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聖典引用 板
1899
:
さくら
:2013/01/11(金) 03:51:26 ID:VxpE5cyY
『聲字即實相の神示』 谷口雅春先生
吾が第一の神殿は既に成れり。
名付けて『生命の實相』と云ふ。
完成の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。
七つが事物の顕現の周期律になつてゐる。
吾れに神殿は不要であると嘗て示したことがあらう。
吾は道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。
『生命の實相』は吾が本體であり、無形の『生命の實相』を形にあらはしたのが『生命の實相』の本である。
『言葉』を載せた書物を『本』と云うのも、『言葉』こそ事物の本であり本質であり、本體であり、本物であるからである。
『言葉の宇宙』が先づ出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。
今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起つたのである。
『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の『本』が調うたのであるから今後は何事も急轉直下する。
『生命の實相』を披らくだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の實相を知り歓喜踊躍して手の舞ひ足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。
その歓びの相こそ人間の生命の實相である。
吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披らいて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。
『生命の實相』を展開けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡期であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として色色の出來事が突發する。
日支の戦ひはその序幕である。
神が戦ひをさせてゐるのではない。
迷ひと迷ひと相搏つて自壊するのだ。
まだまだ烈しいことが今後起こるであらうともそれは迷ひのケミカライゼーションであるから生命の實相をしつかり握つて神に委せてゐるものは何も恐るる所はない。
(昭和七年一月十一日神示)
1900
:
a hope
:2013/01/11(金) 08:05:08 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆父母に立派な本を選んでもらいなさい
どんな本が立派な本かは、お父さんや、お母さんや、先生が知っていられます。
よい本は出来るだけたくさん買ってもらいなさい。
本というものは、「心」が外の景色を見るための窓のようなものです。
私が中学生の時分には、中学に図書室(本をならべたへや)がありまして、
昼の休憩時間に一しょうけんめい読んだものです。
それが今でもたいへん私の役に立っているのであります。
「本のない部屋は窓のないようなものだ」といった人もあります。
よい本がならんでいるのを見るだけでも、自分の心に楽しいよろこびをあたえるものです。
よい本をしっかり読まない人で、立派になった人はありません。
ほかの玩具(おもちゃ)や、遊び道具を買ってもらうよりも、よい本をお父さま、
お母さまに買ってもらって、それをつねに読むように心がけなさい。
(つづく)
1901
:
通りすがり
:2013/01/11(金) 08:40:37 ID:???
>>1899
一行目の「吾が第一の神殿は既に成れり。」は、中央揃いでよろしいですか?
1902
:
goro
:2013/01/11(金) 11:45:39 ID:nCo1DokU
>>1893
の続き
殿下は、この万歳の声を、どんなお気持ちでお聞きになっておいでになるだろうかと思うと、涙が止まらない。今日の昼、ごらんになった東山御文庫内の烈々たる芳香は、いま殿下を厳しく且つ暖かく包んでいるに相違ない。いま聞こえるこの万歳の歓呼の声は、結局は歴代の聖天子の御余得に対する京都市民の感謝の声ではないか。積徳の余栄に、いま、このお若い殿下が酔われてはならぬ、と思うと、居ても立ってもいられない気持ちになった。
やがて提灯行列も終り、殿下は御殿にお帰りになったが、泣きぬれた私は、もはや人に顔を見られたくないから、そっと後から御殿に足をふみ入れはしたが、明るい室には顔を出すのも恥ずかしく、薄暗い廊下で、ありあわせの巻紙を引き割いて、鉛筆で自分の思うところを、無遠慮に且つ露骨に、したためていた。
先刻から私が姿を消してしまったのを心配して、広い御殿の中を捜してくれていた先輩の西園寺御用掛が、薄暗い廊下で私を見付け、声をかけてきたので私は余計なことは云わず、ただ、これを殿下に、と私の書いた紙片を同氏に渡したまま、私は旅館に早々に退出してしまった。床に横たわっても興奮は治まらない。自分は奈良に正倉院という世界的に有名なお蔵のあることは知っていけれども、この京都の御所の内に、かくも立派な東山御文庫のあることを少しも知らなかった自分の愚鈍を憐れむと共に、長い年月の間、静かに流れつづけてきた、この皇統無私の御精神に対し、知らぬこととは云いながら、いささかの感拝の念をも起こしたことのなかったことは、誠に相すまぬことだったと思う自責の念に深くさいなまれた。
翌朝、御殿に参上すると、西園寺先輩が「君、殿下に鉛筆の走り書きなどを上げるのは失礼だよ」と新米侍従の私をたしなめながらも、「だから僕は、あれを殿下に読んでおきかせしたよ」と、誠に行きとどいたことをしてくれた。後で殿下にお目にかかったら、大そう真面目なお顔つきで「昨晩は、よいことをいってくれて、ありがとう」とお小言の影すらもなかった。
長い間、私が考えつづけてきた心中の疑問は、この一瞬に解決した。皇統無私の御精神は、そのまま殿下がうけついでおいでになる。これに磨きをかけて差し上げたのが東郷、乃木、杉浦の諸公だ、というのが、この時から私の確信となった次第である。思えば、私が若き日に、お供をして東山御文庫内で、光格天皇の御書簡を拝見したという一事は私にとっては忘れがたいことであり、爾来私が日本皇室の伝統的御精神ということについて特別の関心を持つようになったのも、このためではないかと思っているし、また、古文書の保存ということが、いかに大切であるかということを思い知らされた次第でもあった。
1903
:
さくら
:2013/01/11(金) 12:27:46 ID:VxpE5cyY
>>1901
通りすがり様
ご指摘、ありがとうございます。
実は、いつもはじめの文字のスペース一つでは、一マス空けることができなくて、
余分にスペースを打ちすぎてこのようになりましたという、…ミスです。
ひとマス空けて、左揃えで読んで頂けましたら、有難いです。
せっかくの神示が、見づらい様子になりまして、申し訳ありません、
これからもご教示、よろしくお願い申し上げます。
拝
1904
:
通りすがり
:2013/01/11(金) 14:54:22 ID:???
>>1903
さくら様
お返事ありがとうございます。承知いたしました。
あと、普通ならちっちゃい「っ」だと思いますが、旧仮名遣いだから大きい「つ」になっているのでしょうか?
細かいことを申し上げますが、お許しくださいませ。
1905
:
さくら
:2013/01/11(金) 17:04:47 ID:VxpE5cyY
>>1904
通りすがり様
はい、ご指摘の通りです。
旧仮名遣いであるので、
例えば、「なっている。」のちっちゃい「っ」が、「なつてゐる。」と表記されておりました。
行き届いた配慮で、目を通して頂きまして、ありがとうございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
拝
1906
:
うのはな
:2013/01/11(金) 22:06:58 ID:DYtKCfk2
>1881 生長の家入門講義 『生長乃家』 誌 谷口雅春先生
1881から続けて謹写させていただいてきましたが、都合により
中途で終了します。
関連する話が光明掲示板にありましたので御参照下さい。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1037
1912
:
さくら
:2013/01/12(土) 07:05:27 ID:77/ZZxYM
『静思集』 谷口雅春先生
*
「潔く生きると云うこと。
潔く生きるとは我と云うものが無くなることである。
一寸でも我があったら潔くなれない。
潔くとは一寸も引っかからずにサラリと水のように神様のみこころに流されて行くことである。
「法、法の中に住せず」と云う語『観普賢菩薩行法経』にあるが、
萬法すなわち萬ずの現象が、住まらず、
流水のように引っかかりなく、はからい心なく、そのままに流れ行くことである。
我があっては、そう云うように引っかからずにいる訳には行かない。
我が無くなったのが佛である。
我と云う固塊がほどけてしまって、ただ「神」がうちから湧き出て来ることである。
強いて言えば、「衆生の内から湧き出て来た神」がほとけである。
「ほとけとは衆生が悟りを開いたものである」と云う意味は斯う云う意味である。
衆生が悟りを開いて佛となるが、その佛なるものは、
同時に超越的なところにあって、この世界をあるべきようにあらしめているところの神である。
此の世界をあるべきようにあらしめていることを此の世界を「神が造った」と云うのである。
そして、その神を創造神と云うのである。
こう考えて来ると、衆生の内から湧き出て来るところの内在の神(佛性)と、
この外から、又は超越的なところから、この世界をあるべきようにあらしめていること「神」とは、本来「一つ」である。
神佛一體論は斯うしたところからも頷ける。」
1913
:
SAKURA
:2013/01/12(土) 14:08:11 ID:U9ONro8Y
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
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>>1812
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>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 ====================
『生命の実相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服むようになり、心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。刺身包丁を見て、それで人殺しをする人も
あれば、自殺する者もある。また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。先
日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。そ
れはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。たまたま包丁で人殺しをしたり、メス
を見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、包丁やメスは危険であるからとい
って、その発狂や所有を禁止したり、メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。
『生命の実相』には病人に対してむやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もな
い。たとえば『生命の実相』の巻頭の神示には、
「もし病人にして医薬を服用する者あらんにはそれを四口に分けて飲み、この同じ想念
をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。すべての他の人の罪を赦すは、吾らの
過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。もしわれらが心を閉じて他を赦
さなければ、大生命の癒能もまた閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」
この『同じ想念』をなすというのは「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して
憎み怒りし自己の罪が神によって赦されんがための供物であると念いて服み、二口目を手
してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための供物であると念いて服み、三
口目を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがた
めの供物であると念いて服み、四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪をこの水
のごとくわが心より洗い流して心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って
服(の)む」べきことがその前行の文章に書いてあるのである。
これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。それが『生命の実相』
の、特に巻頭に書いてあったのは、それが重大な事柄であるからである。近代のサイコア
ナリシス(精神分析)は観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明
した。この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、医薬の服用と同時に観念泄瀉を
行なう方法であるともいえるのである。
つづく
1914
:
SAKURA
:2013/01/12(土) 14:10:18 ID:U9ONro8Y
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>投稿の続きです…。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
>>1913
その①の投稿の続きです
■『生命の実相』は現に医薬を服用していない者に
「医薬を服め」とは勧めてはいないが、「病人にして医薬を服用する者あらんには……かく
かく心持にて服め」と書いてあるのであって、「服むな」とか「その服用を廃せよ」とは書
いてはない。しかるに『生命の実相』を読んで、薬を廃める者があるのは、仏教的真理「色
即是空」(物質本来無し)、または諸法皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、自己内在
の生命の自然超能力に頼ることを重んじて物質的薬剤に頼ることを軽視するようになる
からである。 (谷口雅春著)
==========================================
■今年の年頭から“風邪?”にかかり、昨日(11日)まで【検査の結果…】が分かるまで、
自宅療養でした。昨日にて検査結果の中身が分かり、一安心です。(ホッ〜☆)検査はまだ軽症
との事で…飛沫感染によるモノであり、喘息にもかからずよかったと思います。【感謝…】
やはり細菌がまだ体内に少しあり、もう少しで、完治する様ですが、本当にこのような“風邪”
今までの中で初めてでした。たまたま数日前、少し快方に向かい【神社のお札】だけは?
年明けて勿論「亡き母」の事もありますが…一度も神社へ伺う事もできず「自宅待機…」で
した。そして9日に体調がいいので、何となく行く事に、その帰り、また“フラ〜〜〜?”と
してしまいますから「コ−ヒ−ショップ」により休憩しますと!><10分もたたずに、
“変な?変な?仲間”が場違いかと思う人が?隣に坐り…一瞬の感にて?【吸血鬼仲間…】と
分かり“コ−ヒ−”も飲めずに、その場を立ち去りました。…が?体調が、幾分ふらつき状態
ですから、また、もう一軒の「コ−ヒ−店(ドト−ル)」に立ち寄りますと、また15分後に
今度は【吸血鬼…男自身?】が、変態みたいに寄ってきますから、私達は、あわてて立ち上がり
その場から逃げ去った状況でした。その間、一瞬でありますが飛沫感染にて、相手の細菌が強く、また幾分ぶり返しの状態です。【吸血鬼達…?】は自覚がなく、病院にいっても担当医に病気の
症状を明確に伝えないのが実情かと?果たして“説明”が〜〜〜?【尾行でも…感染かと】
■ある担当医師は、このような“人種?”がいて、通院に来てなく困りモノ!!更に、
飛沫感染症の場合は、周囲の人の事も考慮するのが「人間としてのモラル」とおっしゃつて…
【吸血鬼達…】は、単なる“風邪…”だろうと、安易な考えにての行動でも、最終的な結果は、
かなり悪いのです〜〜〜ョネ!この様な人が、此処九州は、自覚のない人が多くて、今回の
“風邪…”も確かに…
■【生長の家の御教え…病気はない!!】と自覚しても、一応【神の警告…】として、私どもに
“予防対策のお知せ”だと、今回思えたのです。…が?先日は「東京のホ−ム・ドクタ−」先生
が、旅行中で留守でしたから、東京の行きつけの「薬剤師…」に問い合わせますと【大丈夫…】
ホ〜ッ☆と…安心して服用しました。【感謝…】この様に“薬…”も時と!場合!には、やはり
【神様の導き…】と思い、今は、服用出来る事に、ただただ【素直に感謝…】して服用していき
ましたが、更に、今日からはまた
❤〜【医者の薬の勧めに従いまして…神の導きによります処の“一口目”〜〜〜“四口目”に
実行していきます】この事に【感謝…】の念が……
本当に今回の“風邪症状”は軽症にて済みまして【大安心…】でした。きっと、あの日
一生懸命【先祖供養…】しました時、いつもより“ロ−ソクの減り方”が早くて??もしかし
ますと【義春様…が私達は?どんな人物かと?見に来て下さいましたのでしょうか???】と、
ついつい思いましたが、今回は【感謝して…素直に薬に依存】しました次第です。…が?
■「医薬を服め」とは勧めてはいないが、「病人にして医薬を服用する者あらんには……かく
かく心持にて服め」と書いてあるのであって、「服むな」とか「その服用を廃せよ」とは書
いてはない。…この“言葉”がしっかりと潜在意識に入りましたかと。
再合掌
1915
:
a hope
:2013/01/14(月) 07:13:45 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
・本は先生よりも十倍安くてためになる
よい百科事典(なんでもあるじびき)や、歴史の本や、生長の家の『人生読本』や、
清超先生の童話『黄色い灯台』などは、つねに机のそばにおいて読むようにしますと、ためになります。
たのしみに、十ページ、二十ページと読んでいるうちに、いつのまにか、よい先生についているよりも、
もっと自分に力がつき、もっと自分の心が美しくなり、深切なよい自分になってしまうのです。
本というものは、それを書いた人が、自分の知っているうちで、
一番立派なものを書いて出しているのですから、学校の先生について習う時間の十分の一ぐらいの時間と、
十分の一位の費用で、もっと立派な智慧と、よい心とを植えつけてくれるものなのです。
(つづく)
1916
:
うのはな
:2013/01/14(月) 13:49:10 ID:O14KGmdU
太陽の讃歌
わたしが昔見た光は 月光帯びて幽谷を流れる水であったのに
今わたしの見る光は 旭日を映した真赤な大海洋になっている
いつのまに
こんなに大きな海原に出て来たのか私は知らない
ただわたしは
海の波のその一つ一つが 唇をそろえて太陽をたたえる
その讃歌を聞くのみだ
ああわたしも
太陽を讃えたくなった 太陽をほめる千万の波の唇と共に
わたしも声をそろえて 生命の讃歌をうたおう
『ひかりの語録』より 谷口雅春先生著
1917
:
うのはな
:2013/01/14(月) 15:59:45 ID:j/a0WopM
「保守」の本当の意義について
神は無限であり、その無限内容を常に新しき創造をもって顕現したまうのである。
陳きものは謝り行き、新しきものが常に創造せられつつあるのである。
私たちは陳きものが新しきものによって取って代られることを悲しんではならないのである。
けれども私たちは神の創造の根本構図を破壊することを「新しき創造」だと考えちがいしてはならないのである。
例えば、人体の根本構図は胴体を中軸として四肢が適当な位置に適当な長さで調和した姿で備わっている筈なのに、
それが人体の根本構図であるのに、サリドマイド睡眠剤を服用した母親から生まれた奇形児の如きは、これまでになかった
両腕の不足している「新しき形態」であるけれども、それは「新しき創造」ではなく、歪められた創造であり、神の創造であり、
神の創造の根本構図が破壊されたイビツの姿であるに過ぎないのである。
これは一例であるけれども、何でも破壊して「新たなる形」を表現するのが「新いい進歩」だとか「革新」だと思ってはならないのである。
前衛書道や、活け花のオブジェというものの内には、このようなサリドマイド的奇形があるのである。ここに真の「保守」が却って本当の尊さの
あることを知らなければならないのである。
「保守」とは決して何でも古いものを踏襲するというような浅い意味ではないのである。
「保守」とは本来の「神の構図」を崩さないように守りながら、その構図の線に則って新たなる発展をなすことなのである。
人体が躯幹四肢を完全に備えながら、それが貧弱ではなく益々その美を発揮するようなものである。
それ故に私は今日、次の如く、真理を心の中に吟唱するのである。
〝神の構図われに流れ入り給いて、わが人體は益々美しく強健となり、わが為すことは神の愛に
かなうところの自ずからなる善行となるのである。ありがとうございます〟
『白鳩』五月号 昭和四十六年 谷口雅春 先生 ○ 投稿者現代字に変更写 拝。
1918
:
NANCY
:2013/01/14(月) 22:34:19 ID:2h8iqLlY
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
の投稿の続きです
===【谷口 清超 著】================================
■すべての物は、みな一つの神の命のあらわれである。
万物は本来みな「神」である。その根本を忘れ、神を否定したり無視したりして、
地球の万物を単なる物質だとみて暮らすことから、“エネルギ−浪費”の方向に文明を
推し進めて行ったのである。
この点を強く反省し、現象の奥に宿る「神」への感謝・礼拝・報恩を忘れないことが
大切である。 『一番大切なもの』より
============================================
■私達は、今日の生活基盤は【自然との共存である地球…】この事自体を【唯物論…】的な
捉え方をしている人もおおいのでしょうか?今日は、関東方面の気象は【大雪…】とのこと。
それにはそれなりの“エネルギ−(暖房)”が必要になりますでしょうかと。例えば……
石油・ガス・原子力エネルギ−…昔の木炭・石炭…etcも含めまして?
このエネルギ−も「神の国にからの宝物」として【感謝…】を忘れない事が…
如何なる状況になりましても必ずや「神の賜物」を受け取ることになりますでしょうかと。
先日の【中国の大気汚染…ニュ−ス】は、此処の企業・事業団体が…利益追求という事で、
“生産過剰”・“大量消費”…から生じて来ましたのですからそこに【需要・供給のバランス】
とは程遠い【現象界での利益追求】でしょうかと。いつも「神に心を振り向けます事は…」
そこに【無限の富者となる真理…この法則】を、悟る事となりますでしょうかと。
■■常に【現象の奥に宿る「神」への感謝・礼拝・報恩を忘れないこと】が、
神からの賜物を受ける事になりますでしょう…。今以上に、心を明るくもって
“神の波長”にあう心を常に起こさなければなりません〜〜〜ョネ!どんな時でも…!!!
