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戦争を考える
108
:
匿名
:2005/11/26(土) 00:27:00
>個人として考える、その延長に国家という‘宿場’があるということです。
国家という「宿場」という表現は、私には馴染みませんね。
>「インドといわず、日本以外の世界では宗教者(宗教における指導的な地位にある僧侶、神父、牧師といった人々)の発言力は日本とは比較にならないほど大きいのです。わたしたちは、主義主張、政治的地位、国家、経済という一切の利害関係から抜け出たところに立っていますから、あらゆる国のキーパーソンと会話をすることができます」
私はこの言葉には、賛同します。このくらいの発言力を、発してほしいと思います。利害関係から抜け出たところ、これがまさに憲法でいうところの政教分離でもあります。しかし発言は利害関係ではありませんから、やっていただきたいですね。私としては。
>ヨーロッパでも中世以来、バチカンから派遣された特使が戦禍に和平交渉をしたようなことが、実はいまでも、継続しています。
ローマ法王は重用な政治的局面においては、必ず声明文を出してますね。私はこうしたことを、日本の仏教界でもしてほしいと思います。そうしたことは、「憲法」でいうところの「政教分離」で規制させていることではありませんから。
>「国を失ひ家を滅せば何れの所に世を遁れん。汝須らく一身之安堵を思はば先づ四表之静謐を祈るべき者歟」
ちょうど出してくださいました。私はこの一文で、政治と憲法への思いを信仰と重ねて、強くいたしました。
「立正安国論」の、この一文が最も好きです。
この一文から、日蓮聖人の「立正安国論」は、政治にものを言っていると、私は自分の信仰に引き寄せて解釈いたします。
国民(民衆)の生命・身体・財産を守る政治(まつりごと)を行いなさい。そう訴えているように思うのですが。
>ただ、間違ってはいけないのは、日蓮が、このように主張したのは、民に対してではありません。為政者にたいしてです。
そう。為政者に対して。
だから、私にとっては、それが「憲法」なんです。はっきりいえば、「立正安国論」が、「憲法」にさえ置き換えられるように思えるのです。これは私の信仰解釈として。
>また、日蓮は政治改革を訴えたわけではなく、その為政者の信仰対象を突いたのです。いわば、政治的側面ではなく、
政治改革ではないでしょう。私もそう思います。
信仰対象について云々した。これはそうだったかもしれません。ただし、これは中世の時代にこと、この点は現代に置き換える必要があるでしょう。
極めて政治的側面だと私は思っております。
なぜなら、国民の生命・身体・財産を守れと訴えているように読めたからです。
>心の問題への論及であったという点です。
心の問題というところ、為政者としての「心構え」と言い換えられませんでしょうか。
109
:
匿名
:2005/11/26(土) 01:06:54
近代憲法成立の歴史的経過
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kinndaiknnpoiseiritu.htm
以下抜粋
===========================
王権の臣民に対する恣意(しい)的な課税と支出及び逮捕・拘禁を、議会がどうコントロールするかという深刻な対立と抗争の中にあったイギリスにおいて、1215年(建保3年=鎌倉時代の初期・3代将軍源実朝〈さねとも〉の時代)6月15日、国王(イングランド王ジョン〈即位=1199〜1216〉)は、貴族や聖職者に譲歩して普遍的な憲法の聖典を意味する大憲章=マグナカルタ(Great Charter。ラテン語 MagnaCarta=63ヵ条の法)を勅許(ちょっきょ=王の勅命による許可。王の許可)した。立憲制原理(人民の支配)の萌芽である。
そしてその12条には、国王の課税には一般評議会(議会)の同意が必要であり、かつ第39条は人身の自由と裁判に関する規定が置かれた(もとよりこの憲章の成立した背景には当時のジョン王の圧政があった)。また、第38条は、国王は、人民の自由や生命、財産を侵してはならないと規定犯している。
============================
過去、日本で制定された欽定憲法にしろ聖徳太子の十七条憲法にしろ、支配者から民への「義務と責任」の明記といった趣旨のものであるのに対して、近代憲法は、民から為政者への「権利の保障」を負わせたものです。
その精神性の歴史的はじまりが、この「マグナカルタ大憲章」ということです。
マグナカルタ制定が1215年に対し、遅れることわずか6年、日本は「承久の乱」を起こします。
憲法制定ではありませんが、マグナカルタ精神は、承久の乱と似ています。
鎌倉方の領民が汗水垂らしてせっかく開墾した土地を、朝廷が没収し、農作物にも重税をかけるという圧政からの解放、それが承久の乱だったからです。
洋の東西を隔てて、同じような動きがあったというのは因縁的です。
その承久の乱の翌年に生まれた日蓮聖人は、鎌倉の気質といえるでしょう。土地問題に絡む、今でいうところの弁護士のような役目もしているようですので。やはり権利意識が非常に強いという見方ができるのではないでしょうか。
110
:
犀角独歩
:2005/11/26(土) 01:55:53
匿名さん。
残念ですが、あなたはわたしが記したこと意味を、少しもとらえることはできなかったようですね。
どうやら、わたしは無駄なレスをしたようです。
111
:
通りすがり
:2005/11/26(土) 02:01:47
航空観閲式における総理大臣訓辞抜粋(10月30日)
「困難に遭遇したときに、どのような行動をするかによって、はじめて人間の価値が分かるといわれます。」
とても、日蓮聖人的です。現状を放棄して逃げるなんて思想は、日蓮聖人にも釈尊にも全くないでしょうね。
112
:
犀角独歩
:2005/11/26(土) 11:13:56
「立正安国論を上奏する」という言い方がされますが、これは正確ではないというのは、わたしは適宜な批判であると考えます。奏文とは天皇に提出する文書を言うからです。
日蓮の『立正安国論』は勘文です。
勘文とは、中尾師に依れば陰師(陰陽道)が執政者に上申する文書を言います。道(どう)の目的は吉凶を占うことですから、本来の勘文は、その意図に添うものでしょう。では、日蓮が陰師であったかというと、そうではなく、「天台沙門」という自覚であったことは、自称から窺えます。つまり、当時の政事の態勢で、為政者は自らが政を司ると共に吉凶占いといしての道(道教、陰陽道)・信仰としての教(調伏という実質を含む)、を、政治形態の一部としていたという点は、現在とはまるで違う点です。また、天皇は当然、国神を崇めて政(=祭:祭政一致)をここで神仏習合した形で仏教は採り入れられたのが、日本型の仏教の特色であったわけです。この延長に日蓮の『立正安国論』はあったわけです。
日蓮が『立正安国論』で
わたしが先に引用した文書を少し前から引用します。
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ…他国侵逼の難・自界叛逆の難…国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱る…若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや…国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。
汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。就中人の世に在るや各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄に邪義の詞を崇めんや。若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」
ここで日蓮が悪法と言っているのは念仏のことです。
『立正安国論』の結論は
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」
です。すなわち、悪法(念仏)を停止(ちょうじ)し、実乗の一善(法華経)に帰依しなさい、そうしなければ、他国・自界二難が起こり、さらに死んだのちには無間地獄に堕ちるというのが日蓮の主張です。そして調伏の行は真言ではなく、天台(法華)で行わなければならない。その訳を日蓮に命ぜよという底意もあったのだろうと思います。しかし、これは日蓮が政治に関与するという意味ではありません。為政者の法華信仰と、調伏の行者としての登用を促した話でしょう。これは政治について、ものを言っているのではなく、信仰について言っているわけです。政教で言えば、教に関する進言です。
この法華経(南無妙法蓮華經)はしかし、決して、憲法、法律に言い換えられるものではありません。示しているものが違うからです。法華経が言うことを法華経典そのものへの信仰の勧めであり、それは日蓮において妙法蓮華經の五字へ信仰となります。
わたしがここで政治を語らないのは、ここが仏教の掲示板であるからです。
現代の日本の政治、社会という現場では、別段、靖国であろうと、キリスト教であろうと、念仏だろうと、法華だろうと、そんなことは問題になりません。信教は自由です。国法の定めに違反しない限り、そのようなことは問題にする必要もありません。ここで信仰を論じても始まりません。基準となるものは憲法・法律です。
政治の現場で、仏教を語ることは、クリスチャンの科学者が学界で聖書を引用して天地創造神話を話すようなものです。
113
:
犀角独歩
:2005/11/26(土) 11:14:40
―113からつづく―
ただし、国家が大量殺人の道を選ぶ(わたしの考える仏教で戦争を言い換えればこうなります)ようであれば、これに対して反対の意見を述べなければならない。人道に違反していると考えるからです。わたしの尊敬する弁護士の一人である滝本師は「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人には際限がない」と語りました。その善意の殺人の最たるものが「原爆」であったのでしょう。だから、彼らは謝らない。謝らないどころか彼らは「英雄」なのです。
このような倒錯した人間心理がどうして起こるのかという点から、考えるとすれば、政治と仏教は話にはなるでしょう。
しかし、何より、内心の自由を政治が侵犯する権限はありません。
また、仏教の信仰を政治から考えてしまうことは、仏教の本質を政治的に解釈してしまう脱線を起こしやすい。また、実際に起きています。
わたしは国家が悪国になれば、捨てる自由も個人にはあると考えます。
また、本来、仏教はそのような形で成立したものでもありました。しかし、日本人は、いや、もっと正確に言えば、仏教を政治と不可分と考える在り方は、その近代の起源は日蓮主義に還元します。また、そのように考えることが仏教なのだと思っている人もいるでしょう。しかし、これは仏教を歴史的、科学的に分析し、世界的に見ていけば、実に特別な‘仏教’であることがわかります。つまり、ここで、単に仏教と言われて語られているものは、実に日蓮主義的だということです。残念ながら、そのような自画像に気付けないほど、この日蓮主義が仏教だと思い込まれているということです。
その意味において、仏法が法律と同じように思われてしまったり、法華信仰を訴えた立正安国論が、政治・軍事の指南書のように思われてしまうのは、以上のように思われてしまった‘仏教’理解だからこそのことです。問題があると陳べても、「仏教とは何か」というテーマを語ることを避けてしまえば、この点が明瞭にできないということも、わたしは何度も記しました。
政治と仏教を語る、それは戦争と政治ということでもよいのですが、そこにある戦争というビジネス形態を闡明にすることは大義名分の建前論に騙されないために不可欠な点であるとわたしは考えます。しかし、このような点は、語られないわけです。ところが自衛隊、現行政治にものを申すことには、既にこの掲示板でも強い反発となって現れるという悪弊が生じています。この反発は何か、この点こそ、実は社会心理学が分析している点であるわけです。軍事という問題を語る前提として、先にも提示しましたが、最低限でも『服従の心理』『攻撃』の2冊ぐらいは読んでからとしたい。また、これら戦争・軍事に係る心理と信仰心理共通性を分析した『自由からの逃走』ぐらいは読んでいるという共通基盤がないと議論になりようがないという思いがあります。
いずれにしても、政治の‘技術的’側面を語ることは、ここの掲示板ではなく、相応の掲示板でやったほうがよろしいと思います。
なお、わたしが政府に対して批判的だというご意見がありますが、政府を批判して何が悪いという思いがわたしにはあります。また、自衛隊を批判的だという意見があります。自衛隊を批判して何が悪いという思いがわたしにはあります。何故か。それはわたしの内心の自由であり、日本には言論の自由があるからです。また、批判は「こうこうであるから、こうである」と説明するまでもなく、単に生理的に嫌いだということも含みます。わたし個人は、なんら報道管制される筋合いもなければ、思想統制される筋合いもありません。しかし、このようなことに過敏に反応し、その発言を封じ込めようとする、その心理こそ、分析されてしかるべき課題なのだということです。この点で、上記、挙げた3書は参考になるところ大でしょう。スレ違いではありませんが、強く、お読みになることをお薦めします。
114
:
犀角独歩
:2005/11/26(土) 11:21:50
【訂正】
> 112
誤)その訳を日蓮に命ぜよ
正)その役を日蓮に命ぜよ
誤)スレ違いではありませんが
正)スレ違いではありますが
115
:
犀角独歩
:2005/11/26(土) 11:30:00
一点のみ。
> 朝廷が没収し、農作物にも重税をかけるという圧政からの解放、それが承久の乱
この分析の是非はともかくとして、小松師の言を籍りれば、日蓮は「下克上」という言葉を使った歴史的人物ではかなり最初に属するということでした。日蓮は朝廷に対する以上のようなネガティブなとらえ方はないと思えます。むしろ、逆で、天台法華を捨て、真言密教によったことが天皇に起こった不幸の原因であるというのが日蓮門下一般の認識であろうと思います。
一方、日蓮は釈尊御領観と称される国家・政治観を有していたことは初期の真跡遺文から既に垣間見られるところです。
116
:
匿名
:2005/11/26(土) 22:21:05
>115
これは、ご指摘の通りです。
私の記述が大雑把だったと思います。
鎌倉武士が、朝廷に対して、自分たちの権利を主張する戦いをした。これが承久の乱。そう、下克上です。日蓮聖人が仏道に入る思いを強めたのは、この承久の乱だったとよくいわれます。
そして時が変わって、日蓮聖人の生きた時代は、権力の実権を朝廷に代わって幕府が握ります。
日蓮聖人は実権を握る幕府(執権)に対して、民衆の側に立って権利を主張した。
権利というのは現代的な言葉ですので、そもそも馴染まないと思いますが、度重なる天変地異により人々は苦しめられ、さらには蒙古襲来という危機も迫ってきている。なんとかしっかり民衆を救う政治を行なってくださいということで、正法を立てよという国家論をもって諌暁をされた。
その権力者に対する訴えの構図は、私には、マグナカルタと重なるということです。
権利の主張は、鎌倉武士の新しい特徴であろうという、ひとつの歴史的観測です。
これが正しいなどどいうことでは、まったくありません。
ひとつの歴史解釈が、私の内心の信仰の拠り所に影響を与えているということです。
教義的にどうこうというよりは、歴史的には、こういう見方もあるということです。
117
:
犀角独歩
:2005/11/26(土) 23:01:44
> 日蓮聖人は実権を握る幕府(執権)に対して、民衆の側に立って権利を主張した
たびたび異論を述べて恐縮ですが、これは民衆仏法解釈というものですね。
創価学会でも、よく見かける論法です。
立正安国論に限っていえば、日蓮は民衆の側に立ったわけではなく天台法華宗の側に立っていたのでしょう。
念仏停止・念仏者刎頭は、既に京都でその前例がありました。
つまり、日蓮は京都の朝廷と天台法華の有様を鎌倉で再現したということです。釈迦牟尼仏の側に立つということであるように映じます。
ただ、日蓮が鎌倉で寓居していた場所は、遺体遺棄が一般的な当時、そのような場所であったらしいこと、また、鎌倉大地震で、日蓮自身が罹災し、人々と苦難を共にしたようであること、また、板東武者にしても識字率が8人1人程度であったところで、唱題という称名に代わる方式を発案した、(字が読めなくても行ができる)民を意識していたことは事実であろうと思います。
また、「権利」の主張をしたわけではなく、捨邪帰正を主張したのでしょう。ただし、起請文などの起草などの事実を見るとき、辣腕ぶりを発揮しており、当時の僧侶の教養の高さを垣間見る思いがします。
「権利の主張が鎌倉武士の特徴」、おもしろい見解だとは思います。
118
:
匿名
:2005/11/27(日) 01:02:59
>わたしがここで政治を語らないのは、ここが仏教の掲示板であるからです。
いやいや、語っていらっしゃったじゃないです。でなければ、私は今回、投稿いたしません。
>たびたび異論を述べて恐縮ですが、これは民衆仏法解釈というものですね。
そうですか。
>創価学会でも、よく見かける論法です。
なんだか、今度は、私を創価学会員だとレッテルを貼りたいようですね。
論法と書かれてますが、くどいようですが、不本意ながら私の内心の信仰を書いたのであって、これは論法などというものではありません。
しかし、わざわざ、あなたが、私の信仰について聞いてきたその目的とは、このようなレッテル貼りにもっていく「論法」だったと思わざるを得ませんね。
>立正安国論に限っていえば、日蓮は民衆の側に立ったわけではなく天台法華宗の側に立っていたのでしょう。
これは読む人の感性によって、その受け止め方は違うものかと思います。
また日蓮聖人が天台法華宗側に立ったとして、それが「衆生を救う」道だと思ったからではないでしょうか。
>いずれにしても、政治の‘技術的’側面を語ることは、ここの掲示板ではなく、相応の掲示板でやったほうがよろしいと思います。
戦争を考えるうえで、政治を避けては語れません。
他の掲示板でということは、幾度となく向けられてきた言葉ですが、あなたは前にも記されたように、ただ、私の投稿が迷惑なだけでしょう。
それなら、私の投稿にとりあわなければすむ話です。
あなたはあなたの議論をお続けになればいい。
それだけのことです。
119
:
犀角独歩
:2005/11/27(日) 01:57:01
わたしは自分に投げかけられた議論について答えることをここでの信条にしています。116は115のわたしの投稿に対するレスですから、お答えしたまでです
わたしが政治を語らないといったのは、あなたの思いとは違いますよ。
政治という立場から仏教に、ああせい、こうせいはいうことは思想信条の自由を侵害することになるわけだから言えないだろうということです。
ですから、政治的見地から仏教に対してものを申すようないわれ方に屈する理由はないといっているのです。そのような政治と仏教は同一する論調では語らないと言っているのです。しかし、一国民として、思想信条の自由に基づいて、政府に意見を述べようが、自衛隊に異見を述べようがそれはわたしの自由に属する問題だということです。
また、別段、あなたに創価学会のレッテルを貼りたいわけではないですよ。
わたしは創価学会『第三文明』05年9月号に載った松岡氏の文章に以下のような感想を書きました。
「一点、さらにケチを付ける。創価学会ではよく語られるところだが、『立正安国論』では国の字が国がまえに‘民’と書く字を多く使われている。だから日蓮は民衆仏法などだという。これを松岡も臆面もなく語る」(敬称略)
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/29764673.html
これを書いたのは'05年8月6日のことです。
創価学会の文章を読めば、勝利、民衆、平和、生命といった単語のオンパレードです。故に日蓮解説で下手に「民衆」などと書こうものならば、「なんだか、創価学会の文章みたいだよな」という揶揄は飛んでくる経験は、仏教で文章を書くことを仕事にしている人であれば、わたしならずとも経験するところでしょう。
そもそも、法華仏法というのは人間(民衆)ばかりを扱うわけではなく、生きとして生けるものの一切、すなわち一切衆生に目を向ける故に十界をいうわけです。そこから人界、人間、民衆のみを切り出せば、人間主義の仏法といういわれ方をされるでしょうし、その典型は、創価学会だということです。だから、創価学会によく見る論法だといったまでです。
自分が記した文章が創価学会と同一論調になっており、それを指摘されたからと言って、文句を言われる筋合いはありません。似ているものを似ているといっただけのことです。
> 「衆生を救う」道だと
そう‘衆生’ですよ。しかし、衆生とはなにも人間、民衆のみを指す言葉ではないと言うことですよ。
> 戦争を考えるうえで、政治を避けては語れません
ですから、それは政治的な見地でしょう。仏法とは違います。
仏教者の考えを政治的見地から「ノー」を言うようなことが許されるとはわたしは考えません。むしろ、寄せられた批判を民意として受け止め、それを政治に活かすというのであればわかりますが、政治家が推進する憲法改憲に文句を言うことを罪悪視したり、エネルギーがどうだ云々という政治的見地からそれらの発言を封じ込めるようなやり方、また、自衛隊に異見を述べる軍人批判を厳しく取り締まるようなやり方は、まさに軍事、恐怖政治の軍靴が響く如くです。思想信条の自由を侵害される不快感があります。
> 私の投稿にとりあわなければすむ
これは、わたしのほうが言ったことでしょう。
これまた、何度も言っていますが、わたしの投稿に突然、意見を述べてきたのはあなたのほうなのであって、わたしは願ってのことではありません。
以下、匿名さんに示すというものではありません。
戦争を考える2000年来の仏門の話です。こんなことをアップされる寺院があるのだ感心したので紹介しておきます。
http://www.choushouji.com/bosatsu/bo_b/b_m.html
120
:
藤川一郎
:2005/11/27(日) 13:26:57
横レスです。
日蓮大聖人は初期は「天台法華宗側」=「天皇家の側」に立っていた思われます。
鎌倉幕府は知ってのとおり、アウトロー集団です。
今で言えば、暴力団が革命を起こし政権を握ったとお考えになられて結構だと思います。
それに対して、天皇家こそ正当なる政府です。
正当なる天皇家の側で、下克上暴力団国家の宗教政策をお責めになったと考えるのが宜しいかと思います。
民衆云々は近代的な考えです。そんなお考えなどは微塵もあられないと思います。
宗祖の御考えは天子(国主)御一人の御帰依ある仏法だと思います。
極端な話、有象無象が1億人帰依するよりも、天子御一人の帰依の方が効果百千万億倍ですから(笑)。
121
:
匿名
:2005/11/27(日) 13:37:40
>正当なる天皇家の側で、下克上暴力団国家の宗教政策をお責めになったと考えるのが宜しいかと思います。
それが民のためになると思われたのではないのでしょうか。
まあ、そうあってほしいという、私の思慕からの思いが強いのかもしれませんけれど。
122
:
匿名
:2005/11/27(日) 13:39:42
>政治という立場から仏教に、ああせい、こうせいはいうことは思想信条の自由を侵害することになるわけだから言えないだろうということです。
政治という立場から仏教に、ああせい、こうせいなど、誰が言っているというのでしょう。
当然のこと政治は言っていません。
とすると、私のことですか?
