の胸にとまる。不安と一緒に払いのけて、犬に向かって手を合わせた。
そうして僕は犬の死骸を背に、その先へと進んだ。
先程も書いたが、僕はこの道は、
どこか住宅地から寺や公園へ上がるいくつかの道のどれかに合流するんだと、勝手に思いこんでいた。

犬の死骸のあった場所からもう少し進むと、足元に道は無くなり、閑散と木の生えた場所に出た。
見たところ、行き止まりのようだった。
目の前の木の枝に、キャップ帽とトレーナーが一着引っかかっていた。二つとも色が落ちくすんでいる。
その木の根元には、蓋の取っ手が取れたやかんがあった。
やかんの向こうには、トタン板と木材が妙な具合に重なり合って置かれていて、
傍にコンクリートブロックで出来た竈のようなものがある。火を起こした跡もあった。
その他にも、辺りには金色の鍋や、茶色い水の溜まったペットボトル、ボロボロの布切れ、重ねて置いてある食器類、
何故か鳥籠もあった。中には鳥ではなく、白い棒きれのようなものが何本か入っていた。
一瞬それが骨に見えて、ギョッとする。でも鳥の骨にしては大きい。だったら骨じゃない。
けれどもじゃあ何なのかと問われると、僕には答えられなかった。
いずれにせよ、それらは確かにこの場所で人が暮らしていたという痕跡だった。
崩れたトタン板や木材は家の名残だろうか。
そこにある品々の古さや具合から、今もここに人が寝泊まりしているとは考えにくかったが、
林の中で忽然と漂ってきた生活臭は、あまり気持ちの良いものではなかった。
すでに冒険心は小さくしぼんで、代わりに不安という風船が大きく膨らんできていた。
ホームレスだろうか。

1682なつのさんシリーズ「異界」3:2014/06/16(月) 23:31:39 ID:mn6OmNt.0
つい先程見た犬の死骸を思い出す。関連があるとは思いたくないが。
いずれにせよ、こんなところでこんなところの住人と対面するのは極力遠慮したかった。
ただそうは言っても、来た道を引き返し、またあの犬の死骸の脇を通るというのも気が進まない。
辺りは徐々に暗くなり始めていた。時刻は午後の六時を過ぎている。
他に道はないかと、僕は周囲を見回した。
すると、行き止まりかと思っていた箇所に、辛うじてそれと分かる上へと続く道があった。
戻るか進むか天秤にかける。僕は迷っていた。
この道が本当にどこか知っている道に合流している、という自信は霞みかけていたし、
犬の死骸を踏み越えても元来た道を戻るのが正解に思えた。
その時だった。
気配を感じる。微かに枝を踏む音。僕がやって来た方の道から聞こえた。誰かがこちらへやって来る。
新たな重りが加わり天秤が傾く。僕は咄嗟に新しく見つけた道へと進んでいた。
僕のような好奇心でやって来た者か。もしくはここに住むホームレスか。どっちにせよ、遭遇はしたくない。

急な道だった。
道の途中にはもう数ヶ所、人の寝床と思しき箇所があった。
それは大きく突き出た岩の下に造ってあったり、小型車程の大きさの廃材を使ったあばら家だったり、
ある程度密集したそれらは、まるで集落のように見えた。
上って行くにつれて道は霧散し、もうケモノ道とも呼べないただの斜面になっていた。
それでもしばらく上ると、たたみ二畳ほどの広さで地面が水平になっている場所に出た。
そこにも人の生活の気配がうかがえた。
灰の詰まった一斗缶。黒い液体が溜まった鍋。木の根もとに並べられたビールの缶。枝に吊るされたビニール傘。
先の欠けた包丁。そして小さなテント。
僕は足を止めてそのテントを見やった。異様だったからだ。
三脚のように木材を三本縦に組み合わせて縛り、その周りをブルーシートで覆っている。
高さは僕のみぞおち辺りで、人が入れる大きさではなかった。
一体、何のためのテントなのか。テントの周りにはハエが飛んでいた。
虫の羽音。
そして、羽音とはまた別の音が聞こえる。
タ。
タ。
タ。
それは、閉め忘れた蛇口から落ちた水滴が、シンクを叩く音に似ていた。
地面と僅かにできた数センチの隙間。覗くと、銀色をした何かがテントの中に置かれていた。
鍋のようだった。おそらく鍋は受け皿で、あの中に水滴が落ちている。
ハエが飛ぶ。僕の心臓がやけに早く動く。
異臭。
僅かに風向きが変わったのか。
生臭い匂いだった。以前にも嗅いだ事がある。確か小さな頃、目の前で交通事故が起こった時だ。
匂いの質は同じだけれど、あの時よりももっと酷い匂い。
鼓動が骨を伝わり、足が震えだした。
どこか遠くで犬の鳴き声がした。公園に住みつく野良犬だろうか。首を切られ、横たわって死んでいた犬を思い出す。
現在、テントの外に置いてある鍋の中には、なみなみと黒い液体。赤黒い液体。いや違う。血だ。血の匂い。
タ。
タ。
タ。
水滴がシンクを叩く音。
僕は混乱していた。

