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戦争を考える
143
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 00:02:54
> 「民衆の立場」というのは、この「被害者の立場」と同じ意味合い
これを、ですから、民衆に限定する理由は、では、いずこにあるのでしょうか。
日本が蒙古から襲来を受けるとなると、被害者は民衆だけでしょうか。
この時点で、日蓮は王臣万民の一切を救おうと考えたのであれば、単に民衆に立ったとだけとは言い切れないのではないでしょうか。ですから、その意味において、民衆仏法という言い方では、日蓮が王臣を思った気持ちは表現できないということです。
> 民衆云々などというお考えは微塵もない
わたしは、あなたの結論の出し方は極端だと思いますね。
先にも記したとおり、日蓮の民に対する言及は実に多岐に亘ります。
わたしがいっているのは、国家の秘術として仏教を考えるのは、単に民衆のためだけではない。王臣も含めている。となれば、民衆仏法という言葉では表現し切れていないではないか。また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。
> 民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。
わたしがいつそのようなことを言いましたか。
あなたは、どうも極端に走り、わたしが考えてもいないことを、さもわたしが言ったように質問しますが、これは誤読に基づくことなので、あなたの問題点でしょう。
>> 鎌倉幕府…アウトロー集団
ここ以下は、わたし文章ではなく、藤川さんの文章ですので、わたしは記さないことにします。
> 日蓮聖人が、天台の側に立つことも、天子の側に立つことも、いずれもそれは「民衆救済」を考える立場と捉えて考えることができるのではないかと、私は考えますが。如何でしょう。
せっかく、日蓮の「民衆」の語について、詳細に真跡遺文を調べて、記しても、やはり、意味はなかったようですね。残念なことです。日蓮といわず、大乗も、仏教も「一切衆生皆成仏道」を指標するのであり、それは民衆のみに限定されてのことではありません。
> 平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代
では、それを一々の証拠を挙げて、ここに説明してください。
> 憲法に半ば強引に引き寄せて、日蓮聖人を注目してみている
どう見ようが、個人的にはかってですが、もし、このように言い切るのであれば、法華経の文々句々と憲法の一々を挙げて、対照を試み、その類似性を挙げてみては如何でしょうか。
あなたが日蓮をどのように見ようが勝手ですが、真跡遺文から垣間見られる、日蓮は法華経の、その題目を以て立正安国を考え、衆生済度も考えたのです。このような特定の経典、もしくは法華宗という特定の宗派を以て一切衆生皆成仏道を考えることと、憲法の信教の自由と、どこでどのようにつながるのか、説明していただきたいものです。
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