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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

249名無しさん:2012/12/28(金) 20:25:26
清州城廃城⇒名古屋城

250名無しさん:2012/12/29(土) 18:11:26
清洲城

慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城

251荷主研究者:2012/12/30(日) 22:04:51

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201211220008.html
'12/11/22 中国新聞
松江城の通用門図面見つかる

 松江市は21日、松江城内にあった通用門「中原口柵門」の図面が見つかったと発表した。幕末に松江藩の大工頭だった馬場佐々右衛門(ささえもん)の縁者が保管しており、今月上旬に市に寄託した。松江城国宝化に向け正門の大手門の復元を目指す市は、さらなる資料の発見に期待を寄せている。

 図面は縦50センチ、横74センチ。松江城の北西に位置していた木造の柵門の正確な縮図とみられ、裏面には「御城内中原口柵門絵図面」と墨書されている。

 ほかに、松江藩主松平家の菩提(ぼだい)寺の月照寺(松江市外中原町)を大正期に再建した際の図面、寺社建築の装飾パターンを記した手引書など、幕末〜大正期の資料計30点が見つかった。

 佐々右衛門の兄の子孫にあたる雲南市の男性方に保管されていた。松江歴史館によると、城内の門の詳細な図面が見つかるのは初めてという。

【写真説明】「中原口柵門」の図面(手前)について解説する松江歴史館の学芸員

252荷主研究者:2012/12/31(月) 00:19:41

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/334002
2012年11月14日00:33 西日本新聞
佐賀城天守台九州最大級 市教委が発掘調査

佐賀城の天守台跡を調査する佐賀城天守台調査指導委員会の委員たち=13日、佐賀市

 江戸時代中期に焼失した佐賀城天守閣があったとされる天守台跡の発掘調査を進めている佐賀市教委は13日、有識者でつくる「佐賀城天守台調査指導委員会」(委員長・高島忠平旭学園理事長)の第3回会合で、天守台の面積が、小倉城(北九州市)に匹敵する九州最大級であると報告した。全国的にみても江戸城(東京都千代田区)、大阪城(大阪市)、名古屋城(名古屋市)に次ぐ規模という。

 現在の佐賀市城内にある佐賀城は1611年に完成。1726年に大火で焼失した。市教委は佐賀城築城400年記念事業として、2011年9月から発掘調査を開始し、天守閣の規模や構造の解明を進めている。

 市教委によると、天守閣の土台となる天守台の上面の広さを計測したところ、南北の長さ約29・6メートル(15間)、東西の長さ約25・6メートル(13間)だった。小倉城、熊本城(熊本市)など九州にある佐賀城以外の15カ所の城の資料を取り寄せ、比較したところ、熊本城(13間×12間)などを上回り、小倉城(15間×13間)と同じことが初めて分かったという。

 また、佐賀城の天守台にはこれまで5重の天守閣があったとされているが、市教委は「幕府隠密復命書」(1627年)など14の絵図を調査した結果、「4重の天守閣だった可能性が高い」としている。国内の城に詳しい広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)は「かなり大きい天守閣があった可能性がある」と話している。

=2012/11/14付 西日本新聞朝刊=

253荷主研究者:2013/01/03(木) 10:03:16

http://www.isenp.co.jp/news/20121204/news05.htm
2012/12/4(火)伊勢新聞
県指定史跡「亀山城多門櫓」を復元 江戸末期の姿よみがえる

【江戸時代末期の姿に生まれ変わった「多門櫓」=亀山市西丸町で】

【亀山】亀山市は、亀山城周辺保存整備事業として、平成二十三年八月から着手していた県指定史跡「亀山城多門櫓」の復原修理工事が三日、ほぼ完成。江戸時代末期の姿に生まれ変わった。

 同櫓は、県内唯一の城郭建築物で、城下町亀山を象徴する貴重な文化財である。平成十九年に発生した地震により、石垣の一部が崩壊。また、老朽化に伴う雨漏りが目立つなど大規模な修理の時期を迎えていた。 同二十年に策定した「亀山市歴史的風致維持向上計画」に基づき、事業費七千四百万円の内、50%に当たる三千七百万円は、国交省「歴史的環境形成総合支援事業」の補助金を活用。木造平屋建て延べ床面積百十八平方メートルの建物を半解体し、柱と梁材の痕跡から文化財調査に基づき、板壁から、白色のしっくい塗壁とした。また、小窓も設けた。

 同市まちなみ文化財室の嶋村明彦室長は、「当時の資料がなく苦労したが、本来の姿に復原できました」と話していた。一般公開は、建物周辺を整備後の来春を予定している。

254荷主研究者:2013/01/06(日) 12:52:50

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121221000175
2012年12月21日 23時26分 京都新聞
聚楽第の石垣、東西に32メートル 自然石で勾配

聚楽第跡本丸南端で東西32メートルにわたって見つかった石垣(21日午後2時半、京都市上京区上長者町通裏門東入ル)

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、京都市上京区の聚楽第跡で、本丸南端の石垣を東西計32メートルにわたって確認した、と発表した。徹底的に破壊されたと伝わる豊臣秀吉の聚楽第の遺構が大規模に残っていたことになる。自然石のみで積み上げた石垣の整った形からは当時の高度な技術もうかがえる。

 調査地は聚楽第本丸の南端。10月に石垣の一部(約7メートル)が見つかり、さらに東側に掘り進めていた。石は約70個あり、全て切り割りしていない自然石。墓石などの転用石はない。比叡山周辺か大津市・田上山が産地と考えられる。石垣表面は約55度の緩い傾斜できれいにそろっていた。

 石の一辺は約0・7〜1・5メートルで、大手門があったとされる本丸南端の中心部へ向かって、順に大きな石が使われていた。「大手門を通るときの見栄えを意識して積んだのではないか」(同センター)という。残っていたのは3、4段分で本来の高さはわからないが、最も高い場所は約2・3メートルだった。

 石垣と背面の土の間には、水はけのために「栗石」という細かい石が敷き詰められていた。石垣に詳しい金沢城調査研究所の北垣聡一郎所長は「秀吉が築いた大坂城の石垣には転用石が使われていたが、聚楽第は自然石のみで勾配をそろえ、美しい。秀吉の権威を示したのだろう。同時代の石垣研究の基準になる」としている。

 24日午前10時〜午後3時に現地説明会を行う。現地事務所携帯電話090(9613)4694。

■聚楽第(聚楽城) 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅として、大内裏跡で1586年に着工し、翌年完成。秀吉の威を示す豪華絢爛(けんらん)な造りだったとされ、後陽成天皇が行幸した。おいの秀次に譲ったが、秀次の追放と切腹後、徹底的に破壊したとされる。

255荷主研究者:2013/02/03(日) 13:08:01

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1301090006/
2013年1月9日 神奈川新聞
小田原城の曲輪から庭園跡発見 北条氏主殿の可能性高まる、整備計画の大幅見直しも

御用米曲輪跡で見つかった庭園の水路跡=小田原城址公園

 小田原市は8日、江戸時代の遺構とされてきた小田原城址(じょうし)公園(同市城内)の「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」跡から、戦国・北条時代の庭園遺構が見つかったと発表した。同曲輪跡では昨夏、同時代の主殿級建物跡の一部が出土している。一連の発見で「市内でも先例のない近世、中世の複合遺跡」(市文化財課)に格上げされ、市は整備計画を大幅に見直すことになりそうだ。

 同課によると、庭園遺構は曲輪の南側、天守閣側の斜面を背景に配置されていたとみられる。発掘調査で石組みの水路や池、箱根産などさまざまな種類の庭石が出土。周辺に敷いたとされる多数の玉石もあった。

 一方、曲輪内の北側に数十メートル離れた場所では昨年8月、礎石建物跡が発見され、関係者を驚かせた。

 その後の調査で少なくとも3回建て直された跡が確認され、利用頻度が高い施設だったことが判明。近くで祭祀(さいし)用に使った土器「かわらけ」も千点以上が出土した。

 ただ、現状の建物跡は細長く規模が小さいため、礎石は付帯施設のもの。今回の発見により、この建物に広い庭園が設けられていたことが推察され、3代・北条氏康以降の城主が儀式などに使っていた重要な場所である可能性が高まった。本体の主殿は庭園との中間地点にあったとみて調査範囲を広げる方針。

 この曲輪はこれまで江戸時代の米蔵跡とされ、2010年度から史跡整備に向けた発掘調査が行われている。

 同課は「城の中心を確定する大きな発見が相次いでいる。地層的に積み重なる異なった遺構をどう残し、整備するのか、難しい問題。国指定史跡であり、文化庁の指導を受けながら全容解明のための調査をまずは尽くしたい」と話している。

 市は2月16日、現地で市民見学会を開催、遺構を公開する予定。

256荷主研究者:2013/02/06(水) 00:04:45

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/news/20130110-OYT8T01497.htm?from=os2
2013年1月11日 読売新聞
甲府城の「鉄門」復元

公開が始まった鉄門(10日、甲府市丸の内で)

 甲府市丸の内の甲府城跡で、「鉄(くろがね)門」の復元工事が完了し、10日、一般公開が始まった。

 甲府城は安土桃山時代の1590年代に築城され、鉄門は当時からあったとされる。明治初期に取り壊されたが、県教委が2010年9月から復元工事をしてきた。城の南側にあり、1階が門、2階がやぐらの「やぐら門」の構造で、高さ約9メートル60、最大部分の幅約12メートル70。門扉に鉄板を貼って攻撃に備えたことが名前の由来だ。

 一般公開に先立って行われた竣工記念式典で、平出亘副知事は「(鉄門は)甲府の市街地からも眺望でき、市街地の景観に歴史的な重みがさらに加わった」とする横内知事の式辞を代読した。2階のやぐら部分では、公開記念特別展「よみがえる鉄門」が14日まで開催されている。

257荷主研究者:2013/03/31(日) 22:45:23

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303020191.html
'13/3/2 中国新聞
三原城跡に西国街道の遺構

 三原市教委が同市本町で進めている国史跡の三原城跡発掘調査で、堀の西側に西国街道の道路遺構が見つかった。道路幅は約10メートルとみられる。3日午後2時から、現地説明会を開く。

 今回の調査は昨年9月から堀の西側約千平方メートルで開始。南北約30メートルの道路遺構を確認した。遺構の西側に沿って武家屋敷の土塀に使われたとみられるしっくい入りの土も発見され、市教委生涯学習課は道路と屋敷の境界とみている。

 堀の石垣の内側約1メートルには、堀への土砂の流入を防ぐ石列「土留め」が南北約30メートルで見つかった。通貨「天保通宝」も初出土した。

 土留めは、2011年度の調査でも堀の北側で確認されている。同課は「城下町の状況がより鮮明になってきた」としている。説明会は無料で、当日受け付ける。同課=電話0848(64)2137。

【写真説明】堀の石垣の内側で見つかった道路遺構。左側の石列が土留め(三原市教委提供)

260荷主研究者:2013/04/21(日) 10:59:59

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20130316/CK2013031602000048.html
2013年3月16日 中日新聞
小牧山城の2段石垣復元へ 価値高める狙い

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2013031502100175_size0.jpg
小牧山の山頂周辺から見つかった2段の石垣跡=2012年3月、小牧市堀の内で

 小牧市は小牧山城の発掘調査を二〇一三年度に終えた後、山頂周辺に巡らされた二段の石垣を復元整備する方向で検討する。土の流出を防ぐため埋め戻されている石垣部分を織田信長が築いた当時の姿によみがえらせ、城の価値を高めていきたい考えだ。

 小牧山城では一〇年度の発掘調査で自然石を積み重ねた上下二段の石垣が出土。近世城郭の原型を示す貴重な資料と分かった。その後も人名が墨書された石や山頂に延びる大手道の存在などが確認され、城の歴史的な評価や観光資源としての価値は高まっている。

 市は詳しい調査が必要として、一〇年度に終える予定だった発掘調査を三年間延長した。最終の一三年度は山頂北東斜面を調査し、城や石垣全体の構造把握に努める。

 調査結果を踏まえて、市は一四年度に文化庁などと協議し、復元整備に向けた実施設計に入る。山崩れなどの恐れもあることから、どの程度まで復元するかについて、江口光広教育長は「専門家の意見を聞きながら検討する」と話す。

 着工は早くても一五年度。補強のために石垣を新たに組み直す必要もあるという。江口教育長は「城の価値が後世にしっかり引き継がれるよう整備する」と強調した。

 (平井剛)

261荷主研究者:2013/04/21(日) 12:48:24

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303210014.html
'13/3/21 中国新聞
大型石積み遺構発見 松江城

 島根県教委は、県庁本庁舎(松江市殿町)敷地内の松江城三之丸の発掘調査で、江戸時代の井戸か池とみられる大型の石積み遺構が見つかったと発表した。三之丸で堀の石垣以外の主要な遺構の発見は初めて。

 石積みは深さ1・7〜2メートルのL字形で、東西3・6メートル、南北5・7メートルを確認。一部に階段があることや、三之丸を描いた江戸期や明治期の絵図から、井戸や池、船着き場の一部の可能性があるという。石積みは「打込接乱積(うちこみはぎらんづ)み」と呼ばれる工法で、城下町遺跡で似た様式の石積みが確認されている。

 県庁地下タンク移設に先立ち調査を2月に開始し、今月11日に見つかった。遺跡保護のため、4月にも埋め戻す。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20130321001401.jpg
【写真説明】県庁敷地内で見つかった松江城三之丸の石積みの遺構

262荷主研究者:2013/04/21(日) 14:48:29

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/351772
2013年3月8日10:06 西日本新聞
福岡城跡に土塀の柱穴 福岡市「全体の構造解明期待」

上之橋御門の修復工事で見つかった掘っ立て柱の跡(写真手前部分)=福岡市提供

 福岡市が復元に向けて整備を進める国史跡の福岡城跡(中央区城内)から、土塀を支える掘っ立て柱の穴が見つかった。城跡には江戸時代の土塀や柱は残っておらず、その遺構が見つかったのは初めて。市は「福岡城全体の塀の構造を解明する上で貴重な資料となる。城の正確な復元に弾みがつく」と期待している。

 市大規模史跡整備推進課によると、柱穴があったのは城の表玄関だった上之橋(かみのはし)御門。昨年7月から始めた門北側の石垣(高さ10メートル、幅28メートル、奥行き10メートル)の修復工事に伴い、表面の築石(つきいし)や背後の土などを約1・1メートル分取り除いたところ、柱穴が18カ所見つかった。

 直径約1・3〜1・5メートル、深さは約1メートルで、等間隔で並んでいることなどから、柱の跡とほぼ断定した。修復工事に伴い、既に崩されており、市は写真や図面などの記録を保存している。

 絵図や古写真では、福岡城には総延長3キロ以上の石垣があり、その一部には漆喰(しっくい)を塗られた高さ2メートル程度の土塀が上に築かれていたとされる。だが、土塀や柱は石垣と比べ構造がもろく、明治以降に解体や建て替えが進んだため、江戸期の塀は現存しておらず、福岡城復元の課題となっていた。

 柱穴からは瓦などの遺物も見つかっており、同課は「今後、出土品の年代や文献資料を分析し、造られた年代や、土塀の構造の特定につなげたい」としている。

=2013/03/08付 西日本新聞朝刊=

264荷主研究者:2013/05/12(日) 14:54:01

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304180034/
2013年4月19日 神奈川新聞
小田原城址「御用米曲輪」の整備方針を見直し、戦国期の発掘調査本格化/小田原市

戦国期の発掘調査が本格化する御用米曲輪=小田原城址公園

 小田原市は、国指定史跡・小田原城址公園内の「御用米曲輪(くるわ)」の整備方針を見直すことを決めた。事業期間を2015年度から18年度に延長して戦国時代の発掘調査を本格的に進め、「前例のない近世と中世の複合遺構」(市文化財課)の保存を目指す。

 同曲輪の整備事業は、江戸時代の蔵跡保存を主目的に10年度にスタート。発掘調査を実施していたところ、12年8月以降、戦国時代の大型建物跡や水路を巡らせた庭園跡など貴重な発見が相次いだ。

 庭園付きの大型建物となれば、城主級の居館跡である可能性が高まる。北条氏が関東制覇の拠点を構えた中世小田原城の姿を解明する、有力な手掛かりを得たことになる。

 市民の注目度もアップ。市が2月中旬に行った同曲輪の見学会には同種の催しでは過去最多の約970人が参加した。

 市は13年に入って文化庁と整備の方向性について協議、3月までに蔵の規模を見極めるよう求められていた。

 1月に現地を視察した文化庁の調査官から「近世の盛り土を一部掘り下げも中世遺構の全容を把握すべき」「計画の変更はやむを得ない」などの指導を受けた。

 当面、市による発掘調査は継続されるが、今後の焦点はその保存法になる。協議の中でも「複数時期の遺構を一度に見せる整備は見学者が混乱する」など事業の難しさが指摘された。

 また、同曲輪内の北東土塁では、クスノキと遺構保全の両立を図る植栽管理問題も抱えており、慎重な整備が求められる。

 市文化財課は「今回の発見は、未解明だった中世小田原の中心地を特定できる学術的な価値がある。調査を進める一方で、その成果の見せ方についても、じっくりと議論していきたい」と話している。

 ◆御用米曲輪 小田原城址公園(小田原市城内)の天守閣の北側に位置する。園内でも周囲に土塁が残る戦国期の面影が見られる場所。古い絵図には江戸期に幕府の米を蓄えた蔵が描かれ、発掘調査で6棟の跡が確認された。整備対象は約1万8千800平方メートル。

265荷主研究者:2013/05/12(日) 15:35:06

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20130412/CK2013041202000007.html
2013年4月12日 中日新聞
松本城内堀の泥、くみ出し培養土に

昨夏、水位が低下し泥が浮き出た松本城内堀。水面に映る姿も汚れでぼやけている=松本市で(松本城管理事務所提供)

 松本市の国宝松本城の内堀の底にたまり、悪臭の原因となっている泥の除去作業に市が本年度、実験的に取り組む。築城時の堀や城の石垣を崩さないようにポンプで泥を吸い上げ、水分を抜いて培養土として活用したい考えだ。市によると、大規模な堀の泥のくみ出しは記録が残る江戸時代後期以来になる。

 江戸城の内堀に当たる千鳥ケ淵(東京)で二〇〇五年から翌年にかけて実施された方法を参考にした。堀の水を全て抜いてから重機で泥をかき出す作業とは異なり、堀にいるコイやハクチョウをはじめ、微生物など生態系に悪影響を及ぼす恐れが少ない。費用が安価なのも利点で、関連費用として千八百万円を本年度一般会計予算に計上している。

 松本城の堀の水は周辺の五カ所の井戸の水を引いている。泥は魚のふんや落ち葉が分解されてたまった物。窒素やリンなどを多く含んでいるため花壇や畑の培養土に適しているが、検査で金属成分などが含まれていれば、セメントの材料にすることも検討している。作業のためのプラントは、観光客の邪魔にならないよう公園の一角に置く。

 本年度の実験成果を踏まえて来年度以降は外堀や総堀の泥のくみ取りに着手する。

 昨夏は降水量が少なかったため堀の水位が低下し、内堀の泥が表面に浮き出て悪臭を放ち、景観上も問題だった。松本城管理事務所の土屋彰司所長は「できるだけ早い時期に実施して、八月のトップシーズンに間に合わせるようにしたい」と話している。

 (佐野公彦)

266荷主研究者:2013/05/12(日) 15:35:27

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130417/CK2013041702000017.html
2013年4月17日 中日新聞
赤井家住宅を初の一般公開

 伊賀上野城の城下町で今も江戸時代の武家屋敷の面影を残し、国の登録有形文化財に指定されている伊賀市上野忍町(しのびちょう)の赤井家住宅が、大型連休に合わせて初めて一般公開される。所有者の市が、住宅を公共施設に改修するのを機に計画した。

 住宅が位置する市の中心市街地は昔ながらの町並みが残るが、空洞化が指摘され、市は住宅の活用方法を検討した。市によると、国の登録文化財は文化財保護法が適用されるので外観は変えられないが、内装は改修できる。そこで、住民が利用し、観光客も立ち寄れる施設に改修することにした。

 一般公開は無料。二十七、二十八、五月三〜五日の午前十時から午後三時まで実施する。

改修される「赤井家住宅」の母屋=伊賀市上野忍町で

 住宅は千六百五十平方メートルの敷地に母屋、茶室、離れなど八棟(計三百八十二平方メートル)が立つ。樹齢二百〜三百年のクロマツやクロガネモチがそびえる日本庭園もある。このうち国の登録有形文化財は、江戸時代末期に築かれた東、南側の土塀や、明治時代に建てられた母屋、茶室など計五件。三年前に指定された。

 市は一億円余りをかけて耐震化。作品の展示室や、伊賀の情報を発信するスペース、多目的トイレも設ける。ことし中に着工し、二〇一五年中にオープンさせる。入場料は取らず、部屋を一時利用する時に使用料を支払う形式を予定している。

