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戦争を考える

127匿名:2005/11/27(日) 19:57:46
こちらの掲示板では、ここ一年ほどでしょうか、犀角独歩さんの検証により、大石寺の板本尊が日蓮聖人の御作のものではないということに対する論証がなされてきました。これは大変な試みであったことと思います。
これを絶対のものと信仰していた信者にとっては、大きな動揺もあり、まだまだ心の整理がつかない人も多くおられることでしょう。
ただ、私にとっては、板本尊への絶対的信仰は最初から希薄であったせいか、この点についての動揺は正直なところ、さほどのものはありませんでした。

私のことを少し、振り返ります。
富士門以外で仏教を学ぶ機会を得ていない私にとって、約5年前、こちらの掲示板で最初に信仰の根幹から打ちのめされ瓦解させられたことは、他でもない、法華経が釈尊の教説ではなかったということでした。
こんなことは、近代における仏教の常識でありながら、まるで私は知らなかった。これはかなりのショックでした。同時に、日蓮聖人の波乱の人生そのものが、とても虚しいものにさえ思え、動揺とともに体中の力が抜けたのを覚えています。
その後は続けて、日蓮本仏論も敢え無く崩壊です。
しかし、今になってみると、私としては、瓦解・崩壊で、それでよかったと思っています。

それでも、なぜか日蓮聖人の存在は、私にとって、今もやはり心をとらえて離れないわけです。
きっとそれが、最後に残った私の内心の信じ仰ぐ「信仰」の拠り所なのでしょう。
何が私の心をそうさせるのか、それを考えたとき、やはりそれは、どうしてもマグナカルタ(権利の大憲章)として結びついてしまうのです。
恐らくそれは、ある富士門の教団に入ったのと、私が憲法や政治に関心を持った時期が、重なっていたということが大変大きいと思います。
だから、どうしても私の中では、「立正安国論」は「東洋のマグナカルタ」と思えてならないのです。
これを教義で論争というものではありません。あくまで主体的な私の内心の、最後に残った信仰の拠り所というものなのでしょう。
これは誰に何を言われようとも、ここだけは恐らく変わらないことと思います。
信仰とは、最後はそういうものだろうと思います。
誰に何と言われようとも、法華経が最高の教えだと信じる人もいるでしょう。誰に何と言われようと、南無妙法蓮華経こそ、真理だと思い続ける人もいるでしょう。また、何が証明されようとも、大石寺の板曼荼羅こそ日蓮聖人の出世の本懐だと信じ続ける人もおられるでしょう。
この点においては、科学的な立証とは別のところに、内心の信仰が存在してしまうものだと思います。

だからこそ、黙秘する自由がある。本人の意思に反して、無理やり暴き出そうとしてはならない。
私はそういうことは、とても大事なことだと思います。
もちろん、教義の論争の場合は別です。お互いの信仰の立場をはっきりさせた上で、論争しなければならないことです。
しかし、こちらのスレッドは、その類に限るものではないはず。
平和へのアプローチは、様々になされなければならないわけですから。


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