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神の存在/不在と科学の範囲
141
:
diamonds8888x
:2007/01/13(土) 20:43:40 ID:h2fLyT9w
>>132
>多世界解釈と波動関数収束解釈について。
>ミケの科学観として、検証不可能な理論は科学の範疇ではない、
検証はされてるでしょう? どちらも観測をちゃんと説明できているはずです。両理論が観測的に区別不可能というならわかりますが。
142
:
いらはい
:2007/01/13(土) 20:48:34 ID:DHj5XiXA
>>133
>しかし現実に、「信じている」だけのことを「知っている」と思い込んだ人たちは、それを「信じていない」人にまでまるでそれが「事実」であるかのように押しつけて来るのです。かれらの大半には、「自分はこれを信じているのであって、確かに知っているわけではないのだ」という自覚が決定的に欠けています。自覚した上でそういう言葉遣いを使うならまだしも、自覚がない盲信を広めるような言葉は有害です。
masckaさんのおっしゃる「信じている」「知っている」の問題が他者にたいしてどうふるまうかの倫理的問題ということならわかります。
ただ、自覚という内心の問題に対してどうこうするというのは無理なように思えます。
たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。
>「現実世界についての言及」は、否定される可能性があると言っているんです。
「否定される」というのが具体的にどういうことなのかイメージできないので、否定される可能性というのが掴みにくいです。
たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定されたといえるのでしょうか?
そこまでせずに積極的にその命題を受け入れる証拠が何もないということを指摘しただけでも否定したことになりますか?
>世俗化することが好ましい(宗教にとって好ましいかどうかはともかく、社会の側にとっては)とは思っているけど。
宗教が世俗化するのは、世俗のレベルにおいて、実証的根拠があることと宗教的根拠しか無いことが同列に扱われる(確からしさを比べられる)からではないですか?
知ると信じるの区別を自覚したら世俗化は進まなくなるのでは?
143
:
みずすまし
:2007/01/14(日) 02:45:46 ID:TgyKdXjk
はじめて書き込みます(たぶん)。
よろしくお願いします。
なお,macskaさんの日記のリンクから来ました。
>>1
> > Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
> >
> > A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> > う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> > 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> > と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。
>
> この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正
> しいとは思いません。
>
> 神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇
> 内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのでは
> ないでしょうか。
私は,このmacskaさんの主張は正しいと思います。
例えば(あくまで,例え),「神は,世界をお創りになったとき光速を10mm/sと定め,それ以降,変更されていない」という教義を持つ宗教があれば,そのような神の存在は科学で否定されいますよね。
極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立てば,「宗教的事実としては,光速は10mm/sである」が,「科学的事実としては,光速は約30万km/s」ということも言えるかも知れませんが,そこまで極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立つことには強い躊躇を覚えます。
だから,「『神がいるかどうかという問題は科学の範囲外』という言明が常に正しい」とは思えない。
極端に非現実的な仮想例は置いておくとしても,現実の宗教においてはどうなのかと考えれば,(a)科学で否定されている教義,(b)科学で否定されえ,その実験もかなり具体的に想定可能な教義,(c)科学では否定されえないとまではいえないが,具体的な実験方法は今のところ特にない教義,(d)およそ,科学で否定されそうには考えられない教義,という(a)〜(d)まではグラデーションをつくっているとは思います。
でも,そこにグラデーションがあって明確な線引きが困難だからといって,(a)(b)のような教義が実際にあり,またそれがその宗教における「神」の語に強く結び付けられいるような宗教があることを否定することはできないのではないでしょうか。
問題は,(c)(d)があるかどうかではなく,(a)(b)があるかどうかなのではないでしょうか。
-----
(補足1)
もし,「およそ宗教的言明は,科学とは異なる文法や語彙を用いているのだから,科学の文法や語彙で理解することは誤りだ」というのならば,先の「神は,世界をお創りになったとき光速を10mm/sと定め,それ以降,変更されていない」という教義でさえ否定できなくなりますが,それはあまりにも強すぎる相対主義(意味論的な?相対主義)に立っているように思います。
また,仮にそのような立場に立つとしても,冒頭に孫引きしたQ&Aの文章(すでに修正されていますが)にはそのような立場に立てば,という留保があって良いように思います。その文章を読む人が,そのような強い相対主義に立っているかどうか不明だからです。
-----
(補足2)
もし,「『真の宗教』は(a)(b)を含まず,(a)(b)を含むようなものは本来の意味では『宗教』と呼べない何かである」とするならば,冒頭に孫引きしたQ&Aの文章は問題がないものになるでしょう。
しかし,実際に世の中にある多くの宗教がそのような意味で「真の宗教」であるようには思えませんから,そのような立場は,それほど一般的な立場ではないように思います(先進国のインテリにとっては,一般的なのかもしれませんが …もしかしたら)。
144
:
みずすまし
:2007/01/14(日) 02:46:20 ID:TgyKdXjk
(補足3)
>>1
> 逆に言うと、「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたした
> ちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法
> 則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思い
> ます。
この部分が,「現実社会に関与するタイプの神」は全て科学の対象になりえるということならば,厳密には間違っているだろうと思います。
「自由自在に事象を操れ,かつ神の実在を確かめようとする者には,常に神が存在しないかのように思わせるように事象をあやつる全知全能の神」というものが存在するのなら,その存在は科学で否定することも,肯定することもできないものと思います。
しかし,やはりある種のタイプの神の存在(という教義)は科学で検証しえ,それは「現実社会に関与する(関与した)タイプの神」の一種であると思います。その例は,極端な仮想例ですが,すでに挙げました。
-----
(補足4)
科学が,「私がビルから転落しても助かったのは,神のご意思だ」といった *解釈* を否定も肯定もできないというのは,あるいはそうなのかもしれません。
しかし,繰り返しになりますが,問題は(c)(d)があるかどうかではなく,(a)(b)があるかどうかなのではないでしょうか。
-----
(補足5)
では,多くの宗教が(a)(b)を含み(少なくとも(b)を含み),それが科学で否定されえるとして,そのように主張することに現実的な意味があるのか,といわれればそれはケース・バイ・ケースだと思います。
145
:
diamonds8888x
:2007/01/14(日) 10:15:36 ID:h2fLyT9w
>>140
訂正。「小池監督の言葉でも」===>「小出監督の言葉でも」
じゃないと通じにくいですね。選手から信頼されているコーチなり監督であれば、名前はどうでもいいことではありますが。
しまった。書き込むスレッドを間違えましたよ。
146
:
diamonds8888x
:2007/01/14(日) 10:22:08 ID:h2fLyT9w
>>132
「信者が自分を信じようが信じまいが好き勝手に振舞う気まぐれな運命のカミサマ」の想定はわかります。ミケさんやSeagul-Xさんの想定状況ではそれが一番ぴったりします。哲学論というか認識論というか、「偶然への科学では認識できない何者かの介入」というテーマにはぴったりです。
またみずすましさんが144で想定した全能の神も検証不可能ですし、有名なへそ理論の「1分前に世界を創造した神」も検証不可能です。
でもね。単にそういうカミサマを奉じているだけの宗教が実際にどれくらいありますか? 多くの宗教の教えは、「信仰または信仰を示す行為と救いとの因果関係」を述べているのではありませんか? そして因果関係というものは、原因と結果が観測可能であれば検証可能なものですよ。その検証がたとえ科学的には不完全なものだとしても。また観測がただ一人の個人にしか可能でないものだったとしても。
147
:
diamonds8888x
:2007/01/14(日) 10:29:43 ID:h2fLyT9w
macskaさんが一貫して主張しているのは「科学を使う側の心得」、もっと強く言えば「科学者としての職業倫理」みたいなものだと思います。こういうとまるで職業科学者が仕事としての学問を行う場合だけの問題に聞こえますが、そうじゃなくて、そもそもこの世の中の物事を検証しようと試みる全ての行為に対して、ですかね。
例えばキリスト教を信仰する科学者がいたとします。宗教上の真実として「キリストは水をワインに変える奇蹟を起こした」と信じることは信仰者としては当然かも知れません。でも歴史上の事実としての「紀元0年前後のある時、イエスと称する人物が水をワインに変えるのを目撃した人達がいる」という言明は科学的検証の対象であると考えるのが、科学者としては誠実な態度でしょう。それは、「聖書はイエス死後の人達が記載したもので、いくつも異なる版がある。」とか「イエスという歴史上の人物の行動は実はこれこれである。」とかいう言明も科学的検証の対象であると考えるのも同じ事です。
macskaさんは一貫して素朴実在論に立っていると思えますし、これは普通に人間が世界を認識する立場としては至極まっとうな立場です。ただまっとうな主義も極端に徹底して押し進められる人は意外に少なくて、極端に徹底して押し進めた立場は意外にも過激派に見えたりします。普通の人間による直接の観測だけを信じろ。偉い坊さんが言ってるだけで鵜呑みにするな。何事も自分で検証しろ。実に過激で、ある人々にとっては不都合な主義です。まあ今の先進諸国の社会では、この過激主義も一定の認知を得てますけど、過激なだけに煙たがられる嫌いもあるのは事実です。
上記の過激主義は私も支持している主義です。常に貫徹できているかというとそうでもありませんが。人生は世界を正しく認識するだけが全てではないので(^_^)。
148
:
fukken
:2007/01/14(日) 12:13:23 ID:M5vfENrY
>>125
>宗教者がそのように現実的な解釈を取ってくれることは、実は世間の側としても非常に助かるわけで、全然悪いことではありません。だからわたしは、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替える」ことは素晴らしいと思っているくらいで、全然冒涜するつもりはないんですね。
macskaさんに宗教者を冒涜する気持ちのないことは、既に前回の回答でも了承済みです。また、「macskaさんが宗教に対して攻撃的に思える」と言ったことについても私の誤解であったことを認め、お詫びします。
ですが、前回も言いましたようにmacskaさんが宗教者の宗教に対する思いを軽視していると言う印象は否めません。
キリスト教や聖書についてはお詳しそうですが、その他の宗教はどこまでご存知なのでしょう。
macskaさんご指摘のキリスト教に見られるような曖昧さを排除するために、偶像崇拝や教典の外国語訳を規制するなどしての教義の一意性を保とうとするイスラムのような宗教だってあるのではありませんか。
>「常識や科学的知識なん て関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する人も一部にはいるでしょう。しかし多くの宗教者 たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を 防衛するのです。
キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言うのが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌まるのでしょうか。
このように一絡げにして「宗教者は、〜だ」と断定的にモノを言うことに躊躇はないのですか。
聖書を誤解している宗教者がいるなら、まずは「あなたは教義を間違って解釈しているよ」と教えてあげれば良いし、それが作為的なものだと言うのでれば「おまえ、聖書にはそんなことは書かれていないだろうがあ。この似非宗教者め。」と、飽くまで宗教の土俵に上って、こき下ろしてあげれば良い。
そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃないでしょうか。
それともう一つ。
私とmacskaさんのやり取りは、macskaさんの「宗教だって全く何もわかっていない
>>75
」という言葉から始まっているのですが、それは単にmacskaさんの思い込みに過ぎない可能性だってなくはないわけですよ。まあ、その可能性は極めて低く、本当は私だってmacskaさんと同じ様に思っています。しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”してはならないと言う意味での私の
>>96
だったのですね。
それに、
>宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
こんな言い方をしては、宗教者を愚弄していると言われても仕方ないと思いますね。
自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教が認める行為であるとどうして断定できるのでしょうか。
これは明らかに宗教そのものを批判していますし、宗教者を蔑視した発言と受け取れなくもありません。何しろ「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」と言ってしまったわけですから。
この言葉に限らず、このスレッドでmacskaさんの仰っていることは言葉の端々にどうにも宗教蔑視の雰囲気が醸し出されているんですよね。
互いの主張に特に齟齬もないのに、それがここまで紛糾しているのはそんなところにも問題があるのじゃないでしょうか。
宗教が科学の範疇であろうとなかろうとそんなことには関わらず宗教に対する発言にはもう少し気を配りましょう。もう少し宗教者の気持ちに対する配慮をいたしましょう。ってことで一つ。
149
:
fukken
:2007/01/14(日) 12:18:28 ID:M5vfENrY
失礼しました。
私の
>>96
だったのですね。→
>>76
150
:
macska
:2007/01/14(日) 14:25:15 ID:VdHL1C4M
ようやくわたしが何を言っているのか理解されかけてきた様子。
そんなに大それたことを言っているつもりはなかったのですが、議論の途中で脇道に逸れてしまったために、いろいろ誤解を浴びてしまいました。
>>142
> たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
> ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
> これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。
うーん、これだけの情報じゃなんとも言えないな。
何らかの体験をした、というのは事実でしょう。でも、だからといってある特定の宗教の教義によるその体験の解釈が正しいと確信するのは、ちょっと飛躍があります。だから、その飛躍を埋めるような客観的な根拠がどれくらいあるのかを聞かなければ判断がつきません。
まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
> たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定され
> たといえるのでしょうか?
創造説の中身にもよりますが、「神が6000年前に全ての生物を今ある形に作ったという説」でしたら否定されていると言っていいでしょう。
もちろん、「実は本当に6000年前に創造されていて、でも神は人々の信仰を試すためにわざとそれに反するような証拠を捏造したのだ」という反論は可能ですし、その可能性がまったくゼロだとは言えません。
しかしそれを言うなら、全宇宙は5分前に創造された可能性だってあるし、創造主がスパゲッティモンスターである可能性だってあるし…とキリがないので、普通そういう無茶苦茶な可能性は「信じるのは勝手だけど、考慮に値しない」と切って捨てるわけです。可能性が完全に否定できないからといって、何か考慮するに足るだけの可能性があるということにはなりませんからね。
>>148
> キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言う
> のが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌
> まるのでしょうか。
どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
> そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教
> 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃない
> でしょうか。
わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。
> しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない
> 宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”し
> てはならないと言う意味での私の
>>96
だったのですね。
「してはならない」とあなたが断言したことで、科学の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わないわたしの心が傷ついたらどうしてくれるんですか!(笑)
もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。
151
:
ミケ
:2007/01/14(日) 14:43:12 ID:???
>>141
まずは、前投稿の表現が曖昧だったかもなので、
もとの文章(
>>122
)から。
>多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。
要するに、どちらの仮説も矛盾がなく(観測事実を説明でき)、
かつどちらが正かった場合の予測も同じで区別できなかった場合、
それは科学では選べません。
「論理的に矛盾がない、だけでは仮説は選べない。(
>>132
で紹介したHPより)」
というヤツです。
今西の「すみ分け」も、観測事実を矛盾なく説明できますが、
すみ分けが間違っていた場合の予測と正しかった場合の予測が区別できないため、
科学では採択できなかったのと同じかと思います。
>>146
「勝利の女神的なもの(気まぐれver.)」は
日本では広く信仰(?)されているように個人的には思います。
また、いささかミケの知識は偏向しておりますが、
神話に出てくる運命のカミサマ(や精霊)は
敬おうが敬うまいが戦いの勝利を左右したりする印象があります。
ヴァルキューレとか?(それが現在信仰されてるかどうかは知らんけど)
とはいえ、ミケは別に実際の宗教を想定してたわけではないんです。
macsaka さんの主張を
「現実に干渉するタイプの神であるならいかなるものでも検証可能である」
と解釈し(本人はそういうつもりではなかったとしても)、
その主張から、その前の地下猫さんやミケの主張
「運命のカミサマ的なものなら現実世界に干渉するものでも検証不可能である」
を理解していないのでは?という印象を受けたのでその例を挙げてみた、と。
多くの宗教とかそういうことはあんまり考慮する必要を感じませんでした。
ミケにとって大事な(とそのときミケが思った)ことは、
「検証不能である」という部分がmacska さんに通じていなかったのでは?
という点だったので。
それが誤解だったらしいことが分かったので、もう引き上げたわけです。
※一応ミケとしてはそもそも検証の対象にできようができまいが、
検証不能なものを科学の範疇である、という言明には賛成できない、
という立場です。今でも。まあわざわざ争う気はないけど。
(今西進化論や「宇宙は1分前に」は科学の範疇内なのか、という)
反論当時は、「検証不能なら科学の範囲外って言うのが当たり前」という意識があったので
「科学の範疇にある」を「検証可能」と脳内変換していました。
152
:
fukken
:2007/01/14(日) 17:23:53 ID:M5vfENrY
もう少し食い下がってみましょう。
>>150
>どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
その程度の認識であれだけ仰ったのですか?
高校生物の教科書程度の知識すら持たず「進化論なんて出鱈目じゃあ」と飛び込んでは自滅する人をここで大勢見ている私には、それはとても危険な行為のように思えます。
地下猫さんも仰っているけど、宗教を知らずにさもわかったようにそれに意見してしまうと言うのは、創造科学のお兄様方と大して変わらないように思います。
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
と仰ったのはmacskaさんですが、ここで同じことなさろうとしていませんか。
>わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。
「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」
は皮肉とは言わないでしょう。批判でもないとすれば嫌がらせなのでしょうか?
>もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。
macskaさんは宗教者は信と知の区切りを付けるべきだと仰った。
では今回のmacskaさんの発言の中で、明らかに彼らの”信”である領域に介入するものは一切なかったと言い切れますか?
最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り踏み込んじゃっているではありませんか。
「そのように断言することは”心情的に”してはならない」と言うのが気に入らないのであれば、「”macskaさん自身が設けようとしている決まり”を守るためにも、してはならない」のと違いますか。
それから、macskaさんは
信じているという分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。
>>92
とも仰っている。
宗教者が「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する分にはそれは”信”の領域にあるわけですね。
>>125
そういう人たちから見れば、「聖書の記述は誰がどう見ても間違っている」
>>83
などは”信”の領域への介入どころか、宗教に対する侮辱そのものです。
ところが宗教的信念のない人(その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を防衛する人)にはそれは当て嵌まらない。
macskaさんご自身が、宗教的信念に特別の保護を与えようとしているのではありませんか。
で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?
153
:
地下に眠るM
:2007/01/14(日) 17:33:46 ID:Y7kDipRw
とりあえず今日の投稿はこの1件のみかな
>ヤケクソになるのはやめましょう(笑)
チミは頭がワリイなあ・・・・・・
いっておくと、僕が罵倒モードに入るのは、
・相手が特定の知的領域に関する礼儀を逸している。
・罵倒してもこちらにダメージがないと確信できる。
両者が該当する場合、つまり無礼で弱い馬鹿に対してこのモードに入ることにしているのだにゃ。
こうすれば、負け逃げの時も「そんな人格攻撃する相手とは議論なんてできません」ということができるわけだにゃ。僕ってやさしいだろ?
>> 自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、
>> ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
>例えば、進化論が広まった結果神の存在を疑問に思う人が増えたように、人間の意識の科学的解明が進んだ結果人々が死後の世界を疑問に思うようになるという程度の関連はあるでしょうが、進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。
のらりくらりの逃げられにゃーように、もっと簡明にいってあげよう。
死後の世界とか魂とかが「存在する」のならば、それは(チミの定義では)自然科学の対象だろ?