1692なつのさんシリーズ「異界」4:2014/06/16(月) 23:32:12 ID:mn6OmNt.0
はやくこの場から去りたいのに、足が動かなかった。
それどころか、足が勝手に動き、自分の腕が青いテントに向かって伸びていた。
めくろうとしているのだ。中を見ようとしているのだ。
やめろ。
声は出ず、心の内で叫ぶも、僕は止まらなかった。
そうして僕は、ブルーシートをめくった。
臭気が這い出て来る。何匹かのハエが、僕の行動に驚いてかテントの傍を離れた。
息を飲んだ。
中には一匹の犬が逆さに吊られていた。喉元が裂かれていて、傷口から血が鍋の中へ滴り落ちている。黒犬だ。
舌が垂れ、見開いた目が地面を睨んでいた。
タ。
タ。
タ。
血が鍋の底を叩く音。
僕の手が驚くほど緩慢な動きでゆっくりとシートを元に戻した。
足も手も震えて、声にならない声が腹の奥から上がって来て、今にも叫びだしそうだった。懸命に自分を押さえる。
息が荒くなっていた。上手く呼吸が出来ない。
その場にしゃがみ、胸の辺りを掴み、目を瞑り、落ち着くまで待とうとした。
「何しゆうぞ」
人の声がした。
振り向くと、そこに人間がいた。
どうやら僕は自分のことに精いっぱいで、近づいて来る足音にも気付かなかったらしい。
男だった。赤いニット帽を被っている。革のバッグを背負い、黒いジャンパー、履いているのは青いジャージだ。
顔には無数のしわが刻まれていて、頬が少し垂れている。
年齢は良く分からなかったが、六十代の半分は過ぎているだろうか。
男は、ぐっと腰を曲げて、しわの延長線上のような細い瞼の奥にある光の無い目で、僕のことを見つめていた。
僕は何も反応ができなかった。
男はそれから青いテントに目を移した。
「……ああ、ああ、見たんか。兄ちゃん。そうか」
ぼそりぼそりとそう言って、それから低く笑った。
「見えんようにと、被せたんにのう」
その時の僕は、今しがた見てしまったモノに対するショックと、突然現れたこの人物に対する驚きで、
身体も精神も固まっていた。
どうやら人間は、許容量を遥かに超える負荷をかけられると、肝心な部分がどこかへ行ってしまうらしい。
男はその手に犬を抱いていた。死んでいる。僕が先程見た眼球のない犬だ。
僕は夢でも見ているようなぼんやりとした心持ちで、その光景を眺めていた。
「ああ、こいつか?こいつぁ、おれの犬だな」
男は僕の視線に気がついたのか、そう言った。
「こいつぁな、野村のヤツが殺した。おれが留守にしとる間に。……そうにきまっとる。
 犬嫌いやけぇあいつは……、俺の犬や言うとろうが。俺が骨もやっとったし、紐もつけとる。やのに、野村のヤツが……」
ぶつぶつと誰もいない茂みへ忌々しげに吐き捨てると、男はもう一度僕の目を覗きこみ、こう続けた。
「兄ちゃん。勘違いしたらいかん。……こいつは食わんぞ?俺の犬やきの」
男は歯がだいぶ欠けていた。
僕の中の糸が切れた。いや、繋がったのかもしれない。
僕は起き上がり、その場から逃げた。
どう逃げたのかは覚えていない。ただやみくもに斜面を上ったような気がする。
途中、転んだかもしれない。悲鳴を上げたかもしれない。何も覚えてない。

1702なつのさんシリーズ「異界」5:2014/06/16(月) 23:32:46 ID:mn6OmNt.0
気付けば、僕は見知った道の上に立っていた。道の向こうに原付を止めたグラウンドが見える。
傍らに見覚えのある、墓場へ誘導する立て札。
立て札の脇には、僕が好奇心をくすぐられて入ったあの細い道の入り口があった。
いつの間にか僕は入口に戻ってきていたのだ。
息が切れていた。近頃運動らしい運動もしていなかったからか、身体のあちこちが痛かった。
見ると、気付かないうちに手の甲に怪我までしていた。
しばらくの間、僕はその場に立ち尽くしていた。
張りつめていた緊張感が爆発したツケか、頭の中で余熱が暴れ回っていた。
これが冷めない限り、正常な思考は出来そうもない。
目を瞑ると、先程見た様々な光景がフラッシュバックした。
時間はどれくらい経っただろう。陽はもう西の山の向こうに沈んでいた。
僕は歩きだした。

グラウンドの傍にある自販機で350ミリリットルのお茶を買うと、一気に飲んだ。
火照った身体と頭が、それで少し冷えた気がした。
遠くの方で誰かが笑っている。
この公園にやって来た当初にも見た若者たちが、未だ桜の要らない花見を続けているのだろう。
腹の中の全てを絞り出すように大きく息を吐く。
もう少し日にちが経てば、満開の桜の下、公園はたくさんの花見客でにぎわうことになる。
それは毎年繰り返される当たり前の光景だ。
けれども、そんなにぎやかな場所から林のカーテンを一つ隔てた先には、全く別の世界がある。
僕は今日、それを知ってしまった。
思う。
あの男はホームレスだろう。
そして、テントの中で吊るされていたあの犬は食料だ。最後に聞いた男の言葉がそれを物語っていた。
頸動脈を切られ、吊るされて、血抜きをされていたのだ。
犬を食べる。
聞いたことはあった。タイや韓国などアジアを中心とした国では、市場の店先に普通に犬の肉が置かれていることもあると。
捌き方や調理法さえ知っていれば、日本の犬だって食べれないことはないだろう。
ましてや調達の手間を考えても、観光客から餌をもらうのに慣れた犬など捕獲し殺すのは簡単だ。
野良犬ならば、動物愛護団体にでも見つからない限り、法的に罰せられることもない。
別にあのホームレスが何かをしたわけではない。

