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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1783義春:2011/10/13(木) 00:17:03 ID:iu5Ar./Q
では、イワクラについて、書かせて頂きます。
弥山に登った際に、平石の上で寝たと云う事を記しましたが、
この時、自然と一体になる感覚がありました。

 これから書くことは全て私の感覚なので、間違いがあると思いますが、
古代のイワクラで祈りを捧げたり、自然と一体になる時の姿勢は
大の字に仰向けになっていたように思うのです。
座っていたら、空の上が見えないからというよりも、
背中が岩と接するから、より多く身体が自然と接するという方で、
そんな姿勢になっていたのじゃないのかな?と素朴に感じたのです。

 縄文時代の、役行者様の仰るところの【国津系時代】というのは、
言葉のネットワークに拠らない実体験が重視された時代だと思うのです。

 そして、このイワクラのあったところとは、甘南備山が多いのですね。
この甘南備山と云うのは、△の形をしています。
例えば、奈良の三輪山などは正にそんな形をしております。
(※ここに岩石祭祀についての記してあります、ご参考にhttp://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/nihonkokunai4.html

 △ということはピラミッドみたいな形になります。
△というものは本能的に安心する形であるとも聞きます。
なぜかと申しますと、黄金比というものがあって、それにそったものを
本能的に美しいと感じるようなのです。左右対称であるということは
バランスが整っているので、そこに神を見出したのかもしれません。

 そして、その△の上にある、イワクラの上で夏至と冬至に◎である太陽を拝む、
それは、私の私観ですが、世界の再生させようと祈ったのだと私は感じるのです。
この時、イワクラの上での彼等の姿勢は座っていたと感じます。
正対する事で、太陽に対する信仰、太陽信仰があったのだとも感じております。

 自然状態での神道については、このように私は感じております。

1784義春:2011/10/13(木) 00:18:39 ID:iu5Ar./Q
補足:△である甘南備山(=ピラミッド)に◎である太陽が交差する事で、
世界の再生がなると古代人は感じていたのかもしれません。

1785【iPad】「訊け」【未購入】:2011/10/13(木) 07:27:25 ID:D0Kb5yw.
>初心者さま
>みなさま

――――――――――――――――――――――――――――――――
(初心者さまご投稿>>1765
混同の1つは、自然状態と実相世界の混同であります。具体的にいえば、
天皇国日本の実現でありますが、これが実相顕現の文脈で語られている
ことに、非常な違和感を覚えるにいたっていたのであります。天皇国日
本の実現。これはむしろ、自然状態への回帰として考えたほうが、個人
的には理解できるのであります。

天皇国日本の実現を実相の顕現へと結びつけることには、抵抗があります。
それはむしろ、自然状態への回帰としてとらえるべきではないのかと、
個人的にはこのように考えます。自然状態への回帰と実相顕現との混同が、
教団内部でさけがたくおこなわれてきたような気がいたします。これを1
つの問題として提起いたしたいところであります。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 同種の疑問を感じておりました。ですので本件、非常に興味深く拝読中で
あります!いやーやっぱ、校長が戻ってこられると、楽しいわ(笑)

 いやー教団右派(や、ネツト右翼)の天皇観ですけども、なんかオカシイ
ですよね。なにか、昭和12〜20年頃の天皇観を、あたかも「絶対のもの」
「久遠不滅のもの」と見てはいないでしょうか。少なくとも私にはそう感じま
す。あの、かかとを揃えて真っ直ぐ手を上げ「天、皇、陛下ッ!(3秒)バン
ザー(1秒)−イ!!!」みたいな感じの天皇観・・・、あれのことです。あ
んなのは8年/2700年のスメラミコト像であり、雅春先生ご描写の天皇ではない
と思っています。

 初心者さまは「混同」という語を使用されておられますが、雅春先生の天皇
観とはもっと、ゆるやかなものだったと拝察しております。つまり、雅春先生
の天皇観を基にした「実相顕現」ならば、なんら問題はないと考えております。
 教団右派の問題は、雅春先生が描写していないところの「天皇」を「実相」
として拝んでいる点になるような気がしています。そして、そんな偽天皇(=
御教えに描写されていない天皇)を顕現させようとする運動であれば、初心者
さまの感覚の方がマトモに感じる次第です。

 また、ツラツラと参入致します。いやそれにしても、オモシロイやり取りに
なりそうだ(笑)

1786志恩:2011/10/13(木) 08:08:36 ID:psrFh/ZU
「古事記の理と、、、、宗教思想の光源の共有」より抜粋
   ○
 今までの宗教は、多くの場合「宗派の後継者にしたがう」生き方でした。
その人たちの生活ぶりを見て、疑問を持った人たちが、『自分独り』となって、『自分の疑問を見続け、、、』根源なる神と直結して、
問題を解決した時、
宗教組織の『中興の祖』となったり、
親鸞や日蓮などのように、新しく宗派を起こしていったのです。

それほど著名でなくとも、
このように真実の道を生きた人々はたくさんいます。その人たちは、
『マホメット』のように、具体的な神の言葉に従って生きたか、、、
『イエス』のように、すでにある聖典などの真髄に導かれ、人間や自然に直結して生きる神を自覚して、平凡な生活の中で隣人と睦まじく生きたか、、
『釈迦』のように「縁起の原理的由来を自問自答して神の子吾の本性』を悟り、地道に自分の生活を生きていったのです。

   ○
どうしたら上記のような人になれるかですが、人間は、「善悪の判断をして外価値にしたがうを」習性として持っていますが、このサタンの習性をすて切って、
「神の子人間の『内価値なる本能』に従う、、」という決断をして、「責任ある発言と行為をする」と,そのとき、突如、、。または、徐に、、その人(霊留・人間)
の認識レベルが変わって、その人の人生は、「みそぎはらいの周期(釈迦の言う縁起)の業」におわりがきて、「サタンの認識」は崩壊し、神の子の自由が顕れるのです。
栄光は、個人から「神と人類」に返されるのです。

日本人は、無意識に古事記の精神を生きています。したがって、日本には、諸外国から見たら軽薄におもわれるほど、種々な思想が共存しているのです。しかし、それは、
すべてを内包できる、実に重要な21世紀の思想なのです。

1787志恩:2011/10/13(木) 08:56:22 ID:psrFh/ZU
あれこれ古事記関係を載せてきましたけれど、
スナフキン校長は、スナフキン校長が「これが、自分は正しい」と思われる道を、歩まれたら、いいと思っています。
人は、位が高くなればなるほど、孤独になります。

でも、孤独は,悪では、ありません。人でなく、内なる神に向かうしかないからです。

どこの方向へ向かっているのか、向かったらいいのかということは、世界情勢を見てても、人間智では、ハカリシレナイことではないでしょうか。
「唯一の造化原理」に導かれる事を、心に描きながら、願いながら、、、思われことを実行に移されますように。

私は「神」というと、『神」という言葉を超えた慈愛に満ちた光のような、瞳のような、聖なる人格的な神を念じています。だから、光のオーラに包まれており、いつも、不思議と導かれています。
「神様、あなたの想いが私の想いでありますように。あなたの言葉が、私の言葉でありますように。私心がありませんように」24時間のながら神想観の中で、生きております。

私は、前にも言いましたが,庭で、30年前からEM菌を使って、家庭菜園をしています。秋野菜の収穫もおわり、いまからは冬に向かって、休眠時期の土作りに入ります.
冬の間の「寒肥」が、すごく大事でね、EMぼかしを
生ゴミに混ぜて作った肥料だけでなく、今までで一番効果があがったのは「馬ふん肥料」です。「EM自家製肥料に、馬ふん肥料、油かす、魚の粉、貝ガラの粉、」一緒に混ぜて、昨年寒肥を
畑だけでなく、あらゆる木々に与えましたら、今年は、春から晩秋まで、すごい収穫と、バラも、ピエール・ド・ロンサールなんか、去年は30くらいしか、開花しなかったのに、今年の5月には、
150も開花しました。みかんも、まだ苗木なのに、去年の10倍の200個くらい実ってるし、イチジクも100個も実りました。ブルーベリーもたわわでしたよ。

全ての木々が生き生きとしています。「馬ふん肥料」は、サラブレットのトレーニングセンターが、全国にありますが、そこが、馬ふんを捨てないで、杉チップと混ぜて,醗酵させて、
肥料をつくりはじめたのです。値段もさがっています。京都の「そのきや」が良心的な値段でいい肥料をネットで売っています。他にもあるでしょうけれど。ネットで買うと、家まで宅急便で
届けてもらえるのでありがたいですね。

牛ふんより、格段に馬ふんのほうが、いいですよ。牛は胃が4つもあり、反芻して食べて,栄養分が、そとに、あまり排出しません。馬は。胃が1つなので、栄養が、胃液の微生物とともに、
多く排出します。微生物の含有量が、多い。

まさに「微生物は、地球を救う」ですね。

1788志恩:2011/10/13(木) 09:03:35 ID:psrFh/ZU
書き忘れましたが、『馬ふん肥料』は、まったく無臭です。

1789初心者:2011/10/13(木) 09:44:24 ID:4IaAZAME
トキ様

ご助力の申し出を受けてくださいまして、ありがとうございます。なにをご助力いただくか、ということでありますが、その前に、ここでわたくしが何なそうとしているのかを、簡略に申し述べさせていただくことにいたします。

出発点は、生長の家は何をなそうとしているのか?という疑問です。具体的に何をしたいのか、それがじつは、組織を離れて20年以上もたった今もわからずにいるのです。

生長の家がなそうとしていることを明らかにする。これが、今回の対話の核心になるかとおもいます。わたくしは、ジジェクにならい、人類の意識のあり方を、自然状態と文化的状態にわけて考えることにいたしました。それはつまり、左脳と右脳が分離されているか、つながっているかによって区別される意識状態を問題にする、ということでもあります(ただし、左脳と右脳の問題は、ジジェクとは無関係です)。

そこでまず、自然状態における意識を「共同体意識」、文化的状態における意識を「個人意識」と名づけることにいたしました。ここでわたくしは、「個人意識の救済の不可能性」について述べるつもりです。個人意識は救済の対象にならない。これを、いくらかあやふやにではあっても証明することで、生長の家の目的が個人救済ではない、ということを立証いたしたいと考えております。

個人意識が救済の対象にならないとすれば、のこる対象は共同体意識ということになります。共同体意識とは、個人意識が発生する以前の人類意識と定義することができるとおもいます。生長の家が何をなそうとしているのか、を明確化するには、まずは共同体意識とは何かを明確化する必要があると考えます。

天皇制もまた、個人意識ではなく、共同体意識とつながっているはずです。雅春先生は、この点を強調されたかったのだとおもいます。つまり、生長の家が対象とすべきは、文化的状態ではなく自然状態であると、とわたくしは考えます。「実相」とは、文化的状態に向けたリップサービスであるような気がいたします。けっして救済されることのない個人意識をなぐさめるためのリップサービスであったという気がしてなりません。

自然状態は、実相という超越項を必要としない。そのような気がいたします。この意味で、生長の家がなすべきことを明確化するには、自然状態と実相世界を混同しないという課題を、まず最初にクリアする必要があると、個人的には考えます。

この場で、わたくしがなそうとしているのは、個人意識の救済の不可能性について言及することです。トキ様には、自然状態についての考察と理解を担当していただければと考えております。志恩様が引用しておられる、「栄光は、個人から『神と人類』に返される」場所が自然状態であると考えます。トキ様には、まことに勝手ながら、自然状態にかんするみなさま方のご意見をまとめていただき、生長の家が向かうべき方向性を明示していだければと考えております。

1790役行者:2011/10/13(木) 09:55:53 ID:5LmX6AEw
>初心者さま

 やはり、さまざまな問題が交錯し、織り込まれているので、収集が付かなくなってきました(+。+)アチャー。

 
 縄文、弥生、現代、近代、古事記、自然状態、文化的状態、ロゴス、天皇国日本、実相独在、幅広い解釈が可能な神道、個人意識、共同体意識などなど・・・歴史、哲学、宗教、組織論、天皇論、宇宙史、人類史などなど

 初心者さま!トキさんをはじめ、我々に指示してください。

 如何様にも、協力いたします。

 と、思案するや否や、初心者さまから指示のコメントがありました( >_<)

 折角、書いたので、投稿しますσ(^_^;

1791トキ:2011/10/13(木) 10:26:59 ID:.upYcm2c
>>1789

初心者様

 おはようございます。いやー、私が考える事は、「昼休に何を食べようかな」という程度の事です
から、自然状態という難しいお題を頂戴し、仰天をしております。(笑)
 しかし、ここには、頭の良い人がたくさんおられるので、皆様のお力を御借りしたいと思います。

 「自然状態」とは、生長の家で言うところの「現象の世界」の範囲内の話だと感じます。もし、そうなら
実相世界とは違う話になります。が、これは、広く議論をすべき事ですから、皆様のご意見をお願いしたい
と思います。もちろん、「自然状態=実相世界」という反論も、「個人意識の救済の可能性」を主張する
考え方も歓迎したいと思います。

 あと、初心者様のご文章を読まれて、疑問や質問がある方もどんどん投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

1792【クーデター】「訊け」【自分史に新しい一項w】:2011/10/13(木) 11:23:48 ID:MPQg3/HY

 トキさん司会なら、盛り上がりますね。

 いやー今、プリントアウトしまして(A4で18枚w)初心者さあご主張を
メインに拝読中であります。結論から申すにこれ、「非常に面白い論点」だ
と感じます。

 言葉の定義等を確認しながら(これに作業の8割を投下しながら)進めて
行きたいですね。「要するに、こういう意味」てな文章を随時まとめていけば、
広範な方が参加可能だと思います。

 期待しています。


余談(笑)

HNの意味(笑)

19●●年 小学校入学
19●●年 中学校入学
19●●年 高校入学
19●●年 大学入学
19●●年 入社
20●●年 結婚
20●●年 御教えに触れる
20●●年 クーデター首謀者にされる

1793さくら:2011/10/13(木) 11:50:30 ID:T/77sMGw
訊け前監督

「ねえ、初心者くん、もっと分かりやすくはなせないの?
…それにさ〜、哲学もいいけど、まず掃除当番サボらないでちゃんとやってよね!」

…同級生の男子なら、こんなことも言えるけど、校長だから、言えません。

初心者校長

覚えてたんですか、さくらのこと。
また戻ってきて、女子供は振り落としここも戦場と化すのかと思いましたが、みなさまとの対話を展開されるとのこと、ひとまずホッといたしました。

私としましても、心に漠然とあったテーマの方向性を示して下さったようで、感謝しています。ここは歴史や哲学の壮大な展開になりそうだし・・私にはハードなのですね。
自分のテーマには偏りがありますし、なんですがそれなりには考えたいのでお邪魔しております。

初心者さまは、和解なんて仰っていますが、これは、生長の家への挑戦状みたいな、ものですね、笑。
生長の家におけるダブルバインド状態の指摘、その矛盾の解消が起こった時に同一性が失われることは、生長の家存続の危機となるとも予感させる方向を示してもいます。
その矛盾の正体を明らかいして解消されるべきでしょか。それとも、内包したまま存続させるべきなんでしょうか。
この問題提示は、そんなことに向き合うことなのでしょうか、初心者さま。

私の中の一つには、宗教の組織化による、弊害や矛盾のこと。
生長の家においても、トキ様も時々ご指摘くださる状況も共感しておりますし、他、組織のことを聞いたり自分でも経験したことなど、正直、様々な面で違和感をぬぐえないものを感じてきました。そのことをまだ自分の中で昇華しきれていないのでそれはそれで考え中です。広く生長の家を見直していけることは、理解の助けになると思っているところです。


生長の家の「物質なし、現象なし、心のなし」の悟りの正体、この否定性が文化的状態へのひきこもりの必然であること、
またシェインズの二分心。人類の右脳と左脳の分離していた時代が自然状態であり、ロゴスの始まり、言語の発達による意識の発生が始まると、脳梁で結びついた人類の脳が、神の声を外の声として聞こえ始めた。そういう観点からの人類意識の変化。
これは、私にはちょっと画期的な認識になりました。
また、言葉を習得した人類は、必然的に空虚といえる否定性としてあらわれてくる意識によって認識された世界に存在せざるを得なくて、実在のモノや世界から切り離された、この否定性の世界では、現象ありもなしもただ人間の意識の選択の問題であること、など。