>政治的見地から仏教に対してものを申すようないわれ方に屈する理由はないといっているのです。
これは私のレスでしょうか。どれがそれにあたるのか、お示しください。
>そう‘衆生’ですよ。しかし、衆生とはなにも人間、民衆のみを指す言葉ではないと言うことですよ。
民衆と書いたのが不適切だったなら、「民衆仏法解釈」など持ち出さなくても、そのように正して補足すればすむことかと。
こういうことを持ち出すから、不毛な教団論争に議論がスライドしてしまうんですね。
>仏教者の考えを政治的見地から「ノー」を言うようなことが許されるとはわたしは考えません。
これはそうでしょう。何かそのような記述がありましたでしょうか。
>むしろ、寄せられた批判を民意として受け止め、それを政治に活かすというのであればわかりますが、
そういうことだと思いますよ。そういうことにおいて、仏教界が政治に意見をすることは、求められることだと思います。
政治の暴走を止める発言をする。これは、私が政治の立場で言っているのではなく、いち仏教徒の端くれとしての思いです。
>119
しかし発言する以上は、政治というものをある程度は精査しておかなければならないでしょう。
>政治家が推進する憲法改憲に文句を言うことを罪悪視したり、
誰が罪悪視しているのですか。
123
:
匿名
:2005/11/27(日) 13:40:24
>119
>エネルギーがどうだ云々という政治的見地からそれらの発言を封じ込めるようなやり方、
エネルギーの問題は政治的見地ではないでしょう。エネルギーなくして生活が成り立たないのは、私たち国民です。それこそ政治の問題以前に自分の問題でしょう。
お寺さんだって、教団施設だって、電気なくして日々は成り立たないはず。また、そこに参詣する人は、車にしろ電車にしろ、エネルギーを使って出向いてくるわけです。
衣食住すべて、石油の恩恵なくしては、成り立たないのが私たちの生活です。
また動物愛護から毛皮をやめようという運動は仏教の精神にもつながるとても良い運動です。その代用品として、「フェイクファー(人工毛皮)」が開発されているわけですが、これはアクリルなどの石油系科学繊維でつくられている。皮肉なことに石油争奪に関わる運動という見方もできるのです。
戦争を反対するということは、日ごろから、一人一人が自分の問題として石油のことを考えておかなければならないということではありませんか。それを書くことが、なぜ発言を封じ込めることになるのでしょう。
先にも書きました。日本は遠く中東から石油や天然ガスを、軍事的に緊張の多いシーレーンを通って運ばれてきているわけです。そのシーレーンの安全を確保に、領海域を守っているのは自衛隊であるということ、この程度のことは頭の片隅に置いておくべきではないでしょうか。何もそれが自衛隊翼賛ということではありません。
>また、自衛隊に異見を述べる軍人批判を厳しく取り締まるようなやり方は、まさに軍事、恐怖政治の軍靴が響く如くです。
失礼ながら、あなたは過剰反応しすぎかと思います。極端です。
自衛隊がどのような役割を担っているかということを、私はごく普通に書いたのです。
それをもって、「軍事、恐怖政治の軍靴が響く如く」というのは、過剰反応としか言いようがない。
もちろん、憲法改正については、「軍靴が響く如く」との危惧を私も持ちます。だからこそ、護憲の立場を明確にいたしました。
あなたの自衛隊嫌いはよくわかります。もうひとつ政治嫌いもいえるでしょう。
その嫌いが過剰になっては、世の中が正しく見えなくなりはしませんでしょうか。
嫌いは嫌いで構わないですから、せめてもう少し冷静に世の中をご覧になって、発言をされたほうが良いのではないかと思いますね。
124
:
匿名
:2005/11/27(日) 13:41:04
>119
>思想信条の自由を侵害される不快感があります。
これは、私も言いたいことなんです。
ご存知のこととは思いますが、確認の意味で記します。
憲法第十九条
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
思想及び良心の自由は、ものの考え方や表現の自由を意味します。それを内心の自由と言います。
表現の自由には、沈黙の自由も含まれます。
つまり、自己の思想および良心について沈黙を守る自由を含むと解されます。
つまり人の内心について、やたらと書かせるように仕向けるほうが、よほど思想信条の自由を侵害していることにもなるのです。
ましてや、本人の意思に反して書かせた思想に対して、何かをただそうとする、これも侵害しているといえるでしょう。
あなたはレスのなかで、
「あなたの考えをただしているのです。」
と書かれていましたが、これこそが、思想信条の自由の侵害にみなされるものではないかと思います。
125
:
匿名
:2005/11/27(日) 13:41:29
それから、三島由紀夫のについて、投稿されておられました。
つぶやきスレッドでしたので、こちらで触れさせて頂きます。
>心底、自衛隊に絶望して、三島は腹を割いたのではないのか、わたしはいまでもそう思っています。
私も詳細を知っているわけではありませんので、何か大きな矛盾を感じましたので、少し触れさせていただきます。もし私の誤認があれが、正してください。
ご存知のこととは思いますが、このとき三島由紀夫は、市ヶ谷駐屯地に赴いて東部方面総監部に押し入り、総監を監禁、人質にした上で「自衛隊員の決起」の演説を始めます。その目的は、国会を占拠するという計画であったといいます。
自衛隊隊員たちに決起を訴える、その演説は自衛官のやじで消されたと書かれていましたが、正確には、事件を聞きつけて取材にきた上空のヘレコプターの音によってかきけされたのです。その三島由紀夫に自衛官はマイクを渡さなかった。そして自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説には耳を傾けるものはなかったということです。
そのときの演説の趣旨とは以下のような内容だったといわれています。
『アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは白明である。あと二年の内に自主性を回復せねば自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう/今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる/もしおれば今からでも共に起ち共に死のう』
三島は、最後に蒼白になって訴えたといいます。
「諸君の中には一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」
三島は10秒ほど待ち。そして、
「一人もいないんだな。よし、俺は死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(ゆったりした口調で)それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳、万歳、万歳」
三島由紀夫の憂国への思いと無念さと、その壮絶な最期について、このことについては横に置き、コメントは私は控えます。
ただしかし、自主的軍隊へと自衛隊に決起を呼びかけた三島由紀夫の自衛隊絶望と、あなたの自衛隊嫌いとは、趣旨や理論が一致するものなのでしょうか。
126
:
匿名
:2005/11/27(日) 19:08:09
>125 訂正
誤)私も詳細を知っているわけではありませんので、何か大きな矛盾を感じましたので、少し触れさせていただきます。もし私の誤認があれが、正してください。
正)何か大きな矛盾を感じましたので、少し触れさせていただきます。私も詳細を知っているわけではありませんので、もし私の誤認があれが、正してください。
127
:
匿名
:2005/11/27(日) 19:57:46
こちらの掲示板では、ここ一年ほどでしょうか、犀角独歩さんの検証により、大石寺の板本尊が日蓮聖人の御作のものではないということに対する論証がなされてきました。これは大変な試みであったことと思います。
これを絶対のものと信仰していた信者にとっては、大きな動揺もあり、まだまだ心の整理がつかない人も多くおられることでしょう。
ただ、私にとっては、板本尊への絶対的信仰は最初から希薄であったせいか、この点についての動揺は正直なところ、さほどのものはありませんでした。
私のことを少し、振り返ります。
富士門以外で仏教を学ぶ機会を得ていない私にとって、約5年前、こちらの掲示板で最初に信仰の根幹から打ちのめされ瓦解させられたことは、他でもない、法華経が釈尊の教説ではなかったということでした。
こんなことは、近代における仏教の常識でありながら、まるで私は知らなかった。これはかなりのショックでした。同時に、日蓮聖人の波乱の人生そのものが、とても虚しいものにさえ思え、動揺とともに体中の力が抜けたのを覚えています。
その後は続けて、日蓮本仏論も敢え無く崩壊です。
しかし、今になってみると、私としては、瓦解・崩壊で、それでよかったと思っています。
それでも、なぜか日蓮聖人の存在は、私にとって、今もやはり心をとらえて離れないわけです。
きっとそれが、最後に残った私の内心の信じ仰ぐ「信仰」の拠り所なのでしょう。
何が私の心をそうさせるのか、それを考えたとき、やはりそれは、どうしてもマグナカルタ(権利の大憲章)として結びついてしまうのです。
恐らくそれは、ある富士門の教団に入ったのと、私が憲法や政治に関心を持った時期が、重なっていたということが大変大きいと思います。
だから、どうしても私の中では、「立正安国論」は「東洋のマグナカルタ」と思えてならないのです。
これを教義で論争というものではありません。あくまで主体的な私の内心の、最後に残った信仰の拠り所というものなのでしょう。
これは誰に何を言われようとも、ここだけは恐らく変わらないことと思います。
信仰とは、最後はそういうものだろうと思います。
誰に何と言われようとも、法華経が最高の教えだと信じる人もいるでしょう。誰に何と言われようと、南無妙法蓮華経こそ、真理だと思い続ける人もいるでしょう。また、何が証明されようとも、大石寺の板曼荼羅こそ日蓮聖人の出世の本懐だと信じ続ける人もおられるでしょう。
この点においては、科学的な立証とは別のところに、内心の信仰が存在してしまうものだと思います。
だからこそ、黙秘する自由がある。本人の意思に反して、無理やり暴き出そうとしてはならない。
私はそういうことは、とても大事なことだと思います。
もちろん、教義の論争の場合は別です。お互いの信仰の立場をはっきりさせた上で、論争しなければならないことです。
しかし、こちらのスレッドは、その類に限るものではないはず。
平和へのアプローチは、様々になされなければならないわけですから。
128
:
犀角独歩
:2005/11/28(月) 11:43:27
120 藤川さん
「有象無象」という表現はともかくとして、この観察は実に正確だと思います。日本史では「鎌倉時代」などという成句がなかば常識化していますが、こんな日本史は、すでに旧説になっていますよね。
要は軍事暫定政権の定着のようなもので、これを、いまの言葉で言う京都に代わる新たな政府としてしまう日本史解釈はおかしいわけですね。
日蓮の思想を端から終わりまで単一に見てしまうとわからなくなりますが、仰るとおり、立正安国論執筆当時
> 初期は「天台法華宗側」=「天皇家の側」
という意志に基づいていたことが窺われます。
しかし、迫り来る他国侵逼という問題を解決するために、京での念仏停止、法華帰命の前例をここ鎌倉、武士政権にも促したのが立正安国論でした。
その後、『法門可被申様之事』のことでは既に天皇御領観は示されるわけですが、これは「国の長」(天皇)を軽視したということではなく、天皇は過去に仏を供養することによって王となった故に法華を持した(比叡山)という過去の歴史をちゃんと踏まえろという弟子の戒めであったということですね。
初期の日蓮は、仰るように尊皇の立場から、国王が法華を持す日本の過去の佳例の実現を目指していたわけですね。これが本門戒壇という思想に晩年昇華していったと見ることはわたしは外れたことではないと考えます。これら日蓮の思想は民衆立という考えはなく、そこにあった考えは、真跡遺文に探れなくとも、やはり、「国主」への視線であったことは本尊抄の記述を通じてみてもわかります。
まあ、しかし、三島由紀夫がどんな気持ちで死んだのかをつぶやくと、それがわたしの考えと矛盾しているだどうだと書かれるのは困ったものです。三島を紹介するとわたしが三島と同じ考えだと思うわけでしょうか。一々に的外れ、言葉が通じません。ただ、三島のような人物は、人間的な意味では好きです。故父が愛した作家の一人としても思い出になっています。その思い出を語ると矛盾だどうだ、なんでこんなことまでけちを付けられなければいけないのでしょうかね。
わたしは藤川さんご承知のとおり、天皇制を批判しているわけではなく、また、何度も記したとおり、自衛隊の存在を否定しているわけでもない。また、政府という概念を否定しているわけでもありません。しかし、現行の在り方には異論があるといっているのに過ぎません。そして、それらに対するここ掲示板で投稿された意見とは異なると言っているわけです。このような微妙なニュアンスがどうも通じない。しかし、この点を適切に読み取ってくださり、横レスをくださる藤川さんには感謝いたすものです。
また、本日、御仁にはよろしくお伝えください。
129
:
匿名
:2005/11/28(月) 21:07:36
>128
>このような微妙なニュアンスがどうも通じない。
それは、あなたがすぐに怒るからでしょう。
怒りの感情にまかせたレスは、どうしても極端であり、微妙なニュアンスなどは、伝わりようがありません。
少しでも親交を交わされた人には、伝わるものかもしれませんが。
私は、そう長くは投稿しませんので、どうぞご安心ください。
どうしてもう少しだけ、投稿しておきたいことがあるのです。
それを終えれば、また元の気ままなロム専に戻ります。
130
:
犀角独歩
:2005/11/28(月) 21:12:03
ここのところのわたしのレスのどこが怒っているのでしょうか。
何とも不思議なことばかりを言われます。
131
:
匿名
:2005/11/28(月) 21:28:40
>130
いえいえ、過去の実績というか、まあ、経験則です。
私のほうが、言いたいこと言わせてもらっていますね。
皆様にもご迷惑をおかけしていることでしょう。
その点は、私なりに自覚もしております。
132
:
匿名
:2005/11/28(月) 22:28:23
国連に触れて少し記述をいたします。
国連の分担金は、アメリカと日本でほぼ40%を賄っています。
私は、国連は、敵国条項の日本はさておいても、常任理事国であり大スポンサーであるアメリカの意向にはなかなか逆らえないものだろうと最近まで思っていました。
ところが、どうも違う流れになりつつあったらしいということが、国連改革の裏事情などの表面化でわかってきました。
平和の殿堂といわれてきた国連ですが、その機能はいまだ冷戦状態時のまま動いているといわれていて、その点においても改革の必要に迫られています。
ところが、ここへきて、国際機関としての権威を失いかねないほどの腐敗の実態が露呈しているとのこと。
その一端は、イラクの石油を巡る国連職員の汚職といわれています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/17/dga_0908.html
イラクのクウェート侵攻を発端とする湾岸戦争の後、イラクは経済制裁を受け、自国の石油が輸出できなくなっていました。
当然、イラクの国内経済は衰退します。
イラクの石油埋蔵量はサウジアラビアに次いで世界第2位、世界中で発見されている全埋蔵量の11%を占めるそうです。
ちなみに、第一位のサウジアラビアの石油埋蔵量は世界の24%で、イラクの2倍を占めます。
こうした状況のなか国連は、「Oil For Food Program(石油・食糧交換計画)」と銘打って、輸出できないでいるイラクの石油輸出を限定的に認め、その代金を国連が管理していました。
ところが、その管理に不正疑惑があったということが表面化してきたといいます。
人道支援の名目でイラクから買い上げた石油を、国連職員が世界各国に横流ししていたことが露見、さらにその石油代金のほとんどが、サダム・フセインの懐に入り、本来の目的であった人道目的などには使われることなく、イラクの軍事費増強につながっていたという事実も明らかになってきたとのこと。
こうした国連の不正には、アナン事務総長の息子が中心となっていたとされ、国連職員もコミッションやワイロを受け取っていたといわれ、さらに、アナン事務総長も関与していた疑惑まで取り沙汰されてきました。
イラクの経済制裁は、平成15年5月22日に解除されるまで続き、その後、イラクは石油の輸出決済について、ドル決済からユーロ決済へと転換すると発言し、そして、アメリカは攻撃を開始しました。
アメリカは世界最強の軍事力をもって、世界の覇権を手中に入れたいという思惑があるものとしても、石油産出国である中東各国には、アメリカに付け入れられるだけの問題が野放しになっています。その最たるものが、国内的な極端な経済格差、つまり日本ではおよそ想像もできないほどの貧富の差があるといえるでしょう。
とにかく、国際的な経済制裁というのは、その国を追い詰めます。かつて戦前の日本もそうでした。
イラクはエネルギー資源を持つ国として、輸出が出来ないという、経済制裁を受けた。
一方、戦前の日本は、エネルギー資源を持たない国として、輸入が出来ないという、経済制裁を受けたわけです。
戦争を考えるときに、このエネルギー問題は決して切り離せないことを、まず心して知っておくべきことかと思います。
133
:
犀角独歩
:2005/11/28(月) 23:10:56
せっかく、戦争を考えるというスレが立ちましたので、わたしはわたしの立場から少し記しておきます。
生まれながらの創価学会であったわたしは、自分が所属している組織というものがどのような歴史的経緯を辿り、社会のなかで他者と関わってきたかという、いわば、歴史から見た客観的な位置というものがわかりませんでした。この点は、しかし、石山末寺法華講に移った時点でもそれほど、意識していませんでした。さらにここを退し、ようやくと門派・宗派を問わず、宗教者と会うようになり、さらに公明党という投票権を得る前から支持政党から、法華講ではアンチ・公明党を経、ここでも自由なスタンスとなって、多くの人々と自分の立場を意識せず、会うようになったわけです。さらに右翼であるとか・左翼であるとか、そんなことも意識せず、誰とでも会ってきました。社会活動という側面、自分の家族との関連から、いわゆる社会的弱者の側に立ってきたという経緯はありました。「会う」とは、自分は自分という一人で何ら所属に執せず、自由に話すという意味を含みます。わたしがHNに犀角独歩を選んだ理由もここにあります。
まあ、そのような自分史のなかで、自分の信念体系圏が、ここの掲示板の名前が示すような「富士門流信徒」であるという自覚は、これら他者からの視線で自覚するに至ります。この自覚は、たぶん、異教者との自由な接点がない限り生じ得ず、また、接点があったとしても、自分の信念体系に固執している限り、見えてこない自画像でもあります。
そのような束縛を超えて、自分の立っていた富士門流信徒とは、その職業集団・つまり石山僧という脈絡のなかにあることは当然見えてきます。そこで、当初、自覚できる他門との差異は創価学会では「池田先生」という日蓮を解釈する砦があり、石山では「御法主上人猊下」という解釈の砦があります。これらは(揶揄でなく藤川さんが天皇を指した言葉を拝借すれば)神聖にして犯すべからず存在であり、この点は顕正会の「浅井先生」も同様なのでしょう。一応、参考の便宜に記せば、正信会辺りでは、これを「日興上人」から「日蓮聖人」を見ようという、(わたしからみれば中途半端な)復古主義となっているのでしょう。
このような宗教的ヒエラルキーから自由になる動きのいったんにわたしはこの掲示板はあると思えます。ここで、では、指導者に代わって「富士門流信徒」を主付けたものは何であったのか、それは、たとえば富士門ネットでいう「本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標を掲げる富士門信徒同士が、法華講・正信会・創価学会・顕正会という組織の壁を乗り越え、精神的結束力を高めて、異体同心の戦いを誓い合う場」というスタンスであったのであろうと思えます。また、この基礎は人即法の本尊、すなわち、日蓮本仏論という教学的態度に他ならなかったのだろうと思います。
しかし、ここ数年の議論の結果、日蓮本仏論とは仙波壇林における中古天台本覚思想恵心流口伝法門の焼き直しであるという早坂鳳城師が近年、指摘した点から考えると、中世以降の教学運動であり、日蓮・日興に遡源できないものであったことが闡明になりました。ま
また、彫刻本尊に関しては、問答名人さんがいち早く河辺メモから日禅授与漫荼羅との類似性に着目され、わたしがそれを図形からの鑑別で闡明にしたとおり、日禅授与漫荼羅を原本に臨模・作為した模造品であったことはすでに明確になりました。すなわち、学会を含む石山の信仰対象である<人>日蓮本仏:<法>「本門戒壇の大御本尊」の二つは、ここに瓦解したわけです。
134
:
犀角独歩
:2005/11/28(月) 23:12:22
―133からつづく―
こうなると、この人即法本尊への信仰は、正信会のような厳正な真蹟研究、教学的態度から、信仰的態度を日興に求め、日蓮に至るという在り方は、極めて合理的であるとも、いったんはわたしは考えます。ただ、これを中途半端とわたしが言うのは、結局のところ、漢訳仏典は梵本との歪みがあり、それを意識することなく構築された天台教説を無謬のものととらえることはできないという問題が生じるからです。さらに梵本経典も釈尊滅後500年以上を経て創作されたものである以上、この点について、陳べる責務をこの信念体系下にある仏教徒は背負っている点が少しも反省されていない。以上のような教学的な責務は、ここでも永らく議論されてきたわけです。また、ここでは、そのような責務を真摯に受け持つ真面目な議論がされてきたとわたしは考えています。
さて、このスレ「戦争を考える」というテーマを、この自分が背負ってきた「富士門流信徒」という立場から考えるとどうなるのか、この点で大石寺とその職員である当寺並びに末の僧侶の責任については、たとえば過去に論考もありました。
しかし、そこから脱して日蓮信仰にある富士門流信徒の場合はどうなのか、とい点はあまり議論がされてこなかったわけです。
いま、わたしは「責任」という語彙を使用しましたが、信徒というとき、その構成を為す歴史的責任をわたしは負うと考えます。この歴史的認識がなければ、過ちは何度でも繰り返されるからです。
「日蓮主義は、過去の大戦の歴史的責任の一端を為している」という自覚は、わたしは正直で且つ慚愧ある態度である考えます。このような姿勢は、一面、左系日蓮のような批判を生み、実際のそのような矢面に、たとえば中野教篤師のような方々は立たされてきたとも思います。わたしはしかし、この内省的な姿勢には一定の評価をしています。
先の戦争責任を日蓮門下は負っているという自覚のなかで、では、「日蓮正宗」は埒外なのかといえば、そのようなことはありません。他の日蓮門下と何ら変わりません。
具体的にこの戦争責任を、では、どのような形で果たしていくのか。それは、あの原爆記念碑に刻まれた「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」という誓いを破らないことにあるとわたしは堅く考えています。ですから、この誓いに背く如何なる発想からも、わたしは考え出しません。この誓いが一切の原点です。
仏教、その源流を辿るとき、戦争との関わり、政治との関わりという言い方でもよいと思いますが、それはやはりシャカ族の後継者であったゴータマ・シッダルタ太子の出家とシャカ族の滅亡から考え出すことになるのだろうと思います。
一つの国の後継者が出家してしまった。これは国家にとって、重大事であったことは容易に想像できます。ただ、この時点では、シッダルタ太子は、世継ぎラーフラの誕生を見届けてことでした。しかし、ブッダとなったのち、このラーフラもまた出家をしてしまうわけです。国家存続からいえば、この時点でシャカ族の未来は閉ざされたように思えます。そして、事実、シャカ族は滅亡します。仏教は国家防衛に何の役にも立たなかったという実例が先ずここにあります。ブッダは林棲期のバラモンを模した死に行く人の平安の境地を修行によって獲得する教えですから、ここに国家性を有するはずはありません。政治経済という人間集団の典型形態・国家から出たところにその理想を求めていたからです。
135
:
犀角独歩
