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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

95避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 15:25:12 ID:b/R.LjPg0
面接官 「普段は何をされてますか?」

コジ  「はい、自宅でウンコを製造しております!」

www

96避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:13:36 ID:NgAX88aw0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 1

 私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません-それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです-それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
 そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が-あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が-あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です-形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が-対立する欲望、対立する興味、対立する追求が-あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
 問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに-この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること-に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
 私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です-形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です-教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
(´・(ェ)・`)つ

97避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:20:19 ID:NgAX88aw0
くまめも1-8-1
私たちは矛盾の状態にあるから、私たちのなかに、外側に平和の欠如がある。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-がある。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらさない。この単純な明白な事実を哲学的二元論に翻訳するのでは安易な逃避。
なぜ私には矛盾があるのか。矛盾は葛藤、抗争を造り出す。葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できない。格闘は破壊、浪費。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみを産み出す。私たちがこれを充分に理解し、矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらす。
矛盾とはどういう意味か。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいる。自分が永久的欲望を持っている。自分自身に永久的欲望を位置づける。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じる。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらす。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つことがある。欲望すべてが非永久的・無常。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼る。そしてそれを得るとき、不満。私は経営者になりたい、それから所有者になりたいなどな。この世・世界においてだけでなく、いわゆる霊的・精神的世界においても、教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆく。
(´・(ェ)・`)

98鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/17(金) 22:56:36 ID:1d4drIFg0
理想の自分のイメージと今の自分には常に矛盾があるのじゃ。
理想の自分になりたいと努力することが葛藤を生むのじゃ。
理想の自分になったとしてもやはり時と共に失っていくのじゃ。
老病死は免れないからのう。

99避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 22:59:38 ID:b/R.LjPg0
阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

100避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 09:29:08 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

101避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 21:44:08 ID:U9p6ScNE0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 2

 この常なるなりゆき、一つの状態に続いてもう一つに達することは、矛盾をもたらすのではないでしょうか。ゆえになぜ生を一つの永久的欲望としてではなくて、いつも互いに対立しあう [・反対しあう] 一連のはかない欲望として見ないのでしょうか。ゆえに精神は矛盾の状態になくてもいいのです。私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はありません。
 精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じるのです。すなわち精神が欲望すべてを動いてはかないものとして見るのではなくて、一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする-そのとき他の欲望が生じる、そのときだけ、矛盾があるのです。しかし欲望すべては、常なる動き [の状態] にあります。欲望の固定はありません。欲望に固定点はありません。しかし精神は固定点を確立します。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うからです。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤があるにちがいありません。あなたは到達したいのです。あなたは成功したいのです。あなたは、あなたの永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたいのです。ゆえにあなたは真理を求めていません。あなたは神を求めていません。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった体裁よく聞こえる言葉をおおいかぶせるのです。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼びます。最低点は飲酒です。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間にたいした違いはありません。社会的に、酒は悪いかもしれません。しかし満足への [願望] 、獲得への内側の願望のほうが、さらにもっと有害なのではないでしょうか。あなたはほんとうに真理を見つけたいなら、たんに言葉の水準でだけではなくて全く、極めて正直でなければなりません。あなたはとてつもなく明晰でなければなりません。あなたは進んで事実に向き合おうとしないなら、明晰でありえません。
 そこで何が私たち各自に矛盾をもたらすのでしょうか。確かにそれは、何ものかになりたいという願望なのではないでしょうか。私たちは皆何ものかになりたいのです-世間で成功したい、内側で結果を達成したいのです。私たちが時間という見地、達成という見地、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾があるにちがいありません。結局、精神は時間の産物です。思考は昨日に、過去に基づいています。思考が時間の領域の中で機能し、未来という [見地] 、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾があるにちがいありません。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないからです。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性があるのです。
 ゆえに私たちの考える過程全体を理解することが [本質的・] 不可欠なのではないでしょうか。というのは、私たちが矛盾を見つけるのは、そこであるからです。思考自体が矛盾になってしまったのです。なぜなら、私たちは自分たち自身の総合過程を理解してこなかったからです。そしてその理解は、私たちが自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能です-自分の思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに [気づくの] です-それは極めて困難です。そのときだけ、こんなに有害でこんなに苦痛なその矛盾の解消が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ

102避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 22:02:00 ID:U9p6ScNE0
くまめも1-8-2
私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はない。
精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じる。一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする、そのときだけ、矛盾がある。欲望に固定点はない。しかし精神は固定点を確立する。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うから。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤がある。あなたは到達したい。成功したい。永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたい。ゆえにあなたは真理を求めていない。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった言葉をおおいかぶせる。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼ぶ。最低点は飲酒。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間に違いはない。ほんとうに真理を見つけたいなら、極めて正直で、明晰でなければならない。
私たちは皆何ものかになりたい。私たちが時間、達成、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾がある。精神は時間の産物。思考は過去に基づいている。思考が時間の領域の中で機能し、未来という見地、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾がある。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないから。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性がある。
ゆえに考える過程全体を理解することが不可欠。というのは、矛盾を見つけるのは、そこであるから。思考自体が矛盾になってしまった。なぜなら、自分たち自身の総合過程を理解してないから。そしてその理解は、自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能。思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに気づく。そのとき、有害で苦痛なその矛盾の解消がある。
(´・(ェ)・`)

103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/18(土) 22:50:44 ID:1d4drIFg0
酒を求める欲も、神を求める欲も同じだというのじゃ。
それは満足だけを求めているからなのじゃ。
なにものかになりたいという願望に拠って矛盾があるというのじゃ。
そこには時間による制約があるからなのじゃ。む
それら全ての過程を全体として観察できれば全ての矛盾は消えるのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 21:55:05 ID:lyY6c8gM0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 3

 私たちが心理的な結果を達成しようとしているかぎり、内側に安全を欲しがるかぎり、私たちの生には矛盾があるにちがいありません。私たちのほとんどはこの矛盾に気づいているとは、私は思いません。または私たちは気づいているとしても、そのほんとうの意義がわからないのです。反対に、矛盾は私たちに生きる弾み [・刺激] を与えてくれるのです。まさに摩擦の要素こそが、私たちに生きていることを感じさせてくれるのです。努力、矛盾の格闘が、私たちに生命力 [・活力] の感覚を与えてくれるのです。そういうわけで私たちは戦争を愛しているのです。そういうわけで私たちは挫折の戦いを楽しむのです。結果を達成したいという願望-すなわち心理的に安全でありたいという願望-があるかぎり、矛盾があるにちがいありません。そして矛盾があるところ、静かな精神はありえません。精神の静けさは、生の意義全体を理解するに [本質的・] 不可欠です。思考は決して平静ではありえません。思考-すなわち時間の産物-は、時間のないものを決して見つけられません。時間を超えているものを決して知ることはできません。まさに私たちの考えるということの本性こそが矛盾なのです。なぜなら、私たちはいつも過去や未来という見地に立って考えているからです。ゆえに私たちは決して現在を充分に認識し、充分に気づいていないのです。
 現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業です。なぜなら精神はごまかさずに直接的に事実に向き合う能力がないからです。思考は過去の産物ですし、ゆえに過去や未来という見地に立って考えられるだけです。それは現在の事実に完全に気づくことはできません。思考-すなわち過去の産物-が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけですし、そういう考えはもっと多くの矛盾 [を造り出し] ゆえに葛藤・抗争、悲惨、混乱を私たちのなかに、ゆえに私たちのまわりに造り出すだけです。
 矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければなりません。あなたが事実と直面しているとき、どうして選択がありうるでしょうか。確かに、思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実 [について] の理解は不可能になります。ゆえに自己認識が理解の始まりです。自己認識なしには、矛盾と葛藤 [・抗争] は継続するでしょう。自分自身の過程全体、総体を知るには、どんな熟練者もどんな権威も必要ではありません。権威の追求は恐れを生み育てるだけです。どんな熟練者もどんな専門家も私たちに、自己の過程をどう理解するのかを教えられません。それは自分自身で研究しなければなりません。あなたと私はそれについて話しをすることにより互いに助け合うことはできます。しかし誰も私たちのためにそれを解き明かせません。どんな専門家もどんな教師も、私たちのために [私たちに代わって] それを探検できません。私たちは私たちの関係において-ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づけるのです。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見するでしょう。観念はたんに象徴としての思考の凝結化です。そして象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらすのです。
 こうして思考の様式があるかぎり、矛盾は継続するでしょう。様式を [終わらせ] 、そのため矛盾を終わらせるには、自己認識がなければなりません。この自己の理解は、わずかな者のために取っておかれた過程ではありません。自己は、私たちの日常の話し、私たちの考え [方]と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきものです。私たちはあらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解されるということがわかるでしょう。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうる [ところの] あの精神の平静の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

105避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 22:01:47 ID:lyY6c8gM0
くまめも1-8-3
心理的な結果達成や内側の安全を欲しがるかぎり、生には矛盾がある。その矛盾は生きる刺激を与えてくれる。
精神の静けさは、生の意義全体を理解するに不可欠。思考は決して平静ではありえない。思考は、時間のないものを見つけられない。まさに考えるということの本性こそが矛盾。なぜなら、いつも過去や未来という見地に立って考えているから。ゆえに決して現在を充分に認識し、充分に気づいていない。
現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業。なぜなら精神は直接的に事実に向き合う能力がないから。思考が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけ。そういう考えはもっと多くの矛盾を造り出すだけ。
矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければならない。思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実についての理解は不可能。自己認識なしには、矛盾は継続する。自分自身の過程全体、総体を知るには、私たちの関係− ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づける。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見する。観念はたんに象徴としての思考の凝結化。象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらす。
思考の様式を終わらせ、矛盾を終わらせるには、自己認識が必要。自己は、日常の話し、考え方と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきもの。あらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解される。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうるところのあの精神の平静の可能性がある。
(´・(ェ)・`)

106鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/19(日) 22:54:14 ID:1d4drIFg0
安全への欲望は却って戦争を生み出すというのじゃ。
敵がいなくなれば安全であるからのう。
そのような欲は悲惨と混乱を生み出すのみなのじゃ。
今ここに気付いていることがそれから逃れる道なのじゃ。

107避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 22:55:20 ID:uLoVuJFE0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 1

 私たちのいう自己とはどういう意味なのか、知っているでしょうか。観念、記憶、結論、経験、色々な形の名づけることのできる、名づけることのできない意図、あろうとする、あるまいとする意識的な尽力、無意識の [蓄積された記憶]- 人種、集団、個人、氏族の-蓄積された記憶、行動において外部に投影されていても、美徳として霊的・精神的に投影されていても、です。そのすべての全体が、それ [自己という言葉]により私のいう意味です。このすべてを求める奮闘が自己です。それには競争、ありたいという願望が含まれています。その過程全体が自己です。そして私たちはそれに向き合うとき、それが邪悪なものであることを現実に知っています。私は「邪悪」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分割するからです。自己は自己閉鎖的です。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させす。私たちはこのすべてを知っています。また私たちは、自己がない [ときの] それらのとてつもない瞬間をも知っています-そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きるのです。
 経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要であるように、私には見えます。私たちは熱心であるなら、この経験の問題を理解すべきです。そこで私たちのいう経験とはどういう意味でしょうか。私たちはいつのときも経験をします-印象です。そして私たちはそれら印象を翻訳します。それらに応じて反応したり行動したりします。私たちは計算高くてずるい、などです。客観的に見られるものとそれに対する私たちの反応との間には、常なる相互作用が [あり] 、意識と、無意識の [諸々の] 記憶の間にも相互作用があるのです。
 私の [諸々の] 記憶に応じて、私は自分が見るどんなものにも、感じるどんなものにも反応します。私が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きているのではないでしょうか。何か見られるものへの反応、応答が経験です。私はあなたを見るとき、反応します。その反応に名づけることが経験です。私がその反応に名づけないなら、それは経験ではありません。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守ってください。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はありません。私はあなたを認識しないなら、どうしてあなたに会う [という] 経験ができるでしょうか。それは単純で正しく聞こえます。それは事実ではないでしょうか。すなわち、私は自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験をしたということをどうして知ることができるでしょうか。
 それから色々な願望の投影があります。私は保護されたい、内側に安全を得たいと願望します。あるいは大師、導師(グル)、教師、神を得たいと願望します。そして私は自分が投影したものを経験します。すなわち私は形を取った [願望] 、それに名をつけた願望を投影したのです。それにたいして反応するのです。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」「私は大師に会ったことがある」「私は大師に会ったことがない」と言わせるのです。あなたは、経験に名づける過程全体を知っています。願望が経験と呼ぶものなのではないでしょうか。
 私が精神の静寂を願望するとき、何が起きているでしょうか。何が起きるでしょうか。私は色んな理由のために、静寂な精神、静かな精神を持つことの重要性がわかります。なぜなら、ウパニシャッドがそう言ってきたし、宗教書がそう言ってきたし、聖者たちがそう言ってきたし、また時々私自身も静かであることがどんなに良いかを感じるからです。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるからです。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなにすてきか、どんなに楽しいかを感じるのです。願望は静寂を経験することです。私は静寂な精神を持ちたいのです。それで、「私はどうすればそれを得られるのか」と訊くのです。私は、あれこれの書物が瞑想について言うことと色々な形の修練を知っています。それで修練をとおして、私は静寂を経験しようと求めるのです。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立したのです。
(´・(ェ)・`)つ

