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戦争を考える

135犀角独歩:2005/11/28(月) 23:12:52

―134からつづく―

仏教を通説的に学んだ人であれば、大乗仏教の興隆が西暦前後のインドを蹂躙したゾロアスター教徒カニュシカ王と関連しながら、さらに大乗仏教という新たな仏教運動と共に仏像と経典を創作しながら世界に伝播したことを知っています。このカニュシカ王のインド征圧、還元すれば、ここでも戦争と仏教を並び語る歴史があります。さらに、13世紀のイスラム教徒によるビクラマシラー寺院の徹底破壊を最期にインド仏教は滅亡したというの通説を知っています。ここでも戦争と仏教は並び考えさせられます。やや、時代を経ますが、チベットの仏教徒大虐殺も、戦争と仏教が並び語られるテーマでしょう。

ここで、彼らがなぜ無抵抗であったのか。そこには「不殺生」というブッダの教えを頑なに護ろうとした信仰的実践があったからに他なりません。
国を護らなければ滅びてしまう。だから、戦うべきだったのではないのかという疑問は当然、起きるわけです。しかし、殺したものは、いつしかその報いを得て、殺されることになる。この連鎖を断ち切るという考えが彼らにはあったとわたしには思えます。

以上の歴史的経緯は仏教徒が、戦争の被害者であった歴史とも言えると思えます。

さて、法華経が、ついにインドで定着することがなかったのは何故かというテーマは、実に興味深いものですが、それは取り敢えず置くこととして、この法華経が重んじられるようになるのは羅什の漢訳とその学派的関係にあった慧思から智邈(天台山)の教学的大成と大きく関わっていることは、いまさら記すこともないわけです。わたしは、仏教が中国で定着していく過程で格義解釈を経ながら、習合していった中国思想のなかで、孝と共に鎮護国家思想は看過できないと考えるわけです。法華宗において、より具体的にいえば、涅槃経と束ねられていった一連の教学的な姿勢です。
何度も記してきたことですが、涅槃経における折伏は正法護持のために武器を持し、正法破壊の人を絶命させることが、むしろ、悪業を重ねさせないことになるという、オウム真理教のポアと起源を同じくする「殺」の思想が導入されたものでした。このような法華経の涅槃経解釈は、法華宗という体裁を取って日本に招来されます。

正法護持のための「殺」は殺ではないのか?ということは実は大きなテーマです。われわれはオウム真理教のポアを見て、「何と愚かな」と思ったわけですが、しかし、同様の教えは涅槃経にあります。換言すれば、法華宗に、日蓮法華宗あるということです。また、密教でいえば、調伏という呪法は、実質的に自国の安寧のために敵を滅ぼすことを目的にしているわけです。敵国が滅ぼうと敵国の民が死のうと、お構いなしという考えであるわけですが、理由の如何を問わず、いかなる殺生も殺と見る初期仏教とは根本的に質を異にしていることになります。それまでの歴史上で、常に戦争暴力の被害者であった仏教(徒)は、この時点では、むしろ、加害者としての位置に立っている点は看過できません。

当然、日蓮の仏法も、この脈絡にあるわけです。そして、先の大戦における戦争責任の脈絡もここにあります。果たして、本当にそれでよいのかという大きな疑問がわたしにはあります。そこでテーゼとなるのが「不殺生」ということです。また、サンサーラを仏法として考える人であれば、殺の輪廻を断つという点も重視されるでしょう。

わたしは、この事実を看過しないで直視することが、このスレのテーマである「戦争を考える」筆頭になければならないと考えるわけです。自己責任を考えるということは、わたしは過去半世紀の仏教としての自分を再点検するうえで重要な着眼点の一つです。この責任を具体的に記せば、先に挙げた原爆祈念碑の誓い、過去の過ちを二度繰り返さないためにはどうするのかという点に帰着するということです。これはまた「不殺生」という仏教の叡智とも大きく関わっています。

長くなりましたので、続きは追って記します。


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