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神の存在/不在と科学の範囲

241fukken:2007/01/18(木) 17:20:02 ID:M5vfENrY
>>240
>例えば、ある個人が自分の思い込みを勝手に事実とすりかえていて、その人に向かって宗教が「それは違う、実際はこうである!」と言ったとして、その宗教の側の言い分というのはその個人の思い込みに比べてより確かなものなのかというと、そんなことないでしょ?

質問は、「宗教自体が認める行為であるとどうして言えるのか?」です。
良く考えて回答してください。
貴方の質問については、これを良く理解してもらわないと回答してもまた誤解されるだけだと思いますので、納得のできる回答をいただいてからお答えします。

242みずすまし:2007/01/18(木) 17:23:21 ID:TgyKdXjk
>>237

> >>203 は、どこに答えればいいのかな。
> 「神学的知はどうして排除されるのか」という問いなら、空からのフックによってもた
> らされるものをわたしは「知」とは呼びません(宗教学や宗教史、神学史なら、「知」
> になり得ます)。その理由は既に書きました。


「その理由は既に書きました」というのは,「人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない」(>>236)だと思います。それは正しいと思います。

# ここでいう「知覚」とは,五感とその統合作用による知覚だと思いますが,以下,そ
# の前提で書きます。

しかし,「人間の知覚の対象とならない物事」について,確かな(or かなり確からしい:以下同じ)知識を得ることはできるのではないでしょうか?


例えば,数学がそうですよね。

macskaさんが,数学的知識も「人間の知覚の対象と *なる* 物事」の知識だというのならばそれはそれで一つの立場だと思いますし(私は賛成できないけど),数学的知識は確かな知識ではないというのならそれも争う気はありません。

しかし,もし,macskaさんが,数学的知識が「人間の知覚の対象とならない物事」の知識であり,確かな知識だと認めるならば,少なくとも「人間の知覚の対象とならない物事」について,確かな知識を得る方法を一つは認めるわけですよね。

さらに,もしそうであるならば,科学的知識と神学的知識は「人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない」ということで区別できたとしても,数学的知識と神学的知識はそれでは区別できません。

それならば,どういう理由で数学的知識と神学的知識は区別するのだろうか,というのが私の疑問です。


ところで,「空からのフック」(>>237)・「下から築き上げるためのクレーン」(>>179)というアナロジーがよく分からないのですが,そのアナロジーだと,数学的知識は「空からのフック」に吊るされたものになるのでしょうか? それとも「下から築き上げるためのクレーン」があるものになるのでしょうか?

243NAN:2007/01/18(木) 17:43:17 ID:IFKuzC4g
返答(>>222)があったようなので書きます。

>そんなことはないし、そうは言っていない。イエスのDNA云々は、仮にの話で、例えばイエスの父と母が誰であったかDNAによって確認された場合、聖書による処女受胎の伝説が反証されることもあり得ると言っているだけ。DNAが発見されればその人物について何でも分かるなんてことは主張していません(いくらなんでもそんなトンデモありえない)。

自分で味わってみないとなんとも云えんと思ってたんだけど…なるほどmacska氏の議論スタイルは
→他者には逐語的読解を要求するのに、自説については解釈の幅を持たせる方式
のようです。

こぉいう場合、「イエスのDNA云々についての自分の記述には問題があると認めるor取り下げるand勇み足についてケリをつける」というアクションを行った上で、「しかし本来自分の述べていることとは…」とやらにゃぁ、紛糾するに決まってるでしょう。挙句に私の指摘を「意図的に誤読」しているようにも見える。意図的な誤読は詭弁議論の基本的な手段で、macska氏のそれは「ソフトな強弁」という印象。

明らかに「イエスのDNAが手に入れば、イエスが行ったとされる奇跡もカガクの検証対象となる」とmacska氏が述べている。この指摘に対して「そんなことは云っていない、それは仮の話である」と逃げる。仮の話だろうとなんであろうと、明らかに「イエスのDNAが手に入れば奇跡を反証できる」と云っているのにそれを認めない。挙句に「処女受胎という奇跡が(たかがカガクによって)反証される」とか述べる。それは結果的に「奇跡の定義」をカガクの範囲に収めるべきだ、という「カガクの側からなされる宗教側に対する冒涜」であることに、いまだに気づいていない、あるいは認めない、というカガク万能主義に基づいた思い上がりにしか見えないのは当然だろうね。

>現実世界で起きた物理的な現象が「科学の範囲外」というのは論理的におかしい。

イエスの奇跡(に限らず、さまざまな信仰対象となる奇跡)が、現実世界で起きた物理的な現象である、となぜ決め付けられるのだろう。これが「逐語解釈」にほかならない、と私は述べている。macska氏が「そんなのは仮の話だ」と逃げまくるのとは違い、まともな宗教者であれば毅然として「カガクの対象がカガクの対象であるのは当然だろ?だがこれは宗教の話だよ?」と述べておしまい。

逐語解釈に従い、聖書の記述はすべて一字一句正しいので「カガクが提唱する進化論は間違いである」と述べるのが原理主義的創造科学であり、疑似科学の典型なわけですが…カガクの側がそれを積極的に行うのであれば、なるほど聖書やその他の経典の中身はすべて「論理的、科学的にマチガイ」とかいうことになり、それが宗教者に対する甚だしい冒涜になるとは思わないのだろうか?

244AH1:2007/01/18(木) 18:35:11 ID:MM7DYpv2
>わたしの名前が違ってますが(別に失礼だとか言いたいわけじゃなくて、今後のために)。

大変失礼致しました。気をつけます(咎められなくてもこれは明らかに失礼ですので)。

>使い分けというか、一連の主張のうちの別の箇所をとりあげているだけに見えますが。

確かにそうかもしれないのですが、macskaさんが「要するにどうしたいのか」がよく見えなかったのです。
(複数の話が錯綜していることはわかっております・最初の提案はわかりやすかったのですが、以後、頭が混乱してしまいました)

>> macscaさんが理想とする状態、あるいはmacscaさんが苛立ちを感じない宗教の在り方を
>> 教えて頂けませんか。
>それらの答えは、わたしには思いつかないです。

うーん・・ そうですか。
私が感じていたことは202で酔っ払いさんが見事に表現されているのですが、ああいうのとも違うんでしょうか。

245macska:2007/01/18(木) 19:24:33 ID:VdHL1C4M
>>241
> 質問は、「宗教自体が認める行為であるとどうして言えるのか?」です。

個別の「思いつき」であれば、宗教が認めることもあれば認めないこともあります。

わたしが言うのはそういう個別の話じゃなくて、宗教というのは「何も根拠はないけれど、信じる」という振舞いが許される領域なのではないか、と言っているの

「どうして〜と言えるのか?」と何度聞かれても、わたしがもともと言っていた発言と違う内容について責任は持てません。

> しかし,「人間の知覚の対象とならない物事」について,確かな(or かなり確から
> しい:以下同じ)知識を得ることはできるのではないでしょうか?

はい、五感のほかにも「論理」という道筋があります。数学もその一部だと思います。

わたしが「知覚」というとき、五感だけではなく論理的に導き出されるものも含めたつもりですし、現にわたしは議論の中で論理を「確からしさ」の源泉として援用しているので文脈上そう理解してもらえないこともないと思いますが、はっきりと説明していなかった点はすみませんでした。

> ところで,「空からのフック」(>>237)・「下から築き上げるためのクレーン」(>>179)
> というアナロジーがよく分からないのですが,そのアナロジーだと,数学的知識は「空
> からのフック」に吊るされたものになるのでしょうか? それとも「下から築き上げる
> ためのクレーン」があるものになるのでしょうか?

数学は、非常に有用なクレーンの1つです。
どんな複雑な数学的知識も、より細かい部品を積み重ねた上に到達できるわけですから。

>>243
> 明らかに「イエスのDNAが手に入れば、イエスが行ったとされる奇跡もカガクの
> 検証対象となる」とmacska氏が述べている。

言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。

イエスのDNAが手に入れば(そして周囲の人のDNAも手に入れば)、イエスの両親が誰であったかということは科学的に検証できる。できないという理由が何かありますか?

> イエスの奇跡(に限らず、さまざまな信仰対象となる奇跡)が、現実世界で起きた物理
> 的な現象である、となぜ決め付けられるのだろう。

現実世界で起きたとされる現象ならば科学の範囲であると言っているのであって、奇跡と呼ばれるものは全て現実世界で起きた物理的な現象であるとは言っていません。まぁ現実に何を人々が「奇跡」と呼んでいるかと調べれば、その大半は「現実世界で起きた物理的な現象」のことだとされているけどね。

たとえば、イエスが水をワインに変えたというのが何かの例え話だとしたら、もちろんそれは科学的検証の対象ではありません(が、もし例え話なら、奇跡とは普通呼ばないですね)。しかし、現実にイエスが水をワインに変えたという主張であれば、それは科学の対象となるはず。

> カガクの側がそれを積極的に行うのであれば、なるほど聖書やその他の経典の中身はすべ
> て「論理的、科学的にマチガイ」とかいうことになり、それが宗教者に対する甚だしい冒
> 涜になるとは思わないのだろうか?

科学の側が積極的に宗教の教典の中身を検証しろとは言っていません。
まぁ、もしやる人がいたら、それは確かに宗教に対する敵意丸出しですね。

# 敵対行為だとは思いますが、冒涜というのはちょっと違うような気がします。

>>244
> macskaさんが「要するにどうしたいのか」がよく見えなかったのです。

じゃあ、標語風にしちゃいます。
人知の及ばない領域の問題について、宗教だけに何か特別の知があるかのように扱うのはやめよう。

246YS:2007/01/18(木) 19:42:14 ID:PQAzdVPI
一読者として解説を加えさせてもらいましょう。
私には macskaさんは例えの使い方がわるかったぐらいで議論にあまり問題があるように思えません。macskaさん、これ以上論理的思考のトレーニングが足らない人たちと議論するのはあなたにとって時間の無駄だと思うんですけどね。

「クレーン」「フック」はダニエル・デネットが使うたとえです。知識体系という塔を積み上げていくのに、下位概念から上位概念を積み上げていくのがクレーン、その逆がフックです。生物学/地質学etc.の基本的証拠から進化を論ずるのが前者、創造者/デザイナーの存在をもとにそれらの基本的証拠を論ずるのが後者の思考法です。数学(なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)および科学は主にクレーン的思考を使用します。たとえばユークリッド幾何学は平行線は交わらないなどの直感的な公理をもとに定理を構築します。「クレーン」「フック」の違いはその論理体系の基盤となる公理の性質の違いといってもいいかもしれません。「我唯一の神の存在を信ず」と「我平行線は交わらない事を信ず」の信念としての差はない、とおっしゃる方にはクレーンもフックもありませんし、私としては議論の仕様もありません。

あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね。>>202に関していえば、Aが宇宙の真理が42である証拠を出さない限り、Bは(そしてA以外の誰も)Aの主張を論理的に認める義務はありません。これは科学もクソもない、単なる論理の問題にすぎません。

って書こうとおもったらもうmacskaさん書いてたね・・・・・
>>244の標語にどんな文句があるんですか?皆さん?

247YS:2007/01/18(木) 19:44:02 ID:PQAzdVPI
まちがい、>>245の標語。

248AH1:2007/01/18(木) 20:11:37 ID:MM7DYpv2
>じゃあ、標語風にしちゃいます。
>人知の及ばない領域の問題について、宗教だけに何か特別の知があるかのように扱うのはやめよう。

了解いたしました。回答、ありがとうございます。
そして人知の及ぶ領域については、当然、科学の出番ですよね?

249HAKASE:2007/01/18(木) 20:46:28 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

カオス時系列解析の理解については,temaさんの書かれた想像で正しいと思います(私自身とても詳しいというわけではないですが,私の理解と一致しています).
それからパイロット解釈の紹介ありがとうございます.私も知りませんでしたが,カオス理論を用いた検証をしようという試みは量子力学の分野でも検討されているということですね.

「観測が多大な影響を及ぼす」場合についてですが,観測が基情報に影響を与えても,ある特定の観測装置で観測した時系列データが得られさえすればカオス時系列解析の分析対象になり得ます.
ただし,得られるモデルは「データ収集に利用した観測装置の特性も含めた観測対象の数学的なモデル」になります.
そして,その観測装置が,各データ観測時刻で同じ特性を持つものだった場合,観測結果がカオス的であることが示されれば,観測対象を数学的モデルで表せる可能性が示唆されます.
そういう意味ではカオス時系列解析でも,数学モデルが生成可能か否かの実証的な検証は可能だと思います.
# 門外漢なので間違っているかもしれませんが,もし量子力学の理論が,カオス理論による数学のパラダイムシフトを考慮しない数学体系で証明されているなら,今後の科学的検証によって修正が入る可能性はあると思います.

temaさんの意見についてですが,もし「現在主流である科学的な論理(コペンハーゲン解釈)では,原理的に説明ができない」という趣旨でしたら,私もtemaさんの意見に同意します.
ですが,もし「科学的なデータ解析手法を適用して(例えば予測可能性などを)検証することが原理的にできない」という趣旨でしたら,私は原理的に不可能とまでは言えず,例えば上に示したような科学的な手法に基づく検証は可能なのではないかなと思います.

おそらくtemaさんのご意見の趣旨は前者だろうと思います.一方,私が示したかったのは後者の意見で,この両方の意見は両立可能だと思います(私は両方の意見に納得しました).
なので,temaさんに「後者の意味では「科学で扱う範囲内」である」という趣旨に賛同していただけると,お互いに合意したうえで意見交換を終了にできるかと思いますが,どうでしょうか?

250えめ:2007/01/18(木) 21:15:13 ID:0JLPCUfQ
>たとえば、イエスが水をワインに変えたというのが何かの例え話だとしたら、もちろんそれは科学的検証の対象ではありません(が、もし例え話なら、奇跡とは普通呼ばないですね)。しかし、現実にイエスが水をワインに変えたという主張であれば、それは科学の対象となるはず。

ほーほー。水をワインに変える、ねえ。
 「ありえない」を前提にして話してるでしょ。ニヤニヤ
でもね本当にあったらどうするの?

イエスのDNAだって調査したら外見は男にも関わらずDNAはマリアとまったく同じ(処女生殖)だったらどうするの?
「そんなことはありえないんですよ」
ですか?
でもそれらが観測されたら、貴方はどうするの?

>>37
の問い
>仮に現在イエスが存在したとして、水をぶどう酒に変えて見せたとして
>まぁ、おそらくマジシャンも参加した実験を繰り返しますわな。
>で、結果
>1.科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた。
>2.実験は厳密に行われ、トリックの介在できる余地は一切なかった。
>3.念じただけで水がぶどう酒に変わる原理など皆目見当もつかなかった。
>4.当の男はこの現象は神への信仰によって齎される(奇跡)と主張していた。
>さて科学者はこの場合、自然法則を超越している「奇跡」だから神の存在(意思)が証明されていると主張すべきですか?

 元々は科学は奇跡と呼ばれる現象をどう扱うか、と言う話なんですが答えは
>>41
>ええと、あのですね、だから、水がワインに変わるわけがないんですよ。

残念なのはこの返答はただの常識であって科学(としての姿勢)ではないと言うこと。
皆がありえないと考えているから宗教的には奇跡であり、奇跡を起こしたとされるから預言者の一人として認められているのでしょう。
 
科学って言うのは現象のメカニズムを探求するツールであるから、厳密に用いたにもかかわらず意に反する結果が出たからと言って「”常識では考えられない(あるいは現在の仮説では説明できない)”からありえない」と断言するのは拠り所とするツール、科学すら実は否定してるって事になりませんか?


余話ですが
今更ながらですが地下ネコさんにお礼です。
宗教と科学は呪術において重なり合う、とても参考になりました。

賑やかでROMも楽しいですね。

251みずすまし:2007/01/18(木) 21:36:46 ID:TgyKdXjk
>>245
> わたしが「知覚」というとき、五感だけではなく論理的に導き出されるものも含めたつ
> もりですし、現にわたしは議論の中で論理を「確からしさ」の源泉として援用している
> ので文脈上そう理解してもらえないこともないと思いますが、はっきりと説明していな
> かった点はすみませんでした。
〔・・・〕
> 数学は、非常に有用なクレーンの1つです。
> どんな複雑な数学的知識も、より細かい部品を積み重ねた上に到達できるわけですから。

うーん… 以下の質問はスルーしていただいても良いのですが(枝葉の枝葉を作り出すことになるから),余裕があればお答えください。

第一に,macskaさんは「数学」を「科学」に含めるんでしょうか?

第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?

これは説明を加えます。
例えば,「ある三角形に内接する円は一つだけ,そしてただ一つだけある」というのは直観的に正しいですが,私はその証明を知りません。しかし,やはり,私は「ある三角形に内接する円は一つだけ,そしてただ一つだけある」と知っているといってよいと思うのです。

# 現代のソフィスケートされた数学では「直観的に正しい」というのは通用しないかも
# しれない。でも,数学がそこに至るには19世紀〜20世紀初頭まで待たなくてはならな
# くって,それ以前の数学者はいくぶんかは「直観的に正しい」ということに頼らなく
# てはならなかったはず。

厳密さのために,手元の書籍から一例を引いておくと,『数学的経験』には,「われわれはこの問題の分析型の解を知らない」(おそらく,公理から論理的に組み立てられた証明はまだない,という意味に解してよいと思う)定理として,「ゴモリー(E. Gomory)の定理」というものが,幾何学的に直観的な証明とともに紹介されています。


>>246
> (なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)

私個人の言語感覚。
数学が「科学」に含まれるかどうかは言葉の使い方の問題なので,はっきりしてさえいれば,どちらでも良いのですが。

# 日本では,「科学」に数学を含めない用法のほうが一般的じゃないですか? とは思
# うけど,水掛け論になるので。


> たとえばユークリッド幾何学は平行線は交わらないなどの直感的な公理をもとに定理を
> 構築します。

直観的な公理が「正当化された真なる信念」であるということでしょうか?
それとも,ユークリッド幾何学の公理が「真」であるのは,そう公理が定められているからであって,その公理系を離れては「真」でも「偽」でもないという話でしょうか?

252fukken:2007/01/18(木) 21:43:50 ID:M5vfENrY
>>245
>個別の「思いつき」であれば、宗教が認めることもあれば認めないこともあります。
>わたしが言うのはそういう個別の話じゃなくて、宗教というのは「何も根拠はないけれど、信じる」という振舞いが許される領域なのではないか、と言っているの
>「どうして〜と言えるのか?」と何度聞かれても、わたしがもともと言っていた発言と違う内容について責任は持てません。

こちらはあなたが言ったままを尋ねているだけなのですけどね。
NANさんにあれだけ書かれてるのに、今度は「ではないのか」なんていきなりトーンダウンさせたりしてるし。

いいですか。(わかっててやってるっぽいけど、一応もう一度説明してあげます。)
「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?
「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。
もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。
それでもこの発言に問題ないと言うのですか?

253地下に眠るM:2007/01/18(木) 21:50:21 ID:cizMQ0FI
またわかりやすい馬鹿がきたこと(ほくそ笑む僕

>>246
> (なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)

ほれ、ウィキから引用だにゃ
***************************
「数学は理学や自然科学ではない」と考える主な根拠は数学は自然現象を対象にしていないというもの。より詳しく言うと以下の通り。

* 数学では実験も観察も行わない:「仮説を立て実験観察により検証する」という自然科学の最大の特徴を欠いている。数学は自然科学とは異質な学問である。
* 数学は机上の空論:自然科学は自然現象を扱う学問である。しかし数学はただの論理で、公理から導けるものなら何でも扱う机上の学問。
* 数学の正しさは自然現象と無関係:数学はただの論理なので自然現象と矛盾する数学を作る事が可能だし、実際にそういう研究もなされている。数学の真正性は我々の宇宙とは別の宇宙ですら成り立つ。物理学は実験結果によって理論が覆される事があるが数学ではありえない。
* 数理モデルは自然現象とは別:(平たく言えば、数学で扱う「直線」は太さが無いのに実際の直線は太さがあるので両者は別物、という事。)自然現象を数学で扱うこともあるが、その場合はまず数理モデルという「自然現象とそっくりな数学的対象」を作り、自然現象そのものではなく数理モデルの方を扱う。この為数理モデルを使った成果と実際の自然現象にズレが生じる事も多い。これは数理モデルのほうは数学だが実際の自然現象のほうは数学ではないからだ。数や図形のように物理的背景を持つ研究対象も多いが、数学で扱うのは数理モデルの方の数や図形であって実際の数や図形ではない。
* 自然現象と無関係な対象も扱う:例えば計算機も研究対象。
* 数学は言語:数学は自然科学の記述に必要だが、だからといって数学は自然科学だとは言えない。実際自然科学の記述に英語や日本語などの言語を用いるが、英語や日本語を自然科学だとは誰も思わない。数学は言語だ。実際計算機科学では数学(的に正しい命題全体の集合)を言語として扱う。数学は自然科学自身ではなく自然科学を記述するための"メタ科学"だ。
************************
チミのいう「論理的思考のトレーニングが足らない人たち」の多くは、ウィキの引用一発で無知と無思慮がばればれになるような底の浅いレスなんてしてにゃーぜ(げらげら
引用につけくわえるとしたら
科学理論というのは常に仮説であり、あるいは近似値である。真理そのものではない。だからこそ、それはクレーンという比喩が適当なのだにゃ。
しかし、数学はズバリ真理を扱える知的体系なのよ。むしろ人文科学の側面があるんだにゃ。科学の記述言語といえるしね。
一応いっておくと、数学教育は積み重ねで行われるけど、数学そのものは必ずしも積み重ねでえられるものではにゃー。

デネットの見解では進化はアルゴリズムに還元されるというのは承知しているし、そのあたりは僕も支持しているのだにゃ。
しかし、数学は「クレーン」かにゃ?
デネットはそんなことをいっているかい?

254Josef:2007/01/18(木) 21:54:16 ID:uPoVYQoU
HAKASEさんの「人間の意識が科学的手法で扱えるか」(>>215)についてです。

仰るとおり、意識を科学的手法で扱うことはできるし、実際扱われていますが、意識内に起こる「実感」そのものについては科学的手法にうまく乗っからないでしょうね。

「痛い」という実感(感覚)の起こるメカニズムを物質レベルで解明・記述することはできる。けれどもそれによって「痛い」という実感そのものが「分かる」ことにはならない。たとえば「痛い」を経験したことのない人が、「痛い」が起こるメカニズムについての科学的説明を完璧に理解しても、あの「痛い!」というアリアリとした実感を「知る」ことはできない…。まあこれは昔から議論されてきたことですが(茂木健一氏の言う「クオリア=質」もそれでしょう)。

話題に上っている「神を知っている」の「知」は上記の「知」、すなわち「痛いを知っている」に近いと思われます。言うまでもなくそれは学的な「知」ではなく直観的な「知」です。このような「知」は科学では扱えないのではないとおもいますがいかがですか、皆様。

255Josef:2007/01/18(木) 21:57:47 ID:uPoVYQoU
ひらがなが一つ抜けていました。

>このような「知」は科学では扱えないのではない「か」とおもいますがいかがですか、皆様。

です。

256Josef:2007/01/18(木) 21:58:33 ID:uPoVYQoU
>>246
>「我唯一の神の存在を信ず」と「我平行線は交わらない事を信ず」の信念としての差はない、とおっしゃる方にはクレーンもフックもありませんし、私としては議論の仕様もありません。

信念、というか信憑としての差は見出せないでしょう。差があるのは「神」と「平行性は交わらない」の存在様態です。前者は非論理であり、後者は論理(の基盤)です。それゆえ伝達性において大きな違いが出てくる。しかし非論理であろうと論理であろうと、それが当人にとっては疑いえない明証として立ち現れるという点で、「信」そのものには差はないと思います(あると言うならあると言う方が証明すべきですね)。

>数学(なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)

既に指摘されている通り、数学は科学の一部ではなく科学を研究し記述する際の道具でしょう。「道具」というのは科学から見た場合の話で、有名な数学者ガウスの言葉を借りれば「数学は科学の女王」ということになります。科学に対してメタレベルに立つものですね。科学は数学の正しさを証明できません。

257macska:2007/01/18(木) 22:13:23 ID:VdHL1C4M
>>248
> そして人知の及ぶ領域については、当然、科学の出番ですよね?

科学以外は口を挟むなとまでは言いませんが、科学の有用性は広く理解されて欲しいですね。

>>250
> イエスのDNAだって調査したら外見は男にも関わらずDNAはマリアとまったく
> 同じ(処女生殖)だったらどうするの?

もしそれが事実として確認されたら、驚愕の新発見ですね。何かの間違いじゃないかという意見も出るでしょう。なぜなら、これまで知られている生物学の知識を大きく逸脱するからです。しかし、それでも確実にイエスのDNAがマリアと同一だと確認されたのであれば、いずれ生物学の理論の方を見直す必要がでてくるかもしれません。

わたしが >>41 で「水がワインに変わるわけがない」と言ったのは、「もし確認されたらどうするのか」とばかり言うから、「確認されたら大変なことだけど、検証したら『やっぱりワインにはならなかった』という結論が出る可能性の方が高い」と言っているだけ。もし確認されたらされたで、科学的にそういう結論が出たということだから、やっぱり「水がワインに変わったかどうかは科学的調査の対象となり得る」という部分ではわたしの言った通りです。

というわけで、

> 科学って言うのは現象のメカニズムを探求するツールであるから、厳密に用いたにも
> かかわらず意に反する結果が出たからと言って「”常識では考えられない(あるいは
> 現在の仮説では説明できない)”からありえない」と断言するのは拠り所とするツール、
> 科学すら実は否定してるって事になりませんか?

というのは誤読です。
わたしは「常識では考えられないからありえない」とは言っていません。
そんな常識でありえない方向の議論ばかりやっても仕方がないじゃん、程度の意味です。

>>251
> 第一に,macskaさんは「数学」を「科学」に含めるんでしょうか?

数学というのは、科学ではなく論理学の一部であると認識しています。科学における「正しさ」は現実世界をきちんと説明できるとか、現実世界の事象と合致するということを意味しますが、数学や論理学においては現実との対応ではなく数式あるいは言明それ自体が正であったり誤であったりすることがあり得るという点が特殊だと思います。

> 第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?

わたしは数学はよく知らないのですが、「ある三角形に内接する円は一つだけ」という問題なら、実際にいくつか三角形を描いてみて、それに内接する円をさまざまに描こうとしてもどうしても1つしか描けない、という事実は、命題が真であることの証明にはならないまでも、それが「かなり確からしい」と判断するに足る材料にはなるのでは。

258e10go:2007/01/18(木) 22:24:18 ID:5/V6R9W6
>>245 :macska:2007/01/18(木) 19:24:33 ID:VdHL1C4M
>>243
>> 明らかに「イエスのDNAが手に入れば、イエスが行ったとされる奇跡もカガクの
>> 検証対象となる」とmacska氏が述べている。
>言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。


へえ〜、言ってないってか。じゃあ、これはどうなの?

>>3 :macska:2006/12/25(月) 07:30:53 ID:VdHL1C4M
>例えば、伝承によればモーセという人は海を割ったとか、
>イエスという人は水をワインに変え、死者を蘇らせたとか。
>あるいは、マリアが処女であるにも関わらず懐妊したとか。
>これらの「奇跡」は古い時代の話なので検証するに足るだけの証拠がないですが、
>もし証拠が発見されれば、例えばイエスの DNA が発見されれば、
>それは原理的に科学的検証を受け付ける現象であるはずです。

NANさんの言い回しとは違っても、同じ意味の事を言ってるんじゃーないの?
NANさんの言っている意味と違うというなら(誰が見ても同じ意味に取れるが)、

>>222 :macska:2007/01/18(木) 01:17:10 ID:VdHL1C4M
>そんなことはないし、そうは言っていない。

ではなく、「訂正します。こういう意味です。」と発言するべきでしょう。

NANさん、横はいりすみません。こういう発言見ると、どうしても突っ込みたくなるもんで。

259AH1:2007/01/18(木) 22:44:21 ID:MM7DYpv2
> >そして人知の及ぶ領域については、当然、科学の出番ですよね?
>科学以外は口を挟むなとまでは言いませんが、科学の有用性は広く理解されて欲しいですね。

了解しました。あわせると
「人知の及ばない領域の問題について、宗教だけに何か特別の知があるかのように扱うのはやめよう。
人知の及ぶ範囲については、科学以外は口を挟むなとまでは言わないが、科学に信頼を寄せろ」
くらいになりましょうか。
・・・「科学以上に現実世界を知っているものはない」とのお考えのように読んでおりましたので、後段はちょっと予想とニュアンスが違いましたが。
「科学の範疇にあることは科学が最もよく知っており、科学の範疇にないことは科学は知らず、科学的に確かめられた事以外は『知っている』と表現してはいけない故に、科学の範疇にないことを『知っている』者はいない。」
ということか、やっとわかった・・(頭悪ぃな、俺)。と思ってたんですけど。

で、この理解が正しいとしてですが、まあ、素朴に唯物論的・経験論的・科学主義的に言えば確かにそうかもしれませんけど、これを言ったら宗教者は怒るでしょうなあ・・
それに私は科学の「知」についてそこまでの絶対的な自信はもてないですね。
(って代わり映えしない意見だ。ほんと頭悪ぃな、俺)

260macska:2007/01/18(木) 22:53:01 ID:VdHL1C4M
>>252
> 「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」
> が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?

そういう行為はできるだけやめて欲しいとわたしは思っています。
「人として良い行いでない」というような、絶対的な倫理はわたしは持ち合わせていませんが。

> 「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。

全ての宗教ではないですが、世界的な大宗教の中にそれを許容し奨励するものがあるのは事実です。

> もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。

うーん、多くの宗教では一般社会の善悪の基準を超越した倫理を説くのは事実です。それを「宗教は悪行をして良いことになっている」と表現するのは極端だしおかしいと思いますが、それはわたしの発言ではなく、あなたが勝手に言い換えただけです。

> それでもこの発言に問題ないと言うのですか?