江戸時代末期に築かれた土塀=伊賀市上野忍町で

 市は中心市街地にある城下町の歴史的な建物を積極的に活用。藤堂(とうどう)藩の藩校だった旧崇広堂(すうこうどう)(上野丸之内)や、かつての料亭「栄楽(えいらく)亭」を改修した生涯学習施設・栄楽館(上野相生(あいおい)町)などを住民や観光客に公開している。

 一般公開の問い合わせは市中心市街地推進課=電0595(22)9825=へ。

 (安部伸吾)

 <赤井家住宅> 江戸時代、伊勢の国の一部と、伊賀の国を治めた藤堂(とうどう)家の家臣だった赤井氏が住んでいた。現在の建物は、武家屋敷だった時の間取りを受け継いでいる。国の登録有形文化財に指定された翌年の11年、所有していた元京大助教授の赤井龍男さん(84)=京都府城陽市=が市に建物を贈った。県内には現在、国登録有形文化財が144件ある。

267荷主研究者:2013/06/20(木) 00:09:33

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013060622493748/
2013/6/6 22:49 山陽新聞
旧備中松山藩御茶屋の整備完了 方谷ゆかりの建物、9日落成式

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2013060622493748-1.jpg
高梁市が整備した、山田方谷ゆかりの「旧備中松山藩御茶屋」

 老朽化のため高梁市が手掛けていた備中松山藩主の別邸「旧備中松山藩御茶屋」(同市奥万田町)の整備工事が完了した。幕末に同藩の財政再建を断行した儒学者・山田方谷(1805?77年)ゆかりの建物。9日に落成式を行い、生涯学習の場として活用していく。

 御茶屋は城の南1・4キロにあり、6代藩主板倉勝職(かつつね)が江戸後期に築造。方谷は50代以降、現在の市北部に居を構えていたといい、城下滞在時の宿舎として主に使用したほか、方谷を慕って来た長岡藩士の河井継之助や倉敷市出身の漢学者・三島中洲らとの交流の場だったとされる。

 近年は空き家の状態だったため方谷顕彰団体などの要望を受け、市が所有者から土地(443平方メートル)と平屋の建物(49平方メートル)を購入、2012年度に工事着手した。

 事業費は約3千万円。市歴史的風致維持向上計画として国の交付金を活用した。落成式の関連行事として、9日午後1時半から市文化交流館(同市原田北町)で、「河井継之助記念館」(新潟県長岡市)の稲川明雄館長を招いた講演会を開く。無料。問い合わせは市まちづくり課(0866(21)0257)。

268荷主研究者:2013/06/23(日) 12:01:24

http://www.jomo-news.co.jp/ns/5113706170467527/news.html
2013年6月8日(土)AM11:00 上毛新聞
戦国の城門復元  高崎・箕輪城の櫓門と高麗門

 高崎市教委は7日、同市箕郷町の国指定史跡「箕輪城跡」について、防御上の重要拠点だった「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」(高さ6.3メートル)など二つの城門を16世紀末の戦国時代の姿に復元すると発表した。19ヘクタールの史跡には石垣や土塁、堀の形状が残るだけで、城に付随した建造物の大規模な復元は初めて。城門のほか、土塁や散策用の橋なども整備し、新たな観光資源としてPRする。来年度着工し、2018年度の完成を目指す。

 市教委によると、復元するのは門柱の土台となる礎石の状態が良かった「郭馬出西虎口門」と「本丸西虎口門」。文化庁の諮問機関「復元検討委員会」で3月末に復元案が承認された。

 郭馬出西虎口門は、戦国時代の城郭で規模が確認されている門跡としては関東最大規模を誇る。幅5.7メートル、奥行き3.6メートルの2階建ての櫓門(やぐらもん)で、登城のための3本の道がこの門に集約され、極めて重要な位置にあった。

269荷主研究者:2013/07/04(木) 23:49:18

http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0720130612eaad.html
2013年06月12日 日刊工業新聞
関西大など、鉄筋補強による城郭石垣の安定化工法を考案

 関西大学環境都市工学部の西形達明教授は、安藤ハザマと共同で、石垣を維持・修復して延命化に貢献する「鉄筋補強による城郭石垣の安定化工法」を考案した。石垣に排水機能をもたせた棒材を打設して補強する。建造物の老朽化が危惧される中で、修復作業が困難な文化財の劣化も懸案材料の一つとされている。石垣の外観を維持したうえで、遺構そのものも改質せずに補強できる工法として活用が期待されそうだ。

高さ約2mの石垣モデルで実施した鉄筋打設の実証実験
(西形教授提供)

 研究グループは2メートル四方の間隔で、直径約30ミリメートルの鉄筋補強材を石垣から土塁手前の小石を敷き詰めた栗石層まで打設した。

 高さ2メートル程度の石垣モデルで鉄筋打設が可能であることを確認し、遠心加速度が20Gの遠心載荷実験をしたところ、補強材で石垣の石の変形が抑制されたうえで、栗石の移動を拘束している状況を確認したという。穴があいた鉄筋は排水機能も備える。西形教授によると国内の県庁所在地の約7割が城下町という。

270荷主研究者:2013/07/11(木) 00:12:45

http://www.shinmai.co.jp/news/20130617/KT130616ATI090007000.php
2013年06月17日(月)信濃毎日新聞
松本城に「丸馬出」 土塁造成 厳重に守る

松本城北門があったとされる松本市北深志1の住宅地で見つかった土塁「馬出(うまだし)」の遺構。敵が真っすぐ侵入できないように設けた防御施設で、土塁の中心部分に使われた黄色の土の層が見える。

 松本市教育委員会は16日までに、松本城の北門があったとされる同市北深志1で発掘調査をし、門の手前にあった土塁「馬出(うまだし)」の遺構を発見した。敵が門に真っすぐ侵入できないようにする防御施設。江戸時代の松本城の絵図では城の周囲に4カ所描かれているが、明確に確認できたのは初めて。遺構を確認した信州大副学長の笹本正治教授(日本中世・近世史)は「松本城の研究上、極めて重要な発見」としている。

 馬出の遺構が見つかったのは、松本城天守閣の北東でかつて北門があった同市北深志1の住宅地。住宅の建て替えを計画していた所有者の同意を得て、今月10〜12日に試掘調査をした。土塁基底部の遺構の他、土塁が崩れないようにした土留めの石や木製のくいの列などが見つかった。土塁は上から見ると三日月形の弧を描いており、「丸馬出」と呼ばれる構造と確認した。

 馬出の外側にあった堀との境では、木製のとがったくい4本も発見。敵の侵入を困難にするためで、かつて松本城の最も外側にあった「総堀」の調査でも見つかっている。市教委文化財課は「(くいの存在は)馬出でも予測されたが、確認できたのは非常に大きい」と話している。

 松本城の丸馬出は、前身の深志城を攻め取った戦国武将武田信玄が、1550(天文19)年に改修した際に設けたと推定されている。市松本城管理事務所が所蔵する1728年の城下町の絵図には、今回の馬出の他、城の東側の上土町、北側の松本神社と、西側の現在の松本税務署がある場所にも馬出が描かれている。

 笹本教授は「黄色い土の層は土塁の中心部分で、土塁を造った経過が見えている。出入り口は城の最も大事な部分で、厳重に守った様子が分かる。松本城の歴史を考える上で極めて興味深い発見」と評価。「一度造った土塁を大きくするためにさらに手を入れた状況も分かり、土塁がどう造られたか、技術の一端が見えてきた」としている。

 馬出の遺構が見つかった場所は12日に埋め戻した。同課によると、松本城に関係する調査への市民らの関心は高く、昨年発掘調査した「大手門枡形(ますがた)」の見学会には1日1300人が参加した。馬出の遺構についても「見つかったのは市民の協力のおかげ。結果を広く知らせたい」としている。

271荷主研究者:2013/07/11(木) 00:14:51

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20130622/201306220937_20288.shtml
2013年06月22日09:37 岐阜新聞
美濃金山城跡、国史跡に 織豊時代の面影残す、文化審答申

国史跡指定として答申された美濃金山城跡がある古城山=加茂郡八百津町から望む

 文化審議会の21日の答申で、県内では、木曽川中流域の左岸にある東美濃の中心的な山城「美濃金山城跡(可児市兼山)」が史跡の対象に入った。答申通り告示されれば、県内では24番目、可児市内では長塚古墳(同市中恵土)に次いで2番目の指定となる。

 今回指定を受けるのは、古城山(276メートル)山頂にある城跡やその山麓約30万平方メートル。石垣や瓦を使用した織豊時代の面影を色濃く残し、城割(しろわり)の状況などもよくとどめている点が評価された。

 美濃金山城は1537(天文6)年、美濃国守護代の一族斎藤正義によって「烏峰城(うほうじょう)」として建立されたが、美濃国制圧を目指す織田信長の配下森可成が65年に城主となり「金山城」と改名。関ケ原合戦後の1601(慶長6)年、犬山城主によって破却された。

 明治維新後は御料林となり、1953年に兼山町(現可児市)に払い下げられるまで、人が出入りすることがなく、本丸の礎石や瓦、破却された石垣などが良好な状態で保存されている。

 可児市は2006年から5年間にわたり発掘調査を実施し、歴史的価値の見直しを図ってきた。冨田成輝市長は「400年以上もそのままの姿が残り、戦国時代に思いをはせることができる全国でも貴重な史跡で、市民にとっての誇り」と話している。

273荷主研究者:2013/07/21(日) 10:40:17

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/21080
2013年06月19日 西日本新聞(最終更新 2013年06月19日 01時00分)
福岡城の石垣「耐震構造」だった 全国初、「石列」40カ所発見

福岡城上之橋御門石垣修復工事現場で国内で初めて確認された石列=18日午後、福岡市中央区

 福岡市は18日、石垣の修復工事を行っている国史跡「福岡城跡」(同市中央区)で、石垣を内部から支える「裏込(うらご)め石」の層から、石垣をさらに補強し、地震などの衝撃を低減するための「石列(せきれつ)」を約40カ所発見したと発表した。近世に築かれた城郭で、石垣から石列が確認されたのは全国で初めて。市は「石垣の耐震技術や堅固な構造が分かる貴重な発見。福岡城を築いた黒田家独自の技術か、全国の城郭に共通する工法なのか、今後の調査で解明したい」としている。

 石列が確認されたのは城の表玄関だったとされる「上之橋(かみのはし)御門」。昨年7月に始めた門北側の石垣(高さ9・4メートル、幅32・5メートル、奥行き13・2メートル)の修復工事に伴い、表面の築石(つきいし)や築石を支える裏込め石を取り除くため、石垣の頂上から7メートル掘り下げたところ、石列が約10カ所見つかった。石列は1列の長さ約2メートル、幅0・5〜1メートル。築石と垂直に、約2・4メートルの間隔で規則的に並んでいた。さらに掘り下げたところ、下の三つの層からも石列を計約30カ所確認した。

 裏込め石には縦横10センチ程度の小さな石を使っているが、石列は縦横40〜50センチの大きめの自然石を使用。築石の補強とともに、地震の震動を吸収し、小さな石の移動や揺れを抑える目的で設けられたとみられる。

 市は今後、石列をいったん解体し、図面や写真を保存した上で、来年3月までの修復工事で可能な限り復元させる。石列が造られた年代の特定や、各地に残る城郭の類例調査も進める。

 城郭の石垣を研究する高瀬哲郎・元名護屋城博物館学芸課長(城郭史)は「石垣を支える裏込めにも高度な技術を用いていることが分かり、今後の石垣研究や修復の在り方に一石を投じる重要な発見。築石の状態などから石列は築城当初に造られた可能性が高く、築城の名手といわれた福岡藩祖の黒田官兵衛が抱えていた石工集団の技術が生かされたのではないか」と指摘する。

=2013/06/19付 西日本新聞朝刊=

274荷主研究者:2013/07/21(日) 10:48:06

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/24705
2013年07月06日 西日本新聞(最終更新 2013年07月06日 01時59分)
武具櫓と潮見櫓から復元 福岡城跡整備計画、14年度着手

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福岡市が来年度から復元に着手する福岡城の「武具櫓」(同市提供)

 国指定史跡・福岡城跡(福岡市中央区)の整備計画で、市は5日、武具が格納された「武具櫓(ぶぐやぐら)」と、海上からの防御を担った「潮見櫓(しおみやぐら)」の復元に、2014年度から着手する方針を明らかにした。武具櫓は幅約60メートル、高さ12〜13メートルの大型構造物で、石垣を含めた高さは20メートルを超える。市は復元が難しい天守閣に代わる福岡城の象徴としたい考えだ。

 市は同日、有識者でつくる「福岡城跡整備基本計画検討委員会」に、復元する建造物の優先順位などを盛り込んだ計画の原案を提示。建造物の復元は短期(14〜18年度)と、中期(19〜28年度)の2段階で実施し、合わせて5カ所程度の歴史的建造物の復元を目指す。

 短期計画で復元する武具櫓は3層構造で、本丸の南側の守りを固めるため設けられたとされる。大正時代に旧黒田家別邸(中央区)に移築されたが、福岡大空襲で焼失した。写真や文献資料が残存し、市は「復元の可能性が高い」としている。

 潮見櫓は城の北西に建てられた2層構造の櫓で、部材が保存されており、「早期復元が可能で、景観形成にも役立つ」とみなした。

 中期計画では、城の表玄関だった「上之橋(かみのはし)御門」などの復元を計画。天守閣は、写真や絵図がなく「復元が極めて困難」と判断した。

 検討委は9月の次回会合で事業費などを含めた整備計画案をまとめる予定で、事業費は数十億円になる見込み。

=2013/07/06付 西日本新聞朝刊=

275荷主研究者:2013/08/17(土) 08:42:58

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20130807102.htm
2013年8月7日02時42分 北國新聞
二の丸御殿の変遷明らかに 幕末の「最新」絵図確認

最も新しい幕末のものと確認された二の丸御殿の絵図=金沢市立玉川図書館近世史料館

 石川県金沢城調査研究所は6日までに、歴代加賀藩主が居住・執務した「金沢城二の丸御殿」の幕末の絵図2点を特定した。これまで確認された中で、最も新しい時期の絵図で、火災などによる再建のため、たびたび姿を変えた二の丸御殿の変遷が明らかになった。二の丸御殿について、県は金沢城復元の仕上げとなる「究極の建物」としており、復元に向けた足掛かりとなる。

 1631(寛永8)年の大火後に創建された二の丸御殿の絵図は、これまで約70点が確認されている。今回、幕末の1850(嘉永3)年前後の絵図とされる4点を調査。県立図書館が所蔵する2点と金沢市立玉川図書館近世史料館の1点、金沢市内の個人が所有する1点で、それぞれの建物の特徴を比較した。

 金沢城調査研究所によると、県立図書館の2点はそれ以前の絵図と同じく、藩主が日常生活を送る御居間(おいま)の近くに土蔵が描かれており、御居間南側の一部は縁側がコの字形に出っ張った構造となっていた。

 一方、玉川図書館と個人の2点には土蔵が描かれておらず、御居間の縁側が真っすぐ延びる形に変化していた。明治に入って撮影された古写真では土蔵が確認できないことから、玉川図書館と個人蔵の絵図が、最も新しい時期の二の丸御殿の姿を伝えていると判断した。

 二の丸御殿については、谷本正憲知事が昨年2月の県議会定例会での答弁で、「大規模で複雑な御殿であり、史実に沿った復元には史料が十分ではないなどの課題がある」とし、絵図や文献の収集に取り組み、復元の可能性を探る考えを示している。

 金沢城調査研究所は、今回の調査で江戸前期から幕末に至るまでの二の丸御殿の変遷が体系化できたとし、木越隆三所長は「将来的な復元を検討する際の基礎史料が固まった」としている。

 金沢城二の丸御殿 1631(寛永8)年の大火を受け、それまで本丸にあった御殿を二の丸に移し、百万石の藩政の中枢を担った。宝暦、文化の2度の大火で焼け、そのたびに再建されたが、明治に焼失した。一部の遺構は城外に移築され、かつての能舞台は金沢市中村町の中村神社拝殿、表式台前の唐門は尾山神社東神門としてそれぞれ現存している。

276荷主研究者:2013/08/25(日) 12:04:54

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/08/20130817t15024.htm
2013年08月17日土曜日 河北新報
仙台城跡復活 土塀、建築当時の姿に

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修復が完了した土塀

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震災で崩れ落ちた仙台城跡の土塀(市教委文化財課提供)

 仙台城跡に江戸時代から残る唯一の建造物で、東日本大震災で崩壊した大手門の土塀の修復工事が完了した。1年がかりの作業は伝統的な工法と資材を用い、土塀を建築当時の姿に近づけた。

 土塀は1600年代後半から1700年代にかけて建築されたとみられる。仙台城の建造物は、1945年の仙台空襲で大手門が焼失するなど大半が失われた。大手門北側にある全長34メートルの土塀だけが戦火を逃れた。

 2011年の震災で、土塀は11メートルにわたり瓦と壁面が崩れ、内部の粘土が飛び出し、無残な状態をさらした。崩れなかった部分にも壁のひび割れなどが確認されたため、市は同年12月、全面的な修復を決めた。

 市が業者らと協議を重ねた結果、国指定史跡にふさわしい土塀にするため、江戸時代と同様の工法や建築資材で修復することになった。土塀の壁面には以前の修復でモルタルが使われていた。

 修復工事は昨年7月、始まった。塀の中に瓦を重ねて粘土を流し込み、つなぎとしてわらを入れた。壁面にはしっくいを塗った。土塀の強度を高め、往時の風合いを出すことに成功したが、粘土の乾燥に時間がかかり、完了まで1年要した。

 市教委文化財課は「仙台城が築城された江戸時代の景観が取り戻された。実際に土塀を見て、歴史的な価値の高さを実感してほしい」と話した。

278荷主研究者:2013/09/01(日) 15:43:14

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20130830/CK2013083002000015.html
2013年8月30日 中日新聞
規模と構造判明 福井城跡の山里口御門

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上面が平らに加工された石列が見つかった櫓門跡=福井市の福井城跡で

 県が復元を進める福井市の福井城跡の「山里口御門(やまざとぐちごもん)」を構成する二つの門の規模や構造が、県の発掘調査で明らかになった。三十一日に現地説明会を開く。

 調査したのは、本丸への入り口の門として城の防御を兼ねる本丸側の「櫓(やぐら)門」の北半分と内堀側の「高麗門」。県教育庁埋蔵文化財調査センターが担当した。

 二階建ての櫓門からは、上面が平らに加工された石列と浅い溝を備えた石垣が見つかった。このことから、石列と石垣を土台にして横材をめぐらし、その上に柱を建てる土台建ての構造であったことが推測されるという。石垣に刻まれた柱受けの跡から、二階部分は東西に五・六メートル、南北一〇・六メートルであったと考えられる。

 平屋の高麗門からは、当時の地面より一メートル下に礎石が見つかったことから、穴の底に礎石を据え、その上に柱を建てる簡素な建築様式であることが分かった。

 同センター主任の田中勝之さんは「櫓門の全体調査ができ、貴重な情報を得られた」と成果を喜ぶ。

 現地説明会は三十一日午後一時半から。駐車場はない。問い合わせは同センター=電0776(41)3644=へ。

 (塚田真裕)

279名無しさん:2013/09/01(日) 23:00:22
昭和30年代から始まった大坂城の発掘調査は
今もなお続いていますね

280荷主研究者:2013/09/29(日) 23:43:28

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130905/CK2013090502000021.html
2013年9月5日 中日新聞
上野城「城代屋敷」跡の石垣復元

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復元された城代屋敷の石垣=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市中心部にある国史跡の上野城跡で、市教育委員会が十二年がかりで進めてきた「城代(じょうだい)屋敷」跡の調査で、崩れていた石垣が復元された。江戸時代、藤堂(とうどう)藩が伊賀の国を治めた拠点で、現在は観光名所になっている。訪れた人から「城代屋敷って何?」などと問い合わせが多いという。当時、城には天守閣がなく、城代屋敷が城の中心的な施設だ。

 伊賀文化産業協会専務理事で上野城跡に詳しい福井健二さん(76)によると、城代屋敷は百六十年近く前の幕末に起きた安政の大地震で壊れ、城代家老の住まいや台所など私的スペースの石垣が直されず、そのままになっていた。

 姿を現した石垣は高さ約五メートル、幅約三十五メートル。旧上野市時代の二〇〇二年度から、計一億六千万円をかけ、屋敷跡の発掘調査と合わせて復元した。

 市教委文化財室によると、城跡にころがっていた石や、材質がよく似た菰野(こもの)町産の石を使い、当時の絵図などの資料を参考にして積み上げた。市中心部の再開発ビル「ハイトピア伊賀」などを建設する時、出てきた東大手門の石垣も再利用。石垣の上部には、かつて火をたくためのまきや食料を入れる倉があり、倉の名称も表示した。