この否定性から、生長の家の「実相」への飛躍と、自然状態への回避、それも初心者さまは問題にされておられるようですが、
生長の家にとっては、ここが救いの核となるところで、生長の家信仰者には譲れない一点張、ということとなると、思われますが、また、このところもどんな展開になるのでしょうか・・・

1794さくら:2011/10/13(木) 11:52:18 ID:T/77sMGw
初心者さまは、シニフィアンの暴走と、その結果としての教義のイデオロギー化を、何をなそうとしているのかを、知らずになそうとすることからおこることを示されていたと思います。。
生長の家は、何をなそうとしているのか知らないでやっている、そのことによる教義のイデオロギー化を指摘されておられたように思います。

日本は、古事記が編まれた太古から明治のころまでかは、天照大神の子孫である天皇を宗家とする家族国家という認識が一般的だったと思います。「共同体の象徴的秩序が築かれ、そうした秩序にもとづいて、人々の関係性がきずかれていた」そんな時代であったと言えるのでしょうか。
大正デモクラシーの風潮で、個人主義、懐疑主義の流行から、一部の専門家の間で天皇を絶対的な神的存在とする説が始まったようですが、さらに天皇の神格化がすすむ契機となったのは、大戦による他国の君主制崩壊への危機や、共産主義国家に対する脅威であるようです。
集団の団結を強化するのに、その国の重要な文化とか宗教の伝統が利用されやすく、この時、神道や天皇崇拝が、戦争計画への国民統合に利用されました。
それが、今だ右翼などの暴走の一助となっているようですね。
集団の統合にシニフィアンの暴走によるイデオロギーが利用されることは、よく行われていることだと思います。

宗教組織というのもまた、特に、教義をイデオロギー化して、集団の統合に利用しやすい面がありますね。
教義は、信徒にとっては絶対なものなので、1人1人の意識は、「どの方向に自分たちがいる組織が向かっているのか」と、考えることにあるのではなく、その教義にあてはまった行為や思考に従うことを第一にするような気がいたします。
それが盲目的になると、カルトのような実態になっていくと思いますが。
組織の方向性は、絶対的な指導者であったり、中央に近い一部の人間であったりに託され、それは真理や教義に絶対的に正しいものに基づいている信念を植えつけられたりします。
また所属する組織への幻想や、同一化の意識の問題もあるとも思います。

生長の家は、様々な立場の人が、組織のあり方を考えていける、やはり素晴らしい開かれた宗教団体であると思っていました。

しかし、様々。今まで築かれてきた本部の体質、や今の状況には、正直、疑問をたくさん感じてます。

本来生長の家が、自然状態への回帰に向かっているなら、組織のあり方も、
「共同体の象徴的秩序が築かれ、そうした秩序にもとづいて、人々の関係性がきずかれていた」時代のあり方に、回帰していくのが本来の姿であったのでしょうか。
初期のころは、小規模だったこともあると思いますが、家族的な雰囲気にあったようですし、地方の方でそのような雰囲気も残っているとも思いますが、実際中心帰一の教えのもとに、中央集権的な?組織化が行われてきてます。本部の方針が、自然回帰への道をいっているとか、実相顕現を目指しているとは、言えないと思いますが。
この辺も含めて、色々矛盾はありそうな気がしています。

なかなか、読み込んで考えるのは、時間も限られてるし、大変ですね、。
理解がずれてたら、気が向いて時間ある方でもいたら、ご指摘ください。
・・わかりやすく、

で、これ昨日書いたんですけど、また、色々書き込みがあって読まないといけない、
展開早すぎる・・

1795役行者:2011/10/13(木) 12:08:49 ID:5LmX6AEw
 >トキさま

 自然状態が生長の家でいう現象世界というのは適切ではありませんねぇ!

 自然状態とは、内なる神の声を聴いていた状態ですね。
 八百比丘尼さまのコメント(>>1775)のような世界と存じます。
言葉ならず、コトバの満ち溢れた世界!真理の言霊、雨降らす!状態ですね。


 ですから、テーマは共同体意識(自然状態)を実現化するにはどうしたらよいか?
ということです。
 御心、天になる世界、地にも成らせたまえ!ということです。

 かつて生長の家が生政連活動をされたのも、共同体意識の改革です。天皇国日本の実現と命がけで励んだのも共同体意識の改革です。

 ですから、これは、これは愛国運動以上のビジョンになるかもしれぬ!ということです。

 トキさまは、生長の家世論の代表的発言をなされていると思います。
 ですから、疑問点はドンドン、投げかけた方がよろしいかと存じます。

 個人意識の救済につきましては、まもなく私が、投げかけます。初心者さまに先を越されるやも知れませぬが・・・(#^_^#)

1796トキ:2011/10/13(木) 12:28:23 ID:.upYcm2c
>>1795

 了解しました。失礼しました。
なかなか難しい問題ですから、私もアップアップしております。(笑)

 では、みなさま、忌憚のないご意見をどんどんお願い申し上げます。

1797義春:2011/10/13(木) 12:47:03 ID:SjZg29/2
>>1794
さくら様
こんにちわ。
>展開の早さ
まぁ…それだけ意味があるのだと私は感じております。
ただ、展開が早くて、さくら様にお返事返せじまいで申し訳なく思っております。

トイレからなので、また!

1798役行者:2011/10/13(木) 12:53:54 ID:5LmX6AEw
 トキさま!私の方こそ、失礼をばいたしましたσ(^_^;

 つい感情的になってしまいました。

 生長の家の目指すべき方向を沈思黙考するということでしょう。

 それは、自然状態のなかにヒントがあるのでは!ということかと・・・あの >>1775 のような世界を実現化するには、どのような運動を展開すればよいのか?難題です。゚(゚´Д`゚)゚。

1799さくら:2011/10/13(木) 12:56:22 ID:T/77sMGw
義春さま

寸時の時間をぬって書き込み下さった義春さまの、ご愛念に、
感謝いたします…。
義春さまの書き込みもいつも理解の大きな助けとなっておりますので、
これからのご活躍期待しております…まあ仕事や、睡眠!の時間を、大切にされながら…。

私は何処からとは申しませんが、笑、ひとまず休憩のひと時に。

1800義春:2011/10/13(木) 13:47:17 ID:SjZg29/2
>>1799
さくら様
有り難うございます。これからも日々研鑽を積んで参ります。

それで真言について時間の許す限り書いてみたく想います。
真言は同じリズムで繰り返し唱えていくものだと私は理解しておるのですが、
同じリズムで発声音にするので、体内の脈拍や血流等にも、その影響が出てくると感じております。
このリズムが自然の中にあるリズムと同じであるなら、体内も自然と同じ音が流れていく筈だと感じております。
それがひいては自然と一体化していくだろうとも感じます。

だから、自然状態の神道のイワクラ(=ピラミッド、太陽信仰)と真言とは身体の外と内、両面から、
自然と一体化するというものであろうかと存じます。

ただ、それが全て無条件に善いものではなく、例えば山に於いても、さほど悟ってないモノがいます。
私自身、弥山でその様なモノを感じて逃げました。トキ様のご友人も恐らく、その種のモノに憑かれたのでしょう。
その様なモノに憑かれない為には、どうすべきか?それは、山(=神)に対する尊敬の念かと存じます。
慢心し、他利の念なく、私利私欲に走る事が、その様なモノに出会した時の注意力を失わせ、それで憑かれるのかと存じます。

1801役行者:2011/10/13(木) 14:42:45 ID:5LmX6AEw
>1790

誤植

 収集 → 収拾

でした。失礼しました。

1802トキ:2011/10/13(木) 15:24:39 ID:.upYcm2c
>>1800

 どうも失礼をしました。でも、その発狂した友人は、今は音信不通です。
治っていればいいのですが。

 他の皆様のご投稿もお願いします。

1803460:2011/10/13(木) 16:08:13 ID:v2PhadaI

さくらさま、かぴばらさま、前をしつれいします。横切ります。

初心者様は点数は多くないけれど、わたし自身が生長の家での体験を整理するのに使っているのと同じラベルを使う人だと
わかり、やはり話しかけたくなりました。

生長の家における個人意識と共同体意識のダブルバインドは、果たして、適度にゆるめられるのでしょうか。(完全に解い
てしまったら・・・)みせかけの平等の場、集団内に力関係が存在し、強者と弱者の双方がそれをはっきりと許している場
合、強者側が常に自分の心(顕在意識だけでなく、無意識も含め)を制御し続けないと(みな神の子という点で平等という
原点に戻ってこなければ)、葛藤は簡単に起こると感じます。弱者側は強者のモラル頼みになりますから、心もとない、で
す。弱者側に置かれても、より健全な家庭に育った人は、危険を回避する術を習得している(主に家庭内で)から安全でし
ょうが…。

>1789 4段落目
初心者様の勇気にエールを送ります。
ところで、初心者様が、発言されている内容>>1730について、差し支えなければ参考文献をお教えいただけないでしょうか。

(追:さくらさま。ざっくりとお教えすると、生長の家にいたとき受けとり損ねたもの、です)

1805初心者:2011/10/14(金) 05:48:07 ID:4IaAZAME
460へ

参考文献は、とりあえず「ない」ということにしておきます。それというのも、ジジェクのいう自然状態や文化的状態と、あたしのいうそれとは、定義からして、違っていて、しかも#1730の文面は、「あたしが定義する文化的状態へのひきこもり」によって引き起こされた「個人意識」という現象を、生長の家でこれまで説かれてきた「現象なし」の教えへと、いささか強引なやり方で結びつけたものであり、したがって、その文面の大半は、あたしのオリジナルの作文であり、参考文献は「ない」ということになってくるのであります。

このように、参考文献は「ない」ということになるのでありますが、個人意識と共同体意識のダブルバインドを解くにあって、カギとなるのが、ヘーゲルであると、あたしは勘ぐっておるのであります。まずは、そしてできることなら、竹田青嗣の『人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想』のなかの第2章「絶対知と欲望 近代精神の本質」でその概略が示されている、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル解釈に、まずは目をとおしてみてください。参考文献をひとつあげるとすれば、これになるとおもいます。ここが、おそらくは出発点ですね。

1806さくら:2011/10/14(金) 06:08:17 ID:T/77sMGw
460さま

ダブルバインドの状況は、危ういバランスの元で、その世界を保っているのかも知れません、その世界を存在させるために、まだ必要なことも、あるかもしれないですね、

しかし、矛盾に気づいた人間は、危ういバランスには、絶えず不安や葛藤を感じることになります。
やはりこのダブルバインドの状況を直視し、方向を選択していくことが、自ら真の姿に近づくことなのかな…とも思います。


強者側が常に自分の心を制御し続けない、といけない状況も、緊張状態に置かれるような感じですね、

弱者は、そとや、ほかに依存する心があれば、常に被害者であるより他はないような気がします。


…なんだか、自分を守るために、危ういバランスを保っていたような、そんな頃を思い出しました。

P.S.
わたしはまだ謎めいているあなたの中に、自分の一部を見ているような、見たいような気がしていのかもしれません。

あなたのこみ上げる想いも、少しずつ、周りに素敵な化学反応を起こしながら展開をされると、良いですね。

1807初心者:2011/10/14(金) 08:01:17 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>その矛盾の正体を明らかいして解消されるべきでしょか。それとも、内包したまま存続させるべきなんでしょうか。
この問題提示は、そんなことに向き合うことなのでしょうか、初心者さま。

矛盾を、その正体を明らかにすることで解消すれば、組織が解体へと向かうことは避けられないかもしれませんね。組織とは、それじたいが矛盾を内包することによって成り立っているともいえそうです(公益のために存在するはずの企業が、悪事をはたらかざるを得ないというのが、その典型であるのかもしれません)。

かりに、宗教組織の神秘性が矛盾によって維持されているとすれば、矛盾の解消とともに神秘性も消え去り、組織の解体がはじまる可能性はあるとおもいます。

キリスト教がかかえる矛盾とは、永遠無限の存在である神が、キリストという、かぎられた時間、空間的存在として出現したという矛盾であるのかもしれません。こうした、理解不能ともいえる矛盾が永遠につづくことで、キリストの神秘性が持続され、キリストは、人々の信仰の対象でありつづけることができるのでありましょうね。

生長の家もまた、これまで述べてきたような矛盾を内包しているということがいえそうです。生長の家には、現象と実相という2項対立があり、この対立によって人々の自我は引き裂かれ分裂します。こうした自我の分裂は、人が現象世界に生きつづけるかぎり、永遠に埋め合わせることのできない矛盾であるはずです。そして、この矛盾をかかえつづけることによって、生長の家の信仰は成り立っているということがいえるはずです。矛盾が解消したとき、それが信仰の終りのときであるのかもしれませんね。

>この否定性から、生長の家の「実相」への飛躍と、自然状態への回避、それも初心者さまは問題にされておられるようですが、
生長の家にとっては、ここが救いの核となるところで、生長の家信仰者には譲れない一点張、ということとなると、思われますが、また、このところもどんな展開になるのでしょうか・・・

そうですね。文化的状態へのひきこもりによって、避けがたく生じた「否定性」から、一気に「実相がある」という超越項への飛躍がなされたというのは、ひとつの問題点として考察されるべきことと考えます。

自然状態からのひきこもりによって生じた「否定性」、それはつまり、物質はない、肉体はない、心もない、という言葉で示される「否定性」でありますが、これがたんに、ひきこもりの結果であるとするなら、問題とすべきは、ひきこもりがはじまる以前の状態とは何であったかということでだけであって、「実相がある」という方向へと向かわなければならない理由は、どこにも見いだすことができないはずなのであります。

これから望まれる展開とは、「現象なし」とする否定性と、「実相がある」とする肯定性のあいだに、これまで語られることのなかった新たな概念が組み込まれるような展開であろうかとおもいます。

この新たな概念こそが自然状態であるはずなのですが、はたしてこれから、どのような展開が待ち受けているのでありましょうね。これまでどおり、「現象なし」から「実相あり」の飛躍をよしとする、そうした主張が大勢を占めるのは確実な情勢であります。

1808復興G:2011/10/14(金) 12:32:21 ID:yhDBe2kY

初心者様、みなさま。

ご無沙汰しておりました。
今、ボランティアで打ち込んでいる仕事があって、昨日も昼から夜遅くまで出かけていました。

で、昨日の夕刊を今日になってから読んだのですが、その日経新聞夕刊のコラム「明日への話題」欄に、「いのちの原体験」と題した千葉大学教授の古在豊樹氏のエッセイが載っていました。自然状態と実相との関係などについてヒントとなるようにも思われましたので、引用させていただきます。

* * * * * * *
   いのちの原体験
千葉大学教授  古在 豊樹 

 今回は、約60年前の体験を、記憶を頼りに書くので、細部は不確かな面がある。庭の山椒の木の葉の裏にアゲハ蝶が産み付けた卵があるかどうかを、初夏を過ぎると良く探した。その卵から幼虫が這い出て、葉を食べながら日に日に大きくなる。
 ある日、動きを止めて、口から糸を吐き出し、自身を葉に固定してサナギになる。じっと動かずに何日かが過ぎ、皮膚の色と透明感がかすかに変わると、翌朝に羽化する。次の日、日の出前に起きて、そのサナギの微妙な変化に魅入る。サナギの背中が割れて、折りたたまれて濡れた羽根が出てくる。その羽根が乾きながら広がる。広がった羽根を何度か動かした後に、どこかに飛んでいく。この数時間、その美しさに息をのみ、ただただ感動している。セミやトンボの変態でも同様な体験をした。この体験はいのちと美の原体験と言って良いかと思う。
 人生訓にもなった。人に好まれない幼虫(イモムシ)状態の時、いつか蝶になって飛んでいる日を夢見た。引きこもりがちの時、今の自分はサナギ状態だが、これは成虫になるための準備期間だと思えた。
(中略)
 右に述べたような、いのちの尊さ、不思議さ、美しさを、先行き不透明な21世紀を今から生きる子供たちに体験してほしいと願っている。この体験こそが、人類が自然生態系と調和的に生きる基本だからだ。
* * * * * * *

 卵が孵ってイモムシになり、イモムシが変態してサナギになり、それが羽化してアゲハ蝶になる。
 それは自然状態そのものでありますが、「アゲハ蝶」というのが実相、つまり神のデザインであり、神の心動き出でてコトバとなったもの、理念である。卵からアゲハ蝶になる過程が現象である──と考えられるのではないかと思いました。