再合掌
1919
:
a hope
:2013/01/15(火) 07:21:47 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
着物など節約して本を買いなさい(p122〜)
着物や洋服や靴は「つぎ」が当っているもので我慢しても、その代わりによい本を買ってもらいなさい。
着物や洋服や靴がどんなに立派であっても、ぜいたくな感じを起させるだけで、別によい事は教えてくれません。
それよりも良い本はつねにあなたによい事を教えてくれるのであります。
よい本を書斎(べんきょうのへや)にならべておくことは、良い先生をやとっておくのと同じことで、
時として、よい百科事典は良い先生よりも、なんでもくわしく知っているのであります。
着物や靴をせつやくして本を買いなさい。
あなたの身体の筋肉は、それをよく運動させることによって立派になり、
力瘤(ちからこぶ)がもりあがるように発達(ちからづよくなる)します。
あなたの精神は心を運動させることによって発達するのです。
心の運動を充分させるには、よい本を読むことによってであります。
よい本を読んで、人に深切にすることが善いことだとわかれば、
人に深切を実行することによって心の中の愛(しんせつのこころ)が発達します。
本をよむと、昔のえらい人の言葉にもじかにふれることが出来ます。
昔のえらい先生も、今のえらい先生も、一堂(ひとつのいえ)にあつめてその教えを受けることが出来るのです。
(つづく)
1920
:
さくら
:2013/01/15(火) 07:47:23 ID:LeI7UqPY
合掌ありがとうございます。
本日は、『完成(ななつ)の燈臺の神示』が、天降った一月十五日ですので、
謹写させて頂きます。
拝
1921
:
さくら
:2013/01/15(火) 07:48:24 ID:LeI7UqPY
『完成(ななつ)の燈臺の神示』 谷口雅春先生
時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。
二千年前、キリストが『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顕される時期が來たのである。
『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消盡するのである。
光が近付くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物は『罪』『病』『死』とは消える。
疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。
(昭和六年一月十五日神示)
1922
:
閲覧者
:2013/01/15(火) 17:21:26 ID:???
>>1921
新さくら様でしょうか?
とても読みやすく、旧漢字で謹写してくださりありがとうございます。
1923
:
SAKURA
:2013/01/15(火) 21:28:47 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その① ―
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 ====================
ある強化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。彼はその教化団体で救
われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるからそのことを聴衆に
語りたかった。どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、自分の過去
の生活を述べねばならない。彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって女を騙
したことや、酒を飲んだことなどを過去の生活を懺悔のつもりで五十分間も喋り続けた。
そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、その転向の明暗を明朗
(はっきり)させるつもりであったのだが、彼が五十分間も自分の過去の罪悪を喋っている
間に、聴衆は『そんな悪い人の話は聴く必要はない』と一人去り二人去りして、彼が本当
によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。
懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。言
葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。美人の色の白さを引き立てるた
めの斑点美粧も、それが顔反面イッパイに及ぶようになっては痣としてまちがえられる。
光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。
(谷口雅春著)
========================================
つづく
1924
:
SAKURA
:2013/01/15(火) 21:30:43 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
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>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その② ―
>>1923
>>投稿の続きです…。
PS:「トキ様」へ
■そうで〜〜〜ョネ!【他人の過去…】は、その人自身の問題に関してですから、やはり、正直申し
ますと【ア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!くどくど論】を言われますと、第三者も“聞く耳…心”も、次第に
失せていきますのが…人間の【心理…】かと。私も「吸血鬼・ゾンビ…」の事を、此処で記しますが、
個人的感情にて、やはり“頻繁に尾行”されてくると…この連中に!!〜〜と思ってしまいますモノ!
でも、やはり、まず!【今の“こころ”を進化…】しなくてはいけませんのです〜〜〜ョネ!
今回、或る本から【御霊様…】になりますと〜〜〜〜〜><現実世界と異なりまして、
■【肉体もない!!洋服すべて、物質は無い!!のです。】よく言われます処の『生長の家…』では、
【物質がないという事は、私たちが今、お互いにコミュニケーションとして相手に伝えます手段としての、
“空中で言葉(ボディ−ランゲッジ含む)”として発します『言葉…』もないのです〜〜〜ョネ!
そうしますと?どの様に、相手に伝える為には??如何になされていますかと言いますと……?
■【テレパシ−】からなのです〜〜〜ョネ!
例えば、現象界で【言葉…】に発する前に、その脳裏に思った【思念…念】と申しますか?
…この事?なのです【その心…】が相手に、瞬時にして伝わるのです〜〜〜ョネ!
■■ 【 ジュリアンの伝言 】でも、見透かされると…この表現を、確か記載されていました。…が?
その通りで【 こころのパイプレーション!!】そのモノなのです。そして、
【 ネガティブな心=感情 】は、絶対に相手に通じないようになっていますから、例えば…
自分の“嘆き”とか?“恨み・中傷の感情(言葉)”…は、まず!!通用しないのですから・・…
【 意 識 は 私 は 神 の 子!と……私は!私は!と〜〜〜】言い続けることに集中でしょうか?
この様に、相手からの“ネガティブ言葉・・・感情”を、いつまでも、いつまでも……ダラダラと聞いても、
【それは、自分自身が、精神をポジティブなる!!明るい方向へと持って行かない限り…
「現実世界=現象世界」以上に…次なる「霊の世界…」では、誰も聞いてくれないのだと思いました。
ますます【今を活かす事…ポジティブ=善】この事が【魂の向上…信仰上】の大切な要素としての
エネルギーでしょうか??実は、この事は〜〜〜〜〜!!
■■今日の朝方【 亡き母から…の伝言 】の様に…私の脳裏に、突然浮かんでしまいまし次第です。
再合掌
1925
:
goro
:2013/01/16(水) 00:03:36 ID:nCo1DokU
1902の続き
殿下と皇室財産
或る時、ある地方に大水害があったので、御手元金のうちから、数百万円を救恤のために御下賜されることになった。その手続として、必要な書類が大臣官房から侍従職に廻ってきたので、私はそれを持って陛下のお室に参り、ご覧に入れた。御覧になるや否や、陛下はすぐに裁可の印をお捺になった。
当時の数百万円は、今の時価でいうと、莫大な金額になるが、そんなことは何とも思っておいでにならない。全て大臣の処置に信頼をおいておいでになる。私は、その書類を頂いてお側をはなれようとして、フト、お机の上を見ると、ちょうど、そのとき、なにか調べものをしておいでになったらしく、小さな仏和辞書がおいてある。それが、もうボロボロになって、いかにもおひきにくそうであったから、「陛下、その仏和辞書を新しいのに、おかえ致しましょうか」とお尋ねしたところ、ご心配そうに、「金はあるだろうか」とおききになる。「ございますとも」と申し上げて、直ちに書店に同じものをを注文したことがあるが、その代価は、たしか二十円たらずであった。
御救恤金といい、仏和辞書といい、購入財源は皆、皇室財産の収入によるものであるが、当時(昭和の初年)、皇室財産は森林だけでも全国に百三十万町歩もあり、その大部分は大河川の水源
地その他、交通不便な山奥等個人経営には不適当な地方ではあったが、それでも、一定の伐採計画に従って、年々市場に供出される木材の収入は、相当多額に上ったため、国内の一部の論者は、皇室財産を目して、国内大財閥の一となして、とかく批判の声をあげるし、省内でも、この問題について会議を開いたこともあったが、私は、皇室財産は国民のための貯蓄であって、いかに多くとも心配ご無用の一点張りで議論をおし通したことを覚えているが、これは、あの「金はあるだろうか」の御一言のうちに含まれている陛下のお心持ちが、深く身にしみていたからこそ、躊躇なく発言し得た私の確信であった。
終戦後、皇室財産の殆んど全部が、政府の所管に移ったが、陛下としては、国民が、金が入り用で自分たちの貯金を引き出した、としか思っておいでにならないだろう。もともとお自身のものとは、考えておいでにならなかったのだから。
1926
:
志恩
:2013/01/16(水) 06:34:37 ID:.QY5jUA6
>>1922
:閲覧者様
「
>>1921
新さくら様でしょうか?」と,コメントされてますが、
さくら様と、SAKURA様は、別人です。
1927
:
さくら
:2013/01/16(水) 08:02:34 ID:e8ieIrPA
>>1922
閲覧者様
志恩様
お言葉、ありがとうございます。
新さくらといえば、新年になり、「重い衣」を脱いだような心地がいたします。
(…薄着になったわけではなく心が軽くなった、気持ちです)
ご指導(お手柔らかに…)お願い申し上げます。
拝
1929
:
閲覧者
:2013/01/16(水) 17:45:13 ID:???
>>1926
志恩様 ありがとうございます。
久しぶりにきまして、去年いらしたさくら様ではない感じがしましたので新しいさくら様かと思いました。
1930
:
閲覧者
:2013/01/16(水) 17:48:05 ID:???
>>1927
さくら様 ありがとうございます。
昨年こちらを閲覧しておるときのさくら様はもっとじゃじゃ馬な感じに思えました(失礼)
すっかり上品になられましたね、別人みたいです(苦笑)
1931
:
NANCY
:2013/01/16(水) 19:13:05 ID:dGeUHjWM
管理人「トキ様」へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
■此処に、無関係な“質問…投稿”と、思いますが??投稿させて頂きます。
■■>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテ−マなら、広く受け付けます…云々…< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
上記の規約が冒頭に記載されています。それが■【 聖 典 引 用 板】のポリシ−かと。
しかし、此処最近は【 お互いに讃嘆する?・自画自賛? 会議場所…】になっていますかと??
>>1926
>>1927
>>1929
>>1930
>>を閲覧しますと……
本来はの【 聖 典 板 …】にして頂きたいのですが??
■■これが【生長の家…分派】の方々の【規約に反する事…】をしても“素晴らしいとする行動”
と、世間一般でいえますのでしょうか?? 疑問ですが〜〜〜?
■新し〜〜〜イ!信者の方が、すべての【生長の家…○○会】へ、入信して来ますでしょうか? 再合掌
1932
:
goro
:2013/01/16(水) 23:02:53 ID:nCo1DokU
1925の続き
荒天下の分列式
大正十五年の暮れ、大正天皇の崩御に伴う諒闇(つつしみ)の昭和二年も静かに過ぎ、人々は左腕の喪章もとりはずして、いよいよ、今上陛下の即位の大礼を迎える昭和三年に入った。この年の秋、京都で行われる即位式の日程も発表される。京都から東京にお帰りになったら、何日には陸軍大観兵式、何日には海軍大観艦式、何日には何と、奉祝の行事は、次から次へときまっていく。行き逢う人ごとに、お目出とうと喜びの声は全国をおおい、津々浦々、人みな勇み浮き立っている。
宮内省も大礼の準備に忙しくなり始めたが、これに引きかえ、この頃から、陛下の側近に奉仕する侍従のわれわれは、何ごとか沈思黙考の陛下のおん憂いのお姿を煩雑に拝するようになった。お口に出しては何も仰せにならないが、それだけに、御心中は深くお察し申し上げなければならない。
摂政御在任五年、御践祚後すでに一年余、無私、ただ国と民との将来の安危を憂える一念で、政治の機微に触れてこられた陛下のお胸のうちに、いま来往するものは、果たして何であろうか。
第一次世界大戦後、巴里の講和会議において、わが国の提唱にかかる人種平等案の否決は、たしかに世界平和のため、由々しき悪因ながら、覆水ふたたび盆には、かえらない。これに端を発し、大正十三年北米合衆国に於ける排日移民法の実施、昭和二年より三年にかけての、中国に於ける日貨排斥運動、及び欧米一部人士の使嗾によるよる排日教育の激化、ジュネーブに於ける日英米海軍軍縮会議の決裂、済南に於ける日支両軍の衝突、更に近くは、満州における張作霖将軍の爆死事件等、国家の前途、西に東に、黒雲むらがり電光ひらめくのを、陛下は、いち早く望見しておられたのではなかろうか。
この国家の難局を打開する一人の政治家もなきか。議会たのむに足らずする軍部の台頭に、国民はまさに歓呼の嵐を送ろうとしている。やんぬる哉、邦家の艱難必ず来ると、もんもんの幾日夜、遂に国民と同艱共苦の御覚悟を固められたのも、この頃ではなかったか、と私は思う。
1933
:
a hope
:2013/01/17(木) 07:31:49 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆本を可愛がって読めば力がつく
勉強室は、すきな本をたくさんならべておいて、気がむいたとき、
自然に、自分でよろこんで読むことにする方が、力がつくのであります。
いやいや人から「読め」といわれて、気がすすまぬのに読んだのでは、
心の窓がしまっていて、本に書いてあることが充分頭へはいらぬのであります。
本を可愛がって、その本をひらくことが、楽しい気持ちになって「わたしの可愛い本よ」といって可愛がってから本を読めば、
本に書いてあることが、一層よく心の中にはいって来るのであります。
食物もよくかみしめて消化して吸収(からだにすいこむ)しなければ力になりません。
本を読んでも、よくかみしめて、それをしみじみ味わって読まねば、あまり力にならないのです。
よくかみしめて読む方法は、五、六行よんでから、その本をとじ、
眼をとじて、その意味を心の中で思い浮かべて深く味わって見ることです。
私などは少年の頃、こうしますと、眼(まなこ)をつぶると眼の前に、
その本のページの形が眼に浮かんで来て、その通りのことがおぼえられたものです。
これは一種の記憶法にもなるのであります。
本を読みながら、時々、眼をつぶってそれを考えて、一々首をすこし動かし
「うなずく」ようにすると、よくおぼえられるものです。
(つづく)
1934
:
SAKURA
:2013/01/17(木) 13:45:53 ID:RZS.njMc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
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>>1923
>>1924
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
善人ということは正しいばかり善人ではない。善悪の標準は生長の家の出現によって変化し
たのである。正しくても暗い人は善人ではない、その人は自分を殺し、他を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、その人は自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、
他を殺すからである。正しくとも力の弱い人は善人ではない、彼は自分を殺し、他を助ける
ことができず、同時に他を見殺しにせねばならぬからである。
どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。真っ直などということだけ
が善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。人時所三相応せるものが善である。生か
すことが真理である。まっすぐばかりが善だと思っているために腹が立てたり、胸が塞がっ
て死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。 (谷口雅春著)
===========================================
PS:「トキ様」
ここで”投稿… “させて頂いておりますと、いつの間にか?という表現が適しますかはさておき、
何が正しいとか?…ゆずりあい?…理解しましょう?の様な柔軟姿勢のものがいつしか無く、
まるで『勝ち組・負け組・対抗論』のように、目に移る時もありますかと。今回も!また…
『新しい板…スレッド』を作成されます…云々…???
そして、「内容…」は、懸案中の規約??と申しますか??
【教えのすばらしさを讃歌・謳歌するオンリ−場所とか??】私は、何か変な〜〜〜ァ感じです。
【この……“ 教え ”の解釈論は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか??】…が?
いつもクレッション・マ−クに思います。私どもの表現から申しますと【生長の家…分派】の
方々の“提案”らしいのですが?きっと、これも【分派…の皆様方】でのメイン・ボ−ドになります
でしょうかと。そして『舞台設定…に多々作る』ような場合もありますかと?その感じでしょうか?
つづく
1935
:
SAKURA
:2013/01/17(木) 13:48:58 ID:RZS.njMc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1924
>>1934
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その②
>>1934
その①の投稿の続き…。
■果たして【和解…】この事は、何処までのお考えなのでしょうか??既に【原宿教団…】から、
個人的理由?その退職に於けます理由は多々でしょうが?自分が“一番正しい”と言った考え方
が、潜在意識の根底にありますでしょうから、これも【認めない心…】ですかと。ですから、
今の状態では、良〜〜〜〜〜く!考えましても【無理な関係…】にも反面見えます。…が?
私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います。やはり…
活かす事は、生活面でも活かす事でしょうか???今から“世の中”がもっと混沌とした状態に、
なりそうな感じで ><モット!【 思考豊かな表現 】ができる状態の私に【こころ…豊か】に
今の私は、【全てを活かす事…感謝…】が課題なのでしょうかと。?
「トキ様」…本当にいろんな方がいますから、またいろんな思考もありますでしょうかと。やはり
これは、どうしても【自分での尺度で物事を、測っている面】が多々でしょうと。その様に思い
ます。…?唯!この点が、難しいです〜〜〜ョネ!!このような時は、やはり【神想観…】に
なるようです。【 正 し い 理 念 】…神様からの“メッセ−ジ”かと。
❤〜【 人・時・所・三相応せるものが善である 】そうです〜〜ョネ“
混沌とした、現代社会では、ますますと時代状況によって【方便…】を用いての“説き方”には
変化があって当然ですかと。それでも【正しい理念】が必要でしょう。それには【神からの啓示】!
■【神と常に一体…真の神の子ですから…】全ては【祈りに…始まり…祈りに…終わる】という事
でしょうか??
再合掌
1936
:
NANCY
:2013/01/17(木) 19:43:31 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
>>1918
>>1931
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】===============================
■ 生 活 を 芸 術 化 せ よ (女性の幸福365章 より)
放蕩息子となって、現象の“ 夢 幻
の 世 界 ” を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)
い歩いてはならない。智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして
進むがよい。人生は、「人間・神の子」
という実相の聖地にたどり着くため
の巡礼の旅路である。 *普及誌に掲載
=============================================
■上記の「雅春先生の言葉」は、【普及誌…白鳩No.30】に、記載されています“言葉”です。
今回の【生長の家…お家騒動】に関しまして、この『 放蕩息子…云々… 』と、値しますのでしょうか〜〜と
いう事なのでしょうかと。??
現原宿教団…『谷口雅宣総裁先生…』と、自分自身の“解釈論”つまり“捉え方”が…
各々の【分派の皆様方…】に於きましては、そぐわない?相反するモノと、言う事でしょう。??
私ども“一般信者…末端信者…”にまで【お家騒動…】が明確に解ったのは、此処最近ですかと。
■原宿本部の【生長の家…雅春先生が建立まして長崎に行かれるまでの拠点地】になりますが??
そこから、何らかの個人個人の考え方により、去られまして…『複数の分派…設立』となりました。…が?
■【創立者…谷口雅春先生】の、生長の家…信者に託されました【使命感??】と申しますか、
【生長の家…門をくぐる】事が、つまり“聖使命会員”とか?“活動・・・”とか?それも必要でしょうが、
根本は【生長の家…信者】とは、本来、この人生に於きまして【魂の向上…つまり!!成長】と言う
事になりますのでしょうか??
【魂 の 日 々 の 向 上!】かと。そうしますと、各々の“心”には、当然ながら、
【人 間 は 真 神 の 子】と言う認識が、自然に潜在意識に入り、そうしますと“行動”も、
それなりの“行動”になりますかと。そうしますと…『お家騒動は???』如何なものでしょうか??