 石垣の近くには、昭和初期に建てられた観光名所の伊賀上野城の大天守閣がある。「訪れた人から『あの石垣は何ですか』などと毎日のように質問がある」という。

 福井さんや文化財室によると、天守閣は江戸初期の一六一二年、暴風雨のため倒壊し、再建されなかった。その後、城代家老が執務する城代屋敷が城の中心となり、文化財室の担当者は「江戸時代の人々が、お城といえば、城代屋敷を指した」と説明する。

 市教委は今後さらに二年をかけ、屋敷跡の調査などを進め、長期間にわたる調査の集大成として報告書にまとめる。

 (酒井直樹)

 <城代屋敷> 文化財室によると、安土桃山時代、伊賀を治めた筒井定次(さだつぐ)が、盆地の中心部の標高160〜180メートルの丘陵に築いた平山城の天守近くに位置する。政務の場である「表」と、生活の場の「中奥」「奥」がある。藤堂采女(うねめ)家などが城代を務めた。

281荷主研究者:2013/10/06(日) 12:16:36
>>91 >>159 >>172 >>260
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20130915/CK2013091502000051.html
2013年9月15日 中日新聞
どう復元?どう安全確保? 小牧山城「信長の石垣」

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山頂で見つかった石垣。小牧市は復元する方針だが安全性との両立が課題となる=小牧市の国指定史跡「小牧山城」で

 織田信長が築いた小牧市の国指定史跡「小牧山城」山頂で見つかった大規模な石垣。市は本年度で石垣の主要部分の発掘を終え、市民や観光客に見てもらうための復元に入る。どうやって建造当時の状態を忠実に再現し、安全を確保していくか−。整備には難題が待ち構えている。

 石垣は二〇〇八年から始めた発掘調査で発見された。もともと、信長が一五六三年に築いた小牧山城は、土を盛り上げただけの中世の山城と思われていた。石垣が見つかったことで、近世の城郭のルーツとされ、後に信長が築いた安土城(滋賀県)にも大きな影響を与えたと考えられるようになった。

 担当の市教委考古学専門員、小野友記子さんは「四百五十年の眠りから覚めた信長の石垣」と表現する。観光資源に乏しい市は石垣を組み直して復元。新たな観光スポットとして売り出す方向だ。

 復元には「当時に近い状態に」と、史跡を管理する文化庁から注文が付いている。これが非常に難しい。

 小野さんによると、平均約二トンの石を積み上げた当時の工法はいまだ未解明。「全国の誰に聞いても、分からないのでは。『だいたい、こうだった』という再現では文化庁は許してくれない」と小野さんは悩む。

 切っていない自然の石を積み上げているため、石と石がかみ合っていない部分が多く、崩れて落ちる危険性は高い。安全を優先して四角く切った石をがっちり組み合わせては、当時と状態が全く異なってしまう。小野さんは「歴史の真実性と安全性の両立が問題」と頭を抱えている。

 さらに、石垣を回るコースの設定も難しい。安全に見てもらえて、なおかつ山頂からの景色も楽しめるコースはどこか。復元費用のうち半分は国から補助が出るが、残り半分の市の負担はどれくらいかかるのか。検討課題は多岐にわたる。

 山下史守朗市長の肝いりで、市は二十一〜二十三日、小牧山城築城四百五十年を記念した「こまき信長まつり」を繰り広げる。石垣は現在、保護のため再び土の中に埋め戻され、祭りで訪れた人は実物を見られない。発掘の様子を紹介するパネルを現場に展示し、しのいでいる。

 市長は「きちんと整備するので、もう一回来てくださいと言うしかない。なるべく早く整備し、新たな市の名所にしたい」と話す。祭りの盛り上がりを一過性で終わらせず、より広く市民に石垣の存在を知ってもらうには、早期の整備が必要との認識だ。

 歴史の専門家でつくる史跡小牧山整備計画専門委員会で方法を審議してもらうなど、来年度から整備の検討に入る。文化庁とも協議を進める方針。

 ただ、いつまでに完成させるかといったスケジュールも含め、白紙の状態だ。小野さんは「文化庁の指示もあって慎重に進めないといけないが、見てもらうことで価値が出る。なんとか、復元と安全を共存させたい」と心に決めている。

◆記者の目

 前任地の静岡市では、二〇〇九年八月の駿河湾地震で駿府(すんぷ)城跡の石垣が崩落している。四角く切った石はがっちりと組み合っているように見えたが、地震の前にはもろかった。小牧山に復元する石垣には、安全最優先を望みたい。

 (加藤隆士)

282荷主研究者:2013/10/20(日) 12:28:15

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131005t53007.htm
2013年10月05日土曜日 河北新報
石垣の一部?発見 切り石数個積まれる 米沢・舘山城跡

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本丸付近の遺構から見つかった切り石から成る石積み

 仙台藩祖伊達政宗ら伊達家3代が米沢支配時代(1548〜1591年)に本拠とした可能性がある舘山城跡の発掘調査で、米沢市教委は4日までに、本丸跡付近の石塁とみられている遺構の下部から、数個の切り石から成る石積みを発見した。石垣の一部とみられる。

 石積みは2カ所の遺構のうち、1カ所で見つかり、7、8個の切り石が積まれていた。一つの石の大きさは推定で縦約60センチ、横約90センチ、奥行き約60センチ。切り石の上部には大量の丸みを帯びた石が積み重なっていた。

 市教委は切り石の形や積み方から、石垣の一部ではないかとみて、丸みを帯びた石との関連性などを精査をしている。

 舘山城は晴宗、輝宗、政宗の伊達家3代の本拠地だったとみられるが、文献の裏付けが少ない。

 市教委は二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地する仙台城との酷似点に着目。二の丸などの居館を周辺に配する構造は、岩出山城とも共通していることから、仙台城の原型とみて調査を続けている。

 本丸跡の本格的な発掘調査は7月に着手。これまで石塁と見られる遺構の周辺から大量の丸みを帯びた石、柱穴とみられる四つの遺構、土鍋片約20点などが見つかった。

284荷主研究者:2013/11/10(日) 14:50:49

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131026t15043.htm
2013年10月26日土曜日 河北新報
若林城跡で堀跡と薬園建物跡発見 歴史裏付ける史料 市教委

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堀跡と御薬園内の建物跡が見つかった若林城跡の調査区域。左側の溝が堀の跡(仙台市教委提供)

 仙台市教委は25日、伊達政宗が晩年を過ごした若林城跡(若林区、現宮城刑務所)で、城内に水を引き込んだとみられる堀跡と、廃城後に造られた薬草を栽培する「御薬園」内の建物跡が見つかったと発表した。仙台藩正史「伊達治家記録」の記述などを基に推察されていた城の歴史を裏付ける史料という。

 堀跡は全長410メートルで、幅約1.5〜2メートル、深さ約2メートル。1628年の築城と同時期に造成され、庭園や池に外堀から水を引いていたとみられる。

 御薬園内の建物跡は東西約15.7メートル、南北約3メートル。礎石の上に柱を建てる強固な構造体「礎石建物」だった。市教委は、薬を精製する作業場などとして使ったとみている。

 若林城は、政宗の遺言により築城から8年後に解体された。周囲に高さ5メートルの土塁と幅20メートルの外堀を設けており、戦を意識した造りとの説もある。絵図は残っておらず、市教委は2004年から発掘調査を行っている。

 市教委は11月2日午前10〜11時と午後1時半〜2時半、市民向けの見学会を開く。参加無料。連絡先は市文化財課022(214)8544。

285荷主研究者:2013/11/17(日) 13:31:30

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20131031/CK2013103102000158.html
2013年10月31日 東京新聞
前橋城一部復元を 歴史遺産活用委が中間報告 五輪や世界遺産見据え

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門の復元案がある前橋市史跡の前橋城車橋門跡=前橋市で

 前橋市の歴史発信の在り方を検討する「歴史遺産活用委員会」のプロジェクトチーム代表者会議が三十日、市役所であり、前橋城跡の門や土塁を一部復元することなどを盛り込んだ中間報告をまとめた。東京五輪や富岡製糸場などの世界遺産登録に備え、観光客にあまり知られていない城跡などの魅力をアピールする考えだ。

 前橋城は戦国武将の上杉謙信が陣を置いた城として知られ、江戸時代には有力大名の酒井、松平両家が藩主を務めた。しかし、廃城後に取り壊されて県庁が置かれ、遺構はほとんど残っていない。

 中間報告では、県警や県庁の北側に残る土塁を見学しやすいように延長して復元。城跡一帯に同市総社町に残る城門を移築するか、再現した城門をつくる。石垣が残る市役所近くの車橋門跡の城門も復元し、一帯を整備する案もある。

 市出身の詩人・萩原朔太郎の銅像をJR前橋駅前に建立したり、市郊外の敷島公園にある朔太郎宅を、中心街で朔太郎の資料を展示する市立前橋文学館前に移築したりする案も盛り込まれた。

 活用委は八月、観光誘致に力を入れる山本龍市長が発足させた。有識者三十二人の委員が十分野のチームに分かれて議論し、三十日はチームの代表十人が出席した。チーム代表で、前橋藩主だった松平家の子孫、松平直泰(なおやす)さん(69)=同市=は「観光客や子どもたちに歴史を伝える展示スペースも必要」と指摘した。

 活用委は来年度をめどに山本市長に報告書を提出する。 (菅原洋)

286荷主研究者:2013/12/01(日) 00:22:30

http://kumanichi.com/news/local/main/20131115006.shtml
2013年11月15日 熊本日日新聞
「八代城跡群」が国史跡指定へ 文化審が答申

国史跡指定へ答申された八代城跡群の一つ、八代城跡の本丸入り口=八代市

 国の文化審議会は15日、中・近世に八代市の球磨川河口域に築かれた古麓[ふるふもと]城跡と麦島城跡、八代城跡の「八代城跡群[しろあとぐん]」を国史跡に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。複数の城跡群を一括指定するのは県内初で、来年春に指定される見通し。

 古麓城は南北朝〜戦国時代に名和[なわ]氏と相良氏が築城した山城で、天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州征伐で滞在。麦島城は、小西行長が古麓城に代わって、球磨川水運の結節点である河口の「徳渕[とくぶち]の港」に隣接して築いた。総石垣造りで、関ケ原の戦いの後は加藤清正の支城だった。

 麦島城が元和5(1619)年の地震で倒壊した後、加藤家の筆頭家老・加藤正方[まさかた]が北側に築いた八代城は、肥後藩主・細川忠利の父・三斎が入城、熊本城とともに肥後二城体制を支えた。答申は、麦島城の瓦を焼いていた平山瓦窯跡も含む。

 同審議会は「肥後南部地域の政治権力による港湾・水運の掌握の様相、中・近世の城郭構造の変遷を知る上で貴重」と評価した。指定されれば県内の国史跡は41件となる。

 同審議会は、室町幕府と伊達氏の結び付きを示す宮脇廃寺跡(福島県)など史跡・名勝・天然記念物と登録記念物、重要文化的景観の計22件もあらたに指定するよう答申した。(高橋俊啓)

287荷主研究者:2013/12/28(土) 23:42:26

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/54767
2013年11月27日(最終更新 2013年11月27日 01時17分)西日本新聞
福岡城跡整備67億円 2028年度まで、市が概算 [福岡県]

福岡城跡の将来的な整備イメージ。右が大濠公園側(福岡市提供)

 福岡市は26日、国指定史跡「福岡城跡」(中央区、約48ヘクタール)の整備基本計画検討委員会を開き、来年度以降の具体的な整備事業計画の修正案を示した。計画期間は15年間で、発掘調査や植栽、園内の歩道などの環境整備などを含めた総事業費は概算で67億円余りを見込む。期間を短期(2014年度〜18年度)と中期(19年度〜28年度)に分け、武器を収納した武具櫓(やぐら)など7件を復元する。

 修正案では、18年度までに、海からの防御を担った「潮見櫓」を復元。幅約60メートル、高さ12〜13メートルと大型で、城跡の象徴となる「武具櫓」も復元に着手する。

 28年度までに復元するのは、他に太鼓櫓▽祈念櫓▽本丸裏御門▽上之橋御門▽扇坂−の五つ。将来的には、石垣が残る本丸と二の丸の城郭を前面に出した整備を描いており、復元と同時に進める発掘調査で、その存在や形などが確認できた遺構の復元も検討する。

 整備にかかる費用は概算で短期整備が約21億7千万円、中期整備が約45億7千万円で、市は事業費確保へ市民の募金など協力を広く呼び掛ける方針。委員からは「観光資源としての維持管理の態勢こそ重要」「市民参加の機運をもっと盛り上げないといけない」などの意見が出た。

 市は基本計画のパブリックコメントを来年1月に実施し、年度内に案を正式決定する。

=2013/11/27付 西日本新聞朝刊=

288とはずがたり:2014/01/19(日) 17:01:17

日本バプテスト病院に程近い北白川仕伏町に住んでいた俺だが将軍地蔵なんかあるの知らんかったぞ。。
周囲にあったと認識しているのは狸谷不動尊,京都造形短大,北白川天神宮と勿論慈照寺。。

将軍山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%B1%B1%E5%9F%8E

将軍山城(しょうぐんやまじょう)は、現在の京都市左京区北白川清沢口町(当時は山城国愛宕郡)にある瓜生山(標高301m)に築かれた戦国時代の山城である。別名北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう)、勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう)とも呼ばれている。

概要

将軍山城は瓜生山の山頂を本丸とし、近江より上洛する際の前線基地としての役割をもっていた。『ニ水記』(永正17年(1520年)5月30日条)によると、細川高国が初めてこの城に陣を構え、その際戦勝を記念して将軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。将軍地蔵は宝暦12年(1762年)に現在の日本バプテスト病院の西側(左京区北白川瓜生山町)に移転されて、信仰の対象とされている。

沿革

この城の初見は永正17年(1520年)である。越水城の合戦で敗れた室町幕府管領細川高国は京都を離れ近江円城寺に逃亡していたが、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、永正17年5月2日、初めてここに陣を構えた。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れで享禄4年6月6日(1531年7月19日)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取された。

天文15年(1546年)冬になると第12代将軍足利義晴と細川晴元が対立するようになり、義晴自身がこの城を大幅改修した。城に米や普請人夫を徴発したり、太さ五、六寸の竹を命じたことが、様々な史料から確認できる。『日本城郭大系』によると「当城はその修築の際に要した労働力や資材の調達を文献で裏づけることができる稀有の中世城郭である。幕府は当城の修築のため、洛中・洛外の寺社や権門を通じて京都近辺の人夫をほとんど総動員の形で徴発したものと思われる」とし、戦国時代の修築方法を古文献で知ることが出来る珍しい城であると解説している。
修築をした将軍山城であったが、翌天文16年3月30日(1547年4月20日)、義晴は征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城するものの、晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちした。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出した。

その後幕府は軍勢の拠点を中尾城、霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかった。

289とはずがたり:2014/01/19(日) 17:01:54

>晴元は吉田に、援軍の六角軍は北白川に留まり
確かに吉田と北白川は洛外だけど幕府軍(細川・足利軍)が吉田と北白川という殆ど京都に居て三好軍は上洛して一体何処に居て小競り合いで済んだんだ?洛中の公家屋敷のある辺りに駐留してたんかね?

大文字山登る途中に中尾城の説明書きが書いてあった。大文字登るだけのちゃらっとしたコースよりだいぶ山奥で京都を上から迎撃できる良さそうな気配だった。在京中に行っておけば良かったよ・・。

中尾城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

天文18年(1549年)6月の江口の戦いに敗れた細川晴元は京都へ退却すると、室町幕府13代将軍足利義輝とその父で大御所足利義晴を連れて京都から逃げ出し、近江守護六角定頼を頼り琵琶湖西岸の坂本へ移動した。代わって晴元に勝利した元家臣の三好長慶が7月に上洛、将軍を失った幕府に代わり京都の行政を取り仕切るようになり、危機感を募らせた義晴は京都復帰を目論み、10月18日に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城の建設を始めた。翌天文19年(1550年)5月4日に義晴は病死したが、子の義輝も打倒長慶を誓い6月9日に晴元と共に中尾城へ入城、7月8日に東山の麓の吉田・浄土寺・北白川へ出兵した。

14日、三好長逸・三好弓介・十河一存ら1万8000人の三好軍が上洛、幕府軍も応戦して市街戦となった。しかし、主力の晴元は吉田に、援軍の六角軍は北白川に留まり動かなかったため、足軽100人だけが出撃して小競り合いに終わった(東山の戦い)。この時、弓介の与力1人が幕府軍の鉄砲に当たり死んだ話を公家の山科言継が聞きつけ、日記に書いた記録が日本初の鉄砲使用例とされている。

市街戦は小競り合いだけの戦闘で両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほど進展は見られず、10月20日に三好軍が再度上洛、東山の幕府軍と交戦、これも小規模な戦に止まった。しかし、11月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、11月19日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、近江への派兵も企て20日に松永長頼を近江へ向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。敵が琵琶湖周辺に進出したため後方を脅かされることを恐れた義輝は撤退を決断、21日に中尾城を焼いて坂本、次いで坂本から北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の23日に三好軍が入り破却された。
義輝が近江へ撤退したため長慶は当面京都の安全を確保出来たが、天文20年(1551年)になると2度の暗殺未遂事件に遭遇、それに乗じた幕府軍の京都襲撃が起こり、再び長慶は防衛戦に向かわねばならなくなった。

290とはずがたり:2014/01/19(日) 17:12:13
>>289
>市街戦は小競り合いだけの戦闘で両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほど進展は見られず、10月20日に三好軍が再度上洛、東山の幕府軍と交戦、これも小規模な戦に止まった。しかし、11月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、11月19日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、近江への派兵も企て20日に松永長頼を近江へ向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。敵が琵琶湖周辺に進出したため後方を脅かされることを恐れた義輝は撤退を決断、21日に中尾城を焼いて坂本、次いで坂本から北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の23日に三好軍が入り破却された。
長慶も本気で闘ってないね〜。
脅して退くなら退かせようと云った感じか。
それとも江口の戦いで晴元を打ち破った直後で都落ちさせたとはいえまだまだ管領晴元と将軍義輝を憚るところがあったか?

