したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

戦争を考える

192犀角独歩:2005/12/03(土) 13:44:52
「戦争を考える」というテーマは、仏教という心を扱う側にとっては、「何故、戦意が生じるのか」と換言できるテーマでもあります。この点は心理分析、ことに社会心理学の分析と相共通する側面を有しています。

ここ一連の議論が成り立たない理由は、至って簡潔で、向いている視線が逆であることに起因しています。

戦争というテーマに当たって、仏教・もしくは社会心理学は、その内的要因(心因)を考えるようとします。一方、政治という現場では外的要因(社会状況、国内事情、国外の脅威といったもの)から考えようとします。この2つは噛み合いません。けれど、たぶん、外的要因から考える人々も内的要因を考えていると答えるでしょう。しかし、内的要因から考え出す側からすると、その外的要因から考える人々の言う「考えている」ものは、実は与えられた考えを自分の考えであると思い込んでいるのに過ぎないという分析を伴って観察しているという構造もあります。半面、外的要因から考える人々は、内的要因から考える人々を外的要因に対する無知からの判断と即断する傾向があるように思えます。

歴史から、この内容が要因を考えて見ます。
中国では文武両道を言い、政に儒教などの内的要因の認知が導入され、さらにその中国思想によってアレンジされた仏教(格義仏教から鎮護仏教)が文武両道に併せて採用されることによって王政は統治に当たるという構造によって実現されていたわけです。
この点は、明治以前の日本においても、ほぼ同様であったことが窺われます。
ここで、為政者は、自己観察と分析において、文武、もしくは政教といった二律背反する原理を認めその両面から考える努力をなしていたことが知られます。

明治以降の国家の有様は、この政教というものを解体し、かつ、国民の意思(民意)を単一化することによって達成されてきた側面があります。
ここにおける民意は、国家が考えるように国民も同様に考えるという思想統制によって実現されたものでした。では、この統制に合わないものにはどのような烙印が押されたのか。非国民というそれです。このラベリングは、生殺与奪の実権を握る国家から生きながらの死刑を宣告をするものでした。さらに実際の投獄、極刑が治安維持法違反、また、不敬罪といった名目で可能であったわけです。

近代以降の日本において、ここに住む国民は、どのように考えるのかという国家が提供する心的モデルに基づいて実は考えてきたのであり、その心的モデル、すなわち提供された内的要因によって、外的要因を考えるという構造がそこにあります。

この内的要因の国家操作で重要な点は、国家が重大な決定を下すとき、国家は、この内的要因を、国民という群集心理の操作を必ず行ってきたという事実です。

政治システムから考えて見ます。
投票というシステムは、近代、考案されたもっとも民主的な方法論であるということになっています。これ以上のシステムは今のところ、思いつきませんが、しかし、この方法は万能ではありません。また、この方法は、それまでの政治責任、国家の決定が国王・為政者にあったものを、国民一人ひとりの責任の置き換えるという重大な負荷を背負うものです。
アメリカを例に取ります。投票の結果は大統領は選ばれます。この大統領が、核のスイッチを押した。すると、それはアメリカ国民全員の責任であり、かつ総意である<ということになる>という構造がそこにあるわけです。しかし、本当でしょうか。総意といわずとも、アメリカ国民の大多数が核のスイッチが押され世界が滅亡することを望んだからでしょうか。
このような歪は、しかし、日本の投票、政治というシステムでも同様の欠陥を有しています。
国民への責任転嫁は以上のような欠陥によって可能になっている構造がここにあります。
民意と政治上で‘翻訳’されるものは、以上のような深刻な構造欠陥の上でいわれているものに過ぎないという前提をわたしはいつも考えています。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板