>1765(初心者様)
>混同の一つは、自然状態と実相世界の混同であります。具体的にいえば、天皇国日本の実現でありますが、これが実相顕現の文脈で語られていることに、非常な違和感を覚えるにいたっていたのであります。天皇国日本の実現。これはむしろ、自然状態への回帰として考えたほうが、個人的には理解できるのであります。
天皇国日本の実現を実相の顕現へと結びつけることには、抵抗があります。それはむしろ、自然状態への回帰としてとらえるべきではないのかと、個人的にはこのように考えます。<

──「天皇国日本」というのは古事記神話では
「豊葦原の瑞穂の国は是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」という御神勅として表現されているものであり、本来、人為的なものではなく、神のデザインである。それはアゲハ蝶と同様、自然状態と言えるものであって、それを谷口雅春先生は「日本の実相」とも表現されたのである、と私は思いました。

1809「訊け」管理人:2011/10/14(金) 12:36:36 ID:MPQg3/HY

>復興Gさま

 イヨッ!!待ってました、大統領(笑)

1810さくら:2011/10/14(金) 12:45:23 ID:T/77sMGw
>1807
初心者さまへ

丁寧な返信恐れ入ります。

組織型宗教が、矛盾を内包することによって維持されていて、それが信仰の対象となる神秘性に支えられているとすれば、その矛盾は明らかにされるべきだと、私は思います。
組織や宗教団体に神秘性が存在し、神が働くというような幻想が、排他的思想や内部紛争による分裂や戦争などの状態を生み出す一面があると、感じているからです。
また、宗教的目的と組織的目的の同一視は出来ないのではと思われますが、団体の中で活動する人の意識の中では、混同されやすいのではないかとも思っています。
組織というのは、相対化して絶えず改革がおこなわれるべきものですが、そのことと信仰的妥協(惰性に流されることや自我の葛藤、矛盾内包することなど・・)は本来別であるはずなのです、内部の人間は、絶えずその葛藤にさらされているような状態に置かれているのでないか、とも感じています。
組織と信仰が結びつくときの不合理性は、まだ他の観点からも、根深いのではないか、と感じています。



「問題とすべきは、ひきこもりがはじまる以前の状態とは何であったかということでだけ、」
との初心者さまが、示して下さっていることに対して、
皆さまが、自然状態とはなんであったか、ということを示して下さっています。

果たしてこの状態を、生長の家として実現する方向へ進むことができるか、ということや、
「「現象なし」とする否定性と、「実相がある」とする肯定性のあいだに、これまで語られることのなかった新たな概念」を、丁寧に理解することが大切の様な気がしてます。
対話を通して、新たな展開が見えてくればよいですね。

また、「個人の意識の救済の不可能性」についても、書いていただいております。
これは言葉だけで考えると誤解をしてしまいそうですが、言葉を習得した人類が生きている世界や、否定性の世界に生きることとはどういうことかの認識があって、理解できることかと思っています。

1811志恩:2011/10/14(金) 18:08:40 ID:psrFh/ZU
「現代に生きる古事記研究会」・「古事記物語」より

〜天皇制は、天皇のためでなく国民のために必要だった〜

天皇国のように、人民の利益をもって政治の鏡とする(相手の利益を考える)とき、主権在民の理想は、国民至福の思想。
もともと、古事記の理想は、民主主義です。自分の勝手で良いというのではありません。「人々が歓喜(よろこ)んで生活し、負い持つ業をたのしめるような政治』
であるならよいのです。

それは、皆が同じ思想や考え方になるのではないのです。種々の考え方のあることを大切にするのです。反対の考え方の存在することを十分l考慮して、神集いをし、利己心を捨てて神議り(かみはかり)に議るのです。
これは、神代からのことですから、それを神習いしていくのです。

このような、天皇制は日本以外にはありませんでしたので、外国の思想でなければ進歩的でない。と考えている学者や知識人、政治家には理解し得ません。しかし、人類のあらゆる思想が出尽くした今後、人々は、天皇制が、天皇のために必要だったのではなく、
国民のために必要だったのだ。と気ずくのも間近かでしょう。


〜天皇の資質〜

天皇の資質には、英雄、武力、霊能力、統率力、聖哲の徳、天才的才能等は、いらないのです。
むしろ「神を畏れ敬う心、下々の人たちの生活や心を思いやる」というきもちがあるか。平凡でいいから、「人間らしい真心や誠実さがあるか」「国民の一大事には、何時でも、財産はおろか、自分の生命も投げ出す母性本能のような天皇」であるかが問われるのです。

「神ながらなる天皇国日本のあり方」が、古事記の理(ことわり)と精神として暗示されているのです。思想の中立が、天皇国の神道なのです。

それほどに厳しい天皇家存在原理の精神があるからこそ、長い歴史の間、政治家や武力者など幾多の権力者が、天皇の座を奪おうとしても、、、、奪えないで今日まで続いてきたのです。

古事記・日本書紀に流れる精神では「天皇は、絶対である」とは,書かれておりません。
それどころか、間違いは隠さず述べて戒めとしています。

、、、、、、人民の声は,神の声、、、雄略天皇は、人民ことごとく「徳(おむおむ)しく有(ま)します天皇なり」と言っております。

1812復興G:2011/10/14(金) 18:21:21 ID:yhDBe2kY

さて、アゲハ蝶(の理念)が実相であるとします。

では、卵やイモムシのときには「アゲハ蝶」はないのかと言えば、すでに卵やイモムシの時にもアゲハ蝶は「ある」のであります。それは眼には見えないけれども、卵の細胞のDNAにもその設計図が記録されてあり、やがて時が来ればその「すでにあるもの」が眼に見える形に展開して現れてくるのであります。

すべて現象界に現れて見えるものは「結果」であって、それには「原因」があります。その第一原因者を神あるいは実相というのであります。

前述の<1808>で、
「卵が孵ってイモムシになり、イモムシが変態してサナギになり、それが羽化してアゲハ蝶になる。……「アゲハ蝶」というのが実相、つまり神のデザインであり、神の心動き出でてコトバとなったもの、理念である。卵からアゲハ蝶になる過程が現象である」

と書きましたが、本当は、形に現れたアゲハ蝶はもはや実相ではない。それは現象であります。卵の時から、現れて見えなくても既にある神のデザイン、アゲハ蝶の理念が実相であります。

現れているものはスクリーンに映し出された映像、テレビ画面に見える映像と同様、影に過ぎず、本当にあるものではない。だから「現象はない」というのであります。

ですから、「卵が孵ってイモムシになり、イモムシが変態してサナギになり、それが羽化してアゲハ蝶になる」過程を「自然状態」というならば、それはすべて現象であります。

その意味で「自然状態」と「実相」を混同してはならないと思います。

1813復興G:2011/10/14(金) 18:28:10 ID:yhDBe2kY
↑前記<1812>は、<1808>のつづきになります。

1814志恩:2011/10/14(金) 18:59:22 ID:psrFh/ZU
〜悪しき天皇もいた〜

天皇国日本の理想は偉大でも、歴代の天皇がすべて、理想の天皇というのではありません。古事記や日本書紀には、「この天皇、はなはだ悪しき天皇なり」ということは、じつにハッキリと書き記しております。
また、天皇御自身、外国皇帝の権力的制度に習おうとした事実も多い。古事記は、この問題を強く意識して編纂されております。これは、大変重要なことなのです。

たとえば、電気は冷暖や動力を作って、人間を幸せにしますが、同じ力で火災をおこし、様々な事故をおこして人間を不幸にもします。
といっても、電気の理想に変わりはありません。問題は「その理想をどのように解釈して使うか」という、心の姿勢です。

「万世の為に太平を開く」この言葉は、「太平洋戦争という、大変代価を払って得た」天皇国日本の理想です。
むしろ、人類協補・共存をめざす、理想の合い言葉でしょう。

 ますらおの 悲しき命 積み重ね 積み重ね護る(まもる)大和島根は

昭和天皇が常に戦争の責任の十字架を背負って、毎日をお過ごしになっている大御心が、その御歌を通して、切々と感じられるのです。
天皇家には「人々の不幸は、天皇の責任」という理想があります。

責任というのは、口で「私の責任です」とか「死んでお詫びします」というほど簡単なものではないのです。
生き恥をさらしても、命の限りを生きて、誠を尽くし、負い持つ業を為し尽くすのです。

私達が問わねばならぬのは、「戦争責任は誰にある」ではない。
「どのような考え方が戦争への道なのか」を明らかにし、「自分の生活をつつしまなければ ならない」のです。
これのみが、世界の国々に、そして、子孫に対して 本当の責任ある行為となるのではないでしょうか。

1815神の子さん:2011/10/14(金) 19:01:00 ID:???
http://14goukan.xxxxxxxx.jp/menu/

1816志恩:2011/10/14(金) 19:03:47 ID:psrFh/ZU
復興G様、お久しぶりですね。いらしてくださって、とてもうれしいです。
復興G様の途中に、すみませんでした。
私は、ここで、とめます。
復興G様、続きを書いて下さいね.

初心者様の、お知りになりたい重要なことを書いておられます。

1817志恩:2011/10/14(金) 19:36:03 ID:psrFh/ZU

 私は、初心者君の難しい質問には、とうてい答えられませんから、
 初心者君のキライな、【天皇】のことを書きました。

「そんなこたぁ、あたしは、聞いてねえんだよ」と言われそうですけれどね。

「好き嫌い言うんでない。
 たまにはキライなもんも、食べないと、栄養、偏る〜んだよ。」

 私の方が,多分年上だから、たまには、えばれる〜〜んだよ。

1818山ちゃん1952:2011/10/14(金) 20:32:28 ID:6MMzJilY
志恩様

すいません、ご無沙汰致しております。
「悪しき天皇」という記述で少し反論致します。
これは『古事記』の記述で「雄略天皇」の事を述べています。
それは、一言主神と雄略天皇とは敵対関係にあった為に「甚だ悪しき天皇」と
記載されております。
反対に『日本書紀』では一言主神と友好関係にあったから「徳の有る天皇」と
民衆は言っております。
それの真意はわかりませんが、武烈天皇も同じく「悪しき天皇」の如く書かれています。
ただ、雄略天皇は和歌に優れていたのです。
万葉集の冒頭歌など有名です。
その歌にはそんな残虐性は見られません。多くの歌を詩っています。
とりわけ有名なのが

 夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜(こよい)は鳴かず い寝にけらしも

ではないかと思います。

私もこの「雄略天皇」を訪ねて「葛城の一言主神社」に何回も行きました。
また「雄略天皇」の住まいとされていた泊瀬朝倉宮にも行きました。三輪山の
麓にあり長閑な景勝地であります。

勿論、「陵」にも行きましたが、交通量の多い幹線道路の横にあり、しかも廻り
は住宅地で密集している。

さて、結論をもとめられれば、作り話のような気がしてなりません。「武烈天皇」
もそうであったように、作り話である事が多いです。

「私のブログ」で詳細を記入しましたので読んで下さい。

最後に「雄略天皇」は葛城族=鴨族です。現在その人は歴史上には
消えてしまっています。
ただ地名として沢山残っています。京都の加茂郡とか全国にあります。
そうした事と何か関係があるのか詮索しても面白いと思います。

1819山ちゃん1952:2011/10/14(金) 20:38:30 ID:6MMzJilY
トキ様

大本の私の駄文を読んで頂き感謝申し上げます。ただ書くことが多いので反対に
纏まりがついておりません。
まだ、暫くは書こうと思っています。どれだけ書けるかはわかりませんが、
「しつこく」書いて行こうと思っています。
また、宜しくお願いいたします。

1820志恩:2011/10/14(金) 21:00:04 ID:psrFh/ZU
山ちゃん1952様

ご無沙汰いたしております。山ちゃん1952様は、天皇関係には、特に精通されておられますものね。
このたびは、反論と訂正を,有り難く存じます。

雄略天皇を訪ねて「葛城の一言主神社」というところへ、何回もいらっしゃったり、お住まいとされてたところまで、いらしたとは、
すごいですね。雄略天皇は、和歌に優れたお方で、鴨族だったのですね。

ほんとにお詳しい!!

山ちゃん1952様のブログは、ときどき覗いて、勉強させていただいておりますが、また読まさせていただきます。

お気ずきのことが、ありましたら、また教えてくださいね。
よろしくおねがいします。ありがとうございました。

1821トキ:2011/10/14(金) 21:03:17 ID:AMrVyEQY
>>1819

山ちゃん1952 様

 先日は、私が至らないために、山ちゃん1952様に不愉快な想いをさせてしまいました
心から、お詫び申し上げます。すみませんでした。再び、ご投稿下さり、心から感謝
申し上げます。ありがとうございました。

 京都の鴨氏については、葵祭の関係でも有名ですね。実は、仕事の関係で付き合いのあった
方が、この鴨氏の子孫の方でした。具体的な氏名は申し上げられませんが、年賀状のやりとり
はしております。宇治にはたまに行くのですが、京都市内に行く時間がなく、会えないまま
ですが、懐かしく思いました。

 いつも博学なご文章で、とても勉強になります。ご期待申し上げます。

 どうも、今後とも、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1822とは:2011/10/14(金) 21:31:19 ID:r8yYlhIk
『一つ』に止(とど)まることであります。即一(そくいつ)であります。至大小即であります。宇宙の御親とその子と、大神と臣下と、『全体』と『個』とが即一しているーーこの深厚なる哲学を理屈を云(い)はずに、ただ『まこと』と云う言葉で表現した日本民族の優秀性は以(もっ)てしるべきであります。天之御中主神(あめのみなかむしのかみ)は宇宙に充ちていらっしゃって、同時に『御中(みなか)』であります。遍在即御中であります、遍在を見ないで、ただ『中心体』としての役割だけを観ますときにはそれは人体に於ける脳髄のように機関となります。『全個即一』『遍在即御中』『全圓(えん)即中心』これが判らないために今迄国体明徴に不充分なところがあったのであります。天之御中主神の『まこと』のすがたが個生命に発現して参りまして、そして吾々は『忠』の心といふものが湧き起こって来るのであります。『忠』の心は天邇惟神(てんにかんながら)のものであって、決して吾々臣下が勝手に発明した心でも、勝手に計らうて出来た心でもないのであります。御親(みおや)の神の大御心(おほみごころ)が吾々に現れて、それが成就しているところのすがたが『忠』でありますから、此の『忠』の心は宇宙を包容する意味の○と、その真ん中に生まれた一点である子供とが一つになっている心 ◎(本文には円の中に黒丸で記載表示)であります。◎ 此の形を見ておりますと、全個即一、遍在即中心、全圓(えん)即中心の意味がハッキリしてまいります。『忠』を尽くす時、宇宙の真理が吾々を通してそこに実現し成就し行ぜられる最大の真理行でありますから、吾々の生活にとり、こんな素晴らしい出来事はないのであります。吾々はその時にもう既に肉体たるところの、小さい存在を超えたところのものになっている。だから日本軍人が戦場に於いて戦死する時には『天皇陛下万歳』と唱えて・・・・いや臨終速やかにして唱える暇(いとま)がなくとも同じことであります。『天皇陛下万歳』の心であって、天皇陛下の大御(おほみ)いのちと一つになって久遠の世界に飛び込んでしまふのであります。是(これ)が『天皇陛下万歳』であります。つまりその時臣下なる吾々臣民の一点が、宇宙大のものと一つになり、宇宙大の真理が吾が身の一点に実現し成就するのであります。凡(およ)そ『価値』とは真理が其処に実現することであります。これにも優(ま)して価値あることはない。吾々が幾ら金を儲けても、事業に成功しても、宇宙の生命が其処に成就しなかったら、そんなことは小さな価値であります。それは経済的価値とか、社会的価値とか云ふ相対的価値しかないのであります。ところが此の『忠』は天之御中主神、大宇宙そのままのいのちが『個』を通してそこに成就するのでありますから、それは素晴らしい価値実現であり、価値成就であります。ですから、その時、法悦極まりなき状態がそこにあらはれて来る。天皇陛下万歳の法悦であります。是は日本の宗教である、日本本来の宗教である。而(しか)も本来の宗教は決して外国の宗教と衝突するものでないのであります。

天之御中主神は、

1823初心者:2011/10/15(土) 05:33:24 ID:4IaAZAME
復興G様、対話にご参加いただきありがとうございます。

とりあえず、ここでのわたくしの取り組みについて、ご説明いたしたいとおもいます。

もしかりに、文化的状態というものがあるとすれば、それはどのような状態であるのかが問題であります。その状態を、できるだけ純粋なかたちで理解し、その理解について、これもまた、できるだけ厳密に考察すべきであると考えております。そのためにも、この問題を、現象世界と実相世界との2項対立に安易に持ち込むことには消極的とならざるを得ないのであります。実相という超越的概念を安易に持ち込めば、この問題は解けなくなるおそれがあると考えます。まずは、文化的状態とはなんであるかを理解したうえで、それから超越項を持ち込むことの妥当性を吟味すべきであると考えます。