291とはずがたり:2014/01/19(日) 17:48:20

羽曳野市古市にあった河内守護畠山氏の根城,高屋城。

戦国期畿内最大規模の会戦である教興寺の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%88%88%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84に対して,応仁の乱以降、鉄砲が伝来するまで畿内最大の戦いと言われている舎利寺の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84と云われるけど,舎利寺の戦いで闘った河内守護代遊佐長教とはこの後の高屋城で籠城戦をするが結局長教の娘と政略結婚して其れ迄父の仇敵ながら臣従してきた晴元と最終的に袂を別った事で三好政権が成立することになる。
どうせならもっと早く手を結んどけば良いのに,戦国時代(の畿内?)って可成り殺し合いしてからその相手と組んで自分の主君と反抗とかそんなんばっか。。

高屋城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E
高屋城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
三好康長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7

応永年間に畠山基国が管領になり、安閑天皇陵を流用して築かせたもの。守護代の遊佐氏が城代を務めていた。応仁の乱以後は守護職の畠山氏の居城となるが、畠山氏・安見氏・三好氏の三勢力の争奪戦が繰り広げられ、城主が頻繁に入れ替わった。天正3年(1575年)に織田信長の猛攻を受け落城。その後廃城となる。城の規模は南北に800m、東西に450mあり、土塁と堀で仕切られている。

高屋城の城主は河内の守護を兼ねていた人物が多く、10名前後、30回以上入れ替わっており、平安の時は少なく交替が頻繁におこる。特に畠山義英、畠山尚順、畠山稙長の畠山氏の家督騒動の50年間は、それぞれで4、5回城主が交替しており、交代後畠山義英は誉田城、交野城へ、畠山尚順、稙長父子は広城(和歌山県広川町)、大和に退避していた。

永禄元年(1558年)に安見宗房が守護代となっていたが、三好長慶が永禄2年(1559年)に高屋城を落城させ、畠山高政を高屋城を城主に、河内国守護代に三好方の湯川直光にすえた。しかし、長慶に救援してもらったにもかかわらず畠山高政は湯川直光を免職、安見宗房を守護職に復権させた。これに憤慨した長慶は翌永禄3年(1560年)に高屋城を落城させ、河内の支配を手中にし、弟の三好義賢を高屋城に据えた。
しかし、またしても翌永禄4年(1561年)に高政が高屋城を奪回、翌永禄5年(1562年)に高政が教興寺の戦いで敗れると長慶の甥の三好義継が城主となった。三好三人衆と仲違いして対立する松永側についた義継は高屋城を離れ、永禄10年(1567年)に義継と松永久秀が東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆に勝利、翌永禄11年(1568年)に隙をつき三人衆側の三好康長が入城したが、同年9月28日に芥川山城が織田信長によって落城すると、康長は阿波に落ち延びていった。

畠山高政は信長と和を結び4度目の城主となり、家督は弟の畠山昭高に譲り河内半国守護となる。しかし、元亀3年(1572年)に遊佐信教の下克上にあい、昭高は自害した。これに激怒した信長は大軍をもって高屋城を攻城し、信教を追い出し昭高の嫁となっていた妹の救出に成功した。半年後の同年秋、(反信長同盟に参加していた義昭側の)三好康長が(再び入城して)高屋城を修繕した。天正元年(1573年)に義昭が信長に敗れ追放、続いて義継が討たれ本家が滅亡、久秀が降伏して三人衆が壊滅した後も三好一族の中では最後まで抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月8日、再び織田軍の攻城を受け三好康長は信長の側近であった松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。三好長康は同年7月には、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。以後は信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられたりしている。

信長公記はこの時既に「もはや本願寺の落城は時間の問題となった」としているが、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は4月21日に帰京し、長篠の戦いへと赴いた。
河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。

292とはずがたり:2014/01/19(日) 17:53:48

細川高国の敗死の遠因となる細川尹賢の香西謀殺の理由詳細はこんなんやったのか


神尾山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E

神尾山城(かんのおさんじょう)は、京都府亀岡市宮前町宮川にあった城。柳本賢治の居城で、その後明智光秀の丹波攻めの基地になったのではないかと思われる。

神尾山城は金輪寺の裏山にあった山城で、金輪寺の周辺には極楽坊跡、竹中坊跡、宝蔵坊跡、東柳坊跡など数多い寺坊跡があり、天台密教の霊地で今も石垣がそのまま残っている。神尾山城はその聖地に築城され、巨石怪石を利用した特徴のある大形山城であった。

神尾山城が史上に現れるのが八上・神尾山両城の戦いの時で、大永6年(1526年)の初旬、細川尹賢が摂津で築城していた。この時の様子を『足利季世紀』では「尼崎ノ城」(大物城)と記述されているが、『新修 大阪市史第2巻』によると典厩家の本拠は中嶋で尼崎は含まれていないので、堀城の誤りではないかと指摘している。この城の作事に香西元盛も加わっていたが、細川尹賢の人夫と香西元盛の人夫が「土一簀」で口論となり、双方の人夫が喧嘩をはじめた。いったん両者とも引き分けたが、腹の虫が収まらなかった元盛の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、尹賢の憎悪感は頂点になった。
尹賢は元盛が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君細川高国に差出、驚いた高国は同年7月13日に元盛を謀殺した。激怒した元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は高国に反旗を翻し、八上・神尾山城両城の戦い、桂川原の戦いに続いていく。

その後柳本賢治は中嶋の戦いで暗殺され、高国は大物崩れで細川晴元・三好元長らに敗れて自害、尹賢も殺害され一旦城史は不明となるが、『証如上人日記』によると天文15年(1546年)、細川晴元は三好長慶が擁立した細川氏綱(尹賢の子、高国の養子)に敗れ「丹波カンノチ」(神尾山城)へ没落と明記されているが、これは氏綱方の上野元治が足利義晴を迎え取ろうと同年9月13日に入京し、これに危機感を覚えた晴元が丹波へ落ち延びており、この時の記述ではないかと思われる。その後晴元は丹波を出国、摂津に入国し神呪寺城、越水城へ移動し、舎利寺の戦いに繋がっていく。

293とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:08
再び長慶ネタ
知将長慶も落とせなかったしぶとい政勝の立て籠もった要害榎並城♪
場所はこの辺らしい。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.32.30.124N34.42.19.599&ZM=11
最近はもう消えてしまったと思ってた榎並という地名が小学校名に残っているも良い

江口の戦いで政勝の父,政長が殺された後,政勝は瓦林城(西宮)に逃げたとあるが,西宮には長慶の本拠地でもある越水城があったのになんだか可怪しい感じである。。

榎並城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E4%B8%A6%E5%9F%8E
榎並城(えなみじょう)は、大阪市城東区にあった城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城とも言った。

榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。この地は古来「榎並荘」と言われる旧大和川右岸と淀川の合流地点で、低地にあり淀川が氾濫すると被害を受け野江水神社一帯だけがわずかに高台になっていた場所に築いたのではないかと思われる。しかしその城跡も元禄17年(1704年)年2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。

三好時代
城として明確に記述されているのが『細川両家記』で、天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの先端がひらかれたのが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。

石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られその支城の中に「野江」という名前が見受けられる。これにより「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最有力である」とされている。

野江水神社
この地は度々大きな水害に悩まされていたが、榎並城を築城している最中にも水害にあい、それを鎮めるために三好政長が守護神として城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと言われている。この時の社の位置が現在の社殿の位置と言われている。

河内十七箇所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%8D%81%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%89%80

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。

概要

文禄3年(1594年)の文禄堤完成までは淀川には現在の寝屋川市大間(現代はttp://tohazugatali.iza-yoi.net/OSAKA/R170/r19-000.html#3である♪)付近から南流する支流が存在した。この支流は宝永元年(1704年)に付け替えられるまで北流していた大和川と大東市住道付近で合流して西に流れを変え、大阪市の天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。(現在の寝屋川、古川はこの名残である)
茨田郡はこの淀川南流によって東西に二分されていたが、この西半分が河内十七箇所に当たる。仁徳天皇の時代に築かれた茨田堤はこの茨田郡西部を水害から守る囲堤防、すなわち輪中であった。
寝屋川9箇庄(旧九箇荘村)、大庭、大窪、門真の12箇庄を上郷と呼び、下仁和寺、小高瀬、寺方、橋波、稗島の5箇庄を下郷、あるいは五ケと呼んだ。五ケの呼称は明治頃まで使われたようである。他に下郷に門真庄を加えて下六ケとも呼ばれた。

294とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:41
>>293-294

三好政勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D

三好 政勝(みよし まさかつ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、旗本。摂津榎並城主。三好氏傍流の三好政長の子で、『寛政重修諸家譜』によれば、名は一任(まさとう)。

生涯

天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。

戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。

やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に、和泉の織田方の城を落したり、将軍義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている。降伏によって信長から摂津豊島郡をあてがわれたが、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した。

しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西越後守(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。

本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として大和で2020石を領した。その後は大坂の陣にも出陣し、96歳の長寿を全うした。
このしぶとさと処世術からか、真田十勇士の1人・三好伊三入道のモデルとされているが、真田氏とは縁はなかった。

295とはずがたり:2014/01/20(月) 20:51:23

榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)①
舎利寺の戦いの後の高屋城攻防で和睦したとはいえ直ぐに晴元に叛旗を翻すのは大義が無かったのか,晴元と袂を別つには一族で親晴元の三好政長・勝長を除くと云う段取りを必要としたようである。

江口の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

三好氏の内部確執
三好長慶は細川晴元の政権下で太平寺の戦い・舎利寺の戦いなど戦功を積み重ね、三好氏の総帥としての地位を着実に固めてゆくにつれて、晴元に深く信頼される一族の長老・三好政長の存在は、長慶にとって無視できなくなってきた。そもそも主君である晴元は本来父の敵であり,晴元に代わって管領に担ぎうる氏綱とも舎利寺の戦い後の高屋城包囲戦での和睦時に河内守護代遊佐長教の女と政略結婚していたため関係が出来ていた。
そんな中,天文17年(1548年)5月6日に摂津国人池田信正(政長の娘婿)が晴元の屋敷で切腹させられた一件も政長の讒言が疑われ、遺児で政長の外孫でもある長正が後を継いだことは晴元の介入に対する他の摂津国人の反発を招いた。

天文17年8月12日、長慶は晴元の近習(田井源介、平井丹後守など)に対して三好政長・政勝父子の誅殺を願い出た。一族の統率を乱す不届者を除くというのが表向きの理由だった。しかし、この長慶の申し出を晴元は聞き入れず、前日の11日に信正の居城だった池田城で内紛が起こり、家臣団が政長派を城から追放して長慶に合力を誓ったため事態は一触即発となった。

そこで長慶は、(漸く)晴元に敵対する細川氏綱の陣営に転属。舎利寺の戦い後の和睦で岳父となった河内守護代・遊佐長教らに出兵を求めつつ、自身も軍事行動を開始した。これに対して近江の六角定頼(晴元の岳父)はこの行動を「謀反」とする一方で、晴元は和泉守護細川元常、岸和田兵部大輔、紀伊の根来衆らに出兵を求めた。長慶には氏綱・長教を中心に和泉の松浦興信、丹波守護代内藤国貞、大和の筒井順昭、池田長正を始め摂津国人の多くが味方に付いた。晴元・政長には茨木長隆・伊丹親興など少数の摂津国人と六角定頼ら周辺の大名が与同した。

摂津戦線の攻防
長慶は10月28日に摂津越水城を出発、政長の拠点である幕府の御料である河内十七箇所へ進軍し、十七箇所の拠点で政勝が籠城する摂津欠郡の榎並城(城東区野江付近)を包囲、そのまま越年して翌年の天文18年(1549年)2月18日に堺で長教と会談して協力を取り付け、26日に一旦尼崎に兵を進め十七箇所へ戻った。一方、政長は摂津国人の大半が長慶方となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り桑田郡から摂津北部へ侵入、猪名川流域を南下して川辺郡の塩川城(一庫城、山下城)で兵を増やし、1月24日により南の池田城を攻撃、伊丹親興の支援を受けて十七箇所へ迫った。

しかし長慶は3月1日に榎並城の西側に位置する摂津中嶋城(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%9F%8E場所については榎並城同様地形が変わってしまっていてよく分からないようだが十三公園,北野高校前付近のようだ。この辺は淀川区。今,中島という地名は西淀川区にあるが関係ないようだ。寧ろ西中島南方の中島がこの中島か♪で城の前にあった中津川は今は川を挟んで向こう側のイメージのあの中津なんか♪)に兵を送り、政長派の細川晴賢(細川政賢の孫)がいる堀城(中嶋城に同じ)と榎並城の中間の柴島城(阪急の柴島というか柴島中学校付近。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%B3%B6%E5%9F%8E)を攻めさせ、救援に来た政長を破り柴島城も落として榎並城に追った。政長は伊丹親興の居城伊丹城に退却、長慶は榎並城の包囲を続けたが、堅牢で兵糧も豊富にある榎並城は包囲を持ちこたえ、4月になっても落城する気配が無かった。

4月初め、晴元は近江へ出向き六角定頼と結び欠郡への援軍派遣を取り付けると、政長と同じ道を通り丹波から北摂津、猪名川へと進軍、4月26日に塩川城に入ると、28日に武庫郡に出兵して(長慶の拠点の越水城のあった?)西宮一帯に放火し後方撹乱した。翌29日には伊丹城の政長・親興軍も城から打って出て尼崎にて放火、5月1日には富松城(http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/tomatujo/tomatujo.html)も攻めたが落城させることは出来ず退却した。晴元の狙いは越水城と中嶋城の三好軍を分断し、榎並城にいた政勝を援護することだった。

296とはずがたり:2014/01/20(月) 20:52:38
>>295-296
榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)②

攻勢に出た晴元は、5月2日に三宅城(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%9F%8E大阪府茨木市にあった城。宅地化、農地化がすすんで遺構などは存在せず、推定地として蔵垣内3丁目および丑寅2丁目が有力である。城の周りには堀をめぐらした可能性があり、「堀田」「蓮池」「大名寺池」という堀や城の存在を匂わせる地名が存在している。が、近年の区画整理事業の為、全く形が変わってしまった、あるいは埋められて、遺構や城の片鱗をしのばせるものは無くなってしまった。)の守将香西元成に命じ、味方の六角軍の来援に備えて芥川山城(高槻市三好山にあった。三好方の城があったから三好山なのであろう。。)を攻めさせた。この城は摂津北東に位置する城で山城と摂津の国境付近にある重要拠点でもあり、城主の芥川孫十郎が長慶に与していたため政長と晴元は迂回行軍するしかなかったのである。しかし、香西元成の軍勢が惣持寺の西川原(R171と安威川の交叉付近?)で三好長逸の軍勢に阻止されると、今度は5月5日に政長が伊丹城から三宅城へ入城、5月28日には晴元自身が塩川城から三宅城に入って政長を後援した。

6月の戦況
ここまでの経過で晴元軍は摂津の城を転々としながら戦場へ接近したが、単独で三好軍に挑めないため、ゲリラで三好軍を牽制しながら六角軍の来援を待つ姿勢を取っていた。一方の三好軍はゲリラを気にせず、十七箇所近辺を平定しつつ榎並城を包囲していたが、城方が用意を整えていたため5月の時点でも落とせず、両軍共に決め手が無く長期化していった。
6月になると戦況に変化が起こった。6月11日に政長が三宅城を出て江口城(現在も地下鉄井高野駅付近に神崎川を挟んで北江口と南江口の地名有り)に入ったのである。江口城は北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地だった。政長の出兵目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図り、合わせて三宅城と榎並城の通路を確保して近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と相対することだった。
だが、江口城には致命的な弱点があった。北(安威川or神崎川)・東(淀川or淀川)・南(神崎川or淀川)は川に囲まれた要害であるが、水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点もあったのである。長慶はすかさず江口城を包囲してその糧道を断ち、かつ江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村(摂津市・別府の地名有り)に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させた。

江口合戦

戦端は6月12日に開かれた。近江から馳せつけた政長方の近江朝妻城主新庄直昌が江口で戦死したが、政長と晴元らは六角軍の来援を期待して守勢を通した。六角定頼は更に増兵を決定、子の義賢に率いられた近江軍1万は、6月24日に山城と摂津の国境付近の山崎(山崎から江口城までは半日の行程)に到着する見通しとなった。

24日、六角軍が江口城に到着する直前をとらえ、躊躇する長慶に対して十河一存が六角到着前の決戦を主張し攻撃開始,長慶も続き東西から江口城の政長を急襲した。既に長陣で疲弊していた政長軍は江口城を支えることができず、政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にした。一説に、政長は淀川を南へ下り榎並城に避難しようとして淀川で水死したとも言われている。

戦後の影響

江口城における政長の戦死により、彼を支援して三宅城にいた晴元は、丹波を経由して翌25日に戦わずして帰京した。しかし長慶の追撃を恐れ、前将軍足利義晴・13代将軍足利義輝父子らを伴って近江の坂本へ避難した。これに随行した細川晴賢(堀城主)と細川元常(和泉守護)の領国の和泉は、労せずして長慶の手中に落ちた。また、政勝は榎並城を放棄し瓦林城(西宮)まで撤退、残った反長慶派の伊丹親興は居城伊丹城を三好軍に包囲され、翌天文19年(1550年)3月に和睦したため長慶は摂津の平定も果たした。
政長と連携して晴元政権を支えていた茨木長隆も政長の死に伴って没落するが、その後長慶(細川氏綱)方へ帰順し、奉行人となった。

勝利した長慶は氏綱を伴い7月9日に上洛、事実上京都を手中に収めた。しかし晴元・義晴らは坂本と京都東山(中尾城)を根城として長慶に抵抗、政勝と香西元成らも晴元と合流して京都への出兵を繰り返し、長慶も(京に対しては大山崎を拠点に)晴元らの迎撃及び彼らに呼応した外敵の討伐に当たった。以後数年間長慶は山城と摂津を中心に戦闘を繰り返していくことになる。

297とはずがたり:2014/01/25(土) 16:52:56

細川高国以後廃絶したとも考えられる管領職であるが,その時代に,唯一の一次史料で確認できる管領代として幕政に大きな影響を与えたのが六角定頼である。(事実上の管領代として大内義興,茨木長隆,三好長慶等が挙げられるが史料的に管領代就任の記載は確認できないそうな。大内は家格的にも機能的にも管領代でいいと思うんだけど)

六角氏はしばしば幕府側に攻められてるけど,定頼の父高頼の時の義尚の遠征時には観音寺城を抛棄して甲賀の山中に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込んで粘り勝ち(義尚病死で中止)した。

定頼の子及び孫の義賢・義治父子の代に観音寺騒動で城を追放となり以後廃絶したようである。

その間の定頼の時に六角氏は最盛期を迎え,足利将軍家,細川京兆家等と姻戚関係を結び,義晴に政治上の相談を受け,観音寺の城下町は楽市楽座が布かれ,更に桑実寺に京を逃れた将軍義晴が近江幕府を3年程開いており,一時的に首府の様相を呈していたようである。

隣の安土に信長が本拠地として築城し,更にその隣の近江八幡が秀吉の跡継ぎとして秀次が築城したが何れも天寿を全うせずに斃れこの地が都として遺憾なく本領を発揮しきれなかったのは多少残念である。
序でに云うと安土と近江八幡の合併が安土側の事情で一旦破談になり安土八幡市となる予定が結局近江八幡として吸収合併のような形で実現してしまったのもかなり残念である・・。

幻の観音寺城
http://www.azuchi-study.com/kannon2.htm

298荷主研究者:2014/01/26(日) 18:57:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20140107/CK2014010702000010.html
2014年1月7日 中日新聞
国重文の馬屋を特別公開 彦根城

21頭の馬を収容していたという馬屋の内部=彦根市金亀町で

 彦根市の彦根城内にある国重要文化財の馬屋(うまや)が、特別公開されている。全国でも、近世城郭に大規模な馬屋が残っているのは極めて珍しいという。

 馬屋は表門から内堀をはさんで向かい側にあり、一七〇〇年ごろの建立とされる。火事で一部が焼け落ちたり、建物が縮小されたりしたが、一九六六(昭和四十一)年から六八年の解体修理で現在の姿になった。

 上から見るとL字形の建物には二十一頭の馬が収容でき、一頭ずつ約二メートル間隔で馬繋場(うまつなぎば)が並ぶ。柱には手綱を通す輪っかの金具が残るほか、当時の馬の大きさを再現した馬の模型もあり、藩主の馬が管理されていたころの様子がうかがえる。

 市教育委員会文化財課の担当者は「今年はうま年なので、彦根にお越しの際はぜひ馬屋も見てほしい」と呼び掛けている。

 (辻井勇太)

299とはずがたり:2014/01/30(木) 22:29:20

芥川山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E

芥川山城(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう)は、大阪府高槻市の三好山にあった城。当時の呼称は芥川城であるが、同じ高槻市殿町周辺にあった城も「芥川城」と呼称しており、高槻市史が便宜上、三好山にあった城を芥川山城と呼称したため、現在多くの文献でも芥川山城と呼称されている。

芥川山城は飯盛山城と共に大阪府下では最も規模が大きな城跡で、遺構の残存状態も良好で戦国時代の典型的な山城である。

能勢氏時代
初代城主は能勢頼則であるが、永正3年(1516年)8月に没しており、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永3年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になっていたと思われる。
大永6年(1526年)、細川高国による香西元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を起こす。波多野稙通らが丹波から京都へ向かう途中、芥川山城を含む摂津の城々を降伏開城させた。この際に能勢国頼は逃亡したと思われる。

細川晴元時代

天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元(既に高国を破り(1531)飯森山の戦いで堺公方も崩壊(1532)した後である。この時は山科本願寺の戦いで一向一揆の反撃で淡路に退去。只この時はwikiの他の箇所の記述だと池田城に入ったと書いてあるけど・・http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1036414406/136 )が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていったと思われる。天文5年(1535年)に晴元は京都に移り管領に就いたが、度々芥川山城に戻り指揮をとっている。これは芥川山城が要害の地であったからである。
天文8年(1539年)8月、晴元は三好長慶によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城したが、両者の間に和議が成立し9月13日に退城。替わって晴元派の薬師寺与一が入城した(長慶は代わりに越水城と摂津半国守護代を得る)。その後、晴元と同族の細川氏綱との間に確執が生じ、天文15年(1546年)に芥川山城は氏綱方に奪われたが、翌天文16年(1547年)に三好軍に包囲され、6月26日に芥川山城は無血開城し長慶の手に落ちた。

三好氏時代
三好長慶は父元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文22年(1553年)7月、芥川孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、8月12日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。孫十郎が退去した後は長慶自身が入城し、摂津における拠点としてここから各地に出向いていった。この頃にも芥川山城は再び防御施設を拡張していったと思われる。永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。
しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳の若さで急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。
義興以後は三好長逸が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川信良を連れて阿波へ逃れた。

300とはずがたり:2014/01/30(木) 22:29:42
>>299-300
和田・高山時代

織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。
翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。

しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571年)8月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られてしまう。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友(右近)父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。
この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。

芥川城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%9F%8E
芥川城(あくたがわじょう)は大阪府高槻市にある城。同じ高槻市にある能勢頼則が築城した山城も芥川城と呼称されている。現在では便宜上、殿町周辺にあった城を「芥川城」、三好山にあった城を「芥川山城」と区別している。

芥川城は、いつごろ築城され、いつごろ廃城になったのかは明確に解っていない。古文書に「芥川城」と明記されているが、三好山にある芥川山城をさしている場合もあり複雑にしている。
また芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていたこともあるが、その後の経過については不明である。遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみとなっている。

芥川城は芥川氏によって築城されたと思われている。芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿であり、鎌倉時代には幕府の御家人となり、この前後に築城したと思われている。高槻市史によると芥川氏は「非開発領主型の武士であっただろう」としている。
その後、芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われる。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、芥川本家は歴史から名を消してしまう。あるいはこの時代に芥川城は廃城になった可能性がある。
再び芥川の地を細川高国の命をうけ、能勢頼則が再建に動き出すことになる。永正13年(1516年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もある。

