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戦争を考える
1
:
管理者
:2005/11/14(月) 06:01:53
憲法改正について、戦争について、不戦について、戦争と不殺生戒について、などの議論が活発に展開される事を期待して、「世界の情報ボックス」スレツドでの議論から「戦争を考える」内容の議論を分離独立させたいと思います。よろしくお願いいたします。
360
:
犀角独歩
:2005/12/18(日) 20:47:01
> 359
わたしは先に記したとおり、現行憲法擁護が基本です。
その憲法に対して、不満があるというものではありません。
ただし、いまの政治が、その憲法精神が遺憾なく発揮されたものなのかという点では、大いに疑問があります。特に小泉政権については、その感を強く懐いています。政権が民権を凌駕し、逆転していないのかということです。ただし、この点については、他の政治掲示板その他で記すところですが、ここは佛教の掲示板なのでその範囲に留めます。
なお、
> 権力の本質とは、所詮は暴力です。暴力からはじまっているのが権力です。しかし、暴力だけで世を治め続けることはできません。そこに暴力を正統化する権威の存在が生じます
と言う点については、殊日本国憲法という視点からすれば、まったくこの点は克服されていませんか。
「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである」
とあるからです。ここでいう権力は暴力ではなく、福利を国民に享受させる力をなっています。また、権威は国民に由来する国政の権限をいうのがその意味であると考えられるのではないでしょうか。
> 政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてないのも、そのような歴史的な成り立ちに拠るところが大きいものと考えられます
殊はこんなに単純ではないと思いますが。また、「政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてない」という断定は、何を根拠にしているのでしょうか。
匿名さんの主張は、権力とは暴力である、権威に裏付けされたとき、その暴力は正当化されるということでしょうか。何が言いたいのかよくわかりませんが。暴力の行使を肯定できないのは政治に無関心だからということですか?
361
:
匿名
:2005/12/18(日) 21:42:53
>わたしは先に記したとおり、現行憲法擁護が基本です。
>その憲法に対して、不満があるというものではありません。
ということは、日本の現行議会制システムは、容認という立場となりますでしょうか。
>いまの政治が、その憲法精神が遺憾なく発揮されたものなのかという点では、大いに疑問があります
>殊日本国憲法という視点からすれば、まったくこの点は克服されていませんか。
憲法というのは、最高法規として、国家の目指す方向を示しているわけです。
ですから、現状よりは先の理念を示していなければなりません。
つまり、現状が、その理念に近づいていないとするならば、これからの課題と考えるべきでしょう。
そこで、何が憲法にかなっていないのか、それは具体的に示す必要があります。
ただなんとなくそんな感じがするでは、問題になりません。
言い換えるならば、何が問題なのでしょうか。
少なくとも、冒頭の発言では、議会制民主政治を懸念しているわけではないということですね。
>ここでいう権力は暴力ではなく、福利を国民に享受させる力をなっています
福利には、政策的にいろんなものを含みます。
敢えて極論を書きますが、たとえば軍事政策も、ひとつの公共事業であり、経済政策の一環です。
経済のもともとの語源は、「経世済民」です。つまり、経済政策も、民衆救済のひとつですから、軍事政策も含めて、いわばこれも福利と考えられるものです。
ただし、日本国憲法では、9条でそれが制限されていますが、自衛のための軍備を合憲とみなさせば、これも福利として範疇に入るものです。
>「政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてない」という断定は、何を根拠にしているのでしょうか。
根拠も何も、今の世の中をみて、私はそう感じて、危惧するということです。もっと言えば、かつての私がそうだったからです。そのかつての私が、極めて、一般的だっただろうと思うところです。
こうして、政治だ憲法だと、こだわっている私のほうが国民的にはある意味で、奇異に映ることでしょう。
>匿名さんの主張は、権力とは暴力である、権威に裏付けされたとき、その暴力は正当化されるということでしょうか。
これは、私の主張ではありません。政治学の基本です。
362
:
匿名
:2005/12/18(日) 22:13:43
