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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
195
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/16(日) 22:17:54 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティはほぼ考えを精神と言っているようじゃ。
社会や親などによって条件付けされた精神は自己を支えるためにあるというのじゃ。
利己主義なのじゃ。
自分という観念を補強するだけの志向性を持っているのじゃ。
196
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/17(月) 22:02:28 ID:1yezVXyg0
最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 2
精神の機能は、私たちが知っているように、日常機能しているように、孤立(化)の過程ではないでしょうか。あなたは個人的な救いを求めていないでしょうか。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしています。またはまさにこの生・世において、あなたは偉大な人、偉大な作家であろうとしています。私たちの傾向全体は分離することです。精神はそれ以外に何かできるでしょうか。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、可能でしょうか。それは不可能です。それで私たちは精神を崇拝するのです。精神はとてつもなく重要です。あなたは、自分がほんの少しずるがしこく、ほんの少し鋭敏で、蓄積した情報と知識を少し持った瞬間、自分がどんなに社会で重要になるのかを、知らないでしょうか。知的にすぐれている人たち、法律家・弁護士、大学教授、演説者、偉大な作家、説明家、解説者を、あなたがどんなに崇拝するか、知っているでしょう!あなたは知性と精神を育成してきたのです。
精神の機能は分離することです。そうでないと、あなたの精神はないのです。私たちは幾世紀の間この過程を育成してきたので、私たちは協力できないことがわかるのです。私たちは、経済的でも宗教的でも権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけです。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、どのようにして協力がありうるでしょうか。どのようにして何かをするために智恵が集まりうるでしょうか。それはほとんど不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いるのです。私たちが集まりたい、一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなるのです。
この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たないでしょう。私たちは常なる抗争と戦争を持つでしょう。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか、です。思考は言葉に表す [過程] と反応の過程ですが、それはいったい自己を破壊できるのでしょうか。思考は反応以外の何ものでもありません。思考は創造的ではありません。そういう思考はそれ自体を終わりにできるでしょうか。それが、私たちが見出そうとしていることです。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練しているのです。それは孤立(化)の過程ではないでしょうか。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではないのです-それ [智恵] からのみ、協力がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
197
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/17(月) 22:11:05 ID:1yezVXyg0
くまめも17-2
精神の機能は、孤立化の過程。
あなたは個人的な救いを求めている。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしている。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、不可能。それで私たちは精神を崇拝する。
精神の機能は分離すること。私たちは協力できない。権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけ。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、協力、何かをするために智恵が集めることは不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いる。私たちが一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなる。
この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たない。私たちは常なる抗争と戦争を持つ。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか。思考は言葉に表す過程と反応の過程だが、それはいったい自己を破壊できるか。思考は反応。思考は創造的ではない。そういう思考はそれ自体を終わりにできるか。それが、私たちが見出そうとしていること。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練している。それは孤立(化)の過程。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではない。智恵からのみ、協力がありうる。
(´・(ェ)・`)
198
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/17(月) 23:36:56 ID:1d4drIFg0
思考はものごとを分類して記憶する機能が在るのじゃ。
草の種類とか動物の種族とかにどんどん分類していくのじゃ。
それが自己をも分類するのじゃ。
どこの国の者とかどこの地域のものとかのう。
それが争いを生み自己を破壊していくのじゃ。
199
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/18(火) 20:19:02 ID:cj1chvzQ0
最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 3
あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)つ
200
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/18(火) 20:22:29 ID:cj1chvzQ0
最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 3
あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)
201
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/18(火) 22:51:37 ID:1d4drIFg0
思考の終わりを目指すには修練ではいかんというのじゃ。
それは更なる自己強化に繋がるからなのじゃ。
思考の過程自体を理解できれば思考は終わるというのじゃ。
それは自分が行くのではなく、訪れるものというのじゃ。
202
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/19(水) 23:18:06 ID:227hnK8M0
最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞 1
私は、自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自体と他のものに課す・賦課する欺き・妄想・惑わしを-議論したり考慮したりしたいように思います。それはとても深刻な事柄です-特に世界が向き合っている種類の危機においては。しかし、この自己欺瞞の問題全体を理解するためには、私たちはたんに言葉の水準においてだけでなくて、本来的に、根本的に、深く、それに付いていかなければなりません。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎています。私たちは世間ずれして賢いのです。世慣れているので、わたしたちにできることは、何かが起きることを願うことばかりです。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかります。無数の歴史家、神学者、宗教的な人たちが、戦争とそれがどのようにして生じるのかを説明していますが、戦争はやはりつづきます-おそらく今までよりもっと破壊的でしょう。私たちのうちでほんとうに熱意のある人たちは、戦争を乗り越えなければなりません。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければなりません。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済です。
同様に、私たちはこの種の自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきであると、私は思います。私は提案してよければ、私たちはたんに話し手に聴くだけではなく、私たちが日常の生において知っているような問題に付いていくべきです。すなわち、私たちは考えることと行動において自分たち自身を見守る [べきである]- 私たちがどのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべきです。
自己欺瞞のための理由、基礎は何でしょうか。私たちのうちどれほど多くが、私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づいているでしょうか。私たちは「自己欺瞞とは何なのか、そしてそれはどのようにして生じるのか」という疑問に答えられる前に、私たちが自分たち自身を欺いていることに気づかなければならないのではないでしょうか。私たちは自分たち自身を欺いていることを知っているでしょうか。私たちのいうこの欺瞞とはどういう意味でしょうか。それがとても重要であると、私は思います。なぜなら、私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなるからです。というのは、それは一定の活力・生命力、一定のエネルギ-、一定の能力を与えてくれるからです- それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いるのです。それで次第に私たちは自分自身に [欺瞞を課している] だけではなく、他の人たちにも欺瞞を課しているのです。それは自己欺瞞の相互に作用する過程です。私たちはこの過程に気づいているでしょうか。私たちは、自分たちはとても明晰に、目的を持って、直接的に考える能力があると、考えます。私たちは、この考える過程に自己欺瞞があることに、気づいているでしょうか。
思考自体が、探求の過程 [であり] 、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたい(良い評判を得たい)という願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、ではないでしょうか。政治的に、宗教社会学的に、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因ではないでしょうか。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出さないでしょうか、もたらさないでしょうか。これを例に取りましょう。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持っています。私たちは年を取れば取るほど、ますます興味を持つようになるのです。私たちはそれの真理が知りたいのです。どのようにして見つけるのでしょうか。確実に、読書によってではなく、また違った説明をとおしてでもありません。
(´・(ェ)・`)つ
203
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/19(水) 23:19:26 ID:227hnK8M0
くまめも18-1
自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自他に課す欺き・妄想・惑わしを-議論したい。それはとても深刻な事柄。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎている。私たちは世慣れているので、わたしたちにできることは、何、かが起きること利子、を願うことばかり。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかる。戦争を乗り越えなければならない。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければならない。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済。
同様に、自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきである。どのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべき。
自己欺瞞のための理由、基礎は何か。私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づかなければならない。私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなる。というのは、それは一定の活力・生命力、エネルギ-、能力を与えてくれるから−それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いる。それで次第に私たちは自分自身にだけではなく、他人にも欺瞞を課している。それは自己欺瞞の相互に作用する過程。
思考自体が、探求の過程、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたいという願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出す。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持つ。私たちはそれの真理が知りたい。どのようにして見つけるのか。
(´・(ェ)・`)
204
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/20(木) 23:10:46 ID:1d4drIFg0
そもそも自分があるという観念が最も大きな自己欺瞞と言えるのじゃ。
それは無いものであるからのう。
自分があるという欺瞞から思考にも我欲が起こるのじゃ。
そして自己の正当化とか安全に評判を得たいとか思うようになるのじゃ。
205
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/21(金) 21:05:29 ID:OIJS2RiY0
最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞2
あなたはどのようにしてそれを見出すのでしょうか。初めにあなたは、道をふさいでいる(邪魔になっている)あらゆる要因を、自分の精神から完全に除かなければなりません-あらゆる希望、継続したいというあらゆる願望、あの反対側に何があるのかを見出したいというあらゆる願望を、です。なぜなら、精神は常に安全を求めているからです。それは継続したいという願望を持つし、充実の手段を、未来の存在を願うからです。そういう精神は死後の生の真理、輪廻転生やどんなのでも求めていますが、その真理を発見する能力がないのではないでしょうか。重要であることは、輪廻転生が真実であるのかないのかではなくて、いかに精神が自己欺瞞をとおして、あるかもないかもしれない事実について正当化を求めるのか、 [ということ] です。重要であることは、問題への接近方です-どんな動機、どんな衝動、どんな願望をもって、あなたがそれに近づくか、です。
求める者はいつもこの欺瞞を自分自身に課しています。誰もそれを彼に課せません。彼自身がそうするのです。私たちは欺瞞を造り出して、その奴隷になるのです。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望です。私たちは、この世で何ものかでありたいと思うことの結果を、知っています。それは全くの混乱です-そこでは各自が互いに競争しあい、平和の名において互いに破壊しあっています。あなたは、私たちが互いに遊びあうゲ-ム全体を知っています-それはとてつもない形の自己欺瞞です。同様に、私たちはあの世での安全、地位が欲しいのです。
それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、私たちは自分たち自身を欺きはじめるのです。精神が [それ] から自由であることはとても難しいことです。それが私たちの生の基本的問題です。この世界(世)に生きて、何ものでもないことは可能でしょうか。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由があるのです。なぜなら、そのときだけ、精神は結果を求めていないからです-精神は満足できる答えを求めていない。精神はどんな形の正当化も求めていない。精神はどんな形、どんな関係にも安全を求めていないのです。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、あらゆる形の正当化、安全を捨て去るときだけ、それは起きるのです-それは、そのとき精神が完全に何ものでもない能力がある、という意味です。それは可能でしょうか。
私たちがどんな形でも自分たち自身を欺むくかぎり、愛はありえません。精神が妄想を造り出して、それ自体に賦課する能力があるかぎり、明白に集合的・総合的または統合的理解からそれ自体を分離するのです。それが私たちの困難の一つです。私たちはどのように協力するのかを知らないのです。私たちが知っているすべては、私たち双方が生じさせる・生み出す目的に向かって一緒に働こうとすることです。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうるのです。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能なだけである、ということです。あなたと私が何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念とその他すべてが必要になります-自己投影されたユ-トピア [・理想郷] が必要なのです。しかし、あなたと私がどんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、匿名で・名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
206
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/21(金) 21:17:33 ID:OIJS2RiY0
くまめも18-2
真理を見出す邪魔になる要因、あらゆる願望を、自分の精神から完全に除く。精神は常に安全を求め、継続したいという願望を持ち、充実の手段を、未来の存在を願う。そういう精神は死後の生の真理を求めているが、その真理を発見する能力がない。重要なのは、①いかに精神が自己欺瞞をとおして、ないかもしれない事実について正当化を求めるのか。②問題への接近方−どんな動機、衝動、願望をもって、それに近づくか。
求める者はこの欺瞞を自分自身に課し、その奴隷になる。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望。
それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、自分たち自身を欺きはじめる。精神がそれから自由であることはとても難しい。この世界に生きて、何ものでもないことは可能か。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由がある。なぜなら、そのときだけ、精神は結果、満足な答え、正当化、安全を求めていないから。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、正当化、安全を捨て去るときだけ、精神が完全に何ものでもない能力がある。
私たちはどのように協力するのかを知らない。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうる。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能ということ。何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念が必要になる−自己投影されたユ-トピアが必要。しかし、どんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力がある。
(´・(ェ)・`)
207
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/21(金) 22:42:30 ID:1d4drIFg0
願望とは欲とも言えるのじゃ。
自己の安全を求める精神は欲から離れられないのじゃ。
それは不安から起こるものであるからのう。
その欲に執り付かれている精神が自我の無存在を見るはずも無いのじゃ。
それは自分が消えることであると感じてしまうからのう。
208
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/22(土) 20:59:33 ID:sMoqNXgI0
最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞3
私たちが協力すること、私たちが目的を視野に入れずに一緒にいることは、可能でしょうか。あなたと私は、結果を求めずに一緒に働けるでしょうか。確かにそれが真の協力なのではないでしょうか。あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何でしょうか。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っています。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれません-それは欺瞞をもたらし、あなたと私の間に葛藤・抗争をもたらすのです。それは私たちの日常の生において明白で観察できる事実です。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意します。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっているのです。私は自分の満足のために結果が欲しいのです。私は支配したいのです。私はあなたと一緒に働いていると言われるけれども、自分の名前をあなたの前に置きたいのです。それで私たち二人は、その計画の創案者ですが、たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、あなたと私が協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか-私たちが表面的な水準においてだけではなくて、根本的に、ほんとうに、真に協力することができるかどうかを、です。それが私たちの最大の問題の一つ、おそらく最大のものです。私は自分自身を一つの対象と同一化しますし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化します。私たち二人がそれに興味があるのです。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図しています。確かにこの考える過程はとても表面的です。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすからです-それは私たちの日常の生においてあまりに明白です。あなたはヒンドウ-教徒で、私はキリスト教徒です。私たちは共に同胞愛を説きますし、私たちは互いの喉元にいる [互いに争っている] のです。なぜでしょうか。それが私たちの問題の一つなのではないでしょうか。無意識的に、深く、あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持っています。同胞愛について話しをすることにより、私たちは信念の問題全体を解決しなかったのです。私たちは理論的、知的に、これはそうであるべきだと、同意しただけです。内側で、深く、私たちは互いに敵対して・逆らっているのです。