❤…最終的には【 実 相 】この姿が、現われますでしょうかと……。
この『魂 の 向 上 の 旅』へ……私は、今を活かし、日々邁進すべきと、新たなる自覚となりました。
再合掌
1937
:
goro
:2013/01/18(金) 00:15:24 ID:nCo1DokU
>>1932
の続き
東京府でも、奉祝行事として数々の催しを企てたが、そのうちで最も大がかりなものは、府下の大学、高等学校、中学校、青年訓練所の男女学生及び在郷軍人等約五万の参加の下に、代々木練兵場に於いて挙行する男子の分列式及び女子の奉祝歌奉唱の行事であった。ところが、これを伝え聞いた隣の千葉、埼玉、山梨、神奈川の四県から約三万の参加申込があり、結局参加総人員は八万となってしまった。こんな多人数になると、雨天順延ということは、どうしても、できない。それは、これらの多数の人員を泊める宿舎が東京にはないからである。また青年訓練所の勤労青年の参加がある以上、毎月一日と十五日との公休日を除いては、他に適当な日がない。更にまた、雨天でも決行するということになると、代々木は泥濘が甚だしいので、二重橋前の広場以外には適当な場所がない。
以上の訳で、東京府としては、両陛下が京都から御帰京後、十二月十五日午後二時より一時間二十分の間、晴雨に拘わらず二重橋前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の一府四県の青年男女八万の分列式及び奉祝歌奉唱の式を行い、これに陛下の御親臨を仰ぎたいという案を以って、あらかじめ、宮内省に申し入れがあった。
この申し入れに関し、宮内省でも会議を開いたが、一同は相当難色を示した。殆んど一ヶ月に亙る御即位の各種の行事で、陛下も随分お疲れであろうし、且つ既に寒冷季に入った十二月中旬に、一時間二十分にも及ぶ長時間、野外にお立ちを願うことは、御健康上、いかがであろうか、殊に晴雨に拘わらずということであると尚更である。一木宮内大臣は非常に心配されたが、とにかく、事は陛下ご自身の御行動に関することであるので、席上私に、陛下の御内意を伺うべく指示があった。これは昭和三年の夏の末ごろであったと記憶する。
1938
:
蟋蟀
:2013/01/18(金) 01:10:22 ID:???
goro閣下
よーく読んでね。
>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
1939
:
志恩
:2013/01/18(金) 02:19:43 ID:.QY5jUA6
蟋蟀
あなたこそ、goro様の文を、
よーく読んでね。
天皇陛下のことを、書いて下さっているのですよ。
今の教えでは、説かなくなった、されど、雅春先生の時代では説かれていた
天皇陛下の大事なお話を,書かれているというのに、
なにを、あなたは、ねぼけたことを 言ってるの !
おみおつけで 顔 を洗って 出直して おいで !
1940
:
志恩
:2013/01/18(金) 02:40:07 ID:.QY5jUA6
蟋蟀(こおろぎ)様
こおろぎ様の敬称が抜けていました。
すみませんでした。
1941
:
ガガ・ミラノ
:2013/01/18(金) 03:27:11 ID:acQyNrDM
ガガ・ミラノ
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全部商品,送料無料!
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1942
:
NANCY
:2013/01/18(金) 06:42:25 ID:5Z7kf.HM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
>>1918
>>1931
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】===============================
■ 生 活 を 芸 術 化 せ よ (女性の幸福365章 より)
放蕩息子となって、現象の“ 夢 幻
の 世 界 ” を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)
い歩いてはならない。智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして
進むがよい。人生は、「人間・神の子」
という実相の聖地にたどり着くため
の巡礼の旅路である。 *普及誌に掲載
=============================================
■上記の「雅春先生の言葉」は、【普及誌…白鳩No.30】に、記載されています“言葉”です。
今回の【生長の家…お家騒動】に関しまして、この『 放蕩息子…云々… 』と、値しますのでしょうか〜〜と
いう事なのでしょうかと。??
現原宿教団…『谷口雅宣総裁先生…』と、自分自身の“解釈論”つまり“捉え方”が…
各々の【分派の皆様方…】に於きましては、そぐわない?相反するモノと、言う事でしょう。??
私ども“一般信者…末端信者…”にまで【お家騒動…】が明確に解ったのは、此処最近ですかと。
■原宿本部の【生長の家…雅春先生が建立まして長崎に行かれるまでの拠点地】になりますが??
そこから、何らかの個人個人の考え方により、去られまして…『複数の分派…設立』となりました。…が?
■【創立者…谷口雅春先生】の、生長の家…信者に託されました【使命感??】と申しますか、
【生長の家…門をくぐる】事が、つまり“聖使命会員”とか?“活動・・・”とか?それも必要でしょうが、
根本は【生長の家…信者】とは、本来、この人生に於きまして【魂の向上…つまり!!成長】と言う
事になりますのでしょうか??
【魂 の 日 々 の 向 上!】かと。そうしますと、各々の“心”には、当然ながら、
【人 間 は 真 神 の 子】と言う認識が、自然に潜在意識に入り、そうしますと“行動”も、
それなりの“行動”になりますかと。そうしますと…『お家騒動は???』如何なものでしょうか??
❤…最終的には【 実 相 】この姿が、現われますでしょうかと……。
この『魂 の 向 上 の 旅』へ……私は、今を活かし、日々邁進すべきと、新たなる自覚となりました。
再合掌
1943
:
NANCY
:2013/01/18(金) 06:44:34 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1924
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
善人ということは正しいばかり善人ではない。善悪の標準は生長の家の出現によって変化し
たのである。正しくても暗い人は善人ではない、その人は自分を殺し、他を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、その人は自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、
他を殺すからである。正しくとも力の弱い人は善人ではない、彼は自分を殺し、他を助ける
ことができず、同時に他を見殺しにせねばならぬからである。
どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。真っ直などということだけ
が善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。人時所三相応せるものが善である。生か
すことが真理である。まっすぐばかりが善だと思っているために腹が立てたり、胸が塞がっ
て死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。 (谷口雅春著)
===========================================
PS:「トキ様」
ここで”投稿… “させて頂いておりますと、いつの間にか?という表現が適しますかはさておき、
何が正しいとか?…ゆずりあい?…理解しましょう?の様な柔軟姿勢のものがいつしか無く、
まるで『勝ち組・負け組・対抗論』のように、目に移る時もありますかと。今回も!また…
『新しい板…スレッド』を作成されます…云々…???
そして、「内容…」は、懸案中の規約??と申しますか??
【教えのすばらしさを讃歌・謳歌するオンリ−場所とか??】私は、何か変な〜〜〜ァ感じです。
【この……“ 教え ”の解釈論は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか??】…が?
いつもクレッション・マ−クに思います。私どもの表現から申しますと【生長の家…分派】の
方々の“提案”らしいのですが?きっと、これも【分派…の皆様方】でのメイン・ボ−ドになります
でしょうかと。そして『舞台設定…に多々作る』ような場合もありますかと?その感じでしょうか?
つづく
1944
:
SAKURA
:2013/01/18(金) 06:55:25 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
上記の■
>>1943
の“投稿…”は ―――> 【正しくは…【SAKURA…】の投稿です。
↓ ↓ ↓
投稿者の名前…【NANCY】 × 間違いです。申し訳ござしません。
1945
:
SAKURA
:2013/01/18(金) 06:56:32 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1924
>>1934
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その②
>>1934
その①の投稿の続き…。
■果たして【和解…】この事は、何処までのお考えなのでしょうか??既に【原宿教団…】から、
個人的理由?その退職に於けます理由は多々でしょうが?自分が“一番正しい”と言った考え方
が、潜在意識の根底にありますでしょうから、これも【認めない心…】ですかと。ですから、
今の状態では、良〜〜〜〜〜く!考えましても【無理な関係…】にも反面見えます。…が?
私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います。やはり…
活かす事は、生活面でも活かす事でしょうか???今から“世の中”がもっと混沌とした状態に、
なりそうな感じで ><モット!【 思考豊かな表現 】ができる状態の私に【こころ…豊か】に
今の私は、【全てを活かす事…感謝…】が課題なのでしょうかと。?
「トキ様」…本当にいろんな方がいますから、またいろんな思考もありますでしょうかと。やはり
これは、どうしても【自分での尺度で物事を、測っている面】が多々でしょうと。その様に思い
ます。…?唯!この点が、難しいです〜〜〜ョネ!!このような時は、やはり【神想観…】に
なるようです。【 正 し い 理 念 】…神様からの“メッセ−ジ”かと。
❤〜【 人・時・所・三相応せるものが善である 】そうです〜〜ョネ“
混沌とした、現代社会では、ますますと時代状況によって【方便…】を用いての“説き方”には
変化があって当然ですかと。それでも【正しい理念】が必要でしょう。それには【神からの啓示】!
■【神と常に一体…真の神の子ですから…】全ては【祈りに…始まり…祈りに…終わる】という事
でしょうか??
再合掌
1946
:
志恩
:2013/01/18(金) 07:03:52 ID:.QY5jUA6
SAKURA様
>>私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います<<
昔の軍隊を、小バカにした言い草ですね。
昔の軍隊が、あったればこそ、今のわれわれの安泰があるのと 違いますか?
1947
:
NANCY
:2013/01/18(金) 07:16:04 ID:5Z7kf.HM
管理人「トキ様」へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
■此処に、無関係な“質問…投稿”と、思いますが??投稿させて頂きます。
■■>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテ−マなら、広く受け付けます…云々…< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
上記の規約が冒頭に記載されています。それが■【 聖 典 引 用 板】のポリシ−かと。
しかし、此処最近は【 お互いに讃嘆する?・自画自賛? 会議場所…他…】になっていますかと??
昨日も…この事は“投稿…”致しましたが??
本来の【 聖 典 板 …】にして頂きたいのですが??
■■これが【生長の家…分派】の方々の【規約に反する事…】をしても“素晴らしいとする行動”
と、世間一般で、通用しますのでしょうか?? 疑問ですが〜〜〜?
本当に!何度も〜何度も〜このボードの“規約を破る事”が〜【分派の皆様方の方針】なのでしょうか?
【雅春先生の御教え…の魂の向上】を、考えますと…
■新し〜〜〜イ!信者の方が、すべての【生長の家…○○会】へ、この様な行動では、果たして?
入信して来られますでしょうか?
再合掌
PS:
此処は【聖典ボード…】ですので…【投稿者…様】に対する意見・質問は【 他 の 部 室 板 】でと?
「管理人…トキ様」が、以前!確か?おっしゃいっていましたが……??
1950
:
goro
:2013/01/18(金) 11:10:58 ID:nCo1DokU
蟋蟀殿
>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
アナタも確認されているように「他の真理の言葉」を紹介しています。
昭和天皇が御即位されてまもなくの頃、お側に仕えておられた木下元侍従次長の回想録です。
在りし日の昭和天皇の面影を偲び、謹んで転載させて頂いています。
国民のことを「オオミタカラ」とお思いくださり、国民を限りなく慈しんでくださる
天皇陛下をお慕いするヨスガにしていただければ幸いです。
志恩様いつもいつもフォローしてくださり、心から感謝しています。
ありがとう御座います。
1951
:
goro
:2013/01/18(金) 11:14:45 ID:nCo1DokU
>>1937
の続き
私は早速、陛下に式の次第を御説明して御内意を伺ったところ、十二月十五日という式の日取りについて、暫く考えておいでになったが、夜の祭りにさえ差支えが起こらぬならば、他はすべて、それでよろしいとの御意見であった。夜の祭りとは例年十二月十五日の夜には、賢所御神楽の儀という祭事が執行されるので、陛下のお寝みになるのは、どうしても、夜半の十二時を過ぎる日なのである。
御同意と同時に、陛下は二つのことを私に御指示になった。一つは、もし雨が降ったならば、青年たちには遠慮なく雨具を着用させること、もう一つは、ご自身のお立ちになる場所には、たとえ、いかように大雨が降っても、天幕は張ってはならぬということであった。これは明らかに、もし雨が降るならば、青年たちだけを雨の中に立たせてはおかない。御自身も共に、というご覚悟であろう。
陛下の御同意を得たので、分列式の準備は東京府庁の手で着々と進められた。私は宮内省側の主務官を命ぜられ、東京府と連絡して式の準備に取り掛かった。計画の一番の難点は十二月十四日の夜半から十五日の朝にかけて、千葉、埼玉、山梨、神奈川の各県から続々と臨時列車で入京する三万余の集団を、いかように手順よく二重橋前の広場付近に集結させ、定刻に分列式及び奉唱式に参加させるかということであったが、これは予め府から陸軍省に交渉し、今村(均)中佐以下数名の将校の努力によって立派に計画実施された。また式のとき、陛下のお立ちになるところとしては、二重橋前の傾斜地の中央に、四尺ばかりの高さの一坪の台を設けることにしたが、
私は陛下の御指示どおり、係りの者に、いかように雨が降っても、天幕を張ってはならぬ旨、予めよく申し渡しておいた。
いよいよ十二月十四日、準備万端でき上がったが、ただ気にかかるのは天気予報だ。明日晴天なりとは一言も言ってくれない。夕刻に私は式場を一巡したが、玉座には私の指示どおり天幕は張ってなく、ただ白布で木部が巻いてあるだけであった。私は我が家に帰って、お天気の心配をしながら床についたが、十五日の夜明けに豪雨の音で目が覚めた。豪雨も豪雨、近年稀な大雨で、しかも西北の強風にあおられて、雨戸も開けられぬような嵐、庭の木も枝も折れんばかりに、ゆさぶられている。驚いた私は、すぐさま宮内省に急いだ。
1952
:
さくら
:2013/01/19(土) 07:13:39 ID:e8ieIrPA
平成25年、今年は第62回神宮式年遷宮です。
式年遷宮広報本部公式ウェブサイト
http://www.sengu.info/about.html
「神宮の祭りの本義は、天皇が御親ら皇祖天照大神(こうそあまてらすおおみかみ)をおまつりされるところにあります。それは、神勅にもとづき第10代崇神(すじん)天皇の御代までは皇居内で、また皇居を離れられた約2000年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の弥栄、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変ることなくおこなわれてきました。そのことは、かつては斎内親王(いつきのひめみこ)が天皇に代わって神宮にお仕えになり、現在では、祭主(さいしゅ)が天皇の御手代(みてしろ)としてお仕えになっておられることからも理解できることでしょう。このように神宮のまつりは常に歴代天皇のみ心を体して続けられているのです。
神宮には年間に千数百ものお祭りがあります。これらの祭りは、恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)と遷宮祭(せんぐうさい)とに分けることができます。
恒例祭とは、毎年定められた月日に行われるお祭りです。その内、神嘗祭(かんなめさい)と6月・12月の月次祭(つきなみさい)は古来、三節祭(さんせつさい)といわれ、とりわけ重要なお祭りです。これに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)を加えて、五大祭(ごだいさい)と呼ばれます。祈年祭、月次祭(つきなみさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭には、天皇陛下より幣帛(へいはく)が奉られ、月次祭を除くお祭りには天皇が勅使(ちょくし)を差し遣わされます。
神嘗祭は、一年で最も大きなお祭りです。祭器具等を新しくし、その年の新穀をまず天照大神にささげ豊穣を感謝するとともに更なるご神徳をいただくというところにこのお祭りの意義があります。
豊受大神宮(外宮)では毎日、天照大神をはじめ神々に朝夕食事をさし上げるお祭り(日別朝夕大御饌祭・ひごとあさゆうおおみけさい)が鎮座以来欠かすことなく続けられています。
臨時祭とは、皇室・国家に重大事があったとき、臨時に行われるお祭りです。
遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。」
1953
:
さくら
:2013/01/19(土) 07:14:13 ID:e8ieIrPA
「 遷宮はなぜ二十年
神宮の神殿は東と西に同じ広さの宮地があり、
二十年ごとに同じ形の殿舎をつくる。
そのことによりもっとも古い建築が苔むす姿でなくて、いつも新しいままでどの時代にも存在してきた。
これは自然の生物が、個体の命を維持するために生まれ変わるのと同じ発想である。
このあたりまえのような文化の伝承の方法が、世界のどの国にもみられないのだ。
いま、文化に関心をもつ世界の人々が「伊勢」に注目してくれるのは、この発想とその約束を守りつづけてきた日本の伝統と心にある。
遷宮といえばお宮を移すだけと思われるかもしれないが、そこには稲作を根本とする古代の深遠な思想と信仰がある。
それは伊勢の神宮が新しくなることで、日本の国も生まれ変わり、国の魂が新しく強く若返り、日本の精神がみずみずしさを取り戻し、日本のあるべき姿と民族の自覚を高め、信念と誇りを新たにして、永遠の発展を祈ろうという信仰である。
式年遷宮のめざすところは「常若(とこわか)」という神道の理想であると私は思う。
この言葉は平安時代の遷宮の記録にすでにみられるが、太陽の信仰に基づいていると思う。天照大神に象徴される太陽が、毎朝、東の空に新しく生まれ変わって昇り、お正月にはさらに新鮮な初日の出としてよみがえるのである。
日本の国は常に二十歳のころのように若々しく元気で、「弥栄」をめざしたいという信仰である。
それにはなるべくいつもフレッシュな状態を保つべきであり、その理想をめざして古代は社殿も一年に一度新しくしていたのではなかろうか。
詳しくは拙著『伊勢神宮 知られざる社のうち』に書いたが、毎年遷宮するなんて、そんなことはできないだろうと思われるだろう。
だが榊のヒモロギに御神体の御鏡をかけてお祭りをしたような太古は、神嘗祭に新しい祠をつくり、そこに新米をお供えしたのであろう。
その名残は、いまも「神嘗祭は神官のお正月」といい、できる限りの祭具や調度品もこの大祭の前に新調していることにもみられる。
だが、千三百年前に大きな立派な神殿に発達すると、毎年は遷宮できないから、何年ごとにしようかと天武天皇も考えられたのだろう。
1954
:
さくら
:2013/01/19(土) 07:14:46 ID:e8ieIrPA
(つづき)
しかし、なぜ二十年にしたのかは、どこにも記されていない。
すべて後世の人が理由づけしたのだ。
まず木造建築と萱の屋根の耐久年限である。
確かに素木の御殿は、二十年たてば部分的に傷みができ、清々しい美しさは失われ、尊厳な姿を保つには限度がある。
だが建物の朽損だけが理由でない、二十年は時代の大きな区切りである。
人生も二十、四十、六十の還暦と世代の区切りであり、現代でこそ平均寿命が八十歳にもなったが、ついこのあいだまで「人生わずか五十年」であった。
それが千三百年も昔のことだから、その平均寿命はずっと低かったはずである。
つまり技術や信仰を次世代に伝承するにも、精いっぱいの年限だったと思う。
また二十年に一度、正確には十九年七か月だそうだが、正月と立春が重なるという大陸渡来の暦学の知識からという説や、古代天皇の宮殿が御一代ごとに遷都されたこと、また米の力というか貯蓄しておける年限が二十年であるという新説もある。
しかしいずれにしてもそれはまことにふさわしい年限であった。
耐久面からみても二十年を過ぎると傷みは急速に早まり、遷宮後の古材を再利用するにもできなくなる。
わかりやすい例は、五十鈴川にかかる宇治橋の大鳥居は、内側が内宮の、外側は外宮の御正殿の棟持柱を再利用して、さらには参宮街道の鈴鹿峠のふもと、関の追分や、桑名の七里の渡しの鳥居となって合計六十年のつとめを果たし、さらにまた氏神のなにかに利用されたりして、ほとんどの古材は神宮と緑の深い神社に払い下げられて再利用される。
このように式年遷宮の制度はまことに理にかなっており、これを千三百年も守りつづけてきたことに頭が下がる。
松の木はいつも緑をたたえ、不易のシンボルとされるが、緑を維持するために松は密かに古い葉を落とし、私たちの身体も常に細胞を新陳代謝することで、みずみずしさを保っているのと同じシステムを取りいれたのである。」
『伊勢神宮の衣食住』矢野 憲一 著
1955
:
NANCY
:2013/01/19(土) 16:41:44 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
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>>1766
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>>1829
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>>1942
>>
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】=============================
■ 希 望 を 実 現 す る 三 つ の 肥 料 普及誌に掲載
希望を実現するためには、“希望の樹”に肥料をあたえなければならないのである。そ
の肥料には三種類ある。霊的肥料と、精神的肥料と、物質的肥料とである。すべて与え
た程度に報いかえされるのが法則である。 肥料を“希望の樹”に与えないでいて、その
“希望の樹”が大なる成功の実を結ぶと考えてはならないのである。
霊的肥料を与えるには神想観をして、 実相無限の供給を感じて、観の中で、その仕事
を“無限供給の霊”の中に包んでしまうがよい。すると実相 “無限の供給の世界” から
その事業が育てられ、その事業を育てるに必要な人材や資料や要素が自然に集って来る
ことになるのである。次に精神的肥料は愛と智慧とをその仕事及びその仕事の協力者及
び従業員に注ぐことである。 愛がその仕事に注がれず、また仕事をしてくれる人に愛を
注がないでいたら、その事業を育成するために必要な主要な精神的肥料が与えられない
ことになるのである。
希望を叶える365章 より
=============================================
■【人生という舞台…】必ずや「夢…希望」を抱きながら、それを「実現…」させると云う事で
それに必要な多々なる“事物…”に、トライ!でしょうかと。常に【ポジティブ感!!】かと。
本日の「雅春先生の言葉」に【希望の樹…実現】の為の三大肥料…つまりは、
【霊的肥料と、神的肥料と、物質的肥料…】との“言葉…”を、頂きました。最も重要とします
【霊的肥料…】この為には【神想観…】によります処の“イメ−ジトレ−ニング”を、
日々の“行”として行い、“無限供給の霊”から必要とする物・事…集まって来るのですネ!