現にこうゆうのがあるんだにゃ↓
ttp://www.h4.dion.ne.jp/~mf124/sub%205%20tajigenn.html
この香ばしいHPから引用するにゃ
***************************
多次元世界の存在の発見経過
A【神霊界】
心霊研究によって死後の世界、霊魂の存在が歴然と実在していることが、科学的に実証されました。
* 物理的心霊現象や霊界通信(チャネリング)を通して、死後の世界と霊魂の存在が、科学的に厳密なる検証の結果証明された。
***************************
探せばこの手のタワゴトにはことかかにゃーぜ。神智学の教義のパクリでね、日本ではオウムとか幸福の科学とかが採用している教義のパターンにゃんな。死後の世界は実在の世界の高次元にあるんだそうだにゃ。
154
:
地下に眠るM
:2007/01/14(日) 17:34:24 ID:Y7kDipRw
長すぎた、つづき
しかし、この手のタワゴトをいっている連中も、チミよりは論理的だ>macskaクン
チミのいっていることは、現実世界の森羅万象が自然科学の対象だといいながら、死後の世界の「存在」は対象外だとのたまわっているにゃ。現実に存在しにゃーものは存在するとはいわにゃーだろ?
ま、「それは彼の妄想の中だけに存在する」という逆説的な言い方はあるけどにゃ。もちろんこれは、「現実には存在しない」という意味だにゃ。これは単純な排中律の問題。死後の世界は存在するかしないかしかなく、存在するとは現実にあることをいうわけ。違う?(←ここは逃げずに答えようね)
※哲学用語における「存在」とは非存在も含むのだけどここでは関係なし
しかし、死後の世界はもちろんニンゲンの通常の認識では検知できにゃーわけだ。存在しているはずのものが検知できにゃーのは何故だろうということで、疑似科学的な「○○次元」とかいう説明が採用された例だにゃ。まあ電波ゆんゆんの言説にゃんが、それでも「カガクは現実世界の森羅万象を検証対象にする」といいながら「死後の世界の存在」を対象外だとする誰かの詭弁よりははるかに論理的かつ誠実にゃんね。
もちろん、あらゆるタイプの神の存在にの有無ついても、科学は検証対象とすることになるにゃんな。
>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。
え?
どう違うの?
逃げにしか見えにゃーぜ。
つまりね、macskaの言明というのはハナッから矛盾しているわけだにゃ。カガクが現実世界の森羅万象をその対象にするのであれば、存在する全てはカガクの検証対象となり、よってあらゆるタイプの神も死後の世界も魂もカガクの検査対象にならなければならにゃー。
「森羅万象」ネタの問題はまだある。
例えば文学作品はもちろんこの現実世界での営みだにゃ。作家とか文学作品のよしあしの判定は自然科学の検証対象になることになるにゃ。ちゅうか、ニンゲンの脳というのは現実世界に存在して現実世界で活動しているわけで、macskaの白痴的カガク主義言明によると、ニンゲンの脳が産みだすありとあらゆる事象はカガクの検証対象となっちゃうわけにゃんね。人文科学・芸術などもすべてカガクの対象となるわけだにゃ。
極端なカガク主義にゃんな。
そして、カガク主義はカガクの敵なんだにゃ。
あと、予告しておきますにゃ。
・macskaは宗教に対する悪意をもって発言していること
・場当たりのウソをつくこと
・基本的な読解力がないこと
以上を今後の投稿で証明するにゃ。
ま、ゆっくりとやるけどね。
155
:
みずすまし
:2007/01/15(月) 02:03:50 ID:TgyKdXjk
横槍ですが。
>>152
> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?
哲学では,例えば次のように区別されています。
> 知識の古典的定義
> 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義として以下のものが用いられる。
>
> ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。
>
> 1. Aは「Xである」と信じており、かつ、
> 2. Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ
> 3. 「Xである」は真である。
> これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98
# 「知識」は「真なる信念+α」だというのはプラトンが議論しているので,「知識」は
# 「真なる信念+α」だという理解が古典的スタンダードだというのは「現代英米の分析
# 哲学」に限らず西洋哲学全体についていえると思う。
# たぶん,ポパーも概ねこれに近い考え方をしている。クーンは違うかも。
# なお,この古典的定義では「正当化」の内容は明らかにされていない。
# その為に,その古典的定義に概ね同意する哲学者の間でも,「正当化」の内容に関し
# て論争がある。
こういうこと書くのは僭越かもしれませんが,たぶん,macskaさんは概ねこの古典的定義に従った「信念」と「知識」の区別をしていて,「正当化」の明確な定義を棚上げにしても,一応の(少なくともその人が考える)「正当化」を伴った「真なる信念」についてのみ「知識」という言葉を用いるべきだ,と主張されているのだと思います。
例えば。
>>150
> まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見る
> と「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知って
> いる」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るか
> どうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知ってい
> る」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
さらに僭越なことを書きますが,おそらく,この古典的定義が他の方とあまり共有されていないんじゃないでしょうか。
ただ,私の推測が正しいとして,macskaさんが「信じている」と「知っている」の区別として要求していることは,古典的スタンダードに従っているし,そのスタンダードに反対する強い理由も(私には)ないので,それなりにまっとうな主張だとは思います。しかし,その区別は,普通の日本語を母国語とする日本人において,日常の用語感覚として明確ではないので,他の方と共有されていないとしても無理はないと思います。
この「共有されていないとしても無理はない」というのは宗教家に対してもいえることで,この区別が共有されているという前提がないのに,宗教者に対して「それは,『信じている』だけで,『知っている』わけじゃないんでしょ?」といっても意味不明かもしれません。
# 西洋人,さらに限定して英語を母国語とするインテリにとっては,"believe" と
# "know" の違いとして明確なのかもしれませんが,私にはよく分からない。
156
:
fukken
:2007/01/15(月) 03:20:38 ID:M5vfENrY
>>155
ご教示ありがとうございます。
でも、
> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?
これはmacskaさんに対する皮肉なのです。
何しろ、他人には『知らないことを「知っている」と言うな』と言っておきながら、「どうやら宗教とはこんなものだろう」と信じただけで知った気になり、曖昧な部分をまるで確定したことのように語ってしまったわけですので。
「信じている」という分には、どんなに非合理な主張であっても、私もここまでねじ込んだりしないです。(参考文献
>>92
)
157
:
diamonds8888x
:2007/01/15(月) 06:15:22 ID:h2fLyT9w
>>153
,154
それは101でAH1さんが言った「死後の世界は(もしそれがあり、観察する手段が開発されたなら)観測可能」という話ですよ。macskaさんは110で「もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。」と明確に答えてます。
その香ばしいHPで主張されている科学的に実証されたとか言う「死後の世界」とやらなら、当然科学の範疇です。現在生きている人間が観測して実証したと主張しているのですから。macskaさんの言う「死後の世界」とは死んだ本人にしか観測できない世界のことだと思いますよ。そして死からよみがえった人がいない以上は、生きている人にとっては「死後の世界」は観測不可能ゆえに検証することができません。ごく普通の論理だと思いますが?
158
:
diamonds8888x
:2007/01/15(月) 06:17:12 ID:h2fLyT9w
>>151
見解のわずかな相違ということでよろしいかと思いますが、一応私の見解だけ述べておきます。
>>(今西進化論や「宇宙は1分前に」は科学の範疇内なのか、という)
どちらも科学の範疇であり科学理論とみなすことができます。しかしオッカムのかみそりにあわないとか、予測性がないとか諸々の不都合から取り上げられない、もしくは正しい科学理論としては排除されたということですね。なぜならミケさんの言う検証不能かどうかという判断をまずしないことにはいけないわけで、判断する前では(ミケさんも賛同するだろう意味での)科学理論かも知れないと見なして判断を試みるのですから。「宇宙は1分前に」は割とすぐに判断できるでしょうが、今西進化論は判断が難しいのではないでしょうか?
159
:
地下に眠るM
:2007/01/15(月) 10:36:54 ID:Y7kDipRw
>>157
だから、死んだ本人がどこにいるの?
現実世界には存在しないけど存在する、ってどういうことか教えてくれる?
「妄想や願望の中に存在する」ってのは存在しにゃーという意味だと元レスにも書いてるぜ。
macskaクンの主張がどんなに白痴的で無意味かチミにはわかんにゃーのかな?
観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
言い換えると
カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ、といっていることになるにゃ。
最初からこんな白痴的なことをいいたかったのか、「僕はわかってるんだじょー」というカッコをつけたかったが故にここまで追い込まれてしまったのかしらにゃーが、こんな主張はただのゴミ。
macskaクンがいかに宗教に悪意をもっているか、場当たりの適当なことをいっているかは、時間のあるときに検証するけどにゃ。
とにかく、宗教についてのmacskaクンの発言はほとんど信用に値しにゃーと考えていい。
160
:
Josef
:2007/01/15(月) 12:44:42 ID:uPoVYQoU
はじめまして。macskaさんのサイトから来ました。
>>159
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
読み間違いですね。
「現実世界に起きている」と主張されることについては科学的検証の対象になる、ということでしょう。「現実世界に起きている」と主張される事象であるにもかかわらず、検証を試みた結果、「観測や実証の可能性がない」ことが判明すれば、「現実世界に起きている」という主張には根拠がないことになります。
161
:
macska
:2007/01/15(月) 13:19:37 ID:VdHL1C4M
>>152
> その程度の認識であれだけ仰ったのですか?
あれだけって、そんなに言ってませんって。
> 地下猫さんも仰っているけど、宗教を知らずにさもわかったように
> それに意見してしまうと言うのは、創造科学のお兄様方と大して変
> わらないように思います。
もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。
> 最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り
> 踏み込んじゃっているではありませんか。
それが事実として間違いであると論じているのか、それとも事実だけれどそういうことは口にすべきではないと論じているのか、どちらかはっきりしてください。
わたしはそれが事実であると思っている(事実でない可能性は、スパゲッティモンスターが存在する可能性程度ならあるけれど、ほぼ考慮する価値なし)し、「だれかの宗教的信念に反するから」という理由で事実を口にしてはいけない、とは思いません。
> 宗教者が「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと
> 聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防
> 衛する分にはそれは”信”の領域にあるわけですね。
>>125
> そういう人たちから見れば、「聖書の記述は誰がどう見ても間違って
> いる」
>>83
などは”信”の領域への介入どころか、宗教に対する侮辱
> そのものです。
馬鹿げた信仰を持つのも自由なら、その馬鹿らしさを指摘するのも自由でしょ。イデオロギーを通さずに聖書を読めば、それが間違いだらけであるというのは明らかです。数えきれないくらい矛盾があるんだもの。人々の信仰は尊重するけれど、だからといって明らかに間違っているものを「間違いがない」と認めなくちゃいけないなんてことはないはずです。
>>153
> 死後の世界とか魂とかが「存在する」のならば、それは(チミの定義
> では)自然科学の対象だろ?
「存在する」というのが、現実世界に物理的に存在するという意味なら、その通りですね。それがなにか問題ですか? あなたは仮に「魂」が例えば物理的に存在していたとしても(粒子の一種として発見された、とかなんでも適当に想定してください)科学の範囲外であると言うのですか?
一般に「死後の世界」というとき、それは現実世界に物理的に存在するものとしては語られていないように思います。生きている人の住んでいる世界とはまったく別の次元にあるとされているはず。「魂」というのも、物理的存在として語られることもありますが基本的に物理世界とは別のものとして語られるはずです。そういうものは科学の範囲の外側ですよということ。
> 現実世界の森羅万象が自然科学の対象だといいながら、死後の世界の
> 「存在」は対象外だとのたまわっているにゃ。現実に存在しにゃーも
> のは存在するとはいわにゃーだろ?
死後の世界の「存在」というときに、わたしはそれを「現実世界において、物理的にあること」という意味では言っていません。物理世界の外側にあるとされているモノ、という意味で言っています。
わたしには、物理世界の外側に何かが「ある」というとき、それがどんな状態なのかまったく見当もつきません。しかし世の中には、物理世界の外側を信じている人たちがいて、そこに「死後の世界」だとか魂だとか神様が「ある」と言っているわけで、かれらのそういう信仰を科学は否定できませんよ、とわたしは言っているだけです。もちろん肯定もできませんが。
> 作家とか文学作品のよしあしの判定は自然科学の検証対象になることになるにゃ。
文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。
162
:
ミケ
:2007/01/15(月) 16:04:47 ID:???
>>158
それだと、IDもスパゲッティモンスター説も
(正しくないけど)科学理論ってことになってしまい、
ID論者やラエリアンを相手にするときにめんどくさいですよ?
いや、まあ、めんどくさいだけですけど。
検証不能ってことは正しい(確からしい)ともそうでないとも言えない、
ってことなので、
検証不能な理論を正しくない科学理論と言ってしまうと、
棄却された科学理論(天動説とか)との区別を説明するのがとても大変になってきます。
しかも区別を説明した後に、
なぜ確からしいともそうでないとも言えないことがいけないのかも説明しなければいけません。
最初から、「正しい正しくない以前に、それは科学ではない」と言えたほうがラクだし、
相手やギャラリーにとっても混乱が少ないということで、
ミケは『検証不能なものは科学の範囲外』という言い方の方を支持しますです。
まあ相手の理解度によって言い方を変えるのもアリだとは思いますが、
過去ログを通しで見返したときになんとなく見栄えが良くないというか(自意識過剰?)。
163
:
ミケ
:2007/01/15(月) 16:29:22 ID:???
すみません、横です。
>もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。
これはちょっと熱くなってはいませんか。
macska さんの、「世俗化した宗教は〜」
という主張に対して、
fukken さんは
「その根拠はキリスト教以外にあるの?」
「キリスト教(数ある宗教のうちの一つ)しか根拠として挙げられないなら、
一まとめに宗教はと言ってしまうのは問題があるんじゃないの?」
って疑問を提示したわけで。
これに対しては
「これこれこういう理由でキリスト教だけで十分である」とか、
「他も見たが(具体例)同じような感じだった」とか言う感じで、
宗教は〜と一まとめにする正当性を主張すべきところではないでしょうか。
具体例を挙げずに「どれも似たり寄ったりではないですか」という答え方は、
一まとめにする正当性の根拠としては、曖昧で弱い。
このような弱い根拠をもとに、宗教は〜と一まとめにした(ように見える)のが
宗教に関して無知という印象を与えたのだと思います。
(無知でないなら具体例や強い根拠を挙げて答えられるはず、という期待のもとに)
というわけで、無知の汚名をはねつけ、相手に謝罪を求めたいならば、
「これこれこういう理由でキリスト教だけで十分である」とか、
「他も見たが(具体例)同じような感じだった」とか言う感じで、
宗教は〜と一まとめにする正当性を改めて主張すべきかと思います。
164
:
いらはい
:2007/01/15(月) 18:09:06 ID:DHj5XiXA
>>150
>少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
その人の中で使い分けるだけでは「知っている」と思い込んだ「信じている」ことを「知っている」かのように言ってしまうことになりませんか。
宗教者は自分が確からしさを感じているものごとについて、飛躍がないのかあるのかの検討作業を求められるのでしょうか?
科学が教義を否定するというのは別に全面的に無価値なこととして取り扱うというわけでなく、
合理性を認めないというくらいの意味ですか。
では「宗教と科学の住み分け」ではなく「信仰と科学の住み分け」なら可能だということでしょうか。
165
:
fukken
:2007/01/15(月) 19:51:35 ID:M5vfENrY
>>161
>もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。
良く思い出してみてください。
貴方が「キリスト教信者とは、これこれこうなんです」と言うので、「その他の宗教にもそれが当て嵌まるのか。」と私が質問したのですよ。
「イスラムもヒンズーも仏教もすべて同じです。世界の宗教者のほとんどが教典を読み替えています。だからこそ、『宗教なんてご都合主義だ』なんてことを平気で断言できたんですよ。」ってあなたの方が答えないといけなかったのですよ。
ところが、
>どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
と、このように貴方は返したのですよ。(それまで歯切れの良かった人の回答とは思えませんねえ。)
つまり、貴方がすべての宗教、宗教者を良く知った上で意見を述べているわけではないことを自身で名言したわけです。
宗教のことを良く知りもしないのに、断定的な口調で「宗教(者)とは」とやって、それを批判したり(皮肉を言ったり、でも良いです)しているわけですから、「それは問題のある行動だ」と私は言ったまでです。それだけのことです。(ミケさん、解説ありがとうございました)
>また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。
宗教、信、知とそれぞれの単語自体の解釈が人それぞれ違うでしょうし、だいたい”されがち”なんて曖昧そのものな言葉をわざわざ加えて何言ってるんですか。こんなことに白黒つけようとすることが所詮間違いであって、そんなことに拘る必要はないんじゃないんですか。って言うのが私の意見ですってば。
でも、命題が「macska氏は『思い込んでいる』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」であれば割りと簡単に証明出来そうですけどね。
>>最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り踏み込んじゃっているではありませんか。
>それが事実として間違いであると論じているのか、それとも事実だけれどそういうことは口にすべきではないと論じているのか、どちらかはっきりしてください。
>わたしはそれが事実であると思っている(事実でない可能性は、スパゲッティモンスターが存在する可能性程度ならあるけれど、ほぼ考慮する価値なし)し、「だれかの宗教的信念に反するから」という理由で事実を口にしてはいけない、とは思いません。
「宗教には全く何もわかっていない」か否かの真偽ですって?
それをはっきりしろなんてナンセンスな質問を本気でしているのですか。
そもそも、私は最初から明確に「私にはわかりません」と”当たり前に”答えているじゃないですか。
一方貴方はと言うと、「わたしはそれが事実であると思っている」
やっぱり”思っている”だけなんでしょ。”知っている”わけではなく。
一方宗教者は”信じている”わけなんですね。
私の指摘が「貴方は宗教の”信”の領域に踏み込んでいますよ」だってことをお忘れなく。
>馬鹿げた信仰を持つのも自由なら、その馬鹿らしさを指摘するのも自由でしょ。イデオロギーを通さずに聖書を読めば、それが間違いだらけであるというのは明らかです。数えきれないくらい矛盾があるんだもの。人々の信仰は尊重するけれど、だからといって明らかに間違っているものを「間違いがない」と認めなくちゃいけないなんてことはないはずです。
本音ですね。
結局、貴方は宗教に文句付けたいだけなのでしょ。
貴方がそうしたいのならそうすれば良いですが、でもそれはきっと徒労に終わると思いますよ。
相手にとっても時間の無駄なだけで、はた迷惑な話です。
と言うことで面倒でしたが貴方にお付き合いして一応すべての質問に応えましたよ。
しかし貴方は私の質問や指摘をはぐらかしてばかりですねえ。
貴方はうまく誤魔化していたつもりなのかも知れませんが、私は内心でがっかりしていたのですよ。
私は直接話すまでは貴方は久々にここに来たまともな論者と思っていましたが、どうやら買い被りだったようです。
166
:
fukken
:2007/01/15(月) 19:59:30 ID:M5vfENrY
以下、macskaさんの宿題。
>>165
の冒頭に引用したの私の質問「その他の宗教にもそれが当て嵌まりますか」と合わせて
>このように一絡げにして「宗教者は、〜だ」と断定的にモノを言うことに躊躇はないのですか。
>>148
と尋ねていたのですが、これに返答はありませんでした。
更に、わたしと貴方の議論の切っ掛けとなった貴方の言葉、
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
>>75
について、
>こんな言い方をしては、宗教者を愚弄していると言われても仕方ないと思いますね。
>自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教が認める行為であるとどうして断定できるのでしょうか。
>これは明らかに宗教そのものを批判していますし、宗教者を蔑視した発言と受け取れなくもありません。何しろ「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」と言ってしまったわけですから。
>>148
と、弁明を求めましたがこれにも一切返答なしです。
>>161
での回答も同じく。貴方のやったダブルスタンダードに対する指摘についての釈明も一切なしでした。
他にも全部引用したっていいですが、貴方は議論の初期の段階から答えにくい質問には一切応えていませんね。
167
:
NAN
:2007/01/15(月) 21:47:57 ID:payA0pqw
だ〜ら〜…
「水がワインに変わった」ということばを読むとき、
聖書のことばは一字一句文字通りに正しい、と解釈するひとのことを
私たちは逐語主義だとか原理主義といって批判するのだけれど、
「水がワインに変わるという現象をカガクで検証しよう」
なんていう問いかけだって、逐語主義以外のなにものでもないでしょ。
とイウワケ。
168
:
HAKASE
:2007/01/15(月) 22:26:56 ID:ZC/gbS1c
はじめまして.macskaさんのところから来ました.