:2005/11/28(月) 23:12:52
―134からつづく―
仏教を通説的に学んだ人であれば、大乗仏教の興隆が西暦前後のインドを蹂躙したゾロアスター教徒カニュシカ王と関連しながら、さらに大乗仏教という新たな仏教運動と共に仏像と経典を創作しながら世界に伝播したことを知っています。このカニュシカ王のインド征圧、還元すれば、ここでも戦争と仏教を並び語る歴史があります。さらに、13世紀のイスラム教徒によるビクラマシラー寺院の徹底破壊を最期にインド仏教は滅亡したというの通説を知っています。ここでも戦争と仏教は並び考えさせられます。やや、時代を経ますが、チベットの仏教徒大虐殺も、戦争と仏教が並び語られるテーマでしょう。
ここで、彼らがなぜ無抵抗であったのか。そこには「不殺生」というブッダの教えを頑なに護ろうとした信仰的実践があったからに他なりません。
国を護らなければ滅びてしまう。だから、戦うべきだったのではないのかという疑問は当然、起きるわけです。しかし、殺したものは、いつしかその報いを得て、殺されることになる。この連鎖を断ち切るという考えが彼らにはあったとわたしには思えます。
以上の歴史的経緯は仏教徒が、戦争の被害者であった歴史とも言えると思えます。
さて、法華経が、ついにインドで定着することがなかったのは何故かというテーマは、実に興味深いものですが、それは取り敢えず置くこととして、この法華経が重んじられるようになるのは羅什の漢訳とその学派的関係にあった慧思から智邈(天台山)の教学的大成と大きく関わっていることは、いまさら記すこともないわけです。わたしは、仏教が中国で定着していく過程で格義解釈を経ながら、習合していった中国思想のなかで、孝と共に鎮護国家思想は看過できないと考えるわけです。法華宗において、より具体的にいえば、涅槃経と束ねられていった一連の教学的な姿勢です。
何度も記してきたことですが、涅槃経における折伏は正法護持のために武器を持し、正法破壊の人を絶命させることが、むしろ、悪業を重ねさせないことになるという、オウム真理教のポアと起源を同じくする「殺」の思想が導入されたものでした。このような法華経の涅槃経解釈は、法華宗という体裁を取って日本に招来されます。
正法護持のための「殺」は殺ではないのか?ということは実は大きなテーマです。われわれはオウム真理教のポアを見て、「何と愚かな」と思ったわけですが、しかし、同様の教えは涅槃経にあります。換言すれば、法華宗に、日蓮法華宗あるということです。また、密教でいえば、調伏という呪法は、実質的に自国の安寧のために敵を滅ぼすことを目的にしているわけです。敵国が滅ぼうと敵国の民が死のうと、お構いなしという考えであるわけですが、理由の如何を問わず、いかなる殺生も殺と見る初期仏教とは根本的に質を異にしていることになります。それまでの歴史上で、常に戦争暴力の被害者であった仏教(徒)は、この時点では、むしろ、加害者としての位置に立っている点は看過できません。
当然、日蓮の仏法も、この脈絡にあるわけです。そして、先の大戦における戦争責任の脈絡もここにあります。果たして、本当にそれでよいのかという大きな疑問がわたしにはあります。そこでテーゼとなるのが「不殺生」ということです。また、サンサーラを仏法として考える人であれば、殺の輪廻を断つという点も重視されるでしょう。
わたしは、この事実を看過しないで直視することが、このスレのテーマである「戦争を考える」筆頭になければならないと考えるわけです。自己責任を考えるということは、わたしは過去半世紀の仏教としての自分を再点検するうえで重要な着眼点の一つです。この責任を具体的に記せば、先に挙げた原爆祈念碑の誓い、過去の過ちを二度繰り返さないためにはどうするのかという点に帰着するということです。これはまた「不殺生」という仏教の叡智とも大きく関わっています。
長くなりましたので、続きは追って記します。
136
:
犀角独歩
:2005/11/29(火) 00:49:20
エネルギーと戦争。
これを憲法改正、自衛隊、戦争と論じることはわたしには短絡と思えますし、仏教徒がというより、国民という側面での話なので、違和感はありますが、以下のようなサイトがあります。紹介しておきます。
財団法人 新エネルギー財団
http://www.nef.or.jp/enepolicy/
一つの予測から探る21世紀のエネルギー危機
http://mechsvr.isc.chubu.ac.jp/Mech_Labs/sumida/2030.html
ミスター・エネルギーなんていわれる人もいるわけですね。
http://www.meti.go.jp/discussion/topic_2003_03/window_01.htm
イラク問題
http://www.ide.go.jp/Japanese/Library/Ref/Iraq/IraqZaJa.html
わたしは、エネルギー問題>アメリカ共同>憲法改正>自衛隊>戦争などという連想ゲームはどうかと思います。なお、この書き込みは、先の投稿とは関係しない個人的な感想です。念のため。
また、上記のサイトを指示するというわけではありません。これも念のため。いずれにしても、エネルギー問題は、科学者、経済学者といった専門家によって、コンピューティングされたシュミレーションから未来を予測する資料を冷静に分析するところからはじめる必要を、これは仏教徒という立場ではなく、一国民として感じます。これらの問題を戦争、改憲、自衛隊と関連づけて語られることには危機感を懐きます。
137
:
犀角独歩
:2005/11/29(火) 01:03:01
もう一つ。
わたしは個人的には水素エネルギーに着目しています。
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data4022.html
上記、ページのトップはエネルギーについては、中高生レベルでもわかるようによくできたサイトであると思っています。
http://www.iae.or.jp/energyinfo/index.html
138
:
匿名
:2005/11/29(火) 01:18:05
スレッドの趣旨から少々脱線しますが、私の向学のため、
藤川一郎さんと、犀角独歩さんに、お尋ね申し上げます。
>120
>民衆云々は近代的な考えです。そんなお考えなどは微塵もあられないと思います。
>128
>これら日蓮の思想は民衆立という考えはなく、
日蓮聖人の「立正安国論」は、民衆の立場でのお考えはなかったと言い切っておられます。
恐縮ですが、この根拠を、お示し頂けますでしょうか。
納得する根拠をご提示頂ければ、今後は私も、考えを改めようと思います。
139
:
犀角独歩
:2005/11/29(火) 09:11:08
> 138
この質問にお答えするために、言葉を定義しなければなりません。
あなたがいう「民衆」とは、どのような定義で使用されているのでしょうか。
140
:
匿名
:2005/11/29(火) 09:36:20
>139
憲法の立場からいえば、国民です。
日蓮聖人の時代に国民という言葉や概念はないでしょうが、拡大解釈をして、この国の「民」というところでしょうか。
為政者ではない「民」です。
その民の立場に立ってはいないのかということですね。
141
:
犀角独歩
:2005/11/29(火) 11:50:29
日蓮が「民衆」という成句を使用しているのは真蹟で見る限り『守護国家論』の「国主と成りて民衆の歎きを知らざるに依り…」という1回限りのようです。この用法は、国主・民衆という対比での使用でしょう。その他を調べてみると、「臣民」「万民」「民」「土民」「黎民」「国民」「小民」「魔民」「諸民」という用法が見られます。
日蓮が民という場合、これは「王・臣・万民」「上一人より下万民」(国主・国民)の関係で述べるのが、その用法です。
王臣とは、もちろん、日本国の、ということになりますが、当然ここでは天皇と臣下の意です。では、この国家観ということになりますが、『法門可被申様之事』に「日本国当世は国一同に不孝謗法の国なるべし。此の国は釈迦如来の御所領。仏の左右臣下たる大梵天王第六天の魔王にたわせ給い」とあり、これを門下教学では釈尊御領観などといいます。これを図式化すれば、
釈尊>梵天/第六天魔王>諸神>国王(天皇)>人臣>民
という構造が窺われます。
ご質問の趣旨は、では、日蓮は、このヒエラルキーのどこに立っていたのかということでしょう。民の家から出た日蓮は、同書において「我等が親父釈迦如来の御所領をあずかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此れ等が門まもり。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。長なんどにつかえん者どもに召されたり、上なんどかく上、面目なんど申すは、かたがたせんするところ日蓮をいやしみてかけるか」と厳しく、弟子・三位房を窘めるわけです。つまり、日蓮は、釈尊を親父と仰ぎ、その位置から、親の法を弘宣するという自覚であることが窺われます。つまり、立っている場所は釈尊の側であると、わたしが記したのはこの意味です。
釈尊の意志を継ぐ日蓮にとって、日本国王臣の領もまた、親父所従であるというわけです。その位置から、王に対して民の安寧をはかれというのが日蓮の意図でしょう。つまり、王・臣/民という当時の身分制度から、一段高い自覚があるわけです。日蓮がいう出家とはそのような意味です。
法華経の行者に日蓮とは釈尊(親)の子(菩薩・僧)であり、その済度の対象は、何も民衆ばかりにあったわけではなく、王臣をもその対象であったのでしょう。いやもっといえば、日蓮の済度の対象とは一切衆生であった。なんとなれば、『報恩抄』に「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」というからです。
現在、民主主義、民衆という起源は、デモクラシーに由来するわけで、このような経緯と、日蓮がいう「民」は根本的に意味を異にしています。「政」についても、現在の民主主義国家という概念と日蓮が懐いていた、政も国も意味を異にしていたということです。
なお、「民衆立」という造語は、当初、誰がなしたものかしりませんが、正本堂建立に就き、それまで、田中智学の造語「国立戒壇」に対して、現在は民主主義の時代であるから民衆立が相応しいということで生じた言葉でした。‘立’とは民衆に立つとか国に立つとかという意味ではなく、戒壇を立てるのが国主か・民衆かという分別に基づく用法です。
現代語「民衆」は以上の点で、日蓮がいう「民衆」とは違っていると言うことです。ただし、それは日蓮が民の済度を考えていなかったということでは、もちろん、ありません。一切衆生のうちの六道輪廻人界衆生として、神に程近い王とその臣が快楽(けらく)安穏とさせる対象としての民も仏教の救いの対象と見ていたことは当然のことであろうと存じます。
142
:
匿名
:2005/11/29(火) 22:47:31
>141
大変参考になりました。
ただ、
>ご質問の趣旨は、では、日蓮は、このヒエラルキーのどこに立っていたのかということでしょう。
これはちょっとニュアンスが違う気がします。
「天台法華宗側」=「天皇家の側」に立つことにおいて、民衆云々の立場は微塵もなかったと言い切れるものなのか、その根拠を知りたいということです。
このスレッドの最初の投稿で、あなたは私に、
「被害者の痛みから議論が出発できないところにあなたのいうことが机上の空論以上に聞こえない原因があるわけです。」
と書かれました。
私はこれを、「被害者の立場に立った議論でない」という意味に受け取りました。
「民衆の立場」というのは、この「被害者の立場」と同じ意味合いなのです。
ですから日蓮聖人がヒエラルキーのどこに立っていたのかというとは、少し意味合いが違う気がします。
「被害者の立場に立つ」「弱者の立場に立つ」といった意味での「民衆の立場」において「立正安国論」を書き上げたのではないかと、私は思っておりました。
しかしそれが、厳密には民衆の立場というものではなくて、「天台法華宗側」=「天皇家の側」というものであり、そこまでの根拠はなるほどわかったとして、ではそれが民衆云々などというお考えは微塵もないというなら、さらにその根拠が知りたいのです。
しかし、この度のあなたのレスによると、
>ただし、それは日蓮が民の済度を考えていなかったということでは、もちろん、ありません。一切衆生のうちの六道輪廻人界衆生として、神に程近い王とその臣が快楽(けらく)安穏とさせる対象としての民も仏教の救いの対象と見ていたことは当然のことであろうと存じます。
というのであれば、民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。
>鎌倉幕府は知ってのとおり、アウトロー集団です。
今で言えば、暴力団が革命を起こし政権を握ったとお考えになられて結構だと思います。
ということですが、そもそも鎌倉時代、「幕府」という言葉は政権を表す言葉としては一度も使われていないといいます。
鎌倉時代の人々は鎌倉の武士政権が「幕府」であるとは思っていませんでしたし、「鎌倉幕府」の呼称は江戸時代の学者によってつけられたものだともいいます。この時代の「幕府」とは将軍の住む館のことをさしたそうなのです。
「暴力団が革命」とはいっても、もともと平家も源氏も、天皇家とは縁戚関係ですから、革命とまで位置づけられるものではないでしょう。あの承久の乱のときでさえ、もし敵軍に天皇の姿があったなら、決して弓を引いてはならないと決められていたと言うくらいですから。
(そういえば、水戸藩の家訓も確かそういうものでしたね)
アウトロー集団というのは頷けますが。鎌倉幕府は執権政治になっても基本的には朝廷をたて、朝廷の権威を利用しながら、武士の権益を広げてきたわけです。
鎌倉幕府は江戸幕府のように、全国支配をした政権ではなく、その点においては、「この国の民」という意識はもともとなかったといえるでしょう。ただ蒙古襲来という局面を迎え、現代的にいえば、国家安全保障に対峙せざるを得ず、まだまだ脆弱な権力基盤の中で、否応なしに「国家」を意識せざるを得なかった時代といえるのではないでしょうか。
古く国王(天皇)や人臣の「政」は、民の立場にも立った政策もすすめられてきたはずです。日本の「政」は、特に聖徳太子以降、それこそ仏教により、民を救う政策が律令制度の中に取り入れられてきています。うまく機能していたかどうかはともかく、「義倉」などもそのひとつです。日蓮聖人が、天台の側に立つことも、天子の側に立つことも、いずれもそれは「民衆救済」を考える立場と捉えて考えることができるのではないかと、私は考えますが。如何でしょう。
日蓮聖人に限らず、平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代といえます。そうした流れに加え、どんなに日蓮聖人が朝廷側に立つといっても、日蓮聖人の生まれは安房なわけです。安房の方言は独特だそうで、千葉よりはむしろ神奈川に近いといわれています。当時の鎌倉と安房の間は、恐らく陸路ではなく海路が中心だったことなども考えれば、日蓮聖人の生まれつきの気質は、ある意味で鎌倉武士団の気質に近いものだといえるのではないでしょうか。
鎌倉武士政権はその成立の時から、滅亡の時まで「関東武士の権益保護組織」としての性格が非常に強いものだったわけです。私はその点において、憲法に半ば強引に引き寄せて、日蓮聖人を注目してみているというところなのです。
143
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 00:02:54
> 「民衆の立場」というのは、この「被害者の立場」と同じ意味合い
これを、ですから、民衆に限定する理由は、では、いずこにあるのでしょうか。
日本が蒙古から襲来を受けるとなると、被害者は民衆だけでしょうか。
この時点で、日蓮は王臣万民の一切を救おうと考えたのであれば、単に民衆に立ったとだけとは言い切れないのではないでしょうか。ですから、その意味において、民衆仏法という言い方では、日蓮が王臣を思った気持ちは表現できないということです。
> 民衆云々などというお考えは微塵もない
わたしは、あなたの結論の出し方は極端だと思いますね。
先にも記したとおり、日蓮の民に対する言及は実に多岐に亘ります。
わたしがいっているのは、国家の秘術として仏教を考えるのは、単に民衆のためだけではない。王臣も含めている。となれば、民衆仏法という言葉では表現し切れていないではないか。また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。
> 民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。
わたしがいつそのようなことを言いましたか。
あなたは、どうも極端に走り、わたしが考えてもいないことを、さもわたしが言ったように質問しますが、これは誤読に基づくことなので、あなたの問題点でしょう。
>> 鎌倉幕府…アウトロー集団
ここ以下は、わたし文章ではなく、藤川さんの文章ですので、わたしは記さないことにします。
> 日蓮聖人が、天台の側に立つことも、天子の側に立つことも、いずれもそれは「民衆救済」を考える立場と捉えて考えることができるのではないかと、私は考えますが。如何でしょう。
せっかく、日蓮の「民衆」の語について、詳細に真跡遺文を調べて、記しても、やはり、意味はなかったようですね。残念なことです。日蓮といわず、大乗も、仏教も「一切衆生皆成仏道」を指標するのであり、それは民衆のみに限定されてのことではありません。
> 平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代
では、それを一々の証拠を挙げて、ここに説明してください。
> 憲法に半ば強引に引き寄せて、日蓮聖人を注目してみている
どう見ようが、個人的にはかってですが、もし、このように言い切るのであれば、法華経の文々句々と憲法の一々を挙げて、対照を試み、その類似性を挙げてみては如何でしょうか。
あなたが日蓮をどのように見ようが勝手ですが、真跡遺文から垣間見られる、日蓮は法華経の、その題目を以て立正安国を考え、衆生済度も考えたのです。このような特定の経典、もしくは法華宗という特定の宗派を以て一切衆生皆成仏道を考えることと、憲法の信教の自由と、どこでどのようにつながるのか、説明していただきたいものです。
144
:
匿名
:2005/11/30(水) 00:35:48
>これを、ですから、民衆に限定する理由は、では、いずこにあるのでしょうか。
「政」においては、救う側は「王臣」であり、救われる側は「民」と考えますが。
>日蓮は王臣万民の一切を救おうと考えたのであれば、単に民衆に立ったとだけとは言い切れないのではないでしょうか。
「立正安国論」は、日蓮聖人が王臣万民の一切を救おうという趣旨の内容なのですか。
>また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。
そのことを「立正安国論」で説いているのですか。
>> 民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。
>わたしがいつそのようなことを言いましたか。
これは、あなたではありません。藤川一郎さんの記述です。ただ、同調されているようでしたので、同じ意見などだと思いました。
>日蓮といわず、大乗も、仏教も「一切衆生皆成仏道」を指標するのであり、それは民衆のみに限定されてのことではありません。
それはわかっています。
ただ、憲法では一切衆生の権利を明記することはできません。なぜなら、畜産業など殺生を生業としている人も国民にいるからです。その人たちの人権を考えるとき、一切衆生という意味合いのことは明記できません。職業的差別につながりますから。
仏教を志す立場でいえば、一切衆生の救済であることは当然です。しかし、日蓮聖人が生きた鎌倉時代は、天災飢饉が続き、人が人を食べるくらいの飢餓状態であったとさえいわれています。何も食べるものがなく、地べたを這う生きている虫を口にすることなど当たり前のことだったといえるでしょう。
そのような状況を前にしたとき、一切衆生よりは、まず民衆救済を訴えたのではないでしょうか。
>では、それを一々の証拠を挙げて、ここに説明してください。
わかりました。その前に、確認しておきたいのですが、このように求めるところをみると、あなたはこの一文には、異論の立場をとるわけですね。
>法華経の文々句々と憲法の一々を挙げて、対照を試み、その類似性を挙げてみては如何でしょうか。
勘違いしないでほしいのですが、私は「法華経」と「憲法」を重ねているのではありません。「立正安国論」と「憲法」を重ねているのです。
>このような特定の経典、もしくは法華宗という特定の宗派を以て一切衆生皆成仏道を考えることと、憲法の信教の自由と、どこでどのようにつながるのか、説明していただきたいものです。
繰り返しますが、法華経ではありません。その他の特定の経典でもありません。「立正安国論」です。それも「信教の自由」などと私がいつ特定しましたでしょうか。
私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。
145
:
匿名
:2005/11/30(水) 01:15:02
>144 訂正
>私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。
と「信教の自由」を含めましたが、これは含みません。訂正いたします。
146
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 01:42:14
> 「政」においては、救う側は「王臣」であり、救われる側は「民」と考えますが。
ですから、それは政においてではないでしょうか。仏に立つ日蓮とは違います。
> 「立正安国論」は、日蓮聖人が王臣万民の一切を救おうという趣旨の内容なのですか。
『立正安国論』で‘一切衆生’を言うのは「大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、竝びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて、一切衆生之心を薄す。是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り」という1回ですが、当然、以上のように一切衆生への視点があります。
>> また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。
> そのことを「立正安国論」で説いているのですか。
わたしは、この点については王・臣/万民の関係であると記したのであり、一切衆生については『報恩抄』の記述を挙げました。
>> 民衆云々は微塵も考えていなかった
> これは、あなたではありません。藤川一郎さんの記述…同調…同じ意見
この点については日蓮の語彙の用法について説明したはずです。
日蓮が言う民衆と、あなたが言う民衆は意味が違っています。
日蓮の考えは近代日本に導入された民主主義(デモクラシー)で言われるような民主主義の主体者である民衆(大衆)といった意味合いでは論じていないと言う点で、わたしは藤川さんに同意したのです。
> 憲法では一切衆生の権利を明記することはできません
ですから、同じとは言えないと言っているわけです。
> 一切衆生よりは、まず民衆救済を訴えた
ですから、視点の方向が、わたしが記していることからずれているのです。
民衆とは王臣に対概念としているのが日蓮の用法である。つまり、民衆の側に立つとか、王臣の側に立つとかというような考えではなく、仏教の僧侶は常に一切衆生に眼を向けているといっているのです。
> わかりました。その前に、確認しておきたいのですが、このように求めるところをみると、あなたはこの一文には、異論の立場をとるわけですね。
それはあなたの論証を読んでみなければわかりません。
ただ、論拠を挙げずには書くのではなく、証拠を挙げてみてはどうかと、まず促したと言うことです。
> 「立正安国論」と「憲法」を重ねているのです。
同じことでしょう。
日蓮は王政における政教一致を論じているのです。
『立正安国論』では、法華経を持つ以外に、国王が国を安ずる方法はないといっているのです。どこが憲法と一緒なのでしょうか。
> 繰り返しますが、法華経ではありません。その他の特定の経典でもありません。「立正安国論」です。それも「信教の自由」などと私がいつ特定しましたでしょうか。
ですから、立正安国論で、王が国を安じるのに持つべきは法華経であるというのが日蓮の主張だと申し上げているわけです。
あなたが、信教の自由を言っているわけではありません。