どこが問題なのか、理解できません。

>>258
「例えばイエスのDNAが発見されれば」というのは、マリアの処女受胎について調査するための科学的証拠になる、という意味です。DNAが発見されればイエスの生涯のすべてについて解明できるなんてことは普通に考えてありえないし、いくらなんでもそこまでわたしはバカじゃない。もしあなたがわたしがそれほどバカだと思うなら、そんなバカと議論するだけ無駄ですから無視してください。

わたしの書き方が悪いから誤読してしまったというなら、いくらでも「文章ヘタですみません」と言ってもいいですが、「それは誤読である」と言っているのに「いや、お前はこういう意図だっただろう」と決めつけられてしまっては、議論が全然進みません。特に今回の件のように、わたしの意図からはるかにかけ離れたことを「わたしの意図」として決めつけられて攻撃されるのは不快です。誤読してしまったのは仕方がないとして、それは誤読だとちゃんと説明しているのに「いやそれが真意だ」と言い続けることにどんな意味がありますか? そんなことをやって何が楽しいですか?

>>259
> で、この理解が正しいとしてですが、まあ、素朴に唯物論的・経験論的・科学主義的
> に言えば確かにそうかもしれませんけど、これを言ったら宗教者は怒るでしょうなあ・・

そんなことで怒らないで欲しいんですけどね。まぁ、知りもしないことを「知っている」と標榜することで商売しているような宗教にとってはダメージかもしれませんが、宗教の価値ってそんなことではないんじゃないかなぁ。

> それに私は科学の「知」についてそこまでの絶対的な自信はもてないですね。

わたしは科学の「知」を信頼しているんじゃなくて、クレーンを信頼しているんですね。
そういう意味では、地下に眠るMさんの >>225 における独り言、

> カガクは確かに物質的に積み重ねられたクレーンかもしれにゃー。
> しかし、形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ。形而上学を支え
> ているのは、数十億年の進化を経た僕たちニンゲン存在の手なのではにゃーだろうか?

というのは、ちょっとだけ興味をそそられます。
もし形而上学が科学とは別のクレーンだというなら、それは考慮する価値がありそうです。
現時点では、わたしはその主張にかなり懐疑的ですが。

261谷庵:2007/01/18(木) 22:54:00 ID:???
>>246
>あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね

「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」というのは科学の領域の話ですね。
信仰は神の存在が証明されたからするものじゃない。
「神の存在は科学的に証明された」とでも言えば別ですが「私は神の存在を信じます」という人に、神の存在を証明してみろと言っても仕方がない。

それにね、科学の領域だって、存在が証明されなければ存在しないと断言できる訳じゃない。
macska氏は>>188で(死後の世界は誰にとっても知覚できないと)断言しちゃっているんだよ、知らなかった?
(念のために言うと、谷庵だって誰かが死後の世界を知覚できるとは思っていない。でも、断言はしない。)

262fukken:2007/01/18(木) 23:34:55 ID:M5vfENrY
>>260
>>「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?
>そういう行為はできるだけやめて欲しいとわたしは思っています。
>「人として良い行いでない」というような、絶対的な倫理はわたしは持ち合わせていませんが。

なるほど。
だからこそこうして平気で恥ずかしい真似ができるのですね。

>>「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。
>全ての宗教ではないですが、世界的な大宗教の中にそれを許容し奨励するものがあるのは事実です。

確かに!オウム真理教もそうですよねっ!

#さすがにその言い訳は苦しすぎるだろ

>>もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。
>うーん、多くの宗教では一般社会の善悪の基準を超越した倫理を説くのは事実です。それを「宗教は悪行をして良いことになっている」と表現するのは極端だしおかしいと思いますが、それはわたしの発言ではなく、あなたが勝手に言い換えただけです。

そうですか。
私は姑息で卑劣な真似が大嫌いなので「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」は、私にとっては十分「悪行」です。
姑息な真似を特技としているmacskaさんにとっては「善行」ってところなのでしょうね。

>>それでもこの発言に問題ないと言うのですか?
>どこが問題なのか、理解できません。

うん、macskaさん楽しい。こうなるともう一つの芸だね。


>例えば、特定の宗教者を指差して「こいつは分からないことをさも知っているようにすりかえている」と叫べば、そりゃ当然失礼にあたるでしょう。>>240

って言っていたじゃんって突っ込みはしないでおきます。(って、してるし。)

263fukken:2007/01/18(木) 23:35:33 ID:M5vfENrY
じゃ、つぎ。

>>236

>>>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。>>188

>>「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。>>195と言う質問への回答がありませんでした。
>人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない、という論理そのものが根拠です。ていうか、確かにそう答えたけどな。「そんな答えじゃ満足できない!」というならまだしも、回答そのものがなかったことにしないで欲しいです。

それは失礼しました。
答えてもらっていたとは全く気付きませんでした。
私は「”確かな証拠”を示してください」とお願いしていたものですから。
では改めて、そんな答えじゃ満足できない!です。

例えばですね、
現時点でヒトの知覚の対象となっていないと思われていても、何年か後に科学で確認できてしまうって可能性だってなくはないわけで、実は修行等によってヒトの潜在能力を極めた宗教者にはそれが今でも察知できている。
って話は論理的におかしいですか。(論理的思考のトレーニングを山ほど積まれたYSさん、どうでしょうか。)

これを否定できなければ、macskaさんの主張は崩れます。

私はね、ここにいる誰もが「参った」と言わせてくれる”非の打ち所のない証拠”を見せてくださいと言っているのですよ。

>「科学がわからない領域のものごとについて、宗教が何かわかっているという証拠は一切ない。八百屋や農民や大工や主婦に分からない、現実世界の外のものごとが、宗教家になら分かるという証拠も一切ない」

そうですね。これには異議はありませんが、macskaさんが”証拠”を見せてくれない限り「わかっていない」という証拠もありません。

264macska:2007/01/19(金) 00:20:07 ID:VdHL1C4M
>>261
> macska氏は>>188で(死後の世界は誰にとっても知覚できないと)断言しちゃって
> いるんだよ、知らなかった?

不正確な引用です。もし「死後の世界」が現実世界に物質的に存在するのであれば、もちろんそれは人間によって知覚できる可能性があります。しかしここでは「死後の世界」が現実世界の外側にある、人知の届かないモノという前提で議論しているわけです。人知が届かないモノについて誰かが何かを「知っている」ということは、論理的にありえない。

さて、ここで「一般人には知覚できないが、特殊な人にだけは知覚できるという可能性」を挙げる人がいます。なるほど、人間の能力には幅があるので、ある現象について「ある人には知覚できないけれども、別のある人には知覚できる」という可能性は、一般論としてならあります。

しかしそういう可能性が考えられるのは、現実世界のどこかに物理的に存在する対象についてのみではないでしょうか。例えば、視力の弱い人には見えないものが、視力の強い人には見えたりしますが、現実世界の外側に届く視力というのはちょっと考えられません。目の構造からいってもあり得ないのではないかと。ここでは視力を例に出しましたが、他のどの感覚も(あるいは、いまのところ知られていない感覚があったとしても)やはり現実世界の外側に届くという「可能性」は、ないと言っていいんじゃないでしょうか。

# てゆーか、もし届くなら、「現実世界」という言葉の定義自体を再考しなきゃいけない。

>>262
> なるほど。
> だからこそこうして平気で恥ずかしい真似ができるのですね。

あなたの言動のほうが、よほど恥ずかしい真似だと思います。わたしの意見が結果として(わたしの意図に反して)信仰者を傷つけてしまうことはあるかもしれませんが、わたしは特定の誰かに向けて罵倒したりしていませんから。

> 私は姑息で卑劣な真似が大嫌いなので「分からないことについてもさも知っているように
> 自分の思い込みを事実とすりかえる」は、私にとっては十分「悪行」です。
> 姑息な真似を特技としているmacskaさんにとっては「善行」ってところなのでしょうね。

わたさいは「分からないことを〜」は「できるだけ止めて欲しい」と言っていますから、わたしがそれを「善行」だと思っているわけがないでしょう。他人に対するそうした人格攻撃は、「人として良い行いではない」とは思わないのですか?

>>263
> 私はね、ここにいる誰もが「参った」と言わせてくれる”非の打ち所のない証拠”を
> 見せてくださいと言っているのですよ。

これまで述べた論理が不十分というなら、残念ながらあなたを説得することはできそうにありません。
そこで、>>236 のように言い換えました。これならOKでしょ。

265e10go:2007/01/19(金) 00:41:07 ID:5/V6R9W6
>>260 :macska:2007/01/18(木) 22:53:01 ID:VdHL1C4M
>わたしの書き方が悪いから誤読してしまったというなら、いくらでも「文章ヘタですみません」と言ってもいいですが、「それは誤読である」と言っているのに「いや、お前はこういう意図だっただろう」と決めつけられてしまっては、議論が全然進みません。特に今回の件のように、わたしの意図からはるかにかけ離れたことを「わたしの意図」として決めつけられて攻撃されるのは不快です。誤読してしまったのは仕方がないとして、それは誤読だとちゃんと説明しているのに「いやそれが真意だ」と言い続けることにどんな意味がありますか? そんなことをやって何が楽しいですか?


macskaさんが「誤読だ」と言ったのは分かっています。
ワザと誤読させるように書いたのか、それとも天然でああいう書き方しているのかは置いといて、私は
「『誤読だ』と言うんなら、macskaさんが誤読させる書き方をしたのだから、『誤読だ』と言うんでなく、『内容を訂正します』と発言するべきでしょ」
と言ったのですが。
>>5 ミケさんも誤読した事になるけど、それでもmacskaさんは自分の書き方に問題ないと思いますか。
自分の書いた内容を見直すつもりはないですか。

「不快です。そんなことをやって何が楽しいですか?」と言うからには、そんなつもりはないでしょうね。
おそらく、macskaさんは、何故こんなツマラン横槍が入るか分かっていないでしょう。

266みずすまし:2007/01/19(金) 00:51:32 ID:TgyKdXjk
>>257

私は>>236の言い換えで満足なので,独り言コメント。

> > 第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?
>
> わたしは数学はよく知らないのですが、「ある三角形に内接する円は一つだけ」という
> 問題なら、実際にいくつか三角形を描いてみて、それに内接する円をさまざまに描こう
> としてもどうしても1つしか描けない、という事実は、命題が真であることの証明には
> ならないまでも、それが「かなり確からしい」と判断するに足る材料にはなるのでは。
んー… そう言われると,そうなんですけど。
ただ,私は直観的な数学的知識もある,という立場ににそれなりにこだわっているので,ちょっと釈然としません。

267地下に眠るM:2007/01/19(金) 00:52:00 ID:wg4HFyLg
例によって酔っているので罵倒レスは後回し

>>254
>話題に上っている「神を知っている」の「知」は上記の「知」、すなわち「痛いを知っている」に近いと思われます。言うまでもなくそれは学的な「知」ではなく直観的な「知」です。このような「知」は科学では扱えないのではないとおもいますがいかがですか、皆様。

僕は同意するにゃ。穏当な見解にゃんね。
しかしまあ、カガク的な知を構成する契機すらない事象まで、現実におこったことは森羅万象カガクの対象だとかおっしゃるお方がどうおっしゃるでしょうかにゃ?

そのあたりの見解をちょいと敷延するにゃ。

以下は小林秀雄「歴史と文学」より(引用者が適時改段)
***********************
歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。
歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。

死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものと在るのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない
***********************
有名な箇所ですにゃ。

小林は、この前段で、知るということについては2通りあると述べていますにゃ。例えば天文学を知る知り方、そして、友の死を知る知り方。もちろん、友の死を知る知り方をして「肝に銘じて知る」といっているわけですにゃ。
「子供の死」という実証的な事実の群れを知る知り方、つまりカガク的な知を知る知り方のほかに、「死んだ子供」という実存的な事実を肝に銘じて知る知り方、あえていえば宗教的な知を知る知り方というものがあるのだにゃ。こうした知を体系化したものが宗教であり神話なのよ。

カガクは「子供の死」を対象にすることはできても、「死んだ子供」を対象にすることはできにゃー。それは、カガクの範囲のソトにある。「死んだ子供という事実」はカガクには手も足もでにゃー。

268fukken:2007/01/19(金) 00:55:34 ID:M5vfENrY
>>264
>あなたの言動のほうが、よほど恥ずかしい真似だと思います。わたしの意見が結果として(わたしの意図に反して)信仰者を傷つけてしまうことはあるかもしれませんが、わたしは特定の誰かに向けて罵倒したりしていませんから。

私は自分の行った行為がはしたないものであると言う自覚はありますが、誰にでもこのようなことをするわけではありません。
余程腹に据えかねない限り、こうした行為はしていないつもりです。(人よりちょっと切れやすいことも認めます。)
あなたは特定の人を罵倒しない代わりに、複数の議論の相手を愚弄するような行為をしているじゃないですか。
本当に無自覚でこうした行為をしているのだとしたら同情し謝罪もしますが、察するところそうではないだろうと判断しました。

>これまで述べた論理が不十分というなら、残念ながらあなたを説得することはできそうにありません。

そうです。もう私と貴方の話は終わっています。
残りの質問にも答えていただかなくて結構ですよ。
また、貴方に卑劣な行為を強いるだけですしね。

269えめ:2007/01/19(金) 00:57:20 ID:UugNa5UQ

>不正確な引用です。もし「死後の世界」が現実世界に物質的に存在するのであれば、もちろんそれは人間によって知覚できる
>可能性があります。しかしここでは「死後の世界」が現実世界の外側にある、人知の届かないモノという前提で議論している
>わけです。人知が届かないモノについて誰かが何かを「知っている」ということは、論理的にありえない。

つまり貴方が今まで語っていた死後の世界ってのは「たとえ話として」なの?
人間が知りえない物のモデルとしてわかりやすい例が(理想気体のような)空想の、死後の世界なの?

もしイエスが現在に存在して間違いなく水をワインに変えて見せたらどうよ、見たいな。

だとしたらそれにどんな名前をつけようが人知の届かないモノを人間が知りえるわけないでしょうね。
知ったらそれは人知が届いちゃってるって事だからね。当たり前の話。
そんな絶対に知りえない世界を知ってると言い張る人間がいると想定する事自体が非論理的

皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えていますから。
貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判は出来ませんよ。

そうでした、そういや批判していないんだっけ。

270地下に眠るM:2007/01/19(金) 01:05:49 ID:wg4HFyLg
てきとーに気づいたこと

宗教というのは一定の社会集団をつくるにゃ。
で、一定の社会集団に対して、「一般論として」と断ろうが断るまいが、かっちりと証明もできにゃーで悪口と解釈できることをいうのは差別的言辞なんではにゃーのかな?
言論の場で対等の立場で特定の個人をいろいろいうのは構わにゃーと僕は思っているし、かつ実行しているけどにゃ。
馬鹿に対して馬鹿というのは当然だし、馬鹿でにゃー相手に馬鹿といったら自分が恥をかくだけのことにゃんから。

しかしなあ、特定の社会集団に対し差別的言辞をふりまくのはいけにゃーよ。ニンゲンとして。

271macska:2007/01/19(金) 01:46:03 ID:VdHL1C4M
>>265
> 「『誤読だ』と言うんなら、macskaさんが誤読させる書き方をしたのだから、『誤読だ』
> と言うんでなく、『内容を訂正します』と発言するべきでしょ」と言ったのですが。

真意はこうでしたと釈明して記述を追加しているのだから、同じことではないですか?
そうして釈明したにも関わらず、まだ「自分の読解の方が正しい、真意である」と言い張るのはやめてね。

> >>5 ミケさんも誤読した事になるけど、それでもmacskaさんは自分の書き方に問題ないと思いますか。

ああ、これでやっと >>5 の意味が分かりました。そんな誤読されていたとは、指摘されるまでマジ気付きませんでした。「イエスやモーセのDNAが手に入ったとしても奇跡の検証は不可能」って、当たり前のことを何言ってるんだと思ってた。

「問題ないと思いますか」という点については、仮にその時点で誤解を招くような問題がある記述だったとしても、誤解を受けたと気付いた時点で釈明しているので真意は伝わっているものと思います。それ以上何か必要ですか?

>>268
> あなたは特定の人を罵倒しない代わりに、複数の議論の相手を愚弄するような行為をして
> いるじゃないですか。

そんなつもりは全然ないんですが… 自分では、真摯に議論しているつもりです。

あなたと意見は違うかもしれない。もしかしたらわたしの意見には大きな穴があって、それに自分で気付いていないのかもしれない。あるいは、気付かずにものすごく失礼なことをしてしまっているのかもしれない。それらは可能性としてありえます。しかし、故意に議論の相手を愚弄していないことは100%誓って言えます。

>>269
> つまり貴方が今まで語っていた死後の世界ってのは「たとえ話として」なの?

寓話という意味の「喩え」ではなく、ある一例という意味の「例え」という意味ですが、はい、例えの話です。
死後の世界でなくても、魂でも、輪廻でも、あるいは現実に一切手も口も出さないタイプの「神様」でも、なんでも構いません。

> そうでした、そういや批判していないんだっけ。

はい、宗教批判はしてません。

>>270
> で、一定の社会集団に対して、「一般論として」と断ろうが断るまいが、かっちりと証明もできにゃーで
> 悪口と解釈できることをいうのは差別的言辞なんではにゃーのかな?

社会集団に対して言った発言ではないし、悪口と差別は違うし、そもそも悪口でないものを悪口と決めつけられてもねぇ。
悪口ではないと何度も言っているし。

だいたい、あなたが「悪口」と呼ぶわたしの発言内容は、言い方は違うけれど中身はあなたの意見と全く同じなんだよ。

272macska:2007/01/19(金) 02:15:30 ID:VdHL1C4M
答え忘れ。

>>269
> 皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えてい
> ますから。
> 貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判
> は出来ませんよ。

うーん、どうしてこういう議論になったか、筋道を忘れてませんか?

わたしの主張では、「死後の世界」というものが人知の届くモノであった場合、それは科学的探求の対象となります。もし人知が届かないのであれば、科学の対象とはならないので科学にはそれがあるともないとも(あるいはどれくらいの確率で存在するとも)全く何も分かりません。しかし、それが人知の届かないモノであるならば、科学にとってわからないだけでなく、宗教にとってもわからないはずです。

わたしの論理は、それだけの単純なものですよ。すなわち、「死後の世界」は人知が届くもの=科学の対象であるか、あるいは人知が届かないもの=科学にも宗教にも確かなことは何もわからないか、どちらかだと言っているのです。そういう意味では、わたしも「人知の届かないモノかどうかわからないもの」(けれども、届くか届かないかのどちらかであろう)として実際の死後の世界(があるとはとわたしは思っていませんが)について論じています。

273fukken:2007/01/19(金) 03:10:15 ID:M5vfENrY
>>271
>あなたと意見は違うかもしれない。もしかしたらわたしの意見には大きな穴があって、それに自分で気付いていないのかもしれない。あるいは、気付かずにものすごく失礼なことをしてしまっているのかもしれない。それらは可能性としてありえます。しかし、故意に議論の相手を愚弄していないことは100%誓って言えます。

そんな言葉はとても信じられません。
あなたはここで私を含め何人の方からあなたの投稿姿勢について私と同様の指摘を受けましたか。
もし貴方が言う通り、貴方が自分に非がある可能性を認めているなら、ここがこのような状況になっていないはずです。
もし貴方が嘘を付いていないとすれば、脳に障害がある可能性を疑った方が良いと思います。これは罵倒などでなく本当に貴方の身を案じての言葉ですのであしからず。

274diamonds8888x:2007/01/19(金) 05:42:00 ID:Zz3oJN62
>>273
 fukkenさんは感情的軋轢についてはもう引っ込めたとおっしゃったと理解してましたが(>>187)、
 そうでもないように見えるのは誤解でしょうか?

 macskaさんが故意に議論の相手を愚弄していないことは99.9%くらい、私には信じられますけどね。「そんな言葉はとても信じられません。」て何%くらい? 人の心の中についてはそれこそ信じることしかできないのでは?

 食い違いの原因は「確かさ」とか「根拠」とか「知」とかいう言葉の指す範囲がfukkenさんとmacskaさんで異なっていることだと思います。そこはお互いもっとすり合わせてもいいとは思いますが、それで「相手に悪意がある」なんて言ったのでは議論が錯綜してしまうと思うのですが。

 すり合わせるという意味は、fukkenさんにしても「確かさとはこういう基準なんだ」という御自分の基準は、macskaさんのような自分以外の人にとっても当然の常識である、というかのような前提は破棄するという意味です。どう違うのかを説明しようとすると長くなるので困るのですが。

275diamonds8888x:2007/01/19(金) 05:45:51 ID:Zz3oJN62
>>266
 私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他ならないと思います。「ある三角形に内接する円は一つだけ」という直観的な知識は、これまでに数多くの三角形に内接する円という図形を見てきたからではないのでしょうか? そもそも一度も見ていなければ、この命題の意味すらわからないでしょう。小中学の数学では、こういう体験をバンバン使って教えるのが効果的ですよね。

 数学的な定理の多くは人は直観的に正しいとわかります。たがらこそ「証明なんて面倒くさいことをなぜにわざわざ」という声も出るのです。

 ま、以上は徹底的な経験論に基づく科学の論理だ、と言われればそれまでですが。でもそれでちゃんと矛盾無く解釈できるほどに、徹底的な経験論に基づく科学の論理というのは意外と強力なのです。

276diamonds8888x:2007/01/19(金) 06:10:27 ID:Zz3oJN62
>>269 えめさん
 私から見てもちょっと意図が読みとりにくくなってます。時間不足で詳しく書けなくて指摘だけになりますが気分を害したらごめんなさい。

> そんな絶対に知りえない世界を知ってると言い張る人間がいると想定する事自体が非論理的

 ん? だったら「宗教人が知ってるはずがない」という主張は正しいことになりますね?

> 皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えていますから。
> 貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判は出来ませんよ。

 それが理解できているなら、互いの言葉の違いが理解できたと言うことでOKでは?

> そうでした、そういや批判していないんだっけ。

 そうですよね。何も文句はないのでは?

277いらはい:2007/01/19(金) 06:12:00 ID:DHj5XiXA
しばらく見なかったら、議論の本質的な部分については収束しだしているようですね。
遅レスですが...

>>171
>そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。

宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ることがある、ということですか。
私は、人が宗教に帰依するのはボトムアップ的根拠を期待するからではなく、リアリティに惹かれているのだと思いますが。
ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知っているように振る舞うことの内に入りますか?状況によっても変わると思いますが。

>科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。

信仰(=信じていること・崇めていること、という意味で使っています)の中のある言明が科学的に検証されることを「科学と信仰の衝突」と呼びますか?
そこは科学の側も宗教の側も、(たとえ科学的発見が常識になり信仰が変容しても)これは衝突ではないと言わなければならないのでは。

それから、どうしてもひっかかるのは言葉の選び方ですね。
「わからない」「知らない」を「合理的な根拠を持ってない」くらいに言い換えれば同意できるのですけど。
宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは
教義を確信している、宗教の教えるリアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、
それを否定してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。
また「信じている」という言葉には、相対的なものごとから敢えてあるものを選択する、というニュアンスが含まれており、
冷笑的な人の「信じているだけでしょう?」という問いかけに頷くことは、
自身にとって信仰の内容が相対的であることを認めてしまうような印象になりかねない。
もちろん「知っている」と言われる側の論理としてはmacskaさんのおっしゃるようなことになるのかもしれませんが、
コンテキストによっては他人の信仰を貶めることになりかねないから、ひっかかるんですね。

278tema:2007/01/19(金) 07:40:20 ID:???
HAKASEさんへ

>>249
>それからパイロット解釈の紹介ありがとうございます.私も知りませんでしたが,カオス理論を用いた検証をしようという試みは量子力学の分野でも検討されているということですね.

 されてないと思います。
 量子の位置情報をカオス時系列解析の対象とするためには、特定の量子に対して複数回観測を重ねる必要がある、と考えます。
 仮にパイロット解釈が正しいとしても、観測を実現するには以下のとおり色々問題があります。

 まず、観測が及ぼす影響があります。

>そして,その観測装置が,各データ観測時刻で同じ特性を持つものだった場合,(後略)

と記述されてますが、1つの量子の位置を捉えるためには、各観測時刻の特性のぶれを観測対象の量子以下に抑える必要があるでしょう(注)。しかし、観測装置もそれを使う人間も膨大な数の量子から構成されています。
 観測装置自身の影響が大きすぎて、各観測時刻で同じ特性を持たせることはできないと考えます。

 そしてそもそも、同一量子に対する複数回の観測など、現在の技術では不可能だと思います。

>ですが,もし「科学的なデータ解析手法を適用して(例えば予測可能性などを)検証することが原理的にできない」という趣旨でしたら,私は原理的に不可能とまでは言えず,例えば上に示したような科学的な手法に基づく検証は可能なのではないかなと思います.

 現状temaは、「原理的にできない」とまでは言えません。ただし…
  1.(情報採取などが)原理的にできないことを証明する
  2.科学的な手法に基づく検証を行う
上記の実現可能性を考えた場合、1の可能性が高いと思います。

注)この文章の表現は適切ではありません。しかしどう表現すれば良いか判らないのです。

279tema:2007/01/19(金) 07:40:46 ID:???
『数学は科学が否か』

 この件については、言いたいことがあります。
「やだいやだい、数学も科学に加えてくんなきゃやだい!」
 いや、これではありません。

 本日は時間が無いので、ここまで。

280fukken:2007/01/19(金) 07:46:30 ID:M5vfENrY
>>274

>fukkenさんは感情的軋轢についてはもう引っ込めたとおっしゃったと理解してましたが(>>187)、そうでもないように見えるのは誤解でしょうか?

一度言ったことを守れなかったことについては弁解の余地なく申し訳ないと思います。
しかし>>260のようなふざけたレスをもらえば、「もうやってられるか」となるってものです。
のらりくらりに丁寧に付き合っているのが馬鹿馬鹿しくなって、言い逃れできないよう急所を一箇所ずつとことん追求することにしたのですが、結局あの通りの受け答えでしたから。
>>262で感情的になったことは否定しませんが、「もうこの件については終わりにしてあげるよ」と言う意味を込めて、地下猫さん風に言うと負け逃げし易いように、敢えて罵倒しました。
宗教蔑視発言が片付いたらと思ってストックしておいた>>263をUPしたものの、これじゃ息も出来なくなるだろうなあと思っていたら、>262に対する人格攻撃云々に埋もれさせる形で案の定>263はスルーでしたから彼(彼女なのかな?)にとってもこれで良かったんじゃあないでしょうか。

>macskaさんが故意に議論の相手を愚弄していないことは99.9%くらい、私には信じられますけどね。「そんな言葉はとても信じられません。」て何%くらい? 人の心の中についてはそれこそ信じることしかできないのでは?

私も99.9%くらいは信じていなければ、そうは言わなかったと思います。

>食い違いの原因は「確かさ」とか「根拠」とか「知」とかいう言葉の指す範囲がfukkenさんとmacskaさんで異なっていることだと思います。そこはお互いもっとすり合わせてもいいとは思いますが、それで「相手に悪意がある」なんて言ったのでは議論が錯綜してしまうと思うのですが。

いや、「議論にならん」と憤慨しているからこその、こういう態度なわけでして。

>すり合わせるという意味は、fukkenさんにしても「確かさとはこういう基準なんだ」という御自分の基準は、macskaさんのような自分以外の人にとっても当然の常識である、というかのような前提は破棄するという意味です。どう違うのかを説明しようとすると長くなるので困るのですが。

議論の内容に関してであれば私にもその用意はあります。要は議論以前の問題です。
私やここにいるほとんどの人が自分に間違いがあれば、直ちにそれを認めることができると思います。しかし、macskaさんはそれが出来ない人だと言うことがわかりました。一見紳士的な対話のできる方ですが、本質は過去にここを出入り禁止になった人などと変わらないと感じました。それを説明しろと言われると私の方も長くなりますので。

281macska:2007/01/19(金) 08:40:53 ID:VdHL1C4M
>>273
> そんな言葉はとても信じられません。
(略)
> もし貴方が嘘を付いていないとすれば、脳に障害がある可能性を疑った方が良いと思います。

わたしのことをそこまで悪く思われているのでしたら、そんな相手に何を言っても無駄だとお考えでしょうから、もう放っておいてください。わたしは自分が絶対に間違いをおかさないとは思っていないけれど、そこまで酷く言われなければいけないほどのことをやってきたとは到底思いません。

>>277
> 宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ること
> がある、ということですか。

いや、そもそも宗教者自身、そのあたりの区別が付かなくなっていたりするのをよく見かけます。

> ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知って
> いるように振る舞うことの内に入りますか?

