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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1846復興G:2011/10/17(月) 01:31:41 ID:yhDBe2kY

>初心者様

私にとって「実相」とは、今ここに生きている生命そのものであり、何ものを否定して否定できない、最もリアルなものであります。それは今ここに生きてあって、縄文時代に帰ることも必要ないし、修行してから未来にあらわれるものでもありません。「実相」に触れるには、触媒も何も必要としません。それは決して、あなたがおっしゃるような、現実から飛躍したものとか、超越項とかではなく、想像界のものでもありません。ですから、「実相」は英語では“reality”、ドイツ語では“Wirklichkeit”(現実)と訳されているのです。

その「実相」を、遠くへ押しやってしまって、やれ自然状態だとか文化的状態だとか騒いでいるほうが、本来の「自然」からかけ離れているのではありませんか。
私から見れば、そちらの方が飛躍しており、超越的なこと、想像的なことに思われます。

また、「言葉」については、「万物はこれ神のコトバ」というのが真実であると思います。お釈迦さんが「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」とおっしゃったのも、万物、森羅万象ことごとく仏のコトバが鳴りひびいているものである、とお悟りになったということでしょう。「よろずのものコトバによりて成り、これによらで成りたるはなし」です。それは決して「超越項」などというものではない、リアリティーです。だから、科学の分野でも「すべては情報である」という「情報理論」というのも生まれているのではありませんか。

谷口雅春先生は『日常生活の中の真理 無門關・聖書篇』の第七章「声なき声を聴きましょう」というところに次のように書かれています。

  * * * * * * *
 「天地の全てのものはあなたに喚びかけている」
 何でもすべてのものは言葉の表現体ですから、白墨は白墨、コップはコップ、水は水、マイクはマイクでそれぞれ、使命に随(したが)って「こうしてくれ」と喚(よ)びかけているのです。その喚びかけている声が、素直な心で、心の耳を澄まさないから聞こえないのです。この「白墨」でも何と言って喚びかけているかと云うと、「なるべく折れないように、上手に指でつまんで黒板に字を書いてくれ」と言っているのです。それに対して下手な持ち方をして白墨を二三字書いただけで折って、役に立たなくして捨ててしまったら、白墨の言うことを聴いてやらなかったと云うことになるのですよ。「借金」さんは「払ってくれ」とこう言っているとその声をきいたときに高橋正雄さんは「借金を払おう」と決心したのです。(中略)
 高橋正雄さんは「借金」さんの声をきいたのですが、すべてのものは声を出している。水でも声を聞いてごらんなさい。皆さんが顔洗う時に、「この水は何と私に喚びかけているか?」と考えてみるのです。そしてその声をきくのです。この水は何を語っているか?「粗末に水を無闇に捨ててくれないで下さい」と語っているときく人もあるでしょう。「丁寧に洗って下さい」と語っているときく人もあるでしょう。ともかく、水を使うときにはその水が喚んでいる声を本当に聞かなければならない。聞いてその通りしてやるのが、「打てば響く」です。水だけのことじゃない、いのちを端的に生きることなのです。皆さんが結婚なさいまして夫のところにゆくと、夫はあまり物を言わないで黙っていらっしゃるむっつり屋の男でも、その肉体の口は黙っておられても、何か始終心で被仰っていることがあるものです。その声なき夫の声を本当に聞くことが出来なければよい妻と言うことはできませぬ。
  * * * * * * *

ソシュールの言語学では、こうした「声なき声」などはコトバと認めていないとすれば、「想い全相に達せざるを迷いという」ことからすれば「迷いの言語学」と言わざるを得ないように思われます。

(つづきます)


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