>匿名さんの主張は、権力とは暴力である、権威に裏付けされたとき、その暴力は正当化されるということでしょうか。
ここでいう暴力とは、戦争発議のみを意味しているものではありません。
逮捕権や、刑罰を与える権限も含みます。さらに徴税も含まれるでしょう。
いずれにしても国を治める行為の「本質」は、暴力から始まっているということです。
政治学から論じるのであれば、その基本たる本質を押えておくべきだということです。
363
:
犀角独歩
:2005/12/18(日) 23:42:45
> 政治学から論じるのであれば、その基本たる本質を押えておくべき
ところで誰が政治学から論じているのでしょうか。
この暴力と訳される言語は、では、政治学の本質を押さえている匿名さんにご説明いただきたいですね。それと本質を云々するのであれば、その学説の初出、並びに発言者をおさらいいただけませんか。
380
:
犀角独歩
:2005/12/19(月) 00:28:35
では、匿名さんへの質問とは別に、358へ続け、記してまいります。
Milgram がいうところの政治学で言う「権威」とは、やや意味を異にします。
「児童発達の研究者たちがずっと以前から認めているように、『最初の社会関係は、権威の指示を認識し、それに屈服する関係である』(イングリッシュ、1961)」(『服従の心理』(河出書房新社)P271)
という命令系統の認知と服従という動物本能に由来することをいうようです。
「ビアステットは、権威の存在は政府の存在よりも根本的な現象である、といみじくも指摘している。『……権威の問題は、適切な社会構造理論の根底そのものにある。……政府でさえ、ある意味では、単に政治的現象ではなく、第一に、そして根本的に社会的現象であり、そして……政府を生み出す母体は秩序と構造をもっている。政府の反対がアナーキーであるとすれば、社会の反対はアノミーである。いいかえれば、権威とは、狭い意味での純粋に政治的な現象ではない。権威は、政治的社会体制においてのみならず、その体制のすべてにおいて存在するからである。どれほど小さな、どれほど一時的な組織であれ、あらゆる社会組織に、それ自身の権威構造がある」(同P276)
このように研究される権威とは、政治的に正当性が認められれば肯定されるという類のものではありません。その権威に服従する心理構造が正常かどうかということに視点があります。
たとえば、ドイツにおいて、ナチスは権力の正当性を得て国民に指示されたわけですが、しかし、そのドイツ国民の権威への服従は明らかに間違っていました。
また、いまここで取り上げている Milgram が権威へ服従の危機を研究したのは、以上のような理由に基づくのでしょう。国民全員が賛成したとしても、異常は異常であり、間違いは間違いだからです。
Milgram が分析した権威というのは、以上のような点です。
さらに追って投稿するつもりですが、本日は遅いので、続きは本朝以降といたします。
386
:
犀角独歩
:2005/12/19(月) 02:02:47
あまり、匿名さんとは議論はしたくありませんが、
> 日本の構造
> 国民の権威の象徴が天皇、
> 国民の権力の代表の最高権力者が総理大臣となります。
> いずれも、国民のオーソライズなくしては存在できない
この記述は、先に何度も引いた憲法の文脈と明らかに違っています。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」
天皇は、日本国の象徴であって、権威の象徴ではありません。
「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し」
権威は国民に由来するのであって、天皇に由来するものではありません。
「その権力は国民の代表者がこれを行使し」
また、国民の代表者が権力を行使するのであって、それを最高権力者とするわけでもありません。そもそも最高権力者など、日本には存在しません。最高権力者がいるのであれば、主権在民という原則は崩れることになります。
「その福利は国民がこれを享受する」
国民の代表の権力の行使による福利は国民が享受するものです。
388
:
犀角独歩
:2005/12/19(月) 03:32:57
> 359
マックス・ウェバーの政治学の基礎ということでしたが、これは Karl Emil Maximilian Weber のことでしょうか。
Weber は1864年4月21日 - 1920年6月14日の、ドイツの社会学者ですが、この人物と日本国憲法の関係があなたの投稿では明瞭ではありません。
匿名さんが政治学の基本といっていることは、Weber の国家論を指してのことだと思いますが、これが現行憲法を説明する政治学の基礎とする点で、わたしは疑問があります。
日本国憲法では、「暴力」は、その語彙使用はないのであって、刑法では「暴力行為等処罰に関する法律」等の用法が見られますが、「政治学の基礎という権力=暴力」という用法は、現行法下では見られないからです。