私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえません。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせません。
(´・(ェ)・`)つ
209
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/22(土) 21:10:05 ID:sMoqNXgI0
くまめも18-3
あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何か。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っている。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれない−それは欺瞞、葛藤・抗争をもたらす。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意する。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっている。私は自分の満足のために結果が欲しい、支配したい。たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要。私は自分自身を一つの対象と同一化するし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化しする。私たち二人がそれに興味がある。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図している。この考える過程はとても表面的。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすから。
私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえない。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせない。
(´・(ェ)・`)
210
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/22(土) 22:50:33 ID:1d4drIFg0
そもそも自分がいて他人が居るという観念から孤立が起こるのじゃ。
それを誤魔化して協力するということはできないのじゃ。
それもまた欺瞞になるからのう。
自他の区別が無い時、真の協力もありえるのじゃ。
211
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/23(日) 17:26:23 ID:cvVqWIyM0
最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞4
信念は協力をもたらしません。反対にそれは分割します。私たちは、いかに一つの政党がもう一つに敵対・対抗して、それぞれが経済的問題を扱う一定のやり方を信じているか、それでそれらが皆互いに戦いあっているかが、わかります。それらは例えば飢餓の問題を解決するなかで解決されないのです。それらは、その問題を解決するであろう理論に、関心があるのです。それらは、現実には問題自体に [関心があるわけ] ではなくて、 [それにより] 問題が解決されるであろう方法に関心があるのです。ゆえに二つの間に争いがあるにちがいないのです。なぜなら、それらは問題にではなく、観念に関心があるからです。同様に、宗教的な人たちも、言葉では自分たちは皆一つの生命、一つの神を持っていると言うけれども、互いに敵対・対抗しているのです。あなたはそのすべてを知っています。内側で、彼らの信念、彼らの意見、彼らの経験は、彼らを破壊しているし、分離しているのです。
経験は、私たち人間の関係において分割させる要因になります。経験は欺瞞の道です。私は何かを経験した(ことがある)なら、それにすがりつきます。私は経験する過程の問題全体に入ってゆきません。なぜなら私は経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくからです。それにより私はその経験をとおして自己欺瞞を課すのです。
私たちの困難は、私たち各自が特定の信念と [同一化し] 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、私たちの精神がそれに捕らえられ、私たちが問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということです。ゆえに私たちは自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望するのです。私たちが理解をとおして-表面的な水準でだけではなく、またもっと深いレベルでの-それらを解消するまでは、世界に平和はありえません。そういうわけで、ほんとうに真剣である人たちが、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を-表面的な水準でだけではなくて根本的に深く理解することが、重要なのです。そうでないと、世界に平和はありえません
真理は何か獲得されるものではありません。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ません。確かにそういうものは、精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来るのです -それ[動きと信念]は、精神が 頼れるもの、 [そこから] 一定の強さを引き出してくる [ところの]もの -すなわち自己欺瞞の表示であるものです。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけです。そのときだけ精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ないのです。そのときだけ、 [そこに] どんな種類の欺瞞もない状態の可能性が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ
212
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/23(日) 17:31:54 ID:cvVqWIyM0
くまめも18-4
信念は協力をもたらさない。反対にそれは分割する。問題解決につき、敵対・対抗する者たちがそれぞのやり方を信じ、互いに戦いあっているが、それらは、現実には問題自体に関心があるわけではなくて、問題が解決されるであろう方法、理論(観念)に関心がある。ゆえに二つの間に争いがある。内側で、彼らの信念、意見、経験は、彼らを破壊しているし、分離している。
経験は、人間関係を分割させる要因。経験は欺瞞の道。何かを経験したなら、それにすがりつく。経験する過程の問題全体に入ってゆかない。なぜなら経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくから。それによりその経験をとおして自己欺瞞を課す。
私たちの困難は、各自が特定の信念と 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、精神がそれに捕らえられ、問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということ。ゆえに自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望する。理解をとおして、それらを解消するまでは、世界に平和はありえない。そういうわけで、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を根本的に深く理解することが、重要。そうでないと、世界に平和はありえない。
真理は獲得されるものではない。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ない。精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来る−動きと信念は、精神が 頼れるもの、 そこから一定の強さを引き出してくるもの -すなわち自己欺瞞の表示であるもの。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけ。そのときだけ、精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ない。そのときだけ、どんな欺瞞もない状態の可能性が、ある。
(´・(ェ)・`)
213
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/23(日) 22:54:00 ID:1d4drIFg0
イデオロギーの違いに拠って人は戦争をしたりするのじゃ。
信念は争いの道具でしかなかったのじゃ。
人はそれと自己同一化している故に命までかけて戦うのじゃ。
信念が否定されれば自分の全てが否定されたと感じるからのう。
そのような自己同一化が無い時にのみ平和が在るのじゃ。
214
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/24(月) 20:39:32 ID:fBHCYJXA0
最初と最後の自由 第一部
第十九章 自己中心的な活動 1
私たちのほとんどは、あらゆる形の説得、あらゆる種類の誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきたことに気づいていると、私は思います。諸宗教は、約束をとおし、地獄の恐れをとおし、あらゆる形の非難をとおして、違った仕方で、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきました。これらが失敗したあと、政治的組織が引き継ぎました。そこでもまた説得です。そこでもまた究極のユ-トピア的希望です。とても制限されたものから強制収容所を含む極端なものまで、あらゆる形の法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきました。それでも私たちは自分の自己中心的活動をそのまま続けます-それは、私たちが知っているように見えるただ一つの種類の活動です。私たちはとにかくそれについて考えるなら、修正しようとします。私たちはそれに気づくなら、その進路を変えようとします。しかし、根本的に、深く、変容はないのです。その活動の根源的停止はないのです。思慮深い人たちはこれに気づいています。彼らはまた、その中心からの活動が止むとき、そのときだけ幸せがありうることにも、気づいています。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で(当然で)ある、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然のことと思っています。そこで、誠実ではなく-なぜなら、誠実さは自己欺瞞の道であるからです-もう少し真剣で、もっと熱心である人たちは、このとてつもない自己中心的活動の総合過程に気づくと、 [それを] 越えてゆけるかどうかを、見出さなければなりません。
自己中心的活動とは何なのかを理解するには、明白にそれを検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければなりません。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性があるのです。しかし、それに気づくには、一定の理解 [を必要とする] 、それを解釈するのではなく、修正するのではなく、非難するのではなく 、あるがままのものごとに向き合おうとする一定の意図を必要とするのです。私たちは自分たちが何をしようとしているのかに [気づかなければならない] 、その自己中心的状態から発生する活動すべてに気づかなければなりません。私たちはそれを意識しなければなりません。私たちの第一の困難の一つは、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したいのです。それで、それを直接的に見つめることがほとんどできないのです。私たちが(意識)するとき、私たちのほとんどは何をすべきなのかを知る能力がないのです。
自己中心的活動は有害であり、破壊的であること、あらゆる形の同一化-国との、特定の集団との、特定の願望との [同一化] 、この世でもあの世・来世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範の追求、美徳の追求、などといったもの-が、本質的に自己中心的な人物の活動であることを、私たちは悟ります。自然との、人々との、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたものです。このすべてを知るとき、どうすべきなのでしょうか。そういう活動はすべて-自分で課してではなく、影響されてではなく、導かれてではなく-自発的に終わらなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
215
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/24(月) 20:45:04 ID:fBHCYJXA0
くまめも19-1
説得、誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきた。諸宗教は、約束.地獄の恐れ.非難をとおして、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきた。これが失敗したあと、政治的組織が引き継いだ。そこでもまた説得、法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきた。それでも私たちは自己中心的活動をそのまま続けてきた。私たちはそれについて考えるなら、修正しようとする。それに気づくなら、その進路を変えようとする。しかし、その活動の根源的停止はない。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で当然である、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然と思っている。そこで、もう少し真剣、熱心な人たちは、この自己中心的活動の総合過程に気づくと、それを越えてゆけるかを、見出さねばならない。
自己中心的活動とは何かを理解するには、検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければならない。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性がある。それに気づくには、一定の理解を必要とする、それを解釈、修正、非難するのではなく、あるがままのものごとに向き合おうとする意図を必要とする。自己中心的状態から発生する活動すべてに気づき、それを意識しなければならない。私たちの第一の困難は、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したい。それで、それを直接的に見つめることができない。私たちが意識するとき、私たちは何をすべきなのかを知る能力がない。
自己中心的活動は有害、破壊的であること、
特定の集団との、特定の願望との同一化、この世でもあの世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範、美徳の追求、等といったものが、本質的に自己中心的な活動であることを、私たちは悟る。自然、人々、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたもの。このすべてを知るとき、そういう活動はすべてを自発的に終わらなければならない。
(´・(ェ)・`)
216
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/24(月) 22:42:54 ID:1d4drIFg0
エゴから来る活動は欲とか保身から起こるものじゃ。
宗教や国家はそれを抑制して公共のために人を働かそうとするのじゃ。
しかし、そのような外からの強制では何も変らないのじゃ。
自らが全てであるという真の気づきからのみ人は変るのじゃ。
217
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/25(火) 21:54:24 ID:peDpOx2g0
最初と最後の自由 第一部
第十九章 自己中心的な活動 2
私たちのほとんどは、この自己中心的活動が災いと混沌を造り出すことに、気づいています。しかし、私たちは一定の方向において、それに気づいているだけです。私たちは他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自分たち自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思うのです。私たちはそれを扱うことができる前に、どのようにしてこの過程が生じるのかを知らなければならないのではないでしょうか。何かを理解するためには、私たちはそれを見つめる能力がなければなりません。そして見つめるには、意識的とともに無意識的な違った水準でのその様々な活動を-意識的な指示と、また私たちの無意識的な動機と意図の自己中心的な動きをも-知らなければなりません。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけなのではないでしょうか。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識するのです。そのとき抵抗 [があるし] 、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形があるのです-それ [目的]は、私に喜び、満足を与えてくれるでしょう。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づきます。確かに、意識的に美徳を追求する人は、美徳がありません。謙虚さは追求できません。それが謙虚さの美しさです。
この自己中心的過程は、時間の結果なのではないでしょうか。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがありますし、私は、未来と結合した過去と現在を意識します。「私」の自己中心的活動は時間の過程です。中心すなわち「私」の活動に連続・継続性を与えるのは、記憶です。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の[過程] 、経験する[過程] 、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかるでしょう。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかるでしょう-それもまた精神の過程です。
精神はこのすべてから自由でありうるでしょうか。それは希な瞬間に可能であるかもしれません。それは、私たちが意識的でない、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれません。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることはいったい可能でしょうか。それは、私たち自身に提出されるとても重要な疑問です。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるでしょうから。あなたは、この自己中心的活動の総合過程に気づき、あなたの意識の違った水準で、その活動を充分に認識するなら、そのとき確かに、その活動が終わることが可能なのかどうかを、自分自身に訊ねなければなりません。時間という見地に立って考えないこと、私は [将来] 何であるべきか、 [過去から現在まで] 何であったか、 [現在] 何であるのかという見地に立って考えないことは可能でしょうか。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の過程全体が始まるからです。またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まります-それはすべて時間の過程です。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見えるのです。
(´・(ェ)・`)つ
218
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/25(火) 21:59:12 ID:peDpOx2g0
くまめも19-2
自己中心的活動が災いと混沌を造り出す。他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思う。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけ。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識する。そのとき抵抗があるし、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形がある-目的は、私に喜び、満足を与える。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づく。意識的に美徳を追求する人は、美徳がない。謙虚さは追求できない。それが謙虚さの美しさ。
この自己中心的過程は、時間の結果。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがあるし、私は、未来と結合した過去と現在を意識する。「私」の自己中心的活動は時間の過程。中心すなわち「私」の活動に連続性を与えるのは、記憶。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の過程、経験する過程、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかる。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかる-それもまた精神の過程。
精神はこのすべてから自由でありうるか。それは希な瞬間に可能であるかもしれない。それは、私たちが意識的、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれない。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることは可能か。それは、重要な疑問。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるから。この自己中心的活動の総合過程に気づき、その活動を充分に認識するなら、そのとき、その活動が終わること、時間という見地に立って考えないこと、私は将来何であるべきか、 過去から現在まで何であったか、現在何であるのかと見地に立って考えないことは可能か。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の結果またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まる−それはすべて時間の過程。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見える。
(´・(ェ)・`)
219
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/25(火) 22:54:28 ID:1d4drIFg0
なんらかの抵抗がある時、あるいは執着がある時、自我は主体として意識されるのじゃ。
それも記憶に基づいているのじゃ。
連続する自己があるという観念から時間の経過を恐れ、欲も起こるのじゃ。
今ここで観ることができればそれらも瞬時に消えるのじゃ。
220
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/26(水) 19:48:06 ID:5PNHw7hQ0
最初と最後の自由 第一部
第十九章 自己中心的な活動 3
確かに、時間の過程は革命的ではありません。時間の過程には変容はありません。連続性だけがあって終わりはありません。認識以外に何もありません。革命、変容 [がある] 、新しいものが生じることがあるのは、あなたが、時間の過程の、自己の活動の完全な停止を持つときだけです。
その活動における「私」の、この全体的総合的な過程に気づくとき、精神は何をするべきなのでしょうか。新しいものがあるのは-進化をとおしてではなく、「私」がなることをとおしてではなく、「私」が完全に終わることをとおしての-新生をもってだけ、革命をもってだけです。時間の過程は新しいものをもたらせません。時間は創造の道ではありません。