一切、信教の自由を認めない立正安国論、そして、法華経が、いったい、信教の自由を認める憲法とどこが同じなのかと聞いているのです。
> 私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。
もう一度、繰り返しましょう。立正安国論は法華経以外の一切の信教は認めていません。また、民衆の人権などを論じることを目的にしていません。そもそも、日蓮の時代に、人権に該当する概念、また成句とはいったいなんでしょうか。
ご自身が夢想した日蓮、立正安国論で語るのではなく、あなたがここを5年間ロムしてきたというのであれば、ここが厳正な挙証によって論議してきたことはご存じのはずです。あなたも、そうなさっては如何でしょうか。
147
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 01:57:50
145の訂正を読み落としていました。この点は了解しました。
149
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 02:51:40
答を待つべきところですが、匿名さんは、どうやら、日蓮は民衆の立場に立ったという前提から、日蓮の仏法は民衆仏法であると、こう言いたいようです。
では、以下の真跡遺文をどのようにお考えになりますか。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人也。上一人より下万民に至る之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処する故に、梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責する也。大集経に云く。仁王経に云く。涅槃経に云く。法華経に云く。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひずば、必ず此の国今の壹岐・対馬の如くならん」(聖人知三世事)
万民まで日蓮に害をなしたと責めています。民衆側に日蓮が立っていますか。おまけに梵天・帝釈、日天・月天、四大天玉と隣国に仏が日本に、逼(せま)り責めさせるというのです。専守防衛どころの話ではありません。
他国が日本を責めるのは仏の思し召しであり、神のはたらきだというのです。日蓮の言い分では他国から責められるのは、日本が法華経を持たず、日蓮に難に遭わせたからだ、その報いを得るというわけです。日蓮を用いなければ、壱岐対馬のように侵略され、人は殺され誘拐されるというわけです。
どうでしょうか。あなたが言う立正安国論=憲法、そして、自衛隊論と、日蓮の以上の記述は合致しますか。
150
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 08:35:51
「日本一州上下万民一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓竝びに天照大神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか」(法門可被申様之事)
「梵王・帝釈・無量の諸天、天神地祇等、りんごく(隣国)の賢王の身に入りかわりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。今の世は似て候者哉」(三三蔵祈雨事)
「法華経守護の梵帝等隣国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し、仏前の誓状を遂げんとをぼしめす事あり」(下山御消息)
日蓮の発想は、日本の為政者を愚王、隣国・蒙古の王を聖人と呼び、梵天帝釈が身に入れ替わりとまで言い、法華誹謗の日本を責め治罰することは仏の命令であるといいます。謗法の日本は他国が逼り責めるのことは仏教の道理であるというのです。そのうえで、本尊抄に
「此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」
この摂折、顕愚の王の解釈は門下においても、一様ではありませんが、上述の脈絡からするとき、聖人賢王たる蒙古によって日本が侵略され、広宣流布されると言っているとも読めます。
民衆仏法どころか、日蓮は隣国(蒙古)の側に立っている如くです。
しかし、それは表面的な見え方で実際は、法華信仰という側面から寿量本仏の立場であり、それに背く日本の他国侵略の必定(ひつじょう)を豪語しているわけです。
以上のような日蓮の発想は、『立正安国論』における北条時頼への進言に既に見られるわけです。法華に背くものは梵天帝釈が身に入れ替わった隣国、聖人・賢王=蒙古によって責められるべし、このような考えのどこが、日本の現行憲法の精神と似ているというのでしょうか。
151
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 08:47:28
【150の訂正】
誤)顕愚の王
正)賢愚の王
152
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 15:41:17
日蓮とは何かというテーマは実に大きい。時系列を踏みながら、原型の「日蓮」がどのように変化していったのかを見ないと、その時々の「日蓮」を見失います。
日蓮の姿勢は、純天台への復興運動で、原理主義と今風の言葉では表現できるのかもしれません。麻原彰晃は日蓮に似ているとは梅原・折口の共通認識でした。日蓮遺文を読み薦めると、たしかにそのような印象を懐く一面はあります。流罪・擬死罪に処された日蓮は、当時の一般民衆からすれば、どのように映じたか。民衆の側に立った宗教改革者。そうでしょうか? わたしは、まったく人々の支持を失っていったのだろうと思えます。実質的救済活動を続ける良観(真言律宗)の功罪はともかくとし、むしろ、こちらのほうが民衆の指示があったように映じたと思えます。
壮年時代の日蓮は世間一般から見れば、罪人であったからです。時宗は来る敵を迎え撃つ精神的鍛錬に禅を取り入れていきました。これもまったく日蓮とは違う方向でした。罪人となった日蓮は、王臣万民から捨てられた境遇となった。ここで、梅原・折口は、日蓮にルサンチマが生じたとみるようです。たしかにこの一面はあると思えます。しかし、その二極の一極であり、もう一極は、日蓮己心の宗教的昇華として結実していった。まさに一線を画する如く日蓮は佐前と佐後では、格段の相違を見せていきます。
現代、世界では宗教におけるテロリズムが問題になっています。しかし、わたしの世代ではテロといえば共産革命の代名詞でした。正確に言えば、信者側の認識ではテロというよりジハード(聖戦)なのであろうと思えます。滝本師の言葉を籍りれば「際限のない善意の殺人」ということです。関連して、近代の宗教テロリズムの一つとして、オウム真理教は世界的に認識されています。破壊と再生の神・シバを祀り、麻原が何を考えたのか。宗教に疎い人々でも、「ポア」はメディアを通じて知られるところとなりました。
ジハードとポア。一見、日蓮門下に関係のないことと認識されますが、それは「現在の日蓮では」という但し書きが必要です。この点は、創価学会に関連して、のちほど、記そうと思います。
まずは実在の日蓮から考えることにします。日蓮にジハードとポアに類似した考えがあったのか。わたしはあったと考えます。ジハード、それは、直前に記したとおりの隣国王が邪法・悪国・謗法の日本を責め滅ぼすというシナリオに見ることができます。一方、ポアは、涅槃経を根拠として、念仏者刎頭の主張に見ることができると考えます。
日本はついに蒙古に占領されることはありませんでした。その後、長らく内戦時代は続きますが、侵略は免れたわけです。この歴史過程で、わたしは大きな二つの変化が日蓮門下にはあったと考えます。一つはジハード教義の放棄、そして、もう一つはポア教義の放棄です。このほ二つの根幹の放棄の時点で、もう一つ、国主観は長い時間を経て変化していったと思えます。
一方、唱題利益と祈祷による祈願成就という形で一般民衆に浸透して言った「日蓮」はここでは、もはや、今の言葉で言う民衆仏法化の道を既に歩み始めています。
放棄されたはずの日蓮のジハードとポアが復活する日がやってきます。
わたしは、それを戦前の日蓮主義に見ます。世界最終戦争、大東亜聖戦における日蓮信仰です。(この時代、しかし、目覚しい日蓮研究の飛躍があったことも事実です。今は、この点は論旨の異なるので述べません)
国主観の変化、先にそう記しましたが、神仏習合という日本仏教は、本地垂迹説に基づき、日蓮の国主観とは理論的な基礎(正法護持=賢王)とは、また、違った展開をしてきました。要は、天皇に代表される国神は釈尊と同一であるという考え方です。これはまた、日蓮本仏圏では天照八幡=日蓮という教学的展開ともなったわけです。
かつて、鎌倉幕府下、愚王、謗国として、梵天帝釈が身に入れ替わった隣国の聖人から仏罰、武力行使と侵略を受けて国家滅亡するという被治罰側と日蓮が認識した日本は、いまや、全く、逆の本化聖天主を仰ぐ、治罰する側へと180度正反対の解釈をここで見ることができます。
ここでは日蓮とは全く正反対でありながら、ジハードとポアの思想が復活したわけです。
153
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 15:41:40
―152からつづく―
今回は神風は吹きませんでした。日本は全面降伏、現人神は人間宣言、戦前日蓮主義は歴史から抹殺され、戦後は始まったのでしょう。戦前の人であれば、「国立戒壇」といえば、「ああ、田中智学」と直ちにわかったことでしょう。しかし、戦後は「国立戒壇」といえば、創価学会の代名詞。いまとなっては顕正会の代名詞に更に変化しました。
先に、「現在の日蓮では」という但し書き…創価学会に関連して記すといった点を述べます。以下、創価学会のみの特色ではありませんが、戦後日本社会で「日蓮」という名で急成長した団体は創価学会を除いてはありません。いわば、そこに典型と数の圧倒があります。
この創価学会ではまさに民衆仏法を言います。
「日蓮大聖人は民衆の側に立った」、そんなキャッチフレーズは、この団体では良く聞かれます。
わたしは厳正な日蓮分析からすれば、冒頭に記したとおり、この創価学会の言動は間違いであると思います。ただし、日蓮を民衆仏法にした功績が創価学会にあったとは、わたしは思います。つまり、日蓮を民衆仏法たらしめたのは、ほかならない創価学会であるということです。
わたしはこの点では、戸田城聖氏に一定の評価を持っています。
戦前の日蓮主義が有していたジハードとポアを、戸田氏は見事に‘無血’広宣流布論へと切り替えたわけです。この功績は大なるものがあります。
戸田氏の投獄の理由はどこにあったのか、その真相はいまだ図りがたいところはありますが、しかし、彼が戦争に参画しなかったのは揺るがない事実です。また、牧口氏は牢死という非業の最期を遂げています。わたしは戸田氏の原水爆宣言は、武力行使の「日蓮」を、平和「日蓮」に変えた大演説であったと考えます。創価学会は公明党の与党に与し、この戸田氏の遺志を捨ててはならないはずです。
戦前の日蓮主義が本化聖天主を主体者にした軍事翼賛思想、‘流血’侵略であったのに対して、戸田氏は、それを民衆、無血平和運動へと転換したわけです。繰り返しますが、真跡遺文から分析できる日蓮は、けっして民衆仏法ではありません。しかし、戦後再編された(西山師の言葉を借りれば、脱歴史化・再歴史化された日蓮主義としての)戸田・創価学会の教学的実践は、まさに日蓮民衆仏法化であったと、わたしは考えます。
また、日蓮の視点は、仏法であれば、その目標は成仏であり、その視座は一切衆生にあったのでしょう。では、成仏とは何かという教理的な問題において、目指すべき目標の仏とは、どこまで行っても人間に他ならないという実はジレンマが日蓮仏教といわず、日本仏教は抱えてきたのではないのか…、わたしはそう観察してきました。(この点は、明治以降の宗教政策が脱神秘化の強制にあった点から考えられますが、この点は後日に譲ります)
このジレンマをザックラバランに人間そのものを目標に切り替えて見せたのが、池田大作氏であったと、わたしは見ます。具体的な成句で言えば、人間主義としての日蓮です。この人間を、民衆と言い換えても良いわけです。
このような発想は戸田氏に既に起源を見るのであろうと思います。小説のほうはまるで問題外ですが、一切衆生・成仏に換わる人間・革命という四字熟語はその精華と言えるのかも知れません。
やや、付言すれば、創価学会が言う「民衆」は、まだ、自分たちを指す主語の段階です。これが完全に相対化され、宗教も宗派も、思想も主義主張も超えて「民衆」となれば、この創価学会という思想潮流は価値があったことになるだろうと考えています。ただ、そこまで客観された時点で、創価学会は、もはや、日蓮自体が相対化され、残るのは池田崇拝だけとなるのではないのか、これまた、批判ではなく未来予測として考えてもいます。さらにこれが民衆、人間という形で、そのリーダーをも相対化することができれば、その時点で、それは日本の精神史に刻まれることになるのではないのか、とも考えます。
以上は、創価学会、戸田城聖氏、池田大作氏を、わたしが肯定しているとか、否定しているのかという問題ではありません。これはあくまで、まったく観察と分析です。
なおまた、民衆仏法としての日蓮、人間主義としての日蓮は、創価学会とはまるで違う系譜で、もちろん、戦後、日蓮門下一般でも育っては来ているでしょう。
154
:
匿名
:2005/12/01(木) 00:10:38
まず最初に誤解をされているようですが、私は、「民衆仏法」などという語彙は、この度はじめて聞きましたし、私の書いたことをもって、それは「民衆仏法」というものだと言われても、ピンときません。
恐らく察するに、日蓮仏教を「民衆仏法」と解釈する教義があって、それは間違っているという結論に到っているものなのだろうとの観点から、私の記述に異論を唱えておられるのではないかと拝察いたします。
しかし、私はそのような解釈に立脚して記述しているものてはありません。そこは勘違いしないでいただきたいと思います。
また何度も申し上げていることに関連しますが、私は日蓮仏教教義において「立正安国論」は「憲法」と解釈すべきだなどとした、教義論争を投げかけているものでもありません。その点は、はっきり申し上げておきます。
私自身の信仰の位置付けとして、そのように拡大解釈しているということを記しました。記してしまった責任において、お答えさせていただきます。
いずれにしても、中世の時代の価値観で書かれたものですから、それをそのままの内容を現代に持ち込むことは無理でしょう。その点において私は、ほとんどのものを捨て去りました。政教一致はもちろんのこと、法華経を最高と考えることも、戒壇建立にしても、念仏を悪とすることも、そのほとんどを捨てています。
しかし、そのようなものを捨ててもなお、また中世から現代へと時代を超えてもなお、日蓮聖人の行動原理に心打たれるものがある。それは何だろうかと自問自答していくとき、あの時代なりの、国への思い、国主への思い、民への思いが、「立正安国論」にこめられているのではないかということなのです。それを私なりに突き詰めていくと、「憲法」の精神に通じるものがあるのではないかと思ったということです。
また世界史をパラレルに見ると、ほとんど同時期に大憲章マグナカルタが制定されてもいる。これは、中世における世界規模での権利意識の目覚めであろうと、感心もしたわけです。そこに日蓮聖人がいたということです。それが私の心を最後にとらえて残っている部分であろうということを、少々書いたというわけです。
教義で詰められるようなものではありません。当然、論破されるでしょう。権利だ人権だ民主主義だなどという言葉はもちろん、概念すらない時代なのですから。しかし、言葉も概念もない時代の中において、誰から教えられたわけでもなく、明らかにそれに通じる意識の目覚めが感じられる、その行動の証を歴史に残している。そう私は見ているのです。
時代を動かす人、時代に名を残す人とは、そういう存在なのだろうと思います。
155
:
匿名
:2005/12/01(木) 00:11:09
>>「政」においては、救う側は「王臣」であり、救われる側は「民」と考えますが。
>ですから、それは政においてではないでしょうか。仏に立つ日蓮とは違います。
仏の立場に立つ。これは得心するとします。
その日蓮聖人が、「立正安国論」において時の権力者に諌言するわけですが、それは政を司る為政者が「どうあるべきか」について諫言しているのではないでしょうか。
「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。」
政を司るものがどうあるべきか。具体的には「念仏を止めろ」と提言しているわけですが、では、何のためにそうすべきだと言っているのか。その心を私は考えているのです。何のために、念仏を止めろと諫言しているかです。
それは、主人の話に耳を傾けた客の言葉が示しているのてばないでしょうか。
「所詮、国土泰平・天下安穏は一人り万民に到るまで、好むところなり、楽うところなり」
このような世の中に治める「政」をするのが、権力者の務めであり、また、それを民も望んでいるのだということ。
「念仏を止めよ」の具体政策は、政教一致の中世の時代での話であって、それが現代の憲法などに重なるものでは全くありません。そもそも、私はこの点においては、とっくに日蓮仏教からは離れています。日蓮主義者でもありません。
私が引っかかったのは、何の為の諫言だったのかということです。
その心が、単に宗教覇権争いでの、「天台に立つ」というものであって、そこには国土泰平・天下安穏を願いとする「民衆救済」の気持ちなどなかったというなら、私は「立正安国論」に対する最後の執着も心置きなく捨てることとなるでしょう。
>どうでしょうか。あなたが言う立正安国論=憲法、そして、自衛隊論と、日蓮の以上の記述は合致しますか。
先に記しましたように、合致というものではないことをご理解頂きたい。かなり時代を超えて像力を広げた拡大解釈というものです。
それから、私の自衛隊論とはなんのことでしょう。合憲だという話ですか。であるならば、これも拡大解釈ながら、
「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。」
において、国家完全保障政策は国家の責務であるという解釈も成り立つのではないでしょうか。その上で、自衛隊は必要であろうというところです。しかし、他国を侵逼してはいけません。
いずれにしても、これは教義論争をするには無理があることです。日蓮はそんなことは言ってませんと言われれば、まあ、そうですねという話になります。
156
:
匿名
:2005/12/01(木) 00:11:37
> >平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代
>では、それを一々の証拠を挙げて、ここに説明してください。
法然
源信の『往生要集』により、浄土宗を開山を決意し、東山の大谷で庶民に専修念仏を説いた。
親鸞
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と、悪人正機・絶対他力を唱えた
叡尊
戒律の復興と多くの民衆を救済することによって菩薩と呼ばれた。
忍性
貧民救済、道路・架橋などの生涯を追求。
一遍
念仏の教えを究極まで突き詰め、各地を巡って民衆救済に念仏をひたすら唱えた放浪の僧。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/buddhism.html
#9
親鸞、道元、栄西、日蓮、一遍などが輩出して、真に民衆的な新仏教が興起。
http://www.kosaiji.org/Buddhism/nippon.htm
仏教が民衆の信仰として確立したのがこの時代だ。
ttp://ch.kanagawa-museum.jp/jyosetu/jyosetu02-6.html
新仏教は不安におびえる武士や庶民を中心に急速にひろまり、中世仏教界の大きな流れをつくることになりました。
http://www.gyoda.co.jp/buddha.htm
#kamabuddha
鎌倉時代、日本人自身による独自の仏教が提唱され、貴族の仏教から民衆の仏教への転換が行われました。
http://homepage3.nifty.com/54321/nihonbukkyoushi.html
#kamakura
こうして鎌倉新仏教は、国家お抱えの仏教から個の人々の救済を目的とする大衆仏教へと移り変わっていった。
http://www.kotobuki-p.co.jp/bukkyousi/kamakura.htm
鎌倉時代には多くの宗派が生まれている。当時は政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、その一方、天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていった。しかも仏教史観によれば、末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代わり、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。
http://www.kotobuki-p.co.jp/jrekisi/kama.htm
社会の大変動による激動期になると、貴族に代わって武士が台頭し、一般民衆の意識も高まるにつれ、無常観にもとづく末法思想が流行、浄土信仰が一段と高まっていったのである。古代からの土地制度が崩壊し、武士、蒙族の進出によって、国家的仏教は無力化し、民衆はめまぐるしい変動に生き抜く基準や法則、理論が必要となってきた。新しい価値観新しい人生観、世界観を求める時代的背景が渦巻き、古い観念や倫理、体系を捨てた新しい思想が求められる真只中で鎌倉幕府が開かれ、仏教も新しい時代をむかえるのである。
157
:
匿名
:2005/12/01(木) 00:18:28
国民の基本的人権を保障する義務を、国家に負わせているのが、国民が主権である民定憲法の形であるということにおいて、現行憲法において、最も大事なことは、第十一条と第九十九条だと私は考えます。
〔基本的人権〕
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔憲法尊重擁護の義務〕
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
ですから、改憲案が出たときには、ここがおかしくなっていないかが大変重用だと思います。権力者が国民に責務を負わせる、欽定憲法の形のものであってはならないということです。
ちなみに、戦前の明治憲法は当然のこと君主が定める欽定憲法でした。
欽定憲法のような形になると、基本的人権と民主主義の後退を意味することになります。
民定憲法
http://db.gakken.co.jp/jiten/ma/605630.htm
欽定憲法
http://db.gakken.co.jp/jiten/ma/605630.htm
そしてその次に大事なのは、第十二条であると考えます。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
憲法は、国民の「不断の努力」によって守られていくものなのであるということ。この意識は非常に大事なことといえるでしょう。
戦争を放棄するという意思も、国民の「不断の努力」によって守られるものであるということ。言い換えれば、国民の意思と不断の努力なくして、戦争を避けることはできないということかと思います。
努力のひとつには、やはり政治への関心を持つということも含まれるものといえるでしょう。
158
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 00:43:38
> 157
で、立正安国論と憲法の類似性は、どうしましたか。
159
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 02:17:13
> 156
この提示はお粗末じゃないでしょうか。
そもそも、匿名さんは日蓮を民衆仏教といっていながら、これを挙げないのは何故でしょうか。
わたしもけっこう丁寧に投稿しているわけですから、人の話を持ってきて、お茶を濁すようなやり方はどうかと思います。
160
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 04:47:33
> 政を司るものがどうあるべきか。具体的には「念仏を止めろ」と提言しているわけですが、では、何のためにそうすべきだと言っているのか