あたかも「権力=暴力という政治学の基礎」で現行憲法が編まれたと見るのは納得がいきません。たしかに暴力論は一つの思考の支流をなすもので、論じるのであれば、Georges Sorel の『暴力論』、Walter Benjamin の『暴力批判論』も考慮に入れるべきだと思いますが繁くなりますので、わたしは触れないことにします。
日本国憲法は、「政治学の基礎、権力=暴力」で構成されていると主張する点を、もう少し詳しく解読してもらいたいものです。また、
> 権威を完全否定したところの権力とは、逆に暴力に返る
ということですが、一方、そのあとでは、
> 暴力とは、戦争発議のみを意味しているものではありません。
> 逮捕権や、刑罰を与える権限も含みます。さらに徴税も含まれる
、匿名さんがいう政治学の基礎では暴力はオーソライズされるとき、逮捕権、刑罰徴税行使の権限となる暴力となるが、では、権威が否定されたときの、暴力はなんであるのかという点が不明瞭であると思えます。
なお、わたしは許より、暴力が戦争発議のみを意味しているなどとは、一言もいっておりません。
また、このような「政治学の基礎」は、当スレのテーマである『戦争を考える』とどのような脈絡があるというのでしょうか。さらには、仏教の掲示板である富士門流における信仰と仏教とどのような関係があるのでしょうか。
いちおう、おことわりしておきますが、わたしが305に挙げ、あなたが気が向かないといったところは、一切、「権威」と「権威主義的パーソナリティ」を説明する基礎として挙げたものであり、この点については、349〜353に示したとおりです。政治学を説明しようとしたものでは、まるでありません。
また、わたしは民主主義という語を誤読であり、斯かる主義は存在しないとはいいましたが、現行憲法、政治構造、民権政を否定した記述はしていません。そうではなく、民権が権威の主体者であるべきところを、政権が取って代わる事態が起こりつつあるのではないのかという警鐘を申し述べるために、政治に触れているのに過ぎません。そして、その原因を国民に権威主義的パーソナリティが蔓延する要素がある可能性を危惧しての投稿です。
相変わらず、誤読を以て意味不明な質問を投げかけた挙げ句、「権威主義的」と口を極めた侮辱発言までする投稿姿勢は遺憾というしかなく、抗議も申し添えておくものです。
391
:
管理者
:2005/12/26(月) 16:27:56
当スレッドの閉鎖を本日付けで解除いたします。宜しくお願いいたします。
392
:
藤川一郎
:2005/12/26(月) 17:02:37
現憲法下における日本の元首は誰か?
元首とは、国家の首長をいいます。「元首とは何か?」と言う定義も時代により変遷するのですが、通常は君主国では君主、大統領制を引いている国では大統領であります。
某仏教系カルト団体のK会の会長は、元首は1人で無ければならないしておりますが、国際的に見れば、スイスなどのように「連邦参事会」と言う機関をして元首としている国も存在します。
さて、現憲法下にて天皇陛下は元首であるか否か?
それについては多説有りますが、憲法学説では「元首とは、三権のうち最低でも行政権を有する」とされておりますから、日本の天皇陛下は元首たりえないとなっております。
しかしながら、国によってはイギリスのように君臨すれども統治せずの国もあり、その国でも元首は国王となっているところから言えば、この学説は狭い概念だとも言えます。
また内閣法制局の見解では、「天皇を元首として差し支えない」となっており、一部の高裁判例でも「天皇を元首とする」となっております。
しかし、これは憲法の逐条解釈と言うより、国際法、国際慣習を基として出した結論かも知れません。なお、現今、国内法と国際法が競合する場合、国際法が優先されるのは当然です。
ただし、元首=最高権力者ではありません。強いて言えば「最高権威者」であります。
権威と権力は同義にあらずです。
393
:
犀角独歩
:2006/01/12(木) 15:15:55
当スレにおいて、戦争を考えるということ、軍備増強、憲法改変、また、日蓮主義、日蓮信奉者の戦争責任といったテーマは、実は真新しいテーマではなく、敗戦後、間もない時期から、殊に朝鮮動乱を経、以降、常に論じられてきました。ここ富士門でいえば、小笠原慈聞、戸田城聖、池田大作という名は、単に自宗内の問題としてではなく、日本史的な視点から考証される余地を多く残しています。また、わたしがしばしば挙げる石橋湛山、妹尾義郎、中濃教篤といった日蓮門下の人々の動向も同様です。(以上、歴史的記述なので、敬称略)
以上の点は、「日蓮」の脱歴史化、再歴史化という例えば西山師が指摘されるような点で、現在進行形で考えられており、また、当掲示板での議論もまた、在野の、取り分け、富士門下のフリーランスな考証は、それなりの意義を有すると考えます。