あなたたちのうち誰かが創造性の瞬間を持ったことがあるかどうか、私は知りません。私は何かの幻覚・幻想を実行に移すことについて話していません。私のいうのは、認識がないときのあの創造の瞬間、という意味です。その瞬間には、 [そこに] 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった(あの)とてつもない状態があるのです。私たちは気づくなら、その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、それから同一化する経験者がいないことが、わかるでしょう。思考過程、すなわち時間の [過程] がないのです。その創造の [状態] 、新しいもの-すなわち時間のないもの-の創造性の状態には、「私」の作用 [・行動] が全くないのです。
私たちの疑問は、確かにこうです-精神が瞬間的にではなく、希な瞬間にではなく、その状態にあることは [可能でしょうか] -私は「永遠」とか「永久」とかいう言葉をむしろ使いたくないのです。なぜなら、それは時間という意味を含んでいるからです-時間を顧慮・考慮せずに、その状態にあることは、可能でしょうか。確かにそれは、私たち各自がなすべき重要な発見です。なぜなら、それが愛への扉であるからです。他の扉はすべて自己の活動です。自己の作用 [・行動] があるところ、愛はありません。愛は時間のものではありません。あなたは愛を実践できません。あなたが [実践] するなら、そのときそれは、愛することをとおして結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動です。
愛は時間のものではありません。あなたはどんな意識的な努力をとおしても、どんな修練をとおしても、同一化をとおしても、それに思いがけず出会えません-それはすべて時間の過程のものです。精神は時間の過程だけを知っていますが、愛を認識できません。愛が唯一の永遠に新しいものです。私たちのほとんどは、精神-すなわち時間の結果であるもの-を育成してきたから、私たちは愛が何であるかを知らないのです。私たちは愛について話しをします。私たちは人々を愛している、自分の子供たち、妻、隣人を愛している、自然を愛していると、私たちは言います。しかし、私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じたのです。ゆえにそれは愛であることを止めるのです。
この精神の総合過程は、関係-自然との、人々との、私たち自身の投影との、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係-をとおしてだけ、理解されるべきものです。生は関係以外の何ものでもありません。私たちは関係から自分たち自身を孤立させようと試みるかもしれないとしても、それなしには存在できません。関係は苦痛であるけれども、私たちは孤立(化)の手段により、隠遁者になることなどにより、逃げ出せません。これらの方法はすべて自己の活動の表示です。どんな選択もなく、どんな決然とした目的のある意図もなく、どんな結果への欲望もなく、この映像全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、あなたは、この時間の過程が-誘導されてではなく、欲望の結果としてではなく-自発的に終わることが、わかるでしょう。愛-すなわち永遠に新しいもの-があるのは、その過程が終わるときだけです。
私たちは真理を求めなくてもいいのです。真理は何か遠く離れたものではありません。それは精神についての真理、瞬間瞬間のその活動についての真理です。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放するのです。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨すべて、その葛藤・抗争すべて、その災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じるのです。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけです。
(´・(ェ)・`)つ
221
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/26(水) 19:52:11 ID:5PNHw7hQ0
くまめも19-3
時間の過程は革命的でない。認識だけがある。連続性だけがあって終わりはない。革命、変容、新しいものが生じるのは、時間の過程、自己の活動の完全な停止するときだけ。
創造の瞬間には、 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった状態がある。その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、同一化する経験者がいない。思考過程、すなわち時間の過程がない。その創造の状態、新しいもの−すなわち時間のないもの−には、「私」の作用が全くない。
精神が瞬間的にではなく、その状態にあることは、各自がなすべき重要な発見.なぜなら、それが愛への扉であるから。他の扉はすべて自己の活動。自己の作用があるところ、愛はない。あなたは愛を実践できない。実践するなら、それは、結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動。
意識的な努力、修練、同一化をとおして、愛に出会えない−それはすべて時間の過程のもの。愛が唯一の永遠に新しいもの。私たちは、精神−すなわち時間の結果であるもの−を育成してきたから、愛が何であるかを知らない。私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じる。ゆえにそれは愛であることを止める。
この精神の総合過程は、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係をとおしてだけ、理解される。生は関係。関係から自身を孤立させようと試みるとしても、それなしには存在できない。この方法はすべて自己の活動の表示.どんな選択も、目的のある意図も、結果への欲望もなく、この全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、この時間の過程が自発的に終わる。愛−すなわち永遠に新しいもの−があるのは、その過程が終わるときだけ。
真理を求めなくてもいい。真理は遠く離れたものではない。それは精神について、瞬間瞬間のその活動についての真理。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放する。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨、葛藤・抗争、災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じる。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけ。
(´・(ェ)・`)
222
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/26(水) 21:46:20 ID:1d4drIFg0
観念である時間がある限り人には変容は無いのじゃ。
時間の観念の無い瞬間の気づきが変容をもたらすのじゃ。
そこに自分は無く、記憶も、同一化もないのじゃ。
それには時間が無いから永遠で在るのじゃ。
223
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/27(木) 20:36:51 ID:HgpRjtdk0
最初と最後の自由 第一部
第二十章 時間と変化 1
私は、時間とは何であるかについて、少し話したいように思います。なぜなら、時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさと意義は、私たちが時間の過程全体を理解するときだけ経験されうると、私は思うからです。結局私たちは、各自が自分自身のやり方で、幸せの、豊かさの感覚を求めています。確かに、意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではありません。愛と同じように、そういう生は時間がないのです。時間のないものを理解するには、私たちは時間をとおしてそれに接近するのではなく、むしろ時間を理解しなければなりません。時間のないものに到達し、実現し、掴む手段として、時間を利用してはなりません。それが、私たちが自分たちの生のほとんどを費やしていることです-時間のないものを把握しようとすることに時間を費やすことです。ですから、私たちのいう時間とはどういう意味なのかを理解することが、重要です。なぜなら、時間から自由であることは可能であると、私は思うからです。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、とても重要です。
私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味があります-年代的継起・連続の [意味] 、分、時間、日、年の意味においてではなく、心理的な記憶の意味における時間です。私たちは時間によって生きています。私たちは時間の結果です。私たちの精神は、多くの昨日の産物です。そして現在は、たんに過去から未来への通路です。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいています。時間なしには、私たちは考えられません。なぜなら、思考は時間の結果であるからです。思考は多くの昨日の産物です。記憶なしに思考はありません。記憶は時間です。というのは、二種類の時間、年代的なものと心理的なものがあるのです。時計による昨日としての [時間] と、記憶による昨日としての時間があるのです。あなたは年代的な時間を拒絶できません。それは不合理でしょう。あなたは列車に乗り遅れるでしょう。しかし、年代的な時間から離れて、いったいほんとうに何か時間があるのでしょうか。明白に、昨日としての時間はあります。しかし精神がそれについて考えるような時間はあるでしょうか。確かに、時間、心理的な時間は、精神の産物です。思考の基礎なしに、時間はありません-時間はたんに今日と結合した昨日としての記憶です-それが明日を型どるのです。すなわち、昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出しているのです-それもやはり思考の過程、精神の道です。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらします。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのでしょうか。そして私たちは、精神のものであるその時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのでしょうか。私が言いましたように、幸せは昨日のものではありません。幸せは時間の産物ではありません。幸せはいつも現在に、時間のない状態にあるのです。あなたは恍惚を[経験するとき] -創造的喜びを、一連の明るい雲が暗い雲によって取り囲まれるのを-経験するとき、その瞬間には時間がないということに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。即時の現在だけがあるのです。精神が、現在において経験した後に入ってきて、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出すのです。ですから時間はもっと多くによって造り出されます。時間は取得です。時間はまた執着です-それもやはり精神の取得です。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること-すなわち記憶-は、確かに、時間のないものを開示しません。
(´・(ェ)・`)つ
224
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/27(木) 20:41:20 ID:HgpRjtdk0
くまめも20-1
時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさ、意義は、時間の過程全体を理解するときだけ経験されうる。意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではない。時間のないものを理解するには、時間を理解しなければならない。時間のないものに到達する手段として、時間を利用してはならない。時間から自由であることは可能。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、重要。
私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味がある。私たちは時間によって生きている。精神は、多くの昨日の産物。そして現在は、たんに過去から未来への通路。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいている。思考は時間の結果であるから、時間なしには、考えられない。二種類の時間、年代的なものと心理的なものがある。時計による昨日としての時間と、記憶による昨日としての時間がある。あなたは年代的な時間を拒絶できない。それは不合理。しかし、年代的な時間から離れて、何か時間があるのか。確かに、心理的な時間は、精神の産物。思考の基礎なしに、時間はない。昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出している。それもやはり思考の過程、精神の道。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらす。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのか。そして精神のものである時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのか。幸せは昨日のものではない。幸せは時間の産物ではない。幸せはいつも現在に、時間のない状態にある。恍惚を、創造的喜びを、経験するとき、その瞬間には時間がない。現在において経験した後に、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出す。ですから時間はもっと多くによって造り出される。時間は取得、また執着。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること−すなわち記憶−は、時間のないものを開示しない。
(´・(ェ)・`)
225
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/27(木) 22:25:50 ID:1d4drIFg0
時間とは記憶があるから起こる観念なのじゃ。
記憶とは違う今を解釈するために時間がたったという観念が作られたのじゃ。
そこから先の未来もその連続から推測され、創作された物なのじゃ。
記憶への依存が無ければ時間も無いのじゃ。
226
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/28(金) 20:59:18 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由 第一部
第二十章 時間と変化 2
変容は時間の事柄でしょうか。私たちのほとんどは、時間は変容のために必要であると考えることに、慣れています。私は何ものかである。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。私は貪欲であるとともに、混乱、敵対、葛藤・抗争、悲惨という貪欲の結果でもあります。変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要であると、私たちは考えます。つまり時間は、何かもっと偉大なものに進化する、何ものかになる手段として考えられているのです。問題はこうです。(自分は)暴力的で、貪欲で、妬んでいて、怒っていて、不道徳で、気性が激しいのです。あるがままを変容させるには、時間が必要でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはあるがままを変えたい、または変容をもたらしたいのでしょうか。なぜでしょうか。なぜなら、あるがままの私たちは、私たちを不満にさせるからです。それは葛藤、動揺を造り出します。そしてその状態を好まないので、私たちは何かもっとよいもの、何かもっと高尚な、もっと理想的なものが欲しいのです。ゆえに私たちは変容を願望します。なぜなら、苦痛、不快、葛藤があるからです。葛藤は時間によって打ち勝たれるでしょうか。それは時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 [の状態] にあるのです。葛藤を取り除くには、あるがままのあなたを変えるには、二十日、または二十年かかるだろうと、あなたは言うかもしれません。しかしその時間の間、あなたはやはり葛藤 [状態] にあるのです。ゆえに時間は変化をもたらさないのです。私たちは、性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけです。この点を理解することが重要であると、私は思います。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界-すなわち社会-における苦痛、動揺を引き起こす原因になります。そしてこの動揺の状態-貪欲や暴力と呼ばれるもの-を意識すると、私たちは「私は時間をかけて・そのうちそれを取り除くだろう。非暴力を実践するだろう。妬まないことを実践するだろう。平和を実践するだろう」と、私たち自身に言うのです。そこで、あなたは非暴力を実践したいのです。なぜなら、暴力は動揺、葛藤・抗争の状態であるからです。そしてあなたは時間をかけて非暴力を獲得して葛藤・抗争に打ち勝つだろうと、思うのです。何が現実に起きているでしょうか。葛藤の状態にあると、あなたは葛藤のない状態を達成したいと思います。では、その葛藤のない状態は、時間の、時の継続の結果でしょうか。明白に違います。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、あなたはやはり暴力的でありつづけるし、ゆえにやはり葛藤 [状態] にあるからです。
私たちの問題は、葛藤、動揺は、数日であれ数年であれ幾つもの生涯であれ、時の期間において打ち勝たれうるだろうか [ということ] です。「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と、あなたが言うとき、何が起きるでしょうか。まさに実践こそが、あなたが葛藤 [状態] にあるということを、示しているのではないでしょうか。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、あなたは実践しないでしょう。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要であるし、その抵抗のために時間を持たなければならないと、あなたは言います。しかし、まさに葛藤への抵抗こそが、それ自体一つの形の葛藤です。あなたは、貪欲、妬み、暴力と呼ぶものの形での葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしています。しかしあなたの精神は、やはり葛藤 [状態] にあります。ですから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要なのです。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺-であることができるのです。
(´・(ェ)・`)つ
227
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/28(金) 21:03:18 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも20-2
時間は変容のために必要であると考えることに、慣れている。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。
私は貪欲である→変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要。つまり時間は、偉大なものに進化する手段として考えられている。
なぜあるがままを変えたいのか→あるがままは、不満にさせるから→葛藤、動揺を造り出す→もっとよいもの、高尚な、理想的なものが欲しい→私たちは変容を願望する
葛藤は時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 にある。葛藤を取り除くには、あるがままを変えるには、時間がかかる。その時間の間、やはり葛藤 にある。ゆえに時間は変化をもたらさない。
性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけ。この点を理解することが重要。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界における苦痛、動揺を引き起こす原因になる。
葛藤の状態にあると、葛藤のない状態を達成したいと思う。葛藤のない状態は、時の継続の結果ではない。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、やはり暴力的でありつづけるし、ゆえに葛藤 状態にあるから。
「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と言うとき、何が起きるか。まさに実践こそが、葛藤にあるということを示している。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、実践しない。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要だし、その抵抗のために時間を持たなければならないと言う。しかし、まさに葛藤への抵抗自体一つの形の葛藤。葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしている。しかし精神は、やはり葛藤にある。だから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺−であることができる。
(´・(ェ)・`)
228
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/28(金) 22:55:11 ID:1d4drIFg0
変容は覚悟があれば今すぐにでも起こるものじゃ。
自分が観られたならば瞬時に変容は起こるじゃろう。
そこに時間は無いのじゃ。
時間を必要とする変化は、やはり欲とかエゴから出たものに過ぎないのじゃ。
229
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/29(土) 18:28:31 ID:hDzlT5kk0
最初と最後の自由 第一部
第二十章 時間と変化 3
何かを、何か人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要でしょうか。何が本質的でしょうか。静かな精神なのではないでしょうか。理解することにしっかりと向けられている精神です。それは、排他的である、集中しようとしている精神ではありません-それもまた抵抗の努力です。私がほんとうに何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態があります。あなたは、愛している音楽を聴きたい、または絵を見たいとき- [それに対する] 感性を持っています-あなたの精神の状態は何でしょうか。即時に静けさがあるのではないでしょうか。あなたは音楽を聴いているとき、あなたの精神はそこいらじゅうさまよいません。あなたは聴いています。同様に、あなたは葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていません。あなたは単にあるがまま-すなわち葛藤-に直面しています。そのとき即時に静けさが、精神の静寂が訪れます。あなたはもはやあるがままを変容させる手段として時間に頼りません。なぜなら、その過程の偽りが分かるからです。そのとき、あるがままと直面しています。そしてあるがままを理解することに興味があるので、当然・自然に、静かな精神があります。その鋭敏でありながら受動的な精神の状態に、理解があるのです。精神が葛藤 [状態]にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえません。私はあなたを理解したいなら、明白に、あなたを非難してはなりません。変容をもたらすのは、その静かな精神、その静寂な精神です。精神がもはや抵抗していない [とき] 、もはやあるがままを避けていない、もはや切り捨てたり、咎めたりしていないで、単に受動的に気づいているとき、そのとき、その精神の受動性において-あなたが本当に問題に入り込むなら-変容が訪れるということを、見つけるでしょう。