1712なつのさんシリーズ「異界」6:2014/06/16(月) 23:33:50 ID:mn6OmNt.0
魚を釣って料理していたのと同じだ。生きるために他の動物を食べることを止める権利など、誰も持っていない。
ふと、目の前を犬を連れた女の人が通り過ぎた。散歩が終わり、愛犬と自宅に戻るのだろう。
首輪に繋がれた小さな犬が、僕に向かって一つ吠えた。血の匂いでも嗅ぎ取ったのか。
犬だけを特別扱いする理由はない。その理屈は分かる。
でもやはり、もやもやとした何かは残った。嫌悪感と言っても良い。僕でなくても大抵の人はそうだろう。
僕の家では犬は飼ってはいなかったけれど、祖母の家が飼っていた。可愛い犬だった。
あの男だってそうだ。男は『自分の犬は食わない』とそう言ったのだ。
ペットとして飼っていたのだろうか。餌はどうしていたのだろう。
鳥籠の中にあった骨を思い出した。自分が食べた後の犬の骨。そこまで考えて、止めた。
人に飼われる犬。人に喰われる犬。犬を喰う人。犬を飼う人。
遠いようで、それらを隔てる壁は案外薄いのかもしれない。
少なくともこの場では、その隔たりは閑散とした林だけだった。
それとも、二つは完全に分かれていて、僕が迷い込んだことがただの例外だったのだろうか。
異界。
そんな言葉が思い浮かんだ。大げさだと自分でも思う。
僕は首を振って、重い腰を上げた。帰ろう。そう思った。
これから何をしようという気はなかった。夕飯の買い物に行く気にもならなかった。
公園に野良犬が多いと保健所に苦情を言う気も、ホームレスをどうにかしてくれと役所に頼む気も。
声が聞こえる。もう暗いのに、若者たちはまだ騒ぎ足りないようだった。
原付に跨り、エンジンをかける。
それでも、今年はここでの花見には来れそうもない。
走り出す直前に、ふと犬のなきごえが聞こえた気がした。
けれどもエンジン音のせいで、それが本物かどうかは僕には分からなかった。

終わり

172くらげシリーズ「五つ角」1:2014/06/26(木) 16:18:53 ID:TrdgkZJA0
梅雨時になると、たまに思い出すことがある。今から十年程前の話だ。当時、私は中学一年生だった。

四方を山に囲まれた盆地に、私の住んでいた街はあった。
といっても標高はそれほど高くもなく、南側の山一つ越えれば太平洋を見ることができる。
コンクリートで固められた一本の川が街を南北に等分していて、その北側の住宅街に私と家族の家はあった。
対して南側の住宅街。その片隅に『五つ角』と呼ばれる場所があった。
そこは、一見すれば単なる十字路である。
では何故四つ角ではなく五つ角なのかというと、
二本の道が交錯する丁度中心に一メートル程の大きなマンホールがあり、それが五つ目の角だというのだ。
五つ角という名は正式な名称では無い。誰が名付けたのかは知らないが、もちろんそう呼ばれるには理由があった。
『雨の日の夕刻、五つ角のマンホールに近づいてはいけない』
街では有名な都市伝説だった。
何でも、男の幽霊が手招きしていて、
近づいてきた者をマンホールの中、つまり五つ目の角の奥へと引きずり込むのだそうだ。
世の都市伝説に洩れず、えらく恐ろしげでたっぷり胡散臭く、それでいていたく子供心をくすぐる噂話だった。

私と同じクラスに『くらげ』というあだ名の人物がいた。
私がオカルトに興味を持つきっかけになったのが、彼だと言ってもいい。
彼はいわゆる、『自称、見えるヒト』だった。
何でも幼少の頃、自宅の風呂に何匹ものくらげがプカプカ浮いているのを見たその日から、
彼は常人では決して見ることのできないモノを見るようになったのだとか。
当然、最初はなんじゃそりゃと思っていたが、彼と一緒に居るうちに、私はその話を信じるようになっていった。
「僕は病気だからだね」と彼はよく言っていた。病気という言葉には何かしらの説得力があった。
ちなみに、私は当時、どちらかというと科学っコだったのだが、だからこそ彼の存在は面白かった。

「五つ角の幽霊の真相を暴きに行かないか?」
六月半ばを過ぎた、ある雨の日のことだった。
HRが終わり下校の時間。私は帰ろうとしていたくらげにそう切り出した。ちなみに、二人共帰宅部だった。
くらげは私を見て、窓の向こうの雨空を見て、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
彼はあまり積極的なノリのいいタイプでは無かった。普段も一人ぼんやりしていることが多く、表情も乏しい。
その点でも、海に漂うくらげのような人物だった。
「いいよ。って言うまで、帰らしてくれないんでしょ」
外を見つめたまま彼は言った。
私は肯定の意味でにっと笑って見せた。
くらげとは小学六年からの付き合いだが、お互いのことはもう大体分かっている。

一端荷物を置きに自宅に帰り、制服のまま傘だけ持って家を出た。
集合場所は、街を北と南を分ける仏と名のつく川に架かった、地蔵と名のつく赤い橋。
くらげは南側の山の方に住んでいた。
五つ角も南の住宅街にあるのだから、くらげが橋まで来る必要はなかったのだが、
私たちが一緒に行動する時、待ち合わせはいつもここだった。
私が行くと、くらげは先に橋で待っていた。彼は私服に着替えていた。
連日の雨で川の水は茶色く濁り増水していた。
「くらげは、五つ角の幽霊、見たことあったりする?」
「あるけど」
私が尋ねると、くらげは平然と答えた。
彼が見たことがあるということは、少なくともガセではなく、男の霊は存在するということだ。
私たちは並んで、目的の五つ角に向かって歩きだしていた。
「どんなんだった?」
「人だった。手招きしてた」
「それは知ってる」と私が言うと、「後は分からないよ。近くで見たわけじゃないから」とのこと。
「それなら、普通の人間かも知れないじゃないか」
疑問を口にすると、くらげは『それは違う』と首を横に振った。
「水死体って、見たことある?」
今度は私が首を横に振る番だった。実際に見たことは無いが、水難事故で死んだ人間がどうなるか、その知識はあった。
「そんな感じだった」
くらげはそう言った後、軽く欠伸をした。
私はぶくぶくに膨れた人間が手招きしている姿を想像して、唾を呑みこんだ。

