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戦争を考える

108匿名:2005/11/26(土) 00:27:00
>個人として考える、その延長に国家という‘宿場’があるということです。

国家という「宿場」という表現は、私には馴染みませんね。

>「インドといわず、日本以外の世界では宗教者(宗教における指導的な地位にある僧侶、神父、牧師といった人々)の発言力は日本とは比較にならないほど大きいのです。わたしたちは、主義主張、政治的地位、国家、経済という一切の利害関係から抜け出たところに立っていますから、あらゆる国のキーパーソンと会話をすることができます」

私はこの言葉には、賛同します。このくらいの発言力を、発してほしいと思います。利害関係から抜け出たところ、これがまさに憲法でいうところの政教分離でもあります。しかし発言は利害関係ではありませんから、やっていただきたいですね。私としては。

>ヨーロッパでも中世以来、バチカンから派遣された特使が戦禍に和平交渉をしたようなことが、実はいまでも、継続しています。

ローマ法王は重用な政治的局面においては、必ず声明文を出してますね。私はこうしたことを、日本の仏教界でもしてほしいと思います。そうしたことは、「憲法」でいうところの「政教分離」で規制させていることではありませんから。

>「国を失ひ家を滅せば何れの所に世を遁れん。汝須らく一身之安堵を思はば先づ四表之静謐を祈るべき者歟」

ちょうど出してくださいました。私はこの一文で、政治と憲法への思いを信仰と重ねて、強くいたしました。
「立正安国論」の、この一文が最も好きです。

この一文から、日蓮聖人の「立正安国論」は、政治にものを言っていると、私は自分の信仰に引き寄せて解釈いたします。
国民(民衆)の生命・身体・財産を守る政治(まつりごと)を行いなさい。そう訴えているように思うのですが。

>ただ、間違ってはいけないのは、日蓮が、このように主張したのは、民に対してではありません。為政者にたいしてです。

そう。為政者に対して。
だから、私にとっては、それが「憲法」なんです。はっきりいえば、「立正安国論」が、「憲法」にさえ置き換えられるように思えるのです。これは私の信仰解釈として。

>また、日蓮は政治改革を訴えたわけではなく、その為政者の信仰対象を突いたのです。いわば、政治的側面ではなく、
政治改革ではないでしょう。私もそう思います。
信仰対象について云々した。これはそうだったかもしれません。ただし、これは中世の時代にこと、この点は現代に置き換える必要があるでしょう。

極めて政治的側面だと私は思っております。
なぜなら、国民の生命・身体・財産を守れと訴えているように読めたからです。

>心の問題への論及であったという点です。

心の問題というところ、為政者としての「心構え」と言い換えられませんでしょうか。


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