革命は、今可能なだけです-未来にではありません。革新は今日です-明日ではありません。あなたは私が言ってきたことを実験してみるなら、即時の革新、新しさ、新鮮さの質があるということを、見つけるでしょう。なぜなら、精神は興味があるとき、 [理解したいと] 願望したり、理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂であるからです。私たちのほとんどにとっての困難は、理解しようとする意図を持たないことです。なぜなら、私たちはもしも理解したなら、それが私たちの生に革命的作用 [・行動] をもたらすかもしれないということを、恐れているからです-ゆえに私たちは抵抗するのです。私たちが時間や理想を段階的・漸進的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構です。
こうして革新は、現在において可能なだけです-未来にではなく、明日ではありません。それをとおして幸せを獲得したり、真理や神を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけです。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きています。時間は私たちの困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人、そういう人は当然、理解しようとする意図を持ちます。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静かです。精神が静寂で平静であり、何の答えも何の解決も求めていない [とき] 、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけです。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるからです。そして解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの努力ではありません。
(´・(ェ)・`)つ
230
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/29(土) 18:39:18 ID:hDzlT5kk0
くまめも20-3
人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要か。静かな、理解することに向けられている精神。それは、排他的で、集中しようとしている精神ではない-それもまた抵抗の努力。何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態がある。葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていない。単にあるがままに直面している。そのとき即時に精神の静寂が訪れる。もはやあるがままを変容させる手段として時間に頼らない。なぜなら、その過程の偽りが分かるから。あるがままを理解することに興味があるので、自然に、静かな精神がある。その鋭敏で受動的な精神の状態に、理解がある。精神が葛藤にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえない。変容をもたらすのは、静寂な精神。
精神は興味があるとき、 理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂。困難は、理解しようとする意図を持たないこと。なぜなら、もしも理解したなら、それが生に革命的作用をもたらすかもしれないということを、恐れているから−ゆえに抵抗する。時間や理想を段階的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構。
幸せを獲得したり、真理を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけ。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きている。時間は困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人は当然、理解しようとする意図を持つ。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静か。精神が静寂であり、何の答えも何の解決も求めていない、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけ。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるから。そして解放するのは真理−自由であろうとする努力ではない。
(´・(ェ)・`)
231
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/29(土) 22:14:55 ID:1d4drIFg0
科学でも法則を認定するには観察して確かめるものじゃ。
可能な限り冷静で客観的に観察する事でそれもできるのじゃ。
それは自分を観察するのと同じ観察なのじゃ。
自らを冷静で客観的に観察しようと勤めることで、今ここで変容は可能になるのじゃ。
232
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/30(日) 19:00:04 ID:WWTIEegY0
最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 1
私たちは、社会に、私たち自身に、私たちの個人的、集団的関係に根元的変化が必要であることが、わかります。それはどのようにしてもたらされるべきでしょうか。変化が、精神により投影された様式への順応をとおし、道理にかなったよく研究された計画をとおしてであるなら、そのとき、それはやはり精神の領域の中にあるのです。ゆえに精神が計算することは何でも目的、幻想になるのです-その [目的、幻想の] ために私たちは進んで私たち自身と他の人たち・他のものたちを犠牲にしようとしているのです。あなたがそれを支持するなら、そのとき、人間としての私たちはたんに精神の創造(物)であるということになります-それは、順応、強制、残忍さ、独裁(専制)制(政権)、強制収容所-やっかいなものごと全体-という意味を含んでいます。私たちが精神を崇拝するとき、そのすべてが含まれているのではないでしょうか。私はこれを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき私は何をするべきでしょうか。
この問題を充分に考慮するには、私たちは意識とは何かという疑問に入らなければなりません。あなたは自分自身でそれについて考えたことがあるのか、それとも諸権威が意識について言ってきたことを、たんに引用しただけなのかどうか、と私は思います。この意識が-日常の活動と追求の意識だけでなくて、隠れた、もっと深い、もっと豊かな、はるかにもっとわかりにくい意識が-どんな意味を含んでいるのかを、あなたは、あなた自身の経験から、自分自身についてのあなた自身の研究から、どのように理解したのかは、私は知りません。私たちは、私たち自身の[根本的変化] とゆえに世界の根本的変化というこの問題を議論する [べきであるなら] 、そしてこの変化において、一定の幻想、熱狂、熱中、信仰、希望、確実性-すなわち行動のために必要な勢い・はずみを私たちに与えてくれるであろうもの-に目覚めるべきであるなら、私たちがそれを理解すべきであるなら、この意識の問題に入ることが必要ではないでしょうか。
私たちのいう精神の表面的な水準での意識とはどういう意味なのかは、私たちはわかります。明白にそれは考える過程、思考です。思考は記憶の結果、言語化です。それは疎通 [・伝達] することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくことです。この水準には、また様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もあります。このすべてに、私たちは全く慣れ親しんでいます。私たちがもう少し深く入るとき、人種の蓄積、隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがあります-それは、知覚、接触、欲望の結果です。この総合的意識、開かれたものとともに隠れたものが、「私」という観念、自己を中心に集まっています。
どのようにして変化をもたらすべきか [について] 議論するとき、私たちが一般的にいうのは、表面的な水準での変化、という意味なのではないでしょうか。決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、私たちは欲しいと思う [目的] 、渇望する表面的な目的に手を伸ばそうと格闘します。私たちは無意識の[助け] 、精神のもっと深い層の助けを借りて、そこに到り着きたいと願うのです。ゆえに私たちは自分自身の深みの覆いを取る・顕わにすることが必要であると、考えるのです。しかし、表面的な水準といわゆるもっと深い水準の間には、永続的な葛藤があるのです-すべての心理学者たち、自己認識を追求してきたすべての人たちは、それに充分に気づいています。
この内的な葛藤は変化をもたらすでしょうか。それが、私たちの日常の生において最も根本的で重要な疑問ではないでしょうか-どのようにして私たち自身に根元的変化をもたらすべきか、がです。表面的な水準でのたんなる変更は、それをもたらすでしょうか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去 [の覆いを取る] 、子どもの頃から今に至るまでの様々な私的な・個人的な経験の覆いを取ること、私の父、母、祖先、人種の集団的・集合的経験を [を検討し] 、 [そこに] 私が生きている特定の社会の条件づけを私自身において検討すること-そのすべての分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
233
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/30(日) 19:15:17 ID:WWTIEegY0
くまめも21-1
社会に、私たち自身に、個人的、集団的関係に根元的変化が必要。変化が、精神により投影された様式への順応をとおしてであるなら、それはやはり精神の領域の中にある。人間はたんに精神の創造(物)か。それは順応、強制、残忍さ、独裁制、強制収容所という意味を含む。これを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき何をするべきか。
自身と世界の根本的変化という問題を理解すべきであるなら、意識の問題に入るべき。
精神の表面的な水準での意識とは、考える過程、思考。思考は記憶の結果、言語化。それは疎通・伝達することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくこと。様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もある。隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがある−それは、知覚、接触、欲望の結果。この総合的意識が、「私」という観念、自己を中心に集まっている。
決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、欲しいと思う、渇望する表面的な水準と、もっと深い水準の間には、永続的な葛藤がある。
この内的な葛藤、表面的な水準でのたんなる変更は、変化をもたらすか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去の、私的な経験の覆いを取ること、集団的・集合的経験を、特定の社会の条件づけを検討・分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすか。
(´・(ェ)・`)
234
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/30(日) 22:01:44 ID:1d4drIFg0
苦があればそれを変えたいと思うのが人であるが、実は自分を変えたいとは思わないものじゃ。
出来れば自分は変る事無く苦がなくなればよいと思うのじゃ。
しかし、実際には自分が変らなければ苦はなくならないのじゃ。
自我が苦の根本原因であるからのう。
235
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/31(月) 21:45:31 ID:1yezVXyg0
最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 2
自分の生に根本的変化が-たんなる反動・反応ではなく、環境的要求の圧力と緊張・重圧から出てきたものではない変化が-本質的 [・不可欠] であることを、私は感じますし、確かにあなたもまた感じるにちがいありません。どのようにしてそういう変化をもたらすべきでしょうか。私の意識は、人間の経験の総計・合計と私の現在との特定の接触を加えたものです。それは変化をもたらせるでしょうか。私自身の意識の [研究] 、私の活動の研究、私の思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にする・静めること-その過程は変化をもたらすでしょうか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるでしょうか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤、という意味を含んでいないでしょうか。葛藤は根本的変化をもたらすでしょうか。私は私自身の中で、そして社会と、常なる戦い [の状態] にあるのではないでしょうか。あるがままの私とありたいと思う私との間に、絶えざる葛藤が続いているのです。この葛藤、この格闘は変化をもたらすでしょうか。私は、変化が本質的 [・不可欠] であるのがわかります。私の意識の過程全体を検討することにより、格闘することにより、修練することにより、様々な形の抑圧を実践することにより、私はそれをもたらせるでしょうか。そういう過程は根元的変化をもたらせないと、私は感じます。それについては、完全に確かでなければなりません。そしてその過程が根本的変容、深い内側の革命をもたらせないなら、そのとき何が [そう] するのでしょうか。
あなたはどのようにして真の革命をもたらすべきでしょうか。その革命をもたらす力、創造的エネルギ-は何でしょうか。そしてどのようにしてそれは解放されるべきでしょうか。あなたは修練を試してきました。あなたは理想と様々な思索的理論の追求を試してきました-あなたは神であること。あなたはその神であること・神性を悟ったり、ア-トマン、最高のもの、何であれ、経験したりできるなら、そのときまさにその悟りこそが、根本的変化をもたらすであろうということです。そうなるでしょうか。初めにあなたは真実があると仮定します-あなたはその一部であり、そのまわりに様々な理論、思索、信念、教義、仮定・想定を築き上げます-あなたはそれに応じて生きるのです。その様式に応じて考えることと行動することにより、あなたは根本的変化をもたらしたいと願うのです。そうでしょう。
ほとんどの宗教的な人たちがするように、仮にあなたが、自分には根本的に、深く、真実の本質があると [仮定] します。そして美徳を育成することをとおし、様々な形の修練、制御、抑圧、否定、犠牲をとおして、あなたはその真実と接触できるなら、そのとき必要とされる変容がもたらされるであろうと、仮定します。この仮定も、やはり思考の一部ではないでしょうか。それは、条件づけられた精神、一定の様式に応じて、特定の仕方で考えるように育てられてきた精神から、出てきたものではないでしょうか。イメ-ジ、観念、理論、信念、希望を造り出しておいて、そのときあなたはこの根本的変化をもたらすために、自分の造り出したもの・創造したものに頼るのです。
初めに、「私」の、精神のとてつもない微妙な活動が、わからなければなりません。観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければなりません。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから、ではないでしょうか。他の人たちは真実を経験したことがあるかもしれません。しかし、あなたがそれを経験したことがないなら、それについて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのでしょうか。それもやはり思考の領域の中にあります。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のものです。ゆえに、それは真実ではないのです。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
236
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/31(月) 21:46:27 ID:1yezVXyg0
くまめも21-2
意識は、人間の経験の総計・合計と現在との特定の接触を加えたもの。それは変化をもたらせるか。意識の研究、活動の研究、思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にすること-その過程は変化をもたらすか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤。葛藤は根本的変化をもたらすか。意識の過程全体を検討、格闘、修練、抑圧を実践する過程は根元的変化をもたらせない。
どのようにして真の革命をもたらすべきか。初めに、観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければならない。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから。真実ついて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのか。それもやはり思考の領域の中にある。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のもの。ゆえに、それは真実ではない。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何か。
(´・(ェ)・`)
237
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/08/31(月) 22:17:27 ID:1d4drIFg0
変化が必要だからと宗教に頼れば、それがまた条件付けになるというのじゃ。
宗教もまた観念によるものであるからのう。
変容は個人の観察に拠ってのみ起こるものじゃ。
宗教は必ずしも必要ではないのじゃ。
238
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/01(火) 19:57:02 ID:CccXjOcY0
最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 3
おそらく、この点に至るなかで、私たちは意識的精神を使ってきました。私たちは議論・論争に付いてきました。私たちはそれに反対したり受け入れたりしてきました。私たちはそれが明確に、またはぼんやりと・おぼろげにわかりました。さらに遠くへ行き、もっと深く経験するには、見出すための静かで鋭敏である精神を必要とするのではないでしょうか。それはもはや観念を追求していません。なぜなら、あなたが観念を追求するなら、言われていることに付いていく思考者がいるし、そのためあなたは即時に二元性を造り出すからです。あなたがこの根本的変化という事柄にさらに入ってゆきたいなら、活動的な精神が静かであることが必要ではないでしょうか。確かに、精神が途方もない困難 [を理解できる] 、二つの分離した過程としての思考者と思考、経験者と経験されるもの、観察者と観察されるものという複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かであるときだけです。革命- [そこに] 「私」のないこの心理的、創造的革命は、思考者と思考が一つであるとき、思考を制御している思考者といった二元性がないときだけ、訪れるのです。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみであると、私は提案します-それ [創造的エネルギ-]が今度は、 根本的革命 [をもたらし] 、心理的な「私」の粉砕をもたらすのです。
私たちは力の道を知っています-支配をとおした力、修練をとおした力、強制をとおした力、です。政治的な力をとおして、私たちは根本的に変化させたいと願います。しかしそういう力は、さらなる暗闇、崩壊、邪悪・弊害、「私」の強化を生み育てるだけです。私たちは個人的にも、集団としても、様々な形の取得に慣れ親しんでいます。しかし私たちは愛の道を試したことがありません。それがどういう意味なのかを、知ることさえもないのです。思考者、「私」という中心があるかぎり、愛は可能ではありません。このすべてを悟ると、どうすべきなのでしょうか。
確かに根本的変化、創造的、心理的解放をもたらせる唯一のものは、日常の見守り [です] 、意識的とともに無意識的な私たちの動機に、瞬間瞬間気づくことです。私たちは、修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考から、自分の観察から、自分の経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至らないでしょうか。思考者が自分の思考-すなわち彼が支配しようとしているもの-から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえません。「私」が観察者 [であり] 、経験を集め、経験をとおして自分自身を強める者であるかぎり、根元的変化、創造的解放はありえません。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れるのです-しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできません。どんな思索、どんな言葉による表現・言語化、どんな形の思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があるにちがいないことがわかるとき-精神がそれを悟るとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づくのです。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れるのです。その状態には努力がありません。なることがありません。変化させたいという願望がありません。その状態には、「私」はありません。というのは、精神のものではない変容があるからです。
(´・(ェ)・`)つ
239
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/01(火) 20:08:43 ID:CccXjOcY0
くまめも21-3
根本的変化という事柄にさらに入ってゆくには、精神が静かであることが必要。精神が、二つの分離した過程としての思考者と思考という複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かなときだけ。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみ。それが今度は、心理的な「私」の粉砕をもたらす。
根本的変化をもたらせる唯一のものは、日常の見守り、意識的、無意識的な動機に、瞬間瞬間気づくこと。修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考、観察、経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至る。思考者が思考から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえない。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れる−しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできない。どんな思索、どんな言葉による表現、思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があることがわかるとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づく。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れる。その状態には努力、なること、変化させたいという願望がない。その状態には、「私」はない。というのは、精神のものではない変容があるから。
(´・(ェ)・`)
240
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/01(火) 22:56:38 ID:1d4drIFg0
静かな精神が必要とクリシュナムルティは言うのじゃ。
それを得るには瞑想が必要なのじゃ。
思考の無い静かな精神で今ここにある心の働きを観ることができるのじゃ。
それが得られなければ全ての観察は私を強めるばかりなのじゃ。
241