わたしは、「戦争を考える」というテーマについて、「日蓮」との関わりで考えるとき、その軍事翼賛、政治参加動機、もしくは宗教信念という人間の精神活動に共通する心理に着目して考えてみる必要性を痛感しています。
しかし、このようなわたしの思念は、独自なものではなく、ドイツのヒトラーと国民に係るナチズムの研究、また、近代では、所謂「カルト」問題の研究で適用された社会心理学的分析という学術的な視点からの考証に拠ります。
さて、昨年、議論が中断しましたが、わたしは「権威主義的パーソナリティ」という点は、看過できないと考えています。
ここで、まず注記しておかなければならないのは、「権威主義的パーソナリティ」という社会心理学的説明と、俗訛された「権威主義」という語彙における“権威主義”は同音同字であるけれど、意味するところは異なっているということです。また、憲法上で言われる「権威」も、また、違っています。
以上の点は明確化するために、まず、「権威」という語彙から考えていきたいと思います。
先の議論では、権威ということが必ずしも規定されないために、混乱がありました。
権威について論じるとき、「何が権威か」という点を、より明確に記述すれば、「何を権威とするのか」という点を議論されなければならないわけです。
たとえば、自衛隊翼賛者は自衛隊を権威と考え、天皇翼賛者は天皇を権威と、宗教より政治を首都考える人にとっては宗教より政治が上位にある権威であり、宗教を政治のうえにあると考える人にとって宗教が上位の権威である。さらにその宗教の中でも、日蓮を本仏と考える人にとっては日蓮は釈迦以上の権威である。また、「先生」を尊敬する人にとって、「先生」は最大の権威であり、また、特定集団を唯一絶対と考える人にとっては、その集団が最大の権威と“なっている”ということです。
では、このような権威を認識し、その権威に服従、従属、もしくは信託、ないし、準拠しようとする心理を、社会心理学では「服従」というわけです。この「権威と服従」というヒトの生物学
的特徴が、実は2人以上の人間関係、人間集団から、政治、憲法、国家、ひいては戦争に関与する人間の根元的な心理になっていないのかという点を考えてみたいというのがわたしの記そうとしてきことです。
では、わたしがここで「権威主義的パーソナリティ」という釈迦心理学的分析を挙げるとき、この社会心理学成果を権威としていないのかという疑問は当然、起きることです。
これについて、わたし個人の意志を述べれば、別段、権威構造を形成していないと答えることになります。なぜならば、学問的成果は日々進歩、発展、書き換えられるものであり、そこに全幅
の信頼を置くわけではなく、それを無謬として固執するわけでもないからです。それ以上の説明理論があれば、付与すればよいし、間違っていれば、捨てればよいというフローな認識として利用しているのに過ぎません。つまり、この学説を絶対的なものと見なすわけでもなく、拘泥するわけでもないので、特に権威としているわけではないわけです。
いわば、このような柔軟な発想とならず、特定のもの(有形、無形)を絶対的な
ものと見なし、それを権威とし
ていないのかという自己点検を促すことを、この議論で目的にしていたわけです。しかし、このような議論の方向は、絶対的権威を指標する人々の感情を逆撫でするものであることは、むしろ、先の遣り取りで充分に証明されたと言えるかもしれません。
以上、まず、権威とはなにかではなく、「何を権威としているのか」という分析であるという点を、まず留意いただきたいと思います。
396
:
犀角独歩
:2006/01/18(水) 01:45:04
「権威」について、例えばウィキペディアで検索すると
「権威(けんい、Authority)とは、第一義には 「人を強制し、服従させる力」 のこと。権力と威勢」といいます。この説明は、ほぼミルグラム等の説明と一致するものです。
また、「宗教は、宗教的な権威、教祖などへの盲従を前提にしている。まず信ありき、というわけである。キリスト教の場合も、盲従という言葉(ドイツ語では、Gehorsam)というが、日本のキリスト教の文献ではそれを「聴従」と訳している」といいます。
(「盲従」等、‘盲’を否定的に使用する成句の使用には、個人的には反対の立場ですが、原文をそのままタイプしました)
さらに「和製漢語の「権威」では、「学説などで、人を納得させるだけの説得力があること」や「特定の分野、件名についての専門的な知識を有し、それを人に教えるだけの能力を持った人。すぐれた専門家、学識者」のことも指す」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81
と Authority 、Gehorsam 、権威に分けて説明していますが、なかなか正確な記述であると思います。なお、誤解を避けるために記せば、権威という漢熟語が和製漢語であるということではありません。例えば、中華電子仏典協会で検索すると、
「由施佛故。二施輪王座故。三同第二。前約權威。此約尊勝。」