この答は、もちろん、立正安国論の中にあります。112に既に挙げております。不都合なところは目に入らないようです。
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」
まあ、都合の悪いことは、なにも耳に入らないようでは、致し方ありませんね。
国民が政治に関心を持てということはけっこうなことですが、日蓮を語るのであれば、もう少しちゃんと日蓮を読み解いたほうがよろしいでしょう。
それとも、ここを投稿、ロムする人は政治的な無関心であると決め付け、「私」匿名さんは、ちゃんと政治に関心を持って優位に立っているとでも仰りたいのでしょうか。
161
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 05:05:31
もう一つ。
> 単に宗教覇権争いでの、「天台に立つ」
日蓮が天台沙門として、法華信仰を為政者に勧めることが「宗教覇権争い」とは恐れ入りました。こんなふうにしか思えないのであれば、何を話しても無駄でしょう。
では、あなたがここで、政治の話をするのは、何か政治的な野心があってのことなのでしょうか。自衛隊の話をするのは、自衛隊を特に執心語らなければならない個人的な事情でもあるからということでしょうか。
日蓮が法華経を宣布するのは、宗教の覇権争いではなく、法華経に基づく菩薩、僧侶としての自覚に基づくのでしょう。純粋な信仰心に基づいていたとわたしは拝します。日蓮は私事として語ったのではなく、僧侶として仏教を語ったのです。
政治に関心を持つという民主国家の国民のあるべき姿は憲法から導くのはけっこうなことでしょう。しかし、日蓮が生きた時代、「民衆」が政に関心を持つとことは、自分たちの生殺与奪に関わる以上で、もし、政に異見など述べようものであれば、そこでお咎めに遭う以上の意味をもたないのが身分制度ということでしょう。
つまり、日蓮の時代と現代は違うのです。
日蓮もまた、その身分制度の時代に政に口を出すのではなく、僧侶という本分から自宗の法華経の信仰を勧めるに留まるのは当然の矜持であったことでしょう。
政治憲法より、人間の神(たましい)には大切なものがある。後生を考えるというのが仏教の有様です。政治はいま生きている人のため、しかし、仏教は既に死んでしまった人のためでもあり、また、いま死にいく人のためにもあります。そのような意味で、果たすべき役割、受け持つべき役割には自ずと差異があります。それを理解できず、仏教より政治だという論調では、仏教のなんたるかを理解する気もないと思わざるを得ません。
162
:
ラスカル
:2005/12/01(木) 10:44:50
済みません。私の送信したメールが議論をすれ違わせた原因かもしれないので前提としての問題提起を書き込まさせて頂きます。●戦争は利害関係のある所に起きる。未来はストレスだけで起こすのか。●宗教でも軍事でも経済でも戦わない(闘わない)なんてありえない。ヒトは自然環境を相手に進化発展してきた。戦争で科学は発展してきたと言う者がいるが、軍事は力の結集が多大であるから発展の速度があった。●不殺生戒とは他人に惑わされない事も意味するのか。●憲法改正の主旨・主眼は何か。項目言葉の是非か説明文章の是非か。国民的議論とはどこからどこまでか。●空海は、インフラ(生活基盤)や何やら整備してきたが、他の僧はやってない。と聞いた事があります。日蓮は、ゼロベースの仏国土(漫陀羅)を掲げ、生粋の法華経の行者を説教化導しようとしたというのは無理な言い方でしょうか。真蹟に書いてあるかは調べてませんが、供養の礼、上司・部下の人間関係の助言、信心を全うできるように激励など気配りを書かれた遺文・御書があったはず。日蓮主義者は、鎌倉時代の僧・日蓮の思想哲学の一部分を利用したに過ぎないのでは無いでしょうか。政治or宗教の傘下に帰属せねばならぬ世で日本人のアイデンティティは育てられたのか。時代ごとに田畑仕事の方法も変わっていきました。平成時代、平和憲法に過不足はあるのか。
163
:
匿名
:2005/12/01(木) 12:08:41
>で、立正安国論と憲法の類似性は、どうしましたか。
権力者に対し、国民の生命・身体・財産を守る政治を行なわせることを約束させるということです。
国民も努力をするということ。
私には、「立正安国論」がそう読めるということです。
>わたしもけっこう丁寧に投稿しているわけですから、人の話を持ってきて、お茶を濁すようなやり方はどうかと思います。
何を言ってるんでしょうか。だいたい、あなたのほうこそ、私が強要しないことをに乗じて、私からの質問の大半をネグレクトされていますけど。
私の言葉で書けば、「平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代」ですが、それでは稚拙な表現だろうと思いましたので、同じようなことが書かれている他のサイトの表現をもってきたわけです。
それで、もし私の記述に重大な誤りがあるのであれば、補足するなり、反論するなりしてください。
どうぞ。
だいたい、「戦争を考える」スレッドにおいて、民衆仏法の議論を延々としなければならないことなのでしょうか。本題から外れたことです。それと、何度も言っているように、私は民衆仏法という解釈や教義は知りません。私にレッテルを貼るのはやめてください。
>国民が政治に関心を持てということはけっこうなことですが、日蓮を語るのであれば、もう少しちゃんと日蓮を読み解いたほうがよろしいでしょう。
私は、もともと日蓮聖人を語りたくて投稿したわけではありません。
それは単なる投稿の動機に過ぎません。
それよりは、まじめに戦争と憲法について考えてきたことを、投稿したいと思っているのです。
それは、あなたに対してではありませんので、読んでくださらなくて結構です。
>それとも、ここを投稿、ロムする人は政治的な無関心であると決め付け、「私」匿名さんは、ちゃんと政治に関心を持って優位に立っているとでも仰りたいのでしょうか。
人を悪くとるのもいい加減にしてほしいものです。
戦争を回避するためには、政治に関心を持っておかなければならないと書くことの何が悪いのでしょう。
164
:
匿名
:2005/12/01(木) 12:09:12
>日蓮が天台沙門として、法華信仰を為政者に勧めることが「宗教覇権争い」とは恐れ入りました。こんなふうにしか思えないのであれば、何を話しても無駄でしょう。
藤川一郎さんの記述ですが、「民衆云々の考えなどは微塵もない」ということに対して、確認をしてきたわけです。
そんなことはないというなら、それで済んだ話です。
>では、あなたがここで、政治の話をするのは、何か政治的な野心があってのことなのでしょうか。
政治を考え語るとそう勘繰る。これがあなたの政治への意識の程度を示しているようなものです。
>自衛隊の話をするのは、自衛隊を特に執心語らなければならない個人的な事情でもあるからということでしょうか。
これはとっくに書きました。
私は、もともとは自衛隊のことは全く知りませんでした。身内にいるわけでも知人にいるわけでもありません。
政治への関心も薄く、そのような中で、「自衛隊反対」の立場にいました。
知らなかったのです。
それが知る機会を得て、考えが変わったということです。知らないで「反対」はおかしいということにです。
たまたま、自衛隊の話が投稿されていたので、私の考えを記したまで。それに過剰反応されたのは、むしろあなたのほうです。
しかし、話を詰めてみれば、そこそこ合意点に到っている。それで一件落着しているはずなのです。
ところがまだ、自衛隊がどうだということをいつまでも言っているのはあなた自身です。それこそ、個人的な感情をぶちまけているように見えますけれど。
>政治憲法より、人間の神(たましい)には大切なものがある。後生を考えるというのが仏教の有様です。
もちろんです。憲法が最高の理念などとはまったく思っていません。宗教の目指す理念に比べれば、劣るものです。だからこそ、改正ができるようになっている。時代とともに、よくしていかなければならないわけです。
しかし、まあ、私はまじめに投稿しているつもりですが、よほど気に入らないようですね。
テーマからいっても応答しあっている内容は、無意味のように感じます。
民衆仏法については、十分に参考になりました。一部考えも改まっていますので、これで終わりにいたしましょう。
私は、もう2〜3投稿したら、終わりますので、何卒ご放念ください。
165
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 12:12:44
ラスカルさん、別段、あなたのせいではありません。
> ●戦争は利害関係のある所に起きる
利害関係の定義によりますが、そのように言えようかと思います。
わたしは、軍需は最大の消費産業であり、一部特権階級の利益追求の道具となるという実態にごまかす如何なる言論にも対抗するという考えです。
> 未来はストレスだけで起こすのか
これは意味がわかりませんでした。
> ●宗教でも軍事でも経済でも戦わない(闘わない)なんてありえない
非暴力、無抵抗も戦いであるといえば、そうなるでしょう。
> ヒトは自然環境を相手に進化発展してきた
そうでしょうね。
> 戦争で科学は発展してきたと言う者がいるが、軍事は力の結集が多大であるから発展の速度があった
科学を進歩させる速度を速めるのは軍事であるというのは、もちろん、実態でしょう。しかし、だからといって、軍事を肯定する理由にはなりません。人類は軍事以外で科学を進歩させる方法を模索すべきです。でなければ、科学の発展は人身御供によっていることになってしまいます。
> ●不殺生戒とは他人に惑わされない事も意味するのか
戒が示す意味とは違いますが、そのような側面はあるのではないでしょうか。
> ●憲法改正の主旨・主眼は何か…
この点は短くは論じられないでしょう。自主憲法の制定が国の独立の第一歩であるという考えもあれば、軍需拡大、自衛隊を軍にするために必要であるという考えもあり、かつての創価学会、いまの顕正会のように「日蓮正宗」を国教にするためという目的の場合もあるでしょう。
●空海は、インフラ(生活基盤)や何やら整備してきたが、他の僧はやってない
いえ、これは空海に限らないでしょう。たとえば、行基などでも、そのような側面を見ることができます。慈善事業を行った良観にも見られます。
過去において、仏教というのはある面、いまでいう総合的な学問を包括していましたから医学、土木、天文その他、当時の時代の最新技術もまた、仏教僧によって招来されたと言います。そのなかで、空海は事に抜きんで出ていたと言うことでしょう。
> 日蓮は、ゼロベースの仏国土(漫陀羅)を掲げ、生粋の法華経の行者を説教化導しようとした
仰る「ゼロベースの仏国土(漫陀羅)」というのが何を意味するのかわかりませんが、掲げたのは、むしろ、題目であったとするほうが適切であると思います。‘生粋’のというのも、なかなかラスカルさんならではの言い回しですが、当初は純天台への復古、原理主義的態度から、と言うことになろうかと思います。次第に独自の世界を展開していって、遂に漫荼羅に図示に至るという経緯であろうかと思います。
> 日蓮主義者は、鎌倉時代の僧・日蓮の思想哲学の一部分を利用した
先にも議論になりましたが、日蓮に哲学はありません。あるのは仏教です。
日蓮主義は広範に亘る体系を有しています。一部分を利用したとは言いがたいと思います。ただし、先に記したように、賢王といい、国土といい、世界の中心を日本とした極端な強調によったとは言えるかも知れません。
> 政治or宗教の傘下に帰属せねばならぬ世で日本人のアイデンティティは育てられたのか。
これは戦後、日本を指して仰るのでしょうか。だとすれば、事実は逆で、日本人のアイデンティティは失われたのでしょう。
> 平成時代、平和憲法に過不足はあるのか
わたしはないという立場です。
166
:
匿名
:2005/12/01(木) 12:25:42
もうひとつ。これも強要ではありませんが、質問を。
>国民が政治に関心を持てということはけっこうなことですが、日蓮を語るのであれば、もう少しちゃんと日蓮を読み解いたほうがよろしいでしょう。
では、あなたは、憲法改正という時代の転換期を迎えるにあたり、日蓮の教えや行動から何を現代に生かすべきだとお考えですか。
168
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 13:22:12
わたしに向けたレスのところで、藤川さんの言葉に対してのものだはないでしょう。
> 勘繰る。これがあなたの政治への意識の程度を示しているようなものです
ほら、でました、この上から見下した態度。「意識の程度」自分は政治はわかっている、立派だというわけで、それに比べて、ここの投稿はということでしょう。
> 感情をぶちまけている
まるで、そんなことはありません。日蓮が天台の立場に立つのは、宗教の覇権争いなどというのであれば、では、あなたが日蓮に向けたような視線であなたは政治を論じているのか、そうならば、政治的野心、自衛隊員に対する個人的執心からなのか、そんな見方をされるのはいやでしょう、日蓮をそんな見方をすると、あなた自身がそう見えてしまいますよ、という意味での記述です。
あなたに対して、感情をぶちまける必要など、そもそもまるで、ありません。
何かあるとすぐに感情的だとか、怒っているとか、まるでわたしが考えていないことを言い出しますが、それは、まさにあなた自身の心象風景なのではないでしょうか。
> 気に入らない
別段、そんな感情はありません。ただし、政治という観点から、仏教を云々されることには、甘んじないということです。政治から観て、日蓮がどうだ、仏教がどうだ、また、政治的な観点から仏教を解釈されれば、それはある姿の仏教、ある姿の日蓮と齟齬を来たしますから、その点について、違うと記したまでです。
169
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 13:58:28
> あなたは、憲法改正という時代の転換期を迎えるにあたり、日蓮の教えや行動から何を現代に生かすべきだとお考えですか
まだ、こんな質問ですか。政教は分離です。
ここは憲法改正や、政治を論じる掲示板ではありません。
日蓮と憲法改正を脈絡をもって論じることは、戦前の日蓮主義への反省から反対の立場だと記してきたわけです。わたしが先に記してきたことは、戦前の日蓮門下は戦争責任がある、故に軍事・戦争翼賛につながいかなる日蓮解釈には反対ということです。また、日蓮から政治を考えることにも反対です。
わたしは憲法改正(改悪)と日蓮を脈絡をつけて考えることを警告を発しているのです。
殊に冨士門流信徒の掲示板という枠組みにおける憲法論争とは、「日蓮正宗」の国教化というのが主な議論です。ですから、政教分離、国立戒壇が日蓮に遡源しないことを明らかにして、このような動きに反対する第一義があります。
なお、わたしは日蓮の教えに基づいて仏教を語っているわけではなく、何度も記したとおり、法華・涅槃という天台五時のくくりではなく、法華経は法華経一経から読み解き、その教えを組みことを主張してきました。それは、先に記したとおり、ジハードとポアの否定という意味です。また、軍事への反対は、不殺生という自戒に基づくのであって、これは既に日蓮の教えとは違います。むしろ、原初釈迦教団のあり方です。
ただし、国民としてということであれば、既に先に記したとおり、憲法、自衛隊ともに現状維持という見解です。しかし、これはわたしの「日蓮」との脈絡で考えるのは、わたしの内心の話であって、政治的技術論その他は、ここ仏教の掲示板の内容に沿わないというという判断です。
ここの掲示板は過去数年間、宗派的立場を超えた真摯な人々によって、実に大きな成果を上げてきました。このような現場で、政治という観点から、日蓮を見なければならないという視点にわたしは反対であるといっているわけです。それは、ですから、過去にあなたがわたしの投稿を誤読した上で、質問を無視したこととは違い、ネグレクトと批判されることではありません。
実際のところ、真蹟遺文、冨士門下資料、曼荼羅その他の優秀な議論が、まったくとまってしまっていることを政治的観点から仏教を論じようとするの弊害であると残念に思っています。
大学研究室に入り込み、政治を意識しない研究はだめだといっているようなものでしょう。なんでも政治的見地からものを見なければならないという議論は、本来仏教議論に対する政治的干渉以上の意味を持ち合わせないということです。
170
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 15:34:25
望月哲也師(立正大学文学部教授)
『社会変動と宗教戦後日本の社会変動と宗教』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_083.htm
師の反カルト運動、また、マインド・コントロールに対する見解と、わたしは違う立場・考えですが、上記講演は、社会と宗教を考えるうえで、なかなか参考になりました。(師はカルト・反カルトを宗教対宗教、もしくは宗教対国家の観点で論じていますが、実際のカルト問題はカルト対無宗教の家族という関係で生じている点からは論じられていないように見えます。この点で、見解を事にするということです。ただし、これはこの講演の社会と宗教を分析する師の秀逸さに疑義を挟むという意味ではありません。カルト、マインド・コントロールに係る見解のみわたしと違うということです)
わたしは政教分離という原則から宗教は私的枠組みを第一義とする考えですが、望月師、また、西山師は、世俗国家、国民国家という枠組みで封印された宗教の公共性の喪失に警鐘を鳴らしています。
(参:『公共問題と公共宗教』
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/23269593.html
)
ただ、このような公共性は、政治的見地からの解釈ではなく、宗教者側からの自主的反省に基づく点が重要です。また、ここでいう宗教の公共性は近代、世俗国家論によって私事に追いやられた宗教を < 私事 - 公共 - 政治 > の中間に見、私事から公共への役割の拡大を示唆するものであるとわたしは受け止めた。
西山師が「真ん中(私事の集合)で宗教が活躍すべきではないのか。上=国家としては政治として、私生活としては心理学的に換言するのではなく、その真ん中で関わる。公共を大切にしながら個人の問題とどう関わるかに本化仏教がある」(当日メモ)と位置づけた視点にも、わたしは学ぶところがありました。
171
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 15:35:44
【170の訂正】
誤)見解を事にする
正)見解を異にする
172
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 18:09:11
仏教が果たすべき本来の役目
日蓮宗現代宗教研究所主任 伊藤立教
第38回中央教化研究会議報告〈速報〉
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/flash043.htm
以上、わたしとは、立場も考えも違いますが、当スレ、日蓮、日蓮宗、日蓮主義と関連するので、資料として紹介しておきます。
なお、石橋湛山師については、日蓮関連の掲示板では、取り立て説明するまでもないでしょう。わたしは個人的に石橋師に賛同するところは多くあります。また、石橋師に関しては、戸田氏はかなり、意識しており、昭和2、30年代の創価学会出版物においては、その対抗意識はありありと看取できます。それはまた、戸田氏の政治的動向とも大きく関わっていること、ひいては現在の創価・公明と自民との関連にまで及ぶことはいまさら記すこともないでしょう。
173
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 21:15:32
・以下、論考も参考になります。
キリスト教、天台宗、イスラム教の視点も含め
伊藤立教師『日本の若者は殺さない』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/note_015.htm
「軍隊を捨てた国コスタリカ」の紹介
石川浩徳師『有事立法に思う』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/note_003.htm
国がまえに民のから、民を意識したという点では、言うまでもなく左系と非難された
中野教篤師『現代に『立正安国論』をよむ』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_272.htm
中野師とはまた違った視点から
三原正資師『「立正安国論」の世界観(初期御遺文を中心として) 』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho30/s30_134.htm
ガンジーとの関連も含めて
今井行順師『但行礼拝の行者 藤井日達師の問いかけるもの』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_295.htm
174
:
匿名
:2005/12/02(金) 00:06:39
>ほら、でました、この上から見下した態度。「意識の程度」自分は政治はわかっている、立派だというわけで、それに比べて、ここの投稿はということでしょう。
投稿内容のレベルが低い、参考にならない、わかりきったことだ、知識がないなどと、散々と見下されたのは、私のほうなんですよね。
まあ、しかし、人にはそれぞれ得意分野、専門分野というのがあります。
私は、仏教教義に関しては、おわかりのように、たいした器量はありません。信仰心はあっても、細かい教義を身につけていくのは私には不向きなことなのでしょう。大半は、こちらの掲示板、貢献度の高い犀角独歩さんから学ばせて頂いた。何度も書いたことですが、その点については、感謝もしているのです。
しかし、政治と憲法については、恐らく関心度においては多少は私のほうが高いのかもしれません。
しかしだからといって何も見下しているのではありません。
私の投稿とて、政治の専門家や法律家から見れば、相当舌足らずな内容です。
でも、それでいいのではないでしょうか。ひとつのキッカケなんですから。
読んでくださった方が、少しでも、憲法改正について、一国民として向き合う気持ちを持ってくださり、責任ある投票意識を持とうと頭の片隅にでも留めてくれるといいなあと思うのです。
まだまだそのような意識を持っていなかった方だっていらっしゃるのではないでしょうか。もともとの私はそんな感じでしたから、そう思いますよ。
>ここは憲法改正や、政治を論じる掲示板ではありません。
と思うのなら、このようなスレッドを立てた管理者に異論をいえばどうでしょう。
>憲法改正(改悪)と日蓮を脈絡をつけて考えることを警告を発しているのです。
私は護憲の立場で書いてきていますが。
>また、軍事への反対は、不殺生という自戒に基づくのであって、これは既に日蓮の教えとは違います。むしろ、原初釈迦教団のあり方です。
軍事への反対は、自戒に基づき兵役拒否だと書かれていたかと思います。
これは、自分自身のことであって、人にそれを勧めるものではないと解釈して良いのでしょうか。
前の戦争責任から、積極的に政治には関与しない。それもひとつの道だと思います。
お釈迦さまの出家に近い精神行動かもしれません。
175
:
匿名
:2005/12/02(金) 00:07:07
>仏教の掲示板の内容に沿わないというという判断です。
仏教の掲示板に沿わないということをよく書かれています。つまりそれは、仏教徒は考えてはならないということですか?それとも、考えたくないということでしょうか。
>実際のところ、真蹟遺文、冨士門下資料、曼荼羅その他の優秀な議論が、まったくとまってしまっていることを政治的観点から仏教を論じようとするの弊害であると残念に思っています。
私の投稿が原因だというなら、それは大変申し訳ないことだと思います。
>大学研究室に入り込み、政治を意識しない研究はだめだといっているようなものでしょう。
それは違います。最初の頃に書きましたが、いつもいつも戦争のことを考えなければならないわけではなくて、時に真剣に向きあって考えておかなければならないのではないかということです。そのとき、日常的に考えている立場の人の意見というものにも、耳を傾け参考にすることも必要なのではないか、そのような人をやたらと排除しないほうが良いのではないかというのが、この度の私の見解です。
>なんでも政治的見地からものを見なければならないという議論は、本来仏教議論に対する政治的干渉以上の意味を持ち合わせないということです。
また、何を言っているのでしょう。前にも聞いたことですが、仏教教義に対して、政治的干渉を、誰がしました?