108避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 23:00:41 ID:uLoVuJFE0
くまめも1-9-1
 観念、記憶、結論、経験、意図、無意識の蓄積された記憶。その全体が、自己の意味。このすべてを求める奮闘が自己。それには競争、願望が含まれる。その過程全体が自己。自己は邪悪。自己は分割するから。自己は自己閉鎖的。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させる。私たちは、自己がないときの瞬間をも知っている。そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きる。経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要。経験とはどういう意味か。経験する→その印象を翻訳する→それに応じて反応したり行動する。客観的に見られるものとそれに対する反応との間には相互作用があり、意識と無意識の記憶の間にも相互作用がある。記憶に応じて、自分が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きている。何か見られるものへの反応、応答が経験。その反応に名づけることが経験。その反応に名づけないなら、それは経験ではない。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守れ。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はない。自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験したと知れない。
願望の投影がある。保護されたい、内側に安全を得たいと願望する 自分が投影したものを経験する。すなわち形を取った願望、名をつけた願望を投影し、それにたいして反応する。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」と言わせる。
精神の静寂を願望するとき、何が起きるか。静寂な精神を持つことが重要。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるから。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなに楽しいかを感じる。願望は静寂を経験すること。私は、瞑想や修練をとおして、静寂を経験しようと求める。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立した。
(´・(ェ)・`)

109避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 20:00:37 ID:hp0r5VXk0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 2

 私は何が真理なのかを理解したいのです。それが私の願望、私のあこがれです。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が [後に] 続きます。なぜなら、私はそれについてたくさん読んできたからです。私は多くの人々がそれについて話すのを聞いてきました。宗教書はそれを叙述してきました。私はそのすべてが欲しいのです。何が起きるでしょうか。まさにそのほしがること、まさに願望が投影されるのです。そして私は経験します。なぜなら、その投影された状態を認識するからです。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばないでしょう。私はそれを認識するし、それを経験します。そしてその経験が自己、「私」に強さを与えるのではないでしょうか。それで自己は経験のなかに立てこもるのです。そのときあなたは、「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はある」、「神はない」と言うのです。特定の政治体制が正しく、他のすべてはそうでないと、あなたは言うのです。
 それで経験はいつも「私」を強めているのです。あなたが経験のなかに立てこもるほど、ますます自己が強められるのです。このことの結果として、あなたは一定の性格の強さ、知識、信念の強さを持ちます-それを他の人たちに見せびらかすのです。なぜなら、あなたは彼らがあなたほど利口ではないことを知っているから、あなたは文筆 [の才能] や弁舌の才能を持っているし、ずるがしこいからです。自己がやはり作用しているから、それであなたの信念、あなたの大師たち、あなたのカ-スト、あなたの経済的体制はすべて孤立化の過程です。ゆえにそれらは争いをもたらすのです。あなたはそもそもこのことにおいて真剣または熱心であるなら、この [自己という] 中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければなりません。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならないのです。
 精神、自己が投影しないこと、願望しないこと、経験しないことは可能でしょうか。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかります。それでもそれらを肯定的行動と呼ぶのではないでしょうか。それが肯定的な生き方と呼ばれるものです。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定です。あなたはそれでいいのでしょうか。私たちは、あなたと私は個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるでしょうか。では何が自己の解消をもたらすのでしょうか。宗教 [的集団]と その他の集団は同一化を提供してきたのではないでしょうか。「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」 [ということ] が、彼らの言うことです。しかし確かに同一化もやはり自己の過程です。より大きなものは単に「私」の投影です-それを私は経験するし、ゆえにそれは私を強めるのです。
(´・(ェ)・`)つ

110避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 20:08:52 ID:hp0r5VXk0
くまめも1-9-2
何が真理なのかを理解したい。それが私の願望。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が後に続く。そして私は経験する。なぜなら、その投影された状態を認識するから。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばない。私はそれを認識するし、それを経験する。そしてその経験が自己、「私」に強さを与える。それで自己は経験のなかに立てこもる。そのときあなたは、「私は知っている」、と言う。
経験はいつも「私」を強めている。結果として、あなたは一定の性格、知識、信念の強さを持つ。それを他の人たちに見せびらかす。それであなたの信念はすべて孤立化の過程。ゆえにそれらは争いをもたらす。この自己という中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければならない。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならない。
 精神、自己が投影、願望、経験しないことは可能か。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかる。それでもそれらを肯定的行動、生き方と呼ばれる。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定。私たちは、個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるか。何が自己の解消をもたらすのか。宗教的集団は同一化を提供してきた「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」という。しかし同一化も自己の過程。より大きなものは単に「私」の投影。それを私は経験するし、それは私を強める。
(´・(ェ)・`)

111鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/21(火) 23:40:20 ID:1d4drIFg0
観念により自己はあり、それは記憶に支えられているのじゃ。
そして経験に拠って強められるというのじゃ。
そうであるから伝統的な行はむしろ自己を強める作用をしてしまうのじゃ。
行の経験やその結果として起こる神秘体験などの経験が積み重なっていくからなのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 21:05:48 ID:dinx1qu20
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 3

 色んな形の修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけです。私たちは自己を解消するであろう要素を見つけられるでしょうか。それともそれは間違った擬問でしょうか。それが、私たちが基本的に欲しいものです。私たちは、何か「私」を解消するものを、見つけたいのではないでしょうか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-があると、私たちは思います。しかしそれらのすべては同じ水準にあるのです。一つが他のものより勝れているわけではありません。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるからです。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるでしょうか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消する仕方を見つけたいのです。あなたは自分自身にこう訊ねたことがあるにちがいありません-「私は、『私』がいつのときも機能し、私自身にだけでなく私のまわりの皆に対していつも心配、恐れ、挫折、絶望、悲惨をもたらしているのがわかる。その自己が部分的にではなく完全に解消されることは可能だろうか」と。私たちはその根に遡り、それを破壊できるでしょうか。それが真に機能する唯一の道なのではないでしょうか。私は部分的に智恵があるのではなく、統合された仕方で智恵があるようになりたいのです。私たちのほとんどは [色んな] 層において智恵があるのです-あなたはたぶん一つの仕方で、私は何か他の仕方で、です。あなたたちのうち或る者は営業の仕事に、他の或る者は事務の仕事に智恵がある、などです。人々は違った仕方で智恵があるのです。しかし私たちは統合的 [融和的] に智恵はないのです。統合的 [融和的] に智恵があるということは、自己を持っていないという意味です。それは可能でしょうか。
 自己が今完全に不在であることは可能でしょうか。あなたはそれが可能であることを知っています。必要な要素、要件は何でしょうか。それをもたらす要素は何でしょうか。私はそれを見つけられるでしょうか。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信しています。それで私は、 [そこにおいて] 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないでしょうか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることを必要とします-そのためそれはすり抜けてしまわないのです。私はとても熱心です-自己を解消したいのです。私はそう言うとき、自己を解消するのは可能であることを知っているます。「私はこれを解消したい」と言った瞬間、そこにはやはり自己 [について] の経験があるのです。それで自己は強められるのです。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのでしょうか。創造の状態はそもそも自己の経験ではないということがわかります。創造は [そこに] 自己がないときです。なぜなら、創造は知的ではなく、精神の [もの] ではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるからです。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、 [そこに] 創造が起こりうる状態にあることは可能でしょうか-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味です。問題はこれなのではないでしょうか。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験です。精神が認識しないことは可能でしょうか。それは、自己の経験である [静寂] 、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

113避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 21:13:00 ID:dinx1qu20
くまめも1-9-3
修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけ。自己を解消するであろう要素を見つけられるか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-がある。しかしそれらのすべては同じ水準にある。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるから。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力。破壊的な力。それを解消する仕方を見つけたい。統合された仕方で智恵があるようになりたい。
自己が今完全に不在であることは可能。必要な要素、要件は何か。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信している。それで私は、 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることが必要-そのためそれはすり抜けてしまわない。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのか。創造の状態はそもそも自己の経験ではない。創造は自己がないとき。なぜなら、創造は知的ではなく、精神のものではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるから。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、そこに創造が起こりうる状態にあることは可能か-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験。精神が認識しないことは可能か。それは、自己の経験である静寂、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけ。
(´・(ェ)・`)

114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 00:06:03 ID:1d4drIFg0
どんな修練も信念も知識も自己を強めるだけというのじゃ。
それをする自分という観念が起こるからのう。
完全な静寂の時に自己は認識されないというのじゃ。
精神の働きも静まった境地にまで至ればそれも可能なのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:33:26 ID:b/R.LjPg0
>>114
おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww

116避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:36:02 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

またまたまたまた・・・・・ 馬鹿鬼は瞬殺されたなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

117避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:37:20 ID:b/R.LjPg0
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       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
      〈 〈]  ゚,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´  キチガイだろwwww  
          :ヽ   :i |:     
             :/  :⊂ノ|:     wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

118避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 21:23:50 ID:tjv95wwU0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 4

 自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのでしょうか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的 [・精神的] 実体があるのでしょうか。私たちは [そういうものが] あると思うのではないでしょうか。ほとんどの宗教的な人たちは、そういう要素があると思うのです。唯物論者たちは言います-「自己が破壊されることは不可能である。それは政治的、経済的、社会的に条件づけられ抑制されうるだけである。私たちはそれを一定の様式の中にしっかりと抑えられるし、壊せる。ゆえにそれは高い生に、道徳的な生に導くように [することができる] 、何ごとにも邪魔しないで社会的様式に付いていくよう、たんに機械としてだけ機能するようにすることができる」と。それを、私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人たちがいます-私たちはそう呼ぶけれども、彼らはほんとうは宗教的ではありません-彼らは言います「基本的にそういう要素がある。私たちはそれと接触できるならなら、それが自己を解消するだろう」と。
 自己を解消するような要素はあるのでしょうか。どうか私たちが何をしているのかを、わかってください。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいるのです。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるだろうか、わかるでしょう。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思うのです。では、精神が構想できるようなものはあるのでしょうか。あるかもしれないし、ないかもしれません。それは論点ではありません。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験ではないでしょうか。あなたが信じているとき、それが現実に起きていることではないでしょうか。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程ではないでしょうか。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影したのです。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をするのです。そういう経験は自己を強めるだけです。ゆえにあなたは何をしたのでしょうか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はやはりあるのです。なぜなら、あなたがそれを経験したからです。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動です-ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけです。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

119避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 22:19:53 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、

>一体となっている感情が
 阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。

>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
 平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?

ここで、現量の定義と照らし合わせると

  直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
  任運にして無分別なり
  諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
  境に任せてこれを縁ずる

上記とまさに合致してると思いますけどね。

上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。

120鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 23:06:01 ID:1d4drIFg0
自分から離れて自分を見たり、破壊できる実体はないというのじゃ。
破壊したと思ったらそれが自己なのじゃ。
そこにはまだ破壊する主体の観念が在るのじゃ。
違う名前をつけただけなのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 00:29:59 ID:MutNoc3w0
くまめも1-9-4
自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的・精神的実体があるのか。
 自己を解消するような要素はあるのか。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいる。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるか。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思う。では、精神が構想できるようなものはあるのか。あるかもしれないし、ないかもしれない。それは論点ではない。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験。あなたが信じているとき、それが現実に起きていること。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影した。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をする。そういう経験は自己を強めるだけ。ゆえにあなたは何をしたのか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけ。自己はやはりある。なぜなら、あなたがそれを経験したから。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動。ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけ。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能している。
(´・(ェ)・`)

122避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:43:32 ID:zr.JxX7M0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 5

 あなたは、自己の過程全体、ずるがしこい、とてつもない考案、智恵 [ がわかるとき]、同一化をとおし、美徳をとおし、経験をとおし、信念をとおし、知識をとおして、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき-精神がそれ自体が作った循環、檻のなかで動いていることがわかるとき、何が起きるでしょうか。あなたはそれに気づき、充分に認識するとき、そのときとてつもなく静かではないでしょうか-強制をとおしてではなく、どんな報賞をとおしてでもなく、どんな恐れをとおしてでもなく。あなたは、精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、あなたはそれを観察し、わかるとき、行動においてそれに完全に気づくとき、その地点に至るとき-イデオロギ-として、言葉としてではなく、投影された経験をとおしてではなくて、現実にその状態にあるとき-そのとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかるでしょう。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にあるのです。精神が創造していないとき、創造があるのです-それは認識できる過程ではありません。
 真実、真理は認識されるべきものではありません。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求-このすべては去らなければなりません。美徳の追求を意識している美徳の人は、決して真実を見つけられません。彼はとてもまともな人であるかもしれません。しかしそれは、真理の人、理解する人であるのとは全く異なっているのです。真理の人にとって、真理は生じたのです。美徳の人は正義の人です。正義の人は、何が真理なのかを決して理解できません。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから、彼は美徳を追求しているからです。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけです。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要なのです。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないでしょうし、すべての災いと悲惨の中心になるでしょう。しかしあなたと私が個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己の[もの] ではありません。自己は愛を認識できません。「私は愛している」とあなたは言います。しかしそのとき、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はないのです。しかしあなたが愛を知るとき、自己はないのです。愛があるとき、自己はないのです。
(´・(ェ)・`)つ