http://www.cbeta.org/result/normal/X03/0221_008.htm
等とあります。
また、日蓮の真偽未決文献である十一通御書には『弟子檀那中御書』に「権威を恐るゝこと莫れ」という使用が見られます。この場合、権威は政道を仏道と分けて、その権力威勢をいう範疇であって、ここでは Gehorsam について論及がないと言えるのかもしれません。
富士門下、当然ながら“宗教的権威”に絶対的な信を置く、その信じるに足りるものを勝劣択一して選び取るという教学的な態度に基づいています。もちろん、その信仰対象を「権威」と表現されることに、信仰者が了解するか、という点はさらに論じられなければなりませんが、日蓮以降の日蓮門下の教学も含めて「日蓮的」という言葉を使えば、権威を、絶対的な本仏、もしくは教祖に置き、国家的な権威を天皇に置いて、その融合を図ろうとしたのが近代日蓮主義であったと言えるのかもしれません。
わたしは、信仰というものから、一定の距離を置いて、それを客観的に見るとき、否、冷静に俯瞰し直すとき、この権威認識と服従という心理構造と行動様式があることを改めて確認したわけです。
絶対的、最高のものであれば、それを信じるべき、従うべきであるという態度が、実は信仰と言われている構造にあります。このような信仰をしてきた人にとっては、「当然のこと」と言われるところでしょうが、しかし、このような信仰態度は、社会心理学でいう「権威」という心理構造に基づいているというのが、わたしの指摘です。
さて当スレは「戦争を考える」というテーマであるわけで、ここでは上述、信仰から離れ、政治、憲法、軍隊(自衛隊)という一連のキーワードで考えられてきました。
日本国憲法で「国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来」というときの権威とは、では、以上のような意味と同意なのかというとき、わたしは強制的(もしくは脅迫的な)服従心理を、この文言は孕んでいないと思えます。
該当原文“the authority for which is derived from the people”というときの the authority は、権威というより、「権限」と訳したほうが適切であると思えます。すなわち「国政の権限は国民に由来する」ということです。
しかし、国政権威が、以上の権力限度を越え、ミルグラムの言説を借りれば「邪悪な権威」となるとき、服従構造が発生することになります。
ここで考えるべき点は、信仰のときと同様で、国政、もしくは軍隊を、絶対的と見なし(邪悪な権威)、それに従わなければならないという脅迫的心理が国民全体を動かすような行動様式を、本来、人間は有しているのかという問題です。
権威認知と服従行動というセットは、宗教心理、政治心理に別があるのではなく、本来、人間という種が類人猿が枝分かれする以前から有していた心理様式であることは、先のローレンツの引用でも明確であった点でした。
わたしが、ここで権威を問題にするのは、権威服従下の人々に起きている心理構造を問題にするからです。そのもっとも典型的な心理効果は「無責任」ということです。より正確に言えば、権威と認知したものに対してのみ責任を感じ、権威に基づく行動に関しては無責任となる心理特色を問題視しているということです。
397
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 15:09:40
藤川さん
わたしは自民党議員が「靖国神社に天皇が参拝」を言うことに永らく違和感を懐いていたのですが、どうも、その点を言語化できないでいたのです。
しかし、今回、三土師の話を聞き、その著『靖国問題の原点』を読み、自分なりに納得できることがありました。
「靖国神社に神と祀られる資格…対外戦争での死者にも適用されていくことになる。戦争があるたびに靖国神社では合祀祭という祭典が催され、祭神の数が増えてゆくことになったが、そのように祭神の数を増やしてゆく神社というのは、それまでの日本の伝統になかったものである。
そして“その祭神には天皇でさえ再考の礼を尽くして拝礼する”…“戦死者は天皇にさえ先立って神とされたわけである”。」(P76)
つまり、天皇の軍隊、兵隊であった者が、この靖国という現場では、天皇に拝礼させ、拝ませる神に成り上がっているのです。これは、天皇が天皇の祖神を拝するのとは根本的に意味が違っています。
臣下であった者が、天皇の上に立ち、神になって天皇に拝ませられるという不遜な構造がここにあるのではないでしょうか。
そして、このようなことを主張する連中は
「『押しつけ憲法改正』を声高に主張する人にかぎって、それによって達成しようとしている現代的目標はむしろアメリカの世界戦略への無批判の追従であるという、何とも皮肉な『ねじれ現象』が顕著で、その矛盾を見透かされている」(P41)
わけです。
