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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える 2
1730
:
初心者
:2011/10/11(火) 11:07:12 ID:4IaAZAME
>>1716
役行者様
自然との共生、というテーマで、対話を前提に、思うことをつらつらと書かせていただくことにいたします。
前口上もそこそこに、何事もなかったかのように登場いたしました初心者でございます。ここでなぜか思い起こしますのが、かねてよりこちらの掲示板で述べております、自然状態から文化的状態への移行の問題ということであります。
ジジェクによれば、文化的状態への移行は、自然状態からのひきこもり、と定義されているようでもありますが、こうしたひきこもりは、それがいつごろ、どのようにして始まったのかは定かではないにしろ、デカルトのコギトによって、その実現が、とうとう本格的にはじめられることになった、ということになるのであります。ここでデカルトのコギトを、曲解を承知でひと言で申しますなら、それは、物質はない、肉体はない、心もない、という否定性によって提示される主体ということであります。雅春先生が説かれた「現象なし」の教えとは、デカルト的コギトの追認であったともいえる気がいたします。
コギトによって示される主体とは、「ない」という否定性によって示される主体であります。自然状態から文化的状態へのひきこもりとは、「ある」という肯定性から「ない」という否定性へのひきこもり、と定義することが可能であるかと存じます。
では、「ある」という肯定性によって示される自然状態とは、いったいいかなる状態なのでありましょう。じつは、わたくしには、これが判然とはいたしません。それはつまり、わたくしの勉強不足ということにもつながるのでありますけども、それが仮に、古事記や神道によって示されるような状態であるとすれば、それがどのような状態であるのかを、はっきりと明示する必要があると考えます。
そのために必要となるのが、対話ということであります。人類が文化的状態へと移行する以前の自然状態とはどのようなものであったのか、これを、対話によってあきらかにすることが、自然との共生を考えるうえで、ぜひとも必要なことであると考えます。
しかも、生長の家は、文化的状態への移行によって避けがたく生じた「『ない』という否定性によって示される主体」の問題を解消するために、「実相」という超越項を持ち出すことになります。こうした超越項が、古事記や神道ともかかわりがあるやもしれぬ自然状態といかなる関係にあるのか、それを明示する必要があると考えます。
生長の家は、わたくしの見るところでは、主体の空無化をまねいたともいえる文化的状態へのひきこもり、の問題を解消するために、実相という超越項と、自然状態への回帰の呼びかけ、というふたつのあるべき姿を、ともどもに提示しているようも感じられます。
ここで問題となるのが、実相と自然状態との関係であります。これらがイコールであるのか、そうでないのかは、大きな問題であると考えます。仮にイコールでないとして、にもかかわらず、実相と自然状態との混同があるとするなら、これはゆゆしき問題であるといえます。生長の家において、自然状態と実相との混同はないのか、こうした問題もふくめて、自然状態、文化的状態、実相、の3つの項目の諸関係について、こちらでじっくりと対話をかさねてゆければと願っております。
文化的状態につきましては、いずれわたくしが、その定義や問題点、あるいはそれにたいする考え方といったものを、あくまでも個人的な見方という枠組みにおいて、語らせていただくことになるかとおもいます。
これは、大スケールの対話になる可能性があります。みなさまのご協力を要望する次第であります。
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