123避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:47:01 ID:zr.JxX7M0
くまめも1-9-5
自己の過程全体、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき、そのときとてつもなく静かになる。精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、現実にその状態にあるとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかる。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にある。精神が創造していないとき、創造がある。それは認識できる過程ではない。
 真理は認識されるべきものではない。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求、このすべては去らなければならない。美徳の人、正義の人は、何が真理なのかを決して理解できない。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけ。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないし、すべての災いと悲惨の中心になる。しかし個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき愛が何であるかを知る。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革である。愛は自己のものではない。自己は愛を認識できない。「私は愛している」とあなたは言う。しかし、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はない。しかしあなたが愛を知るとき、自己はない。愛があるとき、自己はない。
(´・(ェ)・`)

124鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/24(金) 23:00:40 ID:1d4drIFg0
自己に気付いたならば静寂があるというのじゃ。
真理は認識されるものではなく、真理の人に生じるというのじゃ。
世界を変えられる心の改革とは自己を滅し、愛を知った時であるというのじゃ。
 愛がある時自己は無いからなのじゃ。
それは慈悲なのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 17:41:33 ID:b/R.LjPg0
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      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
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          :ヽ   :i |:     
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126避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 22:24:19 ID:oeQgDAXg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 1

  恐れとは何でしょうか。恐れは、何かとの関係においてだけ存在できるのです、[それだけが]孤立して存在できません。どうして私は死を恐れることができるでしょうか。どうして私は知らないものを恐れることができるでしょうか。私は知っているものだけを恐れることができるのです。私は死を恐れていると言うとき、ほんとうは、知らないもの-すなわち死-を恐れているのでしょうか。それとも知っているものを失うことを恐れているのでしょうか。私の恐れは、死についての [恐れ] ではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての [恐れ] です。私の恐れはいつも、知らないものと [の関係において]ではなく、知っているものとの関係においてあるのです。
そこで私の探究は[今や]、知っているものへの恐れ―すなわち私の家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れ-からどのようにして自由になるのか、です。恐れは良心から生じると、あなたは言うかも知れません。しかしあなたの良心は、あなたの条件付けにより形成されています。ですから良心はやはり、知っているものの結果です。私は何を知っているでしょうか。知識は、[せいぜい]観念を持つこと、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における [継続性の] ように、継続性の感覚を持つことです-それ以上ではないのです。観念は、記憶であり、経験の結果です-それは挑戦に対する応答です。私は知っているものを恐れています-それは、 [こういう意味です-] 私は人々やものごとや観念を失うことを恐れている。あるがままの自分を発見することを恐れている。途方に暮れることを恐れ [ている] 、失ってしまったり、獲得しなかったり、もはや楽しみを得られないとき生じるかもしれない苦痛を恐れている、という意味です。
 苦痛への恐れがあります。身体的苦痛は神経的応答ですが、心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じるのです。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるからです。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれるのです。すなわち、私は蓄積物、経験の束です-それらが、どんな深刻な形の動揺をも防いでくれるのです。そして私は動揺したくないのです。ゆえに私は、誰でもそれら[蓄積物]を動揺させる者を、恐れるのです。こうして私の恐れは、知っているものについて [の恐れ] です。私は物質的、心理的な蓄積物-私が苦痛をかわしたり、悲しみを防いだりする手段として集めてきたもの-を恐れています。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにあるのです。知識もまた苦痛を防ぐのを助けてくれます。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けてくれるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助けてくれるのです。そういうわけで私は自分の信念を失うことを恐れるのです―そういう信念の真実性について完全な知識や具体的証拠を持っていないにもかかわらず、です。私は自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれません。なぜなら私自身の経験が、私に強さ、確信、理解を与えてくれるからです。しかし、私が習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じものです―苦痛をかわす手段です。
(´・(ェ)・`)つ

127避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 22:28:45 ID:oeQgDAXg0
くまめも10-1
恐れは、何かとの関係においてだけ存在できる。孤立して存在できない。死を恐れること、知らないものを恐れることはできない。私は死を恐れていると言うとき、死についてのではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての恐れ。家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れからどのようにして自由になるのか。恐れは良心から生じるか。良心は、条件付けにより形成される、から良心は、知っているものの結果。知識は、観念、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における継続性の感覚を持つこと。観念は、記憶であり、経験の結果。それは挑戦に対する応答。私は知っているもの、人々やものごとや観念を失うこと、あるがままの自分を発見すること、途方に暮れること、失ってしまったり、獲得しなかったり、楽しみを得られないとき生じる苦痛を恐れている。
身体的苦痛は神経的応答。心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じる。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるから。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれる。私は蓄積物、経験の束。それらが、動揺を防いでくれる。そして動揺したくない。ゆえに誰でもそれら蓄積物を動揺させる者を、恐れる。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにある。知識もまた苦痛を防ぐのを助ける。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助ける。そういうわけで自分の信念を失うことを恐れる。自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれない。なぜなら自身の経験が、強さ、確信、理解を与えてくれるから。しかし、習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じもの。苦痛をかわす手段。
(´・(ェ)・`)

128鬼和尚:2020/07/26(日) 00:14:43 ID:1d4drIFg0
死の恐れとは家族や資産などを失う恐れというのじゃ。
誰もが死を忘れて死に無知になっているからのう。
その恐れからの逃避として知識や信念にすがるというのじゃ。
それは金や薬や酒や権力に執りつかれるのと同じなのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 00:18:08 ID:b/R.LjPg0
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       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
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      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
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          :ヽ   :i |:     
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130避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:45:17 ID:6kL7WP160
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 2

  恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在しています-それ[蓄積 ] が、失うことへの恐れを造り出すのです。ゆえに知らないものへの恐れはほんとうは、蓄積された知っているものを失うことについての恐れです。蓄積はまちがいなく恐れを意味します―それ [ 恐れ]が今度は苦痛を意味します。それで「私は失ってはならない」と言った瞬間、恐れがあるのです。蓄積における私の意図は、苦痛をかわすことですが、苦痛は蓄積の過程において本来的にあるのです。まさに私の持っているものごとが、恐れを造り出すのです-それが苦痛です。
 防御の種が攻撃をもたらすのです。私は物理的[・身体的]な安全が欲しい。こうして私は主権[独立]政府を造り出します-それは武装した軍隊を必要とします-それは戦争を意味し、それは安全を破壊します。自己保護への願望があるところはどこでも、恐れがあります。安全を要求することの虚偽がわかるとき、私はもはや蓄積しません。それはわかるが、蓄積せざるを得ないと、あなたが言うなら、それは、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないからです。
  恐れは蓄積の過程に存在しています。そして何かへの信念は蓄積過程の一部です。私の息子が死にます。すると私は心理的にこれ以上の苦痛を持つのを防ぐために、輪廻転生を信じます。しかし、まさに信じる過程こそに、疑いがあるのです。外に向かって私は物を蓄積して戦争をもたらします。内に向かって私は信念を蓄積して苦痛をもたらします。私が安全でありたい、銀行預金、楽しみなどを持ちたいと思うかぎり、生理的または心理的に何ものかになりたいと思うかぎり、苦通があるにちがいありません。まさに私が苦痛をかわすためにしていることこそが、私に恐れ、苦痛をもたらすのです。
  恐れは、私が特定の様式のなかにいたいと願望するとき、生じます。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味です。私が特定の生き方を要求するとき、それ自体が恐れの源です。私の困難は、一定の枠のなかで生きたいという願望です。私はその枠を壊せないでしょうか。私は、真理 [がわかるとき] -枠が原因として恐れを引き起こしているということ、この恐れが枠を強めているということ-がわかるときだけ、そうできるのです。私は恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけです-それは [原因として] さらなる恐れを引き起こすでしょう。枠を壊したいという願望に基づいた私の方のどんな行動も、もう一つの様式を [造り出し] 、ゆえに恐れを造り出すだけでしょう。恐れを引き起こすことなく、すなわちそれ [枠] に関する私の方の意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきでしょうか。これは、私が行動してはならない、枠を壊すためのどんな動きもしてはならない、という意味です。私が枠について何もせずに単にそれを見ているとき、私に何が起きるでしょうか。精神自体が、枠、様式であることがわかるのです-それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きているのです。ゆえに精神自体が恐れです。精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行くのです。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ

131避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:49:48 ID:6kL7WP160
くまめも10-2
恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在する。蓄積が、失うことへの恐れを造り出す。蓄積における意図は、苦痛をかわすことだが、苦痛は蓄積の過程において本来的にある。防御の種が攻撃をもたらす。物理的・身体的な安全が欲しい。自己保護への願望があるところは、恐れがある。安全を要求することの虚偽がわかるとき、もはや蓄積しない。それはわかるが蓄積せざるを得ないと言うなら、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないから。
  恐れは蓄積の過程に存在する。何かへの信念は蓄積過程の一部。外に向かって物を蓄積して戦争をもたらし、内に向かって信念を蓄積して苦痛をもたらす。苦痛をかわすためにしていることが、恐れ、苦痛をもたらす。
恐れは、特定の様式(枠)のなかにいたいと願望するとき、生じる。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味。枠が原因として恐れを引き起こし、この恐れが枠を強めているという真理がわかるときだけ、枠を壊せる。恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけ。それはさらなる恐れを引き起こす。枠を壊したいという願望に基づいた行動も、もう一つの様式を造り出し、恐れを造り出すだけ。恐れを引き起こすことなく、すなわち枠に関する意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきか。枠について何もせずに単にそれを見ているとき、精神自体が、枠、様式であることがわかる。それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きている。ゆえに精神自体が恐れ.精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行く。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味。
(´・(ェ)・`)

132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/26(日) 22:24:32 ID:1d4drIFg0
蓄積したものを失うことが恐れになるというのじゃ。
金でも知識でも蓄積してきたものを失うのが恐れになるのじゃ。
そもそも金とか知識も恐れからの逃避として蓄積してきたものなのじゃ。
恐れからの逃避として蓄積すれば、今度はそれが恐れを生む悪循環になるのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 10:27:58 ID:s99CdGwQ0
和尚様
井上義衍の縁者の松本自證老師は悟られているのでしょうか?
認識に問題があることを分かっている気がします。

http://zenmasterjinen.blog.jp/archives/19341423.html

134避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 21:34:00 ID:hdQ2/nGg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 3

恐れは様々な逃避を見つけます。普通の種類は同一化なのではないでしょうか-国との、社会との、観念との同一化です。あなたは軍隊の行進や宗教的行列など、行進[・行列]を見るとき、または祖国が侵略される危機にあるとき、自分がどのように反応するかに気づいたことはないでしょうか。あなたはそのとき祖国と、或る存在[神・人]と、イデオロギーと自分自身を同一化します。あなたは自分の子供、自分の妻、特定の形の行動や無行動と自分自身を同一化する他の時があります。同一化は[忘我の・]自分を忘れる過程です。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがあることを知っています。しかし何かもっと偉大なもの、何か価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避があるのではないでしょうか。私は「祖国」について話をするなら、一時的に自分自身を忘れるのではないでしょうか。私は神について何かを言えるなら、自分自身を忘れるのです。私が自分の家族、集団、特定の党派、一定のイデオロギーと自分自身を同一化できるなら、そのとき一時的な逃避があるのです。
 ゆえに 同一化は、一つの形の自己からの逃避です―まさに美徳が一つの形の自己からの逃避であるように、です。美徳を追求する人は、自己から逃避しているのです。彼は狭い精神を持っているのです。それは美徳のある精神ではありません。というのは美徳は、何か追求できないものであるからです。あなたは美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に、「私」に強さを与えるのです。恐れは、私たちのほとんどにとって、形は違っても共通していますが、いつも代用物を見つけるにちがいないし、ゆえに私たちの格闘を増加させるにちがいないのです。あなたは代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなるのです―あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができているのです。なぜならその裏には恐れがあるからです。
私たちは今、恐れとは何かを知っているでしょうか。それは、あるがままを受け入れないことではないでしょうか。私たちは「受け入れる」という言葉を理解しなければなりません。私はその言葉を、受け入れるために為される努力という意味で使っているわけではありません。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはありません。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込みます。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないことです。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私はどうして[それらを]越えてゆけるでしょうか。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるでしょうか。障害がないとき、なんととてつもない喜びがあるかを、私たちは知っています。あなたは、身体が完ぺきに健康であるとき、一定の喜び、幸福があることを知らないでしょうか。精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、一定の喜びを経験することを、知らないでしょうか。自己が不在であるとき、この状態を経験したことがないでしょうか。確かに私たちは皆 [経験したことが] あるのです。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめられるときだけ、理解と、自己からの自由があるのです。そして私は、願望-すなわちまさに思考の表現そのもの-から生まれた活動すべての過程全体を理解するときだけ、それができるのです-正当化せず、非難せず、抑圧せずに、です。というのは、思考は願望と異ならないからです。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の [諸々の] 制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知るでしょう。  
(´・(ェ)・`)つ

135避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 21:40:20 ID:hdQ2/nGg0
くまめも10-3
恐れは様々な逃避を見つける。国、社会、観念との同一化。同一化は忘我の過程。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがある。しかし何かもっと偉大なもの、価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避がある。ゆえに 同一化は、自己からの逃避。しかし、たとえば、美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に強さを与える。恐れは、いつも代用物を見つける。ゆえに格闘を増加させる。代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなる。あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができている。なぜならその裏には恐れがあるから。
恐れとは、あるがままを受け入れないこと。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはない。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込む。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないこと。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私は、それらを越えてゆけない。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるか。障害がないとき、精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、とてつもない喜びがある。自己が不在であるとき、この状態を経験する。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめるときだけ、理解と、自己からの自由がある。そして私は、願望から生まれた活動すべての過程全体を、正当化、非難、抑圧せずに理解するときだけ、それができる。というのは、思考は願望と異ならないから。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知る。
(´・(ェ)・`)

136鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/27(月) 23:08:57 ID:1d4drIFg0
>>133 悟っていないのじゃ。
 ハッキリしただけじゃな。
 それは悟りではないのじゃ。

137鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/27(月) 23:26:41 ID:1d4drIFg0
恐れから人は国家や組織と同一化するというのじゃ。
それは一時的に恐れを忘れさせてくれるが、更なる悲惨をもたらすものじゃ。
私という認識の主体がなければ喜びと、幸福が在るのじゃ。
それは自己からの認識全体が観られるとき、起こるものじゃ。

138避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 21:40:28 ID:9Bjm15Z60
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)1

 私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます-わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
 単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです-ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします-車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです-人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
 信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
(´・(ェ)・`)つ

139避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 21:46:13 ID:9Bjm15Z60
くまめも11-1
単純さとはたんに外側の表現、退くことではない。単純さは不可欠。単純さは、自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうる。
単純さは、たんに様式への適応だけではない。たんなる外側の表現は、内側の存在の単純さという意味を含んでいない。なぜなら、外側から、ますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているから。生はますます複雑になりつつある。それから逃避するために、断念したり、無執着であろうとする。私たちは退くことにより単純であろうとする。そういう放棄は問題を解決しない。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけ。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題。なぜなら、単純さはますます敏感にするから。敏感な精神、心は不可欠。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるから。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているが、それらを理解することによってだけ、内側で単純でありえる。しかし私たちは人々、所有物、観念により、囚われることを好む。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられない。ゆえに、それは内側で始まらなければならない。
信念の過程全体を、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由がある。信念からの自由があるとき、単純さがある。その単純さは智恵を必要とする。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければならない。気づくには、思考や行動のどんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければならない。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影。内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がない。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒する。
(´・(ェ)・`)

140鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 00:06:49 ID:1d4drIFg0
心の内側で単純であることは知覚を鋭敏にしてくれるというのじゃ。
執着や恐れを理解すれば単純にありえるというのじゃ。
信念への執着を理解する時、自由で単純になれるのじゃ。
そのようにして内側で変容することで真の改革はなされるのじゃ。

141避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 21:57:47 ID:IdZpVTSU0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)2

 ゆえに、中で始めなければなりません-排他的にではなく、外的なものを拒絶するのではありません。あなたは、外的なものを理解することにより、どうして外側に抗争、格闘、苦痛が存在するのかを見出すことにより、確かに、内的なものに至ります。それをますます究明するにつれて、自然に、外側の抗争と悲惨を生み出すところの心理状態に入るのです。外側の表現は、ただ私たちの内側の状態の表示であるだけです。しかし内側の状態を理解するには、外的なものをとおして接近しなければなりません。私たちのほとんどはそうします。内的なものを理解するなかで-排他的にではなく、外的なものを拒絶することによってではなく、外的なものを理解し、そして内的なものに思いがけず出会うことによって-私たちは、自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になるということを、見つけるでしょう。かくも本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さです。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すからです。敏感でなく、鋭敏でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もありません。私たち自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にするのです。政府により、自分自身により、達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つにちがいありません。外側では、あなたは順応して、とても多くの宗教的な人たちがするように単純さの外観を装うかもしれません。彼らは色んな修練を実践し、色んな組織に加入し、特定の流儀で瞑想をする、などです-すべてが単純さの外観を装っています。しかしそういう順応は単純さに役立ちません。どんな種類の強制も決して単純さに導けません。反対に、あなたは抑圧すればするほど、代用するほど、昇華するほど、ますます単純でなくなるのです。しかしあなたは昇華、抑圧、代用の過程を理解すればするほど、ますます単純である可能性が大きくなるのです。
 私たちはとてつもなく博識で利口になることによってではなく、単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑なのです。単純な人は、複雑な人よりはるかにもっと直接的に見えて、もっと直接的な経験をします。私たちの精神は、事実について、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、私たちは単純である [能力] 、私たち自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまったのです。これらの問題は、新しい接近法を要求します。そしてそれらは、私たちが単純で [あり] 、内側で本当に単純であるときだけ、そのように接近できるのです。その単純さは、ただ自己認識をとおし、私たち自身を理解することをとおしてだけ、訪れるのです。私たちの考え [方]と感じ方、私たちの思考の動き、私たちの応答 [を理解する] 。いかに私たちが恐れをとおして世論に、他の人たちが言うことに、ブッダやキリストや偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示しています- [を理解することをとおして、です] 。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはないのです。
(´・(ェ)・`)つ

142避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 22:01:47 ID:IdZpVTSU0
くまめも11-2
外側に抗争、格闘、苦痛が存在するわけを見出すことにより、内的なものに至る。自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になる。本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さ。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すから。敏感でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もない。自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にする。達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つ。抑圧、代用、昇華するほど、ますます単純でなくなる。しかし、昇華、抑圧、代用の過程を理解するほど、ますます単純である可能性が大きくなる。
私たちは単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑。私たちの精神は、事実、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、単純である [能力] 、自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまった。単純さは、ただ自己認識をとおしてだけ、訪れる。いかに私たちが恐れをとおして、世論に、他の人たちが言うことに、偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示している − を理解することをとおして。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはない。
(´・(ェ)・`)

143鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 23:02:09 ID:1d4drIFg0
外側での抗争、格闘、苦痛が何故起こるのか探求すれば必然的に心の内側に原因があるとわかるというのじゃ。
外で起こることは全て心の内側の表現に過ぎないのじゃ。
全ては心で作られるのであるからのう。
仏陀やキリストの言葉でさえただ従うだけでは安心を求める欲から起こる行いというのじゃ。
自分を観ることでのみ問題は解決できるのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 22:25:52 ID:UDC2l2O20
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)3

 単純であることなしに、敏感でありえません-木々に、鳥たちに、山々に、風に、世界で私たちのまわりで起きていることすべてに対して。単純でなければ、ものごとの内側の暗示に対して敏感でありえません。私たちのほとんどは、意識の上のほうの水準で、あまりに表面的に生きています。そこでは私たちは思慮深くあろう、または智恵を持とうとします-それは宗教的であることと同義です。そこでは私たちは強制をとおし、修練をとおして、自分たちの精神を単純にしようとします。しかしそれは単純さではありません。私たちが上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしないのです。私たちの意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難です。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、私たちの存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないからです-それは、あらゆるほのめかし、あらゆる暗示に目覚めている、という意味です-私たちの恐れ、希望に気づいて、 [それらを] 究明し、それらからますます自由になる [という意味です] 。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、私たちは自分たちが直面する多くの問題を解決することができるのです。
 知識は私たちの問題を解決しそうにありません。あなたは、例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれません-あなたは知っていると、私は言いません。またはあなたはそれを確信しているかもしれません。しかし、それは問題を解決しません。死は、あなたの理論により、情報により、または確信によって棚上げできません。それ [死] は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的です。
 これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければなりません。なぜなら、私たちの問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけであるからです。そして直接の経験をするには、単純さがなければなりません-それは敏感さがなければならない、という意味です。精神は、知識の重みにより鈍らされます。精神は、過去により、未来により鈍らされます。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、私たちの環境が常に私たちに加えてくる強力な影響と圧力に対処できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

145避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 22:34:29 ID:UDC2l2O20
くまめも11-3 
世界でまわりで起きていることすべてに対して、ものごとの内側の暗示に対して、単純であることなしに、敏感でありえない。意識の上のほうの水準で、表面的に生きている。そこで、思慮深くあろう、智恵を持とうとする。そこで強制、修練をとおして、精神を単純にしようとする。しかしそれは単純さではない。上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしない。意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないから。それは、あらゆる暗示に目覚めている、という意味。恐れ、希望に気づいて、究明し、それらからますます自由になるという意味。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、自分たちが直面する多くの問題を解決できる。
知識は問題を解決しない。例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれない、それを確信しているかもしれない。しかし、それは問題を解決しない。死は、理論により、情報により、確信により棚上げできない。死は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的。
これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければならない。なぜなら、問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけ。そして直接の経験をするには、単純さ、敏感さがなければならない、という意味。精神は、知識の重みにより、過去により、未来により鈍らされる。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、環境が常に加えてくる強力な影響と圧力に対処できる。
(´・(ェ)・`)

146鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/30(木) 22:57:00 ID:1d4drIFg0
世間でも断捨離という片づけが流行っているのじゃ。
身辺から物が無くなればすっきりして心身もよくなるのじゃ。
心から考えを捨てて単純に成れば敏感にもなるのじゃ。 
それには自らの存在を探求する熱意が必要というのじゃ。

147避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:47:17 ID:D8qZy99Q0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)4

 こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ-ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき-どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく-そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです-この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。

 問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです-育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。
(´・(ェ)・`)つ

148避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:53:54 ID:D8qZy99Q0
くまめも11-4
宗教的な人は、ほんとうは、内側で単純である 人、何ものにもなろうとしていない人。そういう精神は、とてつもない受容性の能力がある。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないから。ゆえにそれは、真理を受け取る能力がある。しかし真実を追求している精神、扇動されている精神は、単純な精神ではない。権威の様式に順応する精神は、敏感でない。そして精神が本当に敏感で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力がある。幸せがありうるのは、そのときだけ。というのは、幸せは 終わりの目的ではないから。それは真実の結果。精神と心が単純、敏感になったとき-どんな形の強制、指令、賦課をとおしてでもなく-そのとき自分たちの問題にとても単純に取り組める。問題がたとえどんなに複雑でも、それらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができる。この外側の混乱、騒乱、敵対に、理論、定式でもってでなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、現在の時代に求められている。宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できない。だから、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければならない。そういうわけで、気づくこと、考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、重要。そこから、単純さが訪れる。美徳や実践ではない謙虚さが訪れる。獲得される謙虚さは、謙虚でなくなる。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではない。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけ。育成された謙虚さではない。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないから。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができる。
(´・(ェ)・`)

149鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/31(金) 22:54:02 ID:1d4drIFg0
外見を飾るのではなく内面で単純な者にはとてつもない受容性があるというのじゃ。
しかしそれは順応することではないというのじゃ。
権威や伝統に順応すればそれは鈍感になるからのう。
すべてをありのままに見る精神が単純なのじや。

150避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 20:25:52 ID:Cm90o6.Y0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 1

 自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味です-観念と人々の世界とだけでなく、また自然と [の関係] 、私たちが所有するものごととの関係を、です。それが私たちの生です-生は全体との関係です。その関係を理解することは専門化を要求するでしょうか。明白に [要求] しません。それが要求するものは、全体としての生に出会うための気づきです。どのようにして気づくべきでしょうか。それが私たちの問題です。どのようにしてその気づきを持つべきでしょうか-私がこの [気づきという] 言葉を、専門化という意味を持たせずに使ってよければ。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきでしょうか-それは、あなたの隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との [関係] 、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの [関係]、 という意味です。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきでしょうか。確かにそれが私たちの生なのではないでしょうか。関係なしに生はありません。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではありません。反対にそれは、関係の総合過程 [について] の充分な認識や気づきを要求します。
 どのようにして気づくべきでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。あなたはどのように人との関係に気づくのでしょうか。あなたはどのように木々に、鳥の鳴き声に気づくのでしょうか。あなたは新聞を読むとき、どのように自分の反応に気づくのでしょうか。私たちは内的な応答とともに精神の表面的な応答にも気づいているでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。初めに私たちは刺激に対する応答に気づくのではないでしょうか-それは明白な事実です。私は木々を見ます。すると応答があります。それから感覚、接触、同一化、欲望 [があります] 。それは普通の過程なのではないでしょうか。私たちはどんな書物も研究せずに、現実に起きることを観察できます。
 それで同一化をとおして、あなたは楽しみと苦痛を持ちます。そして私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避なのではないでしょうか。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれるなら、即時に「能力」があるのです。即時に、その事実への気づきがあるのです。そしてそれが苦痛であるなら、「能力」はそれを避けるために開発させられます。私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗するだろうと、私は思います。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないからです。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術ではありません。この自分自身への気づきは、確かに関係の行動 [・作用] において試せるのです。それは私たちの話し方、ふるまい方において試せるのです。どんな同一化もなく、どんな比較もなく、どんな非難もなく、あなた自身を見守ってください。ただ見守ってください。するとあなたはとてつもないことが起きていることが、わかるでしょう。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく-なぜなら、私たちの活動のほとんどは無意識的であるから-あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づくのです。
(´・(ェ)・`)つ

151避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 20:30:47 ID:Cm90o6.Y0
くまめも12-1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味。観念と人々の世界、自然、所有するものごととの関係。生は全体との関係。その関係を理解することは、全体としての生に出会うための気づきを要求する。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきか-それは、隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの 関係。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきか。関係なしに生はない。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではない。反対にそれは、関係の総合過程の充分な認識や気づきを要求する。
どのように何かに気づくのか。初めに刺激に対する応答に気づく。木々を見る→応答がある→感覚、接触、同一化、欲望がある。→楽しみと苦痛を持つ。
私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれる→即時に「能力」がある。即時に、その事実への気づきがある。それが苦痛である→「能力」はそれを避けるために開発される。
私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗する。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないから。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術でない。この自分自身への気づきは、関係の行動・作用、話し方、ふるまい方において試せる。どんな同一化、比較、非難もなく、あなた自身をただ見守れ。するととてつもないことが起きていることがわかる。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく、あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づく。
(´・(ェ)・`)

152鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 00:32:02 ID:1d4drIFg0
自分と自分にまつわる観念について全体として気づくことが自分自身を知ると言っているのじゃ。
全体を知らなければ自分自身を知ったことにはならないのじゃ。
知ることは本を読んだりして知識を蓄積することではないのじゃ。
現実に起きていることを観察してできることなのじゃ。

153避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 18:20:31 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 2

 あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかります。しかしそれは、非難がないときだけ起こりうるのです。私は何かを非難するとき、それを理解しません。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方です。私たちのほとんどは意図的にそうすると、私は思います。私たちは即時に非難します。そして私たちは理解したと思うのです。私たちはそれを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始めるのです。これを実験してみてください。するとあなたは自分自身でわかるでしょう。ただ気づいてください-どんな正当化の感覚もなしに-それはむしろ否定的に見えるかもしれませんが、否定的ではありません。反対にそれは、直接的行動である受動性の性質を持っています。そしてあなたはそれを実験してみるなら、これを発見するでしょう。
 結局、あなたは何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならないのではないでしょうか。あなたはそれについて考え [続け] 、それについて憶測し・思索し [続け] 、それを問い続けられません。あなたはそれの内容を受け取るほど充分に敏感でなければなりません。それは敏感な・高感度の写真の感光板と似ています。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければなりません。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめます。確かにそれは能力や専門化の問題ではありません。その過程において、私たちは自分自身を-私たちの意識の表面的な層だけではなくて、より深い [層] 、すなわちはるかにもっと重要であるものを-理解しはじめるのです。なぜなら、そこに、私たちの動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるからです。外側では、私たちはそれらをすべて制御しているかもしれませんが、内側では、それらは沸き立っているのです。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、明白に自由はありえません。幸せはありえません。智恵はありません。
 智恵は専門化の事柄でしょうか-智恵は私たちの過程への総合的気づきです。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものでしょうか。なぜなら、それが起きていることであるからではないでしょうか。司祭、医者、技師、産業経営者、事業家、大学教授-私たちはその専門化すべての精神性を持っています。
 最高の形の智恵-すなわち真理、神、叙述できないもの-を悟るには、それを悟るには、私たちは自分たち自身を専門家にしなければならないと、思うのです。私たちは研究します。私たちは手探りします。私たちは探し出します。そして私たちは能力-すなわち自分たちの葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究するのです。
(´・(ェ)・`)つ

154避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 18:29:39 ID:Cu43pdJw0
くまめも12-2
あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかる。それは、非難がないときだけ起こりうる。私は何かを非難するとき、それを理解しない。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方。私たちは意図的にそうする。即時に非難する。そして理解したと思う。それを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始める。ただ気づけ。どんな正当化の感覚もなしに-それは否定的ではない。それは、直接的行動である受動性の性質を持つ。実験してみれば、これを発見する。
 何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならない。それについて考え、憶測し・思索し、それを問い続けられない。それの内容を受け取るほど充分に敏感でなければならない。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければならない。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめる。それは能力や専門化の問題ではない。その過程において、自分自身を-意識の表面的な層だけではなくて、より深い、もっと重要であるものを-理解しはじめる。なぜなら、そこに、動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるから。外側では、それらをすべて制御しているが、内側では、それらは沸き立っている。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、自由は、幸せは、智恵はない。
 智恵は私たちの過程への総合的気づき。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものはない。なぜなら、それが起きていることであるから。私たちはその専門化の精神性を持っている。
 最高の形の智恵-真理、神、叙述できないもの-を悟るには、自分自身を専門家にしなければならない。私たちは研究し、手探りし、探し出す。そして能力-すなわち葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究する。
(´・(ェ)・`)

155鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 22:28:49 ID:1d4drIFg0
気付きは非難が無い時に起こると言うのじゃ。
西洋人はものごとを観る時に批判的な精神で見るようにと教育されるからのう。
そのような条件付けされた見方では気付きは起こらないのじゃ。
自分自身を非難も肯定もせずに、見るのじゃ。
自分自身を研究するのじゃ。

156避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 21:24:20 ID:hkn8ohjE0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 3

 そもそも私たちが気づいているとするなら、私たちの問題は、私たちの日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されうるのかどうか、 [ということ] です。それらが [解決] されえないなら、私たちがそれらに取り組むことは、どのようにして可能なのでしょうか。問題を理解するには、明白に一定の智恵を必要とします。その智恵は専門化から引き出したり、[専門化]をとおして育成したりできません。それは、私たちが自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じるのです-それは、選択なく、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくことです。あなたは受動的に気づくとき、その受動性-それは無為・何もしないことではなく、眠りではなくて、極度の鋭敏さです-の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかるでしょう。それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味です。あなたが常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうるのです。それが困難です。なぜなら、私たちのほとんどは受動的に気づく [能力] 、私たちが解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないからです。私たちはどのように問題を冷静に見るべきかを知らないのです。私たちは不幸にもその能力がないのです。なぜなら、私たちは問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているからです。または私たちは自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようとします。または私たちは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っているのです。ゆえに私たちは問題-すなわちいつも新しいもの-に、古い様式をもって接近するのです。挑戦はいつも新しいものですが、私たちの応答はいつも古いものです。そして私たちの困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うことです。問題はいつも関係の問題です-ものごととの、人々との、観念との [関係です] 。他に問題はありません。関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく出会うには、それに適切に出会うには-受動的に気づかなければなりません。この受動性は決意、意志、修練の問題ではありません。私たちが受動的でないことに気づくことが、始まりです。私たちが特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-確かにそれが始まりです。問題との関係のなかで私たち自身を知ること、私たちが問題をどのように扱うのか [を知ること] です。そのとき私たちは問題との関係のなかで自分自身を-その問題に出会うなかで私たちがどう応答するのか、私たちの様々な先入観、要求、追求が何であるのかを-知りはじめるにつれて、この気づきが、私たち自身の考える [過程] 、私たち自身の内部の本性の過程を開示するでしょう。そこに解放があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

157避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 21:28:31 ID:hkn8ohjE0
くまめも12-3
そもそも私たちが気づいているとするなら、問題は、日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されえないなら、それらに取り組むことは、どのようにして可能か。問題を理解するには、一定の智恵が必要。その智恵は自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じる。それは、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくこと。受動的に気づくとき、その受動性の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかる、それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味。常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうる。それが困難。なぜなら、受動的に気づく、解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないから。どのように問題を冷静に見るべきかを知らない。その能力がない。なぜなら、問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているから。または自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようするまたは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っている。ゆえに新しい問題に、古い様式をもって接近する。挑戦はいつも新しいが、応答はいつも古いもの。そして困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うこと。問題はいつも関係の問題 − ものごととの、人々との、観念との関係。他に問題はない。
関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく、適切に出会うには-受動的に気づかなければならない。この受動性は決意、意志、修練の問題ではない。受動的でないことに気づくことが、始まり。特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-それが始まり。問題との関係のなかで自身を知ること、問題をどのように扱うのかを知ること。そのとき問題との関係のなかで自分自身を知りはじめるにつれて、この気づきが、自身の考える過程、内部の本性の過程を開示する。そこに解放がある。
(´・(ェ)・`)

158鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/03(月) 23:59:53 ID:1d4drIFg0
問題の解決には自分を知ることが大事だというのじゃ。
自分に気付けば問題との自己同一化がなくなり、解決できるようになるというのじゃ。
それが智慧というものじゃ。
自分自身に気付くことで解放も在るのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 22:37:35 ID:fO1sW.K20
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 4

 重要であることは、選択なしに気づくことです。なぜなら、選択は葛藤をもたらすからです。選択する者は混乱 [の状態] にあります。ゆえに彼は選択するのです。彼が混乱 [の状態] にないなら、選択はないのです。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択するのです。明晰で単純である人は選択をしません。あるがまま、です。観念に基づいた行動が、明白に選択の行動です。そういう行動は解放しません。反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけです。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくことです。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくからです。すなわちあなたの気づきは、あなたの蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがあるのです。翻訳があるところ、選択があります。そして選択は葛藤を造り出します。葛藤には、理解はありえません。
 生は関係の事柄です。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき [がなければならない] 、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければなりません。私が言いましたように、この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ないのです。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくことです-目覚めているときだけではありません。というのは私たちは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるでしょうから。こうして私たちは隠れたものへの扉を開くのです-それ [隠れたもの] は知られるものになるのです。しかし知られていないものを見つけるには、私たちは扉を越えてゆかなければなりません-確かにそれが私たちの困難です。真実は、精神が知ることのできるものではありません。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるからです。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければなりません。そのときだけ、知られないものがあることが可能なのです。
(´・(ェ)・`)つ

160避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 22:43:55 ID:fO1sW.K20
くまめも12-4
重要なのは、選択なしに気づくこと。なぜなら、選択は葛藤をもたらすから。選択する者は混乱にある。ゆえに彼は選択する。彼が混乱にないなら、選択はない。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択する。明晰で単純である人は選択をしない。あるがまま。観念に基づいた行動が、選択の行動。そういう行動は解放しない、反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけ。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくこと。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくから。すなわち気づきは、蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがある、翻訳があるところ、選択がある。そして選択は葛藤を造り出す。葛藤には、理解はない。
 生は関係の事柄。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければならない。この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ない。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくこと− 目覚めているときだけではない。というのは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるから。こうして隠れたものへの扉を開く-隠れたものは知られるものになる。しかし知られていないものを見つけるには、扉を越えてゆかなければならない-それが困難。真実は、精神が知ることのできるものではない。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるから。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければならない。そのときだけ、知られないものがあることが可能。
(´・(ェ)・`)

161鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/04(火) 23:30:46 ID:1d4drIFg0
気付くことには選択すらも妨げになるのじゃ。
それは分別をしていることになるからのう。
今ここに在るものごとをありのままに見るのじゃ。
選択すらも無く見る事が出来たならばそれが気付きなのじや。

162避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:27:49 ID:88HzfH7Q0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 1

 私たちのほとんどにとって、欲望は実に問題です-財産、地位、力、慰め [安楽・快適さ] 、不死、継続 [存続] への欲望、愛されたい [という欲望] 、何か永久的な [もの]、 満足させ持続するもの、何か時間を超えているものを持ちたいという欲望です。では欲望とは何でしょうか。私たちを駆り立て強制しているこのものは何でしょうか。私たちは持っているものやあるがままの私たちに満足すべきであると、私は提唱しているのではありません-それはたんに私たちが欲しいものの対極であるだけです。私たちは欲望とは何であるのかを見ようとしています。私たちは仮に、ためらいがちにそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの欲望の対象を用いるだけではない変容をもたらすであろうと、私は思います。これが一般に私たちのいう「変化」という意味なのではないでしょうか。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、私たちはその代用物を見つけます。私たちは、一つの欲望の対象から、私たちがより高くより高尚でより洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いているのです。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望です。そしてこの欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤があるのです。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか。欲望とは何でしょうか。それは象徴とその感動 ・感覚ではないでしょうか。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚です。象徴とその感動を伴わない欲望があるでしょうか。明白に、ありません。象徴は、私に感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念であるかもしれません-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせるのです。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまるのです。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変えるのです。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈してしまいます。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求めます。私は古い感動を拒絶して、新しいものを採り入れます-新しい言葉、新しい意義、新しい経験をもったもの、です。私は古いものに抵抗して、より高くより高尚でより満足させてくれると考える新しいものに屈します。こうして欲望には、抵抗と屈することがあります-それには誘惑が関与しています。そしてもちろん、欲望の特定の象徴に屈することには、いつも挫折への恐れがあるのです。
 私は自分自身の欲望の過程全体を観察するなら、いつも対象 [がある] -私の精神が、さらなる感動のためにそれに向けられているもの-があるということ、そしてこの過程には抵抗、誘惑、修練が関与しているということが、わかります。知覚、感覚、接触、欲望があります。そして精神はこの過程の機械的な道具になります-そこでは象徴、言葉、対象が中心です-そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれるのです。その中心が「私」です。私はその欲望の中心を解消できるでしょうか-一つの特定の欲望、一つの特定の欲望や渇望ではなくて、欲望、あこがれ、希望-そこにはいつも挫折の恐れがあります-の構造全体を、です。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまいます。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がありますし、それがまた・さらに中心を強めるのです。そして革命は、その中心においてだけ可能です-表面にではありません-それはたんに逸脱・散漫の過程 [であり] 、有害な行動につながる表面的変化であるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

163避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:28:49 ID:88HzfH7Q0
くまめも13-1
 欲望とは何か。私たちを駆り立て強制しているこのものは何か。私たちはそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの対象を用いるだけではない変容をもたらす。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、その代用物を見つける。一つの欲望の対象から、より高く、高尚で洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いている。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望。この欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤がある。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要。欲望とは何か。それは象徴とその感動 ・感覚。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚。象徴は、感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせる。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまる。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変える。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈する。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求める。
 欲望の過程全体を観察。精神が、さらなる感動のためにそれに向けられている対象がある。この過程には抵抗、誘惑、修練が関与している。知覚、感覚、接触、欲望がある。精神はこの過程の機械的な道具になる − そこでは象徴、言葉、対象が中心 − そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれる。その中心が「私」。その構造全体を解消できるか。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまう。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がある。それがまた・さらに中心を強める。そして革命は、その中心においてだけ可能 − 表面にではない − それはたんに逸脱・散漫の過程、有害な行動につながる表面的変化であるだけ。
(´・(ェ)・`)