宗教の深い話には私は突っ込めませんが,カオス理論の話がちょこっと出ていたので参考になればと思って書き込みしました.
私の知り合いにカオスに関連した研究をやっている人がいます.
カオス理論の実証的な研究では,世の中で起きた(偶然と思われるような,あるいは確率的に生じていると思われる,あるいはデタラメに起きていると思われる)事象が,本当に偶然かどうかをデータ解析などの手法を使いながら検証することもするそうです.
偶然起きたと思われる事象でも時系列的な発生過程にカオス性が認められる場合には,予測できる可能性があるそうで(私は詳細には詳しくないですが)太陽黒点の数の推移とかニューヨーク市のはしかの患者数の推移とかの予測(本質的には確率に頼らない予測)を試みる研究があるそうです.
現時点で確率的に起こると思われている様々な現象に対して,本当に確率的と言っていいのかを検証するという作業は(少なくともカオスを研究している人たちは)科学的な手法で扱う対象内とみなしていると思います.
もちろん,データ解析などの科学的な手続きによる検証の結果,ほぼ確率的だといって間違いないだろうと判断された事象に対して,次に具体的に何が起こるかを予測するという作業は,現状の科学では確率的に示す以外ないだろうと思います(トートロジーだけど).
カオス理論そのものは数学に近いかもしれませんけど,一応,ニューラルネット等とを組み合わせて工学的な応用とかも考えられています.
言葉の問題なのかもしれませんし現状では研究レベルの話かもしれませんが,*上記の意味では*偶然に起こると思われる物事も科学的手法で扱う対象のひとつだと思います.
以上,議論の参考になればと思って書き込みしました.
169
:
えめ
:2007/01/15(月) 22:38:57 ID:4.Y76JrM
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
>これでも冒涜だと思いますか?
まあ冒涜でしょうね。このまま読めば。
とりあえず経典は学説に関する論文のように解釈されなければ”ならない”と主張している点で本人アウトだと思うんだけどねー
何故”ならなけれ『ばならない』”のかは、科学ではなく、宗教との共通ルールを築いた上で納得させなければね。
例えばイエスにしても、ユダヤ教にある神の姿を新しい物に変えて見せたが、本人は神の本来の姿を見出したと主張しているに過ぎない。
いわば宗教的に”検証された”結果、以前のユダや教としての教義(仮説)が変更(ユダヤ教にとっては否定)されたとも取れるでしょう。
奇跡でそれを証明して見せた。これは宗教的にはまるで誤りではないでしょうよ。※
だいたい「大多数の科学者も、自分達のルールに合わせて都合よく自然を読み替えるくらい平気でやってのけます。」だって事実ですよね。
その自然を読み替えるというプロセスにどれだけの英知と創造、真摯な思いが関与しているか。
宗教だって同じですよ。その上での発言でしょうか?
そしてその前提で
「科学程いい加減なものがあろうか。昨日迄確か有ると言っていたいたものが今日にないと言う。そんなもの何の当てになろうか」
と主張する人間に対して科学は現在どんな答えを与えることが出来ますか。それは宗教といかほどの差がありますか?
科学は時に無力ですよ。科学とは個々や、全体ではないグループの運命に対しては確約を与えない知見ですから。
創造論者が特定の経典を科学敵事実として納得させようとしてやってる無茶と同様に、あらゆる事象に於ける評価については科学のルールが宗教に優先されるべきだと思うのはおこがましいと言えるんじゃないのかな。そのおこがましさこそが科学主義と捉えられる原因じゃないの。
※ところで福音書の記述内容について確認された客観的な事実であるとし、その科学的な側面についてのみ言及するアホらしさについては同意いただけてますよね?。
余話
特定の大型哺乳類が際限も無く増殖して環境に対する蚕食の度合いが危険なほどに大きくなったら科学はどんな答えを出すだろう。
170
:
e10go
:2007/01/15(月) 23:57:29 ID:5/V6R9W6
ROMに徹していたけど、突っ込み所が多くてとうとう参加しちゃった^^。
>>150
>まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
その人が「知っている」と言った事を、どうしてその人が「信じている」と分かるの?。
「知っている」のではなく「信じている」とどうやって証明できるの?。
人の心の中がそんなに簡単に分かるものなの?。
「私はこうである事を”知っている”」と言うのを、「いや、それは貴方が”信じている”のを”知っている”と言っているのだ」と言い切るなら、それは単なる思い上がりでしょう。
まあ、この部分だけを突っ込むと科学でも宗教でもなく、哲学の領域になっちゃうけどね^^。
171
:
macska
:2007/01/16(火) 01:17:04 ID:VdHL1C4M
>>165
> つまり、貴方がすべての宗教、宗教者を良く知った上で意見を述べている
> わけではないことを自身で名言したわけです。
「知らないけれど、ほかの宗教もみんなそうなんじゃないの」という意味に受け取られたのかもしれませんが、そういうつもりじゃありませんでした。宗教が世俗化する過程において社会の安定を脅かすような教義や世間の常識に反する教義を再解釈したり封印したりして抑えるというのはごく一般的に見られることで、そんなの常識でしょ、くらいの軽いつもりで言ったのですが… それが宗教に対する中傷であるととらえる方がおかしいです。
>>164
> その人の中で使い分けるだけでは「知っている」と思い込んだ「信じている」
> ことを「知っている」かのように言ってしまうことになりませんか。
そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。
> 宗教者は自分が確からしさを感じているものごとについて、飛躍がないのか
> あるのかの検討作業を求められるのでしょうか?
宗教者に限らず、わたしたちみなそうあるべきだと思います。
> 科学が教義を否定するというのは別に全面的に無価値なこととして取り扱う
> というわけでなく、合理性を認めないというくらいの意味ですか。
科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。
また、宗教や教義の価値というのは(芸術の価値と同じく)科学の領域ではないので、科学がある特定の宗教を「価値があるもの」として扱ったり扱わなかったりということはないでしょう。
> では「宗教と科学の住み分け」ではなく「信仰と科学の住み分け」なら可能
> だということでしょうか。
ええと、わたしが「宗教と科学の住み分けはできない」というのは、「住み分け」論を主張する人が想定しているような、お互いに何ら干渉し合わないで距離を置くという意味での「住み分け」ができない、ということです。なぜなら、宗教が扱う領域と科学が扱う領域は一部重なっているからです。衝突することもあるけれど完全にお互いを否定しきれないという意味であれば、住み分けは可能でしょう。それを普通は住み分けとは言わないと思いますが。
> 一方貴方はと言うと、「わたしはそれが事実であると思っている」
> やっぱり”思っている”だけなんでしょ。”知っている”わけではなく。
> 一方宗教者は”信じている”わけなんですね。
これは、ID論者が使うような「不当な対等論」ですね。
「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。
一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。
突飛なことを言うならそれなりの証拠が必要であり、それが示せないならば「知っている」とは言えない。しかし当たり前のことを言うのに、特に証拠は必要ではありません。
> 結局、貴方は宗教に文句付けたいだけなのでしょ。
> 貴方がそうしたいのならそうすれば良いですが、でもそれはきっと徒労に
> 終わると思いますよ。
いい加減にしてください。わたしは宗教に文句を一切付けていないです。
わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。
172
:
macska
:2007/01/16(火) 01:17:53 ID:VdHL1C4M
>>169
> とりあえず経典は学説に関する論文のように解釈されなければ”ならない”
> と主張している点で本人アウトだと思うんだけどねー
それはわたしの主張と正反対ですね。
わたしは、宗教では教典を時代に合わせて読み替えたり再解釈したりするのがスタンダードで、宗教の立場からはともかく(それを判断する立場にわたしはいない)一般社会の側から見てそれは悪いことでは全然ないと言っている。「読み替えたり再解釈するのはよくないことだ」と思い込んでいる人たちが、勝手に冒涜だとか侮辱だとか騒いでますが。
> あらゆる事象に於ける評価については科学のルールが宗教に優先されるべき
> だと思うのはおこがましいと言えるんじゃないのかな。
科学の中では科学のルールが貫徹されるべきでしょ。
そのうえで、科学のルールだけが絶対ではないという論理でなくちゃ。
本来なら科学の対象となり得るはずのものまで、それが宗教の対象となっているというだけの理由で「それは科学の範囲外です」と言ってしまうのはおかしいのではないのか、というのがそもそもの出発点です。宗教の対象となっていようといまいと、現実世界における現象は科学的探求の対象となり得るわけで。
> ※ところで福音書の記述内容について確認された客観的な事実であるとし、
> その科学的な側面についてのみ言及するアホらしさについては同意いただ
> けてますよね?。
もちろん。
173
:
fukken
:2007/01/16(火) 03:20:37 ID:M5vfENrY
>>171
>それが宗教に対する中傷であるととらえる方がおかしいです。
はいはい。負けず嫌いも結構だが、精々ブログのファンを無くさない程度にね。
>いい加減にしてください。わたしは宗教に文句を一切付けていないです。わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。
今更何言ってんだか。
どっちにせよ、まずは自分の思考の不徹底を何とかしてからだね。
174
:
fukken
:2007/01/16(火) 04:49:32 ID:M5vfENrY
>>171
読み飛ばした。私宛てもう一つあったんだ。
もうレスする気もない(というより出来ないの)だろうけど、アンカー間違えないように頼みます。
でも「あれだけ書いてあげたのにこれだけかよ」と思ってたから、何だか得した気分。
>これは、ID論者が使うような「不当な対等論」ですね。
ID論者が足元にも及ばないご都合主義で詭弁者のあなたにゃ言われたくないっつーの。
>「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。
>一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。
貴方ねえ、「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」と言うのは事実なのかそうでないのか、はっきりしろい!って私に言ってきたんですよ。忘れちゃうの?
でさ、自分のしたそのナンセンスな質問に「自分は事実だと思ってる」なんて答えてるから、「そう、そう思ってるだけなんだ。やっぱり事実ではないわけね。じゃあ死後の世界を信じている宗教者に”宗教には全く何もわかっていない”って言い切るんのはまずいよね。」って話でしょうが。
「不当な対討論」に仕立て上げられなくて残念でした。
>突飛なことを言うならそれなりの証拠が必要であり、それが示せないならば「知っている」とは言えない。しかし当たり前のことを言うのに、特に証拠は必要ではありません。
自分の言ってることはすべて当たり前って理屈ね。とうとうそこまでいっちゃったか。
もう地下猫さんが証明するまでもねーよなあ。
ごめんね。楽しみ奪うことになっちゃって。
175
:
tema
:2007/01/16(火) 07:48:23 ID:???
fukkenさんへ
本スレッドのfukkenさんの主張には同意する部分も多いのですが、特に
>>173-174
の記述は単なる人格攻撃に見えます。
ここをROMしている方々が誤った判断をしないように、攻撃する際には芸を織り込むなど、余裕を見せた方が良いと思います。
176
:
fukken
:2007/01/16(火) 08:43:37 ID:M5vfENrY
>>175
了解しました。
相手の不誠実な態度に呆れ、またまたいつものように稚拙な行為に及びました。
態度と言葉使いは反省し、以後改めることにします。と言っても、もう彼の方は私に言うことなどないと思いますが。
ついでに訂正と補足を。
>私の指摘が「貴方は宗教の”信”の領域に踏み込んでいますよ」だってことをお忘れなく。
>>165
私はこんな風に言ってましたね。確かに
>>174
とはちょっとニュアンスが違っています。
>>171
のレスを頭ごなしに否定するのは私の間違いだったかも知れません。再度
>>171
に対してコメントします。
>>171
>「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。
>一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。
話の流れは
>>174
で示した通りですし、「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」を「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」に摩り替えてる時点でもう既にmacskaさんの主張は崩れてるけど、「macskaさんが”信”の領域に踏み込んでいる」と言ったことについて説明する義務は私にあるでしょうね。これはそれに対する反論のつもりだったのでしょうし。
まず、「どんなに不合理な信仰でも”信じる”と言う分にはそれを認める」と言うのがmacskaさんのこれまでの主張。
それからすると、「宗教者が死後の世界があると信じている」と言う事実をもとに、死後の世界が宗教の”信”の対象であると認めなければならない。
一方macskaさん自身は「死後の世界があるかどうかは人間の知覚が及ぶ範囲にない」と、それが科学の”知”の事象に含まれないことも言明。
これらは、今回macskaさんが反論してきた上記(171)の言説内容にも一致。
にも関わらず、macskaさんは「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」と言い切ってしまっている。
「信と知を区別しろ」「知らないことを知っていると言うな」などと他人には言いながら、”信”の領域に踏み入って、知りもしないことを断定(否定)しているわけです。
こんなこと説明するまでもないし、反論しようとして自分でも肯定しちゃっているじゃあないですか。
177
:
地下に眠るM
:2007/01/16(火) 13:00:28 ID:Y7kDipRw
では、まず宿題をすこしずつかたづけるにゃ
・macskaは宗教に対する悪意をもって発言していること
ここから検証するにゃ。
第一掲示板での過去ログから
****************************
創造する神と流出する神 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年10月08日20時47分
日本神話なりギリシア神話なり、いわゆる多神教といわれている神話体系においても、実は原初からあった神はただ1柱なのだにゃ。ヤマト神話では アメノミナカヌシノカミ、ギリシア神話ではウラヌスにゃんな。この原初の神が、他の神を産み落としたり、体の部分から他の神が派生してだんだん神様が増えていくわけだにゃ。ニンゲンの世界が広がり、認識が精緻になるにつれて、神様が増えていくと言い換えてもよいと思いますにゃ。
こうして、神は自らの分身をつくりながら、つまり流出しながら世界を満たし、ヒエラルキーをつくるわけですにゃー。この流出する神においては、いわば「神=世界」なのですにゃ。
ところがね、聖書の神ちゅうのは創造する神なのですにゃー。世界のすべてを創り上げた神なのであり、ここでは世界と神はことなるもの、世界とは神にとってはobjectなのですにゃ。ニンゲンとて、神の似姿にはちがいにゃーけど、やはりobjectなのね。流出する神においては、ニンゲンは神の末裔として世界と一体であることが多いにゃんけどね。
この「創造する神」ちゅうのは世界の神話を見渡しても特異な存在だっちゅうのはマチガイにゃーみたい。
大洪水とか処女受胎とかいうモチーフは他の神話からのパクリとかいわれているけどにゃ。
(ユング好きの僕としては、パクリちゅうより共通のアーキタイプの発露と考えるにゃんが)
*****************************
ユダヤ・キリスト・イスラムの「創造する神」というのは、非常に特異な神であるということは宗教学の初歩ですにゃ。しかし、過去ログを見ても、macskaはこのユダヤ・キリスト教の神のことしか念頭ににゃーにもかかわらず、「宗教」全体に対して侮蔑的な発言を繰り返しているわけにゃんね。
知ってもいにゃーくせに侮蔑的な発言をする、というのは、普通は悪意があると判断されるにゃ。
では、macskaにはユダヤ・キリスト教についての正確な知識はあるのか?
>>125
より
>これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?
ここ見たとき、僕は噴き出しちゃったにゃ。
安息日を守るべし、というのは確かに神が直接モーセに与えた戒律にゃんね。しかし、戒律を破った者を具体的にどう罰するかは最初からニンゲンの側が決めることなんだにゃ。神が与えた戒律と、ニンゲンがニンゲンに与える罰くらい区別してからモノをいってほしいものですにゃ。基本的なところのはずにゃんけどなあ。こんなことも知らにゃーでとくとくと例示できちゃえる毛の生えた心臓に乾杯!
繰り返すけど、無知に基づく非難ってのは悪意にゃんよ。
読み替えをするという指摘は非難ではないという言い訳をしているようだけど、
>>75
で
>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
などと放言しちゃっている同じ口でよくそういう程度の低い言い訳ができると感心しておりますにゃ。
macska流詭弁術その1
・無知に基づく非難をしておきながら、悪意を指摘されると程度の低い言い訳をする
もちろん、聖書にはヒデエ話がてんこ盛りにでてくるのは確かだにゃ。macskaの指摘はここでは正しい。ヨブ記なんか本当にヒデエ。
しかし、そのあたりには「解釈」ちゅう問題、そして聖書が民族の歴史書であるという側面を考えなければならにゃー。
つづく
178
:
地下に眠るM
:2007/01/16(火) 13:02:14 ID:Y7kDipRw
つづきね
macskaに対してはNANのいった通り「逐語主義」といってしまえば一刀両断で即死ということになるんだにゃ。
(逐語主義って僕もいおうと思っていたのに、先をこされちゃった。にゃっはっは)
自分が死んでいることが本人にもまったくわかってにゃーようだし、以下に説明するにゃ。
カガクという思考法は、ジンルイがここ数百年のうちにとるようになった人類史的に特異な思考法ですにゃ。
いろいろな特徴はあるけれど、ここでは
・逐語的
・定量的
あたりをあげておきましょうかにゃ。逐語性と定量性は相補的なものですにゃ。
カガク論文ちゅうのは、多義的な解釈がされてはまずいわけですにゃ。そこで逐語的な表現を行なう必要があるわけね。数式による表現というのは、ジンルイが手に入れた最も逐語的(かつ定量的)な表現だといえるわけで、カガクで数式を多用するのはそのあたりでしょうにゃ。
生データというのはいろいろと解釈の余地のあるものだから、そのいろいろな解釈の余地というものを削っていくのがカガク的な方法といえるわけにゃんね。
ところが、神話や宗教文献における記述は、そもそも逐語的なものではぜんぜんにゃーんだ。
例えば
>>143
での みずすまし の記述にゃんが
>極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立てば,「宗教的事実としては,光速は10mm/sである」が,「科学的事実としては,光速は約30万km/s」ということも言えるかも知れませんが,そこまで極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立つことには強い躊躇を覚えます。
「光速は10mm/sである」というような定量的かつ逐語的な記述は、神話ではやらにゃーんだ。それはむしろ疑似科学の典型的記述にゃんね。
速さをあらわしたかったら、速いとされる鳥とか虫とか動物との比較とか、地理的な表象をつかった記述になるわけだにゃ。で、その虫とか鳥とか地理的な表象が、他の表象との関連で隠喩的・象徴的な意味をもちながら連関していくわけだにゃ。そもそも語が一義的に確定しているような記述ではにゃーんだ。
神話というのは、象徴や隠喩を用いながら、極めて精緻な思考をしているというのは、そちら方面の人文科学における共通見解といっていいにゃ。
それを何?