173くらげシリーズ「五つ角」2:2014/06/26(木) 16:19:48 ID:TrdgkZJA0
五つ角は、南地区の簡素な住宅街の外れにあった。
車一台がやっと通れるほどの細い道で、周りの塀が異様に高く、こちらに倒れて来そうな圧迫感があった。
前方数メートル先に、四方に伸びる曲がり角と、マンホールのふたがあった。時刻は四時半頃だっただろうか。
私の見たところ、マンホールの付近には誰も居なかった。
「……夕刻って何時だろうな」
「日暮れ時じゃない?」
「今日は太陽出てないぞ」
「じゃあ暗くなったらだよ。きっと」
地面は水浸しで座ることも出来ないので、私たちは立ったまま五つ角の幽霊の出現を待った。

くらげと一緒に居ると、私も時々妙なモノを見ることがあった。
それは薄っすら人の形をしていたり、浮遊する青白い光の筋だったりしたが、くらげにはもっとはっきり見えている様だった。
「この病気は感染するんだって」
くらげの説明によると、私は感染したらしい。
「治したかったら、僕に近づかないこと。そしたら自然に治るから」とも言った。
見てはいけないものを見る。背筋がぞくぞくするその体験は、非常に怖くもあり、芯から楽しくもあった。

くらげと他愛もない話をしながら、三十分程たった時だった。
急に雨脚が強まった。雲が厚くなったのか、辺りは少し暗くなっていた。ばたばたばた、と雨粒が音を立てて傘を揺する。
私は地蔵橋の下の水位を思い出した。
まだまだ大丈夫だろうが、早めに帰った方がいいかもしれない。そんなことをふと思う。
服の上からでも分かるひやりと冷たい手が、私の肩を掴んだ。
あまりの冷たさにびっくりしながら横を見ると、くらげが人差し指でゆっくりとある方向を指し示した。
つられるようにそちらを見やる。
軽く息を呑みこむ。
土砂降りのカーテンの向こうに何かが居た。
ピントのずれた映像のようにその姿はぼんやりとしていて、はっきりと見ることができない。
ただ、人だった。頭があり、二本ずつの手足がある。その右手と思われる部分が、ユラユラと上下に動いていた。
噂通りだ。
「手招きしてるね。……もっと近づいてみようか?」
くらげが私に尋ねた。
私はくらげを見返した。彼の表情はまるで読めない。
そろそろ門限だから。これ以上川が増水して橋が渡れなくなったら困るから。
もし噂の通りだとすれば危険だから。怖いから。
断る理由はいくらでもあった。
しかし、私は頷いた。
二人でそいつの方に近づいた。
一歩ごとに、今まではぼんやりとしていた輪郭が、少しずつではあるが鮮明になってくる。
やはり人間だった。ぶくぶくと太った人間。背が高い。正直、男か女かは分からなかった。手招きしている。
その手の届く三〜四歩前で私は止まった。横でくらげが何か呟いたが、雨の音で聞こえなかった。
くらげは止まらなかった。止める暇もなかった。彼はそいつの目の前まで歩み寄った。
雨の音が消えたような気がした。代わりに自分の心臓の音がやけにはっきり聞こえた。
マンホールがずるずると開いて、くらげが中に吸い込まれる。
一瞬そんな想像をしたが、重さ数十キロはあるだろう鉄製の蓋はピクリとも動かなかった。
何も起きなかった。
そんな中くらげは、自分の左手に持っていた傘をそいつの頭上に掲げた。傘をさしてあげているのだ。
途端にくらげは雨に打たれて水浸しになった。
しかし、そんなことはまるでお構いなしに、彼はそいつをじっと見つめていた。
それだけだった。後は何も起こらなかった。
「ああ。それはすみません」
唐突にくらげが言った。
そうして傘を自分の頭上にさし直すと、くるりと私の方に向き直った。
「帰ろう」
そう一言。
返事も待たずに彼は歩きだした。私の前を通り越してどんどん進んで行く。
「……おい待てよ」
はっとした私は、慌ててその背中を追いかけた。
その際、一度振り返ったが、そいつは跡かたもなく消えていて、あるのは雨にぬれるマンホールだけだった。
私たちは黙って歩いた。頭の芯が熱くて、心臓の音がまだ微かに聞こえていたが、しばらく歩くとそれらは収まった。

174くらげシリーズ「五つ角」3:2014/06/26(木) 16:21:04 ID:TrdgkZJA0
くらげは地蔵橋までついてきた。見送りのつもりなのだ。
心配していた水嵩も大して変わっていなかった。
私たちはいつもここで待ち合わせし、いつもここでさよならする。
私は橋の入り口で立ち止まった。くらげも同じように立ち止まったのを見て、私は口を開いた。
「……結局、うそっぱちだったな」
私の自己満足の言葉に、くらげは首を傾げた。
私は事前に調べていたのだ。
あのマンホールに落ちて死んだ人間は確かにいた。
それは、十年ほど前に下水の改修工事をしていた作業員だった。
突然の雨に流され、発見されたのは幾日か経った後、数キロ先の海だった。
それ以来、あのマンホールに落ちて死んだ者はいない。事故もない。
つまり噂の後半、『近寄ったら下水に引きずり込まれる』はデタラメなのだ。
だから近づけた。危険じゃないと知っていたから。
「で。あいつ、何て言ってたんだ?」
私はくらげに気になっていたことを聞いてみた。
すると彼は、胸の前でしっしとハエを払うような動作をした。
一瞬馬鹿にされているのかと思ったが、そうではなかった。
「『帰れ』 だと思うよ。口の動きだけだったから、分かりにくかったけど」
くらげは、あいつの口の動きをよく見るために傘をさしてあげたのだ。
そしてなるほど。手招きじゃなくて、あっちへ行け、か。
やはり、都市伝説なんてばからしいものだ。
可笑しくなった私が「ははは」と笑うと、彼が不思議そうにこちらを見た。
雨が少し弱くなっていた。空を見上げて、明日は晴れるといいなと思う。
「じゃあ、また明日な」
私がそう言うと、くらげは黙って頷き、背を向けて山の方へと歩きだした。
私はふと、彼の服が未だびしょ濡れなことに気がつく。
「おーいくらげ。風邪をひくなよ。シャワーだけじゃなくて風呂につかれよ」
くらげが振り返った。滅多に動かない彼の眉毛が、困った様に八の字になっている。
「……そうするよ」
しぶしぶと言った声だった。
「風呂は嫌いなんだけどなぁ……。あいつら、刺すからさ」
そう言い残して、彼はまた背を向け歩きだした。私も帰ることにした。
彼とは反対方向に歩きながら、体育の時間で見たあの発疹だらけの身体を思い出し、改めて思う。
やっぱり、変わったやつだよなぁ。
そして私はまた笑った。