それは、確かに「納得…」です。以前の事ですが……
「店舗…を持ちたい〜〜〜ワ!」と、おもいました時に、【紙にその青写真】を、
事細かに記載しまして…当時『神想観…』を、揺るぎない気持ちにて、毎日!毎日!【お祈り…】
に、徹しますと…それなりの【店舗…】が見つかり、その時“資金…”が〜〜〜><手元には、
ほとんどなく、それでも【神想観…】つまり【お祈り…】に徹しますと…それなりの物事が、
確かに“スム−ズ”に、不思議なのですが…集まってきます〜〜〜ョネ!
■当に…“必要”に応じ〜〜〜“事”に応じ〜〜〜かと。
此処最近は【魂の向上…】が、停滞気味でしたかと。もう一度…【夢…】にむかって…そう!
『希望の樹…実現』に向かい、まず!【霊 的 肥 料 …神 想 観】にて“無限の供給の世界”
からの【扉…を開く】を、強く!強く!信じましてトライ!トライ!
この事を【実現させるために…行動】かと。
只今【私 の 今 回 の 希 望 の 樹 … 青 写 真 作 成 中…】進行形ですが?
再合掌
1956
:
SAKURA
:2013/01/19(土) 17:43:40 ID:dGeUHjWM
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日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その① ―
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。そうでなければ極
端に反抗的に乱暴である。
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、その
人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものであるとい
うことを幼い時から子供に知らすことが肝要である。
子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、腹立ち声を出すことはなん
の益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。その性質は生長後も時として「生
涯つきまとい。その人の運命の重荷となることがあるものである。親が子を害していると
知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して本能的に恐怖
の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。もし子供をよ
くしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、普通の話以上の高声
を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。もし相手に訓示を
与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、それは反抗となってせっかく話したこと
が反対の結果になることがある。
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。高音を出して恐れ
させれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。
貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、物を教えるときに使う荒立
った高声である。 (谷口雅春著)
========================================
PS:「トキ様」 ヘ
私も「亡き 父」からよく叱られた方でしょうかと。??確かに“叱る事”はその子の為にとの、
“想い…”からとは理解していますでしょうが?意外と、叱られている間は、その相手の感情
からの“恐怖心”が先走り、何も覚えていないし?聞いていない?のではと、思います。…が?
つづく
1957
:
SAKURA
:2013/01/19(土) 17:46:02 ID:dGeUHjWM
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>>1956
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その② ―
>>1956
その①の投稿の続きです…。
■今回の【大阪での高校生の自殺】も、そうでなのしょうかと。
【運動クラブ…】に、そのような“先生…”がいるようです。私の高校時代の頃です。
友人が「テニス・クラブ」に入って“部活活動…”をしていました。或る時の事です。
「テニス・クラブの早朝訓練…」があり、友人は事もあろうに“寝坊”して“遅刻”したのです。
その時、笑い事ではありませんが「テニス・クラブ」の何人かも“遅刻”をしてしまい、その
「テニス・クラブ担当の先生」は、そうなのです!!【テニスのラケット】で“顔…”を叩いて
いったのです。朝の授業時間が、いつものように始まりまして、その友人は、いつもより遅く教室
に入ってきました。その時の“顔…”は、当然の事ですが、はれていますから“ビックリ…”
■授業の担当の先生が、“赤くはれている顔…”を、見るやいなや“ビックリ…”それで、先生は
彼女のそばに来て“声…”をかけて理由を聞きますと、瞬間!泣きだしながら「テニス・クラブでの
たたかれた話」を担任に話をしますと…クラスの全員が、彼女の話の内容が、余りにも“スゴイ〜”
クラス全員が、みんな〜〜〜頭に来て、その授業時間は、とう〜〜とう〜〜担当の先生は、切り替え
まして【道徳の問題…】についての授業になりました。私は?チョッピリですが【どうして〜〜〜?
数学の授業が道徳の授業になるの〜〜〜】と、あの頃は、考え方が自己中心的?でしょうか……
それでも、担任の先生の“お話…”を聞きながら【叱ると言う行動・虐待!】を、考えこんでしま
いました。当時のこの担任の先生は〜〜〜
やはり【虐待・荒い罵倒をした口調の声】は、何の効果もないし、逆に、精神の問題にまで発展する
事になりうると…かなりの立腹にて、とう〜〜とう〜〜これがきっかけで【問題…】は大きくなって
いったのです。この「テニス・クラブの先生」は、過去に“栄光”のある先生で、この先生のお陰で
私の学校は【テニスが強い…】と云うイメージが定着しまして、当然ながら、結構ですが〜〜〜
【大会優勝…】も結構あった様ですかと。…が?正直、この【大会優勝…】などの名声!!これは
生徒にとって何の“益…”があるのでしょうかと??個人的な考えですが、結局!大人の【テニス
クラブの先生の勲章】だけしか、残らないと思った次第なのです。この様に、その人の為に【叱って
いる事】は、自分の“欲得?つまり”名声?“を、優先にしているのではと、あの時思ったものです。
■私は“独身…”です。…が?「里親」になるとしたら、やはり!子供の為になる【教育…】は、
まず【言葉=言霊】から、始まるのでしょうかと。??此処で〜〜〜
【叱 る と 優 し く 教 え る 事 】とは違うのです〜〜〜ョネ!!私の場合は、母が
“頭の回転が早い”ので「亡き父」にしますと、いつも「亡き母」の方が、有利に見えて、「亡き父」
にしますと私を見ますと、一番母に似ていますのでしょうか?【八つ当たり??】だったのでしょう
かと。今にしてみれば、当時の父の気持ちが、理解できる様になりましたでしょうか?本当に、当時
の私は【叱られるという事…】がわからずに、いつも“一人で腹立ち”を、父に対し抱いていました。
…が?今にしてみますと、本当に【真理の把握…】をするだけで、物事が解決するのです〜〜ョネ?
■「トキ様」も属言います【スパルタ教育…】は、どう思われますでしょうか??そして、
“腹が立つ事”がありましたら、その感情を、どのように対処されていますでしょか??
同じように、やはり【神にお任せして神想観…】でしょうか??やはり【お祈りが一番…】かと。
再合掌
1958
:
goro
:2013/01/19(土) 19:56:45 ID:nCo1DokU
>>1951
の続き
二重橋の前に行ってみると、なんと玉座には金色燦たる菊花御紋章のかがやいた天幕が一張張ってあり、且つは正面を除く三方も色幕で雨水が入らぬように囲ってあるではないか。何たることをしてくれたかと、腹も立ったが、さすがにこの大雨では係りの者も張らずにはおけなかったのだろう、と思い直して、別に小言もいわず、そのまま侍従職に急いだ。
雨はいよいよ降りしきるばかりで、一向やむ様子もない。十時頃私は一人で、楠公銅像付近を見廻ってみた。ここは女史の団体、七千名の集合地点に当てられていたので、心配のあまり、見に行った訳だった。見ると雨宿りする蔭もないので、新聞紙或いはふろしきを頭にのせて、立ちながら早昼をたべている。傘を持っているものもいるし、持っていないものもいる。持っていない者は多分きのう家を出て汽車で来た人たちであろう。
侍従職に帰って、陛下に、女子の部隊はいま、かくかくの有様で、陛下のおいでをお待ちしております、ということも申上げたが、十一時半頃になって、あまり雨が降るので心配のあまり、一木宮内大臣と関屋宮内次官とが珍田侍従長の室に来られ、私を呼ばれたので、行ってみると、大臣は私に、この大雨でも分列式をやるのか、と尋ねられる。予定通りやります、と私は答えた。大臣は更に「玉座に天幕は張ってあるだろうね」と念をおされたので、私は今朝不本意ながら天幕の張ってあるのを見てきているので、張ってあります、と答えると、大臣は重ねて、「陛下は天幕の中におはいりになるであろうか」と心配そうに尋ねられる。そこで私は、「たぶん、おはいりにならないと思います」とほんとうのことを答えた。すると大臣は、「それは、よろしくない。きょうは、こんな荒天であるから、ぜひ天幕の中におはいりになるように、これからお願いしてくる。がしかし、防水マントのご用意はしてあるか」とまた問われるので、「それは準備してあります」と私は答えた。
御座所で、陛下との大臣の間に、今日は非常な荒天でございますから、どうか天幕の中で御親閲を願いとう存じます、と申し上げられたが、陛下は常になく、大臣の言葉をお聞き入れにならない。そこで大臣は例を軍隊にとって、一軍の司令官というものは、たとえ部下の兵たちが敵の弾雨の下に立つからといって、司令官自身第一線に立つものではございません。司令官には全軍を指揮する大切な任務がありますので、遙か後方で指揮をとります。陛下は長い間大礼の諸行事でお疲れの際でありますから、きょう青年たちが雨に打たれるからといって、ご自身も雨の中に立たれることは間違っております。
1959
:
goro
:2013/01/19(土) 19:59:36 ID:nCo1DokU
>>1958
の続き
ぜひ天幕の中に、と重ねて進言されたのであるが、陛下は仲々お聞き入れにならず、司令官でも、時と場合によっては、第一線に立つことがある。今日はその積りであるから、天幕はとり除くように、とのお言葉に、さすがの大臣もお返しする言葉がなく、然らば防水マントはお着用になるように、とお願いし、それは着ようとのお言葉を得て、侍従長室へ帰ってこられ、私に玉座の天幕をとりはずすように、と指示された。
午後一時頃、私は天幕をとりはずすため、係りの者をつれて現場に来た。当日、分列式陪観のために招待を受けた向きは、外国大公使を始め、内閣総理大臣以下各大臣、陸海軍元帥以下将星、貴衆両院議長議員その他沢山の人達であったが、もはやその六分通り陪観席を埋めて、雨傘や、カーキ或は黒のマントが入り混じっている。
この人々の面前で、私たちが玉座の天幕を撤去しはじめたのを見て、みな驚いたらしく、式が中止になるのではないか、場所が変更になるのではないか、など心配して、数々の人々が、わざわざ陪観席から私の立っているところまで来て、何故にこの大雨の中で、玉座の天幕をはずすのか、という質問だ。私は、その方々には、一々、陛下の思召によって撤去しているのです。と答えておったら、そのうちに今村中佐の部下の若い将校が陸軍の本部から走ってきて、私に同じ質問をするから私も同じ答えをした。その若い将校は、朝からの活動で、ずぶぬれの有様だったが、非常な感激の様子で、ああ、そうでしたか、と陸軍の本部に馳せ帰ったが、直ちに伝騎数組を派遣して、この時刻に、すでに皇居の周辺に集結している約八万の青年たちに、陛下の思召により玉座の天幕撤去の旨を伝達せしめた。この伝令の声が、青年たちの胸に、いかように響いたかは、いうまでもない。
当日、朝早くから、武装した約四万の青年の集団は、皇居の大手門外から九段下にかけて、あのコンクリートの道路上に立ったまま、大雨に打たれ、寒風にさらされ、式の開始を長い間、待っていたのだ。体は濡れにぬれて冷えきっている。眠気は出る。腹はへる。恐らく不平だらだらののものも沢山いたであろう。そこに今の伝令の声、思召により天幕の撤去、裏を返せば、君たちがぬれるなら、私も濡れようという陛下のお声だ。
感激の嵐、急に熱い火の玉が、からだの中を走り廻り始めたのであろう。皆いちどきに、雨の中で外套を脱いでしまった。脱ぐには脱いだが、これを巻いてまた背嚢につける場所の余裕が無い。分列行進のときに、紅張した顔で、外套を左わきに抱え、右肩に銃を担った異様な姿で、大地もくだけよとばかり、靴音高く、ザック、ザックと感激に満ちた眼光で、陛下を見上げながら、玉座の前を通過していた青年集団の張り切った姿を、私は今でも忘れない。
1960
:
goro
:2013/01/20(日) 16:21:34 ID:nCo1DokU
>>1959
の続き
雨は幸い小降りとなったが、身を切るような寒い北西風は相変わらず吹きまくっている。私は二時少し前、陛下の防水マントを持った野口(明)侍従と二人で、玉座のところに先着して、陛下の御到着をお待ちした。正二時、陛下は二重橋正門から自動車で式場に御到着御下車、野口侍従は直ちに陛下のお後からマントをお掛けした。陛下はお手ずからマントのホックをかけながら、二、三歩砂地を踏んで、四段ばかりの階段を玉座にお上りになったが、台上にお立ちになるや否や、どういう訳か、またマントを後ろにお脱ぎ捨てになってしまった。階段の下には、ちょうど奈良(武次)侍従武官長がおられたので、落ちてきたマントをお受けはしたが、ここで重ねて武官長台に登って陛下にマントをお勧めするという訳にはいかなかった。というのは、壇上にお立ちになると同時に、君が代の軍楽、全員捧げ銃、式場は一瞬にして厳粛なる空気に包まれてしまったのである。
それから一時間と二十分、私たちは玉座の後方にいたが、寒さが身にしみて胴ぶるいが止まらない。足をやたらに踏んで、かろうじて堪えていたが、陛下は高い台の上に御起立、さぞ、お寒かったろうに御前を通過する各集団の敬礼に、挙手の礼を賜る外は微動だになさらない。
陛下が皇居にお帰りになってから後で、夕刻、私は陛下に、なぜ、あのときマントをおぬぎすて遊ばされたか、お尋ねしたところ「皆が着ておらぬから」との御言葉であった。もし、雨天ならば、参加者一同には雨具を着用させ、御自身もマントをお召しになるおつもりであったのに、玉座の階段をお上がりになる瞬間、一同が雨具を脱いでいることが、お目にとまり、それならば自分も、と台の上からマントをお脱ぎ捨てになったのであろう。玉座の天幕が撤去されたときけば、青年たちは雨具を脱いでしまう。青年たちが雨具をつけていない姿をごらんになれば、こんどは陛下がマントを捨てておしまいになる。これは皆、寒い雨風の中で、次から次へと起こった出来事であった。何という心あたたかい上下の感応であろう。私が、陛下の、国民と共に同艱共苦の御覚悟を如実に見せていただいたような気がしたのは、この時である。
1961
:
goro
:2013/01/20(日) 16:23:45 ID:nCo1DokU
>>1960
鹿児島湾上の聖なる夜景
今は故人となられたが、大審院(今の最高裁判所)判事の三宅正太郎くんが書かれた本に「嘘のゆくえというのがある。この本のうちに「宮城前」という、まことに面白い、日本人と独逸人との「ものの考え方」のちがいを書いた一文がある。これを、かいつまんでいうと、三宅君が昔、独逸に留学中に知りあった一人の老判事が、東洋旅行の途中、日本に立ち寄って三宅君を訪問したことがあった。一日、三宅君は彼を案内して、東京見物にでかけ、まず二重橋前に行ったところ、時は恰も日支事変勃発直後のことであり、多くの在郷軍人が動員令を受けて、自分の所属する連隊に馳せ参ずるに先だち、二重橋前に来て、陰ながら、陛下に、只今から、戦いに行って参ります、とお別れを申し上げている光景が、そこに展開されていた。
応召の目印のたすきを肩にかけた若者たちは、或は親兄弟と共に、ある群れは旗を立て、またある群れは賑やかな楽隊を伴い、いく群れとなく広場は織るが如くに雑踏している。三宅君たち二人は、この、またとない珍しい光景を眺めていると、そのとき、東京駅の方から、田舎の人らしい親子三人連れが、こちらに近づいてくるのが目に止まった。年老いた父親と応召の息子とその妹らしい三人だが、たった今、東京駅について、また、どこかに旅立っていくのであろう、手には旅の荷物を持っている。三人は遠慮がちに二重橋の奥の玉垣のところに近づく。どうするかと見ていると、彼らは、そこに荷物をおいて、いかにも敬虔な態度でお祈りをしている。
これを、先程から、じーっと見ていた独逸の老判事は、二重橋の上方にある伏見櫓(倉庫)を見上げながら、そっと声を呑んで、「皇帝陛下はいま、あのお城の窓から、こちらを見ておいでになるのか」と三宅君の耳にささやいた。察するところ、この人の考えでは、国民のこんな敬虔な態度は、皇帝陛下の見ておいでになる前でなければ、ありえないことだ、と思ったのであろう。この問を受けた瞬間、三宅君の脳裏にひらめいたのは、かの目をいからせ、腕を振って、群衆を前に、叱咤激励、獅子吼する彼の国の独裁者の姿であった。また、かくしなければ、国民の心を捉えることができない国柄と、我が日本の国柄との、いちじるしい違いを深く心に感じながら、三宅君は「否」とのみ答え、感極まって、しばしその場を立ち去りかねた、という物語である。
これを読んだとき、私は、ぜひ三宅君に見せて上げたい、と思うものがあったが、残念ながら、遂にその機会を得ずに終わった。それは他でもない、ただ一幅の絵である。私の眼底に鮮やかに残る、鹿児島湾上の聖なる夜景が、それである。
1962
:
goro
:2013/01/21(月) 22:13:19 ID:nCo1DokU
>>1961
昭和6年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、陛下は往路は汽車で熊本までおいでになったが、おかえりは、演習終了後、汽車で鹿児島へ、鹿児島からは軍艦榛名で横須賀へ向かわせられたことがあった。当時、私は行幸任務を主管する大臣官房総務課長として、お伴のうちに加わっていた。忘れもせぬ、時は十一月十九日、日没と同時に、榛名は供奉の駆逐艦四隻を随え、県市民の盛大なる奉送裡に、煙副桜島を後に、いま静かに鹿児島湾を南下しつつある。
艦上に立って見上げると、ゴツゴツした小山のような巨艦の檣頭には天皇旗がへんぽんとひるがえり、忙しく立ち働く水兵たちはみな喜色満面。自分たちの艦に、天皇旗を掲げるということは譬えようもない喜びなのである。御召艦と決定してからの、伝染病予防のための長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、みなこれ今日の栄えある日を迎えるためだったのではないか、喜ばずにおられようか。
艦内に於ける陛下の御生活は、いつも極めて御愉快であり、ご自由である。陸上に於けるが如き警戒、警衛は一切ない。全艦みなこれ国家の干城、一人の狂者もおらぬからである。作業にいそしむ水兵たちの群がるなかを、お一人で割っておはいりになる、そのおたのしみ、肩と肩とのすれあい、若者たちの熱気のうちに、われ国民と共にありの御気分を満喫されるからであろう。
榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは、後甲板の真下の司令長官室であった。お室の入り口のすぐ近くに長官専用の階段が上へ通じているから、いつでも、ご自由に、後甲板においでになることができる。この後甲板は陛下の最もお好きな場所で、雨が降っても心配がないように、上にはズックのおおいが一面に張ってある。夜は広い甲板の中央のところに、電灯がたった一つつくだけで、うす暗いところではあるが、夜でも、よくここにおでましになる。折りたたみの軽いズックの椅子が数脚、それから、陛下はタバコをおすいにならないが、他の者のために、火縄のついた大きな灰おとしの真鍮の壺が二、三あるだけで、装飾は何もない。ただ、遠望の御用のために、脚付きの望遠鏡が右舷にも左舷にもところ、どころに備え付けてあるのと、海図の机が一つ、この海図には担当の将校が鉛筆で、艦のコースを書き入れている。
これを見ると鹿児島湾の幅は約二十キロ、鹿児島市から湾口までの距離は約八十キロ、艦のコースはちょうど湾の中央線を、まっすぐに湾口さして南下し、それから、太平洋を黒潮の流れに乗って横須賀へ向かうことになっている。見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、右舷・薩摩半島の山々も、共に十余キロの彼方、夕闇のうちに、薄黒く見えるだけである。
1963
:
goro
:2013/01/22(火) 20:28:39 ID:nCo1DokU
>>1962
の続き
間もなく、六時の夕食の時刻となったので、われわれは艦内に降りて、士官の食堂で食事にとりかかった。航海中、陛下の御夕食には艦長以下上級将校が、代わるがわるお相伴に召されるのを例としていたが、このときは出港直後のことであり、艦長以下一同、業務多忙のため、陛下は御居室でお一人でお食事中であった。ちょうど六時半頃であったか、私は皆と食事中、フト昔の記憶が頭に浮かんできた。それは大正十四年の夏、まだ皇太子であらせられたときのことであるが、軍艦長門で樺太に御旅行になったことがある。
ある日、樺太の南端にある大泊の港から、西海岸にある本斗、真岡の方へ回航の途中、その夜、長門は海馬島という絶海の孤島の島かげに仮泊する予定になっていたので、夕食後、われわれは、殿下を中心に、後甲板で涼しい汐風に吹かれながら、黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、だんだん近づいてくるのを、物珍しく眺めていた。当日は風波がかなりあったので、艦は丘の風下にあたる静かなところに泊めるために、速力を落とし、徐行して、ぐるっと島を廻っている、その時、突然、夜やみの波の間、艦のすぐ近くに、何やら、泣くような、叫ぶような大声がきこえてきた。
舷窓をもれる明かりに照らしだされたところを見ると、日の丸の旗を舳先に立てた一そうの小舟が、荒波にもまれながら、艦と並行して、六人の若者が一生懸命に櫓をこいでいる。左手に、しかと、とも櫓を握って指揮をしているのは、一見、六七十の老父のようであったが、紋付、羽織、袴に、右手に山高帽を高々と差し上げながら、なにか叫んでいる。風が強いため、その言葉はききとれなかったが、嬉し泣きに泣いていることだけは、よくわかる。
私は、一ヶ月前、下検分でこの島にも立ちよったので、島の事情は知っていた。昔から、この島には、百人あまりの日本の漁民がいて、ここを根拠地として漁業を営んでいるのである。きょうの夜、殿下の御召艦が、ここに仮泊することは、みな、知っていたので、恐らく島の人たちは総出で、船をだして、沖で殿下をお迎えする積りでいたのだろうが、日が暮れて、波荒れ狂う夜闇の海上で、そのうちの一艘が、やっと長門の艦影を発見し、少しでもお側に近づこうとして、えいえいと漕いでいたのである。
われわれは、後甲板の上から、帽子やハンカチを振って挨拶をかわしたが、艦がいくら徐行しているとはいえ、二つの船の速力には格段のちがいがあるので一瞬の間に別れてしまった。私は、もしほんとに、手がとどくなら、抱き合って、一緒に喜びたい、と思ったが、まことに残念なことであった。
1964
:
goro
:2013/01/23(水) 10:35:33 ID:nCo1DokU
>>1963
の続き
このことを、私は食事中に思い出し、ここも波の静かな鹿児島湾内のことであるから、いつ、どこから、船が来ないとも限らない。今は陛下もお食事中であろうし、我々も皆食堂にいる。後甲板には、いま、誰もおらぬだろう。もし船でも来たら、相すまぬことになる、と考え、皆より早く食事をおえ、大急ぎで後甲板に駆け上がった。艦内は非常によく照明されていて明るいが、後甲板の上は、まことに暗く、電灯の下ならともかく、少しはなれたら、人の顔も、よく見分けのつかぬ有様であった。
ところが、誰もおらぬとばかり思って飛びだした私の目にうつったのが、右舷の手すりのところに、西を向いて立っている、ひとりの人の後ろ姿であった。望遠鏡から手をはなし、挙手敬礼の後ろ姿。
ハテ、今ごろ、誰が、と思って、近づいてみると、こは、いかに、陛下ではないか。さては、奉迎船が下にきているな、と私はすぐ右舷に馳せよって下を見たが、船らしいものは見えない。ハテ、なにか望遠鏡でごらんになったのかな、と思って私も近くの望遠鏡に目をあててみたが、明るいところから、急に暗いところにくると、目が慣れていないので、なかなか見えない。ジーッとがまんして、のぞいていると、そのうちに、だんだんと目がなれてきて、薩摩半島の山々の輪郭が、ぼんやりながら見えてきた。
時刻から推測して、指宿の沖合あたりかな、と思った。そのうちに、こんどは、海の色と陸の色との区別が付くようになり、水陸の境目つまり海岸線一帯に、延々果てしなくつづく赤い紐のようなものが見える。ハテ、これは何だろうか、と考えていたら、次に見えてきたのは、この赤い紐の上、小高いところに、幾百メートルかの間隔をおいて点々ともえさかる篝火。これで私は万事を了解した。
当夜は月もなく、星も稀な、曇りがちの空模様で陸からは軍艦の姿は見えないが、時刻から考えて、今ごろは陛下のお船が沖を通過になるときだ。と語り合い、薩摩半島の村々に住む人々、老いも若きも、ちょうちんやたいまつを持って海岸に立ちならび、また若者たちは山々に登って篝火をたき、半島に住む村びと、こぞって陛下をお見送りしているのである。
陛下は、いま、望遠鏡で、これを発見遊ばされ、うす暗い甲板の上から、ただ、おひとりで沿岸一帯の奉送の灯火に対し、はるかに、御挨拶をなさっておいでになったのである。
1965
:
うのはな
:2013/01/23(水) 21:28:39 ID:Gsql6f66
国旗「日の丸」 阿久根 貢
形あるものは心の具象化
すべて形あるものは心の影である。換言すれば内部生命の動きはそれが具象化して
形にあらわれるということであります。それによって、何故日本皇室の御紋章が十六菊であるかと
言いますと、「菊」というものは「聴く」ということを象徴的にあらわしたのであります。
ヨハネ伝にありますように、全てのものはことばによって作られているのであります。
「治める」というのは「収める」と語源が同じで、自分の方へ取り込んでしまうものでありますが、
そのような収め方は日本天皇の治め方ではないのであります。
日本天皇の治められるのを「しろしめす」というのは、「知る」という語の敬語であります。
即ち十六方の民のコトバを聴いて、それを知り給うことが「しろしめす」ということであります。
蓮華蔵世界である実相のハチスの中心から現象界が開き出でて、いろいろの民族や国民が現われて来ている。
その民族や国民の声を聞き給うて、十六方向にある所の世界のすべての民の言葉をその心の思いを
悉く聞いてそれを知らしめして、その民の声をそのままに政治を行われるというのが、天皇が国を治めしめし給う
所の治め方であります。
だから日本天皇の政治のあり方を「しろしめす」というのであります。
『愛国心の教育』 生長の家教育者研修会
1966
:
SAKURA
:2013/01/23(水) 22:08:52 ID:ropSe4RI
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1935
>>1956
>>1957
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
===【生命の実相…2巻 抜粋】==============================
■【五感的存在の否定】 その①
>>皆さん御承知のアイシュタイン博士でありますが、この科学界の大天才が「相対性原理」
という法則を発見した。この学説はなかなかむずかしいもので世界中で数人の天才しか本当
に理解しえないであろうと、アイシュタイン博士自身が言っているほどの学説・・・・
・・その学説の中心となるのは、われわれの五官で知ることの出来るものは、われわれの
知覚力との関係上、相対的にそう見えるにすぎないので、存在の本当の相(すがた)がわか
るのではないかということであります。
>>その一、二の例をここに解りやすく…云々…
>>たとえばある薬を服ませれば、その人には手に持った時計が床の上まで落ちるのに二十四
時間もかかって落ちるように感じられる。それかといってそう感じる人の方がまちがっている
という証拠がはない。
>>ふつうの人がはいろいろの食物や栄養をとって、それが吸収されて知覚機関に循環してい
る結果、手に持った床の上に落ちるまで瞬時しかかからないように感じられるのであります
>>・・・すべてこれは関係上の問題すなわち相対的の問題であって、本当にその時間がどれ
ほど長くかかっているものであるかは、五官では解らないのであります。(一部抜粋)
==============================================
■人によって【時間の観念…】は、本当に違うのです〜〜〜ョネ!
例えば、この時期ですと、ついつい“学生時代”を思い出します。受験の時間は、その内容に、
ある時は「難問の難しい問題〜〜><」が、出ますと、それを理解するまでは、時は、一瞬止まっ
たような感じでしょうか??そして、解答を出すのに“イライラ…焦り”かと。逆に、その問題
が、簡単に解決しますと、その時間は“時間もクリアする…”従いまして、残りの時間も“タップリ”
別の表現ですが、例えば、仕事として“販売の時…”は、売れています際、お客様との回転率が、
多く、本当に“時間の経過”も、“ア〜〜〜ッ!”という間に過ぎていきます。…が?逆に、
お客様との接客が少ない…つまり回転率が殆ど無い場合には、実に悲惨な状況ですかと。(微笑)
実に、ものすごく一日が?時間が?長〜〜〜く!感じられます。このような心理が、全ては……
【人間の心…】から、きているのではと思うのです。
狭量の“考え方”は、またそれも、ある面では【時間経過が無駄!】に過ぎていくのでは?
【時間は常に、刻々と平等に過ぎ去るモノ】では?しかしながら、【心の捉え方…】で、
一日に於けます「時間観念…」が変わり、過ぎ去り、終わっていくのです〜〜〜ョネ!!
つづく
1967
:
神の子さん
:2013/01/23(水) 23:59:28 ID:pic01rm6
無料ですよ。
1968
:
a hope
:2013/01/24(木) 08:38:55 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆本の良い処を考えて吸いとれ
ただ読みっぱなしでは、それの中にある知識は本を書いた人のものにすぎません。
それをよく心でかみくだいて自分のものとした時にのみ、それがはたらく智慧になるのであります。
むやみに、たくさん読んだからとて力にならないのは、むやみにたくさんたべたからとて、
人間の肉にならないのと同じであります。
考えながら、うなずきながら、心の中へ飲みこむようにしながら読むことが大切であります。
本に読まれてはならないのです。
本は読まねばなりません。
読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、
本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。
「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。
書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。
自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。
(つづく)
1969
:
goro
:2013/01/24(木) 20:06:11 ID:nCo1DokU
>>1964
の続き
この光景を、思いがけなくも、私が拝した次第であった。ああ、これこそ、ほんとうの日本の姿、と私は思った。何とか連絡をとって、いま、陛下は艦上から、あなたがたのお見送りのともしびに対して、ご挨拶をしておいでになりますよ、と知らせたい気持ちで胸一杯の私は、その方法がないのに、もだえ苦しんだ。。無線で打電しようかとも思ったが、いま、あの山の上で、かがり火をたいている人たちの耳に、到底、今夜のうちに届くとは思われない。
フト、そのとき、一案を思いついた私は、すぐさま艦長室へ走った。艦長に事情を話して、艦の探照灯を全部つけて貰うことを頼んだところ、艦長も感激して、すぐつけましょう、という。私はお願いしますの一語を残して、また、すぐ後甲板に引き返したところ、そのときは、もう六ケの探照灯の光芒が皎々と、左は大隅半島、右は薩摩半島の空や山や海岸一帯を、くまなく撫でまわしていた。
はるかに、ワッ、とあがる両岸の歓声を想像しながら、私はほんとに嬉しかった。
海上、聖夜の讃
月もなく星も稀な夜空の元、黙々と鹿児島湾を南下する軍艦榛名の薄暗き後甲板は、人なく声なく、ただ一人、陛下のおん挙手の尊影を仰ぐ。
御会釈を賜る者は、そも誰か。肉眼にこれを求めて之を得ず、わずかに望遠鏡のレンズのうちに、薩摩半島沿岸一帯、はるかに見ゆる奉送のともし火、盛んなるかな、山々には、かがり火、岸辺には、ちょうちんの群れ、延々として果てしなくつづく。
さらば陛下、いざさらば、
おんすこやかにおかえりませ。
ありがとう、
皆も元気でね。
げに闇をも貫くは、真心の通い路。海波遠くへだてて、君民無言の、わかれのかたらい。
ああ、誰か、邦家万古の伝統を想わざる。時はこれ、昭和六年十一月十九日。
1970
:
さくら
:2013/01/25(金) 07:48:05 ID:e8ieIrPA
合掌ありがとうございます。
本日、一月二十五日は、『自然流通の神示』が天降った日です。
拝
1971
:
さくら
:2013/01/25(金) 07:48:41 ID:e8ieIrPA
『自然流通の神示』 谷口雅春先生
『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。
『生長の家』は奇蹟を無くするところである。
人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。
人間は本來健康なのであるから、健康になるのは自然であつて奇蹟ではない。
『生長の家』はすべての者に眞理を悟らしめ、異常現象を無くし、當り前の人間に人類を歸らしめ、
當り前のままで其の儘で喜べる人間にならしめる處である。
あらゆる人間の不幸は、當り前で喜べない爲に起るものであることを知れ。
當り前で喜べるやうになつたとき、その人の一切の不幸は拭ひとられる。
病氣もなければ、貧乏もない、また搾取された富もなければ、搾取した富もない。
蹂躙られた弱者もなければ蹂躙つた強者もない。
唯、一切が渾然として一切の者が富んでゐる。
此れが實相である。
大いなる生命の流れが一切者に貫流し、とどまらず、堰くところなく、豊かに流れて、ものの供給もおのづから無限である。
一切のものが必要に應じて流れ入ること、一つの大河の流れより水を汲みとれば、隣の水來りて其の虚を埋めるのと同じさまである。
流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、
富に執せざるが故に他を搾取せず、
流通せざる固定の富なきが故に、みづから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占據せず、執着せず、來るに從つて拒まず、受けて更に價値を増して他を潤す。
自給自足などとは自他に捉われた狭い考へである。
自他は一つである。
『生長の家』は自給他足、他給自足、循環してとどまらず、大實在の無限流通の有様を見て、その有様の如く現實世界を生きるのが現實界の『生長の家』である。
貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』人ではない。
當り前の人間を自覺し、當り前に生きるのが『生長の家』の人である。
『當り前の人間』が神の子である。
皆此の眞理を悟つた人が少い。
『當り前の人間』のほかに『神の子』があるやうに思つて異常なものを憧れるのは、
太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。
皆の者よ、人間の生命の實相を悟つて病が治るのは、病念と云ふ異常現象が止んで、人間が本來の自然に歸るからである。
異常現象はすべて病氣の一種である。
貧しさも異常現象であるから、人間の心が自然に還ればなほるのである。
異常現象のなかに神があると思ふな。
そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。
怒り、憎しみ、恐れ、嫉み、他を蹂躙つて打ち勝ちたい心ーーーすべて是等は異常な心であるから病氣の因である。
異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。
當り前の人間になることが大切である。
當り前の人間のほかに神の子はない。
(昭和八年一月二十五日神示)
1972
:
SAKURA
:2013/01/25(金) 10:23:08 ID:vHmGGzRQ
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
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>>1923
>>1924
>>1934
>>1935
>>1956
>>1957
>>1966
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
===【生命の実相…2巻 抜粋】============================
■【五感的存在の否定】 その②
>>われわれの眼にカーブが曲って見えたり、直線がまっすぐに見えたりするのも、われ
われの眼球がまん円い結果であって、眼球をまん円く」ないもの取りかえるとすると、カ
ーブの方がまっすぐに見えたり、直線の方が曲って見えたりするのであります。するとわ
れわれが曲線だ、といっているのも、その線そのものがまっすぐなのであるか、曲って
いるためであるかは五官では判別できない、ただそれはわれわれの眼の球との関係上、そ
う見えるにすぎないのであります。時間的長さも空間的形態も、このようにわれわれの知
覚機関との関係上、相対的にただそう感じられるだけで存在(もの)の実相(ほんとのすがた)
はわれわれの五官ではしることができないのであります。 (一部抜粋)
=============================================
■■ですので【現象での物事】は、それぞれの見た事だけを、認めない見方です〜〜〜ョネ!
人によって、その人の“心の捉え方”で、【人生が短くも!長くも!ある事となり、現象での五官
とは、五感で見る事になりますよ〜〜〜ネ!!