>聖書の記述は誰がどう見ても間違っている
ですと?
神話的・宗教的文献を読む素養がゼロ(かつ、学ぶ気もない)おつむオッテンテンでなければ、この台詞はいえにゃー。
聖書(特に旧約聖書は神話の部分がおおい)にしろ、日本神話にしろ、アメリカ先住民の神話にしろ、このあたりの記述のどこが「間違っている」のだろう?
神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作ってきたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間違っている」だってさ。
ホントにね、数式の読み方を知らずに現代物理学が間違っているとか抜かすのと同じくらいのレベルにゃんがねえ。
※聖書の記述にある暴虐としかいいようのにゃーことについて、解釈だけで正当化しきれるとは僕も考えてにゃーです。これは、歴史書としての聖書を考慮すべきだけど、ここではお題のソトだと思う。
さて、我らがmacskaクンに、宗教的な言説に対する理解能力がまったくなく、知識もまるでいいかげんであるということについて、異論があるお方、いる?
僕としては、宿題をひとつ片づけたつもりだけどにゃ。残りの宿題も片づけたら、また反論にはいるにゃ。
179
:
macska
:2007/01/16(火) 14:46:51 ID:VdHL1C4M
>>174
> 貴方ねえ、「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」
> と言うのは事実なのかそうでないのか、はっきりしろい!って私に言ってきたん
> ですよ。忘れちゃうの?
「事実なのかそうでないのか」はっきりしろ、というのではなく、あなたの批判が「事実に反する」というものなのか、それとも「事実であっても言うべきではない」という主張なのか、どちらかはっきりして欲しい、と言ったのです。
> にも関わらず、macskaさんは「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何も
> わかっていない」と言い切ってしまっている。
だって、そうでしょう?
宗教ではさまざまな信仰はあるでしょうが、たしかな知識を持っているわけではない。
空からのおろしたフックはあっても、下から築き上げるためのクレーンはないでしょ。
> まず、「どんなに不合理な信仰でも”信じる”と言う分にはそれを認める」と
> 言うのがmacskaさんのこれまでの主張。
>
> それからすると、「宗教者が死後の世界があると信じている」と言う事実をも
> とに、死後の世界が宗教の”信”の対象であると認めなければならない。
そうですよ。信仰は尊重します。
しかし、信じればそれが事実となるわけではないでしょ。
>>177
> ユダヤ・キリスト・イスラムの「創造する神」というのは、非常に特異な神で
> あるということは宗教学の初歩ですにゃ。しかし、過去ログを見ても、macska
> はこのユダヤ・キリスト教の神のことしか念頭ににゃーにもかかわらず、「宗
> 教」全体に対して侮蔑的な発言を繰り返しているわけにゃんね。
それしか念頭にないわけじゃないですが、創造科学を主張している勢力が信仰しているタイプの神がそれなので、それを中心に議論してきました。
> 安息日を守るべし、というのは確かに神が直接モーセに与えた戒律にゃんね。
> しかし、戒律を破った者を具体的にどう罰するかは最初からニンゲンの側が決
> めることなんだにゃ。
他人を無知呼ばわりする前に、ちょっとは自分で調べましょう。出エジプト記 31:12-14 によれば、安息日を破った罰は死刑だと神様が直接モーセに伝えています。
無知にもとづいてわたしを非難したあなたには、悪意があるんですね。
# まぁわたしは、無知で説明が付く話に悪意を見いだそうとは思いませんが。
> 神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって
> 産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作って
> きたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間
> 違っている」だってさ。
過去のものすごい賢者や哲学者の思考を、いまのわたしたちは文庫本あたりで簡単に読むことができるわけですから、昔の最高の賢者たちが一生をかけて築き上げた知の体系を越える知を現代の一般人が持っていても別に不思議じゃありません。例えば、聖書がネットで検索できるようになったこと自体、過去の信仰者や研究者に対して現代の人の圧倒的な有利さがあります。
もし聖書が単なる「神話」として読まれているのであれば、その事実性を問題とするのは馬鹿げています。しかし現実に、例えば全世界は6000年ほど前に一週間足らずで創造されたと信じている人が大勢いるわけですから、書かれた内容がありのままの事実ではない(神話である)と指摘することは無意味ではありません。
ありのままの事実を書いた書物としては間違いがあるということは、これは同じイベントを書いた複数の書物で、その場にいた人数などの描写が矛盾していることがあるので、誰の目にも明らかです。そういったレベルで「間違いがある」と言っているのであって、本来そういう読み方をすべきではないという点はまったくその通りだと思います。しかし往々にして「これは神話だから、神話として読まなくちゃいけないんだ」と聖書を擁護する人自身が、実際には「聖書は歴史書として完全に正確」と信仰していたりするので、そういうのはヘンだなぁと思いますね。
180
:
AH1
:2007/01/16(火) 17:13:39 ID:HRDpjkio
ちょっと流れを無視してるかもしれんけど、macskaさんに質問です。
あなたの発言からすると、
「宗教は現実世界の知りもしない、わかってもいない事について発言すべきではない」
また
「科学の進歩と合致するように都合の良い所は解釈を変更するのがずるい」
のですね?
macskaさんの考える理想的な状態とは、
「宗教の教義や聖典が、「現在の科学が認める現実世界」に反する部分を捨て、もしくは寓意にすぎないと解釈しなおし、二度と現実について語らない」
ことですか?
181
:
diamonds8888x
:2007/01/16(火) 19:48:10 ID:h2fLyT9w
>宗教が科学の範疇であろうとなかろうとそんなことには関わらず宗教に対する発言にはもう少し気を配りましょう。もう少し宗教者の気持ちに対する配慮をいたしましょう。
まあこれは同意。結局fukkenさんの言いたいのは「言い方がきついんじゃない?」ということですよね? そうかも知れませんが、元々は科学を使う側への批判なんだし、あまり追求しても仕方ないのでは?
言い方はともかく事実認識としてはと言えば、
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっている」
の方は勇み足かも知れませんね。例えば啓示による知識は信なのか知なのかというと宗教と科学では見解がわかれるでしょうから。啓示を受けた人間にとってはそれは観測事実そのものでしょうなあ。他の人間に取っては伝聞ですけど。で、その伝聞はとても信頼できる人からの伝聞だからという理由で宗教的な知だと主張されたら・・・。ハイハイと言うしかないかも。
「多くの宗教者たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更する」という方は歴史的事実としておおむねは正しいのではありませんか? イスラムにしてもいくつかの分派が生じてますよね。これはその中の少なくとも一派以外もしくは全てが元々のマホメットの教えから教典解釈を変更していることを意味しませんか? むろん多くの宗教者が実のところは教典に忠実足らんと努力しているだろうことは想像できますが、にもかかわらず歴史的事実としてはいくつもの教典解釈が生じているわけです。で、それは別に非難すべきことでもないわけで。
実のところ、この手の断りは宗教サイトの場合だと結構きびしかったりしてね。科学なぞよりも他の宗教との妥協の方が教義的に厳しいなんてことはないのでしょうかね。例えばプロテスタント系のサイトでQA。
Q)両親は仏教徒なんですが天国には行けないでしょうか?
A)天国には行けないでしょうが、極楽には行けます。
なんて具合に宗教同士が寛容になれるなら世界平和に大いに貢献しそうなんだけど。
戦国時代の日本人のキリシタンにはデウスに出会えなかった御先祖様が天国に行けないのではないかと非常に心配した方々もいたとか。ちょっと出典は記憶の彼方ですが。
182
:
diamonds8888x
:2007/01/16(火) 20:03:03 ID:h2fLyT9w
>>162
>最初から、「正しい正しくない以前に、それは科学ではない」と言えたほうがラクだし、
それはそうです。反証可能性のふるいですぐに判定できるものもありますしね。もともとはむしろ観測問題についての理論についてなので具体的に論ずべきことだったのですが、本筋には関係なそさうですし、そのうち別スレッドで書きますから興味があればまったりとおつきあい下さい。
183
:
diamonds8888x
:2007/01/16(火) 20:38:55 ID:h2fLyT9w
>>159
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
どこでそう言っていたのか引用して見せて下さい。私には該当個所がわかりません。
>>160
同意。検証の対象となるかどうかを判定すべきは、正確には「事象」そのものというよりは「事象が存在するという主張(命題)」なんですよね。「事象を検知した(観測した)という主張」もそうですね。
>>178
えーと、例えばこの大地は日本神話にとっての検証(というか解釈というか)の対象であり、創世記にとっても解釈の対象であり、同時にまた科学の検討対象でもある。で間違っていないのでは?
んで、それぞれの知の体系におけるそれぞれの理論や解釈は互いに尊重しましょうよ、ということでは紳士協定があるということだと思うのですが。macskaさんの発言がその紳士協定に触れたように見える、ということで紛糾してるんでしょうけど。元々macskaさんが問題としているのは科学の側なんですから、日本神話や創世記の知の体系に関して無知であっても論ずることに差し支えはないように思えます。
171より引用
>わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。
184
:
地下に眠るM
:2007/01/16(火) 22:03:00 ID:cizMQ0FI
>他人を無知呼ばわりする前に、ちょっとは自分で調べましょう。出エジプト記 31:12-14 によれば、安息日を破った罰は死刑だと神様が直接モーセに伝えています。
とりあえずここだけレスしておくにゃ。
出エジプト記20:10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
出エジプト記31:14安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。
出エジプト記31:15六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。
20:10が十戒のいわば「本文」だにゃ。ここから、安息日規定は実は弱者保護を意図したものだと解せられるにゃ。
31:14では、安息日を穢すものは死刑、仕事をしたものは追放とあるにゃ。
31:15では、安息日に仕事をしたものは死刑とあるにゃ。
最初からニンゲンの側の解釈の余地がある記述だということは明らかにゃんけどな。
(引用するなら前後もちゃんと引用してほしいもんだにゃ)
安息日の意義を穢すものは死刑であるということはまず共有される解釈だろ。
しかし、例えば病人を看護するといったようなことは安息日にも必要なことであることは論をまたにゃー。事実、ラビたちの会議で、人命保護のためなら安息日の労働は許されるという見解が世俗化以前にでているにゃ。
まあ、弱者保護という法の意義を勘案すれば当然の結論にゃんがね。これは世俗化において「テキトーに」読み替えた結果ではなく、本来の趣旨から導かれる結論であり、もともとニンゲンの側の解釈に委ねる部分のある規定であることは明らかにゃんね。
185
:
macska
:2007/01/16(火) 23:41:29 ID:VdHL1C4M
>>180
> あなたの発言からすると、
> 「宗教は現実世界の知りもしない、わかってもいない事について発言すべきではない」
> また
> 「科学の進歩と合致するように都合の良い所は解釈を変更するのがずるい」
> のですね?
>
> macskaさんの考える理想的な状態とは、
> 「宗教の教義や聖典が、「現在の科学が認める現実世界」に反する部分を捨て、
> もしくは寓意にすぎないと解釈しなおし、二度と現実について語らない」
> ことですか?
どれも、わたしの主張とは全然違います。
基本的に、わたしが批判しているのは科学の側ですから、それをご理解ください。宗教に対する注文はほとんどつけていません(「信じている」と「知っている」の区別をちゃんとつけてほしい、くらいは言いました)。
>>184
だからですね、あなたは「神様からモーセに与えられたのは安息日の規則だけであり、違反者は死刑というルールはニンゲンが勝手に決めたもの」としてわたしを無知だと攻撃したでしょ。
それに対し、「いや、安息日を破った場合の刑罰は神様が決めた(ことになっている)ものですよ」とわたしは具体的なソースを元に反論したわけだから、まずあなたは自分の間違いを認めなくちゃいけない。
安息日に関して死刑を神様が支持した箇所は他にもあります。例えば民数記 15:32-36 では安息日に木片を集めていた男が捕まり、どう罰するかについてモーセが神様にお伺いを立てます。神様は「その男は死ななければならない」として、共同体全員による投石による死刑を命じます。聖書の記述によればこれは神の決定であり、ニンゲンが独自に解釈したことではない(ことになっている)。
なお、地下に眠るMさんは「安息日でも病人を看護するのは良い」といったような見解が生まれたことを「弱者保護という法の意義を勘案すれば当然の結論」として、規則から導き出される合理的な解釈であるとしていますが、全てがそのように説明がつくわけではない。
例えば、安息日の規則のディテールとして、出エジプト記 35:1 において「安息日には住居に明かりを灯してはいけない」と書かれています。この規則の意図が何だかわたしには分かりませんが、この記述をそのまま信じる人は現代にもかなりいて、安息日には照明のスイッチにさわらないようにして生活しています。
ところがそういう人が安息日には照明を使わないのかというとそうではなくて、タイマー式に自動的に明かりが付いたり消えたりする装置や人の気配を察して明かりが付くような装置を使うなどしている人がたくさんいます。あるいは、安息日は電化製品をつけっぱなしにしている人も多い。さらには、照明は付けっぱなしにしておいて、それを何かで覆い隠すことでスイッチを切り替える代わりとしていたりする(こうなると、スイッチを使うのとどこが違うのかもう分からない)。
そしてこれらの方法は、現代のラビたちによって「安息日の規則に従っている」と認定されているのですが、どうしてスイッチを入れたり切ったりするのがダメで、照明をつけたままにしておいて明かりが邪魔なときにそれを覆い隠すのは良いのか、聖書の記述からはとても正当化できないでしょう。傍目からは、信仰と現代的な生活を名目上両立するために捻り出した苦しい言い訳のように見えます。
一応言っておくと、わたしはそれが悪いと言っているわけじゃないんです。
そうじゃなくて、世俗化した宗教というのはそういうものだと言っているわけ。
186
:
fukken
:2007/01/17(水) 02:31:48 ID:M5vfENrY
>>179
肝心なことへの回答がないので苛立ちましたが、考えてみれば大勢を相手にして大変ではありましょうね。
罵声を浴びせたことについてはお詫びします。
ですが、故意にはぐらかしているのだとしたら、今後はお止めください。
>「事実なのかそうでないのか」はっきりしろ、というのではなく、あなたの批判が「事実に反する」というものなのか、それとも「事実であっても言うべきではない」という主張なのか、どちらかはっきりして欲しい、と言ったのです。
少し元の文と変わっていますね。
「事実であっても・・・」でなく「事実だけれど・・・」です。
「であったとしても」と「であるが」では大分意味が違ってきますよ。
「(死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については)宗教には全く何もわかっていない」
と言うあなたの断定した一文について、
これが「事実じゃない」と言っているのか、「事実だがそんなこと言うべきじゃない」と言っているのか?どちらかはっきりしてくれ。
と質問されたわけですね、つまり私は。
で、既に答えているように、私は最初から「それが事実かどうかわからない」と何度か明言しています。
そして貴方自身も「そう思っているだけ」であることを表明しました。
>>165
つまり、この時点で、それが事実であるか否かなど議論すること自体が全く無意味であるという結論は出ているわけです。
そして私は、宗教者は「(死後の世界等を)信じている」のだから、そこに踏み込んだら信と知の区分を標榜する貴方にとってダブスタとなりますよ。と結論しています。
それに対して不当な対等論だとか言って難癖付けられたと思ったので、
上記をダイジェストで示して差し上げたわけです。
その際、どうでもいいナンセンスな質問を、簡単に「事実なのかそうでないのか」って言ったまでです。
これでいいですか?
#けど、そのまま「事実なのかそうでないのか」としたって、(冒頭の)「事実であっても・・・」と「事実だけれど・・・」の差ほども意味の違いは生じないよね。
>>にも関わらず、macskaさんは「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」と言い切ってしまっている。
>だって、そうでしょう?
>宗教ではさまざまな信仰はあるでしょうが、たしかな知識を持っているわけではない。
>空からのおろしたフックはあっても、下から築き上げるためのクレーンはないでしょ。
科学は(死後の世界の存在を)検証出来ない。もちろん、macskaさんにも。
で、知りもしないことをどうして断言できるのですか。と聞いているのです。
宗教者には「知らないことを知っていると言うな」と言っておきながら。
宗教者は死後の世界を語っても良いのですよ。”信じてる”のだから。もしかしたら本当に”知っている”可能性だってゼロではない。
科学に検証できることについて宗教者がいい加減なことを言った場合は文句を言うこともできるでしょうけど、科学で確認できないことは宗教者が何を言ったって我々には何も言えないでしょう。
>>まず、「どんなに不合理な信仰でも”信じる”と言う分にはそれを認める」と言うのがmacskaさんのこれまでの主張。
>>それからすると、「宗教者が死後の世界があると信じている」と言う事実をもとに、死後の世界が宗教の”信”の対象であると認めなければならない。
>そうですよ。信仰は尊重します。
>しかし、信じればそれが事実となるわけではないでしょ。
事実と言うのは何のことでしょうか。
死後の世界の存在の事実と言うことでしょうか。
宗教者が「死後の世界はある」と言ったとしてもそれは信仰ですから、必ずしも事実である必要はないでしょう。事実であるかも知れないしないかも知れない。
macskaさんが死後の世界のないことを明確にしない限り、それを否定することは出来ませんね。
187
:
fukken
:2007/01/17(水) 02:32:53 ID:M5vfENrY
>>181
>結局fukkenさんの言いたいのは「言い方がきついんじゃない?」ということですよね? そうかも知れませんが、元々は科学を使う側への批判なんだし、あまり追求しても仕方ないのでは?