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/02(水) 20:10:25 ID:giq2kMYI0
最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 4
創造の可能性があるのは、精神が空っぽであるときだけです。しかし私がいうのは、私たちのほとんどが持っているこの表面的な空っぽ、という意味ではありません。私たちのほとんどは表面的に空っぽです。それは、散漫への願望をとおして正体を現すのです。私たちは楽しみたいのです。それで書物、ラジオに向かうのです。講義、権威へ駆けつけるのです。精神は永続的にそれ自体を充たしているのです。私は無思慮である空っぽさについて話していません。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽについて、私は話しているのです。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、待ち、見張り、観察している思考者がいるかぎり、創造的空っぽは可能ではありません。精神は、すべての象徴、すべての言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、いったいありうるでしょうか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能でしょうか。あなたは当然この疑問に答えることができないでしょう。それは、あなたが答えるには不可能な疑問です。なぜなら、あなたは知らないからです。あなたは今まで試してみたことがないのです。しかし私が提案してよければ、それを聴いてください。あなたに疑問を出させましょう。種を蒔かせましょう。すると、あなたがほんとうにそれを聴くなら、それに抵抗しないなら、それは実を結ぶでしょう。
変容させられるのは、古いものではなく、新しいものだけです。あなたが古いものの様式を追求するなら、どんな変化も、古いものの修正された連続・継続です。それには何も新しいものがありません。何も創造的なものがありません。精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうるのです。そして精神は、表面的な水準でだけではなく心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる・新しく生まれることができるのです。精神がそれ自身の活動がわかる [とき] 、それ自身の欲望、要求、衝動、追求、それ自身の権威の [創造] 、恐れの創造に気づくとき、修練により、制御により造り出された抵抗 [がわかり] 、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき-精神はこの過程全体を見通し・見抜き、気づくとき-これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうるでしょうか。あなたはそれについて意見を持たず、その創造的状態を経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出すでしょう。あなたはそれを経験したいと思うなら、するでしょう。しかしあなたが経験するものは、創造的空っぽではありません。それはただ願望の投影であるだけす。あなたは新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけです。しかし、あなた自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのようにあなた自身の過程全体を見守るなら、そのとき、あなたはますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうる [ところの] この空っぽという究極の疑問に、至るでしょう。
真理、神-何であれ-は、何か経験されるものではありません。というのは、経験者は時間の結果、記憶の、過去の結果であるからです。経験者がいるかぎり、真実はありえません。精神が、分析者から、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実があるのです。そのときあなたは答えを見つけるでしょう。そのときあなたは、あなたが求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかるでしょう-それはあるのです。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れるのです。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
242
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/02(水) 20:15:06 ID:giq2kMYI0
くまめも21-4
私たちは表面的に空っぽ。それは、散漫への願望をとおして正体を現す。私たちは楽しみたい。それで書物、ラジオに向かい、講義、権威へ駆けつける。精神は永続的にそれ自体を充たしている。それは無思慮である空っぽ。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽがある。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、思考者がいるかぎり、創造的空っぽは不可能。精神は、すべての象徴、言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、ありうるか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能か。
精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうる。そして精神は、心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる。精神がそれ自身の欲望、要求、衝動、追求、権威の創造、恐れの創造に気づくとき、修練、制御により造り出された抵抗がわかり、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき、これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうる。創造的状態について意見を持たず、経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出す。新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけ。しかし、自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのように自身の過程全体を見守るなら、そのとき、ますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうるところのこの空っぽという究極の疑問に、至る。
真理は、経験されるものでは無い。というのは、経験者は時間の結果、記憶、過去の結果であるから。経験者がいるかぎり、真実はありえない。精神が、分析者、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実がある。そのとき答えを見つける.そのとき求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかる。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れる。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性がある。
(´・(ェ)・`)
243
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/03(木) 00:01:49 ID:1d4drIFg0
創造的な状態だけが新しい変容をもたらすものというのじゃ。
しかしそれは何もせず訪れるものというのじゃ。
悟道を待つ事と同じなのじゃ。
観察に拠って気づきがあり、それによってまた観察が可能になるというのじゃ。
なかなか難しいことじゃ。
仏陀だけができることなのじゃ。
244
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/03(木) 23:14:09 ID:YPlQ4tcQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
一 現在の危機について 1
質問
現在の危機は先例・前例がないと、あなたは言われます。どんな点で、それは例外的なのでしょうか。
クリシュナムルテイ
明白に、世界じゅうの現在の危機は、先例がなく例外的です。歴史を通じてずっと、違った時期に、様々な類型の-社会的、国家 [・民族]的、政治的な-危機がありました。危機は来て去ります。経済的な不景気、不況が来て、修正されて、違った形で継続します。私たちはそれを知っています。私たちはその過程に慣れ親しんでいます。確かに、現在の危機は異なっているのではないでしょうか。それは初めに異なっています。なぜなら、私たちはお金でも、また触れられるもの・実体のあるもの[を扱っているの] でもなく、観念を扱っているからです。危機は例外的です。なぜなら、それは観念作用の領域にあるからです。私たちは観念のことでけんかしています。私たちは殺人を正当化しています。世界のあらゆるところで、私たちは正しい目的への手段として殺人を正当化しています-それは、それ自体が先例がありません。以前は、悪は悪であると認識されていました。殺人は殺人であると認識されていました。しかし、今や殺人は、高尚な結果を達成するための手段です。殺人は、一人の人のであろうと、人々の集団のであろうと、正当化されています。なぜなら、殺人者、または殺人者が代表する集団は、人のためになるであろう結果を達成する手段として、それを正当化するからです。 すなわち、私たちは未来のために現在を犠牲にするのです-私たちの宣言した・公然の目的が、人のためになるであろうと私たちが言う [ところの]結果を産み出すことであるかぎり、どんな手段を用いるかは、大事なことではありません。ゆえに、含まれている意味は、間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、ということです。そしてあなたは、観念作用をとおして、間違った手段を正当化するのです。以前に起きてきた様々な危機においては、論点は、ものごとや人の搾取・利用でした。それが今や観念の搾取・利用です-そのほうがもっとはるかに有害で、もっと危険です。なぜなら、観念の搾取はあまりに壊滅的で・荒廃的で、あまりに破壊的であるからです。 私たちは今や宣伝の力を学んできました。それが、起こりうる最大の災いの一つです-人を変容させるための手段として、観念を使うことが、です。それが、今日世界で起きていることです。人は重要ではないのです-体系 [・体制]、観念が重要になってしまったのです。人はもはや何の意義もありません。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できるのです。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持っています。そして確かにそれは先例がないのです。悪は悪です。それは善をもたらすことができません。戦争は平和への手段ではありません。戦争は、もっと効率的・能率的な飛行機のように、二義的な利益をもたらすかもしれません。しかし、それは人に平和をもたらさないでしょう。戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化されるのです。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ
245
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/03(木) 23:15:11 ID:YPlQ4tcQ0
くまめも2-1-1
現在の危機は例外的。なぜなら、それは観念作用の領域にあるから
正しい目的への手段として殺人を正当化
未来のために現在を犠牲にする
間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、という意味を含む
観念作用をとおして、間違った手段を正当化
以前の危機における論点は、ものごとや人の搾取・利用。それが今や観念の搾取・利用−そのほうが有害で、危険。なぜなら、観念の搾取は壊滅的、荒廃的、破壊的であるから
宣伝の力が、人を変容させるための手段として、観念を使うことが、起こりうる最大の災いの一つ。
人は重要ではない−体系・体制、観念が重要になってしまった。人はもはや何の意義もない。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できる。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持った。そして確かにそれは先例がない。
戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化される。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらす。
(´・(ェ)・`)
246
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/04(金) 23:42:54 ID:1d4drIFg0
もはや人類は地球をも破壊できる兵器をもってしまったからのう。
知性に拠ってそれを使えば全て破壊されるのじゃ。
知性は戦争を正当化してそれを使うようにするじゃろう。
それは今までになかった危機なのじゃ。
247
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/05(土) 23:59:48 ID:nenS2e0o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
一 現在の危機について 2
また、先例のない危機を表示する他の原因もあります。それらの一つが、感覚的価値に、財産に、名前に、カ-ストと国に、あなたが身につけている特定のレッテルに、人が与えているとてつもない重要性です。あなたはイスラム教徒かヒンドウ-教徒、キリスト教徒か共産主義者です。名前と財産、カ-ストと国が、支配的に・優勢的に重要になってしまったのです-それは、人が、感覚的価値 [に捕らわれ] 、精神により、手により作られたものごとの価値に捕らわれている、という意味です。私たちはそれらのために殺し、破壊し、屠殺し、粛清しあっているほどに、手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまったのです。私たちは崖っぷちに近づいているのです。あらゆる行動が、私たちをそこへ導いているのです。あらゆる政治的 [行動]、あらゆる経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした混乱させる深淵に引きずり込んでいるのです。ゆえに、危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求するのです。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要です。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうからです。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけです。危機が先例がないので、また先例のない行動がなければなりません-それは、個人の革新は、時間の過程 [をとおして]ではなく、 瞬時でなければならない、という意味です。それは明日ではなく、今起きなければなりません。というのは、明日は崩壊の過程であるからです。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招きます。私はやはり破壊の領域の中にいるのです。 今変えることは可能でしょうか。 即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能でしょうか。それは [可能]であると、私は言います。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということです。そしてこの革命は、他の人をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな組織をとおしても起こりえません。それは、私たちをとおし、私たち各自をとおして来なければなりません。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた [社会、構造] 、蓄積され、積み上げられつつあるこれらのとてつもなく破壊的な力から離れた新しい社会、新しい構造を、造り出せるのです。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
248
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/06(日) 00:07:48 ID:nenS2e0o0
くまめも2-1-2
先例のない危機を表示する他の原因
感覚的価値が、支配的に・優勢的に重要になってしまった。手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまった。あらゆる政治的、経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした深淵に引きずり込んでいる。危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求する。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうから。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけ。個人の革新は、時間の過程ではなく、 瞬時でなければならない。それは明日ではなく、今起きなければならない。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招く。破壊の領域の中にいる。今変えること、即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能である。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということ。そしてこの革命は、他の人、書物、組織をとおしても起こりえない。それは、私たち各自をとおして来なければならない。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた社会、構造、蓄積され、積み上げられつつあるこれらの破壊的な力から離れた新しい社会構造を、造り出せる。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じる。
(´・(ェ)・`)
249
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/06(日) 22:40:18 ID:1d4drIFg0
今は前例のない危機的な状況にある。
そうであるから前例の無い行動をしなければならぬというのじゃ。
それは書物とか他人とか組織では出来ないのじゃ。
自らに気付くことでのみ起こるというのじゃ。
250
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/07(月) 21:02:48 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二 国家[・民族]主義について1
質問
国家 [・民族]主義が去るとき、 [次に]来るのは何でしょうか。
K
明白に智恵です。しかし、残念ながら、それが質問に含まれている意味ではないように、私は思います。含まれている意味は、何が国家 [・民族]主義の代用でありうるのか、です。どんな代用も、智恵をもたらさない行為です。私が一つの宗教を去って、もう一つに加わるなら、または一つの政党を去って、後に何か他のものに加わるなら、この常なる代用は、 [そこに]智恵のない状態を表示しています。
国家 [・民族]主義はどのようにして去るのでしょうか。その充分な含意を、私たちが理解することにより、それを検討することにより、外側と内側の行動 [・作用]におけるその意義に気づくことによってだけ [去るの]です 。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらします-それは、誰でもよく観察している人にとって明白です。内側で、心理的に、もっと偉大なものとの、国との、観念とのこの同一化は、明白に一つの形の自己拡大です。小さな村や大きな町や何であろうと [そこに] 住んでいると、私は誰でもないのです。しかし私が自分自身をもっと大きなものと、国と、同一化するなら、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶなら、それは私の虚栄心をくすぐるのです。それは私に満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれるのです。そしてもっと大きなものとのその同一化-それは、自己拡大が本質的 [・不可欠]であると感じる人たちにとって心理的な必要物・必需品です-はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出すのです。こうして国家 [・民族]主義は、外側の抗争 [を造り出す]だけではなくて、内側の挫折をも造り出すのです。国家 [・民族]主義を、国家 [・民族]主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまうのです。国家 [・民族]主義の理解は、国家 [・民族]主義、愛国心の過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来るのです。その検討から智恵が訪れます。そのとき国家 [・民族]主義のかわりの何か他のものの代用はないのです。あなたが国家 [・民族]主義のかわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になるのです。ゆえに、どんな形の代用も-どんなに高尚でも-一つの形の無知です。それは、人が喫煙のかわりにチュ-イングガムやビンロウジや何であれ、代用するのと似ています。ところが、喫煙、習慣、感動、心理的要求、その他すべての問題全体を、ほんとうに理解するなら、そのとき喫煙は、いつのまにかなくなるのです。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できるのです。そして智恵は、代用があるとき、機能していません。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂です。国家 [・民族]主義とともにその毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができるのです。そして智恵は、たんに試験に通ることと書物を研究することによっては、来ないのです。智恵は、私たちが問題を生じるままに理解するとき、生じるのです。異なった水準で問題の [理解があるとき] -外側の部分だけではなく、その内側の心理的な含意の理解があるとき、そのとき、その過程において、智恵が生じるのです。ですから、智恵があるとき、代用はありません。そして智恵があるとき、そのとき国家 [・民族]主義、愛国心は-それは一つの形の愚かさです-消え去るのです。
(´・(ェ)・`)つ
251
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/07(月) 21:03:57 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも2-2-1
国家主義はどのようにして去るのか。その充分な含意を、理解、検討し、外側と内側の行動におけるその意義に気づくことによってだけ去る。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらした。内側で、心理的に、偉大なもの、国、観念との同一化は、一つの形の自己拡大。自分自身を国と、同一化するなら、それは虚栄心をくすぐる。それは満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれる。そして大きなものとのその同一化はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出す。こうして国家主義は、外側の抗争だけではなくて、内側の挫折をも造り出す。国家主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまう。その理解は、その過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来る。その検討から智恵が訪れる。かわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になる。ゆえに、どんな形の代用も一つの形の無知。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できる。そして智恵は、代用があるとき、機能していない。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂。その毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができる。智恵は、問題を生じるままに理解するとき、生じる。問題の外側の部分だけではなく、内側の心理的な含意の理解があるとき、その過程において、智恵が生じる。だから、智恵があるとき、代用はない。智恵があるとき、そのとき国家主義、愛国心は消え去る。
