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戦争を考える
154
:
匿名
:2005/12/01(木) 00:10:38
まず最初に誤解をされているようですが、私は、「民衆仏法」などという語彙は、この度はじめて聞きましたし、私の書いたことをもって、それは「民衆仏法」というものだと言われても、ピンときません。
恐らく察するに、日蓮仏教を「民衆仏法」と解釈する教義があって、それは間違っているという結論に到っているものなのだろうとの観点から、私の記述に異論を唱えておられるのではないかと拝察いたします。
しかし、私はそのような解釈に立脚して記述しているものてはありません。そこは勘違いしないでいただきたいと思います。
また何度も申し上げていることに関連しますが、私は日蓮仏教教義において「立正安国論」は「憲法」と解釈すべきだなどとした、教義論争を投げかけているものでもありません。その点は、はっきり申し上げておきます。
私自身の信仰の位置付けとして、そのように拡大解釈しているということを記しました。記してしまった責任において、お答えさせていただきます。
いずれにしても、中世の時代の価値観で書かれたものですから、それをそのままの内容を現代に持ち込むことは無理でしょう。その点において私は、ほとんどのものを捨て去りました。政教一致はもちろんのこと、法華経を最高と考えることも、戒壇建立にしても、念仏を悪とすることも、そのほとんどを捨てています。
しかし、そのようなものを捨ててもなお、また中世から現代へと時代を超えてもなお、日蓮聖人の行動原理に心打たれるものがある。それは何だろうかと自問自答していくとき、あの時代なりの、国への思い、国主への思い、民への思いが、「立正安国論」にこめられているのではないかということなのです。それを私なりに突き詰めていくと、「憲法」の精神に通じるものがあるのではないかと思ったということです。
また世界史をパラレルに見ると、ほとんど同時期に大憲章マグナカルタが制定されてもいる。これは、中世における世界規模での権利意識の目覚めであろうと、感心もしたわけです。そこに日蓮聖人がいたということです。それが私の心を最後にとらえて残っている部分であろうということを、少々書いたというわけです。
教義で詰められるようなものではありません。当然、論破されるでしょう。権利だ人権だ民主主義だなどという言葉はもちろん、概念すらない時代なのですから。しかし、言葉も概念もない時代の中において、誰から教えられたわけでもなく、明らかにそれに通じる意識の目覚めが感じられる、その行動の証を歴史に残している。そう私は見ているのです。
時代を動かす人、時代に名を残す人とは、そういう存在なのだろうと思います。
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