175くらげシリーズ「死体を釣る男」1:2014/06/26(木) 16:22:26 ID:TrdgkZJA0
中学時代のある日のことだ。その日、私は朝から友人一人を誘って、海へと釣りに出かけた。
当時住んでいた街から山一つ越えると太平洋だったので、子供の頃は自転車で片道一時間半かけ良く遊びに行った。
小学生の頃はもっぱら泳ぐだけだったが、中学生になって釣りを覚えた。

待ち合わせ場所である街の中心に架かる地蔵橋に行くと、友人はすでに橋のたもとで待っていた。
彼はくらげ。もちろん、正真正銘あの海に浮かぶ刺胞動物というわけでは無いし、本名でもない。
くらげというのは彼につけられたあだ名だ。
私は中学の頃オカルトにはまっていたのだが、そのきっかけがくらげだった。
くらげは所謂『自称、見えるヒト』だ。
なんでも、自宅の風呂にくらげがプカプカ浮いてるのを見た日から、
彼は常人には決して見えないものが見えるようになったらしい。
「僕は病気だから」と彼はいつもそう言っていた。
しかし、くらげと一緒にそういう『いわく』 のある場所に行くと、たまに微かだが、私にも彼と同じモノが見える時があった。
くらげが言う病気は、他人に感染するのだ。
「わりぃ、待たせた。んじゃ行くか」
私が言うと、くらげは黙って自転車に跨った。
釣竿は持っていない。彼は釣りをやらないのだ。理由は聞いたことは無かった。
「見てるだけでも良いから来いよ」 と言ったのは私だ。
くらげを誘ったのにはわけがある。それは、これから行こうとしている場所には、とある妙な噂話があったからだ。
曰く、近くの漁村に、死体を釣る男が居るという。いわゆる都市伝説だ。
自転車での山道。私は意地で地面に足をつけずに砂利道を上った。
くらげは自転車を押しながら、後ろからゆっくりとついて来ていた。

峠を越えると突然、眼前眼下に青い海と空が広がる。
純白の雲が浮かぶ空はうららかに晴れていて、風は無い。辺りに潮の匂いがまぎれている。
上りで汗をかいた分、猛スピードで下り降り、向風で身体を冷やした。
小さな港から海に突き出ている防波堤。
近くの松林の脇に自転車を置き、私たちはコンクリートの一本道を、歩いて先端まで向かった。
防波堤は全長五〜六十メートルといったところだろうか。途中で、『く』 の字に折れている。
防波堤の行き止まりに到着した私は、その場に座って仕掛けを作り始めた。
波は穏やかで、耳を澄ませば、ちゃぷちゃぷと小波が防波堤を叩く音が聞こえる。
ふと隣を見やれば、くらげは防波堤の縁に座り、海の上に足を投げ出していた。ぼんやりと遠くの方を眺めている。
何を見てんだ。そう訊こうとして、やめた。きっと何も見てやしない。
「おーいくらげ。お前、死体を釣る男の話って、聞いたことあるか?」
くらげは海の方を見たまま首を傾げた。

176くらげシリーズ「死体を釣る男」2:2014/06/26(木) 16:23:41 ID:TrdgkZJA0
「……鯛を釣る男の話?」
「違う。死体を釣る男の話」
「ああ。死体……。うん、知ってるよ。ここの港にいたおじいさんのことでしょ」
私は舌打ちをした。知っていたのか。面白くない。
針の先に餌をつけ、撒き餌も撒かずにそのまま放り投げる。座ったまま適当に投げたので、あまり飛ばなかった。
赤い浮きが、すぐそこの海面に頭を出している。
死体を釣る男も防波堤の先端で、木製の釣り具箱をイス代わりに、日がな一日中釣り糸を垂らしていたという。
しかし釣りが下手だったのか、そもそも釣る気が無かったのか。噂では男はいつもボウズだった。
「みちさんっていう名前なんだけどね」
くらげが口を開き。私は彼を見やった。
「みちさん?あー、それが死体を釣る男の名前か」
「そう。昔、この辺りの親戚の家に預けられてたことがあって、その時みさちさんと仲良くなったんだ。
 色々話したよ。釣りも教えてもらった」
私は内心驚いた。知り合いかよ。でもそれはそれで面白い。
「僕がここに居たのは三ヶ月くらいだったけど、その間にも、一人釣ったよ」
潮の流れのせいか、ここの港や近辺の浜辺には多くの漂流物が流れ着く。
大体はただのゴミなのだが、中には沖で溺れて死んだ人が、潮流に乗って帰って来ることもある。
死体を釣る男ことみちさんは、どざえもんを何十人も釣りあげた。
人間が海で遭難して死亡した場合は、五体満足で帰ってくる方が稀だ。
小さな魚介類につつかれて顔の判別もままならない遺体も多く、
さらに多くの場合、体内に腐敗ガスが溜まって膨らみ、体表は白く、触れただけで崩れるようになる。
「……でも。みちさんに釣りあげられた人たちは、顔も綺麗なまま、手も足もちゃんと残ってる人が多かった」
そしてくらげは私の方を向いて、「不思議だよね」と言った。
私もそこまでは噂話の範疇だったので知っていたのだが、そこから先は聞いた覚えのない話だった。
「みちさんの最後は知ってる?」
くらげに訊かれ、私は首を横に振った。
死体を釣る男に関する噂話は、ここの港にいる老人がよく死体を釣りあげるという部分だけだった。
男の結末までは噂になっていないし、私は男が死んでいることすら知らなかった。
「みちさん。海に落ちたんだ。釣りの途中で……」
良く出来た話だ。幾つもの水死体を釣って来た男の最後が溺死だったとは。
「でも、そんな面白い話が、なんで噂の中に入って無いんだろうな。いや、面白いって言っちゃ悪いか」
「夕方で暗くなってたせいじゃないかな。周りに誰も居なかったし」
私はくらげを見やった。たぶん不思議そうな顔をしてたんだろう。
「ああ、ごめん」
くらげは何故か謝った。
「僕だから。みちさんを釣ったのは」
しばらく何も反応ができなかった。

