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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1851初心者:2011/10/17(月) 13:11:09 ID:4IaAZAME
「現象はない」ということについて考えてみたいとおもいます。「現象はない」とは、現象は言葉によってつくられている、という意味であります。これが結論であります。

すでに、ソシュールの言語学の記事において説明いたしましたように、「ヤマ」や「ソラ」という言葉以前に、実在の山や空は存在いたしません。言葉以前に存在するのは、事物と事物の差異だけであり、混沌としたカオス的世界だけであります(あるいは、流体的世界とする考え方もあります)。

こうしたカオス的世界を、人間は、言葉をもちいて分節することができます。山と空とを区別して認識できるようにする。これが分節であります。

分節によって世界は形づくられていきます。山や空だけでなく、木や石や草花などが、分節によってつぎつぎと姿をあらわすことになります。分節しなければ、それらのものが姿をあらわすことはありません。そこにあるのは、未分節のカオス的世界だけであるということになるはずであります。

ここで気をつけるべきことは、分節はつねに恣意的におこなわれるということであります。分節に法則はありません。世界はつねに、人間が分節したいように分節した結果としてあらわれてくるものなのであります。「イヌ」と「タヌキ」を分節しなければ、そこには別の生き物が存在することになるかもしれません。「リンゴ」と「ナシ」を分節しなければ、そこには異なった果物が存在することになるかもしれないのであります。どのように分節しようとも、それは人間の自由ということになってくるはずなのであります。

人間が好き勝手に分節し、つくりあげた世界とは、客観的な実在ではなく、人間が言葉によってつくりだした、主観的なイメージである、ということがいえるのであります。これが「現象はない」ということの、ほんらいの意味であります。言葉でつくられた世界は実在ではありません。よってこの世界は、非実在の現象世界ということになってくるのであります。

「現象はない」とは、宗教的真理でもなければ、悟りでもありません。世界が言葉によってつくられたものである以上、そしてそれが人間のうちなるイメージであるからには、それは当然のことなのであります。そして、ここで、「現象はない」から「実相がある」へと、ただちに向かうのは、飛躍なのであります。言葉でつくられた世界は存在しない。しかし実相がある。これは、あまりにも飛躍しすぎであると考えます。

言葉でつくられた世界が存在しないのであれば、まずは問題にすべきは、言葉以前の世界であります。言葉によって分節される以前の世界はどのような世界であったのかということが、まずは問題にされるべきなのであります。そうした世界にたいする考察をすっ飛ばして、いきなり実相世界へと向かうのは、飛躍以外のなにものでもないと考える次第であります。


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