断言だけではどちらとも言えないですが、例えばその断言を聞いて「どうしてそんなことが言えるんだよ」とわたしが聞き返したときに何と答えるかによってはそれに該当するでしょうね。

> 宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは教義を確信している、宗教の教える
> リアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、それを否定
> してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。

「知っている」なんてまぎらわしいこと言わないで「確信している」と言えばそれで済むような。

>>280
> しかし>>260のようなふざけたレスをもらえば、「もうやってられるか」となるってものです。

ふざけたつもりはないですが、あまりにレベルが低くて相手にしていられない、というのでしたらどうぞそう言って、以後は無視してください。わたしに悪意があると決めつけられるよりは、馬鹿だから相手にできないと言われた方がよっぽどましです。

> >262に対する人格攻撃云々に埋もれさせる形で案の定>263はスルーでしたから

スルーしていません。これまで言った論理がわたしの主張の論拠であり、それが不十分だというならあなたを説得することはできない、と答えています。

> 彼(彼女なのかな?)にとってもこれで良かったんじゃあないでしょうか。

一方的にいわれのない罵倒を浴びせておいて、それはないんじゃないでしょうか。

> 私やここにいるほとんどの人が自分に間違いがあれば、直ちにそれを認めることができる
> と思います。しかし、macskaさんはそれが出来ない人だと言うことがわかりました。

自分に間違いがあれば認めることができるつもりでしたが、そのように評価されてしまったことは非常に残念です。しかし、仮にわたしがそういう未熟な論者であったとしても、あなたの罵詈雑言の全てが正当化されるわけではないでしょう。

要するにですね、わたしが論争相手として未熟であり相手にできないというなら、もちろんわたしはそうした評価には不服ですが、それはあなたの評価ですから自由ですよ。しかし、それならそれで、もっとマシな議論の抜け方、終わらせ方があるはずです。

282fukken:2007/01/19(金) 10:16:04 ID:M5vfENrY
>>281
>要するにですね、わたしが論争相手として未熟であり相手にできないというなら、もちろんわたしはそうした評価には不服ですが、それはあなたの評価ですから自由ですよ。しかし、それならそれで、もっとマシな議論の抜け方、終わらせ方があるはずです。

レベルが低いとか未熟であるとかそう言う問題でなく、態度が問題なのです。

恐らく知識レベルも文章力も貴方は私より優れている。読解能力だって低くないはず。
それがこのスレが立ってから遠巻きにロムしていた私の感想。
紳士的な態度も好印象で、貴方に対する地下猫さんのいつもの歯に衣着せぬ物言いが気の毒に思えるほどでしたし、特に突飛なことを言っているわけでもなさそうなのに、何故大勢の人が入れ代わり立ち代りでこれほど書き込んでいるんだろうと疑問に思っていたのですが、それはあまりしっかり読んでいなかったためだった。
実際に対話してみてよくわかりました。
私の突っ込み(と言う表現を使えるほど強い指摘でもない)は、こんなに揉めるような性質のものではないですし、何の敵意も反駁の意すらなく、ほんの数回やりとりすればすぐに終わるものと思っていました。
私には貴方ののらりくらりの不誠実な態度には腹に据えかねるものがあり、絶対に自分の非は認めず常に相手に問題があるように振舞う姑息なやり方に、ついに切れたわけです。

もちろん、貴方はそれを否定するでしょうが、私がそう感じたのだから仕方がない。
私の感覚がおかしいって結論でも構いません。

「私は貴方が姑息で卑劣な人だと思ったから罵倒した。」それだけです。

283みずすまし:2007/01/19(金) 11:10:33 ID:TgyKdXjk
>>275
> 私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他な
> らないと思います。「ある三角形に内接する円は一つだけ」という直観的な知識は、こ
> れまでに数多くの三角形に内接する円という図形を見てきたからではないのでしょう
> か?

んー,そうかもしれませんね,としか言えません。すみません。
少なくとも,「経験的ではない」と断言できる幾何学的直観を,私は例示することができません。

しかし,例えば,ユークリッド幾何学の「無矛盾性」というのものに(たんなる形式主義的な意味以上の)意味があると思いますし,それが真である(少なくともかなり確からしい)という私の確信が経験的なものだということには,今ひとつ納得がいきません。

また,数学的な「確からしさ」が全て経験的検証による「確からしさ」に解消されてしまうならば,>>253>>256>>257の「数学」を「(経験)科学」に含めることに疑問を呈する立場も,再考を迫られることになるのではないでしょうか。

ですから,数学的な「確からしさ」の少なくとも一部は経験的検証における「確からしさ」に解消されてしまわない,というのは常識に適った態度ではあると思います。

# 哲学的には,数学的な「確からしさ」どころか,論理学の公理や推論規則まで経験的検
# 証にさらされるだ,という立場があることは知っているで(理解不足で間違っているの
# かも),そういう立場が間違いだとはいいませんが。

# ポパーは数学と(経験)科学を明確に区別していますよね。
# 例によって,クーンは違うかも。

284NAN:2007/01/19(金) 12:08:42 ID:op1ePviI
レスをいただいたからには私も(笑。
ただ…まぁ多対1の状況ですから、macska氏に対して「返事を必ずせよ」と云う気はありません。
#ていうか私が書かなければいいだけですが、返事をもらえないからといって「不誠実だ」と云う気は、この状況ですのでありません。

>>245 から
>言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。

この点に考えが及ばなかったのだとしたら、それは致命的ですね。馬鹿としか云いようがありません。また「それは誤読だ」と主張するよりも、自己の記述に「誤読を生むに足りる十分なミス」があったことを認め、前言撤回するなり訂正するなりすることのほうが議論をスムーズに進めることができるとは思えなかったんでしょうかね。

>イエスのDNAが手に入れば(そして周囲の人のDNAも手に入れば)、イエスの両親が誰であったかということは科学的に検証できる。できないという理由が何かありますか?

「我々が使うカガクとか云うモノサシによるひどく狭い限定的な検証」は可能です。しかしこれは「聖書にある言葉を逐語的に検証している」に過ぎず、イエスの生誕およびその周辺に関わる「宗教的知」に対してなんら疑義を挟める類のものではないでしょう。

>まぁ現実に何を人々が「奇跡」と呼んでいるかと調べれば、その大半は「現実世界で起きた物理的な現象」のことだとされているけどね。

想像力の欠如、としか云い様がない。
柳田理科雄だったっけ?の空想カガク云々みたいな本がありますね。アニメのVTRを持ってきてストップウォッチで計って「この宇宙船は時速●●キロで大気圏外に出ているのであり得ない」みたいなバカ理屈をこねるのとなにが違うんだろうな、この場合。

285えめ:2007/01/19(金) 13:21:02 ID:???
○○の夢を見たってのは人知の届くものでしょうかね。
 脳波を測定するとこの時間帯は脳が活動してるから夢を見ているに違いない、ではなく。
夢を心理分析に用いて、という話でもなく。

”霧の向こうにある古〜い獣医さんの所に行ったら犬のエサが売っていて、何気なく手に取ったのが丁度真空パックされたハムのような状態にスライスされた、サラミのような色の肉。
パックにある品質表示のラベルには「成人男性・腿肉」って書いてありました。”
と言う内容の夢を自分が見た事は科学のルールを用いて確からしいと証明できるのか。と言う話ですよ。

科学が言えるのは脳が活動しているかどうかでしょ?
夢を見ている。ましてや○○の夢を見ているってのはわからない。
所謂測定できない→実在しない、という意味で、貴方の言う”人知の届かないもの”です。
すると貴方の理屈ではこうなりますやね。

>人知が届かないのであれば、科学の対象とはならないので科学にはそれがあるともないとも(あるいはどれくらいの確率で
>存在するとも)全く何も分かりません。
そうだよね。ドラえもんか何かみたいに夢を見られる機械がない限り、○○の夢を見た事実は客観的に観測できないね。
たとえ嘘発見器を使ったとしても、本人が夢とどこかの記憶を混同している可能性を考えれば、その夢を見たかどうかと言う客観的な検証の方法はないでしょね。
>しかし、それが人知の届かないモノであるならば、科学にとってわからないだけで
>なく、宗教にとってもわからないはずです。
ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。
宗教によっては夢は明確にお告げと言う事実であったりしますし。
それによって行動を起こす場合も少なくない。よかれ悪しかれですが。
何たって夢を見ているのは確かだし、見ている本人にとっては夢の内容は”事実”でしょう。
たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないんであって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容までは証明できないからだ。
だって科学にとってわからないものは、宗教にとってもわからないはずだから。
と主張するのはただ科学の認識ルールを宗教に押し付けているだけ(所謂科学主義)、滑稽じゃないですか?

奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないのー?と言っているんですよ。
んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全てだと宣言するのは変だよーと。

事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。


>diamonds8888xさん
そうですね。ROMしてるつもりだったんですが
>>264の宣言がなにか
同意を得ない後出しの一方的な線引きに見えて「そりゃねえよ」と反応してしまいましてね。

>fukkenさん
出来るだけゆるりとやってくださいな。

286えめ:2007/01/19(金) 13:26:29 ID:???
訂正
×宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないのー?
○宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー

287ミケ:2007/01/19(金) 14:24:13 ID:???
本題とは全然違うお話ですが。

>>246
>なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが
という書き込みを見つけたのでちょっと解説とか。
まあ書きこんだYS さんはもう見てないかもしれませんし、見ててもスルーするかもしれませんが

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6
上記サイトの「自然科学と数学」の項を参考のこと。

こと疑似科学と科学を区別する上で重要なのは、
現在得られる観察データと理論が矛盾しないかどうか
すなわち、検証可能かどうか、という点です。
数学とは理論そのものであり、「予測してデータと照らし合わせて検証する」
という疑似科学と区別する上で最も重要な過程がありません。
(といっても疑似科学ではないんだよ、念のため)

そういうわけで、「科学と疑似科学」を扱うここのHPの住人には、
数学を科学から除外する方も多いかと思われます。
ちなみにミケとしては、
「数学は科学にとって必要不可欠といってもいいくらいだけど科学そのものではない」という認識です。
論理的思考のトレーニングをそれなりに積んだ人なら、
納得はしなくても上記の立場を理解はしてくれると思います。

288ミケ:2007/01/19(金) 14:27:54 ID:???
>>287
>現在得られる観察データと理論が矛盾しないかどうか
>すなわち、検証可能かどうか、という点です。

ここ、ニホンゴの用法間違えました。
すなわち → そして

289macska:2007/01/19(金) 15:28:55 ID:VdHL1C4M
>>282
なるほど、そういうことなら今更わたしが何を言っても無意味でしょう。

でもわたしは何かの行き違いだと思うので、もし別の議論で出会うことがあれば、そのときはもっと建設的な議論ができることを願います。もちろん、こちらには悪気がないのにそこまで悪く受け取られてしまったということは、気分的にまだ納得できるものではありませんが、多少なりとも反省材料として今後に活かしたいと思います。

>>284
> また「それは誤読だ」と主張するよりも、自己の記述に「誤読を生むに足りる十分
> なミス」があったことを認め、前言撤回するなり訂正するなりすることのほうが議
> 論をスムーズに進めることができるとは思えなかったんでしょうかね。

コミュニケーションには誤解というのはつきものであり、必ずしもどちらかが悪いというわけではないと思うのです。今回の場合、「もっと分かりやすい書き方はできなかったか」と言われればそれは確かにできたと思うのですが、わたしが誤記したわけではなく、「ミスがあった」とまでは言えないのではないかと。もちろん、誤解を受けたことは事実ですから、全く責任がないとはいいませんが、だからこそ追加説明や釈明を行なうことでその責任を果たしているつもりです。

ま、議論をスムースに進めるためにとにかく頭を下げるというのも大人の知恵ですから、「訂正する」と一言どうしても言って欲しいというなら言っても良いです。でも、既におこなっている釈明で十分じゃないの、という気持ちは残りますね。もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。

>>284
> 「我々が使うカガクとか云うモノサシによるひどく狭い限定的な検証」は可能です。

それで十分。それ以上のことを何も主張していません。

> しかしこれは「聖書にある言葉を逐語的に検証している」に過ぎず、イエスの生誕およ
> びその周辺に関わる「宗教的知」に対してなんら疑義を挟める類のものではないでしょう。

まったくその通り。そうであるにも関わらず、「現実世界で起きたとされる事象は検証が可能である」と言うことが宗教に対する侮辱だとか冒涜だとかいう人が多くて困っていました。

290macska:2007/01/19(金) 15:29:32 ID:VdHL1C4M
>>285
> ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。

宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。

> たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないん
> であって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

言えばいいんじゃないですか。

> 科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容
> までは証明できないからだ。

科学が宗教に指図を出すような問題じゃないでしょ。宗教が何を主張しようと勝手だけど、周囲が「宗教が何か確からしいことを知っているらしい」と認める必要が一切ないですよというだけで。

わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」という意味で使わないで欲しい、という要望があります。まぎらわしいし、宗教者自身がそのあたりの区別を見失って混乱しているのをよく見かけるからです。しかしわたしは、科学から宗教に出すべき要求としてそれを主張していません。

> 奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー ?と言って
> いるんですよ。

混同すべきではないですね。
ただ、宗教的見解として示されたことであれ、それが現実世界の事象についての言明であるなら、科学的手法による検証の対象となり得ますよと。仮にそれでその言明が科学的に否定されたとしても、それによって宗教的意義までは否定されない、ということでしたら同意します。

> んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全て
> だと宣言するのは変だよーと。

それはその通りですが、そんな宣言誰もしてないし。

> 事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、

これは違います。水をワインに変えたとかマリアが処女受胎しただといかいうのは、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」の例として挙げただけで、宗教的教義に含まれる「現実世界の事象についての言明」であればなんだって同型の議論ができます。聖書から例をとったのは、逐語的解釈の立場をわたしが取るからではなく、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」として良く知られており、分かりやすい例だからです。

> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。

「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。その釈明を受けたうえでも、まだ暴論だとお考えですか? もしそうであるなら、その釈明も考慮に含めたうえで、どうしてそれでもまだ暴論なのか説明してください。

291AH1:2007/01/19(金) 18:00:47 ID:b4lKR3h.
>そんなことで怒らないで欲しいんですけどね。まぁ、知りもしないことを「知っている」と標榜することで商売しているような宗教にとってはダメージかもしれませんが、宗教の価値ってそんなことではないんじゃないかなぁ。

「宗教の価値・・」という点については全く同意します。私の感じている違和感は以下の二つ(つきつめれば一つ)だけです。
「知っているという言葉は『科学的に検証されている』の意味だけか」
「知の体系は科学だけか」

昨夜あたりの投稿の中で、mcskaさんが「確信している、というなら別にいい」「自分は科学という枠の中だけで言っている」と仰っていますので、私としてはほぼ納得いきました。
強いて言えば、私なら『ここでは科学の枠内についてのみ、「現実世界」という言葉を使っている(カガク的な現実、とでも言えばいいか)が、もちろん宗教は科学とは違う、方法論も用語も異なる、別個の知の体系である』と、どこかで明確にしておきたいという事です(たぶん論争になったのはその部分)。
「宗教者が怒るだろうな」と書いたのは、これが明瞭でないと「何ー!貴様、科学だけが知だと言うか!宗教は科学に許して頂いた範囲でだけ存在せよと言う気か!」と言われかねない、という意味です(実際、そのようなカガク絶対主義的な考えは存在するでしょうし、少なくとも科学が『幅を利かせる』現代において宗教者は日々、実感しているでしょう)。

勿論、私は道具としての科学の有効性を疑わないし、馬鹿でもできる・・というか「衆生でもできる」と言いましょうか、サトリを必要としない知の体系として科学の有効性を認めています。一方で地下猫さんの言う「別の知の体系」の存在も認めます・・というか否定しません。
複数の知の体系がある場合、「それは『どの体系に関して』知ってるって意味か」をコンテクストから判断する、わからなければ確認する、また語る側が複数の知の体系を混ぜこぜにしてしまわない・・という注意は必要でしょうが、私はそれだけで良いと考えます。

ああ、やっと「腑に落ちた」。これは複数の体系にまたがって「わかった」ということでしょうね。

292芥屋@keya1984:2007/01/19(金) 18:59:17 ID:SDpU3giY
>macskaさん

本題に戻しますよ。

>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。

そうですね。ここでいう「神」には当然「仏」も含めていいのでしょうが、ひとくちに「仏」と言っても仏教にもいろいろですから、その仏説とされる教義についても、科学的な考察の対象となるものもならないものもあるでしょう。

macskaさんはここで、さも科学主義者のように思われているようですが、そのへんがいらぬ誤解を与えていると思います。というか、あなたは中願派仏教徒であると自称しているわけですから、他宗教他宗派の教義を引き合いに出して科学をつきつけ云々する前に、自分の仏教(macskaさんいわくの「本来の仏教」)では、これこれこういう具合に科学的検証と仏説とが関わっていると例示すべきでしょう。そこでは、当然に仏教の他の諸宗派との違いにも言及せねばならないでしょう。

こういったことをまず、自分が自分に課して人にそれを示してからでないと、自身も一人の(なんらかの)仏教徒でありながら、やっていることはそれを隠して科学をちらつかせて異教を攻撃しているにすぎないことになります。それこそが、宗教者が科学を悪用する典型ではありませんか。まず、自分が主張していることを自分はどう実践しているのか、それを示してからにすべきです。

いつぞやのように、「自分から見ればチベット仏教は本来の仏教ではない」というから「どういう理由でそう言えるのか?あれこそ中願派だろ?」と問えば無回答、フェミニストとして「大峰山の女人結界は差別だ」というから「それがなぜ差別なのか仏教徒として答えてみよ」と問えば無回答、「男女別で規範があれば、服飾のようなものでも差別」というから「ならば多くの宗教には男女別の規範があるが、それを理由に否定していくつもりか」と問えば無回答…といったことのないようにしていただきたい。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

もちろんその回答を今ここでせよというのではありません。少なくとも自分が今ここで主張していることを、自分の宗教によって説明すべし、ということです。あなたの仏教は「世俗化した多くの宗教」とは違うのでしょう?どう科学的検証を経てきたのか、明示すべきです。

293Josef:2007/01/19(金) 19:07:41 ID:uPoVYQoU
>>267
小林秀雄のその文章、昔読みました。死者を悼むことに似て、「神」とは相互主観的に共有できる「事実」ではなく主観的な「意味づけ」なのでしょう。この水準は科学の対象とはなりえないと思われます。

しかしながら「神」とされるものにもまたいろいろあるわけで、科学的に観測し得る経験世界に介入して科学法則に反する奇跡現象を惹き起こすような「神」もいる。そういう「神」の行為なら科学的検証の対象となる、というのがmacskaさんで、これもまた当然のことですね。

>>283
>少なくとも,「経験的ではない」と断言できる幾何学的直観を,私は例示することができません。

「点」とか「線」は非経験的な幾何学的直観ではありませんか?公理もそう。そしてそこから先はトートロジー。科学であれ数学であれ、経験的事実に還元しえない直観に始まっていると思われます。だから19世紀の急激な科学的知の増大とともに「本当にこれらは正しいのか」という自らの立つ地盤への懐疑が生まれ、各種基礎論が盛んになったと理解しています。『幾何学の起源』等で知られる現象学者フッサールは客観的な「正しさ」ではなく「疑いえない」という「確信」に諸科学の基礎を求めようとしましたね。成功したとは言えないのでしょうが。

その水準では、macskaさんが

>>290
>わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」
>という意味で使わないで欲しい、という要望があります。

と言うのは無理なのであって、科学もまた知の源泉を辿っていけば「確信」で行き止まりになると思われます。ただmacskaさんは最初からそういう水準ではなく、もっと常識的な水準で語っていることもまた明らかですから、あくまでもmacskaさんの主張から派生した別の話題として楽しく話し合えばいいでしょう。

294NORTON3rd:2007/01/19(金) 19:15:44 ID:tQvpJqX6
>>292芥屋@keya1984 さんはじめまして
>中願派

アノ、失礼ながら中観派(たしか竜樹菩薩のお弟子だったと思うけど)の間違いでは・・・

295AH1:2007/01/19(金) 19:35:59 ID:b4lKR3h.
ていうかまたタイプミスしてますね、私。macskaさんのaが抜けてる。

macskaさん、失礼いたしました。
(マウスの調子が悪いのでコピペをさぼっております。そのせいです)

296すらりん:2007/01/19(金) 19:43:23 ID:Fc.S231Y
>>290
>> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。
>「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。

結局macskaさんが日本語表現に無頓着だったということですかねー。

教義を「捻じ曲げる」と表現してますけど、それは一般的には、「変える」という単に現象を説明する言葉プラス
「自分はその行為を不快に思っている・批判的に見ている・あるいは悪意を持って見ている」というような意味合いの、
発言者の主観をも含めた表現です。
そういう言葉を使ったまま「自分はそれが悪いことだと言ってないし思ってない」と後から釈明しているような行為も
冒涜とか愚弄とか受け止められた要因かも。
「捻じ曲げる」以外にも似たような表現の仕方がいくつかありましたからね。
そういう言葉に対する感覚のずれがあったんでしょうね。

297すらりん:2007/01/19(金) 19:44:31 ID:Fc.S231Y
>>224
>然り。
>相手がたとえオームであっても、その部分だけで判断するのなら、真理をつかんでいるかもしれにゃーという可能性を捨てることはできにゃーです。

いわゆる「理系エリート」などと言われる人達が何故簡単にオウムに騙されて犯罪に走ったのか、
と言われてましたが、
物事を突き詰めて考えると逆に騙され易くなる部分も出てくるのかなあ。

普通の人の感覚では「そんなアホな」と入り口の部分で一笑に付してしまえる事柄でも
科学が解らない真理をつかんでいる極小の可能性を見出して実際に入信して試してみようとする。

極小の可能性を否定しきれないという点については、
空飛ぶスパゲティの怪物の存在を否定し切れないのと同様の意味で同意できそうなんですけど、
ただ極小の可能性を強調することには上のような弊害はあるなあ、と思いました。

どうも話が拡散してしまいました^^;

298macska:2007/01/19(金) 19:59:21 ID:VdHL1C4M
>>291
> 強いて言えば、私なら『ここでは科学の枠内についてのみ、「現実世界」という
> 言葉を使っている(カガク的な現実、とでも言えばいいか)が、もちろん宗教は
> 科学とは違う、方法論も用語も異なる、別個の知の体系である』と、どこかで明
> 確にしておきたいという事です(たぶん論争になったのはその部分)。

うーん、わたしは科学だけが知の体系だとは思わないし、宗教の中にも知の体系はあると思うけれども、人知が一切及ばず信仰するしかないものについての「知識」がある、という言い方には抵抗を覚えます。人知が及ばないところに「知」は定義上ありえないように思うのですが…

例えば、宗派によって違いはありますがアブラハム系の宗教ではさまざまな天使の名前や階級や担当がことこまかに分類されていますが、それらは「知識」と言って良いのかどうか。仮にそれを「知」と呼ぶとしたら、それは他の分野の「知」とはかなり違った特殊な用法であると言わざるをえないです。

>>292
> というか、あなたは中願派仏教徒であると自称しているわけですから、他宗教他
> 宗派の教義を引き合いに出して科学をつきつけ云々する前に、自分の仏教(macska
> さんいわくの「本来の仏教」)では、これこれこういう具合に科学的検証と仏説
> とが関わっていると例示すべきでしょう。

いやー、たしかにわたしは中観派仏教徒を自称していますが、わたしにとって仏教は価値観であって、信仰ではないんです。というか、人知の及ばないことについてあれこれ言う人がいても惑わされるな、という教えが仏教にはあると思っています(そしてわたしは、それが神様や仏様や偉い人の教えだから従っているのではなく、その教えに納得がいくから従っています)。これまでわたしが発言してきたことには、そういう(わたしが理解するところの)仏教的価値観というか仏教経由の価値観も反映されているでしょう。

> こういったことをまず、自分が自分に課して人にそれを示してからでないと、自身も
> 一人の(なんらかの)仏教徒でありながら、やっていることはそれを隠して科学をち
> らつかせて異教を攻撃しているにすぎないことになります。

だから、異教を全然攻撃していないんですが。

> いつぞやのように(以下略)

わたしの発言の不当なまとめが多いです。ていうか、それぞれきちんと回答したことばかりなのに「無回答」と詐称するのは止めて欲しいですね。

ただ、納得していただけるまで延々と議論に応じることができなかったのは事実で、なぜならその当時、わたしは各地で講演の仕事が立て続けにあったからです。もしあの時に未解決だった論点があるのでしたら、出来る限り答えようとおもうので、芥屋さんの掲示板の方でまた話題を振ってください。

> 少なくとも自分が今ここで主張していることを、自分の宗教によって説明すべし、
> ということです。

わたしがこれまで主張してきたことの背景には、仏教的な価値観の影響もありました。まる。ドーキンスやデネットの影響の方が強く出ていたんじゃないかと思いますが。これで満足ですか?

> あなたの仏教は「世俗化した多くの宗教」とは違うのでしょう?

ドーキンス的には、わたしにとっての仏教(信仰ではなく価値観)は「宗教」と呼ぶべきではありません。以下は「The God Delusion」 p.37 から引用。

> And I shall not be concerned at all with other religions such as Buddhism
> or Confucianism. Indeed, there is something to be said for treating these
> not as religions at all but as ethical systems or philosophies of life.

もちろん、仏教と名がつくものでも超自然的な存在や事象を扱うのであれば、ドーキンス的な定義においては宗教と呼ぶべきです。(この本の別の部分でドーキンスは、障害児は過去の生において何か悪いことを行なったに違いない、という仏教徒の発言を批判的に引用しています。)

あと、わたしは「世俗化した多くの宗教」を何ら批判してないので、その点誤解なく。

>>296
> 「自分はその行為を不快に思っている・批判的に見ている・あるいは悪意を持って
> 見ている」というような意味合いの、発言者の主観をも含めた表現です。

ええ、だから軽い皮肉くらいの意味合いはありました。それはとっくに認めています。
でも、批判とかそんな大それたつもりじゃなかったんですよ。
まぁ、感覚のずれがあったと言われれば、そうだったとしか言えないですね。

299Josef:2007/01/19(金) 20:25:53 ID:uPoVYQoU
>>297
>いわゆる「理系エリート」などと言われる人達が何故簡単にオウムに騙されて
>犯罪に走ったのか、と言われてましたが、物事を突き詰めて考えると
>逆に騙され易くなる部分も出てくるのかなあ。

突き詰めて考える、というより、科学は価値を扱えない、ということが大きいんじゃないかと思います。勝手な推測ですが。こけおどしであれ、世界を説明する大きな価値体系を示されるとコロッと行く可能性はあるんじゃないですかね、文系理系を問わず。

あと、突き詰めて、に関して思い出すのですが、ノーベル賞の利根川進氏が「いくら人間の身体を調べてみても『尊厳』など出てこない」という意味のことをテレビで言っていました。「尊厳の不在」という喪失感・不安感は、ひょっとすると自然科学に携る人に存外強いのかもしれません。

300AH1:2007/01/19(金) 20:36:54 ID:b4lKR3h.
>仮にそれを「知」と呼ぶとしたら、それは他の分野の「知」とはかなり違った特殊な用法であると言わざるをえないです。

まあ、言葉の感覚の問題に帰着してしまうと要するにそれだけのことなんですが、私でしたら「人事課に問い合わせたんかい!」とう突っ込みは無しにして(笑)、「ああ、この人はこういう基盤で言ってるだろうね」と脳内翻訳します。業界用語として聞く、とでも言えばいいでしょうか。
宗教においては、「自分はそのような事を知るレベルにないために自分が確認したわけではないが、信頼できる先達がそう言っているのだからそれが正しいことを確信している」とする「知」の伝達もあり得るのではないですか?(職人技もこれに近いかな?製造・加工技術は物質を扱う故に科学と相性が良さそうですが)
それが「どの方法論によるどういう体系の知か」を確認しておくのは必要だと思いますが、その上で、私は恐らくmacskaさんよりも曖昧さ(もしくは多様性)を含めた形で「知」という言葉を使うことを認める、そういう言語感覚を持っています。
ということで、とりあえずROMに戻ります。おつきあいありがとうございました。

301みずすまし:2007/01/19(金) 22:02:15 ID:TgyKdXjk
>>293
>「点」とか「線」は非経験的な幾何学的直観ではありませんか?公理もそう。

私はそう思いますが,非経験的であると断言する気にはなれません。

あえて,それらは経験的なものだという主張をしてみると,「点」や「線」も不完全なものは黒板にも画くことができるので,そのような具体的に画かれた「点」や「線」から抽象した観念を私達は持っているにすぎないともいえますし,ユークリッド幾何学の公理も同様です。

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あと,単なるおしゃべりですが,ウィキクォートの「数学」の項↓がなかなか面白いです。
ttp://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6

302HAKASE:2007/01/19(金) 22:24:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

「原理的に不可能であるとまではいえない」という点に了解していただいてありがとうございます.私が言いたかった最大の点はこの点なので,ここを理解していただけて感謝してます.

で,temaさんのご指摘に対する回答ですが,大筋だけ最初に述べると,私自身は「将来的に観測できる可能性が高いだろう」とは思っていますが「現状の技術では観測できない」という点は同意見です(また,1,2年のスパンでは観測はまだ無理だろうとも思います).

私自身も,temaさんへのお返事を書いてから「原理的には不可能とまではいえないはずなのに,なんで現状ではパイロット理論と呼ばれるものの実証的な証明がなされてないのかなぁ・・・」と疑問に思って考えてみました.
まず前提として,前回の説明を若干補足したいのですが,「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.
例えば観測装置が周期的な特性を持つ場合でも,観測結果のデータ列がカオス的であった場合には,観測対象がカオス的だといえます(観測系が「カオス的でない確率系」の場合にどうだったかはちょっと記憶があいまいなので(何か前提条件があった気もするのですが覚えてない)この点の厳密な説明は避けさせてください).

で,以下は量子力学の実証的検証の研究の現状について何ら調べていないうえでの個人的な想像で書きますが,「おそらく,各観測時刻で,統一的な特性か,周期的な特性(か,あるいはカオス的でない確率的な特性)を持つ事が保障されている観測装置を作るのが,現段階の工学的レベルではまだまだ困難だからなのではないかなぁ」と思い至っていたところでした.
カオス制御とかの工学的応用分野では,カオス系の特性を持つ力学系を周期性を持つ系へと変更する技術などがあります.それから特定の1つの量子を厳密に追いつづけなくても,集団での測定ができれば,多次元の時系列解析ができる余地があります.それらが応用できる可能性はあるのかなとも思います.ただ,量子レベルの観測装置に対して工学的にそれらが適用可能かどうかとかまでは,今の自分にはよくわかりません.