301とはずがたり:2014/02/07(金) 01:04:45

茨木城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E5%9F%8E

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。

茨木城の築城については、よく解っていないが3説が言われている。
建武年間(1334年 - 1336年)に楠木正成が築いた
安富氏が築いた
福富氏が築いた

茨木氏時代
茨木氏は文安年間(1444年 - 1449年)の『文安年中御番帳』に奉行の1人として名前が見えることから、この頃より台頭していたと思われている。また茨木城の文献上の初見は、応仁の乱に東軍の安富元綱方に属していた野田泰忠が応仁元年(1467年)5月20日、「摂州茨木之城に陣を構えた」と『野田泰忠軍忠状』から見受けられる。

文明14年(1482年)に摂津で国人一揆が勃発、細川政元が鎮圧に乗り出した。まず同年6月に三宅城を攻略、ついで同年7月には茨木三郎が守る茨木城も攻略し、同年10月には吹田成枝が守る吹田城を落城させている。
その後茨木長隆が勢力を拡大、細川高国と細川晴元との対立では、晴元方について高国を敗死させ(大物崩れ)、天文7年(1538年)には守護代となった。しかし、天文17年(1548年)には晴元と三好長慶が対立するにいたり、翌天文18年(1549年)の江口の戦いで敗北し、没落した(→この項では死亡と推察と書かれているが別の項に拠ればその後氏綱に帰参した模様)。茨木重朝に代が変わり、室町幕府の御家人として織田信長の摂津入国(永禄11年(1568年))に臣従し、茨木の本領を安堵された。

茨木重朝は本圀寺の変や野田城・福島城の戦いで高槻城主和田惟政と共に織田信長の尖兵として戦ったが、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで重朝・惟政と荒木村重(三好側から織田側に乗換えたがこの時期は池田氏の内紛に関連して信長と対立する。茨木城主となったは1573年 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80 )・中川清秀(荒木の家臣)の間で戦闘が勃発、重朝は惟政共々討ち取られてしまった。同年9月1日、勢いに乗った荒木軍は茨木城を攻め落とすべく進軍を開始。茨木城兵も出撃、太田郡の山で鉄砲、弓で進撃を留めようとしたが支えきれず、結局城際まで攻めのぼった。この時活躍したのが荒木軍にいた槍の名手熊田千助で外郭を打ち破り、虎口に押し寄せた。城主重朝は既に討死にしているものの、父の翫月斎やわずかな城兵が城内に残っていた。虎口付近で相当な乱戦になったようであるが、熊田千助が虎口を突破、三の丸を占領し、二の丸を守っていた者達は開城し降参した。いよいよ本丸だけになり、深夜裏切り者(新庄城勢ではないかと言われている)が出て城は炎上、落城した。
この戦いで茨木方の300名以上が討死にし、茨木氏は滅びた。

中川氏時代
その後一旦、茨木城には村重の息子村次が入ったが、実質的な城守は中川清秀で、この時に修復と大規模な拡充を実施、天正5年(1577年)には清秀が正式に茨木城主となった。翌天正6年(1578年)に村重が織田信長に謀反をおこし(有岡城の戦い)、清秀も縁故であるということもあって村重についたが、同年10月28日に信長の調略によって茨木城を開城し織田軍に寝返った。
天正10年(1582年)の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが賤ヶ岳の戦いで戦死、天正14年(1586年)、息子の中川秀政は数々の功績が認められ、播磨三木城へ6万5000石に移封(中川家は江戸期を通じて藩主として存続。)し、茨木の地は秀吉の直轄地となり、安威城の城主であった安威了佐、河尻秀長が代官として茨木城につめていたようである。

片桐氏時代
関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となる。この時、片桐且元の本領は龍田城にあり、豊臣秀頼の補佐のため大坂城につめていた。
慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件がおき、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走するが、淀殿に疎んじられ、徳川方の内通者と疑いをもたれ、ついに豊臣家と袂を分かつことになる。
大坂夏の陣終了後、且元は4万石、貞隆は1万6400石を与えられそれぞれ竜田藩主、小泉藩主となったが、且元は慶長20年(1615年)5月27日、徳川家康の居城駿府城へ赴く途中に病死した。大坂城が落城した同年5月7日からわずか20日後のことであった。

廃城
江戸幕府は「一国一城令」を発布、これにより摂津では高槻城のみが残り、且元の息子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移っていった。元和2年(1616年)の茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで茨木城は取り壊され、約200年続いた歴史に幕をおろした。

302荷主研究者:2014/02/09(日) 10:29:24

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2014012208384492/
2014/1/22 8:38 山陽新聞
槍・旗櫓の遺構出土 岡山城本丸下の段

旗櫓の遺構で見つかった石段の基礎部分とみられる石(手前)

 岡山市教委が国史跡・岡山城(北区丸の内)本丸下の段で行っている発掘調査で21日までに、軍事倉庫として使われたとみられる「槍櫓(やりやぐら)」と「旗櫓(はたやぐら)」の遺構が出土した。1700年作製の「御城内御絵図(おんじょうないおんえず)」にはない石段跡も見つかっており、城内の増改築の変遷がうかがえる。25日に現地説明会を開く。

 本丸下の段で槍櫓、旗櫓があったとされる2カ所と、登城者の付き人の待機所「供腰掛(とものこしかけ)」があった場所の北側の計3カ所で昨年11月からトレンチ(試掘溝)調査を行った。調査面積は各地点とも約100平方メートル。

 槍櫓の遺構では、過去の発掘調査で存在を確認していた石垣について、幅が約17メートルにわたることが判明。絵図にはない石段跡(幅約4・5メートル、奥行き約2メートル)も確認した。この石段は幅が当初約2メートルだったが、後に約2・5メートル増築したとみられる跡があった。

 旗櫓の遺構については、絵図に記されていた石段の基礎部分とみられる石が出土したほか、別の石段跡(幅、奥行き各約1・5メートル)を発見した。

 現地説明会は午後1時半から実施。小雨決行。問い合わせは同課(086−803―1611)。

303荷主研究者:2014/02/09(日) 11:36:10

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201401/0006661081.shtml
2014/1/25 08:18 神戸新聞
「天空の城」竹田城跡揺れる 保護か活用か論争

竹田城跡の規制区間

人気を集める竹田城跡。保存と活用に地元も揺れている=2013年11月、朝来市和田山町竹田

 保護か、活用か‐。朝来市和田山町の国史跡・竹田城跡が、冬季通行規制解除後の観光客受け入れ態勢をめぐって揺れている。石垣などの遺構の傷みがひどい中、同市役所内部で入場規制などを求める意見と観光振興を主張する考えとの妥協点が見いだせていない。24日の政策調整会議でも、方針は煮詰まらず、旅行業者などの問い合わせにも苦慮している。(竹本拓也)

 同市は本年度、城跡の有料化に踏み切ったが、既に昨年度の2倍となる約44万5千人が来訪。正月三が日には初めて城跡内に警備員が出動するほど混乱した。昨年11月には滑落事故があり、本丸周辺は工事のため立ち入り禁止となったままだ。

 史跡では、観光客に踏み固められて草が生えなくなり、保水できない地表から泥が流出。その影響で天守台南側の石垣がせり出したり、埋もれた瓦片が表出したりしている。同市が設置した学識経験者による専門委員会は「石積みの美しさなど、城跡本来の価値が損なわれていく」と、エリアを限定し、順路に沿った見学方法とするよう求めた。市教委は「眺望の良さではなく、山城の遺構としての価値を理解してもらう方向へ進めたい。遺産の歴史をここで損ねるわけにいかない」と規制の必要性を訴える。

 一方、花見シーズンを前に、ツアーバスの予約は殺到しており、同市竹田城課では地域振興の観点から「天空の城のまちとして全国へ発信している以上、来訪者をもてなしたい」とし、冬期間限定だったマイカー規制を通年化するのは容認する方針だが、見学エリアの限定などには慎重な姿勢だ。

 25日には両部局などの幹部や同市長が協議したが、議論は平行線をたどり、同市幹部は「近く再度、協議して結論を出す」としている。

306とはずがたり:2014/03/05(水) 12:56:48
総構え
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%A7%8B%E3%81%88

総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。


概要
日本では異民族の侵入が少なかったことや山地が国土の大半を占めることなどから、大陸に見られるような城壁都市は一部を除いて発展せず、野戦用の防御施設として作られた「柵」や武士の居館を堀や櫓で防備した「館(やかた、たて、たち)」が、中世には山城へと発展した。
近世にいたり、城郭が単なる軍事拠点のみならず政治的統治拠点としての役割を持つようになると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられるようになった。これが総構えである。
普通、「城」という場合は、内郭のみを指し、外郭である総構えは天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。また総構えの堀は総堀(惣堀)と言うが、外堀と言われることも多い。ただし単に外堀と言った場合は、総構え堀を指す場合と本城の外側の堀を指す場合とがある。
後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。
総構えの典型は、中国の城や中世欧州の都市のように、都市全域を囲む堀と塁(城壁)にみることができる。中世都市の堺は三方を深さ3m、幅10m程の濠で囲み、木戸を設けて防御に備えていた。今でも遺構を見ることが出来る京都の「御土居」も典型的な総構えであり総延長は5里26町余(22.4km)にも及んだ。
最古の遺構[編集]

現在判明している総構えの最古の遺構は、兵庫県伊丹市にある有岡城(伊丹城)趾で、国指定の史跡となっている。有岡城は、南北朝時代に伊丹氏により築城され伊丹城と称したが、天正年間に荒木村重により改修され総構えとなり有岡城と改称した。しかし10年ほどで廃城となっている。

307荷主研究者:2014/03/30(日) 14:46:12

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20140227/CK2014022702000008.html
2014年2月27日 中日新聞
信長居館跡に巨大な庭園 1日に現地説明会

新たに見つかった庭園の跡。岩壁から滝が流れ落ちていたとみられる=岐阜市千畳敷で

 岐阜市で発掘調査が続く織田信長の居館跡で、新たな庭園が見つかった。これまで確認された三つの庭に比べて三倍以上広い千百平方メートル。金華山の岩盤を生かして高さ二十五メートルの滝が設けられ「天下布武」を唱えた信長の意気が伝わる雄大な造りだ。市教委が二十六日発表した。

 市教委によると、信長が岐阜を拠点にした一五六七〜七六年に造られたとみられる。信長が京都の足利義昭の居城を造営し、御所を修理した時期と重なるため、市教委は当時の最高水準の技術が施された庭とみている。

 昨年度に存在が明らかになった御殿とこの庭を結ぶ橋の存在も判明した。この居館を一五六九年に訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、館内の庭園群を「その完全さは国内でまれである」と書簡に記した。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は、庭の一部に石垣が用いられていることに着目。信長が陣地ではなく住居としてこの居館を重んじた表れとして「城内に住居や庭を置いた大坂城や江戸城の先駆けだ」と話す。

 市教委は三月一日に現地説明会を開く。午前十時、十一時、午後一時、二時の四回、岐阜公園内の金華山ロープウエー乗り場南側で調査担当者が新たに見つかった庭の解説をする。

 (末松茂永)

308荷主研究者:2014/04/06(日) 11:28:32

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140317102.htm
2014年3月17日02時29分 北國新聞
鼠多門・橋を復元へ 金沢城と尾山神社結ぶ

門の石垣が残る現在の尾山神社付近

 任期満了に伴う石川県知事選は16日、投票が行われ、即日開票の結果、無所属で現職の谷本正憲氏(68)が6選を果たした。谷本知事は同日、北國新聞社のインタビューに 対し、金沢城公園で新年度、かつて玉泉院丸と金谷出丸(かなやでまる)(現尾山神社)を結んだ鼠多(ねずみた)門、鼠多門橋の復元に向けた基礎調査に着手する方針を明らかにした。

 復元すれば、長町武家屋敷から尾山神社を通って金沢城、兼六園へとつながる回遊ルートができ、加賀藩の歴史をたどる導線が大きく変わる可能性がある。

 県は、2015年度以降を対象にした金沢城公園の次期整備計画を新年度に策定する。鼠多門と橋の復元も盛り込みたい考えで、谷本知事は「歴史的な回遊ルートができ、復元 の意義は大変大きい」と指摘し、6月補正予算に関係事業費を計上する方針を示した。

 鼠多門では、石垣を含めた建物跡一帯の発掘と絵図・文献など史料の調査を進める。谷本知事は「残された写真に沿って史実性の高い復元としたい」と語った。鼠多門橋は、橋 の構造のほか、尾山神社側の取り付け場所、境内の歩行ルートなどに関する検討案を作成し、有識者らの意見を聞いて整備計画を固める。

 整備着手、完成時期は15年度以降に実施する本格的な調査結果をもとに、文化庁などと調整を進める。

 金沢城公園の整備は、1996年の第1期計画から約10年ごとを期間として順次建造物の復元が進められてきた。第2期計画の最終年度となる新年度には橋爪門二の門が完成 し、玉泉院丸庭園が暫定開園する。

 次期整備計画には(1)建造物の復元整備(2)玉泉院丸庭園周辺の整備(3)石垣の保全対策―を主な課題として盛り込む。

309荷主研究者:2014/04/13(日) 11:19:16

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140326/CK2014032602000084.html
2014年3月26日 中日新聞
天守門復元、浜松城に華

◆28〜31日無料公開

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2014032602100031_size0.jpg
復元工事がわり、28〜31日に無料公開される浜松城天守門。上部の櫓にも入ることができる=25日、浜松市中区の浜松城公園で(古田哲也撮影)

 浜松市中区の浜松城公園内にある浜松城天守門の復元工事が終わった。四月一日の正式オープンを前に、今月二十八〜三十一日の四日間は天守閣とともに無料公開される。

 天守門は安土桃山時代(十六世紀末)に建てられ、江戸時代に改修が繰り返された後、一八七三(明治六)年に浜松城が廃止になり取り壊された。復元は二〇一〇年度に策定された浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画の柱の一つで一二年七月に着工、総工費一億七千万円を投じた。

 〇九、一〇年度の発掘調査で見つかった礎石や、十九世紀の絵図などを基に、三浦正幸広島大大学院教授が復元図を作成した。

 完成した天守門は高さ九メートル。上部には木造平屋延べ床面積五十六平方メートルの櫓(やぐら)があり、復元の模様を映像で紹介する学習施設になっている。下部は幅五メートルの城門。

 二十八日は午前十時から完成式がある。無料公開は二十八日が正午〜午後四時三十分、二十九〜三十一日は午前八時三十分〜午後四時三十分。四月一日からは天守門と天守閣の共通入場料二百円(高校生〜六十九歳)。

310とはずがたり:2014/05/14(水) 15:54:15

村上水軍:3家系当主、約400年ぶり結集 確執水に流す
http://mainichi.jp/select/news/20140427k0000e040107000c.html
毎日新聞 2014年04月27日 09時05分(最終更新 04月27日 12時08分)

和田竜さんの講演会で握手する村上水軍主要3家系の当主=愛媛県今治市で2014年4月26日、松倉展人撮影
和田竜さんの講演会で握手する村上水軍主要3家系の当主=愛媛県今治市で2014年4月26日、松倉展人撮影
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 「村上海賊の娘」で今年の本屋大賞に輝いた作家、和田竜(りょう)さんの講演会が26日、小説の舞台に近い愛媛県今治市であり、村上水軍主要3家系の当主が約400年ぶりに集まってがっちり握手した。

 村上水軍は本拠地ごとに「能島」「因島」「来島」に分かれ、現在の当主は山口、東京、大阪に居住。講演会を機に主催の今治市村上水軍博物館などが結集を企画した。

 中世から戦国に勢力を競った3家だが、和田さんから「確執は?」と問われると、全員が「会えて幸せです」。海賊の子孫らしく、水に流していた。【松倉展人】

311荷主研究者:2014/06/21(土) 15:01:37

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20140503/CK2014050302000011.html
2014年5月3日 中日新聞
采女城跡、県外からも人気 郭や空堀の保存良好

采女城跡に残る深さ3メートルの「空堀」=四日市市釆女町で

 四日市市内部地区の采女(うねめ)城跡が、保存状態のよい遺構として人気を集めている。愛知県からも城愛好会が相次いで訪れており、采女城跡保存会の堀保会長(79)は「五百年前の歴史を伝える地元が誇る財産。多くの人に興味を持ってもらえてうれしい」と話している。

 保存会によると、采女城は鎌倉時代半ばの一二六〇年代に築城された平山城。戦国時代にかけて増改築したが、一五六〇年代に織田信長に攻め落とされたという。現在は本丸の出入り口の「虎口(こぐち)」、二の丸や三の丸など十カ所の郭(くるわ)、敵の侵攻を防ぐ深さ三メートルの空堀(からぼり)や高さ二メートルの土塁が遺構として残る。

 保存会は内部地区の住民が中心となり、二〇〇三年に発足。生い茂って遺構を壊す恐れのある草木を定期的に刈り、見学者のために遊歩道を整備してきた。一一年には本丸周辺一万五千五百平方メートルが市民緑地となり、市民が接する機会も増えた。

 県外からの見学が増えたのは、昨年二月に中部地方の愛好者でつくる「東海古城研究会」が訪れて以降。「遺構の保存状態が良い」「当時の城の造りがよく分かる」と評判が広がり、愛知県の各市から愛好会のバスツアーが相次いでいる。「城好きの人たちから、逆に私たちが城の知識を教わることもある」と堀会長は話す。

 緑地は地元子ども会のキャンプやウオーキングなどイベントでも活用されている。堀会長は「やはり一番、親しんでほしいのは地元の子どもたち。過度に手は加えず、そのままの姿を後世に残していきたい」と意気込んでいる。

 (河崎裕介)

313とはずがたり:2014/09/21(日) 19:27:35
実在した「豊臣」の“幻の城”…奈良「郡山城」は天守・櫓・御殿が一体となった“100万石の城”だった
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140921/wlf14092118000007-n1.htm
2014.9.21 18:00

 豊臣秀吉の弟で政権ナンバー2とされる秀長が居城とし、奈良、和歌山、大阪など100万石の中心地だった奈良県大和郡山市の郡山城で、豊臣政権期のものとみられる天守閣の痕跡が初めて見つかった。天守台や礎石の規模から高さは20メートルとも推定され、5階建て相当の建物だったとみられる。関ケ原以前の天守閣については史料が乏しく、専門家は「天守閣、櫓、本丸御殿が一体化した壮大なつくりだった可能性もある」と指摘する。豊臣の“幻の城”の全貌に迫った。
(橋本昌宗)

首都・大阪の東を抑える重要拠点

 郡山城のある大和国は当時、山城、摂津、河内、和泉と合わせて「畿内」と呼ばれていた。日本の中心地の一角を占めていただけでなく、大阪、京都にも近い重要拠点だった。

 そのため、織田信長の後に政権を握った秀吉は「片腕」としていた弟の秀長に郡山城を与え、秀長は天正13(1585)年に入城。大和、紀伊、和泉、など100万石を領地とした。

 19年に秀長が没すると、養子の秀保が郡山城を継承。秀保の死後は豊臣政権下の五奉行の1人、増田長盛に与えられた。関ケ原合戦後は廃城状態となったが、江戸時代になって徳川家の譜代大名が居城とした。

高層建築に典型的な工法

 今回の発掘調査は、大和郡山市が郡山城で進めている天守台の整備に伴って市教委が実施した。天守台は天守閣があったとみられる頂上部分(南北18メートル、東西15〜16メートル、本丸からの高さ8・5メートル)と、それより約4メートル低く、天守閣に付属する「付櫓(つけやぐら)」にあたる部分(南北11〜17メートル、東西22メートル)からなる2段構造となっている。

 市教委はこの頂上部分全域と、付櫓の一部を発掘調査。頂上部から、大小の礎石23個が見つかった。礎石は建物の基礎になる石で、南北に2列、東西に3列にわたり、ほぼ隙間なく並べられていたとみられる。

 古代寺院などでは、点々と並んだ礎石の上に直接柱を建てた遺構もある。だが、郡山城では大小の礎石が交互に並んでいることから、横倒しにした木材の上で、大きい礎石がある場所に柱を立てたとみられるという。

 発掘を担当した同市教委の十文字健さんは「建物の重さを分散させるための工法で、後世の天守でも同様の構造が残っている」と指摘する。

天守閣は柱間「1間」の距離が約2・2メートルで、中心部分の「身舎(もや)」が南北4間、東西3間。1階部分全体は南北8間、東西7間だった。構造から推察される天守閣は5階建てで、1階ごとの天井高が3メートルなら単純計算で15メートルで、その上に豪壮な屋根が乗るため、高さは20メートル近くなる可能性もある。

金箔瓦も出土

 調査では瓦も出土。付櫓から出土した菊の紋様が入った瓦片には、わずかながら金箔が付着していた。

314とはずがたり:2014/09/21(日) 19:28:00
>>313-314
 金箔瓦は安土城をはじめ、大阪城や秀吉が京都に建設した政庁兼邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」など、豊臣家に関わる限られた城で使われている。このほか大阪城の瓦と同じ型を使った瓦や聚楽第のものとよく似た瓦、17世紀初頭以前に主流だった糸で切った痕跡のある瓦も見つかった。