ところで復興G様は、自然状態と実相世界の混同が、これまで、生長の家でなされていたとお考えでしょうか、それともそれはなかったとお考えでしょうか。あるいはそもそも、自然状態というものはない、とお考えでしょうか。もしよろしければ、お考えをお聞かせいただければとおもいます。

1824初心者:2011/10/15(土) 06:00:02 ID:4IaAZAME
「ロンドンの霧は、詩人が認めたときにはじめて存在に入った」とはどういうことでありましょうか。じつは、この言葉にこそ言語の本質があらわれているのであります。事物は、言葉によって認められなければ存在することはない、言葉によって認められてこそ、事物は、はじめて存在に入ることができる、ということをロンドンの霧は示してくれているのであります。

言葉は、モノにつけられた名称であるとする考え方があります。世にいう、言語名称目録観(ノーマンクラチュール)であります。言語名称目録観とは、人間がモノを見て、そのモノにひとつずつ名前をつけていったとする考え方です。

ソシュール言語学は、こうした考え方を否定します。言葉はモノにつけられた名称ではない、と考えます。では、名称でなければ、言葉とはなんなのでしょうか。

言語名称目録観では、言葉をひとつの記号とみなします。記号とは、それが指し示す意味内容がきまっているということです。地図記号は、工場、学校、病院といった意味内容と分かちがたくむすびついていて、それが指し示す意味内容は、誰が見てもわかるように、つねに1対1の関係で結びつけられています。

人が山を見て、それに「ヤマ」という名前をつけたとすれば、「ヤマ」という言葉は、実在の山を指し示す記号になります。これが言語名称目録観であります。

ソシュールは、言葉は、そうした意味での記号ではないと考えます。「ヤマ」という言葉がつくられる以前には、「山」という事物は存在しなかったと考えたのです。「山」という事物が言葉以前に存在しないとすれば、人が山を見て「ヤマ」と名づけるのは不可能であり、言葉は事物にたいしてつけられた名称ではない、との結論をくだすにいたったのであります。

「ヤマ」という言葉がなければ、人は山を見ることはではない、と考えるのがソシュールの言語学です。詩人がその存在を言葉として発しなければロンドンの霧は存在しなかった、ということと、意味的にはおなじであると考えます。

人がほんらい的に知ることができるのは、事物と事物のあいだの関係だけであり、関係によって生じる差異だけであります。あれとこれとはちがっている、ということを、人は知るだけであります。そしてこの「ちがい」を言葉として表現しないかぎり、そこに具体的な事物があらわれてくることはない、ということでもあるのです。スモッグと霧とのちがいを、詩人は見事に言い当てたということなのでありましょうか。

山と空のちがいを人は知ることができます。しかし、このちがいに「ヤマ」、「ソラ」という名称をあたえないかぎり、山も空も、存在の世界にあらわれてくることはないのであります。そこにはただ「ちがい」があるだけで、その「ちがい」がなんであるかを、人は、知ることも言い当てることもできないのであります。

では、山と空の「ちがい」を「ヤマ」、「ソラ」と言い当てたときに、山や空といった実在が客観的世界にあらわれてくるのでありましょうか。答えは「否」であります。あらわれてくるのは、人の意識のなかだけなのであります。「ヤマ」、「ソラ」と言い当てたときに、人の意識のなかに、山や空のイメージが喚起され、それがまるで、客観的世界の具体的な事物として観ぜられるようになるのであります。

ロンドンの霧は、詩人がその存在を認めたときに、人々の意識のなかで印象されるようになった。印象されるまでは、それは存在ですらなかったのであります。

1825役行者:2011/10/15(土) 07:34:37 ID:eX43rT..

 合掌 

 ここスレッド2は、多岐にわたり勉強になります。偏在即御中の話、
山ちゃん1952さまの雄略天皇と一言主神の謂われなどなど・・・
役行者の故郷、葛城の氏神さま、一言主神社にはわたしも足を運ばせて頂きました。
役行者ゆかりの場所は、縄文の香りがし、なぜか心が落ち着きます。安心するのです。

 自然状態とは、このような自然の囁きに耳を傾けることのできる環境のことを云うのでしょう。


 復興Gさま、お久しぶりです。ご登場をお待ちしておりました。
 初心者さまがすでにご挨拶されていますが、
私からも所見を述べさせて頂きます。

 >ですから、「卵が孵ってイモムシになり、イモムシが変態して
サナギになり、それが羽化してアゲハ蝶になる」過程を「自然状態」
というならば、それはすべて現象であります。

 その意味で「自然状態」と「実相」を混同してはならないと思います。<


 とご丁寧に、例を挙げながらのご説明、勉強になりましした。
まさしくそのとおりで、異論はないのですが、
いま、ここで初心者さまが提起しておられることを振り返りますと、
 自然状態とは、内なる神の声を聴いていた状態と定義していると思われます。定義の違いですね。
 言葉ならず、コトバの満ち溢れた世界!真理の言霊、雨降らす!状態ですね。
 その状態をいかに、実現化してゆくか?だと思うのです。

 ですから、ノーベル化学賞で有名になったクロスカップリングですね。
触媒の役目だと思うのです。



>リチャード・ヘック、根岸英一、鈴木章の3氏が開発した有機化合物の
合成方法は、自然界からは得られない有用な化学物質をも作り出す「魔法のつえ」だ。
 私たちの体を始め、生活に有用な物質の多くは、炭素が結びついて
骨格を形づくった「有機化合物」だ。炭素は、他の原子と結びつくことの
できる4本の「手」を持ち、「手」をつなぐ相手の物質をさまざまに
変えることで、多彩な骨格をつくることができる。
  この手のつなぎ替えを、パラジウムと呼ばれる金属を仲立ち(触媒)
にして行ったのがヘック氏だ。パラジウムは、炭素などと結びつきやすく、
しかも離れやすい。炭素と炭素を直接結合させるのではなく、
いったんパラジウムを仲立ちにして、最終的に炭素と炭素をつなぐ。
触媒を使うことで、二つの異なる有機化合物を結びつける
「クロスカップリング」を自在に行えるようにしたのだ。<


 現象と実相の仲立ち、つまり触媒の役目は、環境を整えることと思うのです。
現在、人類史は、サナギから、それが羽化してアゲハ蝶になる、
その過渡期で、大切な時期なのではないかと思うのです。
 その過渡期において如何に、アゲハ蝶へ羽化するための環境を整えていくのか?
それを自然状態と定義されていると思うのです。
 対話の中から、アウフヘーベンしていこう!と仰っていると存じます。

1826「訊け」管理人:2011/10/15(土) 07:35:00 ID:D0Kb5yw.

 〝自然状態と実相世界の混同〟「あったのか?なかったのか?」は、実に
おもしろい(笑)

 実は昨夜、山本七平先生や小室直樹先生の本(あえて、雅春先生から離れて
考察せんがため)を読んだんですが・・・・・現時点で提示しちゃうと、関係
ない話になりそうです。

 先日書きましたが、雅春先生が描写したところのスメラミコト(統べる御言)
と、信徒が語る天皇との間には違和があるように感じます。つまり、雅春先生
の御教えを守ろう!と云われている方ですら、「それは、雅春先生の描写され
た像ではない」可能性が、あると感じています。

 そんな偽天皇像を以って「実相」と称されている可能性はないものか?初心者
さまとは若干ニュアンスが違うかもしれませんが、愚生も非常に興味を持って
ます。


追伸

 しかし・・・・・議論に付いていくのが精一杯(笑)

1827神の子さん:2011/10/15(土) 08:44:02 ID:b5lI7Ld2
>>1825

 追加;

 特に、時代背景を縄文時代とした自然状態に注目されていると思います。
 縄文的頭脳改革ですね。大変、おもしろいテーマと存じます。

1828役行者:2011/10/15(土) 08:46:31 ID:b5lI7Ld2
>>1827

これは、役行者の投稿でした。

1829トキ:2011/10/15(土) 09:21:48 ID:sGbCE82o
>>1822

とは 様

 ご投稿、ありがとうございます。私どもの掲示板にお越し下さり、深く感謝申し上げます。
博学な内容で、深い感銘を受けました。天皇陛下のあり方や、日本の国体についても、含蓄
のある文章です。

 こういう文章は、最近、見る事がないので、これからもどんどんご投稿をお願いしたいです。
続編も宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1830さくら:2011/10/15(土) 09:50:00 ID:T/77sMGw
>その状態をいかに、実現化してゆくか?だと思うのです。

>現象と実相の仲立ち、つまり触媒の役目は、環境を整えることと思うのです。

役行者さまのご指摘、いつも端的で本質を付いていらっしゃいますね。

私も、ここが知りたいところですし、果たして、それが可能なのか、不可能なのか
を言う問題も含めて、対話を楽しみにしております。

1831復興G:2011/10/15(土) 11:45:47 ID:yhDBe2kY

>1823 :初心者様。
>復興G様は、自然状態と実相世界の混同が、これまで、生長の家でなされていたとお考えでしょうか、それともそれはなかったとお考えでしょうか。あるいはそもそも、自然状態というものはない、とお考えでしょうか。<

──「自然状態」とは何を意味しているのか、あなたのおっしゃる「自然状態」とはどういう状態のことなのか、今ひとつハッキリしないのであります。

「自然状態」ということで私に思い浮かぶのは、アダムとイブのエデンの楽園にいたときの状態ということです。そうすると、蛇にだまされて知恵の木の実を食い楽園から追放された状態が「文化的状態」ということになりましょうか。そのように考えても間違いないでしょうか?

>「ロンドンの霧は、詩人が認めたときにはじめて存在に入った」とはどういうことでありましょうか。じつは、この言葉にこそ言語の本質があらわれているのであります。事物は、言葉によって認められなければ存在することはない、言葉によって認められてこそ、事物は、はじめて存在に入ることができる、ということをロンドンの霧は示してくれているのであります。(1824)

──それは、詩人が認めただけでなく、詩に表現して、「人々の意識のなかで印象されるようになった」ときに初めて「存在に入った」。一人が認めただけでは「存在に入った」とは言えない。そこには、共感を呼ぶような「表現」が必要なのであります。

「自然状態」とか「文化的状態」とか言っても、共通認識、共感が得られなければ、それは「存在しない」のと同じではありませんか。初心者様は<1744>で一応の定義めいたことはおっしゃっているけれども、一度難しい言葉で言ったからとて、それで大多数の人に共通認識、共感が得られているとは思えません。
 もっと共感、共通認識が得られやすい表現、わかりやすい言葉を使う工夫が必要だと思います。あなたの用語は、象牙の塔の研究者みたいに、わかりにくい言葉が多すぎると思います。

>ソシュールは、言葉は、……「ヤマ」という言葉がつくられる以前には、「山」という事物は存在しなかったと考えたのです。<

──その「言葉」というのは狭い意味の「言葉」でしょうか、想念、波動という意味を含んだコトバなのでしょうか。後者であれば同意できます。しかし、前者(狭い意味の「言葉」、言語)であれば、私はソシュールの説にはとうてい同意できません。まず出発点が大事です。

私は今日これから予定行事があって出かけます。明日も朝から一日行事がありますから、次にお返事できるのは明日夜以後になると思いますが、よろしくお願いいたします。

1832役行者:2011/10/15(土) 12:21:16 ID:b5lI7Ld2

>さくら様

>>1830

 もう、ズバリいいます。
 可能にせねば、現総裁ご指導のもとの生長の家存続の意味がないかと存じます。
 また、可能でなければ、人類にお役に立てないし、少なくとも私にとっては、生
長の家になんの魅力もなくなります。
 皆様はどうなんでしょうか?生長の家が既成宗教並でよいのでしょうか?

 餌食に道なし、道に餌食あり。
です。

 組織に道なし、道に組織あり。

で、どうでしょうか?

 いままでのコチンコチンの発想ではどうにもなりません。世界人類の奥底に眠る
共同体意識を呼び起こしましょう!縄文的意識改革、脳内革命を起こしましょう。

確かに

>これまでどおり、「現象なし」から「実相あり」の飛躍をよしとする、
そうした主張が大勢を占めるのは確実な情勢であります。<

と初心者さまが仰るとおりなのですが、

 先ほども述べましたが、人類史において、サナギから、それが羽化してアゲハ
蝶になる、その過渡期で、大切な時期だと思っています。
 
 つまり、組織も羽化の時期到来なのでしょう。世界人類の奥底に眠る共同体意識と共に!!

1833初心者:2011/10/15(土) 12:24:59 ID:4IaAZAME
>>1825
役行者様

役行者様には、わたくしが申し述べたいことを代弁していただきました。ありがとうございます。ここでのわたくのし主張を簡単に申しますなら、文化的状態から実相への飛躍は不可能だということなのです。それはつまり、個人意識の救済は不可能だということにもつながってくるのであります。

役行者様がいっておられるように、環境をととのえる必要があります。それが自然状態であると考えます。そのためにも、文化的状態とはいかなる状態であるのかということを、明確にする必要があるように感じます。文化的状態とは、仮相の世界でありますが、それは実相世界の仮相ではなく、自然状態の仮相の姿であるはずです。この意味で、文化的状態から、実相世界へと一気に飛躍するのは不可能であり、いったんは自然状態を経由する必要があると感じるところであります。

わたくしの予想では、文化的状態とは、非常に特殊な世界であるような気がいたします。その特殊性を考察することで、自然状態への回帰が可能であるかどうか、可能であれば、どうすべきであるのか、そのあたりの可能性を、みなさまとともに見極めていければと考えております。

1834初心者:2011/10/15(土) 12:48:23 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。

わたくしの問いかけにたいするご返事をいただき、ありがとうございます。

自然状態につきましては、漠然とした用語の説明をいたしましたが、それがどのようなものであったかは、判然としないということを、最初に申し上げた次第であります。そしておそらく、そのあたりの疑問を解くカギが、古事記や神道にかくされているのではないかとの当たりをつけ、しかしその分野はわたくしの得意とするところではありませんので、わたくしより多くの知識を持っておられるみなさま方に、対話をとおして、自然状態の実像にせまっていただきたいと考えた次第でもあります。そこのあたりをご理解いただきますようお願いいたします。

そして、まことに勝手ながら、復興G様にも、ぜひそのたありの真相にせまっていただければと願っております。

それと、ソシュールの言語学が想念、波動を射程にいれていたのかとの問いでありますが、これまで何度も申しておりますように、文化的状態を考察するにあたって、はじめから超越項を持ち込むことには、わたくし自身は消極的であります。それはつまり、超越項を持ち込めば、いくらでも逃げ道をつくることができるということでもあります。はじめから逃げ道をつくっておいて、それから考察をするとすれば、考察することの意味がない、とこのように考える次第であります。

ソシュールの言語学もまた、それが「学」である以上、超越項の持ち込みはおこなわれておりません。超越項を持ち込みたいとする誘惑にいかにして打ち勝つか。これが、文化的状態を考えるにあたって、第一に心すべきことであると考えます。

それと、ひと言つけくわえれば、ソシュールの言語学であつかう「言葉」には、シニフィアンという用語があてはめられておりますが、シニフィアンとは、厳密にいえば、それは「言葉」ではなく、心的な現実にはたらきかける「ある種の作用」と解すべきかと存じます。この作用によって、リアルな世界が形づくられます。

1835義春:2011/10/15(土) 12:55:12 ID:iu5Ar./Q
>>1832
役行者様
 私も完全同意であります!既存宗教で良い筈がありません!!
既存宗教と云う事は文化的状態で終始するという事ではありませんか。
その状態で今までの歴史の流れを変える事は不可能に感じます。
何故なら、前提が個々が分かれているという前提の文化的状態に
拠っての成り立っているからです。
それではなく、縄文的意識改革によっての共同体意識を目覚めさせる事で、
生長の家の成り立ち自体の前提を共同体意識に拠るものにする事が大事に
感じます!