ただ,上であげたように分析手法や解析手法などは本当に様々な種類のものがあって,「観測系を含めた測定結果を用いたもの」や「カオス理論を応用したもの」などをはじめ,近年でも様々なものが新たに提案されていますし,現状の工学的技術のレベルでは無理であっても将来的には観測できる可能性があるように私には思えます.そのあたりの感覚がtemaさんと私との間で少し違ってるせいで,「可能性が高いと思える結論」が異なってるのかなとも思います.
これ以上は,お互い「可能性」の話以上にはならないと思いますし,主要な意見は合意しあえた(最終的な「可能性」に対する意見は異なりますけど)と私は思っていますが,どうでしょうか?

# 量子力学の話,いろいろ勉強になりました.ありがとうございました(結論聞く前にお礼書くのは問題かもしれませんが(^^;).

303みずすまし:2007/01/19(金) 23:35:32 ID:TgyKdXjk
>>246
> あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証
> 明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね。>>202に関して
> いえば、Aが宇宙の真理が42である証拠を出さない限り、Bは(そしてA以外の誰も)A
> の主張を論理的に認める義務はありません。これは科学もクソもない、単なる論理の問
> 題にすぎません。

これについて反論がやっと整理できたので,だいぶ遅レスだけど,一応反論しときます。

第一に,それは「論理の問題」ではありません。たんに論理の問題なら,全称命題であれ,存在命題であれ,とにかくその命題の成立(証明可能性)を主張する人に証明責任があるはずです。

むしろ,私達はそこまで論理的に突き詰めて判断してばかりはいられないために,その「当たり前のルール」があるのではないでしょうか。

第二に,このスレはディベートをしているのではありません。審判がいないこと,論題が審判や主催者から与えられてるわけではないことから,それは明らかです。従って,少なくとも「ディベートのルールに反する」という形で非難を受けるいわれは,参加者の誰にもないものと思います。

# もっとも,「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」というのは一
# 般的な議論のルールであって,ディベートに限らず,それ以外の形の議論にも適用され
# るとはいえるかもしれませんが。

第三に,下の>>75のmacskaさんの記述に関しては,macskaさんの「宗教にも分からない」という主張に対して誰かが「宗教には分かる」という主張をしているのならば,仰るところの「当たり前のルール」の適用によりその人に証明責任があると考える余地がありますが,少なくとも私は(そしておそらく多くの人は),「宗教には分かるかどうか,分からない」というメタレベルに議論を移そうとしていた(いる)のです。

# 私はそれがうまくいく自信がなくて,諦めましたが。

>>75
> 科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにするこ
> とができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。

「宗教にも分からない」という主張と,「宗教には分かるかどうか,分からない」というメタレベルの主張では,その「当たり前のルール」はそのままは適用できません。

強いて適用するなら,「宗教にも分からない」という主張は「宗教には分かるかどうか,分かる」という主張を含意しているのですから,その主張をしているmacskaさんに証明責任があるという帰結になるだろうと思います。

# 強いて適用する必要があるとは,私は思っていませんが。

そして,ディベートにおいてはそのようなメタレベルの主張を行うことは禁止されていますが,第二点として書いたように,ディベートのルールに反したからといって非難を受けるいわれはないものと思います。

また,ディベート以外の一般の議論について,「宗教には分かるかどうか,分からない」といったメタレベルの主張をしてはいけない,というルールがあるとは思っていません。

# あまりにメタレベルにメタレベルを重ねて,極端に深い懐疑論に根ざす主張は制約され
# てやむを得ないと思いますが。
## 比喩的にいうと天井はある。

いずれにせよ,そのようなメタレベルの主張が許されるのか,許されるのならばどの範囲で許されるのかは,おっしゃるところの「当たり前のルール」とは別の問題であるはずです。

304芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 00:12:57 ID:Q7XBVw2.
>NORTON3rdさん

ご指摘ありがとうございます。「中観派」です。

>macskaさん
>>298
あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。そんなことは何の関係も無い。「価値感であって、信仰ではない」…だから何なのです。あなたにとって仏教が「宗教ではない」もので、「信仰ではなく価値感」だとして、それが仏教である以上は仏説であるはずです。その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、それを示せと言っているのです。

できないことなどないでしょう?見せてご覧なさい。ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上、当然、あなたも自身の受け入れるところの仏説に対して、それを行ってきたはずだ。異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。仏教徒と称しつつクリスチャンに科学の矢を放つ以上は、それが異教徒への最低限の責任だと言ってもよい。いや、それ以前に、同じ仏教徒への責任でもある。

それと、「ドーキンス流に言えば仏教は宗教にあらず」とは詭弁もはなはだしい。「宗教」という言葉が仏典用語である。「宗(むね)とする教え」だ。仏教が宗教でないことがあろうか。怪異や奇跡を信仰しないこと、むしろ「信仰を去れ」というに近いものであったかもしれないことは私も承知している。おそらく原初の仏説はそうだったのではないかとは私も思うが、その部分だけに逃げて仏教をとらえてはいけない。既に他の人が引用していますが、

*************
かようにわたしは聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」「そうではない。」・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」すると世尊は、かように教えて言った。「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。

(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁)
**************
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くものであると思うが如何。だから私は問うている。あなたは、自分の主張をこの仏説に向けたことがあるのか。

それと、ドーキンスの近著に感化されたとのことだが、にわかじこみは恥ずかしいのでやめたほうが良い。ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのに、急にグールドvsドーキンスの深い主題が理解できているとは、到底思えないのだが。

305芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 01:38:40 ID:Q7XBVw2.
一例としてmacskaさんが挙げていた「ナザロの復活」を題材にして、ちょっと長い感想を書きました。ご参考までに。
ttp://d.hatena.ne.jp/keya1984/20070119

306地下に眠るM:2007/01/20(土) 02:04:12 ID:KGIxSE4o
ま、不毛といえば不毛なことにゃんが

>>233より
macska「偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるだけ」
馬鹿猫「macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだ」
macska「わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか? 」

>>237より
>はい、その部分は、本来の議論とは関係のない議論に踏み込んでしまって、分かりにくくなってしまったと思います。しかし、 >>33 の時点から >>111 の時点までのあいだに「わたしの主張はそれではなくこれです」と何度も説明しているわけで、それだけ離れた発言を連続するものであるかのように書くのは不当です。
>はっきり書かないと分からないようなのでもう一度説明しますが、>>33 で示した「偶然」についての認識は、わたしは撤回しているのです。なぜなら、それは本来の議論から離れた論点であり、本来わたしが主張していることは、>>33 で示した認識に依存しないからです。

チミの議論スタイルがよくでているにゃんなあ(呆気
33から111の間に、偶然が無知によるものであるという見解を相対化するような記述は僕には認められなかったにゃ。あるなら具体的に出してよ。
「自分のコトバに責任をもつ」ちゅうのは、議論における最低限のルールのはずだにゃ。
ある言明を行なったのであれば、それを明確に訂正しにゃー限りは過去の言明を持ちだされてつつかれるのはアタリマエもいいところだろ? >>33で示した見解を、いったいどこで撤回したの? >>33以降も、何回か偶然は無知によるものだという旨の発言は見られるにゃんがね。

「はっきり書かないと分からないようなので」って何様のおつもり?
自分の発言を撤回するのであれば、それを「はっきり」書くのはアタリマエなのではにゃーのかね?(ここは逃げずに答えること)
チミの主張は、どれがいつ撤回されたものなのかわからにゃーんだ。過去ログを読んでいくと、チミの主張には多くの矛盾点がみられるのだけど、どうしていいのかわからにゃー。
だって、明確に撤回がされてにゃー過去発言をもとに(というか、僕には撤回のテの字も読めなかったけど)発言しても、「いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか?」などといわれてしまったうえに、ログからその経緯をひっぱったら不当だとかいわれてしまうのではにゃー・・・・・


NANの指摘したキリストのDNAがどうとかいう問題もそう。
書き手の意図がうまく伝わらにゃーことは多々あるにゃ。それは確かに書き手と読み手双方に問題があることもあるし、書き手あるいは読み手に重大な、あるいは一方的な過失がある場合もあるにゃ。
そして、この件において、ミケ、NANその他の者が「誤読」をしていた(僕もミケやNANと同じように読んでいた)にゃ。読みは正確な連中だと思うんだけどにゃ。また、読み返しても、ミケやNANの読み方が可能(というかそっちのほうが自然に思える)な記述だにゃ。
そして、「誤読」というコトバは、読み手側の一方的あるいは重大なミスと解釈できる。

あんな文を書いておいて「誤読」とか抜かしたら紛糾して当然だろ?
あんな文を書いておいて「お前の読み間違い、こっちの真意はこうだよ」が通じるはずにゃーだろ?
自分の書いた文章に責任を持つのなら、文の記述にいささかなりともプライドを持つのであれば、訂正して謝罪というのがアタリマエ。チミ以外の多くのものはそうしているにゃ。もちろん僕も、表現に問題があったと思えば即刻謝っているにゃ。

>もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。>>289

議論をスムースにすすめたいから、自分の発言に責任をもてということなんだけどにゃ。
誤りを認める、とか、撤回する、ってのは「明示的」に行なうものなの。でなきゃ、議論にならにゃーの。
あと、本質に関係のあまりにゃーところで、自らの間違いをさくっと認めることにより、ギャラリーに「自分の間違いを認められるヒト」という印象を与えることができるという特典アリ。多用するといい加減な馬鹿と思われるので逆効果。

お願いだから、自分のコトバに責任を持ってくれ。

今後、僕とチミの見解はまるで別物であること。
やはりチミは無知に基づく宗教批判をしていることを検証するにゃんが、自分のコトバに責任を持ってくれにゃーと、こっちのすることがまるでムダになっちまうにゃ。まあ、ギャラリー向けにサービスするけどにゃ。ただし投稿ペースはだいぶ落ちる。

307カモオオハシ:2007/01/20(土) 05:52:36 ID:C0VsT.3A
こんにちは。ここにははじめて書き込みますカモオオハシといいます
(第一掲示板には大昔に書き込んだこともあります)。
以前からmacskaさんと地下猫さんのそれぞれの愛読者(ROMですが)
だったもので「ルパン対ホームズ」でも読んでいるような気分でログを
よませていただきました。格下の論敵を相手に徹底的にたたきつぶすという
芸風の(しかもなまじ有能な)二人がぶつかるとこんなふうになるんですね。
まあ、どちらが正しいというより、お互いに信頼関係があれば問題にも
ならないようなちょっとした言い間違いや説明不足が信頼関係がないため
にいちいち問題化し、関係をさらに悪化させている例のように見受けました。
同じ論点が繰り返し出ているのにお互い納得せず、お互い相手が不誠実な
ように感じている、というのは、視点や関心が違うために同じものがまったく
違うように見えている徴候です。相手からはどんなふうに見えているのか、
自分にとって大事な問題が相手にとって瑣末な問題に見えるのは何故なのか、
とお互い想像力をはたらかせてはいかがでしょうか。

macskaさんに対して一つコメントです。
もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
書いたのではないでしょうか(対応する質問も「神はいないのでしょうか」
というものですし)。わたしは少なくともそう理解し、問題を感じませんでした。
まあ、NATROMさん本人があいまいさをみとめて削除された文章ですので
いまさら蒸し返すこともないのかもしれませんが、もしかしたらNATROMさん
はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。

308diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:07:17 ID:Zz3oJN62
>>267
 「認知の対象とする」ということと「認知した像が正しいか否か」ということは区別した方がわかりやすそうですね。「死んだ子供」も他人が客観的に認知できないとは言えないが、そうやって認知した像は、母親が認知した像とは異なっているし、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
 この世界はヒトにとっても昆虫にとっても認知対象には違いないが、ヒトの眼に映る像と昆虫の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
 この世界は科学にとっても神話にとっても認知対象には違いないが、科学の眼に映る像と神話の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。

 というところでしょうか。

309diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:10:35 ID:Zz3oJN62
 AH1さん(>>300)、みずすましさん(>>303)とも重なりますが。

 macskaさんほどの方なら科学哲学や論理学についても一通りは御承知だと思います。とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」という話は御承知ですよね。科学というより、人間の知覚が有限である以上は人間が何かを100%正しいと断言できることはありえません。科学のどんな命題もその根本には何らかの仮定があります。例えば、

・宇宙のどこもかしこも同じ物理法則が成り立つ
・過去も未来も物理法則は不変
・人間の知覚能力は一人の例外もなく似たり寄ったりである
・世界は論理的に矛盾無くできている

 強力で個人的には例外を見つけていない仮定ですけど、100%正しいと断言はできません。とりあえず正しいと見なして前へ進むという科学の方法は間違ってはいませんけど、思索の上では正しくないかも知れないという立場にたつことも可能です。
 そういう広すぎる立場にも理解を示していただかないと永遠に平行線だと思います。

310diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:14:26 ID:Zz3oJN62
>>279, >>287, >>301
 数学について別スレッドを立てましたので、よろしければそちらで議論しませんか?

311macska:2007/01/20(土) 09:00:43 ID:VdHL1C4M
>>304
> あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。
> ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。

創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。

わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?

というわけで、

> その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、
> それを示せと言っているのです。

価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。

> ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上

わたしの主張を曲解するのはやめてください。わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。

> 異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。

異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。

> 科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くもので
> あると思うが如何。

そのように主張していません。って、これまでの議論ちゃんと読んでから発言してください。

> ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度に
> しか見ていなかったのに、

酷い中傷はやめてください。事実に反します。

>>306
わかりました。書き方に誤解を招くような要素があってすみませんでした。
でも、今は真意が分かったわけですから、それをベースに議論していただけないでしょうか。

>>307
> もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
> という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
> 「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
> 書いたのではないでしょうか

そうかも知れませんが、別の意味で解釈可能でした。

> もしかしたらNATROMさん
> はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
> 言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。

おそらく、その通りでしょう。そして、その結果あいまいさが減って良い文になったと思います。

>>309
> とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」
> という話は御承知ですよね。

はい。「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。科学的命題はどこまでいっても100%正しいとは断言できませんが、論理的命題は100%正しかったり100%間違っていたりということがあり得ます。

312カモオオハシ:2007/01/20(土) 10:15:24 ID:C0VsT.3A
>311
>「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。
わたしは論点となっているのはやはり論理の問題ではなく方法論的選択の問題だと思います。

われわれは五感によって世界について知ることができると思っています。しかし、哲学的には、五感が世界について知るための信頼のおける道具だとどうして言えるのか、と疑うこともできますし、「人々は五感で世界について知ることができるという思い込みを事実とすりかえている」と批判することもできるでしょう。デカルト以来の哲学の歴史が示すように、これは原理的に論駁不能な批判です。五感によってえられる知識が信頼できると示すためにわれわれが使えるのも五感によってえられる知識だけですから、それを疑われたらほかに手がかりはありません。

さて、多くの宗教は「啓示」や「さとり」という仕方で世界の本当の姿について(特に人間の知覚の及ばない部分について)知ることができると主張します。啓示やさとりなんてただの思い込みだと言われてしまえば、それに反論する証拠を挙げることはできないでしょう。しかしこれは構造的にはさきほどの五感の例とパラレルです。つまり、論理的には、知識を得るための手段としての五感と啓示は懐疑主義に対して同じような問題に直面しているわけです。

もちろん、五感は啓示にくらべていろいろな長所があり、五感のみを信じるという方法論的選択には十分な根拠があると思いますが、それを論理的真の地位に格上げするべきではないと思います。

313酔っ払い:2007/01/20(土) 10:25:39 ID:2.Oxx5s.
初めまして。といっても2回目ですが。

macskaさんに質問です。
宗教は人知が及ぶものでしょうか。及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。
宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、宗教の対象となり得ますか。



-------
202へ突っ込みいれてくださった方、ありがとうございました。

314macska:2007/01/20(土) 10:46:23 ID:VdHL1C4M
>>312
よく読んでくださいね。五感によって得られるものが論理的真なのだと言っているわけではなくて、「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。

つまり、仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。一方、仮に「死後の世界」に人知が及ぶとしたら、つまりそれについて何らかの確からしい知が得られるとしたら、それは科学的探求の対象となり得るはずです。

「死後の世界」で分かり辛ければ、「天使のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。また、アブラハム系宗教だけ例に出すのが不当だというなら「仏様や菩薩のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。そのあたりは例示にすぎないので。

>>313
> 宗教は人知が及ぶものでしょうか。

さぁ。「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。

それからわたしは、例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。もし人知が及ぶのであれば、それは科学の対象となり得るし、もし人知が及ばないならば、それは宗教によっても「知る」ことはできず、「信じる」ことしかできないであろうと言っています。

> 及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。

「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。

> 宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、
> 宗教の対象となり得ますか。

人知の及ばないものを信仰する宗教もあれば、そうではないものもあるでしょう(ドーキンス的には、後者は宗教と呼ばないようですが)。

315芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 11:04:18 ID:Q7XBVw2.
>>311
>創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。

何をムニャムニャ眠たいことを言っておるか。価値観を持たない宗教があるか。仏教が価値観であるのは当たり前であり、仏教も宗教であるのは自明のことだ。というか、「宗教」という言葉が仏典用語だと書いただろ。「宗教とは仏教なり。されどreligionにあらず」というなら別だが、そういう主張がしたければ、最初から言葉の再定義を自分でしてからにすべきですな。

でも、そんな作業は本件にはあまり関係ない。いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張としてこのように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。

ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。それも彼らの価値観のよりどころではないか。「価値観は科学的手法で検証されるものではない」…?ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?いやそれ以前に、創造科学その他の似非科学だって科学理論を応用した価値感ではないか。何を言っておるのだ、君は(苦笑)。

それと、現実世界で起こったこと云々、現実世界への介入うんぬんというが、考え方が雑なんだよ。というか言葉が雑。私のブログにも書いたが、キリスト教は「ナザロを復活させたように誰でも復活させてあげますよ」と説いているのか?そういう介入の仕方ではないではないか。腐乱死体は蘇生せぬ…ということは百も承知のことを述べているだけだろ。

>わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。

>わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。

科学のありかたを議論するために異教の教義をあれこれ引っ張り出して、科学の側につきつけているではないか。アホかおまえ。だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。それにあたって、自分が自分にそうしてみた経過を示せと言っている。なぜ、それができぬ?相手につきつけることを自分にはつきつけないのはあなたの悪癖だが、それで済む話じゃないだろ、これは。

316芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 11:06:21 ID:Q7XBVw2.
なお、ついこのあいだまで、あなたが社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのは中傷でも何でもない。オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。私がさも進化生物学と社会構築主義が対立するものと考えているようだとの誤解をあなたがしていたから、そうではないとしてグールドvsドーキンスを挙げてみた。ところが、大山鳴動して鼠一匹のポスモダ大騒ぎだぐらいにしか認識しておらなかったではないか。その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。

もちろん、知らない話に加わらなくてもいい。だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンスの近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。だけど、にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ。それを中傷だという感覚こそ恥ずかしいことだ。

317酔っ払い:2007/01/20(土) 11:51:01 ID:2.Oxx5s.
>>312
回答ありがとうございます。

>「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。

了解しました。これについては、もう暫く考えてみます。

また、

人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない

と理解していますが、これに間違いないでしょうか。信じることしか出来ないかどうかは、人知が及ばないことからは導けないので外していますけれども。

もう一点、

> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。

とのことですが、macskaさんの立場、>>33(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。


--------
こういった議論に慣れていないもので、回答はだいぶ遅くなります。申し訳ありません。

318酔っ払い:2007/01/20(土) 12:03:14 ID:2.Oxx5s.
失礼しました。
× >>33
>>31
に訂正します。

319macska:2007/01/20(土) 12:05:22 ID:VdHL1C4M
>>315
> 価値観を持たない宗教があるか。

それはごもっともですが、価値観があれば全てが宗教というわけではありません。わたしの場合、わたしは仏教を信仰しているわけではなく、価値観として仏教を参照していると言っているのです。それを宗教と呼ぶかどうかは定義によりますが、ドーキンスの定義によればそういうものは宗教とは呼ばないことになっています。

> いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張として
> このように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の
> 主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。

自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。
また、わたしは「科学的な検証の対象となり得るはずだ」と主張しているだけで、実際の検証を行なっているわけではありません。

> ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。

はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。

> ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?

わたしの主張は、現実世界で起きた事象は科学の対象となり得るということです。そのどの部分がどう否定されるというのでしょうか?

> だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、
> つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。

例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。

まぁ例えば、わたしは釈尊(と表記します)が歴史上に実在した人物だと思っていますが、かれが実在したかどうかは科学的検証の対象となるでしょう(そして、もし科学的証拠によってその実在が否定されたら、「へぇ、そうだったのか」と受け入れます)。また、その伝記が正確かどうかも、具体的な記述について何らかの物的証拠があれば検証可能でしょう(そしておそらく、誇張や創作も含まれているでしょう)。そんなこと当たり前ですし、それらの事実が科学的な検証の範囲外だと主張する人はまずいません(現実問題として、検証するに足る証拠が入手不可ということはあり得ますが)。したがって、これらのことが科学の対象であるとわたしがことさら主張する必要はありません。

ところが超自然的な信仰となると、「それは科学の範囲外である」と主張する人が大勢います。しかし、超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。超自然的な主張であっても、現実世界において何らかの現象が起きた(起きる)という主張であれば、それは科学的検証の対象となり得るからです。大勢の人が科学の範囲を間違って狭めて理解していることは科学にとって問題ですから、それはおかしいと主張しました。

その際、例として聖書をとりあげたのは、単純にわたしが生まれ育った環境においてキリスト教やユダヤ教の影響があり、聖書について詳しく知っているからです。仏説やコーランについても勉強中ですが、聖書の方が断然よく知っています(そのため、聖書の知識を他の宗教に一般化しているのではないかというおしかりも受けました)。また、マリアの処女受胎など聖書の中には有名な伝承が数多くあるので、読んでいる方にも理解しやすいと思って例にしました。キリスト教やユダヤ教を何ら冒涜あるいは否定する意図がないことは再三説明しています。

320macska:2007/01/20(土) 12:07:16 ID:VdHL1C4M
>>316
> オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、
> 反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。

全然違います。

芥屋さんが言っているのは、以下のエントリのコメント欄のことだと思います。
ttp://macska.org/article/138
ここで、わたしはオルコックや長谷川の批判をわたしは「反フェミプロパガンダ」として片付けた事実はありません。ブラウンミラーの主張が米国でアンチフェミニズムの側に曲解されて批判されているのは事実ですが、ブラウンミラーに対する批判のすべてが「反フェミプロパガンダ」で済ませられない(とわたしが認識している)ことは、わたし自身がブラウンミラーに批判的であると表明していることから明らかではないかと。

てゆーか、全然関係ない過去の議論から、一方的な解釈を持ち込まないでくれませんか?
別のスレッドなり掲示板で議論しろというなら応じますから。

> その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?
> 相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。

こちらは、いつの話だか分からないです。
たまたまわたしが忙しくて見てないことだってありますし、掲示板において「議論に参加しなかったこと」を責められてもねぇ。

> だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンス
> の近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。

わたしはずっと以前から(97年頃?)ダーウィニアンフェミニストを自称しているし、進化論とか進化心理学とかについてずっと以前から発言してますよ。その中で、もちろん社会的事象に対する進化論の過剰適用や濫用を批判することもあるけれど、それは基本路線として進化論の有効性を認めているからこその批判じゃないの。ドーキンスの近著の影響はもちろんあるけど、ドーキンスの無神論的な主張を読んだのはそれが初めてではないし。「ついこのあいだまで反フェミプロパガンダとして片付けていた」とか「ドーキンスの近著で感化された」なんていうのは中傷だから、止めてくださいね。

> にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ

にわかじこみであろうとなかろうと、おかしな部分があれば批判してくださるとうれしいです。
しかし、過去の経緯をあれこれ一方的に決めつけて中傷するのは迷惑です。

321カモオオハシ:2007/01/20(土) 13:10:33 ID:C0VsT.3A
>>314
>仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから
>「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。

「人知が及ばないものに人知は及ばない」というのはもちろんトートロジーで、だれもそれには反対していないと思いますが、まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもってらっしゃいませんよね。
しかし、この引用した箇所で書かれている「人知の及ばないものについては分からない」というのは実質的な主張ですよね。もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはまさにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。また、そのように解釈しないのなら、今度は「人知が及ぶものは科学の対象となりうる」という主張があやしくなりますね(これも311で「論理的真」の中に含めてらっしゃるようですがこちらはどう考えても論理的な真ではないですね)。

なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。

322芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 13:17:18 ID:Q7XBVw2.
>>320
自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証をさせない口実が立つだろう。

あなたが何をどう言おうが仏教は宗教なの。超自然的な怪異や奇蹟をよりどころとするものは(広義の)宗教の一部でしかない。「宗教」についての自分の貧困な知識をさらけ出して、何を馬鹿なことばかり言っておるか。いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。

いいかね?ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし、そもそも今件、ドーキンスの定義するところにしたがう必要もないわけだ。というか、ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?

>自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。

だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと言ってるんだ。なぜできない?

>はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。

んなこたぁ誰もがわかっている。相手がわかっていることをわかっていないかのように見せかけて繰り返す悪癖は直らんようだが、通用せんよ。

>例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。

しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せと言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。

323芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 13:30:42 ID:Q7XBVw2.
>なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。

こういうのを、言いがかりというんですけどね。

324macska:2007/01/20(土) 14:20:08 ID:VdHL1C4M
>>322
> 自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該
> 当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。
> 何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証を
> させない口実が立つだろう。

あのねー、ヒトの発言を勝手に切り刻んで任意に繋ぎ合わせて「論法としておかしい」なんて言うとは、言いがかりですよ。わたしは「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」とそれぞれ言いましたが、最初の2つから3つ目が導き出される、という「論法」は使っていません。言っていないことをでっちあげたうえで「何じゃそりゃ」と嘲笑してみせるのはやめてください。

ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。当然、そこにキリスト教でも仏教でも違いはありません。「それはおかしい」というなら議論に応じますが、あなたの言いがかりは迷惑なだけで議論のしようがありません。

> いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳
> して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。

「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。一切要求していないことを「要求するな」と言われても困ります。

> ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし

そりゃそうでしょう。ドーキンスと同じレベルだとうぬぼれてはいません。
てゆーか、そもそもわたしは宗教やreligionを批判していないし。

> ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?

それは気付いていなかったです。新説ですか?

> だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと
> 言ってるんだ。なぜできない?

わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。

超自然的でない部分についても、例えば釈尊の伝記の具体的な箇所についてそれが歴史的事実かどうかというのは(史料の分析などによって)科学的検証が可能だと言っています。しかし、それが検証可能だということはそもそも誰も疑っていないので、わたしが言うまでもないでしょ。

> んなこたぁ誰もがわかっている。

つまり、わかっているのに、まるでわかっていないかのように言いがかりをふっかけているんですね。

> しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって
> 自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せ
> と言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。

わたしは仏教を信仰しているのではなく、仏教の価値観に大いに影響を受けている立場であると既に言いました。信仰心というのは科学的検証をして受け入れたり除外したりするものではなく、何かを聞いてそれを信じられるか信じられないかという問題ではないでしょうか。

わたしの場合、聖書であれ仏説であれ、超自然的なものへの信仰を迫るような部分を読んでもちっとも信仰心が湧き出て来ないのです。つまり、何かの基準があって超自然的な部分を除外したわけではなく、ただ信じられないものは信じられないというそれだけのこと。「どうやって除外したのか示せ」と言われても答えられません。信仰の有無とは、そういうものではないかと。

ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。

325macska:2007/01/20(土) 14:35:44 ID:VdHL1C4M
>>321
> まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の
> 及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもって
> らっしゃいませんよね。

さすがにそういう風に聞かれれば「そういう主張はしていない」と答えるでしょうが、だったらどういう主張をしているのかよく分からないのです。

> もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何
> らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測
> が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはま
> さにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。

まあ、そう解釈するしかないでしょうね。

しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

一方、そうした「知」も科学とは違った別のクレーンであるという人もいて、そちらの考え方には興味を持っていますが、まだその説をよく理解していないので、前提となる信仰を抜きに超自然的な「知」が可能なのかどうかは分かりません。

いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからないことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

326いど:2007/01/20(土) 14:58:34 ID:NdEDLjDw
>macskaさん
はじめまして いどと申します

過去ログ読んできたんですがちょっと不明な点があったので質問させていただいてよろしいでしょうか?

以前の書き込みで「水をワインに」というものがあったと思います。

【事象】
ある場所に聖人が現れて神の奇跡とし水をワインにするという奇跡が起きた

【質問】
(1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能という主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。
(2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?
(3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?

327ミケ:2007/01/20(土) 15:29:17 ID:???
酔っ払い さんの
>>317
>> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。
>とのことですが、macskaさんの立場、>>31(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。

にmacska さんがどう答えるか、興味があります。
誠実に議論するならば、これはスルーしてはいけない質問かと。

矛盾していると受け取られた部分については
訂正なり、真意の解説なり、何らかの対応をとる必要があります。
論者としてギャラリーの信頼を得たいのならば。

328芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 17:07:44 ID:Q7XBVw2.
1.「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」
2.「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」
3.「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」

そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、と私は指摘している。1と2から3を導出したわけじゃない?だから何ですか。なるほど私は1と2から3という書き方をしたから、「そうじゃありません。1と2と3は横並びです」と言われれば、それで構いません。その横並びと同じくして、上記「仏教」を○○教や××科学にしてみたらよい。

>ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。

A「昔々、どこそこで何某という人が神の力で死者を蘇生させたということです」
B「今ここで、わたしが死者を蘇生してあげますが、これこれ条件があります」

現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。まずはそこをふまえておかないといけない。

現実世界への介入というなら、現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何とかして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、介入したことなどあるのかね。要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につきつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。

>「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。

するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要求をしているのと同じだろう。というか、私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。

>>ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?
>それは気付いていなかったです。新説ですか?