途中でも一度diamonds8888xさんにレスしたかと思いますが、私は一貫して、不確かなことをわかった風に断言して、宗教を侮辱するような発言をしたmacskaさんに「そんなこと言っていいの?根拠はあるの?」って問い続けているだけなんですけどね。
それをのらりくらりされ続けているものですから。取り下げなり訂正なり、何らかの釈明があればすぐ引きます。
それと、私自身は無信論者ですし皆さんのように宗教に関する知識もありませんが、しっかりとした宗教を持つ友人と良く話すものですから心情的に入れ込むところはりますね。彼らがmacskaさんに侮辱を受けた気持ちにもなるものですから。
>「多くの宗教者たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更する」という方は歴史的事実としておおむねは正しいのではありませんか?(中略)で、それは別に非難すべきことでもないわけで。
私は「それは本当か?」と聞いていただけで、macskaさんがそう言ったこと自体は一度も非難していないはずです。
>>148
罵倒によって大分心象悪くされた方多いと思いますが、
>>76
以降の私とmacskaさんのやりとりをじっくりご覧になれば、多少なりとも私の立腹をわかってもらえると思いますし、そうして先入観を取り払っていただければこのような誤解もなくなるのではないかと思います。
別に読んでくださいと言っているわけではなく、それだけ自分の主張に自信を持っていると言う意思の表明です。
188
:
macska
:2007/01/17(水) 03:23:27 ID:VdHL1C4M
>>186
> 少し元の文と変わっていますね。
言い換えた時に、意味が少しずれてしまいました。
でも、どちらに取られても結構です。
> で、既に答えているように、私は最初から「それが事実かどうかわからない」と何度か明言しています。
> そして貴方自身も「そう思っているだけ」であることを表明しました。
>>165
「そう思っている」とは書きましたが、「そう思っているだけ」(つまり、そうわたしが信じているほかに何の根拠もない)とは表明していません。つまり、「科学にわからないことは、宗教にもわからない」とわたしが言うとき、それはそれなりの根拠をもって言っています。
根拠というのは、人間は現実世界の外側にあるとされるものごとについて、何ら知覚する能力を持たないからです。死者しか行くことができない「死後の世界」というものが仮にあったとして、それが生者の世界とは完全に切り離されているのであれば、そうした「死後の世界」についてわたしたち生者が何らかの確かな知識を得ることは原理的にできないはずです。確かな知識どころか、確率としてすら何ら把握できない。
科学の手法によっては知覚不可能なそうした世界について、宗教の手法を使えば確かなことが分かるのでしょうか? もしそれを主張する宗教があるならわたしも入信したいところですが、実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょう。そして、もちろん宗教はそれを恥じる必要はありません。むしろ「信じている」だけのことを「知っている」と言い換える方が恥ずかしいことでしょう。
> 科学は(死後の世界の存在を)検証出来ない。もちろん、macskaさんにも。
> で、知りもしないことをどうして断言できるのですか。と聞いているのです。
死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。
しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。
宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。
> 科学に検証できることについて宗教者がいい加減なことを言った場合は文句を言うことも
> できるでしょうけど、科学で確認できないことは宗教者が何を言ったって我々には何も言
> えないでしょう。
いや、別に宗教者に対して何か言えということじゃないんですが。
ただ単に、宗教者が人知の及ばない物事について何かを言うとき、それは宗教を知らない一般人より何か確かな知識を持って言っているわけじゃないんですよ、ということを指摘しているだけ。
> macskaさんが死後の世界のないことを明確にしない限り、それを否定することは出来ませんね。
だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。
189
:
macska
:2007/01/17(水) 03:25:09 ID:VdHL1C4M
>>188
× 実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょう。
↓
○ 実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょうか。
190
:
すらりん
:2007/01/17(水) 04:13:23 ID:Fc.S231Y
はじめまして。
ここの議論を面白く読ませてもらっています。
>だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
>どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。
fukkenさんも書いてますけど
やっぱり宗教を揶揄するような言い回しに引っかかる人が多いんじゃないですかねー。
それからドーキンスはアンチ宗教ですけど、
macskaさんはドーキンスの主張にかなり影響を受けているんじゃないかという気もしますし。
191
:
すらりん
:2007/01/17(水) 04:15:11 ID:Fc.S231Y
>だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
>どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。
↑これは
>>188
からの引用です。失礼しました><
192
:
谷庵
:2007/01/17(水) 04:16:41 ID:???
何であれ、信じている者にとっては事実なんですよ。
問題行動に結びつかない限り、放っておけばいいのです。
ことさら口を挟む人がいれば、アンチ宗教と見られても仕方がないでしょうね。
また、優れた芸術家や職人は信じられない感覚を持っています。
優れた宗教家であれば、死後の世界のことも判るのかも知れませんよ。
実際に私がそのように考えているわけではありませんが、完全に否定できるだけの自信がないことも事実です。
「その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。
」というmacskaさんの自信がどこから来るのか、私には疑問です。
193
:
tema
:2007/01/17(水) 08:29:15 ID:???
>>168
HAKASEさん、はじめまして。temaと申します。
>言葉の問題なのかもしれませんし現状では研究レベルの話かもしれませんが,*上記の意味では*偶然に起こると思われる物事も科学的手法で扱う対象のひとつだと思います.
ここらへんの記述は、地下に眠るMさんの以下の記述に対するものだと認識してます
>>77
>カオス理論とかいうものがあるだろ?
>蒙古襲来のカミカゼの原因が、その半年前に地球の裏側で蝶がはばたいたことにあるのが直接の原因だとするにゃ。
>そして、その蝶のはばたきは蝶の神経系における量子力学的な確率事象に関する神の干渉であったとしたらどないよ?
>いや、蝶のはばたきの原因が150億年前のビッグバンにおける何らかの介入に端をはっするものだとしたら?
地下に眠るMさんが忙しそうなので、横レスします。
>>77
の記述においてカオス理論は、ミクロな事象をマクロに拡大するために使われており、そこは主題ではありません。
主題はあくまで、量子力学における波束の収束であり、ビック・バン時(またはビッグ・バン以前)のことです。この2つについて(少なくとも前の方は)科学は原理的に手が出せない、とtemaは考えています。というより、手が出せないということを原理にしているのでしょう。
まぁ、主題では無いのに「カオス理論とかいうものがあるだろ?」で書きはじめるのはどうよ、という事はあるかもしれませんが、そこまではHAKASEさんも求めますまい。
194
:
tema
:2007/01/17(水) 08:30:31 ID:???
>>176
fukkenさんへ
聞き届けていただき、ありがとうございます。
195
:
fukken
:2007/01/17(水) 11:31:24 ID:M5vfENrY
>>188
>「そう思っている」とは書きましたが、「そう思っているだけ」(つまり、そうわたしが信じているほかに何の根拠もない)とは表明していません。つまり、「科学にわからないことは、宗教にもわからない」とわたしが言うとき、それはそれなりの根拠をもって言っています。
元の
>>165
を見てもらってもその次の文章を読んでもらってもわかるはずなのですが、「そう思っている”だけ”」と言ったのは、貴方が知っているのか否かに焦点を中てるためです。
貴方は”知・ら・な・い”のですよ。↓自分でもちゃんとわかっているじゃないですか。
>根拠というのは、人間は現実世界の外側にあるとされるものごとについて、何ら知覚する能力を持たないからです。死者しか行くことができない「死後の世界」というものが仮にあったとして、それが生者の世界とは完全に切り離されているのであれば、そうした「死後の世界」についてわたしたち生者が何らかの確かな知識を得ることは原理的にできないはずです。確かな知識どころか、確率としてすら何ら把握できない。
そう考える貴方自身には確実にそれは言えることでしょうが、他人のことは貴方にはわからんのではないですか。”はず”なんて言っている内は、何の論拠にもなりませんよ。
そんなこと自覚出来ているんでしょう。
貴方程の人がご自分のダブスタを認識出来ていないはずだってないのに、こんな不毛な論争を続けようとするのは何故でしょうね。
>科学の手法によっては知覚不可能なそうした世界について、宗教の手法を使えば確かなことが分かるのでしょうか?もしそれを主張する宗教があるならわたしも入信したいところですが、実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょう。そして、もちろん宗教はそれを恥じる必要はありません。むしろ「信じている」だけのことを「知っている」と言い換える方が恥ずかしいことでしょう。
宗教者が「死後の世界がある」と言ったとして、それは知っていると言ったことになるのですか?
宗教者の信仰なのですよ。
”信じている”と考えるべきところを、勝手にそう解釈し、自分だって知らないことを断定的に「いや、わかっていない」なんて言うことの方が余程恥ずかしいことだと思いますけど、私は。
>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。
宗教者は知っているのでなく”信じている”のです。
それに「宗教をやっている人たちだって同じ人間なのだから、〜のはずがない」という理屈は、所詮貴方の憶測に過ぎないでしょう。「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。
そのような常に自分を基準とした論理だと、宗教を認めると言いながら、科学で観測できる事象以外を認めることは一切できなくなるんじゃないでしょうか。
と言うより、「断言できます」なんて言われちゃうと、自分の”信じる”こと以外は認めないんじゃないかって疑いたくなる。
>>科学に検証できることについて宗教者がいい加減なことを言った場合は文句を言うこともできるでしょうけど、科学で確認できないことは宗教者が何を言ったって我々には何も言えないでしょう。
>いや、別に宗教者に対して何か言えということじゃないんですが。
>ただ単に、宗教者が人知の及ばない物事について何かを言うとき、それは宗教を知らない一般人より何か確かな知識を持って言っているわけじゃないんですよ、ということを指摘しているだけ。
そうではなく、あなたが自分の領域を踏み越えて行って「宗教はご都合主義」「宗教者は詭弁者」と受け取れるような発言をしてしまったことを問題視しているのです。
そして宗教に対する貴方自身の主張によって、それが言い訳の余地のない過ちであることを立証してしまった。
論理的に貴方はそれを撤回せざるを得ない状況に追い込まれているのです。
しかし、”自分の非は絶対に認められない病”に罹患している貴方はこうして恥ずかしい真似を繰り返しており、その症状に中てられ私も持病の”往生際の悪い輩は罵倒したくて仕方がないシンドローム”が悪化しているといったところでしょうか。
196
:
fukken
:2007/01/17(水) 11:32:40 ID:M5vfENrY
>>188
>>macskaさんが死後の世界のないことを明確にしない限り、それを否定することは出来ませんね。
>だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
>どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。
良く読んでもらえればわかるはずですが
>>186
、それというのは、「宗教者が死後の世界を主張する」
こと(信仰)を指します。貴方がそれを否定したから議論が始まっているのです。
あなたにはアンチ宗教の匂いを強く感じますが、ここではそんなことは全く主張していません。
197
:
地下に眠るM
:2007/01/17(水) 12:15:50 ID:VNlqTVDw
>>185
ユダヤ・キリスト教が世界的にみて特異な宗教であることは先日の投稿で述べたにゃ。
そして、逐語的解釈をするというのはその中でもまた特異なウルトラ馬鹿の一派なのだにゃ。聖書の逐語解釈というのは、特異な宗教の中でもさらに特異なウルトラ馬鹿一派であるということを肝に銘ずることだにゃ。(そして、特異中の特異なウルトラ馬鹿一派が、最大の軍事力をもっているという恐ろしい状況がある)
こうしたウルトラ馬鹿一派を除けば、教義にはニンゲンの解釈の余地が必ず入るというのは当然のことなのだにゃ。成文律法に対する解釈である口伝律法があることから、ユダヤ教は逐語解釈などという白痴的な真似をしてにゃーことは明らか。
しかも、ことは法の施行という極めて現実的なことだにゃ。どの国の刑法の量刑だって、情状の酌量をしてにゃーところなんてにゃーわけだ。これは立法の趣旨を考慮すれば当然のことだにゃ。宗教においても、逐語解釈という立場をとらにゃー限り、趣旨を解して施行するというのはアタリマエなの。現実の罰はニンゲンの手に委ねられているのだにゃ。
事実、出エジプト記においても安息日の労働は追放と死刑の矛盾した文言が連続するわけで、最初からニンゲンに解釈の余地があるように書かれているにゃ。
「教義通りではないからテキトーだ」という物言いは、逐語解釈を標榜する一派に対しては有効だにゃ。しかし、逐語解釈などというバカな真似をしていにゃーほとんどの宗教に対しては、因縁をふっかけているだけのことなんだにゃ。もともとの教義の趣旨をねじ曲げてまで牽強付会の解釈がなされていたら、それは「テキトー」であるといってもいいけれど、教義をきっちりと検討することは必要になってくるわけ。
チミの出した「灯」の例だけど、合理的な解釈としては、火の管理にはほぼ必ず何らかの労働がともなうことを前提として、家内における奴隷(あるいは女性)の使役を禁じるためのものだといえにゃーかな? 電気による灯が一般化した現在では、そのあたりの趣旨は無意味になったけど、成文律法をむげにはできにゃーので、どういう場合は許されるのかをいちいち指標をだしている、というあたりではにゃーかと愚考するにゃ。
ただ、罵倒修辞に気がとられ、ロジックの部分でmacskaの主張するように読まれても仕方のにゃー表現になっていたことは認めますにゃ。罵倒修辞学の徒として許されにゃーミスだ。ごめんね。
しかし、特異なユダヤ・キリスト教の中で、さらに特異に馬鹿な逐語的教義を標榜する宗教を仮想敵にする場合になら有効なロジックを、他の宗教に対してふりまわすのは、やはりチミがわかってにゃーからだとあらためていっておく。
いままでmacskaがいっていた言明は、逐語主義的馬鹿キリスト教に対するものなのであれば、僕はその多くを了解致しますにゃ。それにしても方法論として文句はオオアリだけど。
198
:
地下に眠るM
:2007/01/17(水) 12:17:12 ID:VNlqTVDw
さて、宿題のつづき
>>104
より
>ある問いに対して特化した体系が、その問いに対する答え(=知)を独占するのはアタリマエのことにゃんね。
>だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワリイことですにゃ。
>僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。
>宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
>こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
>恥ずかしくにゃーのだろうか?
>掲示板によくやってくるシンカロン否定にこりかたまったウスラ馬鹿と何が違うんだろうか?
>>110
より
>「神の存在を否定できるものなら否定してみろ」という言いがかりが、その「第一掲示板によく出没する馬鹿」が述べる頭のワリイ論法の1つであることが、あなたには分かりませんか?
>わたしはその言いがかりに対し、立証責任は「神が存在する」と主張する側にあるという、スタンダードな回答をしているだけですよ。なぜ存在側に立証責任があるかというと、不在を証明するには世界の全てを調べなければいけないので原理的に不可能であることや、宇宙軌道にあるティーポットや空飛ぶスパゲッティモンスターのようなばかげたモノですらその不在証明はできないことから、当たり前です。
>わたしは神一般の存在を否定したことはないし、否定する論理も持ち合わせていませんが、それはスパゲッティモンスターを否定できないのと同じだけであり、「神の存在を否定できないこと」は神の存在可能性を少しも高めることにはなりません。神の存在可能性を高めることができるのは、神が存在するのではないかという肯定的な証拠だけです。
>こうした思考法が「第一掲示板によく出没する馬鹿」と区別できないとすると、本当に頭のワリイのはあなたでしょうね。てゆーか、思い切り傲岸で無礼だし。
禅・ヨガ・スーフィーなどの神秘主義においてはそもそも一神教的な特異な神概念なんてもってにゃー。だが、彼らは知の体系を持っていると主張しているにゃ。元レスでも「修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。」と書いてあるにゃ。そして、その知は「実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系」なわけにゃんね。
しかし
カガク理論がいくらひらかれたものであるといっても、それなりの才能がそれなりの努力を払わにゃーと理解できにゃーものも多いわけだにゃ。数学がまるでダメだったら、量子力学や相対論はもちろんのこと、集団遺伝学なんかもまるで理解できにゃー。語学もひらかれたものにゃんが、外国語の習得には多大な努力と時間が必要だにゃ。いかなる知の体系においても、それなりの才能が努力と時間を投資して、はじめて一定の知を獲得できるということはかわらにゃーのだ。
ここのところを否定できるものはいにゃーだろう。
元レスで僕は知の体系としてある種の神秘主義があり、それは体験に重きをおくものであるが同時に客観的な基準をもっていると書いたにゃ。つまり、そこではある種の客観的な知が立証されているということなんだよ。こんな読みはアタリマエだろうに。
シンカロン否定のウスラ馬鹿は、その知が立証されているといってもそれを学ぼうともせずに否定するばかり。それは否定したいから否定しているだけの悪意に基づく白痴的所業だにゃ。ちょうど第一掲示板にもきてるけどね。愚昧イッツセルフってとこだにゃ。
macskaの言動も全く同じ。
これは、macskaは基本的な読解力がにゃーということを示すに足る例だと考えるので、宿題の2つめは終わりかにゃ。
付け加えておくと、心理学者のユングは晩年にBBCテレビのロングインタビューに応じているにゃ。最後の質問で「あなたは神を信じますか」と問われて「信じているのではありません。知っています」と答えていますにゃ。
199
:
macska
:2007/01/17(水) 13:43:27 ID:UfRlMoOA
>>190
> fukkenさんも書いてますけど
> やっぱり宗教を揶揄するような言い回しに引っかかる人が多いんじゃないですかねー。
言い回しというか、「穏健な」宗教者と科学者やその他一般の人たちのあいだで、紳士協定的な「住み分け」がある程度なりたっているわけですよね。そしてわたしは、その「住み分け」の内容が不当であるとして、主に科学の側を批判しているわけです。ところがそのことが宗教を攻撃しているかのように解釈されたので、わたしはそれはわたしの本意でないと何度もことわっています。それでも引っかかるとなると、紳士協定に疑問を抱くこと自体がいけないと言われているような気がするのですが、そうであれば意図ではなく論理を正面から批判していただきたいです。
> macskaさんはドーキンスの主張にかなり影響を受けているんじゃないかという気もしますし。
ドーキンスだけじゃないですが、影響はあるでしょうね。
しかし、ドーキンスは別として、わたしはアンチ宗教では決してありませんよ。
# 個人的に、かれのイスラム教に対する発言にはかなり危ういものを覚えます。
# かれは政治にはあまり関心がないのかもしれないけれど、欧州の一部で最近目立って
# きた「リベラルを標榜する排他主義的極右勢力」に利用されかねないのでは。
>>195
> そう考える貴方自身には確実にそれは言えることでしょうが、他人のことは
> 貴方にはわからんのではないですか。
いや、言えるでしょ。論理的に。
あるモノが人間の知覚(器具など含む)で認識できるものであれば、それは科学的探求の対象となり得るはずです。しかしここでは「死後の世界」はそうした探求を全く受け付けないモノとして想定されているわけで、それを人間が知覚できると言い出すとおかしなことになってしまう。
> 宗教者が「死後の世界がある」と言ったとして、それは知っていると言った
> ことになるのですか?
なりません。それは「死後の世界があると信じている」という意味に解釈できます。
わたしは、宗教者が「死後の世界がある」と主張することを、何ら、全く、一度も、否定もしくは批判していません。
どうしてそんなにわたしの発言をアンチ宗教に読み替えなくちゃいけないのかな。
わたしは宗教の批判なんてほとんどやっていないのに。
> 宗教者は知っているのでなく“信じている”のです。
そうです。だから、「知っている」と言わなければ全く問題ありません。
> そうではなく、あなたが自分の領域を踏み越えて行って「宗教はご都合主義」
> 「宗教者は詭弁者」と受け取れるような発言をしてしまったことを問題視して
> いるのです。
まず、わたしはそうは言っていない。というか、少なくとも非難の意味で言ってはいない。それが「宗教を叩いている」と受け止められたことについては、何度もそうではないと釈明しているわけで、どれだけ言えば分かってもらえるのかな。それとも、「わたしは非難するつもりはなかったけれど、結果として傷ついたならゴメン」とでも言えばいいんでしょうか?