(´・(ェ)・`)
252
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/08(火) 20:21:28 ID:1NnBepF.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 1
質問
(導師)たちは不必要であると、あなたは言われます。しかし、(導師)だけが与えられる賢明な助けと導きなしに、どうして私は真理を見つけられるのでしょうか。
K
質問は、(導師)は必要であるのか、ないのか、です。真理は、他の一人をとおして見つけられるでしょうか。或る者は、それはできると言い、或る者は、できないと言います。他の一人の意見に対比しての私の意見ではなく、私たちはこれの真理が知りたいのです。私はこの件において意見を持っていません。それはそうであるか、そうでないか、どちらかです。あなたが(導師)を持つべきか、持つべきでないかということが、本質的 [・不可欠]であるかどうかは、意見の問題ではありません。事柄の真理は、意見に依存しません-たとえどんなに奥深くて、学識があり、一般的で・評判がよくて、普遍的でも、です。事柄の真理は、事実において見出されるべきです。
まず最初に、なぜ私たちは(導師)が欲しいのでしょうか。私たちは導師が必要です。なぜなら私たちは混乱しているし、導師 は助けになるからです、と私たちは言います。彼は真理が何であるかを指摘してくれるだろう。彼は、私たちが理解するのを助けてくれるだろう。彼は私たちよりも生についてはるかに多く知っている。彼は私たちに生を教える父として、教師としての役割を果たすだろう。彼は膨大な経験を持ち、私たちはわずかしか持っていない。彼は、より大きな・偉大な彼の経験をとおして、私たちを助けてくれるだろう、などなどです。すなわち、基本的にあなたは混乱しているから、教師のところへ行くのです。もしも明晰であったなら、あなたは導師 に近づかないでしょう。明白に、もしもあなたがとても深く幸せであったなら、もしも問題がなかったなら、もしもあなたが生を完全に理解したなら、あなたはどんな導師 のところへも行かないでしょう。あなたにこれの意義をわかって欲しいと、私は思います。あなたは混乱しているから、教師を捜し出すのです。あなたは生き方を与えてもらうため、自分自身の混乱を明らかにする・晴らすため、真理を見つけるために、彼のところへ行くのです。あなたは混乱しているし、自分が求めるものを彼が与えてくれるだろうと願うから、自分の導師 を選択するのです。すなわち、あなたは自分の要求を満足させてくれるであろう導師 を、選択するのです。彼があなたに与えてくれるであろう満足・喜びに応じて、あなたは選択するのです。それであなたの選択は、あなたの満足・喜びに依存しているのです。あなたは、「あなた自身に依存しなさい」と言う導師 を選択しません。あなたは自分の先入観に応じて彼を選択するのです。それであなたは、彼が自分に与えてくれる満足・喜びに応じて導師 を選択するから、あなたは真理を [求めているの]ではなくて、混乱からの抜け出し方を求めているのです。そして混乱からの抜け出し方が、誤って真理と呼ばれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
253
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/08(火) 22:56:06 ID:1d4drIFg0
本当に国家や民族という観念が無ければ智慧があるのじゃ。
しかし、人はそんなことは聞きたくないじゃろう。
神とか信仰があるとか聞きたいのじゃろう。
それもまた観念による統制に過ぎないのじゃ。
本当の解放は知恵に拠ってのみあるものじゃ。
254
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/09(水) 20:36:30 ID:qC4HxYB20
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 2
導師 が私たちの混乱をきれいに片づけられるというこの観念を、初めに検討しましょう。誰かが私たちの混乱をきれいに片づけられるでしょうか-混乱は私たちの応答の産物です。私たちがそれを造り出したのです。他の誰かがそれを-中と外の、存在のすべての水準におけるこの悲惨、この戦いを-造り出したと、あなたは思うのでしょうか。それは、自分たち自身についての知識の欠如の結果です。私たちが導師 のところへ行くのは-私たちがその混乱から自由であるのを、彼が助けてくれるであろうと考えるのです-私たちが自分たち自身を、自分たちの葛藤、応答、悲惨を、理解しないからです。私たちは現在との関係においてだけ、自分たち自身を理解できるのです。そして外側の誰かがではなく、その関係自体が導師 です。私がその関係を理解しないなら、たとえ導師 が何を言うとしても役立ちません。なぜなら、私が関係を-財産との、人々との、観念との私の関係を-理解しないなら、誰が私の中の葛藤を解決できるでしょうか。その葛藤を解決するには、私はそれを自分自身で理解しなければなりません-それは、私が関係において自分自身に気づかなければならない、という意味です。気づくには、どんな導師 も必要ではありません。私が自分自身を知らないなら、導師 が何の役に立つでしょうか。混乱 [状態]にあって、ゆえに彼らの選択もまた混乱している人たちにより、政治的指導者が選択されるのと同じように、私は導師 を選択するのです。私は自分の混乱に応じてだけ、彼を選択できるのです。ゆえに彼も、政治的指導者と同じように、混乱しているのです。
重要であることは、誰が正しいのか-私が正しいのか、導師 は必要であると言う人た
ちが正しいのかどうか-ではありません。なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すことが、重要です。導師 は、様々な種類の搾取 [・利用]のために存在しています。しかしそれは関係ありません。あなたがどのように進歩しつつあるかを、誰かがあなたに言ってくれるなら、それはあなたに満足を与えてくれるのです。しかし、なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すこと-そこに鍵があるのです。他の人は道・やり方を指摘できます。しかしたとえあなたが導師 を持つとしても、あなたが作業すべてをやらなければなりません。 あなたはそれと向き合いたくないから、導師 に責任をなすりつけるのです。ごくわずかの自己認識があるとき、導師 は役に立たなくなるのです。どんな導師 も、どんな書物や聖典も、あなたに自己認識を与えられません。あなたが関係において自分自身に気づくとき、それは来るのです。ある [・生きる]ことは関係することです。関係を理解しないことは、悲惨、闘争です。財産とのあなたの関係に気づかないことが、混乱の原因の一つです。あなたが、財産との自分の正しい関係を知らないなら、必ず葛藤があります-それが社会に抗争を増大させるのです。あなたが自分自身と自分の妻との間の、自分自身と自分の子供との間の関係を理解しないなら、その関係から生じている葛藤を、どうして他の一人が解決できるでしょうか。観念、信念などについても同様です。人々との、財産との、観念とのあなたの関係において混乱しているので、あなたは導師 を求めるのです。彼はほんとうの導師であるなら、あなたに自分自身を理解するようにと言うでしょう。あなたがすべての誤解と混乱の源です。そして関係において自分自身を理解するときだけ、あなたはその葛藤を解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ
255
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/09(水) 22:38:01 ID:1d4drIFg0
導師は必要とする者にのみ現われるというのじゃ。
必要としないものには現われないのじゃ。
ただ自らを理解するだけで善いのじゃ。
導師はそのためにのみ現われるのじゃ。
256
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/10(木) 20:28:25 ID:tQxP6Xgs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 4
あなたは他の誰をとおしても真理を見つけられません。どうしてできるでしょうか。真
理は何か静止したものではありません。それは固定した住所を持ちません。それは目的、目標ではありません。反対に、それは生きて、動的で、鋭敏で、生き生きしているのです。どうしてそれが目的でありうるでしょうか。真理が固定点であるなら、それはもはや真理ではありません。そのとき、それはたんなる意見です。真理は知られないものです。真理を求めている精神は、決してそれを見つけないでしょう。というのは、精神は知られたものから作り上げられているからです。それは過去の結果、時間から出てきたものです-あなたはそれを自分自身で観察できます。精神は知られたものの道具です。ゆえに、それは知られないものを見つけられません。それは知られたものから知られたものへ動けるだけです。精神が真理を-書物で読んだことがある真理を-求めるとき、その「真理」は自己投影されています。というのは、そのとき精神は、たんに知られたもの-以前のものよりもっと満足できる知られたもの-を、追求しているからです。精神が真理を求めるとき、それは真理 [を求めるの] ではなく、それ自身の自己投影を求めているのです。結局、観念は自己投影されています。それは虚構で非真実です。真実であるものは、対極のものではなく、あるがままです。しかし真実を求め、神を求めている精神は、知られたものを求めているのです。あなたが神について考えるとき、あなたの神は、あなた自身の思考の投影、社会的影響の結果です。あなたは知られたものについてだけ、考えられるのです。あなたは知られないものについて考えられません。あなたは真理に集中できません。あなたが知られないものについて考えた瞬間、それはたんに自己投影された知られたものです。神や真理については考えられません。あなたがそれについて考えるなら、それは真理ではありません。真理は求められません。それはあなたに来るのです。あなたは知られているものを追いかけられるだけです。精神が知られたものにより、知られたものの影響により、拷問にかけられないとき、そのときだけ、真理が正体を現せるのです。真理はあらゆる木の葉に、あらゆる涙にあるのです。それは瞬間瞬間知られるべきものです。誰一人あなたを真理へ導けません。誰かがあなたを導くなら、それは知られたものへ [導かれる] だけです。
真理は、知られたものが空っぽである精神に、到来しうるだけです。それは、知られたものが不在であり、機能していない状態に来るのです。精神は知られたものの倉庫、知られたものの残り滓です。精神が、[そこに] 知られないものが生じる状態にあるには、それはそれ自体に [気づく] 、意識的と共に無意識的なそれの以前の経験に、それの応答、反応、構造に、気づかなければなりません。完全な自己認識があるとき、そのとき知られたものの終わりがあります。そのとき精神は完全に、知られたものが空っぽです。真理が招かれずにあなたのところへ来るのは、そのときだけです。真理は、あなたにも私にも属していません。あなたはそれを崇拝できません。それは知られた瞬間、真実ではないのです。象徴は真実ではありません。イメ-ジは真実ではありません。しかし自己の理解が、自己の停止があるとき、そのとき永遠性が生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
257
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/10(木) 21:52:58 ID:1d4drIFg0
真理と呼べるものは自分を知ることでしかたどり着けないというのじゃ。
自らを知り、自らが無であると気付いた時真理は在るのじゃ。
本で読んだ知識とか、過去の記憶からは生まれないのじゃ。
自らを追及する事でのみそれはやってくるのじゃ。
258
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/11(金) 21:39:28 ID:sfCtiVOE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 1
質問
私はあなたから、学び・学問と知識は妨害であるということを、明確に推測します。それらは何に対して妨害なのでしょうか。
K
明白に、知識と学びは、新しいもの、時間のないもの、永遠のものの理解にとって妨害です。完璧な技術を発達させることは、あなたを創造的にしません。あなたはどのようにすばらしく絵を描くかを知っているかもしれません。あなたは技術を持っているかもしれません。しかし、あなたは創造的画家ではないかもしれません。あなたは、技術的にもっとも完璧な詩を、どのようにして書くかを知っているかもしれません。しかし、あなたは詩人ではないかもしれません。詩人であるとは、新しいものを受け入れる能力がある、何か新しい新鮮なものに応答するに充分敏感である、という意味を含むのではないでしょうか。私たちのほとんどにとって、知識や学びは中毒・耽溺になってしまいました。私たちは、知ることをとおして創造的であるだろうと、考えるのです。事実を、知識を詰め込んで身を固めた精神-それは、何か新しい、突然の・不意の、自発的なものを受け入れる能力があるでしょうか。あなたの精神が知られたもので詰め込まれているなら、そこには、知られないもののものである何かを受け入れる空間が、何かあるでしょうか。確かに知識はいつも知られたものについてです。そして知られたものをもって、私たちは知られないものを、何か尺度を超えたものを、理解しようとしているのです。
私たちのほとんどに起こるごく普通のものごとを、例に取りましょう。宗教的な人たちは-さしあたり・当座は、その言葉が何を意味するとしても-神が何であるかを想像しようとしたり、神が何であるかについて考えようとしたりします。彼らは無数の書物を読んできました。彼らは様々な聖者たち、大師たち、マハトマ(偉大な魂)たちとその他すべての経験について読んできました。そして他の一人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりするのです。すなわち、知られたものをもって、知られないものに接近しようとするのです。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、何か知ることのできないものについて考えられるでしょうか。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。しかし現在の世界には、このとてつもない倒錯・歪曲が起きているのです。私たちはもっと多くの情報、もっと多くの書物、もっと多くの事実、もっと多くの印刷物を持つなら、理解するだろうと思うのです。
知られたものの投影ではない何かに気づくには、理解をとおして、知られたものの過程の排除・除去がなければなりません。精神がいつも知られたものにすがりつくのは、なぜでしょうか。それは、精神が常に確実性、安全を求めているから、ではないでしょうか。まさにその本性こそが、知られたものに、時間に固定されているのです。そういう精神が-まさにその基盤・土台そのものが、過去に、時間に基づいているのですが-どうして時間のないものを経験できるでしょうか。それは知られないものを考えつき・構想し、定式化し、思い描く・描き出すかもしれません。しかしそれはすべて不合理です。知られたものが理解され、解消され、脇に置かれるときだけ、知られないものが生じうるのです。それは極めて難しいのです。なぜなら、あなたが何かについての経験をした瞬間、精神はそれを知られたものの用語に翻訳して、それを過去に還元するからです。あらゆる経験が即時に知られたものに翻訳され、名前をつけられ、一覧表にされ、記録されるということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。それで知られたものの動きが知識です。明白にそういう知識、学習は障害です。
(´・(ェ)・`)つ
259
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/11(金) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
知識と学習とは共に記憶に基づいた理解の方法なのじゃ。
記憶に拠って知識を蓄え、記憶されたことを公式とか概念として分別するのじゃ。
それらは記憶に依存している故に、新しいものこどを受け入れられないのじゃ。
過去を今ここにあてはめて解釈しているだけなのじゃ。
どんな先入観念も無い心にのみ、新しいものごとが受け入れられるのじゃ。
260
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/12(土) 19:02:33 ID:Guh03MSU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 2
仮にあなたが、宗教的または心理学的な書物を、今まで一度も読んだことがなかった。そして生の意味、意義を見つけなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。仮に大師たちも、宗教的組織も、ブッダも、キリストもいなかった。そしてあなたは初めから始めなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならない、のではないでしょうか-自分自身を、自分の思考を未来に投影して、あなたを喜ばせる神を造り出すのではありません-それはあまりに子供じみている・幼稚すぎるでしょう。それで初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならないでしょう。それが、何か新しいものを発見する唯一の道なのではないでしょうか。
私たちは、学習や知識は妨害、障害であると言うとき、技術的な知識-車をどう運転するのか、機械類をどう動かすのか-や、そういう知識がもたらす能率・効率は含んでいません。私たちは全く違ったことを精神に持っています・考えています-どれほどの量の知識や学習ももたらさないであろう [ところの]あの創造的幸せの感覚 [のことです] 。その言葉のもっとも真実の意味において創造的であるとは、瞬間瞬間過去から自由であることです。なぜなら、継続的に現在に影を落としているのは、過去であるからです。情報に、他の人たちの経験に、たとえどんなに偉大でも誰かが言ったことに、たんにすがりついて、自分の行動をそれに近づけようとすること-そのすべては知識なのではないでしょうか。しかし、何でも新しいものを発見するには、あなたは自分自身から始めなければなりません。あなたは、特に知識を完全に剥ぎ取られた旅に、とりかからなければなりません。なぜなら、知識と信念をとおして経験をすることは、とてもたやすいからです。しかしそれらの経験は、たんに自己投影の産物です。ゆえに全く真実ではなく、偽りです。あなたが何が新しいものなのかを自分自身で発見しようとするなら、古いものの重荷を、特に知識-たとえどんなに偉大でも他の一人の知識-を運んでいてはダメなのです。あなたは知識を、自己投影の、安全の手段として使います。そしてあなたは、ブッダやキリストやXと同じ経験をすることを、全く確信したいのです。しかし、知識をとおして常に自分自身を保護している人は、明白に真理を求める者ではありません。
真理の発見のための道はありません。あなたは海図なき海に入ってゆかなければなりません-それは憂鬱ではありません。それは冒険好きであることではありません。あなたが何か新しいものを見つけたいとき、何でも実験しているとき、あなたの精神はとても静かでなければならない、のではないでしょうか。あなたの精神が、事実、知識で詰め込まれ、充満しているなら、それらは新しいものへの妨害として作用するのです。困難は、私たちのほとんどにとって、精神があまりに重要に、あまりに支配的に・優勢的に意義深くなってしまったこと、それが、何でも新しいかもしれないものに、何でも知られたものとともに同時に存在しているかもしれないものに、常に邪魔をしている・妨害しているということ、です。こうして知識と学習は、求めようとする人たち、時間のないものを理解してみようとする人たちにとって妨害です。
(´・(ェ)・`)つ
261
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/12(土) 23:10:45 ID:1d4drIFg0
もしも何の知識も無しに生の意味、意義を見つけなければならないとしたら、先ずは自分の思考過程を理解するところから始めるというのじゃ。
自分がどのようにしてものごとを知るのか、わからなければ全てが謬見になるからなのじゃ。
それは科学者が正確な顕微鏡を求めてちいさいものを見るのと同じなのじゃ。
観察する道具が狂っていては全てが狂うからなのじゃ。
自分の心の働きを知って全ては理解できるようになるのじゃ。
262
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/13(日) 16:16:00 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 1
質問
すべての宗教は、人の残忍性・獣性の本能を調節する・適度にするために、何らかの種類の自己修練を、主張してきました。自己修練をとおして、聖者たちと神秘主義者・論者たちは、神性・神格に到達したと断言・主張してきました。今あなたは、そういう修練は、神の実現・悟りにとって障害であることを示唆しているように見えます。私は混乱しています。この事柄において正しいのは誰でしょうか。
K
それは、この事柄において誰が正しいのか、という問題ではありません。重要であることは、私たち自身で事柄の真理を見出すことです-特定の聖者や、インドからやどこか他の所-異国的であればあるほどいいのです-から来た人物に応じて [見出すの] ではありません。
あなたはこれら二つの間に捕らわれて・挟まれています。ある人は修練を唱えます。他の一人は無修練を唱えます。一般的に起きることは、より便利である・都合のいいもの、より満足させるものを、あなたは選択するということです。あなたは、 [その] 人、彼の容貌、彼の私的な性向、彼の私的な偏愛、その他すべてが好きなのです。そのすべてを脇に置いて、直接的にこの疑問を検討して、私たち自身で事柄の真理を見出しましょう。この疑問には、たいへん多くの意味が含まれています。私たちは用心・注意深くためらいがちに、それに接近しなければなりません。
私たちのほとんどは、何をすべきかを私たちに教えてくれる誰か権威者が、欲しいのです。私たちは行いの指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は、安心すること、もはや苦しまないことであるからです。誰かが幸せ、至福-何であれ-を実現したと言われています。すると私たちは、そこに到り着くために何をすべきかを、彼が私たちに教えてくれるだろうと、願うのです。それが、私たちの欲しいものです。私たちはその同じ幸せ、その同じ内側の静けさ、喜びが欲しいのです。そしてこの狂った混乱の世界で、私たちは、誰かに何をすべきかを自分たちに教えてもらいたいのです。それが、私たちのほとんどにとって、ほんとうに基本的本能です。その本能に応じて、私たちは自分たちの行動を様式化するのです。神、その最高の、名づけられない、言葉で測るべきでないもの-それは、修練をとおし、特定の行動の様式に付いていくことをとおして、偶然手に入るのでしょうか。私たちは特定の目標、特定の目的に到り着きたいのです。そして私たちは、実践により、修練により、抑圧することや解放すること、昇華することや代用することにより、自分たちが求めているものを見つけることができるだろうと、思うのです。
(´・(ェ)・`)つ
263
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/13(日) 22:44:37 ID:1d4drIFg0
人が権威に縋ろうとするのは親から条件付けされているからなのじゃ。
子供の頃に親からやるべきことやしてはいけないことを教わってきた故に、大人になってからもそのような対象を探して縋ろうとするのじゃ。
それは宗教によって最も顕著に現われるものじゃ。
神という親の代理を作り出して安心感をもたらすのじゃ。
それでは子供の頃と何も変らないのじゃ。
自ら観察して己を見出すことのみが正しい道なのじゃ。
264
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/14(月) 19:13:57 ID:3QLePqvQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 2