そうして考えますと、やはり【時間の使い方…】は“楽しい心”を伸ばすことは、
【心=実相世界に入る事】でしょうか??やはり無理して“環境”の合わない人とは、避けていき、
どうしても避けられな状況の場合は【心の眼で実相…】を見て【祈る…】だけでいいと思います。
何故なら、今の私は、彼らの「世界観が理解できないし、そして、それは私に取り、理解出来無い
世界ですから」と思います。■【 時 間 の 観 念 は 心 で 決 ま る 】のでしょう。
===【生命の実相…2巻抜粋】==============================
>>先生は、さらに五官を通じて存在(もの)を見る心は{迷わしの心}であって、存在(もの)
の実相(すがた)を観る心ではないことが分かるのであります。
≫≫五官の感覚で見たりしたところのものを存在(もの)の実相(ほんとのすがた)だと
思ってはならない。 (一部抜粋)
===========================================
■■この様に「雅春先生…」は、私どもに指導しておられますので
【心の眼で見る事は、やはり“神想観”でしょうかと??神に“心…”を振り向ける事!!】が、
これが、一番の“かなめ”かと改めて思う次第です。…が?
つづく
1973
:
goro
:2013/01/25(金) 13:23:04 ID:nCo1DokU
>>1969
天皇とその御責任
戦後、私が皇后宮大夫兼侍従次長として、再び両陛下のお側にお仕えするようになったのは、昭和二十年の十月のことであった。思えば、昭和五年侍従兼皇后宮事務官の職を離れてから十数年ぶりで、その間、私は、宮内大臣官房秘書課長、総務課長、内匠頭、帝室会計審査局長官と、いろいろな仕事に従事したが、久しぶりで侍従職に帰ってみると、往事とは事情が一変しているのに気がついた。長年の間、君側にあって、常時、輔弼の重責を担ってきた内大臣府が戦後、すでに廃止されて、その仕事は侍従職に移管されている。
連合軍の国内進駐、時が時だけに、皇室の将来を憂える論客、隠士、或はまた、一情報を入手するために万金一擲を辞せぬ有志があるかと思えば、また一方には、占領軍との特殊な関係を笠に得意満面の俄か官僚等々、大波小波寄せ来る中に、侍従職は立った次第であった。当時は、いつ何どき、何が起こるか、油断のならぬ時節であったので、私はベッドを侍従職の自室に持ち込んで夜を過ごすことが多くなり、したがって夜毎に、陛下のお室で、ゆっくり、いろいろなお話しを承る機会を持つようになった。
当時、天皇の戦争責任に関する占領軍当局の調査は、かなり手厳しいものがあったらしい。これに対する日本政府の釈明としては、日本は立憲君主国であるから、政治上の最高責任者と軍事上の最高責任者とが一致して開戦を上奏してきた場合には、天皇はこれを裁可せざるを得ない。この場合、もし天皇が独自の判断を以て、これを拒否したとするならば、それは専制君主的の行動であって、立憲君主としては、到底なし得ざるところである。ということであったように聞き及んでいるが、陛下から、ゆっくりいろいろと、お話しを承っているうちに、私が私なりに考えたことは、次のようなことであった。
前掲の日本政府の釈明もさることながら、陛下のお心のうちには、もし自分が開戦を絶対に許さなかったならば、軍部の隠忍自重も遂いにその限界に達するであろうし、もし一歩でも、その限界を踏み越えたとなれば、跡は感情の激発するところ、かえって凶暴なる戦が開始され、その結果、長く世界歴史の上に、日本人の汚名を残すようなことになるのではなかろうか、という、まことに悲痛な御心配と御覚悟があったのではなかろうか。
1974
:
a hope
:2013/01/26(土) 10:25:46 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆本を読むにもコツがあります(p125〜)
魚をとるには魚をとる方法があります。
小さな魚を、目のあらい網でとろうと思っても、とれるものではありません。
それと同じように本を読むには、本を読む方法があります。
読みかたが大切なのであります。
いたずらに本をたくさん読んだからといって、えらいわけではありません。
世の中にでて、立派な人になれるか、なれないかということも、その大部分は、
どのようにその人が本を読んで、自分を養ったかによって、きまるのであります。
網やザルで水をすくうようにしたからとて、何一つ自分のものになるわけではありません。
トンネルの中を走る汽車のように、盲(めくら)めっぽう早く本の中を走り抜けたからとて、
何一つ心の中に残らないようでは、なんにもならないでしょう。
汽車に乗っても落着いて、四方の景色をよくながめ、どこの駅は何県の何町にあり、
なんの産地であるか、昔、歴史では織田信長がどうしたところであるかとか、
よく考えながら景色を見ていますと、汽車の走り旅でも、修学旅行ほどの知識が得られますのに、
ただ呆然(ぼんやり)と外を見ながら、汽車で走っているだけでは、何も得ることは出来ないのです。
これと同じような調子で、心が「うわの空」になって本を読んでいるのでは、
それは人間の生命(いのち)と時間との無駄使いをやっているにすぎないのであります。
本を読んでも、その著者(ほんをかいたひと)は誰か、中味には何が書いてあったか、
何を教える為にその本は書かれていたか―――こんなことさえ気がつかないで本を読んだ気持ちになっている人も随分ありますが、
それは実におろかな本の読みかたです。
(つづく)
1975
:
goro
:2013/01/26(土) 17:44:29 ID:nCo1DokU
>>1973
の続き
かく思うとき、私は明治十年薩摩における西郷隆盛挙兵の心情がよく判るような気がした。忠誠なる彼が、陛下に敵対するような考えのないことは明瞭であり、且つ日本陸軍育ての親の一人として、鹿児島一地方の兵力が全日本陸軍の兵力に対し、到底対抗のできないことは百も承知で上でありながら、敢えて薩摩隼人の強請に応じて立ち上がったのは、我が愛する若殿原に見苦しい狂い死にはさせたくない。この際、自分が統制をとって、われもろとも立派に玉砕しよう、という自分の名誉も命も捨てた最後の処置であったのではなかろうか。
開戦当時、私はお側にお仕えしていなかったが、ほんとに偶然なことで、ちょうど日米戦端の開かれた昭和十六年十二月八日の朝、三十分ばかり、陛下にお目にかかることになった。当時、私は帝室会計審査局長官の職にあったが、長官の仕事は、宮内大臣の指揮監督外に立って、宮内省会計の全般に亙って、これを審査した上、独自の判断を以て、その適否を直接、陛下に上奏する責任を持っていた。この拝謁上奏の時期は毎年十二月が常例であったので、私は十一月の中旬、侍従職を経て、陛下に十二月何日の何時に拝謁上奏いたすべきや御都合をお伺いしたところ、十二月八日午前十時との御指定があった。
八日朝早く、私は我が家の庭の梅の木の下に立った、というのは、上奏のとき図表を御説明する指し棒として、我家の庭の梅の若枝一本を持参するのを毎年の例としていたからである。適当な枝を、と選んでいると、そのとき、ラジオが俄然威勢のいい軍艦マーチを放送しはじめ、続いて日米海軍衝突、真珠湾奇襲攻撃成功の重大ニュースが発表され、日頃静かな私たちの街も俄に騒然としてきた。さては、いよいよ日米衝突か、今日の上奏は当然お取止めになるだろうと思ったが、侍従職から何ら取りやめの電話がないので、私は予定時刻に侍従職に出頭した。
私の到着を聞いて、百武侍従武官長が出てこられ、只今、御前で重大な会議が開かれているから、暫く待たれるように、とのことであった。三十分ばかりたって拝謁したが、陛下は、いかにもお寝不足の御様子である。会計審査報告などは、何も今日に限ったことではない、いつでもよろしいのに、陛下は、一旦お決めになったことは、なかなかご変更にならない。
1976
:
goro
:2013/01/26(土) 17:48:00 ID:nCo1DokU
>>1975
の続き
私は、陛下のお疲れを思い、いつもなら一時間くらいかかる上奏を、三十分ばかりに短縮して御前を退出することにしたが、数年間お側におった関係から、、つい、いよいよ戦が始まりまして、と申し上げたところ、極めて沈痛な御様子で、真珠湾の緒戦には幸い成功したが・・・ねと仰せになっただけでなっただけでお言葉がない。極めて御心配の御様子だ。私は御心のうちを拝察して何ともいわれぬ気持ちになった。
今日からは敵味方、何万という若者たちが失われていくのか、ということが、勝敗を度外視して、お心にかかっていたのであろう。一歩、皇居の外に出ると、奇襲攻撃成功、万歳々々の歓声のうず。ああ、誰か皇居の奥深く、戦争の悲劇に、心から憂いのおん目を向けさせられて陛下のお心のうちを拝察したものがあったであろうか。
昭和二十年八月十五日、終戦の時にも、私は会計審査局にいたから、当時の陛下の御様子を語る資格はないが、当時お詠みになったお歌を後で拝見させていただいたので、四首ここに載せさせていただく。
爆撃に倒れ行く民の上をおもひ
いくさとめけり身はいかならむとも
身はいかになるともいくさとどめけり
ただたふれゆく民をおもいて
国がらをただ守らんといばら道
すすみゆくともいくさとめけり
外国と離れ小島にのこる民の
うへやすかれとただいのるなり
鳥にたとえては、甚だ恐縮であるが、猛鳥の襲撃に対し、雛まもる親鳥の決死の姿を、涙して想うだけである。
1977
:
SAKURA
:2013/01/26(土) 17:59:49 ID:ace8L14.
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
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>>1792
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>>1889
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>>1923
>>1924
>>1934
>>1935
>>1956
>>1957
>>1966
>>1972
>> 投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
===【生命の実相…2巻 抜粋】============================
■【実相の世界における神人としてのわれの存在】 その②
>>善財童子が金剛蔵道場の普賢菩薩を見たときの心はどうであったかと申しますと
『華厳経』入法界品第三十四ノ十七によりますと、「正念して……虚空界に等しき心、
一切無着の心、一切刹を清めて障礙なき心、一切法の境涯において障礙なき心、一切十方
に充満する」等々の心を起こしたとあります。この正念して虚空界に等しき等々の心を
起こすことが神想観であります。
>>音声無辺であるというのは、われわれの実相は天地に満つるコトバであるからであります。
これが金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている
のはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満た
されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限
の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人
であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色蔵無辺である自己の実相を悟ら
んがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。(一部抜粋)
============================================
■■私達は、「普賢菩薩様…」のように【日々の祈り】の自覚が、そして、日々のこの行事で
あります【神想観=瞑想】で〜〜〜【神との一体】になれる素晴らしさは、計り知れないモノ
でありまして、それは【心の青空…あの澄み切った世界観】がみえてきますのでしょうかと。
時折ですが?仕事の関係上【先祖供養…】だけですませる事がありましたが、最近は、
【神想観…】を中心に致しますと、やはり【発想の転換…】ができまして、良い事と云いますか?
物事が、スムーズになる事が、生じます。…が?そして、如何しても【現象で物事捉える】この
ような傾向がちですが、今の私は「活かされている〜〜〜実感」がフツフツ湧きあがり、この
素晴らしい【精神統一…神想観】に感謝です。もっと、深く【祈り…】に徹していき〜〜〜
私も【普賢菩薩の仲間入り】になれるようです〜〜〜ネ!!
■毎日「金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている」
私は、“実に〜幸せかな〜〜♫〜〜”と、あらためて「雅春先生」に感謝です。そして、
現在の「総裁先生」に感謝です。では、今から、そうですとも!
【人間…神の子ですもの!!】と認識しながら“金剛蔵道場”の中へ入っていきましょう!!
つづく
1978
:
goro
:2013/01/27(日) 01:20:28 ID:nCo1DokU
>>1976
の続き
終戦後の御心境については、語るべき多くの事柄がある。前述のように、私が再び陛下のお側にお仕えするようになったのは、終戦の日から二ヶ月ばかり後であった。当時、国内の状況はいかがであったか。国民は衣食住すべて窮乏の極に達している。私は陛下の御心中を拝察して、まことに断腸の思いに耐えなかった。
敗戦による国内秩序の混乱、また戦時中の統制が解除されたのを機とし、言論の自由は特に目にあまるものがあった。特に天皇の御責任を追求する論説には、なかなか鋭いものがある。陛下は新聞をよくお読みになるから、これらの論説の横行は、よく御存知であるが、どういう訳か、天皇の戦争責任に関する論議にだけは、一言もおふれにならないで、避けよう避けようとなさる。何かのはずみで、話題が天皇の責任論に近ずく様子が見えると、すぐに話題を変えておしまいになる。
私の胸には、昭和の初めの頃の話であるが、陛下が、御自分の御責任について、深刻な反省をなされたことの記憶があるので、このたびの敗戦については、さぞかし、これに数倍する深刻さを以て、おん自らを責めておいでになるであろうことは、お察しするに余りある次第であるが、なぜ、御自分の御責任に関する話題を回避なさるのか、その理由を私の在職中には遂に知ることができなかった。
昭和の初めころのお話しというのは、個人の名誉に関することであるから、その人の姓名や事件の起こった時期を、此処で明らかにすることは避けるが、とにかく私が侍従として陛下のお側におった或る秋の夕暮の頃のことである。その時の内閣書記官が、慌ただしく侍従職に馳せつけてきて、一個の上奏箱を私に手渡していうには、この箱の内には、一刻を争う内閣総理大臣の至急の上奏書が入っているから、速やかに御裁可を仰ぐように特に配慮していただきたい、とのことであった。私は、その箱を受け取って、直ちに陛下のお室に参り、陛下のお机の上にある鍵箱から鍵を拝借して、これを開いた。これは通例のことで、上奏箱は、この鍵でなければ開くことができないのである。
箱の中から出てきたのは、ただ一通の上奏文書であった。何某起訴処分の件、右謹んで裁可を仰ぐ。年月日。内閣総理大臣何某印、という表題の上奏紙の裏に、数枚に亙る司法(現在の法務)大臣の起訴理由書が綴ってあった。当時の慣例として、正三位勲一等というような身分の人が犯罪の疑を持って起訴される場合には、陛下のお許しがなければ手を付けることができない内規があったので、大至急そのお許しを得るための上奏であったのである。
1979
:
goro
:2013/01/27(日) 12:22:38 ID:nCo1DokU
>>1978
の続き
この事件は既に新聞がやかましく報道していた汚職事件であるが、何分にも火中の人物が政治上の権力者であるので首相及び司法大臣が果たして起訴を断行する勇気ありや否やが世人の注目の的であった。私は、この上奏書を一見した瞬間、総理もいよいよ決心されたか、といささか痛快な気持ちで、これを陛下のお机の上にさしあげた。汚職といえば、陛下の最も忌み嫌われる問題であるから、すぐ裁可の印をお捺しになるだろうと思っていたところ、以外にも、陛下はその書類を一見遊ばすや否、非常にご当惑の御態度をお示しになった。困ったなーといったような御様子である。
これを拝見した瞬間、私の胸中には、はて、なぜだろうか。というような、かすかな疑問が湧いたが、陛下は上奏書に付属した司法大臣の起訴理由書をくり返し、くり返しごらんになり、なかなか裁可の印をお捺しになろうとなさらない。だんだん時がたつにつれ、おそばに立ってお待ちしている私も、いろいろ考え始めた。自分は陛下より十以上も年上の男でありながら、先刻来、いささかなりとも痛快味を覚えたことは、何んと浅ましく恥かしいことか。
陛下は、われわれと違って、いつ人とお会いになっても、対立感というものを少しもお持ちにならない。それだから、汚職そのものは徹底的にお嫌いだが、汚職をした人を憎いとは、お思いにならないらしい。ただ汚職の行われる世の中を、いとも悲しと観じておいでになるのではなかろうか。われわれは、人と会えば、すぐ持ち前の対立感に促われて、この人は自分より身長(せい)が高いか低いか、から始まって果ては、馬鹿か利口かに至るまで、あらゆる比較を腹の中でするものだが、ほんとのところ、神様の目から見れば、お互いに五十歩、百歩のちがいに過ぎないことには、とんと気がつかない。ああ、なんと恥ずかしいことか、と恥じ入る他はなかった。
稍暫らくして、とうとう、陛下は上奏文書に裁可の印をお捺しになった。これで起訴は決定したわけだ。何某氏は今夜にでも逮捕されることになったのである。私はその書類をいただいて、箱に入れ鍵をかけ、一刻も早く、私を待っている内閣書記官に渡そうと思い、一歩お室を踏みだそうとしたところ、私をお呼び止めになったから、何か別の御用かと思い、お側に近づいたところ、ただ一言、沈痛なお声で、「わたしが悪いのだよ」とおっしゃって、考えておいでになる。
このとき私は、ほんとうに、なんともいわれぬ、つらい思いに胸を炒めた。われわれの仲間の犯したあやまちが、かほどまでに、陛下のお胸を傷めるのか、あいすまぬことだ、と思っていたら、つとお椅子から立って椽側におでになったから、、私も無言のままお伴をして椽側に出た。この椽側は、このたびの戦災で焼失してしまったが、明治神宮の絵画館に掲げてある数多の油画のうちの一つ、教育勅語下賜の図という大きな額面に描かれているお二階−御学問所と呼ばれる−の椽側がそれである。
1980
:
goro
:2013/01/27(日) 12:27:32 ID:nCo1DokU
>>1979
非常によく晴れた秋の日暮れ、夕日がお庭の松に照りそっていたが、天を仰いで、おっしゃるには、わたしが悪いのだよ、どうすれば政治家の堕落が防げるであろうか、結局わたしの徳が足りないから、こんなことになるのだ。どうすればよいと思うか、とお尋ねになる。このお尋ねをうけても、つい先程、持ち前の対立感から、いささかなりとも痛快味を覚えた私ごとき者に、何とお答えができよう。あふれる涙を抑えて、ただ無言でお室を退出したことがあった。この時の記憶は、あまりにもあざやかで、今でも秋の非常によく晴れた夕暮れ、空を仰ぐと、ときどき、このことが思い出される。
こういう深刻な記憶を胸に焼き付けた、この私が、敗戦後、再び陛下のおん許に帰ってきたのだから、お胸のうちの、おつらさは、よく判るのだが、なぜ、話題が天皇責任論にふれるのをお避けになるのか、その理由の真相は、これを知る由もなかった。私がこれを知ったのは、ずーっと後のことである。私は二十一年に退職し、二十五年以来、荒廃した二重橋前の広場の復旧整備を志す皇居外苑保存教会の仕事に引き続き今も従事しているが、ちょうど昭和三十年の九月十四日の朝、何気なく読売新聞を開いてみたら、その第二面に大きな見出しで「天皇陛下を讃えるマ元帥」という重光外務大臣の手記が掲載されていた。
これを読んでいるうちに、私の胸のうちには感謝感激の情が潮のように高鳴ってきた。それは、終戦以来、私が心ひそかに、求めていた、あるものを、遂に発見したからである。それは何であったか、これは、日本にとって最も大事なことだが、日本に憲法があるとなしとに拘わらず、また、憲法が天皇の御地位に関して、いかような規定を設けようとも、天皇は、日本国民の運命に関しては、皇祖皇宗に対し更にまた上天に対し、絶対の責任を自覚せらるるおん方である。とする私の考え−少なくとも数年間、側近に奉仕した私としては、かく考えざるを得ない−が現に正確な史上の事実として、ここに明らかとなったからである。
終戦処理上、陛下が、いかようなお覚悟を以って、いかような事をなされたか、そして、これを何故に黙秘して、近侍の者にさえ、一言もお洩らしなされなかったか、このことの顛末が、詳細明らかになると共に、あの無遠慮な天皇責任論の横行時代に、敵将との約束を固く守って、一言の説明もなさらず、堪えぬいて来られた、そのおつらさ、その御苦労を拝察して、ただ、ただ、陛下、本当にありがとうございました、と心からお礼を申し上げるより他はなかった。
陛下が、日本占領軍の総大将マッカーサー元帥と初めてお会いになったのは、昭和二十年の九月二十七日のことで、場所は東京のアメリカ大使館内のマ元帥の室であった。この御会見は、会談の内容は一切厳秘に付する堅い約束の下に行われたものであるから、マ元帥は幕僚も遠ざけ、只一人。陛下も通訳一人のほか、何びともおつれにならず、真に一対一の御会見であった。
1981
:
SAKURA
:2013/01/28(月) 14:00:04 ID:DcZTURFY
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>>1977
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
では最後に〜〜〜❤〜〜〜〜
===【生命の実相…2巻 抜粋】===========================
■【実相の世界における神人としてのわれの存在】 その③−1
>>この自己を掴むためにする修業が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修して、
いただいている「神想観」の修行であります。
>>だから「生長の家」の「知恵の言葉」には「道を歩く時には今神が歩いていると思え」
とあるのであります。同じようにわれわれは机に*よっている時も「今神が机に*よっている」
と思うべきであります。こういうようにして常にわれは神人であるという自覚を失わないよう
にすると、われわれは常に朗らかな光線ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の
円満さが「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、肉体は健康に境遇
は幸福になってくるのであります。
==========================================
■【神想観の重み…】を、深く理解しました。私も、今から【神想観の素晴らしさ】にて、
遥かかなたの「宇宙に〜〜宇宙に〜〜☆」に、入っていきそうです。
昨日は【別板…】で、こちらも“ビックリ・マークの出来事”で、「まじめな私?」には、
なじめない部分もあるのでしょうかと?その様な時には、流れがちがいますのでしょうか?