彼の出世作からですよ。そうは明言していないが、そうなることになる。『利己的な遺伝子』、読むべし^^。

>わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。

しかし仏説にも怪異や奇蹟の叙述はある。具体例は山ほどあるじゃないか。いくらでも出せるだろ、あなたがそれを信仰していようがいまいが。なぜいまだに出せぬ?仏説の中で、あなたがここで主張することに相当するものはない、と考えているわけではなさそうだから、あるはずだろ、あなたなりにこれだというものが。じゃぁ私から聞いてみるが、たとえば梵天勧奨はどうよ?ブラフマー神が釈尊にひざまづいたというアレね。

>ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。

考えすぎ。今はそんな話、あなた以外の誰もしていない。

>ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。

だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。単純直裁に言って、たとえば死体がどのように腐敗していくかとか、なぜ蘇生がありえないのかとか、そういった研究はごくごく普通に行われてきているではないか。いつ、キリスト教会がそれを抑制した?医科学的見地から「ナザロの復活などありえんだろ」と思う人もいるだろうが、「ナザロの復活」があるからといって、それに触れる科学研究が抑制されたという話そのものがないだろうよ。

屈するな?ありもしない何に屈するなというんだ。そんなアジテーションを飛ばすために、自分は己の仏説について何も語らず、ナザロ復活やアリア処女受胎の古伝と万能薬詐欺と同列に並べること自体、異教に対する冒涜だろうが。気付けよ。

329baku22:2007/01/20(土) 17:21:18 ID:pNzc/oDo
> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、
科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。

ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
なのになぜ紛糾するのか。

あくまで自分の場合、なんですが、
macskaさんのブログに書かれていた

■いわゆる「科学と宗教の住み分け」は不可能!
■てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)
■科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない

という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。

背景の「アメリカのかなり酷い状況」をこちらで推測して、「暴言」をなんらかの事実命題の表現ではなく、
政治的発言と読み替えて受け取るのが、今の所やっとです。
その時勝手に「こちらで推測して」と、やっている自分が我ながら少し気持ち悪いです。

330macska:2007/01/20(土) 17:48:14 ID:VdHL1C4M
>>327
うっかり読み飛ばしていました。ご指摘感謝。
というわけで、

>>317
31 で「死後の世界」を「人知の及ばないもの」としたのは、一般にそう言われているモノだという意味です。しかし論理的には、「人知の及ぶ対象として死後の世界がある」という立場もありえるので、その場合どうなるかにも対応した議論を行なっています。

つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。

>>326
> (1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能と
> いう主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。

それが喩え話ではなく現実に起きた事件だと主張されるのであれば、それは科学的検証の対象となるでしょう。
ただし、証拠が十分にないなどの理由で、現実的に検証が不可能であったりすることはあり得ます。「検証の対象となり得る」ことと、現実に「検証可能である」ことはそのため微妙にずれており、わたしが主張するのは前者の方です。

> (2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?

その液体が本当にワインであるのか、まぁ常識的には飲んだら分かりますし、分析が可能なはずです。もちろん、もともとワインが入っていた可能性もあるし、何らかのトリックで入れ替えた可能性も考えられるので、それらの事前のチェックも必要でしょう。

もしそれが一回だけのもので、過去のいつかの時点で起きたことであったならば(例えば、そのワインが既に飲み干されていたら)、それを検証するのは非常に難しいでしょう。なぜなら十分な証拠が得られないからです。しかし、そういった事情により「現実問題として検証が困難なモノ」であれ、例えば「人生の意味」などといった「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」と違い、科学的検証の対象と「なり得る」現象だと言えると思います。

> (3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?

何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。

331AH1:2007/01/20(土) 18:01:40 ID:MM7DYpv2
ROMに戻りますと言った舌の根も乾かないうちに何ですが・・
macskaさんは繰り返し「これは科学の側への要求であって宗教には何も要求していない」と表明しておられますが、そうだろうか?
1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。
2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」
3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」

これは知」や「現実世界」についてmacskaさんの用語法を全員が了解している限りはまあそれでいいかもしれないが、
そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしてはならない」となるからです。
いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。

前にもちょっと書きましたが、単なる用語の問題というより、用語法を通して「現実世界」や「知の体系である事」を奪い合う結果になるから紛糾するんですよ。

332Josef:2007/01/20(土) 18:34:11 ID:uPoVYQoU
baku22さんの仰るようなことはあるでしょうね(>>329)。
ファンダメンタリストの多いアメリカとは日本は事情が違うので、問題意識からして違う。「知る」の一語を取ってみても、macskaさんは限定的な意味で使っていて、その限りでは「その通り」と思うてのですが、この広い意味の言葉をそのように限定しなければならない必然性をここの人たち(私を含めて)は持っていない。だから特定の意味に限定すること自体に納得がいかない。

macskaさんは
>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

と仰いますが、そもそも何で「証拠の有無」が問題になるのか。「私はかくかくしかじかの神を知っている」と言う人がいても、宗教的次元の話だから誰も「証拠を出せ」とは言いませんね。証拠を云々する類の知ではないと認識しているから、もともとそういう発想をしない。
で、言葉が出てくる「文脈」が分からないので、読者は「文脈」を想像して、たとえば「宗教を罵倒している」と言い、「罵倒ではない」と返す、そういう不毛なやりとりが多いと思います。

baku22さんの挙げる「対等」にしてもそうで、どうして根本的に違うものを比べる必要があるにのか、その背景が分からない。何らかの尺度を設定すれば比べることはできるだろうけど、どうしてそういう尺度が必要なのかもたぶん納得しがたいでしょう。

日本ではむしろ科学信仰の方が問題として重要だと思います。だから科学の限界(実際的にも原理的にも)を強調する必要性の方が高い。ここの皆さんもそういう志向が強いのではないかと思います。

333macska:2007/01/20(土) 18:53:09 ID:VdHL1C4M
>>328
> そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、
> と私は指摘している。

言えません。なぜなら、あらゆる宗教に価値観は含まれるけれど、「あらゆる宗教が価値観だけ」ではないからです。現実世界における現象や歴史的事実について(こういう意味である、とかこういう意義がある、ではなく)「こうである」と教える教義を持つ宗教は、その点において検証可能な(少なくとも検証の対象となり得る)主張をしていることになります。

> 現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?
> Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。
> まずはそこをふまえておかないといけない。

だから、A が寓話や文学として提示されるのでしたら、それが事実かどうかと問うことに意味はありません。しかしそれが歴史的事実として主張されるのであれば、科学的な物証をもとに検証の対象となり得ます(もちろん、必ず解明できるとは言っていません)。

わたしは、何も進んで宗教の教義を科学的事実かどうか検証せよと言ってはいませんよ。そうではなく、科学の範囲には、現実世界における事象であるなら、宗教の教義によって「こうである」と教えられている対象を含みうる、という、当たり前のことを言っているのです。

> 現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何と
> かして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、
> 介入したことなどあるのかね。

そんな誰も言っていないような極端な例を出してなんになるんでしょうか。

> 要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につ
> きつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。

架空の話をしているのはあなたでしょ。

> するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一
> 般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要
> 求をしているのと同じだろう。

もし仮に、クリスチャンの科学者が「聖書に書かれている内容は、現実世界に関する言及であれ一切科学的に検証してはいけない」と言うのであれば、わたしはそれは科学者としてふさわしい態度ではないと批判しますよ。それがなにか? そんな馬鹿なことを言う科学者は、現実にはいないでしょうけどね。

> 私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。

言ったでしょ、>>322で。

 > いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果を
 > ここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないこ
 > とを他人に要求するな。

わたしは、他者に向かって「自分の宗教を検証した経緯や結果を示せ」と要求していませんが、この部分を読むとあなたはわたしがそうした要求をしているかのように言っています。もしわたしがそうした要求をしていないと分かっているなら、どうして「自分ができないことを他人に要求するな」と言うわけですか?

334macska:2007/01/20(土) 18:53:35 ID:VdHL1C4M
>>328
> 異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。

だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。しかしそうしたところで、わたし自身にとってそれが「他者の信仰する内容」を例に出していることには違いがないわけ。どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。

それに、これはこれまで公の場で言ったことがないけれど、わたしは仏教の教えに影響を受けているのと同じくらい、キリスト教やユダヤ教の伝統にも影響を受けています。高校時代は毎週教会に通っていたし、現在ではユダヤ教の祝日に年数回ほど出席したりしていますし。それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。

> 『利己的な遺伝子』、読むべし^^。

学生時代に読みましたが、かなり前の話なのでそのうち再読してみます。

> だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。

そのような単純化したかたちでの要求はさすがにありません。しかし多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、「科学と宗教は重なり合わない異なる領域を持ち、双方がお互いの領域を侵してはならない」というような、いわゆる「科学と宗教の紳士協定」のようなものを主張しています。しかし現実には、多くの宗教は「科学の領域」である現実世界の事象についても言及しているので(つまり、科学の領域と宗教の領域は完全には分離できない)、科学の側が宗教の教義を侵害しないことを最優先すれば、科学の領域を不当に狭めることになりかねない。だから、「紳士協定」を盾にとった圧力や自己欺瞞に科学は屈してはならない、というのがわたしの論理です。

> ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する
> 研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

335macska:2007/01/20(土) 18:54:53 ID:VdHL1C4M
>>329
> という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
> どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。

ええと、暴言はまぁ自分で暴言と言っているくらいですから許してください。
その他は、これまで書いてきたことで説明しているはずです。

>>331
> 1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。

はい、トートロジーです。

> 2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」

とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?

> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」

これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。

> そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。
> なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、
> しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしては
> ならない」となるからです。

まず、現実世界と接点があることについて宗教が何かを主張することに、わたしは何ら反対していません。創造論でも天動説でも、科学だと標榜しない限りにおいて自由に信仰・布教する権利があります。どうしてそれを否定していると誤解されるのか、全然理解できません。

次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。

> いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」
> という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、
> ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。

それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。

336いど:2007/01/20(土) 18:58:10 ID:NdEDLjDw
macska さん、ご回答頂きありがとうございます。
>>330
>何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。

「水がワインに変わった」という事が事実かどうかを調べられるだけなんですね?

これでは「"奇跡により"水がワインに変わった」という事の検証にはなりません。

この検証結果により「水をワインに替えたトリックは確認できなかった」とします。しかしここで言えるのはあくまでもソコまでであり
・偶然起きたのか
・神の御業により起きたことなのか
は判別できません。


(A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
 (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
(B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
 (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)

macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?
(間違っていたら突っ込みお願いいたします)

そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

(一通りログ読んだつもりですがすでに既出であり、類似質問に対する答えがどこかにあればお教えください)

>>329
>baku22さん
>> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。
>ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
>なのになぜ紛糾するのか。

それだけの主張であれば「そうよね」でおしまいだと思うんですが、

>>17
>現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
>その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。

というのがキーなのではないかと…

337Hiju:2007/01/20(土) 18:59:14 ID:kwkFD2KY
>>205
>>222
に関して。

>> つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
>> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
>> だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。

> いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。

了解しました。

>> macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
>> ものであることを認めろ、という主張に読めます。

> 宗教的知というのが、(文脈上)現実世界の外側の事象に対する、人間の知覚によって何の確認も取れない物事についての知識であるとすれば、それは科学的知より不確かであると言って問題ないのではないでしょうか。

すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
と言えるのですか。同等ならわかりますが。

また,私は「不確か」よりも,「範囲の狭いもの」の方が問題だと思っています。
繰り返しますが,

> 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> だけ

ならば,

> 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> てしまう。

のでは?という点が気になったのですね。
#おそらく他の方が繰り返してらっしゃるのもこの点では,と思うのですが。

あと,

> それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> と認められるんでしょうか?

というのは,純粋な疑問として聞きたいです。後で知の定義をなさっている
のでこれは議論の対象にならなりませんが,純粋な疑問です。

338Hiju:2007/01/20(土) 19:07:41 ID:kwkFD2KY
>>336 いどさんの

> (A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
>  (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
> (B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
>  (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)

> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
> 皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?

> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

に賛成します。宗教的知って,(B)だと思います。

339酔っ払い:2007/01/20(土) 19:09:17 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。

>>330
> つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、
> 人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。

了解しました。主張が改まったのは>>125「もしそういう次元で「死後の世界」が発見されるのであれば、もちろんそれは科学の対象ですね」から、だと考えてよろしいですか。
なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いないでしょうか。

また、>>311 >>314 で仰られていた件、下記の通りの認識で構わないのでしょうか。

人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない

ひとまずのところ、この認識が正しい前提で、話を進めさせていただきます。

さて、macskaさんは

>>161 文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。
>>311 わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?

と仰っていますので、ひとまず価値観を「科学的手法では否定(も肯定も)できず、現象でもなく、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないもの」としてみます。
なお、ここでも「人知が及ぶ」ということを、>>314「何らかの客観的な観測が可能である」と解釈してます。

この解釈上では、価値観は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定も、今のところできません。確かに究極的には科学的な検証対象かもしれませんが、これだけですと、「人知が及ぶ」と言えるのかどうか不安です。ですが、「科学とは別の適したツール」が使えるのならそれで十分だとも思えます。

次に、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」を考えてみます。例えば「死後の世界」、ですね。

ここで、価値観と死後の世界の共通点を見ていきますと、死後の世界は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定もできない。究極的には科学的な検証対象かもしれないけれども、違うかもしれない点も同様です。

残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に「科学とは別の適したツール」が存在しています。

そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだと思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。

340AH1:2007/01/20(土) 19:21:58 ID:MM7DYpv2
>とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?

いや、当初から紛糾した理由は、最初の頃にそう仰っていた事、あるいは(「暴言だった」と発言されているもののレスに埋もれて忘れていた)「宗教と科学は住み分けできない」という表現、そういった部分にあっただろうという意味です。
「知」と呼ぶことには抵抗がある、というくらいの言い方であれば私はそれほど違和感を覚えないですが、当初はもっと強い主張をしておられたように感じたので。

>> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」
>これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。

失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、これもおかしいな。
当初は「科学的にわかる事だけを現実世界とする」のように主張されていたと思ったんですが、記憶違いかも?だったら失礼いたしました。


>次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。

そうは感じられなかった、というのが理由の一つでした。希望であって要求しているわけではない、ということであれば、一応了解です。

>それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。

「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。
失礼しました。

現実の取り扱いについてまだ複数の知的体系の間にコンフリクトを招きそうな部分があったように思うんですが、とりあえずお返事のみ。

341diamonds8888x:2007/01/20(土) 19:46:36 ID:Zz3oJN62
>>319

>「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。

 それは人知というものが全てのヒトに共通であるという暗黙の前提に立っていますよね?

> 「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。

 まさにその常識の範囲が食い違っていると思うのですが。客観的というのは「多くの普通のヒトにとって」と解すればよいと思いますが、啓示なんてのはその意味では客観的ではありませんよね?

 というのはカモオオハシさん(>>321)と重なってるのかな?

342diamonds8888x:2007/01/20(土) 19:47:25 ID:Zz3oJN62
>>328

>異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。

 宗教の例として何を持ってくるかは本筋とは無関係でしょう?

343diamonds8888x:2007/01/20(土) 20:04:20 ID:Zz3oJN62
そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。

344NAN:2007/01/20(土) 20:13:20 ID:op1ePviI
このスレに投下すべきネタかどうか迷ったけれど、まぁ紛糾そのものは収束しつつあるようだし、あとは個別対応ということで、私としては一連の流れを読んで少し考えたことを書きます。

>>339でも再提示されていますが、「死後の世界」はまぁ…実を云うとこの世は全部死後の世界で、誰かが死んだ後の世界なので…みたいなネタも散見されますが、それも置いておいて…
宇宙論とか量子力学とか理論物理学とかを紐解くと、かなりの初学者向けの文献でさえ「高次元宇宙」だとか「折り畳まれた多次元宇宙」なんて概念が出てきます。私自身、この辺の数学的記述なんかちっとも理解できませんが、なんとなく面白いし、ワケも分からず考えてみたりするものです。

さて、その高次元宇宙あるいは「我々が住む4次元時空以外の宇宙」においても、重力がどう振舞うだろうとか空間の曲率がどうだろうとか、そういう基本的な項目については「科学もしくは数学(幾何学)モデルとして」予測することが可能らしいですね。しかし、そういう宇宙には「私たちには想像もつかない何か」が存在するんだろうか?という問いかけに対して、科学はなんと答えるんでしょうか。

あるいは、そういう宇宙…つまり概念として(おおまかな)モデル化ができるのに、実際に観測したり測定することが原理的に難しい事象に対して、なにかを実証したり反証するという行為は可能でしょうか。
#想像もつかないなにかについて言明することは不可能なのに、想像もつかないなにかを入れておける「器」については想像つくってのが、なんだか逆説的で面白い、と私は思う。

345芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 20:22:59 ID:Q7XBVw2.
>>332
引用されたmacskaさんの>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

これについてです。私は、macskaさんが自分のブログに列挙した一文は「本の帯の惹句のようなもの」だと思っていましたので、多少は過激に誇張があっていいと思っています。帯の惹句だけ見て本の内容も読まずに「そうだそうだ!」とか「けしからん!」とか決めつけて終わる奴は、ただの馬鹿だと思いますし。それだけに、「macskaさん、マジで言ってたのかよ…」みたいな感じはありますね。

譲歩して共通了解を…って、政策会議やってるんじゃないんだけどな。「私の考えすぎだったようで、こう考えてみようかと修正しようと思うのですがどうでしょう…」みたいには言えない人なんですが。

346macska:2007/01/20(土) 20:28:42 ID:VdHL1C4M
>>336
> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?

その通りです。
(B)=宗教的意味付けが検証できると主張しているわけではない、と再三説明しているのですが。

> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。仮に奇跡であった場合、「現時点での科学では原因が解明できない不思議な現象」として立ち現れるでしょう。

> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。
実際に検証可能かどうかはまた別の話だというのはその通りだし、何度もそう書いてきました。

>>337
> すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
> と言えるのですか。同等ならわかりますが。

うーん、「信憑性が確認された証拠に基づく知識」と「確認もできなければ証拠もない知識」では前者の方が「より確か」という言明が疑問でしょうか?

もちろん、究極的には科学的知識の一番奥底にも「現実世界や自然法則が存在する」「われわれの五感は現実世界を把握するための道具としてそこそこ信頼できる」みたいな前提があり、それら自体が確かだという確証はないかもしれません。しかしより常識的なレベルで、では科学的知識も科学的根拠を持たない知識も対等かというと、とてもそうとは言えないと思うのです。

> > 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> > についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> > だけ
>
> ならば,
>
> > 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> > てしまう。
>
> のでは?という点が気になったのですね。

うーん、そういうまとめ方をすると何やらわたしが恣意的に「宗教の知の範囲」を狭めているように読めてしまうんだけれど、それはわたしが制限しているんじゃなくて、人間が得ることのできる知の範囲というのにはどうしても限界があって、わたしたちの知覚や論理の及ばない、現実世界の外側のことについては何ら分からないんだから、仕方がないんじゃないでしょうか。宗教の知の範囲じゃなくて、人間の知の範囲が有限なの。

> あと,
>
> > それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> > 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> > 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> > と認められるんでしょうか?
>
> というのは,純粋な疑問として聞きたいです。

その人は、何か具体的な(クレーン式の)根拠があって神の存在を「知る」に至ったんでしょうか? もしそうでないなら、どうして神の存在を「知っている」と言えるのか、とても不思議に思います。というか、その人は使い分けは確かにしているようだけれど、おそらくわたしが主張する使い分けーーというか、一般社会における定義の通りだと思うんだけどーーとは違った使い分けをしているのではないでしょうか。

いや、もちろん、その人が実際に神の存在を証明してしまったという可能性もありますよ。もしそうであるなら、ぜひ今すぐ発表していただきたいものです。

347macska:2007/01/20(土) 20:29:08 ID:VdHL1C4M
>>339
> なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう
> 証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には
> 科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いな
> いでしょうか。

違います。「原理的に〜分からないモノ」は、やはり科学的検証の対象にはならないでしょう。しかし、あるモノがそのカテゴリに該当するかどうかは、究極的には分からない。現時点でそういうカテゴリに含まれると考えられているものが、将来のある時点には「科学的検証を受け付ける、現実世界の現象」とみなされるようになるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。

例えばわたしは霊というものが現実世界に物理的に実在するとは信じていませんから、霊は科学的検証の対象とはならないと考えています。しかし、もしかすると霊というものは物理的に構成されているのかもしれない。そして、もしそうだと科学的に解明されれば、それはもちろん科学の範囲になります(というか、解明された時点で既にそうなってますね)。

「死後の世界」については、わたしはそれは「原理的に〜分からないモノ」の一種であるという前提ではじめは議論していたのですが、「どうして原理的に〜分からないモノだと言えるのか」という意見をいただき、「それは確かにそうだ、わたしにはそれが原理的に〜分からないモノだと断言できない」と思ったので、主張をリファインしました。

> 残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、
> 文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に
> 「科学とは別の適したツール」が存在しています。
>
> そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだ
> と思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。

問題があるというわけではありませんが、よく考えてみると実は宗教がそれに適しているという主張には何の根拠もありません。また、「死後の世界」についてあれこれツールを用意して考察することに価値があるという根拠もありません。もっとも、文学作品の価値が文学に分かるか、とか、そもそも文学に価値なんてあるのか、というのもまた難しい話なんですが… 文学にしても宗教にしても、社会にその価値を認めてもらうためにはそれなりの努力が必要ということでしょうね。

それはともかく、宗教がもともとあなたの言うような領域について答えるために発達したものだというのは事実だと思いますが、その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。

348macska:2007/01/20(土) 20:31:08 ID:VdHL1C4M
>>340
> > これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。
>
> 失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、
> これもおかしいな。

ちゃんと回答するべきでした。わたしの意見は「現実世界の現象は、すべて潜在的に科学的探求の対象となり得る」です。わからないことはいくらでもあるけれども、わからないことは「科学の範囲外」であることと同義ではない、と考えます。

> 「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。

えーと、「住み分けできない」というのは撤回したわけではありませんが、誤解を招いたのは事実なようなので、追加説明させてください。

ここでわたしが「住み分け」と表現しているのは、 >>334 で説明したような「科学と宗教の紳士協定」のことです。この協定によれば、科学と宗教はそれぞれ独立した領域の中にとどまるべきで、お互いに相手の領域に侵入してはいけない、とされています。しかしわたしは、「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。その結果、科学と宗教で同じ事象についての見解が対立してしまうのは、仕方がないこととして受け入れるべきだと考えています。科学が過剰に宗教に気を配って遠慮するべきではないし、宗教の意義というのは科学が何を示そうとそれによって否定されるものではないと。

北方領土の例に話を戻すなら、わたしの主張は「日本とロシアのあいだに排他的な国境を引くのはやめ、両方の人々が共存すればいいじゃないか」というものです。もちろん現実の国境問題にこういった解決はあり得ませんし(というか、場合によってはあり得ますが日本とロシアのあいだにはあり得ないでしょう)そのような主張はしませんが、科学と宗教のあいだにおいては「現実世界」という領土を排他的に考える必要はないと思うのです。

349芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 20:45:09 ID:Q7XBVw2.
>>334
>だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。

あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。自分が信仰していないナザロ復活やマリア処女受胎を出せるのに、なぜだ?答えてみな。

>もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。

だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

>どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。

じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、ということか。すると仏教よりはキリスト教をよりよく知っているから、ナザロ復活とマリア処女受胎とを、万能薬詐欺と同列に扱うこともできるんだ、と。あなたにとって「よりよく知っている」とは何なのだ?

>それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。

いい加減なもんだなぁ。要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところがある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだけじゃん。いやさ、それでもいいんだけどね、だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか、こういうときに異教の教義を平気でつきつける…ってのは恥知らずもいいとこだな。同じ仏教徒として、偉い迷惑な話だわなぁ。

350baku22:2007/01/20(土) 20:48:36 ID:pNzc/oDo
昔スピノザって人の本を読んだのをふと思い出したんですが、
彼の語る「神」は、かなり「科学的」な人でも受け入れやすいんじゃないかと思いました。

彼の「神」はそもそも世界の「創造主」ではないようですし。
そういう神の概念に愛着があることを、匿名の身ながらこそっと告白しておきます。

351いど:2007/01/20(土) 21:05:06 ID:NdEDLjDw
>>346
>> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
>> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
>
>厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。

つまり
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
ではなく
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
ということですね?

しかし前述したとおり
検証できるのは「奇跡として語られた話が実際に起きたか」というだけです。
それが「本当に奇跡だったかどうか」は確認できないのですよね?

ではどのようにして「『神』の存在」を確かめるのでしょう?

352酔っ払い:2007/01/20(土) 21:11:18 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。

>>347
「それが原理的に〜分からないモノだと断言できない」点、了解しました。誤読に関してお詫びします。

また、

>その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。

これは全くその通りだと思います。その点に関して、完全に同意します。


では、きりもよいようですので、ROMに戻ります。ありがとうございました。

353AH1:2007/01/20(土) 21:17:09 ID:MM7DYpv2
>「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

はい、私もまさにそのように思いますし、現実とは?知るとは?という点が議論になったのだと理解しております。

>ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。

ああ、なるほど。議論の途中で「もしかするとそのような光景を思い描いておられるのでは?」と思ったりもしたのですが、確信できませんでした。そのような御意見であれば異論はありません。
「四島は日本の尺度では日本の領土ですな」
「その通り、そしてロシアの尺度ではロシアの領土でもあります。ハラショー」
ということですね。
やっぱり202の酔っ払いさんの投稿(の特に後半部)のパクリみたいなものですが。

今度は、より納得が行きました

354macska:2007/01/20(土) 21:41:37 ID:VdHL1C4M
>>349
> > だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。
>
> あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。

だから、自分が信仰していないモノなら、聖書かれでも仏教からでも出せますよ。でもあなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。仏教から例を出したとしても、それはわたしにとって「他者の信仰」であるという点で聖書からの例と変わらないのです。

…って、分かって言ってるでしょ? 言いがかりはやめてほしいなぁ。

> だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

どうなんだよって、何が言いたいの?

梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの? 仏教から例を引けば結論が何か変わるかもしれないと思っているわけですか?

> じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、
> ということか。

釈尊が何を言った(とされているか)くらいなら、仏教徒を名乗るくらいですからそこそこ知っていますよ。でも、その宗教学的な位置づけや解釈の歴史なんてことにはそれほど詳しくありません。ユダヤ教・キリスト教については、聖書編纂の歴史や神学的なことを含めてそこらの一般人よりはるかに知っていると思います。だから、より自信を持って例に出せるという意味では、その通りです。

> 要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところ
> がある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだ
> けじゃん。

このように、相手の思想背景について決めつけて中傷するのはやめてよね。進化論についても、芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、ああこの人とは政治的な立場は違うけれども進化論への関心は同じだと思って少し嬉しかったのに、芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

不当な引用で中傷するのはやめてください。

これまできちんとあなたの批判にこたえてきたつもりですが、あんまりこうした中傷が続くようなら、無視しますよ。
それに、別の掲示板での発言に疑問があれば、そちらでお応えしますって言ってるでしょ。

355macska:2007/01/20(土) 21:43:57 ID:VdHL1C4M

>>351
> つまり
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
> ではなく
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
> ということですね?