 こうした出土品から、十文字さんは「天守台は大きく改変された痕跡がない上、出土遺物から考えると関ケ原合戦以前の16世紀後半に建てられた」と分析。また、城郭に詳しい奈良大学の千田嘉博学長は「出土品からは秀長、秀保、長盛の時代としかいえないかもしれないが、柱と柱の間が2・2メートルと長く取られていることから、天下人か、それに近い人物の城だと考えられ、秀長か秀保の時代に建てられたのでは」と推測する。

天守閣、付櫓、御殿が一体化した建物か

 付櫓は、頂上部分を南東側に囲むようにつくられており、本丸の地表から付櫓、付櫓から天守閣部分−と、石段を上がるような構造になっている。だが、この石段は明治時代につくられたとされ、付櫓や天守閣への「入り方」はこれまで不明だった。

 調査では、本丸の地中に外から付櫓内に向かう石垣の痕跡を発見。付櫓には地下室もあり、本丸からいったんこの地下室に入る構造になっていたことが判明した。

 この「入り方」をめぐっては、城の地表から石垣の途中まで伸びて途切れる道が描かれた江戸時代の絵図面が見つかっていた。何の図面かと議論の的になっていたが、今回の調査結果と合致した。

 また、天守閣があった頂上部分にも、付櫓側に伸びる幅約3メートルの出入り口とみられる遺構を発見。まず本丸から付櫓の地下室に入り、そこから付櫓内を上がって階段か渡り廊下を使い天守閣に入る構造だったとみられる。

 千田学長は「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」と想像を膨らませる。

今後の研究に高まる期待

 現存天守は全国に12あるが、彦根城(滋賀県彦根市)や姫路城(兵庫県姫路市)をはじめ、そのほとんどは慶長5(1600)年の関ケ原合戦以降に建てられている。千田学長は「関ケ原以前の城で天守の遺構が分かるものといえば、織田信長の安土城と秀吉が建てた肥前名護屋城くらいしかない」と話す。

 大阪城でさえ、現在残っているのは大阪の陣の後、徳川家が立て直した遺構だ。秀吉当時の遺構はまだ埋まったままで、詳細は不明。このため、これまで関ケ原以前の城を考える際に「基準」とされたのは安土城だった。

 だが、安土城は信長が本拠地として建てた城。遺構は見つかっているものの、天守閣の構造については諸説分かれている。

 千田学長は「今回、郡山城から16世紀末の遺構がきれいに出たことで、織豊期(織田、豊臣の時代)の城を考える新たな基準として、これから研究に活用されていくだろう」と話している。

315とはずがたり:2014/11/18(火) 09:05:25
伊達家は別格? 今でも徳川家の隣に“指定席”
http://dot.asahi.com/wa/2013031400059.html
(更新 2013/3/16 07:00)

 旧仙台藩領はほぼいまの宮城県にあたる。作家・司馬遼太郎も『街道をゆく 仙台・石巻』に〈この地の近世の原形は、伊達政宗がつくったとしかおもえない。それほど政宗の存在が大きく、その死後、遺臣たちが祖業を完成した〉とつづっており、その「祖業」はいまも生きている。

 伊達家18代目の当主の伊達泰宗さん(54)は旧大名家が集まる会に出席する機会が多い。徳川家をはじめとして、前田家、上杉家、島津家と戦国のビッグネームが集まるなか、伊達家の“指定席”は徳川家の隣となっている。

「うちは外様なので本当は近くに座る立場にありませんが、『伊達家は別格ですから、おそばにどうぞ』とおっしゃっていただいています。幕末のとき、会津を助けて奥羽越列藩同盟の盟主になったこともありますが、『関ケ原ではお味方いただいた』ということが大きいようです」

 江戸城を造るとき、政宗は家康に相談されたという。

「絵図面を見せられ、『おまえならどこから攻めるか』と家康に聞かれた政宗公は即座に、いまの江戸城の東北側に位置するお茶の水を指さし、『私ならここに大砲を据え付けて撃ち込みます』と答えたそうです。家康はそうかと聞き流しましたが、内心肝を冷やしたことでしょうね。その後の幕府は、外堀の工事を進めて防御を固め、仙台藩に普請させています」

 このエピソードは、泰宗さんの著書『伊達家の秘話』で紹介され、「現在の水道橋(東京都千代田区)から御茶の水にかけて両岸絶壁がそそり立つような堀の名を、仙台藩が普請したことから『仙台堀』と称したという」と、書かれている。

※週刊朝日 2013年3月22日号

316とはずがたり:2014/12/25(木) 19:27:26
秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責?
2014年12月22日 09時19分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html

 豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守ちくぜんのかみ」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期しょくほうき研究)の研究でわかった。

 播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。

 約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。

 秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。

 しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。

 秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。

 再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。

 藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。

2014年12月22日 09時19分

317荷主研究者:2014/12/31(水) 15:51:39

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20141227201.htm
2014年12月27日05時03分 北國新聞
富山城外堀は二段掘り 富山市埋文センターが初調査

発掘された富山城の外堀跡=富山市総曲輪4丁目

 富山市埋蔵文化財センターは26日、同市総曲輪4丁目の旧総曲輪小跡地で実施した発掘調査で、1661(寛文元)年に造られた富山城の外堀跡を確認したと発表した。底の構造が江戸時代の城郭では珍しい二段掘りになっており、深さは最大で5メートルあったことが分かった。富山城外堀の調査は今回が初めてで、同センターは「想像以上に外堀の規模が大きく、富山城の様子を知る上で貴重な資料になる」としている。

 今回発掘されたのは大手門西側の一部分で、長さ約66メートル、幅は22〜28メートル。西に向かうほど幅が広がっていた。堀の深さは最も浅い南側で約3・7メートル、北側で約5メートルあり、内部で段差が付けられていた。

 市埋蔵文化財センターの古川知明所長によると、段差のある堀は浅瀬で敵を安心させて深みに沈めるわなの一種で、戦国時代の城郭に見られる。古地図などから堀の北辺に高さ約5メートルの土塁が築かれていたことが分かっており、堀の底からの高さが約10メートルになる壁が城を守っていたと考えられるという。

 堀の底からは、周辺に住んだ下級武士らが捨てたとみられる越中瀬戸焼などの陶磁器や、仏事で使われる銅製の鶴亀燭台(しょくだい)などが出土した。井戸の水溜めに使われる直径30〜50センチの曲げ物2個も埋められ、上部の土に井戸を掘った痕跡がないことから、堀内大介主査学生員は「湧き水を堀に利用するために置かれた可能性がある」と推測している。

 旧総曲輪小の跡地には市医師会看護専門学校などが建設されることになっており、市埋蔵文化財センターが10月から発掘調査を進めていた。今後は土塁の基底部などを調査し、今年度中に埋め戻す予定となっている。

 富山市埋蔵文化財センターは27日午後1時半〜3時、発掘現場を一般公開する。参加無料で、調査担当者が成果を説明する。

 富山城の外堀 富山城三ノ丸を取り巻いていた堀で、南側にあった大手門の前から東西に走り、西端は平吹町付近、東端は総曲輪3丁目の旧富山西武付近に達していた。東西の端でほぼ直角に折れ曲がり、城の北に流れていた神通川(現在の松川)に向かって伸びていた。

318とはずがたり:2015/01/10(土) 22:36:28
阪神大震災の前夜というか数時間前に深夜の姫路城のライトアップが消えるのを見て以来の姫路城。
今回は官兵衛館の最終日に併せて息子連れて来姫,初入城。でかいわ。。
天守閣は工事で入れなかったけど十分広いし息子連れには恰度良い。

しかし官兵衛館も連休なんだから明後日までやってくれてもいいのに今日が最終で混んでいた。

319荷主研究者:2015/01/17(土) 16:05:12

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20150113201.htm
2015/01/13 03:12 北國新聞
武士と町人をつなぐ上水路 富山・一番町で遺構出土

 富山市埋蔵文化財センターが同市一番町で行った富山城下町遺跡の発掘調査で、武家屋敷地と町屋敷地をつなぐ江戸後期の上水路の遺構が発見された。同センターによると、富山城下町で武家屋敷地から町屋敷地へ送水する上水路の構造物が確認されたのは初めて。同センターは「幕末には武士と町人の身分が隔てられず、水を送る関係があったとみられる」としている。

 出土した上水路は長さ4メートル、幅約20センチ。送水管となる太さ6センチの竹に繊維を巻いて土で覆い、木の板で補強されていた。背中合わせとなった屋敷の間に東西方向に掘られた「背割(せわり)水路」と呼ばれる生活排水路の中を通っていた。土地の高低差から、武家屋敷地だった背割水路北側から、町屋敷地だった南側へ水を流していたと考えられる。

 調査の結果、上水路は背割水路の積み石を一度解体し、造り直して設置されていた。富山城周辺は湧き水が豊富で、町屋敷地からは井戸跡が見つかっている。手間と費用をかけて上水路を設置した理由や、上水の具体的な用途などは不明で今後の研究が待たれる。

 同センターの報告書によると、江戸時代の上水路は各地の城下町整備に伴って飲用水の安定的な確保を目的に設置された。竹と木材を使った遺構は、立山町芦峅寺室堂遺跡をはじめ、福井市の福井城跡、東京の汐留遺跡など全国で見つかっている。

 野垣好史主査学芸員は武家屋敷地と町屋敷地を水路でつないだ目的は不明とした上で「幕末になって、身分に対する意識が薄くなっていたのではないか。周辺を探せば同様の水路が出てくる可能性がある」と話している。

 富山城下町遺跡は、2013年11月〜14年2月に調査が実施され、周辺からは多数の陶磁器や漆器なども見つかっている。

 近世の富山城下町 富山藩の初代藩主前田利次が1661(寛文元)年に築いた富山城(現在の富山城址公園)を中心に整備された。古地図などによると、城の外堀周辺に武家屋敷が集まり、その外側に町民の住む地域が広がっていた。富山市埋蔵文化財センターが2005〜13年に行った調査では、同市一番町の地中などから、武家屋敷地と町屋敷地を分けた下水溝とみられる背割(せわり)水路が多く確認されている。

320とはずがたり:2015/02/18(水) 23:05:59
「絶対にない」はずのものが…信長の初めての城
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150213-OYT1T50047.html?from=ysns_ycont
2015年02月13日 11時45分

小牧山城の復元図。今回発掘した北東側は矢印の方向。左の赤い帯の部分に3段目の石垣が巡っていると推定される(絵・富永商太、監修・千田嘉博)
史跡公園整備が計画されている小牧山(小牧市提供)

 「絶対にないと思っていたものが見つかった」――。

 愛知県小牧市の小牧山城跡で出土した3段目の石垣は発掘担当者も驚く発見だった。石垣の調査は今年度で終え、12年にわたる城の中心部(主郭、のちの本丸)の発掘調査を新年度に完了する予定だった。しかし、今回の発見で、「信長の初めての城」が想定よりも一回り大きい可能性が高まり、今後、調査範囲や期間の拡大が予想される。

 今年度の調査は、主郭を囲む「2段」の石垣が周回することを確認するために、北東側約200平方メートルを発掘するものだった。2段の石垣の下は急斜面で、当時の技術では石垣が築けないと考えられていたが、今年1月に3段目が出土した。

 3段目は、高さ2メートルのうち下半分(約1・0〜1・2メートル)を石積みで腰巻き状にした「腰巻き石垣」で、小牧山城では初めてのタイプだった。

 発掘を担当する同市の小野友記子・文化振興課主査は「さらに斜面の下に4、5段目の石垣がある可能性もある。正面の南側の斜面なども詳しい調査が必要になるかもしれない」と驚く。

 当時の尾張には、石垣の城は存在していなかった。千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「信長にとって初めて造る城であるし、当時の技術水準からすれば、せいぜい2段でとどめてもおかしくない。ところが信長は少しでも1歩先を目指した。時代を切り開く信長像が反映されている城だ」と指摘する。

     ◇

 今回、最上段の1段目の裏側の構造も初めて明らかになった。表面の大型の石、その裏に排水のための大量の小石(裏込石(うらごめいし))があることに加えて、主郭を造成した土が流れ出さないように中型の土留(どど)め石が埋設されていることが判明したのだ。

 中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は「見えない部分の工夫と技術の高さに驚かされた。実際の工事を行った技術者集団を信長はどこから招いたのか、非常に興味深い」と話す。

 ◆小牧山城=織田信長が1563年、美濃攻めのために小牧山に新たに築いた城。本拠の清須から家臣団や町人などを移住させ、麓には城下町を整備した。岐阜へ移った後に廃城となり、信長の死後の84年の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉と戦う徳川家康が本陣を置き、堀をつくるなど改修した。江戸時代になると、尾張徳川家が家康ゆかりの地として入山を禁止した。1927年に国の史跡に指定。天守閣はなく、現在、山頂にある小牧市歴史館(通称・小牧城)は1968年に完成した鉄筋コンクリートの建物。(岡本公樹、大隅清司)
2015年02月13日 11時45分

321荷主研究者:2015/03/08(日) 12:02:50

http://www.at-s.com/news/detail/1174169731.html
2015/2/20 07:58 静岡新聞
駿府城天守台、発掘調査へ 静岡市が予算計上

新年度から発掘調査に向けた準備が行われる駿府城公園=2014年6月中旬、静岡市葵区(本社ヘリ「ジェリコ1号」から)

 静岡市は駿府城天守台の整備に向け、駿府城公園内の天守台跡地の発掘調査を開始する。2015年度当初予算案に準備経費5500万円を盛り込んだ。発掘は16、17年度をめどに実施し、成果の検証と並行して再建構想の策定に入る。

 発掘予定地は天守台跡地と周囲の本丸堀を含む約1万5千平方メートル。開催中の徳川家康公顕彰400年記念事業(400年祭)が終了する16年1月以降、発掘に支障のある設備の撤去などを開始する。ヘリポートの一部取り壊しや樹木の移植なども行われる見通し。

 発掘後は現在ある天守台の図面と照らし合わせるなどして遺構の年代、構造などを検証する。1980年に県教委が実施した発掘調査で石垣の一部を確認していて、市公園整備課は天守台の位置や構造がおおむね判明すると見込む。同課は「天守閣の再建も目指す場合、天守台の復元には年代、強度などで課題が生じる。総合的な検討が必要」としている。

 本年度開始した桜の名所づくり事業では、3月末までに植樹するソメイヨシノなど100本に加え、15年度には30本を追加する。坤櫓(ひつじさるやぐら)や東御門前広場などを中心に植樹し、建設を目指す歴史文化施設とセットで歴史都市の拠点となる空間を目指す。

322荷主研究者:2015/04/05(日) 20:35:30

http://yamagata-np.jp/news/201503/21/kj_2015032100484.php
2015年03月21日11:17 山形新聞
山形城二ノ丸隅櫓石垣を復元 きょう公開、城門より古い技術で築造

復元された坤櫓の石垣。下部は従来の石垣を生かし、築造当初の姿を再現した=山形市・霞城公園

 山形市の霞城公園内にある山形城跡で、市が復元工事を進めてきた二ノ丸隅櫓(すみやぐら)の石垣が完成した。事前の発掘調査によって、隅櫓の石垣はもともと、現存する城門の石垣よりも古い技術で築造されたことが分かっている。市は21日に一般公開し、隅櫓と城門の石垣の違いなどについて解説する。

 山形城は本丸、二ノ丸、三ノ丸から成る平城で、二ノ丸から内側が霞城公園となっている。今回復元したのは、二ノ丸土塁の4隅にある櫓の一つで、南西角の「坤(ひつじさる)櫓」の石垣。園路整備に伴う発掘調査で地中から石垣の跡が見つかり、江戸時代の絵図などに基づき、昨年秋から復元工事を進めていた。

 完成した石垣は、最も高い部分で地面から約2.5メートル。櫓が建っていた上の平らな部分は約10メートル×約7メートルの広さがあり、4段の石段を備えている。鳥居氏が城主だった1622(元和8)〜36(寛永13)年の築造とみられるが、はっきりしない。二ノ丸の東西南北4カ所に現存する城門の石垣にはより高い加工技術が用いられ、築造時期や施工集団の違いがうかがわれる。

 櫓は江戸時代を通じて補修が重ねられ、古い瓦を石垣の周辺に捨てて土を盛る作業が繰り返された。このため、石垣は最大約1メートルの高さまで土で覆われたとみられる。さらに、地上に残っていた部分や櫓も明治時代に壊された。復元工事では地中に埋まっていた石垣の上に新たに石を積み、築造当初の姿をよみがえらせた。櫓の復元予定はない。

 一般公開は午前10時半〜正午に行い、普段は周辺を囲っているフェンスを外し、近くで見学できるようにする。参加無料。今月中に完成検査を行い、正式公開する予定。保存のため、石垣の上に乗ることはできない。周辺の土塁上には約200メートルの園路を整備。ベンチを設けるなどして散策を楽しめるようにしている。

323荷主研究者:2015/04/05(日) 20:48:48

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150321/CK2015032102000127.html
2015年3月21日 東京新聞
「滝山城跡」念願の駐車場 八王子、あすオープン

滝山城跡の、本丸と中の丸を隔てた空堀にかかる引橋=八王子市で

 八王子市が国史跡「滝山城跡」近くに整備していた無料の「滝山観光駐車場」(丹木(たんぎ)町三)が二十二日、オープンする。戦国時代の空堀(からぼり)や土塁などが残る城跡は「都立滝山公園」となっており、サクラの名所でもあるが、専用駐車場がないため利用しにくかった。駐車場開設を機に、市と地域住民らは観光PRにも力を入れようと、二十一日には記念イベントを開く。 (村松権主麿)

 滝山城跡はJR八王子駅の北約四キロ。北を多摩川、南を滝山街道(国道411号)にはさまれた丘陵地にある。駐車場は二十九台分で、「丹木町三丁目」交差点角に設けられる。利用時間は午前九時〜午後五時(十一〜二月は午後四時まで)。市は用地取得と整備費約八千万円を計上した。

 現地でガイドや保存活動をしているNPO法人「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」理事長の西山富保さん(79)は、駐車場完成について「気兼ねなく来てもらえる。城跡と自然を楽しんでほしい」と歓迎する。

 滝山城は十六世紀半ば、小田原を拠点とする大名・北条氏康の支配下となり、三男の氏照が入城。傾斜が緩やかな南からの攻撃に備え、空堀や土塁、敵を迎え撃つ平たんな「曲輪(くるわ)」などを緻密に配置した。その後、氏照は鉄砲などの攻撃に備えやすい山城の八王子城を築いて移り、一五九〇年に豊臣秀吉により滅ぼされた。

 廃城となった滝山城跡に建物は残っていないが、開発を免れた遺構の保存状態は良好という。市文化財課の新藤康夫学芸員(64)は「実際に歩くと、土塁と空堀が何重にも築かれ、空堀を土橋で分断して敵の侵攻を食い止めたりした工夫がよく分かる。歩いて面白い貴重な城跡」と説明する。

 二十一日は午前十時〜午後零時半、和菓子などが販売され、豚汁と甘酒が振る舞われる。この日の来場者用駐車場は龍源寺(加住(かすみ)町二)。イベント後、守る会が城跡の無料ガイドを行う。

324荷主研究者:2015/06/13(土) 18:43:26

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150521000041
2015年05月21日 10時03分 京都新聞
滋賀・彦根城外堀の土塁確認 23メートル原形とどめる

現存する彦根城外堀の土塁。右上から左奥に向かって23メートルが原形をとどめていることが確認された。左のテントは堀があった場所(彦根市中央町)

 滋賀県彦根市中央町の彦根城外堀跡で現地調査を進めている彦根市教委は20日までに、外堀の土塁が23メートルにわたり原形をとどめていることを確認した。市教委文化財課は「城の外堀の土塁がそのまま残る例は全国的にも珍しい」としている。

 外堀は1615(元和元)年の彦根城第2期工事で建設され、総延長は3・4キロあった。戦後に、蚊の発生を抑え、マラリアの流行を防ぐ目的で埋められた。埋め立ては堀の内側(城郭側)を囲んでいた土塁の土砂を利用したため、土塁はほぼ姿を消したとされていた。

 今回調査対象となったのは、銭湯「山の湯」の敷地内で、庭園築山として長年使われていた。台形の丘に見えることから地元では「山」と呼ばれており、外堀の土塁であったことは市内でもほとんど知られていなかった。

 市教委は4月から調査を実施。外堀の土塁の高さは内側が5・5メートル、外側は6〜7メートル。台形の上部幅は4メートル、基底幅は18メートルあることも確認した。堀の幅は約16メートルで、文書史料の記述や絵図とも一致している、という。市教委の下高大輔主任は「断面から9層になっていることも確認でき、外堀の構造を知る上で貴重な遺構だ」と話す。

 市教委は今後、外堀の文化的価値を証明し、どのような保存方法があるか検討する方針。23日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは市文化財課TEL0749(26)5833。

325荷主研究者:2015/07/04(土) 23:06:12

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150618000193
2015年06月18日 23時25分 京都新聞
秀吉「幻の伏見城」石垣、中心部を初確認 自然石、聚楽第と酷似

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20150618232318fusimi.jpg
南北36メートルにわたって出土した石垣(左)と堀の跡=18日午後2時40分、京都市伏見区桃山町泰長老

 民間発掘調査会社の京都平安文化財(京都市伏見区)は18日、豊臣秀吉が造営した伏見城の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が、伏見区桃山町泰長老の調査で見つかったと発表した。城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構となる。

 伏見城の造営は複数段階に分かれており、指月城は秀吉が隠居所として1592年から巨椋池を望む指月の丘に建立、徐々に天守を備えた城として整備拡張した。だが、96年の慶長大地震で倒壊したため、北東の木幡山に移転した。

 今回の調査地は、文献などから指月城の中心部と推定されていた観月橋団地の中央付近。城中心部西側の石垣とみられ、南北約36メートル分にわたって見つかった。加工していない自然石がほとんどで2、3段分が残っていた。洛中の聚楽第(じゅらくだい)跡で確認された石垣と様式が酷似している。石垣に沿って幅5〜7メートルの堀も確認された。

 過去に調査地北西部で部分的に石垣が確認された例はあったが、中心部の遺構はなかった。城を彩った金箔(きんぱく)瓦も大量に見つかり、文献でうかがうしかなかった壮麗な秀吉の指月城の姿が想像できる。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「点だった指月城が面として分かった大きな成果だ。屋敷のような方形タイプと推定できる。軍事と政治の二面性がみられ、しっかりした造りで防御の意識も高かったようだ」とみている。

 現地説明会は20日午後1時半〜3時半。観月橋団地の中にある。駐車、駐輪場はない。当日のみ現地携帯電話090(5670)5195。

326荷主研究者:2015/07/04(土) 23:20:45
>「再建する場合、文化庁は木造しか認めない」
そうなの?