その日の夕食前、くらげはふと防波堤の先端に行ってみた。
しかしみちさんはおらず、たてかけられた竿だけが置いてあった。
忘れて帰ったのだろうと思い、くらげがそれを何気なく持ち上げてみたら、
糸の先にはみちさんが引っかかっていたのだそうだ。

想像してみたら、それは不気味を簡単に通り越してシュールだった。
「……あ、ひいてるよ」
くらげの声に我に返る。手ごたえは弱いが確かにひいている。アタリだ。
しかしその時、私はふと思った。果たしてこの糸の先に居るのは、本当に魚なのだろうか。
ゆっくりと巻き上げると、そこには綺麗に針だけが残されていた。ただの魚だったようだ。
ホッとすると同時に、そんなことに怯えた自分が何だか無性に馬鹿らしくなった。
「僕は、釣りはやらない」
隣でくらげが呟いた。
「だって僕に釣りを教えてくれたのは、みちさんだからね」
私は口笛を吹いて聞いてないふりをした。
そして立ち上がり、再び餌をつけた二投目を水平線めがけて放り投げた。

終わり

177くらげシリーズ「死口内海」1:2014/06/26(木) 16:24:54 ID:TrdgkZJA0
これは私が中学生だった頃の話だ。

そろそろ夏休みが待ち遠しくなる七月後半。その日私は、山一つ越えた先の海で一日中泳いでいた。
海水浴場ではない。
急な崖を降りた先に、地元の子供たちだけが知っている小さな浜辺があり、
夏の暇な日は、そこへ行けば誰かしら遊び相手が見つかるといった場所だった。
その日も顔見知りの何人かと一緒に遊び、共に日に焼けている身体を更に黒くした。

海から出て、彼らと別れ、家に帰りついたのは午後六時少し前だっただろうか。
風呂に入る前に、泳ぎつかれて喉が渇いていたので、私は台所で蛇口から直接コップに水を注ぎ、ぐいっと飲んだ。
その時だった。何か思う暇もなかった。
得体の知れない違和感を感じた時には、それは一瞬にして猛烈な吐き気に変わり、
私は今さっき飲んだ水をシンクの中に吐き出していた。
喉がひりつき、しばらく咳が止まらなかった。
蛇口から出てきたのだから、何の警戒もなく真水だと思ってしまったのだ。
私が呑みこんだのは普通の水では無かった。それは紛れもなく塩水だった。

ようやく咳が収まり、信じられなかった私は、蛇口に人差し指の腹を当て、水滴を舐めてみた。
海の味がする。
小さな頃、海で溺れてしまった時に呑みこんだあの海水と同じ味だ。
しかし、何故蛇口から海水が出て来るのだろうか。
うちの水は、地下水をくみ上げているのでも山から引いているのでもなく、水道局から送られてきている水はずだ。
自然に塩分が混じるとは考えにくい。
「おーい、かあさん。なんか蛇口から塩水が出るんだけど」
呼ぶと、隣の居間から母親が顔をのぞかせた。これは我が子を疑っている顔だな、とすぐに分かる。
「嘘言いなさんな。さっきそこで夕飯こしらえたばっかやのに」
「ホントだって、ほら、これ、塩水」
コップに水を注ぎ、母に渡した。
彼女はしばらく疑わしそうに匂いなど嗅いでいたが、その内ちびりと口を付けると、そのまま一気に飲み干してしまった。
「……アホなこといっとらんで、風呂に入ってきんさい。ほら、髪がぼそぼそやんか」
母はそう言って私の頭をわしゃわしゃと撫でて、居間に戻って行った。
釈然としなかったので、私は再度蛇口から水を注ぎ、口を付けた。
舌がしびれる。やはり普通の水ではない。
どういうことだろう。母が嘘を言っているのだろうか。
しかし、目の前で一気飲みされてしまったのだ。嘘をつくにしても身体をはり過ぎだろう。
それにわざわざそんな嘘をつく必要がどこにあると言うのだ。
おそらく、一日中海で泳いでいたせいで、味覚が変になっているのだろう。私はそう自分を納得させた。
外から海水が染み込んで、一時的に身体がおかしくなっているのだと。
ただそれが味覚の勘違いであれ、塩水を飲んでしまったせいで余計に喉が渇きを感じていた。
水道水は止めにして、代わりに冷蔵庫を開けるとオレンジジュースがあったので、それを飲むことにする。
コップに注ぎ、飲む。そして、私は再びそれを口から吐きだした。
塩水じゃないか。
愕然として、まだ半分ほど残っているコップの中の液体を見やる。
色も匂いもオレンジジュースで間違いないのに、私が今飲んだのは、明らかにオレンジ色をしたただの塩水だった。
そのほかも試してみた。冷蔵庫の中にあった、麦茶、牛乳、乳酸菌飲料。冷凍庫の中の氷すらも、塩辛い。
私は何も飲むことが出来なかった。
自分がおかしくなっているということは、とりあえず風呂に行って浴びたシャワーで確信できた。
口に入って来る水滴のせいだ。身体はさっぱりしたが、口の中と喉だけが熱く、どうにも泣きたい気分だった。