> 論理的に貴方はそれを撤回せざるを得ない状況に追い込まれているのです。
どの言明を撤回すべきか、具体的にご指摘ください。
「〜と受け取れるような発言」と言われても、そういう受け止め方が真意に反するものであることは再三説明していますから、誤解によって「受け取られたメッセージ」は既に撤回したも同然でしょ。
>>196
> 良く読んでもらえればわかるはずですが
>>186
、それというのは、「宗教者が死後の世界を主張する」
> こと(信仰)を指します。貴方がそれを否定したから議論が始まっているのです。
わたしは信仰を一度も否定していません。「宗教者が死後の世界を主張すること」を一度も否定、批判、非難、その他否定的に評価したことがありません。
200
:
macska
:2007/01/17(水) 13:43:56 ID:UfRlMoOA
>>198
わたしの一番最初の発言 (
>>1
) から見れば分かると思いますが、わたしは「神様」と一般の呼ばれるものが多種多様に渡ることを、誰よりも自覚しているからこそ、「神様についてのQ&Aの記述は、ある特定のタイプの神様には当てはまるが、他のタイプの神様には当てはまらないのではないか」という主張をしたわけですよ。わたしが指摘するまで、そのことに誰も気付かないでいたくらいです。
そのわたしをつかまえて、macskaは世界の中でも特異なユダヤ・キリスト教の神しか想定していないとか、そのユダヤ・キリスト教の教義についてすら無知だとか(この点は撤回されたのかな?)、さんざん言いがかりをふっかけるだけなのは何とかして欲しいな。罵倒に夢中になって自分の無知を自ら暴いてしまうなんて、非常にカッコ悪いよ。
> 「教義通りではないからテキトーだ」という物言いは、逐語解釈を標榜する一派
> に対しては有効だにゃ。しかし、逐語解釈などというバカな真似をしていにゃー
> ほとんどの宗教に対しては、因縁をふっかけているだけのことなんだにゃ。
つまりさ、あなたは宗教における教典の扱いについて、わたしと全く同じことを言っているの。そうでしょ? 普通、宗教では逐語解釈などしない(それをしていると標榜している一派も、実際には程度問題)、時代の流れや科学の進歩に応じて解釈を変えている、と。わたしの言った通りじゃん。
あなたは、わたしがそう書いたとき、それは宗教に対する非難であると勝手に誤解して、いきり立っているわけでしょ。たしかに、ちょっと皮肉っぽい表現ではあったし、そういう誤解を招きかねない書き方だったことは認めてもいいや。でもわたしは、非難や批判の意図はない、宗教とはこういうものであるという自分の見解(あなたの書いているものとほぼ同じです)を述べただけだと何度も釈明しているんだから、いい加減それを理解してくれても良さそうなものだと思うけどな。
201
:
NAN
:2007/01/17(水) 15:06:44 ID:op1ePviI
私的に公的に忙しいし、時折思いついたことを書くだけで参加は無理!と思っていた(いや、今も思っている)んだけど、なんだかむっちゃ錯綜してるし双方(この場合は単にmacska氏側とほかの参加者というカラー分けでいいかな)がぶつかっているのか平行線なのかも良く分からない。
で、こういう場合「振り出しに戻る」のが得策と思うので私なりに長くなったこのスレを1から読んでみると…
>1
>この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正しいとは思いません。
については、まぁ「どんな神だろうと云ったもん勝ちで科学の範囲外=検証も批判もされないってのはおかしいだろ?」という主張であれば頷ける。ここで「範囲外」から「範囲内」に引きずり出されるのは、現代社会においては恐らく「シンコーシューキョーのキョーソ様=イキガミ様」だとか「ウラナイ師」だとか「オカルト政治団体」とか「オカルト詐欺集団」とかイロイロある。であるのなら、その辺はも少し具体的に書いたほうがヨカったんでないかい?という後悔はともかく…問題はこの後で、
>3
にある
>例えば、伝承によればモーセという人は海を割ったとか、
>イエスという人は水をワインに変え、死者を蘇らせたとか。
>あるいは、マリアが処女であるにも関わらず懐妊したとか。
>これらの「奇跡」は古い時代の話なので検証するに足るだけの証拠がないですが、
>もし証拠が発見されれば、例えばイエスの DNA が発見されれば、
>それは原理的に科学的検証を受け付ける現象であるはずです。
↑なんていう記述からすでに争点が浮き彫りになってるよね。これは>4にあるミケ氏の突っ込みにはじまり私も>19くらいで最初の介入したりしてますが、なんかもうそのあたりですでに「本来の議論」と「枝葉の議論」の比重がひっくり返っている。に関わらずここまでスレが伸びてなお罵倒修辞が飛び交っている現状は、>1におけるmacska氏の主張に頷ける私から見ても、続いて繰り出した>3あたりの記述に問題があるからであり、この部分に「果たして自分はまったく無謬であると言い切れるのか」という自問をしてもらわんことには、解決不能と思うですよ。
少なくとも>3の記述を読む限り、macska氏が「神をなんでも科学の範囲外にするのは間違いだろう」と述べている「範囲」を逸脱して、あるいは最近のレスでmacska氏自身が「その辺は検証不能の領域でいいんじゃん?」と述べている「らしき」事象までを対象に「カガクのドヒョー」に引きずり出そうとしている「かのように」見えるのは間違いない。また、私が指摘したことだけどこの辺のmacska氏の主張はまさに「逐語解釈」であり、「イエスのDNAもしくはその断片が発見されたならば、水をワインに変えたり、死者を蘇らせる能力を(身体的に)有していたか否か」が検証(自然科学の方法論によって)できる、と述べているようにしか読めない。
無論「科学的に実証できるような出来事」を指して「奇跡」なんて呼ぶ必要はない。奇跡というくらいだから「めっちゃあり得ない事象」で構わないわけで、これを「検証しようという試み」自体がすでに破綻しているんだよね。
#イキガミ様の予言ってのは「地上のことを指すテキトーなホラ」に過ぎないので検証してもいいさ。
百歩譲って…逐語解釈OK!としても、検証できるのは「聖書とかいう出版物に書いてある文言」あるいは「口伝による伝承」という「ニンゲンのコトバ」に過ぎないわけであり、たとえば「イエスという存在そのものが奇跡」という解釈に対してなんの反証にもならない。いや極論すると「イエスなどという人物は実は歴史的に存在しなかった」みたいなことが「科学的に実証」されたところで、イエスの「実在」は奇跡なんだからOK、ということになる。
奇しくも「一部の神はカガクの対象となるはずだ」と「カガクとかいうブンカ」側に対して発した指摘が、そのまんま「一部というモノサシの不確かさ」によって捻じ曲がっちまった、というのが現状じゃないのかな?だったら…正すべきはどこか、明確でないですかい?
202
:
酔っ払い
:2007/01/17(水) 16:22:52 ID:???
A:原理的に科学的手法による検証の対象にならないものについて、宗教は「信じている」とは言えても、「知っている」とはいえない。
B:なんだそりゃ。例えばそれについて宗教が知っていると言う時、必ず嘘をついているってこと?
A:知っているはずは無いんだから、そうなるね。
B:ふむ。…実はね、僕は宇宙の真理が42だってことを知っている。
A:いきなりなんだ。しかもなんで宇宙の真理が42?
B:説明は出来ないし、証明も出来ない。そもそも検証できないんだから証明しようもない。
A:証明できないのに、なんで知ってるって言えるんだよ。
B:でも、君には僕が知らないとは言えない。
A:原理的に知りえないはずのことを、知っているって言うのはおかしいっていってるんだよ。
B:原理的に知りえないってのは、どういうこと?
A:科学的手法では知覚不可能ってこと、かな。
B:つまり、宗教が科学の手法では知覚不可能なことについて知っていると言うとき、それを知っているとはいえないってこと?
A:そう。それは知っているのではなく、信じている、もしくは知っていると信じていると言うべきだ。
B:僕は宇宙の真理が42だと知っているけど、それが科学の範疇だ、なんてことは一言もいってないし、事実君の定義でも、科学の範疇じゃないんだよね?
A:まだ言うか。でも、それなら「宇宙の真理」とやらが将来科学で扱えるようになったとして、それが42であれ37であれ、君の「宇宙の真理は42」教は、科学を利用しちゃ駄目だよ。
B:了解。当然、「宇宙の真理は42」教は科学の範疇にないのだから、それが科学で否定されようが肯定されようが、君も口出ししないのだよね?
A:もちろん。
B:なら、やっぱり僕は宇宙の真理が42だと知っているし、君はそれについて、とやかく言えないはずなんだけどな。
駄文失礼。
203
:
みずすまし
:2007/01/17(水) 16:34:17 ID:TgyKdXjk
(
>>202
と趣旨がかぶってる)
>macskaさん
かなり古い発言を引っ張ってきますが,次の文章は,言いすぎではないでしょうか。
>>75
> 科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにするこ
> とができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。
「科学に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、『科学に対象とする領域において』宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。」というのなら分かります。また,macskaさんの以降の発言はそう読むこともできます。
数学や論理学や科学哲学は,日本語の用法として「科学」に含めないことが多いと思いますが,数学的知,論理学的知,科学哲学的知というのは認めてよいように思います。もしそうなら,神学的知はどうして排除されるのでしょうか。
----
>>201
> いや極論すると「イエスなどという人物は実は歴史的に存在しなかった」みたいなこと
> が「科学的に実証」されたところで、イエスの「実在」は奇跡なんだからOK、という
> ことになる。
そこまで言っちゃうと,科学的言明が「実在」についての言明でないか,「実在」が相対的にありうるということになっちゃって,非常にまずいと私は思うのですが(科学が間違っていて,宗教のほうが正しかったのでなければ)。
204
:
Josef
:2007/01/17(水) 17:09:04 ID:uPoVYQoU
NANさんが言うように(
>>201
)、本題はとっくに終わってます。
macskaさんの言ってることを煎じ詰めれば、
「科学の対象となるものは科学の対象となる」
というトートロジーであって、なんでこんなトートロジーが出てきたかといえば、Q&Aに「すべての神」が「科学の範囲外」であるかに誤解されそうな記述があったからですね。「神」と名がつきゃ科学は一切手出しできない聖域になるなんて馬鹿な話はないわけで、このままだと「科学の対象」を自ら狭めてしまうことになりはしないか、と。NATROMさんは指摘されてすぐに問題点を理解し、元の記述に手を入れた。本題はこれだけ。macskaさんが「科学の対象」について突拍子も無いことを言っているわけではありません。
枝葉の部分で私がちょっとおかしいと思うのは、何人かの方が指摘していますが、「信じている」と「知っている」の区別ですね。同じ枠組みを共有する者同士なら区別は明白でしょうが、信仰者なら(全ての信仰者、とは言いません)神の存在を明証的に「知っている」でしょう。それを「信じているだけだ」と外野から言ってみたって詮無いこと。だってその人は「世界が在る」と同じくらい明証的に「神が在る」ことを知っているんだから。
205
:
Hiju
:2007/01/17(水) 18:37:24 ID:MM7DYpv2
初めて書き込みします。
結局、macskaさんの言葉に従えば、宗教は「宗教だけが知っている」なんて
何があっても言えないってことですよね?だって、知っているならば「人間
にとって知覚可能」でなければならないし「人間にとって知覚可能」ならば
科学の検証対象であると考えなければならないんでしょう(なんなら知覚が
不可能であっても、現実に起こったことは科学の検証対象なわけですし)?
そして、科学の検証対象であれば、科学が口を噤むのはおかしい、と。
つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。
そうしないのは科学的思考の不徹底だと。
言い換えれば「宗教が『知っている』と言っているものは全て科学の対象と
言え」ってことですよね。『信じている』だけだと認めているものは科学の
対象にしなくて良いけど、と。で、その理由は「宗教は『信じている』だけ
で『知っている』わけではない主張を押し付けてくることがあって、有害だ
から」。
macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
ものであることを認めろ、という主張に読めます。
だからカガク主義的だったり宗教を否定していたり、のように見えるのでは?
で、ポイントは「科学の検証対象であるが、検証不能な現象について」。
これを「科学(“人間”と言い換えてもいいです)が検証不能なのだから、
宗教でも『知っている』とは言えない」という主張をmacskaさんはしている。
それに対し、「科学が検証不能なのだから、宗教が『知っている』かどうか
科学には何も言う術がない」というのが他多くの方の主張。私は後者に同意
します。
#「検証不能であれば科学の検証対象ではなく、範囲外である」という
#話もありますね。
ここでmacskaさんの主張は、「宗教の知は『科学が検証できる範囲』にだけ
収まるべきである」と読み替えることができますよね。なぜなら科学が検証
できない範囲については“宗教が知っているはずがないと断言できる”わけ
ですから。宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
てしまう。
#あるいは、宗教には『知』などありえない、という主張なんですか?
#もしくは、“よりよい生き方”みたいなことについては宗教的知がありえ
#るんでしょうか?宗教的知の一例でもないと理解しにくいですね。
基本的に私は「知ること」と「信じること」は区別すべきだと考えているし
宗教的知については「うん、科学的知とは違うけど信じてるんだよねー」と
答えてれば良いじゃんと思う方なのですが、宗教的知を科学的に検証可能な
範囲に限定するようなやり方は科学主義的だと感じます。
それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
と認められるんでしょうか?だったら「知っているはずがない」という主張
ができるはずがないので、ここはグローバル(?)な定義に従って解釈してみま
した。
206
:
AH1
:2007/01/17(水) 19:19:54 ID:MM7DYpv2
>どれも、わたしの主張とは全然違います。
>基本的に、わたしが批判しているのは科学の側ですから、それをご理解ください。宗教に対する注文はほとんどつけていません(「信じている」と「知っている」の区別をちゃんとつけてほしい、くらいは言いました)。
失礼しました。
ですが、科学の側に「カミだからって譲渡しないこと」を要求されるということは、
「科学は宗教に対し、『この世のことは僕、カガク君が最も良くわかっているのだ。キョウソ君が僕以上にわかっていることはないと言え』ということになるのではないか?」と読んだのです。
要するに、205のHijuさんの投稿とほとんど同じ意見です。重複を避けるため、私から新たには申しません。
他の方々も投稿されていますが、私も最初のmacskaさんの投稿の御意見に同意します。ただ、結局、macskaさんが科学に対して要求することは、現実の解釈を挟んで「宗教にこの世との連接を断って縮こまる事」を要求してしまうんじゃないかと感じ、それがアンチ宗教みたいに見えてしまう原因なのかな?と考えた次第です。
これも他の方々の投稿の繰り返しですが、信じていると知っているの定義についてが(もはや日本語の問題かもしれないが)食い違いの原因でしょう。
(つまりキョウソ君が「この世のことは『わかって』などいないよ、『信じて』いるだけさ。それで十分だろ?」と言えば問題ないわけですよね?)
207
:
みずすまし
:2007/01/17(水) 19:27:57 ID:TgyKdXjk
(
>>203
の補足)
私が,macskaさんの投稿について疑問に思っているのは,以下のうちの(1)です。
(1)「現実の世界で起こったこと」以外について,「知っている」というのは成り立つのではないか?
(2)「現実の世界で起こったこと」について,科学的知識以外に「知っている」というのは成り立つのではないか?
(3)あることを信じている人に対して,「それは,『信じている』だけで,『知っている』わけではないのではないか」といっても,無意味ではないか?
208
:
名無しさん
:2007/01/17(水) 19:44:32 ID:.Dq0EKFk
だんだんパフォ系社会学者みたいになってきてるね、このオバサン。
209
:
diamonds8888x
:2007/01/17(水) 20:12:07 ID:h2fLyT9w
>>188
macskaさん
直接のレスは初めてですがよろしく。いくつかのテーマが混在してしまってますが、ちょっと列挙してみましょう。以下をまぜこぜで議論するとややこしいので>>>all
1.何が科学の検証の対象であるか、という問題
「現実世界に介入するタイプの神は原理的には科学的検証の対象となり得る」
これは科学の側の問題なので宗教側の論理は無関係だと思う。同じ対象が宗教でも科学でも対象になってたって構わないし。まあ既に終わってるでしょう(
>>201
,
>>204
)
2.macskaさんは宗教を侮辱したのか、という問題
本人が否定してんだからいいんでないの。ま、そう取られた表現については謝罪してもいいかも。
3.宗教者は神を知っているか、という問題
「知らないはずだ」と断言するのは正しいか?
2が混じり込んで読み取りにくいんですが、それを除くとfukkenさん他の指摘しているのは3の問題です。最新のmacskaさんの表現(
>>188
)だと、
>宗教者が人知の及ばない物事について何かを言うとき、それは宗教を知らない一般人より何か確かな知識を持って言っているわけじゃないんですよ
>宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。
この認識がたぶん共有されていないと思います。一番コンパクトで明確なのが谷庵さん(
>>192
)。
> また、優れた芸術家や職人は信じられない感覚を持っています。
> 優れた宗教家であれば、死後の世界のことも判るのかも知れませんよ。
視覚の発達してない生物が「人間は大地のずっと上方には星という光り輝くものがあると言うが、それは知っているのではなく信じているだけだ」と述べたとしたら、どうでしょう? 視覚がなくとも知性があれば、それなりに科学が発達するでしょうが、「星が現実に介入した現象」はなかなか観測しにくいでしょうね。太陽ならバンバン介入してますが。
アハ、H.G.ウェルズ作「盲人の国」の世界ですね。この作品はむしろ超人に対して「あんたの感覚を持たない者の知的体系も尊重せえよ」というメッセージの方が強く読みとれるように感じたものですが。
いや人間は誰も同一種じゃないか、と言いたいかも知れませんが、人間Aが自分と同一種という認識も生物学に由来しますからね。
ま、普通は上記のような極端な懐疑主義で世界を認識したりはしませんけど、ここの人達はそのレベルで議論してるんだってことで御了解いただければ幸いです。
むろん我々の持っている科学は普通の人間が持つ普通の五感による観測を基にしていますし、超感覚を主張されてもそれを使うことは我々にはできません。それに世の中には、超感覚を持つと称して人々をだます、時には自分自身もだまされているらしい人(もしも嘘つきでなければ)もあまりにも多い。だから「宗教をやっている人たちだって同じ人間」と仮定して行動するのは極まっとうな戦略ではあります。
ただそれは超人を凡人に引きずりおろそうとすることでもあるので冒涜の危険もあるのですね。ある意味、超人を認めず凡人の立場に徹することは誠実な行動とも言えますが。待てよ、それって当の超人から見たら果たして「侮辱」と感じるのかなあ? 「おろかな者どもがけなげにも頑張っているワイ」としか見ないような気もする。
210
:
diamonds8888x
:2007/01/17(水) 20:27:43 ID:h2fLyT9w
>>209
「レベル」と言っても高いとか低いとかいう評価は意図していませんので誤解無きよう。
「聖域に土足で踏み込む聖者」てのはロジャー・ゼラズニイ「伝道の書に捧げる薔薇」に出てきたなあ。ロマンだなあ。あれは認識というより行動の問題でしたが。
科学は大地を踏みしめて歩くしかない牛のもの。空を飛ぶ竜には別の知的体系があるのかも知れないが。
(高村光太郎「牛」を参考にしてね)
211
:
diamonds8888x
:2007/01/17(水) 20:48:06 ID:h2fLyT9w
ところでみなさんは「宗教は」とか「宗教人は」とか言ってますが、それでどんな者達をイメージしているのでしょうか? そこの認識の食い違いももしかしたらあるのかも。
変な表現ですが、宗教をサービス産業と考えると、生産者と消費者では範囲が違うでしょうし。宗教の場合は生産者はほとんどの場合は消費者でもあるのですが。これは科学でもスポーツでも囲碁将棋でも、およそ文化というものはそうなんですけど。
本筋の議論では生産者かつ消費者たる宗教人てことでいいのかな。私は消費者の立場というものも大事だと思いますが、本論からははずれますね。
212
:
HAKASE
:2007/01/17(水) 20:50:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.返答ありがとうございます.