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20150617/CK2015061702000051.html
2015年6月17日 中日新聞
市「早期木造復元が優位」 名古屋城天守閣で調査結果

 名古屋城天守閣の木造復元に向け、名古屋市は十七日、「耐震改修に比べ、可能な限り早期の木造復元に優位性がある」との調査結果を市議会に伝える。ただ、財源確保や木材調達など課題は多い。実現には市民の理解も不可欠で、紆余(うよ)曲折も予想される。

 空襲で焼失した天守閣は一九五九(昭和三十四)年、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。市によると、老朽化が進み、震度6強の地震で倒壊の恐れがある。

 市は昨年度、現在の天守閣を補強する「耐震改修」と、天守閣を取り壊して新たに造る「木造復元」を比較し、どちらの計画が望ましいかを調査した。

 調査結果によると、耐震改修で天守閣の耐用年数は四十年延びるが、コンクリートの劣化は防げない。市の説明では「再建する場合、文化庁は木造しか認めない」といい、いずれ木造復元が必要になるという。

 四十年後の木造復元では、熟練技術者が減る上、少子高齢化で財政状況はますます厳しくなると懸念。耐震改修ではなく「早期の木造復元に優位性がある」と結論づけた。

 ただ、耐震改修費が二十九億円なのに対し、木造復元では四百億〜二百七十億円と膨大。木造復元といえども、建物を支えるために石垣に埋め込んだ鉄筋コンクリート製の基礎部分は撤去せずに利用する方針だが、天守閣の解体や石垣の積み直しなどを含め工期は十八年と見込む。「二〇二〇年の東京五輪までの実現」を提唱する河村たかし市長の考えとは、大きな開きがある。

 さらに、木造復元を進めるとしても、材料となる太いヒノキは「入手困難な状況が続く」と指摘。膨大な建設費の確保も「十分な検討が必要」と明言を避けており、今後より詳細な検討が求められることになる。

 (北村剛史、丸田稔之)

328名無しさん:2015/08/10(月) 16:35:38
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150807-00000008-sasahi-life
御年83歳! “日本のマチュピチュ”を世に広めたアマチュア写真家とは〈dot.〉
dot. 8月7日(金)11時43分配信

 雲海に包まれた姿が美しい、兵庫県朝来市にある竹田城跡。ここ数年で「天空の城」「日本のマチュピチュ」として有名になり、多くの観光客が訪れるようになった。そのきっかけを作ったのが、同市のアマチュア写真家、吉田利栄(としひさ)さん(83)が撮影した写真だ。

 8年ほど前、兵庫県庁を退職し、趣味の写真を楽しんでいた吉田さんに、朝日新聞から「雲海に浮かぶ竹田城を撮られないか」という依頼が舞い込んだ。3日間かけて撮影して送ると、すぐに掲載された。それからテレビや新聞、雑誌などで取り上げられて訪れる人が増え、2014年度の入場者数は約58万人となった。

 吉田さんはブームになってからも、年約250日は竹田城を撮り続けている。約5キロ北にある自宅から竹田城を見て、良い写真が撮れそうならすぐに車で出発する。被写体が同じでも、季節や時間、撮影条件によって、また違った表情を見せるからだ。

 パソコンのハードディスクには、おなじみの雲間に浮かぶ姿、ライトアップされた姿、星空をバックにそびえ立つ姿、夜明け前の幻想的な姿など、様々な竹田城の写真が保存されている。それらは、「地元へのささやかな貢献」として、市や企業から依頼があれば、無償で提供している。市のパンフレットや飛行機、電車のラッピングなどに使われ、多くの人に竹田城の姿を伝えているのだ。

 高校時代に、小学校の同級生からおもちゃのカメラをプレゼントされたのをきっかけに、写真を撮り始めた。県庁に入ってからは、5、6カ月分の給料をはたいてアサヒペンタックスのカメラを買った。60年以上かけて撮りためた写真は40万枚を超すという。

 興味があるものを撮るためならフットワークは軽く、これまでに訪れたのは中国やアメリカ、ニュージーランドなど約45カ国。15年6月には、長男と共に、アメリカのユタ州とアリゾナ州の境界近くにある秘境、ザ・ウェーブにも出かけた。波のような模様を描く砂岩層が有名だが、その区域に入れるのは、1日20人のみ。吉田さんは現地で毎日行われる抽選会に参加し、2日目に幸運にも権利を獲得した。

 途中までは車で行けるが、現地までの片道5キロは歩いて行かなければいけない。年間降水量は10ミリ、日中は気温40〜43度にもなる砂漠を、2時間かけて歩いた。荷物は機材を含めて約20キロ、脱水症状を防ぐため、1分に1回水を飲みながらの道のりだったという。

 そうしてたどり着いたザ・ウェーブは、幾つものうねった模様の山が連なる、想像を絶するものだった。吉田さんは「うわーっ」と声を挙げた後は言葉にならず、それから2時間弱、無我夢中でシャッターを切り続けたという。その日だけで1000枚以上撮影した。

 もはや写真家としてはベテランの域に達しているが、長年やっていると、それなりに失敗もあったそうだ。カメラに写真データを記録するメディアが入っていないのに気付かず、たくさん撮って帰宅してがっかり、竹田城の撮影ポイントである山のふもとに着いて三脚を忘れたことが発覚し取りに帰る、といった親近感がわくようなこともあったという。

 100回以上訪れている中国では、上海での国際線から地方へ向かう国内線への乗り継ぎで、入国手続きのために手荷物を降ろすのを忘れたことも。手荷物は別の場所に運ばれてしまい、届くまでの3日間、足止めをくらってしまったが、「郷に入れば郷に従え」とあせらず、観光などをして過ごしたそうだ。

 傘寿(さんじゅ)を過ぎた現在でも、自宅にいることは少なく、しょっちゅうどこかに撮影に出かけている。吉田さんは「24時間、365日、写真が撮れない時はない。アングルや時間帯、カメラの機能を工夫して、誰も撮ったことのない写真が撮れたら気分がいいじゃないですか」と話す。「撮った瞬間から、その写真は過去になる。生きているうちにもう1枚」と欲望は尽きないという。

「写真を撮りに出かけている時よりも、自宅で写真を整理している時の方がかえって体の調子が悪くなる」と笑う吉田さん。取材をした日も、夜通し星を撮り続けた後だった。

 現在は、竹田城以外にもあるという朝来市の“絶景”を撮りためている。時機が来れば発表するつもりだという。その日が来るのを、楽しみに待ちたいものだ。

(ライター・南文枝)

330荷主研究者:2015/12/12(土) 23:42:54

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151121_13029.html
2015年11月21日土曜日 河北新報
<有形文化財>延命寺山門 城下町の面影今に

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20151121_059004jc.jpg
白石城から移築された延命寺山門

 宮城県白石市不澄ケ池にある古刹(こさつ)の入り口に、どっしり構える。もともとは江戸後期に建築された白石城の「厩口(うまやぐち)門」。明治初期の廃城令に伴う白石城の解体で民間に払い下げられ、現地に移築された。

 幅7.5メートル、奥行き3.6メートル、高さ5.8メートルの木造2階建て。入り母屋風の屋根は切り妻に改造され、1階の「花頭(かとう)窓」、2階の「格狭間(こうざま)」といった装飾も移築後に施されたと伝わる。

 耐震補強工事に加え、1995年に復元された白石城と同じ意匠の瓦でふき替えるなど、寺は丁寧な維持管理を継続。宮城県沖地震、東日本大震災でも大きな被害を免れた。

 市内の登録第1号。白石城の遺構は少なく、江戸時代の重要な建築遺産として城下町の面影を今に残す。山門前に掲げられる「今週のことば」は地域でおなじみ。疋田正應住職は「縁あって約140年。末永く大事に守っていきたい」と話す。

  ▽                 ▽                 ▽

 文化審議会は20日、戦時中に首相を務めた近衛文麿が住み、日米開戦前の重要な会議の舞台になった「荻外荘(てきがいそう)」(東京都)など9件を史跡に、巨大で優美な樹形で知られる伊平屋島の念頭平松(ねんとうひらまつ)(沖縄県)など5件を天然記念物に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。名勝2件の指定も求めた。

 近く答申通り告示され、史跡は1759件、名勝は398件、天然記念物は1021件になる。

 また、文化審議会は同日、1998年に橋本龍太郎首相とロシアのエリツィン大統領の会談が開かれた川奈ホテルの本館(静岡県)など、26都府県124件の建造物を登録有形文化財にすることも馳文科相に答申した。近く答申通り告示され、登録数は1万492件になる。

 東北では史跡に舘山城跡(米沢市)、登録有形文化財には延命寺山門(白石市)がそれぞれ答申された。

331荷主研究者:2015/12/12(土) 23:57:47

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20151121/news20151121264.html
2015年11月21日(土)愛媛新聞
宇和島城の作事所跡 国史跡追加へ

【写真】宇和島城の作事所跡などして追加指定してされることになった日本たばこ産業宇和島営業所跡地。後方が城山=19日、宇和島市丸之内2丁目

 国の文化審議会(宮田亮平会長)は20日、江戸城石垣石丁場跡(神奈川県、静岡県)や土佐藩主山内家墓所(高知県)などを国史跡に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。愛媛県内では国史跡「宇和島城」(宇和島市丸之内)で、新たに見つかった宇和島藩の作事所跡などを追加指定するよう答申があった。2、3カ月で正式指定される見込み。

 宇和島城は1596(慶長元)年に藤堂高虎が山城を改修、1615年に藩祖の伊達秀宗が入部し宇和島伊達家9代の居城となった。1937年に国史跡に指定された。

 追加指定されるのは日本たばこ産業宇和島営業所跡地で、面積は約5363平方メートル。今年5月に市教育委員会が試掘調査し、江戸時代の遺構が確認された。市所有の「宇和島城下絵図?風」(1700年ごろ)と比較し、藩の建造物を作ったり修繕したりする作事所跡と、隣接する上級武家屋敷跡の一画と想定されている。

332とはずがたり:2016/02/24(水) 16:33:54
お城じゃないけどこの辺でいいかな。

「忍者の子孫」見つかる、滋賀・甲賀市が調査
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160221/Tbs_news_53232.html
TBS News i 2016年2月21日 18時30分 (2016年2月21日 20時30分 更新)

333とはずがたり:2016/03/02(水) 18:54:42
興味を持って調べてみたが,この時本国で反豊臣で権勢を振るっていたのが島津義久で,島津義弘は伏見城の戦いで徳川方に立とうとしたが連絡不行き届きで西軍に属さざるを得ずだったようだ。伊勢街道(今の養老鉄道沿線)から伊賀を超えて大阪に戻ったそうな。
島津義弘は高橋紹運を倒しているがその実子の立花宗茂に伴われて九州に帰ったそうな。

軍神、島津義弘に学ぶ成功哲学。苦しいときこそ、敵の“強点”をつけ!
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E8%BB%8D%E7%A5%9E%E3%80%81%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%88%90%E5%8A%9F%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%80%82%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%81%E6%95%B5%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%BC%B7%E7%82%B9%E2%80%9D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%EF%BC%81/ar-BBqaSD0#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
2016/3/1

人は、苦しい状況にあるとき、背を向けて逃げたくなるものです。しかし、追いつめられたときこそ、敵の中枢に「活路」があるのです。世界史5000年の歴史から編まれた『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

「鬼島津」の異名をとる男、島津義弘(よしひろ)
 時は、慶長5年(1600年)9月15日。所は、濃尾(のうび)平野と琵琶湖を結ぶ、南北を山岳に挟まれた隘路、関ヶ原。ここに両軍あわせて20万もの大軍が結集し、「天下分け目の合戦」の幕が切って落とされました。

 布陣は明らかに東軍に不利。明治になって軍事教官としてやってきたクレメンス・ヴィルヘルム・メッケル少佐は、関ヶ原の布陣図を見て、言下に「西軍の勝ち!」と断じたと言われています。

 霧が薄くなった朝8時ごろに合戦が始まり、正午ごろまでは均衡を保っていましたが、小早川秀秋の裏切りを境に一気にバランスが崩れ、まもなく西軍は総崩れとなります。気がつけば、島津隊だけが敵大軍に三方から包囲され、もはや風前の灯火。このとき島津隊を率いていた大将が島津義弘です。

継戦か、撤退か
 彼は二者択一の大きな決断を迫られます。「継戦か、撤退か」

 戦を放棄して撤退するならば、東から殺到する東軍を前にして「西」へ向かうことになります。あくまで討ち死に覚悟で突撃するならば、「東」へ向かうことになります。しかし、もはや大勢決した中で討ち死にするは、まさに犬死に。

 かといって、撤退を選ぶにしても、背を向けた軍ほど弱いものはなく、10万の軍に追撃されれば全滅の危険性が極めて高い。戦わずしてむざむざやられるくらいなら、戦って一矢でも二矢でも報いて、「薩摩隼人」の意地を見せつけて散ったほうが……という想いにも駆られます。

334名無しさん:2016/03/02(水) 18:55:03
>>333-334
「押しても駄目なら引いてみよ」とは言っても、今回はまさに「押しても全滅、退いても全滅」という状況です。

苦しいときこそ、「第三の選択肢」を模索
 このとき二者択一の決断を迫られた島津義弘は「第三の選択肢」を採ります。彼は立ち上がって叫びます。

「我が軍の周りで、最も強敵の部隊はどこか!?」「もちろん、東正面の家康本陣です!」

「よし! ではこれより我が隊は東の家康本陣に向けて撤退する!」

「西に向けて撤退」でも「東に向けて突撃」でもありません。「東に向けて撤退!」と叫んだのです。

平時においては敵の弱点を突き、窮時においては敵の強点を攻む。
 今まさに敵軍が殺到してくる「東」に向かって全滅覚悟の突撃をかけるというのならわかりますが、「撤退する」というのですから、およそ正気の沙汰とは思えません。

 そもそも、これは兵法に悖(もと)っているように見えます。孫子の兵法では、次のように教えています。

「敵の守らざる所、あるいはその不備を攻めよ」。

 しかし、これは「一般論」です。こちらに余裕があるときはこれが定石ですが、追いつめられるだけ追いつめられたときは、むしろ敵の最も強いところを攻めることで、活路が見出されることがあるのです。

 人は、圧倒的劣勢にあるとき、どうしても敵に背を向けて逃げたくなりますが、背を向けた途端、その無防備となった背中をばっさり袈裟懸けされてしまいます。むしろ逆なのです。追いつめられたときには、敵の中枢にこそ“活路”があるのです。

 通常なら自殺行為ですが、優劣に圧倒的な差があるときというのは、敵も油断しています。その油断を突くことで、わずかなチャンスが生まれるのです。

 関ヶ原でも、「勝ち」を確信して軍規がゆるみ始めていたところに、突如島津隊が突進してきたため、東軍は狼狽し、島津隊を中心に真っ二つに割れる陣形となります。そのわずかに空いた穴を突ききって、そのまま南東へと“撤退”することが可能になったのでした。

退路は「前」にあり!
 後ろではありません。事実、後ろ(西)へ逃亡を図った(事実上の)総大将石田三成はあっけなく捕らえられ、処刑されています。後ろに退くのはむしろ「まだ余裕があるとき」だけだということを肝に銘じておかなければなりません。

335とはずがたり:2016/04/16(土) 21:30:56
熊本城の櫓が倒壊 加藤清正の築城当初から残る国重文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%AB%93%E3%81%8C%E5%80%92%E5%A3%8A-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E3%81%AE%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%BD%93%E5%88%9D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%87%8D%E6%96%87/ar-BBrOF34?OCID=DELLDHP
朝日新聞デジタル
10 時間前

16日未明の激しい地震で、手前の石垣などがさらに崩れた熊本城=16日午前7時40分、熊本市、朝日新聞社ヘリから、河合真人撮影c 朝日新聞 16日未明の激しい地震で、手前の石垣などがさらに崩れた熊本城=16日午前7時40分、熊本市、朝日新聞社ヘリから、河合真人撮影
 16日未明の地震で、熊本城(熊本市中央区)の東側にある東十八間櫓(やぐら)と北十八間櫓が倒壊した。二つの櫓はともに、国の重要文化財に指定されている。

 市熊本城総合事務所によると、二つの櫓は土台の石垣ごと崩れ落ち、一部は隣接する熊本大神宮内の建物上に落下して、屋根を突き破った。

 櫓は戦国武将の加藤清正が17世紀はじめに築城した当初から残る建造物。14日の揺れでは、瓦の一部が落下したが、石垣に目立った被害はなかったという。

336名無しさん:2016/04/17(日) 10:54:44
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160416/k10010483501000.html?utm_int=all_side_ranking-access_003
熊本城で国の重文「東十八間櫓」が完全に倒壊
4月16日 14時00分
熊本城を管理する熊本城総合事務所によりますと、16日午前6時半からおよそ10人の職員で城の被害状況を調べたところ、これまでに、国の重要文化財に指定されている城内のやぐらの1つ、『東十八間櫓』が完全に倒壊したということです。崩れた木材などの一部が隣接する熊本大神宮の屋根に落ち、熊本大神宮にも被害が出ているということです。また、城の南側にある5階建てのやぐら『飯田丸五階櫓』の土台となる石垣も崩壊しているということです。

337とはずがたり:2016/04/18(月) 16:02:11

真田家14代当主は慶應大学理工学部教授
http://www.news-postseven.com/archives/20160417_403750.html
2016.04.17 07:00

「自分の先祖の大河ドラマを見ていると、身近というか切実といいますか。ひとつ間違えれば、うちはないですから毎回ハラハラしています(笑い)」と語る真田家14代当主・真田幸俊さん(46才)。

 真田家を継ぐお殿様にして、慶應大学理工学部の教授だ。

 日本の東と西の境界にある信州で徳川勢と石田勢の両陣営から戦に加わるように請われなどしながら、さまざまな戦略で生き延びてきた真田家。

 大泉洋(43才)演ずる現実的な長男・信幸は家名を守り、堺雅人(42才)演ずる次男・信繁は後に豊臣勢として戦場に散ったヒーローとして武名を守った。

 その信幸の末裔が幸俊さん。15才のとき、早逝した父を継いで、“若様”として当主になった。といっても戦後の華族制度の廃止で経済的な余裕はなく、奨学金で慶應大学を卒業後、カナダに留学した。

 現在、首都圏に住み、教授の仕事のかたわら“お殿様”としての役目も果たし、2人のご子息に次代の“お殿様”としての心得を少しずつ教えている。そして教授としては、「信幸の遺訓に“領民を大切にし、家臣に思いやり”って書いてあるんですが、学生に対しても同じで、公平に接するよう心がけています」。

 日本の歴史に確かな足跡を残した大名の子孫として、そして日本の未来を担う若者への教育者として、人生を歩み続ける真田さん。静かなたたずまいの中にピシッと芯が通った素敵なミドルエイジでした。