時々!その職業が「夜の世界観?」にみえるような感じもあり、この様に見えます時は、
“心…”は、暗くネガティブ感にて意気消沈…しぼんでしまいますモノ!
その様な時は〜〜〜❤
つづく
1982
:
SAKURA
:2013/01/28(月) 14:02:41 ID:DcZTURFY
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>>1981
投稿の続きです…。
■【実相の世界における神人としてのわれの存在】 その③−2
>>1981
その③−1の投稿の続きです…。
■【一つ一つが自分にとって何が幸せかを“幸せ探し〜❤探し物は何ですか〜❤…
“コトバの力”で探求…!!
「コトバは神と共にあり…」でしょう?「私の行くところはいつも晴天!」と「雅春先生」が、
おっしゃっていました。そして「現総裁雅宣先生」も行くところは、いつも晴天でしょうかと。
“曇り空…”でも、雲の谷間から“ポッカリとお日さま”が、あらわれて頭上を照らして来ます
でしょうかと!これは、逆に申しますと【今神が机に*よっている。】
【どこでも一体の言葉=神があらわれる】のです〜〜〜ョネ!!今日の私は、久しぶりに、
“徹夜”が出来た事に若さを取り戻しつつでしょうかと?【感謝…】そうだ〜〜〜ヮ!この足で
歩く事も出来る“幸せ…”!!一人だけど…必ず!「神様…」そばにいつもいて下さいまして、
素晴らしい方との出会いを導いて来ると確信!!(微笑)この様に、気持ちを新たにしながら…
〜♫〜愛にあこがれながら、 愛をしらないままで、
人は生きてゆくのさ、 この知らない町を、
ひとりぼっちだと、 思う前に何かする事はあるのだろうか…?
〜♫〜愛をふりまきながら、 愛を日々かせながら〜♫〜
【愛…】は、配るモノなんです〜〜〜ョネ!!私でも【愛…】に、確かに、あこがれながらも…
私はと…見つけて行く内に、ダンダン〜ダンダン〜“幸福列車”に乗れるような気持ちになり
ました。そうなので〜〜〜すョネ!!
■【世の為!人の為!に世界中に走ります!!モ〜〜〜ゥ!「吸血気」・「ゾンビ」達とか?そして、
「黒幕デザイナー」には、モ〜〜〜ゥ!恐れない“強い心”に…!!聞こえないこの耳でも…
心の耳で聞く…いつも私の中にも「神様」が、愛の音色を“心の耳”で聞く事を…教えて下さり
日々!の生活に活かされていますことに、感謝が、ますますとできますかと〜♫〜エクササイズ!
❤〜【神様!!私の“心の影である肉体”…当に「コトバの力」で幸福になれるのです〜ョネ!
毎日が〜毎日が〜“楽しい修行”になりそうな気配なので〜〜〜す。楽しい〜〜〜なぁ!幸せ
一杯です〜〜〜ョネ!当に【祈り…】も、今のこの時を活かす事ですかしら〜〜〜ン!!
この素晴らしい“気づき”を…我が内なる「神…」に感謝でしょう。ありがとうございます…。
つづく
1983
:
NANCY
:2013/01/29(火) 02:58:11 ID:aF3cZJnQ
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>>1931
>>1942
>>1955
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】===========================
■ 人間には、自分の運命を、自由に支配する力がある。
あなたにはあなたの運命の主人公であり、あなたの境遇の支配者なのであるから、
あなた自身の想念で、あなたがあなたの独特の運命を造るのを何人も妨げること
は出来ないのである。あなたが想念に描くものと類似のものが、あなたの運命
及び境遇として展開してくるのである。
谷口雅春著 『新版 栄える生活365章』
============================================
■■ 何も「信仰…」に触れていない時の私は…『運命…』この言葉は、生まれる前からの
宿命みたいな感覚での捉え方でしたかと。ところが「生長の家…御教え」に触れますと…
思いだしますが「信仰…」当初は、私自身は、まだ!まだ!同じような感覚を抱いておりました。
…が?次第に『心 の 法 則』と言う事を、知りますと【全てのものは“こころ”でつくる】
この事が、次第にわかりだしましたかと、思うのです。
その【心での想念・感情 …】とは、つまり
【心での想った事が?それが良きにしろ?悪しきにしろ?この“現実世界”にて現れてくる
わけですから、それならば“良い〜〜〜想念”を念じ、今現実世界に、現れてきた方が…
それはいいですモノ!!
このように、考えて参りますと【私自身の“こころ”にて、自由に〜〜はばたいて勝ち取る
ことが出来るのです〜〜〜ョネ」!】
ますますと【心 の 法 則】クリア―かと、痛感致しました。
再合掌
1984
:
a hope
:2013/01/29(火) 07:30:52 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆よく考えながら読み、善いことは実行しなさい(p127〜)
本を読むには、考えながら読むことが必要です。
豊臣秀吉が草履取りをしていたときに、どうして出世をしたかというようなことも、
唯(ただ)おもしいなと思うだけでなしに、なぜ出世をしたのであるか、
なぜ草履をふところの中で温めていたのか感心であるのか、考えながら読まねばなりません。
そして、ここは感心だというようなところへは、赤いすじでもひいて心の中に深くきざみつけるようにし、
一ぺん読んだ本でも、その赤い線を引いたところはなんべんもそこをひらいて、忘れないように思い出し、
それを噛みしめるようにして、よいことは自分もそのとおり実行するようにすることが大切であります。
(つづく)
1985
:
goro
:2013/01/29(火) 09:57:54 ID:nCo1DokU
>>1980
の続き
このような次第であるから、御会見の内容は一切、外部には不明のまま、年月が経過していったのである。当時、巷間には、いろいろな風説が流布されたけれども、誰も、事の真相を知っているものはいなかった。ところが、昭和三十年の夏、時の外務大臣重光葵氏が用務を帯びて、米国に赴くことになり、出発に先だち、お暇乞いのため、那須の御用邸に伺候して、へいかにおめにかかった。このとき、陛下は重光外相に、一つのご伝言を託された。それはニューヨークにいるマッカーサー元帥に対する、陛下のご挨拶の御言葉であった。
そこで重光外相は、九月二日の朝、ニューヨークで、加瀬国連大使を伴って、ワードルフ・アストリア・ホテルにマ元帥を訪問し、陛下の御伝言を伝えた次第であるが、この際、重光氏はマ元帥の口から、従来厳秘に付せられていた昭和二十年九月二十七日、陛下対マ元帥、第一回御会見の内容を初めて聴かされた次第であった。
元来、内容は一切、厳秘に付された御会見のことであるから、爾来、陛下は一切を黙して、一言たりともお洩らしになったことがない。然るに十年後とはいえ、マ元帥が重光氏に、あえて事の真相を物語ったことは、恐らく、元帥自身の世界情勢判断と、且つ陛下に対する深い思慕の情と非常な好意とが然かあらしめたのであろう。
これを聴き知った重光外相の驚きと喜びとは、想象に絶したものであったらしい、同氏は事の正確を期するため、この会見に同席し、マ元帥と重光外相との会話を詳細に速記していたスクリップ・ハワード通信社主ロイ・ハワード氏の速記録と自己の記録とを照合し、帰朝の後、これを邦訳して、九月十四日の読売の朝刊に寄稿した次第。これが、昭和二十年九月二十七日、陛下とマ元帥との第一回の御会見に関する日本人向けの報道の第一報となったわけである。
この第一回の御会見の際、命乞いに来たのだ、とばかり思って、服も改めず、お出迎えもせず、自分の居室で陛下を迎えた元帥が、お帰りの際には、いとも鄭重に玄関先までお見送り申し上げていることは、一体何を物語るのであろうか。数千年の世界歴史の上で、民族の興亡は、いくたびも、いくたびも、くりかえされたが、未だかつて、国民を庇って、身命を捨てる君主のあることを知らなかった元帥が、眼前に立たれる陛下のお姿を熟視して、何と感じたであろうか。自分は、あのとき、興奮のあまり、陛下に抱きついて、キスしようと思った、と重光外相に告白していることは、元帥がいかに、はげしく、感激したか、を物語るものといわなければなるまい。
1986
:
SAKURA
:2013/01/29(火) 11:50:14 ID:x8DbpmW2
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>>1981
>>1982
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 【 その① 】
===【女 の 浄 土】=================================
■些事も行う心の態度に魂の進歩がある
毎日の生活の小事を親切丁寧に誠心を盡す実践の中に、魂の進歩があるのである。
自分の前におかれたる小さな仕事を熱心に、「神から興へられた仕事」として行き届いて実行する
ことが人間を課せられた第一次の使命なのである。その第一次の使命を無事に卒業することによって
自分の生涯の究極目的として 「神から興へられた第二次の使命」に人間は近づいて行くことが出来る
のである。炊事、洗濯、掃除その他、一寸見ればただの雑事で無価値な仕事のやうに見えるかも知れな
いけれども、仕事そのものの重要性如何の問題ではなく、自分の心が、その仕事をどのやうに扱ふかの
心境如何のよって、自分の魂に異なる點數(てんすう)がつくのである。どんなつまらなく見える仕事
でも感謝して行ふがよい。 (一部抜粋) (谷口雅春著)
================================================
PS:本を開いて“ペ−ジ”を〜〜〜開きますと、そこには「ボ−ダ−ライン」が〜〜〜??
「亡き母」が引いた赤い線を見て、きっと毎日!毎日!の仕事をこなし、そして、「亡き母」
なりにしたい事が、あったのでしょうか??
当時の母は“普通の主婦”と違い「経理…」・「営業…」「母親…」…etc全てこなし、更に
仕事との両立性を考えますと“主婦業…”も大変だったと思います。…が?
私は、その様な「亡き母」の後ろ姿をいつも見ながら、結婚したらこの様に自由がなくなる
ものだと思いながら……も?例えいやな仕事でも、当たり前のようにこなして、顔にも
見せずに本当に「亡き母」は、素晴らしい人だったと、思います。
つづく
1987
:
SAKURA
:2013/01/29(火) 11:53:28 ID:x8DbpmW2
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>>1981
>>1982
>>1986
>> 投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 【 その② 】
>>1986
その①の投稿の続きです…。
■“89歳…”までは、自分でお風呂に入っていましたから…今の私でしたら…やはりそのよう
な年になったら、どうなのかしら〜〜〜ンと、思います。…が?亡くなる前に
「亡き母の言葉」は〜〜〜〜?
【人間は働く事…】この言葉を私に残して、他界しました。「新しい世界へ…」
そして「老人ホ−ム」に入る前に、私の【将来の結婚式…】に着るるつもりでいた着物…これ
を、私に渡し「亡き母」は、寂しそうな表情の顔を初めて私に、正直に見せましたかと。今!
思い出しますと〜〜〜!!随分昔の事〜〜〜になりますでしょうか?その頃は、既に、私の
耳は「タタキ男の暴力」により【聴力喪失…】となっていたのです…。当時の私は、将来性も
考えまして、或る“お見合い”により…意を決して【結婚…】と考え、決断しましたのです。
【結婚…】の日取りが決まり、三日後に【結婚の予定…】でした。…が?今回、度々投稿します
結論は「タタキ男…」に壊されて!!その相手の家まで殴り込み……云々…その時、実に“感情”の激しい人間…何をしでかすのか?解らない…人間と初めて【男性の身勝手…】を垣間見ました。相手は【まじめな人で…これという取り得は〜〜〜><】それでも、その結婚相手は【結婚…
申し込み】をと…云いよってくれました。色々なる観点から〜><考えての“ことわり”を…!
他にも…話が……(後日、詳しくにての“投稿形式”をと…思っております。)
今!ふり返りますと【人 生 汚 点…人 間 の 嘘】を見つけきれなかった後悔が…
これに関連しますのが…「吸血鬼・ゾンビ…集団」です。その中の女性群…吉○・馬○・光○
(阿○)そして男性群…河○…因○…他にもでしょうかと(学歴詐欺…職歴詐欺は日常茶飯事…)
実に「口のうまい集団…洗脳集団」でしょうかと…いずれにしましても「黒幕デザイナ−含め」
【人 生 の 汚 点…回 想 記】を詳しく投稿するつもりです。【若い世代に…向けて!!】
この事は、ある面では【神から興へられた第二次の使命!!】に近づいて行くのカモ??
■「雅春先生の言葉」には【菩薩、心に闘争をみたせば、その世界に戦い絶えず…】…
この頃では、全てが【心 の 問 題…心 の 法 則】この事を、駆使すべきでしょうか〜〜?
再合掌
1988
:
NANCY
:2013/01/29(火) 21:13:31 ID:NvcmVTKk
トキ様 へ
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>>1643
>>1766
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>>1890
>>1918
>>1931
>>1942
>>1955
>>1983
>> の投稿の続きです。
===【谷口 雅春 先生 著】=============================
■“ まず神の国を求めよ ”ということ
実相の世界を「神の国」とも「天国」ともいうのである。
そこには善きものは常に無限に充満しているのである。しかし「神の国」は霊の国であるから、
「物質の国」のみを見る力しかない五官(眼耳鼻舌身)の感覚によってはそれを観ることは
出来ないのである。それゆえにしばらく五官を瞑じ、五官の感を蕩尽して、心の眼をもって、
神の国の美しく荘厳なる有様を観ずるようにするがよいのである。これがイエスの教えられ
た「先ず神の国と神の義(霊的秩序)とを求めよ」である。すると、「その余りのものは汝ら
に加えらるべし」とあるように、その「余のもの」(現象界の功徳)はおのずから顕れて来る
ことになるのである。 (一部抜粋)
============================================
■上記は今回の機関誌2月号…冒頭に取り上げられています「雅春先生」の言葉です。以前
此処の投稿にて…「雅春先生の言葉」が〜〜〜ない?とかの記載がありましたかと?記憶の
中にありますが〜〜〜そうでもないです〜〜〜ョネ!
ここに「五官」…(眼耳鼻舌身)の感覚で見ます“世界観”は、どうしても個人個人の捉え方
の視点が異なりますので…先日からの【虚説…】これに関しては、此の肉体人間での五官
(眼耳鼻舌身)からの判断では???或る人は「善きかな?」或る人は「悪しきことかな?」
この様な捉え方になりますでしょうと思います。それは、自分自身の「人間智」での判断です
から、当然のことながらそこに【我欲…欲徳】が入ってきますでしょうかと。それでは、い
つまでたっても解決しませんでしょうかとも。こういう時は、「雅春先生」のおっしゃいます
【心の眼…神想観】にて…「本来あるべき姿…実相」を観る訓練を、日々行ないまして……
「神と一体…神の子の自覚…」をもつべきでしょう。
これでようやく「神の国…扉」をあけることの出来ます“入り口”にたちますのでしょうか?
今回!私も正直な話ですが「五官でみますと…以前出会ったことのない人物達…」これが…
「吸血鬼・ゾンビ達…」に値しますのです…。捉え方の尺度が…かみ合わないと申しましょうか
【類 の 法 則】とではない人達とは…この現象界に於きましては【断ち切る…】これしか?
ないのかと…色々な観点から【神の国・神の義】を含め…考えてしまいました。
■先ず神の国と神の義(霊的秩序)とを求めよ!その余りのものは汝らに加えらるべし!