164避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 20:02:54 ID:24iU9Zco0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 2

 私はこの欲望の構造全体に気づくとき、いかに私の精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかります。私は、一つの欲望に疲れてしまうと、自動的にもう一つ [の欲望] において自己を充足させたいと思います。私の精神はいつも感動という見地に立って経験しています-それは感動の道具です。特定の感動に退屈すると、私は新しい感動を求めます-それは神の悟り・実現と呼ぶものであるかもしれません-しかし、それもやはり感動です。私はこの世・世界とその苦労はもうたくさん(うんざり)なので、平和が、永続する平和が欲しいのです。それで私は瞑想し、制御します-その平和を経験するために、自分の精神を形造ります。その平和を経験することも、やはり感動です。それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心です-そこ [中心] から私は行動し考えるのです。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影です-それ [精神]は、そこ [象徴] から感動を引き出してくるのです。「神」という言葉、「愛」という言葉、「共産主義」という言葉、「民主主義」という言葉、「国家 [・民族] 主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴です。ゆえに精神はそれらにすがりつくのです。あなたと私が知っているように、あらゆる感動は終わりになります。それで私たちは、一つの感動からもう一つへ進むのです。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強めます。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけです。その過程に、私たちは捕らわれるのです。精神はさらなる経験を求めているかぎり、感動という見地に立って考えられるだけです。そして自発的で創造的で命がけの・生き生きして心を打つほど・打ちのめすほど新しいかもしれないどんな経験でも、それ [精神] は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求します-そのときそれは記憶になるのです。ゆえに経験は死んでいます。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけです。
 もしも私たちがとにかくそれに深く入って行ったなら、この過程に慣れ親しんでいるのです。そして私たちは [この過程を] 越えてゆく能力はないように見えます。私たちは越えてゆきたいのです。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているからです。それで精神は、真理の、神の観念を投影します。それは命がけの変化を [夢見] 、その変化において第一の役割・主役を演じること、などなどを夢見ます。ゆえに決して創造的状態がありません。私は、私自身にこの欲望の過程が続いていることが、わかります-それは機械的、反復的です-それは精神を日課の過程に拘束して 、[そこに] 創造的自発性のない過去の死んだ中心にするのです。また突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動 [のもの] や欲望のものでもないものの [瞬間]- があります。
 ゆえに、私たちの問題は、欲望を理解することです-それはどこまでゆくのだろうかとか、どこで終わりになるのだろうか、ではなく、欲望の過程全体を-渇望、あこがれ、燃えたつ・燃えさかる欲求を、理解することです。私たちのほとんどは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると、考えます。それで、なんと私たちは、わずかなものしか持たない人たちを崇拝するのでしょう!腰布、ロ-ブは、欲望から自由でありたいという私たちの欲望を象徴しています。しかし、それもまたとても表面的な反動 [・反応] です。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのでしょうか。確かに、革命が起こらなければならないのは、そこで、です-どれぐらい所有するかや、どんな服を着るかや、どれぐらい食事を摂るかに、ではないのです。しかし私たちの精神はとても表面的であるから、私たちはこれらのものごとに印象づけられ(感銘を受け)るのです。
(´・(ェ)・`)つ

165避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 22:10:38 ID:24iU9Zco0
くまめも13-2
欲望の構造全体に気づくとき、いかに精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかる。私の精神はいつも感動という見地に立って経験してる。
永続する平和が欲しい。それで私は瞑想し、制御する− そのために、自分の精神を形造る。その平和を経験することも、やはり感動.それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心− そこから私は行動し考える。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影− 精神は、象徴から感動を引き出してくる。「神」、「愛」、「民主主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴。ゆえに精神はそれらにすがりつく。あらゆる感動は終わりになる。一つの感動からもう一つへ進む。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強める。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけ。どんな経験でも、精神は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求する− そのときそれは記憶になる。ゆえに経験は死んでいる。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけ。
私たちは越えてゆきたい。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているから。それで精神は、真理の、神の観念を投影する。その変化において主役を演じることを夢見る。ゆえに決して創造的状態がない。突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動や欲望のものでもないものの瞬間 − がある。
 ゆえに、問題は、欲望を理解することではなく、欲望の過程全体を理解すること。私たちは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると考える。しかし、それもまたとても表面的な反動・反応。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのか。精神はとても表面的であるから、これらのものごとに印象づけられ感銘を受ける。
(´・(ェ)・`)

166鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/06(木) 23:15:29 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティも瞑想するというのじゃ。
もっともそれは自己を忘れるサマーディにまで達しなければ瞑想とは言われないというがのう。
瞑想の全てを否定しているのではないのじゃ。
瞑想に拠って精神から感動を引き出してくるという洞察も可能になるのじゃ。

167避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 21:30:15 ID:nELsQgfM0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 3

 あなたの問題と私の問題は、精神がいったい欲望から、感覚から自由でありうるかどうかが、わかることです。確かに、創造は、感動とは何の関わりもありません。真実、神、何であれ、 [それらは] 感動として経験されうる状態ではありません。あなたが経験をするとき、何が起きるでしょうか。それはあなたに一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらしたのです。当然、あなたは憂鬱の状態を避けよう、脇へ置こうとします。しかしそれが喜び、得意の気分であるなら、あなたはそれを追求します。あなたの経験は楽しい感動を生み出しました。そしてあなたはそれをもっと(多く)欲しいと思います。もっと(多く)は、精神の死んだ中心を強めます-それ [中心] は常にさらなる経験を渇望しています。ゆえに精神は何も新しいものを経験できません。それは何も新しいものを経験する能力がありません。なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるからです。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造、真実ではありません。そういう精神は真実を経験できません。それは感動を経験できるだけです。そして創造は感動ではありません。それは、瞬間瞬間、何か永続的に新しいものです。
 そこで(今)私は自分自身の精神の状態を悟ります。それは感動と欲望の道具であること、というよりむしろ感動と欲望であること、それは決まった日課に機械的に捕らわれているということが、わかります。そういう精神は決して新しいものを受け取ったり、打診する・感じ尽くす能力がありません。というのは、新しいものは明白に何か感動を越えたものであるにちがいないからです-それ [感動] はいつも古いものです。それで、この機械的過程とともにその感動は、終わりにならなければならない、のではないでしょうか。もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければなりません。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能です-そこ [創造性の状態] に、新しいものがいつも生じうるのです。あなたは、言葉により、習慣により、観念によって催眠術をかけられることなく理解して、新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解するでしょう。そのときあなたは、本当に求めている人にとって、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめるだろうと、私は思います。明白に、一定の身体 [・物質] 的必要はあります-衣・食・住とその他すべてです。しかしそれらは決して心理的欲求に[なりません]- 精神が欲望の中心としてそれ自体を築き上げるものに-なりません。物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への [欲望も] -心理的過程になります。それ [心理的過程] によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強めます。
あなたはこの過程がわかるとき、反対なく、誘惑の感動なく、抵抗なく、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見するでしょう。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえません。それは 、[そこに] 招待なく、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態です-それが真実です。
(´・(ェ)・`)つ

168避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 21:45:20 ID:nELsQgfM0
くまめも13-3
 問題は、精神が欲望から、感覚から自由でありうるか。創造は、感動として経験されうる状態ではない。経験をするとき、一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらした。当然、憂鬱の状態を避けようとする。しかしそれが喜びの気分であるなら、それを追求する。経験は楽しい感動を生み出した。そしてそれをもっと欲しいと思う。もっとは、精神の死んだ中心を強める− 中心は常にさらなる経験を渇望する。ゆえに精神は何も新しいものを経験できない、なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるから。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造ではない。そういう精神は真実を経験できない。それは感動を経験できるだけ。創造は感動ではない。瞬間瞬間、何か永続的に新しいもの。
感動はいつも古いもの。それで、この機械的過程とともにその感動、もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければならない。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能。新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解する。そのとき、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめる。
物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への欲望も− 心理的過程になる。心理的過程によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強める。
あなたはこの過程がわかるとき、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見する。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえない。それは 、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態 − それが真実。
(´・(ェ)・`)

169鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 00:00:18 ID:1d4drIFg0
記憶を通して認識されたものは真理、創造、真実ではないというのじゃ。
クリシュナムルティも認識が記憶に依存していると観念の世界に陥ると理解していたのじゃ。
記憶への依存が無くなれば認識は真実を知る器官になるのじゃ。
そのような記憶に依存した認識が無い時、存在の状態が真実と成るのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 21:38:37 ID:QIfaqeEk0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 1

  生は経験-関係における経験-です。孤立 [の状態] において生きられません。ですから生は関係ですし、関係は作用 [・行動] です。それでどうすれば関係すなわち生を理解するためのその能力を持てるのでしょうか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 [でもあるの] ではないでしょうか。生は関係です-それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現されます。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つでしょう。ですから私たちの問題は能力ではなくて―というのは、能力は関係から独立していない(関係に依存していないわけではない)からです―むしろ関係[について]の理解です-それ[理解]が自然に、すばやい柔軟性、すばやい適応、すばやい応答のための能力を生み出すでしょう。
 関係は確かに、あなたが [そこに] 自分自身を発見する鏡です。関係なくして、あなたはありません。有る[・生きる]ことは関係することです-関係することが存在です。あなたは関係においてだけ存在しているのです。そうでないとあなたは存在していません-存在は意味がありません。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではありません。あなたは関係しているから存在しているのです。それで葛藤を引き起こす [原因になる] のは、関係[について]の理解の欠如です。
今、関係[について]の理解はありません。なぜなら私たちは関係を、たんに達成を促進し、変容を促進し、なりゆきを促進する手段としてだけ使うからです。しかし、関係は自己発見の手段です、なぜなら関係は有る[・生きる]ことであるからです。それが存在です。関係なくして、私はありません。私自を理解するには、私は関係を理解しなければなりません。関係は、[そこに] 私自身が見える鏡です。その鏡は歪んでいることもあるし、有るものを映し出して「あるがまま」であることもあります。しかし私たちのほとんどは、関係のなかに、その鏡のなかに、むしろ見たいと思うものごとが、見えるのです。私たちはあるがままが見えないのです。私たちはむしろ理想化し、逃避したいのです-その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

171避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 21:56:19 ID:QIfaqeEk0
くまめも14-1
生は関係における経験。孤立の状態において生きられない。生は関係、関係は作用・行動。どうすれば関係すなわち生を理解できるか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 。生は関係。それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現される。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つ。だから私たちの問題は能力ではなくむしろ関係についての理解−理解が自然に、すばやい柔軟性、適応、応答のための能力を生み出す。
 関係は確かに、あなたがそこに自分自身を発見する鏡。関係なくして、あなたはない。有る・生きることは関係すること。関係することが存在。あなたは関係においてだけ存在している。存在は意味がない。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではない。あなたは関係しているから存在している。それで葛藤を引き起こす原因になるのは、関係についての理解の欠如。
今、関係についての理解はない。なぜなら関係を、たんに達成を、変容を、なりゆきを促進する手段としてだけ使うから。しかし、関係は自己発見の手段、なぜなら関係は有る・生きることであるから。それが存在。私自を理解するには、関係を理解しなければならない。関係は、そこに私自身が見える鏡。その鏡は歪んでいることもある。私たちはあるがままが見えない。私たちはむしろ理想化し、逃避したい − その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたい。
(´・(ェ)・`)

172鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 22:56:41 ID:1d4drIFg0
関係とはつきつめれば自分と他人との関係なのじゃ。
自分がいるという認識は自分とは別の他人が居るという関係から起こるからなのじゃ。
自他の区別から自我も起こるのじゃ。
それを理解できれば自分の認識も理解できるのじゃ。

173避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 21:41:44 ID:HMHJI/pY0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 2

 そこで私たちは自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることが、わかるでしょう。私たちはほんとうは他の人に関心がないのです。私たちはそれについて大いに話すけれども、現実には関心がないのです。その関係が私たちを喜ばせて[満足させて]くれる限り、避難所を与えてくれる限り、満足させてくれる限りにおいてだけ、私たちは誰かと関係しているのです。しかし関係に動揺があった瞬間―それ [動揺] が私たち自身に不愉快さを生み出します―私たちはその関係を切り捨てます。言い換えれば、私たちが喜んでいる限りにおいてだけ、関係があるのです。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれません。しかし、あなたはほんとうに自分の生をとてもきっちりと・しっかりと検討するなら、それが事実であると、わかるでしょう。そして事実を避けることは無知において生きることですし、それは決して正しい関係を産み出せません。私たちは自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかります- [その壁越しに] 他の人を見て観察するのです。しかし、私たちはいつもその壁を保持・確保してその裏にとどまります―それが心理的な壁、物質的な壁、経済的な壁や国家[・民族]主義的な壁であっても。私たちは壁の裏で孤立 [の状態] において生きる限り、他の人との関係はありません。そして私たちは閉じこもって・閉鎖的に生きています。なぜならそのほうがもっと喜びがあるからです-私たちはそのほうがもっと安全であると思うのです。世界がこんなに引き裂かれ[分裂し]、こんなに多くの悲しみ、こんなに多くの苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため私たちは私たち自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思うのです。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立(化)の過程です。そして明白にそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築きます。それがまさしく世界中で起きていることです。あなたは自分の孤立にとどまって、壁越しに手を伸ばし、それを国家[・民族]主義、同胞愛、などと呼びます。しかし現実には独立政権、軍隊が継続[存続]するのです。あなたはやはり[なお・依然として]自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思うのです―それは不可能です。あなたが境界を持っているかぎり―国家[・民族]的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ

174避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 21:42:42 ID:HMHJI/pY0
くまめも14-2
自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることがわかる。私たちはほんとうは他の人に関心がない。その関係が私たちを喜ばせて満足させてくれる限り、避難所を与えてくれる限りにおいてだけ、誰かと関係している。しかし関係に動揺があった瞬間―動揺が自身に不愉快さを生み出し− その関係を切り捨てる。言い換えれば、喜んでいる限りにおいてだけ、関係がある。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれない。しかし、ほんとうに自分の生をしっかりと検討するなら、それが事実であるとわかる。そして事実を避けることは無知において生きることだし、それは決して正しい関係を産み出さない。自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかる−その壁越しに他の人を見て観察する。しかし、いつもその壁を保持・確保してその裏にとどまりまる。壁の裏で孤立の状態において生きる限り、他の人との関係はない。そして閉じこもって・閉鎖的に生きている。なぜならそのほうがもっと喜びがあり、安全であると思うから。世界がこんなに分裂し、こんなに多くの悲しみ、苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思う。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立化の過程。そしてそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築く。あなたは自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思う−それは不可能。境界を持っているかぎり―国家・民族的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実。
(´・(ェ)・`)

175鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/09(日) 22:58:44 ID:1d4drIFg0
他人とは別の自分があるという観念から孤独が生まれるのじゃ。
他人の中に一人の自分が居るという観念が心細さとか恐れを生むのじゃ。
それが孤独なのじゃ。
孤独から逃れようとして争いも起こるのじゃ。

176避難民のマジレスさん:2020/08/10(月) 22:47:30 ID:2/995q.60
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 3

  孤立(化)の過程は力への探求の過程です-個人的に力を求めていようと、人種的、国家[・民族]的集団のため [に力を求めて] であろうと、孤立(化)があるにちがいありません。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるからです。結局それが、各自が欲しいものなのではないでしょうか。 [人は、そこで] 自分が支配できる強力な地位が欲しいのです―家庭でも、事務所・職場でも、官僚制度[体制・機構]でも。各自が力を求めています。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立するでしょう-それもまた明白です。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつあるのではないでしょうか。これを理解することがとても重要であると、私は思います。なぜなら、平和な世界 [が欲しい] 、戦争のない、ぞっとするような破壊のない、測り知れない規模の壊滅的な悲惨のない世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから、ではないでしょうか。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていません。ゆえにそういう人はどんな国籍・国家[民族]、どんな旗にも縛られていません。彼は旗を持ちません。
 孤立 [の状態] において生きているようなものはありません―どんな国も、どんな人も、どんな個人も孤立 [の状態]において 生きられません。けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てるのです。国家[・民族]主義者は災い・呪われた者です。なぜなら、彼はまさに自分の国家[・民族]主義的 [精神] 、愛国精神そのものをとおして、孤立の壁を造り出しているからです。彼は他の国に対して壁を築くほど、あまりに祖国と同一化しているのです。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるでしょうか。その何かが常にあなたの壁を叩いているのです。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争 [状態] にあるということを、表示しています。ですから国家[・民族]主義は孤立の過程であり、力への探求から出てきたものですが、 [それは] 世界に平和をもたらせません。国家[・民族]主義者であって同胞愛について話をする人は、嘘をついているのです。彼は矛盾の状態に生きているのです。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界 [・世間] で生きられるでしょうか。明白にできます。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうします。何かもっと偉大なもの―党派、国、人種、宗教、神―とのこの同一化が、力への探求です。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいのです。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいというその欲望が、力への欲望です。
  関係は自己を露呈する過程です。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がありません。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解することです。そのとき関係は孤立(化)の過程 [になるの] ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになるのです。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まりです。
(´・(ェ)・`)つ

177避難民のマジレスさん:2020/08/10(月) 22:48:55 ID:2/995q.60
くまめも14-3
孤立(化)の過程は力への探求の過程。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるから。人は、そこで自分が支配できる強力な地位が欲しい−家庭、事務所・職場、官僚制度体制・機構。各自が力を求めている。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立する-それもまた明白。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつある。これを理解することがとても重要。なぜなら、平和な世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていない。ゆえにそういう人はどんな旗にも縛られていない。
孤立の状態において生きているようなものはない。孤立の状態において 生きられない、けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てる。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるか。その何かが常にあなたの壁を叩いている。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争状態にあるということを、表示している。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界・世間で生きられるか。明白にできる。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうする。何かもっと偉大なものとのこの同一化が、力への探求。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したい。それが力への欲望。
  関係は自己を露呈する過程。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がない。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解すること。そのとき関係は孤立(化)の過程ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになる。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まり。
(´・(ェ)・`)

178鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/11(火) 00:26:14 ID:1d4drIFg0
個我であるという観念は他のものとの競争や闘争に拠って強化されるのじゃ。
それがまた孤独を強めるのじゃ。
自らを追求することでそれも滅することが出来るのじゃ。
それが解放であり、変容なのじゃ。

179避難民のマジレスさん:2020/08/11(火) 22:03:17 ID:PGnztOo20
最初と最後の自由  第一部
  第十五章 思考者と思考 1

 私たちの経験すべてには、いつも経験者、観察者がいます-それ [経験者、観察者]が 自分自身のためにもっともっと多くのものを集めたり、自分自身を否定したりしています。それはまちがった過程ではないでしょうか。そしてそれは創造的状態をもたらさない追求ではないでしょうか。それがまちがった過程であるなら、私たちはそれを完全に一掃して、脇へ置くことができないでしょうか。それは、私が経験するときだけ [生じうる]-思考者として経験するのではなく-私が偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうるのです。
 私が経験をしているかぎり、私が [何かに] なろうとしているかぎり、この二元的行動 [・作用] があるにちがいありません。思考者と思考が [ある] 、二つの分離した過程が働いているにちがいありません。統合はありません。集団的に、個人的に、国家的になど、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもあるのです。普遍的に、これが過程です。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落があるにちがいありません。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけです。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は、二つのものに橋を架けることです。
 行動の意志はいつも二元的です。分離的であるこの意志を乗り越えて、 [そこに] この二元的行動 [・作用] のない状態を発見することは、可能でしょうか。それは、[そこに] 思考者が思考である状態を、私たちが直接的に経験するとき、見つけられるだけです。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考えます。しかしそうなのでしょうか。私たちはそうであると考えたいように思うのです。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるからです。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなることです。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因があるのです。私たちは、真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求しています。
 思考者と思考の間に分割はあるのでしょうか。それらが分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費され [ムダになり] ます。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求しています。思考者は自分の思考から分離していると、私たちは考えます。私たちは、自分が貪欲・欲張りで、所有欲が強く、残忍・野蛮であることを見つけるとき、このすべてであるべきでないと考えます。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとします。ゆえに努力をして「なろう」とします。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある [ところの] 偽りの幻影を追求します。ところが、ただ一つの過程だけがあるのです。そこに、退廃・堕落の根本的要因があると、私は思います。
(´・(ェ)・`)つ

180避難民のマジレスさん:2020/08/11(火) 22:07:55 ID:PGnztOo20
くまめも15-1
経験すべてには、いつも経験者、観察者がいる。それはまちがった過程。そうなら、それを一掃できないか。それは、経験するときだけ生じる。偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうる。
私が経験をしているかぎり、私がなろうとしているかぎり、この二元的行動がある。思考者と思考が、二つの分離した過程が働いている。集団的に、個人的に、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもある。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落がある。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけ。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っている。二つの違った状態がある。私たちの努力は、二つのものに橋を架けること。
行動の意志はいつも二元的。分離的であるこの意志を乗り越えて、 この二元的行動のない状態を発見することは、可能か。それは、思考者が思考である状態を、直接的に経験するとき、見つけられる。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考える。しかしそうなのか。私たちはそうであると考えたいように思う。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるから。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなること。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因がある。真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求している。
思考者と思考の間が分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費される。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求している。私たちは、自分が貪欲で、残忍であることを見つけるとき、そうあるべきでないと考える。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとする。ゆえに努力をして「なろう」とする。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある 偽りの幻影を追求する。ところが、ただ一つの過程だけがある。そこに、退廃・堕落の根本的要因がある。
(´・(ェ)・`)

181鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/11(火) 22:38:15 ID:1d4drIFg0
経験者や観察者は本当は居ないのじゃ。
居ると認識しているのが悟っていない者なのじゃ。
それが無いと知れば無我になるのじゃ。
更にそれを生み出す観念さえも無ければ大悟徹底なのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2020/08/12(水) 19:07:12 ID:2Vk6aJ6Y0
最初と最後の自由  第一部
  第十五章 思考者と思考 2

 一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときのその状態を経験することは、可能でしょうか。そのときおそらく私たちは、創造的であることがどんなことであるのか、人がどんな関係にあっても、どんなときにも [そこに] 退廃・堕落のない状態がどんなものであるのかを、見出すでしょう。
 私は貪欲です。私と貪欲は二つの違った状態ではありません。ただ一つのものだけがあるのです-すなわち貪欲です。私は、自分が貪欲であることに気づくなら、何が起きるでしょうか。私は社会的な理由のため、または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力をします。その努力はいつも小さな制限された環・循環のなかにあるでしょう。私はその環を拡大するかもしれませんが、それはいつも制限されています。ゆえに退廃・堕落する要因が(そこに)あるのです。しかし私はもう少し深く厳密に・きっちりと見るとき、努力の作り手(努力をする者)が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることが、わかるのです。そしてまた「私」と貪欲は分離して存在していないこと、ただ貪欲だけがあることが、わかるのです。私は、自分が貪欲であること、貪欲である観察者はなく、私自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき私たちの疑問全体は全く違ってくるのです。それに対する私たちの応答は全く違ってくるのです。そのとき私たちの努力は破壊的ではありません。
 あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたがするどんな行動も貪欲であるとき、あなたはどうするでしょうか。不幸にも私たちはそういう線に沿って考えません。「私」、上位の実体、制御し支配している兵士・戦士がいるのです。私にとって、その過程は破壊的です。それは幻影です。私たちはなぜそうするのかを知っています。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割します。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではなく、私が全く貪欲であるなら、そのとき何が起きるでしょうか。確かにそのとき全く違った過程が働いています-違った問題が生じています。創造的であるのは、その問題です-[そこには] 肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がないのです。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければなりません。その状態には、努力の作り手・努力をする者がいません。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではありません。あなたはそのようにしてそれに取りかかるなら、見失うでしょう-決して見つけないでしょう。重要であることは、努力の作り手と、彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかることです。それは、途方もなく大きな理解力、見守りを必要とします。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るにはです-高いものは安全 [であり] 、永久の実体です-しかし [それは] やはり思考 [の過程] とゆえに時間の過程にとどまっています。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

183避難民のマジレスさん:2020/08/12(水) 19:15:55 ID:2Vk6aJ6Y0
くまめも15-2
一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときの状態を経験することは、可能。そのとき、創造的であることがどんなことか、人がどんなときにも退廃・堕落のない状態がどんなものかを、見出す。私と貪欲は二つの違った状態ではない。ただ一つのものすなわち貪欲だけがある。
私は、自分が貪欲であることに気づくなら、私は社会的または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力する。その努力はいつも小さな制限された環のなかにある。ゆえに退廃・堕落する要因がある。
しかしもう少し厳密に見るとき、努力をする者が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることがわかる。ただ貪欲だけがあることがわかる。自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき疑問全体、それに対する応答は全く違ってくる。そのとき私たちの努力は破壊的ではない。
あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたはどうするか。「私」、上位の実体、制御し支配している戦士がいる。私にとって、その過程は破壊的。それは幻影。私たちはなぜそうするのかを知っている。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割する。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではない。そこには肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がない。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければならない。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではない。重要であることは、努力する者と彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかること。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るには途方もなく大きな理解力、見守りを必要とする。しかしそれはやはり思考の過程、時間の過程にとどまっている。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることがわかる。
(´・(ェ)・`)

184鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/12(水) 22:50:56 ID:1d4drIFg0
ただ一つの意識がある時創造的であり、退廃や堕落が無い状態を知れるのじゃ。
それは気付くことで得ることが出来るのじゃ。
そこには私という感覚も無いというのじゃ。
努力する主体がないと気付く時にそこに至るのじゃ。

185避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 19:32:38 ID:.8tmwG3Y0
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 1