初心者さま
個人意識の救済についてですが、私も初心者さまのお考えに完全同意であります!
悩みの根本的な原因には【個々が分かれている】という文化的状態に
拠るものが多いように感じます。
現代社会において、心の病が顕著になっているのも、文化的状態が極限にまで、
なってしまい、その為に、個々が分かれているから、共同体意識から流れてくるであろう、
(正確な言い方が分かりませんが)エネルギー等が流れてこずに、個としての[自分]の
体内でのみ、エネルギーが循環する事になり、それが水が一箇所にずっとあれば、
腐っていくように、心が病んでいくのではないか?と感じております。
これより、自然状態での、縄文時代の自然との関わりを記していく事で、
自然状態の人の在り様を述べていきたく存じます。

1836さくら:2011/10/15(土) 13:50:13 ID:Jwt1IgIQ
役行者さま

心強い、ですね、道の友…

組織は常に改革、革新を恐れては停滞、収縮あるのみです。
生長の家組においでも、文化的状態に終始し、全体の方向性を見失ってはいなかったか…それを恐れず振り返るべきだと思います。
「今の教え」に反対する方も、分裂状況を超越して、共に考えて頂きたいことだと思います。
自然状態を実現するのに、組織はどの方向へ向かうべきか…
それは、復活、というよりは、私は、革新、であると思います。

1837役行者:2011/10/15(土) 13:50:18 ID:b5lI7Ld2

>初心者さま

>役行者様には、わたくしが申し述べたいことを代弁していただきました。
ありがとうございます。<

   とんでもありません。

>わたくしの予想では、文化的状態とは、非常に特殊な世界であるような気がいたします。
その特殊性を考察することで、自然状態への回帰が可能であるかどうか、可能で
あれば、どうすべきであるのか、そのあたりの可能性を、みなさまとともに見極
めていければと考えております。<

 人類の未来のために、可能にすべく、できるだけ多くの方とともに、ご協力させていただきます。


>義春さま

 縄文時代の考察を楽しみに待っております。よき人類を築くために!

1838役行者:2011/10/15(土) 14:02:32 ID:b5lI7Ld2
>さくら様


>生長の家組織においでも、文化的状態に終始し 全体の方向性を見失ってはいなかったか…それ を恐れず振り返るべきだと思います 今の教えに反対する方も、分裂状況を超越 して、共に考えて頂きたいことだと思います。 自然状態を実現するのに、組織はどの方向へ向 かうべきか… それは、復活、というよりは革新です。<


 女性の方でも、道の友です!
 左だ、右だ、上だ、下だ!なんて言っている場合ではないでしょう!
 すべてを超越して、人類の革新ですよ!

1839「訊け」:2011/10/15(土) 15:25:28 ID:UodBcqiE
>左だ、右だ、上だ、下だ!なんて言っている場合ではないでしょう!


 そん通りごあんど!

 チェスト!

1840義春:2011/10/15(土) 19:11:17 ID:iu5Ar./Q
 自然状態での祭祀、縄文的な自然との一体について、
私の私観を述べさせて頂きます。
縄文時代のような時代と云うのは、今の文明社会ではないので、
常に生死の境に人は生きていたと思います。現代では、脳は数パーセントしか、
使われておりませんが、必要もなく、大容量の脳を持つ必要はないというところから、
古代においてはもっと多く使われていたと私は確信いたします。
何故なら、そうでなければ、生きていけませんから。
言うなれば、自と他が共同であるという意識で生きていくしかないので、
思いつく限りでは、予め危険を察知したり、食料のありかなどを感じていたと思うのです。
ですので、イワクラでの祭祀は、そのイワクラ自体と共同意識、つまり、
イワクラ自体と一体化することで、自然と一体化し、そして生かされている事に、
感謝するものであったのではないか?というものです。
それをするのが、甘南備山(=ピラミッド)で夏至と冬至にイワクラの上で
祈りを捧げ、そして世界の新生をも祈ったのではないかと私は感じるのです。

1841志恩:2011/10/15(土) 21:45:59 ID:psrFh/ZU
みなさま、
【山ちゃん1952 ブログ】の、2011.10.14
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
をご覧下さいますように!

1814>志恩が書きました「悪しき天皇がいた」と、古事記から書き写しました文章の、反論を、写真入りで、ものすごく詳しく
書いて下さってます。

「古事記」と「日本書紀」では、雄略天皇などのあらわしかたが異なるようです。お写真から、たくさんの和歌から載せてくださってます。

山ちゃん1952様、このたびは、詳しい内容を、ご掲載をしてくださって、教えて下さって、感謝いたしております。
早速、プリントアウトして、拝読しています。合掌

1842「訊け」管理人:2011/10/16(日) 07:04:52 ID:snP.vX5s
山ちゃん1952さまブログは、コイでごあんど。
http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201110140002/

 個人的にはこの記事も、おもしろくて読んでます。
http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201110140001/

 
追伸

 これから、草野球に行ってきます。
 なんか知らんが、今日は打てそうな気がする。

1843義春:2011/10/16(日) 07:41:32 ID:SjZg29/2
>>1842
訊けさあ
山ちゃん様のブログ貼り付けて頂き、有り難うございます!

今日は野球ですか?勝ち栗、よろ昆布、餠ろん勝つで、赤福を差し入れますわw

1844志恩:2011/10/16(日) 08:02:04 ID:psrFh/ZU
訊け君

しんせつに「山ちゃん1952様」のブログ、貼付けてくださって、助かりました。私、貼付け、できなくて、こまったな。と思ってたのよ。ありがと!!

もう1つの「谷口雅春先生・武者小路実篤」の記事も、興味深く、拝読しました。^^

1845山ちゃん1952:2011/10/16(日) 08:43:40 ID:6MMzJilY
皆様

ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
あの写真は二年前に実際行った時の写真です。7月30日の暑い最中です。
途中大雨となり、びしょ濡れになりました。御陵は大阪市の藤井寺という所に
あります。

次に谷口雅春先生が大本に入信した経路等を書いています。出来る限り今まで
五十年史に掲載されなかった文章などを書くようにしております。
いままでの掲載文をあわせると、A4で記入しているのですが、写真掲載で50頁
になりました。引用もありますが、自分で調べたりしています。

1846復興G:2011/10/17(月) 01:31:41 ID:yhDBe2kY

>初心者様

私にとって「実相」とは、今ここに生きている生命そのものであり、何ものを否定して否定できない、最もリアルなものであります。それは今ここに生きてあって、縄文時代に帰ることも必要ないし、修行してから未来にあらわれるものでもありません。「実相」に触れるには、触媒も何も必要としません。それは決して、あなたがおっしゃるような、現実から飛躍したものとか、超越項とかではなく、想像界のものでもありません。ですから、「実相」は英語では“reality”、ドイツ語では“Wirklichkeit”(現実)と訳されているのです。

その「実相」を、遠くへ押しやってしまって、やれ自然状態だとか文化的状態だとか騒いでいるほうが、本来の「自然」からかけ離れているのではありませんか。
私から見れば、そちらの方が飛躍しており、超越的なこと、想像的なことに思われます。

また、「言葉」については、「万物はこれ神のコトバ」というのが真実であると思います。お釈迦さんが「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」とおっしゃったのも、万物、森羅万象ことごとく仏のコトバが鳴りひびいているものである、とお悟りになったということでしょう。「よろずのものコトバによりて成り、これによらで成りたるはなし」です。それは決して「超越項」などというものではない、リアリティーです。だから、科学の分野でも「すべては情報である」という「情報理論」というのも生まれているのではありませんか。

谷口雅春先生は『日常生活の中の真理 無門關・聖書篇』の第七章「声なき声を聴きましょう」というところに次のように書かれています。

  * * * * * * *
 「天地の全てのものはあなたに喚びかけている」
 何でもすべてのものは言葉の表現体ですから、白墨は白墨、コップはコップ、水は水、マイクはマイクでそれぞれ、使命に随(したが)って「こうしてくれ」と喚(よ)びかけているのです。その喚びかけている声が、素直な心で、心の耳を澄まさないから聞こえないのです。この「白墨」でも何と言って喚びかけているかと云うと、「なるべく折れないように、上手に指でつまんで黒板に字を書いてくれ」と言っているのです。それに対して下手な持ち方をして白墨を二三字書いただけで折って、役に立たなくして捨ててしまったら、白墨の言うことを聴いてやらなかったと云うことになるのですよ。「借金」さんは「払ってくれ」とこう言っているとその声をきいたときに高橋正雄さんは「借金を払おう」と決心したのです。(中略)
 高橋正雄さんは「借金」さんの声をきいたのですが、すべてのものは声を出している。水でも声を聞いてごらんなさい。皆さんが顔洗う時に、「この水は何と私に喚びかけているか?」と考えてみるのです。そしてその声をきくのです。この水は何を語っているか?「粗末に水を無闇に捨ててくれないで下さい」と語っているときく人もあるでしょう。「丁寧に洗って下さい」と語っているときく人もあるでしょう。ともかく、水を使うときにはその水が喚んでいる声を本当に聞かなければならない。聞いてその通りしてやるのが、「打てば響く」です。水だけのことじゃない、いのちを端的に生きることなのです。皆さんが結婚なさいまして夫のところにゆくと、夫はあまり物を言わないで黙っていらっしゃるむっつり屋の男でも、その肉体の口は黙っておられても、何か始終心で被仰っていることがあるものです。その声なき夫の声を本当に聞くことが出来なければよい妻と言うことはできませぬ。
  * * * * * * *

ソシュールの言語学では、こうした「声なき声」などはコトバと認めていないとすれば、「想い全相に達せざるを迷いという」ことからすれば「迷いの言語学」と言わざるを得ないように思われます。

(つづきます)

1847復興G:2011/10/17(月) 01:32:51 ID:yhDBe2kY

(つづきです)

「文化的状態」という言葉について。

ふつう、「文化的」と言えば、よい意味に使われ、「広辞苑」では次のように記されています。

  * * * * * * *
【文化】①文徳で民を教化すること。②世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。③(culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。

[文化価値]①ある物が文化財として有する価値。生活理想の実現にとっての価値。②新カント派の用語としては、文化財を判定する基準となる価値。真・善・美・聖など。

[文化人]知的教養のある人。多く社会的活動にかかわる学者・芸術家などにいう。

[文化的]①文化を主とするさま。「──事業」②文化をとり入れているさま。「──な生活」
  * * * * * * *

逆に、「自然状態」は悪い意味に用いられることもあります。「社会契約説において、国家・社会が成立する以前に想定される人間の状態。自己保存欲による戦争状態(ホッブズ)」ということもあるわけです。

ところがここで初心者様が使っておられる「文化的状態」「自然状態」というのは、上記とは全然違う意味で使われているようであります。「自然状態」とは内なる神の声を聴いて、本来自他一体の共同体意識に生きる状態、「文化的状態」はむしろ「分裂的状態」と言った方がよいような、好ましからざる状態、ということのようですね。これは、いちいち説明を繰り返さなければ意味が通じにくい、逆の意味にとられるおそれの多い言葉だと思います。

ともかく、私は今、神の実相生命をさきはえられて生かされている、というのがリアルなことであって、すべての人も物もそれ(実相生命をさきはえられて生かされているということ)が真実である。それをくらまして遠くに追いやってしまったから、既成宗教が救済力を失ってきているので、なにも「自然状態」だとか「文化的状態」だとかを議論する必要はない、と思います。

キリストは「汝らは地の塩なり、塩もしその効力を失わば何をもてか之に塩すべき。後は用なし」(マタイ伝5-13)と言いました。「生長の家」もし「実相独在」の真理を捨て去らば……後は用なし、となるでしょう。それは、天皇のいまさない日本国があり得ないのと同様だと思います。

そういうわけで、初心者様は
>対話をとおして、自然状態の実像にせまっていただきたいと考えた次第でもあります。そこのあたりをご理解いただきますようお願いいたします。そして、まことに勝手ながら、復興G様にも、ぜひそのたありの真相にせまっていただければと願っております。<1934>

というお呼びかけには、残念ながらその必要を認めませんので、お断りを申し上げます。

しかし、初心者様が「生長の家が問題としてきたのは個人意識ではなく共同体意識であろう」とおっしゃるのには、同感です。『生命の實相』第8巻には次のように書かれています。

  * * * * * * *
 「間(あいだ)」に生命が顕われる
 本当の美は、個々にあるのではない。メーテルリンクの戯曲の科白は言葉と言葉との間で魂を語らせたが、なにによらず本当の美は「個」それ自体にあるよりもいっそう多く個と個とを結び合わす「間」にあるのである。一個の音韻はそれほど美しいとは言えないが、それが他の音韻と結び合うとき、一個の音韻それ自身がもたない美が音韻と音韻との「間」にでき上がるのである。色彩でもそのとおりである。二つ以上の色彩が結び合うとき、一個の色彩ではもたない美しさが、色彩と色彩との間にでき上がるのである。音楽も「間」にあり、美術も「間」にあり、人間の生活も「間」にある。「人間」とは誰が言い始めたのか知らないが、人間の生活は一個人にあるのではない。個と個とが結び合った「間」に人間の生活があるのである。眼に見え、感覚に映ずる肉体の人は皆はなればなれの存在であるが、これは朽ちゆく虚仮不実の存在であり、本当の人間ではない。実在である人間はこの感覚に見える現象存在の「間」にのみ顕われるのである。感覚的存在を通じて実相が見えるのではなく、感覚的存在と感覚的存在との「合い間」に実相人間があらわれるのである。この「合い間」を描くのが芸術であり、この合い間を生きるのが「愛」である。(『生命の實相』第8巻69〜70頁より)
  * * * * * * *

1848復興G:2011/10/17(月) 06:45:45 ID:yhDBe2kY

初心者さん
役行者さん
義春さん
その他みなさん

せっかく盛り上がりかけていた対話に冷水を浴びせるような書き方をしてしまって、ほんとにすみません。
みなさまの深切な(ほんとに深く切なる)愛念にはとても感謝しています。

役行者さまには<1825>で特にやさしいコメントをくださっていたのにお答えもせず失礼していました。ごめんなさい。ゆるしてください。ありがとうございました。

もう、どうしようもないガンコな化石爺いと思って、あきらめてください。

それでも、みなさんと出来れば今後も仲よくさせていただきたいとは思ってます。

しばらくお休みさせていただこうかと思います。

お元気で、ご活躍を祈ります。

1849初心者:2011/10/17(月) 08:14:49 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。

まずは、文化と自然の好感度の感覚でいえば、わたくしは、復興G様とは逆の印象を持っております。かつて、進歩的文化人という人々が存在いたしましたが、いまではこれは、軽蔑の意味を含んだ物言いとなっているような気がいたしております。文化講演会。これの好感度は、はたしてどうなのでありましょう。生長の家でも、たとえば、絵手紙誌友会をカルチャークラブと揶揄する傾向があり、文化という言葉の意味が、復興G様がいわれるほどには好感をもって使われていない、という状況にあるような気がいたします。

自然にかんしては、無為自然、大自然、自然体というように、好感をもって使われることが、けっして少なくはありません。たとえば、生長の家で説かれる「そのままの心」とは、文化的な心と、自然の心と、どちらに近いと考えられているのでありましょうか。

そしてまた、復興G様がいっておられるように、実相は今ここにあって生きてあるので、これになにも手を加える必要がないのであれば、環境問題にしても、教団内部のゴタゴタにしても、なにもせずに放置しておれば、それがそのまま実相の姿だということになるのではありませんか。

復興G様は、たとえば、世界に蔓延する経済格差の問題や、環境破壊の問題にたいして、具体的になにをなすべきだと考えておられるのでしょう。教団のゴタゴタにたいして、具体的になにをなすべきだと考えておられるのでありましょう。

わたくしがなそうとしていることが、やれ自然状態だとか文化的状態だとかと騒いでる、ということになるのであれば、復興G様は静かになにをなさろうとしておられるのでありましょうか。復興G様は、問題解決のために、なにをなそうと考えておられるのでしょうか。ただ祈ればいい。そのように考えておられるのでありましょうか。

批判される以上は、問題の解決に向けた、復興G様ご自身のアイデアを開示なさるべきであります。いかなるアイデアも開示なさらずに、批判だけをするというのは、あまりにも無責任な態度であります。実相が今ここに生きてあるのであれば、それが問題解決にどのようにつながってくるのか、少なくとも、その具体的な道筋を示すべきであると考えます。

復興G様は、実相は、自然状態と文化的状態の考察からあらわれてくることはない、と考えておられるようでありますね。それでは実相のあらわれ方がちがう、と考えておられるようでありますね。復興G様こそ、実相のあらわれ方に、なにか制限をもうけておられるのではありませんか。復興G様がのぞんでおられるような形でしか実相はあらわれてはならない、と考えておられるのではありませんか。

