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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1765初心者:2011/10/12(水) 14:27:28 ID:4IaAZAME
役行者様

「解らない」というご発言がありますので、このあたりで、今回のテーマの趣旨について、説明させていただくことにいたします。

わたくし、じつはですね、生長の家がなにをなそうとしているのか、それが判然とはしないのであります。教団がこれまでなにを実現しようとしてきたのか、それがよくわからないのであります。

そこで、わたくしなりに、わからない理由を考えてみました。そして、その理由として、2つの混同がなされているのではないかと、おもいいたったのであります。

混同の1つは、自然状態と実相世界の混同であります。具体的にいえば、天皇国日本の実現でありますが、これが実相顕現の文脈で語られていることに、非常な違和感を覚えるにいたっていたのであります。天皇国日本の実現。これはむしろ、自然状態への回帰として考えたほうが、個人的には理解できるのであります。

天皇国日本の実現を実相の顕現へと結びつけることには、抵抗があります。それはむしろ、自然状態への回帰としてとらえるべきではないのかと、個人的にはこのように考えます。自然状態への回帰と実相顕現との混同が、教団内部でさけがたくおこなわれてきたような気がいたします。これを1つの問題として提起いたしたいところであります。

あとの1つの混同は、個人意識と共同体意識の混同であります。これは私見でありますが、生長の家が問題にしてきたのは、個人意識ではなく共同体意識ではないかと、このようにおもうのであります。しかしながら、しばしば、個人意識と共同体意識の混同がみられ、個人意識に重きをおいたがごとき発言がみられるようであります。生長の家は、個人意識と共同体意識の、いったいどちらを問題にしようとしているのか、これがじつは明確にされておらないのであります。

これはいうまでもないことでありますが、個人意識とは、文化的状態へのひきこもりによってもたらされた意識であり、共同体意識とは、自然状態における意識に近いものであるとおもいます。こうした、2つの、時代背景が異なる意識が混同されていることにより、生長の家の目指すべき方向性が、きわめて不明瞭なものになっている点が問題なのではないかという気がしております。

そして、わたくしがかねてより懸念しておりますのが、シニフィアンの暴走と、その結果としての教義のイデオロギー化であります。イデオロギーとはそもそもなんであるかをジジェク的に表現するなら、それは「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをおこなっている」ということになるのであります。つまり、「彼らは生長の家がなにをなそうとしているかを知らない。しかし彼らは生長の家をやっている」と、こういうことになるのであります。

シニフィアンの暴走と、それによる教義のイデオロギー化をとめるには、生長の家がなにをなそうとしているのかを明確にする必要があるということです。そして、そのためには、2つの混同の問題を解消する必要があると考えます。2つの混同を明確にし、それによって、生長の家がなにをなそうとしているのかということを明示することによって、シニフィアンの暴走と教義のイデオロギー化を終焉へと向かわせることができるはずであります。そうすることで、はじめて本格的な和解の道がはじまると、このように考える次第であります。

それと、縄文時代と弥生時代との区分でいえば、縄文時代がより自然状態に近いということがいえるとおもいます。そこで、自然状態の時代とはどのような時代であったのが、これを明確にできればとおもいます。

それから、今回のテーマは大スケールの物語であるはずであり、しかも物語はまだはじまったばかりでありますから、「解らない」との印象をもたれるのは当然のことかと存じます。ご質問などいただければ、可能なかぎり回答いたす所存であります。テーマに関心をお持ちの方は、ぜひともご質問いただきますようお願いいたします。また質問の内容がわたくしま手に負えない場合は、みなさま方のご助力を期待する次第でもあります。


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