別段、わたしは、ここで尊皇を鼓舞する意図はありませんが、しかし、靖国神社の宗教構造は、天皇の兵隊が、戦死すると祭神となって天皇に拝まれる立場になるという実に不届きな構造を呈しており、それを強要する自民党議員というのは、尊皇者からすれば、これ以上の不敬はないと思いますが、如何でしょうか。
398
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 15:12:29
【397の訂正】
誤)再考の礼
正)最高の礼
399
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 18:18:47
397、下手な文章です。もう一点、訂正します。
誤)臣下であった者が、天皇の上に立ち、神になって天皇に拝ませられるという不遜な構造
正)臣下であった者が、天皇の上に立ち、神になって天皇に拝ませる・拝まれるという不遜な構造
400
:
藤川一郎
:2006/03/12(日) 22:58:40
>>397
仰ることには一々に納得させられます。
私が靖国神社に違和感を感じ始めた第一は、同じ天皇陛下の赤子であるハズの「戊辰戦争及び西南戦争の賊軍」が靖国神社にて神になっていなかったことからです。
そもそも、日本において神とされたのは皇祖神であります。それとは別に祀ろわぬ神の存在もあります。これは明らかに「天皇家と敵対し滅ぼされた者の怨霊を鎮魂する為に、祀られた神」であります。しかし、明治維新後神道の何たるかも知らない、薩長の田舎者が(不肖私の先祖も薩摩なんですが・笑)、国家に殉じた者を神とした。
しかしこれは政策的な側面があると思います。
近代以前は国民皆兵制的な物はありませんでした。戦争は侍がやってくれる。それを民は傍観していた。これが史実でありましょう。しかし、近代国家への脱皮には、中央集権と徴兵制施行が必要であった。しかし、今まで国の為に命をかけようなどと考える事の無かった民衆を、死をも恐れぬ兵士に教育するのは難しい。そこで忠君教育と靖国神社が考案されたと私は考えております。
即ち、①天皇家に忠義を尽くす。②それで死んだ者は須く神になれる。③しかも天皇陛下にすら拝まれる神になれる。
すなわち、一向一揆における「進めば極楽浄土、退けば無間地獄」のような兵士を作り上げる。そのための靖国神社だと思います。
「戦え兵士よ。国に忠義を尽くして命を落とした者は全て、陛下に拝礼される存在となるのだぞ。」
つまり、これは天皇家が御自身の御先祖を祀ったとか、敵対した者の鎮魂のために祀ったのとも違い、日本の伝統から言えば、不思議な事です。
その証拠に、本来の怨霊鎮魂のためには絶対に祀らねばならない「戊辰戦争の賊軍」「西南戦争の薩軍」が一切神になれず排除されているのです。
401
:
犀角独歩
:2006/03/13(月) 13:15:03
藤川さん
ご賛同有り難うございます。
仰る点、三土師も、怨親平等と御霊信仰の両面から説明していました。
靖国教義(と言えるかどうか?)というのは、三土師の言を借りれば「国がいかなる形でせよ戦死者を公的に意義づけること自体を、新たな戦死者をつくる準備ではないかと警告する人が多く」(『靖国問題の原点』P101)いると言います。
わたしは靖国神社信仰というのは、天皇崇拝を換骨奪胎した構造である睨んでいます。つまり、元来、天皇に向けられるべき崇拝を、天皇の権威を借りて、靖国祭神にスライドさせ、その祭神合祀の決定権を握る政府が天皇に成り代わる構造です。いわば、現在の下克上といったところでしょうか。
坊さんであれば、追善回向ということがありますから、自分の弟子の礼に向かって拝むことはあるでしょう。しかし、天皇を頂点の神とするはずの日本で、天皇に拝ませる神を天皇祖神以外に想定する在り方は、明らかに天皇崇拝を換骨奪胎したものとしか言いようがありません。
さらに以下、三土師の明解説、やや長く転載します。
「2001(平成13)年春、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎は、同選挙の候補者として久々に靖国参拝を公約として掲げ、首相になったら8月15日の終戦記念日に首相として靖国神社に参拝すると明言することで、日本遺族会の支持を取り付け、それを自己の勝利に結びつけた。この「公約」の実行をめぐっては、実行前に何度も話題となり、小泉は釈明を求められたが、7月11日の衆院選主要7党の党首討論会での「A級戦犯も死刑という刑罰を受けている。…死者をそれほど選別しなければいけないのか」という彼の発言は、中曽根首相が目指した方向が、とりわけ、感情面において、過去のものになっていないことを窺わせるものであると同時に、国家護法法案以来30年にわたって戦わされてきた靖国問題をめぐる議論を、この人は学んでいないことを世間に知らしめるものであった。