もう1カ所違いました。
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。
# 前回は後半だけしか書かなかったので、その前に何が来るのか分かりにくかったと思います。

なかなか理解してもらえなくて困っているのですが、ここで「科学の対象となり得る」というのは、現実に検証が可能かどうかとはとりあえず関係なく、科学の議題となる潜在性がある、ということです。現実世界に物質的な介入をする知的な存在というのは、現実世界に生息しているか、少なくとも介入する時点において現実世界との接点を持っているはずですから、それが未来永劫どんなことがあっても絶対に科学の議題とはなり得ないとは決して言えないはず。それに対し、現実世界の外にあり人知が届かないとされるもの(例えば、一般に言われる所の「死後の世界」)は、原理的に絶対に科学の議題とはなり得ません。

356芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:14:23 ID:Q7XBVw2.
>>333はグチャグチャ言い訳してるだけだから割愛。
>>334の後半ね。
>多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、(中略)というのがわたしの論理です。

あのね、それは「わたしの論理」ではなくドーキンスの主張。しかし、あなたがそれを自分の主張に流用しているのが幼稚で見てらんない。「わたしの論理」はひとまず置いておく。ドーキンスがなぜそう言っているかというのは、あなたがいうような、ナザロ復活とかマリア処女受胎が「科学的にあり得ない」「超常現象は信じられない」という話じゃないんだ。

たとえば「奇跡」ね、ドーキンスはどう言ってる?それがなぜホモ・サピエンスという種にとって「奇跡」と思えるかと言えば、その生理的な初期条件からして知覚して認識できる範囲を超えているから…ことに「体験を意識できる時間のスパン」の問題ね…それが「奇跡」に思えるんだ…というところから掘り起こしてゆく。で、彼はそこで何を訴えているか。

それが人間の思考能力の限界を超えていても、決して「奇跡」じゃないんだ、その「奇跡」を示すことで「神」が人に何かを示そうとの意志があったとかじゃないんだ…それは「ありえないことではないんだと考えて探求してゆくべし」と…科学としては、そこまで言わなくちゃだめなんだ、そう言っているんだよ。

なぜそこまで言わなくちゃだめなのか(その種の宗教と「紳士協定」を結んで「お互いそれを言わないことにする」という妥協をしてはだめなのか)といえば、そういう考え方でも良しとしたが最後、科学は科学としてやっていけなくなるじゃないか、ということですよ。科学者なら、そこは絶対にお茶を濁すな…ということね。彼の、グールドに対する批判(というか忠告ね)もその線もあったのだ。あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと、こういうところで見落としが出るから。よく見てね。

>>ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

>くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

そう、そんなわけない。よって、くだらねぇのはmacskaさんなのだよ。ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂。それが史実としてあったかことかどうかなど、それは歴史学の領分。科学としては、「現在の科学としては、そのようなことがありえるとは言えない。しかし、そういうことがあったというのだから興味をもって調べてゆきたい」とは言える。そこが科学の「限界」なのでも「領域」なのでもない。

「それを科学的に調べるな」と言われても屈するな…などという、あなたの主張は絵空事なのだよ。そんなわけがないのだから。しかし問題はそんなことじゃない。科学が、「そんなことはあり得ないことだと現時点での理知でもって決め付けるかたわら、それをことさらに言わず適当に現時点での教会との穏便な社交を優先して、さらなる探求を行わないようようなら科学の自殺」なんだ。しかしこれはドーキンスのreligion批判の片面。もう片面は、私が指摘した「神は存在することになる」の意味がわかってからにしたほうがいいと思うので、ここでは言わない(このスレッドの主題から離れるし)。

357いど:2007/01/20(土) 22:46:35 ID:NdEDLjDw
>>355
>なかなか理解してもらえなくて困っているのですが
申し訳ありません。
今しばらくわたくしにもお付き合い願えますでしょうか。

>>355
>「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。

了解いたしました。対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

さて、以前に以下のような書き込みを頂きました。

>>346
>その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。

それを考慮に入れた上で疑問点があります。

【前提】
ある宗教ではAという奇跡が起きることを「神の存在の証」としています。
Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。

【質問】
(1)奇跡Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)奇跡Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

358芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:49:07 ID:Q7XBVw2.
>あなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。

言ってないよ。信仰していようがしていまいが、と言っている。落ち着いてよく嫁。

>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。

だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

>梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの?

ぜんぜん違う。神の子イエスを通じて父なるヤハウェーが語って人に命じるのと、人の子ガウタマに主神ブラフマーがひざまづいて教えを請うのとでは、同じレベルではない。つうか何だ?その「レベル」ってのは。

梵天勧奨を信じられなければ仏教とは言えない。というか、上で引用した釈尊の言葉も理解できたことにはならない。単に仏説の一部に賛成しただけ。で、あなたにとっての「よりよく知っている」の意味はわかった。あぁ、やっぱりそういう種類の人か、と思った。「知っている」のは「わかっている」ことを意味しはしないんだがね。

>芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、

そうだよ。だからジェンフリに代表される進歩派の反科学も、一部の保守派の似非科学も、ぶっ叩く。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

そうですか。でもあなたが自分で言ったことなので、仕方ないと思います。たとえば、

>>だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
>不当な引用で中傷するのはやめてください。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

359いど:2007/01/20(土) 22:51:45 ID:NdEDLjDw
訂正
>>357
誤)Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。
正)Aという奇跡は神の御業であると宗教では言っており、その奇跡の内容は現実世界に影響を与えるものです。

瑣末なことかもしれませんが一応…

360カモオオハシ:2007/01/20(土) 22:55:01 ID:C0VsT.3A
>>325
>しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみればフック式なわけです(そうなる理由は>>312で書いたことで理解いただけるかと思いますが)。要するに、五感への信仰が先にあって、それが前提となって個々の知覚の確からしさが担保される、と。こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」

これも、そういう場面で唯一証拠になりうるもの(啓示やらさとりやら)の証拠能力を否定すればもちろん証拠はないにきまっていますが、そこが争点なわけですよね。

361HAKASE:2007/01/20(土) 22:55:17 ID:ZC/gbS1c
macskaさん.

えと,「科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない」っていう話についてですが….
工学ばたの私の立場からの解釈ですが,科学的手法というは『その手法が使える「適用範囲」を明確にしたうえで,その適用範囲内にある現象については,ある一定の「誤差範囲(真偽がどの程度の割合で成立するか等を含めて)」内での予測や再現などが可能であることが(現状で観測し得る範囲での実証的な検証過程を経て)保証されている手法』と私はとらえています.
# 真理を探究するという立場の人(あるいはそれに近い他の立場の人も)いるかもしれませんが,私は基本的にはそのスタンスはとりません.
で,macskaさんの先の主張を,私は『ある科学的手法では,その「適用範囲」外にある事象について,その「誤差範囲」内での予測はできない(できる保障はない)けれども,なんらかの宗教的な手法(?)によって,同じ誤差範囲内での予測が可能かといえば,やはりそれはできない(と思える).』という趣旨だと勝手に解釈して,納得してたのですが,あってますか?

あと,「てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)」っていうのも(まあ誤解を与えかねない暴言ではあると私も思いますが),『宗教が「適用範囲」や「誤差範囲」をあいまいにしているのに対して,科学ではそれらを示したうえで,それらを現状よりもさらに厳密にするために実測や検証を繰り返している(あるいはそうするようつとめている)ので,その点で(どっちが上とか下とかは別にして,予測可能性について)両者を対等に扱うのはおかしい』という趣旨なのかなぁと推測して,こちらも納得してました.
# ↑宗教がこれらをあいまいにしていることについては,良い面もあれば悪い面もあると思うし,私の意見は『「宗教でもそれらを厳密にすべき」という趣旨ではない』ので,その点は誤解しないでください(大丈夫だとは思うけど一応…(^^;).

macskaさんの主張には,おそらくこれ以上の話も含まれているとは思うんですが,基本的には上の話を含んでいると考えて良いでしょうか?
他の細かい議論にはついていけてないのですが,私はとりあえず上の範囲の話であれば同意見なので,その点表明しておこうと思って書き込みしました.

362tema:2007/01/20(土) 23:03:38 ID:???
 祭りのさなかに、あえて関係ないことを話すのも、オツなものです。

HAKASEさんへ

 temaとしては、「量子の実証的検証は、将来的にも観測できる可能性は低いだろう」と考えます。
 理由を以下に示します。なお、パイロット仮説が正しいという前提で記述しています。

>>302
>(前略) 「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.

 問題は、観測系も量子で出来ているという点です。
 たとえ機械的誤差などの影響をゼロにできたとしても、量子の影響はゼロにはできません。そして、その影響はカオス的なのです。
 つまり、観測系がカオス的で「ある」ことが明らかなのです。

 このため、工学がどれほど発達しても、量子の振る舞いをカオス時系列解析の対象とすることは不可能と考えます。

 ただし、対象とする量子は1個であり、観測系は膨大な量子からなっています。もしかすると、観測系の量子が与えるカオス的影響をノイズと見なせるような、そんな数学的アプローチが出来るかも知れません。そうなれば、不可能では無いでしょう。

 さて、確かに主要な意見は合意できたと思います。
 カオス理論について学ぶこともでき、楽しかったです。ありがとうございました。

363カモオオハシ:2007/01/20(土) 23:13:58 ID:C0VsT.3A
>>358
>>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。
>だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?macskaさんは仏教の教えの一部分である価値判断の体系を受け入れているだけだと言っているわけです。価値判断の問題にどうやって白黒つけるかというのは難しい問題ですが、少なくとも実験や観察で白黒つくと思う人は宗教者か否か、科学者か否かをとわずほとんどいないでしょう。創造科学など、現実世界についての事実判断をする立場とmacskaさんの立場を同列に扱うのは不当だと思います。

364芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 23:15:14 ID:Q7XBVw2.
>>343
>そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。

難しいですね…進化生物学界隈ではそれをやっていくようなので、賛否両論かしましいのでしょうね。

365macska:2007/01/20(土) 23:22:32 ID:VdHL1C4M
芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、他に相手にしている人もいないようなので、この掲示板では今後極力議論の相手にはしません。もしわたしにどうしても問い詰めたいことがあれば、芥屋さん自身の掲示板はたまに覗いているのでそちらでお願いします。わたしのサイトの掲示板でも結構です。

以下は、わたしの主張を他の方に誤解されては困るので、中傷部分だけ指摘。

>>356
> あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと

そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。

> ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂

あげつらったことはない。

>>358
> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

それは、チベット文化研究所のペマ・ギャルボさんが「オウム真理教の信者は(仏教徒を名乗っているが)仏教徒ではない」という発言をした、という引用を読んで、(オウムを擁護するわけではないが)「それを言い出せば、わたしから見ればチベット仏教は仏教本来の教えからかなり離れているように見えます」と答えた部分ですね。

文脈をきちんと理解して欲しいのですが、わたしは「チベット仏教は本来の仏教ではない」とは言っていません。そうではなくて、チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。

そうした文脈を無視し、わたしが「チベット仏教は本来の仏教ではない」という意見を言った、という風に引用するのは、悪質な中傷です。これ以上繰り返さないでくださいね。

366芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 23:35:53 ID:Q7XBVw2.
>>363
>芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?

そこでいう「事実判断と価値判断の区別」とは何でしょうか?

とりあえず今、私が批判しているのは古伝承の取り扱いですね。古伝承に神異譚はつきものですが、その神異譚の「事実判断と価値判断の区別」を、どのようにつけることができるとお考えでしょうか。

macskaさんはここへ来て「それが歴史的事実であるかどうか」という言葉を出していますが、その神異譚が史実かどうかという「事実判断」を、科学的見地で行えるとお考えですか?

たとえば神武天皇ことイハレヒコもしくはヒコホホデミのみこと。彼の母と祖母は姉妹で、ともに海神の娘であり、その正体はワニ(鮫のことか?)だったという古伝があります。しかし生物学的に考えてみれば、人と鮫の合いの子というものは考えられません。「よって、史実ではない」…そんな馬鹿なことを言う人はいないと思います。

その実在性うんぬんは実証史学の主題であり、科学としては「人間と魚類の混合種はありえませんよ」としか言えません。しかしだからと言って、そのことがただちに古伝承の事実判断につながりはしません。トーテミズムによる描写かもしれませんからね。

まぁその逆に、「神武天皇のY遺伝子」などと言い出した日には、それは「ホモ・サピエンスのY遺伝子」と言ってるのと同じです。そういうことですよ。「いや、だからね、海神の娘だとか正体は鮫だとか言うけど云々」と語り出したが最後、神武の二人の兄イナヒとミケイリヌが「我らは海神の子なのに、海よ、なぜそのように荒れて我らの行く手をさえぎるのだ!?」と言って海に入り「波の穂を踏んで母の国へ渡ってしまいました」「サヒモチの神(=鮫の類のことらしい)になりました」という古伝が、ふっとんでしまう。

そういう古伝は、事実であったかどうかの判断…そこに科学的検証など、何になるんでしょうね。それで何事か検証して「事実判断」ができると考えるような浅はかな理知の思い上がりを私は批判しております。

367Josef:2007/01/20(土) 23:38:06 ID:5DAxksug
>>350
遍在する神ですね。macskaさんのいう「自然を神と呼ぶ」に分類されるものだと思います。
かのアインシュタインも自分の神は「スピノザの神だ」というようなことを言っていたそうです。

368macska:2007/01/20(土) 23:39:50 ID:VdHL1C4M
>>357
> 対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

重要なのはそこじゃなくて、そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのではなく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。「現実に介入する神」を「奇跡を起こす神」と(近似値的に)言い換えられる、というだけです。

>>360
> どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの
> 用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみれば
> フック式なわけです
(略)
> こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特
> 権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

これについては、>>361 で HAKASE さんがお答えになっていることに同意します。

>>361
わたしがあいまいにしか説明できなかったことを、分かりやすく言い換えてくださってありがとうございます。

369いど:2007/01/21(日) 00:00:40 ID:NdEDLjDw
>>368
>そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。

では以前の書き込み(>>357)を以下のように読み替えていただけますでしょうか?

【前提】
ある宗教ではAという事象を「神の現実への介入」であるとし「神の存在の証」としています。

【質問A】
(1)事象Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)事象Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

370芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 00:12:44 ID:Q7XBVw2.
>芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、

にわかじこみはやめとけと忠告したのに、ドーキンス、ドーキンスと繰り返すから、仕方なしに「あなたが流用するドーキンスの主張は、あなたの言ってるようなものじゃないよ」と説明したら、それが「不当」なのか(苦笑)。まぁ、いつものことだからいいや。

>そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。

【ma】
そもそも「進化生物学派」と「社会構築学派」を対立させて比較するのがおかしい。
【芥】
おかしくないでしょう。そりゃぁ、「じゃぁスティーヴェン・J・グールドは?」と問うなら、それはもちろん、そうです。全く完全に二分できるかと言えば、もちろんそうでない人もいます。でもそれ言うんだったら「保守派vs進歩派」も「フェミvs反フェミ」も無効じゃないですか。だから「学派」としたわけです。おおむねそういう構図だったでしょ?
それにね、私は「社会構築主義」と「進化生物学」が、論理階層として対立するほかないのだなどとは、どこでも述べてないでしょう。それどころか、一致できる点や学び合う(知見を交換させること)が有意義だと思われることもあるはずだという趣旨で書いてるわけで。「社会構築主義を生物学的なものと対立させて考える」だなんて、私の意見のどこを読んだらそういう見解になるんですか。「社会構築主義の立場から生物学的なものを対立させて考える」人がいるようだが、そうではないでしょうと書いているんです。それが、わかりませんか?
【ma】
おかしいですよ。対立する考え方ではないもの。例えば、「社会構築主義であり、なおかつ進化論」の立場に立つ主張だってあり得ます。
【芥】
対立して終わるとは思われない、と私も大隅先生のブログに書きましたよ。理由や具体例も含めて。でも、当時の社会生物学論争は、学派間の衝突の構図になっていたんじゃないのですか?
【ma】
それは、一部ポモ論者のもったいぶった思わせぶりな記述があって、そこから想像されるようなハードな社会構築論に一部の科学者が猛反発したわけで(笑)、現実にはそんなハードな社会構築論者なんてそんなにいませんでしたというくだらない結論。
【芥】
なんだ、あの論争をそうとしか見てないのか。だったらこの話をmacskaさんとしても仕方がありませんね。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=34;id=keya1984より関連部分抜粋。

>チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。

何でやねん、んなわけないだろうが…。あなたの立場の仏教って、どんなよ?

>わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。

まじかよ…つうかmacskaタン、オウムの残党?

371芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 00:25:11 ID:Q7XBVw2.
あ。よく見たら、すげぇ捏造されてる。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

私がいつ、「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけた?私は「macskaは社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」とは書いたがね。ちょっと気を抜くとこれだ…

では、おやすみなさい。

372macska:2007/01/21(日) 01:05:16 ID:VdHL1C4M
>>371
それは捏造じゃなくて書き損じです。書き損じたことについては謝ります。
しかしあなたのやっている捏造や中傷は、いい加減どうにかしてもらえませんか?
議論の邪魔にしかなっていませんよ。

# 芥屋さんはこのスレでは以後無視するつもりでしたが、自分の書き損じを
# 訂正するくらいはやるべきだと思ったので書きました。

373baku22:2007/01/21(日) 02:01:00 ID:pNzc/oDo
大分主張に納得しかかっていたのですが、
>>368
>神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だ

という表現にはやはり抵抗を感じます。

ID論的「神」の存在検証も科学の範疇だ、という主張とうまく切り分けられないんです。


科学的に検証されうる事を直に主張したりやったりしそれを根拠とする「神」なら、
どんな突飛なものでも、さほど怖くないと思います。
ID理論はもうちょっと狡猾ですよね。
検証しうるもの中に自らをカウントさせることで、その他の実在と
「対等」になろうとする訳ですから。

374Josef:2007/01/21(日) 08:36:26 ID:uPoVYQoU
>そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのでは
>なく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇
>だと言っているのです。

これは不正確でしょう。多くの場合「神」は物理的存在ではないから「存在それ自体」は科学の範疇ではありません。あくまでもその「神」が行ったとされる行為が科学の範疇だというだけですね。

「おまえの本には神のことが書いてないではないか」というナポレオンの問いかけにラプラスが「閣下、私は神という仮定を必要としないのです」と答えたという話がありますが、科学は現象の検証を通して「そういう神の行為は見出せない→神を仮定しなくてもその現象は説明しうる」と言えるだけでしょう。説明しえない現象があれば、その現象自体が科学の新たな対象となりうるだけであって、どこまでいっても神の存在それ自体には到達しえないと思われます。

375芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 20:43:32 ID:Q7XBVw2.
>>372
議論の邪魔?中傷で捏造だ?何を勘違いしているんだ。
1.「科学主義者による宗教への攻撃」と誤解され議論が紛糾していた。
2.その誤解を解きたければ、自分で仏教徒であるむね表明し仏説を例示すれば足りた。
3.本人がそれをなさないどころか誤解を煽り紛糾しているので私がそれに言及し、本人の姿勢を糾した。
4.それに言及する以上、過去の関連事例に触れるのは当然。
5.ただし、ここで以前の無回答について返答しなくて良い、ここでの質問に答えよとしてある。

過去の事例のことにつき、捏造だ中傷だとしてさらなる紛糾をはかっているのは、あなたではないか。過去の無回答事例については、あなたの無回答をもってこちらが簡潔にまとめるのは当然である。私はまさかあのまとめで中傷だ捏造だなどと反論があるとは思いもしなかったが。私のまとめが適切かどうかはソースを見て読者が判断できるのだから、それでいいはずだろう。なにをいまさらここでグチャグチャ言い出すのかね。私が書いた表現に不服なら、無回答で済ませずに再反論して構わないが、それはよそですべきだろう。

あなたのブログのエントリについては私の質問で終わっているのだから、続けたければ自分のブログに返答から始まる続編でも書きたまえ。私の掲示板についての話は、続けたければ当該スレッドか新スレでも立ててそこに書きたまえ。あなたは私にそうするように言うが、何で私がせねばならないのか、理由がわからない。私としては、あなたが無回答ならそれでかまわないのだから。「その件については誤解です。わたしのorあなたのところに続きを書きましたから、そちらへどうぞ」が筋だろう。ここに、続きを書くな。それこそ他人迷惑じゃないか。

そもそも、私は討議中の話題に横レスしたのではなく、あなたに「話を元に戻しますよ」として別個に参加したのだよ。あなたが他の人と行っている議論の邪魔などしていないのだから、変な言いがかりはよしにしていただきたい。まだあなたが回答していない他の人の質問も残っているではないか。よもや、「芥屋が邪魔をするので続行できなくなった」などと、後になって言い出す気かね。遠慮なく続けたまえ。会議室じゃないんだ、掲示板はそれが可能なところだろ。

あなたは自分が返答に窮する質問や指摘を含む批判を受けると(あるいは過去に無視したり無回答だった関連事項を持ち出されると)、途端に「中傷だ捏造だ」とわめきちらし「議論の邪魔」だとか言って議論を放擲するけど、私は慣れているので別に構わない(はじめてのことで驚いた人もいたようだけど)。しかし議論上、慣れているから放置、というわけにはいかないこともある。私はだいたい、ここであなたに言うべきことは今のところ言い尽くしたけど、以下の部分はここで新たに出された件なので、ここで返答しておく。

376芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 20:46:13 ID:Q7XBVw2.
>>372
捏造したんじゃなくて書き損じたんだ…とのこと。わざとじゃなかったんだということは、了解した。しかし嘘を重ねて恥の上塗りをするな。再掲するが、

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

ショックを受けたんだろ?君は自分が書き損じてからショックを受けるのか?

書き損じたのではない、「ついこのあいだまで社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかった」と書いてあるものを読んだ時、すでに頭の中でゴッチャになったんじゃないか。自分も進化論には接してきたのに何でそんなことを言うんだ…という頓珍漢なレスが上にあったが、そういうことだろ?あなたの自己投影だ。

つまり、社会生物学論争をどう見ているかというあなたの認識は、>>370で引用したころと今も大きな変化はない、ということじゃないか。しかし少なくとも私は過去形で書いたのだ。それを中傷や捏造と呼ぶことは不当である。以上。

以下、自己レスの訂正です。
1.「梵天勧奨」と書いてますが、「梵天勧請」が正しいようです。
*検索では「梵天勧奨」でも出てきましたが僅かでした。
2.「ドーキンスは明言していないが」と書きましたが、明言してました。
*『利己的な遺伝子』を読み直して気付きました。

377HAKASE:2007/01/22(月) 19:52:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

観測装置がカオス的にならざるを得ないという点のご指摘ありがとうござます.
これについては,カオス制御の分野などでカオス的な出力をそうでない出力に変換する工学的な技術なども検討されているので(直接の適用は無理としても発想は使える気がするので),私は可能性があるかもしれないと感じます.ただ,量子等への利用や応用がホントにできるかはわからないし,カオス制御自身が現在研究段階の技術でもありますし,私が言えるのはやっぱり「可能性」までです(^^;

ということで,主要意見は合意ですね.ありがとうございました.

378baku22:2007/01/22(月) 20:33:59 ID:pNzc/oDo
遅レスかつ寄り道ですが、
>>367
アインシュタインの話は知りませんでした。ありがとうございます。
となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・
などと、しばし空想にふけってしまいました。

379地下に眠るM:2007/01/22(月) 20:58:00 ID:cizMQ0FI
>>225に関連して、こんなのはどないだにゃ?

ttp://polylogos.org/books/polanyi.html

いろいろと説明のやりかたを考えてはいるんだけど、どうもソーカル事件がアタマをよぎるにゃー

ここの議論を放り出すつもりはにゃーという意思表示をかねて

380Josef:2007/01/23(火) 20:41:35 ID:uPoVYQoU
>>378
>となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・

スピノザの神もまた決定論的ですからね。十分可能性はあるでしょう。天才的な劇作家ビューヒナーもスピノザに強く影響されたと言われていて、その作品に見られる歴史宿命論と関係づけて論じられることが多いようです。

381Josef:2007/01/23(火) 21:13:47 ID:uPoVYQoU
>>225に関して少しだけ。

>数学がなぜ自然科学においてこれほど役に立つか、ちゅうのはなかなか答えがいのある問いかもしれにゃー。

言い換えると、地下に眠るMさん言うところの「純粋な思弁の自己運動」がなぜ外部の対象に「的中」するのか。これは未だ正答の見つからない難問ですね。

>僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化
>した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の
>法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? だからこそ、ほぼ純粋な
>思弁の結果である数学が、外界の事象の解析にあれだけの力を発揮するのではにゃーのだろうか?

という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。

もちろん実際には思考の結果が間違っている(=的中しない)ことはあります。しかしそれはデータが不足していたり、生得的な知覚パターンによる錯覚(その錯覚も元々は生存に適するべくプログラムされたもの)があったり等々の理由、つまり思考の出発点における不備に起因する。その場合、思考(論理的推論と言ってもいい)は「正しい推論」を通して「必然的に間違う」のであり、思考そのものが間違っているわけではない。

また、もちろんいい加減な推論をやれば、出発点が正しくても間違える。しかし数学のように、論理を尽くして考えれば誰もが必ず同じ結論に達することができる、という程度に厳密化されて出された結論ならば、それは自然法則に則ってしか機能することのできない脳が「これと同程度に厳密で、かつこれに反する結論は出しようがない」と判断しているのであり、それはいわば自然法則そのものの写像となっている。但し書きとして「人間的かつ不完全な」を加えなければなりませんが、どんなに不完全であってもその断片たちは常に自然法則と平行している、つまり常に正しい。それが数学というものである。

…などといういい加減な考え方についてはどう思われるでしょうか?

382Josef:2007/01/24(水) 20:18:59 ID:uPoVYQoU
後で気づきましたが、チョムスキーは言語について上と似たような考えをしたかもしれません(直接読んだことはないのでいい加減)。

言語は様々だが、人間の頭から生まれた以上、表層は異なっても深層では必然的に同じ構造を持つ。いや、同じ構造しか持ちえないはずだ。この、唯一しか存在しない深層構造からすべての言語は生成した。よって一つの言語を調べれば、そこで得られる論理構造はすべての言語に共通する。そして各言語は、一つの深層構造から生成するプロセスとして(歴史的プロセスではなく構造的プロセス)記述できるはずだ。

…と考えたかどうかは知りませんが、大きく間違っていないとすると、この「深層構造」なるものは「スカイフック」的発想によるものということになりそうですね。

383地下に眠るM:2007/01/25(木) 10:27:48 ID:O39sy2IQ
>>381
>という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。

それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。

まあ、「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」というのは由緒正しい神秘主義の中心概念のひとつでしてにゃ。ニンゲンはニンゲンの脳内で可能なロジックをもってしか、外界を知覚・認識できにゃーということは間違いにゃーでしょう。

このあたりの議論は、ユクスキュルの「環世界」概念とも関係するにゃんな。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
より引用
***************************
環世界(Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。

すべての動物はそれぞれに特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。 時間や空間もそれぞれの動物にとって異なった時間・空間として知覚されている。 動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
***************************
ユクスキュルの理屈で言えば、生物の外界認識は「正しいが部分的」となるでしょうにゃ。
そしてこういった捉え方は、ドイツ神秘主義、ドイツ観念論の源流ともいえる否定神学にもみられるわけですにゃ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6

で、この否定の道でのみ語られうる神、という概念はまさにストロースのいう「浮遊するシニフィアン」になるのですにゃ。
このあたりの話は、某所で書こうとしていることなんだけど、なかなか書けにゃー。まとまったらこっちにもあげるにゃ。

384地下に眠るM:2007/01/25(木) 10:49:06 ID:O39sy2IQ
ありゃりゃ、
「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」
ではなく
「マクロコスモスとミクロコスモスの照応」
ですにゃ。
普段から推敲をしてにゃーし、軽微な書き損じはほっておいてるんだけど、さすがにキメ台詞は訂正しておきますにゃ。

さて、ついでだにゃ

>>379 でのリンク先からの引用
***********************
人間には、科学的な知や、言語で表現できる知を越えた暗黙的な知がそなわっていることを明確に指摘した古典的な書物。この知は言語で語ることができず、しかも言語化された知の背景となり、これをもたらすことができるもの、科学的な発見をもたらし、研究の指針を教えてくれるものである。

中略

科学では、主観性を排した客観的な知識の確立が求められると考えがちだが、「暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている、ということを考えるならば、知識の個人的な(パーソナルな)要素をすべて除去するという理想は、実際にはすべての知識の破壊をめざしていることになる」(38)のはたしかである。科学は普遍をめざすが、その普遍には個の軸のようなものが必要なのである。
*******************

クレーンとスカイフックという比喩をmacskaは多用しているにゃんね。
しかし、この「クレーン」の土台に暗黙知があるということは、ほとんど否定することは難しいのではにゃーのだろうか?
そして、この暗黙知って「スカイフック」なのではにゃーのかな?
つまり、クレーンの足場はスカイフックでもたらされている、ちゅうことだにゃ。数学の足場もやっぱりスカイフックでもたらされているのではにゃーのかな?