その後、私は夕飯も食べずに、母と一緒に病院に行った。
診察と検査をしてくれた医者は、私の話を聞きながら首をかしげるばかりだった。
味覚障害だろうと告げられたが、その場合多くの原因である内臓の異変もなく、原因は分からないと言われた。
ただ、その時は、医者も親も、そう深刻になることは無いだろうと楽観視していたようだった。
私だけが言いようのない不安を覚えていた。
意識的にコップ一杯程の海水を飲んだことのある人間は居ないと思う。居たとしても少数派だろう。
あれは到底飲めるものではない。

178くらげシリーズ「死口内海」2:2014/06/26(木) 16:25:32 ID:TrdgkZJA0
次の日から私は病院に入院し、常に点滴で水分を取るようになった。
普通の方法ではどうしても水分を取ることが出来なかったのだ。
たとえ成分がただの水であっても、どうしても呑みこむことが出来なかった。飲んだとしても、すぐに吐いた。
固形物も、水分が多く含まれていると無理だった。お粥も駄目、果物も駄目。
果ては自分の唾液すら塩辛く感じられて、しばしば水を飲まなくても嘔吐した。
吐き気は常に感じていて、突然ベッドの上で吐き、何度もシーツを汚した。
加えて熱や下痢もあった。
これは体調の悪化による副次的なものだろうが、しかしまるで私の身体の一部でなく、全部が狂ってしまった様だった。
人間、物は食べなくてもある程度生きていけるが、水が飲めなければあっという間に死ぬ。

入院してからたった数日で、驚くほど体重が減った。
自分の身体がカラカラに乾いて行くのを感じ、天井を見つめながら、このままミイラになって死ぬのだろうかと考えた。
この状況が続けば、間違いなく死ぬだろうなと思った。
母も父も、毎日看病に来てくれた。普段は絶対そんなことはしないのだが、入院中母はずっと私の手を握っていた。
それを見ながら、自分は大事にされているのだなと実感した。
死にたくないな。今までの自分の人生で、初めて強くそう思った。

そんな生活を送っていたある日、一人の友人が病院に見舞いに来た。
当たり前だが、入院中は学校を休んでいた。
両親も何と学校に説明したらいいか分からなかったのだろう。
理由は伏せられていて、後で訊いたら、原因は夏風邪ということになっていた。
その友人は、学校のプリントを届けに家に来た折に、私の入院を知ったのだった。
彼は病室に入るなり、無表情のままぽかんと口を開けた。
そうして、私が寝ているベッドの傍に来ると、しみじみとした口調でこう言った。
「痩せたねぇ……」
その言い方が可笑しくて、私は少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは久しぶりだったし、自分にまだ笑う元気があったことが驚きだった。
その時は母も父もおらず、他に入院患者も居なかったので、病室に居たのは私と彼だけだった。
彼は『くらげ』というあだ名の、ちょっと変わった男だった。海に浮かぶくらげのように、クラス内でもちょっと浮いている存在。理由は、彼が常人には見えないものを見るからだ。所謂、『自称、見えるヒト』だ。
何でも、ある日自宅の風呂の中に何匹ものくらげが浮いているのを見た日から、そういうモノを見るようになったのだとか。
と言っても、彼自身はそのことを吹聴もせず、そのことについて問われると、「僕は病気だから」と答えていた。
当時、私はよくくらげと遊んでいた。彼といると面白い体験ができたからだ。
「マジでやばくてさ。なんか、死ぬかも」
私はくらげに向かってそう言った。その言葉は思ったよりあっさりと口から出てきた。
くらげは黙って私のことを見ていた。
その視線は、左腕の関節部分に刺さった点滴の針から伸びる細いチューブを辿り、
頭上にある栄養と水分の入ったパックに行きついた。
「これ……、夏風邪じゃないよね。どうしたの?」
私は、ことの始まりから今までのことをくらげに話した。途中、彼は相槌も頷きもせずにじっと耳を澄ましていた。
話が終わると、「ふーん」と言った。
「ねえ、ちょっと、口開けてみて」
「……口?」
「うん。歯を治療する時みたいに、『あー』って」
私は言われるままに口を開けた。すると、くらげは少し腰をかがめて、私の口の中を覗き込んだ。
「……あー、これじゃ塩辛いよね」
くらげが上体を起こした。
「海になってるよ。君の口の中」
訳が分からなかった。
くらげは納得したように一人頷くと、「じゃあ、ちょっと僕、海に行って来るよ」と言って、私に背を向けた。
私は意味が分からず、口を開けたまま、彼が病室を出るのをただ見ていた。

179くらげシリーズ「死口内海」3:2014/06/26(木) 16:26:18 ID:TrdgkZJA0
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。

その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。

気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。

それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。

その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。

180くらげシリーズ「死口内海」4:2014/06/26(木) 16:26:58 ID:TrdgkZJA0
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。