有名な寓話があります。大洪水でひとりの男が屋根にとりのこされました。男は、救いをひたすら神に求めた。やがて救助のボートがやってきた。男は、「神様が助けてくださる」と救助をことわった。つぎにヘリコプターがやってきた。男は、またしてもおなじ理由でことわった。やがて、家ごと流され、男は死んだ。天国で、「なぜあれほど祈ったのに、救ってくださらなかったのですか」と神に抗議する男に向かって、「わたしは、ボートを差し向け、ヘリコプターを使わしたのに、お前が拒否したのだ」と神は答えた。

わたくしのなそうとしていることが、実相の顕現につながるなどと、大それたことを述べようとはおもいません。もちろん、実相を顕現させようとも考えてはおりません。それはそれとして、復興G様がなにをのぞんでおられるのか、それが判然とはいたしません。なにもなさなくていい。そのようにお考えなのでありましょうか。復興G様がなにをおっしゃりたいのか、それがわたくしにはわかりません。なにもするな。なにも考えるな。このようにおっしゃっておられるのでありましょうか。20年前にも、生長の家の内部では、このようなことがいわれていたような気がいたします。

1850復興G:2011/10/17(月) 10:19:12 ID:yhDBe2kY

>1849 :初心者様

お怒り、ごもっともです。
今、具体的に一所懸命取り組んでいる仕事がありますので、簡単にだけお答えします。

私は<1847>で書きましたように、「神の実相生命をさきはえられて生かされている、というのがリアルなことであって、すべての人も物もそれ(実相生命をさきはえられて生かされているということ)が真実である。それをくらまして遠くに追いやってしまったから、既成宗教が救済力を失ってきている」と考え、それを現教団の中にも、また外にも精いっぱい伝えていこうとしています。議論しているのではなく今、懸命に実行中です。具体的なことは今言えません。ありがとうございます。

1851初心者:2011/10/17(月) 13:11:09 ID:4IaAZAME
「現象はない」ということについて考えてみたいとおもいます。「現象はない」とは、現象は言葉によってつくられている、という意味であります。これが結論であります。

すでに、ソシュールの言語学の記事において説明いたしましたように、「ヤマ」や「ソラ」という言葉以前に、実在の山や空は存在いたしません。言葉以前に存在するのは、事物と事物の差異だけであり、混沌としたカオス的世界だけであります(あるいは、流体的世界とする考え方もあります)。

こうしたカオス的世界を、人間は、言葉をもちいて分節することができます。山と空とを区別して認識できるようにする。これが分節であります。

分節によって世界は形づくられていきます。山や空だけでなく、木や石や草花などが、分節によってつぎつぎと姿をあらわすことになります。分節しなければ、それらのものが姿をあらわすことはありません。そこにあるのは、未分節のカオス的世界だけであるということになるはずであります。

ここで気をつけるべきことは、分節はつねに恣意的におこなわれるということであります。分節に法則はありません。世界はつねに、人間が分節したいように分節した結果としてあらわれてくるものなのであります。「イヌ」と「タヌキ」を分節しなければ、そこには別の生き物が存在することになるかもしれません。「リンゴ」と「ナシ」を分節しなければ、そこには異なった果物が存在することになるかもしれないのであります。どのように分節しようとも、それは人間の自由ということになってくるはずなのであります。

人間が好き勝手に分節し、つくりあげた世界とは、客観的な実在ではなく、人間が言葉によってつくりだした、主観的なイメージである、ということがいえるのであります。これが「現象はない」ということの、ほんらいの意味であります。言葉でつくられた世界は実在ではありません。よってこの世界は、非実在の現象世界ということになってくるのであります。

「現象はない」とは、宗教的真理でもなければ、悟りでもありません。世界が言葉によってつくられたものである以上、そしてそれが人間のうちなるイメージであるからには、それは当然のことなのであります。そして、ここで、「現象はない」から「実相がある」へと、ただちに向かうのは、飛躍なのであります。言葉でつくられた世界は存在しない。しかし実相がある。これは、あまりにも飛躍しすぎであると考えます。

言葉でつくられた世界が存在しないのであれば、まずは問題にすべきは、言葉以前の世界であります。言葉によって分節される以前の世界はどのような世界であったのかということが、まずは問題にされるべきなのであります。そうした世界にたいする考察をすっ飛ばして、いきなり実相世界へと向かうのは、飛躍以外のなにものでもないと考える次第であります。

1852役行者:2011/10/17(月) 14:19:49 ID:oD7wFPHE

 >復興Gさま

 堅いことは言わないで、まあ、気楽に遊びに来てくださいなあ(^^)/

 多分、復興Gさまの考え方は生長の家での世論の代表的な声と存じます。

 ただ、今の現状を観るに、人類にお役に立つため、既成宗教から脱皮するため、いろいろな角度からの考察を必要とすると思います。
 ですからいろいろな考察を、気楽な気持ちで投稿されればよいのではないかと存じてます。
 まとめ役のトキさんのご厚意に甘えて、困ったときのトキさん頼りで、お任せしちゃいましょ(^_^;

 それにしても、初心者さまの
>>1851 の投稿文は、現象、実相、言葉とモノの本質の的を射ていると思われますが、どうでしょう?

1853トキ:2011/10/17(月) 20:35:43 ID:xJoakDzU
>>1852

 こんばんは。昨日は原宿教団の用事はなかったのですが、冠婚葬祭があり、遠距離に行っていました。
さすがに疲れました。少し書き込みをしないで、ごめんなさい。

 テーマが大きいので、なかなか論じるのが難しい部分はあります。が、疑問とか感想とかだけでも良い
ので、ご投稿をお願いします。今日は、私も少し(もともと?)ボケておりますが、皆様のご意見など
を拝見できるのを楽しみにしております。

合掌 ありがとうございます

1854初心者:2011/10/18(火) 17:20:11 ID:4IaAZAME
言葉以前の世界がカオスまたは流体的世界であるとする、その根拠について説明いたします。

以前から申し上げておりますように、現象世界はDブレーンによって虚構されたホログラム映像であるという考え方が、わたくしにはあります。もちろん、これは、ド素人のたわごとレベルの発想ではありますが、それでも、根拠を提示するには、またとない、格好の材料となるのであります。

ここで問題となるのは、Dブレーンは実在なのか、という疑問であります。Dブレーンもまた、人間がそれを認識したという意味では、言語の効果によって生じたマボロシの可能性があります。しかし、Dブレーンは数式によって導かれたアイデアであります。そしてまた、数式には、言語のように、好き勝手に世界を分節できないという性質が、おそらくはありますので、数式によって示されたアイデアは、言語を超えた特権的な地位にあるということを、ここでは認めて論をすすめることにいたします。

世界がホログラムであるとすれば、その原板は、複雑な流体状の模様を描くことになります。しかもこの模様は、静止することなく動きつつけているはずであります。ここで、人間の脳について考えます。心すべきは、脳もまた、ホログラムによってつくられた立体映像ということになるのであります。しかし、この立体映像は、なぜか世界を体験する能力を持ちます。この能力は、脳科学者のカール・プリブラムによれば、高速フーリエ変換という数学的処理によって実行されることになります。

人間の脳は、高速フーリエ変換によって、ホログラムの原板に描かれた流体模様を、それとはまったく異なったべつの映像へと置き換えているはずであります。こうして置き換えられた映像が、未分節のカオス的世界として、人類の前に立ちあらわれているはずであります。この映像こそが、わたくしが、ソシュールの言語学を説明するさいに用いた、言語以前のカオス、または流体的世界ということになります。

そして人類は、このカオス的世界を、言葉によってつぎつぎと分節化してゆくことで、現象世界と呼ばれる文化的状態をつくりだしているということが考えられるのであります。以上が、言葉以前の世界を、カオスまたは流体的世界とした根拠ということになるのであります。

余談になりますが、物理学者のデイビッド・ボームは、言葉以前の、そしておそらく、それよりもはるか以前の世界を、分割不可能な流体的世界であると表現しました。しかもボームは、あろうことか、こうした流体的世界を表現するための言語を構築するという、前代未聞の構想を持つにいたったのであります。

流体的世界を表現するための言語を、ボームはレオモードと名づけました。「レオ」とは、「流れ」を意味するギリシャ語のようでありますが、これを接頭語とした、新たな言語の構築を、ボームは構想したのであります。

この構想は、おそらく中途で挫折したはずでありますが、Dブレーン発見以前の物理学者の叡智、あるいは直観によっても、現象世界の根源には、分割不可能な流体的世界が実在するということが予測されていたのであります。

「現象なし」とは、あくまでも言葉によってつくりだされた世界についてのみいえることであります。それ以前の世界についてはどうなのか。生長の家は、いまだこの問題にはふれずにいるのであります。

1855トキ:2011/10/18(火) 21:33:56 ID:JcVuc8xU
>>1854

初心者様

 立花隆さんの「臨死体験」の中に、リリーという科学者の臨死体験の話が掲載されています。子供の頃に臨死体験をした彼は、
守護霊と話をします。その後、スピリチュアルな問題に興味をもち、とうとう、擬似的な臨死体験が出来る装置を作ってしまいま
す。その装置を利用している時に、子供の頃に出会った守護霊と再会します。その守護霊が、

 「この世の中で、唯一、絶対なのは神のみであり、それ以外は、みな仮想的な存在である・・・。」という説明を始めます。

 ビッグバンでの世界の創造以来、この宇宙で生じる全ての出来事は、神の自己観照であり、実在ではない、という説明を展開するのです。
このくだりを、立花隆さんは、「このような考えは、ギリシャ以来、存在した思想である」という説明をします。(「手許に本がないので
記憶で書きましたので、不確かな部分があるのは御許し下さい、)。ある意味、生長の家の世界観と類似していると感じたのを記憶して
おります。

 このような世界に近いものを探すと、確かにホログラフという概念が、一番近いと思います。しかし、ホログラフという仮説を前提すると、
脳はもちろん、目や耳などの感覚器官も「仮説的な存在」だという事になります。すると、もはや「脳」という概念すら必要ないのかも
しれません。逆に、もし、脳という概念が必要だとすると、目などの感覚器官も「存在する」という事になります。しかし、人間の感覚器官
でとらえられる情報というのは、実に狭いものです。例えば、人間の目では、360 nm〜830 nmという狭い範囲での光しか見れません。
このような狭い情報しか得られない「脳」に、そこまでの複雑な計算の必要性があるか、どうか、という疑問もあります。

 あるいは、映画の「マトリックス」のように、実際には存在しない世界を仮想空間の中で、実際に体験をしていると誤解をしているだけ
でしょうか? あの映画では、肉体は存在し、ただ脳がコンピューターで支配されていましたが、肉体すら存在しないという場合もありえ
るでしょう。

 まあ、考えると、今夜は眠れないのは必定ですから、この当たりで失礼をします。このあたりは、もっと頭の良い人のご意見をお願い
いたします。

合掌 ありがとうございます

1856初心者:2011/10/18(火) 22:21:39 ID:4IaAZAME
トキ様、ありがとうございます。

カール・プリブラムは、みずからが提唱する「脳のホログラフィー理論」を追究した結果、「脳も心もない」との結論に達したそうであります。脳も心もない。これは真理と見て間違いないかと存じます。ただし、ホログラムが存在するとすれば、これは何であるかという問題が残ります。「ホログラムはない」というには、情報が、あまりにも少なすぎるように感じます。

それと、ベケシーという人物が、バイブレーターを用いて、脳のホログラフィー理論とはまったく無関係に、人間の感覚器官にかんする実験をおこなったという話があります。人体にバイブレーターを装着して、その感じ方を実験したものだそうです。すると興味深い結果が出て、ベケシーは、それが脳の特殊な機能に起因することをつきとめたといいます。

ベケシーは、脳のその特殊な機能を数式であらわしました。するとそれが、カール・プリブラムが導きだしたフーリエ変換の数式と酷似していたのですね。これがなにを意味するのか、たしかな証拠はないにしても、脳がフーリエ変換をおこなっている可能性は、きわめて高いのではないかという気がいたします。ベケシーは、これに類する研究でノーベル賞を受賞しているはずであります。

それと人は、音波を周波数に分解して聴いている可能性がありますね(詳しいことは存じておりません)。もしそうであれば、脳はやはりフーリエ変換をおこなっているとみるしかなさそうであります。

1857初心者:2011/10/19(水) 11:51:27 ID:4IaAZAME
たしかに、この板、近頃はなにかと静かでありますな。なにやら見放された気配が漂っておりますが、このままつづけることにいたします。

じつはこれまで疑問におもうことがありました。音響装置のスピーカーですね。あれは非常に単純な構造であるわけなのですが、オーケストラの何十という楽器の音色を再生してしまうのでありますよね。あの単純な装置に、なぜこのような複雑な作業ができてしまうのかと、ずっと不思議におもっていたのであります。

ここでひとつの仮定におもいいたったのであります。スピーカーというのは、オーケストラの何十という楽器の音色を、ひとつひとつ分けて再生するのではなく、すべてをごちゃまぜにすることで、きわめて複雑な波形で再生しているのではないかと、このようなことを想像したのであります。

そうなのですよ。スピーカーからは、楽器の音がごちゃまぜになって、ひとつの波形として出てくるのでありますよ。それを人間の耳が聞き、その複雑な波形から、ひとつひとつの楽器の音を聞き分け、分離して取り出しているのでありますよ。きっとそうなのだと、おもいますよ。

複雑な波形から、それを構成するひとつひとつの波形をより分ける。これがフーリエ変換でありますよね。とすれば、人間の耳はフーリエ変換をおこなっているということになるのでありますよ。いうまでもなくそれは、脳がやっているということになるのでありますね。やはり脳はフーリエ変換の達人である。そんな気がしてまいりました。

音響学の専門家ではありませんから、たしかなことはいえませんが、こんなようなことを想像してしまいました。

1858トキ:2011/10/19(水) 19:18:26 ID:6z/E1qmQ
>>1857

初心者様

 確か、今流行のMP3は、フーリエ解析を応用したはずですね。あれは、人間の耳で聞こえる周波数の
範囲には限りがあるので、聞こえない部分の音をカットする事で、人間への音質は落とさないで、音楽
データの容量を落とす技術だったはずです。人間の場合、聞こえる範囲の音を解析する過程で、フーリエ解析
をしている可能性は確かにあると思います。外部から得たデータをそのまま処理したら、大変な容量になります
から、フーリエ解析のような技術を利用して、容量を落として処理しやすくする事はありえるかもしれません。

 ただ、現在の科学は、まだプリミティブな段階ですから、脳については、未知の部分が多いのも事実です。
例えば、五感以外から、脳が直接、外部の信号を受信する可能性についても本で読んだ事があります。

 こういう分野は興味深いですが、反面、悪用されると怖いと思います。過去、オウム真理教が、人間の記憶を
医学的に消す実験を繰り返してたいという報道を見て、唖然とした記憶があります。そのあたりも、宗教家は
どう対応すべきか、考える必要はあるのかもしれませんね。

1859だい:2011/10/20(木) 23:24:15 ID:NU2aPCcg
 五条
生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成(げんじょう)にほかならない事を明らかにすべきである。日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神として把握し、その「中(みなか)」への帰一とその「中(みなか)」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の発展である事これが日本神話の理念であり日本民族の理想であり日本建国の精神である。この真理現成の大まつりごとに、神の子として命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。単に自分の祖国たるのみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間にして一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を讃仰してやまず、この国の神の子国民として生を享けしめられた所以の深さに感泣し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互いに明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。

 ここは非常に重大な一節であります。民

1860義春:2011/10/21(金) 13:37:50 ID:SjZg29/2
>>1859
だい様
素晴らしい御文章、有り難うございます!ただ、残念ながら途中で切れている様に、感じます。