小泉の発言は日本遺族会顧問・板垣正の「日本人の文化伝統から、死すれば神または仏である。戦犯刑死者も等しくそのみたまをまつることが、日本人の宗教的感情であり、死者に鞭打つ伝統はわが国に存在しない」(『靖国公式参拝の総括』340頁)との記述とみごとに符号しているが、靖国神社こそがむしろ「死者を選別する」思想によって成立し、それによる矛盾を抱え込んでしまっていることを見落としている。「『日本の伝統』と称するならば、仏教の怨親平等回向の精神に立ち返って、敵を祀れ」とまで要求するのはこの際、求めすぎだとしても、明治時代には想定もされなかった総力戦の時代となって、軍人・軍属としてたまたま軍の指揮下にあった者は神と祀られ、そうでない民間人犠牲者は祀られないという例が多く出て、その選別の恣意性は大いに問題とされている。と同時に、、旧植民地国から出征させられた戦死者の遺族が、日本の神とされることを不快として合祀取り下げを請求しても、それには教義上けっして応じられないと突っぱねているのも靖国神社である。
合祀取り下げといえば、もうひとつ、自民党内の公式参拝に熱心な人々自身が手を焼いた問題もある。中曽根公式参拝がA級戦犯問題で暗礁に乗り上げ、継続不可能になったとき、ならばA級戦犯だけを合祀取り下げして別の場所に移すことができないかと、靖国神社に打診した政治家があった。しかし、「いったん合祀した魂を分けることはできない」として一蹴されている(高橋哲哉『「心」と戦争』179頁)。その後、この案は1999(平成11)年にも時の自民党幹事長森喜朗と内閣官房長官野中広務によって蒸し返されたが、神社側の不動の原則論の前に、早々と撤退を余儀なくされている(菅野伸郎編著『戦争と追悼』46〜48頁)。ご都合主義の政治家が、みずからの飼い犬と思っていた靖国神社に、手を咬まれたのである。「政治」の都合では御しきれない「宗教」としての靖国神社があったというのは、皮肉なことだが事実である」(前掲書P99)
402
:
藤川一郎
:2006/03/17(金) 13:09:48
余談ではあるが、靖国神社は「いったん合祀した魂を分けれない」「神となったものは元に戻せない」
と言っているが、それは本当でしょうか?
豊国大明神と言う神がいる。豊臣秀吉その人であるが、豊臣家滅防後にいったん人に戻っている。
明治以降再興されたが・・・。
つまり、祀られた神でも、人に戻すことは可能です。
403
:
犀角独歩
:2006/03/18(土) 09:48:51
402 藤川一郎さん
この点、わたしは孫引きなので、『「心」と戦争』『戦争と追悼』を手繰ってみようと思っています。
いずれにしても、合祀だ・祭神だといっても靖国が勝手にいい、それを認める人が指示している‘教義’であるわけですね。
たとえば富士門で戦没者を供養しようと思えば、塔婆回向で当証菩提を願うことになりますね。そうすれば、神(天界六道)ではなく、仏(仏界十界)です。
結局、靖国問題の本質は、そのような「国のために兵士として死んだ人間は、靖国で合祀されれば神になる」という教義を表に出して肝心の政治的な部分の本音に紗をかけている点にあるわけでしょうね。
どのように政治に利用されているのかという実質論からも考えられるべきだというのが、三土師の指摘だと思います。靖国、軍隊、兵隊賛美、しいては、退役軍人・家族の優遇措置がその背後に見え隠れし、そのような特権性を確保する蜜と、政治家の票田という、同じカミでも、紙幣と投票用紙が祭神にすり替えられている構造があると思えるわけです。
靖国に祀ったところで人が神になるわけもないわけです。そんな美談で、どんなソロバンがはじかれているのか。まあ、小泉氏の父親は知覧の出身だというわけで、そこに言って大泣きした経過が公約につながっているんだなんて話の仕上がりですが、だったら、約束通り、8月15日にいけばいいわけです。「政治は駆け引き」だから、そのぎりぎりのところでそれぞれの支持者の折り合いが付く、妥協の産物というわけでしょうか。こんなことと、人が神仏になることは、元来、別の話だと思うわけです。
404
:
日本侵攻開始
:2006/04/16(日) 00:05:11
遂にこの日がやって来てしまったようですね。
中国 日本の経済水域で作業へ
http://www3.nhk.or.jp/news/2006/04/15/d20060415000137.html
領土問題などの係争地域で一方的な海上封鎖は宣戦布告とみなされるのが常識です。
これが日本の左翼の方たちがもたらした結果ですか・・・
これで皆さん目が覚めましたでしょうか?これが現実です。
9条だのピースだのをアピールしてる人たちは日本解体を企ててるマルクス主義者で、
この本音に気づかずに平和ごっこに騙されている人たちが何と多いことか・・・
やっぱもう手遅れですかね?残念です。
405
:
Slow Life
:2006/08/26(土) 20:03:11
、、この問題は読売新聞の特集記事にもありました。 なかなか難題至極の一見でしょう、、か、、??
