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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1824初心者:2011/10/15(土) 06:00:02 ID:4IaAZAME
「ロンドンの霧は、詩人が認めたときにはじめて存在に入った」とはどういうことでありましょうか。じつは、この言葉にこそ言語の本質があらわれているのであります。事物は、言葉によって認められなければ存在することはない、言葉によって認められてこそ、事物は、はじめて存在に入ることができる、ということをロンドンの霧は示してくれているのであります。

言葉は、モノにつけられた名称であるとする考え方があります。世にいう、言語名称目録観(ノーマンクラチュール)であります。言語名称目録観とは、人間がモノを見て、そのモノにひとつずつ名前をつけていったとする考え方です。

ソシュール言語学は、こうした考え方を否定します。言葉はモノにつけられた名称ではない、と考えます。では、名称でなければ、言葉とはなんなのでしょうか。

言語名称目録観では、言葉をひとつの記号とみなします。記号とは、それが指し示す意味内容がきまっているということです。地図記号は、工場、学校、病院といった意味内容と分かちがたくむすびついていて、それが指し示す意味内容は、誰が見てもわかるように、つねに1対1の関係で結びつけられています。

人が山を見て、それに「ヤマ」という名前をつけたとすれば、「ヤマ」という言葉は、実在の山を指し示す記号になります。これが言語名称目録観であります。

ソシュールは、言葉は、そうした意味での記号ではないと考えます。「ヤマ」という言葉がつくられる以前には、「山」という事物は存在しなかったと考えたのです。「山」という事物が言葉以前に存在しないとすれば、人が山を見て「ヤマ」と名づけるのは不可能であり、言葉は事物にたいしてつけられた名称ではない、との結論をくだすにいたったのであります。

「ヤマ」という言葉がなければ、人は山を見ることはではない、と考えるのがソシュールの言語学です。詩人がその存在を言葉として発しなければロンドンの霧は存在しなかった、ということと、意味的にはおなじであると考えます。

人がほんらい的に知ることができるのは、事物と事物のあいだの関係だけであり、関係によって生じる差異だけであります。あれとこれとはちがっている、ということを、人は知るだけであります。そしてこの「ちがい」を言葉として表現しないかぎり、そこに具体的な事物があらわれてくることはない、ということでもあるのです。スモッグと霧とのちがいを、詩人は見事に言い当てたということなのでありましょうか。

山と空のちがいを人は知ることができます。しかし、このちがいに「ヤマ」、「ソラ」という名称をあたえないかぎり、山も空も、存在の世界にあらわれてくることはないのであります。そこにはただ「ちがい」があるだけで、その「ちがい」がなんであるかを、人は、知ることも言い当てることもできないのであります。

では、山と空の「ちがい」を「ヤマ」、「ソラ」と言い当てたときに、山や空といった実在が客観的世界にあらわれてくるのでありましょうか。答えは「否」であります。あらわれてくるのは、人の意識のなかだけなのであります。「ヤマ」、「ソラ」と言い当てたときに、人の意識のなかに、山や空のイメージが喚起され、それがまるで、客観的世界の具体的な事物として観ぜられるようになるのであります。

ロンドンの霧は、詩人がその存在を認めたときに、人々の意識のなかで印象されるようになった。印象されるまでは、それは存在ですらなかったのであります。


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