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戦争を考える

146犀角独歩:2005/11/30(水) 01:42:14

> 「政」においては、救う側は「王臣」であり、救われる側は「民」と考えますが。

ですから、それは政においてではないでしょうか。仏に立つ日蓮とは違います。

> 「立正安国論」は、日蓮聖人が王臣万民の一切を救おうという趣旨の内容なのですか。

『立正安国論』で‘一切衆生’を言うのは「大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、竝びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて、一切衆生之心を薄す。是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り」という1回ですが、当然、以上のように一切衆生への視点があります。

>> また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。
> そのことを「立正安国論」で説いているのですか。

わたしは、この点については王・臣/万民の関係であると記したのであり、一切衆生については『報恩抄』の記述を挙げました。

>> 民衆云々は微塵も考えていなかった
> これは、あなたではありません。藤川一郎さんの記述…同調…同じ意見

この点については日蓮の語彙の用法について説明したはずです。
日蓮が言う民衆と、あなたが言う民衆は意味が違っています。
日蓮の考えは近代日本に導入された民主主義(デモクラシー)で言われるような民主主義の主体者である民衆(大衆)といった意味合いでは論じていないと言う点で、わたしは藤川さんに同意したのです。

> 憲法では一切衆生の権利を明記することはできません

ですから、同じとは言えないと言っているわけです。

> 一切衆生よりは、まず民衆救済を訴えた

ですから、視点の方向が、わたしが記していることからずれているのです。
民衆とは王臣に対概念としているのが日蓮の用法である。つまり、民衆の側に立つとか、王臣の側に立つとかというような考えではなく、仏教の僧侶は常に一切衆生に眼を向けているといっているのです。

> わかりました。その前に、確認しておきたいのですが、このように求めるところをみると、あなたはこの一文には、異論の立場をとるわけですね。

それはあなたの論証を読んでみなければわかりません。
ただ、論拠を挙げずには書くのではなく、証拠を挙げてみてはどうかと、まず促したと言うことです。

> 「立正安国論」と「憲法」を重ねているのです。

同じことでしょう。
日蓮は王政における政教一致を論じているのです。
『立正安国論』では、法華経を持つ以外に、国王が国を安ずる方法はないといっているのです。どこが憲法と一緒なのでしょうか。

> 繰り返しますが、法華経ではありません。その他の特定の経典でもありません。「立正安国論」です。それも「信教の自由」などと私がいつ特定しましたでしょうか。

ですから、立正安国論で、王が国を安じるのに持つべきは法華経であるというのが日蓮の主張だと申し上げているわけです。
あなたが、信教の自由を言っているわけではありません。
一切、信教の自由を認めない立正安国論、そして、法華経が、いったい、信教の自由を認める憲法とどこが同じなのかと聞いているのです。

> 私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。

もう一度、繰り返しましょう。立正安国論は法華経以外の一切の信教は認めていません。また、民衆の人権などを論じることを目的にしていません。そもそも、日蓮の時代に、人権に該当する概念、また成句とはいったいなんでしょうか。

ご自身が夢想した日蓮、立正安国論で語るのではなく、あなたがここを5年間ロムしてきたというのであれば、ここが厳正な挙証によって論議してきたことはご存じのはずです。あなたも、そうなさっては如何でしょうか。


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