議論が紛糾しているので情報提供だけにおさえようかと思ってましたが,返答をいただいたので少し書きたいと思います.
先の書き込みをした理由はいくつかあるんですが,そのひとつは,ある程度カオス理論を用いた実証的な研究を知ってる自分から見て,地下に眠るMさんの「カオス理論」の扱い方だとそれがトンデモ理論であると誤解されるんじゃないかなと心配したからでした.
地下に眠るMさんがあげられた話はあくまでも一般向けにニュアンスを説明するためのものであって,カオス理論にもとづく予測手法などはもっと科学的手法に基づいたものだということは理解してもらいたいなぁと思っています.
# そんなの承知の上というのでしたら,私の単なる杞憂です.すいません.
それから,量子力学とビッグバンの話について,少し誤解してるかもしれませんが書いて見たいと思います.ただ,後者の方は知識がほとんどないので何ともいえません.すいません.
量子力学については雰囲気をおおざっぱに知ってる程度ですが,特定の観測系で一定時間間隔ごとにデータ観測を行って時系列データを生成できるのであればカオス時系列解析の検証対象データとして扱うことができると思います.
確か量子力学の理論では「事象は確率的に決まる」というのが前提のひとつになってたと思いますが,カオス時系列解析を使うとそれが本当に「確率的」なのか,それとも確率的のように見えても実は特徴がある(カオス的)なのか評価できます.
もしカオス的な特徴が見つかれば,例えば10000回の観測の後の10001回目の観測結果を予測できる可能性があります(カオス的特長が見つかったからといって必ず予測できるわけではないですが).
私は,量子力学に詳しいわけではないですし,そういう研究がなされているかとか,既にカオス的でないことが明らかになってるかどうかも知りませんが,検証の対象になるという意味では「科学的手法では原理的に手が出せない」とまでは言えないと思います.
# 趣旨から外れてたらすいません.
213
:
地下に眠るM
:2007/01/17(水) 20:57:19 ID:cizMQ0FI
職場からだにゃー
ユダヤ教の安息日にあこがれる僕。労働基準法の罰則に死刑をいれるべきだにゃ(ぶつぶつ
なんか、新顔がぞくぞくにゃんね(嬉々
さて、僕は
>>159
の
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
をとりさげたつもりはにゃーのだが。宿題を優先してレスを後回しにしているだけ。
まあ、「観測とか」のところはとりさげておいたほうが話が早いので、取り下げておきますけどにゃ。
誤読で罵倒したら、罵倒キャラは廃業モノだにゃ。
本人が侮辱してないといいはれば、侮辱してにゃーことになるのなら、この世に差別主義者はほとんどいなくなるにゃ(げらげら
214
:
GB
:2007/01/17(水) 21:12:57 ID:jqYqTCMI
突然すみませんが、私は、macskaさんのコトバは、
「確かな知は科学だけのものなんだから、宗教が『知る』なんておこがましい、
せいぜい『信じる』というならば認めよう」という風に聞こえます。
しかし宗教的真理というのは、(人が生きる)意味・価値をもとに組み立てられたもので、
科学的な思考とは成り立ちも方法も違いますよね。素朴に、科学は意味にはかかわらないんだから
共存しましょうねと言ってもいいんじゃないかと思うし、
宗教が時代に合わせて教義の変更を行っても不思議じゃない、「意味・価値の部分(真理)」は
揺らがないでしょうから。
同様に、「現実世界に介入する神」という表現もよくわかりません。科学的認識の「外」→「内」、
つまり意味・価値の世界から現実世界(物理化学的世界)に影響を与えた実例など、
ありうるんでしょうか。
(もちろん聖書を含めた文献上の報告や超能力などは除きます)
215
:
HAKASE
:2007/01/17(水) 21:37:37 ID:ZC/gbS1c
せっかくですので,人間の意識が科学的手法で扱えるかの現状についても情報提供してみたいと思います.
義手の研究の話を聞いたことがありまして,これまでは筋肉を動かしたときにでる電気信号で義手を動かす研究がさかんだったそうです.
で,最近ではそこから一歩進んで,「右手を握りたい」と思ったときに右手の義手が握る動作をするにはどうしたらいいかって研究が始まってて,脳から出る信号を利用する試みもあるそうです.
もちろん,倫理的に問題ないのかとか,どうするべきかの「べき論」とかとは,切り離した場合での話ですし,現状ではここで議論してるレベルの話(知るとか信じるとか)までを科学的手法で扱ってるわけではないですが,意識や思考の問題が完全に科学的手法による検証の範囲外かというと,必ずしもそうではないと思います.
# 既に終わってる議論なのかもしれませんが参考になればと思います.
216
:
地下に眠るM
:2007/01/17(水) 22:04:57 ID:cizMQ0FI
仕事さぼりつつもう1点
情報提供あんがとね>HAKASE
カオス理論を持ち出した理由はtema の読みのとおりですにゃ。
で、ああいう書き方になったのは、僕がカオス理論をよくわかってにゃーからだ。
愚者というものは、自分のわかってもにゃーことを振り回したがるものなのですにゃ。
あと、お説のとおり、意識はカガクの対象であることはまちがいにゃーと思う>HAKASE
魂(タマシイ)とは意識というものを説明しようとして考えられた仮説という見方もできると考えますにゃ。
そして、唯物論の立場からみた観念論の最大の弱点のひとつは、「物質に影響をあたえることのできるのは物質だけである」ことにあるわけで、そうすると、魂とか霊魂はなんらかの意味で物質的な存在であることを認めるか(つまり唯物論の軍門にくだってしまう)、あるいは観念的存在が物質に影響を与えるその機構を示さなければならなくなるわけですにゃ。
ちゅうわけで、タマシイとタマシイの集う場である死後の世界というものは、「現実世界の森羅万象がカガクの対象である」のなら、カガクの対象になっちまうはずなんだけどにゃ。
などと、メモを兼ねて
217
:
すらりん
:2007/01/17(水) 22:47:17 ID:Fc.S231Y
横レス失礼します。
地下Mさんの↓を読んで疑問に思ってたんですが
>>104
宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
恥ずかしくにゃーのだろうか?
たとえばオウム信者の人にオウムの教義とかポアするだとかいったことについて
「貴方は修行が足りずステージが足りてないから理解出来てないだけ」
と言われたら
その言い分は(少なくとも可能性は)認めざるを得ない、ということなんだろうか?
それともオウム信者の主張は無視して良いとするなら、
その違いは何に拠るのでしょうね。
オウムは宗教界でも権威では無いからかな?
218
:
e10go
:2007/01/17(水) 23:34:13 ID:5/V6R9W6
初めまして。すらりんさん。
>>217
>たとえばオウム信者の人にオウムの教義とかポアするだとかいったことについて
>「貴方は修行が足りずステージが足りてないから理解出来てないだけ」
>と言われたら
>その言い分は(少なくとも可能性は)認めざるを得ない、ということなんだろうか?
一般人(信者でない人)がそう言われたら、「一般人」は「オウムの教義」について知らない(詳しくない)から、
「理解していない」と認めればいいでしょ。
仮に自分が信者だとしても、理解していなければ「理解していない」と認めればいいだけの事ですけどね。
しかし、「ポア」については、「チベット仏教のナーローの六法」を知っているなら、認める必要は無いでしょう。
だいたいオウムの一部の犯罪者共は、自分達の行為を正当化するために、「ポア」の意味を勝手に解釈しているんだから。
ようは、相手の事を知りもせず、また知ろうともせずに批判するのは傲慢でしょ、という事ですね。
知っている事なら、突っ込んでも良いんじゃないですか。
219
:
妥当?進化論
:2007/01/17(水) 23:38:05 ID:m5c0scEQ
横レス失礼します。
数年前にメインの掲示板や、ツリーの掲示板でお騒がせしたものです。
ほとんどに人は忘れてしまったと思いますが…
だいぶ議論が発展してしまっているので、元に戻るような話題をするのも何なのですが…
神と科学の適用範囲について、一時期はmacskaさんに納得しかけたのですが、自分なりの意見です。
まず最初に、「神の存在は、科学的手法で考られる範囲のものである」という命題ですが、「科学的手法」については皆さんの定義は一致できると思うので、まず問題は「神」の定義についてです。
ここでmacskaさんは「現実世界に関与する神」という定義をされているようです。
この定義をもっと厳密に見てみると、「現実世界に関与」した現象を考えると、科学的手法で説明のつく現象を行うものを神と呼べるでしょうか?
例えば海を割って道を造るという現象が、そのエネルギーの源から方法まで全く科学的に矛盾なく説明ができるのなら、ゆくゆくは人間能力でもできるのであって、それは神の所行ではないのではないでしょうか。
処女受胎の例も出されていますが、最近のニュースでコモドオオトカゲが雌1個体のみで他の雄個体と接触することなく、単為生殖で子供をなすことができることが確認されたようです。
それを持ってコモドオオトカゲが神であるといえるわけではないと思います。
次に「6000年で世界を作った神は科学で否定ができる」という話もありましたが、否定できるのは「世界を6000年で作ること」であって、実際には6000年で世界を作った神が、例えば46億年に地球ができたような証拠を残して世界をつくったのであれば、それを科学で考えることは不可能だと思います。
何せ科学的にはどうあがいても46億年で作ったことしかわからないのですから、そのような神は科学の範囲を超えています。
つまり現実世界に神が関与しているとしても、その現象を科学的に検証することができないのなら、その現象は科学の範囲外ですし、神の能力が科学を超えているのならやはり科学の範囲外です。
ということで、神の存在を考えることは「科学の範囲外である」と言えると思いますが、どうでしょうか?
220
:
ぽっと出2号
:2007/01/18(木) 00:11:52 ID:EZ3AtddI
妥当?進化論さんへ
横横レスになりますが・・・
>例えば海を割って道を造るという現象が、そのエネルギーの源から方法まで全く科学的に矛盾なく説明ができるのなら、ゆくゆくは人間能力でもできるのであって、それは神の所行ではないのではないでしょうか。
macskaさんが言っているのは、科学的に検証はできる(その結果が判定不能でも)ではないでしょうか?
つまり、『海を割って道を造る現象を、科学的に検証して、そのエネルギーの源から方法まで全く科学的に矛盾なく説明でき』なくても、良いわけです。
いや、説明できても良いんですが、macskaさんの論旨は、説明できるできないに関わらず検証対象にはなるでしょ?という事かと。
また、
>次に「6000年で世界を作った神は科学で否定ができる」という話もありましたが
「地球を6000年前に作った」かつ「地球が46億年前に出来たように見える証拠をつくるようなことをしない『人間を騙さない』神」という前提であれば、否定できるという話ではないでしょうか?
221
:
ぽっと出2号
:2007/01/18(木) 00:34:42 ID:EZ3AtddI
すみません、6000年の件については、私の誤解でした。
「地球を6000年前に作った」かつ「地球が46億年前に出来たように見える証拠をつくるようなことをしない『人間を騙さない』神」については、
NATROMさんの発言でしたね^^;
222
:
macska
:2007/01/18(木) 01:17:10 ID:VdHL1C4M
>>201
> 「イエスのDNAもしくはその断片が発見されたならば、水をワインに変えたり、
> 死者を蘇らせる能力を(身体的に)有していたか否か」が検証(自然科学の
> 方法論によって)できる、と述べているようにしか読めない。
そんなことはないし、そうは言っていない。イエスのDNA云々は、仮にの話で、例えばイエスの父と母が誰であったかDNAによって確認された場合、聖書による処女受胎の伝説が反証されることもあり得ると言っているだけ。DNAが発見されればその人物について何でも分かるなんてことは主張していません(いくらなんでもそんなトンデモありえない)。
> 無論「科学的に実証できるような出来事」を指して「奇跡」なんて呼ぶ必要は
> ない。奇跡というくらいだから「めっちゃあり得ない事象」で構わないわけで、
> これを「検証しようという試み」自体がすでに破綻しているんだよね。
だから、現実問題として検証可能なだけのデータがあるかどうかは別として、仮にそれが神の介入による現象でも、現実世界で起きたことは科学の探求の対象でしょう、と言っているわけ。現実世界で起きた物理的な現象が「科学の範囲外」というのは論理的におかしい。
>>205
> つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。
いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。
しかしまぁ、科学の側に立つ論者の一部が、科学に全く手の届かないテーマが話題に上ると「それは宗教の範疇である」として、まるで宗教にならそのテーマについて何か確からしいことが言えるかのように振る舞うことがありますが、それは不必要だと思いますけどね。
> macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
> ものであることを認めろ、という主張に読めます。
宗教的知というのが、(文脈上)現実世界の外側の事象に対する、人間の知覚によって何の確認も取れない物事についての知識であるとすれば、それは科学的知より不確かであると言って問題ないのではないでしょうか。そしてそのことは、宗教の価値を何らおとしめないと思います。「宗教への侮辱だ」と反応している側のほうが、科学の価値観で宗教の価値を決めつけているという点で宗教を侮辱していると思います。
223
:
macska
:2007/01/18(木) 01:19:30 ID:VdHL1C4M
>>209
> ま、普通は上記のような極端な懐疑主義で世界を認識したりはしませんけど、
> ここの人達はそのレベルで議論してるんだってことで御了解いただければ幸
> いです。
しかし、だったら「わたしに」そういう超感覚があって、それによって「宗教にも分からない」ということが「分かっている」という可能性も考慮してくれても良さそうですが(笑)
真面目な話、仮にその「超感覚」を持つ人がいたとして、それが優れた科学者ではなく優れた宗教者に限られるという理由は、何かあるんでしょうか? わたしが言っているのは、「人知を越えた現象について宗教に特権的な知はない」ということなので、もしそうした「超感覚」が宗教だけでなく誰にでも開かれている(あるいは確率論的に開かれている)ということなら話が違ってきます。
>>214
> 突然すみませんが、私は、macskaさんのコトバは、
> 「確かな知は科学だけのものなんだから、宗教が『知る』なんておこがましい、
> せいぜい『信じる』というならば認めよう」という風に聞こえます。
宗教であろうと科学であろうと(あるいはただの個人であろうと)、知らないことを「知っている」と言うのはやめよう、というだけのことですが。
> 同様に、「現実世界に介入する神」という表現もよくわかりません。
現実世界に介入していると想定される神、という意味です。
実際に介入した科学的証拠は、いままでのところありません。
>>216
> ちゅうわけで、タマシイとタマシイの集う場である死後の世界というものは、
> 「現実世界の森羅万象がカガクの対象である」のなら、カガクの対象になっち
> まうはずなんだけどにゃ。
もしタマシイというのが物理的に構成されているなら(わたしはそうだとは思わないけれど)、当然科学の対象でしょう。違うという論理がまったく理解不能。
224
:
地下に眠るM
:2007/01/18(木) 01:23:33 ID:Ka2n4cc2
酒が入っているので罵倒レスはなし。
罵倒修辞学徒律法ケッヘル番号への3番で、酒飲んでの罵倒は禁忌とされているにゃ。
ちゅうわけで
>>217
のすらりんへレス。
まず、
>>218
のe10goの見解に僕は文句はにゃーです。
その上で
>「貴方は修行が足りずステージが足りてないから理解出来てないだけ」
>と言われたら
>その言い分は(少なくとも可能性は)認めざるを得ない、ということなんだろうか?
然り。
相手がたとえオームであっても、その部分だけで判断するのなら、真理をつかんでいるかもしれにゃーという可能性を捨てることはできにゃーです。実際、オームにはちゃんと勉強をしたはずの宗教学者がひっかかったりしていますにゃ。
ただ、オームが仏教をなのっていた以上、つまり仏教の権威を利用していた以上、仏教学・仏教哲学からの学問的な検証をうけることはさけられにゃーでしょう。ま、オームは仏教をなのりつつ、実際には神智学のパクリ教義だったにゃんが。
しかし、現実の言動をよくみることこそ重要ではにゃーでしょうか?
オームにおいてはインチキ予言を繰り返していたという事実がありますにゃ。僕ね、アサハラの戦慄の預言だとかいう本を持ってましてにゃ(こういうの大好きなのよ)。
93年に出版されたものにゃんが、すんごいぞー。
湾岸戦争でプラズマ兵気が使われて、10万人死んだけど死体はほとんど残ってにゃーだとか、97年には大恐慌がおきるだとか、もう外れた顎の骨がポルカを踊るようなシロモノ。
このあたりのタワゴトで、十分に正体の推測はできると思いますけどにゃー。
225
:
地下に眠るM
:2007/01/18(木) 01:24:18 ID:Ka2n4cc2
酔っぱらいの独り言
なぜ、数学が自然科学においてこれほど役にたつのだろう?
数学とは、その根本においてはニンゲンの純粋な思弁の自己運動みたいなところがあるにゃ。「現実」を解析するためにつくられたわけではない、いわば形而上的な体系であるのに、「現実」の解析に圧倒的な有効性を発揮するわけだにゃ。
数学がなぜ自然科学においてこれほど役に立つか、ちゅうのはなかなか答えがいのある問いかもしれにゃー。
ニンゲンの脳という器官は、数十億年の進化をへてつくられてきたものだにゃ。動物行動学者のローレンツによれば、「進化とは認識の過程である」そうだにゃ。
僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? だからこそ、ほぼ純粋な思弁の結果である数学が、外界の事象の解析にあれだけの力を発揮するのではにゃーのだろうか?
だとしたら
数学以外の方法においても、ニンゲンには純粋な内省・思弁において、相当に信頼性の高い知の体系を築く可能性があることは当然なのではにゃーだろうか?
形而上哲学、あるいは神秘主義の知について、現在ここでは「まあソトからの否定は乱暴だよね」という理性的な論調が支配的にゃんが、僕はそうした知が現実に存在していることの可能性を積極的に主張したいにゃ。
カガクは確かに物質的に積み重ねられたクレーンかもしれにゃー。
しかし、形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ。形而上学を支えているのは、数十億年の進化を経た僕たちニンゲン存在の手なのではにゃーだろうか?