再合掌
1989
:
goro
:2013/01/29(火) 23:17:16 ID:nCo1DokU
>>1985
の続き
この重光外相の寄稿文は、日本歴史、否、世界歴史の上で、極めて貴重な文献である。マ元帥すでになきいま、陛下は、あくまで沈黙を守られるであろうし、重光氏も、また、他界した今日、この文献の価値は至大である。かく思うがゆえに、私は読売新聞社の了解を得て、左に重光氏の寄稿の一部を掲げる。
重光「東京出発前、那須御用邸で、陛下に拝謁した際、陛下は、”もしマッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人の友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい”とのことであった」
マック「自分は日本天皇の御伝言を他のなにものよりも喜ぶものである。私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず、陛下のなされたことは未だかつて、十分に世に知らされておらぬ。十年前、平和再来以来、欧州のことが常に書き立てられて、陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の生みの親であるといって崇められることになると信じます。
私は戦前には、天皇陛下にお目にかかったことはありません。初めてお出会いしたのは、東京の米国大使館内であった。どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心を以ってお出会いしました。
しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなはち、「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また、事件にも、全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。
自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います」これが陛下の御言葉でした。私はこれを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしよう、とした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申出る、という、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。
陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいごあいさつと親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげて下さい」
重光「それは必ずお受合い申上げます。」
以下 略
1990
:
goro
:2013/01/30(水) 13:02:37 ID:nCo1DokU
>>1989
の続き
皇居勤労奉仕発端の物語
この物語は昭和二十年、終戦の年にさかのぼる。戦敗れて人みな茫然自失、言語や風俗の全くちがう占領軍将兵の威圧下にあって、国民全体として行動の積極性を頗る欠いておった当時の有様を読者各位は一応おふくみの上で、この物語を読んでいただきたい。当時、皇居周辺の状況は、どんなであったか。皇居の御門という御門には、いずこも、ここも、占領軍の歩哨が立っている。これは好奇心にかられた無遠慮の外国兵の入門を阻止するための、占領軍総司令部の好意ある意図もおりこまれた処置ではあったろうけれども、事情を知らぬ日本人の眼には、甚だ以て不愉快千万、「日本人近よるべからず」と無言のうちに威圧を加える態度のようにうつったことも無理からぬことであった。
二重橋前の十万坪の広場は、管理の統制を欠いだため、六十余ヶ所の照明灯は一つも残らず破壊され、道路といわず芝生といわず、到るところ踏み荒らされて、昔のような、すがすがしい清らかなおもかげは、どこにもない。あまつさえ占領軍観兵式用の大スタンドが、二重橋の真正面に二ヶ所設けられ、時折は兵士どもが分列式などをやっている。お濠と森林とに囲まれた皇居は、外観こそは一見、昔とかわらぬようであるけれども、一歩、皇居内に踏み入れば、木造の建築物は殆んど消失し、さしも端正雄大であった宮殿の跡も、礎石、玉石、煉瓦、至るところに散乱し、まことに、いたましい有様であった。
ところが、十二月に入って間もないときであったが、皇居の坂下門の門外に六十人ばかりの青年の一群が到着、どこかの駅から下車したまま、まっすぐに来たのであろう、手に手に荷物を携帯している。守門の皇宮警察官を通じて宮内省への申し入れは、--------私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京してきました。東京には食料や燃料が乏しいということも聞いていますので、私たちに必要な数日間分は、ちゃんと用意して持ってきていますから、東京の人たちに迷惑をかけるようなことはいたしません、どうかお手伝いをさせて下さい。--------とのことであった。(昭和二十四年まで二重橋前の広場は宮内省の所管であった)
このことは、すぐ侍従次長の私の室へ大臣官房の筧総務課長から電話で知らせてきた。私は思った。今どき東京の人は、きょう自分たち一家が食べるお米があるか、ないかが、最大の感心事であるというのに、百里も遠くの、仙台のもっと北の地方から、何十人という若い人たちが、二重橋前の広場のお掃除に上京してくるとは、何とたのもしいことだろう。ぜひその人たちの顔を見たいという気持ちになったので、筧君と一緒に二人で坂下門外に出て一同に面会してみると、六十人の人たちは、みな二、三十歳の青年で、うち数名は年も若いモンペ姿の娘さんたちであったが、食料、燃料は勿論のこと、みな一挺ずつ草刈鎌を携えている。
1991
:
goro
:2013/01/30(水) 22:01:44 ID:nCo1DokU
>>1990
の続き
今しがた、外国兵の歩哨の前を通って、坂下門のところまで来たのであるけれども、別段怖れた様子もなく、それかといって別に昂然たるところもないが、語る言葉は一語また一語、進むにつれて真剣味を帯びてくる。
われわれの郷里の出身に、長谷川峻という人がいる。緒方国務大臣の秘書官をしていた人だから調べてもらえば判る。この人が先日郷里に帰ってきたとき、皇居の前の広場がたいへん荒廃してることを歎いて話してくれた。そこで、われわれは集って相談をした。それは、まことに相すまぬことだ。みんなで東京へ行って、草刈りや、お掃除のお手伝をして上げようではないか。草刈りは毎日野良でしているのだから、そんなことは何んでもない。だが待てよ、今どき天子様のために何か働いたら、マッカーサがわれわれを検挙するかも知れない。
それで万一検挙されるようなことがあったときの用意として、第二隊は郷里に待機させて、第一隊六十人だけ上京してきた。県庁の知事さんにも挨拶して上京すべきであったが、これも後で、何かの迷惑がかかっては悪いと思ってだまってこっそり郷里をはなれてきた。娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる。と上京の動機や万一の覚悟について、縷々説明するのであった。きいているうちに、私たちは粛然襟を正ださざるを得なかった。厚く一同の厚意を謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだに瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に、一同の喜びはたいへんなものであった。万一を覚悟した検挙どころか、全く予期もしない皇居内の作業をたのまれたものだから、一同の喜びはたいへんなもので、その活動ぷりたるや、連日、実にすさまじいものがあった。
宮殿の焼跡は上下二段の段地で、なかなか広く、上段が奥宮殿、下段が表宮殿の跡である。六十人の青年たちは、ここを作業場として三日問猛烈に働いてくれた。皇居の附近には泊るところもないので、宿舎は小金井附近であったと思うが、皇居から二〇キロもはなれているのに、当時、交通機関も充分に復旧しない混雑の中を、毎日そこから通ってきて、朝からタ刻まで、手弁当で働いてくれたのである。
1992
:
goro
:2013/01/31(木) 11:16:55 ID:nCo1DokU
>>1991
三日の後には、何万個という瓦や石の破片は宮殿跡の上段と下段地との境目にある石垣のところに、実に美事に積み上げられてしまった。東北の田舎から遥々上京してきた沢山の青年男女が、皇居内の清掃を手伝つてくれるということは、既に両陛下のお耳にも達していたが、連日の作業が、
いよいよ、今日から始まるという十二月八日の朝、陛下から私に、今日から仕事が始まるなら、その前に一同に会いたい、との御希望があった。
私も、心ひそかに、それを期待していたので、大喜びで、早速使を出して、現場にいる六十人の人たちに、お昼前に、天皇陛下が、作業現場においではなるから、そのつもりでいてもらいたい、ということを通知しておいた。陛下が作業現場におでましになるとき、お供をしたのは僅か数人であつたが、私は御座所から現場まで数百歩の道すがら、焼土の上に歩を進められる陛下のお心のうちを、あれこれと、お後にお供しながら考えた。
ザックザックと砂をふんで一歩また一歩、現場に近ずかれるお靴の音は、まさに日本歴史大転換の歯車のきしる音としか思えない。国民と共に語り、共に苦しみ、共に楽しまんとの御決意は、すでに御即位のときから明瞭に、われわれお側にお仕えしている者には、拝察できたことだったにも拘わらず、いろいろな事情のために、その実現はできなかったが、奇しくも国破れた今日、陛下は、その機会をつかまれたのだ。
宮殿の焼失などは、いま露ほども惜しいとは思っておいでにならないに相違ない。ただ、夜となく昼となく、常にお胸のうちを去らないものは、亜細亜大陸の各地、また太平洋の島々に、とり残こされた末復員の将兵その他の同胞の安否や、国民各家庭のさまざまな悲惨辛苦のことだ。いま数分後には、はるばる仙台の奥から手伝いにきてくれた青年たちにお会いになれる。こんなことが皇居内で行われることは未だ嘗て前例のないことだが、少しはお気が晴れることだろう、など。
陛下のお姿を遠くから拝した六十人の人たちは仕事をやめて、あちこちから集ってきて、陛下をお迎えし、ここに前例のない御対談が始まったのである。代表者(慶応義塾出身の鈴木徳一君、惜しくも昨年末仙台で病投)が御前に出て御挨拶を申し上げたのに対し、陛下は、遠いところから来てくれて、まことにありがとう。郷里の農作のぐあいは、どんなか、地下足袋は満足に手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不自由か、など、御質間は次から次へと、なかなか尽きない。
1993
:
goro
:2013/01/31(木) 17:47:38 ID:nCo1DokU
>>1992
の続き
かれこれ十分間ほどお話しがあり、何とぞ国家再建のために、たゆまず精を出して努力して貰いたい。とのお言葉を最後に、一同とお別れになり、また、もとの路をお帰りになるべく、二、三十歩おあるきになったそのとき、突如、列中から湧きおこったのが、君が代の合唱であった。当時、占領軍の取締りがやかましく、殆んど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代が誰に相談するでもなく、おのずからに皆の胸の中から、ほとばしり出たのであった。ところが意外にも、この君が代の歌ごえに、陛下はおん歩みを止めさせられ、じっと、これをきき入っておいでになる。
一同は、君が代の合唱裡に、陛下をお見送り申上げようと思ったのであろうが、このお姿を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く唱い終ってお帰りを願わねば、とあせればあせるほど、その歌声は、とだえがちとなり、はては嗚咽(おえつ)の声に代ってしまった。見ると、真黒な手拭を顔に押しあてた面伏(おもぶし)しの姿もある。万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら云い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもったこの悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。
辛うじて唱い終ったとき、陛下は再び歩を進められてお帰りになったが、私は暫らく後に居残ったところ、青年たちは私に、皇居の草を一把ずついただいて郷里への土産にしたい、という。何のためかと思って尋ねてみたら、その答は次の通りであった。私たちは農民です。草を刈つて、肥料のために堆肥を造ります。この一把の皇居の草を(といつて、堅く、かたく握りしめ、眼に涙していう)いただいて、持って帰って、堆肥の素とし、私たちの畑を皇居と直結したいのです。
この青年たちとの御対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后さまに、午後、作業現場にゆかるるように、おすすめになり、そのときも、私は再びお供をして現場に参ったが、第二回からは、両陛下お揃いで、奉仕の人々にお会いになることになり、それが今日まで二十数年間つづいているのである。
1994
:
goro
:2013/01/31(木) 17:54:19 ID:nCo1DokU
>>1993
の続き
第一回目のとき、皇后さまが陛下に御同行なされなかったのには訳がある当時、国内の各港には、海外で働いていた同胞の引揚げ船が続々と到着しつつあったが、殊に南方から帰つてくる人々は、防寒服がなく、みな薄着のままで日本の冬に上陸せねばならず、老幼の困難は特に甚だしいものがあつた。皇后さまは、これを非常にご心配になり、何か暖かい衣をとお考えになるのだけれども、店は品切れだし、皇居の内も、宮殿は焼失、倉庫も大部分焼けて材料が乏しい。それでも捜せば、多少の綿や布類があるので、それをできるだけお集めになり、女官相手に、毛糸でスウエッター、また綿や布でチャンチャンコを、できる限り沢山おつくりになるのでお忙がしかったのである。
前例の全くない、皇居内での陛下と地方青年たちとの御対談を、宮内省詰めの新聞記者諸君が見のがす筈はない。ニュースは、すぐに全国に伝えられた。三日間の感激の奉仕をおえ、おのおの一把の皇居の草を抱きしめて郷里にかえる青年たちの汽車の旅は、上京のときとは全く反対で、
まことに朗ちかな希望に満ちたものであったに違いない。無断上京のお詫びを兼ね、知事さんに挨拶のため、仙台に途中下車、一同県庁を訪れたところ、折から開会中の県会は青年隊無事帰着の報に接し、にわかに議事を中止し、知事以下議員総出で一同を喜び迎え、大いにその意気と労とをねぎらったとのことである。
以上語りしるす事柄は、国民対皇室、皇室対国民の間に見られる、あらゆる事象のうちの、単なる一こまとして、風の如く来り、また風の如く空しく過ぎ去ったであろうか。疑いもなく、これは名もなき農村青年男女六十人の渺たる一団である。だが然し、名誉を思わず、利益を求めず、占領軍の弾圧あらばあれ、ただ一片の衷情やみがたく、やまとごころの一筋に立ち上った、この一群れの間にひらめく正気の光は、決して空しくは消え去らなかった。
正気は友を呼ぷ。この報、一たび全国に伝わるや、当時、断腸の思いに沈んでいた国民の心の琴線は、俄然、高鳴りを始めだしたのである。栗原郡からは、第二隊、第三隊、第四隊、第五隊と続々上京してくるし、次ぎには隣りの郡、また、その次ぎには隣りの県、終には北は北海遣、南は九州のはてに至るまで、全国からの奉仕の願い出は殺到するばかりで、今日すでにその奉仕の人員は、数十万に達するであろう。官辺より何らの指示勧奨もあるのではない。ただ国民至情の赴くところ、しかあらしめるのである。
1995
:
goro
:2013/02/01(金) 15:39:09 ID:nCo1DokU
SAPIO 2009年2月11-18日合併号掲載
【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】
JUGEM(ジュゲム)ブログ 「たまねぎ通信」より転載 (写真付き)
http://tokiy.jugem.jp/?eid=816
皇居勤労奉仕
読者のみなさんは、この言葉を耳にしたことがおありだろうか。
全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中で四日間、ボランティアの清掃活動を行っている。その数、平成に入ってからの実績で言えば、一年間を通じておよそ一万人。この活動のことを「皇居勤労奉仕」と呼んでいる。
*
清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担だ。それでも約一万人もの人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けている。一般にはほとんど知られていない事実だ。しかし十分、注目に値するだろう。では、この皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったのか。この点については、幸いなことに、いくつか関係者の証言が残っている。まず、昭和天皇の側近に仕えた木下道雄侍従次長(当時)の証言を紹介しよう。
時は昭和20年12月。つまり終戦の年の年末のことだ。当時、日本は言うまでもなく占領下にあった。皇居も各門にはアメリカ兵が見張りに立っているありさまだった。その皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、一歩、中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりだった。木造の建造物はほとんど焼失していた。明治時代に建てられた端正雄大な宮殿も焼け落ちて礎石や瓦、レンガなどが散乱し、目も当てられない状態だった。手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていた。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。そんな折、皇居の坂下門の門外に60人ばかりの青年の一団が到着した−−。
【皇居の清掃奉仕を申し出た若者たち】
この若者たちは、門衛の皇官警察官を通して、次のように申し入れたという。
「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。‥どうかお手伝いさせて下さい」と。
このことを筧素彦総務課長(当時)から電話で知らされた木下氏は、ただちに筧氏と一緒に門外で彼らと面会。その熱意に打たれて「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に一同の喜びはたいへんなものであった」−−。
木下氏の証言によれば、皇居勤労奉仕はこのような形で始まったことになっている(同氏『皇室と国民』。)
当時の交通事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労があったはずだ。しかも終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下でのことだ。その上、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃である。
出獄した日本共産党の面々は虚脱した国民の前で「天皇制の打倒」を叫び、GHQは昭和天皇側近だった内大臣の木戸幸一を戦犯容疑者として捕らえ、皇族の長老、梨本宮守正王まで拘引される始末だった。
そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、じつに驚くべきことと言ってよい。ただし、木下氏の証言だとも六十人の青年グループが突然、皇居に押しかけて「手伝い」を申し出たように受けとれるが、じつはこれ以前に勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。
この点については筧氏の証言がある。
1996
:
goro
:2013/02/01(金) 15:44:33 ID:nCo1DokU
>>1995
の続き
【宮内省 総務課長の勇断】
それによれば、ことのいきさつは以下の通りだった。
この年の11月22日、宮城県から上京してきた二人の人物が宮内省(当時)を訪れた。この時、二人に応対したのが筧氏だった。
この二人は、地元で指導的役割を果たしていた。一人は青年団運動のリーダー、鈴木徳一氏、46歳。もう一人は東久邇宮(*ひがしくにのみや)内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川竣氏(のちの衆議院議員)、33歳。彼らは現今の思想悪化を憂いつつ、なお皇室のことを思って荒れた皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに地元に60名にもおよんでいることを告げ、勤労奉仕の許可を求めたのであった。
この熱意ある申し出に対し、筧氏はどう対応したのか。氏の証言を引用しよう。
「当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の抑圧を受けている極めて酷い事情の下にあるので、こういう申し出をされる方も命がけなら、それを受け入れる決断をする方もまた異常の覚悟を要する状態でした。(中略)これを組織による意思決定の形をとったら、(中略)万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました」(日本教文社編『皇居を愛する人々』)
かくて筧氏は、信頼するただ一人の上司にだけ打ち明け、その内諾を得るや、ただちに二人に勤労奉仕の許可を申し渡したのであった。何とも恐れ入った勇断と言うほかない。
この時、鈴木・長谷川両氏は、何の書類審査もなく即日、許可されてビックリ仰天したという。それも無理はない。ただでさえお役所仕事というのは手続きが煩雑で、時間がかかる。ましてや天皇陛下のお側近くで仕える宮内省に、まったく前例のないことを申請しようというのだから、二人とも相当に手間暇がかかることは覚悟していたはずだ。それなのにただ一回の口頭の申し入れただけで、ただちに願いが聞き届けられたのだから。
1997
:
goro
:2013/02/01(金) 15:46:19 ID:nCo1DokU
>>1996
の続き
【拡大する勤労奉仕にGHQが疑念】
宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性55名、女性7名の計62名で、団長の鈴木氏と副団長の長谷川氏を除き、ほとんどが22、3歳の若さだった。苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下氏証言)。
むろん、占領当局によって拘束されるようなことはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
鈴木氏の証言を紹介する。
「奉仕はだんだん進んで正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっていられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(前掲書)
その後、女官を伴って香淳皇后もお出ましになった。両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りあるだろう。
「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌21年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和26年で、何と4万人近くの国民が参加した(奉仕団は831団体)。
こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行ったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行っている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。
【これまで累計 約120万人が奉仕】
占領下から独立回復後、昭和から平成へと時代は推移しても、皇居勤労奉仕は一年の中断もなく続けられている。これまでの参加者は、昭和20年から平成19年までの累計で約120万人にも達している。
この勤労奉仕は、15名以上60名までの奉仕団を結成し、奉仕日(4日間)の半年ないし1ヶ月前までに名簿を提出して申し込めば、原則として誰でも参加することができる(詳しくは宮内庁のHP参照)。だから高校生や大学生などの奉仕団もある。
奉仕期間中の1日、やむを得ない事情がないかぎり、今も天皇・皇后両陛下から直接、お言葉をいただく機会がある。それは天皇と普通の国民が最も近づく貴重なチャンスと言ってよいだろう。
昭和天皇の御製
戦にやぶれしあとのいまもなほ 民のよりきてここに草とる
何だか泣けますね‥。
GHQの占領下、決死の覚悟で焼け跡となった皇居の清掃を申し出る青年団。それも、東京から遠い宮城県の村から。 そして、それに応える宮内省、侍従、陛下。
今回の震災でもそうですが、日本人は困った時ほど、人を助ける事に熱心な民族だと思いました。
で、今、66年前に皇居清掃を申し出た宮城県の皆さんが甚大な被害を受けているんですよね‥。
以上 転載終わり
1998
:
goro
:2013/02/01(金) 16:20:19 ID:nCo1DokU
以上で「皇室と国民」元侍従次長 木下道雄著の転載を終ります。
SAPIO 2009年2月11-18日合併号掲載
【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】
JUGEM(ジュゲム)ブログ 「たまねぎ通信」より転載 (写真付き)につきましては、
特に探したわけでもないのですが、どこからともなく出て来まして?
内容が良かったので転載させて頂きました。
「苟も民に利あらば、何ぞ聖の造に妨はむ」
いやしくも たみにくぼさあらば なんぞひじりのわざにたがはむ
神武天皇の御心そのままに私たち国民を慈しんで下さる
天皇陛下に感謝せずにいられません。
天皇陛下万歳
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