デネットがグールドなどを批判するのに「スカイフック」という概念を使うのは悪くにゃーと思う。
なぜなら、カガクはとりあえず自らの足場を自明なものとみなし、そこからクレーンをつかって積み上げている体系だからだにゃ。

しかし、「知」を考えるときに「スカイフック」を否定することはできにゃーだろう。
どのようなクレーンも、その足場はスカイフックによってもたらされているのだにゃ。
カガクとかテクノロジーとか、道具の有用性に目をくらまされると、そうしたことが見えなくなるのだにゃ。
宗教という知は、そうしたことを忘れたことは1度だってにゃーんだ。

385地下に眠るM:2007/01/25(木) 16:52:38 ID:cizMQ0FI
職場でお茶を飲みつつ

ttp://transact.seesaa.net/
ここの常連はほとんどご存知の「忘却からの帰還」ですにゃ。IDに関するウォッチサイトとしては質・量ともにもっとも「使える」サイトのひとつにゃんね。

07年1月25日付けの記事から引用するにゃ
原文は英語だけど、翻訳部分だけを引用
**************************
残念ながら、米国の大半の市民は科学についてちゃんとした理解がない。特に仮説や理論が反証可能でなければならないという点について、科学的方法をほぼ誤解している。さらに、理論は何かを証明するものではなく、証拠によって支持されるものだ。ほとんどの人々はこれを逆だと思っている。人々は科学は何かの存在を証明し、科学的真理が絶対確実な法則になるのだと思っている。私がよく聞く科学的真理の例は「科学は地球が太陽の周りを公転することを証明した」というもので、これはまったく正しくない。あらゆる科学は証拠によって駆動され、証拠は地球が太陽の周りを公転するという理論を支持する。この理論はそれでもなお、特定の証拠によって反証されうる。そんな証拠が見つかるとはまったくないと思うが、それが科学というものだ。新しい考えを花開かせ、固まった教義を奨励することを拒否するように、常に扉は開いている。

インテリジェントデザイン支持者たちは、この無知につけこんだ。ほとんどの人々は科学的理論が反証可能でなければならないことを知らないので、インテリジェントデザイン支持者たちは、反証不可能な理論を提示できて、人々は無知ゆえにこれを受け入れる。
**************************

macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。
しかし、この理屈って、もちろんカガクにとって何の益もにゃーだけでなく(カガクに携わる者、科学哲学を少しでもかじったことのある者ならわかるだろ)、社会的にも有害なシロモノなんでにゃーのか?
必要なのはカガクとは何かということについての地味で継続的な啓蒙だにゃ。macskaの主張するカガクの対象の範囲の定義では、まともな啓蒙活動に何の益もたらさず、混乱をまねくだけに終わると考えられますにゃ。

386Josef:2007/01/25(木) 19:07:23 ID:uPoVYQoU
>>383
>それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
>ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという
>逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。

そう、いとも簡単に逆転できるんです。
たとえばデカルト風に「今こうして考えているということは疑いえない」という地点から出発する立場からは、自分の外に世界が存在することを前提とする自然科学はすべてスカイフックでしょう。フックとクレーンという比喩はもともと相対的なんですね。

「世界は存在する」という飛躍を前提としなければ、確かだと言えるのは「この認識」だけになります(「認識内容」ではなく「認識しているということ」)。ここから出発すれば、どうしたって観念論、つまりは形而上学にならざるをえないわけで(現象学がその例)、このことは「形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ」(>>225)という「独り言」とも関連してくるような気がします。

387Josef:2007/01/25(木) 19:08:46 ID:uPoVYQoU
>>385
>macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。

これはおかしい。
何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。

ただ、上に書いた「認識しているということ」なんかは、当人にとってはこの上なく確実な「現実」であるにもかかわらず、検証は不可能です。あるいはヴィトゲンシュタインは世界が「私の世界」であることを強調しますが、この「私の」というこの上ないリアリティは検証しなえい(「共感」できるかできないかです)。

つまりmacskaさんの言う「現実」とは、非精神的な外的世界(自分の身体も含む)ということでしょう。

388ラク:2007/01/26(金) 00:30:54 ID:.LrraLno
>何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。

難しいことは解りませんけどポパーは、科学 ⊃ 検証可能 とは言っているようですが、現実 ⊃ 検証可能 とまでは言っていないのではないでしょうか。
だとすれば、(検証不可能 ⊃ 非現実)=×。
なので私的には、∴検証不可能 ⊃ 非科学的…みたいな感じですけど。

389diamonds8888x:2007/01/26(金) 06:08:06 ID:HFzGgWdI
>>387, >>388
 誰にとって検証可能なのかという問題でしょうね。一般には「普通の人間なら誰にでも」という意味で使いますが、「私にとって検証可能でも他人には検証不可能」という現象もあるということですね。

 それから「原理的に検証可能」と言ったときに、検証のためにどこまでの道具を認めるかでも違いが出てきますね。タイムマシン、はともかくとして過去を直接観測できるタイムスコープとでも言うべき道具も認めるかどうか、人の脳内の思考を直接観測できる機器とか超能力?とかも認めるかどうか。何せ、将来も発明されないとも言えませんし。

 そうなると作図問題みたいに、「使えるのはコンパスと定規だけ」とか規定しとかないと・・。

390Josef:2007/01/27(土) 17:39:02 ID:uPoVYQoU
>>388
ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。
で、当然のことながら科学は「現実」のすべてを対象とすることはできません。「現実」の中の、科学的手法で扱えるものしか扱えない。枝葉の部分はともかく、この、ごく当然のことをmacskaさんは言っているだけで、何か新しい提言をしているわけではないと思います。
ある人が突然死した。宗教家が「神の怒りに触れたからだ」と言った。そしたらもう突然死の原因を科学的に解明することはできなくなるのか。そんなわけねーだろ、ってこと。でもそれじゃああんまり当たり前すぎるから、いくらなんでももうちょっと問題性のあることを言っているのではないかと思っていろいろ勘ぐってしまう。その総体がこのスレッドだと思います。

>>389
考えてみると「原理的」もかなりいい加減な言葉ではあります。が、SF的設定とか超能力とかは(内容次第ではありますが)、想像世界で「原理」自体を変えてしまうことを意味するのではないでしょうか。「自分の髪を掴んで沼から自分を引き上げる」とか「まん丸な形をした三角形」とかは原理的に不可能ですが、「それがありうる世界(人)なら」と仮定したとたん、原理自体がその想像世界では変えられている。だからそういう設定が「想像」として語られる限り、科学はそれを「原理的に」検証することができない、ということになるような気がします。

391ラク:2007/01/27(土) 21:56:47 ID:T.C8oAB.
>>390
>ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。

そうですね、どうも「反証(可能性)」と「検証」を混同していたようです。

>現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。

とすれば、ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。

392baku22:2007/01/28(日) 05:46:15 ID:pNzc/oDo
スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。
ざっと思いつくのが、

1:迷信。現世的奇跡を根拠にする教祖など
2:ID論的なもの。反証不能なものを起点に、手を広げてゆくもの。
3:カトリック主流派的なもの。反証不能なものを教義に含みつつ、自らを哲学の一種にカテゴライズする。

2 が相手だと、科学の側で己の輪郭をはっきりさせて、相手の主張をまず分節する必要がある。
この「政治」が人によっては科学の弱腰、道学者的に映るのかもしれない。
macskaさんの主張も動機もそこら辺が動機になっているのかな、と考えていました。

393baku22:2007/01/28(日) 05:51:45 ID:pNzc/oDo
ミス。主張も動機も→主張も、です。

394baku22:2007/01/28(日) 06:48:48 ID:pNzc/oDo
補足:
最初macskaさんのように神を場合分けしようと思いましたが、
やってみると頭が混乱してきました。

395Josef:2007/01/28(日) 18:32:03 ID:uPoVYQoU
>>391
>ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。

そう言っていいと思います。その意味で「神のデザイン」という主張は非科学的ということになるでしょう。

>>392
>スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。

前提が違ってたんでしょうね。
macskaさんに反論する人たちを「論理的思考のトレーニングが足らない人たち」と呼んだ恥ずかしい「解説」もありましたが(>>246)、むしろ論理的&科学的思考に慣れているからこそ、「神」という超越は科学の対象になりえないことを皆さんイヤになるほど理解していたのでしょう。つまり、NATROMさんの

>>7
>そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。

という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。

396シカゴ・ブルース:2007/01/30(火) 16:52:13 ID:KNmRxfBE
>>395
>という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。

Josefさん、お久しぶりです。

macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。

まあ、それもこれも私がレベルの低い科学的思考しかできずレベルの高い哲学的な思考が苦手なせいかもしれません。しかし、こんなギャラリーもいるのだということを言いたくて闖入いたしました。

それでは。

397ラク:2007/01/30(火) 21:50:27 ID:.HJIF4uU
>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。


>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。

ちなみに門外漢の印象としては、「科学の範囲」としては、「(実際に証明もしくは反証は難しくても)」、「実際に証明もしくは反証」できる可能性がゼロではないという判断があるあるならば、「原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうる」のは当然でしょう。
だとすれば思考が導かれるのは、だからどうしたのですか?という問題の所在ではないのかという気がするんですけどね。

398地下に眠るM:2007/01/31(水) 00:30:44 ID:wI1zz7WI
あのね、macskaのおっしゃっているカガクの対象云々という話は、チミたちの考えているようなマトモな話ではにゃーんだよ。

>>234 を参照すること。

234の最後の部分の「カガクの独占」という部分についてはmacskaから反論がでているけれど、その前のカガクの対象についての話には本人からも異論はでてにゃー。
つまりは、検証の可能性がなくても現実世界におこることならカガクの対象だというゴミ理屈。


精神年齢が極端に低い僕としては、燃料を投下してくれたシカゴ・ブルースにお礼をいいたいところにゃんね。やるといっていておあずけになっていた宿題をここでやるきになってきたにゃんよ。クソ忙しいけど。
なににしろ、この場所におけるmacskaの発言の多くはゴミだし、宗教に対する根の深い侮蔑感情があることはまちがいのにゃーところだろう。
そのあたりは論証していくにゃ。

とにかくさ、「私は差別・侮蔑をしていない、そんな意図はない」といえば差別や侮蔑をしてにゃーことになるのなら、この世に差別主義者はほとんどいなくなるにゃ。

僕は悪意や暴言はまだ嫌いではにゃーんだがね。無知に基づく侮蔑はいかんともしがたいにゃ。

399シカゴ・ブルース:2007/01/31(水) 02:23:28 ID:KNmRxfBE
>>398

地下に眠るMさん、こんにちは。

>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

そういうわけで、
>カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ
とまで、macskaさんは言っていないのではないかと私は思います。

実際には、科学的に検証ないし反証できそうなことがらであっても、それをするだけの意味があるかどうかはまた別の問題ですね。そのあたりは各人の価値観の領域であり、私はといえばあまり興味が湧かない。

>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。お忙しいようですし。私の真意がご理解いただければそれで結構です。

400地下に眠るM:2007/01/31(水) 10:57:51 ID:XojOj2WM
>何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

うん。チミの読み落とし。
>>107において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。
そうしたあたりもふまえた(はずの)うえで、macskaのいくつかの発言があるわけだにゃ。
それに、この読みをしているのは僕だけではにゃーぞ。ミケも同様の読みをしているようだにゃ。そのあたりも踏まえて>>234を書いたんだけどにゃ。
なによりmacska自身が僕の(あるいはミケの)読みを否定してにゃーわけ。ミケは何度も確認しているんだけど、答えはにゃーからな。


そもそもね、僕だって「まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのこと」という主張をmacskaはしているかもしれんと思ったので、原理的にカガクの対象となりえにゃーような事例を出して聞いてみたわけ。それでえられたのが「現実世界でおこることは検証ができなくとも全てカガクの対象だ」とかいうゴミ主張なのよ。


>>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

にゃるほど。チミはmacskaの宗教に対する知見と「世の大方の宗教観(それも啓蒙主義的な宗教観)」は同じようなものだと考えているわけにゃんな。僕も同意するけどにゃ。macskaの宗教についての見識は、不勉強がゆえの「世の大方の宗教観」の域を一歩もでていにゃー。
macska本人がそのあたりを率直に認めているのならば、話はこじれてにゃーだろうね。


>燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。

僕は精神年齢が低いっていってるだろ(ニコニコ

401地下に眠るM:2007/01/31(水) 12:16:32 ID:XojOj2WM
とりあえず我慢のできにゃーところを
>>118
>>125
>>177
>>184
>>185
>>197-198
>>200
あたりの流れ

>宗教とはこういうものであるという自分の見解(あなたの書いているものとほぼ同じです)を述べただけ>>200

僕はmacskaと同じことを述べたおぼえはにゃー。


macskaのいったのは
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」>>118

その具体例として
>これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?>>125

対して僕は
安息日規定はそもそも弱者保護規定であり、どのような罰を与えるかについては律法解釈の余地が最初からある。つまり、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替え」てなどいない。
という旨のレスをしているにゃ

もともとmacskaは、「多くの宗教者は自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている」と主張し、その具体例としてユダヤ教の安息日の話を出したわけだにゃ。
それに対して僕は、ユダヤ教の安息日は弱者保護がその趣旨であり、十戒も最初から多義的な解釈が可能なように書かれている。趣旨にのっとった解釈が要請されているとの旨を述べたにゃ。>>185でmacskaが理解に苦しむといった、安息日における「あかり」の扱いも弱者保護の趣旨で解釈してみせたしにゃ。

律法でガチガチに定められたものを、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている

律法では最初から解釈の余地があり、その趣旨に従った解釈が要請され、また行われている

のどこが同じなんだよ?
前者は原理原則がないといっている。後者は原理原則を遵守しているといっている。
ユダヤ教のような契約宗教に対し、原理原則がないといったら、それはヒデエ侮蔑だろ?

macskaは自分の発言が侮蔑であることを理解できてにゃー。
差別主義的環境で育ち、差別主義を自明のものとみなすガチガチで愚昧な差別主義者には、自分の発言がなぜ侮蔑であるのかを理解できにゃーことがよく見られるにゃんがね。

402地下に眠るM:2007/01/31(水) 12:56:13 ID:XojOj2WM
これなんかもヒデエ
「夢」の取り扱いの話ですにゃ。ま、典型的な事例にゃんが。

>宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。>>290

「傍目からみて」ちゅうのはどういうことなんだろうか? macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが、どういう宗教が夢をどう扱っているかの事例を多く知ったうえでなければ、こういう発言は本来はできにゃーと思うんだよね。

宗教を侮蔑するな、いや、侮蔑なんてしていない、などというやりとりをさんざんしてきた場所で、「傍目から見ていて」程度のイイカゲンな知識で「「分かっている」ようには見えません。やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」」などと暴力的に断言してしまうのだからスゲエ。

夢はシンボルやメタファーを用いた意味解釈とも捉えることができ、そうしたシンボルやメタファーとその意味解釈をごっそり貯蔵している宗教的な知の体系が適切な解釈を与えうることなんて、想定されてアタリマエだと思うんだけどにゃ。

何も知らにゃーで、しかも無知にいなおって否定し侮蔑するというmacskaのスタイルは、結局最後まで変わるところがなかったのだにゃ。そして、自分が侮蔑しているという意識すら持てにゃーほど凝り固まってしまっている。



ついで(実は前からいいたかった)

>サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
>神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。>>83

いや、万能の神という概念に対してはまるで無効だって。
進化というプロセスでは、けっして「万能」なものは生まれることはにゃーのだ。知性ある存在、ならば進化で生まれえるけどにゃ。
そもそも教義において、最初の存在者とされているのだから、そんなことを言いだしても他者の宗教の教義を否定するだけの無礼で低能な侮蔑にすぎにゃー。

ただし、argument from designという考え方は、ID(インテリジェントデザイン)説における、「デザイナー」の存在に対しては有効な論点だにゃ。IDの連中は、自分たちのいっていることが特定宗教の神だということを認めることができにゃーので、万能の神を持ちだすことができにゃーんだよ。
正直いって不勉強だにゃ。IDのデザイナーのようなチンケな神を否定する理屈で、創造神を否定できると思ってもらったら困る。

Josefもいっているにゃんが、macskaの持ちだした神概念は、最初からチンケなものだったように思われますにゃ。だから、必然的に宗教批判・侮蔑的な発言を繰り返すことになった。チンケな神を叩いているだけなのに、宗教がどうとかいっているから反発をくったのではにゃーだろうか?

403ミケ:2007/01/31(水) 13:09:02 ID:???
>>399
横レス失礼。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

世の大方の〜 という言い方をするならば、
世の大方の「科学観」というものは
【真理、あるいは絶対に正しいもの】
みたいな感じじゃないでしょうか。(残念ながら)

でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
ならば、宗教についても、
そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。

404シカゴ・ブルース:2007/01/31(水) 15:26:37 ID:KNmRxfBE
地下に眠るMさん、どうも。

>>>107において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。

107 は読んだような気がします。macskaさんはこのあたりは「よく分からない」というようなことを言っていたような…。

まあ、必然は mass としての偶然の産物ですから、個別の偶然性を一般的なものとして科学で取り扱うのは無理でしょうね。偶然もまた必然の産物であるという観点から扱える偶然性だけが科学の対象となるのでしょう。「本質的な偶然性」というのは科学の対象にはなりそうにありませんね。そういう意味でも科学の限界性というものを常に自覚している必要があるでしょう。しかし、これは科学に限らず人間の認識一般について言えることであり、一人科学だけが限界を持っているというわけのものでもないですが。それでもなお必然性として説明したいという欲求が科学や人間の認識の拡大の原動力になっているという面を、私としては評価したい気持があります。

というわけで、了解しました。「宿題」の方はお好きにどうぞ。

ミケさん、こんにちは。

>でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
>ならば、宗教についても、そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。

了解しました。

405Josef:2007/01/31(水) 17:08:01 ID:uPoVYQoU
シカゴ・ブルースさん、こんにちは。
仰ることがよく分かりませんが、私はbaku22さんに賛同する形で政治的・社会的背景(前提)の違いが意見の相違となったのだろうという観察を述べたのですよ。「神」概念の前提が違えばそれをめぐる意見が相違するのは当然であって、どっちの方がレベルが高いという比較の問題ではないと。にもかかわらず「論理的思考のトレーニングが足らない」などと言う人がいるから、そうではなく論理的思考に関しては皆さん慣れていてレベルが高い、と言ったわけです。シカゴさんも「こいつらは論理的思考が苦手」とは思ってないでしょ?

>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。

そうです。そしてその「範囲」をめぐって議論したわけですね。「範囲」とは内と外に線を引くことですから、外(この場合は主に「神」)の概念が異なれば線の引き方も異なるのは当然でしょう。baku22さんの「宗教をもっと場合分けした方がよかっただろう」もその辺のことを言っていると思います。

>私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。

私にもとても分かりやすいです。でもそれはたぶん、macskaさんの他の議論をある程度知っているからであって、いきなり読めば多くの人が誤解するだろうとも思います。

>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。

冒涜されたと言う側が「ヒートアップ」するのは当然でしょう。レベルの高低の問題じゃありません。

406Josef:2007/01/31(水) 17:09:56 ID:uPoVYQoU
シカゴさんにもう一つ。

>>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
>
>たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

Mさんも言ってますが誤読でしょう。シカゴさんのように読むなら、そもそも科学の範囲に限界を設ける必要が失せます。「すべての神」や「あらゆる価値」もひっくるめて森羅万象が科学の対象であるとしておけばよい。そして科学の俎上に載せてみたら「検証も反証もできない」ことが分かった、とすればいいわけです。現実に起こる事象なら、などと始めから限定する必要は全然ありません。

macskaさんが言ってるのはそういうことではなくて、シカゴさんの言葉を使えば「科学的に検証も反証もできないと判断される」ことはもともと科学の対象ではない、ということです。その上で、「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」ならば科学の対象となりうる、という主張。もちろん実際上はいろいろ限界があって検証不能なことも多々あるけれど、原理的には「科学的に検証も反証もでき」るはず、と。

そうすると「では現実に起こる事象とは?」という方向に行くのは当然で、「偶然」もその一つなのです。

407Josef:2007/01/31(水) 21:08:36 ID:uPoVYQoU
「偶然」についてですが、macskaさんはたぶん考えていなかったのでしょうね.だからMさんに突っ込まれると何も言えなくなってしまった。

しかしながら、「偶然」の話題は「神の介入」をめぐるものだったわけで、「偶然」がいかに難問だったとしても、「そこには神の介入がかくかくしかじかのように行われている」という言明がなされたなら、この言明内容は科学の対象となりうると考えられます。科学が説明できていないこと、科学に説明できるかどうかすら分からないことはたくさんあると思います。「偶然」をどう考えるかもそうでしょう。しかしその科学に分からないことを宗教が説明できると言い、実際に説明してみせるなら、その説明は科学的検証の対象になるでしょう。もちろんあくまでも「科学の範囲」での検証に止まるのであって、宗教的説明に代わる真理を提示できるわけでもなければ、宗教的意義その他については何も言えないでしょうが。

408シカゴ・ブルース:2007/02/01(木) 17:54:39 ID:KNmRxfBE
Josefさん、こんにちは。

とても分かりやすくまとめて下さってありがとうございます。問題となっている点が何なのかが、私にも理解できました。この際お礼だけを申し上げて立ち去るのが大人の態度ですが、それだけでは芸がないので、あらずもがなの「余計な」見解を以下に…(念のため。「燃料投下」の意志はありません)。

数学を自然科学に含めるかどうかについては、みなさんいろいろとおっしゃっています。現実の世界からもたらされた具体的な表象を抽象化して作り上げた数や図形の概念を操作しているという意味では小・中・高で学ぶ算数や数学のほとんどの部分は自然科学に属しているだろうと私は思います。これらは一定の限定された範囲において現実の世界に適用されるという検証を経ています。形式論理学に属する部分もまた、ある限定された範囲内においては現実に適用できますから、これを自然科学に含めてもいいのではないかと私は思います。

ただ、私たちが「論理的」といっている場合の論理は必ずしも形式論理の範疇にはとどまっておらず、そこにはさまざまなフィジカルなものあるいはメタフィジカルなものが入り交じっていると私は思っています。これらを同一のものとして扱えるのかなというのが私の感想です。というより、メタフィジカルな論理はいかに論理的に整合的であっても自然科学の論理としては使えないですね。そして、メタフィジカルな論理とフィジカルな論理とは議論という土俵の上では戦えないでしょう。決着のつけようがない。Josefさんの 407 のお話はそこら辺のことも含めておっしゃっているのだろうと私なりに解釈しています。

そこで、「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。

最後に。科学という認識形態は非常に限定的な認識であることは確かですが、その限定性・限界性を自覚している限りでは非常に有用であり、万人に開かれた公平な認識であると私は評価しています。もっとも、現在の(戦後のといってもいいですが)理科教育は、科学的認識の限界性といった点に関してはまったく触れていないという点で、科学信仰というイデオロギーを流布しているとは思っています(他のさまざまなイデオロギーに比較すれば、科学の有用性は科学信仰の実害を覆い隠してしまうほど大きいし、それが科学的認識の発展・拡大の原動力になっている側面もありますが)。しかし、第一線で科学を扱っている方々のほとんどはその限界性を十分認識しているでしょう。というより日々の科学的な実践でそのことを思い知らされていますから、単純な科学信仰を抱きつづけることは不可能でしょうね。

409HAKASE:2007/02/01(木) 20:22:11 ID:ZC/gbS1c
どうも.
えと…地下に眠るMさんがされている『偶然』の話なんですが,「偶然に関わるものは全て科学の範疇外で手も足も出ない」かのように誤解されないかと(そういう意図で書いているわけではないとは思いますけど)ちょっと心配になってしまいました.
もちろん,例えば「ある一定の誤差範囲内で他のどの事象からも独立した試行であることが(科学的な手法などを適用して)明らかになった場合」には「その範囲内で「本質的に偶然」だとみなす」ことができますし,そうである事が既に明らかになっている問題については,「結果を科学的手法によって予測することは不可能」だと私も思います.
ですが,『*ある事象が*本当に「本質的に偶然」なのかどうか』については,前にも述べましたけど,科学的な検証の範囲内だと思いますし(例えば現在の技術では狭い範囲でしか適用できないけど研究が進められているカオス時系列解析のような)科学的な手法で扱う検討対象のひとつだと思います.

『現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇』と言い切ってしまっていいかは,私は十分検討していないのでわかりませんが,少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.
# 以下は余談だけど,6面体のサイコロを完全に理想的な状態(完全に理想的なサイコロを,角を正確に真下に向けて完全にバランスのとれた状態で,空気抵抗や床の特性など周囲の状況も完全に一律な状態)で落とした場合(現実にはあり得ないけど例えば物理法則にしたがってコンピュータシミュレーションなどをした場合)には「サイコロは倒れないのでどの目も出ない」という結果になるだろうなぁと思ったり(^^;

410fukken:2007/02/01(木) 20:41:09 ID:M5vfENrY
>>408

シカゴ・ブルースさんには大きな事実誤認があるように思いましたので、口を挟みます。

まず、
>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、>>396

とありますが、私以外のどなたがヒートアップしていましたでしょうか?
そもそもJosefさんの主張からは「知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。 」の中に私が含まれないであろうことは明瞭ですよね。
私は最初に自己紹介しています通り>>76、いわゆるアラシ紛いの不真面目者です。
私のようなモノと一緒にされては、常連の方々は不愉快だろうと思いますよ。

次に、その私がヒートアップしていた理由も、論理的にどうこうなどと言う次元の話でなく、オノレの過ちを認めず逃げ回るmacska氏の姿勢にあったわけです。
シカゴ・ブルースさんはきっと「macska氏はそんな人じゃない」と仰るのだろうけど、私はmacska氏とやり取りをしてそのように判断しました。(そして、私のように感情剥き出しでないにせよ、他の多くの常連の方たちがそう感じていたのもまた事実。)
つまり私の”ヒートアップ”については、macska氏の論旨に問題があるかどうかとは別の問題だと言うことをお間違いなきよう。

411Josef:2007/02/01(木) 22:50:47 ID:uPoVYQoU
>>409
>少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.

その通りですね。
ただ偶然性という言葉は科学よりも哲学の土俵で論じられているはずです。本質的偶然というのは、本質的に何ら法則性が無いということですから、法則性を見出すことを旨とする科学の対象にはならないのですね。もちろん少なからぬ科学者が「本質的偶然など無い」と言うでしょうが、その場合「偶然」の意味が違っています。
たとえば「何の必然性もなく存在しているこの私」のような「実存」などは本質的偶然に数えられます。これを本質的偶然だと認めるならば、「あなた」もまた偶然であり、「あなた」と「私」の出会いも偶然です。

ヴィトゲンシュタインは「世界の在り様が神秘なのではない、神秘なのは世界があることだ」という有名な言葉を残しました。これに絡めて言うなら、科学に扱える「偶然」は「世界の在り様」に属するものであって、「世界があること」という本質的偶然性を扱うものではない、ということになるでしょうか。

ついでながら、ヴィトゲンシュタインは「因果」というものを認めていません。AとBという2つの事象の間の「因果」法則は常に事後的解釈であらざるをえず、そこに論理的必然を見出すことはできない。明日も同じ「因果」法則が観察できる保証はどこにもないのです。この点では、Mさんの「ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ」(>>107)とかなり近い。「前世からの因果」というふうな思想も科学的な因果関係も、この意味では一種の信仰であって、大して変わらないともいえます。

412HAKASE:2007/02/02(金) 18:33:58 ID:ZC/gbS1c
Josefさん.お返事どうもです.

科学の分野でも「偶然性」については扱われていて(専門用語かどうかは私は知らないですが,カオスの分野などでこのような表現をされる事があります),私はそちらの意味で解釈していました.
Webでざっと調べましたが,「偶然性」というのは哲学の専門用語(?)としてよく使われる言葉なのですね(科学哲学という分野があるのもここで始めて知りました).
哲学で言うところの「本質的偶然性」については,いまいち理解できなかったので(雰囲気はなんとなくわかるんだけど…),Josefさんの文脈にそった適切なレスができなくてすいません.

# 以下,気になった点のコメントだけさせてください.
私自身は,科学者の多くは,証明・実証がなされていない事については「わからない・明確になっていない」という立場を取ると思ってるので,「本質的偶然」が「何の法則性もなく結論が決まる事例」の意味であったとしても,おそらく科学者なら『「本質的偶然など無い(世の中に全く存在しない)」』と断言するよりも「あるかないかは明らかになっていない」という立場をとるんじゃないかなと思います(あると*仮定*して研究をするとしても).

それから「前世からの因果」と「科学的な因果」については,どちらも『*まずは*「公理にあたる因果関係(?)」を「てきとーな解釈でもって」定義してしまっても良い(それこそ極端な話サイコロ振って決めても良い)』という点では私も同じだと思います(科学を「真理を追究するもの」ととらえている方には異議があるかもしれませんが).
ただし,「科学的とされる(されている)因果」については,公理系を定義した後で『(論理学で言うところの)完全性が保証された推論形式や推論規則を用いて,観測結果とその公理とから予測や推論を行ってみて,その結果が観測結果と一致しない場合には,その公理系などに修正を加える』という作業を繰り返すことで,「ある一定の(例えば確率的にいって十分確からしいとみなせるなどの)範囲内」で「ある一定の誤差内での予測や推論」が可能であるとみなせるレベルまでの修正がなされている,という点が異なってると思います.

という事で,最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.

# おそらくJosefさんは哲学の立場から話してると思うんですが,私は哲学についてはよく知らないので,これ以上はレスできないです.すいません.

413NAN:2007/02/03(土) 12:12:29 ID:NbousSag
いろんな議論や対話において「本質的」ってコトバが出てくるとき、かなり気をつけないと誤魔化しが横行することになりますね。いま対話されている「本質的偶然」というのも然り。これは「規則性が一切見出すことのできない偶然」を指すのだろう、と私は思いますが…つまり「極限までランダムな事象」として数学的に定義することはできるのでしょう。(いや、できないのかも知れないけれどできる気がする)

ということは、「カンペキにランダムな事象」が「ホントにカンペキにランダムなのか?」という点について懐疑主義をぶちあてることは可能ですから、カンペキに偶然に起きることであっても、それが「科学の対象とならない」という命題は偽となるんでしょうね。別にこの辺はカオス論とか持ち出すまでもなく。

しかし、ここで論点(あるいは争点)となっているコトガラとは、科学が、通常「オッカムの剃刀」などによって取り扱わない事象、つまり「あらゆる偶然性、必然性のウラには超越的存在の働きがある」というような考え方でしょう。こういう「前提そのものが懐疑されることを拒否している事象」の扱いというのは、間違うと危うい方向の神秘主義や信仰的or象徴的権威主義に向かうことがあり、権力や利権と結びつくこともあるので扱いについては慎重にならざるを得ないのだ、と私は考えています。
#個々が「懐疑されることを拒否するナニカを持つ権利」は守らなければならないし、それが時に害悪(暴力)や搾取の構造を生むことについても熟知しなければならない、ということ。

「意味」や「価値」について、科学は言及しないことを是としているわけですが、私たちが現在地球上に生息している「理由」というとき、この「理由」というコトバの持つ多義性や解釈の「幅」の中に、さまざまな誤解が生まれるのでしょうね。

414NAN:2007/02/03(土) 12:32:54 ID:NbousSag
ついでに少し補足をば。

プランク定数とか光の速度とか重力定数とか、そういうこの世界の成り立ちを決める基本的な数について、私たちの科学は高い精度でそれを求めることができます。いわゆる複雑系とかカオス論を使うと、一見すると偶然に見えることでも、隠れた規則性を見出すことができます。しかし、それらは「カミサマが決めたことなんだ」という言明について、科学がなにかを検証することはできるでしょうか?