修練に含まれている意味は何でしょうか。私たちは修練するとしても、なぜ自分たち自身を修練するのでしょうか。修練と智恵は共存できるのでしょうか。ほとんどの人たちは、何らかの種類の修練をとおして、私たちのなかの獣性・残忍性、醜いものを、服従させたり制御したりしなければならないと、感じています。その獣性、その醜いものは、修練をとおして、制御できるでしょうか。私たちのいう修練とは、どういう意味でしょうか。報賞を約束してくれる [ところの] 行動の進路・道筋。もしも追求したなら、私たちに欲しいもの-それは肯定的であったり否定的であったりするかもしれない-を与えてくれるであろう [ところの] 行動の進路。もしも精出して・勤勉に、丹念に、とてもとても熱烈に実践したなら、最後に私たちに欲しいものを与えてくれるであろう [ところの]行いの様式 [という意味]です。それは苦痛であるかもしれません。しかし私はそれ [欲しいもの] を得るために、進んでそれ [修練] を経てゆこうとするのです。自己は攻撃的で、利己的で、偽善的で、心配で、恐れています-あなたはそのすべてを知っています-その自己が、私たちのなかの獣性の原因です- [その自己を]私たちは変容させ、服従させ、破壊したいのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。それは、修練をとおして [なされるのか]、それとも自己の過去-自己とは何か、それはどのようにして生じるのか、など-についての智恵ある理解 をとおして、なされるのでしょうか。私たちは人の獣性を、強制をとおして [破壊するのでしょうか] 、それとも智恵をとおして破壊するのでしょうか。智恵は修練の事柄でしょうか。聖者たちとその他すべての人たちが言ったことは、当分は忘れましょう。まるで私たちが初めてこの問題を見つめるかのように、自分たち自身で事柄に入りましょう。そのとき私たちは、その終わりに、他の人たちが言ったことのただの引用ではなく-それはすべてあまりに空虚で役にたちません-何か創造的なものを、得るかもしれません。
私たちには葛藤-白に対する黒、無欲に対する貪欲など-があると、私たちは初めに言います。私は貪欲です-それは苦痛を造り出します。その貪欲を取り除くには、私は自分自身を修練しなければなりません。すなわち私は、自分に苦痛を与えるどんな形の葛藤にも抵抗しなければならないのです-この場合は、それを貪欲と呼びます。そのとき私は、それは反社会的である、それは非倫理的・不道徳である、それは聖人らしくない、などなどと言います-私たちはそれに抵抗するために、様々な社会的、宗教的理由を与えます。貪欲は、強制をとおして破壊されたり、私たちから片づけられるでしょうか。初めに、抑圧、強制、それを片づけること、抵抗することに関与している過程を、検討しましょう。あなたがそうするとき、あなたが貪欲に抵抗するとき、何が起きるでしょうか。貪欲に抵抗しているものは何でしょうか。それが最初の疑問なのではないでしょうか。なぜあなたは貪欲に抵抗するのでしょうか。そして「私は貪欲から自由でなければならない」と言う実体は誰でしょうか。「私は自由でなければならない」と言う実体もまた、貪欲なのではないでしょうか。今までは、貪欲が彼に報いてきました。しかし、今やそれは苦痛です。ゆえに彼は「私はそれを取り除かなければならない」と言うのです。それを取り除こうとする動機も、やはり貪欲の過程です。なぜなら、彼は、何か自分ではないものでありたいと思っているからです。無欲は今や利益になるのです。それで私は無欲を追求しているのです。しかし、動機、意図は、やはり何ものかであること、無欲であることです-確かに、それもやはり貪欲です。それもまた、否定的な形の「私」の強調です。
(´・(ェ)・`)つ
265
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/14(月) 22:00:09 ID:1d4drIFg0
変容とは修練によってなされるのか、それとも知恵に拠って理解することできるのかというのじゃ。
そして修練は貪欲の表れでしかないというのじゃ。
無欲を目指していてもそれを望む貪欲になるのじゃ。
すると結局は変容は知恵による理解しかないということになるのじゃ。
266
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/15(火) 19:25:47 ID:Hg2uwcrw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 3
私たちは、明白である様々な理由のために、貪欲であることが苦痛であることを、見つけます。私たちがそれを楽しむかぎり、貪欲であることが、私たちに報いてくれるかぎり、問題はないのです。社会は私たちを貪欲であるよう、違った仕方で励まします。宗教もまた、違った仕方で私たちを励まします。それが利益になるかぎり、それが苦痛でないかぎり、私たちはそれを追求するのです。しかしそれが苦痛になった瞬間、私たちはそれに抵抗したいのです。その抵抗が、貪欲に反して・対抗して修練と呼ばれます。しかし私たちは、抵抗をとおし、昇華をとおし、抑圧をとおして、貪欲から自由であるでしょうか。貪欲から自由でありたいと思う「私」の方のどんな行動も、やはり貪欲です。ゆえに、貪欲に関する私の方のどんな行動、どんな応答も、明白に解決ではないのです。
まず初めに、何かを [理解するには] 、特に、何か私の知らないもの、何か私の精神が推し量れないもの-すなわち、この質問者が言う神-を理解するには、静かな精神、動揺のない精神が、なければなりません。何かを、何か錯綜した問題-生や関係の [問題]、要するに何かの問題-を理解するには、精神にとって一定の静かな深みがなければなりません。その静かな深みは、何かの形の強制をとおして偶然手に入るでしょうか。表面的な精神は、それ自体を強制し、それ自体を静かにさせるかもしれません。しかし、確かにそういう静けさは、腐敗の、死の静けさです。それは適応・順応性、柔軟性、敏感性・感受性の能力がありません。ですから抵抗は [正しい]道ではありません。
そこで、それがわかるには、智恵を必要とするのではないでしょうか。精神は強制により鈍らされるということがわかることが、すでに智恵の始まりなのではないでしょうか-修練は、たんに恐れをとおした行動の様式への順応であることが、わかることが、です。それが、私たち自身を修練することに示唆されていることです。 私たちは欲しいものを得ないことを恐れています。あなたが精神を修練するとき、あなたが自分の存在を修練するとき、何が起きるでしょうか。それはとても堅く [なる] -柔軟でなく、すばやくなく、適応・調節できなくなるのではないでしょうか。あなたは、自分たち自身を修練してきた人たちを、知らないでしょうか-そういう人たちがいるとして、です。結果は明白に腐敗の過程です。片づけられ、隠された内側の葛藤があるのです。しかし、それはあるし、燃えているのです。
こうして私たちは、修練、すなわち抵抗は、たんに習慣を造り出すだけであり、習慣は明白に智恵を産み出す力がありえないことが、わかるのです。習慣は決して [智恵を産み出す力がありえ]ない、実践は決して[智恵を産み出す力がありえ]ないのです。あなたは一日中ピアノを練習すること、自分の手で何かを作ることにより、指先がとても器用になるかもしれません。しかし、手に命令するには、智恵が要求されます。私たちは今、その智恵を探究しているのです。
(´・(ェ)・`)つ
267
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/15(火) 23:42:46 ID:1d4drIFg0
貪欲は最初は快楽であるがいずれは苦をもたらすものじゃ。
それを何かの修練によって除こうとすれば、それがまた貪欲を生み出すのじゃ。
その循環は止まる事が無いのじゃ。
ただありのままに見ることに拠ってのみ、それは止められるのじゃ。
268
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/16(水) 19:05:25 ID:5SfEipAk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 4
あなたは、幸せである、または悟っていると考える誰かを、見ます。彼は一定のことをします。あなたはその幸せが欲しいので、彼を模倣します。この模倣が修練と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは、他の一人が持つものを受け取るために、模倣します。私たちは幸せであるためにまねをします-彼がそう [幸せ] であると、あなたは思うのです。幸せは、修練をとおして見つかるでしょうか。一定の規則を実践することにより、一定の修練を、行いの様式を実践することにより、あなたはいったい自由でしょうか。確かに、発見のための自由がなければならない、のではないでしょうか。あなたは何かを発見しようと思うなら、内側で自由でなければなりません-それは明白です。あなたは、修練と呼ぶ特定のやり方で、自分の精神を形造ることにより、自由でしょうか。明白に、あなたは [自由では]ありません。あなたは、一定の結論に応じ、一定の行いの様式に応じて抵抗している、たんに反復的な機械であるだけです。自由は修練をとおして来ることができません。自由は、智恵をもって生じうるだけです。内側でも外側でも、どんな形の強制も、自由を否定するということがわかった瞬間、その智恵が目覚める、またはあなたはその智恵を持つのです。
修練としてではなく、最初に必要なものは、明白に自由です。美徳だけが、その自由を与えてくれるのです。貪欲は混乱です。怒りは混乱です。苦さ・辛さは混乱です。あなたはそれがわかるとき、明白にそれらから自由です。あなたはそれらに抵抗しません。あなたは、自由においてだけ発見できること、どんな形の強制も自由ではなく、ゆえに発見はないことが、わかるのです。美徳のもたらすことは、あなたに自由を与えることです。美徳のない・不徳な人は、混乱した人です。混乱の中で、あなたはどうして何かを発見できるでしょうか。どうしてできるでしょうか。こうして美徳は、修練の最終産物・成果ではありません。美徳が自由です。美徳のない、それ自体において真実でないどんな行動をとおしても、自由は来ることができません。私たちの困難は、私たちのほとんどがあまりに多く読んできたこと、私たちのほとんどがあまりに多くの修練に表面的に付いていったこと、です-毎朝一定の時間に起きて、一定の姿勢で座り、自分たちの精神を一定の仕方に抑えようとすること-知っているでしょう、実践、実践、修練を。なぜなら、あなたは、何年間かこれらのことをするなら、その終わりに・最後に神を得るだろうと、言われてきたからです。私はそれを露骨に・ぞんざいに述べるかもしれません。しかし、それが、私たちの考えの基本です。確かに、神はそれほどたやすく来るとはかぎらないでしょう。神はたんなる市場で取り引きできるものではありません-私がこれをすると、あなたがそれを私にくれる [といったものではありません]。
(´・(ェ)・`)つ
269
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/16(水) 21:30:02 ID:1d4drIFg0
修練や規則、様式を繰り返すことはむしろ観察には不向きなのじゃ。
自らの心を観察して、新たな事実を発見することが大事なのじゃ。
修練等を繰り返すとそのような肝心な観察と発見による気づきを取り逃がしてしまうのじゃ。
観察し、発見することは記憶に拠らないものであるからのう。
記憶による修練はその妨げになるばかりなのじゃ。
270
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/17(木) 19:02:16 ID:7OJSsgOo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 5
私たちのほとんどは、外部の影響により、宗教的な教義、信念により、何かに至り着きたい、何かを獲得したいという自分たち自身の内側の要求により、あまりに条件づけられているために、修練という見地に立って考えることなく、私たちがこの問題について新たに考えることは、とても難しいのです。初めに私たちは、修練が含んでいる意味が[とても明確に見えなければなりません] -それが、私たちの願望をとおし、影響とその他すべてをとおして、どんなに精神を狭めてしまい・限定し、精神を制限し、精神を特定の行動に強制するか [が見えなければなりません]-条件づけられた精神は、その条件づけがたとえどんなに「美徳がある」としても、とうてい自由でありえないし、ゆえに真実を理解できないということが、とても明確に見えなければなりません 。神、真実、何であれ-名前は大事ではありません-は、自由があるときだけ、生じうるのです。そして恐れをとおして、肯定的でも否定的でも強制があるところ、自由はありません。あなたが目的を求めているなら、自由はありません。というのは、あなたはその目的に縛られて・つながれているからです。あなたは過去から自由であるかもしれません。しかし未来があなたを拘束します・離しません。それは自由ではありません。何かを-新しい観念、新しい感情・気持ち、新しい知覚-を発見できるのは、自由においてだけです。政治的であれ宗教的であれ、強制に基づいたどんな形の修練も、その自由を否定します。そして修練、すなわち目的を視野に入れた行動への順応が、縛りつけているから、精神は決して自由でありえないのです。それは、蓄音機(レコ-ド)のように、その [修練の] 溝の中でだけ機能できるのです。
こうして実践をとおし、習慣をとおし、様式の育成をとおして、精神は、それが視野に持つものを達成するだけです。ゆえに、それは自由ではないのです。ゆえに、それは測ることのできないものを悟れないのです。その過程全体に気づくこと-なぜあなたが世論に、一定の聖者たちに合わせて、常に自分自身を修練して・律しているのか-聖者のであれ隣人のであれ意見に順応するというやっかいなこと全体-それはすべて同じ事です- [に気づくこと]。 実践をとおし、甘受し、否定し、主張し、抑圧し、昇華するという微妙なやり方-すべてが様式への順応という意味を含んでいます-をとおした、この順応全体に気づくこと。これがすでに自由の始まりです。そこから美徳があるのです。美徳は確かに、特定の観念の育成ではありません。例えば、無欲は、もしも目的として追求されたなら、もはや美徳ではない、のではないでしょうか。すなわち、自分が無欲であることを意識しているなら、あなたは美徳があるでしょうか。それが、私たちが修練をとおしてやっていることです。
(´・(ェ)・`)つ
271
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/17(木) 21:33:32 ID:1d4drIFg0
なぜ修練がいかんのかというと、それが視野を狭めるからだというのじゃ。
修練はその目的のものしか見えなくなるから、自由な視野を失い、記憶の中だけで生きることに成るのじゃ。
修練によって達成できるのは、予め記憶された境地のみだというのじゃ。
無欲であることさえ意識して行うならばもはや美徳でもないのじゃ。
そのような修練とその結果全体に気付くことが自由の始まりなのじゃ。
272
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/18(金) 19:04:09 ID:vvZ4Fpoo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 6
修練、順応、実践は、何ものかであるという自意識に、強調を与えるだけです。精神は無欲を実践します。ゆえにそれは、無欲であるというそれ自身の意識から、自由ではないのです。ゆえにそれは、ほんとうは無欲ではないのです。それはたんに無欲と呼ぶ新しいマントを採用した・選び取っただけです。私たちはこのすべての総合過程がわかります-動機づけ、目的への願望、様式への順応、様式を追求するなかで安全でありたいという願望-このすべては、いつも精神自身の自己閉鎖的な過程の制限の中で、たんに知られたものから知られたものへ動くことです。このすべてがわかること、それに気づくことが、智恵の始まりです。そして智恵は、美徳があるのではなく、また美徳がないのでもありません。それは、美徳や不徳として様式にはめ込むことはできません。智恵は自由をもたらします-それは放蕩ではなく、無秩序ではありません。この智恵なしには、美徳はありえません。美徳は自由を与えてくれます。そして自由において、真実が生じるのです。あなたは過程全体を、完全な形で・まるごと総合的にわかるなら、そのとき葛藤がないことを見つけるでしょう。私たちが様々な形の修練、否定、適応に頼る・訴えるのは、私たちが葛藤 [の状態]にあるから、その葛藤から逃避したいから、です。何が葛藤の過程であるかがわかるとき、修練の問題はないのです。なぜなら、そのとき私たちは、葛藤の仕方を瞬間瞬間理解するからです。それは、大いなる鋭敏さ、いつのときも自分自身を見守る・見つめることを、必要とします。それが好奇心をそそる・不思議な部分は、いったん意図があれば、あなたがいつのときも見守っているわけではないとしても、記録する過程が内側で続いているということです-敏感さ、内的な敏感さが、いつのときも写真を撮り、そのためあなたが静かになった瞬間、内的なものがその写真を投影するでしょう。
ゆえに、それは修練の問題ではありません。敏感さは、強制をとおしては、決して生じえません。あなたは子どもに何かをするように強制し、隅に追い込むかもしれません。そして子どもは静かになるかもしれません。しかし内側で、子どもはたぶん波立ち・沸き立ち、窓の外を見、逃げようと何かをしているのです。それは、私たちもやはりしていることです。それで修練 [の問題] と、誰が正しく、誰が間違っているのかという問題は、あなた自身によってだけ、解決されうるのです。
またあなたは、私たちは成功したいから、間違う・うまくいかないことを恐れていることも、わかります。恐れが、修練されたいという願望の底にあります。しかし、知られないものは、修練の網に捕らえられません。反対に、知られないものは、あなたの精神の様式 [を持つの]ではなく、自由を持つ・有するにちがいありません。そういうわけで、精神の平静さが本質的 [・不可欠]です。精神が平静であることを意識するとき、それはもはや平静ではありません。精神が無欲で [あること] 、貪欲から自由であることを意識するとき、それは無欲という新しいロ-ブ(礼服)を身につけたそれ自身を認識します。しかし、それは平静さではありません。そういうわけで、制御する人と制御されるものというこの疑問においても、また問題を理解しなければならないのです。それらは分離した現象ではなくて、共通の現象です。制御するものと制御されるものは一つです。
(´・(ェ)・`)つ
273
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/18(金) 21:51:03 ID:1d4drIFg0
修練は結局自我を強化するだけというのじゃ。
実際に自分が座禅をしているからと増上慢になる者も多いのじゃ。
それは逃避でしかないのじゃ。
ぶざまな自己イメージからの逃避であるから、それで自己を理解することはありえないのじゃ。
274
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/19(土) 17:21:12 ID:WIUog5qw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 7
質問
私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。
K
質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
あなたは今まで一人であろうとしたことがあるでしょうか。あなたはそうしようとするとき、それがどんなにとてつもなく難しいか、一人であるにはどんなにとてつもない智恵がなければならないかを、感じるでしょう。なぜなら、精神は(どうしても)私たちを一人にさせないからです。精神は落ち着かなくなります。それは逃避するのに忙しいのです。それで私たちは何をしているのでしょうか。私たちはこのとてつもない空虚を、知られたもので充たそうとしているのです。私たちは、どのように活動的であるか、どのように社交的であるかを発見します。私たちは、どのように研究するか、どのようにラジオをつけるかを、知っています。私たちは、自分たちの知らないものを、知っているもので充たしているのです。私たちは、その空っぽ [の空しさ] を、様々な種類の知識、関係やものごとで充たそうとします。そうではないでしょうか。それが私たちの過程です。それが私たちの存在です。そこであなたは、自分が何をしているかを悟るとき、それでもその空虚を充たせると思うでしょうか。あなたは、この孤独の空虚を充たすあらゆる手段を、試してきました。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。あなたは映画を試してみましたが、成功しませんでした。ゆえに自分のや書物を追いかけたり、社会的に・社交的にとても活動的になったりします。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。それともたんにそれを覆い隠しただけでしょうか。たんに覆い隠しただけなら、それはやはりあります。ゆえに戻ってくるでしょう。あなたはすっかり[全く]逃避することができるなら、アシュラム [保護施設・避難所] に閉じ込められるか、とてもとても鈍感になるか、です。それが世界で起きていることです。
この空っぽ [の空しさ] 、この空虚は、充たすことができるでしょうか。できないなら、私たちはそれから逃げ出し、それから逃避できるでしょうか。一つの逃避が無価値であることを経験し、わかったなら、ゆえに、他のすべての逃避が無価値ではないでしょうか。空っぽ [の空しさ] を、これで充たすかあれで充たすかどうかは、大事なことではありません。いわゆる瞑想もまた逃避です。あなたが逃避の仕方を変えることは、あまり大事なことではありません。
(´・(ェ)・`)つ
275
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/19(土) 21:40:37 ID:1d4drIFg0
孤独からの逃避として、文明が起こったというのじゃ。
全ての芸術とか宗教までも逃避だというのじゃ。
それらは全て無価値であるのじゃ。
何も変容をもたらさず、老病死の苦からも逃れられないからなのじゃ。
276
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/20(日) 11:46:12 ID:Y9d16ak.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 8
ではあなたは、この孤独についてどうすべきかを、どのようにして見つけるのでしょう
か。あなたは逃避するのを止めてしまったとき、どうすべきかを見つけられるだけです。そうではないでしょうか。あなたが進んであるがままと向き合おうとするとき―それは、あなたがラジオをつけてはならないという意味です。それは、あなたが文明に背を向けなければならないという意味です―そのとき、その孤独は終わります。なぜなら、それは完全に変容しているからです。それはもはや孤独ではありません。あなたがあるがままを理解するなら、そのとき、あるがままが真実[のもの]です。精神は、あるがままを見ることを連続的に避け、逃避し、拒んでいるから、それ自身の障害を造り出すのです。私たちは、見ることを妨げているほど、あまりに多くの障害を持っているから、あるがままを理解しないのです。ゆえに真実から逃げているのです。これらすべての障害は、あるがままを見ない[ようにする]ために精神によって造り出されてきたのです。あるがままを見るには、たいへんな(行動の)能力と行動への気づきを必要とするだけでなく、またあなたが築き上げてきたあらゆるものごと―あなたの銀行預金、あなたの名前、文明と呼ばれるあらゆるものごと-に背を向ける、という意味です。あるがままを見るとき、どのように孤独が変容するかが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
277
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/20(日) 22:54:22 ID:1d4drIFg0
あるがままを見ることができれば、既にもう変容しているというのじゃ。
気付けば変容は直ぐに起きるからのう。
その時には逃避でしかなかった文明はもはや無力なのじゃ。
そのようにして孤独も滅することが出来るのじゃ。
278
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/21(月) 19:13:35 ID:9PoQw6NM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答六 孤独[寂しさ]について 1
質問
私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。
K
質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
(´・(ェ)・`)つ
279
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/21(月) 22:48:20 ID:1d4drIFg0
二日前に見た気がするのう。
