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戦争を考える

134犀角独歩:2005/11/28(月) 23:12:22

―133からつづく―

こうなると、この人即法本尊への信仰は、正信会のような厳正な真蹟研究、教学的態度から、信仰的態度を日興に求め、日蓮に至るという在り方は、極めて合理的であるとも、いったんはわたしは考えます。ただ、これを中途半端とわたしが言うのは、結局のところ、漢訳仏典は梵本との歪みがあり、それを意識することなく構築された天台教説を無謬のものととらえることはできないという問題が生じるからです。さらに梵本経典も釈尊滅後500年以上を経て創作されたものである以上、この点について、陳べる責務をこの信念体系下にある仏教徒は背負っている点が少しも反省されていない。以上のような教学的な責務は、ここでも永らく議論されてきたわけです。また、ここでは、そのような責務を真摯に受け持つ真面目な議論がされてきたとわたしは考えています。

さて、このスレ「戦争を考える」というテーマを、この自分が背負ってきた「富士門流信徒」という立場から考えるとどうなるのか、この点で大石寺とその職員である当寺並びに末の僧侶の責任については、たとえば過去に論考もありました。

しかし、そこから脱して日蓮信仰にある富士門流信徒の場合はどうなのか、とい点はあまり議論がされてこなかったわけです。
いま、わたしは「責任」という語彙を使用しましたが、信徒というとき、その構成を為す歴史的責任をわたしは負うと考えます。この歴史的認識がなければ、過ちは何度でも繰り返されるからです。

「日蓮主義は、過去の大戦の歴史的責任の一端を為している」という自覚は、わたしは正直で且つ慚愧ある態度である考えます。このような姿勢は、一面、左系日蓮のような批判を生み、実際のそのような矢面に、たとえば中野教篤師のような方々は立たされてきたとも思います。わたしはしかし、この内省的な姿勢には一定の評価をしています。

先の戦争責任を日蓮門下は負っているという自覚のなかで、では、「日蓮正宗」は埒外なのかといえば、そのようなことはありません。他の日蓮門下と何ら変わりません。

具体的にこの戦争責任を、では、どのような形で果たしていくのか。それは、あの原爆記念碑に刻まれた「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」という誓いを破らないことにあるとわたしは堅く考えています。ですから、この誓いに背く如何なる発想からも、わたしは考え出しません。この誓いが一切の原点です。

仏教、その源流を辿るとき、戦争との関わり、政治との関わりという言い方でもよいと思いますが、それはやはりシャカ族の後継者であったゴータマ・シッダルタ太子の出家とシャカ族の滅亡から考え出すことになるのだろうと思います。

一つの国の後継者が出家してしまった。これは国家にとって、重大事であったことは容易に想像できます。ただ、この時点では、シッダルタ太子は、世継ぎラーフラの誕生を見届けてことでした。しかし、ブッダとなったのち、このラーフラもまた出家をしてしまうわけです。国家存続からいえば、この時点でシャカ族の未来は閉ざされたように思えます。そして、事実、シャカ族は滅亡します。仏教は国家防衛に何の役にも立たなかったという実例が先ずここにあります。ブッダは林棲期のバラモンを模した死に行く人の平安の境地を修行によって獲得する教えですから、ここに国家性を有するはずはありません。政治経済という人間集団の典型形態・国家から出たところにその理想を求めていたからです。


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