 思考は私たちの問題を解決してきませんでしたし、いつか [解決] するだろうとは、私は思いません。私たちは、自分たちの複雑さからの抜け出し方を示してもらうために、知性に頼ってきました。知性がずるがしこく、恐ろしく大きく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなるのです。そして観念は私たち人間の問題のどれも解決しないのです。それらは [これまで] 決して [解決] してこなかったし、これからも決して [解決] しないでしょう。精神は解決法ではありません。思考のやり方は明白に、私たちの困難からの抜け出し方ではありません。私たちは初めに、この考える過程を理解するべきであるように、私には見えます。するとおそらく越えてゆくことができるでしょう-というのは、思考が止むとき、おそらく私たちは、自分たちの問題-個人的なものだけでなく、集団的なもの-を解決するのを助けてくれるであろう道を、見つけることができるでしょうから。
 考えることは私たちの問題を解決してきませんでした。利口な人たち、哲学者、学者、政治的指導者は、私たち人間の問題-それは、あなたともう一人との、あなたと私自身との間の関係です-のどれも、ほんとうに解決したことがありません。これまで私たちは、問題を究明するのを助けるために、精神、知性を使ってきました。それにより解決を見つけたいと願っているのです。思考はいったい私たちの問題を解消できるのでしょうか。思考は、実験室のなかや製図板の上でないかぎり、いつも自己を保護し、自己を永続させ、条件づけられていないでしょうか。その活動は自己中心的ではないでしょうか。そしてそういう思考は、思考自体が造り出した問題のどれかを、いったい解決できるのでしょうか。精神-すなわち問題を造り出したものは、それ自体が生み出したそれらのものごとを、解決できるのでしょうか。
 確かに、考えることは反応です。私があなたに質問をするなら、あなたはそれに応答します-あなたは、あなたの記憶、先入観、しつけ、気候・風土、あなたの条件づけの背景全体に応じて、応答します。あなたはそれらに応じて返答します。あなたはそれらに応じて考えます。この背景の中心が、行動の過程における「私」です。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになるのです。どんな種類の解決も-たとえどんなに利口でも、どんなによく考え抜かれても-人と人との間、あなたと私の間の葛藤・抗争を、決して終わりにすることができないのです。これを悟り、思考がどのように [発生し] 、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのです。
(´・(ェ)・`)つ

186避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 19:34:23 ID:.8tmwG3Y0
くまめも16-1
思考は私たちの問題を解決してこなかった。知性がずるがしこく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなる。そして観念は人間の問題のどれも解決しない。私たちは初めに、この考える過程を理解するべき。思考が止むとき、自分たちの問題を解決するのを助けてくれる道を、見つけることができるだろうから。
 考えることは反応。質問に対して、記憶、先入観、しつけ、気候・風土、条件づけの背景全体に応じて、応答する。この背景の中心が、行動の過程における「私」。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになる。これを悟り、思考がどのように、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのだ。
(´・(ェ)・`)

187鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/13(木) 22:52:59 ID:1d4drIFg0
思考は感情に左右されるから正確な判断はできないのじゃ。
感情を正当化するだけなのじゃ。
思考が止まった時だけ問題を解決する知恵が湧くのじゃ。
思考の発生を理解した時に思考は止まるのじゃ。

188避難民のマジレスさん:2020/08/14(金) 22:16:02 ID:87zFCRkc0
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 2

 それが問題の一つなのではないでしょうか。思考は私たちの問題を解決できるでしょうか。問題をよく考えることによって、あなたはそれを解決したことがあるでしょうか。経済的、社会的、宗教的などんな種類の問題でも、考えることによって今までほんとうに解決されたことがあるでしょうか。あなたが日常の生で、一つの問題について考えれば考えるほど、それはますます複雑に、優柔不断に、不確実になるのです。そうではないでしょうか-私たちの現実の、日常の生では。あなたは問題の一定の面を考え抜くなかで、他の人の視点がもっと明確に見えるかもしれません。しかし思考は問題の完全性と充足が見えないのです-それは部分的に見えるだけです。部分的な答えは完全な答えではありません。ゆえにそれは解決ではないのです。
 私たちは問題をよく考えれば考えるほど、究明し、分析し、議論すればするほど、それはますます複雑になるのです。それで問題を包括的に、全体的に見ることは可能でしょうか。どのようにしてこれは可能でしょうか。なぜなら、それが私たちの主要な困難であるように、私には見えるからです。私たちの問題は増加しつつあります-差し迫った・一触即発の戦争の危険があります。私たちの関係には、あらゆる種類の動揺があります-どのようにして私たちはそのすべてを、全体として包括的に理解できるのでしょうか。明白にそれは、私たちが全体として-区画・区分においてではなく、分割してではなく-それを見られるときだけ、解決できるのです。それはいつ(どんなとき)可能でしょうか。確かにそれは、考える過程が終わってしまったとき、可能であるだけです-その [考える過程の] 源は、「私」、自己に [ある] 、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にあるのです。私たちはこの自己を理解できるでしょうか-分析することによってではなく、あるがままのものごと見ること [により] 、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって [理解できるでしょうか] -結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって [理解できるでしょうか] 。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、私たちはそれを見つめられるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。私たちの各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わるでしょう!
 自己は思考が解決できない問題です。思考のものではない答えがあるにちがいありません。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分です。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にあるのです。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、私たちはやはり思考の領域の中にあります-すなわち「私me」、「私I」、自我の、何であれ [それの] 領域の中にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

189避難民のマジレスさん:2020/08/14(金) 22:17:06 ID:87zFCRkc0
くまめも16-2
問題について考えるほど、ますます複雑になる。思考は問題の完全性と充足が見えない。部分的に見えるだけ。部分的な答えは完全な答えではない。ゆえにそれは解決ではない。
どうやって問題を全体として包括的に理解するか。それは、全体として見られるときだけ、解決できる。それは、考える過程が終わったとき、可能。考える過程の源は、「私」、自己に、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にある。この自己を、分析することによってではなく、あるがままのものごと見ることにより、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって理解できるか。結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって理解できるか。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、それを見つめられるか。それが問題。各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わる!
自己は思考が解決できない問題。思考のものではない答えがある。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを、変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にある。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、やはり思考の領域の中にある。すなわち「私me」、自我の領域の中にある。
(´・(ェ)・`)

190避難民のマジレスさん:2020/08/15(土) 21:23:53 ID:dnNbHAY60
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 3

 精神の活動が存在しているかぎり、確かに愛はありえません。愛があるとき、私たちはどんな社会的問題も持たないでしょう。しかし愛は何か取得されるものではありません。精神は、新しい思考、新しい道具・装置、新しい考え方 [を取得するの]と同じように、それを取得しようと求めることはできます。しかし思考が愛を取得しようとしているかぎり、精神は愛の状態にありえません。精神が無欲の状態であろうと求めているかぎり、確かにそれはやはり貪欲なのではないでしょうか。同様に精神が、[そこに] 愛のある状態にあるために、願い、願望し、実践するかぎり、確かにそれはその状態を否定するのではないでしょうか。
 この問題、この複雑な生きることの問題が見えて、私たち自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき-私たちが深くそれを悟るとき、そのとき確かに、個人的でも集団的でもない智恵の状態があるのです。そのとき個人と社会、個人と共同体、個人と真実との関係の問題は止むのです。なぜなら、そのとき智恵だけがあるからです-それは個人的・人格的でも非個人的・非人格的でもないのです。私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみであると、私は感じます。それは結果ではありえません。それは、私たちがこの考えることの過程全体、総体を-意識的な水準においてだけでなく、また意識のより深い隠れた水準においても-理解するときだけ、生じるのです。
 これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静かな精神、とても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければなりません。それが私たちの困難の一つです-なぜなら思考は散漫になってしまったからです。私は何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいいのです-私はそれを見つめるのです。私はそれについて考え [始め] 、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ているのです。それで思考は、あなたが問題を持つとき、散漫になるのです-思考は観念、意見、判断、比較です-それは、私たちが問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げるのです。不幸にも私たちのほとんどにとって、思考はあまりに重要になってしまったのです。あなたは「どのようにして私は考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして私は空白の精神を持てるのか」と、あなたは言います。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいることです。あなたの本能的反応はそれを拒絶することです。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神、開けた精神は、とても直接的に、とても単純に、問題を見つめられるのです。それでただ一つの解決であるのは、私たちの問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力です。そのためには、静かな精神、平静な精神がなくてはなりません。
 そういう精神は、実践、瞑想、制御の結果ではありません。最終産物・成果ではありません。それは、「私」の、思考のどんな努力もなく、どんな形の修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じるのです。それは、私が考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じるのです。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛があるのです。そして私たち人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)つ

191避難民のマジレスさん:2020/08/15(土) 22:03:29 ID:dnNbHAY60
くまメモ16-3複雑な生きることの問題が見えて、自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき、智恵の状態がある。そのとき個人と社会、個人と真実との関係の問題は止む。なぜなら、そのとき智恵だけがあるから。それは私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみである。それは結果ではありえない。それは、この考えることの過程全体、総体を理解するときだけ、生じる。これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければならない。それが私たちの困難の一つ。なぜなら思考は散漫になってしまったから。何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいい。それを見つめる。それについて考え、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ている。それで思考は、問題を持つとき、散漫になる。思考は観念、意見、判断、比較。それは、問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げる。どのようにして考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして空白の精神を持てるのかと、あなたは言う。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいること。本能的反応はそれを拒絶する。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神は、とても直接的に、単純に、問題を見つめられる。それでただ一つの解決であるのは、問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力。そのためには、平静な精神がなくてはならない。そういう精神は、思考のどんな努力も、修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じる。それは、考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じる。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛がある。そして人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)

192鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/16(日) 00:22:12 ID:1d4drIFg0
精神とはオショーがマインドとよぶものじゃな。
思考とか感情などの心の働きなのじゃ。
それは常に自我の制約を受けているから現実には役に立たないのじゃ。
それを理解する時、気付きがあるのじゃ。
そして智慧が起こるのじゃ。

193避難民のマジレスさん:2020/08/16(日) 21:56:59 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 1

 あなたは自分自身の精神を観察するとき、いわゆる精神の上の(ほうの)水準だけではなくて、また無意識をも見守っているのです。あなたは、精神が現実に何をするのかを見ているのではないでしょうか。それが、あなたが究明できる唯一の仕方です。それが何をするべきか、それがどのように考えたり行動したりするべきか、などを重ね合わせないでください。それは(結果的に)たんなる発言をすることになるでしょう。すなわち、あなたは、精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまうのです。または、あなたは何か高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまうのではないでしょうか。あなたがブッダやキリストやXYZを引用するなら、追求すべて、考えることすべて、究明すべてに終わりがあるのです。ですからそれに対して用心し・警戒しなければなりません。あなたは私と一緒にこの自己の問題を究明しようとするなら、これらすべての精神の微妙さを、脇へ置かなければなりません。
 精神の機能とは何でしょうか。それを見出すには、あなたは、精神が現実に何をしているのかを知らなければなりません。あなたの精神は何をするのでしょうか。それはすべて考える過程なのではないでしょうか。そうでないと、精神はないのです。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はありません。私たちは、日常の生で用いる精神、また私たちのほとんどが意識していない精神が、私たちの問題に関して何をするのかを、見出さなければなりません。私たちは、あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければなりません。
 では、あるがままの精神はどんな機能をしているでしょうか。それは現実には孤立(化)の過程なのではないでしょうか。根本的に、それが思考の過程なるものです。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なままです。あなたは自分自身の考えを観察するなら、それが孤立した断片的な過程であるのが、わかるでしょう。あなたは、あなたの反応に応じて考えています-あなたの記憶、経験、知識、信念の反応、です。あなたはそのすべてに反応しているのではないでしょうか。根本的革命がなければならないと、私が言うなら、あなたは即時に反応します。あなたは、霊的 [・精神的] にしろそうでないにしろ、有利な投資を持っているなら、その「革命」という言葉に反対するでしょう。それであなたの反応は、あなたの知識、信念、経験に依存しているのです。それは明白な事実です。色んな形の反応があります。「私は兄弟のように(親しく)しなければならない」、「私は協力しなければならない」、「私は仲良くしなければいけない」、「私は親切でなければならない」、など。これらは何でしょうか。これらはすべて反応です。しかし、考えることの根本的反応は、孤立(化)の過程です。あなたは、あなたたち各自は、自分自身の精神の過程を見守っているのです-それは、あなた自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味です。これらすべては安全を与えてくれるのではないでしょうか。それらは安全を与え、考える過程に強さを与えてくれるのです。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけです-その自己を高いと [呼ぼうと] 低いと呼ぼうと、です。私たちの宗教すべて、私たちの社会的認可すべて、私たちの法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにあるのです。そしてその反対に、全体主義的国家があるのです。あなたが無意識の中にもっと深く入ってゆくなら、そこでもまた、働いているのは同じ過程です。そこでは私たちは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体なのです。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

194避難民のマジレスさん:2020/08/16(日) 22:00:48 ID:8a63LH/E0
くまめも17-1
精神が現実に何をするのかを見る。それが、自己の問題を究明できる唯一の仕方。
精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまう。
高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまう。
精神の機能とは何か。それはすべて考える過程。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はない。あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければならない。
あるがままの精神はどんな機能をしているか。それは孤立化の過程。根本的に、それが思考の過程。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なまま。
反応に応じて考えている−記憶、経験、知識、信念の反応。
反応は、知識、信念、経験に依存している。
考えることの根本的反応は、孤立化の過程。各自は、自分自身の精神の過程を見守っている−それは、自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味。これらすべては安全を与え、考える過程に強さを与えてくれる。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけ。宗教、社会的認可、法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにある。そしてその反対に、全体主義的国家がある。無意識の中でもまた、働いているのは同じ過程。そこでは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望がある。
(´・(ェ)・`)


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