お手数をおかけして、申し訳ありませんが、又、続きの御文章の投稿の程、宜しくお願い申しあげます。

1861トキ:2011/10/21(金) 14:32:51 ID:/gHI5BnI
>>1859

だい様

 ご投稿、ありがとうございます。勉強になります。ぜひ、続きもお願いします。

合掌 ありがとうございます

1862しん:2011/10/23(日) 20:40:17 ID:/fXPqxA6
      神聖受胎のこと

生長の家の『肉体なし』の教えは『肉体を殺す』のではございませぬ。『肉体を殺し』『肉体を苦しめ』苦行するのは、肉体の存在を認めているからでございます。肉体の存在を認めている限り、人間は神聖なものではございませぬ。肉欲によって生まれ食欲によって他の生物と喰(は)み合い、老い、病み、死に行くものでございます。人間を肉体として見ないで、聖霊の神聖受胎として観るのが、本当の『悔改(くいあらため)』でございます。『観(かん)の転回』でございます。観が転回してしまって、自己が『肉』としての存在でなく、『神聖受胎』であると云ふ尊厳なる事実を悟ったときにのみ、本当の『父母の孝』が出来るのでございます。自分が肉欲によって生を受けた存在であると思っている限り、父母はただの『肉』の繋がりに過ぎませぬ。自分が神の生命の神聖受胎であると知ったときに、父母が吾らの神聖受胎に機会を与えて下さったところの幾ら感謝しても感謝し切れない大恩(たいおん)ある方だと判るのでございます。道元禅師の『この衆(しゆ)の恩は父母にもすぐるべし。父母はしばらく生死(しょうじ)のなかの親なり。この衆はながく佛道のともにてあるべし』の言葉は父母の有り難さを本当に自覚しない言葉だと思われます。衆と父母とを対立させているのが間違いです。世界は道場にして、衆の中に父母もあり、而も衆の中で吾々を神聖受胎したまひて、永遠に観世音菩薩の顕(あらは)れとして吾々を導き給うところの衆の中の最大なる者が父母でございます。
  ↓↓         ↓↓         ↓↓

1863ふぼ:2011/10/23(日) 20:42:27 ID:/fXPqxA6
  ↓↓         ↓↓         ↓↓
    父母の恩のこと

道元禅師の『衆(しゆ)の恩は父母にもすぐるべし』とか、佛教で使われ、一燈園(いっとうえん)で常套語になっていまする『棄恩入無為(きおんにゅうむい)』の言葉、イエスの『汝の敵は汝の内にあり、父母妻子兄弟を棄つるものならずば意(こころ)に協(かな)はず』などの語(ことば)は今までの多くの人々をして父母よりも『道(みち)』を大切にさせました。それは『父母』は相対の世界に立つ存在であり、『道」 は絶対の世界に立つ存在であると観る立場にあるからであります。併し(しかし)かく父母を相対界の存在として観る心、其の心が既に相対に堕(だ)しているのでございます。父母は實(じつ)に相対にあらずして絶対であります。父母のうちに衆あり、父母のうちに人類あり、父母のうちに神あり、父母のうちに佛(ほとけ)あり、父母のうちに道(みち)あり、父母を真に愛せずして、父母の恩を捨てていづこにか佛道あらんや。『父母はしばらく生死(しょうじ)のなかの親なり、この衆はながく佛道のともにてあるべし』などと言ふ道元は、父!母!が!佛!道!そ!の!も!の!で!あ!り!(白丸圏点にて強調)、衆が佛道の単なる朋(とも)である事を悟らなかったのであります。道元も知っていた筈(はず)であるように三界唯心(さんがいゆいしん)でございますから『父母はしばらく生死(しょうじ)のなかの親なり』と道元が観じていた限りに於いて、彼にとっては『父母はしばらく生死(しょうじ)のなかの親』だったのでありませう。『父母の中に佛道あり』と観る人には、父母は孝道を成(じょう)ずること、その儘(まま)が佛道を成(じょう)ずることになるのでございます。印度(インド)の佛教が日本の国体破壊、家庭破壊に働かうとしているのを道元もこの点では見逃したことを残念に思ふのでございます。

 小さき兄弟に行ふ愛行(あいぎょう)----それは如何に小さくとも尊いものでございます。『汝(なんじ)の兄弟のうち最大なる者は汝の父母なり』と七つの燈台の点燈者は仰せられました。先ず親孝行せよ。孝行のよろこびは尽きぬ喜びでございます。受ける悦びは尽きる悦びでございます。更に毎日一回は人に親切をせよ----とはあなたが幸福になる秘訣でございます。ああ此の喜びを知ったならば、他の喜びは太陽の前の星のやうなものでございます。『毎日一回は必ず人に親切をせよ』と申しましても、必ずしも他人をのみ選んで親切をせよと云(い)ふことではございません。自分の家族に親切を尽くすことが第一でございます。自分の家族に親切を尽くしましても、大抵の場合に於いて家族は『有り難うございます』と感謝してくれませぬのに、他人に親切を尽くしました場合には、ほんの些細(ささい)なことでも感謝され勝(が)ちでございます、此処(ここ)に他人への愛行(あいぎょう)の誘惑があり、家庭での愛行の忘却があるのでございます。これは全く悲しきことでございます。家族はもっと家族の親切に対して感謝するやうにならねばなりませぬ。『当たり前』だと思ふのが可(い)けないのでございます。袖(そで)振り合ふも多少の縁でございます。優(ま)して家族となるのは深い因縁でございます。因縁を尊び、因縁に深く感謝致さねばなりませぬ。

1864役行者:2011/10/24(月) 12:10:09 ID:coOrJPtg
>>1862
>>1863

しん  ふぼ  さま


>自分が肉欲によって生を受けた存在であると思っている限り、父母はただの『肉』
の繋がりに過ぎませぬ。自分が神の生命の神聖受胎であると知ったときに、父母
が吾らの神聖受胎に機会を与えて下さったところの幾ら感謝しても感謝し切れな
い大恩(たいおん)ある方だと判るのでございます。<


>衆と父母とを対立させているのが間違いです。世界は道場にして、
衆の中に父母もあり、而も衆の中で吾々を神聖受胎したまひて、永遠に観世音菩
薩の顕(あらは)れとして吾々を導き給うところの衆の中の最大なる者が父母で
ございます。<

>『父母はしばらく生死(しょうじ)のなかの親なり、この衆はながく
佛道のともにてあるべし』などと言ふ道元は、父!母!が!佛!道!そ!の!も!
の!で!あ!り!(白丸圏点にて強調)、衆が佛道の単なる朋(とも)である事
を悟らなかったのであります。<

>袖(そで)振り合ふも多少の縁でございます。優(ま)して家族となるのは
深い因縁でございます。因縁を尊び、因縁に深く感謝致さねばなりませぬ。<

 深く、心に染みいりました。反復して、読ませて頂きます。合掌!

1865役行者:2011/10/24(月) 15:00:06 ID:x0ZpJSVg
 合掌
 甦った
 愛国「本流☆生長の家」復活・掲示板より抜粋




http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=415415&amp;mode=res&amp;log=1


 法統継承について、意義深い討論が展開されております。
一部を掲載しますので、ご参考にされてください。
本流対策室とは、少し趣きが違ったので、こちらに掲載しました。



(69) 兄弟相争うことなかれ!!            投稿者:未生さま



 >・・・・・・
 雅春先生の説かれた真理は、神の實相そのものを示されております。
 その雅春先生のみ言葉を、自分たちだけが継承しているような発言は、
神を自らの甲羅に合わせて、判断するのと、何ら違わないでしょう。
 神の真理とは、その程度なのですか?

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の教義論争は、
ほとんど何ものをも生み出さしません。
 自らの持てる力で、神を持ち上げて振り回しても、
自らの力以上のものを持ち上げることができません。
 何と「神」を微小なものにしたものであろうか!!

 小生は、教義論争に興味がないのです。信仰と教義論争は、全く別のものです。
 教義論争は、信仰が近い者ほど血で血を争うような激烈な争いになるのは、
歴史が示しています。
 あまり争うことが性に合っておりませんので、悪しからず。

 小生は、「實相世界の久遠終始一貫の常住性が生長の家には現象界に歪みなく
影を映すやうになつてゐる」という、雅春先生の御言葉を、絶対的に信じている
のです。

 現実は違うという一求道者様は、現実の奥にある「實相」を直視する必要が
あるのではないでしょうか? 
 雅春先生のお言葉は、「現実と違う」と唱えられたいのでしょうか?
 先生のお言葉が、間違っていると? 何代目かも同じような発想でしたが … 。

 雅春先生の生長の家の中で、「兄弟相争う」状況を、一番悲しまれるのは、
雅春先生であろうと思います。
 マサノブ氏の説で、間違っている点は、論理的に指摘すればよいのです。
 小生とても、別の掲示板で、何度かマサノブ氏の「私説」に対して、
非議を唱えてきました。

 多くの人々が、掲示板などを通してマサノブ氏の非議を正してきた甲斐あってか、
「小閑雑感」を閉鎖してしまいました。新たに「唐松文様」なるブログに変えて
おりますが、書き込みに相当気をつけているためか、慎重になってきているのは、
事実です。
 「机上の空論に終るような学者・評論家の類の案」であっても、
から元気なクーデター論より、よほど現実的であると考えております。

 マサノブ氏を、変える力があるのである。


続く

1866役行者:2011/10/24(月) 15:08:55 ID:x0ZpJSVg
 合掌

>>1865

に続く


 >教団外の人間が、法燈継承を決定する権利はないことは当然です。
 しかし、多くの信者や講師が、このような掲示板を「覗き見」していることを、
聞いています。
 この掲示板を通して、どのように法燈を継承すべきかを提示できるのです。
 
 その提示板の内容をどのように教団幹部が考えるのかは、彼らの自由です。
 具体的な内容は、すでに掲載済みです。新たにこの掲示板をご覧になっている方は、隔靴掻痒かもしれませんが。

 しかし、マサノブ氏が、掲示板での批判に神経質になっているのと同じように、
インターネットの力を過小評価してはいけないでしょう。
 インターネットは、現実を変えつつあるのです。「鉄砲」よりも強力な武器と
なりつつあるのが、パソコンであり、それが現代のネット社会です。



 ところで、たとえ雅春先生の教えに反する発言があろうとも、マサノブ氏が、
現実的に、生長の家第3代総裁であることは否定しようもありません。
 その現実を踏まえて、如何にして、次期総裁に継承することが、
「雅春先生の法燈」を継承することになるのか、まずその方策を考えることが大
事であって、現実を否定したり、教義論争に身をやつしている時ではありません。
 法燈の定義論争は、皆さんのお仲間でやってください。

 新たな法燈の継承のその時は「近い」のです。教義論争をしている時間は、小生にはありません。

 現実のマサノブ氏を、どこかの国の「大佐」のように引き摺り下ろすことが、
法燈継承になると考えること自体、異常です。どこかの国の混乱は、ますます深
まるでしょう。

 クーデターで、国が、教団がよくなると考えるべきではないのです。
 神は法則であるから、その法則が実現できる「理」を、現実の中で求めることが
必要なのです。

 言葉の力で、現実を変えていく巨大な力が、このような「掲示板」にはあるのです。
 ですから、小生も書き込みをしているのです。
 誤った方向に行かないように、誤った発信をしないために、常に冷静に
「理」を求めているのです。<

 

 以下の内容が、この投稿文で一番心に残った箇所です。

>小生は、「實相世界の久遠終始一貫の常住性が生長の家には現象界に歪みなく
影を映すやうになつてゐる」という、雅春先生の御言葉を、絶対的に
信じているのです。<



生長の家は人類に必ず貢献できる。御心、天に成る如く、地にも必ず成就し、その神の一大計画に生長の家は大いに貢献できる!
雅春先生のこのお言葉を信じ、光明化運動に邁進してまいりたいと思います。

1867役行者:2011/10/25(火) 00:13:36 ID:dpu4tsPs

 合掌

 愛国「本流☆生長の家」復活・掲示板 から抜粋!! 


 未生さまが、上記コメント( >>1865 >>1866 )を投稿後、討論相手の一求道者さまが、回答する。それに、新生の会員さまが下記のように返答する。

 彼は、生長の家教壇内を知っているような、知らないような、掴み所のない不思議な存在感で、一求道者の発言を斬る。
 
 
 (72) 現場を知る意見

 投稿者:新生の会員さま
 
下記コメントは一求道者さま。

  >雅宣総裁先生の出現以来、生長の家全体に和顔愛護讃嘆の雰囲気が消 え、明るさが消え、教勢低下が著しいわけです。この原因は、すべて 御教え』の内容変更と雅宣総裁の完全独裁型の強権管理体制にある事 は、事情を知る信徒衆目の一致するところです。さらに雅宣総裁先生の 本当の教団運営の目的は、開祖・雅春先生の「生長の家」の徐々なる完 全解体です。これはどんな事があっても阻止して、往時の和やかな生長 のある生長の家を目指す事が全信徒の願いです。「未生」氏もこの方向 付けには御異論はないと思いますので、この大目的実現に向けお互いに 努力しようではありませんか 。<


と一求道者さまは曰わく、そして・・・新生の会員は答える!


 >それは嘘! 白鳩さんたちは明るいぞ。総裁とも上手く付き合っている。 爺さんらはどうかしらんが婆さんらは楽しそう。 講習会のスタッフもしなければ、教区も出入りしない者が総裁を落とし いれようとネット使って言いたい放題だ。 それにどんなことをしても阻止するなら原宿でデモも暴動でも起してみ ろよ。<


 と・・・とりあえず、異論はない!

           以 上

1868役行者:2011/10/25(火) 08:29:42 ID:kmUbezAE

合掌

 上記コメントが、愛国掲示板から早速、削除されてました。

 私の責任かなあ〜
 新生の会員さん!
 面目ない(/_;)

1869はし:2011/10/28(金) 01:30:33 ID:qrY2rT0E
はしがき 
               谷口清超

 生長の家の聖経では『甘露の法雨』とその続編の『天使の言葉』とが、まず谷口雅春大聖師によって書き下ろされた。それから『続々甘露の法雨』が作詩されたが、これらは「三部経」として大切に日々読誦されている。そこには生長の家の真理が、流麗な文章で書かれていて、毎日読誦しているとそのリズムによって、知らず知らずのうちに教えの神髄が自覚されてくるものだ。とくにこの『続々甘露の法雨』は、病人の心を励まし救うところの力強い言葉が満ちあふれているので、「病気になったら読む」という人もいて、そうした功徳もあるが、実は人生万般の現象すべてをナシと断定する "真理の言葉" であるから、あれこれと現象を掴まず、ただ「そのままの心」で感謝して拝読するのが一番よいのである。
 この点について、大聖師は本文第四話の中で、次のように御教示されている。
 『「健康は既に汝を訪れたりと知れ」ここが大切ですね。これから病気を治そうと思うと、病気を心で掴むでしょう。「既に健康は訪れた」とこう思ったら、心はもう病気を掴まんですよ。「病気を治したい」というのは、「病気がある」という観念が働いているから、心に念ずるものがあらわれるのですから、それではまずいですね。「既に健康である」と健康を念ずるがよい。だから神想観をしても「神の生命(いのち)流れ入って私の病気を今治し給いつつある」と念ずる。まあこれでも効かんことはないけれども、そう念ずるよりも「神の生命(いのち)流れ入りて光明燦然(こうみょうさんぜん)と輝いて、病気はどこにも無い既に健康である」と、その既に健康である相(すがた)をじーっと観ずる方がいいんです。 "病気を治し給う"じゃ「病気がある」という観念が矢張り働くからまずいですね。それで、『心を鎮めて平和ならしむるの秘訣は唯「有難う」と一切のものに感謝するにあり』と示されている通りに、"ありがとうございます。ありがとうございます。"と感謝するんです。本当に感謝の念を起すということが必要であります。しかし、まだ実際に感謝の念が起らないでも "ありがとうございます。ありがとうございます。"と、こう言葉に出して繰返し言っておりますと、 "言葉の力"で感謝の念が湧いてくるのであります。』
 その他この御講義のなかには、正しい宗教は脅しではなく解放の教えであること、さらに事業や家庭や夫婦の問題、さらに又教育や子育てに関することなどの解決した実例が、実にさまざまな角度から引用されている。青年時代、雅春先生が如何にして就職し、さらにそれをやめて「生長の家」を始められたかという経緯についても、第十話でユーモアを交えて話しておられるから、この御講義はまさに生前の先生のお話を承っているときそのままの "雰囲気"を再現していると言えるであろう。

 さて最初、この『続々甘露の法雨』についての大聖師の御講義が行われたのは、昭和三十年十一月に秋の記念祝賀講習会が東京の本部会館で行われた時であった。その部分の収録は第一話から第十話までであるが、その後さらに数多くの追加原稿が、昭和四十三年一月号から昭和四十八年九月号にかけて「白鳩」誌に連載された。しかし途中には休載の月もあり、その全部はここにおさめられてはいない。即ちこれらを谷口貴康氏が克明に纏めて編集して出来上がったのがこの書物である。
 また貴康氏は本書を谷口雅春先生ご生誕百年の記念出版として上梓できるように努力し、その校閲や装丁にも携わってくれたのであり、ここに厚く感謝の言葉を述べさせて頂く次第である。勿論いつもの様に、日本教文社の永井光延氏をはじめ編集部の方々には、色々とお世話になった次第であり、重ねてお礼を申し上げるものである。
  平成五年六月十七日
                     編纂者 謹んでしるす

以上   大聖師御講義『続々甘露の法雨』 谷口清超編纂   はしがき 原文

1870役行者:2011/10/28(金) 07:56:35 ID:GoOoUu9s

 >はし さま

 これを機会に、甘露の法雨だけでなく、天使の言葉、続々甘露の法雨も、日々、拝読することを決意します。

 真理のコトバは心を癒やしてくれます。
 ありがとうございます。

1871役行者:2011/10/28(金) 08:02:29 ID:GoOoUu9s

 また、本日、清超先生のご本の紹介とは、粋なことしてくれますね!
 本日、命日、お亡くなりになられた清超先生もさぞかし、お悦びになられておられることでしょう。

1872八百比丘尼:2011/10/28(金) 09:35:33 ID:j8iOdie.