私ですか?私は他のスレッドには、意見も見解も挟んでいません。今後もそのようなことはないでしょう。
今回、書いたことは、私の内心の信仰について語ったまでであって、何も人に押し付けようという意図のものではありません。
そもそも、この掲示板で政治的発言をしたのは、あなた自身です。だからこそ私はそれに異論を投じたのです。
それがこれまでの流れですね。
しかしあなたにしても私にしても、政治的発言をしたからといって、何ら「政教分離の原則」に反したことではありません。
宗教の側から政治的発言をすることは、憲法上、何も問題はないのですから。
176
:
匿名
:2005/12/02(金) 00:07:36
政教分離の原則について
日本国憲法第二十条〔信教の自由〕で、「政教分離の原則」を規定されているわけですが、二十条の原文は以下の通りです。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
ここには「政教分離」という文言はありません。
信教の自由を「保障する」ということは、公権力によって、信教の自由を侵害することを禁ずるという意味であり、そのために、さらにすすんで、国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立な立場に立つことが求められる、これがすなわち、国家の非宗教性の原則、または国教分離(政教分離)の原則といわれるものです。
しかしこれは、言い換えれば、宗教の側からの政治関与を否定するものではないということです。
ですから、宗教家であっても、政治的発言はもちろんのこと、政治家にもなれますし、宗教教団を母体とする政治団体をつくっても違憲ではありません。ですから公明党そのものは、違憲ではないということになります。
ただし、政治的権力を使った特定宗教団体への利益誘導がされるようなことは、これは完全な憲法違反です。
ですから公明党の場合、そのような政治的な利益誘導がなされていないかといったことの、国民的監視は必要であろうかと思います。
国には、地方公共団体や公法人も含みますので、国家レベルのみならず、市町村レベルでの監視が求められるところといえるでしょう。
この度発表された自民党の新憲法草案では、この第二十条に関しては、3項目が以下のように大きく書き換えられているようです。
③ 国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。
これは、「政教分離原則は維持すべきだが、一定の宗教活動に国や地方公共団体が参加することは、社会的儀礼や習俗的・文化的行事の範囲であれば、許容されるものとする。」ものだそうで、恐らく、政治家の靖国神社参拝を合法化する意図のものかとうかがえるものです。
私の所感としては、憲法というのは、あまり複雑な文章であってはならないと思うのです。
簡素な文章で大筋を定め、細かいところは、その他の法律で規定していく。そういうものであるべきだと思いますね。
むしろ、いろいろな解釈が成り立つくらいの規定が、かえっていいと思います。
自民党の新憲法草案
http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf
177
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 01:08:27
匿名さん
わたしがあなたに、「仏教的な立場はどのようなものでしょうか」、こうお尋ねしてきたと、あなたはなんと言いましたか、本人が投稿したくないこと、語らないことを無理矢理、強要した、こんな調子ではありませんでしたか。
それにもかかわらず、わたしは政治的なことは記さないというと、それに対して食い下がり、あなたは抗議しています。これは‘強要’に当たらないのでしょうか。
> 政治と憲法については、恐らく関心度においては多少は私のほうが高い
さあ、どうでしょうか。ここで述べなければ関心が低いと判断するのは短絡でしょう。
> 憲法改正…意識を持っていなかった方だっていらっしゃる
それは、この掲示板投稿者の「政治の程度」を低く見下した観察でしょう。
>> ここは憲法改正や、政治を論じる掲示板ではありません。
> …管理者に異論をいえばどうでしょう。
なぜでしょうか。戦・争は何の憲法改正、政治と関連せずとも佛教のテーマでもあります。それを憲法改正・政治と見るのはあなたの視点であって、佛教的見地からであれば、何も異論を述べる必要などまったくありません。
>> 憲法改正(改悪)と日蓮を脈絡をつけて考えることを警告を発しているのです。
> 私は護憲の立場で書いてきていますが。
別段、あなたに対して記しているわけではありません。日蓮から創価学会が言う日蓮民衆仏法までの先の投稿におけるわたしの発言を説明しているのです。
> 軍事への反対は、自戒に基づき兵役拒否
> 自分自身のことであって、人にそれを勧めるものではないと解釈して良いのでしょうか。
> 前の戦争責任から、積極的に政治には関与しない。それもひとつの道だと思います。
> お釈迦さまの出家に近い精神行動かもしれません。
そのように単純ではありませんが、原則、そのような立場です。
しかし、殺人に関して、制止は自戒の範囲を超えています。
> 考えたくないということでしょうか
考えたくないということではなく、顕正会が、わたしの実名と社会的地位を報道した以上、わたしの宗教論攷の成果をここに記すことはともかくとして、政治的な記述は、できれば避けたい。仏教徒として、相手が○○党であるとか、右・左、○○宗などという分け隔てなく、連携していく段階で、特定の政治的見地にしばられている立場ではないわたしとしては、そのような点について、述べることは出来ません。これが個人的な理由です。
178
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 01:08:47
―177からつづく―
> …仏教教義に対して、政治的干渉を、誰がしました?
あなたがしています。
仏教徒に対して、政治から考えろと言うのは強要と映じているということです。「そんなことはしていない」というのであれば、そのように見えますよと、言い換えてもよいでしょう。
> 政治的発言をしたのは、あなた自身
世界の情報ボックスで徴兵制に触れたこと、自衛隊が任務で人を殺せば殺人だといったことでしょうか。佛教の見地から話です。あなたがいう仏教から政治にものをいう入り口をノックした程度の話でしょう。すると、政治側から仏教解釈にものが言われた。これは政治の宗教関与のようで不快だといったわけです。あなたも政治の宗教関与は不可だと記していましたね。
> 宗教の側から政治的発言をすることは、憲法上、何も問題はない
そのとおりです。
しかし、政治の側から宗教に発言することは信教の自由を国家レベルから侵害したことになります。それはあなたが記したとおりです。
あなたがどのような職業の方が存じ上げませんし、社会活動その他をしているのかどうかも存じ上げません。ただ、先に共産主義、共産党に対してはかなり侮蔑的な発言をし、自らを保守右系のように語っていましたね。
佛教者には、公明党は元より、共産党員もいます。無政府主義という人もいるでしょう。いろいろな立場の人がいます。そのような政治的な立場は、佛教という現場では問題ではないのです。しかし、ここで政治の話を持ち出せば、せっかく、佛教の議論をしていても、その各人の所属に引っ張られてせっかくの佛教議論が歪んでしまうことは残念なことであると言うことです。仏教徒は出来る限り政治的には中立であるほうが発言も中立となります。そのためには、自身の政治カラーは、押さえるほうが適切であるという判断はあるということです。それも無利子つり聞き出そう、引き出そうとするあなたのやり方には従えないと申し上げているわけです。これは政治への関心が低い・高いと言うこととは別次元の問題です。
あなたは、政治・憲法については、ここで投稿する方々より、自分のほうが意識が高い、そう自負されるのは勝手です。しかし、そのような議論を持ち出すことによって、壊れてしまう議論者同士の微妙な関係には思いが至らない点は迷惑だということです。
以上なことから176に記されるような点は、まあ、言いたくありませんが、わかり切った話であると、皆さん、お考えなのではないでしょうか。ですから、議論に参加されないのでしょう。
ご本人、自覚がないようですが、ご自身が政治・憲法の知識が他より高いという見地から、何かここの投稿者を見下しているような形になっていることにお気付きになれない点は、しかし、わたしが申し上げるしかないのでしょう。
種々、お勉強もなさっていると思いますが、わたしが170から173に紹介したいくつかの短文ぐらいは目を通してみてください。さすれば、なぜ、皆さんがあなたの議論に加わらないのかはご理解いただけると思います。
179
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 01:16:51
【178の訂正】
誤)無利子つり
正)無理失理
180
:
匿名
:2005/12/02(金) 10:49:18
>仏教徒に対して、政治から考えろと言うのは強要と映じているということです。
微妙なニュアンスは伝わらないものです。
政治から仏教を考えるなどと言ってはいません。逆です。
仏教から政治を考えることを言ってきたつもりです。
ただ、そこには限界もあるだろうことを私は最初に書きました。在家信徒ですから、それも仕方ないだろうと。これは個人的な見解ですが。
それに関連して、犀角独歩さんの社会的な立場は理解いたしますので、お答えも無理だということ、理解いたします。
ただ私が質問にお答えすると、お粗末だといわれたので、なんだか矛盾を感じ、あの質問はどうなったのかをお尋ねしたまでです。何度も言っているように、もとより強要するつもりはありません。
>自分のほうが意識が高い、
>ご自身が政治・憲法の知識が他より高いという見地から
意識ではなくて、関心です。取り違えないでください。
私は、世界情報ボックスから、自分の関心事について投稿をはじめました。
情報ボックスですから、「議論」というよりは、「情報」としての投稿です。こちらのスレッドになっても同じです。しかし、私個人についてのことを聞かれたので、語らざるを得なくなった。
語れば語ったで、「そんなことはわかりきったことで参考にならない」と何かにつけて見下してきたのは、犀角独歩さんですね。それも1度や2度のことではありません。
こういうことが連発されるのは、非礼・無礼、言葉の暴力の類であります。また、他の掲示板に行けということも何度も言われましたし、またこのこの度の私への投稿も、投稿させまいと心理的に追い詰める内容にとれます。このように、投稿をさせないよう促す発言は、ある種の人権侵害でもあるでしょう。
投稿者に対して、そのような発言を何度も繰り返すことは、あまり好ましいことではないと思います。
掲示板のルールでは
これらの「掲示板の主旨」をご理解いただきまして、どんどんご発言賜りたいと存じます。
と書かれてあるのですから。
私の投稿が、掲示板の主旨に反しているなら話は別ですが、反していないのであれば、その投稿内容が掲示板に「ふさわしいか、ふさわしくないか」をあまりに問題視にしていくと、投稿が窮屈になるばかりです。それが行き過ぎると、「どんどんご発言賜りたい」という主旨に反することになっていきはしませんか。
ですかに、本来そうしたことは、管理者さんのご判断に一任すべきことではないかと存じます。
ただしかし、犀角独歩さんが他の議論の妨げとなって迷惑しているという、その現状とお気持ちを汲み取り、そこそこで投稿は止めるつもりでおります。
181
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 11:44:44
匿名さん
わたしは、あなたの文章というものは事実を枉げていると思いますよ。
> 「そんなことはわかりきったことで参考にならない」と何かにつけて見下してきた
見下したわけではありません。そのようなわかりきったことを記し、見下されたと思ったのわたしのほうです。
> 非礼・無礼、言葉の暴力の類
非礼・無礼にあったときに、その点を指摘するとこれを言葉の暴力であるというのは、殴った相手を怒鳴りつけたら、怒るのは悪いというような論法でしょう。
> 他の掲示板に行け
そういったのではなく、政治的技術論、また、自衛隊翼賛したければ、その点については、それぞれの掲示板でなさってはどうか、ここでは仏教の視点に絞られてはどうかと言ったのです。
> 投稿させまいと心理的に追い詰める内容…人権侵害
人権侵害、冗談でしょう。
もう少し、ここまでの流れをちゃんと思い出してください。
わたしが自衛隊に関して、異論を述べた。それを妨げようとしたのは、あなたを含めて3人の人々であった。つまり、わたしに自衛隊批判の投稿をさせまいとしたのは、あなた方のほうでしょう。人権侵害をされたという認識は、むしろわたしのほうにあります。
よくここまで論理をすり替えられるものであると、溜息をつくほかありません。
戦争という問題を、仏教という視点で考えるとき、非暴力、不殺生を教えを護り無惨に殺されていった過去2500年間、あまたの仏教徒の不幸にわたしは涙が止まりません。
また、日蓮と戦争の関係を考えるとき、過去の敗戦で戦争翼賛に理論的荷担をした日蓮主義の過ちを二度と繰り返してはならない身の引き締まる思いがするのです。
その視点から、語ると自衛隊を批判したと言い、寄ってたかって、人格を傷つけられたのはわたしのほうであるという自覚です。
182
:
匿名
:2005/12/02(金) 12:15:21
>そのようなわかりきったことを記し、見下されたと思ったのわたしのほうです。
とんでもない。あなたにはこの掲示板の貢献において、勉強させていただいたこと、感謝していると何度も申し上げてきました。
いつのまにか、こんな応答になってしまいましたが、そもそも私は、投稿内容に対しての「意見」を述べてきただけです。
見下すなどは、もとより有り得ません。
そうそう、私は、レベルが低いとまで言われましたよ。
>非礼・無礼にあったときに
相手にとってわかりきったことを書くのが非礼・無礼なのですか?
そんな、わかわりきったことかどうかなど、そもそも、わかりようがないと思いませんか。
>それぞれの掲示板でなさってはどうか、ここでは仏教の視点に絞られてはどうかと言ったのです。
それは、管理者にルールとしてご提案されてはいかがでしょうか。
今のルールでは、それを投稿者に促されても無理だと思います。
>わたしに自衛隊批判の投稿をさせまいとしたのは
一連の自衛隊への異論は、通りすがりさんからの侮辱への抵抗と書かれていたかと思いましたが。
そもそもあなたの自衛隊批判というのは、どういうものなのでしょう。
いまだにそれはよくわかりません。
具体的な自衛隊批判を、お書きになればよろしいかと思います。
私はそれを妨げるつもりはないです。むしろ、その点は「自衛隊の存在をどう思っているのか」といった質問をしていたはずです。
>日蓮主義の過ちを二度と繰り返してはならない身の引き締まる思いがするのです。
この点は、これまでの記述でよく理解いたしました。
私も賛同いたします。
>寄ってたかって、人格を傷つけられたのはわたしのほうであるという自覚です。
怒りっぽいことをたしなめはしましたけど、人格を傷つけるほどのことではないと思っております。
ただ、あなたは社会的立場を公表しておられるので、その点において、社会的名誉をもしかしたら傷つけたかもしれず、その点はご迷惑をおかけしたかもしれないなと、申し訳なく思っております。
しかし、自分の立場を公表するしないは、本人が判断することですから、まあ掲示板ではこういうことは避けられないと思います。
183
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 12:57:00
> レベルが低いとまで言われました…
あなたは、わたしに「政治の程度が」といいました。
売り言葉に買い言葉、喧嘩は江戸の華という育ちは、どうも抜けません。
この点はお詫びします。
> 投稿者に促されても無理だと思います。
改憲、軍事、自衛隊に異論を述べた瞬間にわっと寄ってたかってという印象です。
わたしの気分として、掲示板が軍国主義に占拠されかけたことへのレジスタンス運動のような思いでした。
何度も記しましたとおり、ここで実現された冨士門再考は歴史的な成果があったのです。
それを政治、改憲、自衛隊、軍事翼賛で占領され動きを止められて残念という思いがあるわけです。そのことからのこげりの表現です。
しかし、実際、あなたが言うとおり、とまらないのです。むしろ、このようなところに、わたしは戦争のメカニズムを見るのです。
> 自衛隊批判
この点は具体的に述べません。功罪両面があるでしょう。
しかし、一般市民に過ぎないわたしへ、元自衛隊がどのような態度で接するか、官軍・民の一つの縮図をここに現出させたことになったわけです。
そのような軍反発を素直に捉えられるキャパが、やはり、自衛隊にはないのかと、落胆しました。武器を持った者は、丸腰市民に威圧的、かつ侮辱的であるというのは洋の東西、古今を問わず、変わらぬ光景です。そして、彼らは必ず同じことを口にします。「我々ほど、平和を愛するものはいない」、平和だけならヒットラーでも口にしたわけです。実際、丸腰市民にどのように接するか、軍経験者が特権意識を持っているか・いないかという点で‘民主平等’を本気で言っているかどうかを、民は観察しています。
> あなたは社会的立場を公表しておられる
これはまったく誤解です。
わたし犀角独歩は社会的立場を公開してなどいません。
それをこの人物の本名はかくかくしかじかだ、どこどこのなになにだと、本人の許可も取らず、公開したのが顕正会でした。顕正会にも自衛隊は多いとのことでした。まあ、それが今回の反発の動機にはなっていませんが。
> 自分の立場を公表するしないは、本人が判断すること
そうです。そのわたしの判断権利を侵害された矢先のあなた方の投稿であったわけです。
184
:
匿名
:2005/12/02(金) 13:07:30
>183
すべて納得いたしました。理解いたします。
貴重なお時間をとらせて申し訳ありませんでした。
あと私は、戦争責任について、少しばかり投稿してみたいと思っております。
それをもって終わりますので、よろしくお願いいたします。
185
:
匿名
:2005/12/02(金) 13:16:52
追記
>顕正会にも自衛隊は多いとのことでした
そうですね。
顕正会以外の富士門の方もいらっしゃることでしょう。
私が心配するのは、教団同士の確執やいざこざが、隊の中に持ち込まれていなければいいがという思いですね。
それこそ国家防衛にとって弊害以外の何ものでもないですから。
余談ですが、ちょっと記しておきました。
186
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 13:39:41
匿名さん
長い諍論でしたが、誤解は解けた点は良かったと思います。
> 教団同士の確執やいざこざが、隊の中に持ち込まれていなければいい
まあ、これは逆も真で、自衛隊内の確執、いざこざを、こういった宗教の現場に持ち込まないでほしいという弱者の願いがあります。
> 国家防衛にとって弊害以外の何ものでもない
これも同様です。
常に官・軍の強権で翻弄されてきたのが宗教です。
先では各宗派の戦争協力、近代では廃仏毀釈という大破壊もありました。
そして、国家防衛という名の隣国挑発で、その利権はさらに力を増し、利権が生じるのでしょう。
残念ながら、この点での同意に至ることはないでしょうか。
187
:
匿名
:2005/12/02(金) 22:57:07
>186
>これは逆も真で、自衛隊内の確執、いざこざ
自衛隊内の確執、いざこざが持ち込まれた投稿であったということなのでしょうか。
ごめんなさい。これに関連して、一点だけ前のレスにコメントさせてください。