※女性セブン2016年4月28日号

338名無しさん:2016/05/15(日) 11:17:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160513/k10010519781000.html?utm_int=all_side_ranking-access_001
崩落した熊本城の石垣に「観音菩薩」が出現
5月13日 17時00分
一連の地震で大きな被害を受けた熊本城で、崩落した石垣の石から戦国時代に彫り込んだとみられる観音菩薩が見つかり、インターネットで話題になっています。
熊本城で地震の被害があった石垣53か所のうち、北大手櫓門跡では、石垣が隣接する「加藤神社」の境内に崩れました。神社の宮司が被害を確認したところ先月24日、石に彫り込まれた観音菩薩を見つけました。観音菩薩は、背丈が40センチほどで、後光が差し、ハスの葉の上に乗っている様子が描かれています。
熊本城調査研究センターによりますと、この観音菩薩は、戦国時代に一般の人たちが先祖を供養しようと、「板碑(いたび)」と呼ばれる板状の石碑に彫り込んだものだということです。その後、江戸時代に、熊本城の石垣を造る際、急いで石を集めたために、身近にあった板碑を石垣の石に転用したものとみられ、およそ400年の時を経て今回の地震で出現したのではないかということです。
発見した加藤神社の湯田崇弘宮司は、フェイスブックを通じて「永い時を経て現れたこの観音様に思いをはせると胸が揺さぶられる」と思いをつづり、13日までの3日間に1600人以上の反響がありました。湯田宮司は「地震の被害が大きく、悲しいことばかりでしたが、観音様を見て自然と手を合わせました。私たちのことをこれからも見守ってくれると思います」と話していました。
熊本城調査研究センターの美濃口雅朗主幹は、「期せずして熊本城が造られる前の歴史をかいま見ることができる資料が見つかりました」と話していました。

339とはずがたり:2016/06/15(水) 14:37:53

信長は騙されやすい人だった!? 映画やドラマが描けない、戦国時代のウソホント
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20160607/Davinci_010576.html
ダ・ヴィンチニュース 2016年6月7日 06時30分 (2016年6月7日 07時59分 更新)

『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』(熊谷充晃/彩図社)

 年号の暗記は嫌いだけど、試験に出ないような歴史の横道は大好き。「実はこの人こうだったんだよ」なんて人間関係の裏側が見えたら、さらに大好物。ときにはテレビや映画の演出に「史実とちがうのに〜」なんて突っ込みを入れてしまう人におすすめなのが『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』(熊谷充晃/彩図社)。受験にはたぶん…役に立たないが、人生を楽しむ役に立つ雑学トリビアにあふれた一冊だ。
 たとえば、かの有名な織田信長、比叡山焼き討ち事件。武装勢力でもあった延暦寺の仏僧たちに服従を求め、最終的には山を片っ端から焼き払い、老若男女とわず皆殺しにしてまわったという冷酷な残虐性をあらわにする所業だが、これ、じつは「誇大広告」だったというのである。調査によると焼失したのは根本中堂と大講堂だけ。しかも生活拠点は別だったために、火を放った際は人もほとんどいなかったとか。

 ほかにも、信長が「鉄砲を先駆けて使いこなしたためにのしあがった」というのも史実とちょっとちがうようで。こちらも有名な、長篠の戦い。柵をたて、その内側で火縄銃を準備する人、構える人、撃つ人の3隊にわけて応戦したため、絶え間ない銃撃戦が可能となった信長の策謀が光ったとされるこの逸話も、著者いわく“ファンタジーが膨らみすぎ”だそう。さらには信長、どちらかというと人を信じ過ぎて痛い目を見る“いい人”だったという話も!? ……実際どうだったのかは、本書を読んでお確かめいただきたい。

 そのほか、「最強と謳われた武田騎馬軍は存在しなかった!?」とか、「忠義の塊と語り継がれる三河武士は、実情は裏切りだらけだった」とか、ともすれば夢を壊しかねない事実が連発! では知らなきゃよかったのか、というと、知ったほうがより面白さが深まっていくのが不思議なところだ。たしかに明かされた史実をそのまま実写化すれば、画面の派手さはやや減るかもしれない。だがそのかわり、領地のローカル憲法に「飲みすぎて吐くのは見苦しいから酒宴禁止」と書いた城主がいたり、茶器バブルが起きたせいで名器が領地のかわりとして取引されたりといった、意外な人間臭さや常識が浮かび上がってくるのだ。

 事実は小説より奇なり。わかりやすいスペクタクルはなくても、入り組んだ人間模様が歴史により深みを増してくれ、物語にも厚みが増す。本当の戦国時代を知ればますます虜になっていくこと間違いなしだ。

340とはずがたり:2016/06/21(火) 22:23:54

河村市長に「まやかしだ」天守閣復元で批判続出
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160618-OYT1T50050.html?from=yartcl_outbrain1
2016年06月19日 16時58分

 名古屋城天守閣の木造復元に向けた基本設計の補正予算案が提出された名古屋市議会で17日、個人質問が行われ、東京五輪開催の2020年完成を目指す市の構想に対し、疑問視する意見が相次いだ。

 21・5%の支持にとどまった先月実施の市民アンケートについて、「民意は得ている」との答弁を繰り返す河村たかし市長に対し、議員からは「まやかしだ」などとの声も出された。

 同アンケートでは、三つの選択肢のうち、「時期にとらわれない木造復元」が40・6%と最多で、これに「耐震改修を行う」(26・3%)が続き、21・5%の「東京五輪までの木造復元」は最も低かった。ただ、河村市長は木造復元には6割超が理解してくれているとして、構想を改めずに補正予算案を提出した。

 この日の個人質問では、田辺雄一議員(公明)が公募途中で辞退した大手ゼネコン・清水建設が木造復元案をまとめていたとする読売新聞の17日付記事に言及。市長案に比べ工期は長いが、事業費が3分の2程度で、150億円前後圧縮されているという清水建設案について、「これは大変な数字」とし、市長案には問題があるとの考えを強調した。

 また、田辺議員が清水建設案を知っているかどうかと尋ねたところ、市長は存在を認めたうえで、工期や事業費については「分からない」と答えた。

341とはずがたり:2016/06/21(火) 22:24:22

石垣先行、150億円圧縮案…名古屋城木造復元
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160617-OYT1T50016.html?from=yartcl_outbrain2
2016年06月17日 10時00分

 名古屋城天守閣の木造復元で、大手ゼネコン・清水建設が名古屋市が採用した案と比べて事業費が3分の2程度で済むとした案を今年2月にまとめていたことがわかった。

 石垣の修復後に上部の天守閣を木造化する内容で、工期は市が目指す東京五輪までに間に合わない。市議会側は清水の担当者を参考人招致し、事業費が少ない理由を含めて説明を求めるとしている。

 関係者によると、清水案は工期が8年強で、市が目指す20年7月を約4年オーバーする。ただ、事業費は市が採用した天守閣の後で石垣の工事を行う竹中工務店案の最大504億円より150億円前後少ない。

 市は昨年12月、木造復元を手がける事業者を募集。清水は参加を表明したが、今年2月に一転、辞退していた。「天守閣復元を石垣修復より優先する市の条件と折り合わなかった」と説明したという。

342とはずがたり:2016/07/03(日) 20:34:43
家臣の子孫の妻、天守台への橋再建へ3億円寄付
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160627-OYT1T50125.html?from=yartcl_outbrain1
2016年06月27日 20時05分

 奈良県大和郡山市の郡山城跡にかつてあった、毘沙門郭から本丸堀をまたいで天守台に通じる「極楽橋」の再建計画が動き始めた。

 同城跡を管理する公益財団法人「郡山城史跡・柳沢文庫保存会」に、市内の女性から再建資金として3億円が寄付されたためで、同財団は「2019年度の完成を目指したい」としている。

 極楽橋は、本丸までの正式ルートだったが、明治時代初めの廃城とともに撤去されたという。写真はなく、絵図などもごくわずかしか残っていない。

 同城は戦国時代の重要な軍事拠点で、江戸時代途中から幕末まで郡山藩主・柳沢家の居城だった。女性の夫(故人)は柳沢家家臣の子孫といい、その遺志で今回の寄付が実現した。

 19日には同市のやまと郡山城ホールで、同財団の柳沢とも子・理事長が女性に感謝状を贈呈。現当主の柳沢保徳・副理事長は「文庫にとって橋の再建は課題だったが、かなわぬ夢と思っていた。多額の寄付を活用して、頂いた方の思いに添いたい」とあいさつした。

343とはずがたり:2016/08/25(木) 12:23:54

“岩櫃城”へ移転 東吾妻町役場 温泉施設を活用
http://news.goo.ne.jp/article/jomo/region/jomo-45780564.html
08月24日 06:00上毛新聞

 群馬県東吾妻町は城の外観を模した日帰り温泉などの町営施設、岩櫃(いわびつ)ふれあいの郷(さと)(同町原町)を改修し、庁舎機能を全面移転する方針を決めた。現庁舎の老朽化と、温泉利用者などの減少を踏まえた町営施設の合理化策で、一部を除いて施設を閉鎖し、2018年度までの庁舎移転を目指す。外観は維持し、戦国武将、真田氏ゆかりの岩櫃城の地元自治体として、観光客らに分かりやすくアピールする。◎真田氏関連の展示も 町によると、施設4階の展望フロアやコンベンションホールを除いた1?3階(延べ床面積約4100平方メートル)を改修し、行政の事務作業ができるようにする。移転費用は8?9億円を見積もっている。 同町原町の役場現庁舎(同約2500平方メートル)は合併前の吾妻町役場として1958年に建設。老朽化が進んだため、東吾妻町は5年ほど前から、移転検討を本格的に進めていた。ふれあいの郷は96年に開業。温泉施設「岩櫃城温泉くつろぎの館」は97年度に15万5300人が利用したが、2015年度は8万7500人まで減少し、毎年1億円程度を赤字計上している。 町民らでつくる「公共施設のあり方検討委員会」の答申を受け、町が施設の運営コストや庁舎の建設費などを考慮し、ふれあいの郷閉鎖と庁舎移転を決めた。閉鎖時期や現庁舎の跡地利用は今後、検討する。 現庁舎からふれあいの郷は北西に約500メートル、岩櫃城があった岩櫃山の登山口まではさらに約700メートルの距離にある。岩櫃城は真田昌幸が拠点とし、信繁(幸村)が少年時代を過ごしたとされ、ふれあいの郷のような外観とは異なるが、堅固な山城だった。NHK大河ドラマ「真田丸」の人気を受け、町は4月、登山口に観光案内所を設けるなど、増加する来訪者に対応している。 町は移転後の庁舎内に真田氏関連の展示品を置く計画。中沢恒喜町長は「城の外観をした新庁舎で、町民や観光客からも親しみを持ってもらえるのではないかと思う。現庁舎の跡地については、今後議論して、有意義に活用したい」と話している。

344荷主研究者:2016/09/29(木) 22:19:00

http://kumanichi.com/news/local/main/20160914009.xhtml
2016年09月14日 熊本日日新聞
熊本城復旧費634億円 石垣の3割積み直し

 熊本市は14日、熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の復旧費が、概算で総額634億円に上ると明らかにした。被害状況を目視で確認した、現時点での試算。

 石垣の被害が最も大きく、このうち425億円を占める。城内の石垣の約1割、約8200平方メートルが崩れ落ちた上、膨らみが生じた箇所もあり、全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの積み直しが必要となった。東日本大震災の被災城郭を参考に当初は350億円と見積もっていたが、現在までの物価上昇率などを勘案し、見直した。

 倒壊した東十八間櫓[やぐら]など13の国指定重要文化財には72億円、瓦が落ちるなどした天守閣など20の復元建造物の修復には137億円が必要とした。

 市は2019年度までに天守閣を再建し、20年間で城全体の復旧を目指す方針。17年度までに、復旧の工法や手順を盛り込んだ復旧基本計画を策定する。市熊本城総合事務所は「ほとんどの建造物で詳細な調査ができておらず、復旧費は変わる可能性もある」としている。(植木泰士)

345とはずがたり:2016/10/23(日) 16:37:21
近世の城郭には殆ど興味が無い俺だが謎と云われると織豊政権関連ぐらいなら一寸は気になる。

謎が多い安土城の大手道
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20161004/BestTimes_3317.html
BestTimes 2016年10月4日 15時00分 (2016年10月5日 14時08分 更新)

織田信長肖像画(写真提供/アフロ) 天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

安土城の大手道が最終的には本丸の南面の虎口(こぐち)にたどり着くこと、本丸に正親町(おおぎまち)天皇の行幸(ぎょうこう)御殿が設えられていることなどを考え合わせ、天皇が行幸した折に進む道筋として用意された幻の道とも考えられ、これらの屋敷跡は家臣団屋敷ではなく、迎賓館のような役割を果たしたとも考えられる。
いずれにしても、謎が多き大手道である。 城下町は当時、山下町(さんげちょう)と呼ばれていた。もともと安土山の東麓には、中世以来、薬師寺の庄園で豊浦湊(といらみなと)があった豊浦の庄と、佐々木六角氏の所領で佐々木神社や浄厳院(じょうごんいん)、常楽湊のあった佐々木庄というふたつの集落があった。
それらは堀割を巡らせた環濠集落であったが、信長はその地を城下と定め、再整備を行った。工事ではまず堀を埋め、新しい道を敷き、縦横に町割を定めた。(続く)

●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

346とはずがたり:2016/10/23(日) 16:42:18
屋敷もここでいいな。

<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20161023k0000e040126000c.html
11:45毎日新聞

<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土
発掘した井戸跡を説明する手塚孝主任(中央)=山形県米沢市万世町で2016年10月22日、佐藤良一撮影
(毎日新聞)
 「かぶき者」で知られる戦国武将、前田慶次が晩年に住んだとの言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で行われた第2次発掘調査で、井戸跡や溝跡などが出土した。「米澤前田慶次の会」(梅津幸保会長)が22日、現地説明会で明らかにした。

 今回は慶次の武家屋敷「無苦(むく)庵」の母屋があったとみられる場所の北側約60平方メートルの区画を地表から約30センチ掘り起こした。市教委文化課の手塚孝主任は「母屋の北には庫裏(台所)や井戸があることが多い」と区画を決めた理由を話す。

 見つかった井戸跡は、長径1.7メートル、短径1.3メートル、深さ74センチで、周囲に4本の細い柱跡があった。内部から、脱穀用の木製「たたき棒」2本、箸2本が出た。その西側には長さ4.5メートルの浅い溝跡があり、周辺に馬のひづめ跡が確認されたことから、馬用の排水溝とみられる。井戸も馬用だった可能性があるという。

 このほか、土鍋片1点、手焙(あぶ)り(火鉢)片4点が見つかった。また、建物の柱跡1基も出た。出土した遺構・遺物は、地層から無苦庵の時代のものと推定されるという。

 昨年の発掘調査では、建物の柱穴約20基が見つかり、土塁や堀の工法が江戸初期のものと合致。土塁で囲まれた敷地は東西109メートル、南北72メートルの武家屋敷であると分かった。

 梅津会長は「昨年は慶次の屋敷跡という伝承地から推定地に格上げされ、今年は生活の痕跡の一部が出た。今後も発掘を続けて確定地にし、墓所も特定したい」と語る。来年は井戸跡の東側を発掘する予定で、庫裏跡などが期待できるという。

 23日午前8時半?正午、現地で一般公開する。場所は堂森586番地内。【佐藤良一】

347とはずがたり:2016/10/26(水) 10:36:15
「信長は宗教心が薄かった」は本当か? 安土城には菩提寺があった
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20161008/BestTimes_3365.html
BestTimes 2016年10月8日 12時00分 (2016年10月9日 11時08分 更新)

1579年、織田信長の命により築城された、安土城。そのわずか3年後の1582年には、焼失、落城してしまった本城ですが、実は今その跡を訪れると、そこには、信長の意外な一面を知ることのできる遺跡があるのですーー。
安土城跡に今も立つ、摠見寺三重塔
 安土城は、信長が1576年、重臣の丹羽長秀(にわながひで)を総普請奉行に据え、標高199メートルの安土山に築城させた地下1階、地上6階建、日本初の、石垣の上に天主(天守)を持つ平山城でした。
 現在は、両側が石垣で囲まれた大手道を上りきった山頂に、人の背丈ほどの石垣に囲まれた東西約25メートル、南北約30メートルの台地に、約90個の礎石が整然と並ぶだけの天主跡があるのみです。
 さて、この大手道の石段を注意深く見ながら上がっていきますと、ところどころに石仏が敷かれていることに気づきます。
 もちろん、これらの石仏はおまいりのために置かれているのではありません。城普請に使われる木材や石材は近郊の山から採取されるのが普通ですが、信長が命じた性急な工期のために、近隣の寺の解体によって得られた木材や石材として用いられた墓石や石仏も少なくなかったのです。つまり、墓石や石仏を踏みながら大手道を上り下りした人がいたということです。
 宗教心が薄かったといわれる〝革命児〟信長ならではのことと思われますが、信長のこのような所業に畏怖した家臣や職人は少なくなかったと思われます。

 大手道とは異なる道を下りますと、石垣に囲まれた狭隘(きょうあい)な土地に窮屈そうに建つ摠見寺(そうけんじ)三重塔に出会います。一般的にはほとんど知られていないのではないでしょうか。
 摠見寺は、安土城築城の際、信長が自らの菩提寺として創建させた寺でした。安土城と同様に、性急な信長は、甲賀郡を中心に近江各地から多くの建物を移築して、摠見寺を創建したのです。
 18世紀末の時点では、本堂、仁王門、三重塔、書院など22棟の建物があったことが確認されていますが、現在、残っているのは三重塔と仁王門のみです。
 いずれにしましても、城内に伽藍を備えた寺院が建立されたのは安土城のみです。墓石や石仏を石段に使った信長でも、自分の菩提寺を身近に置く必要があったのでしょう。人間的といえば人間的です。
 三重塔は現在の滋賀県湖南市にある長寿寺から移築されたもので、創建は室町時代ですが、本瓦葺き、総高19.7メートルの和様を基本にした塔です。いかにも廃寺という雰囲気があり、事実、痛みもかなり激しいように思われます。
 安土城跡から下る途中まず目に飛び込んでくるのは、目の高さにある初重の屋根瓦です。五重塔や三重塔は下から見上げるのが普通ですから、摠見寺三重塔の見え方は異色で、屋根の四隅にある鬼瓦の表情をはっきりと見ることができます。
 ところで、当時、近江地方には長寿寺の三重塔よりも大きな三重塔(総高22.8メートル)が常楽寺にあり、信長の好みとしては、この威風堂々とした常楽寺三重塔を移築したかったのではないかと思うのですが、あえて、小規模の長寿寺三重塔を選んだのは、その立地条件の制約のためだったのでしょう。おかげで、常楽寺三重塔は助かったのです。

348とはずがたり:2016/11/01(火) 16:04:32
宮内庁は未だ未だいっぱい資料隠しもっとんちゃうかー。

熊本地震、130年前の史料を初公表 被害の8割近くが重複
http://news.goo.ne.jp/article/nishinippon/nation/nishinippon-20161101152351732.html
15:21西日本新聞

 熊本市は1日、1889(明治22)年7月28日に起きた「明治熊本地震」で石垣などが崩壊した熊本城の被災状況を旧日本陸軍が記した文書と絵図計80ページの一部を公開した。今年4月の熊本地震で被害が確認された箇所と77・1%が重複。市は「崩落した石垣の復旧手法を検討するのに役立つ」としている。文書と絵図は当時、城内に駐屯していた旧日本陸軍が明治天皇に報告した史料で、宮内庁が保管していた。公表されるのは初めて。

 市によると、史料は破損した場所と被害面積を記した毛筆の文書と、カラーの絵図で、宮内庁書陵部宮内公文書館(東京)に保管されていた。旧陸軍第六師団が震災から約10日間でまとめたという。今年7月、同庁から熊本大文学部の三沢純准教授に情報提供があり、三沢准教授と市熊本城調査研究センターの担当者が同館に出向いて共同で9月末に調査を実施した。

 史料によると、明治の地震では石垣44カ所が崩落、石垣の表面が変形し膨らむ「はらみ出し」が18カ所で確認された。被害は石垣全体の面積の11・2%に及び、今回の震災と比較して被害面積は3分の1程度だった。

 明治熊本地震は、熊本地方を震源とした推定マグニチュード(M)6・3とされる。市には当時の熊本城の石垣被害について史料がなく、明治時代の新聞や修復状況の特徴から、崩落した箇所数を推測してきた。今回の史料から、これまで把握できていなかった明治期に被害を受けた2カ所が新たに確認できたという。

 今年の被害箇所と明治期の被害箇所の8割近くが重複することについて(1)被害を受けやすい、地震に弱い地盤があること(2)明治期の修復技術が不十分だったこと?などが原因と想定。市熊本城調査研究センターの網田龍生副所長は「修復後の石垣の安全性向上や今後の注意喚起に役立つ基礎資料になる」と語った。

 市は1日、歴史文化体験施設「桜の馬場城彩苑湧々(わくわく)座」1階ロビーで史料の一部のパネル展示を始めた。

=2016/11/01付 西日本新聞夕刊=


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