226
:
fukken
:2007/01/18(木) 05:21:46 ID:M5vfENrY
>>199
macskaさんに対してできるだけ丁寧に応えようと思って、言うことすべてに回答していたけど、それに対して自分に都合の良いところだけつまみ食いされ続けていい加減疲れました。
1対多であちらは大変だから仕方ないとも思ったけど、それにしたってこちらの論旨をことごとくかわして、急所への突っ込みや質問には一切応えないってやり方は、まともな論者のすることじゃないでしょ。
それに、私が拙い言葉でダラダラ書くより、それを簡潔明瞭に言ってくれる人たちも現れたようなので、以後こちらもmacskaさんへの対し方を変えることにします。
でも、私への質問にはすべて応えますよ。それが議論の上で最低限すべきことだと思うので。
macskaさんは他人には「それは言い過ぎだ」とか「知りもしないことを知っていると言うな」とか注文を付けるわりに自分が言われるとただ反発するだけのように感じますが、私の思い過ごしでしょうか。
「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
がいけなくて
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
と言う表現には全く問題ないと言い切れる理由を”他人に誤解を与えかねない文章であるか否かの観点で”きちんと説明してください。
貴方の発言に対して「問題あり」とした私やその他数名の方が納得できるようにお願いします。
>どの言明を撤回すべきか、具体的にご指摘ください。
とのことですが、
管理人さんはご自身の上記言明に対し「趣旨はこうだが確かに不正確でした」と誤解を招く可能性を認めQ&Aを修正しました。
私は貴方の上記発言はそれ以上に問題がある(宗教、宗教者に対する偏見、侮辱を孕んでいる)と思っていますので、(非難の意味で使っていようがいまいが)同様に撤回もしくは訂正する必要があると考えます。
それから
何度も言ってきたように、宗教者でもない貴方が
「(死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については、)宗教にだって全く何も分かっていません。」
と言い切ることは論理的におかしいと言うのが私の主張です。
何もわかっていない”はず”とか”思われる”に修正すべきだと思いますが、どう思われますか?
これに関連して、
>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。
>>188
「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。
>>195
と言う質問への回答がありませんでした。
知らないことを知っているなどと言わせないmacskaさんが「断言できる」と言うからには、神や死後の世界などに関して宗教(宗教者)がmacskaさん以上の知識を持っていないことを”知っている”はずですから、論理矛盾のないようにしっかりとした説明をお願いします。
227
:
diamonds8888x
:2007/01/18(木) 06:04:01 ID:h2fLyT9w
>>223
>真面目な話、仮にその「超感覚」を持つ人がいたとして、それが優れた科学者ではなく優れた宗教者に限られるという理由は、何かあるんでしょうか?
ありません。宗教と名乗るかどうかは無関係です。実際の所は、宗教と名乗ろうが超能力と名乗ろうが宇宙人の友達だと名乗ろうが、「同じ人間だろ」と仮定するのが安全で確率の高い方法です。
228
:
diamonds8888x
:2007/01/18(木) 06:06:04 ID:h2fLyT9w
>>225
数学も歴史的には現実解析の道具として発達したものでしょう。幾何学は測量のため、数論や代数は金勘定のため(^_^)、だけでもないけど。
>僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか?
ええ、そうらしいことは脳科学で色々と明らかになってきてますね。生物がロボットにとっての難問であるフレーム問題をすらすらと解決できるのは、まさに脳内法則が外界法則とパラレルで、しかも有用な情報のみを自然に選択する規則を生まれながらに持っているかららしいのです。
て、科学からの解釈ですが(^_^)
229
:
tema
:2007/01/18(木) 06:54:55 ID:???
HAKASEさんへ
>>212
>確か量子力学の理論では「事象は確率的に決まる」というのが前提のひとつになってたと思いますが,カオス時系列解析を使うとそれが本当に「確率的」なのか,それとも確率的のように見えても実は特徴がある(カオス的)なのか評価できます.
>もしカオス的な特徴が見つかれば,例えば10000回の観測の後の10001回目の観測結果を予測できる可能性があります(カオス的特長が見つかったからといって必ず予測できるわけではないですが).
「カオス時系列解析」は言葉すら聞いたことがなかったtemaですので、間違ってたら指摘して下さい。
カオス理論で扱う「カオス」とは、「一見ランダム(ノイズ)に見えるが、実際は特定の数式により生成される(無限の)数列」と認識しています。ここから、カオス時系列解析とは「カオス」内の特定の数列を近似できる非線形微分方程式を求める技法、と想像しています。
もし波束の収束が未知の数式により決定されているとしたら、収束する時刻および位置はカオス的でありカオス時系列解析により予測できる可能性があるのでしょう。しかし、波束の収束は非決定的であり、カオス的ではなくノイズである、と認識しています。
この場合、カオス時系列解析を行っても意味がありません。
また、解析のために使用する数列(この場合、波束が収束する時刻および位置)は観測によって得られます。しかし波束は観測した時点で収束するため、肝心な基情報に観測が多大な影響を及ぼします。このため、解析のための数列すら入手できません。
以上により、カオス時系列解析を使用しても検証はできない、と考えます。
230
:
tema
:2007/01/18(木) 06:55:33 ID:???
…と考えはするのですが、ちょっと困りました。
上記はコペンハーゲン解釈に基づいています。
昨夜、調べてて始めて知ったのですが、量子力学に対してはコペンハーゲン解釈以外の解釈があり、その中に「パイロット解釈」という解釈があります。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88
この場合、波束が収束する時刻および位置は決定的であり、カオス的振る舞いをすると考えます。
パイロット解釈が正しいならば未来は決定されており、カオス時系列解析による検証が有効な可能性があります。この場合、観測が基情報に与える影響はありますが、「科学的手法では原理的に手が出せない」とまでは(temaは)言いません。
ただし、現在の本流がコペンハーゲン解釈である以上、「科学的手法では原理的に手が出せない」と考えます。
231
:
みずすまし
:2007/01/18(木) 07:24:48 ID:TgyKdXjk
>>203
をスルーされたのは,助詞が間違っていたからかと思って,訂正。
>>203
> 「科学に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすること
> ができますが、『科学に対象とする領域において』宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。」というのなら
> 分かります。
「科学が対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにする
ことができますが、『科学が対象とする領域において』宗教が何か確からしいこと
を言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。」と
いうのなら分かります。
に訂正します(「に」→「が」)。
232
:
地下に眠るM
:2007/01/18(木) 12:02:05 ID:btJIvKD.
僕がなぜ「宿題」を優先していたのかというと、macskaは都合のワリイ質問やツッコミをスルーし、自分の答えやすいところだけをねじ曲げて解答するということを常とう手段にしていると判断したので、過去ログからそうした事例をきっちりと示す必要があると考えたからですにゃ。
で、ゆっくりとやっていたら昨日、新顔が何人かきて、これから言おうと思っていたことをいくつか言われてしまったのだにゃ、NANにも「逐語解釈」を先にいわれてしまったし・・・・
まあ、みにゃさま僕が書くよりもうまくいってくれているので、それはそれでいいんですけどにゃ。
で、それに対するmacskaクンの対応は、やっぱり「スルー」
特に、
>>202-203
-205あたりの完成度の高いツッコミ投稿に対してはことごとくスルー。一応答えた箇所にしても、とても正面から答えたとはいえにゃーものだにゃ。で、答えられにゃーくせに、自説を曲げようとも譲ろうともしにゃー。もちろん、一対多の状況だしいろいろと大変だとは思うから、すぐにレスをかえせとも全てに詳細にレスしろと言う気もにゃーけどね。それにしても誤魔化しが歴然としてるだろ。
で、これからどうしようかとも考えたにゃんが、とりあえず宣言したことはやっておこうと思いますにゃ
では宿題のつづき
残っている宿題は、macskaは場当たりでテキトーなことをいう、とかいったことでしたにゃ。当然これは、都合のワリイことのスルーも含むわけで、みにゃさまが目の当りにしていることですにゃ。僕の投稿でスルーされている重要なところは、
>>198
全部と、
>>102-110
-154の流れでの
>>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
>>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。
>え?
>どう違うの?
>逃げにしか見えにゃーぜ。
ここについての答えがにゃー。ここは重要なところのはずだから、「逃げにしか見えにゃー」とわざわざ煽りまでくれたのにスルー。
233
:
地下に眠るM
:2007/01/18(木) 12:03:10 ID:btJIvKD.
さて、場当たり発言の好例を以下に。
>>31-33
-93 は全てmacskaの発言より引用
>それは証拠不十分によって検知できないだけであって、
>原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべきです。
>>31
>偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるのであって、いくらバラバラで予測不可能に見えても自然法則に従っていないはずがありません。
>>33
>科学の範疇には、情報不足で解決不可能な問題はいくらでもありますよ。
>>93
こうした発言をうけて、
>>107
において「本質的な偶然性」(ミケのレトリックでは「勝利の女神」)という概念を引っ張り出し、僕はこう発言したにゃ
>macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。しかしそれは、自分では気づいていにゃーのだろうけど、偏った立場なんだよね。
そしたら
>>111
>わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。
>何十回も説明させるつもりですか?
だってさ(タメイキ
macska「偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるだけ」
馬鹿猫「macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだ」
macska「わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか? 」
・・・・漫才にゃんな。macskaクンの「いい加減にしろ」の用法として典型ですにゃ。
234
:
地下に眠るM
:2007/01/18(木) 12:03:53 ID:btJIvKD.
で、この「本質的な偶然性」「勝利の女神」がらみだにゃ。以下のミケの発言を参照。
>あー、科学で答えの出せないことを一まとめにして、
>「科学の外」と言うことが気に入らないというだけなんですね?
>>136
>現実に干渉可能な神でも検証不能となる場合があることについては
>同意していただけるんですよね。
>>138
>「検証不能である」という部分がmacska さんに通じていなかったのでは?
>という点だったので。
>それが誤解だったらしいことが分かったので、もう引き上げたわけです。
>>151
こうしたミケの発言に対し、macskaは直接は応答していにゃー。(得意のスルー?)
しかし、以下の発言はあるにゃ。
>わたしが一貫して言っているのは、
>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
>と、それだけです。
>>133
>ようやくわたしが何を言っているのか理解されかけてきた様子。
>>150
つまり、macskaは検証不可能な事象についても、「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇」だといっているわけ。検証不可能ということは、カガクにおける理論化の契機すらにゃーということだにゃ。そこで、僕の以下の発言。
>macskaクンの主張がどんなに白痴的で無意味かチミにはわかんにゃーのかな?
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
>言い換えると
>カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ、といっていることになるにゃ。
>>159
上記の発言から「観測とか」の部分はすでにとりさげているにゃ。
これでも僕の発言は誤読に基づくものかい?>Josef・diamonds8888x
まともなカガク観からは
>※一応ミケとしてはそもそも検証の対象にできようができまいが、
>検証不能なものを科学の範疇である、という言明には賛成できない、
>という立場です。今でも。
という言明がでてくるだろにゃ。僕もそれに賛成。
で、まあこれだけならば、macskaのいう「科学の対象」という概念はただのゴミだというだけのことで(十分に有害でカガク主義よりの概念なのは確かだけど)。
でもさあ
>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
>>75
などといっちゃっているんだよにゃ。検証不能というのは、カガクには何もいえにゃーということ。現実世界におこることであれば、何もいえにゃーことについてすらカガクの独占対象であるってどうよ? もうとにかく無茶苦茶。
235
:
地下に眠るM
:2007/01/18(木) 12:08:32 ID:btJIvKD.
ああ、失敬
>>205
は形としては一応スルーされてなかったにゃ。ごめん。
ついでに
216はメモなんで、そこに突っ込まれても(しかも明後日の方をむいたツッコミ)なんともいえにゃーな。
236
:
macska
:2007/01/18(木) 15:19:53 ID:VdHL1C4M
>>226
> macskaさんに対してできるだけ丁寧に応えようと思って、言うことすべてに
> 回答していたけど、それに対して自分に都合の良いところだけつまみ食いさ
> れ続けていい加減疲れました。
うーん、わたしもそのつもりなんですが。
> 「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
> がいけなくて
> 「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事
> 実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
> と言う表現には全く問題ないと言い切れる理由を”他人に誤解を与えかねな
> い文章であるか否かの観点で”きちんと説明してください。
全く問題がないことを説明しろと言われても、どこが問題なのかさっぱり分からないので。そこに書かれたことは事実じゃないですか? それとも、事実だけどそういう言い方は失礼だという意味ですか?
> 私は貴方の上記発言はそれ以上に問題がある(宗教、宗教者に対する偏見、
> 侮辱を孕んでいる)と思っていますので、(非難の意味で使っていようがい
> まいが)同様に撤回もしくは訂正する必要があると考えます。
うーん、しかしわたしはそうは思わないのです。事実を言った結果、事実を拒絶したい人を傷つける可能性があるのは分かるけれど、だからといって事実の側を撤回もしくは訂正するのはおかしいと思うし。困ったな。
> 「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。
>>195
> と言う質問への回答がありませんでした。
人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない、という論理そのものが根拠です。ていうか、確かにそう答えたけどな。「そんな答えじゃ満足できない!」というならまだしも、回答そのものがなかったことにしないで欲しいです。
まぁ、こんなことで揉めてもしかたがないので(言わなければいいのにちょっとサービス精神出して言っただけだし)、どうしてもと言うなら撤回して言い換えてもいいです。
「科学がわからない領域のものごとについて、宗教が何かわかっているという証拠は一切ない。八百屋や農民や大工や主婦に分からない、現実世界の外のものごとが、宗教家になら分かるという証拠も一切ない」
これなら、みなさん満足していただけるでしょうか。
237
:
macska
:2007/01/18(木) 15:20:28 ID:VdHL1C4M
>>232
> 特に、
>>202-203
-205あたりの完成度の高いツッコミ投稿に対してはことごとくスルー。
まず
>>202
はあれは答えようがないでしょう。
>>205
に関しては、答えたつもりだけど。
>>203
は、どこに答えればいいのかな。
「神学的知はどうして排除されるのか」という問いなら、空からのフックによってもたらされるものをわたしは「知」とは呼びません(宗教学や宗教史、神学史なら、「知」になり得ます)。その理由は既に書きました。
残りは、わたしに対する質問ではないようですね。
>>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
>>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。
>え?
>どう違うの?
>逃げにしか見えにゃーぜ。
「正しい生き方」という課題に自然科学で答えが出るという部分で既にブッ飛んでいてわたしの理解を越えています。そうして判明する「正しい生き方」というのが仮にあったとして、それは宗教の教える「正しい生き方」とは違ったモノなんじゃないかと思うんですが。
いや同じだと言うなら、そもそも自然科学の手法でどのようにすれば「正しい生き方」が示されるのか、説明してください。そんなわけの分からない話を持ち出しておいて、わけが分からないからスルーしたら「弱点を突いたぞ!」みたいに反応されても困ります。
>>233
はい、その部分は、本来の議論とは関係のない議論に踏み込んでしまって、分かりにくくなってしまったと思います。しかし、
>>33
の時点から
>>111
の時点までのあいだに「わたしの主張はそれではなくこれです」と何度も説明しているわけで、それだけ離れた発言を連続するものであるかのように書くのは不当です。
はっきり書かないと分からないようなのでもう一度説明しますが、
>>33
で示した「偶然」についての認識は、わたしは撤回しているのです。なぜなら、それは本来の議論から離れた論点であり、本来わたしが主張していることは、
>>33
で示した認識に依存しないからです。
> 検証不能というのは、カガクには何もいえにゃーということ。現実世界におこる
> ことであれば、何もいえにゃーことについてすらカガクの独占対象であるってど
> うよ? もうとにかく無茶苦茶。
科学の「独占」対象だとは一度も言っていませんが。
というより、科学と宗教では、対象に重なりがあるとわたしは一貫して言っています。つまり、現実世界の事象は科学の独占対象ではない、という主張をわたしはしていることになります。わたしの主張の正反対のことを、わたしの主張であるとすり替えて批判するのはやめてください。
238
:
fukken
:2007/01/18(木) 15:40:38 ID:M5vfENrY
>>236
>全く問題がないことを説明しろと言われても、どこが問題なのかさっぱり分からないので。そこに書かれたことは事実じゃないですか? それとも、事実だけどそういう言い方は失礼だという意味ですか?
「あなたは、分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる。」と言われて平気ですか?
(ま、貴方はあまり羞恥心がなさそうだから平気かも知れないけど、じゃあロムの皆さんにでも聞いてみるといい。)
普通の神経の人なら怒るでしょう。
それを、「宗教はそんな詭弁すら容認されている。だから信者はラッキー。」って・・・。
前にも言ったけど(案の定スルーされたけど)
自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教自体が認める行為であるとどうして断定できるのか。
きっちりと説明してください。
239
:
AH1
:2007/01/18(木) 15:45:02 ID:MM7DYpv2
macscaさんの発言にある
>いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。(Msg222)
と
>宗教であろうと科学であろうと(あるいはただの個人であろうと)、知らないことを「知っている」と言うのはやめよう、というだけのことですが。(Msg223)
の使い分けがどうしてもわかりません。また「科学がカミだからって常に譲渡するのはやめよう」という最初の主張とも微妙に違うような気がします(これは科学に対して言われた言葉ではあるが、カミに対して言及するという点で宗教に対して要求がある、ということになると思う)。
macscaさんが理想とする状態、あるいはmacscaさんが苛立ちを感じない宗教の在り方を教えて頂けませんか。
240
:
macska
:2007/01/18(木) 16:32:26 ID:VdHL1C4M
>>238
> 「あなたは、分からないことについてさも知っているように自分の思い込み
> を事実とすりかえる。」と言われて平気ですか?
一般論として正しいことでも、特定の個人に対して言えば失礼にあたるというのはよくあることです。わたしは一般論として宗教とはこういうものであると言っているのであって、特定の宗教者に対して言っているわけではありません。例えば、特定の宗教者を指差して「こいつは分からないことをさも知っているようにすりかえている」と叫べば、そりゃ当然失礼にあたるでしょう。
ところで、「あなたが言われても平気か」と返したということは、あなたの批判は「事実に反する」という批判(事実についての批判)ではなく、「事実であるが/仮に事実であっても言うべきではない」という批判(倫理についての批判)だということでいいですか?
> 自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な
> 行為でなく宗教自体が認める行為であるとどうして断定できるのか。
例えば、ある個人が自分の思い込みを勝手に事実とすりかえていて、その人に向かって宗教が「それは違う、実際はこうである!」と言ったとして、その宗教の側の言い分というのはその個人の思い込みに比べてより確かなものなのかというと、そんなことないでしょ?
>>239
わたしの名前が違ってますが(別に失礼だとか言いたいわけじゃなくて、今後のために)。
> 使い分けがどうしてもわかりません
使い分けというか、一連の主張のうちの別の箇所をとりあげているだけに見えますが。
> また「科学がカミだからって常に譲渡するのはやめよう」という最初の主張とも微妙に
> 違うような気がします
だから、最初の主張とは別の主張なんですって。
こうも混沌としてくると、余計なことは言わなきゃ良かったと思うわけですが、言った内容が間違いだったとは思っていません。
わたしの最初の主張は、科学に対するものです。
それに対し、「知らないことを『知っている』というのはやめよう」というのは、最初の主張とは別に言った、誰にでも通用することですが、特に一部の宗教では「知っていること」と「信じていること」を区別しない傾向があるのが問題だと思っています。
> macscaさんが理想とする状態、あるいはmacscaさんが苛立ちを感じない宗教の在り方を
> 教えて頂けませんか。
それらの答えは、わたしには思いつかないです。
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