>軍反発を素直に捉えられるキャパが、やはり、自衛隊にはないのかと、落胆しました。
これは恐らく、個人レベルの話になるかと思います。世間は広いですから、いろんな人がいます。自衛隊員のなかにも、紳士的な人もいれば、威圧的な人もいる。同じ訓練を受けても、いろいろおられることと思います。
ただそれとは別に、こと宗教が絡むと、さらに事情が複雑になるものではないかと想像します。あくまで想像ですが、宗教問題に軍事が関係してくるとなると、非常にナーバスな問題だと思いますね。それを掲示板に持ち込まれたのかどうかは私にはわかりませんが、しかし、逆にいえば、そういう問題が自衛隊組織の中に存在しているということを意味しているわけで、となると、確かに犀角独歩さんの言われるように、掲示板での議論で自衛隊については深く触れないほうが賢明といえるかもしれません。
その意味で、私は考えを改めます。
>常に官・軍の強権で翻弄されてきたのが宗教です。
戦前はそういう側面が強くあったのでしょうね。戦後生まれになると、それをどう想像していいものやら、わかりませんが。
宗教と政治の関係を考えはじめると、これはまた別の深い議論になるでしょう。
それこそ奈良から平安への遷都にまで溯る議論ですから。
こちにのスレッドにうつって早々に頂いた、乾闥婆さんからのご質問のなかにありました記述、
>国家を容易に左右できる宗教があるのであれば、それこそ「批判」の対象となるべきなのだと思いました。
実は、今でも自問しているんです。国家を左右できる宗教は、本当に批判の対象だろうかと…。
とりあえずのご返答を投稿いたしましたが、私自身は、まだ自分で納得する答えが出ていません。
とても重用な投げかけを頂いた気がいたしております。
そもそも国家や民族の成り立ちに、宗教の存在は決して切り離せるものではありません。しかし、宗教の権威が絶対的なものになると、かえって民衆を苦しめてしまう。ヨーロッパ中世の歴史や、戦前の国家神道、日蓮主義がそれを証明しているわけですね。そのような長い歴史の教訓を経て、今日のような近代憲法における、信教の自由と政教分離が確立されてきたものかと思います。
188
:
匿名
:2005/12/02(金) 22:57:32
>国家防衛という名の隣国挑発で、その利権はさらに力を増し、利権が生じるのでしょう。
「国家防衛」を「安全保障」に訂正しても構いませんが、「戦車」を「特車」と言っているようなものですから、私はそんな言葉上の誤魔化しはしないことにいたしまます。
ご指摘のように利権の側面も確かにあるでしょう。しかし防衛利権で生活が成り立っている人は、何も自衛隊員だけではありませんね。民間企業だってたくさんあります。もっといえば、石油エネルギーからその他のエネルギーへの転換が難しいのは、エネルギー利権を生業としている人々がいるという側面もあるわけです。大半は民間企業です。
経済の構造そのもの、産業の根幹から変わっていくことですから、クリーンエネルギーの開発が進んでも、一気にそれを転換することは難しいわけです。抵抗勢力といえぱいいのかもしれません。ただしかし、石油に関して私見を述べれば、実際、それはそれは大変な思いで石油を採掘し日本に届けてくれてもいるわけです。目には見えませんが、その人々のことを、単に石油利権として括るのはあまりにも酷なことではないかとの思いも、私にはあります。当面は、生活に石油が欠かせないのは現実ですしね。
かつて、石炭がエネルギーの主流だった頃、炭鉱は経済産業の根幹を担っていたわけです。それがあることで救われた人々もたくさんいたわけです。
どんな利権であっても、ひとつを崩壊させれば、それは経済全体へと崩壊が波及しかねないわけです。だからといって戦争していいものなのかという倫理観の話にもなりますが、しかし実際には、業界の人たちにとっては死活問題ですし、ひとつの業界が破綻して、その余波で経済そのものが崩壊すれば、利権に関係なく日本国民全体に経済被害は波及します。それを人災というか天災というかわかりませんが、それ自体が戦争みたいなものでしょう。
ですから、現実問題として、平和の理想通りに、すんなりとはいかず、どうしても徐々に移行していくしかないものなのだろうと思います。上昇を止めれば、下降が待っているわけですから、利権が増幅しないようにといっても、難しいことなのでしょう。
さらに、ただ利権の為だけの国防ではないのも事実ですね。恐らくその点は、仏教徒としてのご自分において、敢えて書かないだけで、本当は理解されていることと思います。
隣国挑発という懸念も確かにあるでしょう。
日米同盟における仮想敵国は、中国なわけですが、中国は経済大国を目指しつつ、同時に軍事大国をも目指してきました。勢いをもって大国になってきている国というのは、非常に微妙で、時に政治的判断を誤る場合もあるわけです。
その意味において、ある程度の警戒は必要であり、とりもなおさず、中国が今後どうなっていくかは、21世紀世界全体の課題でもあるといえるともいわれています。
現在、世界の工場とまで言われるほど経済的発展を遂げた中国にとって、今後の石油資源の確保は最重大な国家課題です。
領海域を侵しかねない中国の資源争奪に対しては、日米共同の軍事的牽制はどうしても避けられるものではありません。
ただしこれも、いたずらに過敏になることではありません。そもそもこうしたことは、世界中の大半の国家間が水面下で日常的に行なってきていることであり、そのような水面下の牽制が、かえって表面的な政治的対立を抑えてきてもいるわけです。
まず何よりも、こうした状況というものを冷静に見極めていくことが大事なのではないでしょうか。
そもそも、軍事大国を目指してきた中国ですが、実は、大国アメリカの軍事力に対しては、ある意味大きな敬意を払ってもいるといわれています。ですから基本的には、米中の戦争はないものと考えられています。だからといって、軍事的牽制を怠ることはできないというのが、国家の現状というものなのでしょう。
しかし、こうした国家同士が繰り広げている水面下の軍事牽制などは、仏教徒してはどうにも理解しがたいところだといえるでしょう。
そこは人間の為す愚かさであり、それが国家というものだとして、それに対して仏教徒がどうあるべきかにおいては、軍事反対は頑として反対だとしても、やはり、その訴えが怒りにまかせた感情的なものになってはならないものと、私は思っております。
仏教徒としては、確かにコスタリカのような国を目指したいところです。ある意味、羨ましいと思いますね。
しかし日本の地理的におかれた状況からいって、アメリカの環太平洋政策における軍事要塞としてのポジションは避けようがなく、ある程度の軍事保有は、日本の国民生活を保障する国益を考えれば当面は致し方ないだろうと思います。
これは日本の地政上のある意味での宿命といえるでしょうし、また同時に、日本の仏教徒としてのジレンマでもあるでしょう。
189
:
匿名
:2005/12/02(金) 22:57:58
>残念ながら、この点での同意に至ることはないでしょうか。
これは同意に到らなくとも、何も残念がることではありません。
藤川一郎さんも書かれていましたが、真中をとるというのは、とても大事なことです。しかし、そうだとわかっていても、中庸というのは大変に難しい。一人の人間の内心のなかで、真中をとるというのは、とても難しいものだと思います。どうしても、どちらかに偏ります。
だけど、いろんな人がいれば、全体で中庸にバランスがとれるものではないでしょうか。
私は、仏教徒である自分を譲らない犀角独歩さんの立場を、理解するに到りました。
しかし理解はするけど、私の考えが変わるかというと、完全には変わらない。
それでいいのではないでしょうか。
お互いに立場も考えも変わるものではないけれども、その立場を超えて、お互いの考えを理解し、そして尊重する。
私はそうありたいと思うのですが。
>長い諍論でしたが、誤解は解けた点は良かったと思います。
長く掲示板をロムしてきておりますから、これでもあなたのことは、そこそこ理解しているつもりです。
ただ、怒りっぽいのが玉にキズのようで、それでは、僭越ながら私のような者に、足もとをすくわれかねない。
老婆心ながら重ねて申し上げますが、ムカつく相手への反撃にも、多少の逃げ道をつくってあげられてはいかがかと。
それがあなた自身の為にもなるものと、拝察いたしております。無礼を承知で、これは進言させていただきます。
190
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 23:21:57
匿名さん
有り難うございます。
仰るとおり、同意に至らないことだらけで、皆で一緒にいる社会が素晴らしいのかも知れません。
まあ、わたしの怒りっぽいのは治りそうもありません。
足下など救いたければ救えばいいというのもわたしです。
けれど、進言は承っておきます。
しかし、かくいうあなたもけっこう短気なのではないでしょうか(笑)
191
:
匿名
:2005/12/02(金) 23:50:42
>190
>しかし、かくいうあなたもけっこう短気なのではないでしょうか(笑)
はい(笑)
だいぶ、落ち着きましたね。近日中に、もう1回投稿して終わります。
どうか静かな教義の議論に戻られますように。
192
:
犀角独歩
:2005/12/03(土) 13:44:52
「戦争を考える」というテーマは、仏教という心を扱う側にとっては、「何故、戦意が生じるのか」と換言できるテーマでもあります。この点は心理分析、ことに社会心理学の分析と相共通する側面を有しています。
ここ一連の議論が成り立たない理由は、至って簡潔で、向いている視線が逆であることに起因しています。
戦争というテーマに当たって、仏教・もしくは社会心理学は、その内的要因(心因)を考えるようとします。一方、政治という現場では外的要因(社会状況、国内事情、国外の脅威といったもの)から考えようとします。この2つは噛み合いません。けれど、たぶん、外的要因から考える人々も内的要因を考えていると答えるでしょう。しかし、内的要因から考え出す側からすると、その外的要因から考える人々の言う「考えている」ものは、実は与えられた考えを自分の考えであると思い込んでいるのに過ぎないという分析を伴って観察しているという構造もあります。半面、外的要因から考える人々は、内的要因から考える人々を外的要因に対する無知からの判断と即断する傾向があるように思えます。
歴史から、この内容が要因を考えて見ます。
中国では文武両道を言い、政に儒教などの内的要因の認知が導入され、さらにその中国思想によってアレンジされた仏教(格義仏教から鎮護仏教)が文武両道に併せて採用されることによって王政は統治に当たるという構造によって実現されていたわけです。
この点は、明治以前の日本においても、ほぼ同様であったことが窺われます。
ここで、為政者は、自己観察と分析において、文武、もしくは政教といった二律背反する原理を認めその両面から考える努力をなしていたことが知られます。
明治以降の国家の有様は、この政教というものを解体し、かつ、国民の意思(民意)を単一化することによって達成されてきた側面があります。
ここにおける民意は、国家が考えるように国民も同様に考えるという思想統制によって実現されたものでした。では、この統制に合わないものにはどのような烙印が押されたのか。非国民というそれです。このラベリングは、生殺与奪の実権を握る国家から生きながらの死刑を宣告をするものでした。さらに実際の投獄、極刑が治安維持法違反、また、不敬罪といった名目で可能であったわけです。
近代以降の日本において、ここに住む国民は、どのように考えるのかという国家が提供する心的モデルに基づいて実は考えてきたのであり、その心的モデル、すなわち提供された内的要因によって、外的要因を考えるという構造がそこにあります。
この内的要因の国家操作で重要な点は、国家が重大な決定を下すとき、国家は、この内的要因を、国民という群集心理の操作を必ず行ってきたという事実です。
政治システムから考えて見ます。
投票というシステムは、近代、考案されたもっとも民主的な方法論であるということになっています。これ以上のシステムは今のところ、思いつきませんが、しかし、この方法は万能ではありません。また、この方法は、それまでの政治責任、国家の決定が国王・為政者にあったものを、国民一人ひとりの責任の置き換えるという重大な負荷を背負うものです。
アメリカを例に取ります。投票の結果は大統領は選ばれます。この大統領が、核のスイッチを押した。すると、それはアメリカ国民全員の責任であり、かつ総意である<ということになる>という構造がそこにあるわけです。しかし、本当でしょうか。総意といわずとも、アメリカ国民の大多数が核のスイッチが押され世界が滅亡することを望んだからでしょうか。
このような歪は、しかし、日本の投票、政治というシステムでも同様の欠陥を有しています。
国民への責任転嫁は以上のような欠陥によって可能になっている構造がここにあります。
民意と政治上で‘翻訳’されるものは、以上のような深刻な構造欠陥の上でいわれているものに過ぎないという前提をわたしはいつも考えています。
193
:
犀角独歩
:2005/12/03(土) 13:45:28
―192からつづく―
また、戦争には重大な利権が絡み、一部特権階級にとって、これ以上のビジネスはないという一面を持っています。また、外的要因を考える人々は内的要因について、実に不感症になっている点をわたしは深刻に受け止めています。また、人の死、被害について、驚くほど無責任であるということです。外的要因から考える人々の国家と国民の同一視、思考の単一化は、社会心理学的な見地からすれば、権威主義的人格への民意統一によって実現されていると映じます。
わたしが、たとえば疑問に思うのは、小泉は靖国参拝をしますが、隣国緊張が騒がれているのであれば、そんなものは見えないところで個人的にやればよいわけです。日本にはキリスト者もいれば、共産主義者もいます。そのようなところで単に国民の‘半分’が支持するに過ぎない与党の総理大臣として、国民‘総意’の代表と他国からとられる公的参拝を特定神社にすることは論理的に成立しません。
結局のところ、このパフォーマンスは、アジア緊張を高める効果を有しています。また、国民にはアジア諸国から内政干渉されているという国民感情をあおる効果を有します。
隣国緊張が高まっているなどといいますが、高めているのは、このようなパフォーマンスに大きな原因があります。そして、その結果、アジアの緊張が高まっているから軍事強化をしなければならないというのは単なる為にする理論、出来レースであることはあまりにも明白です。
つまり、靖国参拝は英霊を御霊を崇めるために行われているのではなく、この御霊を利用し、アジア緊張を高めて、軍事ビジネスのスムーズ挙行を可能にするために行われている構造がここに見られるわけです。
以上は心的要因の操作の一例に過ぎませんが、しかし、このような恣意的操作に基づく、政治がいう外的要因とは、本当に信頼するに足りるものなのかという点が考えられなければなりません。また、そのような情報操作、さらに国民感情の操作によって‘作られた’国民の内的要因は、実際のところ、利権に絡む一部特権階級が用意したシナリオの選択を、あたかも国民の意思で行っているという‘まやかし’に基づいているのではないのかという点を、内的要因から考え出す側は懸念しているわけです。
ハッサンがカルト・メンバーの心理と行動について、以下のように記述しています。
「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)P109)
この決められたとおりの選択が、軍事増強、改憲論ではないのかという懸念をわたしはもっているわけです。
冒頭に記しましたが、外的要因から考える人々は、内的要因からものを言う人々に外的要因の認識の無知を指摘することが多く散見できます。このような人々の論調は、その外的要因を認識できれば、いま、日本が選択肢よとしている憲法改正(改悪)、軍事増強という決定は当然理解できるはずだという結論に基づいています。
しかし、そもそも、この結論が違っています。まったく、同じ情報を完全に掌握できたとしても、外的要因から考える人々の結論と、内的要因から考える人々の結論が違うことを、内的要因から考える人々は当初から認識しています。いや、たぶん、この点は外的要因から考える、特に政治側は熟知しているでしょう。故に彼らは‘操作’を仕掛けるのでしょう。
続きは追って記します。
194
:
犀角独歩
:2005/12/03(土) 17:14:44
今後、当スレの考証では、しばしば引用しようと思いますが、S・ミルグラム著『服従の心理』(河出書房新社)は必読書であると推薦しておきます。
ここで、「戦争を考える」という点で、戦争(=大量殺人)はイメージ化されている点をまず指摘しなければなりません。先にも引用しましたが、
「道具や武器があいだにはいったために、抑制メカニズムが利かなくなったことをコンラート・ローレンツが述べている。『このことは、さらにいっそう、現代の遠隔操作兵器を使う場合にも当てはまる。発射ボタンを押す人は、自分の行為から完全に遮断されており、それを見ることも、聞くことも、あるいはその他の方法で情緒的に実感することもないので、兵器でそうすることができる。たとえ、想像力を負わされていたとしても……』『攻撃』ⅠⅡ、日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房、1970年)」(P273)
また、このような構造は
「破壊的な官僚組織の有能な策略家なら、人員をうまく配置して、いちばん冷酷無情な者だけがじかに暴力に関係すればよいようにすることができる。人員の大部分を占めている男女は、実際の残虐行為から遠く離れているために、それを助ける職務を果たしていても、ほとんど緊張を感じないであろう。彼らは二重の意味で責任を免れている。第一に、合法的権威が彼らの行動を完全に是認しているため、第二に、彼ら自身は残忍な行為を実際にやっていないためである」(P186)
直前の引用文は、ある面、軍備を提示する側の国民への情報操作の面とも一致しています。また、ここのところ、議論されてきた点とも、一致しているようにわたしには思えます。
夏の頃でしたか、アメリカのハイスクールでの取材報道が放映されたことがありました。これは反戦運動家であれば、皆、遭遇したことですが、我々日本人が成育過程で必ず目にしてきた原爆投下後のあの悲惨な写真資料を、アメリカ国家は教育現場における操作によって抹殺しています。この点を、この報道は見事に映し出していました。
はじめに、アメリカの学校で使用される歴史教科書で第二次世界大戦の知識を得させ、原爆投下について、生徒たちに議論させます。
アメリカの子どもは言います、「たった数十万人の日本人が死んだだけで戦争が終わったんだから、原爆投下は正しい選択だった」
たった数十万人と子どもは事も無げに言いました。
授業の最後に多数決を取ります。結果は大多数が「日本への原爆投下は正しかった」に投票しました。
そのあと、日本人ディレクターが、この子ども達に、日本で出版されている原爆写真集を閲覧させます。それを見た子ども達は顔色を変えて言いました、「私たちはこんな残酷なことを隠されてきたのかな?」
195
:
犀角独歩
:2005/12/03(土) 17:15:06
―194からつづく―
いま日本で起きている自衛隊論争、また改憲論争は、このような情報操作はないのでしょうか。先にわたしが記した用語を使えば、外的要因とされる情報のなかに、戦争の凄惨な現実、また、過去半世紀の日本政府の非戦闘員に対する無責任な政府対応をはじめとする重要な情報が盛り込まれていないのはなぜなのか。反面、靖国英霊といった形で、戦争は美化され血なまぐささ、死傷、人がもがき苦しみ死んでいった様は、灰燼に帰して人間が燃え、腐り異臭を放った町並みのリアリティは最早そこにはありません。「御霊」と変換され美化されていきます。
ここでは、内的要因が操作されていないのか?