今、戦争の原因を思考・錯誤しますことは、意義がございます、、でしょう、?
歴史に「、、たら、、れば、、」、、は禁句ですが、、明治政府が、、「、、富国強兵を疑問視していたならば、??」、、
「、、大砲・軍艦よりも、米・牛乳・にんじん・自転車・耕運機・風呂など、、、」、、に重きを置く「見識と卓見」のある指導者が不足==人材不足(今と同じ)、という当時の流れ、、??、、も、、一応の、、一因、、では、、、??? 詳細は、、あと99年くらいの後に、、判明するかも、、??
406
:
日本人民共和国反対
:2006/08/28(月) 09:33:25
日本共産党は「日本国憲法」に唯一絶対反対した政党である。
日本共産党の独自憲法草案・・・「日本国は、日本人民共和国である」
407
:
羅臼 昆布太郎
:2006/08/28(月) 18:36:53
失礼します。 先日、根室の沖合いで34歳の方が銃撃され御亡くなりました。
近隣に親戚を有する一人として、本当に、、情けない、、!!
良くは判りませんが、国と国との利害・対立ほど、、難儀・難題な事はほかには無いようです。
今日、この本を読み、更なる危惧が増しました。
「中国の核が世界を制する」(伊藤 貫 著、PHP 研究所) です。 御免くださいませ。
408
:
藤川一郎
:2006/08/30(水) 12:07:36
>>406
日本人民共和国憲法草案 前文
「天皇制支配体制によつてもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであつた。この天皇制は欽定憲法によつて法制化されてゐた様に、天皇が絶対権力を握り人民の権利を徹底的に剥奪した。それは特権身分である天皇を頂点として、軍閥と官僚によつて武装され、資本家地主のための搾取と抑圧の体制として、勤労人民に君臨し、政治的には奴隷的無権利状態を、経済的には植民地的に低い生活水準を、文化的には蒙昧と偏見と迷信と盲従とを強制し、無限の苦痛をあたへてきた。これに反対する人民の声は、死と牢獄とをもつて威嚇され弾圧された。この専制的政治制度は日本民族の自由と福祉とに決定的に相反する。同時にそれは近隣植民地・半植民地諸国の解放にたいする最大の障害であつた。
われらは苦難の現実を通じて、このやうな汚辱と苦痛にみちた専制政治を廃棄し、人民に主権をおく民主主義的制度を建設することが急務であると確信する。この方向こそかつて天皇制のもとにひとしく呻吟してきた日本の人民と近隣諸国人民との相互の自由と繁栄にもとづく友愛を決定的に強めるものである。
ここにわれらは、人民の間から選ばれた代表を通じて人民のための政治が行はれるところの人民共和政体の採択を宣言し、この憲法を決定するものである。天皇制はそれがどんな形をとらうとも、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない。天皇制の廃止、寄生地主的土地所有制の廃絶と財閥的独占資本の解体、基本的人権の確立、人民の政治的自由の保障、人民の経済的福祉の擁護――これらに基調をおく本憲法こそ、日本人民の民主主義的発展と幸福の真の保障となるものである。日本人民の圧倒的多数を占める勤労人民大衆を基盤とするこの人民的民主主義体制だけが帝国主義者のくはだてる専制抑圧政治の復活と侵略戦争への野望とを防止し、人民の窮極的解放への道を確実にする。それは人民の民主的祖国としての日本の独立を完成させ、われらの国は国際社会に名誉ある当然の位置を占めるだらう。日本人民はこの憲法に導かれつつ、政治的恐怖と経済的窮乏と文化的貧困からの完全な解放をめざし、全世界の民主主義的な平和愛好国家との恒久の親睦をかため、世界の平和、人類の無限の向上のために、高邁な正義と人道を守りぬくことを誓ふものである。」
うーん。天皇制の廃止か(涙)?
409
:
藤川一郎
:2006/08/30(水) 12:12:07
ついでに、日本人民共和国憲法草案(通称100条憲法)の改正条項の部分です。
第九十九条 日本人民共和国の憲法の改正は、国会代議員の三分の二以上の出席によつて開会される国会において、三分の二以上の多数をもつて採択されねばならない。
第百条 日本人民共和国の共和政体の破棄および特権的身分制度の復活は憲法改正の対象となりえない。
これは矛盾ですね。たとえ「正当に国民が希望しても、天皇制は復活させないぞ」と言う意識ですかね。
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