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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1807初心者:2011/10/14(金) 08:01:17 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>その矛盾の正体を明らかいして解消されるべきでしょか。それとも、内包したまま存続させるべきなんでしょうか。
この問題提示は、そんなことに向き合うことなのでしょうか、初心者さま。

矛盾を、その正体を明らかにすることで解消すれば、組織が解体へと向かうことは避けられないかもしれませんね。組織とは、それじたいが矛盾を内包することによって成り立っているともいえそうです(公益のために存在するはずの企業が、悪事をはたらかざるを得ないというのが、その典型であるのかもしれません)。

かりに、宗教組織の神秘性が矛盾によって維持されているとすれば、矛盾の解消とともに神秘性も消え去り、組織の解体がはじまる可能性はあるとおもいます。

キリスト教がかかえる矛盾とは、永遠無限の存在である神が、キリストという、かぎられた時間、空間的存在として出現したという矛盾であるのかもしれません。こうした、理解不能ともいえる矛盾が永遠につづくことで、キリストの神秘性が持続され、キリストは、人々の信仰の対象でありつづけることができるのでありましょうね。

生長の家もまた、これまで述べてきたような矛盾を内包しているということがいえそうです。生長の家には、現象と実相という2項対立があり、この対立によって人々の自我は引き裂かれ分裂します。こうした自我の分裂は、人が現象世界に生きつづけるかぎり、永遠に埋め合わせることのできない矛盾であるはずです。そして、この矛盾をかかえつづけることによって、生長の家の信仰は成り立っているということがいえるはずです。矛盾が解消したとき、それが信仰の終りのときであるのかもしれませんね。

>この否定性から、生長の家の「実相」への飛躍と、自然状態への回避、それも初心者さまは問題にされておられるようですが、
生長の家にとっては、ここが救いの核となるところで、生長の家信仰者には譲れない一点張、ということとなると、思われますが、また、このところもどんな展開になるのでしょうか・・・

そうですね。文化的状態へのひきこもりによって、避けがたく生じた「否定性」から、一気に「実相がある」という超越項への飛躍がなされたというのは、ひとつの問題点として考察されるべきことと考えます。

自然状態からのひきこもりによって生じた「否定性」、それはつまり、物質はない、肉体はない、心もない、という言葉で示される「否定性」でありますが、これがたんに、ひきこもりの結果であるとするなら、問題とすべきは、ひきこもりがはじまる以前の状態とは何であったかということでだけであって、「実相がある」という方向へと向かわなければならない理由は、どこにも見いだすことができないはずなのであります。

これから望まれる展開とは、「現象なし」とする否定性と、「実相がある」とする肯定性のあいだに、これまで語られることのなかった新たな概念が組み込まれるような展開であろうかとおもいます。

この新たな概念こそが自然状態であるはずなのですが、はたしてこれから、どのような展開が待ち受けているのでありましょうね。これまでどおり、「現象なし」から「実相あり」の飛躍をよしとする、そうした主張が大勢を占めるのは確実な情勢であります。


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