疲れているのかもしれん。
或いは孤独に囚われがあるのかもしれん。
心を見るのじゃ。
280
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/22(火) 00:45:49 ID:9v3JJ83c0
>>279
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。
『五 修練について』は
>>272
まででした。
>>274
『六 孤独[寂しさ]について 1』
>>276
『六 孤独[寂しさ]について 2』
>>278
ご指摘どおり重複でありました。
(´・(ェ)・`)
281
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/22(火) 00:55:35 ID:9v3JJ83c0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 1
質問
苦痛と苦しみの意義は何でしょうか。
K
あなたが苦しむとき、苦痛があるとき、その意義は何でしょうか。身体的苦痛には一つの意義がありますが、たぶん私たちのいうのは、心理的苦痛と苦しみという意味です―それは違った水準で、全く違った意義があるのです。苦しみの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦しみの意義を見つけたいのでしょうか。それには意義がないということではありません―私たちは見出そうとしているのです。しかし、なぜあなたはそれを見つけたいのでしょうか。、自分がなぜ苦しむのかを、なぜあなたは見つけたいのでしょうか。あなたは「なぜ私は苦しむのか」というその疑問を自分自身に出して、苦しみの原因を探しているとき、苦しみから逃避していないでしょうか。私は苦しみの意義を求めるとき、それを避け、回避し、それから逃げ出していないでしょうか。事実は私が苦しんでいるのです。しかしそれを操作[処置]するために精神を持ち込んで「では、なぜ」と言った瞬間、すでに苦しみの強烈さを薄めてしまったのです。言い換えれば、私たちは苦しみを薄め、軽減し、片づけ、説明してしまいたいのです。確かにそれは、苦しみについての理解をもたらしません。それから逃げ出したいというその願望から自由であるなら、そのとき私は、何が苦しみの内容[中身]であるかを、理解しはじめるのです。
苦しみとは何でしょうか。動揺なのではないでしょうか。違った水準での [動揺] ―身体的水準での、そして潜在意識の違った水準での [動揺]、です 。それは、私が好きでない鋭い形の動揺です。私の息子が死にました。私は彼のまわりに自分の希望のすべてを築いてきました―または自分の娘や夫や何でもあなたの望むもののまわりに。私は彼にそうあって欲しいと思うものすべてとともに彼を祭って・秘蔵してきました。そして彼を連れ合いとしてきました―ご存知でしょう、その種のことすべてを。突然、彼は逝ってしまいました。それで動揺があるのではないでしょうか。その動揺を、私は苦しみと呼ぶのです。
私はその苦しみを好きでないなら、そのとき「なぜ私は苦しんでいるのか」、「私は彼をたいへん愛していた」、「彼はこうだった」、「私はそれを持っていた」と言います。私たちのほとんどがするように、私は言葉に、レッテルに、信念に逃避しようとします。それらは麻酔剤・麻薬として作用するのです。私がそうしないなら、何が起きるでしょうか。私は単に苦しみに気づいています。それを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。そのとき私はその動きに付いていけるのではないでしょうか。そのときそれが意味するものの内容・中身全体に付いていけるのです―何かを理解しようとする、という意味において「私は付いていく」のです。
(´・(ェ)・`)つ
282
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/22(火) 21:44:18 ID:1d4drIFg0
苦しみは愛する者を失ったりすると起こるというのじゃ。
愛別離苦じゃな。
その苦から信念への逃避も起こると言うのじゃ。
非難も正当化もせずにそれを見守る時、それは消えるというのじゃ。
283
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/23(水) 20:36:58 ID:wrd1GIiU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 2
それはどういう意味でしょうか。苦しんでいるのは何でしょうか。なぜ苦しみがあるのかではなく、何が苦しみの原因なのかではなく、何が現実に起きているのでしょうか。あなたにその違いがわかるかどうか、私は知りません。そのとき私は単に苦しみに気づいています―私から離れたものとして[の苦しみに気づくの]ではなく、苦しみを見張っている観察者として [の私が気づくの] ではなく-それは私の一部です。すなわち私の全体が苦しんでいるのです。そのとき私はその動きに付いていく [ことができ] 、それがどこにつながるのかを、見ることができます。確かに、私がそうするなら、それは [扉を] 開くのではないでしょうか。そのとき私は、「私」を強調していたことがわかります-自分の愛している人物を [強調していたの] ではありません。彼はただ私を、私の悲惨から、孤独から、不幸から覆い隠す・かばう作用をしただけです。私は何ものでもないので、彼にそうあって欲しいと願ったのです。それは消えてしまいました。私は取り残[置き去りに]されます。私は途方に暮れます・路頭に迷います。私は孤独です。彼なしには、私は無です。それで私は泣きます。それは、彼が逝ってしまったということではなく、私が取り残されたということです。私は一人です。その地点に至る[そこまで来る]ことは、とても難しいのではないでしょうか。それを本当に認識して、たんに、「私は一人だ。どのようにして、その孤独を取り除くべきなのか」と言うだけではなく―それももう一つの形の逃避です-それを意識すること、それと共にとどまること、その動きを見ることは、難しいのです。私はこれを一つの実例・一例として取り上げているだけです。徐々に・次第に、それが展開し、[扉を]開くのを許す・それが開くのにまかせるなら、私は、自分が途方に暮れている・路頭に迷っているから苦しんでいるということが、わかるのです。私は、何か進んで見ようとしないものに自分の注意を向けるよう、呼びかけられているのです―何か見ること、理解することに気がすすまないものが、私に押し付けられ・強いられているのです。私が逃避するのを助けてくれる無数の人たちがいます―信念、教義、希望、幻想を持った、何千ものいわゆる宗教的な人たちです。「それはです。それは神の意志です」―ご存知でしょう、すべてが私に抜け出し方を与えてくれるのです。しかし、それを私から片づけるのではなく、制限し・境界線を引いたり否定したりしようとするのではなく、私がそれと共にとどまることができるなら、そのとき何が起きるでしょうか。精神がこうして苦しみの動きに付いてゆきつつあるとき、私の精神の状態は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
284
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/23(水) 21:56:08 ID:1d4drIFg0
単に苦しみに気付いていることこそ大事だというのじゃ。
己の全体として苦しんでいると観る時、その心の働きに付いていき、どのように起こるのか見ることができるというのじゃ。
その時、苦からの逃避があったことをも気付くのじゃ。
苦だけではなく、苦からの逃避があったと全体に気付いた時に観察は完全になるのじゃ。
285
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/24(木) 21:07:05 ID:ur8PhUy20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 3
苦しみはたんに言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は今や意味がありません。それでたんに強烈な苦痛の感情だけがあるのです。何に関して[の苦痛]でしょうか。イメ-ジに、経験に、何かあなたが持っていたり持っていなかったりするものに関して [の苦痛]です 。あなたはそれを持っているなら、楽しみと呼びます。持っていないなら、それは苦痛です。ゆえに苦痛、悲しみは、何かとの関係においてあるのです。その何かは、たんに言語作用・言語表現でしょうか、それとも現実でしょうか。すなわち悲しみが存在しているとき、それは、何かとの関係においてだけ、存在しているのです。それはそれ自体では存在できません-ちょうど恐れがそれ自体では [存在でき]なくて 、何かとの関係においてだけ存在できるように-個人との、出来事との、感情との[関係において]。今やあなたは苦しみに充分に気づいています。その苦しみは、あなたから離れているでしょうか。ゆえにあなたは、たんに苦しみを知覚する観察者でしょうか、それともその苦しみがあなたでしょうか。わわ
苦しんでいる観察者がいないとき、苦しみはあなたと異なっているのでしょうか。あなたが苦しみである、のではないでしょうか。あなたは苦痛から離れていません―あなたが苦痛です。何が起きるでしょうか。レッテル貼りはありません。それに名前を付けること [はありません] 、よって払いのける・はねのけることはありません―あなたはたんにその苦痛、その感情、その苦悶の感覚です。あなたがそれであるとき、何が起きるでしょうか。あなたがそれを名づけないとき、それに関して恐れがないとき、中心はそれと関係しているでしょうか。中心がそれと関係しているなら、そのとき、それ [中心] はそれ[苦しみ]を恐れています。そのとき、それは行動して、それ[苦しみ]について何かをしなければなりません。しかし、中心がそれ[苦しみ]であるなら、そのときあなたはどうするでしょうか。なすべきことは何もないのではないでしょうか。あなたがそれであって、それを受け入れず、それにレッテルを貼らず、脇へのけていないなら-あなたがそのものであるなら、何が起きるでしょうか。そのとき、あなたは苦しい・苦しんでいると言うでしょうか。確かに、根本的変容が起きたのです。そのときもはや「私は苦しい・苦しんでいる」 [ということ] はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心が苦しむのです。なぜなら私たちは、中心が何であるかを決して検討したことがないからです。私たちはただ言葉から言葉へ、反応から反応へと生きる・生きていくだけです。「苦しむそのもの[苦しんでいるそのもの]が何であるのか見てみよう」とは、私たちは決して言いません。強制により、修練によっては、見ることはできません。興味を持って、自発的な了解を持って見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼ばれるもの、私たちが避けるもの、修練、すべてが消えてしまったことが、わかるでしょう。私が自分の外側としてのものごとと関係を持たないかぎり、問題はないのです。私が自分の外側のそれと関係を確立した瞬間、問題があるのです。私が苦しみを何か外側のものとして扱う限り―私は兄弟を亡くしたから、お金がないから、あれこれのために、苦しむのです―それとの関係を確立します。その関係は虚構[架空]です。しかし私がそのものであるなら、事実を見るなら、そのとき、ものごと全体が変容するのです。そのすべてが違った意味を持ちます。そのとき充分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られるものは理解され、解消します。そのため恐れはないし、ゆえに「悲しみ」という言葉は存在していないのです。
(´・(ェ)・`)
286
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/24(木) 21:23:40 ID:1d4drIFg0
苦しみは言葉ではないというのじゃ。
苦しみは自分そのものであるというのじゃ。
自己同一化しているのじゃ。
それが見られたならば苦しみは即座に停止するのじゃ。
287
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/25(金) 23:06:34 ID:aUlu60.o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 1
質問
気づきと内省の間の違いは何でしょうか。そして気づきにおいて、気づくのは誰でしょうか。
K
初めに、私たちのいう内省とはどういう意味なのかを、検討しましょう。私たちのいう内省とは、自分自身の中を見る、自分自身を検討する、という意味です。なぜ自分自身を検討するのでしょうか。改善する・向上させるため、変えるため、修正するため、です。あなたは何ものかになるために内省します。そうでないと内省に耽らないでしょう。もしも修正したい、変えたい、あるがままのあなたより他の何ものかになりたいという願望がなかったなら、あなたは自分自身を検討しないでしょう。それが、内省のための明白な理由です。私は怒ります。すると怒りを取り除いたり、怒りを修正したり変えるために、私は自分自身を内省し、検討します。内省-それは、自己の応答、反応を修正したり変えたいという願望です-があるところ、いつも視野に目的があるのです。その目的が達成されないとき、不機嫌さ、憂鬱さがあるのです。ゆえに内省は必ず憂鬱さを伴います。あなたは内省するとき、自分自身を変えるために自分自身の中を見るとき、いつも憂鬱の波があるということに、気づいたことがあるかどうか、私は知りません。あなたが [それと] 戦わなければならない不機嫌な波が、いつもあるのです。あなたはその気分などに打ち勝つために、再び自分自身を検討しなければならないのです。内省は [そこに]解放のない過程です。なぜならそれは、あるがままを何かそうではないものに変容させる過程であるからです。 私たちが内省するとき、その特定の行動に耽るとき、明白に、それがまさに起きていることです。その行動にはいつも蓄積過程 [があり] 、それを変えるために何かを検討している「私」があり、そのためいつも二元的葛藤 [があり、]ゆえに挫折の過程があるのです。決して解放はありません。そしてその挫折を悟ると、憂鬱さがあるのです。
気づきは全く異なっています。気づきは非難なき観察です。気づきは理解をもたらします。なぜなら、非難も同一化もなくて、静寂な観察があるからです。私は何かを理解したいなら、観察しなければなりません。批判してはなりません。非難してはなりません。楽しみとしてそれを追求したり、楽しみでないとしてそれを避けたりしてはなりません。たんに事実についての静寂な観察があるだけでなければなりません。視野に目的がなくて、生じるままにあらゆるものごとへの気づきがあります。非難、同一化、正当化があるとき、その観察と、その観察の理解は止みます。内省は自己改善です。ゆえに内省は自己中心性です。気づきは自己改善ではありません。反対にそれは、そのすべての奇妙な性向、記憶、要求、追求を持った自己の、「私」の終わりです。内省には、同一化と非難があります。気づきには、非難も同一化もありません。ゆえに自己改善はありません。二つの間には広大な違いがあります。
(´・(ェ)・`)つ
288
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/26(土) 22:47:36 ID:1d4drIFg0
内省と気付きは違うものというのじゃ。
内省にはまだ目的があり、自己同一化や分別も在るのじゃ。
気付きは目的は無く、自己同一化がなく分別もないと言うのじゃ。
静寂な観察に拠って気付きは起こるのじゃ。
それは自己の終わりをもたらすものというのじゃ。
289
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/27(日) 17:40:09 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 2
自分自身を改善したいと思う人は、決して気づけません。なぜなら改善は、非難と結果の達成という意味を含んでいるからです。ところが気づきには、非難のない、否定も受け入れもない観察があります。その気づきは外側のものごとから始まります-気づくこと、対象と、自然と接触することです。初めに、自分のまわりのものごとへの気づきがあります-対象に、自然に、それから人々に敏感であることです-それは関係という意味です。それから観念への気づきがあります。この気づき-ものごとに、自然に、人々に、観念に敏感であることは、分離した過程から作り上げられているのではなく、一つの単一の・統一された過程です。それはあらゆるものごとの [観察]、自分自身の中に生じるままのあらゆる思考、感情、行動の常なる観察です。気づきは非難的ではないので、蓄積がありません。あなたは規範を持つときだけ、非難するのです-それは蓄積が [ある]、ゆえに自己の改善がある、という意味です。気づきは、人々との、観念との、ものごととの関係における自己、「私」の活動を、理解することです。その気づきは瞬間瞬間です。ゆえにそれは実践できません。あなたが一つの事を実践するとき、それは習慣になります。気づきは習慣ではありません。習慣的である精神は鈍感・無感覚です。特定の行動の溝・轍の中で機能している精神は、鈍く、柔軟でありません。ところが気づきは常なる柔軟性、鋭敏さを要求します。これは難しくありません。あなたが何かに興味があるとき、あなたが自分の子供、妻、植物・草木、木々、鳥たちを見つめることに興味があるとき、それが、あなたが現実にすることです。あなたは非難なく、同一化なく観察します。ゆえにその観察には、完全な親交があります。観察者と観察されるものは、完全に親交 [の状態]にあります。これは、あなたが深く、奥深く何かに興味があるとき、現実に起きるのです。
こうして気づきと、内省の自己拡大的な改善の間には、広大な違いがあるのです。内省は挫折に、さらなるもっと大きな葛藤につながります。ところが気づきは、自己の行動からの解放の過程です。それは、あなたの日常の動きに、あなたの思考に、あなたの行動に気づくこと、そして他の人に気づくこと、彼を観察することです。あなたは誰かを愛しているとき、何かに深く興味があるときだけ、それができるのです。私が自分自身を、自分の存在全体を、たった一つか二つの層ではなく自分自身の内容全体を知りたいとき、そのとき明白に、非難はないにちがいありません・あってはなりません。そのとき私は、あらゆる思考に、あらゆる感情に、気分すべてに、抑圧すべてに対して [扉を] 開いていなければなりません。そしてますます拡大する気づきがあるにつれて、隠れた思考の動き、動機、追求すべてからのますます大きな自由があるのです。気づきは自由です。それは自由をもたらします。それは自由を生み出します。ところが内省は葛藤を、自己閉鎖の過程を育成します。ゆえに、それにはいつも挫折と恐れがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
290
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/27(日) 21:58:52 ID:1d4drIFg0
内省は自分を改善しようという意志があるから気づきはないのじゃ。
分別があり、観念による目的達成の遊戯になるからなのじゃ。
気づきには否定も肯定も無い観察が在るのじゃ。
そこに分別は無く、観念の遊戯も無いのじゃ。
それでこそ真の変容が在るのじゃ。
291
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/28(月) 20:44:26 ID:BDVNOiQA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 3
質問者はまた、誰が気づくのかを知りたいのです。あなたがどんな種類のでも奥深い経験をするとき、何が起きているでしょうか。そういう経験があるとき、あなたは自分が経験していることに気づいているでしょうか。あなたは怒っているとき、怒りや嫉妬や喜びのほんの瞬間に、自分が喜んでいる・うれしいことや怒っていることに気づいているでしょうか。経験者と経験されるものがあるのは、経験が済んでいるときだけです。そのとき、経験者が経験されるものを、経験の対象を観察するのです。経験の瞬間には、観察者も観察されるものもどちらもないのです。経験することだけがあるのです。私たちのほとんどは経験していません。私たちはいつも経験する状態の外側にいるのです。ゆえに誰が観察者なのか、気づいているのは誰なのかについてのこの疑問を、訊ねるのです。確かにそういう疑問は間違った疑問なのではないでしょうか。経験している・経験があった瞬間、気づいている人物も、彼がそれに気づいている対象もどちらもないのです。観察者も観察されるものもどちらもなくて、ただ経験している状態だけがあるのです。私たちのほとんどは、経験する状態に生きることは極めて難しいことを、見つけます。なぜなら、それはとてつもない柔軟性、すばやさ、高度の敏感さを要求するからです。そして私たちが結果を追求しているとき、成功したいとき、目的を視野に持つとき、計算しているとき-そのすべてが挫折をもたらします-それは否定されるのです。何も要求せず、目的を求めていなくて、結果と共にそのすべての含蓄を捜し出していない人、そういう人は常に経験する状態にあるのです。そのときあらゆるものが動きを、意味を持ちます。何も古くありません。何も焼け焦げていません。何も反復的ではありません。なぜなら、あるがままは決して古くないからです。挑戦はいつも新しいのです。古いのは、挑戦に対する応答だけです。古いものはさらなる残り滓を造り出します-それが記憶、観察者です-彼は観察されるものから、挑戦から、経験から、自分自身を分離するのです。
(´・(ェ)・`)つ
292
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/28(月) 21:33:23 ID:1d4drIFg0
気付くという経験があれば、そこには経験する者も経験されるものもないというのじゃ。
それらは本来無いものであるが、記憶に拠って作り出されるのじゃ。
結果を追求しているとそのように観念に囚われてしまうのじゃ。
何も求めず、結果も探し出さない者が気づきという経験もできるというのじゃ。
293
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/29(火) 19:55:14 ID:yjDFQbds0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 4
あなたはとても単純に、とてもたやすく、自分自身でこれを実験できるのです。今度あなたが怒ったり、嫉妬したり、欲張ったり、暴力的であったり-何であろうと-するとき、自分自身を見守ってください。その状態には、「あなた」はいません。その存在の状態だけがあるのです。瞬間、一瞬後、あなたはそれを用語づけ、名づけ、それを嫉妬、怒り、貪欲と呼ぶのです。それであなたは即時に、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものを造り出したのです。経験者と経験されるものがあるとき、そのとき経験者は経験を修正しよう、変えよう、それにまつわるものごとを覚えていよう、などとするのです。ゆえに自分自身と経験されるものの間の分割を維持するのです。あなたはその感情に名づけないなら-それは、あなたが結果を求めていない、非難していない、たんに静かに感情に気づいている、という意味です-そのとき、感情の、経験のその状態には、観察者がなく、観察されるものがないということが、わかるでしょう。なぜなら、観察者と観察されるものは共通の現象であって、そのため経験することだけがあるからです。
ゆえに、内省と気づきはまったく異なっています。内省は挫折に、さらなる葛藤につながります。というのは、それには変化への願望という意味が含まれているし、変化はたんに修正された継続であるからです。気づきは、 [そこに]非難のない、正当化や同一化のない状態です。ゆえに理解があります。その受動的で鋭敏な気づきの状態には、経験者も経験されるものもどちらもないのです。
内省は一つの形の自己改善、自己拡大ですが、それは決して真理につながりえません。なぜなら、それはいつも自己閉鎖の過程であるからです。ところが、気づきは、 [そこに]真理が-あるがままについての真理、日常の存在についての単純な真理が-生じうる状態です。私たちが遠くへ行けるのは、私たちが日常の存在の真理を理解するときだけです。あなたは遠くへ行くには近くから始めなければなりません。しかし私たちのほとんどは飛びたい、近くにあるものを理解せずに、遠くから始めたいのです。私たちは近いものを理解するにつれて、近いものと遠いものの間に距離がないのを見つけるでしょう。距離はありません-始まり・初めと終わりは一つです。
(´・(ェ)・`)つ
294
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/09/29(火) 20:46:00 ID:1d4drIFg0
気付くことは簡単に実験できるというのじゃ。
怒ったりすればそこに怒りと名づけるものがおこり、観察者と観察されるものが作り出されるというのじゃ。
それに名づけることがなければ、観察者も観察も無いとわかるのじゃ。
それが気づきであり、内省とは違うものなのじや。
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