 本日は、清超先生の三年祭でございます。
去年、一昨年と私も教区で祭員として、参加させていただきましたが、
今年は家で、聖経を読誦いたします。

皆さまも、どうぞ心穏やかな良い一日でありますように。

                      合掌

1873義春:2011/10/28(金) 11:55:28 ID:iu5Ar./Q
もう3年になるのですか…お亡くなりになった日の事は今でも、
覚えています。あの時は大泣きしました…。

1874SAKURA:2011/10/28(金) 13:01:56 ID:zrpEHTE.
もう3年になるのです〜ネ!
〜〜あっという間に〜〜時が過ぎ〜流れのままに〜〜♫
私も当時!TYOの本部錬成道場{飛田給…」にての式典に、参列させて頂きました・・・。

そこで、誓いました…。
もう一度!もう一度!…「生長の家…灯を…」

そして、先生のご講話の中で??思い出しましたが??
「貧乏!貧乏!なんてあり得ないのです〜ョ!缶コーヒー一杯飲めるのでしょう?
どこが…貧乏ですか?」 ハッ……と!
【現象は無い…】そうなのですよ〜〜ネ! ”感謝”の思い一言につきましたが…!

先生の言葉…
【豊かになるには…自己限定をしない事が必要だ…】     

唯今から…ご冥福をお祈りさせて頂き『実相』の前で…聖典読誦させて頂きます。
                                          合掌

1875琴音:2011/10/28(金) 13:46:56 ID:buF0cwxY
清超先生のご命日なのですね。
昨日あたりからなぜか谷口先生、と心で呟くと、
清超先生、清超先生と浮かんできて、
変だなあ、雅春先生のつもりで呼んでいるのに、と思っていました。

1876トキ:2011/10/28(金) 15:09:11 ID:lV3PWRPw
 今日は、谷口清超先生のご命日なので、少し谷口清超先生の思い出を書きます。

 小生が谷口清超先生のお顔を直接拝見したのは、もう、だいぶん前の話です。その時に感じたのは、

「ご苦労をされているのだなあ。お疲れが出ている。」
 
 という印象でした。後で知ったのですが、当時は生長の家政治連合の話もあり、一部の人からは「裏切り者」という
罵声を浴びていたようでした。それに、生長の家という巨大な教団を谷口雅春先生という偉大な創始者のあと、納める
責任もありますから、それは尋常なプレッシャーではなかったと思います。

 偶然、私がお世話になった先達は、飛田給の第1回練成会の参加者で、その時に、谷口清超先生と楠本加美野先生と
同室だったらしいですが、その頃の谷口清超先生はそんな難しい人ではなかった、と話していましたから、相当なご苦労
はあったのでしょうね。
 実際、お若い頃は、谷口雅春先生とご巡杖されても、教区のエラい先生はみんな谷口雅春先生の方に行かれ、若手の
役員が谷口清超先生のお世話係に回される事もあったが、そんな事もあまり気にしない、飾らないお人柄だったと聴いております。
 谷口雅春先生にばかり光が当たりますが、谷口清超先生だからこそ、谷口雅春先生ご遷化の後、教団をまとめることが
できたのだと思います。その意味では、谷口清超先生のご功績はきわめて大きいし、やはり偉大な先生だと思っています。

 本日、三周忌を迎え、谷口清超先生の偉大さをあらためて偲ぶと共に、神界におられます谷口清超先生のごお導きを
お祈りする次第であります。

合掌 ありがとうございます

管理人 敬白

1878役行者:2011/10/29(土) 13:15:17 ID:00rI61dA
合掌

 本日、10月28日、10時より、生長の家の原宿本部会館にて、「谷口清超大聖師三年祭」が、滞りなく挙行され、御祭の後、雅宣先生によるご挨拶があった。
 その挨拶内容が唐松模様にアップされたので、以下に一部、記す。 畏れおおいことですが、そのときの様子もコメントさせていただきます。
 

  谷口清超先生の「大慈意」に学ぶ

 ・・・祭文にもありました通り、谷口清超先生はおくり名を「実相無相 光明宮弘誓通達大慈意大聖師」と申し上げます。「弘誓通達」という意味 は、「真理を弘めずにはおかない」という誓願を徹底されたということで す。「弘」は「弘法大師」の弘法の意味で、真理を弘めることです。それを 誓願する熱意が貫徹しているという意味です。また、「大慈意」とは「大 いなる慈悲の心」です。このおくり名のように、谷口清超先生は真理の伝 道を大いなる愛の心をもって徹底して実践された、そういう信仰の先達として実に模範的な人生を送られました。・・・
 今日はこの大聖師をお偲び申し上げ、おくり名の「大 慈意」という点について先生のご著書から皆さんとともに学びたいと思う のであります。 先生の著書に『愛は凡てを癒す』という本があります。この本にはいく つもの版がありますが、最近のものは平成4年(1992年)に出た「谷口清超 ヒューマンブックス」(全10巻)に収録されています。一見比較的新しい本の ようでありますが、初版は昭和29(1954)年です。ですから、清超先生が34 歳のころに書かれたご文章が集められているのです。私はその頃はまだ小 さい子供で、昭和29年には2〜3歳です。それで、清超先生がこの本の原 稿を書いておられたころは、まだ1〜2歳ということになります。そうい うまだ右も左も分からないような子供だった私のことが、実はこの本に少 しだけ出ているので、まずそこを紹介いたします。 これはこの本の最後の方の18章にあり、「子供は天真爛漫である」とい う小見出しがついた文章ですーー 私の一番下の子が雅宣という男の子で、この子は今は11カ月目になりま したが、何時か何かいたずらをして、姉娘の邪魔をした事があります。す ると姉娘が“チッチッ”と雅宣を叱ったのですが、雅宣は“チッチッ”と叱る言 葉が面白いらしく、キャッキャッと笑いながら姉娘にふざけるのでありま す。だから彼には姉娘の叱責はちっともこたえないので、姉弟で遂にふざ け出して“チッチッ”“キャッキャッ”と騒ぎ出したのでした。幼な児は何でも 善意に解釈して、叱られていても叱られているとは思わないで喜んでいる のであります」。(同書、pp. 252-253)

  まあ、私にもこのように天真爛漫な頃があったようでありますが、清超 先生はこんなうるさい子供たちを観察して、その様子を原稿に書いておら れたのですね。その頃は、子供に個室など与えられていませんでしたか ら、子供たちは先生が原稿を執筆されているところで騒いでいたのかもしれません。また、別の部屋で先生が原稿書きをしている時に、人の都合など気にしない幼い私は、先生の部屋に勝手に入っていったことがあるかも しれません。そんな時に、父親である先生はどのように応対したのか……と 考えさせられます。たぶんずいぶん迷惑をおかけしたと思います。しかし 先生は、そういう時のご自分の対応を考察されて、「真に愛するとはどう いうことか」を文章に書いておられるのです。このご文章に、谷口清超先生がいかに「愛」を大切にされる大慈意の方であったかが表れていると思 います−− 真の愛は吾々から自己の劣等なる心を偽装している口実を奪い去るのである。吾々が何か仕事をしている時、いと小さき幼な児が笑顔をもって走 り込んで来る時、吾々の愛がいかに大きく崇高で純粋なものであるかを見ることが出来るのであります。その“仕事”なるものが果たしてどれだけ“幼な児の生命”より偉大でありうるであろうか。幼な児を愛し保護し養育する などという事は名声を博することでもなければ金儲けになることでもない のであるが、真に吾々が幼な児を愛する時、すべてをなげうってでもこの 一個の小さな生命を保護したい気持になります。果して吾々は自分のした いと思っていることがさまたげられた時、いらだたしい気持で“偉大なる生 命”を冒涜し、彼を心の中で傷つけはしなかったであろうか。吾々が真に幸 福になる時は、かくのごとき口実をすべて洗い流して、全てを神にゆだ ね、神の御意(みこころ)の愛をたゆみなくほどこして行く時であります。自 分が神の心を起す時、神の国が吾が周囲にあらわれて来るのであって、こ の逆ではないのです。神は別に名声を求めるのでもなければ、知識を求め るのでもなければ、いやんや金を儲けるのでもなく、ただ惜しみなく愛を 与えて全ての有情非情を育てて行くのであります」。(pp. 40-41)

続く!

1879役行者:2011/10/29(土) 13:24:34 ID:00rI61dA
続きです。

 この先生の愛の心は、決して自分の家族や人間の範囲だけに留まってい たのではありません。我々人間が他の動物をもっと愛さねばならないということを切々と説いておられる文章も、この本には収録されています 。

 大体現代の世界的不安というものは、色々と手近かな原因もありましょうけれども、根本的には社会の人々が、あまりにmの残忍になって、平気で生き物を殺しているというところに根本の原因があるのであります。 吾々の現象世界は“因果律”の支配している世界であって、従って吾々人間が 他の動物の生命をうばえば、自分の生命も奪われることになるのは当然で あります。人間は凡ゆる下等動物の生命を平然と奪っているが、果してこれが神の御心にかなった行為であろうか。

 例えば捕鯨船が鯨をうつが、そ の時、捕鯨船の射手は子供の鯨を目標にして銛(もり)をうつと、その親鯨は 子供が銛をうたれて引き摺られるのをみて可哀そうになって、どうしても 子供を捨ててにげて行くことが出来ないで、自分の身が危険にさらされる のもかまわず捕鯨船について泳いで来て、遂に自分も捕獲されてしまう。・・・

 私のコメント!
 >話がここに至り、声を詰まらせておられました・・・ゆるんだ理性という兜の透き間から、我々は垣間観てしまいました。情深い赤裸々な姿を・・・

 (中略) ですから このような残忍な心をそのままにして置いて、それで一方的に、人間同士 だけの戦争をなくしようと努力したり、火事にあうまいと思って努力して みても、人類全体の業が流転して来て、大量の人類殺戮場たる戦争があら われ、原子爆弾で人類の大量火あぶりが起るというのも当然のことなので あります」。(pp. 34-35)

  このご文章は半世紀以上も前に書かれたものですが、それを現代に引き 寄せて考えてみても少しも“古く”なっていません。我々人類がクジラどころ か、ウシやブタなどを殺した数は、この半世紀ほどで激増しています。数 字でこれを表すと、世界の食肉生産量は1961年から2008年までの47年間で 約4倍に増えています。その間に人口も増えていますが、それを勘案 して1人当たりの食肉生産量を見ても、世界平均で「1.8倍」、先進国平均 で「1.56倍」、途上国平均では「3.3倍」になっています。それだけ多くの 高等動物の生命を人類が犠牲にしてきていて、「殺すものは殺される」と いう因果の法則から逃れられると考えるのは間違いです。

  私はもう何年も前から、食肉生産の増加が地球環境問題に深刻な影響を 与えるということを書いたり、言ったりしてきました。そして私たちの光 明化運動でも、「肉食を減らす」ことを1つの目標としてきました。皆さ んもそれぞれ、そういう努力をしてきていると思いますが、世界全体とし ては、先ほど数字を申し上げたように、肉食の増加はすごい勢いで続いて います。人類はそろそろ、そういう悪業を刈り取る時期に来ているのでは ないでしょうか? 本年は、世界は大変動期にあるということを痛感するのであります。先進国の深刻な不況、“アラブの春”、東日本大震災、パキスタン洪水、タイ洪 水など、気候変動と関係があると思われる現象がたて続けに起こっていま す。こういうときにこそ、有情非情に愛を注がれた谷口清超先生の「大慈 意」を見ならって、私たちは自然に四無量心を行じる生き方を大々的にお し進め、自然と共に伸びる運動を実現していかねばなりません。

1880義春:2011/10/30(日) 00:35:40 ID:iu5Ar./Q
役行者様
 ご挨拶の引用、有り難う御座います。
清超先生の愛深いお姿が目に浮かぶようで、胸が熱くなりました。
素晴らしいご挨拶だと存じます。
個人的には、ご挨拶の御文章を拝読しながら、
幼い私を可愛がってくれた父の姿を思い出しました…。

 そういえば、今日、TPPに関するニュースを観ていますと、
50年前と比べると日本人の肉食の割合は約3倍になっているそうです。
又、国産の牛も飼料のトウモロコシは100%、輸入に頼っているそうです。
(読売テレビの)論調はTPP賛成でしたが、これはどうなんだろうと感じさせる内容でした。

 そして、この数十年で食生活の変化による、大腸癌の割合も大変多くなっています。
まぁ、私も罹った人間なので、何とも言えない所ですが、最近膵炎に罹って、
色々日々の生活を省みて、肉食を断つ事に致しました。
自分の生き方が、あまりに動物も含めた他者に思いを致していないではないか等、反省させられました。
安易に日々の食事を考えてもいましたが、そして、この数日、
完全に肉食を断つ事で、膵炎の症状はほぼ回復いたしました。

 個人的な瑣末な話になり、申しわけありませんが、このような所からも、
縄文的な意識改革は始まるのかもしれません。文化的と云うことは、利便性を重んじるあまり、
人に考える機会を無くさせているようにも感じております。

1881役行者:2011/10/30(日) 08:28:36 ID:fRqafFrE

 >義春さん

 >縄文的な意識改革は始まるのかもしれません。文化的と云うことは、利便性を重んじるあま り 人に考える機会を無くさせているようにも感じ ております。<

 いま、文化的状態から転換しようとしている過渡期と存じます。
 そのようなときにするべきコト、それはできるだけ、人類の業を軽減することでもあると思います。

 必要以上に動生物を略奪した人類の業を・・・

 また、利便性の追求から、内面性の追求に、シフトできるような、環境づくり!が大切かと思われます。

1882初心者:2011/10/30(日) 10:50:13 ID:hogyfr1M
役行者様

人間は、動物たちとアストラル界を共有していますね。その人間が、動物たちを
虐待し、虐殺することでアストラル界を破壊してきたのであります。人類が破壊
してきたのは、自然環境だけではありません。魂のよりどころでもあるはずの
アストラル界をも、人類は破壊してきたのであります。

アストラル界には、人間によって虐待され、虐殺されてきた動物たちの苦痛、悲しみ、
憎しみが充満しているはずであります。アストラル界を共有する人類は、当然の
ことながら、そうした悪感情の影響を受けることになります。みずからが破壊した
アストラル界によって、人類の感情生活が破壊されはじめたのであります。

虐待をつづけるかぎり、他を破壊することによってみずからが破壊されるという
悪循環からは、逃れることができないはずでありますね。永遠につづく悪循環の
なかに身をおかねばならないということになってまいりますね。

生長の家においても、ライフスタイルを、これまでとはちがったものに変えてみよう
とする取り組みが、ぜひとも必要になってまいりますね。破壊されたアストラル界を
修復するという取り組みが、必要となるにちがいないのであります。

総裁夫人のブログが、本流掲示板で批判されているようであります。料理のブログ
など無意味だといわんばかりであります。ライフスタイルを変えよう。いうだけなら
誰でもいえますね。問題は、それをじっさいの行動にうつすということなのですよ。

総裁夫人は、ブログをとおして、ライフスタイルを変えようという呼びかけが、たんなる
口先の言葉ではなく、じっさいの生活で実践されているということを、継続的に示し
続けておられますね。こうした取り組みを批判することじたいが、アストラル界の破壊
にかんして、いかに無自覚であるかということを示しているような気がいたします。


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