その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。

気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。

それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。

その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。

181くらげシリーズ「死口内海」5:2014/06/26(木) 16:27:29 ID:TrdgkZJA0
「……そろそろ帰るよ」
くらげが立ち上がる。そうして病室から出て行こうとしたが、途中で「あ、そうだ」と言って振り返った。
「今回のことはね、たぶん、君に僕の病気がうつったことが原因だと思う。病状が悪化したっていうのかな」
私はどきりとした。
くらげは薄く笑っていた。小学校六年からの付き合いだったが、彼のそんな表情などこれまで見たことが無かった。
いや、笑ったところは見たことはあるが、とにかく初めて見せる顔だった。
「だから、これからはあまり一緒に遊ばない方がいいかもね。僕に近寄らなかったら、病気も自然に治るよ」
くらげはそう言って、病室を出て行った。
彼と一緒に居ると、はっきりでは無いにせよ、確かに私にも妙なモノが見える時があった。
いや、見えるだけでは無い。その声が聞こえたり、時には軽く触れることも出来た。
くらげの病気。それに私が感染してしまったために、今回のことが起きたのだろうか。
私はしばらく考えていた。
なる程、彼の言う通りかもしれない。
今まではただ面白いとだけ思っていたが、実際に危険性が高まったとなれば話は別だ。
私は病室の窓に近寄り、開いて頭を外に出した。
病室は二階にあったのだが、そこからは病院の入り口を見下ろすことが出来た。
しばらく待っていると、入口からくらげが出てきた。
「おーい。くらげー」
あまり離れても居なかったが、私は大声でその名を呼んだ。
くらげが首をこちらに曲げる。
「良く分からんけどよ。今回のコレ。お前がなんとかしてくれたんだろ。ありがとうな」

私が良く泳ぎに行くあの浜辺に、女性の水死体が打ち上げられているのが発見されたのは、
私の症状が収まった次の日のことだった。
因果関係は分からない。証明だってしようが無いが、無関係だとは思えなかった。
こちらが気付いていないだけで、私は彼女と会っていたのかもしれない。海の中で。見初められたといえばいいか。
もちろんそれは、もしかしたらの話だが。

「まあ、色々あるらしいから、しょっちゅうは止めるけどさ。たまには遊ぼうぜ。それでいいだろ?」
正直、彼との付き合い方を変えようと思った。今回のような事態はまっぴらだ。
但し、こんな面白い友人を自ら無くすこともない。それが私の結論だった。
「そんでさ。夏休みの間に、一度くらいキャンプでもしようぜ。退院したら連絡すっからさ」
くらげは長いこと私の方を見ていたが、ふいに両手でメガホンを作ると、
「分かったー」と、彼にしては大きな声でそう言った。

182くらげシリーズ「くらげ屋」1:2014/06/26(木) 16:31:10 ID:TrdgkZJA0
私が子供だった頃、『自称見えるヒト』である友人の家に、初めて遊びに行った時のことだ。
当時私は小学六年生で、友人はその年に私と同じクラスに転校してきた。
最初の印象は『暗くて面白みのないヤツ』で、あまり話もしなかった。
とある出来事をきっかけに仲良くなるのだが、それはまた別の話。

季節は秋口。
学校が終わった後一端家に鞄を置いてから、私は待ち合わせ場所である、街の中心に掛かる橋へと自転車を漕いだ。
地蔵橋と呼ばれるその橋では、先に着いていた友人が私を待っていた。欄干に手をかけて川の流れをぼーっと見ている。
私のことに気付いていないようなので、そっと自転車を止め、足音を殺して近づいた。
「わっ」
後ろからその肩を掴んで揺する。
しかし、期待していた反応はなかった。声を上げたり、びくりと震えもしない。
彼はゆっくりと振り返って、私を見やった。
「びっくりした」
「してねぇだろ」
彼はくらげ。もちろんあだ名である。
何でも幼少の頃、自宅の風呂にくらげが浮いているのを見た時から、
常人では見えないものが見えるようになったのだとか。
私は今日の訪問のついでに、それを確かめてみようと思っていた。
すなわち、彼の家の風呂にくらげは居るのか居ないのか。私には見えるのか見えないのか、だ。

橋を渡って南へと、並んで自転車を漕いだ。
私たちが住んでいた街には、街全体を丁度半分南北に分ける形で川が流れており、
私は北地区、くらげは南地区の住人だった。
住宅街から少し離れた山の中腹に彼の家はあった。
大きな家だった。家の周りを白い塀がぐるりと取り囲んでいて、木の門をくぐると、砂利が敷き詰められた広い庭が現れた。
その先のくらげの家は、お屋敷と呼んでも何ら差し支えない、縦より横に伸びた日本家屋だった。
木造の外観は、長い年月の果てにそうなったのだろう。木の色と言うよりは、黒ずんで墨の様に見えた。
異様と言えば、異様に黒い家だった。
私が一瞬だけ中に入ることに躊躇いを覚えたのは、その外観のせいだったのだろうか。
「入らないの?」
見ると、くらげが玄関の戸を開いたまま私の方を見ていた。私は彼に促されて家の中に入った。

中は綺麗に掃除されていて、外観から感じた不気味さは影をひそめていた。
くらげが言うには、現在この広い家に住んでいるのはたったの四人だという。
祖母と、父親、くらげの兄にあたる次男。そして、くらげ。くらげは三兄弟の末っ子。
母親が居ないことは知っていた。くらげを生んだ直後に亡くなったのだそうだが、詳しい話は聞いていない。
長男は県外の大学生。次男は高校で、父親は仕事。
家には祖母が居るはずだとのことだったが、その姿はどこにも見えなかった。気配もない。
どこにいるのかと尋ねると、「この家のどこかにはいるよ」と返ってきた。
玄関から見て左側が、家族の皆が食事をする大広間で、
右に行くと、各個人の部屋に加えて風呂やトイレがある、と説明される。
二階へ続く階段を上ってすぐが、彼にあてがわれた部屋だった。
くらげの部屋は、私の部屋の二倍は軽くあった。
西の壁が丸々本棚になっていて、部屋の隅に子供が使うには少し大きな勉強机がひとつ置かれている。
「元々は、おじいちゃんの書斎だったそうだけど」とくらげは言った。
確かに子供部屋には見えない。
本棚を覗くと、地域の歴史に触れた書物や、和歌集などが並んでいた。
医学書らしきものもあった。マンガ本の類は見当たらない。
「くらげさ。ここでいっつも何してんの?」
「本を読んでるか、寝てる」
シンプルな答えだ。
確かにくらげの部屋にいても、面白いことはあまり無さそうだ。そう思った私は、彼に家の中を案内してもらうことにした。


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