たとえば「地球は5年前に生まれた」という言明は、科学によって否定されるでしょう。しかし、さまざまな科学的観測や推測、予測を受け入れたうえで、それらすべての法則の背後には超越存在の働きがある、と云われたとき、科学はそれを検証できるでしょうか。

この世で起きるすべての事象の背後に、普段はオッカムの剃刀によって切り落とされている領域にいる「ナニカ」について言明を求められたとき、科学はなんのコトバも持たない、というのが私の結論です。

415ゆん(♂):2007/02/03(土) 22:54:05 ID:ZuqQuBeU
現在の自然科学は「自然の斉一性」を重要な暗黙の前提として方法論を構築しています。なので、その「自然の斉一性」を自由に操れる存在が実在すると仮定したら、その相手に対して自然科学の検証手段はまったく役に立たないでしょう。で、現在「神」という概念は、そうした「斉一性を自在に操れる存在」のことを指すのではないかなあ。

とかそんなことを思ったり思わなかったり。

416地下に眠るM:2007/02/06(火) 15:23:57 ID:cizMQ0FI
>>408
>「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。

じつのところ、別に冒涜したってかまわにゃーんだ。
要点は「知りもしない、知る気もないくせに、よくも否定できるね。ネット上とはいえ馬鹿を宣伝してタノシイ?」
ということだにゃ。
>>402において、夢の取り扱いについて「macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが」と書いたけど、もう本人は見てにゃーのだろうか。これだけ冒涜しただのしてないだのという話をした揚げ句、傍目から見ただけで断言しちゃうようなことをして突っ込みに対しても黙殺なんて、ごく単純に侮蔑に値すると思うんだけどにゃー。



>>412
>最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.

その「検証手続き」というものもカガクの範囲にそもそも属するものであることがよく意識されているのであれば、その理解でいいのではにゃーだろうか。
カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。
しかし、神秘主義的な知の体系が閉じられたものともいえにゃー。
どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。

417diamonds8888x:2007/02/07(水) 06:01:58 ID:HFzGgWdI
> どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。

 それは確かでしょうね。では得られた価値を認識したり味わったりするにも才能は必要でしょうか? 微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?

 単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?

418すかんく:2007/02/07(水) 14:49:29 ID:ASJ/wL/Y
すみません、基本的な質問をば。。
ここでいう科学の定義はなんですか?

419地下に眠るM:2007/02/13(火) 16:46:59 ID:cizMQ0FI
>>417
>微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?
>単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?

そもそも僕は「カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。」と417でいっているにゃ。神秘主義についても体験的にわかっているわけでもにゃーしね。
しかし、神秘主義とまでいかなくとも、哲学的な知についてヤスパースが以下のようなことを言っているにゃ。(ヤスパースは有神論的な実存主義なんで、神秘主義に通じるものはおおいにあるといえますけどにゃ)

*****************************************
また哲学的思惟には、科学のように、進歩発達の過程というものがないのであります。確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか。

科学と異なって、哲学の形態をとるかぎり、どんなものにも万人の一致した承認というものが欠けているという事実は、哲学という事柄の本性のうちに存しなければならないことであります。哲学において獲得される確実性は、科学的な性質のもの、換言しますと、どの悟性にとっても同様な性質の確実性ではなくて、それが成功した場合に人間の全本質が参加してともに語り合うことができるといった確認(Vergewisserung)なのであります。科学的認識は何らかの個々の対象にかかわりをもち、そしてこれらの個々の対象について知ることはけっして万人にとって必要であるわけではないのでありますが、哲学においては、人間としての人間にかかわる存在全体や、一度解明されたならば、どの科学的認識よりもいっそう深く人の心をとらえるところの真理が重要な問題となるのであります。

なるほど完全な哲学は科学と結合しており、またそれぞれの時代において到達された最高の状態にある科学を前提とするものでありますが、しかし哲学の意味はそれと異なったある種の根源をもっております。哲学はあらゆる科学に先立って、人間が目覚める場合に現れるのであります。
ヤスパース「哲学入門」新潮文庫判P8〜9
*******************************************

神秘主義は前合理でも非合理でもなく、超合理にゃんからね。合理思考ができることは神秘主義者には必須だにゃ。ヤスパースは否定神学の流れをくむ神秘主義的哲学を構想しているけど、徹底的に科学と親和的であろうともしているのだにゃ。
そして、417の質問にこの立場からこたえると、「敷居が高いとも低いともいえない」となるにゃんね。科学とはまさに「クレーン」のように丹念に積み重ねていくものであり、実存哲学的な知(神秘主義的な知もこれに含まれるだろう)とは「人間が目覚める場合に現れる」ものだからにゃ。

420地下に眠るM:2007/02/13(火) 16:58:12 ID:cizMQ0FI
さて、前掲のヤスパースの議論を写していて思い出したんだけど、以下のようなやりとりがありましたにゃー。

>神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作ってきたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間違っている」だってさ。>>177馬鹿猫

>過去のものすごい賢者や哲学者の思考を、いまのわたしたちは文庫本あたりで簡単に読むことができるわけですから、昔の最高の賢者たちが一生をかけて築き上げた知の体系を越える知を現代の一般人が持っていても別に不思議じゃありません。例えば、聖書がネットで検索できるようになったこと自体、過去の信仰者や研究者に対して現代の人の圧倒的な有利さがあります。>>179 macska

macskaはあまりにもお気楽極楽な進歩主義者だにゃ。チミは19世紀のニンゲンか? と突っ込みをいれたくなるにゃ。
科学主義というよりは、暴力的なほどお気楽な啓蒙主義なんだと思いますにゃ。まあ、メリケンで馬鹿クリスチャンと言葉のチャンバラやっていれば啓蒙主義的になるのもわかるし、啓蒙主義は必ずしも否定できにゃーけど、こりゃいくらなんでもお気楽かつ暴力的すぎるだろ。アウシュビッツを招いたのは啓蒙主義的な理性だとアドルノもいってるにゃんが。

macskaの書くものはちょこちょこ拝見していたけど、分析に感心も納得もしていながら何か違和感があったんだよにゃ。そのあたりの理由については、今回僕は腑に落ちるものがあったにゃ。

421シルバーバーチの霊媒F:2007/05/01(火) 13:46:35 ID:???
霊医アトス様(日本の氏神様であり当初の心霊治療家を支えてた神霊)の霊界通信
心霊治療の誤りについて(霊界通信)
アホか????ひまし油で治るか?
だからケーシーみたいなお馬鹿な霊媒だと低級霊しか付かんのだよ。
霊医殿が、アホ ケーシーのせいで、どの位辛かったか!お前の手柄かよ!
アホめ! 何故お前達が、ケーシーを取ったか解るよ。アホだからだよ。
日本のシルバーバーチでもある霊医アトス様より 代打F
(Fは、あくまで、あくまで霊媒です、代打です。)
        続き

何処にお知らせすべきか彷徨っております、霊界通信として参考までに読んでください
エドガー氏のことよりもイギリスのエドワーズ氏よりの考えに重きを置いてるのが
霊界のようです、日本にはウィックランド氏方式しかないであろうと言うこととおっしゃる
前 シルバーバーチ霊のお言葉を合わせてお知らせいたします。
私が今、最も霊能力がある霊医の霊媒だそうです。日本だけでなくて世界的だそうですが???
皆様が、今、最も霊界情報に詳しい御方ですよ。 皆々様へ
つづき
イギリスのエドワーズ氏は、シルバーバーチ霊の指導の下でスピリチュアルヒーラーとして
イギリスを代表するヒーラーでありヒーリングの第一人者でした。
シルバーバーチ霊のお考えでは、前世は、人間に解る領域では、無いという見解です。
実際憑依の成せる業であると結論付けられておられます。
エドガーケーシー氏の心霊治療は、大きく誤っていることに対して
今私は、日本の ヒーラー達へ警鐘を、鳴らす為書き込んでおります。
又、預言者としての彼も、大きく外すことの連続であろうと思わずには、いられません。【寒気がします】 ケーシー氏の投薬・シップなどは、アクまで気休めであり霊医のお力が、無くしては、
何の結果も得られないであろうと言うお話も窺いました。(霊医団のお方:薬に関しては、詐欺に問われるのではと心配する霊医殿もいるくらいです)
霊界のお方達は、エドガーケーシー氏の行った心霊治療が、霊能力の無いヒーラーが行うことにより
低級霊とも呼ばれる不安定な霊が憑依し反って病を重くすることも多々有りそうだとの考えから
前世療法やレイキを大人のコックリさんとして禁止してほしいとFに指示されました。
ある有名霊能者が種を蒔き、私Fが刈り取り・・後・・霊界の秩序のもとに真の宗教が生ませるでしょう
と、言うシルバーバーチ霊のお言葉を頂いております。 あしからず。

422名無しさん:2007/06/03(日) 17:51:15 ID:oitaE/O.
バナナ考えたヤツ天才じゃね?
よく言われることだけどバナナ考えたヤツは天才すぎるというか、
でもだってまず皮がヤバイ。外皮ヤバイ。剥きやすい。
スイカやメロンはバナナ見習えっつー。

そりゃみかんも剥きやすいよ?
でも薄皮ジャマ。薄皮食うんか出すんかで人間を悩ますとこがダメダメ。
その点、バナナは外皮オンリー。しかも種もない。種なし。
種を出すアクションが不要。ワンアクションで食べられる。
ワンアクションフード。

食べるペースも調節できる。大きい口なら一口で、小さい子ならそれなりに。
ラップもいらず、外皮はソフトクリームのコーンみたいに持ち手にもなっちゃう。
エライなんという食べやすさ。なんという無駄のないインターフェイス。
ルーカスもスピルバーグも、ちょうすごいアイディアにビックリ。

外皮のないイチゴなら、皮剥く必要ないじゃんとか言う。ほら、きた。
じゃあイチゴさん聞くけど、おまえ農薬からガードできんのかよ。
バナナの外皮は防毒、保湿、長期保存ばかりか、携帯性にもすぐれちゃってる。
直接、持って散歩に行ける。

あと房。バナナってばちょう房。一本だけじゃなく、複数本を一括で扱える。
ワンハンドでキャリーできる。すごい。バナナすごい。
丸くない。坂道でコロコロ転がらない。
転がりリンゴによる交通事故が多発する現代社会において、
バナナなら坂道の事故ゼロ。落としても安心。
バナナは安全も考えたパッケージング。

ほんとにね。ほんとバナナ考えたヤツ天才。つーか神。
もー伝説のサムシンググレート?

……サムシンググレート?

そうかもしんない。
文字通りバナナ作ったのは創造主、伝説のサムシンググレート。
そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。
人間のためにちょー気を使ってる。バナナ作って気を使ってる。

サムシンググレート。マジですごすぎると思う。

423地下に眠るM:2007/06/03(日) 20:21:47 ID:KqE7Wn1s
>そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
>サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。

バナナはニンゲンだけでなく、果実を食するサルの類い全てにとっての福音だにゃ。
この さむしんぐぐれーと はきっとサルの神にちがいにゃー。

しかしさー「人間原理」ちゅうのも考えてみれば脆弱な理屈にゃんね。
この地球上でもっとも繁栄している生物って、別にニンゲンだということにはならにゃー。

昆虫神かもしれにゃーし、細菌神かもしれにゃーよな

424ミケ:2007/06/04(月) 13:54:26 ID:???
んじゃあイチゴやみかんをつくったのは
サムシングぺティってところ?

425名無しさん:2007/06/10(日) 16:58:23 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの「神は妄想である」の話題ってここで良いですかね。
あの本は一神教の創造神、人格神を「神」とし、汎神論は比喩として神という言葉を使っている
という立場で神の存在を否定していますが。

426NATROM:2007/06/11(月) 11:26:02 ID:fNsuFDiI
「神は妄想である」。読んでる最中です。やっぱり私にはドーキンスよりも、グールドが主張するNOMA(重複することのない教導権)が正しいように思えます。

427名無しさん:2007/06/12(火) 14:36:32 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの批判と違って、
NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。
そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。

428カクレクマノミ:2007/06/13(水) 12:13:47 ID:lhM1Ka.M
>NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。

ドーキンスならたぶん、「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」、また「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」などと反論するでしょうね。

>そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。

これもドーキンスなら、「でも宗教は道徳的価値観だけじゃなく、事実も扱おうとしているじゃないか」と言うでしょう。たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。

429地下に眠るM:2007/06/13(水) 19:38:02 ID:cizMQ0FI
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。

セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。
事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。

そもそも価値と事実の源泉はともに神にあり、神を離れては事実も価値もにゃーわけだ。

430名無しさん:2007/06/13(水) 22:27:55 ID:DHj5XiXA
>「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」
>「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」
現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?

431名無しさん:2007/06/13(水) 22:33:18 ID:DHj5XiXA
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。
宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。

432カクレクマノミ:2007/06/14(木) 00:24:49 ID:lhM1Ka.M
>セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。

道徳的な意味づけができるとしても、事実に関する問題なのは間違いありません。
ある1人の人間の母親に性行為の経験があったかどうか―NOMA論者なら、これは事実に関する問いであり、科学の領分だと主張するでしょう。

>事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。

それだと結局、NOMAは成り立たない(宗教の教導権が事実に関する事柄にも及ぶなら、それは科学の領域と「重なり合う」ことになる)のでは?

>現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?

NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。

>宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。

問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。


「神は妄想である」の内容は一見すると過激ですが、ドーキンスの議論を1つ1つ見ていくと、同意しやすい部分もかなりあるように思います。
たとえば、戦争の悪についてのすばらしい論文を書いた倫理学者よりも、教義をよく知りもしない反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるというのは、常識的な感覚に照らしておかしいものではないでしょうか?もちろん僕の常識的感覚なので、みなさんのものとは違うかもしれませんが、どうですか?

433NATROM:2007/06/15(金) 09:23:25 ID:fNsuFDiI
もちろん、ボーっとしているとどんどん宗教は侵略してくるというのは正しいでしょう。しかし、それは科学が宗教の領分を侵略していい理由にはなりません。マリアが処女だったかどうかという問題は、本当に科学の領分ですか?誰かが「処女懐胎は科学的にも説明できる」などと言いはじめたら批判の対象になるでしょう。しかし宗教側がことさら科学を持ち出さない限り、「それは科学の領分である」などとわざわざ言う必要はなかろうと思います。もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。

うわべだけの反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるのはおかしい、という主張には賛成します。無神論者の立場が不当に弱いとか、倫理的な問題に関して科学知識のない宗教家が口を出す資格があるのかという話に関しても、概ね同意できます。でもこれは、NOMAとは独立した話。優れた倫理学者が容易に兵役免除され、少なくとも人口に応じた分ぐらいの発言力を無神論者が持ち、倫理的な問題を論じるにあたって基本的な科学知識が要求されて当然とみなされる社会においても、宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

434名無しさん:2007/06/16(土) 05:06:40 ID:DHj5XiXA
>NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。
NOMAは宗教と科学がある条件を満たすなら済み分けが可能だという、いわば理想ですよね。

>問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。
検証すべき「事実」としてではなく処女懐妊を扱うことは可能だと思います。
処女懐妊って

435カクレクマノミ:2007/06/17(日) 17:23:09 ID:lhM1Ka.M
>もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。

科学的な方法では検出できず、蓋然性すら議論できないような現象があったとして、それについていったい誰がどうやって論じることができるのでしょうか?そのようなものについて考えるための方法論を、宗教は何か持っているのでしょうか?
結局、ドーキンスが繰り返している「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」問題に行きつくように思います。

>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

科学で直接的には論じられないような問題について(だけ)論じ、しかし科学的知識や論理には立脚している(少なくとも矛盾しない)ことを求められ、取り立てて特権的な扱いをされることのない存在。それを僕たちは、形而上学・哲学・倫理学・思想などと呼んでいます。
少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?

NOMA的理想社会における「宗教」と、今この世界で宗教と呼ばれているもの。この2つを同じ名前で呼ぶことを正当化するに値するような共有形質って、いったい何でしょうか?

436Kitkat:2007/06/17(日) 19:43:55 ID:92e0ryjY
>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

思考の源は信仰かと問われた時、人が脳のシルヴィス溝への刺激で神を感じる以上、人の脳はそういう思考の形式をとるように造られている、としか答えようがないと思います。
神という概念が形づくられる以前から、山や木、岩、特定の場所を信仰の対象とする、土着のアニミズムは、人の歴史と共にあったのでしょう。ということで「信仰」こそ、人の思考の主流であろう・・・と考えるわけです。
それに比べれば科学の歴史は、浅いと言わざるを得ません。
ただ私は科学の歴史の浅さにこそ、大きな意味があると思っているのです。科学の歴史は、宗教的な思考・・・人の脳に元々備わっている思考の枠組みから、人を解き放つためのプロセス、という側面もあると考えるからです。
人は自ら作り出した科学という思考の道具を使って考え始めることで、生物学的に脳に与えられている機能から、ほんの一部でも自由になったと言えるのではないでしょうか。
科学は信仰という大陸で、自治権を獲得した自由都市のようなものだと思います。既存の勢力から見れば、おもしろくないかもしれませんが、共存出来れば選択肢が広がります。
科学は、自分たちの分野で自由に真理を探究できれば満足で、大陸全体を支配しようなんて考えていないでしょう・・・たぶん。

科学は多くの人々を救い、より多くの人々を死に追いやってきました。
宗教もまた、科学以上に多くの人々を救い、さらに多くの人々を死へと導いてきました。
科学と宗教が共存し、互いに補完することで、将来の多くの悲劇が回避できるのではないかと・・・甘いかな。

437NATROM:2007/06/18(月) 01:23:27 ID:Z2veARY2
科学的な方法では検出できない現象を論じる方法論を宗教は持っているかもしれませんし、持っていないかもしれません。私は持っていないと思いますけど、残念ながらそれを証明できないので、誰かが「我こそは奇跡を論じる方法論を持っている」などと言い始めても、「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」としか言えません。科学の領域に踏み込んできたら批判する準備ぐらいはするでしょうが、積極的に否定するつもりはないし、その必要も感じません。


>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」

別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。


>少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?

ドーキンスは仏教を宗教から外していますけど、一般的には「僕たちが宗教と呼んでいるもの」に含みますよね。キリスト教の中でも、大谷順彦著、「進化をめぐる科学と信仰」で述べられているようなキリスト教は、原理主義的な宗教とはまったく別のものですが、やっぱりそれは宗教に違いはありません。今この世界で宗教と呼ばれているものなかにも、かなりNOMA的理想社会における「宗教」に近いものも存在します。

438名無しさん:2007/06/18(月) 20:30:20 ID:DHj5XiXA
>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」

宗教者が清貧で煩悩を退けた生活を送っている(とされている)から、というのがあります。

439カクレクマノミ:2007/06/20(水) 20:35:54 ID:lhM1Ka.M
>「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」

現代社会では、「ご自由に」ではなく、「尊重します」と言わなければならないことになっています。
ついでに税金や兵役免除、公共電波の利用(アメリカでは)、通常の教育(を子に受けさせること)の拒否などなどの特典つきで。
ついうっかり「それは変じゃね?」とか口走ったが最後、宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりも(アメリカなどでは)します。

>別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。

コックが論じた場合と比べ、牧師が論じた場合には無条件の「尊重」、すべての批判に対する回答の免除、おまけに税金の優遇もついてきます。


NOMAは、科学の教導権を制限するだけではなく、宗教の領域(とNOMAが主張するもの)については、宗教が教導権を持ち、それは尊重に値すると主張します。
科学が科学の領域内において教導権を持つのは、それなりの根拠あってのことです。根拠無く領域を広げようとすれば、批判にさらされます(もちろん、これは正当なことです)。
しかし、宗教の教導権については、僕たちは何も根拠を見せてもらっていません。なのになぜか、「尊重」しなければならないことになっています。
これはなんだか不思議な状況ではないでしょうか?

440地下に眠るM:2007/06/21(木) 00:20:23 ID:KqE7Wn1s
>カクレクマノミ

「内心の自由」は基本的人権のコア中のコアだにゃ。

宗教は内心の直接的な表現形態ということになっているわけにゃんね。

メリケンでは、この理屈(僕は形式的に支持する。マイノリティの信仰の自由は非常に重要だから)と
多数派馬鹿宗教理屈のまん延とが奇形的にくっついているちゅうことではにゃーだろうか。

441NATROM:2007/06/21(木) 11:02:58 ID:fNsuFDiI
無神論者が宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりすることは問題ですね。しかしながら、そういう無神論者に対する迫害に対する批判と、NOMAは両立すると思います。世俗的な宗教が、少なくとも外見上は他の宗教に対して寛容であるのと同様に、無神論に対しても寛容であることは可能でしょう。

牧師が奇跡を論じた際に、無条件の尊重や批判に対する回答の免除がなされていることも、NOMAとは直接は関係しません。税金は取ってもよいと私は思いますけど。そもそも、本当に無条件に尊重されているんですか?もし仮に、日本でキリスト教の牧師が「神戸の震災の原因は日本人のキリスト教信仰の薄さである」などと言いはじめたら、おそらくは他の常識的なキリスト教徒からも含め、相当な批判がなされると思いますが。なるほど、原理的な宗教が幅を利かせている国は確かにあり、それは問題ですが、だからといって科学が宗教の領分を侵犯してよい理由にはならないでしょう。

宗教の教導権の根拠については、おのおの持っていればいいのではないでしょうか。聖書でもコーランでも文化的な背景でも。私やカクレクマノミさんも何らかの道徳心を持っていますし、根拠もあると思っていますが、少なくとも「科学的根拠」はないでしょう。客観的に各自の根拠の優劣を測る手段がない以上、社会的常識の範囲内においてそれぞれの根拠を尊重するしかないだろうと思います。「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。

442名無しさん:2008/02/02(土) 20:23:57 ID:zV8V936c
stinky

443光明禅修センター:2008/03/09(日) 09:53:05 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org

444光明禅修センター:2008/03/09(日) 14:17:23 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org

445聖なる心(主イエス様):2008/03/12(水) 17:51:11 ID:viM7iaT2

宗教家が言うには 神とは あなたの心の中の 良心 である

と述べている つまり われわれは ある意味 神 であるのである

良心 愛という本能こそ 人間が神である証である

正確には 人間は 動物と神との間の生物である

446名無しさん:2008/03/14(金) 13:30:43 ID:MSUzBPno
まったくそのとおり。
それは宗教ではなく、特定の人のものだけでなく、
全ての人に共通の真理です。

447NORTON3rd:2008/04/26(土) 12:52:43 ID:tQvpJqX6
macskaさん、根本的な考え方は替わっていないみたいだが、アメリカの一部の無神論者の『アレ』っぷりをみて『こら、マズイんじゃねーの』と思い出したようです


ttp://macska.org/article/224

448地下に眠るM:2008/04/27(日) 14:59:20 ID:0kFRBCQQ
macskaのこのエントリに対する反応の大きさとその内容がオモシレーのだにゃ。
これはやはりドーキンス絡みのようですにゃ。

449macska:2008/04/29(火) 13:17:58 ID:TbdmZchA
どもです。
別に最近になって「こら、マズイんじゃねーの」と思い出したわけじゃなくて、このスレの111で書いているように当時からマズイと思っていました。

>111
> # 個人的に、かれのイスラム教に対する発言にはかなり危ういものを覚えます。
> # かれは政治にはあまり関心がないのかもしれないけれど、欧州の一部で最近目立って
> # きた「リベラルを標榜する排他主義的極右勢力」に利用されかねないのでは。

ほらね。いまと言ってること同じですよ。

450NORTON3rd:2008/04/30(水) 13:27:39 ID:tQvpJqX6
れれ?
111にはおっしゃるようなことは書かれていませんが?

とまれ、お久しぶりのご光臨ありがとうございます

macskaさんのお考えが俺なんかよりドーキンスの『神は妄想である』に遥かに近い考えであることは了承していますし、基本線は変わっていないこともコメント欄を見れば分かります。
それにしても、ちょびっと批判をしただけで、えらい勢いで突っかけてくるコメント欄のドーキンス厨はありゃ何なんですかね

451macska:2008/04/30(水) 14:21:10 ID:TbdmZchA
ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…

突っかかってくる人の一部(あくまで一部ですよ)については、最近は「疑似科学批判」を掲げるイナゴも発生してますしねぇ。

452NORTON3rd:2008/05/08(木) 09:30:31 ID:tQvpJqX6
えーっと、GWはタイにあるNANというふざけた名前の実在の街に行っていてNETとご無沙汰でした


>ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…

ああ、わかりました。それにしてもこのときはHOTな議論をしてるな・・・。
ちょっと、アツクなりすぎの感はあるけど

このときの論争相手の一人である地下猫さんがご自分のブログでmacskaさんの今回のエントリについて論じていらっしゃいますが(だけじゃないけど)、正直言って結構難しく読むの大変


ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080502
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080503
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080507

453NAN:2008/05/08(木) 11:02:19 ID:ruLFH.ZE
>>452
NANだと〜!
(ネタにしてるからな!)

454NAN:2008/05/08(木) 11:03:03 ID:ruLFH.ZE
>>453
訂正:「ネタにしてヤる!」

455名無しさん:2008/05/11(日) 16:39:36 ID:fn845pfM
>>451
それなら昔からいるだろ

456ゴンチュジャンツオ:2008/07/20(日) 22:16:18 ID:e6oh0tkk
2008年7月27日(吉日)合同修行のお知らせ
2008年7月27日はュムカ供養の日とグル・リンポチェの吉日です。
この日ではどんな善悪をしても何れも10万倍になります。つまり、善事を一件するとすれば、その功徳は平日に する同じ善事で得る功徳より10万倍も増加するというわけです。ですから、もし皆さんはこの日では精進して(努力して)善事を行えば、功徳は無駄にはならないばかりでなく、さらにこの機会を借りて、素早く力強くて宿業を を取り除くこともできるし、福と知恵の資糧(資金と食糧)を育てることもできます。

●修行会場:東京・赤羽
●修行時間:2008年7月27 日(日)12:00 〜18 :00
●修行内容:
・12:00 〜 13:00 ポワ(伝承を受けた方のみ参加できます。)
・13:00 〜 18:00 

※参加希望の方は前もってメールでお申し込みください。

メール: tokyowssdl@gmail.com  

ゴンチュジャンツオ

458のっち:2008/12/29(月) 05:46:57 ID:d895uufw
>>441
>「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。

科学は自分の間違いの可能性をみとめているのに対して、信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていないので、

信仰者のほうが傲慢でしょう。

459ナナシー:2008/12/30(火) 07:46:34 ID:oTVUpoag
>科学は自分の間違いの可能性をみとめているのに対して、信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていないので、
>信仰者のほうが傲慢でしょう。

神の存在がほとんどありえないのが事実だとしても、否定は出来ないのだから、「道徳心の根拠は誤りだ」とは言えません。だって存在を否定できないのだから、道徳心の根拠を否定できないからです。
したがって「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」は科学的な言明ではなく、科学が自分の間違いの可能性を認めているのかどうかとは無関係です。
それと信仰者だって改宗する人がいる以上、「信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていない」というのは偏見ではありませんか?

460ラプラスの天使  ◆daemontaDA:2009/01/02(金) 17:58:48 ID:gGx0GgTg
「唯名論」者はこう主張した。世の中には(神とか人間といった)「普遍概念」は存在しない。存在するのは個々の物、個物のみ。つまり「人間」なるものは存在せず、ただ大坂太郎とか藤京花子という個人しか存在していない。「犬」というものは存在せず、ただポチとかシロという個々の犬しか存在していない、と言うのである。現代人にとってはきわめて当たり前の主張である。どうしてこんな当たり前のことを必死になって主張したのであろうか。彼らは「普遍概念」などというものは、単なる名称にすぎない、「普遍概念」とは「声の息」すなわちそれを発音したときの息のようにはかないものであり、息のように消えてしまう実在性のないものであるとまで言って、「実念論」を皮肉った。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/jung3-2.html

461名無しさん:2009/01/19(月) 21:17:07 ID:6AvwjB.Q
私は中1です。3月10日、卒業式でした。
そして、卒業式が終わっていえに帰って、友達と遊びに行っていました。
そしたら!!友達(男)に見つかって(?)友達の家に急遽行く事になりました。
そして行き成り友達は私の胸を触り始めて、ベッドにたおれました。
そしたら制服のスカートをめくり上げて、パンツの中に手を入れて、
チンコの中に指を入れて・・・「クチュクチュクチュ」って。わざといやらしい音を立てて・・・。
そして友達はこういいました。「服脱いで」と。
私はビックリしたので「え?」と聞き返しました。私はもちろんエッチはやったことはあります。その友達と。ほかの人ともやった事はありますが・・・(藁
そして、友達は「オレ、脱いでる所とか写メとるの好きだから」っていいました。
私は納得して、自分でぬぎはじめました。
そして友達は私の体で遊び始めました。チンコに指を入れてクチュクチュいやらしい音を出したり、胸をもみもみしたり、なめたり。
そして友達は写メもとりまくってました。私のチンコの穴。胸。全体など。
そして友達は我慢できなくなったらしく、こういいました。
「オレのズボン脱がせて」と。私は喜んで脱がしました。
ズボンのチャックを開けて、ズボンを下ろして、ガラパンを下ろして。
そしたら友達のもうすでに大きくなっているあそこが出てきました。
そして私は友達をベッドに寝かし、私はうえにのぼって友達のあそこと私のチンコを押さえつけるようにしながら写メをとりました。
とても気持ちよかったです。
この写メを見たい人はこのスレを8箇所に張ってください。
そしたら[               ]←ここにアドレスが出てきます。
それをクリックすると、友達がとった写メすべてのってます。
私がとった写メも、動画も載せてます。
動画はわかりにくいようにしています。
「☆」をクリックすると動画がみれます。
このスレを1箇所にも張らなかった人は、不幸がおこります。
大好きな人が一年以上学校に来なかったり。
嫌いな人があなたの席の隣になったり。
親戚が亡くなったり。
けど本当に写メ、動画ありますので8ヶ所にはってみてください

462RYU_TI_SYU:2009/01/25(日) 18:39:18 ID:4/NyHbA6
  〃∩ ∧_∧
   ⊂⌒(  ・ω・)  はいはいえろえろ
     `ヽ_っ⌒/⌒c
        ⌒ ⌒

463NATROM:2009/01/26(月) 12:58:25 ID:???
不心得者のホスト名はsoftbank219047186098.bbtec.netでした。しねばいいのに。


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