操作されているでしょう。
わたしは、この議論の当初で「徴兵制が不可欠」と記したことによって、やり玉に挙がりました。徴兵制によらなくても軍事増強になっているのが、世界の流れだと言います。
そうでしょう、たしかに。しかし、それは、国民が、この悲惨残酷な「戦争」を考えるうえで、どこに配置されているのかという視点に立つとき、「冷酷無情な者…暴力」から隔離される操作がある点が見落とされています。戦争とは=自分自身の殺人殺戮、残虐暴力の問題であるという点を、わたしは言いたかったのです。この点を直ちに了解してくれたのは単己さんでした。
わたしはたとえば憲法改正賛成、軍事増強賛成、自衛軍賛成、参戦賛成という意志を持つ人が100人いるとき、では、その交戦にあなたは参加しますか、また、体を吹き飛ばされ、腸が飛び出し、苦しみもがき治療も受けられない状態に、あなたが自分の手でしますか? と尋ねるとき、たぶん、大半の人は、憲法改正その他には賛成だが、自分が戦争に行くのは嫌だ、交戦して人を殺すのは嫌だと答えるのではないでしょうか。
では、このギャップはいったいなんなのかということが内的要因を考えるということです。
故にわたしは匿名さんに問うたわけです。では、あなたが自衛隊になりなさい。なって、専守防衛(安全保障)という名目で、攻めてきた敵を殺しなさい。国際貢献という名で交戦に参加し、人を殺しなさい、と。
凶器を使わず、人を殺すということは、かなり永続的精神力を要し、体力も要します。
首を絞めるか、殴打して殺すか、蹴り殺すか、大変な労力を要します。殴打した側も打撲を負い、骨折することもあるでしょう。その痛みから殺人のなんたるかを実感できます。刃物をもって、刺し殺せば、その夥しい血の量に自分が何をなしたかが実感されるでしょう。ピストルで撃ったとしても、流れる血、はじき飛ばされる肉骨、地面に広がる血から、自分がなしたことはある程度、実感できます。
1対1の殺人でも以上のようです。それが参戦という現場では時には数十万人の規模で起きるわけです。
しかし、われわれが国際貢献のために自衛軍参戦に1票を投じるとき、このようなリアリティは完全に失われています。失われたところから議論がされています。
過去の戦争より、現在の戦争ははるかに残虐であり、大量殺人になっています。しかし、その労力は反比例して、格段に下がっているわけです。つまり、残虐・凄惨さをまったく感ぜず、何万人の人を瞬時に虐殺できる反比例がここにあります。
以上のような点は、戦争、いや憲法改正、自衛軍、国際貢献という名の参戦を考えるうえでの自分自身に置き換えた外的要因であるはずです。ところがこの点は、通常、議論される段階でまったく除外されているわけです。
この除外された議論は、まさにアメリカのハイスクールの子ども達と、どこが違うのか?という疑問を、わたしは内的要因から申し述べているわけです。
196
:
匿名
:2005/12/03(土) 21:36:02
>192〜195
何度も投稿してきたことですが、私は護憲の立場だと言ってきたことも、今の憲法で十分、自衛隊は合憲だということも、まったく理解されていないのでしょうか。
私のほうばかりが、犀角独歩さんの立場に理解と尊重を心がけて、議論の収拾をはかっていたようで、一方の犀角独歩さんの方は一向に、私の議論に理解すら得られなかったことがよくわかりました。
やっと長い議論が収拾に向かったかと思いましたが、このような投稿を読むと、つい意見を挟まずにはいられません。
申し訳ないですが、挟ませていただきます。
>そのようなところで単に国民の‘半分’が支持するに過ぎない与党の総理大臣として、国民‘総意’の代表と他国からとられる公的参拝を特定神社にすることは論理的に成立しません。
半分が支持しているというのは、大変大きいのではないでしょうか。
残りの半分は、積極的に支持しない人がいるとはいっても、半分のうちのおよそ半分は無関心かと思われます。
そもそも小泉首相は、総理大臣に就任する前までは、実は靖国神社には参拝していはいません。総裁選出馬するにあたり、日本遺族会が小泉さんを支持したわけです。本来は、小泉さんの支持団体ではなかった。しかし、総裁選で小泉さんを支持することになった。そしてその見返りとして、靖国神社に参拝することを公約とさせた。その公約を掲げて当選をしたわけですから、事実上、その公約は支持を得たということになります。今は、支持をくれた日本遺族会とのその約束を果たしているということなのでしょう。
他の靖国神社に参拝している国会議員も、パフォーマンスなどではなくて、日本遺族会から政治的支持と支援を得ているからとみればいいでしょう。
>結局のところ、このパフォーマンスは、アジア緊張を高める効果を有しています。また、国民にはアジア諸国から内政干渉されているという国民感情をあおる効果を有します。
アジア諸国といっても、中国・韓国・北朝鮮だけではないでしょうか。
>隣国緊張が高まっているなどといいますが、高めているのは、このようなパフォーマンスに大きな原因があります。
小泉首相の靖国参拝がアジアの緊張を高めているわけではないでしょう。これは、見誤っているのではないでしょうか。
中国が小泉靖国参拝に批判をするのには、政治的な別の意図があると見たほうが良いと思います。
中国にしても北朝鮮しても、外交手段は、大変に強かです。脅しや嫌がらせ恫喝などを使って何かを要求してくるのが常套手段といえるでしょう。それも外交手段のひとつです。
靖国批判もひとつの外交手段につかっていると見るべきではないかと思いますが。
要求の中味は、ODAの継続と新幹線誘致だと一説にはいわれています。
それと、中国の国内では貧富の格差が生じ、暴動が多発しているといいます。そうした国内情勢の不安定が大きくならないように、靖国批判で怒りを日本に向けて解消させようという狙いもあるといわれています。
要するに日本は、足もとを見られていて、。中国にしても韓国・北朝鮮にしても、反日感情を露にするその本質は、実はお金の要求とみるのが妥当ではないでしょうか。
>つまり、靖国参拝は英霊を御霊を崇めるために行われているのではなく、この御霊を利用し、アジア緊張を高めて、軍事ビジネスのスムーズ挙行を可能にするために行われている構造がここに見られるわけです。
これは違っていると思いますね。日本の側からアジアの緊張を高めようなどというものではないでしょう。
小泉首相の靖国参拝は日本遺族会という支持団体との約束であって、軍事ビジネスとは関係はありません。
むしろ、小泉首相の靖国参拝を利用しているのは、困難な内政問題を抱える中国や朝鮮半島の側といえるのではないでしょうか。
197
:
匿名
:2005/12/03(土) 21:37:35
>そして、その結果、アジアの緊張が高まっているから軍事強化をしなければならないというのは単なる為にする理論、出来レースであることはあまりにも明白です。
アジアの緊張は、小泉首相の靖国参拝などではなくて、巨大に産業化していく中国の石油確保にあるということ。ここを押えておかないと、見誤るのではないでしょうか。
中国は石油確保と、もうひとつ台湾の問題も抱えています。それと、今一番の緊張は何より北朝鮮の問題といえるでしょう。北朝鮮も国内的な行き詰まりから、色んなことを要求しようとしてきているわけです。
いずれも靖国神社で引き起こした緊張ではありません。また緊張を助長しているわけでもありません。
彼らの要求は、ズバリお金なのです。
ただし、日本の国民のナショナリズムを刺激していることまでは、計算に入っていないのです。だから危険でもある。そうした反日暴動に便乗して反日批判をする日本人もいるわけですが、皮肉なことに、かえって日本を危険な方向に向かわせてしまうといえるでしょう。
>つまり、靖国参拝は英霊を御霊を崇めるために行われているのではなく、この御霊を利用し、アジア緊張を高めて、軍事ビジネスのスムーズ挙行を可能にするために行われている構造がここに見られるわけです。
これも違っていると思います。アジアの緊張を高めようというものではないでしょう。
小泉首相の靖国参拝は日本遺族会という支持団体との約束であって、軍事ビジネスとは関係ありません。むしろ、小泉首相の靖国参拝を利用しているのは、困難な内政問題を抱える中国や朝鮮半島の側といえるでしょうね。
>195
>いま日本で起きている自衛隊論争、また改憲論争は、このような情報操作はないのでしょうか。
どうしてこういうことを書くのでしょう。
私がそのような情報操作をしていると言わんばかりのようにとれますが。
確かに改憲は、はっきり言ってアメリカの要望です。ライス長官がポスト小泉に名乗りをあげている麻生太郎に、「日本の憲法改正は進みそうか」ということを聞いてきたと言われているくらいですから。
アメリカは、日本の軍事力を必要としているのは事実でしょう。アメリカとしても、これ以上自国の兵士を犠牲にしたくないという思惑も見てとれます。なんせイラクで2000人もの米軍兵士を犠牲にしているのですから。
そのアメリカからの日本の軍事増大という圧力に抵抗するためには、憲法を改正させないことが一番なのです。これしかない。
しかし、そのためには、仏教徒としては苦しい選択かもしれないけれど、一時措置としてでも自衛隊を合憲と解釈する道を選んだほうが賢明なのです。多くの自衛官にしても、本音ではそれ(護憲)を望んでいるとも聞きます。彼らの本音は、日米関係は重視しつつも、海外の戦争には駆り出されたくはないのです。少なくとも、ここを履き違えてはいけません。
>靖国英霊といった形で、戦争は美化され血なまぐささ、死傷、人がもがき苦しみ死んでいった様は、灰燼に帰して人間が燃え、腐り異臭を放った町並みのリアリティは最早そこにはありません。
靖国神社には確かに大東亜戦争肯定論はあります。しかし、きちんと読んでみると、戦争を美化しているものとは思えません。あの戦争を避けられなかった時代の流れというものの一端がわかります。犠牲になった人々のことを忘れてはならない。もちろん、戦争の犠牲者は兵士だけではありません。空襲や原爆の被害を受けた一般国民の戦争被害者は、まさに本当の犠牲者でしょう。そういう方々の慰霊はもちろんのことです。しかし、だからといって兵士の慰霊をしてはならないということにはならないでしょう。
戦場に赴く兵士たちは、戦死の場合は、靖国神社に祀ることを国家が約束していたのです。
兵士同士も、特に特攻隊で命を散らせた人たちは、皆、靖国の桜の木の下で会おうと誓って散っていっているわけです。
198
:
匿名
:2005/12/03(土) 21:38:04
こんなことを書くと、また掲示板にふさわしくないと言われるかもしれませんが、しかし、当時の死んでいった人の気持ちは、今の私たちの時代感覚で推し量ることは、とてもできません。しかし、戦没者は亡くなったときの気持ちのままなのではないでしょうか。
時代が変わり、価値観も変わり、今の時代を生きる私たちには、想像もつかない思いなのでしょう。
だけど、ただはっきりとわかっていることは、戦死者は靖国に祀るという国家の約束です。だからその約束通り、兵士たちは靖国に祀られた。神として祀られた兵士たちを、誰が参拝しようと何も咎められることではないはず。それを誰が否定することができるというのでしょう。
靖国神社が戦死者を祀り、そこに参拝するという、その信教の自由もあります。たとえ靖国に空襲や原爆で亡くなった人が祀られていないからといって、それを干渉することはできないといえるでしょう。
仮に、戦争被害者全てを慰霊する戦没慰霊碑が設立されるにしても、何も私は異論はありません。
しかし、だからといって、靖国神社の参拝がなくなるかというと、それはまた別に行なわれるのではないでしょうか。
>この議論の当初で「徴兵制が不可欠」と記したことによって、やり玉に挙がりました。
正確には「不可欠」ではなくて「必須」と書いていたはずでしょう。「不可欠」では若干意味が違ってきます。
「必須」の根拠を求められて、明確に示せなかった。しかしこの点は、あなたは後に訂正したはずです。にもかかわらず、今またこの議論を蒸し返すのですか。
>徴兵制によらなくても軍事増強になっているのが、世界の流れだと言います。
なんでそういうことになるのか、まさにそれを考えるのがこのスレッドですね。
私は現時点での答えを書きました。
改めて一文で言えば、生存競争から発展した国家繁栄のための資源争奪による覇権争いが戦争の根本原因であろうと。
だから、その根本を戦争以外の方法で解決、克服していかなければならないわけです。それが戦争回避の方法なのです。
ただ何が何でも戦争をしたい、そんなことはアメリカといえども有り得ません。
>故にわたしは匿名さんに問うたわけです。では、あなたが自衛隊になりなさい。なって、専守防衛(安全保障)という名目で、攻めてきた敵を殺しなさい。国際貢献という名で交戦に参加し、人を殺しなさい、と。
まだこういうことを私に言いますか。
どうして、自衛隊を合憲だといえば、そういう議論になるのでしょうか。
あなたは仏教徒とはいえども出家はしていませんね。少なくともお坊さんにはなってはいません。信仰はあれども在家信徒なのです。
それと同じではありませんか。
>われわれが国際貢献のために自衛軍参戦に1票を投じるとき、このようなリアリティは完全に失われています。
今の議会制民主主義という間接民主主義の制度では、自衛軍参戦に、国民の直接一票は投じられません。
自衛軍の参戦に関して、国民投票を経ることを求めるなら、自衛隊法の改正に何かしらの政治運動を起こすことになるでしょうか。
いずれにしても、自衛隊を認めなければ話になりません。
また政治の決定において直接民主主義になっていけば、国民1人1人の、政治責任は今以上に重くなります。
スイスの例のように、国民投票で、徴兵制の責務を被ろうということになる場合だって有り得るわけです。
前々から、何度か質問していたことですが、スイスのような軍事も含めた政治システムについては、どのように考えられるのでしょうか。
>戦争、いや憲法改正、自衛軍、国際貢献という名の参戦を考えるうえでの自分自身に置き換えた外的要因であるはずです。ところがこの点は、通常、議論される段階でまったく除外されているわけです。
私は、このテーマで議論を投稿しても構わないと思っておりますけれど。ところが私が何かを書けば、そんなことを書くなら他の掲示板に行けという。なんだか矛盾してます。
要するに、あなたは自分と同じ立場の人としか議論したくないだけなのではないでしょうか。
しかし、せっかく落ち着いたと思えば、なんだか蒸し返す。どういうことなんでしょう。
199
:
犀角独歩
:2005/12/04(日) 09:06:36
匿名さん
192から195につき、外的要因からご批正有り難うございます。
誤解なさらないように、おことわりしておきますが、このよう内容は、別段、あなたの投稿について、記したものではありません。一般世間の議論から落ちている内的要因を記していくことに主眼があります。いわゆる政治評論ではありません。
なお、先の投稿の文中で単己さん、匿名さんのお名前を挙げたのは、言動と行動の不一致が生じることによって調整される内的要因を説明したミルグラムの引用文の例として挙げたまでです。仏教徒が全員、坊さんにならなくても、仏教集団(サンガ)は、元より四部衆=比丘(出家の男性)・比丘尼(出家の女性)・優婆塞優(在家の男性)・優婆夷(在家の女性)で形成されていますので、特に矛盾となりません。また、大衆部、大乗という分類される経典群に‘菩薩’思想が生じますが、この菩薩とは、在家仏教者であるというの一般の説です。
しかし、見事にわたしの論旨である内的要因の説明、ミルグラム、ローレンツ等の諸説に関してはスポイルされて、政治的な反論だけを記したのには驚きました。内的要因にはまったく興味を示さずということですか。
まあ、ロムの皆さんには、併せてあなたの政治的見解は参考にしていただくこととして、戦争のメカニズムの、内的要因をどう見るかという、社会心理学の分析と仏教の見地をさらに、わたしは記していこうと思います。
200
:
01
:2005/12/04(日) 17:56:19
本日はちょいマジで。ローレンツの攻撃について、ちょっとレクチャーしてください。
お願いします。
201
:
01
:2005/12/04(日) 20:56:21
日蓮宗では、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で毎年、法要を営んでいるんだよね。
だけど、小泉や、議員はこっちには行かない。遺族会へのパフォーマンスにもなんないしね。
マスコミだって、取り上げない。自分の利益になんなきゃ何もやんない。
それで、国家と国民を思って専守防衛! ああ。
思っているのは、御身可愛さだけだと思うね。
202
:
匿名
:2005/12/04(日) 21:50:23
>199
>ミルグラム、ローレンツ等の諸説に関してはスポイルされて
いえいえ、スポイルではなくて、納得です。
この領域は、私が余計な口を挟める内容ではありません。
203
:
匿名
:2005/12/04(日) 23:24:34
>201
>日蓮宗では、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で毎年、法要を営んでいるんだよね。
だけど、小泉や、議員はこっちには行かない。遺族会へのパフォーマンスにもなんないしね。
支持とは、票としての支持と資金的な支援を意味します。
つまり、たとえば日蓮宗が強力な政治献金をすれば、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にもきっと来られます。
当然、マスコミも注目します。(そんなことを煽っているわけではありませんよ)
でも、それが日蓮宗としての政教分離に反するという思いであるなら、致し方ありません。
だけど、政治とは、政治活動に熱心な人の意向に動かざるを得ないものなのではないでしょうか。
政治を放棄すれば、放棄した人の意向には絶対に成り得ません。
ちょっと、難解な文章になりましたけれど、そんな意味合いのこと、もう少し投稿してみますので、おつき合いください。
それから、ローレンツの攻撃、私も大変興味あります。是非、レクチャー頂きたいものと思います。
204
:
匿名
:2005/12/04(日) 23:26:01
>この内的要因の国家操作で重要な点は、国家が重大な決定を下すとき、国家は、この内的要因を、国民という群集心理の操作を必ず行ってきたという事実です。
難しい表現ですが、たぶんこのことに関連するだろうことを記しておきます。
憲法改正の布石は、何もここ1〜2年のことではありません。
決定的な布石が敷かれたのは、「政治改革」の名で改変された選挙制度の改変、つまり小選挙区制の導入から現実味を帯びたといえるでしょう。
犀角独歩さんのいう、国家の「操作」という意味では、この時点をいうのだろうと思います。
まさか、この「政治改革」という美名が、憲法改正の布石だったとは、この当時のほとんどの国民はわからなかったはずです。大手新聞マスコミすら、こぞって、この波に乗ったのです。まさに「バスに乗り遅れるな」の勢いでした。
本来、社会党、公明党、共産党などは、小選挙区制には反対だったはずです。二大政党制を前提とする小選挙区制では、少数野党政党は、生き残れないからです。
だからこそ、自民党改憲派としては、憲法改正の為の3分の2議席という絶対的多数勢力を獲得するためには、小選挙区制を導入しなければならなかった。まさに改憲派にとっては、小選挙区制導入こそが長年の悲願だったといえるのです。しかし、そこまでのことは国民は認識していなかったでしょう。ただし、与野党ベテランの国会議員は、そのことをわかっていたはずです。
小選挙区制導入の試みは、戦後、何度か政権与党の自民党から法案が国会に提案されています。しかし、野党の圧倒的な反対にあって、成立をみなかったのです。
ところが、平成の時代に入って、この法案が実現化します。比例並立制という特異な方式を導入することで、少数野党の生き残りがはかれる形式を示すことで、共産党以外の野党も納得します。なぜなら、今回の総選挙と同じで、「改革」に否定的な姿勢を示すと、国民の支持を得られないところにまで、国家の思惑は巧妙に「操作」されていたからです。
既に共産党以外の野党は、自分たちの生き残りをかけて、憲法改正のための絶対的布石である小選挙区制導入という禁断の扉を開ける側に依って立つしかなかった。
社会党からは、多くの議員が生き残りをかけて、民主党へ移ります。民主党ではもはや護憲は、党の政策として受け入れられなかった。若干、抵抗する議員もいるかもしれませんが、もはや無理でしょう。
そして小選挙区制導入の結果は、今日の姿が示すとおり、憲法改正国会発議を目前としました。
205
:
匿名
:2005/12/04(日) 23:26:24
細かいことを書けば、多くの政治家の名前を出すことになるので、ここでは控えますが、少なくとも、国民もマスコミの大半も、それが憲法改正の布石だということを見抜けなかったのです。言い換えれば、国家から巧妙に「操作」されたといってもいいでしょう。
余談ですが、小泉首相は、このとき、小選挙区制への改革を声をあらげて大反対しています。
靖国参拝もしていなかったことと併せていえば、意外と小泉さんは、タカ派ではないかもしれないということも想定できるのです。今回の自民党の改憲草案における、「自衛軍」の名称も、「国防軍」にすべきという意見もあったなか、小泉首相は「自衛軍」がいいのではと言ったことで、「自衛軍」に収まったと聞きます。
話を戻しますが、とにかく憲法改正の布石は、約10年前の「政治改革」の名のもとに改変された小選挙区制という選挙システムから、現実味を帯びてきたということです。
皮肉なことに、小選挙区制に大反対だった小泉さんが、この制度のもつ威力を最大限に発揮させてしまったのが、この夏の総選挙だったとえるでしょう。
政治の「操作」というのは、なかなか、そうそう見抜けるものではありません。
気がついたときには、抜き差しならないところに、持っていかれてしまっているものといえるでしょう。
だからこそ、常日頃からの政治への監視(関心)が必要だと思うというわけです。
自民党の意向では、あと5年を目途に、憲法改正の国会発議と国民投票を行いたいようです。自民党結党50周年を節目として、改正草案を出しています。今後は、この草案をもとに、超党派で議論していきたいとのこと。
そこに、護憲の立場を貫く社民党や共産党が、参加するのか否か。恐らく、ネグレクトされるのかもしれませんが、これは私の個人的意見ながら、ここは護憲を貫く社民党と共産党に入ってほしいという思いでもいます。
今の社民党と共産党の勢力数からいえば、国会発議への抵抗はほぼ困難といえるでしょう。改憲派の会合などとんでもないことかもしれませんが、せめて、行き過ぎた改憲にされないためにも、意見を挟んでほしいという思いがあります。
次の総選挙は4年以内ですから、次の総選挙が憲法改正が争点となる選挙になるといえるでしょう。しかし恐らくそれまでに改憲案はほぼ煮詰まってしまうことが想定されるわけです。
ここ5年、5年というと少し長いようにも思いますが、長い人生のほんの5年と思って、向こう5年は、少しばかり今までに増して、政治と憲法に関心を持つべきではないかという思いでおります。
206
:
犀角独歩
:2005/12/05(月) 01:23:05
本日は忙しい1日でした。ようやくと帰宅です。
なんだか、えらく投稿数もあり、全部にちゃんとお答えできません、ご挨拶程度で失礼します。
匿名さん、了解です。わたしも少し穿った見方をしましたね。
お詫びします。
ともかく、このような話題を扱うのに内的要因だけでも、外的要因だけでも偏りが生じます。幸いにも(不幸にも?)感心がお互い、内外と違っておりますので、それぞれに出し合い、互いに参考に試合ながら、議論を出し合うというコラボレーション(というかどうか?)でなにがしのアウフヘーベンできるものがあったら、これはみっけものかもしれません。
わたしが外的要因で納得のいかないことを記しましたら、また、ご批正をお願いします。
さて、01さん、『攻撃』について、少し記そうと思いますが、あなたがこの書を読んでいないとはどうも信じがたいので、また、何か試されているような気もしませんが、匿名さんもご要望を出してくださったので、記すことにします。しかし、本日は疲れました。明日、また、詳しく記しますが、要はこの書は動物学者であるローレンツが動物の‘攻撃’(特に種内攻撃=同種同士の攻撃行動)がその種の発展継続に役立っているのに、なぜ人間だけはそうならないないのかという点を書いているといってよいと思います。
この書の大半は昆虫から哺乳動物に至るまでの攻撃に係る行動を記したもので動生物がお好きな方には、この部分だけでもたいへんにおもしろい本です。全2巻で時間がない方は下巻のみを読んでも、当スレのテーマの参考になろうかと思います。まあ、掻い摘んで、明日でも改めて、投稿させていただきます。
匿名さんのご投稿については、一々応答しませんが、拝読させていただております。あと、1回と仰っていましたが、議論もまだ半ば、できましたら、継続してご投稿いただければ、内・外の両要因のすりあわせもできそうな気もします。お時間の許す限りでけっこうですから、ご投稿いただければ勉強になります。お願い申し上げておきます。
207
:
匿名
:2005/12/06(火) 02:27:22
戦争責任に関連ついて、少し投稿してみます。
今の平和な世の中を生きる感覚のままで、戦前のことを推し量っては、恐らく見誤ってしまう場合が多々あのではないかと思います。
実は、そのことを気付かされたのは、テレビ出演されていた小野田少尉の言葉なんですね。一時期ブラジルに移民されていた小野田さんが、再び日本の地で「自然塾」を開いて子どもを教育されておられる。その一部ながら「自然塾」の中味を拝見すると、考えさせられることがいっぱいありました。今の日本の社会の実情から鑑みても、日本人に欠けてしまっているものは、まさに「逞しさ」ではないだろうかとの思いがしまいました。だからといって、戦争への逞しさというものではありません。それは「精神力」といってもいいかもしれません。そうしたものを喪失してしまった弱さが、社会の病理をつくっているのではないだろうか…と思えてしまったくらいなのです。
戦前の日本の政治は、不完全ながらも議会制民主主義であり、政治家は今に比べて不平等な選挙制度ながら、一応は選挙という洗礼を受けて選出されていました。
ざっとですが、どの時点で、戦争の足音が近づいてきたのかを、年表で追ってみます。
対外的な大きな流れでいうと、
1902(明治-35) 日英同盟調印
1904(明治-37) 【日露戦争開始】
1910(明治-43) 日韓合弁条約調印
1914(大正-03) 【第一次世界対戦開始】
1921(大正-10) 日英同盟廃棄・四カ国条約成立
1932(昭和-07) 上海事変・「満州国建国」宣言(1932/3/1)・リットン調査団派遣
1933(昭和-08) 国際連盟脱退
1937(昭和-12) 南京事件・蘆溝橋事件、【日中戦争開始】
1941(昭和-16) 真珠湾攻撃、【太平洋戦争開始(日米開戦)】
そして国内的には、1937年6月から発足した近衛文麿内閣のもと、1938年5月に国家総動員法が発令されます。その後、平沼騏一郎内閣を経て、再び1940年6月に近衛内閣となり、大東亜共栄圏、日独伊三国軍事同盟、同年10月には大政翼賛会となっていきます。
翌1941年には、アメリカ・イギリス・中国・オランダ4カ国からの経済制裁(ABCD包囲網)によって、石油や鉄など生活に必要不可欠な物資が入らなくなり、資源に乏しい日本は戦争へと追い詰められていきます。
このあたりが戦争前夜の日本の政治状況というところで、着々と戦争への足音が聞こえてくるところです。
そもそも1925年4月から施行された「普通選挙法」により、男性だけとはいえ、身分に関係なく一般国民に選挙権が認められています。
ただし、この国民に選挙権与える「普通選挙法」と引き換えに、悪名高き「治安維持法」も施行されるわけです。ここが国家の「操作」として重要なところかもしれません。
治安維持は主に共産主義者の取り締まりだったわけですが、自由主義思想も取り締まり対象だったといいます。要は、大日本帝国主義思想以外の思想は、完全に取り締まり対象だったということでしょう。
しかし、「操作」されていたにせよ、選挙という手続きを経て「体制翼賛会」という状況をつくっていったのは、他でもない「国民」そのものだったということでもあるわけです。
今では考えられない、想像もできないことですが、日露戦争勝利を経験してしまった日本は、「戦争だ!戦争だ!」と高揚していたのは他でもない、国民そのものだったといえるでしょう。
今の感覚からは、戦争に高揚するなどはとても想像できないけれども、しかし、先の郵政解散の総選挙における国民の熱気を思い出すと、もしかしてあんな感じで戦争に突入していったのだろうかと、少し空恐ろしくもなります。
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